【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

Ratzingerの置き土産

Ratzi背中

ほぼ10年前、719年ぶりに自由意志によって生前退位し名誉教皇となったベネディクト16世が、12月31日に死去した。

葬儀は1月5日にバチカンで執り行われる。

厳しいようだが僕は彼に対しては、安倍晋三元首相と同様に「死ねばみな仏、悪口を言うな」という美徳を適用してはならないと考えている。

なぜならベネディクト16世は聖職者でありながら大いなる権力者でもあったからだ。

僕は彼の死に際しては、残念ながら3年前に彼が隠遁生活からふいにゾンビのようによみがえった時に覚えた違和感と同質の感慨しか抱けない。

その気分は次の記事の中に存分に盛り込まれている。

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52299307.html


参照:

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52298622.html







金に転んだ天才を惜しむ

ronaldoピッチで泣く650

W杯にからめてサッカー記事ばかり書いてきて、少し飽きて、もう余程の出来事がない限り2024年の欧州杯までサッカー話は封印、と思った。

が、しかし、気が変わって、ロナウドのサウジアラビアへのスーパー札束移籍についてはやっぱり書いておこうと決めた。

ロナウドは年俸2億ユーロ、日本円にして280億円でサウジのアルナスルと契約した。

は?と聞き返しても金額は変わらない。バカバカしいと怒っても現実は現実だ。怒るのは羨望ゆえの気の歪みに過ぎない。

もっとも怒っているのは僕ではない。

僕はため息をついているほうだ。ロナウドのキャリアの終焉と、サウジアラビア人の途方もない金銭感覚を嘆いて。

ロナウドは先日のW杯では監督に盾ついて干された。それは残念な“事件”だった。

ロナウドほどの選手は、負傷していない限りたとえ何があっても試合に出るべきだとそのとき思い、今もそう考えている。

ポルトガルからの情報では、民意ははじめ監督に同情的だった。だがまもなく、やはりロナウドを出場させるべき、と変化したという。

だが時すでに遅く、ポルトガルは準々決勝でモロッコに敗れた。

ロナウドの思い上がった態度が軋轢の原因だったらしい。それは遺憾なことだが、監督はぐっとこらえてロナウドをピッチに送り出すべきだったのだ。

なぜならロナウドは全盛期を過ぎたとはいえ、依然としてひとりでゲームをひっくり返すほどの力量を備えた選手だ。

監督がプレイをするのではない。監督の仕事は選手を鼓舞して試合に勝つことだ。ならば何としても勝利を呼び込む力を持つ選手を外すべきではなかった。

何が言いたいのかというと、僕は天才メッシと並び称される天才のロナウドが、まだ欧州のトップリーグの第一線で活躍できるのに、5流リーグのサウジアラビアに行ってしまったのが悔しいのだ。

彼は所属していた古巣のマンチェスターユナイテッドとも対立していた。だがW杯で活躍してさらなる飛躍を遂げるだろうとも見られていた。

しかしW杯でベンチを温めることが多かったため機会は訪れずチームも敗退した。結果彼は、金だけが魅力の中東のチームに去った。

欧州や南米のスーパースターの多くは、キャリアの終わりには米国や中東の3流以下のリーグに移籍して大金を稼ぐのが当たり前だ。中国や日本に流れる選手もいる。

従ってロナウドがサウジアラビアのチームのオファーを受けたのは驚きに値しない。莫大な年棒も彼の広告塔としての価値を考えればうなずけないことはない。

彼が作った移籍金や年棒の記録は、今後メッシやネイマールはたまたエンバペなどによって更新されていく可能性が高い。

なので僕はそのことにもあまり違和感を抱かない。

繰り返しになるが、僕はCロナウドという稀代のサッカーの名手が“早々”とキャリアを終わらせたことが残念でならないのである。

37才のロナウドのキャリアはすでに終わったと考えるのは間違いだ。

選手寿命が伸び続けている現在、彼は少なくともあと数年は欧州のトップチームで躍動し続けることができたに違いない。

返す返すも残念である。

サッカーには人心の写し絵という深刻な一面もある

gol_Asano650

2022年W 杯決勝戦を戦ったアルゼンチンとフランスのどちらを応援するか、という世論調査がイタリアで行われた。

そこではおよそ7割がアルゼンチン、2割がフランス、1割は両方あるいはどちらでもない、と回答した。

いくつかの統計があったが、いずれも圧倒的にアルゼンチン支持が多かった。

アルゼンチンにはイタリア移民が多い。

その影響もあるのだろうが、イタリアのプロサッカーリーグのセリエAでプレーするアルゼンチン人選手も少なくない。

付け加えれば、アルゼンチンのスーパースター・メッシもイタリア系(祖父)である。メッシという名前もイタリアの姓だ。

その統計は、しかし、イタリア人がフランスを好いていないという意味ではないと思う。

なぜなら例えばフランスとドイツが対決したならば、ほぼ間違いなくフランス支持が7割、ドイツ支持が2割というような数字になるからだ

W杯の優勝回数だけを見れば、イタリアとドイツは南米のブラジルとともに世界サッカーのトップご3家を形成する。

イタリアにとってはブラジルもドイツもライバルだが、ブラジルは同じラテン系なのでより親近感を覚える。

片やドイツはライバルだが、歴史と欧州の先進民主主義国の理念を共有する国としてやはり強い愛着を感じる。

ところがドイツはかつてヒトラーを持った国である。ドイツ国民は必死でヒトラーの悪を清算し謝罪し否定して、国民一丸となって過去を総括・清算した。結果彼らの罪は大目にみられるようになった。

だがドイツに対する欧州人の警戒心が全て消えたわけではない。何かのネジがゆるむとドイツはまたぞろ暴虐の奔流に支配され我を忘れるのではないか、と誰もがそっと憂慮しながら見つめている。

欧州の人々が密かにだが断固として抱えているドイツ人への不信感は、彼らが国際政治の舞台で民主主義の旗手となって前進する今この時でも変わらない。

イタリア国民はW杯で日本がドイツを破ったとき狂喜した。

彼らが普段から日本びいきという事実に加えて、ドイツがサッカーではライバル、政治的にはナチスの亡霊に囚われた国としての反感がどうしてもくすぶるからだ。

戦争を徹底総括したドイツに反感を持つなら、それさえしてこなかった日本にはもっと嫌悪感を持ってもいいはずだが、何しろ日本は遠い。直接の脅威とは感じ難いのである。

先の大戦中、日独伊三国同盟で結ばれていたドイツとイタリアは、1943年に仲たがいが決定的になった。同年10月3日、イタリアはドイツに宣戦布告。

イタリアは開戦後しばらくはナチスと同じ穴のムジナだったが、途中でナチスの圧迫に苦しむ被害者になっていった。ドイツ軍によるイタリア国民虐殺事件も多く発生した。

戦後、イタリアがドイツに対して、ナチスに蹂躙され抑圧された他の欧州諸国と同じ警戒感や不信感を秘めて対することが多いのは、第2次大戦におけるそういういきさつがあるからである。

イタリア人を含めた全てのヨーロッパ人は、ドイツの経済力に感服している。同時にドイツ以外の全てのヨーロッパ人は、心の奥で常にドイツ人を警戒し監視し続けている。

彼らはヨーロッパという先進文明地域の住人らしく、ドイツ人とむつまじく付き合い、彼らの科学哲学経済その他の分野での高い能力を認め、尊敬し、評価し、喜ぶ。

しかし、ドイツ人は彼らにとっては同時に、残念ながら未だにナチズムの影をひきずる呪われた国民なのである。

いや、ヨーロッパ人だけではない。米国や豪州や中南米など、あらゆる西洋文明域またキリスト教圏の人々が、同じ思いをドイツ人に対して秘匿している。

欧米諸国のほとんどの人々は、前述したようにドイツ国民の戦後の努力を評価し、ナチズムやアウシュヴィッツに代表される彼らの凄惨な過去を許そうとしている。あるいは許した。

しかし、それは断じて忘れることを意味するのではない。

「加害者は己の不法行為をすぐに忘れるが被害者は逆に決して忘れない」という理(ことわり)を持ち出すまでもなく、ナチスの犠牲者だった人々はそのことに永遠にこだわる。

それは欧米に住んでみれば誰でも肌身に感じて理解できる、人々の良心の疼きである。「許すが決して忘れない」執念の深さは、忘れっぽいに日本人には中々理解できないことだけれど。

既述のようにイタリアは、第2次対戦ではドイツと袂を分かち、あまつさえ敵対してナチスの被害を受けた。だが、初めのうちはナチスと同じ穴のムジナだった。

イタリアにはそのことへの負い目がある。だからイタリア国民は他の欧米諸国民よりもドイツ人を見る目が寛大だ。

だが、ことサッカーに関する限り彼らのやさしい心はどこかに吹き飛ぶ。

そこに歴史の深い因縁があると気づけば、僕は自分の口癖である「たかがサッカー。されど、たかがサッカー」などとふざけてばかりもいられないのである。



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神の手と神の足

躍るメッシ蹴るマラドーナ650

2022年ワールドカップ・カタール大会決勝戦の翌日、イタリアの新聞(写真)にはメッシを「神の足」を持つ男と称える見出しが躍った。

「神の足」という形容は、1986年のワールドカップ・メキシコ大会の準々決勝戦で、マラドーナがイングランドを相手にボールを手で触ってゴールに押し込んだ、いわゆる「神の手」ゴールのエピソードになぞらえたものだ。

大物議をかもしたその事件は、マラドーナの偉大さが呼んだ審判の誤審という見方と、スポーツマンにあるまじき彼の狡猾なアクション、という考え方がある。

どちらも正しく、どちらも間違っていて、どうでもいいじゃん、サッカーが面白ければ、というのが僕の意見である。

へてからに

サッカーは手ではなく足が主体のスポーツだから、「神の足」を持つ選手が正当であり、その意味でもマラドーナとメッシのふたりの神のうちでは、やっぱりメッシが上なのかな、と思ったりするのである。







