【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

大盗インファンティーノの落ち行く先

インファンティーノ&トランプ

FIFA(国際サッカー連盟)のインファンティーノ会長は、 トランプ大統領に謎の平和賞を送り、同じ大統領に忖度して米国選手の出場停止を白紙に戻す、などの破廉恥行為を行って大きな批判を浴びた。

彼はその後さらに、トランプ氏の娘婿の弟が率いる投資ファンドと結託して、W杯の商業権利を売却しようとも画策。

それに対するブーイングが高まると、計画を撤回するなどしたトンデモ男である。

FIFA会長の権力への過激な阿諛も、金の亡者振りも不快だが、僕は個人的に彼がW杯出場チーム数を48に増やし、さらに64に拡大する画策をしていることにも強い違和感を覚える。

彼は出場枠拡大の理由を、世界中すべての国に出場権という夢と育成の機会を与える、と強弁するがフェイクニュースよりもフェイクなプロパガンダだ。

なぜなら世界中のすべての国は、それぞれの地域で予選を介して大会に参加している。

あたかも勝ち進んだものだけが出場しているような印象操作をするのは、彼が規模拡大でFIFAや加盟協会への分配金や収益性を高めたい本音を隠す意図があるからだ。

出場枠を拡大するのはワインに水を加えて量を嵩上げするようなものだ。ワインの質はガタ落ちして品質を損なう。サッカーの弱小国が奇妙な制度トリックで本大会に出るのはつまらない。

その意味でも僕は、インファンティーノ会長の退任を期待する。金儲けを第一に大会運営を考えたがる彼は、明らかにサッカーの喜びを知らない男だ。



facebook:masanorinakasone












高市早苗というぶりっこ妖女はやはりどうしても見苦しい

9条焼く横長594

被災地訪問でも味噌をつけたという反高市派と、飽くまでも彼女の動きを称賛したいネトウヨヘイト系“高市命”陣営のバトルが絶えない。

が、そもそも被災者を見舞って批判されること自体が、高市首相の不徳を如実に示しているのではないか。

僕は彼女の重ねた、さらなる不徳にも目を奪われている。

先日来、ジャーナリストの田原総一朗氏が、若かりし頃の高市首相に「無知だ、議員を辞めろ」という趣旨の罵詈を投げつける映像が、ネット上で盛んに躍っている。

満州事変から太平洋戦争に至る日本の侵略行為を、「自衛のための戦争」と主張する高市氏に腹を立てた田原氏が声を荒げる場面だ。

高市首相は議員1年生の頃、当時の村山首相に戦争被害国に勝手に謝るなと迫ったり、 私は戦争の当事者世代ではないから反省しないし、反省を求められるいわれもない、と述べるなどした。

彼女は根っからのファシスト風民族主義者であり救い難い歴史修正主義者なのである。

従って彼女を含む日本極右十八番の、“侵略ではなく自衛のための戦争だった”や“アジア解放闘争だった”などというと詭弁は少しも目新しいものではない。

目を瞠らずにはいられないのが、そこでの高市氏のリアクションだ。

彼女は田原氏に罵倒されながら小首を傾げ、目をパチクリさせ、瞬きを繰り返すなどしてぶりっ子全開モードで田原氏に対するのである。

僕は高市首相誕生以来、日本初の女性首相を必要以上に女性という属性を強調してフィルターにかけ、語ることを避ける努力をしてきた。秘めた女性差別の現れと捉えられかねないからだ。

そうすることは彼女の品性が例えいかなるものであれ、日本初の女性首相となった人物を強く尊重することでもあった。

だが彼女は、僕の密かな努力には全く値しない人間であることがそこでは明らかになった。

田原氏は上から目線で高市氏を罵倒している。彼女は女性で、若く、確かに少し勉強不足のように見える。だからと言って田原氏や彼の同僚ジャーナリストが、上から目線で高市氏を罵倒することは当たらない。

田原氏側の苛立ちは僕のそれでもあるのだが、しかし、上から目線の悪口雑言はまともな議論とは言い難い。

ところが高市氏はそのことに怒らない。怒らないのは彼女が田原氏らの侮辱の本質に全く気付いていないからだ。

怒るどころか彼女は、既述のように目をパチクリ開けたり瞬きを繰り返して、無邪気な愛くるしい女性あるいは可憐無知な可愛い妹役を演じて恥じないのだ。

その絵は残念ながらある種の日本人女性の、すさまじいばかりの蒙昧パープリンぶりを象徴している。

高市氏は歴史修正主義論に絡めとられた愚者であるばかりではなく、男に理不尽に見下されてもヘラヘラ諂笑 しているだけの前近代的な未開人女性であることを図らずも全身で告白している。

それだけでも批判されるべきだが、彼女は加えて、そこらに転がっているネトウヨヘイト系のファシストらと何も変わらない反動右翼であることで、いよいよ日本の敵、即ち反日の危険人物であることが明らかになる。

高市早苗こと虚言癖倶楽部代表幹事の主体は確信犯的な歴史修正主義であり、天皇制ファシズム容認であり、戦前戦中への回帰願望などという恐るべき超国家主義体質だ。

不気味、という以外には言葉がない。




facebook:masanorinakasone





イングランドサッカーはBrexitとBBCと同じ穴のムジナの悲劇である

sfondo-di-calcio_1048-8174

W杯も終わり、サッカー絡みのムダ話はいったん切り上げ、と考えていたらイングランドサッカーを弱いというあなたの意見は主観的で納得できない、という趣旨の「いつもの」メッセージをいくつかいただいた。

また なぜサッカーイングランドにこだわるのかという問いもあった。

それらのメッセージに応える意味もかねて書ておくことにした。

サッカーは、たかがサッカー。されど。。・・たかがサッカー。というのが僕の捉え方である。

それは世界を席巻するファンタジスタ・サッカーあるいはラテンサッカーの代名詞である、とも僕は考えている。

イングランド人は、サッカーは「たかがサッカー、されど、サッカー」と石部金吉に考えている。結果、彼らはサッカーを純粋スポーツと見做して、シャカリキになって体を鍛え身体能力を極限まで高める。

彼らは強いフィジカルを目いっぱい使って速い、高い、構造的に強力なプレーをする。それは見ていてすがすがしいものだが退屈でもある。

そして退屈なサッカーは必ず負ける。彼らはそうやって1966年以降、きっちり60年も負け続けて(優勝から遠ざかって)いる。

イングランドにはサッカーの発祥地としての強烈なプライドがある。サッカーを公正と誠実が核の「真のスポーツ精神」の象徴として神聖視し、「サッカーの母国」として、絶対に世界基準を認めず自らのやり方を優先する驕慢さを持ち続けている。

イングランドは、同じくサッカーが同地で誕生したことを楯に、優勝杯はイングランドに帰還するべき、とさえ考え執拗にそう主張する。

しかも優勝は、サッカーを発明したイングランドの戦法と哲学によって為されるのがあたりまえであり、必ずそうなると全身全霊で思い込んでいる。

それはW杯と並ぶ欧州選手権に於いても同じ。イングランドは欧州選手権では一度も優勝できていないにもかかわらず、自らの優越性を信じて疑わないのである。

イングランドのメディアは、なぜイングランドは欧州や南米の強豪チームに勝てないのか、という論戦をこれでもかとばかりに提起し、論じ、主張し続ける。

それを見ていると、彼らの論理がイングランドのアプローチと理念が至高であり勝てないのは何かの偶然、いわば悪魔の意地悪なジョーク、とでもいうようなニュアンスで固められているのが分かる。

要するに彼らは、他の多くの事案と同様に胸奥で自らが最も優れていると密かに思い込んでいる。つまりは大英帝国の栄光が忘れられないのだ。

それ故に、彼らをいつも木端微塵に打ち負かすファンタジスタサッカー、あるいはラテンサッカーの優位性を認めて、それに倣うということができない。

僕はイングランドのそうした思い上がりに強い違和感をもつ。だから彼らのサッカーにこだわるのである。

イングランドサッカーの弱点は、その精神がBrexitBBCと同じかつての大英帝国の栄光にすがる自己撞着の肥大した自尊メンタリティーにがんじがらめに縛られているところにある。

イングランド人のそうした噴飯かつ不快なメンタリティーはあらゆるところで「今この時」も変わらずに発揮される。

例えば大事件のBrexit(イングランドが主体の英国のEU離脱)も、大英帝国の往年の輝きを忘れられない、特に高齢者層が、英国の優越と特権意識に絡めとられて激しく主張した結果実現した。

Brexitは、自国が他のEU構成国と同等ではなく、世界を主導する特別な存在であるという英国独特の「大英帝国の栄光」幻想にからめとられた、いつもの優越意識から発した誤謬である。

欧州連合(EU)の官僚機構の縛りから解放され「自国だけで何でも決定できる」という唯我独尊の主権へのこだわりも大きな原動力となった。

イングランドのもう一つの象徴であるBBC(英国放送協会)は、自らを「客観中立の絶対的基準」と位置づけ、世界的な信頼を獲得してきた。

BBCは法的に「不偏不党(impartiality )」を義務付けられた公共放送だ。組織としての公式な「本心」や特定の政治信条を持つことは想定されていない。中立性を保つことが制度上の使命だ。

だが近年は、政府からの圧力と個人の表現の自由、そして「中立性」の定義をめぐって激しい混乱に陥っている。分断が深まる現代社会においては「完璧な中立」など存在しないという現実に直面し、右派からも左派からも批判され、自らの理想の重圧でアイデンティティが揺らいだ。

公平性を金科玉条とするBBCのメディア力は疑いないものだが、 中立や伝統を過度に神格化する大英帝国の亡霊の組織文化が逆に足かせになって、Brexitのような重大な局面でも、中立と不偏不党を隠れ蓑に事実報道をするばかり。ついに自らの信条も主張も披歴しなかった。

結果、Brexit推進派と反対派両方からの批判に晒された。

イングランドを中核とする英国民は、Brexit派の出鱈目な主張にまどわされて、BBCの本心とは逆のEU離脱という取り返しのつかない結果を招いた。

開明性を誇るBBCBrexitに反対しないならば、それは虚偽でありフェイクである。なぜならBrexitは、大英帝国の失われた栄光を振りかざす時代錯誤な精神が招いた固陋迷妄な出来事だったからだ

ブレグジット、BBC、そしてイングランドサッカーの根底には、いずれも過去の栄光や例外主義に固執する「大英帝国の誇りの残滓」という共通の心理的構造がある。

イングランドサッカーがファンタジスタサッカーあるいはラテンサッカーにどうしても勝てないのは、個々の戦いのディディールではなく、根深く執拗なその心理構造故の悲劇なのである。




facebook:masanorinakasone



たかがサッカー、されどサッカー?


