【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

ロックダウンのジレンマ


伊アルプス紅葉 700

10月28日、フランスとドイツがほぼ同時に全土のロックダウンを発表した。

フランスは10月30日から12月1日まで国民の移動を厳しく制限する。国民は食料などの生活必需品を購入したり病気治療などの場合に限り、証明書を持参したした上で外出が許される。それ以外は自宅待機しなければならない。ただし、在宅勤務が不可能なケースでは出勤が認められる。レストランやカフェほかの飲食店また生活必需品を扱わない全ての店は閉鎖。一方で学校
は通常通りに授業が行われる。

ドイツのロックダウンは11月2日から一ヶ月間実施。フランスよりはゆるやかな規制が課せられる。それでもレストランほかの飲食店、映画館や劇場またスポーツジムやプールなどが全て閉鎖される。国民は不要不急の外出や旅行を自粛し、ホテルの宿泊は仕事で出張する場合に限り許される。サッカーなどのプロスポーツは無観客でのみ開催。学校はフランス同様に閉鎖しない。従業員50人以下の企業には、昨年11月の売上高の75%を一律に支給する、というのがいかにもドイツらしい。

2国の措置は爆発的に増える新型コロナの感染を抑えるためであることは言うまでもないが、ここからほぼ一ヶ月の辛苦を経てクリスマスが控える12月に規制を解除したい、という思いが込められている。ほとんどがキリスト教国である欧州にとっては、クリスマスは経済的にも文化的また社会的にも、さらには心理的にも極めて重大なイベントだ。そこではなんとしてもロックダウンを避けたいのである。

2国の措置は同時に、3月のロックダウンよりもゆるやかだ。ましてや世界一厳しかった3月-4月のイタリアのロックダウンに比べるとさらに生ぬるい。各国がロックダウンを解除した後の、6月から9月頃にかけての欧州のコロナ状況を振り返ると、イタリアの厳格なロックダウンのみが感染拡大を抑止できていたことが分かる。

従ってイタリアと比べた場合の、フランスとドイツのいわば「準ロックダウン」がどれほどの効果をもたらすかは未知数である。それでも行動を起こさなければ独仏両国の感染爆発は制御不能になる、とメルケル首相とマクロン大統領は判断した。そのこと自体はむろん正しい見解であるように見える。

第1波で奈落に落ち、過酷なロックダウンによって危機を脱したイタリアも、独仏英またスペインなどの後を追いかけて再び感染拡大の危険にさらされている。イタリア政府は娯楽施設の閉鎖とレストランほかの飲食店の営業を午後6時までに制限するなどの対策を取っているが、そうした措置への抗議デモと同時にさらなる規制強化を求める声も強まっている。

どちらの主張にも理がある。働かなければ生活が成り立たないという真実と、規制をかけなければ感染拡大が止まない、という真実がぶつかりあっている。経済社会活動が完全にストップするロックダウンを避けながら感染も抑制するためには、つまり-少なくとも有効なワクチンと治療薬が開発されるまでの間は-ある程度の経済社会活動の停滞と相当数の感染および犠牲者を受け入れる道しかない、ということなのかもしれない。



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イタリアの暴力とアメリカ政治に通底するもの

Nuova italia の暴力抗議10月24日からの週末650

イタリア政府は10月25日、翌26日(月)からレストランや飲み屋などの営業を午後6時までに制限し、映画館や劇場またスポーツジムやプールその他の人の集まる事業所を少なくとも11月24日まで閉鎖すると宣言した。

これを受けて10月26日、飲食店が閉まる午後6時丁度を期して、北部のミラノやトリノ、首都ローマ、南部のナポリなどの大都市を中心に抗議デモが発生した。そのうちの一部は暴力を伴う激しいものになった。トリノではグッチやルイ・ヴィトンなどの有名店が破壊された。

抗議デモはレストランや飲み屋のオーナーや従業員また彼らに同情する人々によるものだった。ところが平和的な彼らのデモはふいに暴力的になった。警察によると破壊行為を含む暴動を主導したのは、イタリア極右中の極右政党「新しきイタリア」のメンバーや組織犯罪集団の「カモラ」。

組織されたそれらのグループに、不満分子の外国人や犯罪者またアナキストなどが加わって暴力化。火炎瓶が投げられ、爆竹が炸裂し、火のついた発炎筒から色つきの煙が吹き上がる騒ぎになった。便乗した者らは前述の高級店などの押し入った。

再び警察の発表によると、極右政党「新しきイタリア」は政府の新型コロナ対策に反対する抗議活動を計画実践しており、10月24日にもローマで暴力デモを行った。ナポリでの暴動は同地を根城にする犯罪結社「カモラ」が扇動したが、そこにも「新しきイタリア」がかかわった可能性がある。

新型コロナパンデミックを軽視し、感染防止のための規制策よりも経済活動を優先させろ、と叫ぶのは米トランプ大統領でありその信奉者たちである。彼らの言動やアクションはブラジルを巻き込み欧州にも伝播している。イギリスでもフランスでもドイツでもどこでも、コロナ感染防止策に異議を唱えるのは、主として極右のトランプ主義者らである。

極右勢力「新しきイタリア」が抗議デモを組織するのも、世界中を混濁させている米トランプ主義に煽られた結果だ。犯罪組織の「カモラ」やその他の暴徒は、世界的な政治潮流の恩恵やおこぼれに与ろうと群がったに過ぎない。

突飛に見えるかもしれないが、世界はよくも悪しくも-そしてトランプ主義がはびこる限りひたすら悪しき局面で-しっかりと結びつき絡み合い影響しあっている。言うまでもなく影響力は、超大国アメリカの権勢をバックに押し出されるトランプ主義のほうが圧倒的に強い。アメリカの動静が世界各地に波及するのだ。

その伝でいくと例えば、フランスのマクロン大統領が表現の自由を抹殺しようと試みるテロリストを糾弾するのを見て、トルコのエルドアン大統領が「マクロンは精神を患っている」、と脳みそを患っている未開人そのままのコメントを口にするのも、世界の一部を席巻するトランプ主義とコロナ禍が結びついた一大悪風の影響なのかもしれない。


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コロナ第2波入り口の欧州事情~イタリアでは規制に抗議するデモも


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イタリア政府はコロナ感染拡大第2波のうねりに対抗して、レストランや飲み屋やカフェの営業を18時までとする命令を出した。するとこれに反対する店のオーナーや従業員や共感者が北部のミラノやトリノまた南部のナポリなどで抗議デモを行った。このうちトリノでは一部が暴徒化して通りの店を壊すなどした。

イタリアは第1波で惨劇に見舞われ、レストランなどの飲食業や宿泊業また観光業の全体が手酷い被害を蒙った。ロックダウン(都市封鎖)が解除された後、それらの業界は少しの回復を見たが全面復興には程遠い状況。そこに第2波とそれを受けての厳しい規制がきた。悲鳴を挙げた彼らは通りに飛び出して抗議行動を起こした。

だが彼らの異議は、日本を含む一部の外国メディアが、あたかも激しい暴力行為を孕んだ動きのようなニュアンスで伝えた内容ではない。彼らは基本的に政府の管制を受け入れている。苦しい立場を明らかにしてできれば補償や援助を引き出したい、という胸の内が見て取れた。第1波の地獄を体験したイタリア国民は、厳しい規制だけがコロナの感染拡大の歯止めになることを知っている。

第2波の勢いがイタリアよりもはるかに深刻なフランス、スペイン、イギリスなどの欧州主要国と多くの周辺国では、ロックダウンも念頭に置いたさまざまな制限が導入され始めている。

例えば累計の感染者が120万人を超えて欧州最多となったフランスは10月22日、パリを含む9都市で実施してきた夜間外出禁止令を、38の地域と南太平洋ポリネシアのフランス領にまで対象地域を拡大した。外出禁止措置は6週間続けられる。が、その前に全土のロックダウンが導入される可能性も高いと思う。

感染者数が欧州で初めて100万人を超えたスペインは、カナリア諸島州を除く全土を対象に緊急事態を宣言。夜間外出禁止令を発動した。また家族の集まりは公私を問わず6人までに制限する、という家族重視のカトリック教国らしいルールも布告した。同じカトリックの国のイタリアやフランスでも似通った束縛が課される。また各州はそれぞれが州を跨いだ住民の移動を禁止してもよい、という権限を付与された。

欧州で新型コロナの死者が最も多いイギリスは、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの各地域(国)が独自のコロナ対策を敷く。加えてミニ・トランプのボリス・ジョンソン首相が独断と思い上がりが濃厚な施策を取りがちなため、混乱が著しく感染拡大を止める有効な手段がない。

例えばイングランド北西部のリバプールなどではパブやバーが終日閉鎖されているのにレストランや商店の営業は認められていたり、南西部の ウェールズでは午後6時以降に飲食店が一斉に店を閉める「ファイヤー・ブレイカー」という規制が強制されていたりする。統一性がないことがイギリスの感染拡大を後押ししている、という見方もできそうである。

ドイツはコロナ対応でも例によって優等生振りを発揮している。それでも1日の感染者が過去最多を更新するなど感染者が急増していて、伝統的なクリスマス市場の開催を取りやめる動きが全国で拡大している。

メルケル首相は地域限定のロックダウンを計画していると見られている。ロックダウンは全土で全面的に実施しなければ効果がない。だが日本同様にお上に従順で四角四面な国民が多い同国でなら、あるいは意外にも高い成果が期待できるかもしれない。

またギリシャは首都アテネなどに夜間外出禁止令を出し、オランダはバーやレストランを閉鎖。ベルギーの首都ブリュッセルでは、商店の営業は午後8時までに制限され、スポーツジムやプールの営業も禁止されている。

人口1000万人に過ぎないチェコは、10万人あたりの新規感染者数が欧州で最悪。いわば日本の沖縄県状態である。厳格なマスク着用令が敷かれ、自動車内でさえマスクを付けなければならない。また10月22日からは店舗などが閉鎖され、移動の自由も大きく制限されて食料の買い付けや病気以外での外出は厳禁となっている。




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鳴り響くロックダウンへの警鐘


うつむき加減の人々


10月23日、イタリアの新型コロナ新規感染者数は1万9134人。ちょうど1週間前に1万人に達し(1万10人)、以来ほぼ倍増した。累計の感染者数は10月24日現在、48万4869人である。

