【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

ゴダールは映画屋のための映画屋だった  

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2022年9月13日、ジャン=リュック・ゴダール監督が亡くなった。スイスでほう助による毒薬自殺を遂げたのである。

91歳の彼の死は予見可能なものだったが、スイスの自宅で安楽死を遂げたことは意外な出来事だった。

彼は自身の作品と同じように、最後まで予定調和を否定する仕方で逝きたかったのだろう。

個人的には僕は監督としての彼よりも、その死に様により強く興味を引かれる

ジャン=リュック・ゴダールは映像の論客だった。言葉を替えればゴダールは「映画人のための映画監督」だった。

映画の技術や文法や理論や論法に長けた者は、彼の常識破りの映画作法に驚き感心し呆気にとられ、時には和み心酔した。

映画人のための映画監督とは、インテリや映画専門家受けする映画監督、と言い換えることもできる。

要するに彼の映画は大衆受けはせず、映画のスペシャリスト、つまり映画愛好家や映像キチ、あるいは映画オタクなどとも形容できる人々を熱狂させた。

そこに大衆はいなかった。「寅さん」や「スーパーマン」や「ジョーズ」や「ゴッドファーザー」や「7人の侍」を愛する“大衆”はゴダールの客ではなかったのだ。

要するに彼は映画の衰退に加担した映画監督の一人だった。

大衆を置き去りにする娯楽芸術は必ず衰退する。大衆に理解できない娯楽は芸術ではない。それは理論であり論考であり学問であり試論の類である。つまり芸術ならぬ「ゲージュツ」なのだ。

ゲージュツとは芸術を装った論文であり論述だ。それを理解するには知識や学問や知見や専門情報、またウンチクがいる。

だが喜び勇んで寅さんに会いに映画館に足を運ぶ大衆は、そんな重い首木など知らない。

彼らは映画を楽しみに行くのだ、映画を思考するためではない。大衆に受けるのは、作品がエンタメとして良質であること、あるいは娯楽芸術性のバロメーターが高いことを意味する。

それは同時に、映画の生命線である経済性に資することでもある。

映画制作には膨大な資金が要る。小説や絵画や作曲などとは違い、経済的な成功(ボックスオフィスの反映)がなければ存続できない芸術が映画だ。

興行的に成功することが映画存続の鍵である。そして興行的な成功とは大衆に愛されることである。その意味では売れない映画は、存在しない映画とほぼ同義語でさえある。

ゴダールの映画は大きな利益にならなかった。それでも彼は資金的には細々と、議論的には盛況を招く映画を作り続けた。だが映画産業全体の盛隆には少しも貢献しなかった。

片や彼と同時代のヌーベル・バーグの旗手フランソワ・トリュフォーは、優れた娯楽芸術家だった。彼は理屈ではなく、大衆が愛する映画を多く作った、真のアーティストだったのだ。

1984年に52歳の若さで死んでいなければトリュフォーは、ゴダールなど足元にも及ばない、大向こう受けする楽しい偉大な「娯楽芸術作品」 を、もっとさらに多く生み出していたのではないかと思う。

無礼な言い方をすれば、ゴダールには52歳で逝ってもらい、トリュフォーには91歳まで映画を作っていて欲しかった。




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安倍国葬はやはり間違いと証明された

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2022年9月26日から27日にかけて、イタリアの各放送局は、総選挙で大勝した極右政党「イタリアの同胞」と、次期首相就任が濃厚な同党のジョルジャ・メローニ党首にスポットを当てた報道を繰り返した。

イタリア初の女性首相の誕生は喜ばしいことだが、彼女が極右を通り越してファシストの心まで持つ人物とあっては、「めでたさも中くらい」どころか最悪の気分である。

だがファシスト政権は現代イタリアでは生き延びることはできない。従って彼女の政権は必ず中道寄りに軌道修正することを余儀なくされる。メローニ氏の言動には既にその兆候が見える。

そうではあるものの、ファシストの流れを汲むメローニ首相率いるイタリア共和国政府なんて、できれば目にしたくはない、というのがやはり正直な気持ちだ。

そんな折、安倍元首相の国葬の模様が衛星日本語放送を介して流れた。思わず気を引かれて見入った。見るうちにイタリアの選挙結果がもたらしていた重い気分が晴れた。

いや、重い気分が晴れたわけではない。安倍元首相の国葬儀を見進めるうちに、絶望的な感覚が身いっぱいに広がって、イタリア政局への怒りがどこかに吹き飛んでしまったというのが真実だ。

葬儀委員長と称する岸田首相の、独善的で恥知らずで不遜な追悼の辞に驚いた。また安倍元首相のポチ、菅前首相のうんざりするほど長い、空疎で笑止な“友人代表ラブレター”にも苦笑させられた。

数だけはやたらと多い出席者と、式次第と、儀式の中味の空しさに呆然とした。

先日のエリザベス女王の国葬と比べるのは詮無いことと知りつつ、それでも比べてしまう自分がいた。比べると心が寒々と萎えた。

目を覆いたくなるほど浅薄でうつろなセレモニーが続いた。虚栄心満載の無意味な式辞も、えんえんと繰り返される。

世論調査に慎重なNHKを含む報道各社が、「6割以上の国民が反対」と報告する国葬を岸田政権が強行したのは、ネオファシストと呼ばれることさえあるここイタリアの前述の次期首相、ジョルジャ・メローニ氏も真っ青の独断専行ぶりだ。

閣議決定だけで国事を進めることができるなら国会は要らない。それはつまり民主主義など要らないということと同じだ。

独自の思案を持たず、他派閥の顔色を伺うばかりに見える優柔不断な岸田首相の身内には、恐るべき独裁者気質が秘匿されているようだ。

6割の国民が反対し、例えば1割の国民が意見を持たないとするならば、残り3割の国民が国葬に賛成していることになる。その事実は尊重されるべきだ。

同時に6割の国民の思いも必ず尊重されなければならない。

だが岸田ご都合主義政権は、そのことを完全に無視している。3割のみを敬重し、少なくとも6割の国民を侮辱している。

葬送の儀は、どう考えても国葬ではない式典であるべきだったのだ。3割の国民と、安倍氏に心酔する自民党議員のみで合同葬を行っていれば、何も問題はなかった。

考えたくもないことだが、しかし、熱しやすく冷めやすくしかも忘れっぽい日本国民は、のど元を過ぎればこの無残な国葬騒ぎでさえ忘れがちになることだろう。

だが今回ばかりは断じて忘れてはならない。反民主主義どころか、イタリアの次期政権を上回るファシズム体質とさえ規定できそうな、岸田右顧左眄政権を野放しにしてもならない。

日本の民主主義は真に危機に瀕している。民主主義を理解しない勢力が権力を握っているからだ。

岸田政権に比べれば、欧州の、ひいては民主主義世界全体の懸念を一身に集めている、ここイタリアの次期政権、極右のジョルジャ・メローニ政権でさえ可愛く見える。

イタリアでは民主主義の本則がはきちんと機能していて、極右政権といえども議会を無視して国事を行うことは絶対にできない。それをやれば選挙で確実に権力の座から引き摺り下ろされる。

民主主義制度の自浄作用が働いて、ここイタリアでは政権交代があっさりと、当たり前に起こるのだ。

それに比べると、岸田政権のような横暴な権力が幅を利かせている日本の民主主義の土壌は、全くもってお寒い限り、と言わざるを得ない。













右でも左でも中庸を目指せば終わりは必ず良しだ


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イタリア総選挙は大方の予想通り右派連合が勝利した。

中でも極右の「イタリアの同胞」が躍進。

同党のジョルジャ・メローニ党首がイタリア初の女性首相になる公算が一層高まった。

メローニ氏はネオ・ファシストの心を持っている。だが、それを顔には出さない努力を続けてきた。彼女が選挙に勝ったのはその努力のおかげ、という一面もある。

だがむろんそれよりも、イタリア国民の多くが、彼女の主張に共感を持ったことが最大の勝因であるのは、言うまでもない。

連立とはいえ、ついに極右政党が政権を握る事態に欧州は驚愕している、と言いたいところだが現実は違う。

欧州は警戒心を強めながらもイタリアの状況を静観している、というのが真実だ。

しかも、メローニ政権は、少しの反抗を繰り返しながらも、基本的にはEU(欧州連合)と協調路線を取る、との読みがあるように思う。

近年、欧州には極右政党が多く台頭した。それは米トランプ政権や英国のBrexitEU離脱)勢力などに通底した潮流である。

フランスの国民連合、イタリアの同盟、スペインのVOXほかの極右勢力が躍進して、EUは強い懸念を抱き続けてきた。

極右興隆の連鎖は、ついにドイツにまで及んだ。

ドイツでは2017年、極右の「ドイツのための選択肢」が総選挙で躍進して、初めての国政進出ながら94議席もの勢力になった。

それはEUを最も不安にした。ナチズムの亡霊を徹底封印してきたドイツには、極右の隆盛はあり得ないと考えられてきたからだ。時代の変化はそこで明々白々になった。

それらの極右勢力は、決まって反EU主義を旗印にしている。EUの危機感は日増しに募った。

そしてついに2018年、極右の同盟と極左の五つ星運動の連立政権がイタリアに誕生した。ポピュリストの両党はいずれも強いEU懐疑派である。

英国のBrexit騒動に揺れるEUに過去最大級の激震が走った。

だが極右と極左が野合した政権は、反EU的な政策を掲げつつもEUからの離脱はおろか、決定的な反目を招く動きにも出なかった。

そこには、イタリア社会独特の多様性の力が働いている。

多様性が政治の極端化を妨げるのだ。

何はともあれ、政治的過激派が政権を握っても、彼らの日頃の主張が国の行く末を決定付けることにはならない、ということをイタリアの例は示した。

今回のイタリアの同胞が主導する右派政権もおそらく同じ運命を辿るだろう。

“ファシスト党の流れを汲む極右政党イタリアの同胞”というおどろおどろしい響きの勢力は、強い右寄りの政策を導入することは間違いないだろうが、過去のァシズムの闇に引きずり込まれることはあり得ない。

極右勢力に特有の暴力的な空気は充満するだろうが、政権がファシズムに陥らない限り彼らの存在は民主主義の枠組みの中に留まる。

僕は彼らを支持しないが、民主主義国の正当な選挙によって民意を得た彼らが政権を樹立することは、言うまでもなく認める。

2018年、極左の五つ星運動が総選挙で議会第1党になった時、僕は愕然とした。彼らの主導で政権が船出した時は、ついにイタリアの地獄が始まると思った。

それでも、民主主義の手続きを踏んでイタリア国民に選出された彼らの政権樹立に異論はなかった。むしろ民意の負託を得た以上それは必ず認められるべき、と考えそう主長した。

今回はイタリアの同胞が五つ星運動に取って変わった。五つ星運動で“さえ”政権を担った。当然イタリアの同胞“にも”その権利がある。

極左の五つ星運動と、極右のイタリアの同胞の間に何の違いがあるの?彼らは双方ともに政治的過激派で、ポピュリストという同じ穴のムジナに過ぎないぜ、というのが僕の正直な思いだ。

多様性が息づくイタリアには極論者も多いが、その多様性自体が極論者をまともな方向に導く、という持説を僕は今回も変える気はない。

極右でも極左でも、中庸を目指して進んでくれれば終わりは必ず良し、というふうに思いたいのである。

そうしなければ政権は与党内の争いで空中分解する。あるいは次の選挙で必ず政権の座から引きずり下ろされる。

例えば日本とは違ってイタリアには、民主主義の根幹の一つである政権交代の自浄作用が十分以上に備わっている。

その意味でも極左、極右、なにするものぞ、というところなのである。



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絵空事の真実と虚無~国葬の意義、君主の価値

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2022年9月19日、イタリア時間午前11時55分頃、習慣で定時のBBCニュースをチェックしようと衛星放送をONにした。

するとエリザベス女王の葬儀の模様が目に飛び込んできた。

スペクタクルな絵の連続と荘厳な雰囲気にぐいと惹きつけられた。

イタリア公共放送RAINHKEURONEWSAlJazeeraCNNと次々にチャンネルを変えてみた。全ての局が生中継で儀式の様子を伝えていた。

このうちNHKの7時のニュースは、冒頭の数分間のみの生中継で別ニュースに変わった。

BBCに戻り、腰を落ち着けて観始めた。

BBCの生中継は、その後えんえんと6時間も続いた。

RAIは見事な同時通訳付きでBBCの放送を同じく最後まで中継した。

EURONEWSも全体を生放送で伝え続けた。CNNAljazeerahaはその後は確認しなかったが、おそらく同じ状況だったと思う。

エリザベス女王がいかに英国民と英連邦の住民に敬愛されていたかが分かる式典だった。

彼らの思いは全世界の人々に伝播し、感動が感動を呼んだ。世界中の放送局が熱く報道し続けたのがその証拠である。

式典にはまた、イギリスが国の威信をかけて取り組んだ跡がまざまざと刻印されていた。

エリザベス女王の死去を受けてすぐに行われた一般弔問から、遺体が埋葬されるウインザー城まで展開された壮大な葬儀式は、10年以上も前から周到に準備され、繰り返しシミュレーションされ訓練され続けてきたものである。