ピッチ見下ろすカメラ

サッカーは楽しい。



サッカーは

「たかがサッカー。されど、サッカー」

と考えると、イングランド風サッカーになる。



僕は

「サッカーはたかがサッカー。されど、たかがサッカー」

と捉える。



するとそれは、イタリア風サッカーになる。



イタリア風は、スペイン・フランス・ポルトガル・ブラジル・アルゼンチンなどに通じる。つまりラテンサッカーである。



ラテンサッカーは強い。



ラテンじゃなくゲルマン系で、どちらかと言えばイングランドに近いのに強いドイツサッカーは、イングランド的強靭なフィジカルにラテンの柔軟と遊びとフルボメンタリティー(抜け目がない知恵者・したたか・食えない奴などの意)をまとっているからである。



言葉を替えればドイツサッカーは、イングランドと違って謙虚なのである。



片やイングランドサッカーは、自らのプレースタイルとサッカー哲学を至上のものと考える朴念仁&思い上がりの肉体運動から抜け出せないでいる。



だから彼らは強そうに見えて永遠に弱いのである。



ここまでの僕の話に過剰に反応してカッカしたり、眉を顰めたり、混乱したりした人に再び言おう。



サッカーは、たかがサッカー。



されど。。。やっぱり、たかがサッカー。。なのである。





facebook:masanorinakasone



W杯決勝が常にアドレナリン全開のエンタメになるとは限らない

ボール中にスペインvsアルゼンチン650

W
杯決勝のスペインvsアルゼンチン戦は、前回大会の決勝戦とは似てもにつかないものだった。

4年前、カタール大会でのフランスvsアルゼンチンの激突について僕は次のな趣旨の思いを書いた

===

深い悲しみ、怒り、喜びなどの感情の奔流の前には言葉は存在しない。

そのとき人はただ泣き、叫び、哄笑するだけである。つまり感情の激流は言葉を拒絶する。

感情が落ち着いたとき初めて人は言葉を探し言葉によって自らの感情を理解しようとし、他者にも伝えようとする。

それが表現であり文学である。

W杯決勝戦のフランスVSアルゼンチンを、人の深い感情になぞらえて、言葉が存在し得ないほどの劇的なせめぎあいだったと言えば、それは少し言葉が過ぎるかもしれない。

しかし、試合はそんな言い方をしても構わないのではないか、と思えるほどの驚きと興奮と歓喜にあふれた世紀のショーだった。

人が書くドラマには伏線とどんでん返しがある。だがそれは筋書に沿った紆余曲折である。

サッカーのゲームには筋書がない。それは世界トップクラスの選手たちが、彼ら自身も知らない因縁に導かれて走り、飛び、蹴り、躍動する舞台である。

ドラマを紡ぎ出す因縁はしかし、神によって描かれた予定調和ではない。一流のアスリートたちが汗と泥にまみれて精進し、鍛え、苦しみ、闘い抜いた結果生まれる展開だ。

2022W杯の決勝戦におけるドラマのほとんどは、両チームのスーパースターによって生み出された。

アルゼンチンはメッシ、フランスは若きエースのエンバペである。

2人はゴールをアシストし、ゲームを構築しつつ相手ディフェンダーたちを引きつけて味方のためにスペースを作り、パスを送りパスを受けて攻撃の起点となって躍動した。

そして何よりも重要なのは、彼ら自身が次々とゴールを決めたことだ。それは眼を見張るような劇的な働きだった。

特にアルゼンチンのメッシの活躍は世界サッカーの歴史を書き換える重要なものになった。

メッシがは今回大会では見違えるような動きをした。彼はマラドーナが1986年のW杯をほとんどひとりで勝ち進んだ雄姿をも髣髴とさせるプレイを見せた。

人によって多少の評価の違いはあるだろうが、メッシはW杯前の時点で数字的には既にマラドーナを凌駕していた。

だが彼のキャラクターはマラドーナほどには民衆に愛されない。

それは例えばかつて日本のプロ野球で、2大スターの長嶋と王のうち、成績では王が断然勝っているものの、人気では長嶋が王を圧倒してきた事例によく似ている。

民衆は完璧主義者の王よりも、明るくハチャメチャな雰囲気を持つ長嶋に心を惹かれてきた。マラドーナはアルゼンチンの長嶋でメッシは王なのである。

だが歴史が進行し、選手たちの生の人間性への興味が失われたときには、彼らが残した数字がクローズアップされるようになる。

そのときに真に偉大と見なされるのは成績の勝る選手である。

メッシはその意味で将来、文字通りマラドーナもペレをも凌ぐ史上最高のサッカー選手と規定されることが確実である。

===

今回のスペインvsアルゼンチンの決勝戦は無得点のまま延長戦にもつれ込んだ。

スペインの圧倒的なボールポゼッションとアルゼンチンの堅守がぶつかって、両者一歩も譲らない膠着状態となったのだ。

そうした中、スペインのヤマルが天才プレーヤーの片鱗を示すアクションを幾つも見せた。

だが一方のレジェンドのメッシは、ついに沈黙を保ったままだった。

ゲームはポゼッションサッカーが時として批判される典型的な形、つまり技術は高いものの、エンターテインメントとしては平坦で退屈、という展開になった。

サッカーにあまりなじみのないファンには、あるいはそれは「ハイレベルの超絶凡打線」のように見えたかもしれない。

しかし最終的にスペインが1-0で勝利したイベントは、実は、世界最高峰の戦術とテクニックと緊張感が交錯した末の結果だったのである。




facebook:masanorinakasone





イングランドのマインドコントロールの行方

メッシ肩車650

加筆再録


W杯準決勝でイングランドがアルゼンチンに負けたのは、トゥヘル監督の采配ミスという論説が大手を振って歩いている。

イングランドが先制した後、守りに入った戦術が間違い、という訳である。

後付けのもっともらしい解説だが、それを言う者はイングランドが1-0で逃げ切っていたなら、監督の采配をベタ褒めしていたことだろう。

イングランドが勝てないのは、つまり優勝できないのは、一戦一戦のディティールの問題ではなく、深い心理マインドのなせる業というのが僕の一貫した主張である。

監督の采配の是非を語るのは、今回大会の場合ブラジルのアンチェロッティのケースの方がよっぽど重大で興味深い。

イタリア人のアンチェロッティは一流の常勝監督だが、ネイマールを招集しながら彼をベンチに温存するという戦術を採って、準々決勝で敗れ去った。彼の大ポカである。

メッシやエムバペにも匹敵するファンタジスタを控えに回した彼の作戦は、常勝監督という自らの立場を過信した愚かな動きだった。

イングランドが過去60年間ほぼ常に優勝候補とみなされながら、また実際にベスト4に2回、ベスト8に4回進出しながらどうしても優勝できないのは、彼らがサッカーを飽くまでもスポーツと見做す悪魔のマインドコントロール下にあるから、というのが僕の考えだ。

僕はロンドンに足掛け5年住んだ経験がある。そこではたまにプレミアリーグの試合も観戦した。その後はプロのテレビ屋として、イタリアサッカーとそこにからまる多くの情勢も取材した。

サッカーは同時に僕の最も好きなスポーツである。少年時代には実際にプレーもした。僕は当時「ベンチのマラドーナ」と呼ばれて相手チームの少年たちを震え上がらせる存在だった。

時は過ぎて、日本、英国、アメリカ、そしてここイタリアとプータロー暮らしを続けながらも、僕は常に世界のプロサッカーに魅了されてきた。

その経験から僕は-むろん自身の独断と偏見によるものだが-なぜイングランドサッカーが大舞台で勝てないのかの理由を知っている。

イングランドのサッカーは、直線的で力が強くて速くてさわやかでスポーツマンシップにあふれている 。

同時にそこにはアマチュアのフェアプレイ至上主義、あるいは体育会系のド根性精神みたいなものの残滓が漂っていて、僕は少し引いてしまう。

言葉を変えれば、身体能力重視のイングランドサッカーは退屈と感じる 。僕はサッカーを、スポーツというよりもゲームや遊びと捉える考え方に共感を覚える者だ。

サッカーの文明化

サッカーがイングランドに生まれたばかりで、ラグビーとの区別さえ曖昧だったころは、身体能力の高い男たちがほぼ暴力を行使してボールを奪い合いゴールに叩き込む、というのがゲームの真髄だった。

イングランド(英国)サッカーは、実はその原始的スポーツ精神の呪縛から今も抜け出せずにいる。

彼らはその後に世界で生まれたサッカーのさまざまな戦術やフォーメーションを、常に密かに見下してきた。

サッカーにはかつてさまざまなトレンドがあった。イングランド発祥の原始人サッカーに初めて加えられた“文明”が、例えばWMフォーメーションである。

その後サッカー戦術の改良は進み、時間経過に沿って大まかに言えばトータルフットボール、マンマーク (マンツーマン)、ゾーンディフェンス、4-2-2フォーメーションとその多くの発展系が生まれる。

あるいはイタリア生まれのカテナッチョ(鉄壁のディフェンス)、オフサイド・トラップ、カウンターアタック(反転攻勢)、そしてスペインが完成させて今この時代には敗れ去ったと考えられている、ポゼッション等々だ。