これを受けて、イタリアの第1波の感染爆心地のロンバルディア、それに隣接するピエモンテ、また首都ローマがあるラッツィオ、ナポリが州都のカンパーニア、カンパーニアと同じ南部のカラブリアの五つの州が午後11時から翌朝5時までの夜間外出禁止令を発動した。

このうちカンパーニア州のヴィンツェンツォ・デルカ知事は、即座に全土の封鎖、ロックダウンを要請。一方でロンバルディア州のアッティリオ・フォンターナ知事は、第1波時のロックダウンで蒙った経済社会活動の打撃を繰り返すべきではない、と主張。

第1波ではためらうことなく全土封鎖に踏み切ったコンテ首相も即座のロックダウンには慎重な姿勢。だが将来の全土封鎖の可能性は排除していない。

第1波で導入されたロックダウンによる経済破壊と、国民また社会全体の疲弊を思えば、ロックダウンは避けるべきだ。だがコロナの感染拡大を止める有効な手段は全土封鎖しかないのも事実。

累計の感染者数が、イタリアの2倍以上の100万人を超えたフランスとスペインの状況はさらに深刻だ。フランスは首都パリを含む9都市に課した外出禁止令を38地域に拡大。人口6700万人のうち約3分の2に当たる4600万人が規制の対象になる。

スペインは首都マドリードで部分的ロックダウンが行なってきたが、全国的な厳しい規制は導入されていない。政権が少数与党であるため統一した政策が取れないのだ。ペドロ・サンチェス首相は、スペインの感染者の実数は300万人以上だろうと述べ、危機感を募らせている。

EUから離脱はしたものの、欧州の一部であるイギリスの感染拡大も続いている。ドイツもまたその他の国々の状況も深刻化の一途をたどっている。部分的な移動規制や外出禁止令は当たり前になり、多くの国が全土のロックダウンを視野に入れるようになった。が、全土封鎖の結果の凄まじさを知るだけに、どの国も必死でそれを避けようと動いている。


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茶番劇の凄み~米大統領選討論会~ 


向かい合う2人色違いnewsweek

イタリア時間の10月23日午前3時、米大統領選におけるトランプvsバイデンの第2回で最後の討論会が始まった。前回第一回目の討論会は、およそ討論とは呼べない両候補間の非難の応酬と、お互いが相手の話に割って入る蛮人の咆哮に終始した。

それを受けて今回は、項目別の討論の冒頭2分間は発言する側の相手のマイクをオフにする、という異例の処置が取られた。その策はうまくいった。両候補は冒頭の2分間ばかりではなく、全体的に抑制のきいたしかし強い姿勢で互いの主張を展開した。

根拠のない個人攻撃はむろんあった。例によってそれはトランプ候補の側に多かった。これは人格の問題だからある程度予想できた。いうまでもなくバイデン候補は聖人だったわけではなく、彼もまた醜い人格攻撃を行った。しかし、先制攻撃をするトランプ候補への反撃、という側面が強かった。

アメリカまた欧州の日々の報道を見ている僕のような者にとっては、両者の政策論争には目新しい点はなかった。政策とはかかわりのない個人攻撃の中身も同じ。玉石混交の大手メディアやネット情報サイトが繰り返し言及し、本人たちも口にする内容があふれ出ていた。そのうちから敢えて例を挙げておけば次のような事案だ。

新型コロナパンデミックについてトランプ候補は、ウイルスを軽視した自身の大失策を棚に上げて「ウイルスがアメリカに被害をもたらしたのは中国のせいだ。私のせいじゃない」と鉄面皮に言い放ち、パンデミックはまもなく終わる、ワクチンも数週間のうちには出来上がる、アメリカ国民は“ウイルスと共に生きる”ことを学んだ、などとも発言した。

それに対してバイデン候補は、22万人以上のアメリカ人が新型コロナで死んだ。それはトランプ大統領の責任だ。国民をそれだけ多く死なせておいてなおかつ大統領職にとどまるのは許されない。アメリカ人はウイルスと共に生きているのではない。“ウイルスと共に死んでいる”のだ、と厳しく批判した。

人種差別問題では、トランプ候補は「私はこの部屋にいる誰よりも人種差別をしない人間だ」と主張。バイデン候補は「この国には構造的な人種差別がある。あなたはアメリカの現代史で最も人種差別的な大統領のひとりだ。あらゆる人種差別の炎に油を注ぎ差別を鼓舞する犬笛を吹きまくる男だ」と指弾した。

北朝鮮についてトランプ候補は、私はキム・ジョンウン(金正恩)朝鮮労働党委員長と仲良しだ。外国首脳と良い関係を結ぶのは重要なことだ。北朝鮮との間には戦争も起きていない、と発言。一方のバイデン候補は、あなたが仲良しの北朝鮮の指導者は悪党だ。悪党を親友と呼ぶことであなたは北朝鮮を正当化し、彼にアメリカ本土まで届く高性能のミサイルを保有させるまでになった。キム・ジョンウンとの関係が良好だと吹聴するのは、欧州侵略前のヒトラーと仲良し、と自慢するようなものだと反撃した。

それに対してトランプ候補が、(あなたが副大統領だった)オバマ政権は北朝鮮の指導者と会うことはできなかった。私は良好な関係を築いて実現させた、と反論するとバイデン候補はすかさず、オバマ政権は北朝鮮と妥協せず厳しい条件を突きつけ続けた。だから交渉が成り立たなかったのだ、と一蹴した。

気候変動についてはトランプ候補は、パリ協定はアメリカにとって不公平であり、高い金を支払わなければならないから離脱した。何千万もの雇用や多くの企業を犠牲にするわけにはいかない、と主張。対しするバイデン候補は、世界中の科学者が指摘するように時間がない。問題に対応することで雇用を生むことができる。アメリカは5万ヶ所の充電ステーションを設置することなどで、世界の電気自動車市場で優位に立つことができる、と反論した。

またトランプ候補の脱税疑惑を取り上げてバイデン候補は、私は22年間ずっと納税記録を公表してきたが、あなたは一度も公表していない。一体なにを隠しているんだ、と追及。するとトランプ候補は、税理士が対応している。用意ができればすぐにでも公表するし、私はここまで何百万ドルも納税してきた、と反論。それにはバイデン候補が、あなたはもう何年も同じことを言っている。だが未だに納税記録を公表していない、と切り返した。

トランプ候補は、バイデン候補がオバマ政権の副大統領だった時代、本人や家族が外国から巨額の資金提供を受けていた、と裏付けのない主張も繰り返した。これに対してバイデン候補は、私はこれまで外国からただの一度も金をもらったことはない。人生で一度もない。私の息子や家族も一切不正はしていない、と言い返した。

ふたりの候補の主張は、前述したように欧米のメディアで取りざたされてきたものばかりだ。しかし、トランプ氏とバイデン氏が顔を突き合わせて論戦を張ると、それらの中身はまた違うものにも見えていた。そこにはトランプ氏の嘘と強弁と詭弁がてんこ盛りにされていた。それでも彼が選挙で勝利する可能性が十分あることが、今のアメリカの悲劇だと僕には見える。だがそれは僕が自動的に且つ積極的にバイデン候補を支持することを意味するのではない。

ネトウヨヘイト系排外差別主義者で人種差別主義者、かつ実体は白人優位論者でもあるトランプ大統領の登場で、それらのコンセプトの対極にある哲学を理想として追求する「未来のアメリカ」への僕の100年の恋は冷め果てた。米国民のひとりであるバイデン候補にもその責任の一端がある。それでもバイデン候補が打ち出し標榜する理念には、「未来の理想のアメリカ」のかけらが内包されていると感じる。そこで僕は2016年の米大統領選と同じく、「消去法」で、バイデン候補を応援する気分でいる。



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イタリアはコロナ感染抑制の「貯金」を使い果たしつつある


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英仏スペインを筆頭に進んできた欧州の新型コロナ感染拡大の第2波が、どうやらこれまで極めて静かだったイタリアも飲み込みこんでさらに勢いを増しつつあるようだ。

10月初めのイタリアの一日当たりの新型コロナ感染者数は2000人台だった。当時はそれは驚くほど大きな数字に見えた。ロックダウン解除後、イタリアの新規感染は低い水準で推移していたからだ。

ところがその数字は感染が急増していたスペイン、フランス、イギリスなどに比べると、とても低い水準に過ぎなかった。だがその後イタリアの感染者数は、3国をなぞるようにじわじわと増え続けた。

そして10月16日、ついにイタリアの一日当たりの感染者数は1万人を超えた。翌日も増えて1万925人が新たに感染した。また累計の感染者数も節目の40万人を超えた。

18日は日曜日にもかかわらず感染者数はまた増えて1万1705人に達した。週末は欧州のほとんどの国と同じようにイタリアの検査数も少なくなる。それでも新規の感染者数は減らなかった。

だが第2波が猛威を振るっているフランスでは、イタリアの感染者数が1万人に達する前の10月15日に、一日の感染者数が3万人を超えた。それを受けてフランス政府は、首都パリを含む9都市に夜間外出禁止令を発動した。

パリの街の灯がまた消えた。マルセイユ、リヨン、グルノーブル、 サン・テティエンヌなどの街の夜も漆黒に閉ざされる。規制期間は4週間。だが状況によっては延長されることが決まっている。

スペインとイギリスの感染拡大も続いている。10月15日、イギリスの感染者は1万8980人を数えた。スペインの毎日の新規感染者数も極めて多い。優等生のドイツでさえ間もなく1万人に迫る勢いである。

各国は感染拡大に伴ってさまざまな規制をかけ始めている。飲食店などの営業時間が短縮されバーやパブなどでの立ち飲みも制限される。ロンドン市内にある3600余のパブの多くは、今後の展開によっては倒産閉鎖に追い込まれる可能性がある。

またスペインのカタルーニャ州では、バーやレストランの営業が大幅に制限されテイクアウトのみが可能となる。さらにジムや文化施設またショッピングセンターや各種店舗では、それぞれ定員の50%まで、あるいは30%まで、と収容人数が制限される。

一方オランダでは、全てのバーやレストラン、カフェなどの店内営業が全面禁止。テイクアウトのみが許されることになった。さらに人々が各家に招待できる客の数は1日に3人までに制約される。

国民の辛苦を尻目にオランダ王室の家族はギリシャに休暇に出向いた。当然国民から強い怒りの声が沸き起こった。そのため愚か者の王室のメンバーがあわてて休暇を切り上げる、というハプニングもあった。

