【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

日本のフェミサイドは秘匿されている

フェミサイド②

イタリアは昨年、フェミサイド(女性殺害)犯が有罪となった場合は、有無を言わさず最重刑の終身刑に処すると決めた。

その理由は、イタリアにはフェミサイドが日本と比べて多いからではないのか、という問い合わせがあったので書いておくことにした。

結論を先に言えば、日本のフェミサイド数はイタリアよりも多い。日本のそれが少なく見えるのは、フェミサイドが可視化されていないからだ。

日本の全体の殺人件数は欧米に比べて低いが、女性が被害者になる割合は多い。フェミサイドは公式な統計項目がないため、実態が潜在化しているに過ぎない。

一方イタリアのフェミサイドは社会的な注目度が高く、法的定義も進んで被害者の人数も毎年明らかになる。

欧州の主要国に限って言えば、イタリアのフェミサイドの発生率は英独仏より低く、スペインと同程度である。突出して多いということはない。

ただイタリアにはフェミサイドを軽視する特殊な文化がある。フェミサイドを痴話喧嘩の成れの果て、と見做してしまう傾向が強いのだ。

そんな愚劣な考え方への強い反発などもあって、フェミサイド犯は否応なしに終身刑、という画期的な法律ができた。

日本はイタリアを見習ったほうがいい。

フェミサイドが見えにくい環境を是正して、制度的な可視化を大急ぎで進めるべきだ。

フェミサイドも結局は、男尊女卑という旧態依然とした病理が導く悲劇である。



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NHKは優秀だが、報道が足を引っ張って世界の3流に堕する

沖縄タイムス記事

沖縄タイムスは2025年12月2日、「沖縄の米兵犯罪報道延期。NHKが高市政権に忖度」という記事を一面トップで伝えた。

記事によれば、沖縄で民間人が被害に遭った性犯罪容疑事件は2024年までの20年間に14件起きていた。だが、日本側では明らかになっていなかった。

米軍関係者によるこの“埋もれた事件”暴露のニュースは、1022日に放送される予定だった。

ところが、1021日に高市早苗政権が発足する見通しが強まったために、NHK上層部の判断で放送延期が決まり、2週間後の115日に放送された。

こうした上層部の判断に対して、NHKの放送現場からは抗議の声が上がった。

BBCを間近に見続け、米PBSと仕事をし、NHKとはさらに多くの仕事をし見続けてもいる僕は、NHKBBCにも匹敵する放送局だと評価している。

だが残念ながら政治報道は三流以下だ。NHKニュースの政権への忖度は度が過ぎる。言語道断だ。

特に沖縄にまつわる政府の政策を指弾するどころか、斟酌三昧であるところは悲惨だ。見苦しい。

沖縄の民意を無視して辺野古に始まる横暴を繰り返したのは安倍元首相である。

国土の1%にも満たない小さな沖縄には、日本国全体の安全保障を担う米軍基地が全体のおよそ70%以上置かれ、地元は基地被害に苦しんでいる。

それは余りにも不公平だ。負担を減らして欲しいという沖縄のまっとうな訴えは、安全保障の意味も民主主義の精神もあずかり知らない国民の無関心によって、ひたすら否定される。

それはまたネトウヨヘイト系差別主義者らの「沖縄は補償金欲しさに基地反対を叫んでいる」という偽りの誹謗中傷まで呼んで、沖縄はいよいよ貶められ侮辱され続けている。

国民の気分を熟知している政府はそれを巧みに利用して、口先だけの基地負担軽減を言いながら、イスラエルによるガザ弾圧よろしく、辺野古を、沖縄を蹂躙している。

いわゆる構造的沖縄差別である。

高市政権に忖度して米兵犯罪報道を延期したNHKは、報道者として失格であるのみならず、構造的沖縄差別に加担する未開国の公共放送然として見える。



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ICCはトランプ訴追を全力で検討したほうがいい

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トランプ政権は8月18日、ICC(国際刑事裁判所)の赤根智子所長ほかの幹部に制裁を科した。アメリカ国内の資産が凍結され、アメリカ企業や個人との取引が禁じられた。

制裁の背景には、ICC自体の解体をめざすトランプ政権の執拗な計略がある。

ICCは国連の機関ではなく、「ローマ規程」という多国間条約に基づいて設立された独立の常設裁判所である

そのためアメリカがいかに強力に「解体」を求めて圧力をかけたとしても、120余の加盟国がゼロになるか、大多数の加盟国が同意しない限り、組織そのものを法的に消滅させることは難しい。

それでもトランプ大統領のICC攻撃は時間と共に激しくなるだろう。なぜなら彼は任期を終えた時の政敵の復讐を怖れている。

だから大統領の任期が終わる前に、ICCを機能不全になるまで弱体化させようと画策していると見られる。

それがルビオ国務長官を介して明言された、トランプ大統領によるICC解体宣言の真相だ。

トランプ大統領とICCの対立は、第1次政権から始まり、第2次政権において激化した。

ICC2020年、アフガニスタンにおける米軍やCIAなどの戦争犯罪容疑の捜査を正式に認めた。

トランプ政権はこれに猛反発。当時の主任検察官らに対して資産凍結や渡航禁止などの制裁を科した。

また202411月にはイスラエルのネタニヤフ首相らに逮捕状を発付。それに対してトランプ大統領は、ICC職員への広範な制裁を認める大統領令で反発した。

そして直近の20268月、トランプ政権はICCの赤根智子所長と複数の幹部に、資産凍結や渡航禁止の制裁を科した。

アメリカはICCへの制裁と同時に、日本などの同盟国に対しICCへの支援を打ち切る」ことを期待する、とも明言している。

同盟国は「米国との友誼」と「(国際)法の支配」のバランスをどう保つか、という難問を突き付けられている。

高市首相は同胞の赤根智子所長を切り捨てて、今回もぴょんぴょん飛び跳ねながらトランプ大統領の腕にしがみつき媚びを売るのだろうか。それをすれば彼女は今度こそ万死に値する。

ICCの規定では加盟国の領土内で犯罪が起きた場合、犯人が非加盟国の国民であっても、ICCはその人物に対して管轄権を行使できる。

例えばベネズエラは2000年に加盟し、2026年にトランプ政権の圧力に屈して脱退を通告しているものの、マドゥーロ大統領拉致と住民虐殺をICCが深刻な国際犯罪と見做せば、トランプ大統領は訴追の対象になり得る。

ICC加盟国のパレスチナ領内で悪行を働いたとして、非加盟国であるイスラエルのネタニヤフ首相に逮捕状が出たケースや、プーチン大統領のウクライナでの児童誘拐に対する逮捕状発付と同じ理屈だ。

トランプ大統領は一貫して、非加盟国であるアメリカの国民に対し、ICCが管轄権を強制することは国際法上認められないと強弁している。

それはあたかも泥棒が、「俺は盗みという罪を認めない。従って俺の盗み(の罪)は存在しない」と言うようなものだ。

まことにもってトランプ“唯我独尊やりたい放題”大統領らしい、コペルニクス的転回の詭弁論法ではないか。

国際社会においては「重大な人道犯罪の場合、国家元首であっても免責されない(不処罰の解消)」というのが歴史的な認識であり解釈である。それはICCのミッションでもある

トランプ大統領は既述のように将来自身が復讐されること、つまり司法追及を怖れている。それ故に彼はICCによる逮捕状発付の可能性」に何よりも激しく反発する。

赤根智子所長ら幹部への資産凍結や渡航禁止は、「もし米国の大統領や同盟国の指導者に逮捕状を出せば、ICCという組織そのものを破滅させる」という強い威嚇だ

加盟国の領土を攻撃した容疑であれば、非加盟国の元首であってもプーチン大統領らと同様に逮捕状の対象になる。

ICCはベネズエラのケース以外にも切れるカードを持っている。2020年のアフガニスタンの案件を蒸し返して、トランプ大統領と対峙するのだ。究極には彼に逮捕状を発付する。

だからこそトランプ大統領は、その「万が一の可能性あるいは法的リスク」を完全に摘み取るために、ICCへの攻撃を激化させていると見ることもできる

トランプ大統領は例によって強い強迫観念、あるいは彼十八番の狂気理論に基づく計算に突き動かされて暴走しているらしい。見ていてひどく鬱陶しい。先行きが憂慮される。

ICCは彼を絶対的に牽制するためにも、逮捕状の発付を含む強烈な対抗策を速やかに編み出すほうがいい。



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独裁者は法の支配を否定して自らが法になろうとする

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トランプ政権は2026年8月18日、ICC=国際刑事裁判所の赤根智子所長らを制裁対象に加えると発表した。

独裁者は法の支配を否定して自らが法になろうとする。トランプ大統領が赤根智子氏らに制裁を科したのはその一環である。

今さらながらトランプ氏が、名実ともに独裁者の道をまっしぐらに歩んでいることに驚かされる云々、というのは実は虚しい響きの糾弾である。

トランプ大統領は向かうところ敵なし、言語道断の理不尽を思いのままに強行している。だが、誰もこれを止められない。

トランプ大統領の暴走を止めることはほぼ不可能だ。彼はたとえ11月の中間選挙で敗れても、いや、敗れた場合は余計に、政権最後の駆け込み悪政を敷き、暴虐の限りを尽くしてから去ろうとするにちがいない。

その時の彼の脳裏にあるのは、権力の座を降りてただの人になった際の、政敵による徹底報復への怖れだろう。やりたい放題の悪事を働きまくった彼には、必ず因果応報の天誅が下されるのが宿命だ

それを避けようとして彼が目指している暴政の一つがICCの解体、無力化だ。

トランプ大統領の専横を受けてICCの赤根所長は821日、今回の制裁を「ある程度予期していた」とした上で、「これを国際的な『法の支配』の終焉の始まりとさせない」ことが重要だと訴えた。

また、「日本と日本の皆様の支援が重要な鍵となるだろう」 とも述べた。

これに対する同胞の高市首相の応えは冷淡だった。

首相は

「赤根所長の件につきましては大変残念に思っております。これからも米国を含む関係国と意思疎通を継続しながら対応してまいります」

と相変わらずのトランプのポチ丸出し発言。

彼女には法の上に立とうとするトランプ大統領の傲慢を否定する知力はおろか、赤根智子所長が日本人であり且つ自らと同じ女性であることへのあるべき洞察もない。

曲がりなりにも法治民主主義国家を名乗る日本は、ICCと赤根氏を徹底支するべきだ。加えて日本は赤根氏が日本人であることを大いに笠に着て、彼女をとことん支援したほうがいい

