【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

スパゲティのすすり方  




【“ピアッツァの声”から転載】


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以前、新聞に次の趣旨のコラムを書きました。
 
相手が音を立ててそばを食べるのが嫌、という理由で最近日本の有名人カップルの仲が破たんしたと東京の友人から連絡があった。友人は僕がいつか「音を立ててスパゲティを食べるのは難しい」と話したのを覚えていて、愉快になって電話をしてきたのだ。僕も笑って彼の話を聞いたが、実は少し考えさせられもした。

スパゲティはフォークでくるくると巻き取って食べるのが普通である。巻き取って食べると3歳の子供でも音を立てない。それがスパゲティの食べ方だが、その形が別に法律で定められているわけではない。従って日本人がイタリアのレストランで、そばをすする要領でずるずると盛大に音を立ててスパゲティを食べても逮捕されることはない。

スパゲッティの食べ方にいちいちこだわるなんてつまらない。自由に、食べたいように食べればいい、と僕は思う。ただ一つだけ言っておくと、ずるずると音を立ててスパゲティを食べる者を、イタリア人もまた多くの外国人も心中で眉をひそめて見ている。見下している。しかし分別ある者はそんなことはおくびにも出さない。知らない人間にずけずけとマナー違反を言うのはマナー違反だ。

スパゲティの食べ方にこだわるのは本当につまらない。しかし、そのつまらないことで他人に見下され人間性まで疑われるのはもっとつまらない。ならばここは彼らにならって、音を立てずにスパゲティを食べる形を覚えるのも一計ではないか、とも、思わないでもない。


 
食事マナーに国境はありません。

もちろん、いろいろな取り決めというものはどの国に行っても存在します。たとえばイタリアの食卓ではスパゲティをずるずると音を立てて食べてはいけない。スープも音を立ててすすらない。ナプキンを絶えず使って口元を拭く・・・などなど。それらの取り決めは別に法律に書いてあるわけではありません。が、人と人がまともな付き合いをしていく上で、時には法律よりも大切だと見なされるものです。

なぜ大切かというと、そこには相手に不快感を与えまいとする気配り、つまり他人をおもんばかる心根が絶えず働いているからです。マナーとはまさにこのことにほかなりません。それは日本でも中国でもイタリアでもアフリカでも、要するにどこの国に行っても共通のものです。食事マナーに国境はない、と言ったのはそういう意味です。

スパゲティをずるずると音を立てて食べるな、というこの国での取り決めは、イタリア人がそういうことにお互いに非常に不快感を覚えるからです。別に気取っている訳ではありません。スープもナプキンもその他の食卓での取り決めも皆同じ理由によります。

それらのことには、しかし、日本人はあまり不快感を抱かない。そばやうどんはむしろ音を立てて食べる方がいいとさえ考えますし、みそ汁も音を立ててすすります。その延長でスパゲティもスープも盛大な音を立てて吸い込む。それを見て、日本人は下品だ、マナーがないと言下に否定してしまえばそれまでですが、マナーというものの本質である「他人をおもんばかる気持ち」が日本人に欠落しているとは筆者は思いません。

それにもかかわらずに前述の違いが出てくるのはなぜか。これは少し大げさに言えば、東西の文化の核を成している東洋人と西洋人の大本の世界観の違いに寄っている、と筆者は思います。

西洋人の考えでは、人間は必ず自然を征服する(できる)存在であり、従って自然の上を行く存在である。人間と自然は征服者と被征服者としてとらえられ、あくまでも隔絶した存在なのです。自然の中にはもちろん動物も含まれています。

東洋にはそういう発想はありません。われわれももちろん人間は動物よりも崇高な生き物だと考え、動物と人間を区別し、犬畜生などと時には動物を卑下したりもします。

しかし、そういうごう慢な考えを一つひとつはぎ取っていったぎりぎりの胸の底では、結局、われわれ人間も自然の一部であり、動物と同じ生き物だ、という世界観にとらわれているのが普通です。

天変地異に翻弄され続けた歴史と仏教思想があいまって、それはわれわれの肉となり血となって存在の奥深くにまで染み入り、われわれを規定しています。

さて、ピチャピチャ、ガツガツ、ズルズルとあたりはばからぬ音を立てて物を食うのは動物です。口のまわりが汚れれば、ナプキンなどという七面倒くさい代物には頼らずに舌でペロペロなめ清めたり、前足(拳)でグイとぬぐったりするのもこれまた動物です。

人間と動物は違う、とぎりぎりの胸の奥まで信じ込んでいる西洋人は、人間が動物と同じ物の食い方をするのは沽券(こけん)にかかわると考え、そこからピチャピチャ、ガツガツ、ズルズル、ペロペロ、グイ!は実にもって不快だという共通認識が生まれました。

日本人を含む東洋人はそんなことは知りません。たとえ知ってはいても、そこまで突き詰めていって不快感を抱いたりはしません。なにしろぎりぎりの胸の奥では、オギャーと生まれて食べて生きて、死んでいく動物と人間の間に何ほどの違いがあろうか、と達観しているところがありますから、食事の際の動物的な物音に大きく神経をとがらせたりはしないのです。

そうは言ってみても ― このこともまたコラムに書きましたが ― 周囲の外国人は、ピチャピチャ、ズルズルと音を立てて食事をする人の姿を見て不快に思っています。ならばそれを気づかってあげるのが、最低限のマナーというものかもしれません。

周囲に気を使いつつ食べるのは窮屈だとか、上品ぶるようで照れくさいとか、フォークの運びが面倒くさい、などと言ってはいられません。日本の外に広がる国際社会とは、窮屈で、照れくさくて、面倒くさくて・・要するに疲れるものなのです。スパゲティを静かに食べる所作と同じように。。


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ピアッツァの声








シャルリー・エブド~再びの蛮勇?英雄? 


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いつか来た道

5年前、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載してイスラム過激派に襲撃され、12人の犠牲者を出したフランス・パリの風刺週刊紙「シャルリー・エブド」が先日、同じ風刺画を再び第1面に掲載して物議をかもした。

事件では移民2世のムスリムだった実行犯2人が射殺された。また武器供与をするなど彼らを支援したとして、ほかに14人が起訴された。シャルリー・エブドはその14人の公判が始まるのに合わせて、問題の風刺画を再掲載したのである。

同紙は「事件の裁判が始まるにあたって、風刺画を再掲する。それは必要不可欠なことだ。我々は屈しないしあきらめない」と声明を出した。

フランスのマクロン大統領は「信教の自由に基づき、宗教を自由に表現することができる」と述べてシャルリー・エブドの動きを擁護。一方、イスラム教徒やイスラム教国は例によって強く反発している。

冒涜権

シャルリー・エブド襲撃事件では、言論の自由と宗教批判の是非について大きな議論が沸き起こった。そこでは言論の自由を信奉する多くの人々が、怒り悲しみ「Je suis Charlie (私はシャルリー)」という標語と共にイスラム過激派に強く抗議した。

フランスをはじめとする欧米社会では、信教の自由と共に「宗教を批判する自由」も認められている。従ってシャルリー・エブドのイスラム風刺は正しい、とする見方がある一方で、言論の自由には制限があり、侮辱になりかねない行過ぎた風刺は間違っている、という考え方もある。

2015年1月の事件直後には、掲載された風刺画がイスラム教への侮辱にあたるかどうか、という馬鹿げた議論も大真面目でなされた。シャルリー・エブドのイスラム風刺は、もちろんイス ラム教への侮辱である。だが同時にそれは、違う角度から見たイスラム教や同教の信徒、またイスラム社会の縮図でもある。

立ち位置によって一つのものが幾つ もの形に見える、という真実を認めるのは即ち多様性の受容である。そして多様性を受け入れるとは、自らとは違う意見や思想に耳を傾け、その存在を尊重することだ。それは言論の自由を認めることとほぼ同義語である。

バカも許すのが言論の自由

言論の自由とは、差別や偏見や憎しみや恨みや嫌悪や侮蔑等々の汚濁言語を含む、あらゆる表現を公に発表する自由のことである。言葉を換えれば言論の自由のプリンシプルとは、言論ほかの表現手段に一切のタガをはめないこと。それが表現である限り何を言っても描いても主張しても良い、とまず断断固として確認することである。

さらに言えば言論の自由とは、それの持つ重大な意味も価値も知らないバカも許すこと。つまりテロリストにさえ彼らの表現の自由がある、と見なすことだ。その原理原則を踏まえた上で、宗教や政治や文化や国や地域等々によって見解が違う個別の事案を、人々がどこまで理解しあい、手を結び、あるいは糾弾し規制するのかを、互いに決めていくことが肝要である。

言うまでもなく言論の自由には制限がある、だがその制限は言論の自由の条件ではない。飽くまでも「何でも言って構わない」自由を認めた上での制限だ。それでなければ「制限」を口実に権力による言論の弾圧がいとも簡単に起きる。中国や北朝鮮やロシアを見ればいい。中東やアフリカの独裁国家もそうだ。過去にはナチやファシストや日本軍国主義政権がそれをやった。

制限の中身は国や社会によって違う。違って然るべきである。言論の自由が保障された社会では、例えばSNSの匿名のコメント欄におけるヘイトコメントや罵詈雑言でさえ許される。それらはもちろんSNS管理者によって削除されるなどの処置が取られるかもしれない。が、原理原則ではそれらも発表が許されなければならない。そのように「何でも構わない」と表現を許すことによっ て、トンデモ思想や思い上がりやネトウヨの罵倒やグンコク・ナチズムなどもどんどん表に出てくる。

自由の崖っぷち

そうした汚れた言論が出たとき、これに反発する「自由な言論」、つまりそれらに対する罵詈雑言を含む反論や擁護や分析や議論がどの程度出るかによって、その社会の自由や平等や民主主義の成熟度が明らかになるのである。シャルリーエブドが掲載した風刺画を巡って議論百出したのは、それが表現の自由を擁護するフランスまた民主主義社会のできごとだったからだ。そこで示されたのは、要するに「表現や言論の自由とは何を言って構わないということだが、そこには責任が付いて回って誰もそれからは逃れられない」ということである。

そのように言論の自由には限界がある。「言論の自由の限界」は、言論の自由そのもののように不可侵の、いわば不磨の大典とでもいうべき理念ではない。言論の自由の限界はそれぞれの国の民度や社会の成熟度や文化文明の質などによって違いが出てくるものだ。 ひと言でいえば、人々の良識によって言論への牽制や規制が成されるのが言論の自由の限界であり、それは「言論及び表現する者の責任」と同義語である。 「言論の自由の限界」は言論の自由に守られた「自由な言論」を介して、民衆が民衆の才覚で発明し、必要ならばそれを公権力が法制化して汚れた言論を規制する。

たとえばシャルリーエブドは、ムハンマドの風刺画を掲載して表現の自由を行使したのであって、それ自体は何の問題もない。しかし、その中身については、僕を含む多くの人々賛同しているのと同様に反対する者も多くいて、両陣営はそれぞれに主張し意見を述べ合う。罵詈雑言を含むあらゆる表現が噴出するのを見て、さらに多くの人々がこれに賛同し、あるいは反対し、感動し、憤り、悩んだりしながら表現の自由を最大限に利用して意見を述べる。そうした舌戦に対してもまたさらに反論し、あるいは支持する者が出て、議論の輪が広がっていく。

