【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

イタリア南部の感染爆発が怖い



地球マスク630


フランス、スペイン、イギリス、ベルギーなどに続いてイタリアもついにコロナ感染爆発第2波に襲われつつあるようだ。

ここのところほぼ連日、ロックダウン解除後の新規感染者数の新記録が書き換えられていて、10月10日は5724人となった。

イタリアは6月のロックダウン解除後、比較的穏やかだった。ロックダウンをどの国よりも長く厳しく維持し、解除を段階的に行った結果が出た。

一方ロックダウンをイタリアよりも遅れて且つ緩やかに実施し、それの解除は素早く大幅に行った英仏西他の国々は、すぐに第2波に襲われた。

3月から4月にかけて医療崩壊に見舞われ。真のコロナ地獄を体験したイタリア国民の間には強い恐怖感がある。それも感染拡大の抑止力になってきた。

だが欧州大陸全体の感染拡大の大波は、イタリア一国の努力や警戒や恐れを軽々と呑み込んでさらに膨張する気配だ。

パリやマドリードやロンドンまたブリュッセルなどの大都市では、ロックダウンを彷彿とさせる規制がかけられたりしている。

イタリア全土の再びのロックダウンは考えにくいことだが、それらの都市と同じ程度の管制や束縛はイタリアでも必ず導入されるだろう。

イタリアの第2波の不安は、第1波では比較的傷が浅かった中部や南部で感染拡大が進むことだ。そこは北部と違って医療体制が脆弱だ。

第1波では、欧州でも一級の医療体制を整備した北部ロンバルディア州が、突然想定外の感染爆発に見舞われて医療崩壊に陥った。

同じことがイタリア南部で起これば、第1波よりも悲惨な事態になりかねない。現にナポリが州都の南部カンパーニャ州では、急速な感染拡大が起きて医療体制が緊張している。

加えて、感染爆心地だったロンバルディア州を始めとする北部州の感染拡大も再燃しつつある。状況は全く予断を許さない。

イタリアは第1波から多くのことを学んだ。医療現場の信頼と自信は深まっている。

しかし北部と南部が同時に、あるいはかつてのロンバルディア州並みの勢いで南部のどこかが感染爆発に見舞われたなら、第1波を凌駕する恐慌が訪れる可能性も高い。



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きちがいピエロ vsDトランプ 



気狂いピエロ+トランプ合成


新型コロナに感染して入院中のトランプ大統領が10月4日、警護のSPを始めとするスタッフをコロナ感染の危険にさらしつつ、病院を抜け出して車で支持者の前に姿を現し物議をかもした。

さらに翌日には、退院してホワイトハウスに戻り、集まった報道陣にマスクを外してテラスから手を振って見せた。新型コロナに感染したものの、病気は大したことではない、と虚勢を張ったのである。

トランプ大統領は、かねてから新型コロナの脅威を軽視して国民をミスリードし、結果20万人以上の米国民が死亡した。感染拡大は今も全く収まる気配がない。

国民が苦しみ、自らが病気に掛かってもコロナは大したことではない、とツッパる大統領に「無責任だ」という罵声が飛び、前日以上の大論争が巻き起こった。

だが全く懲りない大統領はさらに、支持者に向けて「新型コロナを恐れるな」「コロナに生活(人生)を支配されるな」などとツイッターで吼えた。

その気丈は悪くないとは思うが、彼の支持者に代表される蒙昧な人々の軽率な行動が、感染爆発の原因の一つとされる中では、その投稿もまた大統領の対コロナ政策の失態と見なされるべきだろう。

そればかりではなく、トランプ政権中枢の幹部らも次々に感染していることが明らかになっている。それはひとえに、ボスのトランプ大統領が新型コロナを侮り続けたツケだ。

大統領が感染防止を無視した行動を取ったことによって、アメリカで最も重要な建物のひとつであるホワイトハウスは、感染拡大の爆心地の一つになっている可能性さえある。

ただひたすら選挙に勝つこと、つまり権力に固執するのみで、国民はおろか周囲のスタッフがコロナに感染する危険さえ顧みないモノマニアが、また奇態をさらした、というところか。

昔、「気狂いピエロ」というフランス・イタリア合作の映画があった。監督はジャンリュック・ゴダール。フランソワ・トリュフォー、アラン・レネなどと並び称される仏ヌーベルバーグの旗手である。

一世を風靡した作品では、名優ジャンポール・べrモンド演じる主人公のピエロが、退屈な日常をかなぐり捨てて愛人とともに逃避行をする。カップルは殺人事件に巻き込まれたのだ。

斬新な色彩感覚と、みずみずしい言葉の遊びが画面いっぱいに弾ける前衛的な映画のテーマの一つは、「アメリカへの反発」だった。

ゴダールらヌーベルバーグ世代の人々が、正義と希望の象徴として敬愛してきたアメリカが、当時ベトナムで戦争を仕掛け彼の地で暴虐の限りをつくしていた。作品にはそのことへの失望と怒りが込められていた。

あれから半世紀余りが過ぎた2016年、映画とはなんの関係もないことだが、アメリカへの僕の100年の恋もトランプ大統領の誕生によってすっかり冷めてしまった。

ネトウヨヘイト系排外差別主義者、トランプ大統領への不信感も大きいが、彼を大統領に押し上げたアメリカ国民に僕は激しく幻滅したのだ。

アメリカは今あるアメリカが偉大なのではない。アメリカ国民がこうありたいと願い夢見る理想のアメリカが偉大なのである。

アメリカには不平等や人種差別や貧困にとどまらず、ありとあらゆる不幸が存在する。アメリカはそれらの解消に向けて動き、戦い、前進してついには理想の国家を構築する。

理想の国家では自由と民主主義と機会の均等と富裕が、人種の如何にかかわらず全ての国民に与えられる。アメリカが素晴らしいのはその理想を掲げ、理想に向かって歩む姿である。

理想的なアメリカ合衆国は、実は理想に向かって国民が「行動する」過程の中にこそある。それはトランプ大統領が叫ぶ「強いアメリカ」とはほぼ対極のコンセプトだ。

だがアメリカは、その理想とは相容れないドナルド・トランプという怪異を大統領に選んだことで、大きく変質した。アメリカはもはや理想を追いかける「理想の国」ではなくなったように見える。

再選を目指しながら自らの失態の連鎖に気づいたトランプ大統領が、周章狼狽し、まろび、泡を食って必死に足掻けばあがくほど、アメリカの混乱と堕落と無気力が奔出するように僕には見える。

たとえ彼が落選しても、アメリカへの幻滅感は癒されない。信頼の構築には膨大な時間がかかる。だが、崩壊は一瞬である。そして壊れた信頼の再構築には、以前に倍する時間がかかる。

「理想のアメリカ」を見失ったアメリカへの僕の失望感は、傑作映画「気狂いピエロ」に込められたアメリカへの怒りに似ている。

そこで僕は、新型コロナを軽視し且つ「理想のアメリカ」像を破壊し続けるトランプ大統領には、「狂信的な道化師」という意味で、映画のタイトルと同じフレーズをそっくりそのまま進呈しておこうと思う。



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秋の欧州で撃ち殺される確率



猟師を撃つ熊500


欧州は新型コロナ感染拡大第2波に襲われつつある。それどころか、スペイン、フランス、イギリス等の感染状況を見ると、第2波の真っただ中という見方もできる。

そんな中でも― いや感染を恐れて家に閉じこもる機会が多いそんな折だからこそ―ヨーロッパ人は狩猟に出ることをやめない。

欧州の多くの国の狩猟解禁時期は毎年9月である。新年をまたいで2月頃まで続く。いうまでもなく細かい日時は国によって異なる。

たとえばイタリアは9月の第一日曜日に始まり約5ヶ月にわたって続く。フランスもほぼ似通っている。

一方、狩猟超大国のスペインは春にも狩猟シーズンがあって、一年のうちほぼ9ヶ月間は国中の山野で銃声が聞こえる。

スペインの狩猟は悪名高い。狩猟期間の長さや獲物の多さが動物愛護家やナチュラリスト(自然愛好家)などの強い批判の的になる。

2012年には同国のフアン・カルロス前国王が、ボツワナで像を撃ち殺して世界の顰蹙を買い、スペインの狩猟の悪名アップに一役買った。

もっとも狩猟への批判は、フランスやイタリアでも多い。欧米の一般的な傾向は、銃を振り回し野生動物を殺すハンティングに否定的だ。

近年はハンターも肩身の狭い思いをしながら狩猟に向かう、といっても過言ではない。彼らの数も年毎に減少している。

それでもスペインでは国土の80%が猟場。今でも国民的スポーツ、と形容されることが多い。正式に狩猟ライセンスを保持しているハンターはおよそ80万人である。

だが実際には密猟者と無免許のハンターを合わせた数字が、同じく80万程度になると考えられている。つまり160万人もの狩猟者が野山を駆け巡る。

イタリアのハンターは75万人。状況はスペインやフランスなどと同じで、多くの批判にさらされて数は年々減っている。しかし、真の愛好者は決してその趣味を捨てない。

かつてイタリア・サッカーの至宝、と謳われたロベルト・バッジョ元選手も熱狂的ハンターである。彼は仏教徒だが、殺生を禁忌とは捉えていないようだ。

狩猟が批判されるもうひとつの原因は、銃にまつわる事故死や負傷が後を絶たないことである。犠牲者は圧倒的にハンター自身だが、田舎道や野山を散策中の関係のない一般人が撃ち殺される確立も高い。

狩猟は山野のみで行われるのではない。緑の深い田舎の集落の近辺でも行われる。フランスやイタリアの田舎では、家から150メートルほどしかない範囲内でも銃撃が起こる。

そのため集落近くの田園地帯や野山を散策中の人が、誤って撃たれる事故が絶えない。狩猟期間中は山野はもちろん郊外の緑地帯などでも出歩かないほうが安全である。

イタリアでは昨年秋から今年1月末までのシーズン中に、15人が猟銃で撃たれて死亡し49人が負傷した。また過去12年間では250人近くが死亡、900人弱が負傷している。