ICCを断固支持すると表明した上で、日本人の赤根所長を日本国と日本人が徹頭徹尾守り抜くと宣言するのは、依怙贔屓や自己中心的な姿勢ではない。むしろその逆だ。

日本人である高市早苗首相が、日本人である赤根智子氏をどこまでも支持するとトランプ大統領に宣言すれば、あるいは彼はその心意気を善しとするかもしれない。

例えその逆の反応が返ったとしても国際社会は必ずその動きを称賛するだろう。

だが、高市首相はそう動くことはおろか、飽くまでもトランプ大統領の金魚のフンとして行動することが日本の国益、と妄信しているらしいのが憂鬱である。

そこでICCと赤根所長にこう提案したい。

トランプ大統領は、彼の任期が終わる前にICCを破壊しようと今後も死に物狂いで攻撃を続けるだろう。しかも残念ながらICCには勝ち目はなさそうだ。

そこでトランプ大統領に逮捕状を出す。罪状はベネズエラのマドゥーロ大統領拉致とそれに伴う人民虐殺である。

あるいはICCがアフガニスタンでの米兵の悪行を指弾した過去を蒸し返して、トランプ大統領に逮捕状を発付する。

トランプ大統領は2度に渡る任期中に、多くの国を攻撃しそれに伴って兵士のみならず民間人も虐殺した。またガザでは住民の大量虐殺を続けるイスラエルを支持し、武器も大量に提供している。自身が虐殺を敢行していると言っても過言ではない。

ICCは非加盟国や個人を断罪することはできない。だが加盟国内で悪事を働いたと見做される場合はこれを訴追することができる。

ICCが非加盟国のボスのプーチン大統領とネタニヤフ首相に逮捕状を出したのはその条件を満たしたからだ。

同じことがトランプ大統領にも適用されていい。トランプ大統領が攻撃を仕掛けた多くの国のうち、アフガニスタンとベネズエラはICC加盟国なのだ。

非加盟国の 首魁であるトランプ大統領は、手下(軍隊)を使ってICC加盟国であるアフガニスタンとベネズエラで犯罪を犯した。プーチン大統領とネタニヤフ首相のケースと同じだ。だから逮捕状を発布するのである。

逮捕状を発しても、独自の警察や軍隊などの強制執行機関を持たないICCは、トランプ大統領を拘束することはできない。これまたプーチン大統領とネタニヤフ首相の例に同じだ。

だがそうすることでICCと赤根所長が世界に与えるインパクトは計り知れない。

それによってICCの解体を目論むトランプ政権を強く牽制する。そして何よりも大統領の任期終了後に無傷でとんずらすることを企んでいるに違いない彼に待ったを掛けることができる。

それは同時にICCと赤根所長の権威と尊厳と、且つ単なる象徴に留まらない強い政治力を示すことになると思うのである。



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ミソジニーを含む男女分断問題の元凶は結局男尊女卑である

男は去れ!650

若かりしころの高市早苗首相の、不快で危険な歴史修正主義とぶりっ子姿態を批判したところ、ミソジニーという今流行りのジェンダー述語が飛び出して、僕の中で少し収拾がつかない雰囲気になった。

ミソジニーとは女性や女性らしさに対する嫌悪とされ、「男性が上で女性が下」という社会の上下関係や差別的な制度また価値観を指す男尊女卑とは違い、個人的な感情や心理的態度に基づくと説明されることが多い。

日本では「女性嫌い」というコンセプトが微妙に分かりずらいとして、それを「女性蔑視」と呼ぶ専門家もいる。だがそれでは本来の意味から多少ズレる。

ミソジニーは男尊女卑が克服された社会で、女性の尊厳、地位、権利等が回復され、結果女性が男性の支配圏から離脱したことに対する、男側の嫉妬や怒りがもたらす女性嫌悪、というのが僕の認識だ。

男の怒りの原因は直説的ではなく、女性が優位であること、あるいは優位になるよう優遇されている、と感じて発現される場合さえある。

繰り返しになるがミソジニーは、クラシックな家父長制社会に於いて、男尊女卑(ジェンダー不平等)の是正が進み、女性の地位が向上したり権利回復が進んだ結果、男が不満を募らせて起きる現象だ。

従って男尊女卑が蔓延している日本のような環境には当てはまらない。故にそれを専門家と呼ばれる人々が、「女性蔑視」と言い替えたりして無理やり当てはめようとする。それ自体が間違いだと僕は思う。

誤解を恐れずに敢えて極論調で言えば、日本にはミソジニーはない。しつこい男尊女卑思想が骨の髄まで染みこんで中々解消できない日本社会にあるのは、依然として旧弊、つまり男尊女卑があるのみだ。

固陋な男性絶対優位社会の日本にはミソジニーがないとするなら、そこから派生する(主にネット空間で躍動する)マノスフィア、インセル、8020の法則などもない。例えあってもそれは海外の、主に欧米の先進現象の単なる物真似に過ぎない。

ミソジニーの対極にあるのがミサンドリー、いわゆる女性による男性嫌悪感情である。これは虐げられた女性たちが抱く怒りだから、ジェンダーギャップあるいは男尊女卑の解消と共に薄れたり消滅しても良いはずなのに、ここ欧州では逆に強まっているように見える。

女性による男への憎悪表現の一つはユニークだ。ひとことで言えば、女性の男嫌いが進みに進んで、ついには極まり、彼女たちの親愛の心が非暴力的な同じ女性に向かうという現象だ。

彼女たちは元々は、極く普通に異性が好きだったのだが、男の 横暴に耐えかねて身を引くうちに、気持ちが(マッチョではない)同性女性に傾き、惹かれてゆく。この現象を専門家がどう呼ぶかは知らないが、僕はそうした女性を身近に3人知っている。

一人は古くからの友人女性。彼女はヘトロセクシュアルだったが、多くの恋愛関係がうまく行かず、最終的には同性愛をカミングアウト。もともと同性愛傾向があった可能性ももちろんあるが、僕の目には男への失望と怒りが重なって、徐々に同性に惹かれていったような印象がある。

もう一人は普通に結婚し子供も3人生んだ50歳代女性。支配欲の強い夫に愛想をつかして、極端なフェミニズムグループに近づき、最終的にはレスビアンであると宣言して家出。実際に同性相手と恋愛関係になって夫と離婚した。

3人目は30歳台初めの女性。父親が苛斂身勝手という家庭環境もあり、はなからミサンドリー傾向が強かったが、仕事(演劇)を通して過激なフェミニストグループと親密になり、恋人と別れて「男は皆くたばれ」をスローガンにするそのフェミニストグループの女性らと同居を始めた。

断っておきたいが、僕の周りには男女を問わず同性が好きな友人知己が多くいる。いま紹介した女性3人は、明らかにそれらの人々とは違ういきさつで同性愛者あるいは同性愛者然とした生き方を選んだ、と僕の目には映るので、敢えて言及した。

僕は彼女たちの中に男への強い不信感と強烈な憎しみを見る。男尊女卑あるいはジェンダーギャップの是正が進み、さらにそこに向けて前進している欧州では、マチスモへの対抗意識を先鋭化させる女性が増えている。彼女たちはそのほんの一例に過ぎない。

だが僕はそれらの現象を一時的と見る。このまま男尊女卑の解消が進めば、反動的に男性攻撃に身を焦がしているそれらのピュアな女性たちの心にも平穏が戻るに違いない。戻ると信じたい。

それらの女性たちを非難するのはむろん全く当たらない。彼女たちをそこに追い込んだのは偏に男どもの責任なのである。

最後にさらに付け加えておきたい。

欧州(欧米)では男尊女卑がほぼ解消されつつある。それは女性たちの激しい怒りと闘いがもたらした勝利だ。

同時に女性への暴力は、社会の厳しい監視と深い苦悩にも拘わらず依然として多い。いわゆるDVでありフェミサイドである。日本を含むアジア・アフリカ等に比べて、欧州はその点でも解消を目指して進化し進化する努力を続けている。

特にフェミサイドは、社会的な認知度(可視化)が高く、メディアでの報道も盛んだ。法的定義も進んでいる。

例えばフェミサイドの数が日本より少ないイタリアは最近、フェミサイドは有罪となった場合は有無を言わさずに終身刑、という画期的な法律を制定した。死刑のないイタリアでは終身刑は最も重い刑罰である。






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8月15日は「加害の日」と改めたほうがいい

南京虐殺

日本国民のほとんどが被害者意識に全身全霊をからめとられてうめき、嘆き、怨み、泣く、大規模な集合的忘却症候群の終戦記念日がまたやって来て過ぎた。

日本国民は例年この時期、酸鼻を極めた広島と長崎への原爆投下、凄惨な沖縄戦、そして東京大空襲 等々と被害の歴史をこれでもかと語り互いに傷をなめ合う。

そして仕上げに8月15日、被害者意識全開モードの妄想ナショナリズムに抱かれながら、あたかも心神恍惚状態で過ごす。

日本国民は先の大戦の被害者であるからそれらの動きは当然だ。

だが日本国民はそうすることで、先の大戦では自らの国が獰猛な加害者だった事実をきれいさっぱり忘れる。

日本人は歴史修正主義者の高市政権と彼女の支持者が大きな力を持つ今こそ、あらためて加害の歴史を確認し、胸に深く刻み、反省し、謝罪を拒むネトウヨや極右カルト勢力の蛮声に抗いさらに声を大にして、至誠を込めて謝罪をし子供たちに加害責任を教え込まなければならない。

それでなければ欺瞞と嘘で固められた「安倍の金魚のフン高市主義」がさらに席巻して、日本は戦前回帰をすることが実際に起こり得る。戦前回帰の行き着く先には言うまでもなく戦争がある。

その戦争とは核戦争である。日本は再び焦土となるが、それは広島長崎の惨劇が全国に出現するほどの阿鼻叫喚地獄になることが確実だ。

先の大戦後、日本は焦土の中から奇跡の復活を遂げた。国土が回復可能なレベルの破壊であり国民が生き残ったからだ。

将来、広島長崎をはるかに凌駕する威力の核が炸裂した後の日本の国土は、回復不可能で国民は全て死に絶えている可能性がある。

だが万が一、たとえ1945年8月15日時点よりも事態が深刻で国民もさらに傷ついているとしても、国として再生が可能なら日本はその時こそ戦争総括を徹底して、民主主義と自由と平等と博愛と寛容が国の隅々にまでしみ込んだ、理想の国家に生まれ変われる可能性がある。