軍隊が式典の核を占めているからこそ完成できた大きな物語だと思う。

そこには大英帝国時代からのイギリスの誇りに加えて、Brexit(英国のEU離脱)の負の遺産を徹底して抑える意図などが絡んでいる。

むろん70年という異例の長さで英国を支え、奉仕し、国民に愛された巨大な君主を葬送する、という単純明快な意味合いもあった。

運も英国と女王に味方した。つまりコロナパンデミックが収まった時期に女王は逝去した。

だから英国政府は式典に集中することができ、英国のみならず世界中の膨大な数の人々がそれに参画した。

式典の終わりに近い時間には、偶然にも米バイデン大統領が「アメリカのコロナパンデミックは終息した」と正式に述べた。

僕は式典の壮大と、BBCの番組構成の巧みと、歴史の綾を思い、連想し、感慨に耽りながら、ついにウインザー城内での最後の典礼まで付き合ってしまった。

強く思い続けたのは、間もなく行われるであろう安倍元首相の国葬である。

エリザベス女王の無私の行為の数々と崇高で巨大な足跡に比べると、恥ずかしいほどに卑小で、我欲にまみれた一介の政治家を国葬にするなど論外だと改めて思う。

自民党内の権力争いの顕現に過ぎない賎劣な思惑で、国葬開催に突き進む岸田政権は、もはやプチ・ファシズム政権と形容してもいい。

今からでも国葬を中止にすれば、岸田首相は自らを救い、日本国の恥も避けることができるのに、と慨嘆するばかりだ。

いまこの時の日本に国葬に値する人物がいるとすれば、それは上皇明仁、平成の天皇以外にはない。

平成の天皇は世界的に見れば、かつての大英帝国の且つ第2次大戦の戦勝国である英国君主の、エリザベス女王ほどの重みを持たない。

だが平成の天皇は、戦前、戦中における日本の過ちを直視し、自らの良心と倫理観に従って事あるごとに謝罪と反省の心を示し、戦場を訪問してひたすら頭を垂れ続けた。

その真摯と誠心は人々を感服させ、日本に怨みを抱く人心を鎮めた。そしてその様子を見守る世界の人々の心にも、静かな感動と安寧をもたらした。

平成の天皇は、その意味でエリザベス女王を上回る功績を残したとさえ僕は考える。なぜならエリザベス女王は、英国の過去の誤謬と暴虐については、ついに一言も謝罪しなかった。

英国による長い過酷な統治は、かつての同国の植民地の人々を苦しめた。むろんエリザベス女王は直接には植民地獲得に関わっていない。だが英国の君主である以上、彼女は同国の責任から無縁ではありえない。

エリザベス女王は、人として明らかに平成の天皇に酷似した誠心と寛容と徳心に満ちた人格だった。

だが彼女は、第2時世界大戦によってナチズムとファシズムと日本軍国主義を殲滅した連合国の主導者、英国の君主でもあった。

彼女には第2次大戦について謝罪をする理由も、意志も、またその必要もなかった。むしろ専制主義国連合を打ち砕いた英国の行為は誇るべきものだった。

その現実は過去の植民地経営の悪を見えなくする効果があった。だから女王はそのことについて一言の謝罪もしなかった。その態度は世界の大部分にほぼ無条件に受け入れられた。

だが、英国に侵略され植民地となった多くの国々の人々の中には、女王は謝罪するべきだったと考える者も少なくない。彼らの思いは将来も生き続ける。

その意味では、過去の過ちを謝罪し続ける平成の天皇は、エリザベス女王の上を行く徳に満ちた人格とさえ言えると思う。

岸田政権は姑息な歴史修正主義者の国葬に時間を潰すのではなく、世界にも誇れるそして世界も納得するに違いない、上皇明仁の国葬のシミュレーションをこそ始めるべきだ。

英国政府が10余年も前からエリザベス女王の国葬の準備を進めていたように。



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エリザベス女王の闇と平成の天皇の真実

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亡くなったエリザベス女王を称える声が世界中にあふれている。

中には彼女をほぼ現人神と見なすらしく、天皇に捧げる言葉である“崩御”を用いて死を語るケースさえある。

そうするのはむろん日本人である。君主の死を特別扱いにして言葉まで変えるのは、外務省の慣例を含めて日本語以外にはありえない。

エリザベス女王は現人神ではなく人間である。人間の中で優れた人格の人だったから、世界中で賞賛の声が沸き起こっているのである。

天皇に象徴されるお上の死を別格と捉えて、無条件に平伏して称える日本人に特有の精神作用によっているのではない。

英国には反王室派の人々もいる。エリザベス女王はその反王室派の一部にさえ敬愛された。そのことが既に彼女の人柄を語って余りあると思う。

エリザベス女王は1952年、父親で国王のジョージ6世の死去を受けて25歳の若さで即位した。当時の英首相はあのウィンストン・チャーチル。

彼女はその後、70年の在位中に14人の首相を任命し、チャーチルを含む15人の宰相と仕事を共にした。その間は慎重に政治的中立の立場を守り続けたのは言うまでもない

女王の在位中には旧植民地の国々の多くが独立。イギリスの領土は大幅に縮小した。

同時に王室はさまざまなスキャンダルに見舞われた。だが女王は見事な手腕で危機を乗り越え、名君とみなされた。

僕は昨年、女王の夫であるエディンバラ公爵フィリップ殿下の死去に際して次のように書いた。

英国王室の存在意義の一つは、それが観光の目玉だから、という正鵠を射た説がある。世界の注目を集め、実際に世界中から観光客を呼び込むほどの魅力を持つ英王室は、いわばイギリスのディズニーランドだ。
おとぎの国には女王を含めて多くの人気キャラクターがいて、そこで起こる出来事は世界のトピックになる。むろんメンバーの死も例外ではない。エディンバラ公フィリップ殿下の死がそうであるように。
最大のスターである女王は妻であり母であり祖母であり曾祖母である。彼女は4人の子供のうち3人が離婚する悲しみを経験し、元嫁のダイアナ妃の壮絶な死に目にも遭った。ごく最近では孫のハリー王子の妻、メーガン妃の王室批判にもさらされた。
英王室は明と暗の錯綜したさまざまな話題を提供して、イギリスのみならず世界の関心をひきつける。朗報やスキャンダルの主役はほとんどの場合若い王室メンバーとその周辺の人々だ。だが醜聞の骨を拾うのはほぼ決まって女王だ。
そして彼女はおおむね常にうまく責任を果たす。時には毎年末のクリスマス演説で一年の全ての不始末をチャラにしてしまう芸当も見せる。たとえば1992年の有名なAnnus horribilis(恐ろしい一年)演説がその典型だ。
92年には女王の住居ウインザー城の火事のほかに、次男のアンドルー王子が妻と別居。娘のアン王女が離婚。ダイアナ妃による夫チャールズ皇太子の不倫暴露本の出版。嫁のサラ・ファーガソンのトップレス写真流出。また年末にはチャールズ皇太子とダイアナ妃の別居も明らかになった。
女王はそれらの醜聞や不幸話を「Annus horribilis」、と知る人ぞ知るラテン語に乗せてエレガントに語り、それは一般に拡散して人々が全てを水に流す素地を作った。女王はそうやって見事に危機を乗り切った。
女王は政治言語や帝王学に基づく原理原則の所為に長けていて、先に触れたように沈黙にも近いわずかな言葉で語り、説明し、遠まわしに許しを請うなどして、危機を回避してきた。
英王室の人気の秘密のひとつだ。
危機を脱する彼女の手法はいつも直截で且つ巧妙である。女王が英王室が存続するのに必要な国民の支持を取り付け続けることができたのは、その卓越した政治手腕に拠るところが大きい。
女王の潔癖と誠実な人柄は―個人的な感想だが―明仁上皇を彷彿とさせる。女王と平成の明仁天皇は、それぞれが国民に慕われる「人格」を有することによって愛され、信頼され、結果うまく統治した。
両国の次代の統治者がそうなるかどうかは、彼らの「人格」とその顕現のたたずまい次第であるのはいうまでもない。

自国民の大多数に愛され、世界の人々にも敬仰されたエリザベス女王を憎む人々もいる。一部の英国人とかつてイギリスに侵略され植民地にされた多くの国々の国民である。

エリザベス女王は英国の植民地主義には関わらなかった。また憲法上、君主は象徴に過ぎない。従ってエリザベス女王に植民地搾取の責任はなかった、という主張もできる。

だが彼女の地位は植民地主義で潤った英国の過去と深く結びついている。反王室派や元植民地の人々は、そのことを理由に女王に強く反発した。彼らにとって女王は抑圧の象徴でもあったのだ。

それは理解できることである。帝国主義時代を経た英国の君主である以上、例え彼女自身は直接植民地経営に携わっていなくても、国の責任から無縁でいることはできない。

エリザベス女王は恐らくそのことを熟知していた。だが彼女は過去について謝ることはほとんどなかった。女王が謝罪しなかったのは、英国が第2次大戦の戦勝国になったたことが大きい。

英国は連合国を主導して、日独伊という独裁国家群の悪を殲滅した。それでなければ世界は、今この時もナチズムとファシズムと軍国主義に支配された暗黒の歴史を刻んでいた可能性が高い。

戦勝国である英国は、ドイツ、イタリア、日本などとは違って、第2次大戦に於ける彼らの行為を謝る理由も、意志も、またその必要もなかった。

謝るどころか、専制主義国連合を打ち砕いた英国の行為はむしろ誇るべきものだった。その事実には、過去の植民地経営の不都合を見えにくくする効果もあった。

そうやってエリザベス女王は、第2次大戦のみならずそれ以前の植民地主義についても謝罪をしなくなった。そして世界の大部分はほぼ無条件に女王のその態度を受け入れた。

だが、英国に侵略され植民地となった前述の国々の人々の中には、女王は謝罪するべきだったと考える者も少なくない。彼らの鬱屈と怨みは将来も生き続けることになる。

片や敗戦国日本の君主である平成の天皇は、歴史に鑑みての義務感と倫理また罪悪感から、日本が戦時に犯した罪を償うべきと考えそのように行動した。

平成の天皇は、戦前、戦中における日本の過ちを直視し、自らの良心と倫理観に従って事あるごとに謝罪と反省の心を示し、戦場を訪問してひたすら頭を垂れ続けた。

その真摯と誠心は人々を感服させ、日本に怨みを抱く人心を鎮めた。そしてその様子を見守る世界の人々の心にも、静かな感動と安寧をもたらした。

同時に平成の天皇の行為と哲学は、過去の誤謬を知らずにいた多くの日本人の中にも道徳心を植えつけ良心を覚醒させた。

平成の天皇は、その意味でエリザベス女王を上回る功績を残したとさえ僕は考える。

エリザベス女王は植民地主義の負の遺産という闇を抱えたまま死去した。

平成の天皇は、日本の誠心を世界に示して薄明を点し、その上で退位した。

日本は平成の天皇が点した薄明を守り大きな明かりへと成長させなければならない。

象徴である天皇が政治に関わらない、というのは建前であり原則論である。天皇はそこにある限り常に政治的存在である。

政治家がそれを政治的に利用するという意味でも、また天皇が好むと好まざるにかかわらず、政治の衣をがんじがらめに着装させられているという意味でも。

天皇は政治に口を出してはならないが、口を出してはならないという建前も含めた彼の存在が、全き政治的存在である。

令和の天皇はそのことを常に意識して行動し発言をすることが望まれる。退位した平成の天皇、明仁上皇がそうであったように。

それはエリザベス女王の治世を引き継いだ英チャールズ国王が、旧植民地の人々に対する謝罪も視野に入れた抜本的なアクションを取るのかどうか、と同じ程度の重要課題である。





ダイコン役者ではなくダイコン演出家が罪作りである

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NHKの朝ドラ「ちむどんどん」の役者がつまらないなら、それは演出がダイコンでありプロデュサーがボケだからである。

