【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

アッパレな自民党



キンペー&二階


中国が「香港国家安全維持法」を施行させたことに抗議して、自民党は延期されている習近平国家主席の国賓としての日本訪問を中止しろ、と政府に求めるという。

政府は安倍首相が代表だが、自民党総裁もまた安倍首相なのだから、結局その方針は安倍首相主導のものだろう。僕は政治的に安倍首相を支持しないが、この決定は大いに支持する。

米トランプ大統領は、「香港国家安全維持法」に対する中国への抗議を口先だけで吼えて何もしない。いや、香港に認めている経済優遇措置を破棄して一応の制裁は科した。だが中国はそんな制裁など屁とも思っていないだろう。

習近平主席が率いる一党独裁機構内では、彼の一存で14億余の民衆の生き死にさえ縦横に裁断できる。香港が経済的に行き詰まるなら、そこが完全に破綻し人々が死に絶えるまで制裁されたままにしておけばよい、とさえ彼らは考える。

考えるばかりではなく、彼らは計略を実行することができる。それは経済よりもはるかに大きな、抑圧、隠蔽、また暴力御免の、デスポティズムという名の万能カードだ。ここ最近の米中経済戦争において、中国がアメリカが打ち出す政策に一向にひるまないのも同じ背景があるからだ。

米国が香港つまり中国に科した経済制裁は、自由市場経済では重要な意味を持つが、一党独裁国家に対してはそれほどの効果はないだろう。自由主義陣営はそろそろそこに気づくべきだ。そして経済制裁や規制とは違う何かを編み出すほうがいい。

それは米国一国だけではなく、あるいは欧州やEU単独でもなく、むろん日本やインドやカナダやオーストラリアなどの独自策では毛頭なく、自由主義陣営が一丸となって考え実行しなければ決して成功しない。米中経済摩擦でアメリカが単独で中国に対峙して、少しも埒が明かないのが何よりの証拠だ。

だがトランプ大統領は、日本を除くほとんどの先進国と自由主義陣営の国々と対立している。少なくとも蜜月関係にはない。アメリカファーストの利己主義と品格のかけらもない言動が各国の反感を買っている。何でもかんでも彼に従うのはアメリカの従僕に徹して恥じない安倍政権のみだ。

香港国家安全維持法への一応の反撃も米国は一国のみで行った。他の国々を先導して強力な態勢で中国に物申そうという意識がまるでない。当たり前だ。その少し前にはG7をアメリカで開こうとして、コロナ禍を言い訳にする独メルケル首相やカナダのトルド-首相らにさえそっぽを向かれている。全く信用がないのだ。

結局トランプ大統領にとっては自身の選挙だけが重要で、世界の自由と民主主義と人権などという高尚なコンセプトには興味がないのだろう。それどころがコンセプトの意義さえ理解していない可能性がある。だから香港の国安法への対応も一国主義のおざなりなものになってしまっている。

トランプ大統領の変わり映えのしない動きとは裏腹に、日本は自民党が習近平国家主席の国賓としての日本訪問を中止するべき、と主張しはじめたらしい。本気ならアッパレな動きだ。ぜひその方針を維持してほしい。

だが何事につけトランプ大統領の政策にケツナメ追従する安倍政権である。今回も中国に制裁を科したトランプ大統領に盲目的に従っただけ、という見方もあるだろう。だが、それは違うのではないか。

なぜなら曲がりなりにも自民党(つまり安倍政権)独自の考えで明確に習近平訪日を拒否する、と言ったのだから評価されてしかるべきだ。トランプ大統領に追従するだけの外交を展開していた政府、および政権党の自民党にしては、上出来の内容だ。

おそれることなくその線でまい進してほしい。アッパレなものはアッパレだ。従来なら安倍政権つまり自民党は、トランプ大統領のケツをなめる一方で、中国に対してもいい顔をして「習近平主席の訪日を待ち続ける」などと言い張るあたりがオチだったのだから。。