将来のその時も、また今このときも、戦争総括の第一は昭和天皇の仕置きである。

彼は先の大戦の戦犯であり総責任者だ。昭和天皇は飾り物で、真の罪人は彼を取り巻く権力者集団すなわちほ輔弼ほひつ者、というのは昭和天皇を断罪しないことと同じ程度の巨大な欺瞞である。

輔弼者は天皇の裁可がなければ何事も決定推進できなかった。それだけでも昭和天皇の責任は明らかだ。のみなならず昭和天皇は「大元帥」として権力組織の頂点に君臨し情報を把握。それに基づく発言を行って軍事にもコミットメントしていた。

戦時のすべての重要な軍事作戦は、大元帥である天皇が臨席し命令(奉勅命令)として発せられた。天皇は単に書類を承認するだけの形式上の存在ではなく、天皇自身が作戦内容を熟知し、許可を与えていたのだ。

また1943年以降は天皇は、戦況が悪化すると参謀総長らの幹部に「なぜ勝てないのか」「早く一撃を加えよ」と激しく迫ったりもした。

大元帥たる天皇からのその強いプレッシャーが、インパール作戦や各種特攻作戦など軍部による無理な攻勢や逆に遅延につながった。

さらに194112月の対米英開戦を最終決定した「御前会議」では昭和天皇は、それを拒絶せず最終的に開戦の国策を承認した。それだけに留まらない。

19452月、元首相の近衛文麿が「すでに敗戦は必至であり、一刻も早く戦争を終結させるべき」と昭和天皇に上奏した。だが天皇ヒロヒトは「もう一度、どこかで戦果を上げてからでなければ(有利な条件での和平交渉は)難しい」という趣旨の返答をし、これを退けた。

その結果、沖縄戦や広島・長崎への原爆投下、ソ連参戦による多くの犠牲者を出す前に、戦争を止める機会を逃した

参謀本部と軍令部による御前会議での決定事項などの作戦計画を、昭和天皇が自身の本心とは異なっていても拒否せずに承認せざるを得ない立場にあった、といういわゆる 受動的な裁可も立派な罪だ。

なぜならとにもかくにも彼はそこにいて、軍人や側近と共に日本の行く道を逐一決め、実行に移していたからだ。にもかかわらず、軍人や側近だけが有罪で天皇は無罪というのは、欺瞞の極みであり虚偽の要塞だ。

また敗戦後、マッカーサーとの会見での「全責任を負う」という発言は、美談として語られる一方で、「自らの地位つまり皇位と皇室を守るための、占領軍に対する高度な政治的自己演出だったという冷厳な見方も存在する。

それとは別に宮内省の側近たちは、昭和天皇が戦犯として訴追されないよう、占領軍(GHQ)に対して綿密な根回しを行った。

「天皇は軍部に騙されていた」「立憲君主だから拒否できなかった」というストーリー、いわゆる「だまされ論」を意図的に構築し、東条英機らにすべての罪を被せる形で天皇の免責を勝ち取ったのだ。

日独伊3国同盟の首謀者のうちムッソリーニは、民衆に処刑され遺体は広場に逆さ吊りにされて晒し物になった。それを知ったヒトラーは自らの運命を悟って自害した。

片や同じ立ち場の昭和天皇は、マッカーサーに取り入り上手く死を逃れてのうのうと生き延び、畳の上で死んだ。

昭和天皇の大罪は死しても消えない。日本国民はけじめと再生のために彼を処罰して、明治維新から終戦までの天皇制ファシズムを徹底総括し完全に否定するべきだ。

言うまでもなくそれは国民的合意よって為されなければならない。

それと同時に日本は、15年戦争期の巨大な加害の歴史と戦争責任を意識し続け謝罪して、生まれ変わるべきだ。

その際には天皇制の是非についても国民的議論を喚起して自己決定をする。

昭和天皇の大科を処断した上で、贖罪行脚を敢行した平成の天皇(上皇)の真摯と赤心を評価し、現天皇の思惑を勘案しながら制度存続か否かを決める。

天皇は彼が天皇、つまり何者であるかが問題ではなく、彼が何をするかだけが問題だ。

昭和天皇は戦争遂行と責任故に― むろん象徴的だが ―過去の神格化を排し歴史の真実を白日の下に晒す意味で断罪。

平成の天皇(上皇)は父親の罪を背負って贖罪に生きたことで高く評価されるべきだ。

片や現天皇はまだ何もしていない。海のものとも山のものともつかない。

彼は悪の二重奏の高市・麻生が詭計して国会で成立したばかりの、愛子天皇否定の「改正皇室典範」 に異を唱え、聞き入れられなければ究極には退位する、という意志表示をするべきだ。

そうすれば彼は国民の圧倒的支持を得る可能性が高い。

天皇のその行動が憲法違反か否かはこの際は問題ではない。主権者たる国民の圧倒的な支持があれば、高市-麻生ラインの方が憲法とは無関係に悪と見做されて制裁を受ける事もある得る。

もしそうなれば現天皇は一気に昭和天皇の不徳を帳消しにし、仁君とも呼ばれるべき父上皇をも凌駕する英主と見做されるに違いない。

最後にわれわれ国民は、8月15日のみならず常に、高市早苗首相が一体何をしたいのかと問い続け監視し続けなければならない。

彼女がやろうとしていることは

1日本を守る

2.戦争をする

3.日本会議他の極右カルトを満足させる/させたい

4.中国を潰す

5.天皇制ファシズムの確立

など。

それらは全て高市首相の本音である。つまり彼女は「日本を守る」ために、やってはならないことを次々にしでかす危険きわまりない存在なのである。









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僕の投稿をミソジニーと呼んだ「でも、だって」星人の沈黙

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僕の投稿をミソジニーと決めつけた読者が気づいて何か言うのではないかと待ったが、いつまでたっても電源が入らない。どうやら反論のための反論者だったらしい。

なので仕方がない。僕が言っておくことにした。

2回に渡る投稿で僕は、高市早苗氏の歴史修正主義を批判し、彼女のぶりっ子妖女反応を糾弾した。

後者はある種の人々(特に女性)が、ミソジニーと誤解するかも、とチラと思わないでもなかったが、一国の首相ともなるべき者にあるまじき姿態、と感じたので敢えて指摘した。

さて、ビデオには日本的ミソジニーの典型のようなシーンがちりばめられている。

先ず第一は、田原氏が高市氏を無知だ、議員を辞めろ(という趣旨の言葉)と罵る場面だ。

僕は第一回目の投稿では、

「田原氏は上から目線で高市氏を罵倒している。彼女は女性で、若く、確かに少し勉強不足のように見える。だからと言って田原氏や彼の同僚ジャーナリストが、上から目線で高市氏を罵倒することは当たらない」と書いた

田原氏のミソジニーぶりをそっと指摘するに留めたのだ。論の主題はそこではなかったからだ。

田原氏は歯に衣着せぬ発言で知られているが、もしも相手が女性の高市氏ではなく男性の議員だった場合でも、同じ程度に高飛車な態度に出ただろうか?

僕の印象は否だ。田原氏は明らかに相手が女性だから「いつもよりも」上から目線の発言をしているように見える。

田原氏に議論の矛先を託された同僚ジャーナリストの小西克哉氏も、「中国の立場はどうなるのか。あなたは無知だ」と即座に論難する。

さらに同席している女性アナウンサーかコメンテーターらしき女性たちも、発言はないものの明らかに男2人に同調して高市氏を否定する様子が見て取れる。

女性の優位にいると見られる2人の男が、声を荒げて高市氏を指弾し、それに同調して女性2人も高市氏を非難する、という構図だ。

まるで人民裁判か吊るし上げ、はたまた魔女狩りかカンガルー・コートとでも形容したくなる光景だ。

男2人の在り方は言うまでもないが、見下され蔑視される側にいる女性2人もそれに加担するのは、ミソジニーが幅を利かせる社会で典型的に見られる悲しい光景だ。

誤解しないでほしい。

日本の加害の歴史を否定する高市氏は徹底糾弾されるべき存在だ。また彼女の純真を演出しようとするあざとい動きも、特に一国の首相にもなるべき者の所作としては、言語道断の醜態だ。

そのことと、しかし、田原氏が仕切るテレビスタジオの在りようは別だ。高市氏はそこではミソジニーの被害者である。

ところが悲しいことに高市氏はそのことに気づいていない。その鈍感さは、彼女のブレない信条である反夫婦別姓制、反女性天皇などの呆れたミソジニー理論に真っ直ぐに通じている。

僕はミソジニーに嫌悪感を抱き明確にそれに反対する。女性のためにではない。女性に媚びるためでもない。

僕は日本の諸悪の根源に男尊女卑思想があると見做している。

僕は日本人として、ネトウヨや国家神道カルト信奉者などが主張する狂信極右の愛国者ではなく、リベラルな「国際派の愛国者」として、日本がまともな開明国家になることを腹から望んでいる。

それは男尊女卑などという原始未開のドグマに精神を縛られた国ではなく、知性と民主主義と寛容と自由の風が連綿と吹く国のことだ。

そこを目指すためには、醜怪で痛ましくて危険なミソジニー、あるいは男尊女卑思考という執拗な日本のパラノイアを殲滅する必要があると考える。



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ミソジニーは男の問題だが解決には女性のコミットメントも欠かせない

高市ぶりっ子安倍に迫る

 田原総一朗氏と若かりし頃の高市早苗首相のやり取りに言及した2日前の投稿を、ミソジニーと捉える読者がいるようなので再び論及する事にした。

記事を頭からミソジニー色の論考と決めつける読者は、田原氏に無知と罵られた高市氏が

「小首を傾げ、目をパチクリさせ、瞬きを繰り返すなどしてぶりっ子全開モードで相手に対する」

「男に理不尽に見下されてもヘラヘラ諂笑しているだけの前近代的な未開人女性」

などの表現を、いわゆるストローマン(切り取り批判論法)的に受け取って断罪しているように見える。

それは筆者の表現力不足によるものである可能性もあるので、なぜそう思うのかと問いかけて意見のやり取りを試みたが、一方的過ぎるコメントだけが返ってきた。

反対意見は大いに歓迎だが、理由や意見や感想をキチンと言わない(言えない)批判はナンセンスだ。一顧だに値しない。  時間と労力のムダと考えてブロックした

僕は投稿では高市氏を2重に批判した。

一つはほぼ習慣になった政治家高市早苗弾劾である。歴史修正主義者であり、ほぼファシストであり、女性天皇や夫婦別姓を認めないミソジニスト(!)の高市首相は、一刻も早く権力の座から引きずり降ろされるべき、というのが僕の主張だ。

