【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

拳銃を支配する

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コロナ禍で中断していた射撃訓練を再開した。

再開した当日、自分の中の拳銃への恐怖心がほぼなくなっていることに気づいた。

うれしい誤算。

撃ち方を習うのは、身内に巣食っている銃への恐怖心を克服するのが目的である。

僕はその恐怖心を偶然に発見した。発見から20年ほど後に猟銃の扱い方を習得した。

次に拳銃の操作を習い始めた。

稽古を始めたのは2019年の9月。射撃場に10回前後通ったところでコロナパンデミックがやってきた。

ほとんどの公共施設と同様に射撃場も閉鎖された。2021年には条件付きで再開されたが、全く訪ねる気にならなかった。

2022年も同じ状況で過ごした。

銃を殺傷目的の武器として扱うのではなく、自分の中の嫌な恐怖心をなくすための実習であり訓練である。それでも銃撃方を習うのは心おどる作業ではない。

コロナ疲れもあったが、稽古を再開するのは気が重かった。

先日、ようやく踏ん切りがついてほぼ3年ぶりに射撃場に行った。

そこは世界的に有名なイタリアの銃器製造メーカー 「ベレッタ」の近くにある。わが家からは車で30分足らずの距離である。

前述の如く、練習を再開してすぐにうれしい発見をした。

てきぱきと銃を扱うところまでは行かないが、それを手にすることを恐れない自分がいた。

予想外の成り行きだった。

安全のための細心の注意をはらいながら、弾を込め、安全装置を解除して的に向けて射撃する。

終わると銃口をしっかりと前方に固定したまま弾倉をはずし、再び弾を装てんし、両手と指を決まったやり方で慎重に組み合わせ、制動しつつ撃つ。

その繰り返しが心穏やかにできるようになっていた。

それは楽しいとさえ感じられた。

射撃がスポーツと捉えられる意味も初めて腑に落ちた。

恐怖心の克服が成ったいま、射撃練習を続ける意味はない。が、せっかくなので的に撃ちこめるようになるまで続けようかとも考えている。

とはいうものの、習熟して射撃大会に参加するなどの気持ちにはなれない。

的確な銃撃のテクニックが役に立つことがあるとすれば、おそらくそれは家族と自分を守るために行動するときである。




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日々是“ロロブリジーダの“好日

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イタリア人女優のジーナ・ロロブリジーダが95歳で亡くなったのは1月16日。

ちょうど同じ日にマフィアの最後の大ボスとも呼ばれるマッテオ・メッシーナ・デナーロが、30年の逃亡生活を経て逮捕された

翌日、イタリアきっての高級紙Corriere Della Seraは二つの出来事を一面トップに並べて報道した。

他の紙面も、テレビほかのメデァイアの扱いもほとんど同じだった。

僕はロロブリジーダと実際に会ったこともありながら、面識などあるはずもないメッシーナ・デナーロの逮捕劇を優先して記事に書き、女優の死については後回しにしてきた。

イタリアでは大女優として扱われるロロブリージダだが、僕の中にはあまりそういう印象がなかった。彼女が出演した映画もいくつかは観ていると思うのだが、記憶が薄い。

女優とは一度テレビのインタビューの仕事をした。

当時彼女は60歳代半ばあたりの年齢だったと思う。女優業は既に休止して写真家として活動していた。

スタジオインタビューの際、彼女は照明の一つ一つに注文をつけた。われわれスタッフに指図をして彼女の好みの位置に照明を移動しろ、というのである。

映像は光の芸術とも呼ばれる。照明は絵作りの命のひとつだ。

撮影現場で照明を担当する責任者が「撮影監督(Director of Photography)」と作品そのものの監督以外で唯一“監督“の名をつけて呼ばれるのも、その仕事が極めて重要なものだからだ。

ロロブリジーダは女優業をやめて写真家として活動していたこともあって、照明にこだわったのかもしれない。だが、撮影対象の彼女が、撮影のプロのわれわれに照明の指図をするのはあまり歓迎はされない。

しかし、それはスタジオでの単純なインタビューであり、照明はできるだけフラットに鮮明にするだけのもので、陰影や深みや色調その他を考慮し尽して映像を詩的に美しく作り上げようとするものではない。

だからわれわれはあまり怒ることもなくロロブリジーダの主張を受け入れた。彼女の注文は、初老の女優が肌や容貌の衰えを胡麻化したい一心で出しているもの、と僕の目には映った。

当時、目の前の女優の半分程度の年齢だった僕は苦笑した。隠しきれない老いを無理して隠そうとする彼女の姑息を、少し軽蔑する気分の思い上がりもまだ若かった僕の中にはあるいはあったかもしれない。

今、当時の女優とほぼ同じ年齢になって彼女の訃報に接したとき、僕は照明に注文をつけた彼女の心理を「日々是好日」という禅語にからめて感慨深く思った。

僕は学生時代に初めてその言葉を知って「毎日が晴れた良い天気だ」と勝手に理解し、これは愚かな衆生に向かって「たとえ雨が降っても風が吹いても晴れた良い天気と思い(こみ)なさい。そうすれば仏の慈悲によって救われる」という教えだと考えた。

まやかしと偽善の東洋的思想、日本的ものの見方がその言葉に集約されていると当時の僕は思った。僕は禅がまったく理解できなかった。しかも理解できないまま僕が思い込んでいる禅哲学を嫌った。

だが実は日々是好日とは、どんな天気であっても毎日が面白い趣のある時間だ、という意味である。

つまり雨の日は雨の日の、風の日は風の日の面白さがある。あるがままの姿の中に趣があり、美しさがあり、楽しさがある。だからそれを喜びなさい、という意味である。その真意に気づいたのはずっと後のことだ。

ジーナ・ロロブリジーダはインタビューされたとき、老いを受け止めて日々是好日と達観せず、若かりし頃の僕の解釈と同じように、悪い天気も良い天気と思い込みたがっていた。

老いから目をそらして、自分はまだ若く美しいと信じたがっていた。

その思い込みは老醜を安らげるどころか加速させるだけである。僕が当時彼女のこだわりに覚えた違和感もそこに根ざしていた。

彼女はその後、老いを受け入れて安らかに生きることができたのだろうか、と僕は女優の訃報を悲哀感とともにかみしめた。




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マフィア鬼のかくれんぼは続く

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先日逮捕されたマフィアの最後の大ボス、マッテオ・メッシーナ・デナーロは30年に渡って逃亡潜伏を続けた。

彼の前にはボスの中の大ボス、トト・リイナが、1993年に逮捕されるまでの24年間姿をくらましていた。

圧巻は2006年に逮捕されたベルナルド・プロヴェンツァーノ。彼は時には妻子まで連れて43年間隠伏し続けた。

3人とも逃亡中のほとんどの期間をシチリア島のパレルモ市内で過ごした。

プロヴェンツァーノが逮捕された時、マフィアのトップの凶悪犯が、人口70万人足らずのパレルモ市内で、時には妻子まで引き連れて40年以上も逃亡潜伏することが果たして可能か、という議論が起こった。それは無理だと考える人々は、イタリアの総選挙で政権が交替したのを契機に何かが動いて、ボス逮捕のGOサインが出たと主張した。

もっと具体的に言うと、プロヴェンツァーノが逮捕される直前、当時絶大な人気を誇っていたイタリア政界のドン、シルヴィオ・ベルルスコーニ元首相が選挙に 負けて政権から引きずり下ろされた。そのためにベルルスコーニ元首相はもはやマフィアを守り切れなくなり、プロヴェンツァーノ逮捕のGOサインが出た、というものである。

その説はベルルスコーニ元首相とマフィアが癒着していると決め付けるものだった。が、確たる証拠はない。証拠どころか、それは彼の政敵らによる誹謗中傷の可能性さえある。しかしながらイタリアではそういう「噂話」が絶えずささやかれるのもまた事実である。


なにしろベルルスコーニ氏以前には、3回7期に渡って首相を務め、長い間イタリア政界を牛耳ったジュリオ・アンドレオッティ元首相が、「隠れマフィアの一 員」という容疑で起訴されたりする国である。人々の不信がつのっても仕方がない現実もある。また、次のようにも考えられる。

シチリアは面積が四国よりは大きく九州よりは小さいという程度の島である。人口は500万人余り。大ボスはシチリア島内に潜伏していたからこそ長期間つかまらずにいた。四方を海に囲まれた島は逃亡範囲に限界があるように見えるが、よそ者を寄せつけない島の閉鎖性を利用すれば、つまり島民を味方につければ、 逆に無限に逃亡範囲が広がる。警察関係者や政治家等の島の権力者を取り込めばなおさらである。

そうしておいて、敵対する者はうむを言わさずに殺害してしまう鉄の掟、いわゆる『オメルタ(沈黙)』を島の隅々にまで浸透させていけばいい。『オメルタ(沈黙)』は、仲間や組織のことについては外部の人間には何もしゃべってはならない。裏切り者は本人はもちろんその家族や親戚、必要ならば 友人知人まで抹殺してしまう、というマフィア構成員間のすさまじいルールである。



マフィアはオメルタの掟を無辜の島民にも適用すると決め、容赦なく実行していった。島全体に恐怖を植えつければ住民は報復を怖れて押し黙り、犯罪者や逃亡者の 姿はますます見えにくくなっていく。オメルタは犯罪組織が島に深く巣くっていく長い時間の中で、マフィアの構成員の域を超えて村や町や地域を巻き込んで巨大化し続けた。冷酷非道な掟はそうやって、最終的にはシチリア島全体を縛る不文律になってしまった。