その他の欧州の国々、たとえばチェコ、ベルギー、ポルトガル、またポーランドなどの感染拡大も急速に進んでいる。第2波はもはや誰にも否定できない。

ここイタリアではさらに、一日の感染者数が1万1705人に膨れ上がった10月18日以降は、各市町村長が、地域の広場や道路を含む公共の場所を夜9時をもって閉鎖できる、とする政府の決定が告示された。

同時にバーやカフェなどの営業は、午後6時以降はテーブル席のみに制限され、各席の人数は最大6人まで、とも決められた。レストランの営業もそれに準じる。また公共交通機関の混雑を避けるために、各学校に時差登校を要請するなどした。

イタリアでは長く厳しい全土封鎖措置を導入したことが功を奏して、夏の間は感染が押さえ込まれてきた。日毎の死者数も3月から4月のピーク時の900人超から激減した。だが感染拡大はじわじわと進行しつづけた。

イタリアは最近、残念ながら第1波の過酷な犠牲によって獲得した感染抑制の「貯金」を使い果たしつつあるように見える。だが人々の中にしっかりと留まっている恐怖心が感染拡大を堰き止めるだろう。

たとえ思い通りに感染を抑制できなくても、3月~4月の感染爆発とそれに伴う医療崩壊への怖れ、と同時に最終的にはそれを克服した自信が相まって、イタリアは危機を上手く切り抜けるだろう。

切り抜けると信じたい。


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SNSの愉快


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SNSはFacebookも利用している。TwitterもあるがFacebookほどには重宝していない。Facebookの友達は多くない。増やしたいが方法が分からない。少ないFB友だが、ブログへの関心度を探る観測気球としては十分以上に役に立つ。

Facebookに投稿するブログ告知への読者の関心と、ブログそのものを読む(訪問する)読者の数はほぼ正比例する。Facebookで「いいね」を押した読者が必ずブログを読むとは限らないが、不思議なことにそこでの関心が高いとブログの読者も増えるのである。

いま言ったようにFB友は少ないので「いいね」もひどく少ない。しかし、例えばひとりの「いいね」と3人の「いいね」の間には既にかなりの違いがある。後者の記事は間違いなく前者よりも多くの読者がついている。

ところがたまに、Facebookでは全く反応がないのにブログの訪問者(読者)数がロケット並みの勢いで上昇することがある。一昨日と昨日がそうだった。上昇の勢いは弱まったが今日も読者が増えそうな気配がある。

読者が誰であるかは著者の僕には分からないが、Livedoorブログでは訪問者(読者)数と読まれたページ数はブログの管理欄で分かる仕組みになっている。早朝(日本時間昼間)にブログを開けると同時に雰囲気が伝わってくる。

直近の記事で未知の読者(FB友ではない読者)に多く読まれそうなものはなにか、とすぐに探索してみる。今この時、何が多くの人の関心の的であるかを知るのは、テレビ屋としての僕のまた自称ブロガーとしてもマストの事案だろうと思う。

匿名で吼えるネトウヨヘイト系の卑怯者らに読まれそうな記事があればたちどころに分かる。つまり炎上だが、記事は読まれてナンボだから炎上は大歓迎だ。だがそんな記事は身に覚えがあるから実はわざわざ探索するまでもなくピンとくる。

今回は良く分からない。読者数が急激に増えたのは<海が割れるモーゼの奇跡がベニスに出現!http://blog.livedoor.jp/terebiyainmilano/archives/52308307.html>あるいは改題した同じ記事<海を塞き止める「モーゼの奇跡」がベニスに出現!https://www.cannapensante.com/2020/10/15/2832/ >を掲載した直後からである。

ベニス水没の危機は日本人もある程度知っているだろう。だから読まれた可能性はあるが、少し大げさに言えば爆発的に読まれるほどのトピックとは思えない。そこでまた少し調べると、トランプ大統領が好きなネトウヨらが怒るかもしれない<きちがいピエロ vsDトランプhttp://blog.livedoor.jp/terebiyainmilano/archives/52308113.html >があった。

また<狂犬vs痩せ犬http://blog.livedoor.jp/terebiyainmilano/archives/52307918.html ><盛り下がる米大統領選
http://blog.livedoor.jp/terebiyainmilano/archives/52307532.html >
なども読まれる類の話かも、と考えた。だがどうもしっくりこない。そしてやがて気づいた。パリで教師が首を切断されて死ぬ事件があった。またしてもイスラム過激派の蛮行である。

それにリンクするような記事を一ヵ月以上前に書いたことを思い出した。

<シャルリー・エブド~再びの蛮勇?英雄?http://blog.livedoor.jp/terebiyain.../archives/52307217.html >あるいは<Je suis Charlieか否か?https://www.cannapensante.com/2020/09/09/2708/ >である。この2本が一番怪しいが、確実なことはやはり分からない。だが多く読まれていればどの記事であろうが構わない。読まれることが記事を書く動機のひとつであることは間違いないのだから。



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海が割れるモーゼの奇跡がベニスに出現!



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沈み行くベニスにどうやら救世主があらわれたようだ。

2020年10月3日、ベニスは高潮に見舞われて街じゅうが水浸しになると予想された。住民は浸水に向けて建物や通りを厳重に防御し長靴や雨具などで重装備をした。海抜の最も低い街の中心のサンマルコ広場を筆頭に、戦々恐々とした時間が流れた。

高潮は135cmを超えると予報が出た。そこで巨大な移動式堤防「モーゼ」が起動されることになった。普段は水中に没している78基の鉄製の防潮ゲートがせり上がって、外海からベニスの潟湖へと流入する潮を堰き止めるのである。

装置はこれまで一度も使用されたことがなかった。試験的な起動は行われていたが、高潮時に実際に始動したことはないのだ。それどころか試験運転の成否はあいまいで、住民を納得させるだけの結果は得られていなかった。

モーゼの構想は1980年代に生まれ、建設は2003年に始められた。しかし経費の高騰や繰り返し起きた汚職問題などで、完成が何度も先延ばしにされてきた。いつまでも成就しない事業にベニスの住民は疲れ、モーゼへの期待も信頼もほぼ全て無くしてしまっていた。

人々は今回の悪天候でもお決まりの辛苦を想定した。ところが高潮が135cmに達してもベニスの街に水は流れ込まなかった。海抜の低いサンマルコ広場周辺も地面は乾いたままだった。つまりモーゼは見事に膨大な潮の流れを堰き止めたのである!

史上初の快挙にベニス中が沸き立ち、イタリア全土が賛嘆した。建設開始から数えて17年の歳月と55億ユーロ(約7000億円)以上の税金を飲み込み、汚職と疑惑と不信にまみれた一大プロジェクトがついに完成したのだ。

ベニスは遠浅の海に浮かぶ100以上の島から成る。海に杭を打ち込み石を積んで島々を結び、水路を道に見立てて街が作られている。街が生まれた5世紀以来、ベニスは悪天候の度に高潮に襲われてきた。海に浮かぶ作為の土地の宿命である。

近代に入ると、地下水の汲み上げなど工業化による地盤の乱用によって、街自体が沈下を始めた。海抜1メートルほどの高さしかないベニスの礎は、1950年から70年にかけての20年間だけで、12センチも沈降した。現在は大幅に改善されたが、脆弱な土壌は変わることはない。

人災がなくなっても残念ながらベニスの不運が変わることはない。というのもベニスの地下のプレートが、毎年数ミリづつ沈下しているからだ。放っておいてもベニスの大地は、数百年後には海抜0メートルになる計算である。

現在ひんぱんに起こるベニスのいわゆる水没問題の本質は、しかし、地盤沈下ではなく高潮の恐怖である。ベニスには秋から春にかけて暴風雨が頻発する。それによって高潮が発生してベニスの潟に洪水のように流れ込む。

元からあるそれらの悪条件に加えて、最近は温暖化による水位の上昇という危難も重なった。そのため自然と人工の害悪が重層的に影響し合って、ベニスの街はさらに大きな高潮浸水に襲われる、という最悪の構図が固定化してしまった。

高潮はアフリカ大陸発祥の強風「シロッコ」によって増幅され膨張して、アドリア海からベニスの浮かぶ潟湖へとなだれ込む。そういう場合にベニスは“沈没”して、壊滅的と形容しても過言ではない甚大な被害を蒙るのである。

ベニスで最も海抜が低いのは、前述したサンマルコ広場の正面に建つサンマルコ寺院。その荘厳華麗な建物は、1200年の歴史の中で高潮による浸水被害を6度受けた。そのうち4度は過去21年の間に起きている。その事実は、ベニスの高潮問題が地球温暖化による海面上昇と無関係ではないことも示唆している。

年々悪化する浸水被害を食い止めようとして、ベニスでは古くから多くの施策が編み出され試行錯誤を繰り返してきた。その中で究極の解決策と見られたのが、ベニスの周囲に可動式の巨大な堤防を設置して海を堰き止めるという壮大な計画、「モーゼ・プロジェクト」なのである。

モーゼという名は旧約聖書からきている。モーゼがヘブライ人を率いてエジプトから脱出した際、海が割れて道ができたという一節を模しているのだ。モーゼは海を割って道を作る軌跡を起こした。「モーゼ・プロジェクト」は海を遮断して壮麗な歴史都市ベニスを救うのである。

2020年10月3日、高潮の予報が出たとき、当局は史上初めてモーゼを起動すると発表した。だが既述したように、ベニスのほとんどの住民はモーゼの実効性を信じることはなく、むしろ「うまくいくわけがない」と内心で嘲笑った。誰もが濡れ鼠になることを覚悟した。

ところが、おどろいたことに、モーゼはうまく高潮を堰き止めた! 着想から数えると何十年もの遅延と汚職と疑義にまみれた歳月を経て、巨大プロジェクトがついに成功を収めたのだ。標高が最低のサンマルコ広場を含む海抜1メートルほどの街の全体が、史上初めて高潮災害時に浸水しなかった。

ベニスはあるいは今後、高潮の被害から完全に開放されようとしているのかもしれない。それはこの先、史上最悪の高潮だった1966年の194cm、また昨年11月に起きて甚大な被害をもたらした187cmの高潮などに迫る大難が襲うときに、一気に明らかになるだろう。