二つ目は人間としての、つまり女性としての高市早苗氏批判だ。

小首を傾げ、目をパチクリさせ、瞬きを繰り返すぶりっ子全開モードの高市氏は、トランプ大統領に擦り寄り腕を絡めてピョンピョン飛び跳ねる姿と重なる。

あるいは初対面の欧州の(世界のではない)首脳を、一方的かつ片思いに友達扱いにして、ジョルジャ、エマヌエル、キアなどとファーストネームで連呼するママゴト外交の異名だ。

日本初の女性首相を必要以上に女性という属性を強調してフィルターにかけ、語ることは、秘めた女性差別である可能性がある、というのは真実である。

従ってそうすることはなるべく避けるのが誠実な論者のあるべき姿だ。

だが同時に高市首相の場合には、彼女が女性であることを敢えて強調して論じなければならないような奇怪な政治的主張やスタンス、あるいは瑕疵というものが多々ある。

例えばいま触れた奇妙な外交スタイルは、彼女が女性でなければ起こり得ないが、それは同時に高市早苗氏という一女性によってのみ実現が可能な異次元世界なのだ。

彼女が憧れるマーガレット・サッチャーも大物のアンゲラ・メルケルも今人気のジョルジャ・メローニも断じて高市首相の如きぶりっ子言動はできないし、することもあり得ない。

なぜか。

彼女たちは日本人ではないからだ。

そう、高市首相のぶりっ子姿態やあざとかわいい演技は、ある種の日本人女性のみが持つ特殊技能であり異形のノウハウなのである。

そして日本人女性をそこに追い込んだのは、古代に始まり武家社会で先鋭化して、明治維新でガチガチに固定化された男尊女卑という執拗で、醜く、険しい社会通念であり文化である。

罪は男の側にある。

女性はそのことに怒り、立ち上がり、抗議をしなくてはならない。同時にによって刷り込まれた媚びる姿態を激しく拒絶しなければならない。

情念の世界では女性の媚態は許されるばかりではなく、美しくさえある。

だが、政治の場ではもってのほかだ。高市首相はそのもってのほかの動きを無意識に、嬉々として、場所も時もわきまえることなく演じ続ける。

日本初の女性首相が、日本社会の癌であり諸悪の根源である女性蔑視、男尊女卑思想を糾弾するどころか、容認し喜び、挙句には讃えさえする言動に終始している。

高市首相のぶりっ子的な在り方は、過去を直視しない彼女の歴史修正主義と同じ程度に重い、日本の宿痾なのである。




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大盗インファンティーノの落ち行く先

インファンティーノ&トランプ

FIFA(国際サッカー連盟)のインファンティーノ会長は、 トランプ大統領に謎の平和賞を送り、同じ大統領に忖度して米国選手の出場停止を白紙に戻す、などの破廉恥行為を行って大きな批判を浴びた。

彼はその後さらに、トランプ氏の娘婿の弟が率いる投資ファンドと結託して、W杯の商業権利を売却しようとも画策。

それに対するブーイングが高まると、計画を撤回するなどしたトンデモ男である。

FIFA会長の権力への過激な阿諛も、金の亡者振りも不快だが、僕は個人的に彼がW杯出場チーム数を48に増やし、さらに64に拡大する画策をしていることにも強い違和感を覚える。

彼は出場枠拡大の理由を、世界中すべての国に出場権という夢と育成の機会を与える、と強弁するがフェイクニュースよりもフェイクなプロパガンダだ。

なぜなら世界中のすべての国は、それぞれの地域で予選を介して大会に参加している。

あたかも勝ち進んだものだけが出場しているような印象操作をするのは、彼が規模拡大でFIFAや加盟協会への分配金や収益性を高めたい本音を隠す意図があるからだ。

出場枠を拡大するのはワインに水を加えて量を嵩上げするようなものだ。ワインの質はガタ落ちして品質を損なう。サッカーの弱小国が奇妙な制度トリックで本大会に出るのはつまらない。

その意味でも僕は、インファンティーノ会長の退任を期待する。金儲けを第一に大会運営を考えたがる彼は、明らかにサッカーの喜びを知らない男だ。



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高市早苗というぶりっこ妖女はやはりどうしても見苦しい

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被災地訪問でも味噌をつけたという反高市派と、飽くまでも彼女の動きを称賛したいネトウヨヘイト系“高市命”陣営のバトルが絶えない。

が、そもそも被災者を見舞って批判されること自体が、高市首相の不徳を如実に示しているのではないか。

僕は彼女の重ねた、さらなる不徳にも目を奪われている。

先日来、ジャーナリストの田原総一朗氏が、若かりし頃の高市首相に「無知だ、議員を辞めろ」という趣旨の罵詈を投げつける映像が、ネット上で盛んに躍っている。

満州事変から太平洋戦争に至る日本の侵略行為を、「自衛のための戦争」と主張する高市氏に腹を立てた田原氏が声を荒げる場面だ。

高市首相は議員1年生の頃、当時の村山首相に戦争被害国に勝手に謝るなと迫ったり、 私は戦争の当事者世代ではないから反省しないし、反省を求められるいわれもない、と述べるなどした。

彼女は根っからのファシスト風民族主義者であり救い難い歴史修正主義者なのである。

従って彼女を含む日本極右十八番の、“侵略ではなく自衛のための戦争だった”や“アジア解放闘争だった”などというと詭弁は少しも目新しいものではない。

目を瞠らずにはいられないのが、そこでの高市氏のリアクションだ。

彼女は田原氏に罵倒されながら小首を傾げ、目をパチクリさせ、瞬きを繰り返すなどしてぶりっ子全開モードで田原氏に対するのである。

僕は高市首相誕生以来、日本初の女性首相を必要以上に女性という属性を強調してフィルターにかけ、語ることを避ける努力をしてきた。秘めた女性差別の現れと捉えられかねないからだ。

そうすることは彼女の品性が例えいかなるものであれ、日本初の女性首相となった人物を強く尊重することでもあった。

だが彼女は、僕の密かな努力には全く値しない人間であることがそこでは明らかになった。

田原氏は上から目線で高市氏を罵倒している。彼女は女性で、若く、確かに少し勉強不足のように見える。だからと言って田原氏や彼の同僚ジャーナリストが、上から目線で高市氏を罵倒することは当たらない。

田原氏側の苛立ちは僕のそれでもあるのだが、しかし、上から目線の悪口雑言はまともな議論とは言い難い。

ところが高市氏はそのことに怒らない。怒らないのは彼女が田原氏らの侮辱の本質に全く気付いていないからだ。

怒るどころか彼女は、既述のように目をパチクリ開けたり瞬きを繰り返して、無邪気な愛くるしい女性あるいは可憐無知な可愛い妹役を演じて恥じないのだ。

その絵は残念ながらある種の日本人女性の、すさまじいばかりの蒙昧パープリンぶりを象徴している。

高市氏は歴史修正主義論に絡めとられた愚者であるばかりではなく、男に理不尽に見下されてもヘラヘラ諂笑 しているだけの前近代的な未開人女性であることを図らずも全身で告白している。

それだけでも批判されるべきだが、彼女は加えて、そこらに転がっているネトウヨヘイト系のファシストらと何も変わらない反動右翼であることで、いよいよ日本の敵、即ち反日の危険人物であることが明らかになる。

高市早苗こと虚言癖倶楽部代表幹事の主体は確信犯的な歴史修正主義であり、天皇制ファシズム容認であり、戦前戦中への回帰願望などという恐るべき超国家主義体質だ。

不気味、という以外には言葉がない。




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イングランドサッカーはBrexitとBBCと同じ穴のムジナの悲劇である

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W杯も終わり、サッカー絡みのムダ話はいったん切り上げ、と考えていたらイングランドサッカーを弱いというあなたの意見は主観的で納得できない、という趣旨の「いつもの」メッセージをいくつかいただいた。

また なぜサッカーイングランドにこだわるのかという問いもあった。

それらのメッセージに応える意味もかねて書ておくことにした。

サッカーは、たかがサッカー。されど。。・・たかがサッカー。というのが僕の捉え方である。

それは世界を席巻するファンタジスタ・サッカーあるいはラテンサッカーの代名詞である、とも僕は考えている。

イングランド人は、サッカーは「たかがサッカー、されど、サッカー」と石部金吉に考えている。結果、彼らはサッカーを純粋スポーツと見做して、シャカリキになって体を鍛え身体能力を極限まで高める。

彼らは強いフィジカルを目いっぱい使って速い、高い、構造的に強力なプレーをする。それは見ていてすがすがしいものだが退屈でもある。

そして退屈なサッカーは必ず負ける。彼らはそうやって1966年以降、きっちり60年も負け続けて(優勝から遠ざかって)いる。

イングランドにはサッカーの発祥地としての強烈なプライドがある。サッカーを公正と誠実が核の「真のスポーツ精神」の象徴として神聖視し、「サッカーの母国」として、絶対に世界基準を認めず自らのやり方を優先する驕慢さを持ち続けている。

イングランドは、同じくサッカーが同地で誕生したことを楯に、優勝杯はイングランドに帰還するべき、とさえ考え執拗にそう主張する。

しかも優勝は、サッカーを発明したイングランドの戦法と哲学によって為されるのがあたりまえであり、必ずそうなると全身全霊で思い込んでいる。

それはW杯と並ぶ欧州選手権に於いても同じ。イングランドは欧州選手権では一度も優勝できていないにもかかわらず、自らの優越性を信じて疑わないのである。

イングランドのメディアは、なぜイングランドは欧州や南米の強豪チームに勝てないのか、という論戦をこれでもかとばかりに提起し、論じ、主張し続ける。

それを見ていると、彼らの論理がイングランドのアプローチと理念が至高であり勝てないのは何かの偶然、いわば悪魔の意地悪なジョーク、とでもいうようなニュアンスで固められているのが分かる。