シチリアの人々は以来、マフィアについては誰も本当のことをしゃべりたがらない。しゃべれば報復されるからだ。報復とは死である。人々を恐怖のどん底に落とし入れる方法で、マフィアはオメルタをシチリア島全体の掟にすることに成功した。しかし、恐怖を与えるだけでは、恐らく十分ではなかった。住民の口まで封じるオメルタの完遂には別の要素も必要だった。それがチリア人が持っているシチリア人と しての強い誇りだった。

シチリア人は独立志向の強いイタリアの各地方の住民の中でも、最も強く彼らのアイデンティティーを意識している人々である。島は古代ギリシャ植民地時代以来、ローマ帝国、アラブ、ノルマン、フラ ンス、スペインなど、外からの様々な力に支配され続けた。列強支配への反動で島民は彼ら同志の結束を強め、かたくなになり、シチリアの血を強烈に意識するようになってそれが彼らの誇りになった。

シチリアの血をことさらに強調するする彼らの心は、犯罪結社のマフィアでさえ受け入れて しまう。いや、むしろ時にはそれをかばい、称賛する心根まで育ててしまう。なぜならば、マフィアもシチリアで生まれシチリアの地で育った、シチリア の一部だからである。かくしてシチリア人はマフィアの報復を恐れて沈黙し、同時にシチリア人としての誇りからマフィアに連帯意識を感じて沈黙する、というオメルタの二重の落とし穴にはまってしまった。

シチリア島をマフィアの巣窟たらしめているオメルタの超ど級の呪縛と悪循環を断ち切って、再生させようとしたのがパレルモの反マフィアの旗手、ジョヴァンニ・ファルコーネ判事だっ た。90年代の初め頃、彼の活動は実を結びつつあった。そのために彼はマフィ アの反撃に遭って殺害された。しかし彼の活動は反マフィアの人々に受け継がれ、大幹部が次々に逮捕されるなど犯罪組織への包囲網は狭まりつつある。だがマフィアの根絶はまだ誰の目にも見えていない。

「マフィアとは一体何か」と問われて、僕はこう答えることがある。「マフィア とはシチリア島そのもののことだ」と。シチリア島民の全てがマフィアの構成員という意味では勿論ない。それどころか彼らは世界最大のマ フィアの被害者であり、誰よりも強くマフィアの撲滅を願っている人々である。シチリア島の置かれた特殊な環境と歴史と、それによって規定されゆがめられて行ったシチリアの人々の心のあり方が、マフィアの存続を容易にしている可能性がある、と言いたいだけだ。

自分の言葉にさらにこだわって付け加えれば、マフィアとはシチリア島そのものだが、シチリア島やシチリアの人々は断じてマフィアそのものではない。島民全てがマフィアの構成員でもあるかのように考えるのは「シチリア島にはマフィアは存在しない」と主張するのと同じくらいにバカ気たことだ。マフィアは島の人々の心根が変わらない限り根絶することはできない。同時に、マフィアが根絶されない限りシチリア島民の心根は変わらない。マフィアはそれほ ど深く広くシチリア社会の中に根を張っている。







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最後の大ボスの逮捕もマフィアの壊滅を意味しない

デナーロ、昔・今650

マフィアの最後の大ボスとも呼ばれる、マッテオ・メッシーナ・デナーロが逮捕された。

デナーロは悪名高いトト・リイナの弟子。リイナとその後継者のベルナルド・プロヴェンツァーノが収監された2006年以降、逃亡先からマフィア組織を統率していたとされる。

デナーロはリイナが逮捕された1993年に逃亡。以後30年に渡って潜伏を続けた。

彼はシチリア島の反マフィアの急先鋒だったファルコーネとボルセリーノ両判事の爆殺に加わり、ミラノ、フィレンツェ、ローマの連続爆弾事件の共犯者とも目されている。

また1996年には裏切り者への報復として、彼の12歳の息子を誘拐し殺害して酸で溶かすという凄惨な事件にも関わった。

警察は過去に何度も彼を逮捕しかけたがその都度逃げられた。

2010年前後にはシチリア島の中心都市パレルモで、デナーロ の顔を建物の壁に描いた落書きが出現して大きなニュースになった。

壁の似顔絵は、デナーロの逮捕が近いことの現われなのではないか、と僕はそのとき密かに思った。

マフィアの大物の逮捕が近づくと、 逮捕されるべき男に関する不思議な話題が突然出現したりするのだ。

だが何事もなく過ぎて、彼の行方はその後も杳として知れなかった。

閑話休題

1992年5月23日、シチリア島のパレルモ空港から市内に向かう自動車道を高速走行していた 「反マフィアの旗手」ジョヴァンニ・ファルコーネ判事の車が、けたたましい爆発音とともに空中に舞い上がった。

マ フィアが遠隔操作の起爆装置を用いて500キロの爆弾をさく裂させた瞬間だった。  

90年代初頭のマフィアは、判事を爆殺し国家に挑戦するとまで宣言して得意の絶頂にいた。だがそこは組織の転落の始まりでもあった。

判事の 殺害は民衆の強い怒りを呼んだ。

イタリア中に反マフィアの空気がみなぎり、司法は世論に押される形で犯罪組織への反撃を開始。

翌93年1月、ほぼ4半世紀に渡って潜伏、逃亡していた、ボスの中の大ボス、トト・リイナを逮捕した。  

シチリア島のマフィアは近年、イタリア本土の犯罪組織ンドランゲッタやカモラに比べて影が薄い。

マフィアはライ バルに「最強者」の地位を奪われているようにさえ見える。だが、実態は分からない。

マフィアは地下に潜り、より目 立たない形で組織を立て直している、と見る司法関係者も多い。

現にコロナパンデミック禍中には、マ フィアが困窮した人々を助ける振りで、彼らを食い物にする実態も明らかになった。

メッシーナ・デナーロが逮捕された今、マフィアの息の根が止まるのではないかという希望的観測もある。

しかしマフィアの絶滅が近いとはまだと ても考えられない。それは文字通りの楽観論。大きな誤謬ではないかと思う。




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シューキンペーとアベノボーレイ&アベの忠犬政権が軍拡の暴走を招く

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欧米の多くの心ある人々が呆気に取られた岸田首相のパフォーマンス5ヶ国歴訪には、5月のG7へ向けての日本式の根回しという思惑があったのだろう

だがG7会議に向けて根回しをするは“会議について会議をする“ということであり、その間抜け振りは噴飯を通り越して見ている者が恥ずかしくなるほどだった。

岸田首相は、外遊の目的を「各国首脳と法の支配やルールに基づく国際秩序を守り抜く基本姿勢を確認し(中露北朝鮮がかく乱する)東アジアの安全保障環境への協力を取り付ける」などと語った。

だがそれらはこれまでに繰り返し話し合われ、確認し合い、同意されてきた事案だ。のみならずG7でもまた文書や口頭で傍証する作業が行われるのが確実だ。会議前に論証する意味はない。

それでも人笑わせな5ヶ国歴訪にはひとつだけシリアスな動機があり、岸田首相はそのことを隠すために無体な外遊をした、ということも考えられないではない。

それはつまりロシアによるウクライナ侵略をきっかけに、日本が中露北朝鮮からの軍事的脅威に対抗して軍拡を進めることを、アメリカに認めてもらうよう交渉する、ということである。

岸田首相がその重大なプロセスをカムフラージュするために、アメリカ訪問の前に英仏伊カナダを歴訪したとしたらどうだろうか。

ロシアの脅威を目の当たりにした欧州では、EU加盟国を筆頭に軍事費を急速に拡大する流れが起きた。中でも、大戦後は平和主義に徹してきたドイツの軍事費が、一挙に増大したことが注目された。

のみならずナチスドイツにアレルギーを持つ欧州が、将来彼らの脅威となるかもしれないドイツの軍拡への政策転換を易々と黙認したのである。

ドイツは第2次大戦を徹底総括し、過去のナチスドイツの犯罪を自らのものとして認め、 反省に反省を重ねて謝罪し、果ては「ナチスドイツの犯罪の記憶と懺悔はドイツ国家のアイデンティティの一部」とさえ認定した。

日本は欧州の情勢も見つめつつ、中露北朝鮮のうち特に中国の覇権主義に対抗するため、という大義名分を掲げて防衛費の大幅増額を決めた。

また核兵器の製造・保有とまではいかないが、日本への持ち込みの容認、さらにはアメリカとの核の共有などを含めた抜本的な政策転換を目指していても不思議ではない。

結果、アジアには軍拡が軍拡を呼ぶ制御不能な状況が訪れるかもしれない

日本はドイツとは違い、これまでのところ戦争を徹底総括せず、直接にも間接的にも過去の侵略戦争を否認しようと躍起になっている。

それはネトウヨ・ヘイト系俳外差別主義者の国民、また同種の政治家や財界人や文化人また芸能人などに支持されて、近隣諸国との摩擦や軋轢を招き続けている。

その意味では、日本が軍拡を進めるのはドイツのそれよりもはるかに危険な事態だ。アメリカはそのことを十分に認識しつつ、中国・ロシアへの対抗軸として日本を活用しようとしている。