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イタリア南部の感染爆発が怖い



地球マスク630


フランス、スペイン、イギリス、ベルギーなどに続いてイタリアもついにコロナ感染爆発第2波に襲われつつあるようだ。

ここのところほぼ連日、ロックダウン解除後の新規感染者数の新記録が書き換えられていて、10月10日は5724人となった。

イタリアは6月のロックダウン解除後、比較的穏やかだった。ロックダウンをどの国よりも長く厳しく維持し、解除を段階的に行った結果が出た。

一方ロックダウンをイタリアよりも遅れて且つ緩やかに実施し、それの解除は素早く大幅に行った英仏西他の国々は、すぐに第2波に襲われた。

3月から4月にかけて医療崩壊に見舞われ。真のコロナ地獄を体験したイタリア国民の間には強い恐怖感がある。それも感染拡大の抑止力になってきた。

だが欧州大陸全体の感染拡大の大波は、イタリア一国の努力や警戒や恐れを軽々と呑み込んでさらに膨張する気配だ。

パリやマドリードやロンドンまたブリュッセルなどの大都市では、ロックダウンを彷彿とさせる規制がかけられたりしている。

イタリア全土の再びのロックダウンは考えにくいことだが、それらの都市と同じ程度の管制や束縛はイタリアでも必ず導入されるだろう。

イタリアの第2波の不安は、第1波では比較的傷が浅かった中部や南部で感染拡大が進むことだ。そこは北部と違って医療体制が脆弱だ。

第1波では、欧州でも一級の医療体制を整備した北部ロンバルディア州が、突然想定外の感染爆発に見舞われて医療崩壊に陥った。

同じことがイタリア南部で起これば、第1波よりも悲惨な事態になりかねない。現にナポリが州都の南部カンパーニャ州では、急速な感染拡大が起きて医療体制が緊張している。

加えて、感染爆心地だったロンバルディア州を始めとする北部州の感染拡大も再燃しつつある。状況は全く予断を許さない。

イタリアは第1波から多くのことを学んだ。医療現場の信頼と自信は深まっている。

しかし北部と南部が同時に、あるいはかつてのロンバルディア州並みの勢いで南部のどこかが感染爆発に見舞われたなら、第1波を凌駕する恐慌が訪れる可能性も高い。



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きちがいピエロ vsDトランプ 



気狂いピエロ+トランプ合成


新型コロナに感染して入院中のトランプ大統領が10月4日、警護のSPを始めとするスタッフをコロナ感染の危険にさらしつつ、病院を抜け出して車で支持者の前に姿を現し物議をかもした。

さらに翌日には、退院してホワイトハウスに戻り、集まった報道陣にマスクを外してテラスから手を振って見せた。新型コロナに感染したものの、病気は大したことではない、と虚勢を張ったのである。

トランプ大統領は、かねてから新型コロナの脅威を軽視して国民をミスリードし、結果20万人以上の米国民が死亡した。感染拡大は今も全く収まる気配がない。

国民が苦しみ、自らが病気に掛かってもコロナは大したことではない、とツッパる大統領に「無責任だ」という罵声が飛び、前日以上の大論争が巻き起こった。

だが全く懲りない大統領はさらに、支持者に向けて「新型コロナを恐れるな」「コロナに生活(人生)を支配されるな」などとツイッターで吼えた。

その気丈は悪くないとは思うが、彼の支持者に代表される蒙昧な人々の軽率な行動が、感染爆発の原因の一つとされる中では、その投稿もまた大統領の対コロナ政策の失態と見なされるべきだろう。

そればかりではなく、トランプ政権中枢の幹部らも次々に感染していることが明らかになっている。それはひとえに、ボスのトランプ大統領が新型コロナを侮り続けたツケだ。

大統領が感染防止を無視した行動を取ったことによって、アメリカで最も重要な建物のひとつであるホワイトハウスは、感染拡大の爆心地の一つになっている可能性さえある。

ただひたすら選挙に勝つこと、つまり権力に固執するのみで、国民はおろか周囲のスタッフがコロナに感染する危険さえ顧みないモノマニアが、また奇態をさらした、というところか。

昔、「気狂いピエロ」というフランス・イタリア合作の映画があった。監督はジャンリュック・ゴダール。フランソワ・トリュフォー、アラン・レネなどと並び称される仏ヌーベルバーグの旗手である。

一世を風靡した作品では、名優ジャンポール・べrモンド演じる主人公のピエロが、退屈な日常をかなぐり捨てて愛人とともに逃避行をする。カップルは殺人事件に巻き込まれたのだ。

斬新な色彩感覚と、みずみずしい言葉の遊びが画面いっぱいに弾ける前衛的な映画のテーマの一つは、「アメリカへの反発」だった。

ゴダールらヌーベルバーグ世代の人々が、正義と希望の象徴として敬愛してきたアメリカが、当時ベトナムで戦争を仕掛け彼の地で暴虐の限りをつくしていた。作品にはそのことへの失望と怒りが込められていた。

あれから半世紀余りが過ぎた2016年、映画とはなんの関係もないことだが、アメリカへの僕の100年の恋もトランプ大統領の誕生によってすっかり冷めてしまった。

ネトウヨヘイト系排外差別主義者、トランプ大統領への不信感も大きいが、彼を大統領に押し上げたアメリカ国民に僕は激しく幻滅したのだ。

アメリカは今あるアメリカが偉大なのではない。アメリカ国民がこうありたいと願い夢見る理想のアメリカが偉大なのである。

アメリカには不平等や人種差別や貧困にとどまらず、ありとあらゆる不幸が存在する。アメリカはそれらの解消に向けて動き、戦い、前進してついには理想の国家を構築する。

理想の国家では自由と民主主義と機会の均等と富裕が、人種の如何にかかわらず全ての国民に与えられる。アメリカが素晴らしいのはその理想を掲げ、理想に向かって歩む姿である。

理想的なアメリカ合衆国は、実は理想に向かって国民が「行動する」過程の中にこそある。それはトランプ大統領が叫ぶ「強いアメリカ」とはほぼ対極のコンセプトだ。

だがアメリカは、その理想とは相容れないドナルド・トランプという怪異を大統領に選んだことで、大きく変質した。アメリカはもはや理想を追いかける「理想の国」ではなくなったように見える。

再選を目指しながら自らの失態の連鎖に気づいたトランプ大統領が、周章狼狽し、まろび、泡を食って必死に足掻けばあがくほど、アメリカの混乱と堕落と無気力が奔出するように僕には見える。

たとえ彼が落選しても、アメリカへの幻滅感は癒されない。信頼の構築には膨大な時間がかかる。だが、崩壊は一瞬である。そして壊れた信頼の再構築には、以前に倍する時間がかかる。

「理想のアメリカ」を見失ったアメリカへの僕の失望感は、傑作映画「気狂いピエロ」に込められたアメリカへの怒りに似ている。

そこで僕は、新型コロナを軽視し且つ「理想のアメリカ」像を破壊し続けるトランプ大統領には、「狂信的な道化師」という意味で、映画のタイトルと同じフレーズをそっくりそのまま進呈しておこうと思う。



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秋の欧州で撃ち殺される確率



猟師を撃つ熊500


欧州は新型コロナ感染拡大第2波に襲われつつある。それどころか、スペイン、フランス、イギリス等の感染状況を見ると、第2波の真っただ中という見方もできる。

そんな中でも― いや感染を恐れて家に閉じこもる機会が多いそんな折だからこそ―ヨーロッパ人は狩猟に出ることをやめない。

欧州の多くの国の狩猟解禁時期は毎年9月である。新年をまたいで2月頃まで続く。いうまでもなく細かい日時は国によって異なる。

たとえばイタリアは9月の第一日曜日に始まり約5ヶ月にわたって続く。フランスもほぼ似通っている。

一方、狩猟超大国のスペインは春にも狩猟シーズンがあって、一年のうちほぼ9ヶ月間は国中の山野で銃声が聞こえる。

スペインの狩猟は悪名高い。狩猟期間の長さや獲物の多さが動物愛護家やナチュラリスト(自然愛好家)などの強い批判の的になる。

2012年には同国のフアン・カルロス前国王が、ボツワナで像を撃ち殺して世界の顰蹙を買い、スペインの狩猟の悪名アップに一役買った。

もっとも狩猟への批判は、フランスやイタリアでも多い。欧米の一般的な傾向は、銃を振り回し野生動物を殺すハンティングに否定的だ。

近年はハンターも肩身の狭い思いをしながら狩猟に向かう、といっても過言ではない。彼らの数も年毎に減少している。

それでもスペインでは国土の80%が猟場。今でも国民的スポーツ、と形容されることが多い。正式に狩猟ライセンスを保持しているハンターはおよそ80万人である。

だが実際には密猟者と無免許のハンターを合わせた数字が、同じく80万程度になると考えられている。つまり160万人もの狩猟者が野山を駆け巡る。

イタリアのハンターは75万人。状況はスペインやフランスなどと同じで、多くの批判にさらされて数は年々減っている。しかし、真の愛好者は決してその趣味を捨てない。

かつてイタリア・サッカーの至宝、と謳われたロベルト・バッジョ元選手も熱狂的ハンターである。彼は仏教徒だが、殺生を禁忌とは捉えていないようだ。

狩猟が批判されるもうひとつの原因は、銃にまつわる事故死や負傷が後を絶たないことである。犠牲者は圧倒的にハンター自身だが、田舎道や野山を散策中の関係のない一般人が撃ち殺される確立も高い。

狩猟は山野のみで行われるのではない。緑の深い田舎の集落の近辺でも行われる。フランスやイタリアの田舎では、家から150メートルほどしかない範囲内でも銃撃が起こる。

そのため集落近くの田園地帯や野山を散策中の人が、誤って撃たれる事故が絶えない。狩猟期間中は山野はもちろん郊外の緑地帯などでも出歩かないほうが安全である。

イタリアでは昨年秋から今年1月末までのシーズン中に、15人が猟銃で撃たれて死亡し49人が負傷した。また過去12年間では250人近くが死亡、900人弱が負傷している。