2022W杯決勝戦は筆舌無用の大活劇だった

メッシ雄叫び走り

深い悲しみ、怒り、喜びなどの感情の奔流の前には言葉は存在しない。

そのとき人はただ泣き、叫び、哄笑するだけである。つまり感情の激流は言葉を拒絶する。

感情が落ち着いたとき初めて人は言葉を探し言葉によって自らの感情を理解しようとし、他者にも伝えようとする。

それが表現であり文学である。

W杯決勝戦のフランスVSアルゼンチンを、人の深い感情になぞらえて言葉が存在しないほどの劇的なせめぎあいだったと言えば、それは少し言葉が過ぎるかもしれない。

しかし、試合はそんな言い方をしても構わないのではないか、と思えるほどの驚きと興奮と歓喜にあふれた世紀のショーだった。

人が書くドラマには伏線とどんでん返しがある。だがそれは筋書に沿った紆余曲折である。

サッカーのゲームには筋書がない。それは世界トップクラスの選手たちが、彼ら自身も知らない因縁に導かれて走り、飛び、蹴り、躍動する舞台である。

ドラマを紡ぎ出す因縁はしかし、神によって描かれた予定調和ではない。一流のアスリートたちが汗と泥にまみれて精進し、鍛え、苦しみ、闘い抜いた結果生まれる展開だ。

つまりスそれは選手たちの努力によっていくらでも書き変えることができるいわば疑似宿命。

だから人は彼らの躍動を追いかけ、なぞり、復唱し自らの自由意志にも重ね見て感動するのである。

2022W杯の決勝戦におけるドラマのほとんどは、両チームのスーパースターによって生み出された。

アルゼンチンはメッシ、フランスは若きエースのエンバペである。

2人はゴールをアシストし、ゲームを構築しつつ相手ディフェンダーたちを引きつけて味方のためにスペースを作り、パスを送りパスを受けて攻撃の起点となって躍動した。

そして何よりも重要なのは、彼ら自身が次々とゴールを決めたことだ。それは眼を見張るような劇的な働きだった

特にアルゼンチンのメッシの活躍は世界サッカーの歴史を書き換える重要なものになった。

彼はここまでに数々の記録を打ち立ててきた途方もない名手だが、自国の天才マラドーナと比較すると格落ちがすると批判され続けた。

それはひとえにメッシがナショナルチームにおいてマラドーナほどの貢献をしてこなかったからだった。

中でもワールドカップでの活躍、とりわけ優勝の経験がないのが致命的とされてきた。

そのメッシが今回大会では見違えるような動きをした。彼はマラドーナが1986年のW杯をほとんどひとりで勝ち進んだ雄姿をも髣髴とさせるプレイを見せた。

人によって多少の評価の違いはあるだろうが、メッシはW杯前の時点で数字的には既にマラドーナを凌駕していた。

だが彼のキャラクターはマラドーナほどには民衆に愛されない。

それは例えばかつて日本のプロ野球で、2大スターの長嶋と王のうち、成績では王が断然勝っているものの、人気では長嶋が王を圧倒してきた事例によく似ている。

民衆は完璧主義者の王よりも、明るくハチャメチャな雰囲気を持つ長嶋に心を惹かれてきた。マラドーナはアルゼンチンの長嶋でメッシは王なのである。

だが歴史が進行し、選手たちの生の人間性への興味が失われたときには、彼らが残した数字がクローズアップされるようになる。

そのときに真に偉大と見なされるのは成績の勝る選手である。

メッシはその意味で将来、文字通りマラドーナもペレをも凌ぐ史上最高のサッカー選手と規定されることが確実である。

その場合にメッシの名とともに永遠に語られのが、2022年のカタール大会であることは言うまでもない。




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めでたさは中くらいなりW杯3~4位決定戦

燃えるモドリッチ

さて今日はW杯の3~4位決定戦の日である。クロアチアVSモロッコだ。

W杯に3~4位決定戦は必要か否か、という論争がある。僕は賛成でもあり反対でもあるという中途半端な立場だ。

反対の理由は、W杯の大舞台で4強に入ったチーム、つまり準決勝まで戦ったチームには、3、4位の順番付けなど要らないのではないか、と思うから。

例えば夏の高校野球など多くの大大会でも順位付けは優勝と準優勝だけだ。それ以外は4強、8強、16強などとまとめる。

その方が勝ち進んだチームの全てを讃える感じがあって良いように思う。3、4位があるなら、5位も6位もそれ以下も順位付けをしなければ理屈に合わない。

また優勝を目指して全力を尽くした準決勝敗退の2チームに、果たして3~4位決定戦を戦う十分な動機付けがあるか、という疑問もある。W杯の頂点を目指すことと3位を目指すことの間には、意欲という意味では大きな落差があるのではないか。

逆に3位決定戦もあった方が良いと考えるのは、純粋に1人のサッカー・ファンとして、W杯4強にまで残ったチームの試合を1つでも多く見ていたいから。

出場する選手には決勝戦に臨むほどの熱い気持ちは無くても、ピッチに立てば相手のあることだから彼らはやはりそれなりに燃えて、勝ちに行こうとして面白い試合展開になる。過去の例がそれを証明している。

準決勝で苦杯をなめたチームに敗者復活戦にも似たチャンスを与える、という意味合いからも3~4位決定戦に賛成したい。

クロアチアVSモロッコは、いわばサッカー新興国同士の対戦と言っても構わないだろう。

クロアチアは過去にも同じ試合を経験し、前回ロシア大会ではそこを超えて決勝戦まで駒を進めた。従って新興国と呼ぶのはあたらないかもしれない。

だがクロアチアは、もうひとつのビッグイベント欧州杯ではベスト8が最高でそれほどパッとしない。世界の強豪国に比較するとほぼ常にダークホース的存在に留まっている。

モロッコの進撃は驚異的だった。アフリカ勢として初めて準決勝まで進み歴史に大きな足跡を残した。彼らは今日の試合に勝って歴史の刻印をさらに鮮明にしようとするだろう。恐らく決勝戦のつもりで戦うに違いない。

クロアチアにはもしかするとモロッコほどの強烈な動機づけはないかもしれない。それでもピッチに出ればモロッコの熱にあてられて彼らも必ず熱くなるだろう。先に触れたようにそのことは過去の試合が示唆している。

僕は個人的にクロアチアの至宝モドリッチに注目している。37歳のモドリッチは、今日の試合を最後にクロアチア代表から去ると見られている。

ところが同時に、2024年の欧州杯までは代表に留まる、という見方もある。僕は彼が2年後の欧州杯でも躍動するのを見たい。

社会の多くの分野と同じようにプロサッカーの世界でも選手寿命が伸び続けている。イタリアのACミランに所属するイブラヒモビッチは41歳にしてまだ同チームの中心的存在だ。

間もなく38歳になるポルトガルのロナウドも、全盛期を過ぎたものの未だに1人でゲームをひっくり返す力を持つスーパースターだ。

2024年、39歳のモドリッチ率いるクロアチアが欧州杯でも大きな業績を残せば、同国はもはや新興国ではなく、りっぱなサッカー強国と見なされるようになるだろう。



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イングランドちゃ~ん、強いイタリアにかかっておいで~


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イングランドサッカーを弱いというあなたの意見は主観的で納得できない、というメッセージをある方からいただいた。

意見は僕の独断と偏見に基づく、とちゃんと断ったにもかかわらず、である。

そこで突然のようだが、世界サッカーの強豪イタリアと比較して数字も上げて論じておくことにした。

周知のようにイタリアは予選でコケて今回W杯には出場していない。だが僕はイタリアチームを間近に見続けてきたという自負もあるので、敢えて引き合いに出すことにした。

今回大会でもイングランドは準々決勝まで強さを見せた。アメリカとは引き分けたものの、対イランは6-2、ウエールズとセネガルをそれぞれ3-0で下して得点能力も高いことを示した。

イングランドは、ことし6月-7月の欧州選手権の決勝で、優勝国のイタリアに挑んだ勢いを維持していてマジで強い。優勝候補だ、と主張する人も多くいた。

だが、イタリアはイングランドに比較するともっと強く、ずっと強く、あたかも強く、ひたすら強い。

何が根拠かって?  W杯の優勝回数だ。

サッカー「やや強国」のイングランドは、ワールドカップを5世紀も前、もとへ、56年前に一度制している。準優勝は無し。つまり自国開催だった1966年のたった一度だけ決勝まで進んだ。

片やイタリアはW杯で4回も優勝している。準優勝は2度。つまり決勝戦まで戦ったのは合計6回だ。

もうひとつの重要大会、欧州選手権では、イタリアは2回の優勝と2回の準優勝。計4回の決勝進出の歴史がある。

いや~ツエーなぁ、イタリアは。

一方、イングランドはですね、 1回も優勝していません。準優勝が1回あるだけ。

3位になったことは2度あります。でも、3位とか4位とかってビリと何が違うの?

ツーわけで、イングランドの弱さはW杯と欧州杯の数字によってもウラが取れると思うのだが、果たしてどうだろうか?

あと、それとですね、前回エントリーで示したようにイングランドのサッカーは、直線的で力強く速くてさわやかでスポーツマンシップにあふれている。

へてからに、退屈。

そして、サッカーの辞書には退屈という文字はない。 だから退屈なサッカーは必ず負ける。

再び言う。イングランドが創造的なサッカーをするイタリア、フランス、スペイン、ブラジル、アルゼンチンなどに比較して弱いのはそこが原因。

ドイツに負けるのは、創造性云々ではなくただの力負けだけれど。

それはさておき、いつもイッショ懸命なイングランドはそのうち必ず再びW 杯を制するだろう。

だがそれはイングランド的なサッカーが勝利することではない。

イングランドが退屈なサッカーワールドから抜け出して、楽しく創造的な現代サッカーのワンダーランドに足を踏み入れた時にのみ実現するのである。



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イギリスの密かな自恃の痛恨

BBQ紅葉中ヨリ大雪650


また負けたイングランド、なぜ?