それは過去に学ぼうとしないアメリカの独善的な態度であり、将来に大きな禍根を残す可能性も高い。

そうではあるものの、しかし、欧州の状況と東アジアの安全保障環境に鑑みて、日本が防衛力強化に踏み切るのはやむを得ない成り行き、とも見える。

日本は自由と民主主義を死守しようとするアメリカほかの友好国と連携しながら、飽くまでも専守防衛による安全保障を目指して慎重に防衛力を強化、維持するべきだ。

その際に日本が強く意識しなければならないのは、今でも多大な基地負担に苦しんでいる沖縄の島々を安全保障の名の元に再び犠牲にしないことだ。

軍事力強化策に伴って南西諸島の島々では、既存の米軍基地に加えて、狭い土地に自衛隊基地や部隊がひしめく環境破壊が繰り返されている。次は戦闘による人的破壊があるのみだ。

多くの日本国民は日本全体の安全保障のために存在する沖縄の基地負担を、沖縄だけの問題と捉えて無関心でいる。

加えて日本政府は、国民のその無関心を巧みに利用して。沖縄に口先だけの基地負担軽減を約束しては重荷を押し付け続けている。いわゆる構造的な沖縄差別だ。

沖縄の人々は、日本以外の世界の先進地域でならとうていあり得ないあからさまな差別と、抑圧と、一方的な犠牲をこれ以上受け入れてはならない。

今こそ中央政府の対応をより厳しく監視しながら、自己決定権を行使するための決死のアクションを含めた、強い真剣な生き方を模索していくべきである。









G7への“地ならし訪問“ってなに?

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岸田首相がG7へ向けての“地ならし“に5ヶ国を訪ね歩くとは、いったいどういう意味だったのだろう?

話したいことがあるなら、それこそG7で話し合えばいいだけの話ではなかったのか。

そのためのG7ではないのだろうか?

首相の欧米5ヶ国歴訪は、統一教会や安倍国葬や軍拡やコロナ第8波etcの都合の悪い事案から、国民の目をそらしたい一心でのこじつけ外遊に見えないこともない。

内政危機の場合には国民の目を外に向けさせろ、というのが権力機構の常套手段でもあることだし。

安全保障その他の重要な分野で日本が米英仏伊カナダと連携するのは、これまでに幾度となく確認されてきたことだ。G7に向けて敢えて“地ならし“をする必要などない。

それにもかかわらずに、政権の噴飯ものの動きをNHKなどが盛んに報道するものだから、外事にナイーブな国民は首相が何か重大な行動を起こしている、と勘違いしてしまう。

それってほとんど詐欺まがいにさえ見える。

ここイタリアのメローニ首相は岸田首相を暖かく迎えた。日本は大切な友人だし、岸田首相は無能とはいえ友人国の代表だから当然だ。

それはマクロン、バイデンの両大統領もスナク、トルドー両首相も同じだろう。

彼らが意味不明なパフォーマンス訪問をせせら笑うことはありえない。

一方で欧米の冷静な人々は、岸田首相の子供じみた無意味なアクションをぽかんと口を開けて見つめた。

子供じみているその度合いが法外なので、彼らは嘲笑することさえ忘れて呆然としてしまったのだ。

岸田首相はもしかすると、安倍元首相の手法を真似て外国訪問を繰り返したいのかも知れない。

それならば彼はその前に、安倍元首相の盛んな外遊が、ネトウヨヘイト系差別主義者らが考えたがるほど諸外国に評価されていたものではないことを、しっかりと確認するべきだ。

安倍国葬熱烈支持派などの人士は、元首相の無闇な外遊がもたらした結果とも言える彼自身とトランプ前大統領との蜜月、という重い問題さえノーテンキに誇りにしたがる。

そんな彼らには世界世界情勢など読めない。

岸田首相は外遊を売りものにしたいのなら、それの是と非をいくえにも沈思黙考した上で、世界の笑いものにならないように慎重に行動するべき、と腹から思う。


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Ratzingerの置き土産

Ratzi背中

ほぼ10年前、719年ぶりに自由意志によって生前退位し名誉教皇となったベネディクト16世が、12月31日に死去した。

葬儀は1月5日にバチカンで執り行われる。

厳しいようだが僕は彼に対しては、安倍晋三元首相と同様に「死ねばみな仏、悪口を言うな」という美徳を適用してはならないと考えている。

なぜならベネディクト16世は聖職者でありながら大いなる権力者でもあったからだ。

僕は彼の死に際しては、残念ながら3年前に彼が隠遁生活からふいにゾンビのようによみがえった時に覚えた違和感と同質の感慨しか抱けない。

その気分は次の記事の中に存分に盛り込まれている。

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52299307.html


参照:

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52298622.html







金に転んだ天才を惜しむ

ronaldoピッチで泣く650

W杯にからめてサッカー記事ばかり書いてきて、少し飽きて、もう余程の出来事がない限り2024年の欧州杯までサッカー話は封印、と思った。

が、しかし、気が変わって、ロナウドのサウジアラビアへのスーパー札束移籍についてはやっぱり書いておこうと決めた。

ロナウドは年俸2億ユーロ、日本円にして280億円でサウジのアルナスルと契約した。

は?と聞き返しても金額は変わらない。バカバカしいと怒っても現実は現実だ。怒るのは羨望ゆえの気の歪みに過ぎない。

もっとも怒っているのは僕ではない。

僕はため息をついているほうだ。ロナウドのキャリアの終焉と、サウジアラビア人の途方もない金銭感覚を嘆いて。

ロナウドは先日のW杯では監督に盾ついて干された。それは残念な“事件”だった。

ロナウドほどの選手は、負傷していない限りたとえ何があっても試合に出るべきだとそのとき思い、今もそう考えている。

ポルトガルからの情報では、民意ははじめ監督に同情的だった。だがまもなく、やはりロナウドを出場させるべき、と変化したという。

だが時すでに遅く、ポルトガルは準々決勝でモロッコに敗れた。

ロナウドの思い上がった態度が軋轢の原因だったらしい。それは遺憾なことだが、監督はぐっとこらえてロナウドをピッチに送り出すべきだったのだ。

なぜならロナウドは全盛期を過ぎたとはいえ、依然としてひとりでゲームをひっくり返すほどの力量を備えた選手だ。

監督がプレイをするのではない。監督の仕事は選手を鼓舞して試合に勝つことだ。ならば何としても勝利を呼び込む力を持つ選手を外すべきではなかった。

何が言いたいのかというと、僕は天才メッシと並び称される天才のロナウドが、まだ欧州のトップリーグの第一線で活躍できるのに、5流リーグのサウジアラビアに行ってしまったのが悔しいのだ。

彼は所属していた古巣のマンチェスターユナイテッドとも対立していた。だがW杯で活躍してさらなる飛躍を遂げるだろうとも見られていた。

しかしW杯でベンチを温めることが多かったため機会は訪れずチームも敗退した。結果彼は、金だけが魅力の中東のチームに去った。

欧州や南米のスーパースターの多くは、キャリアの終わりには米国や中東の3流以下のリーグに移籍して大金を稼ぐのが当たり前だ。中国や日本に流れる選手もいる。

従ってロナウドがサウジアラビアのチームのオファーを受けたのは驚きに値しない。莫大な年棒も彼の広告塔としての価値を考えればうなずけないことはない。

彼が作った移籍金や年棒の記録は、今後メッシやネイマールはたまたエンバペなどによって更新されていく可能性が高い。

なので僕はそのことにもあまり違和感を抱かない。

繰り返しになるが、僕はCロナウドという稀代のサッカーの名手が“早々”とキャリアを終わらせたことが残念でならないのである。

37才のロナウドのキャリアはすでに終わったと考えるのは間違いだ。

選手寿命が伸び続けている現在、彼は少なくともあと数年は欧州のトップチームで躍動し続けることができたに違いない。

返す返すも残念である。

サッカーには人心の写し絵という深刻な一面もある

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2022年W 杯決勝戦を戦ったアルゼンチンとフランスのどちらを応援するか、という世論調査がイタリアで行われた。

そこではおよそ7割がアルゼンチン、2割がフランス、1割は両方あるいはどちらでもない、と回答した。

いくつかの統計があったが、いずれも圧倒的にアルゼンチン支持が多かった。

アルゼンチンにはイタリア移民が多い。

その影響もあるのだろうが、イタリアのプロサッカーリーグのセリエAでプレーするアルゼンチン人選手も少なくない。

付け加えれば、アルゼンチンのスーパースター・メッシもイタリア系(祖父)である。メッシという名前もイタリアの姓だ。

その統計は、しかし、イタリア人がフランスを好いていないという意味ではないと思う。

なぜなら例えばフランスとドイツが対決したならば、ほぼ間違いなくフランス支持が7割、ドイツ支持が2割というような数字になるからだ

W杯の優勝回数だけを見れば、イタリアとドイツは南米のブラジルとともに世界サッカーのトップご3家を形成する。

イタリアにとってはブラジルもドイツもライバルだが、ブラジルは同じラテン系なのでより親近感を覚える。

片やドイツはライバルだが、歴史と欧州の先進民主主義国の理念を共有する国としてやはり強い愛着を感じる。

ところがドイツはかつてヒトラーを持った国である。ドイツ国民は必死でヒトラーの悪を清算し謝罪し否定して、国民一丸となって過去を総括・清算した。結果彼らの罪は大目にみられるようになった。