またフランスでは毎年20人前後が狩猟中に事故死する。2019年の秋から今年にかけての猟期には平均よりやや少ない11名が死亡し130人が負傷した。

狩猟の規模が大きくハンターも多いスペインでは、一年で40人前後が死亡する。また負傷者の数は過去10年の統計で、年間数千人にも上るという報告さえある。

事故の多さや批判の高さにもかかわらず、スペインの狩猟は盛況を呈する。経済効果が高いからだ。スペインの狩猟ビジネスは12万人の雇用を生む。

ハンティングの周囲には狩猟用品の管理やメンテナンス、貸し出し業、保険業、獲物の剝製業者、ホテル、レストラン、搬送業務など、さまざまな職が存在する。

スペインは毎年、世界第2位となる8000万人を大きく上回る外国人旅行者を受け入れる。ところが新型コロナが猛威を振るう2020年は、その97%が失われる見込みだ。

観光業が大打撃を受けた今年は国内の旅行者が頼みの綱だ。その意味でもほとんどがスペイン人である狩猟の客は重要である。2020年~21年のスペインの狩猟シーズンは盛り上がる気配があるが、それは決して偶然ではない。

スペインほどではないがここイタリアの狩猟も、またフランスのそれも盛況になる可能性がある。過酷なロックダウンで自宅待機を強いられたハンター達が、自由と解放を求めて野山にどっと繰り出すのは理解できる。

欧州では2020年秋から翌年の春にかけて、鹿、イノシシ、野生ヤギ、ウサギまた鳥類の多くが狩られ、ハンターと同時に旅人や散策者や住人が誤狙撃されるいつもの危険な光景が出現することになる。

同じ欧州は新型コロナの感染拡大第2波に襲われている。外出をし、移動し、郊外の田園地帯や山野を旅する者は従って、狩猟の銃弾の剣呑に加えて新型コロナウイルスの危険にも晒される、という2重苦を味わうことになりそうである。


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狂犬vs痩せ犬

ガッツバイデン・newsweek


イタリア時間9月30日の午前3時に始まった、米大統領選に向けてのトランプvsバイデン候補の討論会を見た。期待はずれのひどい見せ物だった。

子供のののしり合い、というと子供に失礼なので、「狂犬と痩せ犬」の吼え合い、と穏健な表現で中身を描写しておこうと思う。

狂犬はいうまでもなくトランプ候補。例によってこれがアメリカ大統領かと耳を疑い目をむきたくなる下品で、野卑で、尊厳のひとかけらもない言動のオンパレード。

一方のバイデン候補には「負け犬」という称号を与えたいところだ。しかしながら、トランプ候補に比べると少しは言動の野蛮度が低かったことに鑑みて、「痩せ犬」と形容するにとどめておきたい。

およそ討論とは呼べない激しい言葉の応酬は、トランプ候補が繰り返しバイデン候補の発言を遮り、バイデン候補がトランプ候補を「嘘つき」「史上最悪の大統領」などと罵倒する流れの中で、どんどんヒートアップして混乱の極みに達した。

一時間半におよぶ討論会では、新型コロナウイルスや人種問題や経済、また保守派で固められつつある最高裁判事事案や、選挙そのものの信頼性への疑問等々がテーマになった。

しかし、両候補は政策論や政治論の入り口にさえ入ることなく、相手への誹謗中傷に終始した。それはトランプ候補のトランプ候補らしい傍若無人な言動によって始められ拡大した。

だが、そうはいうものの、バイデン候補にも大人の知性と分別で相手に対する能力はさらさらなく、どちらも似たり寄ったりの無残な姿態をさらし続けた。

司会者がトランプ候補に白人至上主義者を否定するよう求める場面もあった。

トランプ候補は独特の狡猾な言い回しで否定も非難もせずに要求をかわし、選挙結果が信用できない形になる恐れがある、と自らの敗北を意識してそれを認めない可能性を示唆するありさまだった。

トランプ候補とどっこいどっこいの下劣と威儀の無さで印象の薄かったバイデン候補はそれでも、ヘイトスピーチと遜色の無いトランプ候補の咆哮の間隙を縫って重要な指摘もした。

いわく、
トランプ大統領のもとで米国は分断され、弱体化し貧しくなって、国民はより暴力的になる。また私はロシアのプーチン大統領に対して、彼の政治手法は断じて受け入れられない、と面と向かって伝えたが、トランプ候補は彼に何も言えない。プーチンの犬になっている。

いわく
(トランプ大統領が所得税をほとんど納めていないという疑惑を受けて)
大金持ちのトランプ候補が納めた税金は学校の教師よりも少ない。そんな男が大統領だなんて最悪の事態だ。

いわく
トランプ大統領は金融市場にしか興味が無い。新型コロナウイルスによる死者が急増し世界最悪になっているのに、経済活動を再開させると言い張っている。Covid19恐慌を抑えなければ経済を回復させることなどできない。

云々。

エール大学経営大学院の統計によると、まるで新型コロナに絡めて経済に言及したバイデン候補に同調するのでもあるかのように、アメリカの77%の企業幹部が大統領選では民主党のバイデン候補に投票する、としている。彼が法人や金持ちに対する税を引き上げる、と公約しているにも関わらずである。

そのことは選挙結果の重大な内容を示唆しているようにも思えるが、前回選挙でトランプ候補の落選を予想してスベリ続けた自分を恥、反省する意味合いでも、これ以上の言及は避けておきたい。



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伊欧コロナ一蓮托生体


【新聞同時投稿コラム】


サーボーグ切り取り700


同床異夢

欧州ではスペイン、フランス、イギリスなどの大国を中心に多くの国で新型コロナの感染が拡大している。第2波である。

そんな中、かつて欧州どころか世界でも最悪のコロナ感染地だったもう一つの大国イタリアは、感染拡大が最も少ない部類の国になっている。
 
イタリアは3月から4月にかけてコロナ恐慌で呻吟した。医療崩壊に陥り、これまでに3万5千人余の患者と177名もの医師が新型コロナで死亡するいう惨状を呈した。

当時イタリアには見習うべき規範がなかった。孤立無援のまま正真正銘のコロナ地獄を体験した。
 
世界一過酷なロックダウンを導入して、イタリアは危機をいったん克服した。だが国民の間には巨大な恐怖心が残った。そのために少し感染拡大が進むと人々は即座に緊張する。

イタリア国民はかつてロックダウンの苛烈な規制だけが彼らを救うことを学び、それを実践した。規制の多くは今も実践している。

国の管制や命令や法律などに始まる、あらゆる「縛り」が大嫌いな自由奔放な国民性を思えば、これは驚くべきことだ。
 
イタリアに続いて、例えばスペインもフランスも感染爆発に見舞われ医療危機も体験した。だが、スペインとフランスにはイタリアという手本があった。失敗も成功も悲惨も、両国はイタリアから習ぶことができた。

恐怖の度合いがイタリアに比べて小さかった二国は、ロックダウン後は良く言えば大胆に、悪く言えば無謀に経済活動を再開した。その結果感染拡大が急速に始まった。そうした状況は他の欧州のほとんどの国々にも当てはまる。
 
イタリアの平穏な状況は、しかし、同国のコロナ禍が終わったことを意味するものではない。

イタリアでも新規の感染者は着実に増えている。結局イタリアも欧州の一部だ。コロナ禍の先行きはまだ全く見えないのである。



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コロナがいてもトマトソースは作らねば



弾けるソース横拡大歪み750


今年はトマトが不作だった。新型コロナのせいである。もっと正確に言えば、新型コロナの脅威に心が折れて、菜園から足が遠のき種まきや苗の植え付けが少し時期外れになった。

その後の世話も後回しになり、遅れ、見逃し、忘れがちになった。一時は世界最悪だったイタリアのコロナ禍は、それほどに凄まじかった。

加えて菜園の土の地味が弱いのも不作の一因になっているようだ。野菜作りは土作りである。地味が良くなかったり土が瘠せていては作物は大きく育たない。

トマト以外の、例えばフダン草やナスや春野菜の出来も良くなかった。堆肥の投入が必要なようだ。菜園は完全な有機栽培である。

不作ながら8月と9月の2回、トマトソース作りをした。8月には500ml 9本+250ml 1本、9月には500ml 7本、計いわば16,5本。8リットル余のトマトソースを作った。大分少ない。

家族や友人に分けると自家消費分はほとんど残らないだろう。しかし、皆楽しみにしているので、分けないわけにはいかない。

トマトソース作りは:

1先ずトマトのヘタ周りに包丁を入れて芯をえぐり取る。

2反対側にやはり包丁で十文字(✕印でも何でもいい)の切り込みを入れる(そうしておくとトマトを茹でたとき皮がつるりと剥ける)。

3トマトを沸騰した湯に浸し、取り出して冷水に投げ込み冷やす。

4皮を剥き、適当な大きさに切るなりして身を絞り出す。皮は捨てる。芯と同様に硬くてソースには向かないから。

5絞り出した身を沸騰させて煮ながら水分を飛ばす。どろりとした感じなった時点で火を止め、そのまま冷ます(一晩なり)。

6保存用の容器(瓶など)に移し(分け)入れ、ソースを覆うようにオリーブ油を少し加える。きっちりと蓋をする。

7.全ての瓶が出来上がったら、瓶の全体が水に浸かる深さの鍋に入れ、冷水から沸騰させる(煮沸していく)。

8沸騰したらそのまま5分ほど置き、火を消す。

9鍋の中で冷ます(一晩なり)。湯が完全に冷めたら一本一本取り出す。出来上がり。

ソースには塩やハーブを加えても良い。僕は一切何も入れない。後で調理をするときに好きなだけ追加すればいい、と考えるから。

ソースはきっちりと手順を踏んで作れば常温でも1年は保つ。冷蔵保存すればもっと長持ちする。僕の場合は冷蔵保存で3年、という記録があるが科学的、専門的に見たときにどうなのかは分からないのでおすすめはできない。

そのときのソースは3年目で食べつくしたが、もしかするとそれ以上長持ちするケースもあるかも、というふうにも思う。



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欧州の第2波の足音高く



マスク群集イラスト650


欧州を新型コロナ感染拡大の第2波が襲いつつある。スペイン、フランス、イギリスなどの大国を中心に感染が急速に拡大している。フランスの一日あたりの感染者数が1万3千人を超えたり、スペインがその上を行き、 最近のイギリスの一日当たりの感染者数が4000人前後に達するなど、状況が切迫してきた。

そうした中、かつて欧州どころか世界最悪のコロナ感染地だったもうひとつの大国イタリアは、感染拡大を抑えて欧州の優等生と形容しても過言ではない平穏を保っている。一例を挙げれば9月18日現在、人口10万人あたりの2週間の平均感染者数はスペインが292,2人、フランスが172,1人に対しイタリアは33人にとどまっている 。