W杯準々決勝でフランスに敗れたイングランド地元は喪に服したように暗い、とイギリス人の友人から連絡があった。

それはジョーク交じりの彼の落胆の表明だったが、僕はその前にBBCの次の表現を見てくすくす笑う気分でいたので、彼のコメントを聞いて今度は本気で大笑した。

BBCはこう嘆いている:

why England cannot force their way past elite opposition at major tournaments

~イングランドはなぜ大きな国際大会で強豪国を打ち破ることができないんだろう。。~と。

僕はロンドンに足掛け5年住んだ経験がある。そこではたまにプレミアリーグの試合も観戦した。その後はプロのテレビ屋として、イタリアサッカーとそこにからまる多くの情勢も取材した。

サッカーは同時に僕の最も好きなスポーツである。少年時代には実際にプレーもした。僕は当時「ベンチのマラドーナ」と呼ばれて相手チームの少年たちを震え上がらせる存在だった。

時は過ぎて、日本、英国、アメリカ、そしてここイタリアとプータロー暮らしを続けながらも、僕は常に世界のプロサッカーに魅了されてきた。

その経験から僕は-むろん自身の独断と偏見によるものだが-なぜイングランドサッカーが大舞台で勝てないのかの理由を知っている。

ここから先の内容は過去にもそこかしこに書いたものだが、僕の主張のほとんどが網羅されているので再び記しておくことにした。

少し長いので、通常はブログほかの媒体に書く。しかし、W杯が進行していることも考慮して、敢えてここにも全文を投稿しておこうと考えた。

最後まで読んでいただければ嬉しい。

イングランドのサッカーは、直線的で力が強くて速くてさわやかでスポーツマンシップにあふれている 。

同時にそこにはアマチュアのフェアプレイ至上主義、あるいは体育会系のド根性精神みたいなものの残滓が漂っていて、僕は少し引いてしまう。

言葉を変えれば、身体能力重視のイングランドサッカーは退屈と感じる 。僕はサッカーを、スポーツというよりもゲームや遊びと捉える考え方に共感を覚えるのだ。

サッカーの文明化

サッカーがイングランドに生まれたばかりで、ラグビーとの区別さえ曖昧だったころは、身体能力の高い男たちがほぼ暴力を行使してボールを奪い合いゴールに叩き込む、というのがゲームの真髄だった。

イングランド(英国)サッカーは、実はその原始的スポーツ精神の呪縛から今も抜け出せずにいる。

彼らはその後に世界で生まれたサッカーのさまざまな戦術やフォーメーションを、常に密かに見下してきた。

サッカーにはかつてさまざまなトレンドがあった。イングランド発祥の原始人サッカーに初めて加えられた文明が、例えばWMフォーメーションである。

その後サッカー戦術の改良は進み、時間経過に沿って大まかに言えばトータルフットボール、マンマーク (マンツーマン)、ゾーンディフェンス、4-2-2フォーメーションとその多くの発展系が生まれる。

あるいはイタリア生まれのカテナッチョ(鉄壁のディフェンス)、オフサイド・トラップ、カウンターアタック(反転攻勢)、そしてスペインが完成させて今この時代には敗れ去ったと考えられている、ポゼッション等々だ。

子供の夢

イングランドのサッカーは子供のゲームに似ている。

サッカーのプレイテクニックが稚拙な子供たちは、試合では一刻も早くゴールを目指したいと焦る。

そこで七面倒くさいパスを避けてボールを長く高く飛ばして、敵の頭上を越え一気に相手ゴール前まで運びたがる。

そして全員がわーっとばかりに群がってボールを追いかけ、ゴールに蹴りこむために大騒ぎをする。

そこには相手陣営の守備の選手も参加して、騒ぎはますます大きくなる。

混乱の中でゴールが生まれたり、相手に跳ね返されてボールが遠くに飛んだり、自陣のゴール近くにまで蹴り返されたりもする。

するとまた子供たちが一斉にそのボールの周りに群がる、ということが繰り返される。

相手の頭上を飛ぶ高く速いボールを送って、一気に敵陣に攻め込んで戦うというイングランド得意の戦法は、子供の稚拙なプレーを想起させる。

イングランドの手法はもちろん目覚しいものだ。選手たちは高度なテクニックと優れた身体能力を活かして敵を脅かす。

そして往々にして見事にゴールを奪う。子供の遊びとは比ぶべくもない。

子供たちが長い高い送球をするのは、サッカーの王道である低いパスをすばやくつないで敵を攻めるテクニックがないからだ。

パスをするには正確なキック力と広い視野と高度なボール操作術が必要だ。

またパスを受けるには、トラップと称されるボール制御法と、素早く状況を見渡して今度は自分がパスをする体勢に入る、などの高いテクニックがなくてはならない。

その過程で独創と発明と瞬発力が重なったアクションが生まれる。

優れたプレーヤーが、敵はもちろん味方や観衆の意表を衝くパスや動きやキックを披露して、拍手喝采をあびるのもそこだ。

そのすばらしいプレーが功を奏してゴールが生まれれば、球場の興奮は最高潮に達する。

スポーツオンリーの競技

イングランドのプレーヤーたちももちろんそういう動きをする。テクニックも確立している。

だが彼らがもっとも得意とするのは、直線的な印象を与える長い高いパスと、それを補足し我が物にしてドリブル、あるいは再びパスを出して、ゴールになだれ込む戦法だ。

そこではアスリート然とした、速くて強くてしかも均整の取れた身体能力が要求される。

そしてイングランドの選手は誰もがそんな印象を与える動きをする。

他国の選手も皆プロだから、むろん身体能力が普通以上に高い者ばかりだ。だが彼らの場合にはイングランドの選手ほどは目立たない。

彼らが重視しているのがもっと別の能力だからだ。

つまりボール保持とパスのテクニック、回転の速い頭脳、またピッチを席巻する狡猾なアクション等が彼らの興味の対象だ。

言葉を変えれば、低い短い正確なパスを多くつないで相手のスキを衝き、だまし、フェイントをかけ、敵を切り崩しては出し抜きつつじわじわと攻め込んで、ついにはゴールを奪う、という展開である。

そこに優れたプレーヤーによるファンタジー溢れるパフォーマンスが生まれれば、観衆はそれに酔いしれ熱狂する。

子供たちにとっては、サッカーの試合は遊びであると同時に身体を鍛えるスポーツである。

ところがイングランドのサッカーは、遊びの要素が失われてスポーツの側面だけが強調されている。

だからプレーは速く、強く、きびきびして壮快感がある。だが、どうしても、どこか窮屈でつまらない。

子供のころ僕も楽しんだサッカーの手法が、ハイレベルなパフォーマンスとなって展開されるのだが、ただそれだけのことで、発見や発見がもたらす高揚感がないのである。

高速回転の知的遊戯

サッカーのゲームの見所は、短く素早く且つ正確なパスワークで相手を攻め込んで行く途中に生まれる意外性だ。意表を衝くプレーにわれわれは魅了される。

準々決勝におけるフランスの展開には、いわばラテン系特有の多くの意外性があり、おどろきがあった。それを楽しさと言い換えることもできる。

運動量豊富なイングランドの戦法また展開も、それが好きな人には楽しいものだったに違いない。

だが彼らの戦い方は「またしても」勝利を呼び込むことはなかった。

高く長く上がったボールを追いかけ、捉え、再び蹴るという単純な作業は予見可能な戦術だ。

そしてサッカーは、予測を裏切り意表を衝くプレーをする者が必ず勝つ。

それは言葉を変えれば、高度に知的で文明的でしかも高速度の肉体の躍動が勝つ、ということだ。

ところがイングランドの身体能力一辺倒のサッカーには、肉体の躍動はあるが、いわば知恵者の狡猾さが欠けている。だからプレーの内容が原始的にさえ見えてしまう。

イングランドは彼らの「スポーツサッカー」が、スペイン、フランス、イタリア、ドイツ、ブラジル、アルゼンチンなどの「ゲーム&遊戯サッカー」を凌駕する、と信じて疑わない。

でも、イングランドにはそれらの国々に勝つ気配が一向にない。1996年のワールドカップを制して以来、ほぼ常に負けっぱなしだ。

イングランドは「夢よもう一度」の精神で、1966年とあまり変わり映えのしない古臭いゲーム展開にこだわる。

継続と伝統を重んじる精神は尊敬に値するが、イングランドは本気でフランスほかのサッカー強国に勝ちたいのなら、退屈な「スポーツサッカー」を捨てるべきだ。

世界サッカーの序列

ことしのワールドカップでは、イングランドが優勝するのではないか、という多くの意見があった。イングランドが好調を維持していたからだ。

だが僕は今回もイングランドを評価せず、1次リーグが進んだ段階でも優勝候補とは考えなかった。彼らがベスト16に入った時点でさえ、ここに書いた文章においても無視した。

理由はここまで述べた通り、イングランドサッカーが自らの思い込みに引きずられて、世界サッカーのトレンドを見誤っていると考えるからだ。

イングランドサッカーが目指すべき未来は、今の運動量と高い身体能力を維持しながら、フランス、イタリア、ブラジル、スペインほかのラテン国、あるいはラテンメンタリティーの国々のサッカーの技術を徹底して取り込むことだ。

取り込んだ上で、高い身体能力を利してパス回しをラテン国以上に速くすることだ。つまりポゼッションも知っているドイツサッカーに近似するプレースタイルを確立すること。

その上で、そのドイツをさえ凌駕する高速性をプレーに付加する。

ドイツのサッカーにイングランドのスピードを重ねて考えてみればいい。それは今現在考えられる最強のプレースタイルではないだろうか?

イングランドがそうなれば真に強くなるだろう。が、彼らが謙虚になって他者から学ぶとは思えない。

従って僕は今のところは、W杯でのイングランドの2度目の優勝など考えてみることさえできない。

世界サッカーの序列は今後もブラジル、イタリア、ドイツの御三家にフランス、スペイン、アルゼンチンがからみ、ポルトガル、オランダ、ベルギーなどの後塵を拝しながらイングランドが懸命に走り回る、という構図だと思う。

むろんその古い序列は、今回大会で台頭したモロッコと日本に代表されるアジア・アフリカ勢によって大きく破壊される可能性がある。

そうなった暁にはイングランドは、W杯獲得レースでは、新勢力の後塵を拝する位置に後退する可能性さえある、と僕は憂慮する。

生き馬の目を抜く世界サッカー事情

欧州と南米のサッカー強国は常に激しく競い合い、影響し合い、模倣し合い、技術を磨き合っている。

一国が独自のスタイルを生み出すと他の国々がすぐにこれに追随し、技術と戦略の底上げが起こる。するとさらなる変革が起きて再び各国が切磋琢磨をするという好循環、相乗効果が繰り返される。

イングランドは、彼らのプレースタイルと哲学が、ラテン系優勢の世界サッカーを必ず征服できると信じて切磋琢磨している。その自信と努力は尊敬に値するが、彼らのスタイルが勝利することはない。