子供の夢

イングランドのサッカーは子供のゲームに似ている。

サッカーのプレイテクニックが稚拙な子供たちは、試合では一刻も早くゴールを目指したいと焦る。

そこで七面倒くさいパスを避けてボールを長く高く飛ばして、敵の頭上を越え一気に相手ゴール前まで運びたがる。

そして全員がわーっとばかりに群がってボールを追いかけ、ゴールに蹴りこむために大騒ぎをする。

そこには相手陣営の守備の選手も参加して、騒ぎはますます大きくなる。

混乱の中でゴールが生まれたり、相手に跳ね返されてボールが遠くに飛んだり、自陣のゴール近くにまで蹴り返されたりもする。

するとまた子供たちが一斉にそのボールの周りに群がる、ということが繰り返される。

相手の頭上を飛ぶ高く速いボールを送って、一気に敵陣に攻め込んで戦うというイングランド得意の戦法は、子供の稚拙なプレーを想起させる。

イングランドの手法はもちろん目覚しいものだ。選手たちは高度なテクニックと優れた身体能力を活かして敵を脅かす。

そして往々にして見事にゴールを奪う。子供の遊びとは比ぶべくもない。

子供たちが長い高い送球をするのは、サッカーの王道である低いパスをすばやくつないで敵を攻めるテクニックがないからだ。

パスをするには正確なキック力と広い視野と高度なボール操作術が必要だ。

またパスを受けるには、トラップと称されるボール制御法と、素早く状況を見渡して今度は自分がパスをする体勢に入る、などの高いテクニックがなくてはならない。

その過程で独創と発明と瞬発力が重なったアクションが生まれる。

優れたプレーヤーが、敵はもちろん味方や観衆の意表を衝くパスや動きやキックを披露して、拍手喝采をあびるのもそこだ。

そのすばらしいプレーが功を奏してゴールが生まれれば、球場の興奮は最高潮に達する。

スポーツオンリーの競技

イングランドのプレーヤーたちももちろんそういう動きをする。テクニックも確立している。

だが彼らがもっとも得意とするのは、直線的な印象を与える長い高いパスと、それを補足し我が物にしてドリブル、あるいは再びパスを出して、ゴールになだれ込む戦法だ。

そこではアスリート然とした、速くて強くてしかも均整の取れた身体能力が要求される。

そしてイングランドの選手は誰もがそんな印象を与える動きをする。

他国の選手も皆プロだから、むろん身体能力が普通以上に高い者ばかりだ。だが彼らの場合にはイングランドの選手ほどは目立たない。

彼らが重視しているのがもっと別の能力だからだ。

つまりボール保持とパスのテクニック、回転の速い頭脳、またピッチを席巻する狡猾なアクション等が彼らの興味の対象だ。

言葉を変えれば、低い短い正確なパスを多くつないで相手のスキを衝き、だまし、フェイントをかけ、敵を切り崩しては出し抜きつつじわじわと攻め込んで、ついにはゴールを奪う、という展開である。

そこに優れたプレーヤーによるファンタジー溢れるパフォーマンスが生まれれば、観衆はそれに酔いしれ熱狂する。

子供たちにとっては、サッカーの試合は遊びであると同時に身体を鍛えるスポーツである。

ところがイングランドのサッカーは、遊びの要素が失われてスポーツの側面だけが強調されている。

だからプレーは速く、強く、きびきびして壮快感がある。だが、どうしても、どこか窮屈でつまらない。

子供のころ僕も楽しんだサッカーの手法が、ハイレベルなパフォーマンスとなって展開されるのだが、ただそれだけのことで、発見や発見がもたらす高揚感がないのである。

準決勝での先制点が、ケインの空飛ぶ長いパスを基点に生まれたのが象徴的だった、その後イングランドは沈黙し、アルゼンチンはメッシのファンタジー溢れるプレーでイングランドを翻弄した。

高速回転の知的遊戯

サッカーのゲームの見所は、短く素早く且つ正確なパスワークで相手を攻め込んで行く途中に生まれる意外性だ。意表を衝くプレーにわれわれは魅了される。

もう一つの準決勝、フランスvsスペイン戦では、いわばラテン系特有の多くの意外性があり、おどろきがあった。それを楽しさと言い換えることもできる。

運動量豊富なイングランドの戦法また展開も、それが好きな人には楽しいものだったに違いない。

だが彼らの戦い方は「またしても」勝利を呼び込むことはなかった。

飽くまでもイングランドプレーの印象だが、高く長く上がったボールを追いかけ、捉え、再び蹴るという単純な作業は予見可能な戦術だ。

そしてサッカーは、予測を裏切り意表を衝くプレーをする者が必ず勝つ。

それは言葉を変えれば、高度に知的で文明的でしかも高速度の肉体の躍動が勝つ、ということだ。

ところがイングランドの身体能力一辺倒のサッカーには、肉体の躍動はあるが、いわば知恵者の狡猾さが欠けている。だからプレーの内容が原始的にさえ見えてしまう。

イングランドは彼らの「スポーツサッカー」が、スペイン、フランス、イタリア、ブラジル、アルゼンチンなどの「ゲーム&遊戯サッカー」を凌駕する、と信じて疑わない。

でも、イングランドにはそれらの国々に勝つ気配が一向にない。1966年のワールドカップを制して以来、ほぼ常に負けっぱなしだ。

イングランドは「夢よもう一度」の精神で、1966年とあまり変わり映えのしない古臭いゲーム展開にこだわる。

継続と伝統を重んじる精神は尊敬に値するが、イングランドは本気でフランスほかのサッカー強国に勝ちたいのなら、退屈な「スポーツサッカー」を捨てるべきだ。

世界サッカーの序列

今回のワールドカップでも、イングランドが優勝するのではないか、という多くの意見があった。イングランドが好調を維持していたからだ。

イングランドは、見方によってはワールドカップ以上に需要で面白い欧州選手権でも、いいところまで行くが優勝できない。ここ2大会は連続して決勝で敗退している。

僕は今回大会でももイングランドを評価せず、1次リーグが進んだ段階でも優勝候補とは考えなかった。だが彼らが準々決勝でノルウェーに勝った試合を観て、お、と目を瞠った。

その試合で2点を入れたべリンガムが、もしかするとメッシやエムバペの域に近づきつつある真正の“ファンタジスタ”かもしれないと思ったのだ。

だがそうではなく、ベリンガムはイングランドに典型的な身体能力の優れたスポーツマンプレーヤーに過ぎないことが明らかになった。

イングランドサッカーが目指すべき未来は、今の運動量と高い身体能力を維持しながら、フランス、イタリア、ブラジル、スペインほかのラテン国、あるいはラテンメンタリティーの国々のサッカーの技術を徹底して取り込むことだ。

取り込んだ上で、高い身体能力を利してパス回しをラテン国以上に速くすることだ。つまりポゼッションも知っているドイツサッカーに近似するプレースタイルを確立すること。

そこに真正のファンタジスタが加われば、イングランドはかつてのイタリア程度の強さを易々と獲得するだろう。

生き馬の目を抜く世界サッカー事情

欧州と南米のサッカー強国は常に激しく競い合い、影響し合い、模倣し合い、技術を磨き合っている。

一国が独自のスタイルを生み出すと他の国々がすぐにこれに追随し、技術と戦略の底上げが起こる。するとさらなる変革が起きて再び各国が切磋琢磨をするという好循環、相乗効果が繰り返される。

イングランドは、彼らのプレースタイルと哲学が、ラテン系優勢の世界サッカーを必ず征服できると信じて切磋琢磨している。その自信と努力は尊敬に値するが、彼らのスタイルが勝利することはない。

なぜなら世界の強豪国は誰もが、他者の優れた作戦や技術やメンタリティーを日々取り込みながら、鍛錬を重ねている。

そして彼らが盗む他者の優れた要素には、言うまでもなくイングランドのそれも含まれている。

イングランドの戦術と技術、またその他の長所の全ては、既に他の強国に取り込まれ改良されて、進化を続けているのだ。

イングランドは彼らの良さにこだわりつつ、且つ世界サッカーの「強さの秘密」を戦略に組み込まない限り、永遠に欧州のまた世界の頂点に立つことはない。

そうは言うもののイングランドは、しかし、今回大会でのベリンガムのプレーを見る限り、ファンタジスタの重要性に気づきそこへ向けてまい進しているようにも見える。

イングランドがメッシに匹敵するようなファンタジスタを作り上げるのか、イタリアがエムバペに肉薄するようなファンタジスタを誕生させるのか、今後気をつけて見て行こうと思う。

それは日曜日に行われるスペインvsアルゼンチンの決勝戦を見るくらいにわくわくするイベントである。



facebook:masanorinakasone




イングランドよ謙虚になれ

fUGA青水泳帽1000

イングランドはアルゼンチンに負けた。ベリンガムがファンタジスタではないからである。

ファンタジスタは自らがゴールを決めない、あるいは決められないときはゴールをアシストし、ゲームを組み立て、相手ディフェンダーを引き付けてかく乱し、味方のためにプレースペースを作り出す。

メッシはそれをやりベリンガムはやらなかった。いや、できなかった。だからイングランドは負けた。

サッカーをひたすらスポーツと見なすイングランドは剛である。

サッカーを遊びあるいはゲームと見なすアルゼンチン、スペイン、フランス、ブラジル、イタリア、ポルトガルなどは柔である。

そして柔よく剛を制するのが、ファンタジスタ・サッカーの真髄なのである。

昔一度だけ優勝したイングランドは、ラテンサッカーを学びファンタジスタを育てない限り、W杯での2度目の栄光は決してやって来ないだろう。



ワールドカップの喜悦と限りなくファシストに近い高市派政治勢力の憂鬱

francia-spagna650

天皇制の是非、男系にこだわる高市・麻生一派の異形と危険性、その他もろもろの戦前回帰願望心算etc,etc

外から見る日本の政治状況は醜状以外のなにものでもないが、諸悪の根源の根源に「近代的自我」の確立の遅れがある。

何よりもまずそこを見据えないと日本の教育事情は変わらず、まともな学校教育なくしては敗戦からの日本の真の再生はない。

そのことが僕の関心の最大のものだが、今は4年に1度の世界祭、ワールドカップを語ろうと思う。

サッカーのファンタジスタについてである。

いまこの時のファンジスタの最高峰はメッシでありエムバペでありヤマルである。彼らを擁するアルゼンチンとフランスとスペイン、さらにファンタジスタ似のベリンガムを擁するイングランドが4強に残った。

そのうち昨夜、フランスとスペインが準決勝を戦ってヤマルのスペインが勝った。僕は正直、エムバペのフランスがやや有利かと考えていた。だが両者とも強力な布陣なので、結果オーライと感じる。

プレーヤーとしての経験が長い分、ヤマルよりもエムバペの動きが目覚しいので、彼の姿が消えたのは少し寂しい。しかし、ヤマルが決勝でエムバペの域に迫る活躍をしそうな予感もある。

今夜、アルゼンチンとイングランドがもうひとつの準決勝を戦う。

アルゼンチンには僕が純然たるファンタジスタと見なすメッシがいて、イングランドにはもしかするとピードとフィジカルを兼ね備えた新タイプのファンタジスタ?とやはり僕がひとり思い悩むベリンガムがいる。