議論が深まることによって、言論の自由が興隆し、その議論の高まりの中で言論の自由の「限界」もまた洗練されて行くのである。いわく他者を貶めない、罵倒しない、侮辱しない、差別しない、POLITICAL CORRECTNESS(政治的正邪)を意識して発言する・・など。など。そうしたプロセスの中で表現の自由に対する限界が自然に生まれる、というのが文明社会における言論の望ましいあり方である。人々の英知が生んだ言論の自由の「限界」を、法規制として正式整備するかどうかは、再び議論を尽くしてそれぞれの国が決めていくことになる。

言論の自由と民主主義

言論の自由とは、要するに言論の自由の「最善の形を探し求めるプロセスそのもの」のこととも言える。つまり民主主義と同じだ。民主主義は他のあらゆる政治システムと同様に完璧ではない。完璧な政治システムは存在しない。むろん十全な民主主義体制も存在しない。だが民主主義は、自らの欠陥や誤謬を認め、且つそれを改善しようとする民衆の動きを是とする。その意味で民主主義は他のあらゆる政治システムよりもベターな体制だ。そしてベストが存在しない世界では、ベターがベストなのである。

民主主義はより良い民主主義を目指してわれわれが戦っていく過程そのもののことである。同じように言論の自由の“自由”とは、「表現の限界&制限」の合意点を求めて、全ての人々が国家や文化や民族等の枠組みの中で議論して行く過程そのもののことだ。各地域の知恵が寄り集まって国際的な合意にまで至れば、理想的な形となる。忘れてはならないのは、それら一つひとつの議論の過程は暴力であっさりと潰すことができる、という現実である。過去のあらゆる暴政国家と変わらない北朝鮮や中国が、彼らの国民の言論を弾圧しているように。戦前の日本で軍部が人々から言論の自由を奪っていたように。

同様にテロリストは、彼らテロリストの思想信条でさえ「言論の自由」として認めている人々、つまり言論の自由を信奉し実践している人々を殺戮することによって、その理念に挑み破壊しようとする。彼らはそうすることで、「言論の自由」など全くあずかり知らない蛮人であることを自ら証明する。人類の歴史は権力者に言論や表現の自由を奪われ続けた時間だ。権力者はどうやってそれを成し遂げたか。暴力によってである。だから暴力の別名であるテロは糾弾されなければならないのである。

全てを笑い飛ばす見識

その一点では恐らく全ての人々が賛同することだろう。だが問題は前述したように、一人ひとりの立ち位置によって現象の捉え方や理解が違う点だ。違いを克服するためには永遠に対話を続ける努力をしなければならない。話し合えば暴力は必ず避けられる。避けられると信じて対話を続ける以外に人々がお互いに理解しあう道はない。対話を続けることが民主主義の根幹であり言論の自由の担保である。

シャルリー・エブドによるムハンマドへの風刺を受け入れられない人々の中には、もしもイエス・キリストを風刺する絵が掲載されたならば、キリスト教徒も必ず怒るに違いない。だから我々の怒りや抗議は正当だ、と主張する者もいた。キリストの風刺画に怒るキリスト教徒もむろんいるだろう。だが西洋の知性とは、風刺を受け入れ、笑い飛ばし、文句がある場合は立ち上がって反論する懐の深さのことだ。

キリスト教を擁する西洋世界は、現在のイスラム過激派やテロリストや日本の軍国主義、あるいは中国その他による言論弾圧の現実と同じ歴史を経験した後に、特にフランス革命を通して今の言論の自由を勝ち取った。遠い東洋のわれわれ日本人もその恩恵に浴している。人々が好き勝手なことを言えるのも、僕が下手なブログで言いたい放題を言えるのも、彼らの弾圧との戦いとその勝利のお陰だ。今の日本がもしも軍国主義体制下のままだったならば、中国や北朝鮮と同じでわれわれは自身の正直な思いなど何も口にできなかっただろう。

そのことを踏まえて、また言論の自由が保障された世界に住む者として、僕はシャルリー・エブドの勇気とプリンシプルを支持する。


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一石二鳥



【“ピアッツァの声”から転載】


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日本にある一般的な野菜の中でイタリアにはないもののひとつがニラです。筆者はニラが好きなので仕方なく自分で育てることにしました。

わが家はミラノ郊外のブドウ園に囲まれた田舎にあります。ですから菜園用の土地には事欠きません。

日本に帰った際にニラの種を買って戻って、指定された時期にそれを菜園にまきました。が、種は一切芽を出しませんでした。
 
イタリアは日本よりも寒い国だから、と時期をずらしたりして試してみましたが、やはり駄目でした。20年近くも前のことです。

いろいろ勉強してプランターで苗を育てるのはどうだろうかと気付きました。
次の帰国の際にニラ苗を持ち込んでプランターに植えました。今度はかなり育ちました。かなりというのは日本ほど大きくは育たなかったからです。

成長すれば30~40センチはあるりっぱなニラの苗だったのですが、ここではせいぜい15~20センチ程度しかなく茎周りも細かったのです。

しかし、野菜炒めやニラ玉子を作るには何の支障もありませんので、頻繁に利用しています。

そればかりではありません。ニラはニンニク代わりにも使えます。特にパスタ料理には重宝します。

わが家ではツナ・スパゲティをよく作りますが、そこではニンニクを使わずニラをみじん切りにして加えます。ニンニクほどは匂わずしかもニンニクに近い風味が出ます。

またニンニクとオリーブ油で作る有名なスパゲティ「アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノ」にもニラをみじん切りにして加えたりします。

すると味が高まるばかりではなく、ニラの緑色が具にからまって映えて、彩(いろど)りがとても良くなります。
 
見た目が美しいとさらに味が良くなるのは人間心理の常ですから、一石二鳥です。



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ピアッツァの声



“パスタ”という「言の葉」



【“ピアッツァの声”から転載】pasta-with-vegetables



以前、日本のオヤジ世代にはスパゲティをパスタと言うと怒る者がいると聞いて、新聞雑誌などにそのことに対する筆者の意見を書いたことがあります。

あれから少し時間が経ち、もはやパスタという語は日本人の誰にも違和感なく受け入れられているのではないか、と思ってきました。

ところが、今日でもやはりその言葉に― 反発とまではいかなくとも ― しっくりこないものを覚える中高年の男たちが存在すると知りました。

それらの人々はきっとパスタという言葉に、気取りや若者言葉のような軽さを感じてむかつくのだろうと思います。

筆者もれっきとしたオヤジで、しかも言葉が気になる類の人間ですから、日本に住んでいたなら「パスタ」という新語(?)には彼らのように反感を抱いていたかもしれません。

ところがイタリアに住んでいるおかげで、日本における「パスタ」という言葉の普及には腹を立てるどころか、少し大げさに言えば、むしろ快哉を叫んでさえいます。 

「パスタ」とは、たとえて言えば「ごはん」というような言葉です。麺類をまとめて言い表す単語。スパゲティを気取って言っている表現ではありません。

スパゲティは多彩なパスタ(麺)料理のうちの一つです。つまり、焼き飯、かま飯、炊き込みご飯、雑炊、赤飯、茶漬け、おにぎりなどなど・・、無数にある「ごはん」料理の一つと同じようなものなのです。
 
焼き飯や雑炊を「ごはん」とは言いませんが、イタリアには個別のパスタ料理を一様に「パスタ」と呼ぶ習慣もあります。スパゲティも日常生活の中では、単にパスタと呼ばれる割合の方が高いように思います。

従ってスパゲティを「パスタ」と呼ぶのは正しい。

筆者はここで言葉のうんちくを傾けて得意になろうとしているのではもちろんありません。

おいしくて楽しくて種類が豊富なイタリア料理の王様「パスタ」を、スパゲティだけに限定しないで、多彩に、かろやかに、おおいに味わってほしいという願いを込めて、日本中の傷つきやすいわがオヤジ仲間の皆さんに、エールを送ろうと思うのです。



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ピアッツァの声





珍味のトリセツ



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~珍味のトリセツ~

新型コロナの影も形もなかった2019年9月、ギリシャのクレタ島に遊んでヤギ料理を堪能した。
 
クレタ島のシンボルはヤギである。ヤギはヤギでもこの島だけに生息するクリクリ種という野生のヤギ。絶滅危惧種で厳重に保護され食べることはもちろん捕獲も禁止されている。島で食べられるのはクリクリ種とは別の家畜化された普通のヤギである。
 
西洋ではヤギは1万1千年ほど前にトルコ、イラク、キプロスなどで家畜化され、およそ9千年前に家畜法と共にクレタ島にも伝わった。そこから欧州全体に広まるのにあまり時間はかからなかった。

一方クリクリ種のヤギは家畜化される前の野生ヤギの特徴を保持しているとされ、その姿がデザイン化されて島の役場や観光業界の文書、またヤギ料理を提供するレストランなどのエンブレムとしても用いられている。

原始的な不思議なその動物は、食べることはできないが島人に大いに愛されているのである。

クリクリヤギは過去に乱獲されて数が激減した。乱獲のエピソードで有名なのは、ナチスドイツに抵抗するギリシャ・パルチザンの男たちの物語。彼らは山に潜んでナチスと闘争を展開した際、ほとんど何も食べるものがなかったためにクリクリヤギを捕らえて食べては命をつないだ。

そのときの乱獲も大きくたたってクリクリヤギは絶滅の危機にひんしている。

片や食用になる家畜のヤギは島には非常に多い。羊も多い。当然ヤギ肉や羊肉料理もよく食べられる。レシピも多彩だ。味も抜群に良い。
 
クレタ島のヤギ料理は煮込みと炭火焼きが主体。ワインやハーブやオリーブ油などで作った独特のタレで味付けをする。タレはそれぞれの家庭やレストラン秘伝のものも多い。

あらゆるタレは肉の臭みを消すと同時に素材に芳醇な味わいを加えるのが主眼。個性的で斬新で美味なケースが少なくない。

その点、初めて食する人に肉の臭みが敬遠されることもある、例えば沖縄諸島のヤギ料理などとはかなり趣が違う。

もっとも沖縄諸島のヤギ料理の場合は、肉の臭みを敢えて風味と見なしてそれを売りにすることで、少数の熱狂的な愛好家に支持されているらしいから、それはそれで面白い。





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スペインの憂うつ、欧州の心労



殉教医師
イタリアの新型コロナ殉教医師たち


スペインで新型コロナの感染拡大が続いている。8月21日金曜日から24日月曜日までの4日間だけで新規感染者が2万人以上増え、累計の感染者は405436人と欧州で最も多い。

また過去2週間の人口10万人当たりの感染者数は166,18人。ちなみに同じ統計のイタリアの数字は10人。フランスは50人前後である。

感染者の増加とともに入院患者またICU(集中医療室)収容の患者も激増。医療体制の逼迫が懸念されている。死者の数も増えて累計で28872人。

だが累計の死者数は死亡前の検査で陽性と確認された患者のみのデータ。他の国々の知見と同様に実際の死者はもっと多いと考えられている。

スペインではこれまでに530万件の新型コロナウイルス検査が実施された。国民の11,5%にあたる。検査数は時間と共に増える傾向にある。

政府高官や論者の中には、例によって、検査件数の多さが感染者数の増大につながっている、と陳腐な主張をする者がいる。

だが他の欧州の国々は、検査数はスペインよりも多く、感染者の比率は同国よりも低いケースがほとんどだ。

たとえばドイツは国民の12,2%、イタリアは12,8%、イギリスに至っては国民の22,1%に検査を行っている。が、感染比率も感染拡大速度もスペインより鈍い。

スペイン国民はハグや握手やキスなどの体接触が多く、何世代もの家族が同じ屋根の下で住んでいることも珍しくない。そういう社会環境などが感染拡大に貢献している、という意見もある。