なぜなら世界の強豪国は誰もが、他者の優れた作戦や技術やメンタリティーを日々取り込みながら、鍛錬を重ねている。

そして彼らが盗む他者の優れた要素には、言うまでもなくイングランドのそれも含まれている。

イングランドの戦術と技術、またその他の長所の全ては、既に他の強国に取り込まれ改良されて、進化を続けているのだ。

イングランドは彼らの良さにこだわりつつ、且つ世界サッカーの「強さの秘密」を戦略に組み込まない限り、永遠に欧州のまた世界の頂点に立つことはない。

いま面白いNHK朝ドラ“舞い上がれ”の大河内教官は、「己を過信するものはパイロットとして落第だ」と喝破している。

そこで僕も言いたい。

イングランドサッカーよ、古い自らのプレースタイルを過信するのはNGだ。自負と固陋の入り混じった思い込みを捨てない限り、君は決して世界サッカーの最強レベルの国々には勝てない、と。



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真に強くなりたいなら日本サッカーは新戦術を“独創”するべき


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PK戦で日本を退けたクロアチアが、強豪のブラジルも同じPK戦で下して準決勝に進んだ。

クロアチアの強さがあらためて証明された試合結果だ。

ブラジル戦の前にクロアチアが日本を破った試合では、僕はクロアチアの強さと同時に日本の強さも実感した、と強調しておきたい。

僕は日本VSクロアチア戦を日本サッカーのレベルを計る試金石として見ようとしていた。

日本がドイツとスペインに勝ったのは、まぐれとまでは言わないが、ラッキーあるいは巡り合わせの妙、といった類の出来事に感じられた。

2度続けてのフロックの可能性は極めて低い。ドイツとスペインに連続して勝ったのは日本にそれなりの力があるからだ、という考えもある。

それでも世界トップクラスの2チームと日本の力が、一挙に逆転したとは考えにくい。

一方でクロアチアなら、日本との力の差はそれほどあるとは見えない。クロアチアは98年W杯で3位になり、前回ロシア大会で準優勝までしているチームだ。

欧州の一部だからサッカーの真髄を理解し、そこから生じるプレースタイルも身に着けている。ひとことで言えば要するに日本より力量は上だ。

しかし、日本の力も最近は間違いなく伸びている。クロアチアと実力が真に拮抗している可能性も高い。

クロアチアにはモドリッチというずば抜けたテクニックと戦術眼を持つスーパースターがいるが、集団力の強い日本の特徴が彼の天才力を抑える、という見方もできた。

両チームの戦いを、僕は12月3日から6日にかけての旅の途中、アルプスの麓に近い街でテレビ観戦した。

移動中のため他の試合は見逃したり流して見ていただけだが、日本戦はさすがにしっかり見た。

日本が先制したときは、あるいは、と大きく期待した。しかし、同点に追いつかれたときはやっぱりだめだ、負ける、といやな予感がした。

負ける、とは90分以内にさらにゴールを決められて負ける、という意味である。つまるところ欧州チームのクロアチアが強いのだ、とあきらめ気味に思った。

だが日本は90分をほぼ対等に戦い、延長戦も互角に渡り合った。しかし残念ながらPK戦で敗れた。

PK戦を偶然の産物と見なしてそこでの勝敗を否定する者がいる。だがそれは間違いだ。

PK戦は90分の通常戦や延長戦と変わらないサッカーの重要な構成要素だ。PK戦にもつれ込もうが90分で終わろうが、勝者は勝者で敗者は敗者である。

現実にもそう決着がつき、また歴史にもそう刻印されて、記録され、記憶されていく。

従って日本の敗北はまぎれもない敗北だ。同時に日本とクロアチアの力は拮抗していた。90分と延長の30分でも決着がつかなかったのがその証拠だ。

僕は日本が世界最高峰のドイツとスペインを破ったことよりも、日本の実力がクロアチアのレベルに達したらしいことを腹から喜ぶ。

既述のようにクロアチアは、過去のW杯で準優勝と3位に入った実績を持つ「欧州のサッカー強国」だ。

クロアチアに追いついた日本は、物まねのポゼッションサッカーや無意味なボール回しや“脱兎走り”を忘れて、蓄積した技術を基に「独自の戦術とプレースタイル」を見出し次のW杯に備えるべきだ。

独創や独自性こそ日本が最も不得手とする分野だ。だがそれを見出さない限り、日本がW杯で飛躍しついには優勝まで手にすることは夢のまた夢で終るだろう。




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スカラ座とジョン・レノンまた聖母マリアがさんざめく時間


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毎年12月7日と決まっているスカラ座のことしの初日には、ジョルジャ・メローニ首相がマタレッラ大統領やウルズラ・フォン・デア・ライエン欧州委員会委員長らと共に顔を出した。

大統領と委員長はEU信奉者。片やメローニ首相は反EU主義者。首相になってからはEU協調路線を取っているが、腹の中は分からない。

しかしそこは大人同士。誰もが政治的立場を脇において華やかな文化イベントを楽しんだ。メローニ首相はスカラ座でのオペラ鑑賞は初めて。

アルマーニファッションに身を包み「とても緊張し同時にとても楽しみにしている」とテレビカメラに向かって率直に語った。

スカラ座の開演翌日の今日は、ジョン・レノンの命日。偉大なミュージシャンはちょうど42年前の今日、つまり1980年の12月8日にニューヨークで理不尽な銃弾に斃れた。

僕はジョン・レノンの悲劇をロンドンで知った。当時はロンドンの映画学校の学生だったのだ。行きつけのパブで友人らと肩を組み合い、ラガー・ビールの大ジョッキを何杯も重ねながら「イマジン」を歌いつつ泣いた。

それは言葉の遊びではない。僕らはジョン・レノンの歌を合唱しながら文字通り全員が涙を流した。連帯感はそこだけではなくロンドン中に広がり、多くの若者が天才の死を悲しみ、怒り、落ち込んだ。

毎年めぐってくる12月8日は、イタリアでは「聖母マリアの無原罪懐胎の祝日(festa dell'immacolata)」。

多くのイタリア人でさえ聖母マリアがイエスを身ごもった日と勘違いするイタリアの休日だが、実はそれは聖母マリアの母アンナが聖母を胎内に宿した日のことだ。

イタリアの教会と多くの信者の家ではこの日、キリストの降誕をさまざまな物語にしてジオラマ模型で飾る「プレゼピオ」が設置されて、クリスマスの始まりが告げられる。

人々はこの日を境にクリスマスシーズンの到来を実感するのである。

12月の初めのイタリアでは、スカラ座の初日と「聖母マリアの無原罪懐胎の祝日」に多くの人の関心が向かう。

イタリア住まいが長く、イタリア人を家族にする僕は、それらのことに気を取られつつもジョン・レノンの思い出を記憶蓄積の底から引き上げたりもする。

ロンドンとニューヨークとミラノは僕にとって縁深い土地だ。

ロンドンは僕の青春の濃い1ページを占め、ニューヨークは僕をプロのテレビ屋に育ててくれ、ミラノは仕事の本場になりほぼ永住地にまでなった。

僕にとって毎年12月7日から8日にかけての時間は、スカラ座開演のニュースとジョンレノンの思い出とimmacolataの祝いの話題が脳裏に錯綜する多忙な時間である。


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2022W杯は分水嶺となる重要大会かも、だぜ。

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W杯は1次リーグが終了し決勝トーナメントに進むベスト16が決まった。

ドイツの1次リーグ敗退が大きな話題になったが、実はドイツは前回大会でも決勝トーナメントに進めなかった。

その事実からドイツの凋落が始まっていると見る向きもある。だが僕はそうは思わない。

歴史的に見て世界サッカーの最強御三家はブラジル、イタリア、ドイツだ。

最強御三家は過去に浮き沈みを繰り返しつつ存在感を示してきた。特にブラジルとイタリアがそうだった。

ドイツの絶不調は珍しいものだが、同チームは必ず立ち直って再び強くなるだろう。最強御三家の地位はまだ続く、と僕は思う。

最近W杯と欧州杯を制して気を吐いているフランスとスペインは、御三家の次にランクされる。

少なくともW杯優勝回数ではどちらも最強御三家に及ばない。フランスは1998年まで、スペインは2010年まで一度も優勝できなかった。

ほかにはアルゼンチンとウルグアイが、前回ロシア大会を制したフランス同様に過去に2度優勝している。

このうちウルグアイの栄光は過去のものになった印象があり、アルゼンチンはメッシがナショナルチームでマラドーナ並みの活躍ができず影が薄い。

フランスは初優勝の立役者ジダンに代わってエムバペ が突出してきた分、しばらく好調を維持しそうだ。

要するに世界サッカーの勢力図は未だ変わっていない。

ところが、変わってはないないものの、欧州と南米の常勝国とその他の国々の力の差がぐんと縮まっているのも事実だ。

今回大会で日本がドイツとスペインを下したのが最も象徴的だ。

サウジアラビアがアルゼンチンを破り、韓国がポルトガルに勝ち、オーストラリアがデンマークを退けたのもそうだ。

W杯ではいつの時代も番狂わせがあった。だが今回大会ほど目立つことはなかった。

そればかりではない。1次リーグで姿を消したドイツ以外の強豪も青息吐息の試合が多かった。

ブラジルもアルゼンチンも弱小国と見られた国々と拮抗する試合展開が多かった。

それどころかアルゼンチンはサウジアラビア戦で苦杯を喫した。

ブラジルもカメルーンに敗れた。それはネイマール欠場が原因ではなく、単純にカメルーンが強かったから負けたと見えた。

スペインも初戦でコスタリカを一蹴したのはいいが、周知のように日本に負けた。

御三家のひとつイタリアに至っては、1次リーグどころか前回も今回も予選で沈んで本大会には顔出しさえしていない。

2022年W杯カタール大会は将来、世界サッカー勢力図の分水嶺と看做されるようになる気がしてならない。



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型の「型ぐるしさ」は人間をロボットにする


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衛星を介してNHKの番組をよく見る。なかでもニュースはほぼ毎日欠かさずに見ている

時間がないときは録画してでも見る番組もある。日本ではBS1で放送され、総合テレビの深夜にも再放送されているらしい「国際報道2022」である。2014年に始まり毎年年号だけを変えて続いている。

この番組は世界各地のニュースをまとめて掘り下げて見せる、NHKならではの見甲斐がある内容だから、外国に住む身としては親近感も覚える。

同時に僕はBBCCNNEuroNewsAl Zzeeraなどの英語放送とイタリアのNHKであるRAIの報道番組等も欠かさず見ている。なので「国際報道2022」を情報収集というより“日本人による世界の見方”という観点で注視することが多い。