ベリンガムがメッシ・エムバペ・ヤマル級のファンタジスタなら、イングランドは強力なストライカーのケインが控えている分、どこよりも手強いとも見える。

だがそうではなく、ベリンガムがフィジカルとスピードに優れた飽くまでもイングランド的なスポーツマンプレーヤーに過ぎないのなら、イングランドは今回もまた優勝はできないだろう。

ベリンガムとケインは前回カタール大会でもコンビを組んで戦ったが、準々決勝でエムバペのフランスに敗れた。

今回大会でも2人がイングランドの主力だ。

しかし、繰り返しになるが、ベリンガムがイングランド的“ムキムキマン”プレーヤーから脱して、創造力に富むファンタジスタに完全変貌しているなら、メッシの力をもってしてもアルゼンチンは勝てないかもしれない。

ちなみに日本がもっとも不得意とするのが、ファンタジスタの創造である。

日本的メンタリティーまた文化がファンタジスタの誕生を阻むのだ。

今後50年かけてもあるいは無理かもしれない。

そいうことをからめて見、考えることができるのが、サッカーの面白さである。



facebook:masanorinakasone





ベリンガムが真のファンタジスタであるならイングランドはヤバイぜ 

2人

W杯準々決勝でイングランドがハーランドを擁するノルウェーを下した。

イングランドのベリンガムはファンタジスタを髣髴とさせる、フィジカルの強い、動きの速い、いかにもイングランド的な“スポーツマン”プレーヤーだが、ノルウェーとの試合では、もしかすると本物のファンタジスタになりつつあるのではないか、というすばらしい動きを見せた。

それが真実なら、ベリンガムというファンタジスタを擁するイングランドは本気で強いチーム、ということになる。言葉を替えれば、ベリンガムがアルゼンチンのメッシ、フランスのエムバペ、スペインのヤマルに相当する選手なら、イングランドはことしこそ優勝を狙える位置にいる可能性も高いと思うのである。

ベリンガムがまさにファンタジスタになっているなら、イングランドは強力なファンタジスタに率いられるフランス、スペイン、アルゼンチンと互角になる。

しかもイングランドはその上に、強烈なストライカーのケインが控えていることになり、結果イングランドは、あるいは4強のうちの最強、という可能性があるのである。

イングランドの命運は点取り屋のケインではなく、ベリンガムが握っていると僕は見るのだ

イングランドが優勝すれば、ベリンガムが先導する新たなるファンタジスタサッカーの勝利。

他の3チームが優勝すればやはりファンタジスタサッカーの勝利である。

いいなぁ、ファンタジスタが活躍するサッカーは。



サッカーの極意はファンタジスタに訊け

トラと米チーム

アメリカが順当にベルギーに負けた。

選手たちはかわいそうだが、腐臭まみれのトランプ肥溜め大統領の政治介入が功を奏さなかったのは、不幸中の大幸いだった。

トランプ下郎大王は、恥知らずのFifa会長とともに地獄に落ちるだろう、と僕の夢の中に出てきたマラドーナが怒っていた。

さて、ファンタジスタの話である。

サッカー強豪国のベルギーには今のデ・ブライメ、80年代から90年代にかけてのエンツォ・シーフォがいて、アメリカにはまだ誕生してないと見ていいサッカーの申し子たち。

ファンタジスタとはイタリア語でファンタジー(空想・夢・幻想)のある人、予測が難しい創造的なアイデアに溢れエレガントな動きをする人という意味。

サッカーのナラティブでは魔法のような華麗なプレーで試合の流れを一変させ観客を魅了する名手のこと。

元々はイタリアの至宝とも形容されるロベルト・バッジョを称えるためにメディアが発明した言葉である。

バッジョの活躍以降、ファンタジスタの呼び名はイタリア国内にとどまらず、世界中の優れた司令塔やトップ下、或いは背番号10の選手を称える国際用語として定着した。

そしてそのコンテキストで見ていくと、世界には錚々たるファンタジスタが存在することが分かるのである。

先ず当のイタリアにはバッジョのほかに、同時代のデル・ピエロ、トッティ、ゾラ、マンチーニ、ピルロなどがいる。

フランスにはプラティニに次いでジダンが生まれ、今のエムバペへと受け継がれた。ほかにはジョルカエフ、グリーズマンがいるが、前者3人に比較すると少し役不足だ。

スペインにはシャビ、イニエスタに続いてペドリとガヴィが出た。2人は新コンビのシャビとイニエスタと呼ばれたが、正直こちらも物足りない。だが間もなくヤマルが大きく台頭した。

ブラジルはファンタジスタ以上とさえ評価されるペレに続いてジーコが誕生し、ロナルジーニョ、ロマリオ、カカ、リバウド、ネイマールなどが活躍した。

アルゼンチンには偉大なマラドーナの後にオルテガ、リケルメ。今は言わずと知れたメッシが世界第一の活躍をしている。

ファンタジスタと現代サッカーについては、今このときはもっともらしい嘘が出まわる。

いわく、ファンタジスタは現代サッカーの戦術の高度化によって居場所がなくなった。

いわく、今のサッカーは「全員守備・全員攻撃」が前提の、要するにトータル・フットボールなのでファンタジスタはいらない。

いわく、屹立した一人の天才プレーヤー、つまりファンタジスタの偶発的な神業やファインプレーよりも、11人が連動して相手を出し抜くシステムがチームを強くする、等々のもっともらしい主張だ。

それらがなぜ嘘なのかというと、ファンタジスタのスーパープレーは決して偶発的なものではなく持続的だからだ。コンスタントに離れ業を繰り出すから彼らはファンタジスタなのである。

さらにファンタジスタは、一人隔絶してプレーをするのではなく、常にチームメイトと連携している。

ファンタジスタは卓越した才能と技と想像力で、10人のチームメートを導いて高見に押し上げる。

見返りにチームメートはファンタジスタにぴたりと寄り添って彼をさらなる高みに誘導する。

結果、11人のプレーヤーが共に高く飛翔する。

嘘だと思うなら、今このときの優れたファンタジスタたちとそのチームを見ればいい。

具体的に言おう。

メッシとアルゼンチンを見ろ。エムバペとチームを見ろ。ヤマルとスペインを見ろ、ネイマールとブラジルを見ろ。彼らのうちの誰一人として孤立などしていない。

優れた能力を持つそれらのファンタジスタたちは、ボールを受けて相手をかわしシュートを撃つだけではなく、そのボールを魔法のように制御し処理し転がしてチームメートに渡し、再び受けてシュートしたり決定的なパスを繰り出したりする。

そして何よりも雄弁で美しいのは、チームが彼を中心に彼の周りで動き、彼はチームのために躍動するというからくりだ。

11人がまとまって動くチームは強いが、まとまった上にファンタジスタを擁するチームはさらにもっと強いのである。

もう一度言う。

エムバペのフランス、ヤマルのスペイン、メッシのアルゼンチン、既に敗退したがネイマールのブラジルがやはり突出しているのだ。

最後にポジショントーク気味にひとつ付け加えておこう。

もし今現在のイタリアチームにメッシ、ヤマル、エムバペ、ネイマールのうちの誰か一人がいたならば、イタリアは即座に世界最高峰のチームのひとつとして返り咲くことだろう。


追申:

ファンタジスタのいないイングランドと、異様な天才ストライカー・ハーランドが引っ張るノルウェーが決勝まで残っても、それはファンタジスタサッカーの敗退を意味しない。なぜならハーランドはイングランドのケインと共に「ファンタジーの無いファンタジスタ」とも規定できるからである。











































お~い、イングランドぉぉぉぉぉぉお!

KANE横長765

大炎上覚悟でゆっておくことにした。

イングランドはW杯で勝ち進んでいるが例によって説得力がない。

つまり、見ていて面白くない。

これはもう好みの問題だからしょうがない。

とも言えるが、イングランドは地元のBBCのみならず世界の多くのメディアや専門家が常に優勝候補に挙げるにもかかわらず勝てない。

それはつまらないサッカーをしているから、というのが僕の見立てなのである。

イングランドが再び優勝する確率は、日本の初優勝とどっこいどっこいじゃないかな。つまり今のところはほぼゼロ。

と思っていたら日本が先にコケた。

イングランドがコケるようにわら人形に釘を打ち付けているわけじゃないが、イングランドより一万倍は強いドイツもコケたんだから、イングランドがコケナイのはヘンじゃんジャン。

へてからに、イングランドが優勝する確率がなぜほぼゼロかというと、イングランドは相変わらずサッカーをスポーツと思い込んでいるからだい。

ハリー・ケインは優れたストライカーだけど、ファンタジスタではない。

ジュード・ベリンガムはファンタジスタにも近い名手だが、それにも増して優れたアスリートでありスポーツマン。

要するにひとことで言うとヘタなファンタジスタ。

2人がイングランドの強さと、そして弱さの象徴。

現代サッカーではファンタジスタはいらない。ファンタジスタは居場所がない、と知ったかぶりの主張をする者が後をたたないが、じゃ、メッシはどうなの?エムバペはいらないの?ヤマルは?今大会では出遅れているがネイマールは?