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自業自得なスケープゴート



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5月25日、ニューヨークのセントラルパークで、黒人男性に規則違反を指摘された白人女性が、いわば仕返しに(心理的に)警察に電話をして「黒人が私を脅している」と通報して問題になった。事件は沙汰止みになるどころか捜査が進展して、被告女性は虚偽申告の罪で起訴されることになった。

妥当な結果、と思う一方で、正直少しの違和感も禁じ得ない。

妥当だと思うのは、ビデオに記録された被告と被害者のやり取りの一部始終を見る限り、あたかも相手に暴力でも振るわれたかのように装う被告の演技と嘘は許しがたい。また電話申告の内容は実質、「黒人の男が私を殺そうとしている」と言うにも等しいひどいものだ。

被告の深い人種差別意識があらわになった醜悪な光景もさることながら、電話を受けた警官が現場に駆けつけて、うむを言わさずに被害者の男性を射殺したかもしれない蓋然性を考えれば、恐ろしい内容だ。そういう事件が日常茶飯に起こっているのがアメリカの問題である。

同時に、違和感も覚える。彼女の行為は許しがたいものだが、それがきわめて多くの白人に共通する「秘められた」差別意識であることが分かるから、正義感にあふれた人々が騒げば騒ぐほど、被告がいわばそれを正当化するためのスケープゴートにされているようにも感じるのだ。

被害者が被告女性の攻撃の様子を撮影したビデオがSNSで拡散されたために、彼女は人種差別を理由に事件後すぐに会社をクビになった。さらに彼女は公式に謝罪したにもかかわらず、「殺してやる」という脅迫まで受けたりしている。その後も捜査が進められて起訴にまで至った。

事件発生後の一連の出来事は、正当であると同時にどうも胡散臭いとも感じる。いま述べたように被告はSNSほかで激しく叩かれ死の脅迫さえ受ける一方で、職を失い住まいを追われた。つまり、被告はすでに相当以上に「社会的制裁」を受けている。だから許されるべき、という意見もあるかもしれない。

そういう意味からではないが、僕は彼女に対してどうしても少しの同情を禁じ得ない。繰り返しになるが、人々の(特に白人)中の悪意を見えなくするための大騒ぎのようにも見えて仕方がないのだ。

むろん差別者自身に彼らの差別感情を秘匿する意志がそこで働くとは思えない。が、大勢が騒ぐことで彼らの心の中に巣食う差別意識が知らず隠蔽されていくという効果があらわれる。僕はどちらかといえばその点をより憂慮する。

一方ではまた、言うまでもなく被告が指弾されることで、社会全体の悪意が抉り出されてその毒が弱まる可能性は高い。こうした事件を罰する意義はまさにそこにある。

だが、悪意が心身の奥深くにまで食い込んでいる者、つまり、例えばトランプ大統領の登場によって暴露された、大統領自身を含む半数近い米国人のうちの特に差別意識と憎悪心が強い者にとっては、喧騒は格好の隠れ蓑になる可能性もある。

被告女性を糾弾するばかりではなく、日本のネトウヨ系排外差別主義者らの同類である米国人、つまり差別と憎しみという心の闇に支配されてうごめく、特に白人の米国人の実態について思いをめぐらし監視を続けることが、真の「差別反対思想」やそれへの賛同を示す際の重要なポイントではないか、と考えるのである。





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岡江久美子さんのこと



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テレビ屋という仕事柄、各界の著名な方々に会うことも多い。むろん仕事である。よほどのことがない限り、そのことについては書かない。仕事上の出会いだから、むやみに披露するのは、自分の中においているいわば守秘義務にも似た原則に違反する、と考え自制している。

しかし近年、いきさつとか功績とか人柄などを考慮しつつ、書いて置くほうがいいのではないか、とも考え出している。主に亡くなった方々を中心に。それは大きく言うと歴史の一要素、とも見なせるからである。

イタリアでは取材を通して、誰もが顔や名を知っている方々にお目にかかった。ファッションデザイナーやプロサッカー選手にも多く出会った。90年代が中心である。サッカー選手はもはや全員が現役を引退しているが、健在。一方、デザイナーは亡くなった方も多い。