番組の内容は世界中に張り巡らされたNHKの取材網を駆使して構成され面白く深い。だがそれを伝えるスタジオの構成に違和感を覚える。

このことは2017年に番組のメインキャスターになった花澤雄一郎記者にからめても書いた

それは物知りの兄貴に教えを請うおバカな妹、という設定への疑問だ。花澤キャスター時代に始まり、次の池畑修平キャスター時代へと受け継がれた。

設定は相変わらずだったが、池畑キャスターはもしかすると時代錯誤な設定への疑問が内心あったのではないか、という雰囲気が感じられた。

それでも番組の構成が変わることはなかった。ちなみにおバカな妹役のサブキャスターは増井渚アナから酒井美帆アナへと変わった。

油井秀樹キャスターに変わってから国際報道には別の不穏な仕様も加わった。

番組の冒頭で、カメラに向かって斜めに並び立っている3人のキャスターが、次のカットで切り替わるカメラに向かって回れ右をする。

その動きが3人共に完璧でまるでロボットのように少しのズレもない。日本的な完全無欠の動作だが、とても違和感がある。忌憚なく言えばほとんど滑稽だ。

カットはその日のニュース項目を表示するために成される。カメラを引いて大きくなった画面に項目をスーパーインポーズするのである。

だがそのシーンは、3人の出演者が「ロボット的」という以外には何の豊かさも番組にもたらさない。項目を表示したいなら初めから画面を広げておくなど、幾らでも方法はある。

珍妙なシーンが毎回繰り返されて飽きないのは、制作者が滑稽に気づかず且つ3人の動きが「型」として意識されているからだと考えられる。

「型」になった以上、それは自由よりもはるかに重要な要素と見なされるのが日本社会であり、日本的メンタリティーだ。

型の奇怪さは多々あるが、例えば教会での結婚式の際のバージンロードの歩き方などもそうだ。

バージンロードという和製英語はさておき、絨毯を父親と花嫁が歩く際に一歩一歩を型にはめて歩くのは珍妙だ。結婚式場業界が作った型にからめとられているのが悲しい。

結婚式はドラマだからそれでいいという考えもあるかもしれない。だが、不自然すぎて居心地が悪い。

確かに結婚式は晴れ舞台だが、型が肝心の歌舞伎や能などの芸能舞台ではないのだから、型にはめずに自由に動くほうがいい。

型には型の美しさがある。だが「型を破る」という型もあることを認めて、もう少し精神や発想の自由を鼓舞するほうが人間らしいし、より創造的だ。

型にこだわり過ぎる「国際報道2022」のオープニングは、「報道のNHK」の一角を担う重要な番組の絵造りとしては寂しい、と毎回違和感を覚えつつ見るのはかなり辛い。



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スペインサッカーの美しさは完璧な勝利の方程式ではないが勝利よりも楽しかったりする


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W杯出場チームの全てが顔出しを終え、1次ラウンドがさらに進行している11月30日の時点で、僕最も注目しているのはスペイン代表だ。

スペインは初戦、7-0の大差でコスタリカを下した。スコアも驚きだが試合内容はもっと驚きだった。しばらく鳴りを潜めていたスペインの華麗で強いサッカーが蘇えったと見えたからだ。

そこではポゼッションサッカーの弱点である自陣でのボール回しが最小限に抑えられて、逆に敵陣内では最大限に発揮される理想の形が完成していた。

スペインは徹頭徹尾ポゼッション・サッカーにこだわる得意の戦術によって、2008年の欧州選手権、2010年のワールドカップ、2012年の欧州選手権と次々に制覇した。

当時のスペインチームにはシャビとイニエスタという天才プレーヤーがいて、ボール保持を最大限に維持しながら、ティキ・タカの速いパス回して相手を縦横にかく乱した。

だがその後は世界中のチームが彼らの手法を研究し、真似し、進歩さえさせて、じわじわとスペインへの包囲網を築いた。

イタリア、ドイツ、フランスなどの欧州の強豪国は特に、彼ら独自の伝統的な戦術にポゼッションサッカーを絡ませて磨き、ほぼ自家薬聾中のものにした。

そして2014年、ドイツが隆盛を極めていたスペインサッカーを抑えてW杯を制覇した。

続いて2016年の欧州選手権ではポルトガルが、2018年のW杯ではフランスが最後まで勝ち進んでスペインを退けた。

そして仕上げには、2020年((コロナ禍で21年に延期))の欧州杯をイタリアが制して、スペインのポゼッションサッカーの時代が終わった。

そこに至るプロセスは、シャビとイニエスタが第一線から退いていく時間ともほぼ重なっていた。

ところが衰滅したはずのその美しいポゼッションサッカーが、カタールW杯で復活したように見えるのだ。

初戦では偉大なシャビとイニエスタに代わって、18歳と19歳の天才プレーヤー、ガビとペドリが躍動した。

2人はまるでシャビとイニエスタの生まれ変わりのようだ。

コスタリカ戦ではペドリはパス回しの中核として動き、ガビはそこに絡まる一方で最年少選手記録に近いゴールまで決めた。

彼らの出現でスペインサッカーは、一昔前の黄金時代に回帰しつつあるのかもしれない。

スペインは11月27日、ドイツとの第2戦を1-1で引き分けた。

歴史的に見ればスペインを上回る実力を持つドイツは、スペインのボール保持と高速のパス回しに翻弄されながらもどうにか引き分けに持ち込んた。

スペインは7ゴールを決めたコスタリカ戦ほどの爆発は見せなかったが、ボール保持と素早いパス回しの戦術は健在だった。

今後彼らがポゼッションサッカーを武器に大会を席巻するのかどうか、僕はわくわくしながらTV観戦を続けようと思う。

ところで、11月30日現在で見る今回大会の優勝候補は僕の見立てでは:

スペイン、ブラジル、フランスが筆頭。もしもドイツが1次ラウンドを突破すれば、ドイツも彼らに迫る活躍をしそうだ。

4チームに続くのは強い順に、アルゼンチン、ポルトガル、オランダ、ベルギー、イングランド、ウルグアイと見る。

ゲームの予測を立てるのはほとんどの場合ムダである。

確率論に基づけばある程度の正しい方向性は見つかるのだろうが、選手とチームの心理的要素や偶然性が試合展開に大きくかかわるから、正確な予測は誰にもできない。

それでも人は予測を立てたがる。予測をすることが、ゲームそのものを見るにも等しいくらいに楽しい行為だからだ。

当たるも八卦、当たらぬも八卦。当たれば嬉しく、当たらなければ無責任に何もなかった振りをする。

そんなわけで、僕もサッカー好きな者の常で予測を立てておき、あとはほっかむりを決め込むことにした。










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日本がW杯を制するかも、かい?

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W杯初戦で日本がドイツを破ったのは嬉しい驚きだった。

その前日、サウジアラビアがアルゼンチンに勝ったのを受けて、僕は明日は日本がドイツを撃破するだろう、とSNSに投稿した。

それはジョークのつもりだった。サウジアラビアVSアルゼンチンの結果はほとんど衝撃だった。そんな事態が2日連続で起きるとは正直考えなかった。

いわば、ゲンかつぎをこめて言ったのだが、ゲンをかつぐのが意味を成さないほどドイツと日本の実力の差は大きい、というのもまた偽らざる心境だった。

日本の勝利をフロックと見るかある程度の実力の反映と見るかは、個人のサッカー理解度で違ってくる。

日本が勝ったのは公平に見て番狂わせの類だと僕は思う。

陳腐な言い方をすれば、日本は勝負に勝ったものの試合内容では完全にドイツに負けていた。

ほぼ全試合を通してドイツに主導権を握られ、パス回しができず日本独特の“脱兎走り”を繰り返した。

むやみに走り回るのはパス回しができないからだ。そしてパス回しができないのは、実力がないからだ。それが日本の現実である。

はなから日本をなめてかかっていたドイツは、彼らがボールを保持して戦況を支配し、その結果日本が高速回転で右往左往するのを見て、ますます思い上がった。

とどのつまり、ペナルティキックで一点を先取しただけで、その後はゴールを割ることができなかった。詰めが大甘に甘かった。

それでも攻めまくられる日本にとっては、ドイツは前半の全てで大山のように巨大に見えた。

後半は日本にとってさらに惨めな展開になることが予想された。

その後半でもドイツは落ち着いていた。テクニックと戦略と試合展望でやはり日本を圧倒していた。だが彼らはゲームを決定的な展開に持ち込めなかった。

日本がじわじわと攻勢に転じ始めたとき、彼らは初めて危機感を抱くように見えた。あわてて気を引き締めようとしたが時は遅かった。

日本は泥臭い動きながら果敢に攻めて、後半30分に同点に追いついた。そこでドイツのパニックが頂点に達した。

ドイツのディフェンスは平常心を失った。パニックはミスを招く。彼らは日本の攻撃に耐え切れず、後半38分ついに日本逆転のゴールを許した。

日本のサッカーは確実に強くなっている。だがドイツの域に至るのはまだ先だ。それは疑いのない現実だ。そうはいうもののW杯では何が起こるかは分からない。

日本が優勝するのはさすがに難しいだろうが、ドイツを蹴散らした勢いでかなり勝ち進む可能性が出てきた。

だがそれ以上に、ドイツが目覚めて2戦目以降に強さを発揮しそうな雰囲気も生まれた。

日本VSドイツ戦の次に試合に臨んだ、強豪スペインの圧倒的な強さを見て僕はそう感じた。

つまりドイツは弱小日本に敗れてショック療法風に覚醒し、ライバルのスペインの華麗なサッカーを見て「負けてなるか」と奮起するのではないか。

そうなったらドイツは手がつけられなくなるほど強くなる。それはW杯が盛り上がることを意味する。

これまでの試合ではスペインだけが順当に実力を発揮している。フランス、ベルギー等は陳腐な戦いに終わり、アルゼンチンは敗北。続いてドイツも沈んだ。

次の大物ブラジルがどんな試合運びを見せるか楽しみにしつつ、僕は強豪チームの奮起を心待ちにしている。

予選でコケたイタリアがいないのが寂しいが、日本がこのまま勝ち進めば、その寂しさを補って余りある展開になるだろう。

わくわくドキドキの日々が見える。



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「ちむどんどん」の俳優は皆ど~んと輝いていた

4人海で横長

演出の罪

「ちむどんどん」スペシャルを見た。比嘉家の4兄妹が終わったばかりの番組について素の俳優に戻って語り合う、という趣向だった。

和気あいあいとした彼らの語りはすがすがしく納得できる内容だった。役回りについての4人のそれぞれの思いもきっちりと伝わった。

進行役を務めた川口春奈の自然でユーモラスで思いやりに富んだ語り口が印象的だった。僕ははたちまち彼女のファンになった。

4人の俳優のトークは、彼らが人間的にすばらしい若者たちで、且つプロの優秀な役者であることをあらためて示していた。それを確認できたことを僕は嬉しく思った。

僕は「ちむこんどん」については否定的な立場でこれまでに何度もそう書いてきた。僕のネガティブな見方は、繰り返して述べたように演出をはじめとする制作者へのものだった。