なぜイタリアの感染拡大が抑えられているのか。専門家によれば優れた検査システムと効果的な感染経路追跡手法、また厳格な感染防止策や的確な安全基準などが功を奏しているとされる。

そしてさらに大きいのは、イタリアがどの国よりも早くロックダウンを開始し、どの国よりも遅くそれを解除した事実である。しかもイタリアは全土封鎖を迅速に行い、且つそれの解除の際は他の国々のように急いで規制を緩和するのではなく、段階を踏んでゆるやかに行った。

一方イタリア以外の国々は、ロックダウンをためらってその導入が遅れ、封鎖はしたものの、より規模の小さな、より弱い規制をかけた。その上彼らはロックダウンの解除を、より迅速により広範に行った。それが国々の感染拡大の要因である、とする。

むろんそうした要素は疑いなく存在する。だがそれに加えて、ここイタリアにいて僕が実感し強く思うこともある。つまりイタリア国民の中に植えつけられた新型コロナへの強い恐怖感が、感染拡大の抑止に貢献しているのではないか、ということである。

イタリアは2月から4月にかけて、コロナ恐慌に陥って呻吟した。医療崩壊に陥り、累計で3万5千人余の患者と、なんと177名もの医師が新型コロナで死亡するという惨状に苦しんだ。

感染爆発が起きた2月、イタリアには見習うべき規範がなかった。イタリアに先立って感染拡大が起きていた中国の被害は、イタリアのそれに比較して小さく、ほとんど参考にならなかった。イタリアは孤立無援のまま正真正銘のコロナ地獄を体験した。

世界一厳しく、世界一長いロックダウンを導入して、イタリアは危機をいったん克服した。だが国民の間には巨大な恐怖心が残った。そのために少し感染拡大が増えると人々は即座に緊張する。彼らは恐怖に駆られて緩みかけた気持ちを引き締め、感染防止のルールに従う、という好循環が起きている。

コロナ地獄の中でイタリア国民は、ロックダウンの苛烈な規制の数々だけが彼らを救うことを学び、それを実践した。規制の一部は今も厳格に実践している。規則や禁忌に反発し国の管制や法律などに始まる、あらゆる「縛り」が大嫌いな自由奔放な国民性を思えば、これは驚くべきことだ。

多くの国がロックダウンを急ぎ解除した最大の理由は― 感染拡大が縮小したこともあるが ―経済活動の再開だった。ロックダウンによって各国の経済は破壊された。あらゆる国が経済活動を元に戻さなければならなかった。それでなければ貧困が新型コロナを凌駕する困難をもたらすことが予想された。

イタリアの経済状況は欧州の中でも最悪の部類に陥った。コロナ以前にも決して良くはなかった同国経済は、全土にわたる封鎖によって壊滅状態になった。それでもイタリアはロックダウンの手を緩めず、どの国よりも過酷にそれを続けた。なぜか。

それはひとえにイタリアが味わった制御不能な感染爆発と、それによってもたらされた前述の医療崩壊の恐怖ゆえだった。患者のみならず医者をはじめとする医療従事者までが次々と犠牲になる新型コロナとの壮絶な戦いの様子は、連日連夜メディアによってこれでもかと報道され続けた。ロックダウンによって自宅待機を強制された国民は、文字通り朝から晩までテレビの前に釘付けになって医療現場の地獄を目の当たりにした。

医療現場の修羅は、鮮烈な臨場感を伴って人々の胸を突き刺した。特に医療崩壊が激しかった北部州では、身近の者がバタバタと死んでいく現実と相まって、普段は目にすることが少ない医療現場の凄惨悲壮な地獄絵が人々を責めさいなんだ。

イタリアに続いてスペインも感染爆発に見舞われ医療危機も体験した。だが、スペインにはイタリアという手本があった。失敗も成功も悲惨も、スペインはイタリアから習うことができた。恐怖の度合いがはるかに小さかったスペインは、ロックダウン後は良く言えば大胆に、悪く言えば無謀に経済活動を再開した。 

スペインを追いかけてフランスもイタリアに倣いロックダウンを導入した。だが仏西両国はイタリアよりも早くロックダウンを緩和した。例えばイタリアは学校を9月13日まで完全閉鎖して14日から再開したが、全国一斉の措置ではなく地方によってはさらなる閉鎖を続けた。つまり感染状況を見極めながらの段階的な再開に留めた。

一方スペインは9月初めに学校を全面再開した。フランスに至っては5月から段階的に学校を開いた。またイタリア政府がサッカーなどのプロスポーツ観戦の客数を1000人までとした段階で、フランスはプロテニスの観客数をイタリアの11倍以上の11500人まで認めるなど、多くの場面でイタリアよりもより遅く規制をかけ、イタリアよりもより早く且つ大幅に規制を緩和する措置を取り続けてきた。

それが今現在のイタリアと仏西両国の感染状況の差になって現れている。ちなみに感染拡大が懸念されている英国ほかの欧州各国も、スペインやフランスとほぼ歩調を合わる形でロックダウンを管理してきた。その結果感染拡大が再び急速に始まったのである。

イタリアの平穏な状況は、しかし、同国のコロナ禍が終わったことを意味するものでは全くない。イタリアでも新規の感染者は着実に増えている。つまるところイタリアも欧州の一部だ。コロナ禍の先行きは他の国々と同様にまだ少しも見えないのである。


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パスタをフォークとスプーンで食う不穏

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ここのところスパゲティやパスタに言及する機会が多かった。そこでついでにもう一点その周辺にこだわって記しておくことにした。

僕はこの直近のエントリーで、スパゲッティの食べ方にいちいちこだわるなんてつまらない。自由に、食べたいように食べればいい。食事マナーに国境はない、と書いた。

だが、しかし、右手にフオォーク、左手にスプーン姿でスパゲティを食べるのはアメリカ式無粋だからやめた方がいい、という意見があることは指摘しておきたい。

フォークにからめたスパゲティをさらにスプーンで受けるのは、湯呑みの下にコースターとか紅茶受け皿のソーサーなどを敷いて、それをさらに両手で支えてお茶を飲む、というぐらいに滑稽な所作だ。

田舎者のアメリカ人が、スパゲティにフォークを差し立ててうまく巻き上げる仕草ができず、かと言って日本人がそばを食べるようにすすり上げることもできず、苦しまぎれに発明した食べ方。

それを「上品な身のこなし」と勘違いした世界中の権兵衛が、真似をし主張して広まったものである。本来の簡素で大らかで、それゆえ品もある食べ方とは違う。

上品のつもりで慎重になりすぎると物事は逆に下卑ることがあり、逆に素直に且つシンプルに振舞うのが粋、ということもある。スパゲティにフォークを軽く挿(お)し立てて、巻き上げて口に運ぶ身のこなしが後者の典型だ。

というのは、2年前に亡くなった義母ロゼッタ・Pの受け売りである。義母は北イタリアの資産家の娘として生まれ、同地の貴族家に嫁した。

義母は物腰の全てが閑雅な人だった。義母に言わせると、イタリアで爆発的に人気の出たスイーツ「ティラミス」も俗悪な食べ物だった。

「ティラミス」はイタリア語で「Tira mi su! 」である。直訳すると「私を引き上げて!」。それはつまり、私をハイにして、というふうな蓮っ葉な意味合いにもなる。

義母にとってはこの命名が下品の極みだった。そのため彼女はスイーツを食べることはおろか、その名を口にすることさえ忌み嫌った。

僕は義母のそういう感覚が好きだった。彼女は着る物や持ち物や家の装飾や道具などにも高雅なセンスを持っていた。そんな義母がけなす「ティラミス」は、真にわい雑に見えた。

また、フォークですくったパスタをさらにスプーンで受けて食べる所作は、義母が指摘したアメリカ的かどうかはともかく、大げさに言えば、法外で鈍重でしかも気取っているのが野暮ったい。

その野暮ったさを洗練と履き違えている心情は2重に冴えない、というあまのじゃくな主張は、未だ人間のできていない僕の、大気ならぬ小気な品性による感慨である。

あまのじゃくで軽薄な僕の目には同時に、フォークにスプーンを加えて二刀流でスパゲティに挑む人々の姿は、宮本武蔵をも彷彿とさせて愉快、とも映る。

発見や発明は多くの場合、保守派の目にはうっとうしく見え、新し物好きな人々の目には斬新・愉快に見える。

そして僕は、新し物好きだが保守的な傾向もなくはない、中途半端な男である。



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盛り下がる米大統領選

則イラスト鼻毛up800を100


何かを書く気も起こらないほど11月の米大統領撰の影が薄い。9月末に予定されているバイデン、トランプ両候補の討論会が行われれば、状況は少し変わるのかもしれない。それまで何も書かずにおこうかと思ったが、実際に状況が変わってしまう前に今の低空飛行気分を書いておくのも意味があるかも、と思い直した。

選挙キャンペーンが盛況にならないのは新型コロナの感染拡大が止まず、大きな集会や演説会などができないのが最大の理由だろう。オンラインやテレビ広告などに頼るだけの選挙運動では人々の熱気は期待できない。

個人的にはトランプ、バイデン両候補の魅力のなさが盛り下がりに一役買っている。両者ともに意外性がない。2016年の選挙時こそ、トランプ候補の常軌を逸した言動やキャンペーン、憎しみや分断をあおる敵意満載の行動様式が、驚きや反感や逆に喝采を浴びたりして、面白いドラマが展開された。だが柳の下に2匹目のドジョウはいない。

トランプ氏の選挙また政治手法は多くの常識を覆した。いわば北朝鮮の金正恩書記長や中東諸国の独裁者や独裁政権、はたまた中国共産党的厚顔や傲岸や無礼、南米の強権レジームなどのやり方や信条やコンセプトと良く似た野蛮な行動規範で支持者を獲得していった。

彼の当選はあり得ないと多くの人々が考え、主張し、分析し結論付けていた。僕もそのひとりだった。だがトランプ氏はそれをあざ笑うかのように当選を果たした。そこではアメリカ国民のおよそ半数がれっきとした排外差別主義者であり、ネトウヨヘイト系の白人至上主義者であり、、強硬且つ好戦的な民族主義者であることが明らかになった。

