【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

手のかからない野菜の王様

ラデッシュ味噌漬けヒキ650
             ラディッシュの味噌漬け

菜園をたがやしてわかったことはたくさんあるが、作りやすい野菜と育てるのが難しい野菜がある、ということもそのひとつである。

そんなことはあたり前だと思っていたが、じつはそれはどこかで読んだり聞いたりしたことで、自分で本当に野菜の種の選択や芽の成長過程などにかかわってみないかぎり、具体的にはわからないものだと気づいた。

作りやすい野菜とは、僕の場合はおよそ次のようなことである。

種が早く、そして多く芽ぶく(つまりムダな種が少ない)。

萌えた芽の成長が早い。

水遣りや肥料がいらないか、最小限で済む。

病気になりにくい。

日照りや風や寒さに強い。など、など。

また地域によって異なる土質に適応しやすい。

土地の気候に順応しやすい。

などの人の力では変えられない条件に適合することも重要だろうが、そうした点はあまり気にかけなくてもいいようだ。

それというのも市販されている種子や苗は、種苗メーカーが長い間の経験で取捨していて、たとえば起源が南国の野菜でも寒い北イタリアで十分に育つ、など品種改良がなされている。

逆に作りにくい野菜とは、上記とは逆の性質を持つもののことである。

10年あまりにわたって野菜を作った中で、僕がもっとも作りやすいと思うのは、なんといってもラディッシュと春菊である。

どちらも種をまき散らしておけば確実に芽ぶき、成長も早い。水遣りも少なくて済む。また追肥もいらない。

ラディッシュは欧州で盛んに栽培される。

春菊はここにはないので日本から種を持ち込む。

ラディッシュはサラダで食べるのが主流だが、煮たり焼いたり漬物にしたりもできる。

僕はほぼ大根と同じとらえ方で扱い調理する。

冒頭の写真は収穫したばかりのラデッシュを葉とともに味噌をまぶして半日ほど漬け込んだもの。

イタリア人の友人らにも好評な一皿だ。

一方春菊は、自分で作ってはじめて生食できることを知った。新芽あるいは若芽を刈ってサラダにするのだ。

みずみずしく香りもまろやか。きわめて美味だ。

かつては僕にとって春菊とは、においのきつい、鍋に入れることが多い、個性の強烈な野菜のことだった。

が、菜園で栽培して初めて、新芽がにおいも味もたおやかで上品な野菜だと知った。

春菊の新芽のサラダを食べるのは、菜園をたがやす者の特権だとひとり合点しているが、実際はどうなのだろうか。

ラディッシュも春菊も、春浅い時期に種をまいてもよく芽ぶく。成長があきれるほどに早く、数週間から遅くても1ヵ月ほどで食べごろになる。

ラディッシュは一度収穫したらそれで終わりだが、春菊は切り取った茎からまた芽が出てくるので何度も収穫できる。

新芽を食べつづければ夏の間ずっと楽しめる。

春菊はサラダ以外に、野菜炒めに加えたり、豆腐と煮たり、白和えにしたりもする。

だがここイタリアで食べるかぎり、他のサラダ菜とまじえる生食がほとんどである。

その場合はわが家の鉄則で、オリーブ油と醤油だけで和える。




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マタレッラ大統領と反マフィア判事の接点


合成falcone&mattarella

1992523日17時30分頃、ジョヴァンニ・ファルコーネ判事の乗った車が、シチリア島パレルモのプンタライジ空港を市内に向けて走り出した。

ファルコーネ判事はマフィア殲滅を目指して戦うイタリアの反マフィア勢力の旗手。島の出身であることを活かして、闇組織との激しい法廷闘争を繰り返していた。

自動車道を時速約150キロ(140キロ~160キロの間と推測される 。判事の車はマフィアの襲撃を防ぐために常に高速走行することが義務付けられていた)で疾駆していた車が1758分、凄まじい爆発音と共に中空に舞い上がった。

ファルコーネ判事と同乗していた妻、さらに前後をエスコートしていた車中の3人の警備員らが一瞬にしてこの世から消えた。

マフィアはそうやって彼らの敵であるファルコーネ判事を正確に葬り去った。

いわゆる「カパーチの悲劇」である

ほぼ2ヶ月後の7月19日、ファルコーネ判事の朋友で反マフィア急先鋒のパオロ・ボルセリーノ判事もパレルモ市内で爆殺された。

セルジョ・マタレッラ大統領はコロナ禍中の今日、パレルモ市内の刑務所のホールで催されたファルコーネ、ボルセリーノ両判事の29回目の追悼式典に参列した。

それはマタレッラ大統領の最後の式典参加になると見られている。彼の任期は来年2月まで。大統領は2期目の選挙への出馬は目指さない、とつい先日明言した。

マタレッラ大統領はシチリア島人である。そればかりではない。彼は家族をマフィアに殺された凄惨な過去を持っている。

1980年1月6日、シチリア州知事だった兄のペルサンティ・マタレッラがマフィアに襲われて死んだ。州知事は反マフィア活動に熱心だった。

それに反発した犯罪組織が刺客を送って知事に8発の銃弾を撃ち込んだ。

たまたまその場に居合わせたセルジョ・マタレッラは、救急車に乗り込んで虫の息の兄を膝に抱いたまま病院に向かった。

兄の体とそれを掻き抱いている弟の体が鮮血にまみれ車中に血の海が広がった。

そのむごたらしい出来事が、当時は学者だったセルジョ・マタレッラを変えた。

彼は兄の後を継いで政治家になる決心をした。

マフィアを合法的に殲滅するのが目的だった。3年後、かれは下院議員に初当選。

そうやって筋金入りの反マフィア政治家、セルジョ・マタレッラが誕生した。

2015年、セルジョ・マタレッラはイタリア共和国大統領に選出された。

マフィア撲滅を願う彼は、殺害された反マフィア判事らの追悼式にも毎年参列してきた。

シチリア島を拠点にするマフィアは、近年イタリア本土の犯罪組織ンドランゲッタやカモラに比べて陰が薄い。

だがそれはマフィアが消えたことを全く意味しない。

マフィアから見れば、新興勢力とも呼べるンドランゲッタやカモラが派手に活動するのを隠れ蓑にして、老舗の暗黒組織はむしろ執拗にはびこっている。

現にコロナパンデミック禍中では、マフィアが困窮した事業や一般家庭を援助する振りで取り入り、彼らを食い物にする実態なども明らかになった。

マフィアを完全に駆逐することは難しい。

それでも反マフィアの看板を下ろさないマタレッラ大統領は、あるいは来年からは市民のひとりとして、故郷の判事追悼式典に参加するのかもしれない。





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ベルルスコーニを許すイタリア人はワクチン抜け駆け接種者も斬り捨てない


イタリアを含むEU(欧州連合)のワクチン接種戦略は、宇紆余曲折をたどりながらもほぼ軌道に乗りつつある。

2021年、5月18日現在のイタリアのワクチン接種状況は:18.977.897人 人口の 31,82% 。このうち2回接種を受けた者:8.787.150 人口の14,73%

接種率約32%というイタリアの数字は、EU全域の数字と見てほぼ間違いない。

EU27ヵ国は共同でワクチンを購入し、人口に応じて公平に分配する仕組みを取っている。人口が多いほど受け取るワクチンの数は多いが、比率はほぼ同じである。

しかし国によって国民間の接種状況は違う。

ある国は高齢者への接種を優先させ、ある国は医療従事者への接種をまず徹底するなど、国によってワクチンの使い道は自由に裁量できるからだ。

例えばここイタリアでは医療従事者への優先接種を大幅に進めたあとで、80歳以上の高齢者への接種を始めた。

5月18日現在は、50歳代の国民への接種も開始されている。

ちなみに僕はワクチン鑑識表上は40歳~49歳をジジババ予備軍、50歳~69歳を若ジジババ、70歳~79歳をジジババ、80歳~99歳を老ジジババ、100歳~を超人老と呼んで区別している。

ワクチンの数が足りなかった2月から3月にかけては、順番や年齢を無視して抜け駆け接種をする不届き者の存在が問題になった。

僕の近くでも、介護で多くの老人に接することが多い、と偽って抜け駆け接種をした女性がいる。50歳代の彼女は他人の家で働くいわゆる家事手伝い。

長い間寝たきりだった夫を介護していた事実を利用して、あたかも他者の介護もする介護人資格保有者のように装い2月頃にワクチンの優先接種を受けた。

そのことがバレて近所で評判になったが、彼女は悪びれず「私は他人の家に入って清掃をするのが仕事。人の家だから感染のリスクが高い」と強弁してケロリとしていた。

似たようなことがイタリア中で起こった。4月初めの段階で、自分の番でもないのに割り込みで抜け駆け接種を受けた者は全国で230万人にものぼった。

中でも南部のシチリア、カラブリア、プーリア、カンパーニャ各州で割り込み接種が多く、4州ではそのせいで優先接種を受けるべき80歳代以上の住民の接種が大幅に遅れた。

そのうちナポリが州都のカンパーニャ州では、デ・ルーカ州知事自身が順番を無視して抜け駆け接種をしたことが明るみに出た。

批判を浴びると知事は、「カンパーニャ州は年齢順ではなく業種別に接種を進める」と開き直った。

南部4州に加えて、フィレンツェが州都のトスカーナ州でも割り込み接種が多かった。同州では80歳以上の人を尻目に接種を受けた不届き者が、弁護士や役場職員や裁判官などを中心に12万人にも及んだ。

似たようなことは、お堅いはずのドイツでさえ起こっている。例えば旧東ドイツのハレ市では、64歳の市長が優先接種の対象となっている80歳以上の人々を出し抜いてワクチン接種を受けた。

彼は「時間切れで廃棄処分に回されそうなワクチンを接種しただけ」と言い訳したが、規則に厳しいドイツ社会は抜け駆けを許さず、辞職を含む厳しい処分を受けると見られている。

同様な問題は日本でも起こっているが、ドイツほどの苛烈な批判にはさらされていないようだ。むろんイタリアほどひどくはないが、コネや地位を利用しての抜け駆け接種はやはり見苦しい。

その一方で、ドイツの厳格さも息が詰まるように感じるのは、よく言えばイタリア的寛容さ、悪く言えばイタリア的おおざっぱに慣れた悪癖なのかもしれない。

「人は間違いをおかす。だから許せ」が信条のイタリア人は、醜聞まみれのあのベルルスコーニさんも許し、ワクチン抜け駆け接種の狡猾漢も最終的には許してしまう。

人間が小さい僕は、どちらも許せないと怒りはするものの、結局イタリア人の信条にひそかに敬服している分、ま、しょうがないか、と流してしまういつもの体たらくである。




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特許権停止という世迷言

バイデン横顔 650

バイデン大統領が、コロナワクチンの特許を一時停止することに賛成、と表明して世間を騒がせている。

特許を開放して、ワクチン開発者たちの知的財産を世界中に分け与えるべき、という主張だ。

特許権を停止することで、企業秘密である生産ノウハウに誰もがアクセスしてワクチンを製造することができる。そうやってワクチンが貧しい国々にも行き渡る。だから公平だ、という論法だ。

しかし、それを果たして公平と呼べるのだろうか?