特に演出への批判は尽きなかった。脚本が悪いという意見も多くあったようだが、そして僕もそのことを否定はしないが、脚本は演出によっていくらでもダメ出しができる。

従って脚本にダメ出しをしなかった演出はもっとさらに責められるべきだ。

僕は演出家を筆頭にする「ちむどんどん」の制作陣の名前は一切知らない。ドラマの中身だけを見て批評した。それができたのは番組を録画して、クレジットの部分を飛ばして見続けたからだ。

そこには時間節約の意味もあったが、名前よりも制作のコンセプト、つまり演出の意図と彼の役割のみを重視したいという考えがあった。

日本の制作環境

僕はドキュメンタリー制作者だが下手な演出家でもある。その僕の数少ない劇作の経験によると、日本では演出の責任が少しあいまいであるように記憶している。

僕は劇作をする場合、脚本に注文をつけることを恐れない。というか、演出家は自己責任において脚本を管理下に置くべきだ。

管理下に置くことはほとんど義務だ。なぜなら脚本を含む劇作の全ての責任は演出にあるからだ。重ねて言いたいが、作品の結果の責任は、成功、失敗の区別なく一切が演出にある

ところが日本では、ドラマ作りのような極めてクリエイティブな世界でも和の精神が生きていて、演出の絶対的な権威よりもスタッフ全員の合意を重視するように感じた。

そういう環境では作品の核がぼやける危険がある。

そして日本のドラマ制作ではその危険が現実化するケースが多い。「ちむどんどん」はまさにその陥穽にはまったのだと思う。

和の重視は笑いの敵

恐らく制作の現場では出演者や技術系を含む全てのスタッフが、演出側と共ににーにーの演技に笑い、楽しみ、存在を盛り上げたに違いない。和の精神で全員が高揚する場面が見えるようだ。

それは良いのだが、全ての責任を負っている演出は、そこから一歩引いて、現場の笑いが直接に茶の間の笑いになるのではないことを冷静に見極めなければならない。

スタッフと共に盛り上がる演出はそのことを忘れたフシがある。和の精神に引きずられて、演出の責任を共有するとまでは言わないが、演出の実存である「孤独」と「責任」を放棄している。

それでなければ、にーにーが牽引する杜撰なシーンがこれでもかとばかりに提示され続けた理由が分からない。演出が独りで考え断固として差配していれば起こりにくいことだ。

現場でスタッフが大笑いするシーンは、得てして茶の間にシラケを呼び込む。演出は劇中の笑いが、彼とスタッフが鬼面になり苦しんで作り上げるものであることを軽視している。僕にはそう感じられる。

そこには「劇作りは演出が全て」という厳しい掟がおざなりになって、スタッフ全員が“共同で”シーンを作り上げていく、という和の精神の横溢が見える。既述のようにそれは往々にして作品の核を破壊する。

脚本の不備も演出の罪

演出は脚本が提示したにーにーのキャラクターに、それがドラマの大いなる欠陥であることに気づくことなくOKを出し、その結果引き起こされるさまざまなエピソードも良しとした。

のみならず彼自身も大いに自己投影して、にーにーが視聴者にたくさんの“笑いを届け得るキャラクター”だと信じ切り、劇作りの現場でそのように演出した。

その結果、映画「男はつらいよ」の寅さんを強く意識した、馬鹿で惚れっぽい愛すべき男の形象がふんだんに詰め込まれた。しかし全てが空回りした。

空回りしたのは同じようなシーンが頻出したからだ。たとえに-にーが本物の馬鹿であっても、現実世界でなら必ず歯止めがかかるはずの成り行きが、そうはならずに何度も見過ごされた。

しかも再三提示される(演出が面白いと信じているらしい)にーにーの動きは、ひたすら鬱陶しいだけだった。視聴者が疲れていることに気づけない演出の独りよがりはさらにもっとつまらなかった。

半年にも渡ってほぼ毎日放映される朝ドラは、ドラマツルギー的には全体にゆるい軽いものにならざるを得ない。従ってソープオペラよろしくある意味では批評に値しない。

それでも僕が批評じみた文章を書いたのは、ドラマの瑕疵が大きく、しかもそれは役者の問題ではなく「演出の問題」であることを指摘したかったからだ。

素晴らしい俳優たち

筆者は「ちむどんどん」スペシャルに顔を出した4人の俳優のうち、3人の演技を別番組で見て既に知っていた。

主人公の暢子役の黒島結菜はNHKドラマの「アシガール」、 にーにー役の竜星 涼は日本テレビの「同期のサクラ」、良子の川口春奈はNHK大河ドラマ「麒麟が来る」でそれぞれが好演していた。

彼らはドラマの内容も、それぞれの役のキャラクターも全く違う「ちむどんどん」の世界でも、きちんと仕事をこなした。彼らはいずれ劣らぬ有能な俳優なのだ。

末っ子の歌子を演じた上白石萌歌は「ちむどんどん」で初めて知ったが、おそらく彼女の場合も同じでだろう。難しい役回りの歌子をしっかりと演じていたのを見ればそれは明らかだ。

彼ら4人を含む「ちむどんどん」の多くの出演者は、脚本を支配する(しているはずの)演出の指示のままに彼らの高い能力を十二分に発揮して、それぞれの役を演じた。

その長丁場のドラマは、竜星 涼という役者が彼の優れた演技能力を思い切り示して演じた、にーにーというキャラクターとエピソードがNGだったために、大いに品質を落とした。

それは断じて役者の咎ではなく、これまで繰り返し述べたように演出の責任だ。演出は ― くどいようですが― 脚本をコントロールできなかったことも含めて批判されなければならないのだ。

一方、役者は脚本と演出が示すキャラクターを十全に演じ切った。そうやって愚劣なエピソードが積み重ねられ、リアリティのない不出来一辺倒のにーにーという人物像が一人歩きをした。

にーにーほどの不出来ではないが、主人公の暢子の人物像も感心できないものだった。本来なら前向きで明るいはずの主人公の暢子のキャラクターも、にーにーとの絡みで混乱した。

彼女もまたニーニーに似て、いい加減で鈍感な女性、と英語本来の意味での「ナイーブ」な視聴者に認識されてしまったフシがある。

再び言いたい。暢子の問題は断じて演者である黒島結菜の問題ではなく、暢子と劇を作り上げた制作者の、もっと具体的に言えば演出の責任である。

リメイク版があるならば

「ちむどんどん」は、にーにーのエピソードを思い切り短縮して、且つ人物像をリアルなものにしない限り、ドラマ全体の救済はできない。

それができれば、にーにーとの関わりで視聴者の不評をかった暢子の場面の改善や削減もできる。そしてその改定場面は連鎖して必ずほかの場面の内容の向上にもつながる。

だがそれは、たとえ番組のリメイクが許されたとしても恐らく実現しない。なぜならスペシャル版では、スピンオフ物語として性懲りもなくにーにーの物語がまた挿入されていたからだ。しかも再び長々と。

つまり制作サイドは、にーにーの存在の疎ましさがドラマの最大の瑕疵だと気づいていない。あるいは気づいていても認めたくないようだ。

一方で、4人の兄弟を始めとする出演者の全員はそれぞれがキラ星のごとく輝いていた。誰もが胸を張って今後のキャリアに邁進してほしいと思う。

中でも僕は、特に演出の失態の損害を被ったように見える黒島結菜に大きなエールを送りたい。





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プーチンを排斥してもトランプが復活すれば世界は元の木阿弥だ


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トランプ前大統領が、2024年の米大統領選に立候補すると宣言した。それはロシアのウクライナ侵攻にも匹敵するほどの悪い知らせだ。

118日の米中間選挙で民主党が勝利したのは幸いだった。上院で僅差の勝利、下院では逆に僅差の負けだから、あるいは民主党の勝利と呼ぶのは当たらないかも知れない。

だが事前予想では、上下院とも共和党が大勝すると見られていた。また歴史的にも中間選挙では野党が勝つのが当たり前、という明確なデータがある。

従って政権与党の民主党が上院を制し下院でも善戦したのは、やはり同党の勝利と呼んでも構わない結果ではないか。

下院では共和党が過半数を制したため、バイデン大統領の今後の政権運営が厳しいことには変わりがない。それでも政権がレームダック化することは避けられた。

民主党の善戦はイコール共和党の不振である。中でも選挙運動で派手に動いたトランプ前大統領の威信が落ちた。

彼は中間選挙で共和党が地すべり的な勝利を収めると予想されたことを受け、例によってそれを自らの手柄だと吹聴しながら2024年の大統領選挙への立候補宣言をすると見られていた。

ところが中間選挙の結果が思わしくなかったため、立候補をためらうか後回しにするか、極端な場合は断念するとさえ考えられていた。

だが嘘や憎悪や不寛容を武器に大衆を扇動するのが得意なトランプ前大統領は、何があっても彼を支持するネトウヨヘイト系の差別主義者らを頼りに早々と立候補を宣言した。

そこには次の大統領選に向けて共和党内に生まれつつある新勢力、デサンティス・フロリダ州知事やペンス前副大統領などを抑え込もうとするトランプ氏のしたたかな計算があると見られている。

トランプ氏は大統領選に敗れてからも負けを認めず、2021年1月6日には支持者を教唆して米国議会議事堂を襲撃したとされる。その後も岩盤支持者に呼びかけては集会を繰り返してきた。

そこではあることないことを思うままに誇張歪曲して叫んでは支持者を焚きつけた。

彼の主張を全て正しいと考えるアメリカ国民は相変わらずに多くいて、トランプ氏を再び大統領に押し上げようとする潮流はほとんど衰えを知らない。

またミーイズムが歩いているようなトランプ氏の唯我独尊主義も変わらず、彼は冒頭で触れたように2024年の大統領選への立候補を表明したのである。

トランプ前大統領は2016年、差別や憎しみや不寛容や偏見を隠さずに、汚い言葉を使って口に出しても構わないと考え、そのように選挙運動を展開して米国民のおよそ半数の共感を得た。