それらの人々がトランプ氏のいわゆる岩盤支持層である。その数がアメリカ国民のおよそ半数にのぼるという想定外の真実は世界の良識に大きな衝撃を与えた。その状況はほぼ4年が経とうとする今も変わらず、バイデン候補有利の世論調査もすぐには信用できない。岩盤支持者がいる限り、且つその数が有権者の半数に迫る数字であり続ける限り、トランプ再選のシナリオは常に現実味を帯びたものである。

ひと言でいえば、曲者トランプvs退屈バイデン。嘘と詭弁と差別主義とはったり、またさらに脅しも得意な現職大統領と、無難で平凡で牙のない“似非反中国(実は中国寄り”主義者のリベラル、あるいは少なくとも「中国と事を荒立てない主義者」の元副大統領の一騎打ちなんてつまらない。展開が見え透いていて驚きがない。

トランプ候補は不快で政治的に危険な存在だが、反中国主義。少なくとも中国の覇権主義への強い警戒心感と敵意を隠さずに次々と手を打つところは共感できる。選挙目当てのハッタリの要素が強いことは、香港問題やウイグル争議などの政治命題に口先だけの介入をして済ませていることで分かる。

そんなトランプ候補に人権や民主主義や、自由や寛容の精神の発露や理解を求めても詮無いことだ。それでも、せめて中国への咆哮だけでも続けてほしい。それに欧州や日本やその他の「民主主義常識国」が加勢すれば、さすがの厚顔無恥また横柄な中国も勝手気ままはできない。少なくともかの国へのけん制にはなる。

だがバイデン候補が大統領になれば、中国と仲良くしようとするばかりで、結果中国が付け上がり続けるだけの構図が復活するだろう。バイデン候補は中国に対峙する姿勢を打ち出しているが、あまり期待できない。

中国とはむろん対話を模索し協力関係を構築するよう心がけるべきだが、同時に中国の人権無視と覇権主義と独裁主義に塗り固められた横暴な行為の数々は阻止されるべきだ。国際秩序を無視する国が、国際社会にのさばっていてはならないのである。

しかしバイデン氏には中国を抑えこむ意志も力量もないのではないか。片やトランプ大統領は少なくともそれを「試行する」強い意志を示している。たとえ自己本位の且つ選挙キャンペーンの色合いが濃いものであっても、その点は評価できる。しかし分断と憎しみと差別をあおる狂気じみた政治姿勢はやはりやりきれない。結局僕は2016年の選挙と同じで、消去法でバイデン氏を支持する。米大統領選で積極的に支持できる候補はもう永遠に出ないかもしれない。

そう考える理由がある。全くの希望的観測なのだが、僕は2016年までは、自由と民主主義と機会の均等と人権擁護を血肉の奥までしみこませた国民が、アメリカの有権者の8割ほどを占めると漠然と考えていた。残りは1割がネトウヨヘイト系排外差別主義の白人優位論者、つまりトランプ候補の岩盤支持者たち。残りの1割が政治に無関心な無為の若者やアナキストやリベラル過激派など、などと感じていた。

だがトランプ氏の登場で、ネトウヨヘイト系排外差別主義の白人優位論者は、アメリカ国民のほぼ半数を占めるという衝撃の事実が明らかになり、その情勢はトランプ政権が4年続いた今も全く変わっていない。それを見てアメリカへの僕の100年の恋は一気に冷めている。が、それでもアメリカはいまだに世界最強の「まがりなりにも」の民主主義国家だ。

したがってその意味での信頼は変わらない。僕のアメリカへの全き愛と尊敬と親和心は冷めてしまったが、世界の民主主義と自由と希望のために、アメリカに偉大な指導者が生まれ、欧州や日本などと協調してその理念のために前進する米大統領が生まれることを願う。だが、それは残念ながらバイデン候補ではない。ましてやトランプ候補であることなど世界が逆立ちしてもあり得ない。



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スパゲティのすすり方  




【“ピアッツァの声”から転載】


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以前、新聞に次の趣旨のコラムを書きました。
 
相手が音を立ててそばを食べるのが嫌、という理由で最近日本の有名人カップルの仲が破たんしたと東京の友人から連絡があった。友人は僕がいつか「音を立ててスパゲティを食べるのは難しい」と話したのを覚えていて、愉快になって電話をしてきたのだ。僕も笑って彼の話を聞いたが、実は少し考えさせられもした。

スパゲティはフォークでくるくると巻き取って食べるのが普通である。巻き取って食べると3歳の子供でも音を立てない。それがスパゲティの食べ方だが、その形が別に法律で定められているわけではない。従って日本人がイタリアのレストランで、そばをすする要領でずるずると盛大に音を立ててスパゲティを食べても逮捕されることはない。

スパゲッティの食べ方にいちいちこだわるなんてつまらない。自由に、食べたいように食べればいい、と僕は思う。ただ一つだけ言っておくと、ずるずると音を立ててスパゲティを食べる者を、イタリア人もまた多くの外国人も心中で眉をひそめて見ている。見下している。しかし分別ある者はそんなことはおくびにも出さない。知らない人間にずけずけとマナー違反を言うのはマナー違反だ。

スパゲティの食べ方にこだわるのは本当につまらない。しかし、そのつまらないことで他人に見下され人間性まで疑われるのはもっとつまらない。ならばここは彼らにならって、音を立てずにスパゲティを食べる形を覚えるのも一計ではないか、とも、思わないでもない。


 
食事マナーに国境はありません。

もちろん、いろいろな取り決めというものはどの国に行っても存在します。たとえばイタリアの食卓ではスパゲティをずるずると音を立てて食べてはいけない。スープも音を立ててすすらない。ナプキンを絶えず使って口元を拭く・・・などなど。それらの取り決めは別に法律に書いてあるわけではありません。が、人と人がまともな付き合いをしていく上で、時には法律よりも大切だと見なされるものです。

なぜ大切かというと、そこには相手に不快感を与えまいとする気配り、つまり他人をおもんばかる心根が絶えず働いているからです。マナーとはまさにこのことにほかなりません。それは日本でも中国でもイタリアでもアフリカでも、要するにどこの国に行っても共通のものです。食事マナーに国境はない、と言ったのはそういう意味です。

スパゲティをずるずると音を立てて食べるな、というこの国での取り決めは、イタリア人がそういうことにお互いに非常に不快感を覚えるからです。別に気取っている訳ではありません。スープもナプキンもその他の食卓での取り決めも皆同じ理由によります。

それらのことには、しかし、日本人はあまり不快感を抱かない。そばやうどんはむしろ音を立てて食べる方がいいとさえ考えますし、みそ汁も音を立ててすすります。その延長でスパゲティもスープも盛大な音を立てて吸い込む。それを見て、日本人は下品だ、マナーがないと言下に否定してしまえばそれまでですが、マナーというものの本質である「他人をおもんばかる気持ち」が日本人に欠落しているとは筆者は思いません。

それにもかかわらずに前述の違いが出てくるのはなぜか。これは少し大げさに言えば、東西の文化の核を成している東洋人と西洋人の大本の世界観の違いに寄っている、と筆者は思います。

西洋人の考えでは、人間は必ず自然を征服する(できる)存在であり、従って自然の上を行く存在である。人間と自然は征服者と被征服者としてとらえられ、あくまでも隔絶した存在なのです。自然の中にはもちろん動物も含まれています。

東洋にはそういう発想はありません。われわれももちろん人間は動物よりも崇高な生き物だと考え、動物と人間を区別し、犬畜生などと時には動物を卑下したりもします。

しかし、そういうごう慢な考えを一つひとつはぎ取っていったぎりぎりの胸の底では、結局、われわれ人間も自然の一部であり、動物と同じ生き物だ、という世界観にとらわれているのが普通です。

天変地異に翻弄され続けた歴史と仏教思想があいまって、それはわれわれの肉となり血となって存在の奥深くにまで染み入り、われわれを規定しています。

さて、ピチャピチャ、ガツガツ、ズルズルとあたりはばからぬ音を立てて物を食うのは動物です。口のまわりが汚れれば、ナプキンなどという七面倒くさい代物には頼らずに舌でペロペロなめ清めたり、前足(拳)でグイとぬぐったりするのもこれまた動物です。

人間と動物は違う、とぎりぎりの胸の奥まで信じ込んでいる西洋人は、人間が動物と同じ物の食い方をするのは沽券(こけん)にかかわると考え、そこからピチャピチャ、ガツガツ、ズルズル、ペロペロ、グイ!は実にもって不快だという共通認識が生まれました。

日本人を含む東洋人はそんなことは知りません。たとえ知ってはいても、そこまで突き詰めていって不快感を抱いたりはしません。なにしろぎりぎりの胸の奥では、オギャーと生まれて食べて生きて、死んでいく動物と人間の間に何ほどの違いがあろうか、と達観しているところがありますから、食事の際の動物的な物音に大きく神経をとがらせたりはしないのです。

そうは言ってみても ― このこともまたコラムに書きましたが ― 周囲の外国人は、ピチャピチャ、ズルズルと音を立てて食事をする人の姿を見て不快に思っています。ならばそれを気づかってあげるのが、最低限のマナーというものかもしれません。

周囲に気を使いつつ食べるのは窮屈だとか、上品ぶるようで照れくさいとか、フォークの運びが面倒くさい、などと言ってはいられません。日本の外に広がる国際社会とは、窮屈で、照れくさくて、面倒くさくて・・要するに疲れるものなのです。スパゲティを静かに食べる所作と同じように。。


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ピアッツァの声








シャルリー・エブド~再びの蛮勇?英雄? 