だがドイツに対する欧州人の警戒心が全て消えたわけではない。何かのネジがゆるむとドイツはまたぞろ暴虐の奔流に支配され我を忘れるのではないか、と誰もがそっと憂慮しながら見つめている。

欧州の人々が密かにだが断固として抱えているドイツ人への不信感は、彼らが国際政治の舞台で民主主義の旗手となって前進する今この時でも変わらない。

イタリア国民はW杯で日本がドイツを破ったとき狂喜した。

彼らが普段から日本びいきという事実に加えて、ドイツがサッカーではライバル、政治的にはナチスの亡霊に囚われた国としての反感がどうしてもくすぶるからだ。

戦争を徹底総括したドイツに反感を持つなら、それさえしてこなかった日本にはもっと嫌悪感を持ってもいいはずだが、何しろ日本は遠い。直接の脅威とは感じ難いのである。

先の大戦中、日独伊三国同盟で結ばれていたドイツとイタリアは、1943年に仲たがいが決定的になった。同年10月3日、イタリアはドイツに宣戦布告。

イタリアは開戦後しばらくはナチスと同じ穴のムジナだったが、途中でナチスの圧迫に苦しむ被害者になっていった。ドイツ軍によるイタリア国民虐殺事件も多く発生した。

戦後、イタリアがドイツに対して、ナチスに蹂躙され抑圧された他の欧州諸国と同じ警戒感や不信感を秘めて対することが多いのは、第2次大戦におけるそういういきさつがあるからである。

イタリア人を含めた全てのヨーロッパ人は、ドイツの経済力に感服している。同時にドイツ以外の全てのヨーロッパ人は、心の奥で常にドイツ人を警戒し監視し続けている。

彼らはヨーロッパという先進文明地域の住人らしく、ドイツ人とむつまじく付き合い、彼らの科学哲学経済その他の分野での高い能力を認め、尊敬し、評価し、喜ぶ。

しかし、ドイツ人は彼らにとっては同時に、残念ながら未だにナチズムの影をひきずる呪われた国民なのである。

いや、ヨーロッパ人だけではない。米国や豪州や中南米など、あらゆる西洋文明域またキリスト教圏の人々が、同じ思いをドイツ人に対して秘匿している。

欧米諸国のほとんどの人々は、前述したようにドイツ国民の戦後の努力を評価し、ナチズムやアウシュヴィッツに代表される彼らの凄惨な過去を許そうとしている。あるいは許した。

しかし、それは断じて忘れることを意味するのではない。

「加害者は己の不法行為をすぐに忘れるが被害者は逆に決して忘れない」という理(ことわり)を持ち出すまでもなく、ナチスの犠牲者だった人々はそのことに永遠にこだわる。

それは欧米に住んでみれば誰でも肌身に感じて理解できる、人々の良心の疼きである。「許すが決して忘れない」執念の深さは、忘れっぽいに日本人には中々理解できないことだけれど。

既述のようにイタリアは、第2次対戦ではドイツと袂を分かち、あまつさえ敵対してナチスの被害を受けた。だが、初めのうちはナチスと同じ穴のムジナだった。

イタリアにはそのことへの負い目がある。だからイタリア国民は他の欧米諸国民よりもドイツ人を見る目が寛大だ。

だが、ことサッカーに関する限り彼らのやさしい心はどこかに吹き飛ぶ。

そこに歴史の深い因縁があると気づけば、僕は自分の口癖である「たかがサッカー。されど、たかがサッカー」などとふざけてばかりもいられないのである。



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神の手と神の足

躍るメッシ蹴るマラドーナ650

2022年ワールドカップ・カタール大会決勝戦の翌日、イタリアの新聞(写真)にはメッシを「神の足」を持つ男と称える見出しが躍った。

「神の足」という形容は、1986年のワールドカップ・メキシコ大会の準々決勝戦で、マラドーナがイングランドを相手にボールを手で触ってゴールに押し込んだ、いわゆる「神の手」ゴールのエピソードになぞらえたものだ。

大物議をかもしたその事件は、マラドーナの偉大さが呼んだ審判の誤審という見方と、スポーツマンにあるまじき彼の狡猾なアクション、という考え方がある。

どちらも正しく、どちらも間違っていて、どうでもいいじゃん、サッカーが面白ければ、というのが僕の意見である。

へてからに

サッカーは手ではなく足が主体のスポーツだから、「神の足」を持つ選手が正当であり、その意味でもマラドーナとメッシのふたりの神のうちでは、やっぱりメッシが上なのかな、と思ったりするのである。







2022W杯決勝戦は筆舌無用の大活劇だった

メッシ雄叫び走り

深い悲しみ、怒り、喜びなどの感情の奔流の前には言葉は存在しない。

そのとき人はただ泣き、叫び、哄笑するだけである。つまり感情の激流は言葉を拒絶する。

感情が落ち着いたとき初めて人は言葉を探し言葉によって自らの感情を理解しようとし、他者にも伝えようとする。

それが表現であり文学である。

W杯決勝戦のフランスVSアルゼンチンを、人の深い感情になぞらえて言葉が存在しないほどの劇的なせめぎあいだったと言えば、それは少し言葉が過ぎるかもしれない。

しかし、試合はそんな言い方をしても構わないのではないか、と思えるほどの驚きと興奮と歓喜にあふれた世紀のショーだった。

人が書くドラマには伏線とどんでん返しがある。だがそれは筋書に沿った紆余曲折である。

サッカーのゲームには筋書がない。それは世界トップクラスの選手たちが、彼ら自身も知らない因縁に導かれて走り、飛び、蹴り、躍動する舞台である。

ドラマを紡ぎ出す因縁はしかし、神によって描かれた予定調和ではない。一流のアスリートたちが汗と泥にまみれて精進し、鍛え、苦しみ、闘い抜いた結果生まれる展開だ。

つまりスそれは選手たちの努力によっていくらでも書き変えることができるいわば疑似宿命。

だから人は彼らの躍動を追いかけ、なぞり、復唱し自らの自由意志にも重ね見て感動するのである。

2022W杯の決勝戦におけるドラマのほとんどは、両チームのスーパースターによって生み出された。

アルゼンチンはメッシ、フランスは若きエースのエンバペである。

2人はゴールをアシストし、ゲームを構築しつつ相手ディフェンダーたちを引きつけて味方のためにスペースを作り、パスを送りパスを受けて攻撃の起点となって躍動した。

そして何よりも重要なのは、彼ら自身が次々とゴールを決めたことだ。それは眼を見張るような劇的な働きだった

特にアルゼンチンのメッシの活躍は世界サッカーの歴史を書き換える重要なものになった。

彼はここまでに数々の記録を打ち立ててきた途方もない名手だが、自国の天才マラドーナと比較すると格落ちがすると批判され続けた。

それはひとえにメッシがナショナルチームにおいてマラドーナほどの貢献をしてこなかったからだった。

中でもワールドカップでの活躍、とりわけ優勝の経験がないのが致命的とされてきた。

そのメッシが今回大会では見違えるような動きをした。彼はマラドーナが1986年のW杯をほとんどひとりで勝ち進んだ雄姿をも髣髴とさせるプレイを見せた。

人によって多少の評価の違いはあるだろうが、メッシはW杯前の時点で数字的には既にマラドーナを凌駕していた。

だが彼のキャラクターはマラドーナほどには民衆に愛されない。

それは例えばかつて日本のプロ野球で、2大スターの長嶋と王のうち、成績では王が断然勝っているものの、人気では長嶋が王を圧倒してきた事例によく似ている。

民衆は完璧主義者の王よりも、明るくハチャメチャな雰囲気を持つ長嶋に心を惹かれてきた。マラドーナはアルゼンチンの長嶋でメッシは王なのである。

だが歴史が進行し、選手たちの生の人間性への興味が失われたときには、彼らが残した数字がクローズアップされるようになる。

そのときに真に偉大と見なされるのは成績の勝る選手である。

メッシはその意味で将来、文字通りマラドーナもペレをも凌ぐ史上最高のサッカー選手と規定されることが確実である。

その場合にメッシの名とともに永遠に語られのが、2022年のカタール大会であることは言うまでもない。




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めでたさは中くらいなりW杯3~4位決定戦

燃えるモドリッチ

さて今日はW杯の3~4位決定戦の日である。クロアチアVSモロッコだ。

W杯に3~4位決定戦は必要か否か、という論争がある。僕は賛成でもあり反対でもあるという中途半端な立場だ。

反対の理由は、W杯の大舞台で4強に入ったチーム、つまり準決勝まで戦ったチームには、3、4位の順番付けなど要らないのではないか、と思うから。

例えば夏の高校野球など多くの大大会でも順位付けは優勝と準優勝だけだ。それ以外は4強、8強、16強などとまとめる。

その方が勝ち進んだチームの全てを讃える感じがあって良いように思う。3、4位があるなら、5位も6位もそれ以下も順位付けをしなければ理屈に合わない。

また優勝を目指して全力を尽くした準決勝敗退の2チームに、果たして3~4位決定戦を戦う十分な動機付けがあるか、という疑問もある。W杯の頂点を目指すことと3位を目指すことの間には、意欲という意味では大きな落差があるのではないか。