要するに彼らは、他の多くの事案と同様に胸奥で自らが最も優れていると密かに思い込んでいる。つまりは大英帝国の栄光が忘れられないのだ。

それ故に、彼らをいつも木端微塵に打ち負かすファンタジスタサッカー、あるいはラテンサッカーの優位性を認めて、それに倣うということができない。

僕はイングランドのそうした思い上がりに強い違和感をもつ。だから彼らのサッカーにこだわるのである。

イングランドサッカーの弱点は、その精神がBrexitBBCと同じで、かつての大英帝国の栄光にすがる、自己撞着の肥大した自尊メンタリティーにがんじがらめに縛られているところにある。

イングランド人のそうした噴飯かつ不快なメンタリティーは、あらゆるところで「今この時」も変わらずに発揮される。

例えば大事件のBrexit(イングランドが主体の英国のEU離脱)も、大英帝国の往年の輝きを忘れられない、特に高齢者層が、英国の優越と特権意識に絡めとられて激しく主張した結果実現した。

Brexitは、自国が他のEU構成国と同等ではなく、世界を主導する特別な存在であるという英国独特の「大英帝国の栄光」幻想にからめとられた、いつもの優越意識から発した誤謬である。

欧州連合(EU)の官僚機構の縛りから解放され「自国だけで何でも決定できる」という唯我独尊の主権へのこだわりも大きな原動力となった。

イングランドのもう一つの象徴であるBBC(英国放送協会)は、自らを「客観中立の絶対的基準」と位置づけ、世界的な信頼を獲得してきた。

BBCは法的に「不偏不党(impartiality )」を義務付けられた公共放送だ。組織としての公式な「本心」や特定の政治信条を持つことは想定されていない。中立性を保つことが制度上の使命だ。

だが近年は、政府からの圧力と個人の表現の自由、そして「中立性」の定義をめぐって激しい混乱に陥っている。分断が深まる現代社会においては「完璧な中立」など存在しないという現実に直面し、右派からも左派からも批判され、自らの理想の重圧でアイデンティティが揺らいだ。

公平性を金科玉条とするBBCのメディア力は疑いないものだが、 中立や伝統を過度に神格化する大英帝国の亡霊の組織文化が逆に足かせになって、Brexitのような重大な局面でも、中立と不偏不党を隠れ蓑に事実報道をするばかり。ついに自らの信条も主張も披歴しなかった。

結果、Brexit推進派と反対派両方からの批判に晒された。

イングランドを中核とする英国民は、Brexit派の出鱈目な主張にまどわされて、BBCの本心とは逆のEU離脱という取り返しのつかない結果を招いた。

開明性を誇るBBCBrexitに反対しないならば、それは虚偽でありフェイクである。なぜならBrexitは、大英帝国の失われた栄光を振りかざす時代錯誤な精神が招いた、固陋迷妄な出来事だったからだ

ブレグジット、BBC、そしてイングランドサッカーの根底には、いずれも過去の栄光や例外主義に固執する「大英帝国の誇りの残滓」という共通の心理的構造がある。

イングランドサッカーがファンタジスタサッカーあるいはラテンサッカーにどうしても勝てないのは、個々の戦いのディディールではなく、根深く執拗なその心理構造が招き続ける悲劇なのである。




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たかがサッカー、されどサッカー?


ピッチ見下ろすカメラ

サッカーは楽しい。



サッカーは

「たかがサッカー。されど、サッカー」

と考えると、イングランド風サッカーになる。



僕は

「サッカーはたかがサッカー。されど、たかがサッカー」

と捉える。



するとそれは、イタリア風サッカーになる。



イタリア風は、スペイン・フランス・ポルトガル・ブラジル・アルゼンチンなどに通じる。つまりラテンサッカーである。



ラテンサッカーは強い。



ラテンじゃなくゲルマン系で、どちらかと言えばイングランドに近いのに強いドイツサッカーは、イングランド的強靭なフィジカルにラテンの柔軟と遊びとフルボメンタリティー(抜け目がない知恵者・したたか・食えない奴などの意)をまとっているからである。



言葉を替えればドイツサッカーは、イングランドと違って謙虚なのである。



片やイングランドサッカーは、自らのプレースタイルとサッカー哲学を至上のものと考える朴念仁&思い上がりの肉体運動から抜け出せないでいる。



だから彼らは強そうに見えて永遠に弱いのである。



ここまでの僕の話に過剰に反応してカッカしたり、眉を顰めたり、混乱したりした人に再び言おう。



サッカーは、たかがサッカー。



されど。。。やっぱり、たかがサッカー。。なのである。





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W杯決勝が常にアドレナリン全開のエンタメになるとは限らない

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W
杯決勝のスペインvsアルゼンチン戦は、前回大会の決勝戦とは似てもにつかないものだった。

4年前、カタール大会でのフランスvsアルゼンチンの激突について僕は次のな趣旨の思いを書いた

===

深い悲しみ、怒り、喜びなどの感情の奔流の前には言葉は存在しない。

そのとき人はただ泣き、叫び、哄笑するだけである。つまり感情の激流は言葉を拒絶する。

感情が落ち着いたとき初めて人は言葉を探し言葉によって自らの感情を理解しようとし、他者にも伝えようとする。

それが表現であり文学である。

W杯決勝戦のフランスVSアルゼンチンを、人の深い感情になぞらえて、言葉が存在し得ないほどの劇的なせめぎあいだったと言えば、それは少し言葉が過ぎるかもしれない。

しかし、試合はそんな言い方をしても構わないのではないか、と思えるほどの驚きと興奮と歓喜にあふれた世紀のショーだった。

人が書くドラマには伏線とどんでん返しがある。だがそれは筋書に沿った紆余曲折である。

サッカーのゲームには筋書がない。それは世界トップクラスの選手たちが、彼ら自身も知らない因縁に導かれて走り、飛び、蹴り、躍動する舞台である。

ドラマを紡ぎ出す因縁はしかし、神によって描かれた予定調和ではない。一流のアスリートたちが汗と泥にまみれて精進し、鍛え、苦しみ、闘い抜いた結果生まれる展開だ。

2022W杯の決勝戦におけるドラマのほとんどは、両チームのスーパースターによって生み出された。

アルゼンチンはメッシ、フランスは若きエースのエンバペである。

2人はゴールをアシストし、ゲームを構築しつつ相手ディフェンダーたちを引きつけて味方のためにスペースを作り、パスを送りパスを受けて攻撃の起点となって躍動した。

そして何よりも重要なのは、彼ら自身が次々とゴールを決めたことだ。それは眼を見張るような劇的な働きだった。

特にアルゼンチンのメッシの活躍は世界サッカーの歴史を書き換える重要なものになった。

メッシがは今回大会では見違えるような動きをした。彼はマラドーナが1986年のW杯をほとんどひとりで勝ち進んだ雄姿をも髣髴とさせるプレイを見せた。

人によって多少の評価の違いはあるだろうが、メッシはW杯前の時点で数字的には既にマラドーナを凌駕していた。

だが彼のキャラクターはマラドーナほどには民衆に愛されない。

それは例えばかつて日本のプロ野球で、2大スターの長嶋と王のうち、成績では王が断然勝っているものの、人気では長嶋が王を圧倒してきた事例によく似ている。

民衆は完璧主義者の王よりも、明るくハチャメチャな雰囲気を持つ長嶋に心を惹かれてきた。マラドーナはアルゼンチンの長嶋でメッシは王なのである。

だが歴史が進行し、選手たちの生の人間性への興味が失われたときには、彼らが残した数字がクローズアップされるようになる。

そのときに真に偉大と見なされるのは成績の勝る選手である。

メッシはその意味で将来、文字通りマラドーナもペレをも凌ぐ史上最高のサッカー選手と規定されることが確実である。

===

今回のスペインvsアルゼンチンの決勝戦は無得点のまま延長戦にもつれ込んだ。

スペインの圧倒的なボールポゼッションとアルゼンチンの堅守がぶつかって、両者一歩も譲らない膠着状態となったのだ。

そうした中、スペインのヤマルが天才プレーヤーの片鱗を示すアクションを幾つも見せた。

だが一方のレジェンドのメッシは、ついに沈黙を保ったままだった。

ゲームはポゼッションサッカーが時として批判される典型的な形、つまり技術は高いものの、エンターテインメントとしては平坦で退屈、という展開になった。

サッカーにあまりなじみのないファンには、あるいはそれは「ハイレベルの超絶凡打線」のように見えたかもしれない。

しかし最終的にスペインが1-0で勝利したイベントは、実は、世界最高峰の戦術とテクニックと緊張感が交錯した末の結果だったのである。




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イングランドのマインドコントロールの行方

メッシ肩車650

加筆再録


W杯準決勝でイングランドがアルゼンチンに負けたのは、トゥヘル監督の采配ミスという論説が大手を振って歩いている。

イングランドが先制した後、守りに入った戦術が間違い、という訳である。

後付けのもっともらしい解説だが、それを言う者はイングランドが1-0で逃げ切っていたなら、監督の采配をベタ褒めしていたことだろう。

イングランドが勝てないのは、つまり優勝できないのは、一戦一戦のディティールの問題ではなく、深い心理マインドのなせる業というのが僕の一貫した主張である。

監督の采配の是非を語るのは、今回大会の場合ブラジルのアンチェロッティのケースの方がよっぽど重大で興味深い。

イタリア人のアンチェロッティは一流の常勝監督だが、ネイマールを招集しながら彼をベンチに温存するという戦術を採って、準々決勝で敗れ去った。彼の大ポカである。

メッシやエムバペにも匹敵するファンタジスタを控えに回した彼の作戦は、常勝監督という自らの立場を過信した愚かな動きだった。

イングランドが過去60年間ほぼ常に優勝候補とみなされながら、また実際にベスト4に2回、ベスト8に4回進出しながらどうしても優勝できないのは、彼らがサッカーを飽くまでもスポーツと見做す悪魔のマインドコントロール下にあるから、というのが僕の考えだ。

僕はロンドンに足掛け5年住んだ経験がある。そこではたまにプレミアリーグの試合も観戦した。その後はプロのテレビ屋として、イタリアサッカーとそこにからまる多くの情勢も取材した。

サッカーは同時に僕の最も好きなスポーツである。少年時代には実際にプレーもした。僕は当時「ベンチのマラドーナ」と呼ばれて相手チームの少年たちを震え上がらせる存在だった。