チーム全体の堅固さに加えてファンタジスタの彼らがいるおかげで、アルゼンチンもフランスもスペインもブラジルも金城鉄壁と相成って強いの。

彼らのうちの一人がもしもイタリア人であったなら、イタリアは今ごろは相変わらずブラジルとドイツとともに世界サッカーの強豪御三家になるの。ドイツの代わりにスペインかフランス、はたまたアルゼンチンを入れてももちろんいいけど。

さてもはてさてイングランドは。次のゲームあたりであっさり消えそうな気もするが、あるいはここ数年の習いで決勝まで行かないとコケないかも。

これも何度か言ってきたことだが、イングランドはラテンサッカー、つまりフランス、スペイン、アルゼンチン、ブラジル、ポルトガル、かつてのイタリアなどの戦術とファンタジーと遊び心を理解して且つそれを自家薬籠中の物としない限り勝ち目はない。

ラテンじゃない国で唯一強いのはドイツだが、なぜそうなったのかというとドイツはヒトラーを持ったためにサッカーが強くなったの。

は?じゃなくて~。耳の穴かっぽじってよく聞いてクデ。

ゲルマン民族のドイツは、イングランド人同様にラテン民族をはじめとする世界民族にたいして秘めた優越意識を持っている。

のだが、ヒトラーのホロコーストのせいでさんざん評判を落とし自信喪失した。

なので、少し謙虚になって、サッカーでもラテン系のファンタジーの優秀を認めるのにやぶさかではなくなった。やぶさかどころか、大いに進んで取り入れてそれをマスターした。

そうやって彼らのサッカーは同じゲルマンのイングランドの頑なな「スポーツあるいは肉体あるいは筋肉隆々」 サッカーと決別して、スポーツ&ファンタジーが組み合わさった独特のプレースタイルを獲得したわけ。

かくてブラジル、フランス、スペイン、アルゼンチン、イタリア、あるいは昔のウルグアイ等々の強豪に匹敵するコンスタントな力を得た。

イングランドはサッカー黎明期の、未開で乱暴なメンタリティー、言葉を替えればマッチョなスポーツとしての意識からどうしても抜け出せず、未だに時代遅れの、日本風に言えば体育会系の、メンタリティーのままでサッカーをやっている。

だから、見ていてつまらない。

さて。おいおいどっちみち、観衆が見てつまらないサッカーは必ず負けるの。

なぜそうなるのかって?だってイングランド、負けてんジャン。ツーか、1966年以来負けっぱなしジャン。

しかもその間あたかもイングランドが世界最強のつもりで生きてきたジャン。

それじゃ駄目なの。

今回イングランドが大天変地異のガラガラガポーンで優勝したなら、それは彼らがラテンサッカー、つまりゲーム感覚、あるいは遊び精神のサッカーを学んだっちゅーこと。

つまり、それはやっぱりラテンサッカーの勝利ってことなの。

よ~し!!


facebook:masanorinakasone




日本サッカーは退屈だが、本気で強豪国の仲間入りを果たしそうだ 

Koki-Ogawa-giappone-mondiali650

高市首相の「世界の真ん中で咲き誇る(私と安倍さま命の)日本外交」という世界の辺境の住人にしか思いつけない噴飯フレーズ。

麻生似非上皇捏造工作。

国民より国旗が重要という国旗主権主義政策あるいは国旗損壊罪

スパイでっち上げ探索のスパイ防止法案。

中国を潰すためのなんちゃって軍拡政策。

安倍さまより麗しいトランプのケツナメ外交をもっとさらに推し進めよう運動、など、など。

騒がしくも鬱陶しい日本社会。

それらの憂さを晴らすためにも、真に世界のド真ん中で咲き誇るワールドカップにしばらく身を浸してみるのも一興だ。

日本vsブラジル戦に対する、ひょっとすると僕の予想と見えたかもしれないマラドーナの予言は外れたが、日本サッカーは確実に強くなっている。

僕はここ数回のW杯の度に日本は強くなった、と言い続けてきた。前回大会では日本は強豪国のドイツとスペインに勝った。

それを見れば日本サッカーが強くなった、と誰でも思うだろう。だが実は、ブラジルに逆転負けした今回大会の日本の姿がもっと明確に日本の成長を示していると思う。

奇をてらって言うのではない。かつて「ベンチのマラドーナ」と呼ばれて華麗なヤジで相手チームの少年たちを悩ませたこの僕が、少し厳しい批判精神も交えて言うのだ。

即ち日本は、泥臭くひたすら走って走りまくる「脱兎走り」サッカーから、戦術によって走りボールを回し保持する、王道サッカーに確実に変化している。

前回大会でドイツとスペインに勝ったのは、「脱兎走り」の日本が運動量で相手をかく乱したからだ。

今回大会ブラジル戦でも日本はむろん走りに走った。だが戦術で速度を落とし、ボールを確実に回して相手ゴールに迫る戦法を基本に据えていた。

それはサッカー強豪国の戦い方の典型だ。

その方向に進みつつあるように見える日本サッカーを僕は腹から応援する。

だが、ぶっちゃけ日本サッカーはつまらない。

それでも応援する気持ちには変わりはないが、純粋にサッカーゲームだけを見ての、心躍る気持ちにはなれないのが現実だ。

サッカーの戦い方には国柄や国民気質が如実に現れる。それを理解するには、経済や金融や医学や工業技術などの理屈が詰まった脳ではなく、感性や情動が必要だ。

感性また情動を頼りに各国の戦い方を見ると、サッカーのナショナルチームが、国民性を如実に体現する文化や、人々の生きざまを背負っていることが分かるのである。

例えばサッカーの日本代表は11人編成の軍隊を髣髴とさせる。そのミニ軍隊は日本人の思想や動きや情感や生きざまを背負ってピッチを駆け巡る。

そこに体現される日本人の思想とは、個よりも集団つまりチームを絶対と見なす全体主義である。

動きとは、プレーテクニックや戦術の劣勢を補おうとして、選手全員が脱兎の勢いで走り回ること。玉砕覚悟で、いわば竹槍攻撃を完遂する。つまり「玉のように犬死にすること」を至福とみなす精神の実践だ。

生きざまとは、あらゆる論理的な思考を排して、いわば国家神道に殉じて自裁するようなことである。日の丸を背負い一丸となって驀進する。まさに全体主義。日本サッカーの憂鬱と煩わしさである。

国民性は、そのように良くも悪くもナショナルチームのプレースタイルや戦術や気構えに如実に現れて、試合展開を面白くする。むろん逆の効果ももたらす。

もう少し煮詰めて、分かりやすい表現で言ってみる。

例えばドイツチームは個々人が組織のために動く。今回も出ていないがかつては強豪国のイタリアチームは、個人が前面に出てその集合体が組織になる。

言い換えれば個人技に優れているといわれるイタリアは、それを生かしながら組織立てて戦略を練り、組織力に優れているといわれるドイツはそれを機軸にして個人技を生かす戦略を立てる。

1980年前後のドイツが、ずば抜けた力を持つストライカー、ルンメニゲを中心に破壊力を発揮していた頃、ドイツチームは「ルンメニゲと10人のロボット」の集団と言われた。

これはドイツチームへの悪口のように聞こえるが、ある意味では組織力に優れた正確無比な戦いぶりを讃えた言葉でもあると思う。

同じ意味合いで1982年のワールドカップを制したイタリアチームを表現すると、「ゴールキーパーのゾフと10人の野生児」の集団とでもいうところか。

独創性を重視する国柄であるイタリアと、秩序を重視する国民性のドイツ。サッカーの戦い方にはそれぞれの国民性がよく出るのだ。サッカーを観戦する醍醐味の一つはまさにそこにある。

さらに言えば、イングランド(英国)チームはサッカーを徹頭徹尾スポーツと捉えて馬鹿正直に直線的に動く。技術や戦略よりも身体的な強さや運動量に重きをおく、独特のプレースタイルだ。

彼らにとってはサッカーは飽くまでも「スポーツ」であり「ゲームや遊び」ではない。

しかし、世界で勝つためには運動能力はもちろん、やはり技術や戦略も重視し、且つ相手を出し抜くずるさ、つまり遊びやゲーム感覚を身につけることも大切だ。

イングランドサッカーが、フランス、スペイン、イタリア、ポルトガルなどの欧州のラテン系の国々やドイツ、また南米のブラジルやアルゼンチンなどに較べて弱く、且つ退屈なのはそれが大きな理由だ。

もっとも時間の経過とともに各国の流儀は交錯し、融合して発展を遂げ、今ではあらゆるプレースタイルがどの国の動きにも見られるようになった。それでも最終的にはやはり各国独自の持ち味が強く滲み出て来るから不思議なものである。

日本は「脱兎走り」から戦術によるスピード動態に変化した。そこに加えて個人技満載のラテンサッカーの精神に似た独創性を獲得した時、真に魅力的なサッカー王国となるだろう。

道は果てしなく遠い、といわざるを得ない。だが、決して不可能ではない。


facebook:masanorinakasone



天皇制温存か否かとは無関係に昭和天皇の罪は問われるべき

平和の礎

毎年6月から8月にかけて第2次大戦と戦犯をあれこれ思うのが僕の慣わしである。

他の時間にもむろん思わないことはないが、沖縄戦の終結と広島長崎の原爆、そして8月15日の敗戦と続く流れのメディアジャックに便乗することがやはり多い。

1945年6月23日、全国合計 310万人の戦没者のうち、一般市民約94000人と、軍人軍属約28000人、計12万2000人の沖縄県民の犠牲のもと、第32軍の牛島満司令官と長勇参謀長の自害と共に沖縄戦が一応終結した。

唯一の地上戦と凄惨な地獄を経験した沖縄は、間もなく島をアメリカに売り渡すことになる昭和天皇の裏切りと、そのことも影響したネトウヨ・ヘイト系愚民による県民への執拗な差別感情の到来を予測できないまま焦土と化して横たわっていた。

マッカーサーによって仕置きを免れた昭和天皇は、先ず沖縄をアメリカに差し出し、自らの大罪を「私には分からない」と述べて知らん振りを決め込み、広島長崎の原爆は「止むを得ないことだった」と無責任に言い放って、自決したヒトラーと民衆に処刑されたムッソリーニとは大違いに違い、畳の上で死んだ。

天皇は輔弼(ほひつ)者に従っただけのいわば操り人形。だから戦争責任はない、というのは欺瞞だ。

輔弼者は結局天皇の裁可がなければ何もできなかったのだから、その言いは誤魔化しの建前論に過ぎない。

百歩譲って例えそうだったとしても、天皇も輔弼者も自らの保身にかまけるだけで、彼らの中には犠牲になる国民への思いが完全欠落していた。その時点で罪は免れない。

昭和天皇はマッカーサーと会った際、私はどうなっても構わない、と言ったと伝えられているが真相は分からない。たとえそれが真実だったとしても、多くの国民に加えて侵略先の国々で、膨大な数の住民の殺戮を繰り返した罪は消えない。

沖縄がまさに陥落する前日、多くの住民と兵士が無残に死に続けていた1945年6月22日、東京では天皇を中心に権力中枢の戦争犯罪者が集っていわゆる御前会議を開いたが、相変わらず「本土決戦」と「一撃和睦」の門徒物知らずの念仏を唱えるだけで、戦争犯罪の上塗りに上塗りを重ねる愚行は終わらなかった。

一撃和睦も本土決戦も誤った見通しに基づく誤った戦略だった。戦争においては作戦の失敗は即被害や死に結びつく。誤った作戦は許されるべきではなく必ず断罪されなければならない。なぜならそれが戦争だからだ。故に天皇を筆頭に天皇以下の権力中枢は一人残らず有罪である。