またフランスでは毎年20人前後が狩猟中に事故死する。2019年の秋から今年にかけての猟期には平均よりやや少ない11名が死亡し130人が負傷した。

狩猟の規模が大きくハンターも多いスペインでは、一年で40人前後が死亡する。また負傷者の数は過去10年の統計で、年間数千人にも上るという報告さえある。

事故の多さや批判の高さにもかかわらず、スペインの狩猟は盛況を呈する。経済効果が高いからだ。スペインの狩猟ビジネスは12万人の雇用を生む。

ハンティングの周囲には狩猟用品の管理やメンテナンス、貸し出し業、保険業、獲物の剝製業者、ホテル、レストラン、搬送業務など、さまざまな職が存在する。

スペインは毎年、世界第2位となる8000万人を大きく上回る外国人旅行者を受け入れる。ところが新型コロナが猛威を振るう2020年は、その97%が失われる見込みだ。

観光業が大打撃を受けた今年は国内の旅行者が頼みの綱だ。その意味でもほとんどがスペイン人である狩猟の客は重要である。2020年~21年のスペインの狩猟シーズンは盛り上がる気配があるが、それは決して偶然ではない。

スペインほどではないがここイタリアの狩猟も、またフランスのそれも盛況になる可能性がある。過酷なロックダウンで自宅待機を強いられたハンター達が、自由と解放を求めて野山にどっと繰り出すのは理解できる。

欧州では2020年秋から翌年の春にかけて、鹿、イノシシ、野生ヤギ、ウサギまた鳥類の多くが狩られ、ハンターと同時に旅人や散策者や住人が誤狙撃されるいつもの危険な光景が出現することになる。

同じ欧州は新型コロナの感染拡大第2波に襲われている。外出をし、移動し、郊外の田園地帯や山野を旅する者は従って、狩猟の銃弾の剣呑に加えて新型コロナウイルスの危険にも晒される、という2重苦を味わうことになりそうである。


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狂犬vs痩せ犬

ガッツバイデン・newsweek


イタリア時間9月30日の午前3時に始まった、米大統領選に向けてのトランプvsバイデン候補の討論会を見た。期待はずれのひどい見せ物だった。

子供のののしり合い、というと子供に失礼なので、「狂犬と痩せ犬」の吼え合い、と穏健な表現で中身を描写しておこうと思う。

狂犬はいうまでもなくトランプ候補。例によってこれがアメリカ大統領かと耳を疑い目をむきたくなる下品で、野卑で、尊厳のひとかけらもない言動のオンパレード。

一方のバイデン候補には「負け犬」という称号を与えたいところだ。しかしながら、トランプ候補に比べると少しは言動の野蛮度が低かったことに鑑みて、「痩せ犬」と形容するにとどめておきたい。

およそ討論とは呼べない激しい言葉の応酬は、トランプ候補が繰り返しバイデン候補の発言を遮り、バイデン候補がトランプ候補を「嘘つき」「史上最悪の大統領」などと罵倒する流れの中で、どんどんヒートアップして混乱の極みに達した。

一時間半におよぶ討論会では、新型コロナウイルスや人種問題や経済、また保守派で固められつつある最高裁判事事案や、選挙そのものの信頼性への疑問等々がテーマになった。

しかし、両候補は政策論や政治論の入り口にさえ入ることなく、相手への誹謗中傷に終始した。それはトランプ候補のトランプ候補らしい傍若無人な言動によって始められ拡大した。

だが、そうはいうものの、バイデン候補にも大人の知性と分別で相手に対する能力はさらさらなく、どちらも似たり寄ったりの無残な姿態をさらし続けた。

司会者がトランプ候補に白人至上主義者を否定するよう求める場面もあった。

トランプ候補は独特の狡猾な言い回しで否定も非難もせずに要求をかわし、選挙結果が信用できない形になる恐れがある、と自らの敗北を意識してそれを認めない可能性を示唆するありさまだった。

トランプ候補とどっこいどっこいの下劣と威儀の無さで印象の薄かったバイデン候補はそれでも、ヘイトスピーチと遜色の無いトランプ候補の咆哮の間隙を縫って重要な指摘もした。

いわく、
トランプ大統領のもとで米国は分断され、弱体化し貧しくなって、国民はより暴力的になる。また私はロシアのプーチン大統領に対して、彼の政治手法は断じて受け入れられない、と面と向かって伝えたが、トランプ候補は彼に何も言えない。プーチンの犬になっている。

いわく
(トランプ大統領が所得税をほとんど納めていないという疑惑を受けて)
大金持ちのトランプ候補が納めた税金は学校の教師よりも少ない。そんな男が大統領だなんて最悪の事態だ。

いわく
トランプ大統領は金融市場にしか興味が無い。新型コロナウイルスによる死者が急増し世界最悪になっているのに、経済活動を再開させると言い張っている。Covid19恐慌を抑えなければ経済を回復させることなどできない。

云々。

エール大学経営大学院の統計によると、まるで新型コロナに絡めて経済に言及したバイデン候補に同調するのでもあるかのように、アメリカの77%の企業幹部が大統領選では民主党のバイデン候補に投票する、としている。彼が法人や金持ちに対する税を引き上げる、と公約しているにも関わらずである。

そのことは選挙結果の重大な内容を示唆しているようにも思えるが、前回選挙でトランプ候補の落選を予想してスベリ続けた自分を恥、反省する意味合いでも、これ以上の言及は避けておきたい。



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伊欧コロナ一蓮托生体


【新聞同時投稿コラム】


サーボーグ切り取り700


同床異夢

欧州ではスペイン、フランス、イギリスなどの大国を中心に多くの国で新型コロナの感染が拡大している。第2波である。

そんな中、かつて欧州どころか世界でも最悪のコロナ感染地だったもう一つの大国イタリアは、感染拡大が最も少ない部類の国になっている。
 
イタリアは3月から4月にかけてコロナ恐慌で呻吟した。医療崩壊に陥り、これまでに3万5千人余の患者と177名もの医師が新型コロナで死亡するいう惨状を呈した。

当時イタリアには見習うべき規範がなかった。孤立無援のまま正真正銘のコロナ地獄を体験した。
 
世界一過酷なロックダウンを導入して、イタリアは危機をいったん克服した。だが国民の間には巨大な恐怖心が残った。そのために少し感染拡大が進むと人々は即座に緊張する。

イタリア国民はかつてロックダウンの苛烈な規制だけが彼らを救うことを学び、それを実践した。規制の多くは今も実践している。

国の管制や命令や法律などに始まる、あらゆる「縛り」が大嫌いな自由奔放な国民性を思えば、これは驚くべきことだ。
 
イタリアに続いて、例えばスペインもフランスも感染爆発に見舞われ医療危機も体験した。だが、スペインとフランスにはイタリアという手本があった。失敗も成功も悲惨も、両国はイタリアから習ぶことができた。

恐怖の度合いがイタリアに比べて小さかった二国は、ロックダウン後は良く言えば大胆に、悪く言えば無謀に経済活動を再開した。その結果感染拡大が急速に始まった。そうした状況は他の欧州のほとんどの国々にも当てはまる。
 
イタリアの平穏な状況は、しかし、同国のコロナ禍が終わったことを意味するものではない。

イタリアでも新規の感染者は着実に増えている。結局イタリアも欧州の一部だ。コロナ禍の先行きはまだ全く見えないのである。



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コロナがいてもトマトソースは作らねば



弾けるソース横拡大歪み750


今年はトマトが不作だった。新型コロナのせいである。もっと正確に言えば、新型コロナの脅威に心が折れて、菜園から足が遠のき種まきや苗の植え付けが少し時期外れになった。

その後の世話も後回しになり、遅れ、見逃し、忘れがちになった。一時は世界最悪だったイタリアのコロナ禍は、それほどに凄まじかった。

加えて菜園の土の地味が弱いのも不作の一因になっているようだ。野菜作りは土作りである。地味が良くなかったり土が瘠せていては作物は大きく育たない。

トマト以外の、例えばフダン草やナスや春野菜の出来も良くなかった。堆肥の投入が必要なようだ。菜園は完全な有機栽培である。

不作ながら8月と9月の2回、トマトソース作りをした。8月には500ml 9本+250ml 1本、9月には500ml 7本、計いわば16,5本。8リットル余のトマトソースを作った。大分少ない。

家族や友人に分けると自家消費分はほとんど残らないだろう。しかし、皆楽しみにしているので、分けないわけにはいかない。

トマトソース作りは:

1先ずトマトのヘタ周りに包丁を入れて芯をえぐり取る。

2反対側にやはり包丁で十文字(✕印でも何でもいい)の切り込みを入れる(そうしておくとトマトを茹でたとき皮がつるりと剥ける)。

3トマトを沸騰した湯に浸し、取り出して冷水に投げ込み冷やす。

4皮を剥き、適当な大きさに切るなりして身を絞り出す。皮は捨てる。芯と同様に硬くてソースには向かないから。

5絞り出した身を沸騰させて煮ながら水分を飛ばす。どろりとした感じなった時点で火を止め、そのまま冷ます(一晩なり)。

6保存用の容器(瓶など)に移し(分け)入れ、ソースを覆うようにオリーブ油を少し加える。きっちりと蓋をする。

7.全ての瓶が出来上がったら、瓶の全体が水に浸かる深さの鍋に入れ、冷水から沸騰させる(煮沸していく)。

8沸騰したらそのまま5分ほど置き、火を消す。

9鍋の中で冷ます(一晩なり)。湯が完全に冷めたら一本一本取り出す。出来上がり。

ソースには塩やハーブを加えても良い。僕は一切何も入れない。後で調理をするときに好きなだけ追加すればいい、と考えるから。

ソースはきっちりと手順を踏んで作れば常温でも1年は保つ。冷蔵保存すればもっと長持ちする。僕の場合は冷蔵保存で3年、という記録があるが科学的、専門的に見たときにどうなのかは分からないのでおすすめはできない。

そのときのソースは3年目で食べつくしたが、もしかするとそれ以上長持ちするケースもあるかも、というふうにも思う。



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欧州の第2波の足音高く



マスク群集イラスト650


欧州を新型コロナ感染拡大の第2波が襲いつつある。スペイン、フランス、イギリスなどの大国を中心に感染が急速に拡大している。フランスの一日あたりの感染者数が1万3千人を超えたり、スペインがその上を行き、 最近のイギリスの一日当たりの感染者数が4000人前後に達するなど、状況が切迫してきた。

そうした中、かつて欧州どころか世界最悪のコロナ感染地だったもうひとつの大国イタリアは、感染拡大を抑えて欧州の優等生と形容しても過言ではない平穏を保っている。一例を挙げれば9月18日現在、人口10万人あたりの2週間の平均感染者数はスペインが292,2人、フランスが172,1人に対しイタリアは33人にとどまっている 。