トランプ大統領を生み出したアメリカは、もはや民主主義国家の理想でもなければ世界をリードする自由の象徴国でもない。

アメリカは、ネトウヨヘイト系排外差別主義者とそれを否定しない国民が半数近くを占める「普通の国」であることが明らかになったのである。

トランプ大統領の存在は、自由と寛容と人権と民主主義を死守しようとする「理想のアメリカ」の信奉者をくじき、右派ポピュリズムに抱き込まれた人々を勢いづかせた。

そしてトランプ主義が横行する悪のトレンドは、彼の大統領在任中ひたすら加速した。

アメリカほど暴力的ではないが、ネトウヨヘイト系排外差別主義者とそれを否定しない国民が半数を近くを占める「普通の国」は、欧州を始め世界中に多い。

ここイタリアもフランスもイギリスも、そして日本もそんな国だ。南米にも多い。

そうではあるが、アメリカ以外の特に欧州の国々には、トランプ登場以前の良識や政治的正義主義(ポリティカルコレクトネス)が一見優位を占めるような空気がまだある。そのためアメリカで起きている政治的動乱を、対岸の火事のように眺める者も少なくない。

だがイギリスには保守ポピュリストのBrexit信奉者がいて、フランスには極右のル・ペン支持者がいる。ここイタリアでは、「イタリアの同胞」を筆頭にする極右政党への支持が増え続けている

イタリアにおける「反EU勢力」を全て合わせると、統計上は国民のほぼ半数に相当する。それらの人々は、あからさまに表明はしなくても心情的にはトランプ支持者と親和的である。

さらに言えば、「普通の国」のそれらの右派勢力は―彼らがいかに否定しようとも―中国やロシアや北朝鮮などの独裁勢力とも親和的なリピドーを体中に秘めている。

アメリカに関して言えば、トランプ支持者また共和党支持者に対抗する民主党も、対抗者と同様に危なっかしいと僕の目には映る。

民主党が対話と協調路線を追求するのは良いが、世界の権威主義的勢力に対抗するだけの力を秘めているとは言いがたい。

トランプ前大統領の立候補によってアメリカ国民の融和と癒しはますます遠ざかるだろう。その上彼が当選する事態になれば、アメリカの民主主義は今度こそ真に危機に瀕する可能性がある。

なぜならトランプ前大統領の正体は民主主義者などではなく、世界の権威主義的指導者すなわち習近平国家主席、プーチン大統領、金正恩総書記らに近い、ファシスト気質の政治的放火魔に過ぎないからだ。

ネトウヨヘイト系差別主義や右派ポピュリズムは、米国のみならず世界のほぼ半数の人々が隠し持つ暗部であることが明らかになりつつある。いや、明らかになった、と言うほうがより正確だろう。

それは憂慮するべき現実だ。もしもアメリカに第2次トランプ政権が誕生すれば、プーチン大統領が引き起こした世界の混乱は―彼の失脚や生死とは無関係に―収まるどころかますます悪化して行くことになりかねない。





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柿とカキ

柿2個家壁背景やや鮮明650

数年前に庭に植えた柿の木が実をつけている。

柿はイタリア語でも「カキ」と呼ばれる。そのことから分かる通り柿はもともとイタリアにはなく、昔日本から持ち込まれたもので、ほとんどすべてが渋柿である。

そのままでは食べられないので、イタリア人は容器や袋に密封して暗がりに置き、実がヨーグルトのようにとろとろになるまで熟成させてから食べる。そうすると渋みがなくなって甘くなるのだ。

要するにイタリアには、固い渋柿かそれを超完熟させた、とろとろに柔らかい甘柿しかない。

つまりこの国の人々にとっては、柿とは「液状に柔らかくなった実をスプーンですくって食べる果物」のことなのである。

最近は外国産の固い甘柿も売られているが、彼らはそれもわざわざ完熟させて極端に柔らかくしてから食べる。

かつて日本から柿をイタリアに持ち込んだのは恐らくキリスト教の宣教師だろう。

その際彼らがあえて渋柿を選んだとは考えにくい。きっと甘柿と渋柿の苗木を間違えたのだ。

あるいは甘柿のなる木が多くの場合、接ぎ木をして作られるものであることを知らなかったのだろう。

そんなわけで「普通に固い甘柿」が大好きな僕は秋になるといつも欲求不満になる。

店頭に出回る柔らかい柿はあくまでも「カキ」であって、さくりと歯ごたえのある日本のあの甘い柿とはまるきり別の果物だと感じるのだ。

そこで庭に柿の木を植えて甘柿の収穫を目指した。

植木屋に固い甘柿がほしいのだと繰り返し説明して、柿の木を手に入れ植えた。

数は多くないが甘柿の木はあるのだ。それには蜘蛛の巣のような模様のある実が生る。ところが庭の木に生った実は全て渋柿だった。

植木屋が僕をだましたとは思えない。

彼はきっと僕にとっての固い甘柿の重要さが理解できなくて、実がとろとろになるまで熟成させて食べれば渋いも甘いも皆同じじゃないか、と内心で軽く見切って僕に木を売ったと見える。

少し腹立たしくないこともないが、実をつけた柿の木は景色として絵になるので、まあ好し、と考えることにした。

結局、庭に生る柿は熟成させて家族が食べ、僕は相変わらず店で固い甘柿を買って食べている。



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異端がトリノの個性である


ポルチーニ売るおばさん650

オットブラータ(Ottobrata10月夏)の暖気に促されて繰り返した週末旅で、ピエモンテ州のアルバ(Alba)を訪ねた。

アルバはトリュフで知られた街。ちょうどトリュフ祭り(展示会)が開かれていた。だが僕が食べたいのはトリュフよりもポルチーニ茸だった。

トリュフは嫌いではないが興味もない、というのが僕の昔からの偽りのない気持ちだ。香りも味もピンと来ないのだ。

トリュフのパスタには簡単に出会った。だが、ポルチーニ料理にはありつけなかった。それでもメインで食べた子牛の頬肉煮込みが出色だったので満足した。

遅くなって帰宅の途に就いたが、途中で気が変わって一泊することにした。翌日は日曜日なので成り行き任せの決断でも問題なかった。

ほぼ行きあたりばったりにアスティ(Asti)で宿を取った。実はアルバほかの街々の宿はどこも満員で全く空きがなかった。「仕方なく」アスティに泊まった、というのが真実だ。

コロナが終息した、と考える国民が多いイタリアは旅行ブームだ。厳しい都市封鎖や規制から開放された人々が、観光地へどっと繰り出している。ホテルが混んでいるのもそのせいだった。

アスティは殺風景なたわいない街だった。ひとつ良かったのはアスティ産の甘い「アスティ・モスカートワイン」。アルコール度数がビール並みに低いので、ひとりでほぼ一本を開けた。むろん美味くなければそんなことはしない。

翌日は雨模様だった。

過去に仕事で訪ねた体験からも、地方は期待外れに終わりそうだと判断して、州都のトリノを目指すことにした。

トリノはイタリアの一部だがイタリアではない、と僕は少し誇張して考える。フランスのあるいはパリの下手な写しがトリノという都会である。

それは少し感性のある者なら誰でもすぐに嗅ぎつける同市の属性だ。

物事の多くは模写から始まる。

ところが模写を習いや修行や鍛錬などと称して尊重する日本文化とは違い、西洋のそれはオリジナリティを重視する。のみならず模写を否定する。

その意味ではトリノも否定的に捉えられがちだ。しかしトリノがフランスのそしてさらに詳細にはパリの模倣であっても構わない、と僕は思う。

なぜならトリノはフランスやパリを真似することで、イタリアの中で異彩を放つ都市になった。物真似がトリノの独自性である。

物真似から誕生したトリノは、そのありのままの形で存在することで、全体が個性的な都市や町や地域の集合体であるイタリア共和国の、多様性の一環を成している。

そうではあるものの、僕にとってはトリノは少しも美しくはない。

その理由はトリノの新しさだ。フランス的なものが新しく見えてつまらない。また建物が大げさで、そこかしこの広場や街路も無意味に広大だ。

イタリアの都市に必ず存在する旧市街あるいは歴史的街並がトリノにはない。気をつけて見ればないことはないのだが、それらは近代の建物に圧倒されてほとんど目につかない。

旧市街を別の言葉で言えば中世の街並み。あるいは中世的な古色に染まる景色。はたまた狭い通りや古い建物、崩れ落ちそうな遺跡などが醸し出す豊かな風情。あるいはワビサビの世界。

そういうシーンがトリノにはない。繰り返しになるが全てが比較的新しく、大きく、重厚気味に存在感があり、そしてたまらなく退屈だ。

トリノの街並みを思わせる歴史的なスタイルがイタリアにはもう一つある。それはファシスト時代の建築の構え、つまりリットリア様式の建築物だ。

リットリア様式は古代ローマを模倣しようとした表現法で、武骨且つ単純な力強さがある。尊大なファシストのムッソーリーニと取り巻きが、自らの力を誇示しようとして編み出した。

正確に言えばむろんそれとは違う。だが大きく、重々しく、うっとうしい雰囲気は共通している。

そこには「イタリアを所有している」とまで形容された巨大自動車メーカー、フィアット(FIAT)のイメージも影を落としている。

複合的な心象や写像や現実は、FIATそのものを支配し、果てはトリノという都市まで支配したアニエッリ一族のイメージへとつながる。

古い時代のトリノは、イタリア統一にかかわったサヴォイア王家の拠点だった。フランスの猿真似はサヴィオア家によって完成された。

後年、アニエッリ一族は自動車産業を介してトリノを支配した。街伝統の猿真似を踏襲しつつ貴族を気取ったのがアニエッリ一族だ。そのうさん臭さ。

アニエッリ一族の中でもっとも著名なジャンニ・アニエッリは、欧州に進出する日本のビジネスに恐れをなして「黄禍論」を公然と語った不埒な男だ。

当時の日本は今の中国と同程度に世界に嫌われ恐れられていた。従ってジャンニ・アニエッリの口吻は理解できないこともない。

だがイタリアに来たばかりの若い僕は、その有名人の言動に強い反感を抱いた。時間とともに怒りは収まったが、ジャンニ・アニエッリとアニエッリ家への好感は残念ながら未だに芽生えない。

そんな感慨は、しかし、トリノの街並みや雰囲気への僕のかすかな反感とは無関係だ。

なぜなら僕は、いま述べたように、トリノのみならずピエモンテの各地を巡るとき、他のイタリアの都市や地方とは違い、古色蒼然としたコアな街並みがほとんど存在しない点に、常に物足りなさを感じるからである。