時は過ぎて、日本、英国、アメリカ、そしてここイタリアとプータロー暮らしを続けながらも、僕は常に世界のプロサッカーに魅了されてきた。

その経験から僕は-むろん自身の独断と偏見によるものだが-なぜイングランドサッカーが大舞台で勝てないのかの理由を知っている。

イングランドのサッカーは、直線的で力が強くて速くてさわやかでスポーツマンシップにあふれている 。

同時にそこにはアマチュアのフェアプレイ至上主義、あるいは体育会系のド根性精神みたいなものの残滓が漂っていて、僕は少し引いてしまう。

言葉を変えれば、身体能力重視のイングランドサッカーは退屈と感じる 。僕はサッカーを、スポーツというよりもゲームや遊びと捉える考え方に共感を覚える者だ。

サッカーの文明化

サッカーがイングランドに生まれたばかりで、ラグビーとの区別さえ曖昧だったころは、身体能力の高い男たちがほぼ暴力を行使してボールを奪い合いゴールに叩き込む、というのがゲームの真髄だった。

イングランド(英国)サッカーは、実はその原始的スポーツ精神の呪縛から今も抜け出せずにいる。

彼らはその後に世界で生まれたサッカーのさまざまな戦術やフォーメーションを、常に密かに見下してきた。

サッカーにはかつてさまざまなトレンドがあった。イングランド発祥の原始人サッカーに初めて加えられた“文明”が、例えばWMフォーメーションである。

その後サッカー戦術の改良は進み、時間経過に沿って大まかに言えばトータルフットボール、マンマーク (マンツーマン)、ゾーンディフェンス、4-2-2フォーメーションとその多くの発展系が生まれる。

あるいはイタリア生まれのカテナッチョ(鉄壁のディフェンス)、オフサイド・トラップ、カウンターアタック(反転攻勢)、そしてスペインが完成させて今この時代には敗れ去ったと考えられている、ポゼッション等々だ。

子供の夢

イングランドのサッカーは子供のゲームに似ている。

サッカーのプレイテクニックが稚拙な子供たちは、試合では一刻も早くゴールを目指したいと焦る。

そこで七面倒くさいパスを避けてボールを長く高く飛ばして、敵の頭上を越え一気に相手ゴール前まで運びたがる。

そして全員がわーっとばかりに群がってボールを追いかけ、ゴールに蹴りこむために大騒ぎをする。

そこには相手陣営の守備の選手も参加して、騒ぎはますます大きくなる。

混乱の中でゴールが生まれたり、相手に跳ね返されてボールが遠くに飛んだり、自陣のゴール近くにまで蹴り返されたりもする。

するとまた子供たちが一斉にそのボールの周りに群がる、ということが繰り返される。

相手の頭上を飛ぶ高く速いボールを送って、一気に敵陣に攻め込んで戦うというイングランド得意の戦法は、子供の稚拙なプレーを想起させる。

イングランドの手法はもちろん目覚しいものだ。選手たちは高度なテクニックと優れた身体能力を活かして敵を脅かす。

そして往々にして見事にゴールを奪う。子供の遊びとは比ぶべくもない。

子供たちが長い高い送球をするのは、サッカーの王道である低いパスをすばやくつないで敵を攻めるテクニックがないからだ。

パスをするには正確なキック力と広い視野と高度なボール操作術が必要だ。

またパスを受けるには、トラップと称されるボール制御法と、素早く状況を見渡して今度は自分がパスをする体勢に入る、などの高いテクニックがなくてはならない。

その過程で独創と発明と瞬発力が重なったアクションが生まれる。

優れたプレーヤーが、敵はもちろん味方や観衆の意表を衝くパスや動きやキックを披露して、拍手喝采をあびるのもそこだ。

そのすばらしいプレーが功を奏してゴールが生まれれば、球場の興奮は最高潮に達する。

スポーツオンリーの競技

イングランドのプレーヤーたちももちろんそういう動きをする。テクニックも確立している。

だが彼らがもっとも得意とするのは、直線的な印象を与える長い高いパスと、それを補足し我が物にしてドリブル、あるいは再びパスを出して、ゴールになだれ込む戦法だ。

そこではアスリート然とした、速くて強くてしかも均整の取れた身体能力が要求される。

そしてイングランドの選手は誰もがそんな印象を与える動きをする。

他国の選手も皆プロだから、むろん身体能力が普通以上に高い者ばかりだ。だが彼らの場合にはイングランドの選手ほどは目立たない。

彼らが重視しているのがもっと別の能力だからだ。

つまりボール保持とパスのテクニック、回転の速い頭脳、またピッチを席巻する狡猾なアクション等が彼らの興味の対象だ。

言葉を変えれば、低い短い正確なパスを多くつないで相手のスキを衝き、だまし、フェイントをかけ、敵を切り崩しては出し抜きつつじわじわと攻め込んで、ついにはゴールを奪う、という展開である。

そこに優れたプレーヤーによるファンタジー溢れるパフォーマンスが生まれれば、観衆はそれに酔いしれ熱狂する。

子供たちにとっては、サッカーの試合は遊びであると同時に身体を鍛えるスポーツである。

ところがイングランドのサッカーは、遊びの要素が失われてスポーツの側面だけが強調されている。

だからプレーは速く、強く、きびきびして壮快感がある。だが、どうしても、どこか窮屈でつまらない。

子供のころ僕も楽しんだサッカーの手法が、ハイレベルなパフォーマンスとなって展開されるのだが、ただそれだけのことで、発見や発見がもたらす高揚感がないのである。

準決勝での先制点が、ケインの空飛ぶ長いパスを基点に生まれたのが象徴的だった、その後イングランドは沈黙し、アルゼンチンはメッシのファンタジー溢れるプレーでイングランドを翻弄した。

高速回転の知的遊戯

サッカーのゲームの見所は、短く素早く且つ正確なパスワークで相手を攻め込んで行く途中に生まれる意外性だ。意表を衝くプレーにわれわれは魅了される。

もう一つの準決勝、フランスvsスペイン戦では、いわばラテン系特有の多くの意外性があり、おどろきがあった。それを楽しさと言い換えることもできる。

運動量豊富なイングランドの戦法また展開も、それが好きな人には楽しいものだったに違いない。

だが彼らの戦い方は「またしても」勝利を呼び込むことはなかった。

飽くまでもイングランドプレーの印象だが、高く長く上がったボールを追いかけ、捉え、再び蹴るという単純な作業は予見可能な戦術だ。

そしてサッカーは、予測を裏切り意表を衝くプレーをする者が必ず勝つ。

それは言葉を変えれば、高度に知的で文明的でしかも高速度の肉体の躍動が勝つ、ということだ。

ところがイングランドの身体能力一辺倒のサッカーには、肉体の躍動はあるが、いわば知恵者の狡猾さが欠けている。だからプレーの内容が原始的にさえ見えてしまう。

イングランドは彼らの「スポーツサッカー」が、スペイン、フランス、イタリア、ブラジル、アルゼンチンなどの「ゲーム&遊戯サッカー」を凌駕する、と信じて疑わない。

でも、イングランドにはそれらの国々に勝つ気配が一向にない。1966年のワールドカップを制して以来、ほぼ常に負けっぱなしだ。

イングランドは「夢よもう一度」の精神で、1966年とあまり変わり映えのしない古臭いゲーム展開にこだわる。

継続と伝統を重んじる精神は尊敬に値するが、イングランドは本気でフランスほかのサッカー強国に勝ちたいのなら、退屈な「スポーツサッカー」を捨てるべきだ。

世界サッカーの序列

今回のワールドカップでも、イングランドが優勝するのではないか、という多くの意見があった。イングランドが好調を維持していたからだ。

イングランドは、見方によってはワールドカップ以上に需要で面白い欧州選手権でも、いいところまで行くが優勝できない。ここ2大会は連続して決勝で敗退している。

僕は今回大会でももイングランドを評価せず、1次リーグが進んだ段階でも優勝候補とは考えなかった。だが彼らが準々決勝でノルウェーに勝った試合を観て、お、と目を瞠った。

その試合で2点を入れたべリンガムが、もしかするとメッシやエムバペの域に近づきつつある真正の“ファンタジスタ”かもしれないと思ったのだ。

だがそうではなく、ベリンガムはイングランドに典型的な身体能力の優れたスポーツマンプレーヤーに過ぎないことが明らかになった。

イングランドサッカーが目指すべき未来は、今の運動量と高い身体能力を維持しながら、フランス、イタリア、ブラジル、スペインほかのラテン国、あるいはラテンメンタリティーの国々のサッカーの技術を徹底して取り込むことだ。

取り込んだ上で、高い身体能力を利してパス回しをラテン国以上に速くすることだ。つまりポゼッションも知っているドイツサッカーに近似するプレースタイルを確立すること。

そこに真正のファンタジスタが加われば、イングランドはかつてのイタリア程度の強さを易々と獲得するだろう。

生き馬の目を抜く世界サッカー事情

欧州と南米のサッカー強国は常に激しく競い合い、影響し合い、模倣し合い、技術を磨き合っている。

一国が独自のスタイルを生み出すと他の国々がすぐにこれに追随し、技術と戦略の底上げが起こる。するとさらなる変革が起きて再び各国が切磋琢磨をするという好循環、相乗効果が繰り返される。

イングランドは、彼らのプレースタイルと哲学が、ラテン系優勢の世界サッカーを必ず征服できると信じて切磋琢磨している。その自信と努力は尊敬に値するが、彼らのスタイルが勝利することはない。

なぜなら世界の強豪国は誰もが、他者の優れた作戦や技術やメンタリティーを日々取り込みながら、鍛錬を重ねている。

そして彼らが盗む他者の優れた要素には、言うまでもなくイングランドのそれも含まれている。

イングランドの戦術と技術、またその他の長所の全ては、既に他の強国に取り込まれ改良されて、進化を続けているのだ。

イングランドは彼らの良さにこだわりつつ、且つ世界サッカーの「強さの秘密」を戦略に組み込まない限り、永遠に欧州のまた世界の頂点に立つことはない。

そうは言うもののイングランドは、しかし、今回大会でのベリンガムのプレーを見る限り、ファンタジスタの重要性に気づきそこへ向けてまい進しているようにも見える。

イングランドがメッシに匹敵するようなファンタジスタを作り上げるのか、イタリアがエムバペに肉薄するようなファンタジスタを誕生させるのか、今後気をつけて見て行こうと思う。