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いつか来た道

5年前、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載してイスラム過激派に襲撃され、12人の犠牲者を出したフランス・パリの風刺週刊紙「シャルリー・エブド」が先日、同じ風刺画を再び第1面に掲載して物議をかもした。

事件では移民2世のムスリムだった実行犯2人が射殺された。また武器供与をするなど彼らを支援したとして、ほかに14人が起訴された。シャルリー・エブドはその14人の公判が始まるのに合わせて、問題の風刺画を再掲載したのである。

同紙は「事件の裁判が始まるにあたって、風刺画を再掲する。それは必要不可欠なことだ。我々は屈しないしあきらめない」と声明を出した。

フランスのマクロン大統領は「信教の自由に基づき、宗教を自由に表現することができる」と述べてシャルリー・エブドの動きを擁護。一方、イスラム教徒やイスラム教国は例によって強く反発している。

冒涜権

シャルリー・エブド襲撃事件では、言論の自由と宗教批判の是非について大きな議論が沸き起こった。そこでは言論の自由を信奉する多くの人々が、怒り悲しみ「Je suis Charlie (私はシャルリー)」という標語と共にイスラム過激派に強く抗議した。

フランスをはじめとする欧米社会では、信教の自由と共に「宗教を批判する自由」も認められている。従ってシャルリー・エブドのイスラム風刺は正しい、とする見方がある一方で、言論の自由には制限があり、侮辱になりかねない行過ぎた風刺は間違っている、という考え方もある。

2015年1月の事件直後には、掲載された風刺画がイスラム教への侮辱にあたるかどうか、という馬鹿げた議論も大真面目でなされた。シャルリー・エブドのイスラム風刺は、もちろんイス ラム教への侮辱である。だが同時にそれは、違う角度から見たイスラム教や同教の信徒、またイスラム社会の縮図でもある。

立ち位置によって一つのものが幾つ もの形に見える、という真実を認めるのは即ち多様性の受容である。そして多様性を受け入れるとは、自らとは違う意見や思想に耳を傾け、その存在を尊重することだ。それは言論の自由を認めることとほぼ同義語である。

バカも許すのが言論の自由

言論の自由とは、差別や偏見や憎しみや恨みや嫌悪や侮蔑等々の汚濁言語を含む、あらゆる表現を公に発表する自由のことである。言葉を換えれば言論の自由のプリンシプルとは、言論ほかの表現手段に一切のタガをはめないこと。それが表現である限り何を言っても描いても主張しても良い、とまず断固として確認することである。

さらに言えば言論の自由とは、それの持つ重大な意味も価値も知らないバカも許すこと。つまりテロリストにさえ彼らの表現の自由がある、と見なすことだ。その原理原則を踏まえた上で、宗教や政治や文化や国や地域等々によって見解が違う個別の事案を、人々がどこまで理解しあい、手を結び、あるいは糾弾し規制するのかを、互いに決めていくことが肝要である。

言うまでもなく言論の自由には制限がある、だがその制限は言論の自由の条件ではない。飽くまでも「何でも言って構わない」自由を認めた上での制限だ。それでなければ「制限」を口実に権力による言論の弾圧がいとも簡単に起きる。中国や北朝鮮やロシアを見ればいい。中東やアフリカの独裁国家もそうだ。過去にはナチやファシストや日本軍国主義政権がそれをやった。

制限の中身は国や社会によって違う。違って然るべきである。言論の自由が保障された社会では、例えばSNSの匿名のコメント欄におけるヘイトコメントや罵詈雑言でさえ許される。それらはもちろんSNS管理者によって削除されるなどの処置が取られるかもしれない。が、原理原則ではそれらも発表が許されなければならない。そのように「何でも構わない」と表現を許すことによっ て、トンデモ思想や思い上がりやネトウヨの罵倒やグンコク・ナチズムなどもどんどん表に出てくる。

自由の崖っぷち

そうした汚れた言論が出たとき、これに反発する「自由な言論」、つまりそれらに対する罵詈雑言を含む反論や擁護や分析や議論がどの程度出るかによって、その社会の自由や平等や民主主義の成熟度が明らかになるのである。シャルリーエブドが掲載した風刺画を巡って議論百出したのは、それが表現の自由を擁護するフランスまた民主主義社会のできごとだったからだ。そこで示されたのは、要するに「表現や言論の自由とは何を言って構わないということだが、そこには責任が付いて回って誰もそれからは逃れられない」ということである。

そのように言論の自由には限界がある。「言論の自由の限界」は、言論の自由そのもののように不可侵の、いわば不磨の大典とでもいうべき理念ではない。言論の自由の限界はそれぞれの国の民度や社会の成熟度や文化文明の質などによって違いが出てくるものだ。 ひと言でいえば、人々の良識によって言論への牽制や規制が成されるのが言論の自由の限界であり、それは「言論及び表現する者の責任」と同義語である。 「言論の自由の限界」は言論の自由に守られた「自由な言論」を介して、民衆が民衆の才覚で発明し、必要ならばそれを公権力が法制化して汚れた言論を規制する。

たとえばシャルリーエブドは、ムハンマドの風刺画を掲載して表現の自由を行使したのであって、それ自体は何の問題もない。しかし、その中身については、僕を含む多くの人々賛同しているのと同様に反対する者も多くいて、両陣営はそれぞれに主張し意見を述べ合う。罵詈雑言を含むあらゆる表現が噴出するのを見て、さらに多くの人々がこれに賛同し、あるいは反対し、感動し、憤り、悩んだりしながら表現の自由を最大限に利用して意見を述べる。そうした舌戦に対してもまたさらに反論し、あるいは支持する者が出て、議論の輪が広がっていく。

議論が深まることによって、言論の自由が興隆し、その議論の高まりの中で言論の自由の「限界」もまた洗練されて行くのである。いわく他者を貶めない、罵倒しない、侮辱しない、差別しない、POLITICAL CORRECTNESS(政治的正邪)を意識して発言する・・など。など。そうしたプロセスの中で表現の自由に対する限界が自然に生まれる、というのが文明社会における言論の望ましいあり方である。人々の英知が生んだ言論の自由の「限界」を、法規制として正式整備するかどうかは、再び議論を尽くしてそれぞれの国が決めていくことになる。

言論の自由と民主主義

言論の自由とは、要するに言論の自由の「最善の形を探し求めるプロセスそのもの」のこととも言える。つまり民主主義と同じだ。民主主義は他のあらゆる政治システムと同様に完璧ではない。完璧な政治システムは存在しない。むろん十全な民主主義体制も存在しない。だが民主主義は、自らの欠陥や誤謬を認め、且つそれを改善しようとする民衆の動きを是とする。その意味で民主主義は他のあらゆる政治システムよりもベターな体制だ。そしてベストが存在しない世界では、ベターがベストなのである。

民主主義はより良い民主主義を目指してわれわれが戦っていく過程そのもののことである。同じように言論の自由の“自由”とは、「表現の限界&制限」の合意点を求めて、全ての人々が国家や文化や民族等の枠組みの中で議論して行く過程そのもののことだ。各地域の知恵が寄り集まって国際的な合意にまで至れば、理想的な形となる。忘れてはならないのは、それら一つひとつの議論の過程は暴力であっさりと潰すことができる、という現実である。過去のあらゆる暴政国家と変わらない北朝鮮や中国が、彼らの国民の言論を弾圧しているように。戦前の日本で軍部が人々から言論の自由を奪っていたように。

同様にテロリストは、彼らテロリストの思想信条でさえ「言論の自由」として認めている人々、つまり言論の自由を信奉し実践している人々を殺戮することによって、その理念に挑み破壊しようとする。彼らはそうすることで、「言論の自由」など全くあずかり知らない蛮人であることを自ら証明する。人類の歴史は権力者に言論や表現の自由を奪われ続けた時間だ。権力者はどうやってそれを成し遂げたか。暴力によってである。だから暴力の別名であるテロは糾弾されなければならないのである。

全てを笑い飛ばす見識

その一点では恐らく全ての人々が賛同することだろう。だが問題は前述したように、一人ひとりの立ち位置によって現象の捉え方や理解が違う点だ。違いを克服するためには永遠に対話を続ける努力をしなければならない。話し合えば暴力は必ず避けられる。避けられると信じて対話を続ける以外に人々がお互いに理解しあう道はない。対話を続けることが民主主義の根幹であり言論の自由の担保である。

シャルリー・エブドによるムハンマドへの風刺を受け入れられない人々の中には、もしもイエス・キリストを風刺する絵が掲載されたならば、キリスト教徒も必ず怒るに違いない。だから我々の怒りや抗議は正当だ、と主張する者もいた。キリストの風刺画に怒るキリスト教徒もむろんいるだろう。だが西洋の知性とは、風刺を受け入れ、笑い飛ばし、文句がある場合は立ち上がって反論する懐の深さのことだ。

キリスト教を擁する西洋世界は、現在のイスラム過激派やテロリストや日本の軍国主義、あるいは中国その他による言論弾圧の現実と同じ歴史を経験した後に、特にフランス革命を通して今の言論の自由を勝ち取った。遠い東洋のわれわれ日本人もその恩恵に浴している。人々が好き勝手なことを言えるのも、僕が下手なブログで言いたい放題を言えるのも、彼らの弾圧との戦いとその勝利のお陰だ。今の日本がもしも軍国主義体制下のままだったならば、中国や北朝鮮と同じでわれわれらは何も口にできなかっただろう。

そのことを踏まえて、また言論の自由が保障された世界に住む者として、僕はシャルリー・エブドの勇気とプリンシプルを支持する。


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一石二鳥



【“ピアッツァの声”から転載】


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日本にある一般的な野菜の中でイタリアにはないもののひとつがニラです。筆者はニラが好きなので仕方なく自分で育てることにしました。

わが家はミラノ郊外のブドウ園に囲まれた田舎にあります。ですから菜園用の土地には事欠きません。

日本に帰った際にニラの種を買って戻って、指定された時期にそれを菜園にまきました。が、種は一切芽を出しませんでした。
 
イタリアは日本よりも寒い国だから、と時期をずらしたりして試してみましたが、やはり駄目でした。20年近くも前のことです。

いろいろ勉強してプランターで苗を育てるのはどうだろうかと気付きました。
次の帰国の際にニラ苗を持ち込んでプランターに植えました。今度はかなり育ちました。かなりというのは日本ほど大きくは育たなかったからです。

成長すれば30~40センチはあるりっぱなニラの苗だったのですが、ここではせいぜい15~20センチ程度しかなく茎周りも細かったのです。

しかし、野菜炒めやニラ玉子を作るには何の支障もありませんので、頻繁に利用しています。

そればかりではありません。ニラはニンニク代わりにも使えます。特にパスタ料理には重宝します。

わが家ではツナ・スパゲティをよく作りますが、そこではニンニクを使わずニラをみじん切りにして加えます。ニンニクほどは匂わずしかもニンニクに近い風味が出ます。

またニンニクとオリーブ油で作る有名なスパゲティ「アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノ」にもニラをみじん切りにして加えたりします。