逆に3位決定戦もあった方が良いと考えるのは、純粋に1人のサッカー・ファンとして、W杯4強にまで残ったチームの試合を1つでも多く見ていたいから。

出場する選手には決勝戦に臨むほどの熱い気持ちは無くても、ピッチに立てば相手のあることだから彼らはやはりそれなりに燃えて、勝ちに行こうとして面白い試合展開になる。過去の例がそれを証明している。

準決勝で苦杯をなめたチームに敗者復活戦にも似たチャンスを与える、という意味合いからも3~4位決定戦に賛成したい。

クロアチアVSモロッコは、いわばサッカー新興国同士の対戦と言っても構わないだろう。

クロアチアは過去にも同じ試合を経験し、前回ロシア大会ではそこを超えて決勝戦まで駒を進めた。従って新興国と呼ぶのはあたらないかもしれない。

だがクロアチアは、もうひとつのビッグイベント欧州杯ではベスト8が最高でそれほどパッとしない。世界の強豪国に比較するとほぼ常にダークホース的存在に留まっている。

モロッコの進撃は驚異的だった。アフリカ勢として初めて準決勝まで進み歴史に大きな足跡を残した。彼らは今日の試合に勝って歴史の刻印をさらに鮮明にしようとするだろう。恐らく決勝戦のつもりで戦うに違いない。

クロアチアにはもしかするとモロッコほどの強烈な動機づけはないかもしれない。それでもピッチに出ればモロッコの熱にあてられて彼らも必ず熱くなるだろう。先に触れたようにそのことは過去の試合が示唆している。

僕は個人的にクロアチアの至宝モドリッチに注目している。37歳のモドリッチは、今日の試合を最後にクロアチア代表から去ると見られている。

ところが同時に、2024年の欧州杯までは代表に留まる、という見方もある。僕は彼が2年後の欧州杯でも躍動するのを見たい。

社会の多くの分野と同じようにプロサッカーの世界でも選手寿命が伸び続けている。イタリアのACミランに所属するイブラヒモビッチは41歳にしてまだ同チームの中心的存在だ。

間もなく38歳になるポルトガルのロナウドも、全盛期を過ぎたものの未だに1人でゲームをひっくり返す力を持つスーパースターだ。

2024年、39歳のモドリッチ率いるクロアチアが欧州杯でも大きな業績を残せば、同国はもはや新興国ではなく、りっぱなサッカー強国と見なされるようになるだろう。



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イングランドちゃ~ん、強いイタリアにかかっておいで~


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イングランドサッカーを弱いというあなたの意見は主観的で納得できない、というメッセージをある方からいただいた。

意見は僕の独断と偏見に基づく、とちゃんと断ったにもかかわらず、である。

そこで突然のようだが、世界サッカーの強豪イタリアと比較して数字も上げて論じておくことにした。

周知のようにイタリアは予選でコケて今回W杯には出場していない。だが僕はイタリアチームを間近に見続けてきたという自負もあるので、敢えて引き合いに出すことにした。

今回大会でもイングランドは準々決勝まで強さを見せた。アメリカとは引き分けたものの、対イランは6-2、ウエールズとセネガルをそれぞれ3-0で下して得点能力も高いことを示した。

イングランドは、ことし6月-7月の欧州選手権の決勝で、優勝国のイタリアに挑んだ勢いを維持していてマジで強い。優勝候補だ、と主張する人も多くいた。

だが、イタリアはイングランドに比較するともっと強く、ずっと強く、あたかも強く、ひたすら強い。

何が根拠かって?  W杯の優勝回数だ。

サッカー「やや強国」のイングランドは、ワールドカップを5世紀も前、もとへ、56年前に一度制している。準優勝は無し。つまり自国開催だった1966年のたった一度だけ決勝まで進んだ。

片やイタリアはW杯で4回も優勝している。準優勝は2度。つまり決勝戦まで戦ったのは合計6回だ。

もうひとつの重要大会、欧州選手権では、イタリアは2回の優勝と2回の準優勝。計4回の決勝進出の歴史がある。

いや~ツエーなぁ、イタリアは。

一方、イングランドはですね、 1回も優勝していません。準優勝が1回あるだけ。

3位になったことは2度あります。でも、3位とか4位とかってビリと何が違うの?

ツーわけで、イングランドの弱さはW杯と欧州杯の数字によってもウラが取れると思うのだが、果たしてどうだろうか?

あと、それとですね、前回エントリーで示したようにイングランドのサッカーは、直線的で力強く速くてさわやかでスポーツマンシップにあふれている。

へてからに、退屈。

そして、サッカーの辞書には退屈という文字はない。 だから退屈なサッカーは必ず負ける。

再び言う。イングランドが創造的なサッカーをするイタリア、フランス、スペイン、ブラジル、アルゼンチンなどに比較して弱いのはそこが原因。

ドイツに負けるのは、創造性云々ではなくただの力負けだけれど。

それはさておき、いつもイッショ懸命なイングランドはそのうち必ず再びW 杯を制するだろう。

だがそれはイングランド的なサッカーが勝利することではない。

イングランドが退屈なサッカーワールドから抜け出して、楽しく創造的な現代サッカーのワンダーランドに足を踏み入れた時にのみ実現するのである。



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イギリスの密かな自恃の痛恨

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また負けたイングランド、なぜ?

W杯準々決勝でフランスに敗れたイングランド地元は喪に服したように暗い、とイギリス人の友人から連絡があった。

それはジョーク交じりの彼の落胆の表明だったが、僕はその前にBBCの次の表現を見てくすくす笑う気分でいたので、彼のコメントを聞いて今度は本気で大笑した。

BBCはこう嘆いている:

why England cannot force their way past elite opposition at major tournaments

~イングランドはなぜ大きな国際大会で強豪国を打ち破ることができないんだろう。。~と。

僕はロンドンに足掛け5年住んだ経験がある。そこではたまにプレミアリーグの試合も観戦した。その後はプロのテレビ屋として、イタリアサッカーとそこにからまる多くの情勢も取材した。

サッカーは同時に僕の最も好きなスポーツである。少年時代には実際にプレーもした。僕は当時「ベンチのマラドーナ」と呼ばれて相手チームの少年たちを震え上がらせる存在だった。

時は過ぎて、日本、英国、アメリカ、そしてここイタリアとプータロー暮らしを続けながらも、僕は常に世界のプロサッカーに魅了されてきた。

その経験から僕は-むろん自身の独断と偏見によるものだが-なぜイングランドサッカーが大舞台で勝てないのかの理由を知っている。

ここから先の内容は過去にもそこかしこに書いたものだが、僕の主張のほとんどが網羅されているので再び記しておくことにした。

少し長いので、通常はブログほかの媒体に書く。しかし、W杯が進行していることも考慮して、敢えてここにも全文を投稿しておこうと考えた。

最後まで読んでいただければ嬉しい。

イングランドのサッカーは、直線的で力が強くて速くてさわやかでスポーツマンシップにあふれている 。

同時にそこにはアマチュアのフェアプレイ至上主義、あるいは体育会系のド根性精神みたいなものの残滓が漂っていて、僕は少し引いてしまう。

言葉を変えれば、身体能力重視のイングランドサッカーは退屈と感じる 。僕はサッカーを、スポーツというよりもゲームや遊びと捉える考え方に共感を覚えるのだ。

サッカーの文明化

サッカーがイングランドに生まれたばかりで、ラグビーとの区別さえ曖昧だったころは、身体能力の高い男たちがほぼ暴力を行使してボールを奪い合いゴールに叩き込む、というのがゲームの真髄だった。

イングランド(英国)サッカーは、実はその原始的スポーツ精神の呪縛から今も抜け出せずにいる。

彼らはその後に世界で生まれたサッカーのさまざまな戦術やフォーメーションを、常に密かに見下してきた。

サッカーにはかつてさまざまなトレンドがあった。イングランド発祥の原始人サッカーに初めて加えられた文明が、例えばWMフォーメーションである。

その後サッカー戦術の改良は進み、時間経過に沿って大まかに言えばトータルフットボール、マンマーク (マンツーマン)、ゾーンディフェンス、4-2-2フォーメーションとその多くの発展系が生まれる。

あるいはイタリア生まれのカテナッチョ(鉄壁のディフェンス)、オフサイド・トラップ、カウンターアタック(反転攻勢)、そしてスペインが完成させて今この時代には敗れ去ったと考えられている、ポゼッション等々だ。