新型コロナは変異種の猖けつ もあり世界をますます恐慌に陥れている。その中でも特に苦しんでいるのがインドをはじめとする途上国だ。

そのインドと南アフリカが口火を切って、ワクチン特許の一時停止論が盛んになった。

ワクチン製造の秘密をまず彼らが無償で手に入れて、世界中の途上国も同じ道を行きワクチンを大量に製造して、コロナ禍から脱するというわけだ。

その主張をバイデン大統領が支持した。彼は善意を装っているが、ここまでアメリカは同国産のワクチンを独り占めにしている、という途上国などからの批判をかわす意図も透けて見える。

それに対して主に英独仏をはじめとする欧州各国が不支持を表明した。彼らは貧しい国々へのワクチンの流通を阻んでいるのは特許権ではなく、生産能力や品質基準の問題だと主張している。

またIFPMA(国際製薬団体連合会)も「ワクチンの特許を停止しても、生産量が増えたり世界規模の健康危機への対抗策が直ちに生まれるわけではない」と反論。

IFPMAはさらに、増産の真の障害はワクチンの原材料不足、サプライチェーンの制約、各国のワクチンの囲い込み、貿易障壁などが主要な要因だとも言明している。

当事者たちのそうした懸念を待つまでもなく、特許を保護しなければ研究開発に必要な民間投資が活性化せず、政府等の資金提供も損なわれる。それはイノベーションが起こらずワクチンの製造が不可能になることを意味する。

インドの惨状に心を痛めない人はまれだろう。また先進国だけがワクチンの接種を進めて途上国や貧しい国々にまで行き渡らなくてもよい、と考える者もよほどの冷酷漢でもない限りあり得ない。

弱者や貧しい人々は必ず救済されなければならない。だが、そのために多くの努力と犠牲と情熱を注いでワクチンを開発した人々や会社が、犠牲になってもいいという法はない。

ワクチン製造は慈善事業ではない。能力と意志と勇気と進取の気性に富んだ人々が、多大な労力を注ぎ込み且つ大きな経済的リスクを冒して開発したものだ。

彼らは成功報酬を目当てにワクチンを開発する。利益を得たいというインセンティブがあってはじめてそれは可能になる。それが自由競争を根本に据えた資本主義世界の掟だ。

懸命に努力をしても彼らの知的財産が守られず、したがって金銭的報酬もなければ、もはや誰も努力をしなくなる。しかもパンデミックは今後も繰り返し起きることが確実だ。

製薬会社は高く強い動機を持ち続けられる環境に置かれるべきだ。それでなければ、次のワクチンや治療薬を開発する意欲など湧かないだろう。彼らの努力の結果である特許権を取り上げるのは間違いだ。

特許権を取り上げるのではなく、それを基にして生産量を増やし急ぎ先進国に集団免疫をもたらすべきだ。その後すばやく途上国や貧困国にワクチンを送る方策を考えればいい。

世界はひとつの池のようなものだ。先進国だけが集団免疫を獲得しても、他の地域が無防備のままならコロナの危険は去らない。だから前者をまず救い同じ勢いで他も救えばよい。

先進国は、それ以外の世界のコロナを収束させなければ、どうあがいても彼ら自身の100%の安全を獲得することはできないのだ。

そのためにも特許権を守りつつ生産を大急ぎで増やして、まず先進国を安全にし、その安全を他地域にも次々に敷衍していけばいいのである。

途上国はコロナという大火事に見舞われている。同時に先進国も熱火に焼かれている。自家が燃えているときには、よその家の火事を消しに行くことは中々できない。

まず自家の火事を鎮火させてから、急ぎ他者の火事場に向かうのが最も安全で効果的な方法だ。それでなければ共倒れになって、二つの家が焼け落ちかねない。

バイデン大統領は、ここは善人づらで無定見な政治パフォーマンスをしている場合ではない。重大な発明をした製薬会社を守りつつ、世界の健康を守る「実務」パフォーマンスもぜひ見せてほしいものである。




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反ワクチン論者の理外の理  

ワクチン会場2看板650

明るい兆し

イタリアのコロナワクチン接種計画が軌道に乗りつつある。

EU(欧州連合)のワクチン療治スキームはことしに入ってから挫折しっぱなしだった。EU加盟国のイタリアもむろん例外ではない。

構想が崩れたのは、ワクチン製造会社の供給の遅れだった。特にアストラゼネカが大きく停滞。それは同社がイギリスへの配分だけをこっそり拡大したから、という疑惑さえ生まれた。

だがアストラゼネカ社以外からの供給が3月半ば頃から徐々に増えて、EUのワクチン政策は当初の計画に少しづつ追いついた。イタリアの状況もそれに連れて改善した。

5月5日時点でのイタリアのワクチン接種は一回接種が15.081.403回。総人口のおよそ25,30%。2回接種済の者は6.520.204 人である。

イタリア政府は4月26日、全土にわたるロックダウンを徐々に解除していくと決めた。観光・飲食店業界などが、これ以上の休業には耐えられない、と激しく政府を突き上げた。

それが思い切った緩和策の導入をもたらした。だが、その大きな規制緩和策の裏には、ワクチン接種環境が改善しつつある、という政府の自負もある。

懸念

政策転換は危険な賭けだ。なぜならイタリアのワクチン接種は、たとえばイギリスやアメリカなどに比べるとはるかに数が少ない。拙速な規制緩和は強いリバウンドを呼ぶリスクがある。

それとは別に、イタリアにはワクチン接種に絡むもうひとつの懸念もある。強い反ワクチン勢力の存在である。それが「“No Vax(ノー・ヴァクス)” 」だ。

No Vaxはイタリアの左右のポピュリスト政党、五つ星運動と同盟の主導で勢力を拡大した。きっかけは2017年、イタリア政府が全ての子供に10種類のワクチンを接種する義務を課そうとしたことによる。

過激集団No Vaxはワクチンの「危険と不自然性」を叫んで政府に噛み付いた。そこに「反体制」を標榜する両党が飛びついて運動の火に油を注いだ。火はたちまち燃え盛った。

反体制を標榜する両党は、No Vaxのみならずワクチン接種に懐疑的な人々の票が欲しかったのである。イタリアはフランスに似て、ワクチン接種に積極的ではない人々が多い国だ。

2018年の総選挙では、五つ星運動と同盟が躍進して両党による連立政権が発足。NoVaxはさらに隆盛しワクチン反対運動は激化の一途をたどった。

そこに新型コロナが出現した。No Vaxはそれまでの主張を踏襲拡大して、新型コロナウイルス・ワクチンにも断固反対と叫び始めた。

いきさつ

ワクチンの効能に疑問を持ち、且つ安全性に不安を持つ人々は、世界中で増え続けている。きっかけは20年以上前に遡る。

イギリスの医師、アンドリュー・ウェイクフィールドが、はしかの予防接種は自閉症を引き起こす、というセンセーショナルな論文を発表した。これが反ワクチン派の人々を狂喜させた。

論文はその後ねつ造だったことが分かり、彼は医師免許を剥奪された。しかし、道理を全く認めようとしない反ワクチン過激派の人々には、そんな真実など存在しないに等しい。

彼らはその後もワクチンの危険と欺瞞を「狂信」し続けた。イタリアのNo Vaxはその流れをくむ運動である。それはほぼ彼らの宗教だから、科学の言葉は通じない。

NoVaxは狂信的で声が大きく活動が荒っぽい。各国のグループをまとめる国際的な反ワクチン組織は、NoVaxが引っ張るイタリアの反ワクチン活動を「抵抗のシンボル」とさえ見なしている。

だが、そうはいうものの、ここ最近のイタリアの状況は少し静かに見えないこともない。

国論
コロナワクチンに猛然と異議を唱えているのは、極く少数の過激な人々である。それを裏付けるように、イタリアでワクチン接種が始まってからは、実力行使にまで及ぶ極端な動きは少ない。

仲間同士でつるんで気勢を上げる以外には、接種会場に火炎瓶を投げつけたり、高齢者を煽動して集団で接種を拒否させたりという動きがニュースになったぐらいだ。

またイスラエルや米英など、ワクチン接種先進国における成功が刺激となって、やはり予防接種は重要だという気運が全国的に高まりつつあるのも確かだ。

それでも過去のイタリアのありさまを思うと不安は大きい。

元々ある嫌ワクチン気分に加えて、イタリアの良く言えば多様性に富む国の様態、悪く言えば分裂気質の国民性が、国を挙げてのワクチン接種キャンペーンに影を落としている。

英独仏などの欧州先進国と違って、イタリアは同じ先進国ながら統一した民意が形成されにくい。だからこそイタリア政府は事あるごとに「イタリア全国民こぞって~」という類の主張を繰り返す。

それは多様性ゆえに四分五裂する世論をまとめるための、イタリア政府の懸命の努力のあらわれなのである。

だが、再びイタリアは、英独仏や北欧各国に比べて合理性への帰依が薄い。そこが同じカトリック教国であるフランスとも違う、イタリアの弱点であり面白さだ。

フランスも反ワクチン勢力の強い国だが、最終的には合理的思考が勝って、イタリアとは対照的にワクチン接種賛成論が世論を席巻する可能性が高い。

集団免疫

イタリアはそうはならないかもしれない。いま現在の正確な統計はないが、昨年末あたりの統計では、ワクチン接種に積極的なイタリア人は60%あまりというものもあった。

その60%あまりの人々が、ワクチン接種状況を良い方向に引っ張っているとするなら、やがてそれは行き詰まってしまうかもしれない。そうなるとイタリア政府が目指す「集団免疫」の獲得が頓挫する可能性もある。

「集団免疫」は運が良ければ、国民全体のワクチン接種率70%程度で達成できるともされる。だが一般的には80%程度が目安で、数字が高ければ高いほど確率が高くなる。

既述のように今日現在の明確な統計はないが、僕が友人知己その他を含む独自のネットワークで調べた限りでは、80%の接種率に至るのはかなり厳しいように感じる。

積極的にワクチン接種に反対、とは言わなくても、喜び勇んで接種会場に足を運ぶ気にまではなれない、という者も多いのだ。

NoVaxを筆頭にしたワクチン懐疑派の喧伝と、血栓などの健康被害が発見されたアストラゼネカ・ワクチンの出だしでのつまずき等が、大きく影響しているようだ。

統計の数字にこだわるわけではないが、イタリアのワクチン戦略は接種率が60%に近づいたあたりで停滞し、その後は何らかの措置が取られない限り「集団免疫」の完成には至らない可能性がある。

そうなった場合イタリア政府は、一般的には懐疑論が強い「ワクチン接種の義務化」を模索するかもしれない。イタリアは先日、欧州で初めて医療従事者のワクチン接種を義務化した。

多様性と自由を尊重するところがイタリア共和国の最大の美点だが、それは行き過ぎてカオスを呼び込むことも多い。そしてカオスが制御不能に陥ると、伝家の宝刀「強制施行策」が抜かれる。ワクチン接種もそうなる可能性があるように思う。

切捨てではなく説得が解決策

ワクチン懐疑論者のうち陰謀説などにとらわれている勢力は、科学を無視して荒唐無稽な主張をする米トランプ大統領や追随するQアノンなどを彷彿とさせる。

言うまでもなくワクチンには問題がないわけではない。だがワクチンを凌駕するほどの感染症への特効薬をわれわれ人類ははまだ見出していない。

ワクチンを拒否するのは個人の自由だ。

NoVavを含むワクチン懐疑派の人々は、彼らなりの考えで自分自身と愛する人々の健康を守ろうとしている。

問題は彼らが間違った情報や嘘に惑わされていることだ。

従って彼らは正しい情報と科学の言葉によって説得されるべきだ。決して切り捨てられるべき存在ではない。彼らを納得させるのが政治の仕事である。

ワクチンはフェイクニュースや思い込みに縛られている人々自身を救う。同時に彼らが所属する社会は、コロナ禍から脱出するために「集団免疫」が必要だ。

それは社会の大多数がワクチン接種を受けたときに達成される。彼らを無知蒙昧だとして切り捨てれば、ワクチンの社会的な効果は半減しかねない。

繰り返すが、ワクチン接種は彼ら自身を守ると同時に彼らが生きる社会を守る。為政者は彼らを啓蒙して、そのことをしっかりと理解させなければならない。

どうしても理解しない者、あるいは理解してもワクチン接種を意図的に拒む者には、罰則が科されてもあるいは仕方がないと考える。反社会的行為にも当たるからだ。

むろんコロナパンデミックは、反ワクチン派の人々が主張するように、自然のままに蔓延させることで「自然に」集団免疫ができ「自然に」終息する、という考え方もある。

しかし、そこに至るまでに一体何人の人が死に、医療崩壊を含むどれだけの社会の混乱と不都合と不利益と不自由があるかを考えた場合、やはりワクチンによって終息を図ることが重要だ。