仕事とはまったく別の場で行き逢った有名人の方もいる。そのひとりが先日新型コロナウイルス感染症で亡くなった岡江久美子さんである。

岡江さんとは僕が大学卒業間近だった頃に、世田谷区・千歳船橋駅近くの居酒屋で偶然に隣り合わせ、年齢が近いこともあったのだろう、とても親しく楽しく語り合った記憶がある。

映画の話を多くした。いつかいっしょに映画を撮りましょう、ぐらいの生意気を言ったかもしれない。僕は大学卒業後すぐにロンドンの映画学校に留学することが決まっていて、いわば気持ちがハイの状態だった。そのことについても多く語ったと思う。

既に有名人なのに岡江さんには気取りも気負いもむろん思い上がりのかけらさえもなかった。お互いに20歳代前半の若者同士とはいえ、社会的な立場は大いに違う。それなのに僕に対している彼女の表情や物腰や言葉使いには、自然体の美しさだけがにじみ出ていた。

文字通り明るくさわやかで聞き上手。大いなる話し上手でもあった。ごく普通の若者だった僕が美形の有名人に萎縮しなかったのは、ひとえに岡江さんの飾らないお人柄ゆえだった。僕は終始あたかも大学の女子学生のうちの、親しみやすい人と会話をしているような気分でいた。

大いなる田舎者の僕は、都会出身の女子学生にいつも憧れていた。東京出身の岡江さんはその典型的な存在にも見えた。垢抜けて麗(うら)らかでしかも可愛い女性だった。僕はまさに学生気分で彼女に対し、岡江さんもおそらくそれに似た気分で返してくれていたような記憶ばかりがある。

その半年後に僕は英国に渡り、4年以上後に日本に帰国してTVディレクターになった。岡江さんがいろいろなところで活躍していることは分かっていた。同じ時代に僕は東京を基点にアメリカのケーブルTV向けの報道番組やドキュメンタリーを矢継ぎ早に作っていた。

その気になればテレビ局やプロダクションなどの関係者を通して、岡江さんにコンタクトを取ることは可能だった。僕らはテレビカメラの向こう側とこちら側、また有名女優としがないディレクターという立場の違いはあるものの、つまるところ同じ業界人同士ではあるのだ。

単にコンタクトを取るばかりではなく、僕は仕事を作って岡江さんに出演を依頼することもできた。米ケーブルTV番組は、日本を紹介する2、3分の報道セグメントから10分前後の報道ドキュメンタリーまたソフトニュースなどから成り立っていた。

僕は若くて未熟ながらも企画アイデアだけは豊富で、連日機関銃のように起案をし、日米混合のスタッフと共にロケに出かけ、編集作業に没頭していた。僕の企画はぼ全てが通って制作に回された。ケーブルテレビはいわば黎明期で新しいことにがむしゃらに挑戦していた。だから僕のような若造の計画でもよく受け入れられたのだと思う。

番組企画のひとつとして、たとえば岡江久美子さんを取り上げて、日本のタレントあるいは女優の生き様、とでもいうようなタイトルで短いドキュメントを制作することも十分に可能だった。ケーブルTVというマイナーな媒体とはいえ、れっきとしたアメリカ向けの番組だから、当時日本人は芸能人やアーチストに限らず、文化人また知識人など、ほぼ誰もが積極的に出演を受けてくれていた。

だが、多忙な日々の中で岡江さんにお願いをする企画を出すことはなく、僕はまもなくニューヨークに移動することになった。そこで2年余り仕事をした後に、今度はイタリアに移住した。それでもどの国にいても日本には仕事や休暇でひんぱんに帰り、岡江さんがTBSの『はなまるマーケット』 などで活躍されていることなども知った。

日本の仕事では主にNHKにお世話になった。が、民放にもかかわりむろんTBSとの仕事もした。しかし、岡江さんとの接点はないまま時間は過ぎた。テレビでお顔を拝見するたびに、遠い昔の記憶を呼び起こしながらひとりで勝手に親しむのみだった。

再会することはなかったが、Covid-19で亡くなったという驚愕のニュースを衛星放送で知って、すぐにイタリアからお悔やみの記事を書こうと思いついた。だが、冒頭で述べたプロのテレビ屋としての自制が勝り、ためらった。