しかしそうした社会状況や住環境はイタリアも同じだ。またラテン系のフランス国民もボディコンタクトが多い部類の人々だ。

イタリア人はハグやキスが好きだから感染爆発を招いた、というのは3月から4月にかけてイタリアが世界最悪の感染地獄に陥ったころに、日本を含む世界中の知ったかぶり評者がさんざん指摘した論点だ。

むろんそういう事もあるには違いないが、同じ文化傾向を持つイタリアの感染拡大が抑えられているのだから、スペインの感染拡大をそのことだけで説明するのはいまの状況では無理がある。

厳しいロックダウンへの反動で人々が急速に、幅広く、無制限に自由を求めて活動を始めたことが原因、という指摘もある。それにもまた一理がある。

だがその点でも、再び、イタリアほか英独仏などの欧州主要国や多くの小国が同じように評価される。スペインだけの専売特許ではないのだ。

スペインの中央集権体制がゆるやかで、地方が多くの権限をもつために、統一したコロナ対策を打ち出せないのが感染再拡大の理由、と主張する者もいる。

その説も納得しがたい。なぜならイタリアもまたドイツも、地方自治の強い国だ。イタリアに至っては、独立志向の強い地方を一つにまとめるために、国家が中央集権体制を敢えて強めようと画策さえする、というのが実情だ。それは往々にして失敗するけれど。

また農業関係の季節労働者が、集団でそこかしこの農地を渡り歩いて仕事をすることも、感染拡大の原因の一つとされる。だがそれもイタリアやフランスなどと何も変わらない現実だ。

ではなぜスペインの感染拡大が突出しているのか、と考えていくと見えてくるものがある。特に国民性や文化習慣が似ているイタリアと比較すると分かりやすい。

それはひとえにロックダウン解除後の、社会経済活動の「通常化」へのペースの違いによるもの、と個人的に思う。

ロックダウンを断行した国々は、一国の例外もなく経済を破壊された。そしてロックダウンを解除した国は誰もが、大急ぎで失なわれた経済活動を取り戻そうとした。

中でもスペインは、特に大きなダメージを受けた観光業界を立て直そうと焦って性急な動きをした。国境を開いて外国人を受け入れ、隔離策などもほとんど取らなかった。

多くの国からの旅人を早くから受け入れたスペインには、ロックダウン解除直後の7月だけで、200万人あまりの観光客がどっと流入した。

同時に国内の人の動きにもスペイン政府は割合大らかに対応した。厳しいロックダウンに疲れ切っていた国民は喜び勇んで外出し動き回った。

やがてバカンスのシーズンがやってきて、スペイン国民の移動がさらに激しくなり、外国人の流入も増え続けた。そして感染拡大が始まり加速した。

スペイン政府の対応は、実はイタリア政府のそれとうり二つである。ところがイタリアはスペインに比べて「通常化」への動きがゆるやかだ。それが今現在の両国の感染状況に違いをもたらしている。

そして通常化、特に経済再開のペースに違いが生まれたのは、両国が体験したコロナ感染流行第1波の「恐怖」の大きさの違いによるもの、と考える。

イタリアは3月から4月にかけて、コロナ恐慌に陥って呻吟した。それはやがてスペインに伝播しフランスにも広がった。さらにイギリス、アメリカetcとパニックが世界を席巻した。

イタリアは医療崩壊に陥り、3万5千人余の患者のみならず、なんと176名もの医師が新型コロナで斃れるという惨状を呈した。

イタリアには見習うべき規範がなかった。中国の被害はイタリアのそれに比較して小さく、参考にならなかった。イタリアは孤立無援のまま正真正銘のコロナ地獄を体験した。

世界一厳しく、世界一長いロックダウンを導入して、イタリアは危機をいったん克服した。だが巨大な恐怖心は残った。それがロックダウン後のイタリアの動きを慎重にしている。

イタリアに続いてスペインも感染爆発に見舞われ医療危機も体験した。だが、スペインにはイタリアという手本があった。失敗も成功も悲惨も、スペインはイタリアから習うことができた。その違いは大きい。

恐怖の度合いがはるかに小さかったスペインは、ロックダウン後は良く言えば大胆に、悪く言えば無謀に経済活動を再開した。その結果感染拡大が急速に始まった。

そうした状況は多くの欧州の国々にもあてはまる。フランスやベルギー、マルタやルクセンブルクなどがそうだ。ドイツでさえ第2波の襲来かと恐れられる事態になっている。

しかしイタリアは今のところは平穏だ。バカンスの人の流れが影響して感染拡大の兆候は見えるが、欧州の中では最も感染拡大が少ない国の一つになっている。

イタリアにも気のゆるみはある。イタリアにも感染防止策に熱心ではない者がいる。マスクを付けず対人距離の確保も気にしない不届き者も少なくない。

だがイタリア人の中には強い恐怖心がある。そのために少し感染拡大が増えると人々の間に緊張が走る。自由奔放と言えば聞こえがいいが、いい加減ではた迷惑な言動も少なくないイタリア国民が、新型コロナに関してはひどく真面目で真摯で民度の高い行動を取るようになっている。

それが今のところのスペインとイタリアの違いであり、ひいてはイタリアと欧州の国々の違いである。イタリア国民はこと新型コロナに関しては、ドイツ人よりも規制的であり、フランス人よりも論理的であり、英国人よりも真面目であり、そしてもしかすると、日本人よりも従順でさえあるかもしれない。

飽くまでも「今のところは」だが。。



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じわじわとバカンスの付けがやってくる

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イタリアは連日、ロックダウン中の~月~日以来の高い感染者数、という枕詞が付くコロナ感染拡大が続いている。

夏のバカンスによる人の移動が感染拡大の大きな原因。8月19日にロックダウン解除後で最悪の642人の新規感染が出て以来、20日845人、21日947人、22日1071人と連日最悪記録を更新し続けている。

バカンスが終わる頃には再び感染爆発があるのか、それとも逆に収まっていくのか誰にも分からないが、前者を恐れる声のほうが強い。

繰り返し記してきたように、イタリアのコロナ感染状況はここ欧州の主要国の中ではまだとても良好だ。具体的にいえば8月21日現在、人口10万人あたりのイタリアの感染者数は10。

一方第2波の到来かと懸念されているスペインの数字は、人口10万人あたり132、2人。フランスが40人である。英国もイタリアの2倍の数字になっている。

またルクセンブルグとマルタは98人。ベルギーが60人など、欧州内の小国でも感染拡大の兆候は顕著になっている。全てバカンスの人の動きが原因と見られている。

イタリア政府は先日、若者の間のコロナ感染源の一つになっているとして、ディスコ(クラブ)の閉鎖を命令した。

ロックダウンで閉鎖されていたイタリア全土のディスコは、屋外での飲食のみが許され且つ「踊りは全面禁止」、という厳しい条件付で営業が許可されていた。

しかし規制を破る店が多く、客が屋内外で普通に、しかも集団で踊る光景が後を絶たず、クラスターが発生するケースが増えた。そこで閉鎖処置が取られた。

これに対してイタリアのディスコ&ナイトクラブの組合は、政府がクラブ(ディスコ)の閉鎖を命令したのは違法、としてラツィオ州裁判所に提訴した。

組合は政府の業界への補償や支援が適切に行われるなら、提訴を取り下げるとも表明していたが、ラツィオ州裁は「国民の健康は組合の経済利益よりも重要」として、即座に国の決定を支持する裁定を下した。

イタリアにはおよそ3000軒のディスコやナイトクラブがあり5万人を雇用している。閉鎖によって業界全体で40億ユーロの収入が失われる。

ディスコやナイトクラブは、レストランやバールなどの飲食店がロックダウン解除後に営業再開を許可された後も、感染拡大防止策として長く閉鎖されていた。

厳しい条件付で営業を再開したものの、再び閉鎖命令。多くの店が倒産に追い込まれるのは必至と見られている。国民の健康と経済のバランスをどう取るかの答えはまだまったく出ていない。


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クレタ島ヤギ料理列伝



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ギリシャのクレタ島のシンボルはヤギである。ヤギは1万1千年ほど前に中近東域で家畜化され、やがてギリシャにも伝わった。クレタ島には家畜化される前の原始的な生態を保持する、クリクリ種という固有の野生ヤギが生息している。

島のシンボルにもなっているクリクリ種のヤギは絶滅危惧種。厳格に保護されていて、食用にすることはもちろん捕獲もできない。だが島にはクリクリ種とは関係のない家畜化された普通のヤギも多い。

家畜のヤギは、これまた島にたくさんいる羊と共に食肉処理されて大いに食卓にのぼる。レストランでもヤギや羊肉のレシピは豊富だ。冒頭の写真に見るようなヤギのエンブレムが目印の専門店もよく見かける。

新型コロナの影も形もなかった2019年9月、クレタ島に遊んでヤギ・羊肉料理(以下ヤギ料理に統一)を堪能した。滞在中はほぼ毎日、昼か夜に必ずヤギ料理を食べた。

きわめて美味い店が多かったが、観光客を相手にする店ではその逆のレシピも結構あった。そこで滞在中に出会ったヤギ料理について、味の良かった膳と逆のそれをランク順に書いておくことにした。

良い味のレシピは最高ランクから下へ。悪いほうも同じ。最後が最悪の味、という趣向である。

最高の味はヤギ肉ライス。

山羊ライス皿全体ショット650


一日遠出をした海際のレストランで出会った。品の良さとは縁のないこのシンプルな見た目のヤギ肉煮込みには、ミノア文明を生み出したクレタ島の人々の、数え切れないほどの試行と錯誤と、また錯誤と試行を繰り返した歴史のエッセンスが詰まっている、というほどの絶妙な味わいの一品だった。創意工夫の究極の賜物。

タレの主役は品書きにあったレモンのようだ。むろんそれに店特有のハーブやワインやリキュールやetc,etcの「秘密の品々」が加えられているのは間違いない。「(企業)秘密の品々」が、各店の味の違いを生む。ここで使われるのは体重10~15キロのヤギの肉。子ヤギの部類に入るが肉の臭みはもう一人前。その臭みを芳醇な味わいに変えるのがシェフの腕の見せどころだ。ヨーロッパでは珍しい白米との相性も新鮮だった。が、ライスがほとんど余計な気遣いに思えるほどヤギ煮込みそのものの味が秀逸だった。

第2位は週末だけ子羊の丸焼きを提供する店のひと皿。

肉中ヨリ650


少し内陸部にあるので観光客が少ないところがミソ、と思ったが期待に違わなかった。ヤギ・羊肉は、煮込みレシピのほうがバラエティー豊富で、味の深みもある。一方、焼きレシピは単調な味が多い。この店の丸焼きは数少ない例外。出色の味わいがあった。

絶妙な味は秘伝のタレを塗って出していると思うが、使うのは塩だけという意外な可能性もある。薪にしろ炭にしろ、焼いてこれだけの「違いのある味」を出すのは至難の業。イタリア・サルデーニャ島に塩だけを使って(薪の)熾火で骨付きの成獣羊肉を焼く店がある。僕はそれを独断と偏見で世界一の「❛成獣❜羊肉膳」、と勝手に決めつけているが、このひと皿は、「焼き」羊肉としてはサルデーニャの店に肉薄するくらいの目覚ましい味がした。