役者の力量は役者自身の責任である。役者はそれを背負って出演依頼の声がかかるのを待つ。あるいは出演審査のオーディションに向かう。

役者の力量は目に見えている。それを見抜けないのがダイコン演出家である。

役者の力量を見抜けない彼は、撮影現場では役者の拙い演技に気づかず従ってアドバイスもダメ出しもでずきない。

むろん彼は役者のオーバーアクション(演技過剰)も制御できない。そうやって例えばにーにーの大げさなクサい芝居が次々に繰り出される。

役者がオーバーアクションをするのは、つまり彼が役者だからだ。彼には役者の素質があるのである(素人には過剰演技はできない。過剰演技どころか固まって何もできないのが素人だ)。だから彼は撮影現場まで進出できた。

役者をコントロールするのが演出だ。この場合のコントロールとは、もちろん役者を縛ることではない。演出の意図に合うように彼らを誘導することだ。

役者は台本を読み、演出家と打ち合わせをして、必ず演出の意図に合う芝居を心がけている(大物役者が演出を無視して勝手に動く問題はまた別の議論だ)。

だが役者は独立した一個の個性だから、彼の個性で台本を解釈し演出の意図を読み取り表現しようとする。

演出家は役者の表現が自らの感性に合致しているかどうかを判断してOKを出す。あるいはダメ出しをする。実に単純明快な構図である。

ダイコン演出家は自らの意図が何であるかが分からない。だからコンテンツが乱れ、混乱する。そうやって下手なドラマが完成していく。

「ちむどんどん」の不出来の責任は全て、脚本の下手を見抜けず役者を誘導できない演出の責任である。その演出家を選んだプロデュサーの責任も重い。

だが最大最悪の罪は、脚本を把握し、役者を手中に置き、現場の一切を仕切る演出(監督)にある。

もう一度言う。ドラマがすべりまくるのは役者が下手なのではなく、演出家がダイコンだからだ。

ダイコン演出家の手にかかると脚本も役者もそしてドラマそのものも「大ダイコン」にすべりまくる。

一方で演出は、ドラマが成功すれば脚本の充実も役者の輝きも全て彼の力量故という評価を得る。

演出とはそんな具合に怖い、且つ痛快な仕事だ。

だから視聴者は役者ではなく、「痛快」を楽しむことができるのにそうしない(できない)演出家を罵倒するほうが公平、というものである。



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英国解体のシナリオは「ちむどんどん」の台本よりも真実味がある

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エリザベス女王の訃報に接して、僕の思いは連想ゲームふうに次々に動いている。

もしかするとそれをきっかけに英国の真の解体が始まるかも、とも考える。

英国の民主主義と立憲君主制はゆるぎないものである。

女王の死に続いたチャールズ新国王の議会演説を聞けばそれは明らかだ。

民主主義大国の核心である英国議会では、リズ・トラス首相が就任演説をして新政権が船出した。

それらの全ては英国の民主主義の堅牢を明示している。

でもそれは英国を構成する4か国、即ちイングランド、スコットランド、ウエールズ、北アイルランドの結束を意味しない。

結束どころか、英連合王国内の絆は同国のEU(欧州連合)離脱、即ちBexitを境に軋みっぱなしだ。

なぜならスコットランドが英国から独立してEU参加を模索し、北アイルランドもそれに倣おうとしている。

Brexitを主導したジョンソン前首相は、退陣したものの早くも復活を目指して画策を開始したとも見られている。

英国民の分断を糧に政治目標を達成し続けたトランプ主義者のジョンソン氏は、自らの栄達のためなら英国自体の解体さえ受け入れる類いの男に見える。

僕は2019年このブログに

“英連合王国はもしかすると、Brexitを機に分裂解体へと向かい、ジョンソン首相は英連合王国を崩壊させた同国最後の総理大臣、として歴史に名を刻まれるかもしれない”

書いた

英国は未だにBrexit後の少しの混乱の中にある。だが、一見すると前途は安泰のように見える。

それでも僕は、少しの希望的観測も込めて、英国解体の可能性はかつてなく高い、と考えている。

新国王のチャールズ3世は、日本の現天皇と同様にこれから彼の真価を国民に評価してもらう立場だ。人間力が試される。

彼が国民に受け入れられるかどうかは未知数だ。皇太子時代のチャールズ3世は、必ずしも国民に愛されているとは言えなかった。

英国に関しては、例えチャールズ国王が母女王のレガシーを受け継いでも、スコットランドと北アイルランドの不満が解消されない限り同国解体の可能性は消えない。

エリザベス女王治世時にあった懸念が、チャールズ3世時代にはたちまち消えて無くなると考えるのは理にかなわない。

僕は先刻、希望的観測と記したように個人的に英国解体を密かに願っている。

理由はこうだ:

英連合王国が崩壊した暁には、独立したスコットランドと北アイルランドがEUに加盟する可能性が高い。2国の参加はEUの体制強化につながる。

世界の民主主義にとっては、EU外に去った英国の安定よりも、EUそのもののの結束と強化の方がはるかに重要だ。

トランプ統治時代、アメリカは民主主義に逆行するような政策や外交や言動に終始した。横暴なトランプ主義勢力に対抗できたのは、辛うじてEUだけだった。

EUはロシアと中国の圧力を押し返しながら、トランプ主義の暴政にも立ち向かった。そうやってEUは、多くの問題を内包しながらも世界の民主主義の番人たり得ることを証明した。

そのEUBrexitによって弱体化した。EUの削弱は、それ自体の存続や世界の民主主義にとって大きなマイナスの要因だ。

英連合王国が瓦解してスコットランドと北アイルランドEUに加盟すれば、EUはより強くなって中国とロシアに対抗し、将来生まれるであろう米トランプ主義政権をけん制する力であり続けることができる。

英国の解体は、ブレグジットとは逆にEUにとっても世界にとっても、大いに慶賀するべき未来である。




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多様性のふところ

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‘’ファシスト気質‘’

イタリアでは来たる9月25日に総選挙が行われて、極右政党が主導する政権が樹立される見通しだ。主導するのはファシスト等の流れを汲む「イタリアの同胞」。

ファシストが政権党、と聞けば以前なら思わずぎょっとするところだが、ファシスト気質のトランプ前大統領の登場以降は、どうということもなくなった。

世界にはファシスト気質の政治家や政権が溢れている。トランプ前大統領に心酔する英ジョンソン首相とブレグジッド派勢力、フランスのルペン国民連合党首、ボルソナロ大統領ほかの南米またアジア・アフリカの指導者、などなど。日本の安倍元首相と周辺勢力もそこに親和的だ。

民主主義を無視して、安倍元首相の国葬を強行しようとする岸田政権は、安倍政権の上を行くファシスト気質の統治体制、と言っても構わないのではないか。

それらの政治家や政治勢力は、強権的という意味でプーチン大統領や習近平国家主席、また金正恩総書記などにも似ている。彼らのうちの多くは実際にお互いに友誼を結んでいる関係でもある。

‘’慣れの功罪‘’

伊総選挙後の首相就任がほぼ確実視されている、イタリアの同胞党首のジョルジャ・メローニ氏は、いま述べた世界のファシスト気質の政治家の中でも最もファシストに近い指導者である。

だが彼女は、ファシストどころか極右と呼ばれることも嫌い、自らが率いるイタリアの同胞をかつてのファシスト党のイメージから遠ざける努力を続けてきた。

それは半ば成功し半ば失敗していると言える。イタリアの同胞を支持率トップに引き上げたことが成功であり、彼女が未だに「ファシストと完全に決別する」と高らかに宣言できないところが失敗である。

それでも彼女が政権を握ることは、かつてそうであったほどの脅威にはならない。なぜならイタリアを含む世界は、既述のファシス的性向の指導者や政権に慣れて来ているからだ。

慣れは油断につながり、権力の暴走を許す可能性がある。同時に、対抗政治勢力と国民が、それら危険な権力への対処法を学ぶ原動力にもなる。

2022年現在、世界は剣呑な権力の抑制に成功している。それと言うのもトランプ政権は否定され、ブレグジッドを主導したジョンソン首相も退陣した。またフランスのルペン氏は大統領選で敗れた。

さらにブラジルのボルソナロ大統領の勢いは削がれ、日本では安倍元首相が銃弾に斃れて政治の表舞台から去った。

むろんそれは偶然の出来事だ。だが歴史の大きなうねりは得てして偶然に見える必然も生み出す。その歴史はさらに、岸田政権という強権&忖度集団まで作り出してしまった。

‘’極左と極右は同じ穴のムジナ‘’

一方イタリアでは2018年、極左と極右と定義されることも多い「五つ星運動」と「同盟」が政権を樹立する事態になった。それは欧州を震撼させたが、イタリア共和国は幸いに2党がかねてから主張する脱EUには向かわなかった。

ポピュリスト政権は、EUの意向に反してバラマキ政策を敢行した。と同時にEUとの共存の道も模索し続けた。やがて同盟が離反すると、 五つ星運動はEUと親和的な民主党と連立を組み直して、政権はより穏健になった。

そして今回、正真正銘の極右政党イタリアの同胞が議会第1党になる可能性が出てきた。

それが他の主要民主主義国で起これば一大事だが―そしてむろんイタリアでも強く懸念されてはいるが―この国の核を成している多様性が担保して、極右は強硬保守へと骨抜きにされると思う。

イタリアでは政治制度として、対抗権力のバランスが最優先され憲法で保障されている。そのため権力が一箇所に集中しない、あるいはしにくい。

その制度は、かつてファシスト党とムッソリーニに権力が集中した苦しい体験から導き出されたものである。

同時にそれは次々に政治混乱をもたらす仕組みでもある。が、たとえ極左や極右が政権を担っても、彼らの思惑通りには事が運ばれない、という効果も生む。

過激勢力が一党で過半数を握れば危険だが、イタリアではそれはほとんど起こりえない。再び政治制度が単独政党の突出を抑える力を持つからだ。

‘’多様性が極論を抑える‘’

イタリアが過激論者に乗っ取られにくいのは、いま触れた政治制度そのものの効用のほかに、イタリア社会がかつての都市国家メンタリティーを強く残しながら存在しているのが理由だ。

都市国家メンタリティーとは、換言すれば多様性の尊重ということである。

イタリア共和国は精神的にもまた実態も、かつての自由都市国家の集合体である。

そして各都市国家の末裔たちは、それぞれの存在を尊重し盛り立てつつ、常にライバルとして覇を競う存在でもある。そこに強い多様性が生まれる。

多様性にはカオスに似た殷賑が付き物だ。

都市国家メンタリティーが担保する多様性重視のイタリア社会では、誰もが自説を曲げずに独自の道を行こうと頑張る。その結果、カラフルで雑多な行動様式と、あっとおどろくような 独創的なアイデアがそこらじゅうにあふれる。

多様性を重視するイタリア社会は、平時においては極めて美しく頼もしくさえある。だがそれには、前述のカオスにも似た殷賑が付いて回る。

多様性を否定したい人々はそこを殊更に重視する。そして多様性に伴う殷賑あるいはカオスを、アナーキズムと曲解して多様性を指弾したりもする。

言うまでもなく彼らは間違っている。彼らは千差万別、多彩、人それぞれ、 百人百様、十人十色、 多種多様、、蓼食う虫も好き好き 、など、など、人の寛容と友誼と共存意識の源となる美しいコンセプトを理解しないのだ。

多様性というのはあくまでも絶対善だ。絶対とはこの場合「完璧」という意味ではなく、欠点もありながら、しかし、あくまでも善であるという意味だ。例えば民主主義と同じである。

‘’多様性と民主主義‘’

民主主義はさまざまな問題を内包しながらも、われわれが「今のところ」それに勝る政治体系や構造や仕組みや哲学を知らない、という意味で最善の政治体制だ。

また民主主義は、より良い民主主義の在り方を求めて人々が試行錯誤を続けることを受容する、という意味でもやはり最善の政治システムである。

言葉を変えれば、理想の在り方を目指して永遠に自己改革をしていく政体こそが民主主義、とも言える。

多様性も同じだ。飽きることなく「違うことの良さ」を追求し歓迎し認容することが、即ち多様性である。

多様性を尊重すればカオスにも似た殷賑が生まれる。だがそれは、多様性を否定しなければならないほどの悪ではない。

なぜならそれは、多様性が内包するところの疑似カオス、つまり前記の「個性が思い思いに息づく殷賑」に過ぎないからだ。再び言葉を変えて言えば、カオス風の賑わいがない多様性はない。