子供の夢

イングランドのサッカーは子供のゲームに似ている。

サッカーのプレイテクニックが稚拙な子供たちは、試合では一刻も早くゴールを目指したいと焦る。

そこで七面倒くさいパスを避けてボールを長く高く飛ばして、敵の頭上を越え一気に相手ゴール前まで運びたがる。

そして全員がわーっとばかりに群がってボールを追いかけ、ゴールに蹴りこむために大騒ぎをする。

そこには相手陣営の守備の選手も参加して、騒ぎはますます大きくなる。

混乱の中でゴールが生まれたり、相手に跳ね返されてボールが遠くに飛んだり、自陣のゴール近くにまで蹴り返されたりもする。

するとまた子供たちが一斉にそのボールの周りに群がる、ということが繰り返される。

相手の頭上を飛ぶ高く速いボールを送って、一気に敵陣に攻め込んで戦うというイングランド得意の戦法は、子供の稚拙なプレーを想起させる。

イングランドの手法はもちろん目覚しいものだ。選手たちは高度なテクニックと優れた身体能力を活かして敵を脅かす。

そして往々にして見事にゴールを奪う。子供の遊びとは比ぶべくもない。

子供たちが長い高い送球をするのは、サッカーの王道である低いパスをすばやくつないで敵を攻めるテクニックがないからだ。

パスをするには正確なキック力と広い視野と高度なボール操作術が必要だ。

またパスを受けるには、トラップと称されるボール制御法と、素早く状況を見渡して今度は自分がパスをする体勢に入る、などの高いテクニックがなくてはならない。

その過程で独創と発明と瞬発力が重なったアクションが生まれる。

優れたプレーヤーが、敵はもちろん味方や観衆の意表を衝くパスや動きやキックを披露して、拍手喝采をあびるのもそこだ。

そのすばらしいプレーが功を奏してゴールが生まれれば、球場の興奮は最高潮に達する。

スポーツオンリーの競技

イングランドのプレーヤーたちももちろんそういう動きをする。テクニックも確立している。

だが彼らがもっとも得意とするのは、直線的な印象を与える長い高いパスと、それを補足し我が物にしてドリブル、あるいは再びパスを出して、ゴールになだれ込む戦法だ。

そこではアスリート然とした、速くて強くてしかも均整の取れた身体能力が要求される。

そしてイングランドの選手は誰もがそんな印象を与える動きをする。

他国の選手も皆プロだから、むろん身体能力が普通以上に高い者ばかりだ。だが彼らの場合にはイングランドの選手ほどは目立たない。

彼らが重視しているのがもっと別の能力だからだ。

つまりボール保持とパスのテクニック、回転の速い頭脳、またピッチを席巻する狡猾なアクション等が彼らの興味の対象だ。

言葉を変えれば、低い短い正確なパスを多くつないで相手のスキを衝き、だまし、フェイントをかけ、敵を切り崩しては出し抜きつつじわじわと攻め込んで、ついにはゴールを奪う、という展開である。

そこに優れたプレーヤーによるファンタジー溢れるパフォーマンスが生まれれば、観衆はそれに酔いしれ熱狂する。

子供たちにとっては、サッカーの試合は遊びであると同時に身体を鍛えるスポーツである。

ところがイングランドのサッカーは、遊びの要素が失われてスポーツの側面だけが強調されている。

だからプレーは速く、強く、きびきびして壮快感がある。だが、どうしても、どこか窮屈でつまらない。

子供のころ僕も楽しんだサッカーの手法が、ハイレベルなパフォーマンスとなって展開されるのだが、ただそれだけのことで、発見や発見がもたらす高揚感がないのである。

高速回転の知的遊戯

サッカーのゲームの見所は、短く素早く且つ正確なパスワークで相手を攻め込んで行く途中に生まれる意外性だ。意表を衝くプレーにわれわれは魅了される。

準々決勝におけるフランスの展開には、いわばラテン系特有の多くの意外性があり、おどろきがあった。それを楽しさと言い換えることもできる。

運動量豊富なイングランドの戦法また展開も、それが好きな人には楽しいものだったに違いない。

だが彼らの戦い方は「またしても」勝利を呼び込むことはなかった。

高く長く上がったボールを追いかけ、捉え、再び蹴るという単純な作業は予見可能な戦術だ。

そしてサッカーは、予測を裏切り意表を衝くプレーをする者が必ず勝つ。

それは言葉を変えれば、高度に知的で文明的でしかも高速度の肉体の躍動が勝つ、ということだ。

ところがイングランドの身体能力一辺倒のサッカーには、肉体の躍動はあるが、いわば知恵者の狡猾さが欠けている。だからプレーの内容が原始的にさえ見えてしまう。

イングランドは彼らの「スポーツサッカー」が、スペイン、フランス、イタリア、ドイツ、ブラジル、アルゼンチンなどの「ゲーム&遊戯サッカー」を凌駕する、と信じて疑わない。

でも、イングランドにはそれらの国々に勝つ気配が一向にない。1996年のワールドカップを制して以来、ほぼ常に負けっぱなしだ。

イングランドは「夢よもう一度」の精神で、1966年とあまり変わり映えのしない古臭いゲーム展開にこだわる。

継続と伝統を重んじる精神は尊敬に値するが、イングランドは本気でフランスほかのサッカー強国に勝ちたいのなら、退屈な「スポーツサッカー」を捨てるべきだ。

世界サッカーの序列

ことしのワールドカップでは、イングランドが優勝するのではないか、という多くの意見があった。イングランドが好調を維持していたからだ。

だが僕は今回もイングランドを評価せず、1次リーグが進んだ段階でも優勝候補とは考えなかった。彼らがベスト16に入った時点でさえ、ここに書いた文章においても無視した。

理由はここまで述べた通り、イングランドサッカーが自らの思い込みに引きずられて、世界サッカーのトレンドを見誤っていると考えるからだ。

イングランドサッカーが目指すべき未来は、今の運動量と高い身体能力を維持しながら、フランス、イタリア、ブラジル、スペインほかのラテン国、あるいはラテンメタリティーの国々のサッカーの技術を徹底して取り込むことだ。

取り込んだ上で、高い身体能力を利してパス回しをラテン国以上に速くすることだ。つまりポゼッションも知っているドイツサッカーに近似するプレースタイルを確立すること。

その上で、そのドイツをさえ凌駕する高速性をプレーに付加する。

ドイツのサッカーにイングランドのスピードを重ねて考えてみればいい。それは今現在考えられる最強のプレースタイルではないだろうか?

イングランドがそうなれば真に強くなるだろう。が、彼らが謙虚になって他者から学ぶとは思えない。

従って僕は今のところは、W杯でのイングランドの2度目の優勝など考えてみることさえできない。

世界サッカーの序列は今後もブラジル、イタリア、ドイツの御三家にフランス、スペイン、アルゼンチンがからみ、ポルトガル、オランダ、ベルギーなどの後塵を拝しながらイングランドが懸命に走り回る、という構図だと思う。

むろんその古い序列は、今回大会で台頭したモロッコと日本に代表されるアジア・アフリカ勢によって大きく破壊される可能性がある。

そうなった暁にはイングランドは、W杯獲得レースでは、新勢力の後塵を拝する位置に後退する可能性さえある、と僕は憂慮する。

生き馬の目を抜く世界サッカー事情

欧州と南米のサッカー強国は常に激しく競い合い、影響し合い、模倣し合い、技術を磨き合っている。

一国が独自のスタイルを生み出すと他の国々がすぐにこれに追随し、技術と戦略の底上げが起こる。するとさらなる変革が起きて再び各国が切磋琢磨をするという好循環、相乗効果が繰り返される。

イングランドは、彼らのプレースタイルと哲学が、ラテン系優勢の世界サッカーを必ず征服できると信じて切磋琢磨している。その自信と努力は尊敬に値するが、彼らのスタイルが勝利することはない。

なぜなら世界の強豪国は誰もが、他者の優れた作戦や技術やメンタリティーを日々取り込みながら、鍛錬を重ねている。

そして彼らが盗む他者の優れた要素には、言うまでもなくイングランドのそれも含まれている。

イングランドの戦術と技術、またその他の長所の全ては、既に他の強国に取り込まれ改良されて、進化を続けているのだ。

イングランドは彼らの良さにこだわりつつ、且つ世界サッカーの「強さの秘密」を戦略に組み込まない限り、永遠に欧州のまた世界の頂点に立つことはない。

いま面白いNHK朝ドラ“舞い上がれ”の大河内教官は、「己を過信するものはパイロットとして落第だ」と喝破している。

そこで僕も言いたい。

イングランドサッカーよ、古い自らのプレースタイルを過信するのはNGだ。自負と固陋の入り混じった思い込みを捨てない限り、君は決して世界サッカーの最強レベルの国々には勝てない、と。



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真に強くなりたいなら日本サッカーは新戦術を“独創”するべき


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PK戦で日本を退けたクロアチアが、強豪のブラジルも同じPK戦で下して準決勝に進んだ。