それは日曜日に行われるスペインvsアルゼンチンの決勝戦を見るくらいにわくわくするイベントである。



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イングランドよ謙虚になれ

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イングランドはアルゼンチンに負けた。ベリンガムがファンタジスタではないからである。

ファンタジスタは自らがゴールを決めない、あるいは決められないときはゴールをアシストし、ゲームを組み立て、相手ディフェンダーを引き付けてかく乱し、味方のためにプレースペースを作り出す。

メッシはそれをやりベリンガムはやらなかった。いや、できなかった。だからイングランドは負けた。

サッカーをひたすらスポーツと見なすイングランドは剛である。

サッカーを遊びあるいはゲームと見なすアルゼンチン、スペイン、フランス、ブラジル、イタリア、ポルトガルなどは柔である。

そして柔よく剛を制するのが、ファンタジスタ・サッカーの真髄なのである。

昔一度だけ優勝したイングランドは、ラテンサッカーを学びファンタジスタを育てない限り、W杯での2度目の栄光は決してやって来ないだろう。



ワールドカップの喜悦と限りなくファシストに近い高市派政治勢力の憂鬱

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天皇制の是非、男系にこだわる高市・麻生一派の異形と危険性、その他もろもろの戦前回帰願望心算etc,etc

外から見る日本の政治状況は醜状以外のなにものでもないが、諸悪の根源の根源に「近代的自我」の確立の遅れがある。

何よりもまずそこを見据えないと日本の教育事情は変わらず、まともな学校教育なくしては敗戦からの日本の真の再生はない。

そのことが僕の関心の最大のものだが、今は4年に1度の世界祭、ワールドカップを語ろうと思う。

サッカーのファンタジスタについてである。

いまこの時のファンジスタの最高峰はメッシでありエムバペでありヤマルである。彼らを擁するアルゼンチンとフランスとスペイン、さらにファンタジスタ似のベリンガムを擁するイングランドが4強に残った。

そのうち昨夜、フランスとスペインが準決勝を戦ってヤマルのスペインが勝った。僕は正直、エムバペのフランスがやや有利かと考えていた。だが両者とも強力な布陣なので、結果オーライと感じる。

プレーヤーとしての経験が長い分、ヤマルよりもエムバペの動きが目覚しいので、彼の姿が消えたのは少し寂しい。しかし、ヤマルが決勝でエムバペの域に迫る活躍をしそうな予感もある。

今夜、アルゼンチンとイングランドがもうひとつの準決勝を戦う。

アルゼンチンには僕が純然たるファンタジスタと見なすメッシがいて、イングランドにはもしかするとピードとフィジカルを兼ね備えた新タイプのファンタジスタ?とやはり僕がひとり思い悩むベリンガムがいる。

ベリンガムがメッシ・エムバペ・ヤマル級のファンタジスタなら、イングランドは強力なストライカーのケインが控えている分、どこよりも手強いとも見える。

だがそうではなく、ベリンガムがフィジカルとスピードに優れた飽くまでもイングランド的なスポーツマンプレーヤーに過ぎないのなら、イングランドは今回もまた優勝はできないだろう。

ベリンガムとケインは前回カタール大会でもコンビを組んで戦ったが、準々決勝でエムバペのフランスに敗れた。

今回大会でも2人がイングランドの主力だ。

しかし、繰り返しになるが、ベリンガムがイングランド的“ムキムキマン”プレーヤーから脱して、創造力に富むファンタジスタに完全変貌しているなら、メッシの力をもってしてもアルゼンチンは勝てないかもしれない。

ちなみに日本がもっとも不得意とするのが、ファンタジスタの創造である。

日本的メンタリティーまた文化がファンタジスタの誕生を阻むのだ。

今後50年かけてもあるいは無理かもしれない。

そいうことをからめて見、考えることができるのが、サッカーの面白さである。



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ベリンガムが真のファンタジスタであるならイングランドはヤバイぜ 

2人

W杯準々決勝でイングランドがハーランドを擁するノルウェーを下した。

イングランドのベリンガムはファンタジスタを髣髴とさせる、フィジカルの強い、動きの速い、いかにもイングランド的な“スポーツマン”プレーヤーだが、ノルウェーとの試合では、もしかすると本物のファンタジスタになりつつあるのではないか、というすばらしい動きを見せた。

それが真実なら、ベリンガムというファンタジスタを擁するイングランドは本気で強いチーム、ということになる。言葉を替えれば、ベリンガムがアルゼンチンのメッシ、フランスのエムバペ、スペインのヤマルに相当する選手なら、イングランドはことしこそ優勝を狙える位置にいる可能性も高いと思うのである。

ベリンガムがまさにファンタジスタになっているなら、イングランドは強力なファンタジスタに率いられるフランス、スペイン、アルゼンチンと互角になる。

しかもイングランドはその上に、強烈なストライカーのケインが控えていることになり、結果イングランドは、あるいは4強のうちの最強、という可能性があるのである。

イングランドの命運は点取り屋のケインではなく、ベリンガムが握っていると僕は見るのだ

イングランドが優勝すれば、ベリンガムが先導する新たなるファンタジスタサッカーの勝利。

他の3チームが優勝すればやはりファンタジスタサッカーの勝利である。

いいなぁ、ファンタジスタが活躍するサッカーは。



サッカーの極意はファンタジスタに訊け

トラと米チーム

アメリカが順当にベルギーに負けた。

選手たちはかわいそうだが、腐臭まみれのトランプ肥溜め大統領の政治介入が功を奏さなかったのは、不幸中の大幸いだった。

トランプ下郎大王は、恥知らずのFifa会長とともに地獄に落ちるだろう、と僕の夢の中に出てきたマラドーナが怒っていた。

さて、ファンタジスタの話である。

サッカー強豪国のベルギーには今のデ・ブライメ、80年代から90年代にかけてのエンツォ・シーフォがいて、アメリカにはまだ誕生してないと見ていいサッカーの申し子たち。

ファンタジスタとはイタリア語でファンタジー(空想・夢・幻想)のある人、予測が難しい創造的なアイデアに溢れエレガントな動きをする人という意味。

サッカーのナラティブでは魔法のような華麗なプレーで試合の流れを一変させ観客を魅了する名手のこと。

元々はイタリアの至宝とも形容されるロベルト・バッジョを称えるためにメディアが発明した言葉である。

バッジョの活躍以降、ファンタジスタの呼び名はイタリア国内にとどまらず、世界中の優れた司令塔やトップ下、或いは背番号10の選手を称える国際用語として定着した。

そしてそのコンテキストで見ていくと、世界には錚々たるファンタジスタが存在することが分かるのである。

先ず当のイタリアにはバッジョのほかに、同時代のデル・ピエロ、トッティ、ゾラ、マンチーニ、ピルロなどがいる。

フランスにはプラティニに次いでジダンが生まれ、今のエムバペへと受け継がれた。ほかにはジョルカエフ、グリーズマンがいるが、前者3人に比較すると少し役不足だ。

スペインにはシャビ、イニエスタに続いてペドリとガヴィが出た。2人は新コンビのシャビとイニエスタと呼ばれたが、正直こちらも物足りない。だが間もなくヤマルが大きく台頭した。

ブラジルはファンタジスタ以上とさえ評価されるペレに続いてジーコが誕生し、ロナルジーニョ、ロマリオ、カカ、リバウド、ネイマールなどが活躍した。

アルゼンチンには偉大なマラドーナの後にオルテガ、リケルメ。今は言わずと知れたメッシが世界第一の活躍をしている。

ファンタジスタと現代サッカーについては、今このときはもっともらしい嘘が出まわる。

いわく、ファンタジスタは現代サッカーの戦術の高度化によって居場所がなくなった。

いわく、今のサッカーは「全員守備・全員攻撃」が前提の、要するにトータル・フットボールなのでファンタジスタはいらない。

いわく、屹立した一人の天才プレーヤー、つまりファンタジスタの偶発的な神業やファインプレーよりも、11人が連動して相手を出し抜くシステムがチームを強くする、等々のもっともらしい主張だ。

それらがなぜ嘘なのかというと、ファンタジスタのスーパープレーは決して偶発的なものではなく持続的だからだ。コンスタントに離れ業を繰り出すから彼らはファンタジスタなのである。

さらにファンタジスタは、一人隔絶してプレーをするのではなく、常にチームメイトと連携している。

ファンタジスタは卓越した才能と技と想像力で、10人のチームメートを導いて高見に押し上げる。

見返りにチームメートはファンタジスタにぴたりと寄り添って彼をさらなる高みに誘導する。

結果、11人のプレーヤーが共に高く飛翔する。

嘘だと思うなら、今このときの優れたファンタジスタたちとそのチームを見ればいい。

具体的に言おう。

メッシとアルゼンチンを見ろ。エムバペとチームを見ろ。ヤマルとスペインを見ろ、ネイマールとブラジルを見ろ。彼らのうちの誰一人として孤立などしていない。

優れた能力を持つそれらのファンタジスタたちは、ボールを受けて相手をかわしシュートを撃つだけではなく、そのボールを魔法のように制御し処理し転がしてチームメートに渡し、再び受けてシュートしたり決定的なパスを繰り出したりする。

そして何よりも雄弁で美しいのは、チームが彼を中心に彼の周りで動き、彼はチームのために躍動するというからくりだ。

11人がまとまって動くチームは強いが、まとまった上にファンタジスタを擁するチームはさらにもっと強いのである。

もう一度言う。

エムバペのフランス、ヤマルのスペイン、メッシのアルゼンチン、既に敗退したがネイマールのブラジルがやはり突出しているのだ。

最後にポジショントーク気味にひとつ付け加えておこう。

もし今現在のイタリアチームにメッシ、ヤマル、エムバペ、ネイマールのうちの誰か一人がいたならば、イタリアは即座に世界最高峰のチームのひとつとして返り咲くことだろう。


追申:

ファンタジスタのいないイングランドと、異様な天才ストライカー・ハーランドが引っ張るノルウェーが決勝まで残っても、それはファンタジスタサッカーの敗退を意味しない。なぜならハーランドはイングランドのケインと共に「ファンタジーの無いファンタジスタ」とも規定できるからである。











































お~い、イングランドぉぉぉぉぉぉお!