多様性の対義概念は幾つもある。全体主義、絶対論、専制主義、統制経済、侵略主義、軍国主義、民族主義、選民主義、チキンゲーム、干渉主義、デスポティズムetc。日本社会に特有の画一主義または大勢順応主義などもその典型だ。

僕はネトウヨ・ヘイト系排外差別主義と極端な保守主義、またそれを無意識のうちに遂行している人々も、多様性の対極にあると考えている。

なぜならそれらの人々には、彼らのみが正義で他は全て悪と見做す視野狭窄の性癖がある。つまり彼らは極論者であり過激派だ。むろんその意味では左派の極論者も同じ穴のムジナだ。

‘’多様性は敵も抱擁する‘’

だが多様性を信奉する立場の者は、彼らを排除したりはしない。 ネトウヨ・ヘイト系排外差別主義や極右は危険だが、同時にそれは多様性の一環でもある、と考えるのである。

多様性の精神は、「それらの人々のおかげで、寛容や友愛や共存や思いやりや友誼、つまり“多様性”がいかに大切なものであるかが、さらに良く分かる」と捉えて、彼らはむしろ“必要悪”であるとさえ結論付ける。

例えば政治危機のような非常時には、国民の平時の心構えが大きく作用する。つまり、多様性のある社会では、政治が一方に偏り過ぎるときは、多様性自体が画一主義に陥り全体主義に走ろうとする力を抑える働きをする。

一方でネトネトウヨ・ヘイト系排外差別主義がはびこる世界では、その力が働かない。それどころか彼らの平時の在り方が一気に加速して、ヘイトと不寛容と差別が横行する社会が出現してしまう。

ここイタリアには、冒頭で触れたように、来たる総選挙を経てほぼ確実に極右政党が主導権を握る政権が誕生すると見られている。

その政権には保守主義を逸脱して、ファシズムへ傾こうとするモメンタムが働くことが十分に予想される。

だがイタリア社会に息づく多様性の精神が、危険なその動きにブレーキを掛ける可能性が非常に高い。

そうは考えられるものの、しかし、油断大敵であることは言うまでもない。



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たいしたことはない

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この世の中でもっとも大きな「たいしたこと」は自分の死である。
死ねば「たいしたこと」の全てはもちろん、ありとあらゆることが消滅するのだから、誰にとっても自らの死は、人生最大の「たいしたこと」である。
ところが死というものは誰にでも訪れる当たり前のことだ。
日常茶飯の出来事である。
毎夜の睡眠も、自らの意志では制御できない無意識状態という意味では、死と同じものだ。
そう考えると、死はいよいよ日常茶飯の出来事となり、「たいしたことではない」の度合いが高まる。
要するに自らの死も、実はたいしたことはないのである。
死という生涯最大の「たいしたこと」も、「たいしたことがない」のだから、もうこの世の中には全くもってたいしたことなど一つもない。
そう考えるとあらゆる不幸や悲しみや病や、たぶん老いでさえ少しは癒やされるようである。
なに事も「たいしたことはない」の精神で生きていけたら、人生はさぞ楽しいものだろう。
だが、そうはいっても、あらゆることを大げさに「たいしたこと」にしてしまうのが、凡人の哀しさである。
そこで、たいしたことはなにもないと達観はできないが、そうありたいという努力はできるのではないか、と考えてみた。
言うまでもなく、どう努力をしても達成できない可能性もある。だが、努力をしなければ、成しえる可能性は必ずゼロだ。
ならばやはり努力をしてみるに越したことはない。
なにごとにつけ、理想を達成するのは至難だ。
だが努力をして理想の境地に至らなくても、「努力をする過程そのもの」がすなわち理想の在りかた、ということもある。
理想を目指して少しづつ努力をすることが、畢竟「理想の真髄」かもしれないのだ。
なのでここはとりあえず、「なにごともたいしたことはなにもない」というモットーをかかげて、ポジティブに考え、前向きに歩く努力だけでも始めてみよう、と自分に言い聞かせる。
言い聞かせた後から、その決意自体が既に、物事を大げさに「たいしたこと」にしてしまっている情動だと気づく。
揺れない、ぶれない、平心の境地とはいったいどこにあるのだろうか。




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 「ちむどんどん」はド~ンと悲しい

ちむどんどん

NHKの朝のテレビ小説「ちむどんどん」をほぼ毎回見ている。

ロンドン拠点にするNHK系列のペイTV早朝、朝8時、昼、さらに夜と一日に4回放送する。そのうちの早朝か8時の放送を見ている。

時間が合わない場合は録画をしておいて鑑賞する。

ドラマとしては突っ込みどころ満載の欠陥作品と言って良い。え?と思わず目や耳を疑うシーンや展開が多い。

だが長丁場のテレビ小説だ。細部の瑕疵は、全体として最終的にうまくまとまれば通常はたいして気にならなくなる。目くじらをたてることはない。

しかし「ちむどんどん」はどうも具合が悪い。ひっかかる小疵が多すぎるばかりではなく、致命的と呼んでもいい欠点も幾つかある。

なんといっても主人公、暢子の兄であるニーニーの人物像がひどい。バカのように描かれているが、彼は実はバカではない。

ドラマで描かれるバカは、演出が確かならバカなりに視聴者はその存在を信じることができる。ところがそこで描かれているニーニーは、存在自体が信じられない。

あり得ない人物像だから彼はバカでさえないのである。

ニーニーは「男はつらいよ」の寅さんのパロディーでもある。しかし完全に空回りしていて目を覆いたくなるほどの不出来なキャラクターになっている。

そこに脚本の杜撰と演出の未熟が負の相乗効果となって、見ている者が恥ずかしくなるようなつらいシーンが、これでもかとばかりに繰り返される。

その展開を許しているプロデューサーの罪も重い。

パロディーはコメディーと同様に作る側は決して笑ってはならない。作る側が面白がる作品は必ずコケる。

「ちむどんどん」の演出は脚本の軽薄を踏襲して、「どうだニーニーは寅さんみたいな愉快な男だろう、皆笑え」と独り合点で面白がり盛り上がっている。

ニーニーは演出家と等身大の人間ではなく、劇中のつまり架空のアホーな存在に過ぎない。そのように描くから面白い。だから皆笑え、というわけだ。

だが劇中でバカを描くなら、演出家自らもバカになって真剣にバカを描かなければ視聴者は決して納得しない。

「ちむどんどん」では演出家はニーニーより賢い存在で、バカなニーニーを視聴者とともに笑い飛ばそうと企てている。

換言すると演出家はニーニーを愛していないし尊敬もしていない。人間的に自分より下のバカな存在だと見なして、そのバカを上から目線で笑おうとしているだけだ。

だから人間としてのニーニーに魂が入らず、作りものの嘘っぱちなキャラクターであり続けている。

怖いことに演出家の姑息な意図はダイレクトに視聴者に伝わる。

視聴者は笑わないし、笑えない。しらける。ニーニーの実存が信じられない。当たり前だ。演出家自身が信じていないキャラクターを視聴者が信じられるわけがない。

演出家は作品の第一番目の視聴者だ。最初の視聴者が身につまされないドラマは、続く視聴者にも受けないのである。

おそらく今後はニーニーは、辛い過去を持つ清恵と結ばれてハッピーエンドとなる展開だろうが、あり得ない登場人物のハッピーエンドもまた空しいものになるだろう。

「ちむどんどん」の最大の瑕疵は、しかし、実存し得ないニーニーの存在の疎ましさではない。

沖縄から上京した主人公の暢子が、いつまで経っても沖縄訛りの言葉を話し続けるという設定が最大の錯誤だ。

沖縄本島のド田舎、北部の山原で生まれ育った暢子は、料理人になるために東京・銀座のイタリアレストランに就職する。

ところが暢子は、厨房のみならずフロアにも出て客と接触し言葉使いも厳しくチェックされる環境にいながら、いつまで経っても重い沖縄訛りの言葉を話し続ける。

沖縄の本土復帰50周年を記念するドラマであり、沖縄を殊更に強調する筋立てだから、敢えて主人公に沖縄訛りの言葉をしゃべらせているのだろう。

だがそれはあり得ない現実だ。日本社会は、東京に出た地方出身者が堂々と田舎言葉で押し通せるほど差別のないユートピアではない。

例えばここイタリアなら、各地方が互いの独自性を誇り尊重し合うことが当たり前だから、人々は生まれ育った故郷の訛りや方言をいつでもどこでも堂々と披露しあう。

お国言葉を隠して、標準イタリア語の発祥地とされるフィレンツェ地方の訛りや、都会のローマあるいはミラノなどのイントネーションに替えようなどとは、誰も夢にも思わない。

多様性と個性と独自性を何よりも重視するのがイタリア社会だ。一方日本は、その対極にある画一主義社会でありムラ共同体だ。異端の田舎言葉は排斥される。

地方出身者の誰もが堂々とお国言葉を話せるならば、日本社会はもっと風通しの良い気楽な場所になっているだろう。

だが実際には地方出身の人間は、田舎言葉を恥じ、それに劣等感を感じつつ生きることを余儀なくされる。なるべく早く田舎訛りを直し、或いは秘匿して共通語で話すことを強いられる。

共通語で話せ、と実際に誰かに言われなくても、田舎者はそうするように無言の、そして強力な同調圧力をかけられる。画一主義が全てなのだ

日本には全国に楽しい、美しい、愛すべき田舎言葉があふれている。だが一旦東京に出ると、田舎言葉は貶められ、バカにされ、否定される。

多様性と個性と‘違い’が尊重されるどころか、軽侮されのが当たり前の全体主義社会が日本だ。言わずと知れた日本国最大最悪の泣き所のひとつだ。

そんな重大な日本社会の問題を無視し、あるいは独りよがりに暢子は問題を超越しているとでも決めつけているのか、彼女いつまでも地方言葉を話し続けるのは、手ひどい現実の歪曲だ。

その設定は、ニーニーの杜撰な人物造形法のさらに上を行くほどの巨大な過失とさえ僕の目には映る。





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極右政権が誕生しそうなイタリア~多様性はそれを保守へとたらし込めるか

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イタリアでは9月25日の投票に向けて激しい選挙戦が展開されている。

世論調査によれば、右派連合が過半数を制して政権樹立を目指す見込み。

右派連合は極右の「イタリアの同胞」と「同盟」、中道右派を自称する「フォルツァ・イタリア」の3党が中心。

このうちファシスト党の流れをくむ正真正銘の極右政党「イタリアの同胞」は、左派で政権与党の民主党をわずかながら抑えて、世論調査で支持率トップを維持している。

それはつまり右派連合が勝った場合、イタリアの同胞のジョルジャ・メローニ 党首がイタリア初の女性宰相になることを意味する。

女性か否かはさておき、極右のイタリア首相の誕生は、EUを筆頭にする世界を震撼させそうだ。だが実際には人々は、冷静に成り行きを観察しているように見える。

それはおそらく反EUを標榜してきたメローニ党首が、その矛先を収めてEUとの共存を示唆し、ウクライナ危機に関してはロシアを否定して、明確にウクライナ支持を表明していることにもよる。

その一方で彼女の盟友のサルビーニ同盟党首とフォルツァ・イタリア党首のベルルスコーニ元首相は、ロシアのプーチン大統領との友誼に引きずられて曖昧な態度でいる。

彼らのスタンスは、ウクライナ支持で結束しているEU各国の不信を招いている。恐らくその反動もあって、メローニ党首の立ち位置が好ましくさえ見えているのだろう。

またイタリアはEUから巨額のコロナ復興支援金を受け取ることが決まっている。

メローニ首相が誕生した場合、彼女は復興支援金を滞りなく受け取るためにも、より一層反EUのスタンスを封じ込めて、EUと協力する道を選ぶことが確実と見られている。

EUをはじめとする世界の見方はおそらく半ば以上正鵠を射ている。

そのことは2018年、議会第1党になった極左の「五つ星運動」が反EUの看板を下ろして、割と「まともな」政権与党に変貌していった経緯からも読み取ることができる。

極右のイタリアの同胞もほぼ間違いなく同じ道をたどると考えられる。連立政権であることもそれに資することになる。

が、同時に-- 五つ星運動が極左の本性もさらけ出しにしたように--彼らが主張する反移民、排外差別主義者の正体もむき出しにするに違いない。

政治的感覚の優れたメローニ党首は、自らが主導するファシストの流れを汲むイタリアの同胞を、かつてのムッソリーニ派につながるイメージから引き離す努力を続けてきた。

それはフランスの極右、国民連合のルペン党首が、反移民・排外差別主義的なこわ持ての主張を秘匿してソフト路線で選挙を戦う、いわゆる「脱悪魔化」と呼ばれる手法と同じだ。