クロアチアの強さがあらためて証明された試合結果だ。

ブラジル戦の前にクロアチアが日本を破った試合では、僕はクロアチアの強さと同時に日本の強さも実感した、と強調しておきたい。

僕は日本VSクロアチア戦を日本サッカーのレベルを計る試金石として見ようとしていた。

日本がドイツとスペインに勝ったのは、まぐれとまでは言わないが、ラッキーあるいは巡り合わせの妙、といった類の出来事に感じられた。

2度続けてのフロックの可能性は極めて低い。ドイツとスペインに連続して勝ったのは日本にそれなりの力があるからだ、という考えもある。

それでも世界トップクラスの2チームと日本の力が、一挙に逆転したとは考えにくい。

一方でクロアチアなら、日本との力の差はそれほどあるとは見えない。クロアチアは98年W杯で3位になり、前回ロシア大会で準優勝までしているチームだ。

欧州の一部だからサッカーの真髄を理解し、そこから生じるプレースタイルも身に着けている。ひとことで言えば要するに日本より力量は上だ。

しかし、日本の力も最近は間違いなく伸びている。クロアチアと実力が真に拮抗している可能性も高い。

クロアチアにはモドリッチというずば抜けたテクニックと戦術眼を持つスーパースターがいるが、集団力の強い日本の特徴が彼の天才力を抑える、という見方もできた。

両チームの戦いを、僕は12月3日から6日にかけての旅の途中、アルプスの麓に近い街でテレビ観戦した。

移動中のため他の試合は見逃したり流して見ていただけだが、日本戦はさすがにしっかり見た。

日本が先制したときは、あるいは、と大きく期待した。しかし、同点に追いつかれたときはやっぱりだめだ、負ける、といやな予感がした。

負ける、とは90分以内にさらにゴールを決められて負ける、という意味である。つまるところ欧州チームのクロアチアが強いのだ、とあきらめ気味に思った。

だが日本は90分をほぼ対等に戦い、延長戦も互角に渡り合った。しかし残念ながらPK戦で敗れた。

PK戦を偶然の産物と見なしてそこでの勝敗を否定する者がいる。だがそれは間違いだ。

PK戦は90分の通常戦や延長戦と変わらないサッカーの重要な構成要素だ。PK戦にもつれ込もうが90分で終わろうが、勝者は勝者で敗者は敗者である。

現実にもそう決着がつき、また歴史にもそう刻印されて、記録され、記憶されていく。

従って日本の敗北はまぎれもない敗北だ。同時に日本とクロアチアの力は拮抗していた。90分と延長の30分でも決着がつかなかったのがその証拠だ。

僕は日本が世界最高峰のドイツとスペインを破ったことよりも、日本の実力がクロアチアのレベルに達したらしいことを腹から喜ぶ。

既述のようにクロアチアは、過去のW杯で準優勝と3位に入った実績を持つ「欧州のサッカー強国」だ。

クロアチアに追いついた日本は、物まねのポゼッションサッカーや無意味なボール回しや“脱兎走り”を忘れて、蓄積した技術を基に「独自の戦術とプレースタイル」を見出し次のW杯に備えるべきだ。

独創や独自性こそ日本が最も不得手とする分野だ。だがそれを見出さない限り、日本がW杯で飛躍しついには優勝まで手にすることは夢のまた夢で終るだろう。




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スカラ座とジョン・レノンまた聖母マリアがさんざめく時間


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毎年12月7日と決まっているスカラ座のことしの初日には、ジョルジャ・メローニ首相がマタレッラ大統領やウルズラ・フォン・デア・ライエン欧州委員会委員長らと共に顔を出した。

大統領と委員長はEU信奉者。片やメローニ首相は反EU主義者。首相になってからはEU協調路線を取っているが、腹の中は分からない。

しかしそこは大人同士。誰もが政治的立場を脇において華やかな文化イベントを楽しんだ。メローニ首相はスカラ座でのオペラ鑑賞は初めて。

アルマーニファッションに身を包み「とても緊張し同時にとても楽しみにしている」とテレビカメラに向かって率直に語った。

スカラ座の開演翌日の今日は、ジョン・レノンの命日。偉大なミュージシャンはちょうど42年前の今日、つまり1980年の12月8日にニューヨークで理不尽な銃弾に斃れた。

僕はジョン・レノンの悲劇をロンドンで知った。当時はロンドンの映画学校の学生だったのだ。行きつけのパブで友人らと肩を組み合い、ラガー・ビールの大ジョッキを何杯も重ねながら「イマジン」を歌いつつ泣いた。

それは言葉の遊びではない。僕らはジョン・レノンの歌を合唱しながら文字通り全員が涙を流した。連帯感はそこだけではなくロンドン中に広がり、多くの若者が天才の死を悲しみ、怒り、落ち込んだ。

毎年めぐってくる12月8日は、イタリアでは「聖母マリアの無原罪懐胎の祝日(festa dell'immacolata)」。

多くのイタリア人でさえ聖母マリアがイエスを身ごもった日と勘違いするイタリアの休日だが、実はそれは聖母マリアの母アンナが聖母を胎内に宿した日のことだ。

イタリアの教会と多くの信者の家ではこの日、キリストの降誕をさまざまな物語にしてジオラマ模型で飾る「プレゼピオ」が設置されて、クリスマスの始まりが告げられる。

人々はこの日を境にクリスマスシーズンの到来を実感するのである。

12月の初めのイタリアでは、スカラ座の初日と「聖母マリアの無原罪懐胎の祝日」に多くの人の関心が向かう。

イタリア住まいが長く、イタリア人を家族にする僕は、それらのことに気を取られつつもジョン・レノンの思い出を記憶蓄積の底から引き上げたりもする。

ロンドンとニューヨークとミラノは僕にとって縁深い土地だ。

ロンドンは僕の青春の濃い1ページを占め、ニューヨークは僕をプロのテレビ屋に育ててくれ、ミラノは仕事の本場になりほぼ永住地にまでなった。

僕にとって毎年12月7日から8日にかけての時間は、スカラ座開演のニュースとジョンレノンの思い出とimmacolataの祝いの話題が脳裏に錯綜する多忙な時間である。


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2022W杯は分水嶺となる重要大会かも、だぜ。

ボラ掴むネコ横長640

W杯は1次リーグが終了し決勝トーナメントに進むベスト16が決まった。

ドイツの1次リーグ敗退が大きな話題になったが、実はドイツは前回大会でも決勝トーナメントに進めなかった。

その事実からドイツの凋落が始まっていると見る向きもある。だが僕はそうは思わない。

歴史的に見て世界サッカーの最強御三家はブラジル、イタリア、ドイツだ。

最強御三家は過去に浮き沈みを繰り返しつつ存在感を示してきた。特にブラジルとイタリアがそうだった。

ドイツの絶不調は珍しいものだが、同チームは必ず立ち直って再び強くなるだろう。最強御三家の地位はまだ続く、と僕は思う。

最近W杯と欧州杯を制して気を吐いているフランスとスペインは、御三家の次にランクされる。

少なくともW杯優勝回数ではどちらも最強御三家に及ばない。フランスは1998年まで、スペインは2010年まで一度も優勝できなかった。

ほかにはアルゼンチンとウルグアイが、前回ロシア大会を制したフランス同様に過去に2度優勝している。

このうちウルグアイの栄光は過去のものになった印象があり、アルゼンチンはメッシがナショナルチームでマラドーナ並みの活躍ができず影が薄い。

フランスは初優勝の立役者ジダンに代わってエムバペ が突出してきた分、しばらく好調を維持しそうだ。

要するに世界サッカーの勢力図は未だ変わっていない。

ところが、変わってはないないものの、欧州と南米の常勝国とその他の国々の力の差がぐんと縮まっているのも事実だ。

今回大会で日本がドイツとスペインを下したのが最も象徴的だ。

サウジアラビアがアルゼンチンを破り、韓国がポルトガルに勝ち、オーストラリアがデンマークを退けたのもそうだ。

W杯ではいつの時代も番狂わせがあった。だが今回大会ほど目立つことはなかった。

そればかりではない。1次リーグで姿を消したドイツ以外の強豪も青息吐息の試合が多かった。

ブラジルもアルゼンチンも弱小国と見られた国々と拮抗する試合展開が多かった。

それどころかアルゼンチンはサウジアラビア戦で苦杯を喫した。

ブラジルもカメルーンに敗れた。それはネイマール欠場が原因ではなく、単純にカメルーンが強かったから負けたと見えた。

スペインも初戦でコスタリカを一蹴したのはいいが、周知のように日本に負けた。

御三家のひとつイタリアに至っては、1次リーグどころか前回も今回も予選で沈んで本大会には顔出しさえしていない。

2022年W杯カタール大会は将来、世界サッカー勢力図の分水嶺と看做されるようになる気がしてならない。



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型の「型ぐるしさ」は人間をロボットにする


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衛星を介してNHKの番組をよく見る。なかでもニュースはほぼ毎日欠かさずに見ている

時間がないときは録画してでも見る番組もある。日本ではBS1で放送され、総合テレビの深夜にも再放送されているらしい「国際報道2022」である。2014年に始まり毎年年号だけを変えて続いている。

この番組は世界各地のニュースをまとめて掘り下げて見せる、NHKならではの見甲斐がある内容だから、外国に住む身としては親近感も覚える。

同時に僕はBBCCNNEuroNewsAl Zzeeraなどの英語放送とイタリアのNHKであるRAIの報道番組等も欠かさず見ている。なので「国際報道2022」を情報収集というより“日本人による世界の見方”という観点で注視することが多い。

番組の内容は世界中に張り巡らされたNHKの取材網を駆使して構成され面白く深い。だがそれを伝えるスタジオの構成に違和感を覚える。

このことは2017年に番組のメインキャスターになった花澤雄一郎記者にからめても書いた

それは物知りの兄貴に教えを請うおバカな妹、という設定への疑問だ。花澤キャスター時代に始まり、次の池畑修平キャスター時代へと受け継がれた。

設定は相変わらずだったが、池畑キャスターはもしかすると時代錯誤な設定への疑問が内心あったのではないか、という雰囲気が感じられた。

それでも番組の構成が変わることはなかった。ちなみにおバカな妹役のサブキャスターは増井渚アナから酒井美帆アナへと変わった。

油井秀樹キャスターに変わってから国際報道には別の不穏な仕様も加わった。

番組の冒頭で、カメラに向かって斜めに並び立っている3人のキャスターが、次のカットで切り替わるカメラに向かって回れ右をする。

その動きが3人共に完璧でまるでロボットのように少しのズレもない。日本的な完全無欠の動作だが、とても違和感がある。忌憚なく言えばほとんど滑稽だ。

カットはその日のニュース項目を表示するために成される。カメラを引いて大きくなった画面に項目をスーパーインポーズするのである。

だがそのシーンは、3人の出演者が「ロボット的」という以外には何の豊かさも番組にもたらさない。項目を表示したいなら初めから画面を広げておくなど、幾らでも方法はある。