続いての一品は肉の炙り焼きを見世物にしているレストランのひと皿。

ラムシチュー+ポテト引きヨリ650


伝統のタレで煮込んだ一品。タレの素材は分からないが、店独自の要素を白ワインとからめて煮込んだものだろうと思う。デリケートな柔らかさに煮込まれた肉は、ヤギ・羊肉の味わいある「匂い」ではなく、「芳香」の域にまで達していた。添えられたポテトとの相性も秀逸。店は紹介で訪れた「クレタ島伝統食レストラン」の一つ。この一品の味は一級のさらに上のあたり。 ただし日をあらためて食べた同じレストランの見世物の炙り焼きは、この一品とは別物だった。それは残念ながら後編に組み入れることにした。

最後はホテルの紹介で訪れた少し内陸部の店のひと皿。

皿全体650


客層は地元民と移住英国人が主体だった。肉は焼いたように見えるが、実は煮込み料理。これもまた店一流の深い味が出た一品。タレは地元ワインとオニオンが中心らしい。料理レポートを書いても舌の味は伝わらない。実際に食べてみるしかない。このひと皿は見た目も上品だった。ヤギ・羊肉が嫌いな女性もトライしやすいだろう。食べたら必ずヤギ・羊肉ファンになること請け合いの一品。

ヤギ・羊肉料理の美味い店のメニューには、この店がやっているように「オイル(だいたいオリーブ油)、オニオン、ワィン煮込み」などと説明されている場合が多い。だが素材を3種も明かしているのは珍しい方。レモン煮込みとかワイン煮込みなど、素材の数を少なく示して、店の秘伝のタレの中身をできるだけ明かさないようにしているのが普通である。




ここからは逆に、やや不作味のヤギ・羊肉膳から、まったく不作味の品々までを記しておきたい。

前編に記した肉の炙り焼きを見世物にしている店のひと皿。

合成650


店には2種類のヤギ肉レシピがある。伝統手法で煮込んだとされる前述のヤギ肉は極めて美味だったが、こちらの一品は、料理中の肉の美味そうな見た目とは違って少しも味わいがなかった。焼かれた肉とトマトソースが主体のタレの相性が悪いと感じた。店の外に設えられた肉炙り焼き機は風情があって面白かった。料理は見た目もご馳走の一つ、と考えれば前編の味の良いレシピランクのビリに入れても良かったが、やはりためらいが残った。

これは子羊のすね肉の煮込み。

合成800


大量のチーズ、トマト、ごった煮野菜、ジャガイモなどの下に隠されていた主役の子羊のすね肉が右の絵。大量具材は肉の味を良くするつもりの創作だろうが、肉そのものの味を高めるのではなく、「夾雑物」の食材で誤魔化そうとしているから不味いばかりではなく品も落ちる。シンプルにすね肉だけを表に出し、付け合わせもポテト一品などに単純化すれば、一級の料理になる筈なのに。。

ひたすら大量・てんこ盛りの食皿を好む北欧人やバルカン半島人など、その地に非常に多かった観光客に媚びると、こんなつまらない料理が出来上がるということなのかもしれない。観光地の悲哀。

その一方で同じ「子羊のすね肉煮込み」は、実は僕はイタリアで何度も「絶品級」の味に出会っている。たとえばこんなふうに骨付きのまま煮込んだ一品。

fornicoスネ肉650


ヤギ料理の美味いものはほとんど常に店の秘伝のタレで煮込んだシンプルなレシピだ。イタリアの店のひと皿もそうだ。余計な食材をトッピングすると、ほぼ間違いなく肉の貧しさをごまかそうとする作業と同じになって、シェフの意図するところとは逆の印象の味になる。


続いての崖っぷちレシピは「羊肉のパン生地包み焼き」。

焼きタコ込みヒキ800


見た目は美しいLamb肉煮込み。薄いパン生地で包んでいる。花に見立てたふわりとした外観は上品でオイシそうだったが、味は最後に掲載するLamb肉パイとどっこいどっこいの最悪味。

開封中身800


すっぱい味がしたのは、定番の大量具材にヨーグルトが混じっていたからだと思うが、それはLamb肉とは全く相性がよくない。北欧&バルカン半島系テイストの大味・残念レシピ。これを美味そう、と感じる人は、食べてもやっぱりオイシイとつぶやくのだろうか。僕はひと口食べてフォークを置いた。大げさではなく、オエッとなりそうな味だった。約2000円強を丸々捨てたことになるが、惜しいとは思わなかった。不味い料理がなくては美味しい料理の良さは分からない。勉強と思えば2000円は安い。

最後に最悪味の羊肉パイ。

ピザ生地包み焼き800


こちらも見た目はとても美味しそうだが、中身はあらゆる具材がぐちゃぐちゃに入り混じった地獄レシピ。すっかり忘れていたが、食べたその場で書いておく僕の一口メモの備忘録には、この料理は前の一品「羊肉パン生地包み焼き」とともに❛~ンコ飯❜と記されていた。

ヤギ・羊肉の炙り&焼きレシピは何度も書いているように難しい。味が単調になり勝ちだ。だが出色のものは非常に美味い。一方、各店またシェフの秘伝のタレで煮込むヤギ・羊肉膳はバラエティーに富んでいて味も良く深みがある。ワインで言えば「焼きヤギ・羊肉」は白ワイン。「ヤギ・羊肉煮込み」は赤ワイン。前者は選択肢が狭く後者は限りなく広い。味も同じ。。と思う。


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ディスコ&ナイトクラブ組合がイタリア政府に反撃



マスク群集イラスト650


イタリアは政府は、全国のクラブ(ディスコ)が新型コロナ感染拡大の元凶になっているとして全面閉鎖を命令した。

これに対してイタリアのディスコ&ナイトクラブの組合は、政府がクラブ(ディスコ)の閉鎖を命令したのは違法、としてラツィオ州裁判所に提訴した。

欧州では新型コロナ感染爆発第2波の恐れが出ている。ところがイタリアでは欧州主要国の中では唯一、コロナの感染拡大が低く抑えられてきた。長く過酷なロックダウンが功を奏したと見られている。

だが夏のバカンスシーズンの到来とともに情勢が一変。外国で休暇を過ごして帰国する若者の間でコロナの感染拡大が始まり、その流行は国内のクラブ(ディスコ)にも広がる兆しが見られるようになった。

大勢の若者が密集して踊る環境は感染拡大の絶好の舞台だ。危機感を抱いたイタリア政府は、ロックダウン期に続いて、再び全国のクラブ(ディスコ)の全面閉鎖に踏み切った。

イタリアにはおよそ3000軒のディスコやナイトクラブがあり5万人を雇用している。閉鎖によって業界全体で40億ユーロの収入が失われる計算だという。

だが組合は同時に、政府の業界への補償や支援が適切に行われるなら、提訴を取り下げるとも表明している。


なお、

2020年8月19日現在のイタリアの新型コロナ感染者数は累計で255278人。死者35412人。8月19日の新規感染者は642人。一日あたりの新規感染者数としては5月23日以来の高い数字になった。



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感染爆発という悪夢を阻止するために

子供たち


イタリア政府は若者の間のコロナ感染源の一つになっているとして、ディスコ(クラブ)の閉鎖を命令した。

ロックダウンで閉鎖されていたイタリア全土のディスコは、スペインやフランスなどに遅れて営業が許可され、且つ屋外での飲食のみが許される上に「踊りは全面禁止」、という厳しい内容だった。

しかし規制を破る店が多く、客が屋内外で普通に、しかも集団で踊る光景が後を絶たず、クラスターが発生するケースが増えた。

イタリアの感染拡大はフランス、スペイン、ドイツなど、第2波の襲来が懸念される国々に比べるとまだ抑えられている。が、バカンスから帰国した若者を中心に確実に増えつつある。

またディスコなど人だかりの多い場所も感染拡大に拍車をかけかねないと憂慮されている。ディスコの閉鎖は9月7日まで。以後は営業が許可される予定。

だが、それは難しいのではないか。バカンスの人の流れと共に動いたコロナウイルスは、暑さがやわらぐに連れて活力を増すと見られている。

もしもディスコが9月に営業再開すれば。感染が抑えこまれたことを意味する。そうなればワクチン開発までのあいだ一息つける、というのはむろん希望的観測に過ぎない。



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ガルダ湖の空が晴れるまで


牛込み俯瞰800


イタリア最大の湖、ガルダ湖を1000メートル下に見おろす山中にいる。元修道院だった古ぼけた山荘があって、8月の猛暑時などに滞在したり、夏の終わりから秋口に友人らを招いて伝統料理のスピエド(ジビエ串焼き)を振舞ったりする。

コロナ禍の今年はむろんスピエド会食はしないつもりだが、しばらく滞在するつもりで登ってきた。暑さよりも湖畔の人出を避けたい気分で。だがスマホはかろうじて使えるものの、PCのインターネット環境がほぼゼロなので不便なことこの上もない。

ガルダ湖は南アルプスに連なるプレ(前)アルプスの山々に囲まれている。今いる山はその一つ。山頂の標高は1500メートルである。800メートルから1000メートルの間には、雰囲気の悪くないレストランが3軒ある。

湖を出てここまで車で登る間には三つの集落を眺め、一つの集落を横断する。それらの集落は行政区分上は全て湖畔の町の一部である。滞在しているのは人口10数人の集落に近い一軒家。そこは山中の集落のなかではもっとも高い位置にある。

湖畔の町はDHローレンスが滞在しゲーテもイタリア旅行の際に通ったという名前の知れた場所。新型コロナウイルスの感染爆発時には、ほとんど感染者が出なかったことで称えられた。山中の集落のみならず、湖畔のメインの集落でも死者は出ず感染者もほぼゼロだった。

町はイタリア最悪の感染地であるロンバルディア州に属しているから、感染者が少ないのはなおさら喜ばれた。8月の今はドイツ人バカンス客でにぎわっている。もともとドイツ人観光客に人気のある町なのである。

Covid19を抑え込んだおかげもあって、町にはバカンスや観光目的のドイツ人が押し寄せている。いつもの年よりも多く感じられるのは、Covid19禍でドイツ人観光客の行き場が限られているせいもあるのだろう。

だが山中にはドイツ人はほとんどいない。彼らは便利で且つ湖畔の景色が美しい下界の町に長逗留しているケースがほとんどだ。山中の集落を含む町の全体は感染予防策に余念がない。しかし観光客は無頓着で利己的だ。

自らが楽しめればウイルスの感染のリスクなどはほとんど意に介さない。しばらくすればどうせ町を去る身だ、自分には関係がない、という意識を秘めている。マスクなども付けずに動き回る不届き者も多い。秋から冬にかけて、ドイツ人が持ち込んだウイルスが暴れないか、と僕は密かに気を揉んでいる。

かすかな電波を頼りにスマホでググると、日本では人口割合で最悪感染地になっている僕の故郷の沖縄県での感染拡大が続いている。そこでの問題もおそらく観光客だろう。観光客が自主的に感染拡大予防策を取る、などと考えるのは甘い。

彼らは既述のように自らが楽しめれば良い、と考えていることが少なくない。特に若者の場合は感染しても重症化する危険が少ないから感染予防などは二の次だ。自らの感染を気にしないとは、他者を感染させることにも無頓着ということだ。

コロナの感染を本気で食い止めたいのなら、人の動きを制限するしかない。それも強制的に。自粛に頼るだけでは心もとない。むろんそれは社会経済活動の制限と同義語だから、舵取りが難しい。