なぜイタリアの感染拡大が抑えられているのか。専門家によれば優れた検査システムと効果的な感染経路追跡手法、また厳格な感染防止策や的確な安全基準などが功を奏しているとされる。

そしてさらに大きいのは、イタリアがどの国よりも早くロックダウンを開始し、どの国よりも遅くそれを解除した事実である。しかもイタリアは全土封鎖を迅速に行い、且つそれの解除の際は他の国々のように急いで規制を緩和するのではなく、段階を踏んでゆるやかに行った。

一方イタリア以外の国々は、ロックダウンをためらってその導入が遅れ、封鎖はしたものの、より規模の小さな、より弱い規制をかけた。その上彼らはロックダウンの解除を、より迅速により広範に行った。それが国々の感染拡大の要因である、とする。

むろんそうした要素は疑いなく存在する。だがそれに加えて、ここイタリアにいて僕が実感し強く思うこともある。つまりイタリア国民の中に植えつけられた新型コロナへの強い恐怖感が、感染拡大の抑止に貢献しているのではないか、ということである。

イタリアは2月から4月にかけて、コロナ恐慌に陥って呻吟した。医療崩壊に陥り、累計で3万5千人余の患者と、なんと177名もの医師が新型コロナで死亡するという惨状に苦しんだ。

感染爆発が起きた2月、イタリアには見習うべき規範がなかった。イタリアに先立って感染拡大が起きていた中国の被害は、イタリアのそれに比較して小さく、ほとんど参考にならなかった。イタリアは孤立無援のまま正真正銘のコロナ地獄を体験した。

世界一厳しく、世界一長いロックダウンを導入して、イタリアは危機をいったん克服した。だが国民の間には巨大な恐怖心が残った。そのために少し感染拡大が増えると人々は即座に緊張する。彼らは恐怖に駆られて緩みかけた気持ちを引き締め、感染防止のルールに従う、という好循環が起きている。

コロナ地獄の中でイタリア国民は、ロックダウンの苛烈な規制の数々だけが彼らを救うことを学び、それを実践した。規制の一部は今も厳格に実践している。規則や禁忌に反発し国の管制や法律などに始まる、あらゆる「縛り」が大嫌いな自由奔放な国民性を思えば、これは驚くべきことだ。

多くの国がロックダウンを急ぎ解除した最大の理由は― 感染拡大が縮小したこともあるが ―経済活動の再開だった。ロックダウンによって各国の経済は破壊された。あらゆる国が経済活動を元に戻さなければならなかった。それでなければ貧困が新型コロナを凌駕する困難をもたらすことが予想された。

イタリアの経済状況は欧州の中でも最悪の部類に陥った。コロナ以前にも決して良くはなかった同国経済は、全土にわたる封鎖によって壊滅状態になった。それでもイタリアはロックダウンの手を緩めず、どの国よりも過酷にそれを続けた。なぜか。

それはひとえにイタリアが味わった制御不能な感染爆発と、それによってもたらされた前述の医療崩壊の恐怖ゆえだった。患者のみならず医者をはじめとする医療従事者までが次々と犠牲になる新型コロナとの壮絶な戦いの様子は、連日連夜メディアによってこれでもかと報道され続けた。ロックダウンによって自宅待機を強制された国民は、文字通り朝から晩までテレビの前に釘付けになって医療現場の地獄を目の当たりにした。

医療現場の修羅は、鮮烈な臨場感を伴って人々の胸を突き刺した。特に医療崩壊が激しかった北部州では、身近の者がバタバタと死んでいく現実と相まって、普段は目にすることが少ない医療現場の凄惨悲壮な地獄絵が人々を責めさいなんだ。

イタリアに続いてスペインも感染爆発に見舞われ医療危機も体験した。だが、スペインにはイタリアという手本があった。失敗も成功も悲惨も、スペインはイタリアから習うことができた。恐怖の度合いがはるかに小さかったスペインは、ロックダウン後は良く言えば大胆に、悪く言えば無謀に経済活動を再開した。 

スペインを追いかけてフランスもイタリアに倣いロックダウンを導入した。だが仏西両国はイタリアよりも早くロックダウンを緩和した。例えばイタリアは学校を9月13日まで完全閉鎖して14日から再開したが、全国一斉の措置ではなく地方によってはさらなる閉鎖を続けた。つまり感染状況を見極めながらの段階的な再開に留めた。

一方スペインは9月初めに学校を全面再開した。フランスに至っては5月から段階的に学校を開いた。またイタリア政府がサッカーなどのプロスポーツ観戦の客数を1000人までとした段階で、フランスはプロテニスの観客数をイタリアの11倍以上の11500人まで認めるなど、多くの場面でイタリアよりもより遅く規制をかけ、イタリアよりもより早く且つ大幅に規制を緩和する措置を取り続けてきた。

それが今現在のイタリアと仏西両国の感染状況の差になって現れている。ちなみに感染拡大が懸念されている英国ほかの欧州各国も、スペインやフランスとほぼ歩調を合わる形でロックダウンを管理してきた。その結果感染拡大が再び急速に始まったのである。

イタリアの平穏な状況は、しかし、同国のコロナ禍が終わったことを意味するものでは全くない。イタリアでも新規の感染者は着実に増えている。つまるところイタリアも欧州の一部だ。コロナ禍の先行きは他の国々と同様にまだ少しも見えないのである。


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パスタをフォークとスプーンで食う不穏

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ここのところスパゲティやパスタに言及する機会が多かった。そこでついでにもう一点その周辺にこだわって記しておくことにした。

僕はこの直近のエントリーで、スパゲッティの食べ方にいちいちこだわるなんてつまらない。自由に、食べたいように食べればいい。食事マナーに国境はない、と書いた。

だが、しかし、右手にフオォーク、左手にスプーン姿でスパゲティを食べるのはアメリカ式無粋だからやめた方がいい、という意見があることは指摘しておきたい。

フォークにからめたスパゲティをさらにスプーンで受けるのは、湯呑みの下にコースターとか紅茶受け皿のソーサーなどを敷いて、それをさらに両手で支えてお茶を飲む、というぐらいに滑稽な所作だ。

田舎者のアメリカ人が、スパゲティにフォークを差し立ててうまく巻き上げる仕草ができず、かと言って日本人がそばを食べるようにすすり上げることもできず、苦しまぎれに発明した食べ方。

それを「上品な身のこなし」と勘違いした世界中の権兵衛が、真似をし主張して広まったものである。本来の簡素で大らかで、それゆえ品もある食べ方とは違う。

上品のつもりで慎重になりすぎると物事は逆に下卑ることがあり、逆に素直に且つシンプルに振舞うのが粋、ということもある。スパゲティにフォークを軽く挿(お)し立てて、巻き上げて口に運ぶ身のこなしが後者の典型だ。

というのは、2年前に亡くなった義母ロゼッタ・Pの受け売りである。義母は北イタリアの資産家の娘として生まれ、同地の貴族家に嫁した。

義母は物腰の全てが閑雅な人だった。義母に言わせると、イタリアで爆発的に人気の出たスイーツ「ティラミス」も俗悪な食べ物だった。

「ティラミス」はイタリア語で「Tira mi su! 」である。直訳すると「私を引き上げて!」。それはつまり、私をハイにして、というふうな蓮っ葉な意味合いにもなる。

義母にとってはこの命名が下品の極みだった。そのため彼女はスイーツを食べることはおろか、その名を口にすることさえ忌み嫌った。

僕は義母のそういう感覚が好きだった。彼女は着る物や持ち物や家の装飾や道具などにも高雅なセンスを持っていた。そんな義母がけなす「ティラミス」は、真にわい雑に見えた。

また、フォークですくったパスタをさらにスプーンで受けて食べる所作は、義母が指摘したアメリカ的かどうかはともかく、大げさに言えば、法外で鈍重でしかも気取っているのが野暮ったい。

その野暮ったさを洗練と履き違えている心情は2重に冴えない、というあまのじゃくな主張は、未だ人間のできていない僕の、大気ならぬ小気な品性による感慨である。

あまのじゃくで軽薄な僕の目には同時に、フォークにスプーンを加えて二刀流でスパゲティに挑む人々の姿は、宮本武蔵をも彷彿とさせて愉快、とも映る。

発見や発明は多くの場合、保守派の目にはうっとうしく見え、新し物好きな人々の目には斬新・愉快に見える。

そして僕は、新し物好きだが保守的な傾向もなくはない、中途半端な男である。



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盛り下がる米大統領選

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何かを書く気も起こらないほど11月の米大統領撰の影が薄い。9月末に予定されているバイデン、トランプ両候補の討論会が行われれば、状況は少し変わるのかもしれない。それまで何も書かずにおこうかと思ったが、実際に状況が変わってしまう前に今の低空飛行気分を書いておくのも意味があるかも、と思い直した。

選挙キャンペーンが盛況にならないのは新型コロナの感染拡大が止まず、大きな集会や演説会などができないのが最大の理由だろう。オンラインやテレビ広告などに頼るだけの選挙運動では人々の熱気は期待できない。

個人的にはトランプ、バイデン両候補の魅力のなさが盛り下がりに一役買っている。両者ともに意外性がない。2016年の選挙時こそ、トランプ候補の常軌を逸した言動やキャンペーン、憎しみや分断をあおる敵意満載の行動様式が、驚きや反感や逆に喝采を浴びたりして、面白いドラマが展開された。だが柳の下に2匹目のドジョウはいない。

トランプ氏の選挙また政治手法は多くの常識を覆した。いわば北朝鮮の金正恩書記長や中東諸国の独裁者や独裁政権、はたまた中国共産党的厚顔や傲岸や無礼、南米の強権レジームなどのやり方や信条やコンセプトと良く似た野蛮な行動規範で支持者を獲得していった。

彼の当選はあり得ないと多くの人々が考え、主張し、分析し結論付けていた。僕もそのひとりだった。だがトランプ氏はそれをあざ笑うかのように当選を果たした。そこではアメリカ国民のおよそ半数がれっきとした排外差別主義者であり、ネトウヨヘイト系の白人至上主義者であり、、強硬且つ好戦的な民族主義者であることが明らかになった。