珍妙なシーンが毎回繰り返されて飽きないのは、制作者が滑稽に気づかず且つ3人の動きが「型」として意識されているからだと考えられる。

「型」になった以上、それは自由よりもはるかに重要な要素と見なされるのが日本社会であり、日本的メンタリティーだ。

型の奇怪さは多々あるが、例えば教会での結婚式の際のバージンロードの歩き方などもそうだ。

バージンロードという和製英語はさておき、絨毯を父親と花嫁が歩く際に一歩一歩を型にはめて歩くのは珍妙だ。結婚式場業界が作った型にからめとられているのが悲しい。

結婚式はドラマだからそれでいいという考えもあるかもしれない。だが、不自然すぎて居心地が悪い。

確かに結婚式は晴れ舞台だが、型が肝心の歌舞伎や能などの芸能舞台ではないのだから、型にはめずに自由に動くほうがいい。

型には型の美しさがある。だが「型を破る」という型もあることを認めて、もう少し精神や発想の自由を鼓舞するほうが人間らしいし、より創造的だ。

型にこだわり過ぎる「国際報道2022」のオープニングは、「報道のNHK」の一角を担う重要な番組の絵造りとしては寂しい、と毎回違和感を覚えつつ見るのはかなり辛い。



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スペインサッカーの美しさは完璧な勝利の方程式ではないが勝利よりも楽しかったりする


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W杯出場チームの全てが顔出しを終え、1次ラウンドがさらに進行している11月30日の時点で、僕最も注目しているのはスペイン代表だ。

スペインは初戦、7-0の大差でコスタリカを下した。スコアも驚きだが試合内容はもっと驚きだった。しばらく鳴りを潜めていたスペインの華麗で強いサッカーが蘇えったと見えたからだ。

そこではポゼッションサッカーの弱点である自陣でのボール回しが最小限に抑えられて、逆に敵陣内では最大限に発揮される理想の形が完成していた。

スペインは徹頭徹尾ポゼッション・サッカーにこだわる得意の戦術によって、2008年の欧州選手権、2010年のワールドカップ、2012年の欧州選手権と次々に制覇した。

当時のスペインチームにはシャビとイニエスタという天才プレーヤーがいて、ボール保持を最大限に維持しながら、ティキ・タカの速いパス回して相手を縦横にかく乱した。

だがその後は世界中のチームが彼らの手法を研究し、真似し、進歩さえさせて、じわじわとスペインへの包囲網を築いた。

イタリア、ドイツ、フランスなどの欧州の強豪国は特に、彼ら独自の伝統的な戦術にポゼッションサッカーを絡ませて磨き、ほぼ自家薬聾中のものにした。

そして2014年、ドイツが隆盛を極めていたスペインサッカーを抑えてW杯を制覇した。

続いて2016年の欧州選手権ではポルトガルが、2018年のW杯ではフランスが最後まで勝ち進んでスペインを退けた。

そして仕上げには、2020年((コロナ禍で21年に延期))の欧州杯をイタリアが制して、スペインのポゼッションサッカーの時代が終わった。

そこに至るプロセスは、シャビとイニエスタが第一線から退いていく時間ともほぼ重なっていた。

ところが衰滅したはずのその美しいポゼッションサッカーが、カタールW杯で復活したように見えるのだ。

初戦では偉大なシャビとイニエスタに代わって、18歳と19歳の天才プレーヤー、ガビとペドリが躍動した。

2人はまるでシャビとイニエスタの生まれ変わりのようだ。

コスタリカ戦ではペドリはパス回しの中核として動き、ガビはそこに絡まる一方で最年少選手記録に近いゴールまで決めた。

彼らの出現でスペインサッカーは、一昔前の黄金時代に回帰しつつあるのかもしれない。

スペインは11月27日、ドイツとの第2戦を1-1で引き分けた。

歴史的に見ればスペインを上回る実力を持つドイツは、スペインのボール保持と高速のパス回しに翻弄されながらもどうにか引き分けに持ち込んた。

スペインは7ゴールを決めたコスタリカ戦ほどの爆発は見せなかったが、ボール保持と素早いパス回しの戦術は健在だった。

今後彼らがポゼッションサッカーを武器に大会を席巻するのかどうか、僕はわくわくしながらTV観戦を続けようと思う。

ところで、11月30日現在で見る今回大会の優勝候補は僕の見立てでは:

スペイン、ブラジル、フランスが筆頭。もしもドイツが1次ラウンドを突破すれば、ドイツも彼らに迫る活躍をしそうだ。

4チームに続くのは強い順に、アルゼンチン、ポルトガル、オランダ、ベルギー、イングランド、ウルグアイと見る。

ゲームの予測を立てるのはほとんどの場合ムダである。

確率論に基づけばある程度の正しい方向性は見つかるのだろうが、選手とチームの心理的要素や偶然性が試合展開に大きくかかわるから、正確な予測は誰にもできない。

それでも人は予測を立てたがる。予測をすることが、ゲームそのものを見るにも等しいくらいに楽しい行為だからだ。

当たるも八卦、当たらぬも八卦。当たれば嬉しく、当たらなければ無責任に何もなかった振りをする。

そんなわけで、僕もサッカー好きな者の常で予測を立てておき、あとはほっかむりを決め込むことにした。










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日本がW杯を制するかも、かい?

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W杯初戦で日本がドイツを破ったのは嬉しい驚きだった。

その前日、サウジアラビアがアルゼンチンに勝ったのを受けて、僕は明日は日本がドイツを撃破するだろう、とSNSに投稿した。

それはジョークのつもりだった。サウジアラビアVSアルゼンチンの結果はほとんど衝撃だった。そんな事態が2日連続で起きるとは正直考えなかった。

いわば、ゲンかつぎをこめて言ったのだが、ゲンをかつぐのが意味を成さないほどドイツと日本の実力の差は大きい、というのもまた偽らざる心境だった。

日本の勝利をフロックと見るかある程度の実力の反映と見るかは、個人のサッカー理解度で違ってくる。

日本が勝ったのは公平に見て番狂わせの類だと僕は思う。

陳腐な言い方をすれば、日本は勝負に勝ったものの試合内容では完全にドイツに負けていた。

ほぼ全試合を通してドイツに主導権を握られ、パス回しができず日本独特の“脱兎走り”を繰り返した。

むやみに走り回るのはパス回しができないからだ。そしてパス回しができないのは、実力がないからだ。それが日本の現実である。

はなから日本をなめてかかっていたドイツは、彼らがボールを保持して戦況を支配し、その結果日本が高速回転で右往左往するのを見て、ますます思い上がった。

とどのつまり、ペナルティキックで一点を先取しただけで、その後はゴールを割ることができなかった。詰めが大甘に甘かった。

それでも攻めまくられる日本にとっては、ドイツは前半の全てで大山のように巨大に見えた。

後半は日本にとってさらに惨めな展開になることが予想された。

その後半でもドイツは落ち着いていた。テクニックと戦略と試合展望でやはり日本を圧倒していた。だが彼らはゲームを決定的な展開に持ち込めなかった。

日本がじわじわと攻勢に転じ始めたとき、彼らは初めて危機感を抱くように見えた。あわてて気を引き締めようとしたが時は遅かった。

日本は泥臭い動きながら果敢に攻めて、後半30分に同点に追いついた。そこでドイツのパニックが頂点に達した。

ドイツのディフェンスは平常心を失った。パニックはミスを招く。彼らは日本の攻撃に耐え切れず、後半38分ついに日本逆転のゴールを許した。

日本のサッカーは確実に強くなっている。だがドイツの域に至るのはまだ先だ。それは疑いのない現実だ。そうはいうもののW杯では何が起こるかは分からない。

日本が優勝するのはさすがに難しいだろうが、ドイツを蹴散らした勢いでかなり勝ち進む可能性が出てきた。

だがそれ以上に、ドイツが目覚めて2戦目以降に強さを発揮しそうな雰囲気も生まれた。

日本VSドイツ戦の次に試合に臨んだ、強豪スペインの圧倒的な強さを見て僕はそう感じた。

つまりドイツは弱小日本に敗れてショック療法風に覚醒し、ライバルのスペインの華麗なサッカーを見て「負けてなるか」と奮起するのではないか。

そうなったらドイツは手がつけられなくなるほど強くなる。それはW杯が盛り上がることを意味する。

これまでの試合ではスペインだけが順当に実力を発揮している。フランス、ベルギー等は陳腐な戦いに終わり、アルゼンチンは敗北。続いてドイツも沈んだ。

次の大物ブラジルがどんな試合運びを見せるか楽しみにしつつ、僕は強豪チームの奮起を心待ちにしている。

予選でコケたイタリアがいないのが寂しいが、日本がこのまま勝ち進めば、その寂しさを補って余りある展開になるだろう。

わくわくドキドキの日々が見える。



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