昭和天皇の罪は誰よりも重い。なぜなら彼は統帥権を持つ大元帥だった。従って軍部の暴走を止めなかったことや、開戦から戦争継続、さらには戦いの大詰めで迅速にそれを終結できず、結局大空襲、沖縄戦、広島&長崎の原爆など、無くてもよかった甚大な被害を招いた。その責任だけでも彼は万死に値する。

それが起きなかったのは、マッカーサーが天皇を生かしておくことが日本統治に役立つと思い込んで、天皇が極東裁判で起訴されることを避けた。そうやって昭和天皇は命拾いをした。

日本国民はアメリカの占領が終わった後、戦犯を徹底追及し今も続けているドイツや、ドイツの薫陶を受けてファシズムという過去を断罪し、反省し、警戒する心を社会の最重要な道徳的支柱とすることに成功したイタリアとは違い、全てをうやむやにした。むろん天皇を独自に断罪することもなかった。

昭和天皇の戦争責任を追及、分析するとき必ず提示されるのが先に述べた責任は輔弼者にあり天皇は無罪」という主張である。それは飽くまでも天皇をシラス(治らす)と見做す土着未開の精神に支配された日本原人が、近代的自我の最重要コンセプトである「人間は生まれながらに平等であり出自による優劣は存在しない」という人間存在の真理中の真理を、骨の髄まで染み込ませては理解できていないことから来る。

近代的自我が人々の存在原理のうちに一分の隙もなく組み込まれた社会では、天皇というひとりの人間に身体的にも、心理的にはもっとさらに、畏れをなしてをひれ伏すことなどあり得ない。

そこでは人々は、お互いに1対1の人間として対峙した後、相手が人間的に優れていると腹から認めるときにのみ素直に尊敬の念を抱く。

それができない社会では、多くの日本人が今この時もそうであるように、天皇を無条件に上位存在と捉えて身も心もひれ伏す前近代的な精神が主流を占めることになる。

天皇は天皇という肩書きが重要なのではなく、彼が一人の人間としていかなる人格で何を成すか、ということだけが重要なのである。

そのことに気づいて、天皇を条件反射的に崇め奉る悪魔の呪縛から解き放たれたとき彼を純粋に一人の権力者として見做すことができるようになる

そこに至って初めて、昭和天皇の戦争犯罪人としての実相がくっきりと見えてくるのである。

彼の周りの輔弼者や軍幹部らに加えて、世界中では約5,700人の日本人が戦犯として起訴され、およそ1,000人が死刑判決を受けた。それとは別にソ連でも約3000人が裁かれたと見られている。

それなのになぜ加害者全体の統率者として君臨した昭和天皇が裁かれずにいられるのだろうか。

昭和天皇はもはやこの世にはいない。だが日本はいつの日か必ず彼を裁いて国民的合意を形成し、日本の戦争責任を明確にして子供たちにしっかりと教え語り継がなければならない。

それなくしては日本の真の再生はあり得ず、安倍元首相がレールを敷き高市早苗首相に代表される歴史修正主義者がその上を突っ走る政治がいつまでも続いて、再び破滅しかねない。

なぜなら過去を直視しない彼らは、再び同じ間違いを繰り返すことが宿命だからである。

その兆候は既にあらわになりつつあるようにも思える。




facebook:masanorinakasone






トランプは狂人理論者なんかではなく、極くふつうに黄印なんでねえの?かも。かい?

meloni背中vsトランプ690

あきれたゴシップの類にも見えるが、実は今このときの世界を映し出す鏡とも考えられるので敢えて書いておくことにした。

エヴィアンサミットの直後、トランプ大統領がイタリアの民放局の電話インタビューに答えた。

Q :サミットではあなたとメローニ首相はずいぶん親密そうでしたね。

トラ:彼女がかわいそうだったから付き合ってあげただけだ。(私は彼女に興味はなったが)彼女は私と話したがり私と一緒に写真を撮ってくれと懇願した。だから並んで写ってあげた。

この話が伝わるや否やメローニ首相は:

「彼の発言は全くの作り話で驚いた。なぜアメリカの大統領が同盟国に対してこのような振る舞いをするのか理解できない。しかも今回が初めてではない。彼がアメリカを含む西側諸国の敵に対して強い抵抗の決意を見せず、むしろそれらの国の指導者たちには寛大な態度でいることは残念だ」とXの動画を介して即座に反論した。

そしてメローニ首相は最後に付け加えた。

「トランプが覚えておくべきことが一つある。私とイタリアは誰に対しても断じて物乞いなどしない」

トランプ大統領の動きの背景にあるのは、言うまでもなく、イタリアがイラン攻撃に向かう米軍機の基地使用を拒否したことだ。

のみならずメローニ首相は、アメリカのイラン攻撃を国際法違反と明確に糾弾している。

またその前にメローに首相は、トランプ大統領のローマ教皇批判は受け入れなられない、と断固として彼に楯ついた。

欧州の外交筋によると、メローニ首相はエヴィアンサミットでもトランプ大統領に対して最も強硬に異議を申し立てた。

強い言葉で欧州の立場を擁護し、トランプ大統領が西側同盟国は彼を助けないというのは虚偽の主張で、同盟国はむしろ彼を、そしてアメリカを支援してきたと明確な言葉で主張した。

メローニ首相はサミットの場のみならず、あらゆる機会を通してトランプ大統領に反論してきた。欧州の首脳らは彼女の影響もあって、徐々にトランプ大統領に楯つくことを怖れなくなっている。

メローニ首相のそうした異議申し立てや、リーダーシップに対する意趣返しがトランプ大統領の見苦しい言葉の数々だ。

メローニ首相はかつて、トランプ大統領の熱心な支持者だった。2025年のトランプ大統領2期目の就任式には、ヨーロッパの指導者のうちただ一人だけ出席したほどだ。

それでも彼女は、トランプ大統領に対して自己主張することを厭わなかった。

エヴィアンサミットでは、トランプ大統領とメローニ首相は親しげに話し合い笑い合っていた。メローニ首相はサミット後、彼女とトランプ大統領の仲は依然として良好だ、とメディアに話したほどだ。

その直後にトランプ大統領の辛らつな言い分が世界中を駆け巡った。

トランプ大統領は、メローニ首相が表明したように、サミットでは親密な素振りを見せていた。しかし内心の怒りは抑え切れなかったらしく、サミット直後に冒頭の主張をしたのである。

トランプ大統領は、「自分は予測不能で、時には破滅的な行動も辞さない狂気じみた人物である」と言動で示して、相手に譲歩を迫る高度な心理的駆け引き術を採用しているとされる。いわゆる狂人理論である。

それはかつてニクソン大統領が実践した外交及び交渉戦略術だ。トランプ大統領はその手法を真似ているのである。

だがトランプ大統領の場合は、彼の行き当たりばったりの行動様式や情報のムチャクチャな取捨選択が計算された演技の枠を超えており、彼本来のパーソナリティ障害が災いを成していると考える専門家が多い。

意図的に過激な言動を繰り返すうちに、演技と本性が不可分に融合してしまい、自身でも抑制がきかなくなったということである。

メローニ首相への攻撃の意味がそれで良くわかる。

同時に、そういう人物が世界最大の、そして最強の国家を運営しているという現実に、今さらながら戦慄するのである。





facebook:masanorinakasone





オワコンG7より一億倍重要な国旗毀損罪

花形メローニ650

2026年6月17日、金持ち国の寄り合い、G7サミットが閉幕した。

ほぼオワコンであるG7の少しの存在意義は、変形独裁国家の帝王プーチンと、正真正銘独裁国のラスボス習近所平への対抗勢力として、7ヵ国が曲がりなりにも結束を示し続けることぐらいになっている。

ところが2017年以降、G7はその役割さえ覚束ない事態に陥ることが少なくない。言わずと知れたトランプ狂人理論大統領の“自己愛性パラノイア言動”に振り回されることが多くなったからだ。

だが、今回の仏エヴィアンサミットはこれまでとはやや事情が違った。

世界各地を実際に爆撃し、拉致し、爆撃拉致するぞと脅してやりたい放題をしまくっている“反欧州”志向のトランプ大統領が、直前にイランとの戦闘終結合意が成立したために上機嫌で友好的な態度に終始したからだ。

カナダを含む欧州各国は、イラン戦争とウクライナ戦争の当事者であり攪乱者であるトランプ大統領を、厳しく批判し続けている。G7国の中でトランプ大統領に寄り添うのは、イタリア語で言うトランプの「ケツ舐め外交」に徹する安倍-高市ラインの国辱政権のみである。

元々自立志向の強いフランスは言うまでもなく、普段はアメリカ批判に及び腰のドイツも毅然として非難の矛先を向け、アメリカとは血の絆で結ばれている特別な関係、とも評されるイギリスのスタマー首相も、トランプ批判を怖れない。

さらに目覚ましいのは、政敵からはファシストとさえ罵倒される反移民主義者で、トランプ大統領のガチ友であるメローニ伊首相が、トランプのイラン攻撃を厳しく責め立てイスラエルのネタニヤフ首相にも激しい糾弾の礫を投げつけることだ。

高市首相は、同じ女性首相で似たような強硬保守主義者であるメローニ首相を同友と片思いに思い込んで、彼女を国際会議の場でジョルジャ、ジョルジャと痴呆歓呼して、国際的に注目されるメローニ氏の人気や権威に便乗しようと躍起になったりする。

だが同じ極右でもメローニ首相は、トランプにひれ伏して中国に的外れの威嚇外交を繰り返す高市首相とは、月とスッポンポンだと狸が腹を叩いて笑うほどの違いがあるのだ。

市首相は、フランスで開催されるオワコンのG7サミットに出席するついでに、イギリスとイタリアに足を伸ばして、スタマー首相とメローニ首相と会談した。

スタマー首相とメローニ首相は先だって日本を訪問した。今回は高市首相が返礼したわけだが、ふたつの邂逅は時代錯誤のG7同様にほとんど意味のないイベントだった。

イギリスではエネルギー安全保障や重要物資の連携についてスタマー首相と確認し合い、メローニ首相とは半導体や重要鉱物の供給網強靱化、宇宙ゴミ対策や衛星データでの協力、また英国を交えた次世代型戦闘機(GCAP)の開発加速や、共同訓練などを話し合った。