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ヴェローナでリゾットを食べロメオとジュリエットに会った

人混みとジュリエット横顔650

10月、季節はずれのぽかぽか陽気と晴天にはしゃいで近場のヴェローナにも出かけた。

一応の旅の目的を立てた。つまりアマローネ・リゾットを食べること。ヴェローナ近辺で生産される高級ワイン、アマローネを使ったリゾットである。

僕はそれとは別に、なんとかの一つ覚えのように、ポルチーニ料理も頭に思い描いていた。

10月半ば過ぎの北イタリアでは、ほぼどこに行っても新鮮なキノコの料理が食べられる。

中でも僕が“イタリアマツタケ”と勝手に呼んでいるポルチーニは、それ自体でも、またパスタ絡みの調理でも出色の味がする。

ヴェローナはイタリアのエッセンスが詰まった美しい古都の一つだ。

だが晴天と暑気と週末が重なって、街には人出が多く花の都の景観をかなり損なっていた。少し前なら密が怖くて歩けなかったであろうほどに、街じゅうが混雑していた。

ローマ時代の円形闘技場・アレーナがあるブラ広場、街の中心のエルベ広場またシニョーリ広場とそれらを結ぶ大小の道を歩いた。

そこではときどき路上で立ち尽くさなければならないほどの人出があり、思わず雑踏事故の4文字を思い浮かべたりさえした。

イタリアではコロナがほぼ終息したと考えられていて、旅行また歓楽ブームが起きている。

コロナパンデミックに苦しめられ、ロックダウンで窒息した人々の怨念が解き放たれて、心身が雀躍しているのが分かる。

そこにOttabrata(10月夏)の好天が続いたので、人々の外出への欲求がいよいよ高まった。

僕は本職のビデオ取材以外でもヴェローナにはけっこう通った。

義父が製造販売していたワイン展示の手伝いでヴィンイタリー(Vinitaly)会場に出入りしたのだ。

ヴィンイタリー(Vinitaly)は毎年4月、ヴェローナ中心部に近い広大な会場で開催される。1967年に始まった世界最大のワイン展示会である。。

義父は10年ほど前までワインを作っていた。自家のブドウ園の素材を使って生産しVinitaly にも参加していた。

時間が許す限り僕はワインの展示を手伝うために会場に通った。

だが手伝うとは名ばかりで、実は僕はワインの試飲を楽しんだだけだった。展示会場を隈なく回って各種ワインの味見をするのだ。そこではずいぶんとワインの勉強をした。

義父のワイン事業はビジネスとしては厳しいものだった。

ワインは誰にでも作れる。問題は販売である。貴族家で純粋培養されて育った義父には商才は全く無かった。ワインビジネスはいわば彼の贅沢な道楽だった。

義父が亡くなったとき、僕がワイン事業を継ぐ話もあった。だが遠慮した。

僕はワインを飲むのは好きだが、ワインを「造って売る」商売には興味はない。その能力もない。

それでなくても義父の事業は赤字続きだった。

ワイン造りはしなくて済んだが、僕は義父の事業の赤字清算のためにひどく苦労をさせられた。彼の問題が一人娘である僕の妻に引き継がれたからだ。

ワインを造るのはどちらかといえば簡単な仕事だ。日本酒で言えば杜氏にあたるenologo(エノロゴ)というワイン醸造の専門家がいて、こちらの要求に従ってワインを造ってくれる。

もちろんenologoには力量の違いがあり、専門家としてのenologoの仕事は厳しく難しい。

ワイン造りが簡単とは、優秀なenologoに頼めば全てやってくれるから、こちらは金さえ出せばいい、という意味での「簡単」なのである。

ワインビジネスの真の難しさは、先に触れたようにワイン造りではなく「ワインの販売」にある。ワイン造りが好きだった義父は、enologoを雇って彼の思い通りにワインを造っていたが、販売の能力はゼロだった。

だから彼はワイナリーの経営に失敗し、大きな借金を残したまま他界した。借金は一人娘の妻に受け継がれ、僕はその処理に四苦八苦した、といういきさつだった。

vinitalyに顔を出していた頃は、会場から市内中心部まで足を運ぶこともなかった。それ以前にアレーナと周辺のロケをしたことがあるが、記憶があいまいなほどに時間が経った。

淡い記憶をたどりながらアレーナ周りを歩き、観察し、前述の広場や路地を訪ね巡った。

歴史的にはほぼフェイクとされる「ロメオとジュリエット」のジュリエット像と屋敷も見に行った。

そこの人ごみのすごさにシェイクスピアの物語の強烈な影響を思ったが、ただそれだけのことで格別に印象に残るものはなかった。

食べ歩きが主目的なので付け加えておけば、リゾットの後に子羊の骨付き肉を頼んだ。キノコ系のメインコースがなかったからだ。

どこにでもある炭火焼の、ありふれた味の一品だった。

子羊や子ヤギまた子豚などの肉は、炭や薪で焼く場合には丸焼きにしない限り陳腐な口当たりになる。それを地でいくもので作り話のジュリエット像にも似て味気なかった。



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国際都市ジェノヴァの肥溜めの彩

歌碑&顔中ヒキ650

10月の陽気に浮かれて旅したジェノヴァでは、下町の港周辺地区を主に歩いた。特にカンポ通り(Via del Campo)だ。

ジェノヴァは基本的に2地域に分かれると僕は考えている。港の周辺とそれ以外の地区である。

ジェノヴァ港は地中海でも1、2を争う規模と取引量を誇る。ジェノヴァの富の源泉がジェノヴァ港だ。

港周り以外のジェノヴァの地域は、割合で言えば8割程度の重みがある。

そこは街の政治経済文化の中心だ。元々のイタリア人(白人)で、いわば街の支配階級が住む場所である。

一方、そこからフェッラーリ広場を抜けて入るカンポ通りには、港の荷揚げ作業などの苦役に従事する外国人労働者や移民が多く住む。

通りは港の一部と形容しても構わないほどに近接している。

あたりの印象は、外国人に混じってイタリア人あるいはジェノバ人が細々と生きている、という風でさえある。

イタリアきってのシンガーソングライター、ファブリツィオ・デ・アンドレは



「カンポ通りには木の葉色の瞳を持つ娼婦がいる 

(通りも娼婦も街の肥溜めだ) 

ダイヤモンドからは何も生まれない 

だが肥溜めからは花が生まれる


と歌った。※( )内は僕の意訳


肥溜めのように貧しいカンポ通りに生きる娼婦こそ人生を正直に生きる花だ、と讃えたのである。

哀切を誘うメロディーに乗った寓意的な歌詞が、デ・アンドレの低い艶のある声でなぞられて心にぐさりと突き刺さる。

その歌“Via del Campo”は数多いデ・アンドレの名作の中でも最高傑作のひとつと見なされている

カンポ通りの一角の壁には、“Via del Campo”の1節を刻んだ表意絵が掛かっている。

通りを歩くと歌の世界と現実が交錯して、現実が歌を、歌が現実を補填し合い渾然一体となって迫り来る感覚にとらわれる。

歩いた先にあるレストランで食事をした。

そこには地域の住民はいない。街の8割方に住む豊かなジェノヴァ人と旅人が店の客だ。

僕らはその店で散財することができる特権的な旅人のひとりとなって食事を楽しませてもらった。

鮮やかな緑色のペスト・ジェノヴェーゼにからませたパスタは、本場でしか味わえない深い風味があった。

メインで食べたタコ料理に意表を衝かれた。いったいどんな手法なのか、タコが口に含むととろりと溶けるほどにやわらかく煮込まれていたのだ。

タコ料理は今日までにそこかしこの国でずいぶん食べたが、その一品はふいに僕の中で、ダントツのタコ料理レシピとして記憶に刻まれた。

白ワインはリグーリア特産のヴェルメンティーノ(Vermentino)。きんきんに冷えたものを、と頼むと予想を上回るほどに冷えたボトルが出てきた。

味は絶品以外のなにものでもなかった。

ところで

ジェノヴァ市民は、多分イタリアでもっとも親切な人々、というのが僕の持論だ。

特に交通巡査や役人や道行く人々・・つまり全てのジェノヴァ人。

僕はロケでイタリアのありとあらゆるところに行く。その体験から「親切なジェノヴァ人」という結論に行き着いたのである。

情報収集やコンタクトや時間の融通や撮影許可やロケ車の置き場所や始末や・・あるとあらゆる事案にジェノヴァ人は実に懇切、丁寧、に対応してくれる。

それは多分ジェノヴァの人たちが国際的であることと無関係ではない。

港湾都市のジェノヴァには、常に多くの外国人が出入りし居住した。埠頭の人足から豊かな貿易商人まで、様々な境遇の人々だ。

ジェノヴァの人々は言葉の通じない外国人を大事にした。彼らは皆ジェノヴァの重要な貿易相手国の国民だったから。

そこからジェノヴァ人の親切の伝統が生まれた。

国際都市ジェノヴァには、また、国際都市ゆえの副産物も多くあった。

その一つがサッカー。

世界の強豪国、イタリアサッカーの発祥の地も、実はジェノヴァなのである。

その昔、ジェノヴァに上陸したイギリス人の船乗りが母国からサッカーを持ち込んで、それが街に広まった。

今でこそトリノやミラノのチームが権勢を誇っているが、イタリアサッカーの黎明期には、ジェノヴァチームは圧倒的に強かった。

さらに

古来、イタリア半島西端のやせた狭い土地で生きなければならなかったジェノヴァ人は、働き者で節約精神も旺盛だと言われる。

そこで生まれた冗談が「ジェノヴァ人はイタリアのユダヤ人」。イギリスにおけるスコットランド人と同じ。

リグーリア州の大半は山が突然海に落ち込むような地形だ。平地が少なく地味もやせている。

そのため人々は海に進出し、知恵をしぼって貿易にいそしみ巨万の富を得た。

アメリカ大陸を発見したとされるコロンブスもこの地で生まれた。

それは英国におけるスコットランド人や、世界におけるユダヤ人と同じ。

彼らのケチケチ振りを揶揄しながら、人は皆彼らの高い能力をひそかに賞賛してもいる。

「~のユダヤ人」というのは決して侮蔑語ではない。それは感嘆語だ。

親切でこころ優しいイタリアのユダヤ人、ジェノヴァ人に乾杯。

感嘆語のみなもと、ユダヤ人には、もっと、さらに乾杯。




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