また、ウイルスが絶え間なく変異する怖い存在であることを考えても、できるだけ迅速に宿主を減らしてウイルスの活動を封じ込むべきである。


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男の出産



則菜園:チンゲン&大根中ヒキ800

菜園を耕すようになって10年あまりがたちました。

野菜作りはおいしい食料の獲得、という実利以外にも多くのことを教え、気づかせてくれます。

菜園耕作者はいやでも季節の変化に敏感になり、野菜たちの成長や死滅に大きくかかわる気候変動に一喜一憂します。

彼らは風気の多情に翻弄されつつ、育児のように甲斐甲斐しく野菜たちの世話を焼きます。

菜園作りでもっとも嬉しいのは、育った野菜の収穫です。

そしてもっとも感動的なのは、土中で目覚めた芽が「懸命に」背伸びをし肩を怒らせ、せり上がって土を割る瞬間。

ICHIGO デカデカと650

すなわち大地の出産。

いつ見ても言葉をのむ劇的な光景です。

出産できない男がそこに感服するのは、おそらく無意識のうちに「分娩の疑似体験」めいたものを感じているからではないか。

自ら耕やし、種をまき水遣りをして大切にはぐくむ過程が、仮想的な胚胎の環境を醸成して、男をあたかも女にします。

そして男は大地とひとつになって野菜という子供を生みます。

それはいうまでもなく「生みの苦しみ」を伴わない出産です。

苦しみどころか生みの喜びだけがある分娩です。

だが楽で面白い出産行為も出産には違いありません。

竹かご野菜800に拡大

一方、女性も、菜園の中では男と同じように「命の起こりの奇跡」を再び、再三、繰り返し実体験します。

真の出産の辛さを知る女性は、もしかすると苦痛を伴わないその仕事を男よりもさらに楽しむのかもしれません。

菜園ではそうやって男も女も大地の出産に立ち会い合流します。

野菜作りは実利に加えて人生の深い意味も教えてくれる作業です。

少なくともそんな錯覚さえも与えてくれる歓喜なのです。





しびれるワクチン


入り口看板と女性650


4月27日、イタリアが3度目のロックダウンを緩和した翌日、待望のワクチン接種を受けた。

副反応は注射跡のほんの少しの痛み。毎年受けているインフルエンザワクチン接種後の症状にも似た、軽いだるさもあるような、ないような。

コロナの恐怖と不快とに比べたら“それがどうした、河童の屁だぜ”という程度の差し合いにすぎないけれど。

5月には早くも2回目の接種を受ける。それでコロナの全てが終わるわけではないが、ある程度の行動の自由は保障されるのではないか。

知らぬ間に年をくって、もはや無駄にできる時間はない、とコロナ自粛・閉鎖中にしみじみと気づいた。

仕事も旅も趣味も、特に旅と趣味にハジケてやる、とひとりひそかに決意中。

4月27日現在のイタリアのワクチン接種状況は:累計13142028 回。5475401人が2回接種済み 。

4月26日に始まったイタリアの規制緩和は早すぎるのではいか、と実は僕は少し気にしている。

ワクチン接種数は、たとえば日本に較べればはるかに多いが、イギリスやイスラエルまたアメリカなどに及ばない。

拙速な規制緩和は強烈なリバウンドを呼びかねない。いま大問題になっているインドがそうだ。

ほかにも枚挙にいとまがない。

ここイタリアでも起きた。

4月初めには感染防止の優等生だったサルデーニャ州が、規制緩和が始まった4月26日には、唯一のロックダウン継続地(レッドゾーン)と指定された。

3月終わりから4月初めにかけての復活祭期間に、安全地帯として規制をゆるめたとたんに、感染再拡大に見舞われたのである。

始まったばかりのイタリア全土のロックダウン解除も同じ結末になりかねない。

だが遅れがちだったワクチン接種計画が軌道に乗りつつあるのも事実。

だから高齢者の入り口あたりでウロウロしている僕にもすぐに順番が回ってきた。

リバウンドが起こらないことを祈りつつ、2回目の接種をわくわくと、且つじれったい思いで待つことにする。

ところで

世の中にはワクチンを喜ばない人々もいる。喜ばないどころか彼らはワクチンを敵視さえする。

理由は拙速な開発や効果を疑うという真っ当なものから、根拠のないデマや陰謀論に影響された思い込みまである。

後者の人々を科学の言葉で納得させるのはほとんど不可能に近い。

それらの人々のうち、陰謀説などにとらわれている勢力は、科学を無視して荒唐無稽な主張をするトランプ前大統領や、追随するQアノンなどをほう彿とさせないこともない。

ここイタリアにもそれに近い激しい活動をする人々がいる。「NoVax(ノー・ヴァクス)” 」だ。

NoVaxはイタリア政府のワクチン政策を乱し、結果最終目標である「集団免疫」の獲得を邪魔する可能性もある。きわめて深刻な課題だ。


そのことについてはまた報告しようと思う。





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型やぶりという“型”の光彩



白黒テレビ頭男女650
日本とイタリアのテレビスタッフがいっしょに仕事をすると、かならずと言っていいほど日本の側からおどろきの声があがります。
それはひとことで言ってしまうと、日本側の生まじめさとイタリア側のおおらかさがぶつかって生じるものです。
おたがいに初めて仕事をする者どうしだからこの場合には両者がおどろくはずなのに、びっくりしているのは日本人だけ。生まじめすぎるからです。
それは偏狭という迷い道に踏みこみかねません。
同時に何ごとも軽く流すイタリア人のおおらかさも、いい加減の一言で済まされることがよくあります。

こういうことがありました。
「どうしてフォーマットをつくらないのかねぇ・・・。こんな簡単なこともできないなんて、イタリア人はやっぱり本当にバカなのかなあ・・・」
その道35年のテレビの大ベテランアナウンサー西尾さんが、いらいらする気持ちをおさえてつぶやくように言いました。
西尾さんを含むぼくら7人のテレビの日本人クルーはその時、イタリアのプロサッカーの試合の模様を衛星生放送で日本に中継するために、ミラノの「サン・シーロ」スタジアムにいました。
ぼくらが中継しようとしていたのはインテルとミランの試合です。
この2チームは、そのころ“世界最強のプロサッカーリーグ“と折り紙がつけられていたイタリア「セリエA」の中でも、実力人気ともにトップを争っている強力軍団です。

大観衆サンシーロ650

ただでも好カードであるのに加えて、その日の試合は当時18チームがしのぎを削る「セリエA」の選手権のゆくえを、9割方決めてしまうと言われる大一番でした。
スタジアムにつめかけたファンは約8万5千人。定員をはるかにオーバーしているにもかかわらず、外には入場できないことを承知でまだまだ多数のサポーターが集まってきていました。
球場内では試合前だというのに轟音のような大歓声がしばしばわき起こって巨大スタジアムの上の冬空を揺り動かし、氷点下の気温が観衆の熱気でじりじりと上昇していくのでもあるかのような、異様な興奮があたりにみなぎっていました。

こういう国際的なスポーツのイベントを日本に生中継する場合には、現地の放送局に一任して映像をつくって(撮って)もらい、それに日本人アナウンサーの実況報告の声を乗せて日本に送るのが普通です。
それでなければ、何台ものカメラをはじめとするたくさんの機材やスタッフをこちらが自前で用意することになり、ただでも高い番組制作費がさらに高くなって、テレビ局はいくら金があっても足りません。
その日われわれはイタリアの公共放送局RAIに映像づくりを一任しました。つまりRAIが国内向けにつくる番組の映像をそのまま生で受け取って、それに西尾アナウンサーのこれまた生の声をかぶせて衛星中継で日本に送るのです。
言葉を変えれば、アナウンサーの実況報告の声以外はRAIの番組ということになります。ところがそのRAIからは、いつまでたっても番組の正式なフォーマットがわれわれのところに送られてきませんでした。
西尾さんはそのことにおどろき、やがていらいらして前述の発言をしたのです。

鳥かごにしがみつく男600

フォーマットとはテレビ番組を作るときに必要な構成表のことです。
たとえば1時間なら1時間の番組を細かく分けて、タイトルやコマーシャルやその他のさまざまなクレジットを、どこでどれだけの時間画面に流すかを指定した時間割表のようなものです。
正式なフォーマットを送ってくる代わりに、RAIは試合開始直前になって「口頭で」次のようにわれわれに言いました。
1)放送開始と同時に「イタリア公共放送局RAI」のシンボルマークとクレジット。
2)番組メインタイトルとサブタイトル。
3)両チームの選手名の紹介。
4)試合の実況。
ほとんど秒刻みに近い細かなフォーマットが、一人ひとりのスタッフに配られる日本方式など夢のまた夢でした。
あたふたするうちに放送開始。なぜかRAIが口頭で伝えた順序で番組はちゃんと進行して、試合開始のホイッスル。
2大チームが激突する試合は、黙っていても面白い、というぐらいのすばらしい内容で、2時間弱の放送時間はまたたく間に過ぎてしまいました。
西尾さんは、さすがにベテランらしくフォーマットなしでその2時間をしゃべりまくりました。

マスク

しかし、フォーマットという型をドあたまで取りはずされた不安と動揺は隠し切れず、彼のしゃべりはいつもよりも精彩を欠いてしまいました。
ところでこの時、西尾さんとまったく同じ条件下で、生き生きとした実に面白い実況報告をやってのけたもう1人のアナウンサーがいます。
ほかならぬRAIの実況アナウンサーです。
筆者はたまたま彼と顔見知りです。放送が終わった数日後にも会う機会があったので、番組フォーマットの話をしました。

彼はいみじくもこう言いました。
「詳細なフォーマット?冗談じゃないよ。そんなものに頼って実況放送をするのはバカか素人だ。ぼくはプロのアナウンサーだぜ。プロは一人ひとりが自分のフォーマットを持っているものだ。」
公平に見て彼と西尾さんはまったく同じレベルのプロ中のプロのアナウンサーです。年齢もほぼ似通っています。2人の違いはフォーマット、つまり型にこだわるかどうかの点だけです。
実はこれは単に2人のテレビのアナウンサーの違いというだけではなく、日本人とイタリア人の違いだと言い切ってもいいと思います。


confomismとは切り取り650


型が好きな日本人と型やぶりが型のイタリア人。

どちらから見ても一方はバカに見えます。この2者が理解し合うのはなかなか難しいことです。
型にこだわりすぎると型以外のものが見えなくなります。一方、型を踏まえた上で型を打ちやぶれば、型も型以外のものも見えてきます。
ならば型やぶりのイタリア人の方が日本人より器が大きいのかというと、断じてそういうことはありません。
なぜなら型を踏まえるどころか、本当は型の存在さえ知らないいい加減なイタリア人は、型にこだわりすぎる余り偏狭になってしまう日本人の数とほぼ同じ数だけ、この国に生きているに違いありませんから・・・