コロナの感染防止と経済活動のバランスに世界中が四苦八苦している。そしていま現在は感染防止よりも経済を優先させた国々がより大きな危機に瀕している。アメリカ、ブラジルがそうだ。インドも同じ。日本もそこに近づいているようにも見える。

またここ欧州でもロックダウンの後に、ただちにまた全面的に経済活動を開始した国ほど、またそれに近い動きをした国ほど第2波の襲来らしい状況に陥っている。欧州の主要国で言えば、スペイン、フランス、ドイツにその兆候がある。

ところが主要国の一つで最悪の感染地だったここイタリアは、新規感染者は決してゼロにはならないものの、感染拡大に歯止めがかかって落ち着いている。世界一厳しく世界一長かったロックダウンを解除したあとも、社会経済活動の再開を慎重に進めているからだ。

一例をあげれば、前述の国々では若者らはクラブやディスコで踊りまくることが可能だが、イタリアではそれはできない。それらの店の営業内容が規制されているからだ。イタリアは突然にコロナ地獄に突き落とされ孤立無援のまま苦しんだ、悪夢のような時間を忘れていないのである。

また規則や禁忌に反発することが多い国民は、コロナ地獄の中ではロックダウンの苛烈な規制の数々だけが彼らを救うことを学び、それを実践した。今も実践している。国の管制や法律などに始まる、あらゆる「縛り」が大嫌いな自由奔放な国民性を思えば、これは驚くべきことだ。

だが激烈なロックダウンは経済を破壊した。特に観光業界の打撃は深刻だ。そこでイタリアは大急ぎでEU域内からの観光客を受け入れることにした。湖畔の町にドイツ人観光客が溢れているのはそれが理由の一つだ。

同時にイタリア人自身もガルダ湖半を含む国内の観光リゾート地に多く足を運んでいる。夏がやってきてバカンス好きな人々の心が騒ぐのだ。だがコロナへの恐怖や経済的問題などもあって、国外には出ずに近場で過ごす人が多くなっている。

「観光客」になったイタリア人も、歓楽を優先させるあまり全ての観光客と同様に感染防止策を忘れがちになる。その意味では、ドイツ人観光客やバカンス客だけが特殊な存在、ということではもちろんない。

バカンスの向こうには感染拡大という重いブルーが待っている、というのが僕のぬぐい切れない悲観論だ。大湖ガルダの雄大な景色を見おろしながら、僕は自分の憂鬱なもの思いが杞憂であることを願わずにはいられない。



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バカンスのつけが怖い

ビーチ人混みマスクゼロ


欧州は新型コロナウイルス感染拡大の第2波が襲来、ともいわれる状況下にある。スペイン、フランス、ドイツなどの大国や東欧圏の国々だ。

イタリアは長く過酷なロックダウンの効果で今のところは静かだ。ところがそのイタリアで行われた新型コロナウイルスの大規模な抗体検査で、およそ3割の感染者が無症状だったことが明らかになった。無自覚のうちに感染を広げる懸念が高まっている。

抗体検査は約6万5千人を対象に行われた。その結果、150万人近くが抗体を持っていると推定される。イタリア国民の2,5%程度にあたる数値である。

イタリアで感染が確認されているのは累計でおよそ25万人。従って実際にはその6倍もの感染者がいることになる。しかも3割の50万人は無症状で、知らずに感染を広げているかもしれない。

それが事実であるならば、第2波の襲来では?と恐れられる欧州や、第1波がまだ続いている南北アメリカ、また感染拡大が止まらない世界中で、見た目よりもはるかに厳しいコロナ災禍 が進行していることになる。

検査態勢の不備や医療事情の貧困等々に加えて、無症状の感染者が多い現実などもあり、世界の感染者は実際よりもはるかに多いのではないか、と常に考えられてきた。死者の数も「実際には公表数の3倍」といわれるイランなどを筆頭に、発表されている数字よりは大きいと見られている。

従ってイタリアの状況を知っても実は僕はあまり驚かない。イタリアでも感染者や死者の数は正式な数字より多いはずだとしきりに言われてきた。南北アメリカはもちろんインドなどもそうだ。イタリア以外のヨーロッパ諸国も似たり寄ったりだ。

隠蔽や嘘やごまかしが多くて真実が見えずらい、とされる中国に至ってはもっとさらにそうである。世界のコロナ惨害は今でも見た目より酷いに違いない。第2波や第3波が襲ってくれば凶変はさらに深刻になるだろう。

隠れ感染者の存在に加えて、バカンスの人の動きと無鉄砲な若者らの行動パターンもイタリアでは憂慮されている。それを体現するようにクロアチアとギリシャで休暇を過ごした若者らが、帰国後に検査で陽性とされるケースが増えた。

イタリア自体は、3月から4月の世界最悪のコロナ兇変を体験して非常に用心深くなり、感染防止対策にも余念がない。また社会経済活動の再開もスペインやフランスに比較するとゆっくり目である。それらが今現在のイタリアの感染状況を落ち着かせている。

だが、そうはいうものの、イタリア人がバカンスに出かける先の国々の規制や感染防止策はまちまちだ。イタリアよりは規制がゆるい国が多い。8月の終わりになればそれらの国々で休暇を過ごした人々が一斉に帰国する。

クロアチアとギリシャから帰った若者らに感染が広がっている事実は、9月以降の感染爆発の予兆である可能性も大いにある。当たり前の話だが、コロナ大厄は全く終わってなどいないのである。



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渋谷君への手紙~死者が増えるほど日本はきっと強くなる

子供イラストマスク


『 渋谷君

僕の故郷の沖縄県が人口10万人あたりの新型コロナ感染者数で東京を抜いてダントツ日本一、という情報をわざわざ送ってくれてありがとう。実は僕もメディアやネットでニュースを知って気にしていました。観光地ということもあるのでしょうが、沖縄の感染者が増えているのは米軍のせいもあるのか、などと心配しています。

沖縄のみならず、日本全体の感染者数が増えているのはちょっと不気味ですね。ただヨーロッパの状況も怪しい。今のところここイタリアは静かですが、スペイン、フランス、ドイツが変な雰囲気になってきました。

イギリスもそうです。あの国はロックダウン不要論に基づいて、ジョンソン政権が第一波の初期対応を誤ったことが依然として尾を引いています。その点イタリアは逆に、誰よりも早くまた誰よりも厳しいロックダウンを敢行した分、「今のところは」息がつけている、というふうです。

ただしイタリアの新規感染者もコンスタントに出ていて、僕は第2波(この言い方には強い違和感を覚えますが分かりやすいようにそう書きます)の到来は必ずあると思っています。

イタリアは3月から4月にかけて、どこからの援助もなく、それでも誰を怨むこともなく、且つ必死に悪魔のウイルスと格闘しました。当時イタリア国民は苦しみ、疲れ果て、倒れ、それでも立ち上がってまたウイルスと闘う、ということを繰り返していました。

ウイルス地獄が最も酷かったころには、医師不足を補うために300人の退職医師のボランティアをつのったところ、25倍以上にもなる8000人がすぐさま手を挙げました

周知のように新型コロナは高齢者を主に攻撃して殺害します。加えて当時のイタリアの医療の現場は、当局の見込み違いなどもあって患者が病院中にあふれかえり、医師とスタッフを守る医療器具はもちろんマスクや手袋さえ不足する、という異常事態に陥っていました。

8000人もの老医師はそうしたことを十分に承知のうえで、安穏な年金生活を捨てて死の恐怖が渦巻くコロナ戦争の最前線へ行く、と果敢に立ち上がったのです。僕はあの時のことを思うと今でも鳥肌が立つほどの感動を覚えます。

退役医師のエピソードはほんの一例に過ぎません。厳しく苦しいロックダウン生活の中で、多くのイタリア国民が救命隊員や救難・救護ボランティアを引き受け、困窮家庭への物資配達や救援また介護などでも活躍しました。

逆境の中で毅然としていたイタリア人のあの強さと、犠牲を厭わない気高い精神はいったいどこから来るのだろうか、と僕は真摯に、そしてしきりに思いを巡らずにはいられません。あれこれ考えた末に行き着くのはやはり、イタリア国民の9割以上が信者ともいわれるカトリックの教義です。

カトリック教は博愛と寛容と忍耐と勇気を説き、慈善活動を奨励し、他人を思い利他主義に徹しなさいと諭します。人は往々にしてそれらの精神とは真逆の行動に走ります。だからこそ教義はそれを戒めます。戒めて逆の動きを鼓舞します。鼓舞し続けるうちにそちらのほうが人の真実になっていきます。

いい加減で、時には嘘つきにさえ見えて、いかにも怠け者然としたゆるやかな生活が大好きな多くのイタリア国民は、まさにその通りでありながら、同時に寛容で忍耐強く底知れない胆力を内に秘めています。彼らはいわば優しくて豪胆なプー太郎なのです。

イタリア国民のストイックなまでに静かで、意志的なウイルスとの戦いぶりは、僕を感動させました。彼らの芯の強さと、恐れを知らないのではないかとさえ見える根性のすわった態度に接して、僕はこの国に居を定めて以来はじめて、許されるならイタリア人になってもいい、と腹から思うようになりました。

ご存じのように日本人が他国籍を取得したいなら、日本国籍を捨てなければなりません。僕は今のところは日本国籍を放棄する気は毛頭ありませんので、実現することはないと思います。が、イタリア人になってもいいと信ずるほどに、イタリア国民を心底から尊敬するようになったのです。

8月に入ったイタリアのコロナ環境は、3月、4月の惨状が嘘のような静けさに包まれています。だが世界では8月4日現在、感染者の多い順にアメリカ 、ブラジル、インド、ロシア、南アフリカ 、メキシコ 、ペルー、チリ 、コロンビア、イランなどの非欧州国がコロナの猛攻撃にさらされています。

それらの国々の中で以前のイタリアの恐怖と絶望感を今このとき味わっているのは、世界最大の感染国アメリカではなく、恐らく医療体制の脆弱なインド、パキスタン、イランほかの中東諸国、またブラジルとペルーに代表される南米各国などでしょう。僕には彼らの苦境が容易に想像できます。

一方、状況が芳しくない日本のコロナの状況については、実は僕はそれほど心配していません。いえ、もちろん心配はしていますが、イタリアのかつての地獄絵図を知っている身としては、日本で今後何が起きてもどうということもない、と達観もしているのです。

この先に日本で感染爆発が起きても死者が激増しても、3月から4月頃のイタリアの惨状には決して陥らない、と信じています。イタリアのように医療崩壊さえ起こさなければ、苦しい中にも救いはあるのです。いえ、それどころか、医療崩壊を避けることができれば、何も恐れることはありません。

医療崩壊に陥ったころのイタリアは、いま振り返っても本当に怖い状況でした。前例もないまま、突然にコロナ地獄に投げ込まれ、文字通りの孤立無援の中、ただ一国で呻吟するしかありませんでした。民主主国家イタリアの全土封鎖は、独裁国家の中国の武漢封鎖とは違う困難をもたらしました。

その後、アメリカやブラジルも地獄にはまって行きますが、彼らには少なくとも「イタリアという前例」 がありました。またイタリアを見て対策を考えることができたスペイン、フランス、イギリス、その他多くの国々の動きも参考にすることができました。