すると味が高まるばかりではなく、ニラの緑色が具にからまって映えて、彩(いろど)りがとても良くなります。
 
見た目が美しいとさらに味が良くなるのは人間心理の常ですから、一石二鳥です。



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ピアッツァの声



“パスタ”という「言の葉」



【“ピアッツァの声”から転載】pasta-with-vegetables



以前、日本のオヤジ世代にはスパゲティをパスタと言うと怒る者がいると聞いて、新聞雑誌などにそのことに対する筆者の意見を書いたことがあります。

あれから少し時間が経ち、もはやパスタという語は日本人の誰にも違和感なく受け入れられているのではないか、と思ってきました。

ところが、今日でもやはりその言葉に― 反発とまではいかなくとも ― しっくりこないものを覚える中高年の男たちが存在すると知りました。

それらの人々はきっとパスタという言葉に、気取りや若者言葉のような軽さを感じてむかつくのだろうと思います。

筆者もれっきとしたオヤジで、しかも言葉が気になる類の人間ですから、日本に住んでいたなら「パスタ」という新語(?)には彼らのように反感を抱いていたかもしれません。

ところがイタリアに住んでいるおかげで、日本における「パスタ」という言葉の普及には腹を立てるどころか、少し大げさに言えば、むしろ快哉を叫んでさえいます。 

「パスタ」とは、たとえて言えば「ごはん」というような言葉です。麺類をまとめて言い表す単語。スパゲティを気取って言っている表現ではありません。

スパゲティは多彩なパスタ(麺)料理のうちの一つです。つまり、焼き飯、かま飯、炊き込みご飯、雑炊、赤飯、茶漬け、おにぎりなどなど・・、無数にある「ごはん」料理の一つと同じようなものなのです。
 
焼き飯や雑炊を「ごはん」とは言いませんが、イタリアには個別のパスタ料理を一様に「パスタ」と呼ぶ習慣もあります。スパゲティも日常生活の中では、単にパスタと呼ばれる割合の方が高いように思います。

従ってスパゲティを「パスタ」と呼ぶのは正しい。

筆者はここで言葉のうんちくを傾けて得意になろうとしているのではもちろんありません。

おいしくて楽しくて種類が豊富なイタリア料理の王様「パスタ」を、スパゲティだけに限定しないで、多彩に、かろやかに、おおいに味わってほしいという願いを込めて、日本中の傷つきやすいわがオヤジ仲間の皆さんに、エールを送ろうと思うのです。



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ピアッツァの声





珍味のトリセツ



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~珍味のトリセツ~

新型コロナの影も形もなかった2019年9月、ギリシャのクレタ島に遊んでヤギ料理を堪能した。
 
クレタ島のシンボルはヤギである。ヤギはヤギでもこの島だけに生息するクリクリ種という野生のヤギ。絶滅危惧種で厳重に保護され食べることはもちろん捕獲も禁止されている。島で食べられるのはクリクリ種とは別の家畜化された普通のヤギである。
 
西洋ではヤギは1万1千年ほど前にトルコ、イラク、キプロスなどで家畜化され、およそ9千年前に家畜法と共にクレタ島にも伝わった。そこから欧州全体に広まるのにあまり時間はかからなかった。

一方クリクリ種のヤギは家畜化される前の野生ヤギの特徴を保持しているとされ、その姿がデザイン化されて島の役場や観光業界の文書、またヤギ料理を提供するレストランなどのエンブレムとしても用いられている。

原始的な不思議なその動物は、食べることはできないが島人に大いに愛されているのである。

クリクリヤギは過去に乱獲されて数が激減した。乱獲のエピソードで有名なのは、ナチスドイツに抵抗するギリシャ・パルチザンの男たちの物語。彼らは山に潜んでナチスと闘争を展開した際、ほとんど何も食べるものがなかったためにクリクリヤギを捕らえて食べては命をつないだ。

そのときの乱獲も大きくたたってクリクリヤギは絶滅の危機にひんしている。

片や食用になる家畜のヤギは島には非常に多い。羊も多い。当然ヤギ肉や羊肉料理もよく食べられる。レシピも多彩だ。味も抜群に良い。
 
クレタ島のヤギ料理は煮込みと炭火焼きが主体。ワインやハーブやオリーブ油などで作った独特のタレで味付けをする。タレはそれぞれの家庭やレストラン秘伝のものも多い。

あらゆるタレは肉の臭みを消すと同時に素材に芳醇な味わいを加えるのが主眼。個性的で斬新で美味なケースが少なくない。

その点、初めて食する人に肉の臭みが敬遠されることもある、例えば沖縄諸島のヤギ料理などとはかなり趣が違う。

もっとも沖縄諸島のヤギ料理の場合は、肉の臭みを敢えて風味と見なしてそれを売りにすることで、少数の熱狂的な愛好家に支持されているらしいから、それはそれで面白い。





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スペインの憂うつ、欧州の心労



殉教医師
イタリアの新型コロナ殉教医師たち


スペインで新型コロナの感染拡大が続いている。8月21日金曜日から24日月曜日までの4日間だけで新規感染者が2万人以上増え、累計の感染者は405436人と欧州で最も多い。

また過去2週間の人口10万人当たりの感染者数は166,18人。ちなみに同じ統計のイタリアの数字は10人。フランスは50人前後である。

感染者の増加とともに入院患者またICU(集中医療室)収容の患者も激増。医療体制の逼迫が懸念されている。死者の数も増えて累計で28872人。

だが累計の死者数は死亡前の検査で陽性と確認された患者のみのデータ。他の国々の知見と同様に実際の死者はもっと多いと考えられている。

スペインではこれまでに530万件の新型コロナウイルス検査が実施された。国民の11,5%にあたる。検査数は時間と共に増える傾向にある。

政府高官や論者の中には、例によって、検査件数の多さが感染者数の増大につながっている、と陳腐な主張をする者がいる。

だが他の欧州の国々は、検査数はスペインよりも多く、感染者の比率は同国よりも低いケースがほとんどだ。

たとえばドイツは国民の12,2%、イタリアは12,8%、イギリスに至っては国民の22,1%に検査を行っている。が、感染比率も感染拡大速度もスペインより鈍い。

スペイン国民はハグや握手やキスなどの体接触が多く、何世代もの家族が同じ屋根の下で住んでいることも珍しくない。そういう社会環境などが感染拡大に貢献している、という意見もある。

しかしそうした社会状況や住環境はイタリアも同じだ。またラテン系のフランス国民もボディコンタクトが多い部類の人々だ。

イタリア人はハグやキスが好きだから感染爆発を招いた、というのは3月から4月にかけてイタリアが世界最悪の感染地獄に陥ったころに、日本を含む世界中の知ったかぶり評者がさんざん指摘した論点だ。

むろんそういう事もあるには違いないが、同じ文化傾向を持つイタリアの感染拡大が抑えられているのだから、スペインの感染拡大をそのことだけで説明するのはいまの状況では無理がある。

厳しいロックダウンへの反動で人々が急速に、幅広く、無制限に自由を求めて活動を始めたことが原因、という指摘もある。それにもまた一理がある。

だがその点でも、再び、イタリアほか英独仏などの欧州主要国や多くの小国が同じように評価される。スペインだけの専売特許ではないのだ。

スペインの中央集権体制がゆるやかで、地方が多くの権限をもつために、統一したコロナ対策を打ち出せないのが感染再拡大の理由、と主張する者もいる。

その説も納得しがたい。なぜならイタリアもまたドイツも、地方自治の強い国だ。イタリアに至っては、独立志向の強い地方を一つにまとめるために、国家が中央集権体制を敢えて強めようと画策さえする、というのが実情だ。それは往々にして失敗するけれど。

また農業関係の季節労働者が、集団でそこかしこの農地を渡り歩いて仕事をすることも、感染拡大の原因の一つとされる。だがそれもイタリアやフランスなどと何も変わらない現実だ。

ではなぜスペインの感染拡大が突出しているのか、と考えていくと見えてくるものがある。特に国民性や文化習慣が似ているイタリアと比較すると分かりやすい。

それはひとえにロックダウン解除後の、社会経済活動の「通常化」へのペースの違いによるもの、と個人的に思う。

ロックダウンを断行した国々は、一国の例外もなく経済を破壊された。そしてロックダウンを解除した国は誰もが、大急ぎで失なわれた経済活動を取り戻そうとした。

中でもスペインは、特に大きなダメージを受けた観光業界を立て直そうと焦って性急な動きをした。国境を開いて外国人を受け入れ、隔離策などもほとんど取らなかった。

多くの国からの旅人を早くから受け入れたスペインには、ロックダウン解除直後の7月だけで、200万人あまりの観光客がどっと流入した。

同時に国内の人の動きにもスペイン政府は割合大らかに対応した。厳しいロックダウンに疲れ切っていた国民は喜び勇んで外出し動き回った。

やがてバカンスのシーズンがやってきて、スペイン国民の移動がさらに激しくなり、外国人の流入も増え続けた。そして感染拡大が始まり加速した。

スペイン政府の対応は、実はイタリア政府のそれとうり二つである。ところがイタリアはスペインに比べて「通常化」への動きがゆるやかだ。それが今現在の両国の感染状況に違いをもたらしている。

そして通常化、特に経済再開のペースに違いが生まれたのは、両国が体験したコロナ感染流行第1波の「恐怖」の大きさの違いによるもの、と考える。

イタリアは3月から4月にかけて、コロナ恐慌に陥って呻吟した。それはやがてスペインに伝播しフランスにも広がった。さらにイギリス、アメリカetcとパニックが世界を席巻した。

イタリアは医療崩壊に陥り、3万5千人余の患者のみならず、なんと176名もの医師が新型コロナで斃れるという惨状を呈した。

イタリアには見習うべき規範がなかった。中国の被害はイタリアのそれに比較して小さく、参考にならなかった。イタリアは孤立無援のまま正真正銘のコロナ地獄を体験した。

世界一厳しく、世界一長いロックダウンを導入して、イタリアは危機をいったん克服した。だが巨大な恐怖心は残った。それがロックダウン後のイタリアの動きを慎重にしている。

イタリアに続いてスペインも感染爆発に見舞われ医療危機も体験した。だが、スペインにはイタリアという手本があった。失敗も成功も悲惨も、スペインはイタリアから習うことができた。その違いは大きい。