それらの人々がトランプ氏のいわゆる岩盤支持層である。その数がアメリカ国民のおよそ半数にのぼるという想定外の真実は世界の良識に大きな衝撃を与えた。その状況はほぼ4年が経とうとする今も変わらず、バイデン候補有利の世論調査もすぐには信用できない。岩盤支持者がいる限り、且つその数が有権者の半数に迫る数字であり続ける限り、トランプ再選のシナリオは常に現実味を帯びたものである。

ひと言でいえば、曲者トランプvs退屈バイデン。嘘と詭弁と差別主義とはったり、またさらに脅しも得意な現職大統領と、無難で平凡で牙のない“似非反中国(実は中国寄り”主義者のリベラル、あるいは少なくとも「中国と事を荒立てない主義者」の元副大統領の一騎打ちなんてつまらない。展開が見え透いていて驚きがない。

トランプ候補は不快で政治的に危険な存在だが、反中国主義。少なくとも中国の覇権主義への強い警戒心感と敵意を隠さずに次々と手を打つところは共感できる。選挙目当てのハッタリの要素が強いことは、香港問題やウイグル争議などの政治命題に口先だけの介入をして済ませていることで分かる。

そんなトランプ候補に人権や民主主義や、自由や寛容の精神の発露や理解を求めても詮無いことだ。それでも、せめて中国への咆哮だけでも続けてほしい。それに欧州や日本やその他の「民主主義常識国」が加勢すれば、さすがの厚顔無恥また横柄な中国も勝手気ままはできない。少なくともかの国へのけん制にはなる。

だがバイデン候補が大統領になれば、中国と仲良くしようとするばかりで、結果中国が付け上がり続けるだけの構図が復活するだろう。バイデン候補は中国に対峙する姿勢を打ち出しているが、あまり期待できない。

中国とはむろん対話を模索し協力関係を構築するよう心がけるべきだが、同時に中国の人権無視と覇権主義と独裁主義に塗り固められた横暴な行為の数々は阻止されるべきだ。国際秩序を無視する国が、国際社会にのさばっていてはならないのである。

しかしバイデン氏には中国を抑えこむ意志も力量もないのではないか。片やトランプ大統領は少なくともそれを「試行する」強い意志を示している。たとえ自己本位の且つ選挙キャンペーンの色合いが濃いものであっても、その点は評価できる。しかし分断と憎しみと差別をあおる狂気じみた政治姿勢はやはりやりきれない。結局僕は2016年の選挙と同じで、消去法でバイデン氏を支持する。米大統領選で積極的に支持できる候補はもう永遠に出ないかもしれない。

そう考える理由がある。全くの希望的観測なのだが、僕は2016年までは、自由と民主主義と機会の均等と人権擁護を血肉の奥までしみこませた国民が、アメリカの有権者の8割ほどを占めると漠然と考えていた。残りは1割がネトウヨヘイト系排外差別主義の白人優位論者、つまりトランプ候補の岩盤支持者たち。残りの1割が政治に無関心な無為の若者やアナキストやリベラル過激派など、などと感じていた。

だがトランプ氏の登場で、ネトウヨヘイト系排外差別主義の白人優位論者は、アメリカ国民のほぼ半数を占めるという衝撃の事実が明らかになり、その情勢はトランプ政権が4年続いた今も全く変わっていない。それを見てアメリカへの僕の100年の恋は一気に冷めている。が、それでもアメリカはいまだに世界最強の「まがりなりにも」の民主主義国家だ。

したがってその意味での信頼は変わらない。僕のアメリカへの全き愛と尊敬と親和心は冷めてしまったが、世界の民主主義と自由と希望のために、アメリカに偉大な指導者が生まれ、欧州や日本などと協調してその理念のために前進する米大統領が生まれることを願う。だが、それは残念ながらバイデン候補ではない。ましてやトランプ候補であることなど世界が逆立ちしてもあり得ない。



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スパゲティのすすり方  




【“ピアッツァの声”から転載】


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以前、新聞に次の趣旨のコラムを書きました。
 
相手が音を立ててそばを食べるのが嫌、という理由で最近日本の有名人カップルの仲が破たんしたと東京の友人から連絡があった。友人は僕がいつか「音を立ててスパゲティを食べるのは難しい」と話したのを覚えていて、愉快になって電話をしてきたのだ。僕も笑って彼の話を聞いたが、実は少し考えさせられもした。

スパゲティはフォークでくるくると巻き取って食べるのが普通である。巻き取って食べると3歳の子供でも音を立てない。それがスパゲティの食べ方だが、その形が別に法律で定められているわけではない。従って日本人がイタリアのレストランで、そばをすする要領でずるずると盛大に音を立ててスパゲティを食べても逮捕されることはない。

スパゲッティの食べ方にいちいちこだわるなんてつまらない。自由に、食べたいように食べればいい、と僕は思う。ただ一つだけ言っておくと、ずるずると音を立ててスパゲティを食べる者を、イタリア人もまた多くの外国人も心中で眉をひそめて見ている。見下している。しかし分別ある者はそんなことはおくびにも出さない。知らない人間にずけずけとマナー違反を言うのはマナー違反だ。

スパゲティの食べ方にこだわるのは本当につまらない。しかし、そのつまらないことで他人に見下され人間性まで疑われるのはもっとつまらない。ならばここは彼らにならって、音を立てずにスパゲティを食べる形を覚えるのも一計ではないか、とも、思わないでもない。


 
食事マナーに国境はありません。

もちろん、いろいろな取り決めというものはどの国に行っても存在します。たとえばイタリアの食卓ではスパゲティをずるずると音を立てて食べてはいけない。スープも音を立ててすすらない。ナプキンを絶えず使って口元を拭く・・・などなど。それらの取り決めは別に法律に書いてあるわけではありません。が、人と人がまともな付き合いをしていく上で、時には法律よりも大切だと見なされるものです。

なぜ大切かというと、そこには相手に不快感を与えまいとする気配り、つまり他人をおもんばかる心根が絶えず働いているからです。マナーとはまさにこのことにほかなりません。それは日本でも中国でもイタリアでもアフリカでも、要するにどこの国に行っても共通のものです。食事マナーに国境はない、と言ったのはそういう意味です。

スパゲティをずるずると音を立てて食べるな、というこの国での取り決めは、イタリア人がそういうことにお互いに非常に不快感を覚えるからです。別に気取っている訳ではありません。スープもナプキンもその他の食卓での取り決めも皆同じ理由によります。

それらのことには、しかし、日本人はあまり不快感を抱かない。そばやうどんはむしろ音を立てて食べる方がいいとさえ考えますし、みそ汁も音を立ててすすります。その延長でスパゲティもスープも盛大な音を立てて吸い込む。それを見て、日本人は下品だ、マナーがないと言下に否定してしまえばそれまでですが、マナーというものの本質である「他人をおもんばかる気持ち」が日本人に欠落しているとは筆者は思いません。

それにもかかわらずに前述の違いが出てくるのはなぜか。これは少し大げさに言えば、東西の文化の核を成している東洋人と西洋人の大本の世界観の違いに寄っている、と筆者は思います。

西洋人の考えでは、人間は必ず自然を征服する(できる)存在であり、従って自然の上を行く存在である。人間と自然は征服者と被征服者としてとらえられ、あくまでも隔絶した存在なのです。自然の中にはもちろん動物も含まれています。

東洋にはそういう発想はありません。われわれももちろん人間は動物よりも崇高な生き物だと考え、動物と人間を区別し、犬畜生などと時には動物を卑下したりもします。

しかし、そういうごう慢な考えを一つひとつはぎ取っていったぎりぎりの胸の底では、結局、われわれ人間も自然の一部であり、動物と同じ生き物だ、という世界観にとらわれているのが普通です。

天変地異に翻弄され続けた歴史と仏教思想があいまって、それはわれわれの肉となり血となって存在の奥深くにまで染み入り、われわれを規定しています。

さて、ピチャピチャ、ガツガツ、ズルズルとあたりはばからぬ音を立てて物を食うのは動物です。口のまわりが汚れれば、ナプキンなどという七面倒くさい代物には頼らずに舌でペロペロなめ清めたり、前足(拳)でグイとぬぐったりするのもこれまた動物です。

人間と動物は違う、とぎりぎりの胸の奥まで信じ込んでいる西洋人は、人間が動物と同じ物の食い方をするのは沽券(こけん)にかかわると考え、そこからピチャピチャ、ガツガツ、ズルズル、ペロペロ、グイ!は実にもって不快だという共通認識が生まれました。

日本人を含む東洋人はそんなことは知りません。たとえ知ってはいても、そこまで突き詰めていって不快感を抱いたりはしません。なにしろぎりぎりの胸の奥では、オギャーと生まれて食べて生きて、死んでいく動物と人間の間に何ほどの違いがあろうか、と達観しているところがありますから、食事の際の動物的な物音に大きく神経をとがらせたりはしないのです。

そうは言ってみても ― このこともまたコラムに書きましたが ― 周囲の外国人は、ピチャピチャ、ズルズルと音を立てて食事をする人の姿を見て不快に思っています。ならばそれを気づかってあげるのが、最低限のマナーというものかもしれません。

周囲に気を使いつつ食べるのは窮屈だとか、上品ぶるようで照れくさいとか、フォークの運びが面倒くさい、などと言ってはいられません。日本の外に広がる国際社会とは、窮屈で、照れくさくて、面倒くさくて・・要するに疲れるものなのです。スパゲティを静かに食べる所作と同じように。。


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ピアッツァの声








シャルリー・エブド~再びの蛮勇?英雄? 