イタリア解放記念日に佇想するファシズム

25 APRILE風船と白黒古合成


今日、4月25日はイタリアの「解放記念日」である。

解放とはファシズムからの解放のこと。

ドイツとイタリアは第2次大戦中の1943年に仲たがいした。日独伊3国同盟はその時点で事実上崩壊し、独伊は敵同士になった。

イタリアではドイツに抵抗するレジスタンス運動が戦争初期からあったが、仲たがいをきかっけにそれはさらに燃え上がった。

イタリアは同時に、ドイツの傀儡政権である北部の「サロ共和国」と「南部王国」との間の激しい内戦にも陥った。

1945年4月、サロ共和国は崩壊。4月25日にはレジスタンスの拠点だったミラノも解放されて、イタリアはムッソリーニのファシズムとドイツのナチズムを放逐した。

つまりそれはイタリアの「終戦記念日」。

掃滅されたはずのイタリアのファシズムは、しかし、種として残った。そしてコロナパンデミックで呻吟する頃来、種が発芽した。

極右政党と規定されることが多い「同盟」と、ファシスト党の流れを組むまさしく極右政党の「イタリアの同胞」がそれである。

「同盟」はトランプ主義と欧州の極右ブームにも後押しされて勢力を拡大。2018年、極左ポピュリストの「五つ星運動」と組んでついに政権を掌握した。

コロナパンデミックの中で連立政権は二転三転した。だが「同盟」も「イタリアの同胞」も支持率は高く、パンデミック後の政権奪還をにらんで鼻息は荒い。

彼らは決して自らを極右とは呼ばない。中道右派、保守などと自称する。だがトランプ主義を信奉し、フランス極右の「国民連合」 と連携。欧州の他の極右勢力とも親しい。

特に「イタリアの同胞」は連立政権に参加していないこともあって、より過激な移民排斥や反EU策を標榜してそれが支持率のアップにつながったりする。

欧州もイタリアも、そして地中海を介して移民の大流入と対峙しなければならないイタリアでは特に、移民排斥をかかげる極右政党には支持が集まりやすい。

極右とはいえそれらの政治勢力は、ただちにかつてのファシストと同じ、と決めつけることはできない。彼らもファシトの悪は知っている。

だからこそ彼らは自身を極右と呼ぶことを避ける。極右はファシストに限りなく近いコンセプトだ。よって彼らはその呼称を避けるのである。

第2次大戦の阿鼻地獄に完全に無知ではない彼らが、かつてのファシストやナチスや軍国主義日本などと同じ破滅への道程に、おいそれとはまり込むとは思えない。

だが、それらの政治勢力を放っておくとやがて拡大成長して社会に強い影響を及ぼす。あまつさえ人々を次々に取り込んでさらに膨張する。

膨張するのは、新規の同調者が増えると同時に、それまで潜行していた彼らの同類の者がカミングアウトしていくからである。

トランプ大統領が誕生したことによって、それまで秘匿されていたアメリカの反動右翼勢力が一気に増えたように。

政治的奔流となった彼らの思想行動は急速に社会を押しつぶしていく。日独伊のかつての極右パワーがそうだったように。

そして奔流は世界の主流となってついには戦争へと突入する。そこに至るまでには、弾圧や暴力や破壊や混乱が跋扈するのはうまでもない。

したがって極右モメンタムは抑さえ込まれなければならない。激流となって制御不能になる前に、その芽が摘み取られるべきである。



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女王陛下の平凡な、だが只ならぬ孤独  

女王黒い塊のような800

エディンバラ公爵フィリップ殿下の死去に伴う英王室関係の報道を追いかけていて最も印象的だったのは、教会の席に黒い小さな塊となって丸まり、頭をたれている老女王の姿だった。

73間年も連れ添った伴侶をなくして悲しみにくれるエリザベス女王は、落ちぶれたとはいえ強大な権威に包まれ人々の畏怖を集める、大英帝国の君主ではなく、どこにでもいる孤独な老女に過ぎなかった。

加えて、大英帝国あるいはイギリス連邦の君主のイメージと、小さな黒い塊との間の途方もない落差が、彼女をさらに卑小に無力に見せて哀れを誘った。

丸まって黒くうずくまっている94歳の女王はおそらく、夫の棺を見つめながら自らの死についても思いを巡らしていたのではないか。

彼女が自らの死を予感しているという意味ではない。

生ある限り人は死を予感することはできない。生ある者は、生を目いっぱい生きることのみにかまけていて、死を忘れているからだ。それが生の本質である。

生きている人は死の「可能性」について思いを巡らすことができるだけだ。そして思いを巡らすところには死は決してやってこない。死はそれを忘れたころに突然にやって来るのである。

夫の死に立会いつつ自らの死の影も見つめている老いた女性は、ひ孫世代までいる大家族の中心的存在である。彼女の職業はたまたま「英国女王」という存在感の大きな重いものだ。

職業あるいは肩書きのイメージ的には、背筋を伸ばし傲然と座っていてもおかしくない人物が、背中を丸め小さく固まっている姿はいたいけだった。そこに世界の同情が集まったのは疑いがない。

夫の棺をやや下に見おろす教会の席で、コロナ感染予防の意味合いからひとり孤独に座っている女王の姿には、悲しみに加えて、自らの人生の終焉を直視している者の凄みも感じられて僕はひどく撃たれた。

英国王室の存在意義の一つは、それが観光の目玉だから、という正鵠を射た説がある。世界の注目を集め、実際に世界中から観光客を呼び込むほどの魅力を持つ英王室は、いわばイギリスのディズニーランドだ。

おとぎの国には女王を含めて多くの人気キャラクターがいて、そこで起こる出来事は世界のトピックになる。むろんメンバーの死も例外ではない。エディンバラ公フィリップ殿下の死がそうであるように。

最大のスターである女王は妻であり母であり祖母であり曾祖母である。彼女は4人の子供のうち3人が離婚する悲しみを経験し、元嫁のダイアナ妃の壮絶な死に目にも遭った。ごく最近では孫のハリー王子の妻、メーガン妃の王室批判にもさらされた。

英王室は明と暗の錯綜したさまざまな話題を提供して、イギリスのみならず世界の関心をひきつける。朗報やスキャンダルの主役はほとんどの場合若い王室メンバーとその周辺の人々だ。だが醜聞の骨を拾うのはほぼ決まって女王だ。

そして彼女はおおむね常にうまく責任を果たす。時には毎年末のクリスマス演説で一年の全ての不始末をチャラにしてしまう芸当も見せる。たとえば1992年の有名なAnnus horribilis(恐ろしい一年)演説がその典型だ。

92年には女王の住居ウインザー城の火事のほかに、次男のアンドルー王子が妻と別居。娘のアン王女が離婚。ダイアナ妃による夫チャールズ皇太子の不倫暴露本の出版。嫁のサラ・ファーガソンのトップレス写真流出。また年末にはチャールズ皇太子とダイアナ妃の別居も明らかになった。

女王はそれらの醜聞や不幸話を「Annus horribilis」、と知る人ぞ知るラテン語に乗せてエレガントに語り、それは一般に拡散して人々が全てを水に流す素地を作った。女王はそうやって見事に危機を乗り切った。

女王は政治言語や帝王学に基づく原理原則の所為に長けていて、先に触れたように沈黙にも近いわずかな言葉で語り、説明し、遠まわしに許しを請うなどして、危機を回避してきた。英王室の人気の秘密のひとつだ。

危機を脱する彼女の手法はいつも直截で且つ巧妙である。英王室が存続するのに必要な国民の支持を取り付け続けることができたのは、女王の卓越した政治手腕に拠るところが大きい。

女王の潔癖と誠実な人柄は―個人的な感想だが―明仁上皇を彷彿とさせる。女王と平成の明仁天皇は、それぞれが国民に慕われる「人格」を有することによって愛され、信頼され、結果うまく統治した。

両国の次代の統治者がそうなるかどうかは、彼らの「人格」とその顕現のたたずまい次第であるのはいうまでもない。

喪服と帽子とマスクで黒一色に身を固めて、小さな影のようにうずくまっているエリザベス女王の姿を見ながら、僕はとりとめもなく思いを巡らしたのだった。




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たかがオリンピック、されどワクチン~強気のイタリア&大風呂敷のEU?


中庭的ストーブ付き650

ことし3月中旬から事実上のロックダウン下にあったイタリアは、4月26日から規制を段階的に緩和していくことになった。

2020年、イタリアは世界初の全土ロックダウンという地獄を体験した後、年末年始と4月の復活祭にかけてもロックダウンをかけた。

だが、強い規制とワクチン接種の進展が効を奏しつつあり、感染拡大の鈍化のきざしが見え始めた。

状況はまだ全く予断を許さないが、ドラギ政権は規制緩和に踏み切った。

過酷な封鎖措置に国民の疲弊はピークに達している。特に打撃の大きかった観光業界や飲食業界では不満が爆発してデモが頻発。抗議の声が日ごとに高まっていた。

それらを受けての決断である。

イタリアはコロナの警戒レベルを高い順に赤、オレンジ、黄色、白と4段階に色分けして規制を掛けている。規制が最も弱い白の地域は今のところは存在しないに等しい。

今月初めの復活祭期には、島嶼州のサルデーニャが唯一白の安全地帯と規定された。ところが今やそこは赤の危険地帯に。人の移動が活発になるとウイルスも活性化する、という典型的な例である。

現在は全国が赤とオレンジで埋まっているが、4月26日からはほとんどの州が警戒レベルが“やや弱い”に当たる黄色に規定される。最高警戒域の赤の州はいったん無くなる予定。

黄色域では各州間の移動が自由になり、オレンジと赤の州にも許可証(グリーンパス)を所持すれば移動ができる。

許可証はワクチンを接種済みか、コロナに掛かったことのある人のそれは6ヶ月間有効。コロナ検査で陰性とされた人のものは48時間だけ有効となる。違反すると禁固刑を受ける可能性がある。

レストランは店の外の席のみ昼夜営業可能。店内での接客は6月1日からランチのみ営業可。映画館、劇場、博物館はオープン。屋外でのコンサートやショーも許可される。

屋外プールは黄色州では5月15日から営業可。屋内ジムは6月1日から。全国レベルのスポーツイベントは観客を数を制限して6月1日から開催してもよい

フィエラ(見本市)は6月15日から再開。コングレス(大会議、各種大会)またテーマパークなどは7月1日より開催許可。

高校生は70%が対面の授業を許される。残りはオンライン授業。これはバスや電車などの公共交通機関が密になり過ぎることを避ける措置。現在は25-50%が対面授業中。小中学校はこの規制対象ではない。

夜間外出禁止令は当面は従来どおり午後10時以降朝5時まで。これに関してフォルツァ・イタリアと同盟またイタリア・ヴィヴァが午後11時からを主張して対立。多党連立のドラギ内閣では初の造反込みの政策となった。

イタリアは4月30日までにEUの査定(2090億ユーロ)より多い2215億ユーロ(28兆円弱)分のコロナ復興資金を申請する。認められればEU内で最悪クラスの打撃を受けた経済のカンフルになると期待されている。

4月22日現在、イタリアのワクチン接種実績は約1150万回。2回接種された者は約480万人。秋までに国民の80%の接種を終えるのがドラギ政権の目標。

だがEUはもっと野心的な計画を持っている。7月までに全加盟国の成人人口の7割に接種を済ませるというのである。達成すればEU全域での集団免疫がほぼ獲得されることになる。

イタリアよりもEUの計画のほうが早期実現することを祈りたい。

そうはいうもののEUは一枚岩ではない。先日もいわば組織の双頭とも呼べるEU大統領とEU委員長が、トルコのエルドアン大統領に侮辱されながらも共闘できず、弱点をさらけ出した。

それでもEUはワクチン接種を加速させるために必死に動いている。無論イタリアもそれは同じ。EUにとってもイタリアにとっても、遠い日本で騒がれているオリンピックなど念頭にはない。