恐怖の度合いがはるかに小さかったスペインは、ロックダウン後は良く言えば大胆に、悪く言えば無謀に経済活動を再開した。その結果感染拡大が急速に始まった。

そうした状況は多くの欧州の国々にもあてはまる。フランスやベルギー、マルタやルクセンブルクなどがそうだ。ドイツでさえ第2波の襲来かと恐れられる事態になっている。

しかしイタリアは今のところは平穏だ。バカンスの人の流れが影響して感染拡大の兆候は見えるが、欧州の中では最も感染拡大が少ない国の一つになっている。

イタリアにも気のゆるみはある。イタリアにも感染防止策に熱心ではない者がいる。マスクを付けず対人距離の確保も気にしない不届き者も少なくない。

だがイタリア人の中には強い恐怖心がある。そのために少し感染拡大が増えると人々の間に緊張が走る。自由奔放と言えば聞こえがいいが、いい加減ではた迷惑な言動も少なくないイタリア国民が、新型コロナに関してはひどく真面目で真摯で民度の高い行動を取るようになっている。

それが今のところのスペインとイタリアの違いであり、ひいてはイタリアと欧州の国々の違いである。イタリア国民はこと新型コロナに関しては、ドイツ人よりも規制的であり、フランス人よりも論理的であり、英国人よりも真面目であり、そしてもしかすると、日本人よりも従順でさえあるかもしれない。

飽くまでも「今のところは」だが。。



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じわじわとバカンスの付けがやってくる

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イタリアは連日、ロックダウン中の~月~日以来の高い感染者数、という枕詞が付くコロナ感染拡大が続いている。

夏のバカンスによる人の移動が感染拡大の大きな原因。8月19日にロックダウン解除後で最悪の642人の新規感染が出て以来、20日845人、21日947人、22日1071人と連日最悪記録を更新し続けている。

バカンスが終わる頃には再び感染爆発があるのか、それとも逆に収まっていくのか誰にも分からないが、前者を恐れる声のほうが強い。

繰り返し記してきたように、イタリアのコロナ感染状況はここ欧州の主要国の中ではまだとても良好だ。具体的にいえば8月21日現在、人口10万人あたりのイタリアの感染者数は10。

一方第2波の到来かと懸念されているスペインの数字は、人口10万人あたり132、2人。フランスが40人である。英国もイタリアの2倍の数字になっている。

またルクセンブルグとマルタは98人。ベルギーが60人など、欧州内の小国でも感染拡大の兆候は顕著になっている。全てバカンスの人の動きが原因と見られている。

イタリア政府は先日、若者の間のコロナ感染源の一つになっているとして、ディスコ(クラブ)の閉鎖を命令した。

ロックダウンで閉鎖されていたイタリア全土のディスコは、屋外での飲食のみが許され且つ「踊りは全面禁止」、という厳しい条件付で営業が許可されていた。

しかし規制を破る店が多く、客が屋内外で普通に、しかも集団で踊る光景が後を絶たず、クラスターが発生するケースが増えた。そこで閉鎖処置が取られた。

これに対してイタリアのディスコ&ナイトクラブの組合は、政府がクラブ(ディスコ)の閉鎖を命令したのは違法、としてラツィオ州裁判所に提訴した。

組合は政府の業界への補償や支援が適切に行われるなら、提訴を取り下げるとも表明していたが、ラツィオ州裁は「国民の健康は組合の経済利益よりも重要」として、即座に国の決定を支持する裁定を下した。

イタリアにはおよそ3000軒のディスコやナイトクラブがあり5万人を雇用している。閉鎖によって業界全体で40億ユーロの収入が失われる。

ディスコやナイトクラブは、レストランやバールなどの飲食店がロックダウン解除後に営業再開を許可された後も、感染拡大防止策として長く閉鎖されていた。

厳しい条件付で営業を再開したものの、再び閉鎖命令。多くの店が倒産に追い込まれるのは必至と見られている。国民の健康と経済のバランスをどう取るかの答えはまだまったく出ていない。


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クレタ島ヤギ料理列伝



看板&メニュー合成1000


ギリシャのクレタ島のシンボルはヤギである。ヤギは1万1千年ほど前に中近東域で家畜化され、やがてギリシャにも伝わった。クレタ島には家畜化される前の原始的な生態を保持する、クリクリ種という固有の野生ヤギが生息している。

島のシンボルにもなっているクリクリ種のヤギは絶滅危惧種。厳格に保護されていて、食用にすることはもちろん捕獲もできない。だが島にはクリクリ種とは関係のない家畜化された普通のヤギも多い。

家畜のヤギは、これまた島にたくさんいる羊と共に食肉処理されて大いに食卓にのぼる。レストランでもヤギや羊肉のレシピは豊富だ。冒頭の写真に見るようなヤギのエンブレムが目印の専門店もよく見かける。

新型コロナの影も形もなかった2019年9月、クレタ島に遊んでヤギ・羊肉料理(以下ヤギ料理に統一)を堪能した。滞在中はほぼ毎日、昼か夜に必ずヤギ料理を食べた。

きわめて美味い店が多かったが、観光客を相手にする店ではその逆のレシピも結構あった。そこで滞在中に出会ったヤギ料理について、味の良かった膳と逆のそれをランク順に書いておくことにした。

良い味のレシピは最高ランクから下へ。悪いほうも同じ。最後が最悪の味、という趣向である。

最高の味はヤギ肉ライス。

山羊ライス皿全体ショット650


一日遠出をした海際のレストランで出会った。品の良さとは縁のないこのシンプルな見た目のヤギ肉煮込みには、ミノア文明を生み出したクレタ島の人々の、数え切れないほどの試行と錯誤と、また錯誤と試行を繰り返した歴史のエッセンスが詰まっている、というほどの絶妙な味わいの一品だった。創意工夫の究極の賜物。

タレの主役は品書きにあったレモンのようだ。むろんそれに店特有のハーブやワインやリキュールやetc,etcの「秘密の品々」が加えられているのは間違いない。「(企業)秘密の品々」が、各店の味の違いを生む。ここで使われるのは体重10~15キロのヤギの肉。子ヤギの部類に入るが肉の臭みはもう一人前。その臭みを芳醇な味わいに変えるのがシェフの腕の見せどころだ。ヨーロッパでは珍しい白米との相性も新鮮だった。が、ライスがほとんど余計な気遣いに思えるほどヤギ煮込みそのものの味が秀逸だった。

第2位は週末だけ子羊の丸焼きを提供する店のひと皿。

肉中ヨリ650


少し内陸部にあるので観光客が少ないところがミソ、と思ったが期待に違わなかった。ヤギ・羊肉は、煮込みレシピのほうがバラエティー豊富で、味の深みもある。一方、焼きレシピは単調な味が多い。この店の丸焼きは数少ない例外。出色の味わいがあった。

絶妙な味は秘伝のタレを塗って出していると思うが、使うのは塩だけという意外な可能性もある。薪にしろ炭にしろ、焼いてこれだけの「違いのある味」を出すのは至難の業。イタリア・サルデーニャ島に塩だけを使って(薪の)熾火で骨付きの成獣羊肉を焼く店がある。僕はそれを独断と偏見で世界一の「❛成獣❜羊肉膳」、と勝手に決めつけているが、このひと皿は、「焼き」羊肉としてはサルデーニャの店に肉薄するくらいの目覚ましい味がした。

続いての一品は肉の炙り焼きを見世物にしているレストランのひと皿。

ラムシチュー+ポテト引きヨリ650


伝統のタレで煮込んだ一品。タレの素材は分からないが、店独自の要素を白ワインとからめて煮込んだものだろうと思う。デリケートな柔らかさに煮込まれた肉は、ヤギ・羊肉の味わいある「匂い」ではなく、「芳香」の域にまで達していた。添えられたポテトとの相性も秀逸。店は紹介で訪れた「クレタ島伝統食レストラン」の一つ。この一品の味は一級のさらに上のあたり。 ただし日をあらためて食べた同じレストランの見世物の炙り焼きは、この一品とは別物だった。それは残念ながら後編に組み入れることにした。

最後はホテルの紹介で訪れた少し内陸部の店のひと皿。

皿全体650


客層は地元民と移住英国人が主体だった。肉は焼いたように見えるが、実は煮込み料理。これもまた店一流の深い味が出た一品。タレは地元ワインとオニオンが中心らしい。料理レポートを書いても舌の味は伝わらない。実際に食べてみるしかない。このひと皿は見た目も上品だった。ヤギ・羊肉が嫌いな女性もトライしやすいだろう。食べたら必ずヤギ・羊肉ファンになること請け合いの一品。

ヤギ・羊肉料理の美味い店のメニューには、この店がやっているように「オイル(だいたいオリーブ油)、オニオン、ワィン煮込み」などと説明されている場合が多い。だが素材を3種も明かしているのは珍しい方。レモン煮込みとかワイン煮込みなど、素材の数を少なく示して、店の秘伝のタレの中身をできるだけ明かさないようにしているのが普通である。




ここからは逆に、やや不作味のヤギ・羊肉膳から、まったく不作味の品々までを記しておきたい。

前編に記した肉の炙り焼きを見世物にしている店のひと皿。

合成650


店には2種類のヤギ肉レシピがある。伝統手法で煮込んだとされる前述のヤギ肉は極めて美味だったが、こちらの一品は、料理中の肉の美味そうな見た目とは違って少しも味わいがなかった。焼かれた肉とトマトソースが主体のタレの相性が悪いと感じた。店の外に設えられた肉炙り焼き機は風情があって面白かった。料理は見た目もご馳走の一つ、と考えれば前編の味の良いレシピランクのビリに入れても良かったが、やはりためらいが残った。

これは子羊のすね肉の煮込み。

合成800


大量のチーズ、トマト、ごった煮野菜、ジャガイモなどの下に隠されていた主役の子羊のすね肉が右の絵。大量具材は肉の味を良くするつもりの創作だろうが、肉そのものの味を高めるのではなく、「夾雑物」の食材で誤魔化そうとしているから不味いばかりではなく品も落ちる。シンプルにすね肉だけを表に出し、付け合わせもポテト一品などに単純化すれば、一級の料理になる筈なのに。。

ひたすら大量・てんこ盛りの食皿を好む北欧人やバルカン半島人など、その地に非常に多かった観光客に媚びると、こんなつまらない料理が出来上がるということなのかもしれない。観光地の悲哀。

その一方で同じ「子羊のすね肉煮込み」は、実は僕はイタリアで何度も「絶品級」の味に出会っている。たとえばこんなふうに骨付きのまま煮込んだ一品。

fornicoスネ肉650


ヤギ料理の美味いものはほとんど常に店の秘伝のタレで煮込んだシンプルなレシピだ。イタリアの店のひと皿もそうだ。余計な食材をトッピングすると、ほぼ間違いなく肉の貧しさをごまかそうとする作業と同じになって、シェフの意図するところとは逆の印象の味になる。