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いつか来た道

5年前、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載してイスラム過激派に襲撃され、12人の犠牲者を出したフランス・パリの風刺週刊紙「シャルリー・エブド」が先日、同じ風刺画を再び第1面に掲載して物議をかもした。

事件では移民2世のムスリムだった実行犯2人が射殺された。また武器供与をするなど彼らを支援したとして、ほかに14人が起訴された。シャルリー・エブドはその14人の公判が始まるのに合わせて、問題の風刺画を再掲載したのである。

同紙は「事件の裁判が始まるにあたって、風刺画を再掲する。それは必要不可欠なことだ。我々は屈しないしあきらめない」と声明を出した。

フランスのマクロン大統領は「信教の自由に基づき、宗教を自由に表現することができる」と述べてシャルリー・エブドの動きを擁護。一方、イスラム教徒やイスラム教国は例によって強く反発している。

冒涜権

シャルリー・エブド襲撃事件では、言論の自由と宗教批判の是非について大きな議論が沸き起こった。そこでは言論の自由を信奉する多くの人々が、怒り悲しみ「Je suis Charlie (私はシャルリー)」という標語と共にイスラム過激派に強く抗議した。

フランスをはじめとする欧米社会では、信教の自由と共に「宗教を批判する自由」も認められている。従ってシャルリー・エブドのイスラム風刺は正しい、とする見方がある一方で、言論の自由には制限があり、侮辱になりかねない行過ぎた風刺は間違っている、という考え方もある。

2015年1月の事件直後には、掲載された風刺画がイスラム教への侮辱にあたるかどうか、という馬鹿げた議論も大真面目でなされた。シャルリー・エブドのイスラム風刺は、もちろんイス ラム教への侮辱である。だが同時にそれは、違う角度から見たイスラム教や同教の信徒、またイスラム社会の縮図でもある。

立ち位置によって一つのものが幾つ もの形に見える、という真実を認めるのは即ち多様性の受容である。そして多様性を受け入れるとは、自らとは違う意見や思想に耳を傾け、その存在を尊重することだ。それは言論の自由を認めることとほぼ同義語である。

バカも許すのが言論の自由

言論の自由とは、差別や偏見や憎しみや恨みや嫌悪や侮蔑等々の汚濁言語を含む、あらゆる表現を公に発表する自由のことである。言葉を換えれば言論の自由のプリンシプルとは、言論ほかの表現手段に一切のタガをはめないこと。それが表現である限り何を言っても描いても主張しても良い、とまず断断固として確認することである。

さらに言えば言論の自由とは、それの持つ重大な意味も価値も知らないバカも許すこと。つまりテロリストにさえ彼らの表現の自由がある、と見なすことだ。その原理原則を踏まえた上で、宗教や政治や文化や国や地域等々によって見解が違う個別の事案を、人々がどこまで理解しあい、手を結び、あるいは糾弾し規制するのかを、互いに決めていくことが肝要である。

言うまでもなく言論の自由には制限がある、だがその制限は言論の自由の条件ではない。飽くまでも「何でも言って構わない」自由を認めた上での制限だ。それでなければ「制限」を口実に権力による言論の弾圧がいとも簡単に起きる。中国や北朝鮮やロシアを見ればいい。中東やアフリカの独裁国家もそうだ。過去にはナチやファシストや日本軍国主義政権がそれをやった。

制限の中身は国や社会によって違う。違って然るべきである。言論の自由が保障された社会では、例えばSNSの匿名のコメント欄におけるヘイトコメントや罵詈雑言でさえ許される。それらはもちろんSNS管理者によって削除されるなどの処置が取られるかもしれない。が、原理原則ではそれらも発表が許されなければならない。そのように「何でも構わない」と表現を許すことによっ て、トンデモ思想や思い上がりやネトウヨの罵倒やグンコク・ナチズムなどもどんどん表に出てくる。

自由の崖っぷち

そうした汚れた言論が出たとき、これに反発する「自由な言論」、つまりそれらに対する罵詈雑言を含む反論や擁護や分析や議論がどの程度出るかによって、その社会の自由や平等や民主主義の成熟度が明らかになるのである。シャルリーエブドが掲載した風刺画を巡って議論百出したのは、それが表現の自由を擁護するフランスまた民主主義社会のできごとだったからだ。そこで示されたのは、要するに「表現や言論の自由とは何を言って構わないということだが、そこには責任が付いて回って誰もそれからは逃れられない」ということである。

そのように言論の自由には限界がある。「言論の自由の限界」は、言論の自由そのもののように不可侵の、いわば不磨の大典とでもいうべき理念ではない。言論の自由の限界はそれぞれの国の民度や社会の成熟度や文化文明の質などによって違いが出てくるものだ。 ひと言でいえば、人々の良識によって言論への牽制や規制が成されるのが言論の自由の限界であり、それは「言論及び表現する者の責任」と同義語である。 「言論の自由の限界」は言論の自由に守られた「自由な言論」を介して、民衆が民衆の才覚で発明し、必要ならばそれを公権力が法制化して汚れた言論を規制する。

たとえばシャルリーエブドは、ムハンマドの風刺画を掲載して表現の自由を行使したのであって、それ自体は何の問題もない。しかし、その中身については、僕を含む多くの人々賛同しているのと同様に反対する者も多くいて、両陣営はそれぞれに主張し意見を述べ合う。罵詈雑言を含むあらゆる表現が噴出するのを見て、さらに多くの人々がこれに賛同し、あるいは反対し、感動し、憤り、悩んだりしながら表現の自由を最大限に利用して意見を述べる。そうした舌戦に対してもまたさらに反論し、あるいは支持する者が出て、議論の輪が広がっていく。

議論が深まることによって、言論の自由が興隆し、その議論の高まりの中で言論の自由の「限界」もまた洗練されて行くのである。いわく他者を貶めない、罵倒しない、侮辱しない、差別しない、POLITICAL CORRECTNESS(政治的正邪)を意識して発言する・・など。など。そうしたプロセスの中で表現の自由に対する限界が自然に生まれる、というのが文明社会における言論の望ましいあり方である。人々の英知が生んだ言論の自由の「限界」を、法規制として正式整備するかどうかは、再び議論を尽くしてそれぞれの国が決めていくことになる。

言論の自由と民主主義

言論の自由とは、要するに言論の自由の「最善の形を探し求めるプロセスそのもの」のこととも言える。つまり民主主義と同じだ。民主主義は他のあらゆる政治システムと同様に完璧ではない。完璧な政治システムは存在しない。むろん十全な民主主義体制も存在しない。だが民主主義は、自らの欠陥や誤謬を認め、且つそれを改善しようとする民衆の動きを是とする。その意味で民主主義は他のあらゆる政治システムよりもベターな体制だ。そしてベストが存在しない世界では、ベターがベストなのである。

民主主義はより良い民主主義を目指してわれわれが戦っていく過程そのもののことである。同じように言論の自由の“自由”とは、「表現の限界&制限」の合意点を求めて、全ての人々が国家や文化や民族等の枠組みの中で議論して行く過程そのもののことだ。各地域の知恵が寄り集まって国際的な合意にまで至れば、理想的な形となる。忘れてはならないのは、それら一つひとつの議論の過程は暴力であっさりと潰すことができる、という現実である。過去のあらゆる暴政国家と変わらない北朝鮮や中国が、彼らの国民の言論を弾圧しているように。戦前の日本で軍部が人々から言論の自由を奪っていたように。

同様にテロリストは、彼らテロリストの思想信条でさえ「言論の自由」として認めている人々、つまり言論の自由を信奉し実践している人々を殺戮することによって、その理念に挑み破壊しようとする。彼らはそうすることで、「言論の自由」など全くあずかり知らない蛮人であることを自ら証明する。人類の歴史は権力者に言論や表現の自由を奪われ続けた時間だ。権力者はどうやってそれを成し遂げたか。暴力によってである。だから暴力の別名であるテロは糾弾されなければならないのである。

全てを笑い飛ばす見識

その一点では恐らく全ての人々が賛同することだろう。だが問題は前述したように、一人ひとりの立ち位置によって現象の捉え方や理解が違う点だ。違いを克服するためには永遠に対話を続ける努力をしなければならない。話し合えば暴力は必ず避けられる。避けられると信じて対話を続ける以外に人々がお互いに理解しあう道はない。対話を続けることが民主主義の根幹であり言論の自由の担保である。

シャルリー・エブドによるムハンマドへの風刺を受け入れられない人々の中には、もしもイエス・キリストを風刺する絵が掲載されたならば、キリスト教徒も必ず怒るに違いない。だから我々の怒りや抗議は正当だ、と主張する者もいた。キリストの風刺画に怒るキリスト教徒もむろんいるだろう。だが西洋の知性とは、風刺を受け入れ、笑い飛ばし、文句がある場合は立ち上がって反論する懐の深さのことだ。

キリスト教を擁する西洋世界は、現在のイスラム過激派やテロリストや日本の軍国主義、あるいは中国その他による言論弾圧の現実と同じ歴史を経験した後に、特にフランス革命を通して今の言論の自由を勝ち取った。遠い東洋のわれわれ日本人もその恩恵に浴している。人々が好き勝手なことを言えるのも、僕が下手なブログで言いたい放題を言えるのも、彼らの弾圧との戦いとその勝利のお陰だ。今の日本がもしも軍国主義体制下のままだったならば、中国や北朝鮮と同じでわれわれは自身の正直な思いなど何も口にできなかっただろう。

そのことを踏まえて、また言論の自由が保障された世界に住む者として、僕はシャルリー・エブドの勇気とプリンシプルを支持する。


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一石二鳥



【“ピアッツァの声”から転載】


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日本にある一般的な野菜の中でイタリアにはないもののひとつがニラです。筆者はニラが好きなので仕方なく自分で育てることにしました。

わが家はミラノ郊外のブドウ園に囲まれた田舎にあります。ですから菜園用の土地には事欠きません。

日本に帰った際にニラの種を買って戻って、指定された時期にそれを菜園にまきました。が、種は一切芽を出しませんでした。
 
イタリアは日本よりも寒い国だから、と時期をずらしたりして試してみましたが、やはり駄目でした。20年近くも前のことです。

いろいろ勉強してプランターで苗を育てるのはどうだろうかと気付きました。
次の帰国の際にニラ苗を持ち込んでプランターに植えました。今度はかなり育ちました。かなりというのは日本ほど大きくは育たなかったからです。

成長すれば30~40センチはあるりっぱなニラの苗だったのですが、ここではせいぜい15~20センチ程度しかなく茎周りも細かったのです。

しかし、野菜炒めやニラ玉子を作るには何の支障もありませんので、頻繁に利用しています。

そればかりではありません。ニラはニンニク代わりにも使えます。特にパスタ料理には重宝します。

わが家ではツナ・スパゲティをよく作りますが、そこではニンニクを使わずニラをみじん切りにして加えます。ニンニクほどは匂わずしかもニンニクに近い風味が出ます。

またニンニクとオリーブ油で作る有名なスパゲティ「アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノ」にもニラをみじん切りにして加えたりします。

すると味が高まるばかりではなく、ニラの緑色が具にからまって映えて、彩(いろど)りがとても良くなります。
 
見た目が美しいとさらに味が良くなるのは人間心理の常ですから、一石二鳥です。



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ピアッツァの声



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