メローニ党首は極右と呼ばれることを嫌い、ファシストと親和的と見なされることを忌諱する。だが同時に彼女は、ファシズムと完全に手を切る、とは決して宣言しない。

なぜか。言うまでもなく彼女がいわゆるネオファシスト的な政治家だからだ。

ネオファシストは、反移民、ナショナリズム、排外人種差別主義、白人至上主義、ナチズム、極右思想、反民主主義などを標榜する。

メロ-ニ党首は明らかにそれらに酷似した主義、思想をまとって政治活動をしている。このうち反移民の立場は進んで明らかにするが、他の主義主張は時として秘匿したり曖昧にしたりする。

それは彼女がファシズムの過去の失態と国民のファシズムアレルギーを熟知しているからだ。ネオファシスト的主張を秘匿し曖昧にすることが、いわゆる彼女の「脱悪魔化」なのである。

イタリアのファシストはファシストを知らなかったが、ジョルジャ・メローニ党首はファシストを知っている。これは大きな利点だ。彼女が過去に鑑みて、ファシズム的な横暴を避けようとするかもしれないからだ。

だが同時に、彼女がファシズムの失敗を研究した上で、より狡猾な方法でファシズムの悪を実践しようとするかもしれない、という懸念もむろんある

なにはともあれ、今このときのイタリアの世論は、右派連合の政権奪還を容認し、メローニ党首の首相就任を「受身」な形ながら是認しているように見える。

それは2018年の総選挙で、イタリア国民が極左の五つ星運動の躍進を容受したいきさつと同じだ。

イタリア国民の大半は現在、バラマキに固執する左派の政策にうんざりしていて、そこに明確に反対する右派に期待を寄せていると考えられる。

実は右派もまたバラマキと変わらない政策綱領も発表している。だがそれは左派の主張より目立たない形での提案なので、国民は大目に見ているというふうだ。

ネオファシスト的体質の、将来のメローニ首相は、選挙戦中と同様に“保守主義者”として自らをアピールしまた政策を推進しようとするだろう。

ファシズムを容認するイタリア国民は皆無に等しい。だから将来のメローニ首相は、国民の気分に合わせるスタンスで政権を運営すると思う。

彼女を批判する場合の最も強い言葉は、例えば保守強硬派、強権主義、保守反動などで、ファシストという言葉は使われないし、使えないに違いない。

ファシズムという言葉がそれだけ侮辱的で危険なものだからだ。そして繰り返しになるが、ファシスト色を帯びた彼女の正体は、彼女自身も認めることをためらう程の悪であるからだ。

そしてその躊躇する心理が、彼女のファシズム的な体質を矯正し、政策をより中道寄りに引き戻して危険を回避する効果があると考えられる。

その傾向はイタリアではより一層鮮明になる。

政治勢力が四分五裂して存在するイタリアでは、極論者や過激派が生まれやすい。

ところがそれらの極論者や過激派は、多くの対抗勢力を取り込もうとして、より過激に走るのではなくより穏健になる傾向が強い。

そこには自由都市国家が乱立して覇を競ったイタリアの歴史が大きく関わっている。分裂国家イタリアの強さの核心は多様性なのである。

イタリア共和国には、都市国家群の多様性が今も息づいている。そのため極論者も過激思想家も跋扈するものの、彼らも心底では多様性を重んじるため、先鋭よりも穏便に傾斜する。

いわば政治的に過激な将来のメローニ首相も、必ずそういう道を辿ると思う。それでなければ彼女の政権は、半年も経たないうちに崩壊する可能性が高い。それがイタリアの政治だ。

極右のメローニ政権が船出する場合の危険と憂鬱は、彼女自身が極右に偏り過ぎることではなく、極右政権を支持する「極右体質」の国民が驕って声を荒げ、暴力的になり民主主義さえ否定しようと動くことだ。

右派が政権を奪取すると、小さな地方都市においてさえ暴力の臭いが増して人心が荒む状況になる。それは僕の住む北イタリアの村でさえ同じだ。

信じられない、と思うならばアメリカに目を向ければ良い。

ファシスト気質のトランプ前大統領が権力を握っていた間、アメリカでは暴力的な風潮が強まり人心が荒んだ。

右翼の、特に極右の最大の不徳は、極左と呼ばれる勢力と同様に、昔も今もそしてこれからも、言わずと知れた彼らの暴力体質なのである。







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燃える欧州、渇くイタリア

半枯れトウモロコシ

欧州はことしは6月から熱波に見舞われた。

フランス、スペイン、ポルトガルなどでは記録的な猛暑が続き、山火事が相次いだ。それは昨年のイタリア南部の状況によく似ていた。

昨年、イタリアでは熱波で気温が上がり、シチリア島ではヨーロッパで過去最高となる48、8℃が観測された。それに合わせて山火事も頻発した。

ことしのイタリアは北部で干ばつが起きた。冬の間もその後もほとんど雨が降らず、川や湖が干上がって農業用水が確保できなくなった。

イタリア最強の大河ポーでさえ至るところで枯渇し、そこを灌漑のよすがにする広大な農業地帯の作物が枯れた。イタリア以外の欧州の国々の多くも同じような被害を被っている。

そんな中、さらなる驚きがやってきた。北国のイギリスで7月、気温がついに40℃を超えたのだ。それは昨年、イタリア南部で気温が48、8℃まで上がった時と同じくらいの大きなニュースになった。

北イタリアの干ばつは8月の雨で一部解消された。だが雨は各地で集中豪雨となり、それ自体が被害をもたらした。まさに異常気象である。

世界の気温は産業革命を機に約1、1度上昇してきた。

増加幅は年々大きくなって、1970年から現在までの気温は過去2000年間でも例のない異様な速度で上がっているとされる。

COP(気候変動枠組条約締約国会議) では、今後の世界の気温上昇を、1、5度までに抑える目標が立てられた。だが、各国の欲と思惑と術数が複雑にからんで達成は難しそうだ。

パリ協定を離脱した政治的放火魔トランプ前大統領や独裁者のプーチン大統領、ラスボス習近平主席、また彼らに追随する世界中の多くの唯我独尊指導者らが幅を利かせる限り、地球はますます熱を帯びて耐えがたくなっていくのではないか。

異常気象が続けばそれが当たり前になってもはや異常とは呼べない。

僕らはもしかすると異常が通常になって、通常が異常になる過程を生きているのかもしれない。

だが、もっとよく考えてみると、気象の異常とはつまり支離滅裂ということだから、やはりそれを尋常とは規定できないだろう。

異常気象はどこまで行っても異常気象なのだ。

ただわれわれ人間も動物も植物も、要するに自然の全てが、きっと異常気象に順応していく。

むろんある程度の犠牲や、混乱や、痛みはあるだろう。でも異常気象に慣れてなんとか生き延びるのだ。歴史はいつもそうやって作られてきた。

幸いなことに人も自然も世界も、しぶとい。

・・という見方が正しかった、と将来われわれが確認できるようなら万々歳だ。

しかし、そうはならない最悪の事態がやって来る可能性も高い。

だからやっぱり今、異常を正常に戻す努力を懸命にしたほうがいい。




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仙人は風邪をひかない

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2021年4月、イタリアの離島で32年間独り暮らしをしていた男が島から転出する、というニュースが注目を集めた。

その男とは当時81歳のマウロ・モランディさん。1989年、イタリアの島嶼州サルデーニャのブデッリ島に移り住んだ。

以来、島のたった1人の住人として生きてきたが、島を管轄するマッダレーナ諸島国立公園の要請で離島することになった。

孤独な男のエピソードは国内のみならず世界の関心を呼び、英国のBBCなどは“イタリアのロビンクルーソー”として彼のこれまでの生き様を詳しく伝えたりした。

モランディさんは人間が嫌いで自然が好き。それが嵩じて、文明から離れて南太平洋のポリネシアの孤島に移り住もうと考えた。

彼は友人とともに航海に出て、サルデーニャ島の北東部にあるマッダレーナ諸島に着いた。そこで働いてポリネシアまで航海を続けるための資金を作ると決めたのだった。

だがブデッリ島を訪ねた際、島の管理人が退職することを知って、そこに移り住むことを決意。以来32年が過ぎた。

モランディさんはインタビューに答えて、32年間健康で風邪一つひかなかったと強調した。

僕はその言葉に強い印象を受けた。

人間は孤独なら風邪をひかない、という真実を確認できたからだ。

コロナパンデミックが起きて以来、僕はインフルエンザにもかからず風邪もひかなくなった。

同居している妻以外の人間とは全くと言っていいほど接触しなかったからだ。

僕は風邪やインフルエンザに愛されていて、それらの流行期にはほぼ必ず罹患する。特にインフルエンザには弱く、しかもかかると高熱が出る。

若いころに横隔膜を傷めていて、それが原因で高熱が出ると医者には言われた。医者は毎年インフルエンザワクチンを打つように勧めた。

僕は懐疑的だった。ワクチンは自然に逆らっているようで危険ではないか、と思い医者にそう伝えた。

彼は即座に言った:

あなたの場合、インフルエンザにかかる度に高熱を出して寝込むことの方がワクチンよりずっと危険です。

目からうろこが落ちた。ワクチンへの僕の信頼はそこから始まった。20年以上前の話だ。

以来、毎年冬の始めにインフルエンザワクチンを打つ。それでもインフルエンザにかかることがある。だが、以前のように高熱が出ることはなくなった。

ワクチンを打っていてもインフルエンザにかかるのは、外に出て他者と接触するからである。あるいは自家に人が訪ねてくるからである。

その証拠に同居人以外にはほとんど会わなかった2020年~2021年の間、前述のように僕全く風邪ひかずインフルエンザにもかからなかった。

独り孤島に生きていマウロ・モランディさんは、風邪をひきたくてもインフルエンザにかかりたくても、ウイルスを運び来る他者がいないため罹患することはなかったのだ。

僕はコロナ感染を避けるために人との接触を絶っていた頃の自分の暮らしを振り返って、“人は孤独ならインフルエンザはおろか風邪さえひかない”としみじみ思うのである。

2020年以降はインフルエンザワクチンと並行してコロナワクチンも接種している。

コロナワクチンを3回接種し4回目を待っていることし(2022年)の春からは、ほぼ普通に外出をし人とも当たり前に会っている。

これまでのところ、コロナはおろかインフルエンザにもかかっていない。だが人との接触が増えた今は、先のことはわからない。



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イタリア・シエナの広場を疾駆する美しき裸馬たち

正面躍動Ⅱ650

コロナ禍で中止されていたイタリア・シエナのパリオが復活しました。

シエナはフィレンツェから70キロほど南にある中世の美しい街。パリオは街の中心の広場で開催される伝統競馬です。

街を構成する「コントラーダ」と呼ばれる17の町内会のうち、くじ引きで選ばれた10の町内会の馬が競い合います。

パリオは毎年7月と8月の2回行われます。8月16日が今年2度目のパリオの日でしたが、悪天候のために一日順延されました。

パリオはずっと存続の危機にさらされてきました。動物愛護者や緑の党などの支持者が、競走馬の扱いを動物虐待と見なして祭りの廃止を主張するのです。

そこにコロナパンデミックがやって来て2年間中止されました。多くの人が祭りの行く末を憂慮しましたが、ことし7月に祭りが再開されました。

パリオは街の中心にある石畳のカンポ広場を馬場にして、10頭の裸馬が全速力で駆け抜けるすさまじい競技です。

なぜすさまじいのかというと、レースが行なわれるカンポ広場が本来競馬などとはまったく関係のない、人間が人間のためだけに創造した、都市空間の最高傑作と言っても良い場所だからです。

カ ンポ広場は、イタリアでも1、2を争う美観を持つとたたえられています。1000年近い歴史を持つその広場は、都市国家として繁栄したシエナの歴史と文化の 象徴として、常にもてはやされてきました。シエナが独立国家としての使命を終えて以降は、イタリア共和国を代表する文化遺産の一つとしてますます高い評価 を受けるようになりました。

パ リオで走る10頭の荒馬は、カンポ広場の平穏と洗練を蹂躙しようとでもするかのように狂奔すます。狂奔して広場の急カーブを曲がり 切れずに壁に激突したり、狭いコースからはじき出されて広場の石柱に叩きつけられたり、混雑の中でぶつかり合って転倒したりします。負傷したり時には死ぬ馬も出ます。

カンポ広場を3周するパリオの所要時間は、1分10秒からせいぜい1分20秒程度。熾烈で劇的でエキサイティングな勝負が展開されます。しかし、それにも増して激烈なのが、このイベントにかけるシエナの人々の情熱とエネルギーです。それぞれが4日間つづく7月と8月のパリオの期間中、人々は文字通り寝食を忘れて祭りに没頭します。