要するに3人の首相は、共に間もなく、ほぼ時間差なしで開催されるどうでもいいG7に参加するのだから、個別に会う意味は象徴性以外には何もなかった。

高市首相はその後、G7会場の片隅で他国首脳の威厳に圧倒されて畏まりつつも、「世界の真ん中で咲き誇る(私と安倍晋三命の)日本外交)」としつこく空威張りをしていたようだ。

そんな暇があったら彼女は、G7より一億倍も重要な内政の緊急課題にしっかり取り組むべきた。

即ち:

1憲法改定と安全保障問題

2. 国旗損壊罪の法制化

3. スパイ法案

4. 思い付き消費減税

5. 誹謗中傷動画問題

6.無責任な「責任ある積極財政」と経済政策

7選択的夫婦別姓への慎重姿勢

などなど。

それらの中でも最も危険でおぞましいのが国旗損壊罪だ。

国旗損壊罪は個人の心情に土足で踏み込んで、権力の思惑を押し付けようとする真のファシズム的悪意の所産である。その成立に固執するのは未開で愚かで無知蒙昧の蛮人ら。彼らを獣と形容すれば獣を侮辱することになるから言わないが、要するに外道で人でなしの輩だ。

国旗の日の丸には戦前戦中の苦い記憶が刻印されている。それは日本の植民地支配やアジア蔑視の固定観念などで色付けされた忌まわしい過去だ

国旗損壊罪は物である国旗に無理やり精神性を塗り込んで、国民に天皇を神と崇めろ権力に服従しろと強制し、反体制派や反権力思想を殲滅しようとするファシスト的悪魔の陰謀である。

換言すれば過去の日本がぬるりと立ち上がる、醜くも危険極まりないイデオロギーの顕れなのである。

国旗損壊罪に込められているのは、繰り返しになるが、狂信的天皇崇拝であり、国粋思想に憑りつかれたカルト信者らの巨大な危険性のことだ。つまりファシズム、国家神道カルト、極端な国家主義、カルト的全体主義などと規定される心胆を寒からしめるコンセプトだ。

戦後80年以上が経過した今でも、中国や韓国を筆頭にするアジアの人々は怨みと憎しみの入り混じった複雑な感情を抱いて日の丸を見る。

日本国内でも地上戦を経験し天皇とファシズム勢力に蹂躙されたと感じている沖縄や広島また長崎などを中心に、国旗に複雑な感情を持つ国民が一定数存在する。

それらの人々の感情も一緒くたにし、あるいは無視して、国旗を介して国家への異議申し立てを為そうとする民主主義社会の人々の当然の権利を奪おうとするのは、悪法を通り越して狂気の沙汰だ。

諸外国にも国旗損壊罪に似た法律はある。例えばイタリアの国旗侮辱罪。

これは戦後ムッソリーニを処刑し、イタリア国王の戦争責任を追及した象徴である新国旗を侮辱することを禁じたものである。

つまり天皇制ファシズムの象徴でもある日の丸を温存した日本とは真逆に、イタリアの民主主義のシンボルである新国旗、要するにイタリア共和国三色旗を侮辱することを戒めたものだ。

同時に三色旗を破壊しても、それが表現の自由の観点からの政治的メッセージや風刺的な表現である場合は無罪となる。

ドイツもイタリアとほぼ同じ立場である。

要するにドイツもイタリアも、国旗を戦後の民主主義体制と共和制の象徴として位置付け、国旗に対する侮辱を民主主義と共和制に対する挑戦と見做して罰するということである。

一方日の丸には、昔は言うまでもなく現在でも、民主主義や共和制の神髄である自由・平等・博愛を表す意味はない。天皇制ファシズムを含む旧態依然とした曖昧な「日本の心」の象徴が現在の国旗だ。

日本に於ける国旗損壊罪を、諸外国にもあるからという理由で正当化するのは、詭弁以外のなにものでもないのである。

不条理な法の成立は必ず阻止されるべきだ。






facebook:masanorinakasone






日本サッカーも思えば遠くまで来たもんだ 

日本vsオランダ上田?ドリブル650

またワールドカップがやって来た。4年に一度の祭典に胸を躍らせながら、無為に過ぎた自らの4年を嘆く。凡人のいつものパターンだ。

日本は昨日、W杯準優勝3回の強豪国オランダと初戦で火花を散らした

前回大会では日本は、ドイツとスペインを破って世界を愕かせた。

それは日本サッカーが強くなっていることを示す出来事だったが、同時にドイツとスペインに比べるとまだまだ力量不足であることも露呈した。

ドイツとスペインが大きな戦略と複雑な戦術で動くのに対して、日本は「脱兎の走り」で滑稽なくらいにひたすらに駆け回った。

コマネズミのように動き回る泥臭い戦い方は少しも美しくなかった。だが日本は走るスピードと量で相手をかく乱して勝利をものにした。

僕は当時ここに

日本は、物まねのポゼッションサッカーや無意味なボール回しや“脱兎走り”を忘れて、蓄積した技術を基に“独自の戦術とプレースタイル”を見出し次のW杯に備えるべきだ。独創や独自性こそ日本が最も不得手とする分野だ。だがそれを見出さない限り、日本がW杯で飛躍して、ついには優勝まで手にすることは夢のまた夢で終るだろう

書いた

日本のサッカーは相変わらず選手の「駆けっこ」が売りの拙いものだが、スピードはそのまま維持しながら戦術的に動くようになって、それに見合う選手のテクニックも備わってきたようだ。

オランダに勝つことはなかったが、チームの質としては前回大会でドイツとスペインを撃破したときよりもはるかに向上している。

いわば素人の域を抜け出して、世界の強豪チームの戦術に近い戦い方を会得しつつあるように見える。

対オランダ戦の特に前半では、ここイタリアのTVキャスターが「歩くサッカー」と形容したほど展開が遅い場面も頻発した。

それは日本が「脱兎走り」を抑制して、パスワークと戦術に重きをおいた動きをしていたからだ。

それが前回大会からの進化だと僕は思った。

まだ1次リーグの初戦を終えたばかりだが、今大会ではあるいは再びそこを突破して、悲願のベスト8進出も夢ではないかもしれない。

そうなれば優勝も全くの幻化夢幻ではなくなる。

サッカープレーヤーとしての僕が、「ベンチのマラドーナ」と呼ばれて相手チームの少年たちを震え上がらせていたころ、世界基準での日本サッカーは爪の垢にも及ばない程度の存在だった。

思えば遠くまで来たもんだ、というのが初戦の戦い方を見ての率直な感想である。

それにしても、サッカー嫌いやゲームに興味のない人たちはチョー暇そうでうらやましい限りだ。

こちとら「世の中に絶えてサッカーなかりせば 俺の心はのどけからまし」ってぇ気分だぜ。







名女優はあまねく悪の花を咲かす

振り向き顔にかかる髪650

占い師でタレントの細木数子を描いたNefflix配給の9本シリーズのドラマ地獄に堕ちるわよ」を見た。

仕事師として、詐欺師として、叩き上げとして、占術家として、タレントとして、そしてなによりも女として破天荒な生涯を送った細木数子の物語は面白く、9作品を一気に見てしまった。

主演は戸田恵梨香。

今はないロンドン発の、NHK系列のJSTVドラマで見た若いときの彼女は、キュートできゃぴきゃぴした印象の豆ロケット的名花だったが、この「地獄に堕ちるわよ」では、見事に初老の悪女を演じてみせた。

光には影が寄り添い傑作には悪女が躍動する。女優は悪女を演じてナンボだ。戸田恵梨香はこの名作の悪女演技で確実に名女優になった。

男の好みにおもねるだけの、日本独特の清純派女優ほどつまらないものはない。

絵に描いたような清純派女優・吉永小百合は、きっと生身の本人はすばらしい女性なのだろうが、女優としてはクサく、ダサくときめかない

清純派女優というカテゴリーは、女性を男の慰み者とみなす、男尊女卑思考てんこ盛りの日本文化が生み出す一大奇作だ。

戸田恵梨香には元々清純派という雰囲気はなかった。顔はどちらかというと綺麗なあどけないものだったが、自立したキャラクターの印象が強かった。

男性ファンが望む可憐、清純、透明感、清廉、加えて品行方正などの属性が、パッケージ化された存在ではなかった。

それでも高校生から初老の女までの悪女のノリを自然体で演技する力量は、一流女優の誕生を確信させた。

戸田恵梨香は作品完成後のインタビューで

「細木数子は人々が社会の反発を恐れて言いたくても言えないことをズバズバ言ってくれたから人気があったんではないか。占いは当たらなかったという指摘もあるが、細木さんの話は、自身が生きてきた経験を語ることが多いな、という印象を受ける。細木さんの人生論が世間を魅了したんじゃないかと思う」

と洞察眼の鋭い意見を言っている。

彼女はきっと、小説などのすぐには役に立たない本も多く読む、本物の読書家に違いない。

戸田恵梨香は作品の中で、先に触れたように女子高校生から初老のしたたかな女性までを、何の違和感もなく演じ分けた。まるで美しい化け物のような化性豊かな能力である。

それは彼女の女優としてのもうひとつの凄さ、あるいは巨大な幸運、と僕の目には映る。




facebook:masanorinakasone





高市早苗首相はサディスティックな暴風雨のようなものだ 

トラ&ポチ高市横長

4月から6月にかけてのイタリアの気候は不安定だ。冬物の装束をあわてて春夏物に替えるな、慎重に確かな季節の移ろいを見きわめろという有名な諺さえある。

若く多忙だったころは、6月はイタリアに限らず欧州最良の季節と思い込んでいた。日は長く風は爽やかで、人出が最高潮になる7~8月にはまだ時間がある海のリゾート施設は、広々としてしのぎやすい上に滞在費用が安いと思い込んでいた。

天気が変わりやすく、油断すると冷気に襲われて苦労する、という6月の実態を意識するようになったのは、菜園を耕すようになってからである。野菜たちの成長を支配するのは天候である。

6月は暖気が勢力を張る季節ながら、ふいに雷雨や風や冷気が立つ不安定な時間でもある、と今ははっきりと知るようになった。むろん年によって違いはあるが。

ことしの6月は特に気圧変化が顕著だ。曇り空に伴なって冷涼な風が吹き、肌を刺す春雨が降る日々が多い。今日6月9日も曇り空。さすがに寒くはないが空気が冷え気味でかなり涼しい。

春から初夏のにかけてのイタリアの小嵐は、アフリカ・サハラ砂漠由来の熱気がアルプスの冷気にぶつかって起きる。それはヒマラヤ山脈で生まれた大気の流れが、日本に梅雨をもたらすのにも似た、大自然の営みである。