イタリアは真実孤独でした。僕の周りにおいてさえ人がバタバタ死んでいきました。何が起きても日本はとてもあんなふうはならないでしょう。誤解を恐れずにあえて言えば、むしろもう少しくらい重傷者や死者が出るくらいのほうが、経済つまり金のことしか考えていないように見える、日本の政治家や御用学者や経済人らに灸を据える効果があるのではないか、とさえ思っています。

日本がイタリアの絶望的な状況に陥るのなら、それはイタリアの失敗やその後のスペイン、フランス、イギリス、また南北アメリカなどの苦境から何も学ばなかったことを意味します。その場合には、安倍晋三首相と彼の政権は万死に値する、と言っても構わないでしょう。だが言うまでもなく、そういう事態にはなならずに感染拡大が収まればそれに越したことはありませんが。。

 以上                                     
                                  それではまた 』



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若者を殺さないコロナの底意



看護師顔切り取り


欧州に遅れてコロナ危機が始まった南北アメリカや中東の感染拡大が続く中、いったん落ち着いていたヨーロッパにも再び状況悪化の兆しが見えてきた。

第1波で過酷な試練を体験した西ヨーロッパでは、主にスペイン、フランス、ドイツなどにクラスターの発生や感染増加が顕著になっている。

第1波で最も悲惨なコロナ危機を体験したイタリアは、世界一峻烈とされたロックダウンを導入した効果もあって、今のところは欧州の中でも感染拡大が少ない。

だが、そうはいうものの、イタリアでも新規の感染者はコンスタントに出ていて、いつ状態が悪化してもおかしくない環境である。

欧州の感染者の増加は、夏のバカンスを楽しむ人々の動きと関連している。厳しい移動制限に象徴されるロックダウンが終わったことを受けて、多くの人々が観光地やリゾートに移動を始めた。

コロナ危機の中でも、いやむしろコロナ危機だからこそ、バカンスで開放感を味わいたいと考える人々がいて、彼らが移動を開始したとたんに感染拡大が始まった。

コロナウイルスは自らでは動かず、飛ばず、移動しない。常に人とともに動き人によって運ばれ、拡散し、宿りを増やしていく。だからこそ人は人との接触に細心の注意を払わなければならない。

その注意が時として若者には足りない。彼らは感染防止策に無頓着である場合が少なくない。感染拡大は全ての年齢層の人々によってなされるものの、圧倒的に若者によるケースが多い。

若者は、コロナに感染しても重症化する可能性が低い。死亡する可能性は、高齢者と違ってもっと低い。そこから感染防止策を軽視する心理が芽生え、それは彼らの行動に出る。

彼らはこう考えている「俺たちは大丈夫。コロナは老人の問題だ」と。そして夜の繁華街やリゾートの街やビーチで、コロナなどどこ吹く風で思いのままに集い歓楽する。

そこで新型コロナに感染して無症状のまま再び思いのままに動き移動し活動して、他者にウイルスを受け渡していく。彼らが高齢者へ移すことを腹から気に病むことはほんどない。

祖父母など肉親に高齢の者がいれば少しは気にすることもあるだろうが、それとて長く緊張を維持したり気を配ったりする理由にはならない。彼らはいつも自身のみずみずしい生を目いっぱい謳歌することに懸命だ。それが若さというものである。

若者の大多数が自主的に感染対策にまい進すると考えるのは愚かだ。彼らはコロナが若者も「殺す」形に変異でもしない限り、感染対策を完璧に遂行することはない。感染拡大防止の最大の障害は若者なのである。

若者ではない人々はそのことに薄々気づき始めている。若者も気づいているが彼らの命にかかわることではないので高をくくっている。若者と高齢者間の分断が始まろうとしている。もしかするともう始まったのかもしれない。

日本ではここ最近、コロナに感染しても症状が軽いかあるいは全く出ない、比較的若い年代の人々の集団感染が発生しているようだ。実は欧州でも感染者の年齢層が下がっている。

特にスペインとフランスまたドイツで、休暇を楽しむ若者が都会やリゾート地で深夜に集まって騒いでは、感染する事態が頻発している。その後彼らはそれぞれの家庭に戻って高齢者を感染させる。

そうした事態を受けて、スペインのカタルーニャ州はついに7月25日、ナイトクラブや深夜営業のバーを再び2週間ほど閉鎖すると発表した。その動きは欧州各国に伝播しそうな雲行きである。

ウイルスが変異し、若者を重症化させ、最悪の場合は死亡させるようにならなくても、彼らの行動パターンが変化する可能性はある。

爆発的な感染拡大が起きて、再びロックダウン(あるいは日本なら緊急事態宣言)が導入されることだ。そこでは経済が滞り雇用危機が発生して、彼らも恐慌の中に投げ出される。

そうなれば無鉄砲な者たちも少しは反省するだろう。だがそれでは遅すぎる可能性がある。破壊された経済が元に戻るのは至難だ。彼らはその前に感染防止に真剣に取り組んだほうがいい。

若者をそういう方向に導くのは、若者ではない大人たちの役割である。とりわけ政治の責任だ。欧州はその方向に動きつつあるようだ。だが日本の政治は、行動を起こすどころか、問題の核心にさえ気づいていないように見える。

ところで活動的で行動範囲も広い若者がコロナに感染しても症状が出ないのは、全くの偶然なのだろうか?無症状なので彼らは感染しても活発な動きを止めず、さらに感染が拡大する。

もしもそれが仕組まれた作戦だとするなら、なんと怖いことだろう。そしてなんという深い知恵だろう。深い知恵はもしかすると高齢者のみを殺す、とも決めているのかもしれない。なぜ?地球上に高齢者が増えすぎたから?

新型コロナの凄みは、知恵があるようにも見えることである。もしかするとワクチンも治療薬もなにもかも無効にする知恵まで秘めているのでは?とさえ思わせる。むろん人間はそれ以上の知恵を持つと信じてはいる。が、時として新型コロナは、その信頼を揺るがすほどの殺気さえ見せるところが忌まわしい。



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伊ロックダウン異聞

新聞同時投稿コラム

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~菜園でコロナと遊ぶ~


ことしは新型コロナのせいで2月以来なにもかもが異例づくしの展開になっている。

イタリアは一時期、世界最悪のコロナ感染地となって全土がロックダウンされ、住民の外出や移動が厳しく制限された。

僕は毎年3月になると自宅敷地内にある菜園で土を起こし、プランターで育苗なども行って野菜作りをする。

ことしは自宅待機で時間があり余る分、菜園仕事にも熱が入りそうなものだった。ところがまるっきりそんな気分になれなかった。

菜園仕事が始まる3月からが、まさにイタリアのコロナ地獄のピークだった。不安がつのって野菜作りどころではなくなっていたのだ。 

4月も終わる頃にようやくその気になって、菜園全体にサラダ用野菜の混合種をびっしりとまいた。一部を普通に収穫してサラダとして食べ、残りは生いしげるままに放置しようと考えた。 

菜園は有機農法で耕しているため雑草が繁茂し虫がわく。特に雑草に閉口する。だがコロナが猛威を振るう中では菜園の草取りもできるだけ省略したかった。

サラダ用の野菜は根がおだやかで除去が簡単だ。土中深くまで根を張るしつこい、処理に困る、ある種の雑草とは大違いである。

そこで野菜をまんべんなく育てて雑草の成長の邪魔をできないか、と思いついたのだった。 

5月になると各種のサラダ野菜が生いしげった。雑草は明らかに少ない。7月の今も同じ。どうやら思惑は当たったようだ。今後はこの手を使って雑草対策をしようかと考えている。 

しかし、野菜作りには連作障害という問題が付いてまわる。サラダ用野菜ばかりを毎年作付けすると障害が起きかねない。それでも始末に困る雑草よりは増し、とも思うが実際にはどうなのだろうか。

新型コロナ禍がもたらしたもう一つの悩ましい課題である。





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ロックダウンの功罪

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ロンドンUCLの統計によると、イギリス人の3人に1人は、新型コロナの感染拡大抑止のために行われたロックダウンを楽しんだ、ということだ。

楽しんだと答えたのは、より多くの収入があり、心身の特に心の健康に問題のない30歳から59歳の年齢層の人々だった。

また孤独ではなく、同居人がいたり子供のいる家族があったりすると、外出や移動が厳しく禁止されるロックダウンでも前向きに捉える傾向が強かった。

僕はこの報告を知ってわが意を得たり、という気分になった。僕もどちらかと言えば、世界一過酷とされたイタリアのロックダウンを楽しんだほうだ。少なくともそれほど苦にしなかった。

僕は年齢は59歳以上で子供は独立している。が、同居人の妻がいる。また金持ちではないが生活には困っていない、など統計に当てはまる部分とそうでない部分がある。

統計には示されていないが、都市ではなく田舎に住んでいることもロックダウンに耐えやすい重要な条件になる、と実体験から思う。自宅に庭があればさらに息抜きができる。

また、自宅のように限られた空間内でもできる趣味を持っているかどうかも大切だ。僕は自宅を含む近隣のほぼ全ての家が庭を有する、田園地帯に住んでいる。

また一日中読書をしていても一向に飽きない。幸い同居人の妻も読書好きで、読書の間は会話が途切れるという、彼女にとっての不都合を苦にしない。外出ができないロックダウン中の日々の大半を、僕らは読書をして過ごした。

在宅時の僕の別の趣味は野菜作りと料理である。だがコロナ禍が最悪だった頃は、不安もあって菜園には足が向かず、料理も普段以上に気を入れることはなかった。妻がいつもよりも多くキッチンに立ったことも原因だった。

ブログその他の文章を書くことでも少なからず時間が潰れた。結局、一日が30時間ほどあっても問題ない、と思えるくらいに充実した日々がほとんどだった。

そうはいうものの、それならば再びロックダウンがあっても同じように楽しむか、と問われればあまり自信はない。自宅待機は構わないのだが、外出をして騒ぎ遊ぶ時間がない事態はもうたくさん、という気分だ。

それは個人的な資質の問題である。テレビ屋の僕は、ロケやリサーチや会合でスタッフを始めとする多くの人々に会い、騒ぎつつ仕事を進めるのが好きだ。その一方でひとり孤独に本を読み書き物などをすることもいとわない。動と静が交互に入れ替わるのが僕の生活パターンである。

ことしはロックダウンのおかげで数ヶ月にも渡って静の時間ばかりが過ぎて行った。ところがロックダウンが終わった今も、動の生活パターンはまだ十分には訪れない。そろそろ外出をし、騒ぎつつ遊び、仕事をしたい、というのが正直な思いだ。

だがそれだけが動の時間を待ち望む理由ではない。ロックダウン中はイタリア内外の友人らとビデオ電話を交わし合い、オンライン飲み会なども楽しんだ。しかし、ロックダウンが終わった今は、バーチャルなそれらの邂逅は終わりにしたい。

そして以前のように人々と実際に顔を合わせて歓談し、飲み、食べ、騒いで共に人生を楽しみたいと思う。ところが同時に、僕の中にはそれを億劫がる心も育っている。誰にも会いたくない気分もするのだ。

僕はロックダウンを通して、人に会わずに生きる時間の愉快を知ってしまったのだ。

少しまずい兆候である。他者に会うことを面倒くさがるようでは気持ちは沈むばかりだ。コロナめに心を折られて人生を棒に振ってはたまらない。気をつけよう、と自らを鼓舞しつつ、それでも秋から冬にかけての再びのロックダウンや外出規制にも備えようと気を配ったりもしている。