シエナで広場を疾駆する現在の形のパリオが始まったのは1644年です。しかしその起源はもっと古く、牛を使ったパリオや直線コースの道路を走るパリオなどが、13世紀の半ば頃から行なわれていたとされます。もっと古いという説もあります。

パリオでは優勝することだけが名誉です。2位以下は全く何の意味も持たず一様に「敗退」として片づけられます。従ってパリオに出場する10の町内会「コントラーダ」は、ひたすら優勝を目指して戦う・・・と言いたいところですが、実は違います。

それぞれの町内会「コントラーダ」にはかならず天敵とも言うべき相手があって、各「コントラーダ」はその天敵の勝ちをはばむために、自らが優勝するのに使うエネルギー以上のものを注ぎこみます。

天敵のコントラーダ同志の争いや憎しみ合いや駆け引きの様子は、部外者にはほとんど理解ができないほどに直截で露骨で、かつ真摯そのものです。天敵同志のこの徹底した憎しみ合いが、シエナのパリオを面白くする最も大きな要因になっています。

パリ オの期間中のシエナは、敵対するコントラーダ同志の誹謗中傷合戦はもとより、殴り合いのケンカまで起こります。毎年7月と8月の2回、それぞれ4日間に渡って人々はお互いにそうすることを許し合っています。そこで日頃の欲求不満や怒りを爆発させるからなのでしょう、シエナはイタリアで最も犯罪の少ない街とさえ言われています。

長い歴史を持つパリオは、2011年7月のパリオに出走した馬の1頭が、広場の壁に激突して死んで以来、恒常的に存続の危機にさらされています。動物愛護者や緑の党の支持者などが、馬の虐待だと決めつけて祭りの廃止を叫ぶのです。実 はそのこと自体は目新しいものではなく、パリオを動物虐待だとして糾弾する人々はかなり以前からいました。

2011年の場合は事情が違いました。当時ベルルスコーニ内閣の観光大臣だったミケーラ・ブランビッラ女史が、声を張り上げて反パリオ運動を主導したのです。動物愛護家で菜食主義者の大臣は、かねてからシエナのパリオを敵視してきました。事故を機に彼女はパリオの廃止を強く主張し、その流れは今も続いています。

筆者はかつてこのパリオを題材に一時間半に及ぶ長丁場のドキュメンタリーを制作しました。6~7年にも渡るリサーチ準備期間と、半年近い撮影期間を費やしました。NHKで放送された番組は幸いうまく行って高い評価もいただきました。筆者は今もパリオに関心を持ち続け、番組終了後の通例で、撮影をはじめとする全ての制作期間中に出会ったシエナの人々とも連絡を取り合います。

その経験から言いたいことがあります。

パリオで出走馬が負傷したり、時には死んだりする事故が起こるのは事実です。しかしシエナの人々を動物虐待者と呼ぶのは当たらないのではないかと思います。なぜなら馬のケガや死を誰よりも悼(いた)んで泣くのは、まさにシエナの民衆にほかならないからです。街の人々は馬を深く愛し、親しみ、苦楽を共にして何世紀にも渡って祭りを盛り上げてきました。

彼らは馬を守る努力も絶えず続けています。石畳の広場という危険な馬場に適合した馬だけを選出し、獣医の厳しい監査を導入し、馬場の急カーブにマットレスを敷き詰め、最終的には激しい走りをするサラブレッドをパリオの出走馬から外すなど、など。それでも残念ながら事故は絶えません。

しかし、だからと言って歴史遺産以外のなにものでもない伝統の祭りを、馬の事故死という表面事象だけを見て葬り去ろうするのは、あまりにも独善的に過ぎるのではないでしょうか。今日も世界中の競馬場で馬はケガをし、死ぬこともあります。それも全て動物虐待なのでしょうか?

最後に不思議なことに、ブランビッラ元大臣を含むパリオの動物虐待を指摘する人々は、馬に乗る騎手の命の危険性については一切言及しません。また筆者が知る限り、元大臣を含む多くの反パリオ活動家の皆さんは、パリオ開催中のシエナの街に入ったことがない。つまり彼らは、パリオについては、馬の事故死以外は何も知らないように見えます。

そのことに違和感を覚えるのは筆者だけでしょうか?



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8月15日の兵士葬送曲~歴史修正主義者はまた必ず若者を壊す


東条込み世界指導者650

戦後総括の欠落

先の大戦で多くの若い兵士を壊して、戦場で悪魔に仕立て上げた国家権力の内訳は、先ず昭和天皇であり、軍部でありそれを支える全ての国家機関だった。

兵士の悪の根源は天皇とその周辺に巣食う権力機構だったのである

彼らは、天皇を神と崇める古代精神の虜だった未熟な国民を、情報統制と恐怖政治で化かして、縛り上げ、ついには破壊した。

それらの事実敗戦によって白日の下にさらされ、勝者の連合国側は彼らを処罰した。だが天皇は処罰されず多くの戦犯も難を逃れた。

そして最も重大な瑕疵は、日本国家とその主権者である国民が、大戦までの歴史と大戦そのものを、とことんまで総括する作業を怠ったことだ。

それが理由の一つになって、たとえば銃撃されて先日亡くなった安倍元首相のような歴史修正主義者が跋扈する社会が誕生した。


分断

彼らは軍国主義日本が近隣諸国や世界に対して振るった暴力を認めず、従ってそのことを謝罪もしない。あるいは口先だけの謝罪をして心中でペロリと舌を出している。

そのことを知っている世界の人々は「謝れ」と日本に迫る。良識ある日本人も、謝らない国や同胞に「謝れ」と怒る

すると謝らない人々、つまり歴史修正主義者や民族主義者、またネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者らが即座に反論する。

曰く、もう何度も謝った。曰く、謝ればまた金を要求される。曰く、反日の自虐史観だ。曰く、当時は誰もが侵略し殺戮した、日本だけが悪いのではない云々。

「謝れ!」「謝らない!」という声だけが強調される喧々諤々の不毛な罵り合いは実は事態の本質を見えなくして結局「謝らない人々」を利している

なぜなら謝罪しないことが問題なのではない。日本がかつて犯した過ちを過ちとして認識できないそれらの人々の悲惨なまでの不識と傲岸が、真の問題なのである。


岸田政権の危うさ

ところが罵り合いは、あたかも「謝らないこと」そのものが問題の本質であり錯誤の全てでもあるかのような錯覚をもたらしてしまう。

謝らない或いは謝るべきではない、と確信犯的に決めている人間性の皮相が、かつて国を誤った。そして彼らは今また国を誤るかもしれない道を辿ろうとしている。

その懸念を体現するもののひとつが、国民の批判も反論も憂慮も無視し法の支配さえ否定して、安倍元首相を必ず国葬にしようと躍起になる岸田政権のあり方だ。

歴史修正主義者だった安倍元首相を国葬にするとは、その汚点をなかったことにしその他多くの彼の罪や疑惑にも蓋をしようとする悪行である。


功罪

安倍元首相には実績も少なくない。国防と安全保障に対する国民の意識を高めたこともその一つだ。

だがそこには安全保障の負担を一方的に沖縄に押し付ける彼特有の横暴が付いて回っている。外交や経済政策も然りだ。

外交に関しては、彼の多くの外遊やトランプ前大統領との友誼などを良しと考える支持者も多数い。またプーチン大統領との親交でさえポジティブに捉えて評価する者が少なくない。

安倍元首相の多くの外遊はあまたの知己を得て、彼の横死に際して国外から弔辞が殺到する事態になった。

だが国際政治に於ける彼の存在感や力量は、米英仏独等の首脳と比較するまでもなくほぼ無きに等しい。

国際政治の舞台では日本同様に重みのないここイタリアの首脳でさえ、安倍元首相に比べれば一目置かれる存在と断言しても差し支えない。

彼の支持者のネトウヨ・ヘイト系人士や国粋主義者などが、よく知ったかぶりで国際政治に於ける安倍氏の存在感の高さを吹聴する。だがそれは文字通りの知ったかぶりに過ぎない。

そうではあるものの、しかし、安倍元首相が国益を主眼にトランプ前大統領やプーチン大統領と親しくするのは正しい動きだった、とはフェアに言っておきたい


ラスボスたちの罠

だがそうした行動には、安倍元首相の良識と知識と教養が担保するところの、批判精神が秘められていなければならない。

安倍元首相には残念ながらそれが欠落していた。彼は無批判にトランプ前大統領やプーチン大統領に近づいた。のみならず無批判に彼らを称揚したりさえした。

やがてトランプ前大統領は、民主主義を踏みにじることも厭わない危険人物であることが明らかになった。

またプーチン大統領は、先進社会ではもはやあり得ないと考えられていた「侵略戦争」をいとも簡単に始めて、自国民を偽りウクライナ国民を易々と殺戮する大賊であることを自らさらけだした。

大きな不幸は、安倍元首相がトランプ前大統領とプーチン大統領にかねてから付いて回っていた、危険思想や言動また政策等の兆しを見抜けなかったことだ。彼の愚蒙の罪は深い。


修正主義者の闇

だが安倍元首相の最大の汚点は、彼の揺らがない歴史修正主義だったと僕は思う。彼の歴史観は、日本の過去の過誤を過誤と感じない恐るべき無明と無恥と不道徳に支えられている

そこに加えて、著名家系に生まれたことから来る彼個人の優越意識と、近隣アジア諸国に対する日本人としての優越感が加わって、軍国主義日本の行為でさえ是とする悲しい思い込みが生まれた。

同時に安倍元首相には欧米、特にアメリカに対する抜きがたい劣等意識があった。その秘められた闇は彼が2年間アメリアに留学した経験から生まれた可能性が高い。

そう考えれば、米大統領との友情を懸命に演出してはいるものの、トランプ前大統領のポチに徹していただけの、安倍元首相の悲惨な動きの数々が説明できる。


いつか来た道

戦争でさえ美化し、あったことをなかったことにしようとする歴史修正主義者が、否定されても罵倒されても雲霞の如く次々に湧き出すのは、日本が戦争を徹底総括していないからだ。

総括をして国家権力の間違いや悪を徹底して抉り出せば、日本の過去の悪への「真の反省」が生まれ民主主義が確固たるものになる。

そうなれば民主主義を愚弄するかのような安倍元首相の国葬などあり得ず、犠牲者だが同時に加害者でもある兵士を、一方的に称えるような国民の感傷的な物思いや謬見もなくなるはずである。

だが今のままでは、日本がいつか来た道をたどらないとは決して言えない。拙速に安倍元首相の国葬を決める政府の存在や兵士を感傷的に捉えたがる国民の多さはの目にはどうしても少し不気味に映る。





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8月15日の兵士葬送曲~被害者には加害者の自分は見えない


日の丸と敬礼兵士

兵士の本質を語るとムキになって反論する人々がいる。

兵士を美化したり感傷的に捉えたりするのは、日本人に特有の、少し危険な精神作用である。

多くの場合それは、日本が先の大戦を「自らで」徹底的に総括しなかったことの悪影響だ

兵士を賛美し正当化する人々はネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者である可能性が高い。

そうでないない場合は、先の大戦で兵士として死んだ父や祖父がいる人とか、特攻隊員など国のために壮烈な死を遂げた若者を敬愛する人などが主体だ。

つまり言葉を替えれば、兵士の悲壮な側面に気を取られることが多い人々である。それは往々にして被害者意識につながる。

兵士も兵士を思う自分も弱者であり犠牲者である。だから批判されるいわれはない。そこで彼らはこう主張する:

兵士は命令で泣く泣く出征していった彼らは普通の優しい父や兄だったウクライナで無辜な市民を殺すロシア兵も国に強制されてそうしている可哀そうな若者だ、云々。

そこには兵士に殺される被害者への思いが完全に欠落している。旧日本軍の兵士を称揚する者が危なっかしいのはそれが理由だ。

兵士の実態を見ずに彼の善良だけに固執する、感傷に満ちた歌が例えば島倉千代子が歌う名曲「東京だョおっ母さん」だ。

「東京だョおっ母さん」では亡くなった兵士の兄は

優しかった兄さんが 桜の下でさぞかし待つだろうおっ母さん あれが あれが九段坂 逢ったら泣くでしょ 兄さんも♫

と切なく讃えられる。

だが優しかった兄さんは、戦場では殺人鬼であり征服地の人々を苦しめる大凶だったのだ。彼らは戦場で壊れて悪魔になった。

歌にはその暗い真実がきれいさっぱり抜け落ちている。

戦死した優しい兄さんは間違いなく優しい。同時に彼は凶暴な兵士でもあったのだ。

自分の家族や友人である兵士は、自分の家族や友人であるが故に、慈悲や優しさや豊かな人間性を持つ兵士だと誤解される。

兵士ではない時の、人間としての彼らはもちろんそうだっただろう。だが一旦兵士となって戦場を駆けるときは、彼らは非情な殺人者になる。

敵の兵士も味方の兵士も、自分の家族の一員である兵士も、自分の友人の兵士も、文字通り兵士全員が殺人者なのだ。

兵士は戦争で人を殺すために存在する。彼らが殺すのは、殺さなければ殺されるからだ。

だからと言って、人を殺す兵士の悪のレゾンデートルが消えてなくなるわけではない。

兵士は人殺しである。このことは何をおいても頑々として認識されなければならない。

そのことが認識されたあとに、「殺戮を生業にする兵士を殺戮に向かわせるのが国家権力」という真実中の真実が立ち現れる。

真の悪は、言うまでもなく戦争を始める国家権力である。

その国家権力の内訳は、先の大戦までは天皇であり、軍部でありそれを支える全ての国家機関だった。つまり兵士の悪の根源は天皇とその周辺に巣食う権力機構である。

敗戦によってそれらの事実が白日の下にさらされ、勝者の連合国側は彼らを処罰した。だが天皇は処罰されず多くの戦犯も難を逃れた。

そして最も重大な瑕疵は、日本国家とその主権者である国民が、大戦をとことんまで総括するのを怠ったことだ。

それが理由の一つになって、たとえば銃撃されて亡くなった安倍元首相のような歴史修正主義者が跋扈する社会が誕生した。

歴史修正主義者は兵士を礼賛する。兵士をひたすら被害者と見る感傷的な国民も彼らを称える。そこには兵士によって殺戮され蹂躙された被害者がいない。

過去の大戦を徹底総括しないことの大きなツケが、その危険極まりない国民意識である。




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子ヤギ食らいという自罪を見つめて生きる

下を向く木の向こうの銅像650

輿子田さん

ことしの復活祭で子ヤギ肉を食べたあと、先日のギリシャ旅でも子ヤギ&子羊肉(以後子ヤギに統一)を食べる罪を犯しました。あなたに責められても仕方がないと思います。

ただし私があなたの批判を甘んじて受けるのは、あなたが考えるような意味ではありません。私は子ヤギという愛くるしい動物の肉を食らった自分を悪とは考えません。

その行為によって、感じやすいやさしい心を持ったあなたの情意を傷つけたことを、心苦しく思うだけです。

私たちが食べる肉とは動物の死骸のことです。野菜とは植物の亡き骸です。果物は植物の体の一部を切断したいわば肉片のようなものです。

私たち人間はあらゆる生物を殺して、それを食べて生きています。菜食主義者のあなたは動物を殺してはいませんが、植物は殺しています。

動物は赤い熱い血を持ち、動き、殺されまいとして逃げ、殺される瞬間には悲痛な泣き声をあげます。だから私たちは彼らを殺すことが辛く、怖い。

植物は血液を持たず、動かず、殺されても泣かず、私たちのなすがままにされて黙って運命を受け入れています。

彼らは傷つけられても殺されても痛みを覚えない。なぜなら血も流れず、逃げもせず、悲鳴も上げないから。だから私たちは彼らを殺しても、殺したという実感がない。

でも、私たちのその思い込みは本当に正しいのでしょうか?

私たち動物も植物も、炭素を主体にした化合物 、つまり有機化合物と水を基礎にして存在する生命形態です。

動物と植物の命の根源や発祥は共通なのです。だから私たち動物は植物と同じ「生物」と呼ばれ、そう規定されます。

同時に動物と植物の間には、前述の違いを含む多くの見た目と機能の違いがあります。私たちは、動物が持つ痛みや苦しみや恐怖への感覚が植物にはないと考えています。

しかし、その証拠はありません。私たちは、植物が私たちに知覚できる形での痛みや苦しみや恐怖の表出をしないので、今のところはそれは存在しない、と勝手に思い込んでいるだけです。

だがもしかすると、植物も私たちが知らない血を流し(樹液が彼らの血にあたるのかもしれません)、私たちが気づかない痛みの表現を持ち、私たちが知覚できない悲鳴を上げているのかもしれません。

私たち人間は膨大な事物や事案についてよくわかっていません。人間は知恵も知識もありますが、同時に知恵にも知識にも限界があります。

そしてその限界、あるいは無知の領域は、私たちが知るほどに広がっていきます。つまり私たちの「知の輪」が広がるごとに円周まわりの未知の領域も広がります。

知るとは言葉を替えれば、無知の世界の拡大でもあるのです。

そんな小さな私たちは、決して傲慢になってはならない。植物には動物にある感覚はない、と断定してはならない。私たちは無知ゆえに彼らの感覚が理解できないだけかもしれないのですから。

そのことが今後、私たちの知の進化によって解明できても、しかし、私たちは私たち以外の生命を殺すことを止めることはできません。

なぜなら私たち人間は、自らの体内で生きる糧を生み出す植物とは違い、私たち以外の生物を殺して食べることでしか生命を維持できません。

人が生きるとは殺すことなのです。

だから私は子ヤギを食べることを悪とは考えません。強いて言うならばそれは殺すことしかできない「人間の業」です。子ヤギを食らうのも野菜サラダを食べるのも同じ業なのです。

それでも私は子ヤギを憐れむあなたの優しい心を責めたりはしません。その優しさは、私たち人間の持つ残虐性を思い起こさせる、大切な心の装置なのですから。

殺すことしかできない私は、子ヤギ食らいという自罪を畏れつつ、これからもいただく命にひたすら感謝しつつ生きて行きます。




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エーゲ海の島ヤギ・羊肉レシピ~ナクソス・パロス・ミコノス編

シェフ込み子羊子豚丸焼き650


2022年6月のギリシャ旅行でも恒例のヤギ・羊肉料理の食べ歩きをした。

一週間づつ滞在したパロス島とナクソス島では、いかにもギリシャの島々らしい美味しいヤギ・羊肉料理に出会った。

また乗り換え地として旅の終わりに短く滞在したミコノス島では、あっと驚く子羊のモツ料理に遭遇した。

子羊の内臓を腸に詰め込んで炭火でじっくりと炙り焼いたもので、レシピも味も強烈な印象を僕に与えた。

ミコノス島で行き合った激うまレシピを別にすれば、今回旅ではナクソス島のレストランの子羊の丸焼きがベストの味だった。

そのレストランは滞在した家とビーチの間にあった。歩いて1分もかからない。なにしろ家からビーチまではほんの50~60メートルしかなかったのだ。

地元の食材を使ったバラエティに富む料理を提供する店だった。キクラデス諸島で最も大きいナクソス島は、食料の自給自足ができるほどに豊穣な島だ。畜産も盛んで耕作地も山も多い。

店では毎日島産の子豚の丸焼きを提供し、週末には子羊の丸焼きを目玉にしていた。豚の丸焼きは絶妙の味がし、子羊のそれは食べ歩いた限りの島の全店の味を圧倒していた。

ヤギ・羊肉膳は、焼くよりも煮物の方が味に深みがありバラエティにも富む、というのが僕の意見だ。そして煮物は各店の秘伝のタレやスープで煮込まれるのが普通である。

タレやスープの味の違いの分だけ煮込みの数がある。つまり無限ということだ。

一方、肉を焼く場合には味付けは塩と胡椒が基本だ。下味を付けたりバターやタレを塗りこむ手法もあるが、そのやり方では素材の純度が薄れて目覚しい味にはならないようだ。

少なくとも僕が食べた焼きレシピの最上のものは、これまでは全て塩焼きばかりだ。胡椒にバラエティがありハーブなども使うが、基本は飽くまでも塩味である。

頻繁に通ったナクソス島の近場の店は、客からよく見える店内の一角に丸焼き用の釜をおいて、シェフが客の視線を受けながら調理をする。見た目にも食欲をそそる演出で繁盛していた。

パフォーマンスで客を楽しませる店は、見せ物にエネルギーを費やす分調理の力が削がれて味が落ちたりする。

だがその店には失策がなかった。無口で無骨な料理人は、人目などどこ吹く風というふうで肉焼きに集中していた。子豚の丸焼きも子羊肉と同じ手法で調理していてそちらの味も秀逸だった。

ナクソス島では子羊肉の煮物も食べた。ハズレはひとつもなかったが、先に触れたように家の隣の店の丸焼きにかなう味はなかった。同店は独自のソース煮も提供していたが、それも美味かった。

片やパロス島では、焼きレシピには一度も行き合わなかった。島内産のヤギ・子羊肉が豊富なナクソス島とは違って、丸焼きにする素材が少ないということもあるのかもしれない。

パロス島で印象深かったレシピは3点。

ひとつは漁港脇の店で食べた子羊肉のレモンソース煮込み。これは3年前にクレタ島で食べた子ヤギの煮込みによく似ていた。

味はきわめて良かったが、クレタ島の子ヤギのレモンソース煮込みは、これまでに僕が食べた中では1、2を争う味の一品だ。さすがにそれには及ばなかった。

肉の味もやや劣ったが、それを乗せているパスタがいけなかった。それはイタリア以外の国でよく見る茹で過ぎのたるいパスタで、僕は一口食べて文字通り匙を投げた。

ギリシャはイタリアのいわば隣国でパスタ人気も高いが、味は最悪の部類に入る。もっと不運だったのは、パスタの味が肉と全く調和していなかったこと。

肉とパスタがかみ合っていないのは、料理人が自分で食べてみればすぐに気がつくはずなのになぜ?といぶかるほど杜撰だった。

肉の味が悪くなかっただけにますます不思議に感じた。

それに比べてクレタ島のレモンソース煮込みには、白飯が添えられていてヤギ肉との相性が抜群に良かった。

2つ目は、うっそうと茂る木々が濃い影を作っている海際の食堂のエピソード。

店では影が一段と濃い大木の下のテーブル席に座った。するとすぐに年寄りの女性ウエイターが構ってくれた。

メニューに目を通しながら、潮気が皺に染み込んだような味わい深い顔のおばばウエイターとよもやま話をした。店の雰囲気の良さをほめ名物料理を聞いたりした。

テーブルから見える厨房で老人が炭火の世話をしていた。おばばウエイターにあの人がシェフかと聞くと、私がシェフで彼は私の夫、調理のアシスタント、と笑った。なんとおばばはオーナーシェフだったのだ。

オーナーシェフと敢えて言えば、瀟洒な店を想像されそうだが、大木も茂る広い庭付きの民家をレストランに改造した、という印象の店で、むしろ素朴でアットホームな雰囲気が強い。

僕は店と主人への敬意、また親しみを込めて、オーナーシェフをおばばシェフと呼ぶことに決めた。

「厨房に入っていなくてもいいのか」と給仕をするおばばシェフに聞くと、一緒に来なさいと店の中に誘われた。

追いて行くと、厨房の前のガラス棚の中に既に調理された膳部と仕込みの終わった食材が整然と並べられていた。

一日分のレシピをしっかり準備しておいて、できる限り客との接触も楽しむのだ、とおばばシェフは流暢な英語で語った。

シェフの得意料理だというムサカと肉団子、天ぷら風の揚げ物の3品に加えて、僕の目指す子羊の煮込みも頼んだ。

壷風の食器で供された子羊の煮込みは上等の味だった。先に頼んだ既述の3品も、おばばシェフ独自の工夫がてんこ盛りになっていて非常に美味だった。

3つ目はおばばの店の翌日。

島では最も山深いレストランに向かった。そこでの興味はひたすら子羊料理だった。山深い店には美味いヤギ・羊肉料理がある。これまでの経験がそう教えていた。

山の集落の入り口付近に子羊膳を提供している店があった。早速頼んだ。子羊のトマトソース煮込みに焼きジャガイモが添えられた一品が出てきた。

ここに書くくらいだから味が良かったのは言うまでもない。だが正直に言えば強烈に印象に残るほどのものではなく、普通以上に美味しい、というふうだった。

こうして見ると、今回旅ではミコノス島で出会った子羊モツの炙り焼きがやはり圧巻だった。その次に印象に残ったのが、ナクソス島の海際の、家から歩いてすぐの店の子羊の丸焼き。

旅ごとにまとめる、僕の独断と偏見によるヤギ・羊肉レシピのランク付けの1位と2位が、ソース煮込みではなくモツ焼きと子羊の丸焼きという「焼きレシピ」に収まったのは珍しい結果である。