たかがオリンピック、されどワクチン。誰も大っぴらには口にしないが、欧州でも、親日国のイタリアにおいてさえも、そして世界でも、人々の気分は今のところはそれに尽きるのである。



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エルドアン“仁義なき戦い”大統領を無視したフォンデアライエン“穏健派”委員長の知性


蛮人大統領&デアライエンBest-800

先日、名実ともにEU(欧州連合)大統領と同格と見なされる欧州委員会のフォンデアライエン委員長が、トルコのエルドアン大統領にコケにされたエピソードには、そこに至るまでの多くの秘められた事象や因果関係が絡み合っている。

まず第一は、エルドアン大統領による根強い女性蔑視の心情。これはアラブ・アジア的後進性に原因があり、辞任した森喜郎東京五輪組織委員会長などにも通底する因習だ。エルドアン大統領の場合には、かてて加えてムスリム文化独特の男性優位思考が幾重にもからまっているから一筋縄でいかない。

トルコ側はミシェルEU大統領の席をエルドアン大統領の脇に用意したものの、EU大統領と同位のフォンデアライエン委員長には提供せず、彼女は状況に驚いて棒立ちになった。やがて男2人から遠い位置の、且つ格下を示唆するソファに腰を下ろして会談に臨んだ。この成り行きをトルコ側は、EUの意向に沿ったもの、と不可解な言い訳をした。

だがそれより数年前のそっくり同じ場面では、双方ともに男性だったEU大統領と委員長が、エルドアン大統領の両脇にそれぞれの椅子を提供されている。そのことから推しても、エルドアン大統領が、わざと女性委員長を見下して状況を演出したと見られている。何のために?むろん出る女性杭(くい)を打つために、だろう。

ジェンダーギャップや差別という観点で見れば、エルドアン大統領とムスリム女性蔑視文化の関係は、ナントカに刃物、というくらいに危険な組み合わせだ。修正や矯正は両者共に至難の業、と見えるからなおさらだ。

だが問題はトルコ側だけにあるのではない。委員長と共に行動していたミシェルEU大統領の立ち居も、きわめて無神経且つ稚拙だった。彼は立ち往生している同僚の女性委員長にはお構いなしに、エルドアン大統領に合わせて自分の椅子に腰を下ろしたのである。

男性はこういう場合、つまり女性が共にいる場合、公式、私的、外交、遊びや仕事を問わずまたどこでも、女性が先に着席するのを見届けてから座するものである。それは最近になって問題化した性差別やジェンダー平等などとは無関係の、欧米発祥のマナーだ。いわゆるレディーファーストの容儀だ。彼は欧州人でありながらそれさえしなかった。

非常識、という意味ではミシェルEU大統領は、エルドアン大統領に勝るとも劣らない。彼はエルドアン大統領に習ってさっさと椅子に腰を下ろし、なす術なく立ちつくしているフォンデアライエン委員長を、カバを連想させると言えばカバに失礼なほどの鈍重さで眺めるだけだった。

彼はそうする代わりに、状況の間違いを正すように毅然としてトルコ側に申し入れるべきだったのだ。

ミシェルEU大統領は、後になって自らの不手際を批判されたとき、重要な会談を控えた外交の場で、事を荒立てて機会を台無しにしたくなかったと弁明した。

それが言い逃れであるのは明らかだ。なぜなら外交の場だからこそ彼は、外交のプロトコルに則って、フォンデアライエン委員長用に自分の椅子と同じものを設置するよう、トルコ側に求めるべきだ。

もしも本当に事を荒立てたくなかったならば、欧米式のマナーに基づいて、彼自身が立ち上がって委員長に自分の椅子を勧めるべきだった。

その後で、トルコ側の対応を見定めつつ彼がソファに座るなり、あらたに自身の分の椅子を要求するなりすれば良かったのである。

見事なまでにドタマの中がお花畑のEU大統領は、外交どころか日常のありきたりの礼節さえわきまえていない男であることを、自ら暴露したのである。

言うまでもなくレディーファーストという欧米の慣習と、女性差別という世界共通の重要問題を混同してはならない。

だが、ミシェル大統領がもしも的確に行動していれば、トルコの男尊女卑思想の前で女性委員長が公に味わった屈辱を避けられただけではなく、彼の一連の動きがジェンダー平等を呼びかける強力なメッセージとなって、世界のメディアを賑わせた可能性もあっただけに残念だ。

EUは選挙の洗礼を受けない官僚機構が支配する体制を常に批判されてきた。そのことも引き金のひとつとなって、英国は先ごろEUから離脱した。

英国離脱とほぼ同時に起きたコロナパンデミックでは、ワクチン政策でEU枠外にいるまさにその英国に遅れを取って、連合自体は体制の限界をさらけ出した。

その最中に起きた、ミシェル大統領の失策は、EUそのものの不手際を象徴的に表しているようで先が思いやられる。

トルコ・アンカラでのエピソードは、非常に重い外交問題にまで発展しかねない出来事だった。だがフォンデアライエン委員長が「今後起きてはならないこと」と裏で釘を刺すだけに留めて、それ以上騒がなかったためにすぐに収束した。

委員長が金切り声を上げて、火に油を注がなかったのは幸いだった。個人的には彼女の冷静な対応を評価したいと思う。

ところで、このエピソードには実はイタリアのマリオ・ドラギ首相がからんでいる。

ドラギ首相は会談の直後、フォンデアライエン委員長をかばってエルドアン大統領を“独裁者”と呼んで厳しく批判した。普段は独仏、またつい最近までは英国を含めた3国の陰に隠れているイタリアだが、ドラギ首相は異例の対応をした。

そこには長年ECB(欧州中央銀行)の総裁として高い評価を受けてきたドラギ首相の責任感と、ほんの少しの驕りがあったと思う。

政治の国際舞台では、日本同様にほとんど何の影響力もないイタリアの宰相でありながら、ドラギ首相は過去の国際的な名声を頼りに、英独仏などに先駆けてエルドアン大統領を指弾したのだ。

しかし他の欧州首脳は誰一人として彼に援護射撃をしなかった。当事者のフォンデアライエン委員長も沈黙を守った。ドラギ首相と委員長は、むろん私的には連絡を取り合っただろうが、委員長は既述のごとく表向きは口を閉ざして、事態への厳正な対応をEU機関に非公式に要請しただけだった。

ところが「事件」から10日ほどが経って、エルドアン大統領が、ドラギ首相を「無礼者」と罵倒する声明を出した。僕はトルコでの一件を、フォンンデアラオエン委員長にならって静かに見過ごすつもりだったが、エルドアン大統領の突然の反撃に刺激されて、こうして書いておくことにした。

エルドアン大統領がなぜ遅ればせに行動したのか、真意は分からない。その一方でトルコのチャブシオール外相は、「ドラギ首相は独裁者の心配をするなら自国のムッソリーニを思い出すべき」と早くから反論していた。

今回のエルドアン大統領の声明に対しては、イタリア極右政党のジョルジャ・メローニ党首が反発し、ドラギ首相を強く支持すると表明した。彼女はエルドアン政権の横暴とイスラム過激主義を糾弾。トルコがEUに加盟することにあらためて断固反対する、と息巻いている。

トルコの首都アンカラで起きたエピソードには、繰り返しになるが、重大な歴史及び文化的要素や齟齬や思惑や細部が幾重にも絡み合っている。だがそこで生まれた逸話は、エルドアン大統領とミシェルEU大統領によるお粗末な外交の結果なので、おそらくこれ以上に重大視しないほうが無難だ。

騒げば騒ぐほど無益な緊張を誘発するのみで、エルドアン大統領が反省し、自説を変える可能性はほぼゼロだと思うからである。

 

 

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出前で食べた復活祭のハイライトごち



出前受け取り800


前記事「殺すことしかできない私からの輿子田女子への手紙」では触れなかったが、ことしの復活祭(4月5日)の定番Capretto(子ヤギ)料理は、レストランからの出前だった。

復活祭は毎年日付が変わる移動祝日。2020年の復活祭は4月12日だった。その頃イタリアは世界最悪のコロナ地獄の真っただ中にいた。

当時は息をひそめるようにして日々を過ごしていた。Capretto(子ヤギ)料理はほぼ毎年親戚や友人に招かれて食べる。

だが厳しいロックダウン中で人の往来は禁止。招待もない。

スーパーなどの食材店は営業していたので、素材を買って自宅で料理することは可能だった。だがそんな気分にはなれなかった。

羊肉&ヤギ料理は難しい。何度か試みたが未だに満足できる仕上がりにならない。だからこそそれをうまく扱う親戚宅や友人宅での食事を楽しむ。

家で調理をする気が起きなかったのはそれだけではない。前例のないコロナ恐慌の中では、敢えて珍味を求める食欲も皆無だった。

そうやって僕は昨年、ほぼ30年ぶりにCapretto(子ヤギ)料理を食べない復活祭を過ごしたのだった。

およそ1年後の、昨今のイタリアは、相変わらず新型コロナに苦しめられている。ワクチン接種が始まって希望は見えているが、供給量が不足して普及が思うように進まない。

そのために人の動きが激しくなる復活祭期間中の4月3日から5日までは、昨年と同じように全土にロックダウンが敷かれると早くから決まっていた。

そこでわが家でも、前もって復活祭の名物料理をレストランに出前してもらおうと決めた。それもまた生まれてはじめての体験だった。


caprettoポレンタ出前アルミ箱800


イタリアでは全土ロックダウンが始まった昨年から出前ビジネスが繁盛している。ロックダウンが解除されてもパンデミックは続き、飲食業は閉鎖や営業短縮を強いられている。

そんな中で出前だけはほぼ常に営業を許された。だから仕出しビジネスが拡大した。先日は出前の配達員を冷遇しているとして、ミラノの飲食業組合が告発された。

配達員はアフリカや中東からの移民が多い。飲食業界は移民の弱みにつけこんで彼らを搾取している、と批判されたのである。

出前によってレストランは潤い失業者が職を得る利点が生まれる。同時にほぼ決まって、欲に目がくらむ者が生み出す不都合も発生する。

アルバイトの大学生がわが家に届けてくれた出前は、梱包も中身も予想以上にちゃんとしたものだった。

肉のオーブン焼きには、北イタリアらしく、トウモロコシをすりつぶしたポレンタが添えられていた。

味は上の中というところ。いや、オーブン焼きであることを考慮に入れれば、最高級の部類の味と言ってもよかった。

僕の独断と偏見では、ヤギまた羊肉料理は煮込みにしたほうがまろやかで深い味になる。

だがイタリア語でumido(湿り気=煮込み)と通称されるヤギ及び羊肉の「煮物」は、わが家のあたりではあまり見られない。

炭火焼きやオーブン焼きがほとんどだ。

焼き物(=煮物ではない)、というハンディキャップを抱えてのヤギ料理としては、非常に得点が高いものだった。



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テレビ屋が書く雑文の意味  


蓮上のかわいいカエル700


僕はテレビドキュメンタリーを主に作るテレビ屋だが、できれば文章屋でもありたいと願っている。昔から書くことが好きで新聞や雑誌などにも多くの雑文を書いてきた。それは全て原稿料をいただいて書く有償の仕事だった。

原稿料の出ない文芸誌の小説も書いた。原稿料どころか、掲載の見込みのない時でも、テレビ屋の仕事の合間を縫ってはせっせと書いた。

小説で原稿料をもらったのは、後にも先にもロンドンの学生時代に書いた「小説新潮」の短編のみである。新人賞への応募資格を得るための、懸賞付きの月間新人賞小説、というものだった。