そうした個人的な感慨とは別に、自宅から一歩も出られないほど過酷で長いロックダウン体験がもたらした、人々の心理の綾や変遷また心の陰りや逆に光明、といったこともひどく気になる。自分を含む人の心のあり方がコロナ禍で一変したのであれば、それは新型コロナの行く末と同じくらいの重大事案だと思うからである。


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続:日本はすぐに厳しい規制の準備をするべき

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イタリアがふいに新型コロナに襲われて、外からの援助も一切ないまま世界一のコロナ地獄の中で呻吟していたころ、僕は「日本は即刻、イタリアの轍を踏まない準備に走るべき」というタイトルの記事で故国の注意を促し、その後もことある毎に国の外から見た意見や感想を述べてきた。

イタリアは最悪の状態を「いったん」抜け出して落ち着いている。ところが深刻な危機には陥らなかった日本は、小休止のあと、思いがけなくも第2波の到来か、と誰もが不安になるほどの感染拡大の時間を迎えている。

僕は個人的に第2波は必ずイタリアも日本も襲うと考えてきた。だからそれがやって来たらしいことには驚かないが、イタリアの前に日本が第2波に見舞われるなら少し意外な感じがしないでもない。

日伊双方はロックダウンを解除して―「緊急事態宣言」 というのは同調圧力を罰則とする日本式ロックダウンである―社会経済活動をほぼ通常に戻した。従って今は国民の感染防止策への気の入れ方と責任ある行動の有無が結果を左右する。

そして3密を意識して国民が慎重に動くという観点では、イタリアよりも日本のほうがはるかに国民の意識が高く信用できる。それなのに日本が先に第2波に襲われるのは、イタリアが2月21日を境に突然コロナ地獄に落ち込んだ事件と同じ、とまでは言わないが結構な驚きだ。

2020年7月19日現在の感染状況は、イタリアよりも日本のほうが深刻である。数字で言えば7月19日の日本の新規感染者数は662人、一方イタリアのそれは249人。ここしばらくは常に日本の新規感染者数が多い。しかも一日あたりの検査数は依然としてイタリアが勝っているので、数字のギャップはさらに大きい可能性がある。

しかし数字の現況はほとんど意味を成さない可能性もまたある。イタリアが全くふいにコロナ感染地獄に突き落とされた2月21日、国内の感染者はたった3人だった。そのうち2人はイタリア旅行中の中国人夫婦。もう1人は武漢から政府専用機でイタリアに帰国した56人のイタリア人のうちの、若いイタリア人男性。3人はローマで隔離されてほとんど何の問題もなかった

一方、日本は当時、クルーズ船乗客を含めて80人前後の感染者を抱えていた。日本のほうがはるかに深刻に見えた。しかし、周知のように情勢は一気に逆転し、イタリアは2月21日を境に文字通り世界一のコロナ地獄国へと転落。片や日本は感染者数も死者数も少ない幸運な国のひとつであり続けている。

だが7月後半の今は、東京を筆頭に日本の新型コロナ感染者が急速に増えている。それは第2波の襲来か否かという観点ではなく、第1波が継続していて人の移動が活発になるとともにウイルスの活動も旺盛になった、と言うほうが正しいのではないかと僕は考えている。

第2波の襲来と言うと、あたかも日本がウイルスを一度押さえ込んだように聞こえる。また実際にそう考える人も多くいる。これまで感染爆発が起きなかった事実や死者数が極端に少ない点などを勘案すれば、そう捉えることもできるかもしれない。

だがCovid-19による死者が少ないのは―あくまでも個人的な感想で専門的知見によるものではないが―日本の対策が効を奏したからではないと僕は思う。また結核ワクチンBCGの接種の影響や日本人が過去に新型コロナに類似したウイルスに感染して免疫を得た説など、専門家の見解もいくつか出回っている。だがどの説も科学的に証明されてはいない。

単に日本が運が良かっただけ、という考え方もある。その可能性は50%ほどの確率でありそうに見える。ともあれその不思議については、今後科学的な究明が進むだろう。大きな謎が科学の分野で残るわけだが、コロナ対策をめぐる日本の政治もそれに負けないくらいに大きな謎だ。

つまり、感染拡大を押さえ込むよりも、国民の社会経済活動、特に経済活動を優先させたい政治の思惑ばかりが堂々とまかり通るのが不思議だ。それは決して経済を無視して言うのではない。経済は重要だ。経済困窮で死者が出かねないという議論さえも理解できる。

だが経済をうまく回しつつ感染拡大も防ぐ、というのは世界中のあらゆる国が掲げる理想ながら、これまでのところ誰もそれに成功していない。日本政府は本気でそれに挑む覚悟と知恵をもっているのだろうか?僕にはとてもそうは見えない。覚悟も知恵もおざなりだ。

アメリカは再選を目指したいトランプ大統領の思惑で経済優先策が取られ、コロナの感染拡大と死者の山が築かれている。またブラジルではボルソナーロ大統領が、アメリカよりも強権的な手法が取りやすい政治土壌をいいことに、経済ファーストと叫んでやりたい放題に振舞って、これまたアメリカ以上の惨状を招いている。

一方日本では、経済の専門家といえば聞こえがいいが、金の計算に余念がない守銭奴の専門家や御用学者らが、例によって世界の情勢を見ようともせずに、日本の経済の落ち込みばかりを言い立てて社会不安をあおる。

そんな折に専門家に輪をかけた拝金主義者の政治屋がよってたかってさらに日本社会の強欲度をあおり、経済の効率を高める政策のみを推し進めようと画策する。経済が停滞すればCovid-19による死者よりもはるかに多くの国民が死亡しかねない、とさえ彼らは主張する。

それには一理あるが、経済不安のみを一方的に強調する論はまやかしだ。日本はコロナ禍に見舞われている世界の国々の中では、経済的にはきわめて恵まれている。日本の経済的な傷は浅いのだ。たとえばここイタリアを見れば良い。コロナの猛襲を受けて前代未聞のロックダウンをかけたこの国の経済は壊滅的な打撃を受けた。

イタリアはもともとG7国の中では最悪の経済状況に悩まされてきた。そこにコロナ禍がやって来て経済はいよいよ落ち込んだ。だがそれは多かれ少なかれ欧州の全ての国に当てはまる現実だ。イタリア以上の落ち込みを見せるのは、10年前の欧州ソブリン危機の後遺症に悩むギリシャやスペインなどに限られはするものの、英独仏の経済大国でさえも巨大なダメージを受けたのだ。

アメリカでさえ経済危機に陥っている。それらに比較すれば日本の状況ははるかに良いのだ。自粛という名の下に社会経済活動に規制をかけた日本では、経済活動が完全にストップすることはなかった。経済はむろん落ち込んだ。だがもう一度言う。日本経済は世界の中ではとても幸運な部類に入っている。

少々の経済の停滞や空腹が国民に死をもたらすことはない。日本は経済の停滞と結果としての国民の少しの空腹でさえも覚悟で新型コロナの封じ込めに専心するべきだ。日本は以前、それを怠った。少なくともPCR検査を徹底しなかったことで、市中に潜むおびただしい数のウイルス、即ち無症状の感染者を見過ごした可能性がある。それが現在の感染者の増大につながっているのかもしれないのだ。

死者が少ない日本の現実は幸いだ。そのわけは今後科学が解き明かすだろう。それは胸がわくわくするほどの好奇心を誘う謎だ。だが今このときは、その幸運をうまく利用して経済を伸ばすことではなく、「幸運を利用して幸運をさらに強化する」方法を考えるべきだ。つまり、さらなる経済の落ち込みを覚悟しての感染防止策を採ることだ。

早く言えばロックダウンかそれに近い厳しい規制を導入する覚悟を決めること。むろん日本式ロックダウン即ち「緊急事態宣言」でも構わない。国民の自粛に頼る手法は、日本社会の後進性、未開性を端的にあらわすもので不快だが、背に腹はかえられない。

1918年に始まった「スペイン風邪」の大流行時には、アメリカ国内の都市のうちロックダウンを素早く強烈に長期間行ったところほど、パンデミック終結後の経済回復が早かった、という研究もある。時代も経済状況も違うものの含蓄に富む内容だ。だからという訳ではないが、僕はここでも前回と同じように「日本政府は断固とした政策を取れ」と主張したいのである。



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コロナ第2波がすぐそこに見える


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イタリアが世界一のコロナ地獄におちいったのは2月。寒いころだった。コロナ地獄は3月、4月と悪化し5月になって少し落ち着きを見せた。イタリア政府は5月から段階的にロックダウンを緩和し、6月には全面的に解除した。

7月の今はコロナの勢いは衰えたように見え、国内の社会経済活動がほぼ普通に戻った。だが新規の感染者は恒常的に発見されていて終息には程遠い。それどころか個人的には僕は第2波の襲撃は不可避と考えている。

新型コロナウイルスは第1波が去って第2、第3波が来るあるいは来ない、と語られるのが普通で僕自身もそう表現してきたが、実はそれは誤りで、コロナは常にそこにあって密かに増殖、つまり感染拡大を続けている、というのが正しいのではないか。

イタリアは世界最悪のコロナ禍中にいた2~3月、また4月の悪夢を経て、第1波が去り次の攻撃を戦々恐々としながら待っている、と多くの人が考えている。だが、死者数こそ減っているものの、新規感染者はひっきりなしに発見されて累計の感染者数は確実に増えている。「第1波が去った」とは言えないように思うのだ。

日本の状況も欠かさず見ているが、イタリアよりも新規の感染者が多い状況は、やはり第1波の終焉や第2波の始まりと言うくくりよりも、コロナが常にそこにあって密かに宿りを広げている、と見たほうがいいのだろう。

2020年7月17日の状況は、イタリアよりも日本のほうがより深刻な危機にあると見える。イタリアの感染者は世界でもトップクラスの検査数の結果として出ているが、日本の検査数は以前よりも増えたとはいえ多くの国々に比較すると相変わらず少ない。それにもかかわらずにここ最近は、イタリアを上回る数の感染者が出続けているのだ。

古くて、だが常に新しい問いだが、日本の実際の感染者はやはりはるかに多いのではないか。死者数が極端に少ないことと、無症状の感染者が全体のおよそ半数にも上る、とされる新型コロナ感染の実態が現実を見えにくくしているのではないか、という疑念がどうしてもつきまとう。

2020年7月17日現在の日本の感染者数は前日比623人増である。230人の新規感染者が見つかったイタリアよりもかなり多い。このまま増大しつつければ感染爆発という状況もあり得る。これまで危ない危ないと言われながらも感染爆発が抑えられてきた分、日本国内にいる人々はきっと不安だろう。

しかし、ここイタリアにいてコロナ禍に「突然」且つ「深刻に」襲われ、どこからの助けも受けられないまま恐ろしい日々を過ごした体験を持つ者には、感染爆発が来ても―言うまでもなく来なければそれに越したことはないが―恐るるに足らずという思いもある。イタリアのように医療崩壊さえ起こさなければ、苦しい中にも救いはあると考えるのだ。

当時のイタリアの恐怖を今このとき味わっているのは、おそらくインド、パキスタン、イランほかの中東諸国、またブラジルとペルーに代表される南米各国などだろう。医療体制が脆弱なそれらの国では、先進国でありながら医療崩壊に陥った際のイタリアの絶望感と恐怖に似たものを実体験しているのではないか、と容易に推察できる。