KANE横長765

大炎上覚悟でゆっておくことにした。

イングランドはW杯で勝ち進んでいるが例によって説得力がない。

つまり、見ていて面白くない。

これはもう好みの問題だからしょうがない。

とも言えるが、イングランドは地元のBBCのみならず世界の多くのメディアや専門家が常に優勝候補に挙げるにもかかわらず勝てない。

それはつまらないサッカーをしているから、というのが僕の見立てなのである。

イングランドが再び優勝する確率は、日本の初優勝とどっこいどっこいじゃないかな。つまり今のところはほぼゼロ。

と思っていたら日本が先にコケた。

イングランドがコケるようにわら人形に釘を打ち付けているわけじゃないが、イングランドより一万倍は強いドイツもコケたんだから、イングランドがコケナイのはヘンじゃんジャン。

へてからに、イングランドが優勝する確率がなぜほぼゼロかというと、イングランドは相変わらずサッカーをスポーツと思い込んでいるからだい。

ハリー・ケインは優れたストライカーだけど、ファンタジスタではない。

ジュード・ベリンガムはファンタジスタにも近い名手だが、それにも増して優れたアスリートでありスポーツマン。

要するにひとことで言うとヘタなファンタジスタ。

2人がイングランドの強さと、そして弱さの象徴。

現代サッカーではファンタジスタはいらない。ファンタジスタは居場所がない、と知ったかぶりの主張をする者が後をたたないが、じゃ、メッシはどうなの?エムバペはいらないの?ヤマルは?今大会では出遅れているがネイマールは?

チーム全体の堅固さに加えてファンタジスタの彼らがいるおかげで、アルゼンチンもフランスもスペインもブラジルも金城鉄壁と相成って強いの。

彼らのうちの一人がもしもイタリア人であったなら、イタリアは今ごろは相変わらずブラジルとドイツとともに世界サッカーの強豪御三家になるの。ドイツの代わりにスペインかフランス、はたまたアルゼンチンを入れてももちろんいいけど。

さてもはてさてイングランドは。次のゲームあたりであっさり消えそうな気もするが、あるいはここ数年の習いで決勝まで行かないとコケないかも。

これも何度か言ってきたことだが、イングランドはラテンサッカー、つまりフランス、スペイン、アルゼンチン、ブラジル、ポルトガル、かつてのイタリアなどの戦術とファンタジーと遊び心を理解して且つそれを自家薬籠中の物としない限り勝ち目はない。

ラテンじゃない国で唯一強いのはドイツだが、なぜそうなったのかというとドイツはヒトラーを持ったためにサッカーが強くなったの。

は?じゃなくて~。耳の穴かっぽじってよく聞いてクデ。

ゲルマン民族のドイツは、イングランド人同様にラテン民族をはじめとする世界民族にたいして秘めた優越意識を持っている。

のだが、ヒトラーのホロコーストのせいでさんざん評判を落とし自信喪失した。

なので、少し謙虚になって、サッカーでもラテン系のファンタジーの優秀を認めるのにやぶさかではなくなった。やぶさかどころか、大いに進んで取り入れてそれをマスターした。

そうやって彼らのサッカーは同じゲルマンのイングランドの頑なな「スポーツあるいは肉体あるいは筋肉隆々」 サッカーと決別して、スポーツ&ファンタジーが組み合わさった独特のプレースタイルを獲得したわけ。

かくてブラジル、フランス、スペイン、アルゼンチン、イタリア、あるいは昔のウルグアイ等々の強豪に匹敵するコンスタントな力を得た。

イングランドはサッカー黎明期の、未開で乱暴なメンタリティー、言葉を替えればマッチョなスポーツとしての意識からどうしても抜け出せず、未だに時代遅れの、日本風に言えば体育会系の、メンタリティーのままでサッカーをやっている。

だから、見ていてつまらない。

さて。おいおいどっちみち、観衆が見てつまらないサッカーは必ず負けるの。

なぜそうなるのかって?だってイングランド、負けてんジャン。ツーか、1966年以来負けっぱなしジャン。

しかもその間あたかもイングランドが世界最強のつもりで生きてきたジャン。

それじゃ駄目なの。

今回イングランドが大天変地異のガラガラガポーンで優勝したなら、それは彼らがラテンサッカー、つまりゲーム感覚、あるいは遊び精神のサッカーを学んだっちゅーこと。

つまり、それはやっぱりラテンサッカーの勝利ってことなの。

よ~し!!


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日本サッカーは退屈だが、本気で強豪国の仲間入りを果たしそうだ 

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高市首相の「世界の真ん中で咲き誇る(私と安倍さま命の)日本外交」という世界の辺境の住人にしか思いつけない噴飯フレーズ。

麻生似非上皇捏造工作。

国民より国旗が重要という国旗主権主義政策あるいは国旗損壊罪

スパイでっち上げ探索のスパイ防止法案。

中国を潰すためのなんちゃって軍拡政策。

安倍さまより麗しいトランプのケツナメ外交をもっとさらに推し進めよう運動、など、など。

騒がしくも鬱陶しい日本社会。

それらの憂さを晴らすためにも、真に世界のド真ん中で咲き誇るワールドカップにしばらく身を浸してみるのも一興だ。

日本vsブラジル戦に対する、ひょっとすると僕の予想と見えたかもしれないマラドーナの予言は外れたが、日本サッカーは確実に強くなっている。

僕はここ数回のW杯の度に日本は強くなった、と言い続けてきた。前回大会では日本は強豪国のドイツとスペインに勝った。

それを見れば日本サッカーが強くなった、と誰でも思うだろう。だが実は、ブラジルに逆転負けした今回大会の日本の姿がもっと明確に日本の成長を示していると思う。

奇をてらって言うのではない。かつて「ベンチのマラドーナ」と呼ばれて華麗なヤジで相手チームの少年たちを悩ませたこの僕が、少し厳しい批判精神も交えて言うのだ。

即ち日本は、泥臭くひたすら走って走りまくる「脱兎走り」サッカーから、戦術によって走りボールを回し保持する、王道サッカーに確実に変化している。

前回大会でドイツとスペインに勝ったのは、「脱兎走り」の日本が運動量で相手をかく乱したからだ。

今回大会ブラジル戦でも日本はむろん走りに走った。だが戦術で速度を落とし、ボールを確実に回して相手ゴールに迫る戦法を基本に据えていた。

それはサッカー強豪国の戦い方の典型だ。

その方向に進みつつあるように見える日本サッカーを僕は腹から応援する。

だが、ぶっちゃけ日本サッカーはつまらない。

それでも応援する気持ちには変わりはないが、純粋にサッカーゲームだけを見ての、心躍る気持ちにはなれないのが現実だ。

サッカーの戦い方には国柄や国民気質が如実に現れる。それを理解するには、経済や金融や医学や工業技術などの理屈が詰まった脳ではなく、感性や情動が必要だ。

感性また情動を頼りに各国の戦い方を見ると、サッカーのナショナルチームが、国民性を如実に体現する文化や、人々の生きざまを背負っていることが分かるのである。

例えばサッカーの日本代表は11人編成の軍隊を髣髴とさせる。そのミニ軍隊は日本人の思想や動きや情感や生きざまを背負ってピッチを駆け巡る。

そこに体現される日本人の思想とは、個よりも集団つまりチームを絶対と見なす全体主義である。

動きとは、プレーテクニックや戦術の劣勢を補おうとして、選手全員が脱兎の勢いで走り回ること。玉砕覚悟で、いわば竹槍攻撃を完遂する。つまり「玉のように犬死にすること」を至福とみなす精神の実践だ。

生きざまとは、あらゆる論理的な思考を排して、いわば国家神道に殉じて自裁するようなことである。日の丸を背負い一丸となって驀進する。まさに全体主義。日本サッカーの憂鬱と煩わしさである。

国民性は、そのように良くも悪くもナショナルチームのプレースタイルや戦術や気構えに如実に現れて、試合展開を面白くする。むろん逆の効果ももたらす。

もう少し煮詰めて、分かりやすい表現で言ってみる。

例えばドイツチームは個々人が組織のために動く。今回も出ていないがかつては強豪国のイタリアチームは、個人が前面に出てその集合体が組織になる。

言い換えれば個人技に優れているといわれるイタリアは、それを生かしながら組織立てて戦略を練り、組織力に優れているといわれるドイツはそれを機軸にして個人技を生かす戦略を立てる。

1980年前後のドイツが、ずば抜けた力を持つストライカー、ルンメニゲを中心に破壊力を発揮していた頃、ドイツチームは「ルンメニゲと10人のロボット」の集団と言われた。

これはドイツチームへの悪口のように聞こえるが、ある意味では組織力に優れた正確無比な戦いぶりを讃えた言葉でもあると思う。

同じ意味合いで1982年のワールドカップを制したイタリアチームを表現すると、「ゴールキーパーのゾフと10人の野生児」の集団とでもいうところか。

独創性を重視する国柄であるイタリアと、秩序を重視する国民性のドイツ。サッカーの戦い方にはそれぞれの国民性がよく出るのだ。サッカーを観戦する醍醐味の一つはまさにそこにある。

さらに言えば、イングランド(英国)チームはサッカーを徹頭徹尾スポーツと捉えて馬鹿正直に直線的に動く。技術や戦略よりも身体的な強さや運動量に重きをおく、独特のプレースタイルだ。

彼らにとってはサッカーは飽くまでも「スポーツ」であり「ゲームや遊び」ではない。

しかし、世界で勝つためには運動能力はもちろん、やはり技術や戦略も重視し、且つ相手を出し抜くずるさ、つまり遊びやゲーム感覚を身につけることも大切だ。

イングランドサッカーが、フランス、スペイン、イタリア、ポルトガルなどの欧州のラテン系の国々やドイツ、また南米のブラジルやアルゼンチンなどに較べて弱く、且つ退屈なのはそれが大きな理由だ。

もっとも時間の経過とともに各国の流儀は交錯し、融合して発展を遂げ、今ではあらゆるプレースタイルがどの国の動きにも見られるようになった。それでも最終的にはやはり各国独自の持ち味が強く滲み出て来るから不思議なものである。

日本は「脱兎走り」から戦術によるスピード動態に変化した。そこに加えて個人技満載のラテンサッカーの精神に似た独創性を獲得した時、真に魅力的なサッカー王国となるだろう。

道は果てしなく遠い、といわざるを得ない。だが、決して不可能ではない。


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