要するに新人賞に応募できる力があるかどうかを問うものである。それに佳作当選した。佳作ながらも懸賞という名で、原稿料がロンドンまできちんと送られてきた。

今はせっせとブログ記事を書いている。公の論壇では一本何十円単位という、スズメの涙とさえ呼べないシンボリックな額ながら、一応原稿料が出る。

個人ブログはむろん無償である。それでも書くのは、書く題材が多く且つ書くことが苦にならないから、ということに尽きる。が、あえて言い足せば「自由だから」というのもある。

最近は僕の書くブログが、情報や思考や指針として誰かの役に立つなら書き続けよう、という思いも抱くようになった。無償で学べるというのはきわめて重要なことだ。

おこがましいが、僕のブログが誰かの学びになるなら、あるいは学びの手助けになるなら、無償のまま書き続ける意義がある、と考えている。

新聞雑誌などの紙媒体に書く場合には、必ず編集者や校正者がいる。WEBでは彼らの役割も自分で担う。だから誤字脱字に始まる多くの間違いから逃れられない。

その一方で何をどう書いても文句を言われない。字数もほぼ思いのままだ。

編集者や校正者がいる中で書いた過去の文章は、あまり僕の手元には残っていない。それはテレビ番組の場合も同じだ。幾つかの長尺ドキュメンタリーを除いて、僕は作品のコピーを取っていない。

多くの報道番組や短編は作った先から忘れる、というふうだった。

テレビ番組は「consumer goods =消費財あるいは日用品」というのが僕の認識である。映画とは違って、テレビ番組は連日連夜休みなく放映される。日常の生活必需品また消耗品と同じように次々に消費されて消えていくのだ。

制作者の側もひっきりなしに取材をし、構成を立て、番組を作っていく。その形はやはり消費財。消耗品である。だからそれをいちいち記録して置くという気にはなれない。

日々作品を生み出していくのが、僕の仕事であり僕の喜びでもある。数年あるいは十数年に一回、などという割合で作品を作る映画監督とは違うのだ。

日々作品を生み出すから常に「今」を生き「今」と付き合っていかなければならない。それが僕のささやかな自恃の源である。もっともここ最近はテレビの仕事は減らし続けている。

あらゆるエンターテイメントまた芸術作品は、作り手の事情に関する限り「作った者勝ち」である。作品のアイデアや企画や計画やそれらを語る「おしゃべり」は、「おしゃべり」の内容が実現されない限り無意味だ。

番組がなんであれ、制作者にとっては、アイデアや企画を作品に仕上げること自体が、既に勝利なのである。その出来具合については視聴者が判断するのみだ。

新聞や雑誌などに次々に掲載されて消えていく、雑文や記事もそれと同じだと僕は考えている。だからそれらを記録していないし多くの場合コピーを手元に置いてもいない。

それが正しかったかどうか、と問われれば少し疑念もないではないけれど。

そんな中で新聞のコラムだけは、1本1本がごく短い文章だったにもかかわらず、多くをコピーして残してきた。それが連載の形だったからである。

1本1本が読み切りの文章だが、一定の間隔で長い時間書き続けたため、あたかも長尺のドキュメンタリーのような気がしたのだった。長尺だから手元に残した、というふうである。

新聞なのでコラムの編集者は新聞記者である。プロの編集者ではないから当然彼らは編集者の自覚がなく、よく自分の趣味趣向で文章を直したりする。本をあまり読まない者に特にその傾向が強い。

本を読まない者は、文章をあまり知らないと見えるのに、新聞記事の要領という名目で自身の嗜好にひきずられて「文章」に手を入れる。本を読まない者の嗜好だからそれは主観的で、直しも改善どころか意味不明になり稚拙だ。

そのことでは結構腹を腹を立てさせられることもあった。

むろんネガティブなことばかりではなく、新聞的な簡潔と具体性を要求されることで省筆に意識が集中して、より明快で短い文章を書く鍛錬にはなったような気はする。

またコラムとはいうものの、客観性を重視するというスタンスは、テレビ・ドキュメンタリーや報道番組のそれとほぼ同じで親しみが持てる

ロナ危機に翻弄されたここ1年余りは、ブログ記事も新聞コラムもテーマがコロナ一色になった。

それらを見比べ読み比べていくうちに、同じテーマでも新聞コラムの文章はやはり簡潔で読みやすいと気づいた。同時に少しは完成したそれらの文章もブログに転載する意味があると感じた。

既に2、3掲載したが今後も漸次転載していこうか、などと考えたりもしている。

またブログに掲載した記事の中から時節に左右されない文章も選んで、加筆省筆の上再掲載することも考えている。

その理由は、WEB上に文章を書き始めてほぼ10年が経過したことを機に、過去の記事を見直したいと考えるからである。

右も左もわからないままブログを始めて書き続けた文章の中には、自分の考えや生き方の核になるものが多く詰め込まれている。

「今の時節」を書くかたわらにそれらを選び出して、新しく僕の読者になってくださる方々に提供できないか、と考えたりしているのである。



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殺すことしかできない私からの輿子田女子への手紙

中ヨリ&UP合成800


輿子田さん


ことし、2021年4月4日の復活祭でも、子ヤギの肉を食べる罪を犯しました。あなたに責められても仕方がないと思います。

ただし私があなたの批判を甘んじて受けるのは、あなたが考えるような意味ではありません。私は子ヤギという愛くるしい動物の肉を食らった自分を悪とは考えません。

その行為によって、感じやすいやさしい心を持ったあなたの情意を傷つけたことを、心苦しく思うだけです。

私たちが食べる肉とは動物の死骸のことです。野菜とは植物の死体です。果物は植物の体の一部を切断したいわば肉片のようなものです。

私たち人間はあらゆる生物を殺して、それを食べて生きています。菜食主義者のあなたは動物を殺してはいませんが、植物は殺しています。

動物は赤い熱い血を持ち、動き、殺されまいとして逃げ、殺される瞬間には悲痛な泣き声をあげます。だから私たちは彼らを殺すことが怖い。

植物は血液を持たず、動かず、殺されても泣かず、私たちのなすがままにされて黙って運命を受け入れています。

彼らは傷つけられても殺されても痛みを覚えない。なぜなら血も流れず、逃げもせず、悲鳴も上げないから。だから私たちは彼らを殺しても、殺したという実感がない。

でも、私たちのその思い込みは本当に正しいのでしょうか?

私たち動物も植物も、炭素を主体にした化合物 、つまり有機化合物と水を基礎にして存在する生命形態です。

動物と植物の命の根源や発祥は共通なのです。だから私たち動物は植物と同じ「生物」と呼ばれ、そう規定されます。

同時に動物と植物の間には、前述の違いを含む多くの見た目と機能の違いがあります。私たちは、動物が持つ痛みや苦しみや恐怖への感覚が植物にはないと考えています。

しかし、その証拠はありません。私たちは、植物が私たちに知覚できる形での痛みや苦しみや恐怖の表出をしないので、今のところはそれは存在しない、と勝手に思い込んでいるだけです。

だがもしかすると、植物も私たちが知らない血を流し(樹液が彼らの血にあたるのかもしれません)、私たちが気づかない痛みの表現を持ち、私たちが知覚できない悲鳴を上げているのかもしれません。

私たち人間は膨大な事物や事案についてよくわかっていません。人間は知恵も知識もありますが、同時に知恵にも知識にも限界があります。

そしてその限界、あるいは無知の領域は、私たちが知るほどに広がっていきます。つまり私たちの「知の輪」が広がるごとに円周まわりの未知の領域も広がります。

知るとは言葉を替えれば、無知の世界の拡大でもあるのです。

そんな小さな私たちは、決して傲慢になってはならない。植物には動物にある感覚はない、と断定してはならない。私たちは無知ゆえに彼らの感覚が理解できないだけかもしれないのですから。

そのことが今後、私たちの知の進化によって解明できても、しかし、私たちは私たち以外の生命を殺すことを止めることはできません。

なぜなら私たち人間は、自らの体内で生きる糧を生み出す植物とは違い、私たち以外の生物を殺して食べることでしか生命を維持できません。

人が生きるとは殺すことなのです。

だから私は子ヤギの肉を食べることを悪とは考えません。強いて言うならばそれは殺すことしかできない「人間の業」です。子ヤギを食らうのも野菜サラダを食べるのも同じ業なのです。

それでも私は子ヤギを憐れむあなたの優しい心を責めたりはしません。その優しさは、私たち人間の持つ残虐性を思い起こさせる、大切な心の装置なのですから。





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1600歳のヴェネツィアにまだ皺はない


真赤口紅原版650

いわれ

ベニス発祥の正確な日時は分からない。

だが1514年に火事について書かれた文献に、ベニスの最初の建物である「サン・ジャコモ・リアルト教会が紀元421年3月25日に建設された」と記されている。

以来、その日をベニスの始まりとする習わしができた。

街はことしの3月25日を皮切りに来年に向けてさまざまの記念行事を計画している。

コロナで失われた観光産業を盛り返す意味もあり、ことしから2022年いっぱいにかけて235件もの催し物が用意されている。

芸術品

ベニスは何度訪れても僕を魅了する。

そこは街の全体が巨大な芸術作品と形容しても良い場所である。

その意味では、街じゅうが博物館のようなものだと言われる、ローマやフィレンツェよりもはるかに魅力的な街だ。

なぜなら博物館は芸術作品を集めて陳列する重要な場所ではあるが、博物館そのものは芸術作品ではない。

博物館、つまり街の全体も芸術作品であるベニスとは一線を画すのである。

 ベニスは周知のように、何もない海中に人間が杭を打ちこみ石を積み上げて作った街である。 

そこには基本的に道路は存在しない。その代わりに運河や水路や航路が街じゅうに張り巡らされて、大小四百を越える石橋が架かっている。

水の都とは、また橋の都のことでもあるのだ。

ベニスには自動車は一台も存在せず、ゴンドラや水上バスやボートや船が人々の交通手段となる。

そこは車社会が出現する以前の都市の静寂と、人々の生活のリズムを追体験できる、世界で唯一の都会でもある。

道路の、いや、水路の両脇に浮かぶように建ち並んでいる建物群は、ベニス様式の洗練された古い建築物ばかり。

 一つ一つの建物は、隅々にまで美と緊張が塗りこめられて街の全景を引き立て、それはひるがえって個別の建築物の美を高揚する、という稀有(けう)な街並みである。 

 唯一無二

しかしこう書いてきても、ベニス独特の美しさと雰囲気はおそらく読む人には伝わらない。

 ローマならたとえばロンドンやプラハに比較して、人は何かを語ることができる。またフィレンツェならパリや京都に、あるいはミラノなら東京やニューヨークに比較して、人はやはり何かを語ることができる。

ベニスはなにものにも比較することができない、世界で唯一無二の都会である。

唯一無二の場所を知るには、人はそこに足を運ぶしか方法がない。

足を運べば、人は誰でもすぐに僕の拙(つたな)い文章などではとうてい表現し切れないベニスの美しさを知る。

ナポリを見てから死ね、と人は良く言う。

しかし、ナポリを見ることなく死んでもそれほど悔やむことはない。

ナポリはそこが西洋の街並みを持つ都市であることを別にすれば、雰囲気や景観や人々の心意気といったものが、東洋に限って言えば大阪とか香港などに似ている。
つまり、ナポリもまた世界のどこかの街と比較して語ることのできる場所なのである。

見るに越したことはないが、見なくても既に何かが分かる。

ベニスはそうはいかない。

ベニスを見ることなく死ぬのは、世界がこれほど狭くなった今を生きている人間としては、いかにも淋しい。

変わっても変わらない

ベニスは近年さま変わりした。運河を巨大客船が行き交い中国人が溢れ高潮被害も多くなった。

だが僕のベニスへの憧れは少しも変わらない。

2017年にはローマが2770歳になって祝福された。しかし、僕は敢えてそこを訪ねることはしなかった。

1600歳になったベニスには、ワクチン接種を受けても受けなくても、近いうちに必ず会いに行こうと思う。

もっともたとえ節目の年ではなくても、コロナが落ち着き次第そろそろ一度訪ねよう、とは思っていたけれど。。




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五つ星運動と中国のマインドコントロール状態から生還したジャンカルロC