独裁国家の中国を除けば世界一過酷とされた、イタリアのロックダウンの日々はまだ記憶に新しい。そしてあの日々はきわめて高い確率でまたやって来る、と僕はどうしても思ってしまう。たとえあれほど厳しい規制の日々ではなくても、移動制限をはじめとする統制が導入される日が近い将来必ず来ると考えるのだ。なぜか。

ロックダウンが緩和されて以降、3密への警戒はおろかマスクさえきちんと付けない人々が、海で山で街中でまたレストランをはじめとするあらゆる歓楽施設で、集まり寄り添い顔を突き合わせて歓楽に余念がないからだ。ウイルスにとっては絶好の増殖機会だ。

また、2月から5月初めまでのすさまじい感染拡大は収まってはいるものの、暑い夏に入ってもイタリアの新規感染者はゼロではない。ゼロどころか、既述のようにコンスタントに発生している。7月に入ってからも新規感染者の数は毎日100人以上300人未満の間で推移しているのだ。

僕は大げさにならない程度の分量と頻度で、ロックダウンに備えて少しづつ食料や生活必需品の買い置きを進めている。昨年3月に受けた狭心症の手術が、新型コロナの猛威の前にふいに大きなハンディキャップとなって僕の心身にのしかかかってきた。

還暦を過ぎた僕は、むろん若くはないがまだまだ死ぬわけにはいかない、と感じている。やるべきことが多すぎるのである。いや死ぬのはいい。だが、コロナごときで死ぬのはどうにも癪にさわる、というのが正直な気分である。




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渋谷君への手紙~中国は有罪で無罪です


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『 渋谷君、

君が僕のかつての記事「COVID-19の今を斬る~ 中国は有罪?無罪?」を読んで僕の意見に疑問を呈してから大分時間が経ってしまいました。返事が遅れたことをお詫びします。君は僕が中国を全面的に否定しないのが不満でしたね。僕の言い方が煮え切らない形に見えたのでしょう。

中国が先日、「香港国家安全維持法」を強引に成立させ施行して、自由香港の終わりが来たとさえ言われる横暴が現実のものとなりました。香港の人々の深い失望と無力感が、ひしひしと僕の胸に伝わってきます。

僕が中国を牛耳る中国共産党と首魁の習近平主席を「ほぼ全面的に」否定しながら、中国国民には罪はないと敢えて付け加えることが多いのは、中国国内にはまさにこの香港人と似た立場の国民が少なからずいると考えるからです。香港に加えて台湾の人々も同じ脅威にさらされています。

民主主義国家の場合、時の政権はまがりなりにも国民の意志によって形成され存在しています。国によって民主主義の成熟度に差があり民主主義体制自体も不備な点が多々あるために、問題は尽きることがありませんが、われわれは今のところ民主主義に勝る政治体制を発見していません。

そして民主制はその多くの欠点にもかかわらず、王制や貴族制や君主制などの過去の遺物的な政治体系、また専制や独裁制や全体主義などの近・現代の強権政治構造と比較して、はるかに開明的な仕組みです。むろん一党独裁の中国など問題にもならないほどの優れた政治システムです。

しかしながら、民主主義の優位性にもかかわらず、中国一党独裁国家は特に経済発展というコンセプトでくくって眺めると、あるいは民主主義と不可分の資本主義よりも効率的ではないか、という疑問を抱かせるほどに成功しています。中国独自の「社会主義市場経済」の不思議ですね。

欧米や日本などの先進国は、貧しかった中国を経済的に援助し続けることで彼の国を甘やかし過ぎました。そして中国が経済大国になった今、それらの先進国と世界は、往々にして成功した中国に遠慮し恐れさえして、中国はますますつけ上がる、という構図が出来上がってしまいました。

経済大国とはいえ中国には、民主主義国家に当たり前の基本的人権の保障、すなわち言論と表現の自由、法の下での平等と保護、集会結社の自由、宗教の自由などは皆無です。中国の都会に住んで働く農民工が、決して都市戸籍を得られず、死ぬまで農民のままでいなければならない仕組みなどを勘案すれば、職業の自由さえない、とも言えます。

中国における権力は、習近平氏を頂点にした共産党員によって独占されて、かつての王や専制君主並みかそれ以上の強権によって民衆はがんじがらめに縛られ統制され抑圧されて生きています。それでも権力に近い国民は、普通に権力に守られあるいは権力の便宜を受けて、特権階級となります。

またそれらの特権階級の係累や傘下にある人々も恩恵にあずかって生活水準が良くなったと感じ、権力を大いに支持します。そこには知識人や文化人やインテリ層や専門家集団、また富のおこぼれにあずかって喜ぶ無数の一般大衆などがいます。

彼らは全員が共産党支配を善しとし、中国が何事も世界で一番の国と思い、そう行動します。中には共産党の強権体制の弊害を知り、民主主義体制の長所を知りつつも、自分が特権の恩恵を受け続ける限り何も問題はない、と考える者もいるでしょう。

また思想統制、情報管理、洗脳教育などによって、一党独裁の現在の中国が最善の政治体制と“信じこまされている”無知蒙昧な民衆もいます。彼らは共産党員ではなくても、中国こそ善、中国こそ世界をリードする国、中国万歳、と叫んで排外主義を身内にはぐくみ募らせます。日本のネトウヨ系排外差別主義者らと同じ類の民衆ですね。

君がいつもの君らしくなく「中国人は誰もが独善的」と非難するのは、もしかするとなにかのはずみでそんな類の人々にしか出会っていないからではありませんか?だが一般化は禁物です。僕もそういう人たちを知っていますが、同時にそうではない中国人にもかつて住んでいた英米で、またここイタリアでも多く出会っています。

巨大国家中国には、民主主義体制下における言論、思想、移動行動、教育、政治行為など、全ての自由を知りつつ、それを享受できない、これまたおそらく「無数の」という形容詞を使っても許されるほどの多くの国民がいます。悲しいことに香港や台湾の人々も、近い将来この階層に組み込まれる可能性があります。

そうした人々の存在は、反体制運動家の逮捕や抑圧の現実、チベットの状況、ウイグル族への弾圧など、われわれ自由主義世界の住民にも漏れ伝わってくる断片的な情報で知ることができます。が、実態は判然としません。なぜか。まさに中国が独裁国家であり情報統制を最重要の命題と位置づける警察国家だからです。

強権体制の犠牲になっている国民がいて、前述の如く犠牲になっていることにさえ気づかない無知な民衆がいます。ただ「自らが抑圧されている」と気づくためには情報がなくてはならない。無知な大衆は、「比較する情報」が不足していると政府の非にも気づけないことがよくあります。

だから習近平主席が引っ張る共産党独裁政権は、情報を遮断しまた操作して、民衆をできる限り知の光の届かない暗闇の中に置こうと躍起になります。知の闇の中の人々も、積極的に習近平とその周りの権力に加担していない限り、全て「共産党の犠牲者」と僕は考えています。

繰り返しますが、民主主義体制下では政治権力は国民の意志によって作られています。従って一国の責任は国民全体の責任、とも捉えることができる。政権に反対する国民は、あるいは自らには責任はないと主張するかも知れません。だが、それは間違いです。彼にも責任はあります。

なぜなら彼は現行の政権下では不利益をこうむっているかもしれないが、次の選挙で彼に利益をもたらすと考えられる政権を選ぶことができるからです。言うまでもないことですが民主主義国家には選挙によって政権が変わるという一大特徴があります。国民は政権を選ぶ可能性を有することで、巨大な政治的自由を享受しています。

一党独裁国家中国の国民にはその自由がない。自由どころか彼らの多くは政治体制の犠牲者です。また彼らは習近平率いる独裁政権の樹立にかかわっていません。かかわることを許されていない。だから彼らには中国共産党に科せられるべき罪はないのです。民主主義国家との大きな違いはそこにあります。中国政権と民衆を僕がいつも切り離して考えるのはそれが理由です。



以上
                                   それではまた 』



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毒をもって毒を制す~“香港国安法“と「習&トランプ」 


ドア蹴るトランプ切り取り拡大400


今このとき、地球上に無いほうがよいもので、だが価値が無くはないものの代表例が二つある。即ち:トランプ政権&ドナルド・トランプ  また 中国共産党政権&習近平である。

もう少し詳しく言えば:

今このとき無いほうが良いものは、トランプ政権&ドナルド・トランプと中国共産党政権&習近平。同時に今このとき価値が無くなくはないものは―謎解きのような言い方だが―トランプ政権&ドナルド・トランプと中国共産党政権&習近平である。

中国が「香港国家安全維持法」を強引に成立させた。宗主国だったイギリスとの間に交わした、「50年間は香港の高度な自治を認め一国二制度を堅持する」とした約束を、中国はいつもの伝であっさりと破った。

約束を破り、嘘をつき、且つ臆面もなくそれを言いつくろい、自らが正しいと詭弁を弄するのが中国のお家芸だ。そして腹立たしいことに中国の横暴に世界はほぼ無力だ。

米トランプ大統領は、中国への抗議の意味で、香港に認めている経済優遇措置を廃棄した。だが彼の制裁処置など中国は屁とも思っていないのではないか。ここ数年の米中経済対立を見る限り、中国はトランプ大統領の攻勢には一歩も引かない強い意志を見せている。

かつての貧しい弱体な中国からは考えられない展開だ。むろん中国は経済的には苦しいに違いない。が、しかし、14億余の国民を習近平独裁機構の意のままに―生き死にを含めて―動かせる強みを背景に、米国に対峙している。

経済が死するならば14億余の民を餓死させればいいのだから、たとえ経済で引けをとっても、彼ら習近平独裁機関は最終的には米国には負けない、と考えているようだ。

一方、国内でも対外政策でも嘘をつき、次にはそれを糊塗しようと躍起になり、さらなる嘘をついて強弁を繰り返すトランプ政権は、中国共産党政権とほとんど同じ程度に信用に値しない代物である。

だがそれでも、トランプ政権は存在したほうが良い。なぜなら中国に遠慮会釈なく噛み付き、敵対してはばからないのは、世界ではトランプ大統領のみだからだ。

ポリコレなど一切お構いなく中国を“口撃”する彼のレトリックは、宣伝効果もあってそれ自体は小気味良い。米中以外の世界の全てが、中国共産党に遠慮しすぎている昨今は特に。

だが11月の大統領選挙で民主党が勝てば、アメリカは再び中国に対して弱腰になるだろう。民主党のバイデン候補は「当選したら中国に厳しく対する」と公言しているがあまり期待できない。

アメリカも世界も、中国にはもはや甘い顔をするべきではない。これまでの民主党のやり方では決して中国に対抗することはできない。いや、共和党もトランプ的強硬姿勢で臨まない限り、中国を封じ込めることはできないだろう。

「香港国安法」ゴリ押しに象徴されるナラズモノ国家の中国では、しかし、習近平主席と彼の独裁体系が今のまま権力を握って好き放題をしているほうが良い。なぜならそれがもう一方のナラズモノ組織、即ちトランプ政権に太刀打ちできるほぼ唯一の世界レベルのパワーだからだ。

つまりアメリカと中国、そして 習近平とドナルド・トランプは、地球上に存在しないほうが世の中のためになるが、今この時点ではお互いになくてはならない存在だ。「毒を持って毒を制する」ために。

究極には、トランプ政権も中国共産党政権も消えてなくなったほうが良い。それも必ず「同時に」である。それでなければどちらか一方のナラズモノ政権大国がのさばることになって、世界は将来「新型コロナ危機」並みの憂鬱を抱え込むことにもなりかねない。





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