そんな北イタリア・フランチャコルタ地方の悪天候を眺めつつ、日本に居座っている爆弾低気圧をじっと観察し続けている。

爆弾低気圧とは高市早苗首相のことである。

他政党の候補や自党の仲間を誹謗中傷したビデオへの関与を、全く信用できない言い訳や欺瞞や誤魔化しに見える詭弁で執拗に否定する態度は、見苦しくも腹立たしい。

死して後もなお自身のボスであり続けるらしい安倍元首相や、がスーツを着て歩いているトランプ大統領にそっくりだ。

彼女は言い逃れ術を安倍元首相から、ジコチューなSNS発信術をトランプ大統領から盗んで得意げに実践している。

高市首相は議員に成りたてのころ、時の村山首相に、周辺(被害)国に勝手に誤るな」と発言。

翌年には、「私は戦争の当事者世代ではないから反省しないし、反省を求められるいわれもない」とも 言い放った。

また2012年には「さもしい顔して貰えるものは貰おう、弱者のフリをしてでも得しよう云々」
の、活保護受給者は乞食だとでもいう趣旨の発言もした。

さらに2016年、テレビ局の電波を停めるという趣旨の暴言を吐いて大批判され、極まると総務省の行政文書は捏造だ。そうでないなら大臣も議員も辞職すると発言。

至近では「台湾有事は日本存続危機事態」と無思慮無分別が露わになった暴言をかましたものの一向に撤回しようとしない傲慢ぶりだ。

彼女はそれらの限りなく黒に近い灰色疑惑を、もはや常態となった日本の大手メディアの“忖度だけがレゾンデートル”という、似非メディア体質」のおかげで旨く逃れてきた。

今回こそは、と思いつつ見ているが、状況は悲観的だ。

NHKほかの大手メディアは、文春の頑張りを例によって高みから眺めつつ、まるで恐怖政治を目指しているかのような高市強権機構を、厳しく追求しようとはしない。

唯一共同通信が取り上げた事実を鸚鵡返しに報道するだけで、独自取材の批判記事はまだ皆無常態だ。

悪運の大祝福を受けてのさばる高市早苗首相は、今回もやっぱり生き延びてしまうのだろうか。



facebook:masanorinakasone






日本極右よりはるかに増しだが微妙に危険なドイツ極右

Meloni高市Weidel626

かつての日独伊=悪の三国同盟とそこに巣くう極右勢力について考え続けている。

今日現在の3国の極右勢力のうちで、最も危険なのは日本の極右である。

先の大戦を自らで徹底総括した国であるドイツ。そのドイツの後進であるイタリア。

片や総括どころか、自国の加害の過去を否定する歴史修正主義者が跋扈する日本の極右は、似て非なるものだ。

ヒトラーを知り、ムッソリーニを意識しているドイツとイタリアの極右は、ヒトラーにならずムッソリーニの轍も踏まない。

たとえ彼らがそこに向かおうとしても、戦争を徹底総括して子供たちにナチスとヒトラーの悪をこれでもかと伝え徹底教育しているドイツの極右は、民衆の抵抗に遭い挫折する。

イタリアは戦争途中で民衆が蜂起してファシズムを倒した。そのためドイツほどの徹底的な戦犯追及はしなかった。

だがイタリアの民衆も道徳的思想的にドイツの厳しい戦争総括姿勢に感化された。加えてイタリアにはファシズムを厳しく断罪するバチカンが控え人々はそれにも大きく影響される。

その上さらにイタリアには、極論や過激論者を穏健に引き戻す効果のある多様性の精神が深く浸透している。そうした要素が極右の暴走を抑制する。

現にネオファシストとさえ批判されたジョルジャ・メローニ首相は、首相就任と同時に穏健保守へと姿を変えて、国内は元よりEUの多大な信頼さえ勝ち取った。

ドイツの極右も政権を握った場合、イタリアのケース同様に多かれ少なかれ現実路線に舵を切る。それは過激な主張や政策をより中道寄りにシフトするということだ。

ドイツの極右の台頭に関しては、しかし、一抹の不安は残る。

ドイツ人の中には、白人種の優越意識があり、さらに白人種の中でも彼らこそもっと優越だ、という秘めた自負がある。

ナチズムを忌み嫌うドイツ人の中にさえ、ヒトラーの優性思想の残滓を体の奥深くに密かに抱え込んでいる者らがいるのだ。

僕はそうしたドイツ人の暗い一面を、旅先やイタリアのリゾート地などで行き逢うドイツ人の中に見る。たとえば次のような状況だ。

北イタリアのガルダ湖畔はドイツ人が愛してやまないリゾート地である。5月から10月にかけて多くのドイツ人バカンス客が訪れる。同地に住まいを得て移り住むドイツ人も少なくない。

たまたま湖畔に家がある関係で僕はよくそこに行く。すると一帯のホテルやレストランやカフェなどにドイツ人客だけがあふれている状況に出会う。

普通彼らは礼儀正しく、静かで、友好的でさえある。観光産業で生きている地元の人々にも大いに歓迎されている。

ところがドイツ人同士が集まると、彼らは少し人が変わったようになる場合がある。例えばドイツ人バカンス客のほぼ貸切り状態になった夜のバールなどで、声高に話し始める。

ビールの大ジョッキを頻繁に空にしながらうるさく議論をする。果ては酔って放歌高吟し騒ぎ出すようなことも起こったりする。

周囲の人々は、ドイツ人が集団になると傲岸で危険な存在になる要素を秘めていることを知っている。歴史がそれを物語っている。

ドイツ人自身もそのことを知っている。だから彼らは自ら抑制し羽目を外し過ぎないようにしようとしている。周りの目も気にしている。それでも時としてある種のドイツ人はその性癖の露見を止めることができないようだ。

全てのドイツ人バカンス客が野放図であるわけでは無論ない。むしろ威儀を保ち続ける者のほうが多数派だ。その多数派が今のドイツ人の実相である。群れて騒ぐ人々はドイツ人のうちの少数派だ。

その少数派の行動が、大多数の「良いイメージのドイツ人」を悪く見せてしまい、「群れると崩れかねない危うさを内包しているドイツ人」という過去の亡霊を人々に思い起こさせる。

危険を自覚し、決してそこに向かわないように自制しているドイツ人は、欧米の人々の尊敬も集めている。それは疑いようがない。だがドイツ人を見る人々の中の一抹の不信感は断じて消えていないのだ。

最近はそこにさらなる負の要素が加わった。ドイツで極右政党の「ドイツのための選択肢」が台頭し、勢力を伸ばしている現実だ。

ナチスと、「ドイツのための選択肢」と、リゾート地のバールで騒ぐ「一部のドイツ人」が、人々の心の中でぴたりと重なり合って、それらを真っ向から否定する「大方のドイツ人」にまで偏見が及びかねない状況が出来上がる。

それはイタリアだけに見られる特殊な状況ではない。ドイツを除くヨーロッパ中のリゾート地や行楽地や観光地で、飽きもせずに毎年繰り返されている光景である。

欧州の人々はドイツ極右の台頭を目の当たりにして、彼らが胸に秘め続けているドイツへの不信感を少しづつ表に出しつつある。

ドイツ人自身は欧州人のその微妙な感情に極めて敏感だ。だが、同国に住む外国人、特に日本人などはそのことに無関心であるように見えるのが不思議だ。

ナチスの過去に負い目を感じているドイツ国民が、移民や外国人を進んで受け入れ、徹底して平等に扱い持て成しているおかげで、そこに住む人々が安心して彼らに同化するせいだろう。

もしも極右が政権を取れば、彼らはヒトラーにはならないまでも、移民や外国人を差別する政策を易々と進めるに違いない。

それは欧州の各国で既に起こりつつある動きだが、ドイツの場合は一味違う何かが発生しそうな気配がなくもない。



facebook:masanorinakasone





イタリアがイタリアになった日

istockphoto-1486480802-612x612

毎年6月2日はイタリアの共和国記念日である。

第2次大戦後の1946年6月2日、イタリアでは国民投票により王国が否定されて、現在の「イタリア共和国」が誕生した。

イタリアが真に近代国家に生まれ変わった日である。

それからちょうど80年の2026年6月2日、イタリア共和国はファシスト党の流れを汲む「イタリアの同胞」を」率いるジョルジャ・メローニ党首を、国のトップに据えている。

就任から間もなく満4年を迎えるメローニ首相は、政権運営の初めから現実路線へとシフトし、反EUと見られていた姿勢も大きく変えて協調政策を採った。

結果、多くの国民に支持され国際的な信頼も勝ち取った。

同時に彼女は、事あるごとにファシズムを否定する言葉を発しつづけ行動で示している

政敵に「ネオファシスト(新ファシスト)」とも批判されるメローニ首相だが、彼女はファシズムが否定されて誕生したイタリア共和国記念日を大いに祝う。

そのあたりが、過去を直視するどころか、終わった昭和をわざわざ「昭和100年記念」として祝い、戦争の時代へのノスタルジーと賞賛を隠さない高市首相とはひょうたんに釣鐘だ。

過去を見つめ清算するメローニ首相。過去から目を背け歴史修正主義に徹する高市首相。

その違いが戦争をしないイタリアと、戦争に走る日本の未来像にならないことを祈りたい。

世界の主な民主主義国は、日本やイギリスなどを除いて共和国体制を取っている。

民主主義国には共和制が最もふさわしい。

それはここイタリア、またフランスの共和制のことであり、ドイツ連邦やアメリカ合衆国などの制度のことだ。

その制度は「全ての人間は平等に造られている」 という人間存在の真理の上に構築されている。

民主主義を標榜するするそれらの共和国では、主権は国民にあり、その国民によって選ばれた代表によって行使される政治システムが死守されている。

真の民主主義体制では、国家元首を含むあらゆる公職は主権を有する国民の選挙によって選ばれ決定されるべきだ。

つまり国のあらゆる権力や制度は、米独仏伊などのように国民の意志によって創設されるべきだ。

その意味では王を頂く英国と天皇制を維持する日本の民主主義は歪だ。

ここイタリアに居を構える僕は、6月2日のイタリア共和国記念日が訪れる度に、日本が共和国に生まれ変わる日を想像してみたりもする。



facebook:masanorinakasone




記事検索
月別アーカイブ
プロフィール

なかそね則

カテゴリ別アーカイブ
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