習のユニフォーム渡すディマイオ

熱烈な「五つ星運動」支持者のジャンカルロCは、新型コロナがイタリアを打ちのめした昨年の春以降、過激なほどの中国批判者になった。

「五つ星運動」は極左ポピュリストとも呼ばれ中国と極めて親しい。2018年の総選挙で議会第1党になり、極右政党「同盟」と手を組んで連立政権を樹立した。

ジャンカルロC「は支持政党の五つ星運動」を介して熱心な中国愛好者になった。だが中国を毛嫌いするようになった今は「五つ星運動」にも懐疑的だ。

それでもジャンカルロCは「五つ星運動」にはまだ未練があるようだ。南イタリア出身の彼は、「五つ星運動」の旗印である最低所得保障(ベーシックインカム)策を熱く支持している。

「五つ星運動」は貧困層に月額約10万円を支給するその政策をゴリ押ししてついに実現させた。ジャンカルロCは、彼の故郷の親族や友人知己の一部が支給金に助けられている、と信じている。

だがその政策は貧困層という水をザルで掬うようなものだ。南イタリアを拠点にする幾つもの犯罪組織が、制度を悪用して資金を盗み肥え太っていることが分かっている。

貧しい人々の大半は組織犯罪に利用されるだけで、援助金は彼らに行き渡らない。それでもバラマキ策を推進する「五つ星運動」への南部の支持は強い。

援助金を掠め取って巨大化する犯罪組織が、民衆を脅したりすかしたり心身双方をいわば殴打するなどして票をまとめ、自在に操作すると考えられるからだ。

ジャンカルロCと僕は最近次のような会話をした。

ジャン:中国に核爆弾を落としてやりたい。

ジャンカルロCは、友人ふたりが交わす無責任な会話の空気に気を許して、口先ばかりながら中国に対してしきりに物騒なことを言う。

僕は答える。

A:口先だけは相変わらず勇ましいね。だがイタリアも日本も核兵器は持たないよ。中国をやっつけるには核兵器を持つ米英仏と協調してこらしめるしかない。だが君の好きな「五つ星運動」は反EUで英仏が大嫌い。英がEUから去っても嫌イギリス感情は残っている。トランプが消えたので彼らはアメリカも好きではなくなった。どうするんだい?

ジャン:どうもしない。ただ習近平も中国人も憎い。地上からいなくなってほしい。

A:なんだい。つい最近まで僕が中国政府を批判したら傷ついていた男が。

ジャン:あの頃はコロナはなかった。中国がコロナを世界に広めた。中でもイタリアは最悪の被害を受けた。中国も中国人もクソくらえだ。

A:別に中国人をかばうつもりはないが、ウイルスは中国以外の場所でも生まれる。新型コロナもそうかもしれない。

ジャン:だが奴らはウイルスとその感染を隠蔽した。なんでも隠していつでも平気で嘘をつくのが中国人だ。

A:中国人を一般化するのはどうかな。それを言うなら「習近平政権はなんでも隠蔽し平気で嘘をつく」だろう。それなら僕もそう思う。

ジャンカルロCは馬鹿ではない。かつて法律を学び弁護士を目指した。が、挫折。世界を放浪した後に家業のワイン造りを継承したものの、ジプシーだったという先祖のひとりから受け継いだらしい放浪願望の血が騒ぎ、家業を捨てた。再び漂泊して北イタリアに定住。実家の情けも借りて少しのワイン販売で糊口をしのいでいる。その間にNPOを立ち上げて人助けにもまい進しているという男だ。

A:なんにしても君が中国の欺瞞と危険に気づいてくたことはうれしいよ。チベットやウイグル弾圧、台湾脅しと香港抑圧。わが日本の尖閣諸島も盗もうと画策している国だ。

ジャン:尖閣は知らんが香港はひどい。台湾への横槍も聞いている。

A:君らイタリア人はチベットやウイグルには関心が高いが、香港、台湾のことになると、遠隔地の騒ぎと捉えてモグラみたいに無知になる。尖閣のことを知らないとはけしからん。

ジャン:でも中国が南シナ海でやりたい放題をしているのは知っている。尖閣諸島も南シナ海の一部なんだろう?

A:少し違うが、まあ、遠いイタリアから見た場合はそういう捉え方も許されるだろう。習近平一味は相も変わらず傍若無人な連中だよ。ミャンマー軍の信じられないような悪行も、つまりは中国のせいだと見られている。中国の後ろだてがあるから、弱体で卑劣なミャンマーの軍人が、自国民を大量に殺戮できる。

ジャン:やっぱりそうなのか。

A:北朝鮮の狂犬・金正恩総書記がいつも牙を剥いているのも中国が背後にいるからだ。その中国をイタリアは、というよりも君の好きな「五つ星運動」は、賞賛し持ち上げ庇っている。イタリア政府は覇権主義国家と握手して「一帯一路」構想を支持する旨の覚書まで交わした。あれは全て「五つ星運動」のゴリ押しによって実現した。

ジャン:わかっているよ。だから僕は「五つ星運動」への支持を止めた。覚書は間違いだった。

A:だが「五つ星運動」は相変わらず中国を慕っている。

ジャン:そんことはない。いつまでも中国にしがみついているのは、「五つ星運動」の中でも外相のディマイオくらいのものじゃないかな。

A:どうだか。ま、とにかく君がアンチ中国になったのはいいことだ。米中アラスカ会談で「アメリカにはアメリカの民主主義があり中国には中国の民主主義がある」とのたまうような欺瞞だらけの、厚顔で未開で野蛮な全体主義国だ。君が「五つ星運動」と中国のマインドコントロール並みの縛りから抜け出したのはいいことだ。

中国への不信感と怒りはイタリアでもじわじわと増えている雰囲気だ。だが国際社会は、中国が香港でやりたい放題をやっても、ウイグルで民衆を弾圧しても、ミャンマーの虐殺部隊をそそのかしていても、ほとんど為す術がないように見える。欧州はウイグル問題に関連して中国に制裁を科しアメリカもいろいろと動く素振りではいる。だがそのどれもが迅速な効果をあらわすものではなく、時間が経つごとに中国の横暴はエスカレートして被害者が増えるばかりに見える。

中国に武力行使ができない限り、国際社会は一致団結して彼の国の蛮行に対していくしかない。この際は日本も覚悟を決めて中国に向けて強く出たほうがいいのではないか。あくまでも対話によって問題を解決するのが理想だが、これまでの中国の傲岸不遜な言行の数々をいやというほど見てきた目には、ソフトなアプローチは効果がないと映る。

国際社会は経済的に成長した中国が、徐々に民主化していくと期待した。だがそれは全くの幻想であることが明らかになった。中国は国際社会の支援と友誼と守護で大きく成長した。それでいながら強まった国力を悪用して、秩序を破壊し専横の限りを尽くして世界を思いのままに操ろうとしているようにさえ見える。

中国の野望達成のプロセス上で発生しているのが、ウイグルやチベットへの弾圧であり、台湾および香港への圧力と脅しと嫌がらせであり、尖閣諸島への横槍だ。中国はそれだけでは飽き足らず、ミャンマー軍による自国民への残虐行為も黙認しているとされる。黙認どころか、積極的に後押ししているという見方もある。

習近平独裁体制の暴虐は阻止されるべきだし、必ず阻止されるだろう。なぜならデスポティズムの方法論は、人々を力でねじ伏せて自らに従わせようするだけのもので、体制の内側からじわりとにじみ出る魅力で人々の気を引くことはない。

世界の人々に愛されない、従って訴求力のない政治体制や国家は、将来は確実に崩壊するだろう。だがそうはいうものの今この時の世界は、残念ながら中国の専横の前に茫然自失して、いかにも腺病質に且つ無力に見える。民主主義を信奉する自由主義社会の結束が、いつにも増して求められているのはいうまでもない。



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五輪話のくずかご

5色聖火横拡大


外国人観客だけを排除して五輪を開催するという考え方には賛成できない。


観客を入れないのなら日本人も除外するべきだ。それでなければ差別になる。


世界共有の宝であるオリンピックを誘致しておいて、パンデミックを口実に日本人(観客)だけを特別扱いにするのは間違っている。


観客がいたほうがゲームは確実に盛り上がる。選手のやる気も高まる。


それは大相撲でもイタリアのプロサッカーの試合でも証明されている。


同時に、無観客でも試合がある程度盛り上がることは、再び大相撲でもプロサッカーでも確認されている。


金儲けが気になるのなら、主催者と菅政権は、少し商品価値が落ちる「無観客ゲーム」の、世界配信収入のみで我慢するべきだ。


それでなければ、五輪に出場する全ての選手の背後にいる、世界各国の国民の競技場への「直接参加」を拒絶した申し訳が立たない。


落としどころがどこになるにせよ、東京五輪は後味の悪い結果になる可能性も高い。


最も安全なのは、この際、世界共通の悩みであるコロナパンデミックを世界とともに悩み、格闘し、打ち勝つ努力に専念することだ。


つまり、勇気を持って開催を諦めることである。まだ決して遅くはない。


そうはいうものの、開始された聖火リレーが福島県内を練り行く様子を見ると、大震災からの復興のシンボルとしての五輪開催に大きな拍手を送りたい、とも腹から思う。


聖火リレーを中継したNHKは、五輪に大金をつぎ込むよりも、いまだに避難を余儀なくされている多くの人々の救済を優先してほしい、という被災者の悲痛な声もしっかりと伝えていてよかった。


考え方は人みなそれぞれだ。


僕はあくまでも開催には懐疑的だ。だが、やはりどうしても開催するのなら、むろん成功を祈りたい。


世界同時中継されるであろうゲームもしっかりと観ようと思う。




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外国人締め出し五輪は攘夷論っぽい

muccapazza

東京五輪は外国人観客を排除して開催することになった。「全ての観客を排除」ではなく、外国人観客だけを受け入れない、というところが気になる。

日本人、外国人を問わず観客は一切入れない、つまり『無観客での開催』というのならまだ納得できる。だが日本人はOKで外国人は排除、という内容は驚きだ。

観客を「受け入れる「とか「受け入れない」などの婉曲な言い方をしているが、要するにそれは外国人観客を「排除」して開催、ということだ。まるで幕末の攘夷運動のようでもある。

むろん激しい暴力と憎悪が伴った当時の攘夷運動とは違うが、日本人の根深い外国人嫌いや排外思想がにじみ出ているようで、少し胸騒ぎがしないでもない。

極右系保守主義者や民族主義者などは例によって、飽くまでもコロナの感染拡大防止のための措置であって排外思想の体現ではない、と言い張りそうだ。

だが、それほどに感染防止を徹底したいのなら、日本人観客も締め出して無観客で開催するのが筋だ。

もっと言うなら、五輪の中止が最大の感染予防策である。パンデミックにかこつけて、競技会場には日本人は入場できるが外国人はオフリミット、という考えは差別と同じアブナイ思想だ。