続いての崖っぷちレシピは「羊肉のパン生地包み焼き」。

焼きタコ込みヒキ800


見た目は美しいLamb肉煮込み。薄いパン生地で包んでいる。花に見立てたふわりとした外観は上品でオイシそうだったが、味は最後に掲載するLamb肉パイとどっこいどっこいの最悪味。

開封中身800


すっぱい味がしたのは、定番の大量具材にヨーグルトが混じっていたからだと思うが、それはLamb肉とは全く相性がよくない。北欧&バルカン半島系テイストの大味・残念レシピ。これを美味そう、と感じる人は、食べてもやっぱりオイシイとつぶやくのだろうか。僕はひと口食べてフォークを置いた。大げさではなく、オエッとなりそうな味だった。約2000円強を丸々捨てたことになるが、惜しいとは思わなかった。不味い料理がなくては美味しい料理の良さは分からない。勉強と思えば2000円は安い。

最後に最悪味の羊肉パイ。

ピザ生地包み焼き800


こちらも見た目はとても美味しそうだが、中身はあらゆる具材がぐちゃぐちゃに入り混じった地獄レシピ。すっかり忘れていたが、食べたその場で書いておく僕の一口メモの備忘録には、この料理は前の一品「羊肉パン生地包み焼き」とともに❛~ンコ飯❜と記されていた。

ヤギ・羊肉の炙り&焼きレシピは何度も書いているように難しい。味が単調になり勝ちだ。だが出色のものは非常に美味い。一方、各店またシェフの秘伝のタレで煮込むヤギ・羊肉膳はバラエティーに富んでいて味も良く深みがある。ワインで言えば「焼きヤギ・羊肉」は白ワイン。「ヤギ・羊肉煮込み」は赤ワイン。前者は選択肢が狭く後者は限りなく広い。味も同じ。。と思う。


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ディスコ&ナイトクラブ組合がイタリア政府に反撃



マスク群集イラスト650


イタリアは政府は、全国のクラブ(ディスコ)が新型コロナ感染拡大の元凶になっているとして全面閉鎖を命令した。

これに対してイタリアのディスコ&ナイトクラブの組合は、政府がクラブ(ディスコ)の閉鎖を命令したのは違法、としてラツィオ州裁判所に提訴した。

欧州では新型コロナ感染爆発第2波の恐れが出ている。ところがイタリアでは欧州主要国の中では唯一、コロナの感染拡大が低く抑えられてきた。長く過酷なロックダウンが功を奏したと見られている。

だが夏のバカンスシーズンの到来とともに情勢が一変。外国で休暇を過ごして帰国する若者の間でコロナの感染拡大が始まり、その流行は国内のクラブ(ディスコ)にも広がる兆しが見られるようになった。

大勢の若者が密集して踊る環境は感染拡大の絶好の舞台だ。危機感を抱いたイタリア政府は、ロックダウン期に続いて、再び全国のクラブ(ディスコ)の全面閉鎖に踏み切った。

イタリアにはおよそ3000軒のディスコやナイトクラブがあり5万人を雇用している。閉鎖によって業界全体で40億ユーロの収入が失われる計算だという。

だが組合は同時に、政府の業界への補償や支援が適切に行われるなら、提訴を取り下げるとも表明している。


なお、

2020年8月19日現在のイタリアの新型コロナ感染者数は累計で255278人。死者35412人。8月19日の新規感染者は642人。一日あたりの新規感染者数としては5月23日以来の高い数字になった。



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感染爆発という悪夢を阻止するために

子供たち


イタリア政府は若者の間のコロナ感染源の一つになっているとして、ディスコ(クラブ)の閉鎖を命令した。

ロックダウンで閉鎖されていたイタリア全土のディスコは、スペインやフランスなどに遅れて営業が許可され、且つ屋外での飲食のみが許される上に「踊りは全面禁止」、という厳しい内容だった。

しかし規制を破る店が多く、客が屋内外で普通に、しかも集団で踊る光景が後を絶たず、クラスターが発生するケースが増えた。

イタリアの感染拡大はフランス、スペイン、ドイツなど、第2波の襲来が懸念される国々に比べるとまだ抑えられている。が、バカンスから帰国した若者を中心に確実に増えつつある。

またディスコなど人だかりの多い場所も感染拡大に拍車をかけかねないと憂慮されている。ディスコの閉鎖は9月7日まで。以後は営業が許可される予定。

だが、それは難しいのではないか。バカンスの人の流れと共に動いたコロナウイルスは、暑さがやわらぐに連れて活力を増すと見られている。

もしもディスコが9月に営業再開すれば。感染が抑えこまれたことを意味する。そうなればワクチン開発までのあいだ一息つける、というのはむろん希望的観測に過ぎない。



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ガルダ湖の空が晴れるまで


牛込み俯瞰800


イタリア最大の湖、ガルダ湖を1000メートル下に見おろす山中にいる。元修道院だった古ぼけた山荘があって、8月の猛暑時などに滞在したり、夏の終わりから秋口に友人らを招いて伝統料理のスピエド(ジビエ串焼き)を振舞ったりする。

コロナ禍の今年はむろんスピエド会食はしないつもりだが、しばらく滞在するつもりで登ってきた。暑さよりも湖畔の人出を避けたい気分で。だがスマホはかろうじて使えるものの、PCのインターネット環境がほぼゼロなので不便なことこの上もない。

ガルダ湖は南アルプスに連なるプレ(前)アルプスの山々に囲まれている。今いる山はその一つ。山頂の標高は1500メートルである。800メートルから1000メートルの間には、雰囲気の悪くないレストランが3軒ある。

湖を出てここまで車で登る間には三つの集落を眺め、一つの集落を横断する。それらの集落は行政区分上は全て湖畔の町の一部である。滞在しているのは人口10数人の集落に近い一軒家。そこは山中の集落のなかではもっとも高い位置にある。

湖畔の町はDHローレンスが滞在しゲーテもイタリア旅行の際に通ったという名前の知れた場所。新型コロナウイルスの感染爆発時には、ほとんど感染者が出なかったことで称えられた。山中の集落のみならず、湖畔のメインの集落でも死者は出ず感染者もほぼゼロだった。

町はイタリア最悪の感染地であるロンバルディア州に属しているから、感染者が少ないのはなおさら喜ばれた。8月の今はドイツ人バカンス客でにぎわっている。もともとドイツ人観光客に人気のある町なのである。

Covid19を抑え込んだおかげもあって、町にはバカンスや観光目的のドイツ人が押し寄せている。いつもの年よりも多く感じられるのは、Covid19禍でドイツ人観光客の行き場が限られているせいもあるのだろう。

だが山中にはドイツ人はほとんどいない。彼らは便利で且つ湖畔の景色が美しい下界の町に長逗留しているケースがほとんどだ。山中の集落を含む町の全体は感染予防策に余念がない。しかし観光客は無頓着で利己的だ。

自らが楽しめればウイルスの感染のリスクなどはほとんど意に介さない。しばらくすればどうせ町を去る身だ、自分には関係がない、という意識を秘めている。マスクなども付けずに動き回る不届き者も多い。秋から冬にかけて、ドイツ人が持ち込んだウイルスが暴れないか、と僕は密かに気を揉んでいる。

かすかな電波を頼りにスマホでググると、日本では人口割合で最悪感染地になっている僕の故郷の沖縄県での感染拡大が続いている。そこでの問題もおそらく観光客だろう。観光客が自主的に感染拡大予防策を取る、などと考えるのは甘い。

彼らは既述のように自らが楽しめれば良い、と考えていることが少なくない。特に若者の場合は感染しても重症化する危険が少ないから感染予防などは二の次だ。自らの感染を気にしないとは、他者を感染させることにも無頓着ということだ。

コロナの感染を本気で食い止めたいのなら、人の動きを制限するしかない。それも強制的に。自粛に頼るだけでは心もとない。むろんそれは社会経済活動の制限と同義語だから、舵取りが難しい。

コロナの感染防止と経済活動のバランスに世界中が四苦八苦している。そしていま現在は感染防止よりも経済を優先させた国々がより大きな危機に瀕している。アメリカ、ブラジルがそうだ。インドも同じ。日本もそこに近づいているようにも見える。

またここ欧州でもロックダウンの後に、ただちにまた全面的に経済活動を開始した国ほど、またそれに近い動きをした国ほど第2波の襲来らしい状況に陥っている。欧州の主要国で言えば、スペイン、フランス、ドイツにその兆候がある。

ところが主要国の一つで最悪の感染地だったここイタリアは、新規感染者は決してゼロにはならないものの、感染拡大に歯止めがかかって落ち着いている。世界一厳しく世界一長かったロックダウンを解除したあとも、社会経済活動の再開を慎重に進めているからだ。

一例をあげれば、前述の国々では若者らはクラブやディスコで踊りまくることが可能だが、イタリアではそれはできない。それらの店の営業内容が規制されているからだ。イタリアは突然にコロナ地獄に突き落とされ孤立無援のまま苦しんだ、悪夢のような時間を忘れていないのである。

また規則や禁忌に反発することが多い国民は、コロナ地獄の中ではロックダウンの苛烈な規制の数々だけが彼らを救うことを学び、それを実践した。今も実践している。国の管制や法律などに始まる、あらゆる「縛り」が大嫌いな自由奔放な国民性を思えば、これは驚くべきことだ。

だが激烈なロックダウンは経済を破壊した。特に観光業界の打撃は深刻だ。そこでイタリアは大急ぎでEU域内からの観光客を受け入れることにした。湖畔の町にドイツ人観光客が溢れているのはそれが理由の一つだ。

同時にイタリア人自身もガルダ湖半を含む国内の観光リゾート地に多く足を運んでいる。夏がやってきてバカンス好きな人々の心が騒ぐのだ。だがコロナへの恐怖や経済的問題などもあって、国外には出ずに近場で過ごす人が多くなっている。

「観光客」になったイタリア人も、歓楽を優先させるあまり全ての観光客と同様に感染防止策を忘れがちになる。その意味では、ドイツ人観光客やバカンス客だけが特殊な存在、ということではもちろんない。

バカンスの向こうには感染拡大という重いブルーが待っている、というのが僕のぬぐい切れない悲観論だ。大湖ガルダの雄大な景色を見おろしながら、僕は自分の憂鬱なもの思いが杞憂であることを願わずにはいられない。



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