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斧で指を切断したイタリア人学者の武士道

禅円中の鎧武士600


2020年、イタリアが世界に先駆けてコロナ地獄にさいなまれ医療崩壊に陥った時、医師不足を補うために300人の定年退職医師の現場復帰を求めたところ、たちどころに8000人もの老医師の応募があった。

彼らベテランの医師たちは、コロナが主に高齢者を攻撃して死に至らしめることを熟知しながら、年金生活者の平穏な暮らしを捨てて危険な医療の現場に敢然と飛び込もうとしたのだ。

老医師らの使命感と勇気は目覚ましいものだったが、当時は実は一般のイタリア国民も、先行きの見えないコロナパンデミックの恐怖の底で、彼らなりの勇気をふるって必死にコロナと向かい合っていた。

普段はひどく軽薄で騒々しい印象がなくもないイタリア国民の、ストイックなまでに静かで勇猛果敢なウイルスとの戦いぶりは、僕を感動させた

彼らの芯の強さと、恐れを知らないのではないかとさえ見えた肝のすわった態度はまた、作家のダーチャ・マライーニとその父フォスコのエピソードも僕に思い起こさせた。

ノーベル文学賞候補にも挙げられる有力作家のダーチャ・マライーニは、アイヌ文化の研究家だった父親に連れられて2歳から9歳までを日本で過ごした。

第2次大戦末期の1943年、ドイツと反目していたイタリアは連合国と休戦し、日独伊3国同盟の枠組を離れて日本の「友邦」から「敵国」になった。

ヒトラーはイタリア北部に傀儡政権サロー共和国を樹立。日本にいるイタリア人はそのナチス・ファシズム国家への忠誠を誓うように求められたが、ダーチャの両親はこれを拒否した。

その結果、一家は名古屋の収容所に入れらる。家族は敵性国家の国民として収容所で虐待された。

食事もろくに与えられないような扱いに怒りを募らせたダーチャの父フォスコは、待遇の改善を要求して抗議のために斧で自らの左小指を切断した。

フォスコ・マライーニの勇猛な行動に震え上がった収容所の監視役の特高は、ヤギを調達して父親に与えた。

フオスコ・マライーニはその乳を搾ってダーチャと兄弟に与えて飢えをしのいだ

そのエピソードはダーチャの両親やダーチャ自身によってもあちこちで語られ書かれているが、僕は10年以上前に作家と会う機会があって、彼女自身の口からも直に聞くことができた。

父親の豪胆な行動は、日本国家と家族を現場で虐待する看守らへの怒り、と同時に家族を守ろうとするひとりの父親の強い意志から出たものだ。

彼はその行為をいわば切腹のような武士の自傷行為に見立てたのである。

指を切る日本の風習は、武家社会で誓文に血判をする時などに見られたもの。

江戸時代には遊女がそれを真似する陋習が生まれ、それをさらにヤクザが真似しやがて曲解して、いわゆる「指詰め」の蛮習へと発展する。

フォスコ・マライーニの記憶の中には、武士の自傷行為は潔癖と勇猛の徴として刻まれていた。彼は武士に倣って激烈な動きで異議申し立てをしたのである。

収容所で一家を監視していたのは前述の特高である。彼らの多くは粗野で小心で品性下劣だった。旧日本軍の中核を成していた百姓兵士と同列の軍国の走狗である。

今で言えば、正体を隠したままネット上で言葉の暴力を振るうネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者や、彼らに親和的な政治家、似非文化人、芸能人等々のようなものか。

収容所では侍の精神は日本人ではなく、フオスコ・マライーニの中にこそ潜んでいた。

フォスコ・マライーニの壮烈なアクションは、コロナパンデミックの最中に死地に赴こうとした8000人のイタリア人老医師の勇気に通底している。

8000人の年老いた医師の魂の中には、カトリックの教義の刷り込みがある。片やフォスコ・マライーニの魂には、最善の形での武士の精神の刷り込みが見られる。

そしてそれらの突出した強さは-繰り返しになるが-コロナ地獄の中では一般の人々によってもごく普通に顕現されていた。

善男善女によるボランティアという形での献身と犠牲の尊い働きがそれだ。

死と隣り合わせの医療現場に突き進んだ退役医師のエピソードはほんの一例に過ぎない。

当時は多くのイタリア国民が、厳しく苦しいロックダウン生活の中で、救命隊員や救難・救護ボランティアを引き受け、困窮家庭への物資配達や救援また介護などでも活躍した。

イタリア最大の産業はボランティアである。

イタリア国民はボランティア活動に熱心である。彼らは誰もがせっせと社会奉仕活動にいいそしむ。

善良なそれらの人々の無償行為を賃金に換算すれば、莫大な額になる。まさにイタリア最大の産業だ。

無償行為の背景には、自己犠牲と社会奉仕と寛容を説くカトリックの強い影響がある。

カトリックの教義は、死の危険を顧みずに現場復帰を申し出た老医師らの自己犠牲の精神と、ボランティアにいそしむ一般国民の純朴な精神の核になっている。

それはさらに、学者であるフォスコ・マライーニが、家族のためにささげた自己犠牲、つまり斧で自分の指を切断するという果断な行為にもつながっている。

武士道は筋肉を鍛え上げたサムライの険しい肉体だけに宿るのではない。

自己犠牲を恐れないか弱い女性や善良な男たち、また年老いた医師たちの中にもある気高く尊い精神なのである。





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安倍元首相の国葬に反対する

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安倍元首相を国葬にするのは、日本の民主主義の底の浅さと、過去に大きく国を誤った保守強硬派の呪縛が依然として強いことの証しのようで違和感を拭えない。

犯行が容疑者の個人的な恨みによるものなら、民主主義云々を言い立てて元首相を国葬にするのは欺瞞だ。権力の乱用と批判されても仕方がないのではないか。

国葬にする理由を問われて岸田首相は、①長期間に渡る政権運営、②多くの分野で重要な実績をあげたこと、③国内外、特に外国から多くの哀悼のメッセージが寄せられていることなどを挙げた。

その上で岸田首相は「わが国は暴力に屈せず、断固として民主主義を守り抜く」と、あたかも銃撃事件が政治的・思想的動機に基づくもの、と決めつけるような主張を繰り返した。

個人的怨恨が犯行の動機らしいという重要な情報を敢えて無視して、論点をずらそうとでもするような相変わらずの奇妙な言動だ。

安倍元首相の理不尽な死に対しては衷心から哀悼の意を表しつつ、僕は礼賛一辺倒の議論や報道に対しては強い疑問を持つ。

同時に彼の国葬についても反対する。何よりも法的根拠が希薄だ。また功罪ある元首相の実績を、あたかも功のみであるかのように言い募る誤魔化しにはとてもついていけない。

元首相と旧統一教会の癒着についても徹底的に解明されるべきだ。それ以前の曖昧な状況下で国葬を決定するのは、「民主主義を守る」どころか、逆に民主主義に反する所業だ。

犯行の動機や影響についての考察、元首相の実績への賛否や是非、また国葬に対する賛否両論などが多数出回っている。国葬賛成論は岸田首相のそれにほぼ集約されるように思う。

僕自身は安倍元首相の実績には多く疑問を持ち、国葬に対しては明確に反対の立場だが、外国に住んで日本を客観的に眺める立場からもう少し踏み込んだ意見を述べておきたい。

まず岸田首相が明言した国葬の理由について:

長期間に渡る政権運営が国葬に値するというのは、法的にも歴史的にも倫理的にも破綻した主張だ。

長く政権を担うことが国葬にあたるなら、ここイタリアのベルルスコーニ元首相も合計で10年近くに渡り首相を務めた。実績も少なくない。だが醜聞にまみれた彼が国葬に値するといえば、悪魔や鬼がしてやったりと笑うだろう。

またドイツのメルケル前首相は、2005年から2021年まで実に16年間も政権を維持した。だが民主主義と法の支配が堅固なドイツでは、彼女が「無条件に」国葬になることはあり得ない。国葬の条件は法律に明記されている。

一方で安倍元首相を国葬にするのは、国葬令が1947年に失効した現在は違法だ。岸田首相の言う「内閣府設置法」 の適用はこじつけにしか見えない。

安倍元首相は多くの分野で重要な実績をあげたことは事実だが、同時に多方面で民主主義に逆行したり欺瞞にまみれた政策、言動にも終始した。森友・加計・桜を見る会などがそうだ。

また民意に反して辺野古に新基地建設を強行するなどの横暴も見逃せない。

加えて自らの死と引き換えに、山上容疑者によって旧統一教会との癒着疑惑まで暴かれてしまった。

多くの闇と罪に目をつぶって拙速に国葬を決め、国民を分断するほどの強い反対意見があるにもかかわらずにそれを無視しようとするのは、あるいは何か別の意図でもあるのだろうか。

安倍元首相首相の悲劇的な最期を受けて、内外から多くの哀悼の意が示されるのは当たり前すぎて国葬の理由になどなり得ない。

9年近くも日本の首相を務めた安倍元総理は、G7ほかの国際会議にも必ず出席し外遊も多くした。彼の政治信条がどうであれ、世界中の指導者や著名人が弔意を示すのは外交儀礼上も当然のことだ。

再びここイタリアのベルルスコーニ元首相にからめて言う。

もしも今ベルルスコーニ元首相が死去するなら、彼に敵対した人々も含めて多くの哀悼のメッセージが寄せられるだろう。暗殺などの横死である場合には、さらに多くの同情と弔意が殺到するのは必至だ。

人の死とはそういうものだ。ましてや安倍元首相は長く日本国のトップに君臨した人物だ。彼が「実際には何者であるか」には関係なく、哀悼の意が多く集まるのが当たり前だ。

国外から寄せられる多くの弔意の裏にある本音を見逃してはならない。

それはこうだ:

「日本が近隣国を始めとする世界に振るった暴力を否定したがる、歴史修正主義者としての安倍元首相には怒りを覚えるが、暗殺者によって不慮の死を遂げた彼に強い憐憫の情を表明します」というものだ。

良識と良心を持つ「米国を含む」世界の知性の多くは、安倍元首相の姑息な歴史修正主義を完全に見抜いていて、絶えず監視の目を向け警戒心を抱き続けてきている。

それが見えないのは、“外交辞令“とさえ呼べる類いの国際儀礼の多くを、本音と取り違える初心な人々や、安倍元首相を救世主と崇めるネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者くらいのものではないか。

安倍元首相は、日本の過去の過ちを認めず、軍国主義日本の被害者の国々や人民に謝ることを拒否した。だが彼の致命的な誤謬は、「謝らないこと」ではない。

日本の過去の過ちを過ちとして認識できないこと自体が問題なのだ。過ちと認識できないのは無明と優越意識のなせるわざだ。そこに確信犯的な思い込みが加わると真実はいよいよ遠のいて見えなくなる。

理由が何であれ日本の過去の過ちを過ちとして認識できないから、安倍元首相は平然と歴史を修正し、あったことをなかったことにするような言動を続けたのだ。

再び言う。

安倍元首相が銃撃され亡くなったのは、悲しいあってはならない惨劇だった。山上容疑者の行為と背後関係者は徹底して糾弾されるべきだ。

同時にこの事件に対しては「生前がどうであれ死ねばみな仏。死者に鞭打つな」という日本に顕著な美徳(世界にも同様の考え方は多い)を適用してはならない。

なぜなら政治家などの公人は、必要ならば死者も大いに鞭打つべきだ。

ましてや権力の座にあった者には、職を辞してもたとえ死しても、監視の目を向け続けるのが民主主義国家の国民のあるべき姿だ。なぜなら監視をすることが後世の指針になる。

公の存在である政治家は、公の批判、つまり歴史の審判を受ける。受けなければならない。

「死んだらみな仏」という考え方は、恨みや怒りや憎しみを水に流すという美点もあるが、権力者や為政者の責任をうやむやにして歴史を誤る、という危険が付きまとう。決してやってはならない。

他者を赦すなら死して後ではなく、生存中に赦してやるべきだ。「生きている人間を貶めない」ことこそ、真の善意であり寛容であり慈悲だ。だがそれは、普通の人生を送る普通の善男善女が犯す「間違い」に対して施されるべき、理想の行為だ。

安倍元首相は普通の男ではない。日本最強の権力者だった人物だ。日本の将来のために良い点も悪い点も全て洗い出して評価しなければならない。

それをしないまま、あるいは賛美一辺倒の偏った評価だけに基づいて国葬が執り行われるのは、民主主義を守るのではなく民主主義を踏みにじる許し難い行為、と重ねて主張したい。



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