日本人観客はコロナ感染とは無関係とでもいうのだろうか。

その決定には、日本人自身が無意識のうちに日本人は特別と考えてしまう「異様な日本人心理」がはたらいているのではないか、と危惧しないでもない。

日本国内での開催だから日本人だけは特別に競技場に入っても良い、という考えがあるとしたらそれもまた攘夷論だ。あるいは攘夷論に似た排外差別思想だ。

オリンピックは開催国だけのものではない。世界の人々が共に手を取り合って運営し、楽しみ、友誼を深める世界共有の祭典だ。それがオリンピックの理念だ。

世界のコロナ状況は、五輪開催がGOになること自体が異様に見えるほどに悪い。感染拡大も世界的な移動制限も止むことはなく、変異株が猖けつを極めている。

それでも敢えて開催すると決めたのだから、コロナ対策などに自信があるのだろう。ここまでの浪費と先の経済的利害のみに目が眩んだ無謀な動きではないことを祈りたい。

それにしても日本政府の戦略の貧しさは絶望的とさえ感じる。日本は安倍前政権時代からコロナ禍が進行しても五輪開催を諦めない、と一貫して主張してきた。

それなのになぜワクチン対策を強烈に推し進めなかったのだろうか。日本のワクチン接種状況がいま現在、例えばイスラエル並みのレベルであったならば事態は大きく違っていた。

おそらく五輪が始まる7月頃には国民の大半が接種を済ませていて、感染拡大の不安を覚えることなく五輪祭りを楽しむ環境が整っていたことだろう。

そうなれば外国人観客の到来も問題にならなかったはずだ。やみくもに五輪開催を叫ぶだけで、なんらの長期戦略もなかった安倍前首相の罪は重い。

その安倍政権の中枢にいて、やがて政権そのものさえ引き継いだ菅首相は、ワクチンどころかコロナ感染防止を国民に呼びかける方法さえまともに知らない体たらくだ。

世界の統計では、多くの国の70%以上の国民が、東京五論を開催するべきではない、と考えている。

ここイタリアに限って言えば、僕の周囲の人々や友人知己のうちの8割以上が、東京五輪開催に反対、という雰囲気だ。

彼らはほとんどが親日の人々である。五輪中止論に同情しながらも、コロナが猖けつ を極める今の状況では、とてもスポーツ大会には気持ちが向かない、と一様に語る。

統計では、日本人でさえ大半が7月からの五輪開催に反対、とされている。そんな中で、いやそんな中だからこそ、コロナからの復興の象徴としてオリンピックを開催する、と主催者は言う。

その心意気は善しとするべきである。開催のタイミングが果たして適切かどうかはさておいても、考え方は間違っていないと思う。

だが、聖火リレーの様子などを衛星中継で見ていると、強烈な違和感に襲われるのもまた事実だ。世界のコロナの状況にはお構いなしに、日本人だけで盛り上がる様子がしっくりこないのである

世界から孤立して一人勝手に騒ぐのは、日本人であることしか自慢するものがない日本教の狂信者の、いま流行りの空騒ぎにも似ているようだ。

つまり「日本ってすごい」「日本って素晴らし過ぎる」などと自画自賛する、珍妙な「集団陶酔シンドローム」のような。

隔絶されて極東の島国に生きている「日本島民」が、世の中に認められたい一心で「世界祭の五輪」を誘致した。

ところが運悪くコロナで状況が一変した。でも、何も気づかない振りで必死に盛り上がっている。。

みたいな。

それは悲しくも怖い光景に見えないこともないのである。



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国民と対話できない管首相はうっとうしい

サルsuga引き伸ばし



詭弁が呼ぶ迷走

イタリアにいながら衛星放送を介して日本とのリアルタイムでほぼ毎日菅首相を目にする。むろんネット上でもひんぱんに見る。出くわすたびに気が重くなる。

国会の答弁では相変わらず自らの言葉を持たず官僚が書いた文面を読み上げている。そのせいなのか目つきがあまり良くないと映る。人を信用せず絶えず疑惑に囚われている眼差しに見える。

彼は安倍政権の官房長官として脅しを専門にしていた、という噂をいやでも思い出してしまう。脅しの性癖が形を変えて、だが端的に出るのが、批判されて「俺はそうは思わない」と開き直る見苦しい答弁なのだろうか。

菅首相には前後の見境なく且つエビデンスも示さないまま、開き直ったり強弁したり詭弁を弄する癖があるようだ。強弁が得意なところは彼のボスの安倍前首相にも似ている。

菅義偉首相は昨年12月14日、GoToトラベルを全国一斉に停止すると発表した。それでいながら「GoToトラベルの人の動きによる感染拡大の証拠はない」と言い張った。

それならなぜあのときGoToトラベルを止めたのだ、とありきたりの論難をする代わりに、ここで次のことを指摘しておこうと思う。

欧州の真実

欧州各国は、昨年3月から4月がピークだった感染拡大第1波の沈静化を受けて、5月から徐々にロックダウンを緩和し6月には多くの国がほぼ全面的にそれを解除した。

それを受けて厳しい移動規制に疲れきっていたヨーロッパの人々は、どっとバカンスに繰り出した。また仕事や旅行での人の動きも活発になった。

その結果、夏ごろから英仏独スペインなどの主要国を筆頭に、欧州では感染拡大が再び急速に強まった。第2波の到来である。

欧州の主要国の中では、唯一イタリアだけが感染拡大を免れた。

第1波で世界最悪のコロナ地獄を味わったイタリアは、ロックダウンを解除したものの、社会経済活動の再開スピードを抑えたり感染予防策を徹底し義務化するなど、慎重な政策を取り続けた。

それが感染抑制につながった。

だがイタリアはEU(欧州連合)の加盟国であり、人と物の動きを自由化しているシェンゲン協定内の国でもある。国外からの人の流入を止めることはできず、バカンス好きの自国民の移動を抑えることもできなかった。

規制解除の開放感で高揚したイタリアの人々は、国内で動き回り、国外に出た者はウイルスを帯びて帰国し、他者に受け渡した。そうやってイタリアにも遅い第2波がやってきた。

コロナウイルスは自身では動かず、飛びもせず、這い回ることもしない。必ず人に寄生して人によって運ばれ、移動先で新たな宿りを増やして行く。

欧州全体とイタリアの例に照らし合わせて見ても、管首相の強弁とは裏腹に、GoToトラベルの人の動きが感染拡大の大きな一因、という見方には信憑性があることが分かる。

アナクロで陰気なムラオサ(村長)

GoToトラベルは感染拡大を招かない」という菅首相の根拠のない主張は、経済を重視する気持ちから出た悪気のない言葉かもしれない。だが、不誠実の印象は免れない。

そんな例を出すまでもなく、菅首相の話しぶりや話の内容には、分別や学識がもたらす「教養」が感じられない。教養を基に形成される深い思考や創造などの「知性」に至っては、皆無とさえ言いたくなる。

もっと言えば古代のムラ社会のネクラなボスが、いきなり現代日本のトップに据えられたような印象さえある。そういう人が日本の顔として国際政治の舞台にも出て行くことを思うと気が重くなる。

何よりも問題なのは、それらの負の印象が錯綜し相乗して、菅首相の存在自体から明朗さを消し去ってしまうことだ。それがテレビ画面ほかで見る彼の印象である。

彼は実際には明るいオジさんなのかもしれない。だが国民にとっても世界の人々にとっても、メディアで見る菅首相の印象が彼の存在の核心部分になっているのは否定できない。

イメージの重さ

イメージは火のないところに立つ煙のようなものだ。実体がない。従ってイメージだけで人を判断するのは危険だ。しかし、また、「火のないところに煙は立たない」とも言う。それは検証に値するコンセプトなのである。

一般的に見てもそうだ。ましてや彼は日本最強の権力者であり、海外に向けては「日本の顔」とも言うべき存在だ。そこではイメージが重要でである。

菅首相のイメージの善し悪しは日本の国益にさえ関わる。細部にこだわって言えば、彼のネクラな印象は、例えば外国を旅する一人ひとりの日本国民のイメージさえ悪く規定しかねない。無視できないことなのだ。

明朗さに欠ける国のトップのイメージは致命的だ。国際政治の顔で言えば、中国の習近平国家主席や韓国の文在寅大統領、さらにいえばトルコのエルドアン大統領などの系譜のキャラだ。

明朗な人の印象は、存在や言動や思想が、善悪は別にして「はっきりしている」ことから来る。その点菅首相は表情も言動もはっきりしない。だから人に与える印象が暗い。そこは文在寅大統領も似ているようだ。

中国の習主席は表情や物腰がヌエ的だ。トルコのエルドアン大統領は、無知蒙昧なムラのボス的雰囲気が、不思議と暴力を連想させてうっとうしい。それが彼の暗さになっている。

コミュニケーション力

イメージもさることながら、日本のトップとしての菅首相の最大の難点は、何といってもコミュニケーション力の無さだ。政策やポリシーや政権の方針といったものは、実は菅内閣はまっとうなものを掲げている。

それらは政策立案のうまい優秀な官僚やブレーンが考え出したものだ。そして首相たるものの最大の役目は、彼の政権のブレーンが編み出したポリシーを、国民にわかり易く伝えることだ。

国民が理解しなければ、政策への支持は得られず、結果それを実行に移すこともできない。即ち政策は無いにも等しいものになる。

菅首相は自らの言葉を持たないばかりではなく、国民と対面していながら官僚が準備した「政策文書」を下を向いて読み上げることが多い。それはコミュニケーション法としては最悪だ。

彼は自分で考え、書いていないから内容を覚えていない。そのため正面を向いて国民に語りかけることができない。さすがに内容を理解してはいるのだろうが、文面を覚えていないから棒読みをするしかない。

せめて文面を暗記していれば、カメラ目線で、すなわち視線を国民にしっかり合わせながら内容を読み上げることができる。つまり語りかけるポーズが取れる。

正面を向いて語りかける言葉は国民の心に響きやすい。そこから菅首相への親近感が生まれ、それは政策への支持となって実を結ぶ。

コミュニケーション力が貧弱であるにもかかわらず、彼は文書を暗記しカメラに向かって語りかける努力さえしない。努力そのものがコミュニケーションの一環だという基本概念さえ知らない。

それは「俺が理解されないのは相手が悪い」という典型的な傲岸思想をもたらす。菅首相が国会答弁やインタビューなどで見せるそっけなさや閉鎖性は、そこに起因しているように見える。

コミュニケーション力ほぼゼロの管首相が、今後国際会議などで世界中の首脳や政治家や各種官僚などと会談し、付き合い、外交関係を結んでいく状況を想像するのは難しい。

なぜならコミュニケーションのできない者には、それらの活動で成果を挙げることもできないからだ。それどころか、それらの営為自体が実は「コミュニケーションそのもの」だから状況は深刻である。

ムラの言語

日本人は一般的に欧米人に比べてコミュニケーション能力が低い、とよく言われる。日本文化が能弁や自己主張や個人主義に重きを置かない、内省的な傾向の強い社会・人文・生活体系だからだ。

政治家もその縛りから逃れることはできない。

古い時代の日本の農民は、ムラの中だけで通用するいわば無言の言語「阿吽の呼吸」を駆使して彼らだけの意思伝達のシステムを作り、何かがあるとシステム外の者を村八分にした。

片や現代の日本の政治家は、仲間や政党や派閥などの政治ムラの中で、彼らだけに通用する「根回し」という名のコミュニケーションの体系を作り上げる。

だが仲間や群れや徒党内だけで通用する意思伝達手法は、忖度や憶測や斟酌の類いの仲間内の符丁にとどまるものであって、不特定多数の人々に一様に、あるいは広範に伝わる真のコミュニケーションではない。

菅首相の言葉が中々国民の心に沁み入らないのは、彼が政治ムラ内だけで通じる言語を使っているからだ。彼は政界でのしあがって首相にまでなった。彼の話す言葉が政界では十分以上に通用しているからなのだろう。

だがテレビを見ている国民には一向に意味が伝わらない。国民は政界ムラ内の人間同士が使う言葉なんて知らない。知らない言葉に感動しろと言われても、国民にはなす術がないと思うのである。



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