そうこうするうちに岡江さんの訃報から2ヶ月が経った。だが今も新型コロナの脅威は消えていない。たとえば世界一厳しいとされたロックダウンが終わったここイタリアでは、反動で人々のタガがはずれたのか、3密の危険への警戒心などもどこかに吹き飛んだようだ。マスクも付けずに人々が密集して、歓楽にひたる光景がひんぱんに見られる。怖い状況である。

そしてそれは、イタリアほどのコロナ地獄は経験しなかった日本でも、どうやら似たり寄ったりの様相を呈し始めたようだ。ほんの少し前の日本では、志村けんさんや岡江さんの訃報が、人々の中に新型コロナへの強い危機感を植え付けるきっかけになった。

その観点ではおふたりは、自らの死を持って多くの日本人の命を救った、とも言える。それを尊崇する意味でもやはり自分なりに追悼の意思を示しておこうと考えた。また、岡江さんとは仕事でご一緒したことはないのだから、いわば
1人のファンとして個人ブログ上でお悔やみを申し上げるのは許されるのではないか、とも思った。

訃報が公表されて以降、岡江さんのお人柄に対する賞賛が後を絶たない。僕ははるか昔の学生時代に偶然にお会いして、人品の清らかさに感銘を受けた自分の印象と、多くの人々のそれが同じであることを誇りに思いつつ、胸中でそっと手を合わせているのである。



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イタリアの死者数が最低でもコロナはそこにいる


キャンペ女性切り取り


2020年6月27日現在、イタリアの累計感染者数は24万人を超えた。だがそこから回復者数と死亡者数を引いた実質感染者数は16836人。

イメージが湧きやすいように敢えて言えば、イタリアの今日現在のコロナ感染者数は日本の累計感染者数18409人より約1500人も少ない。

世界一のコロナ感染地獄国と化したイタリアが、人々の恐怖と不安と悲鳴と絶望に埋め尽くされていた、一時期の悲惨な状況からは考えられないような改善である。

そのトレンドを確認するかのように、6月27日の死亡者数は8人とコロナ禍が本格化して以来初の一桁台になった。

また集中医療室患者数は97人、とこちらも初の2桁台。新記録である。なお感染拡大時には1日あたりの最大死者数は919人、 集中医療室患者数は4068人にものぼっていた。

イタリアの新型コロナ惨禍は間違いなくいったん落ち着きつつある。だがそれはあくまでも「いったん」だ。先行きは全く見えない。

数字が目覚しい改善を見せた一方で、南部イタリアのナポリ県を含む全国の10の地域であらたに集団感染が発生した。

また夏を迎えほとんどのロックダウン規制が解除されて、国中の至るところで対人距離の確保はおろかマスクさえ付けない人々が、密集し歓談し遊びほうける様子がひんぱんに見られる。

今の状況では、コロナウイルスが奇跡的に且つ自然に消滅でもしない限り、秋から冬にかけて感染流行の第2波、第3波が襲い掛かるのは必定と見える。

そうした状況はイタリアに限ったものではなく、スペインでもフランスでもそしてイギリスでも見られ、心ある人々を戦慄させている。

僕はそろそろ次のロックダウンに備えた動きを始めようかと考えている。ロックダウンには至らなくとも、大きな規制をかけなければ収まらない事態が必ず来る、と思うから。

同時に英オックスフォード大学とイタリアの製薬会社が組んで開発している新型コロナワクチンが、噂通り年内に完成することを期待しつつ。

ワクチンは予定通りならイタリアでもすぐに入手可能になる。そうなればロックダウンも必要なくなるかもしれない、と楽観もしながら。。



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英伊ワクチン同盟



Oxfordワクチンボトル


新型コロナで痛めつけられたイタリアは、日本などの知ったかぶり専門家らに「医療レベルが低い」「感染爆発への対応が悪い」などと、先進国にもあるまじき不備やうっかりやアバウトさを批判されることはあっても、最新の医療分野での新技術や発明や発見などを賞賛されることは少ない。

ところがどっこいイタリアは、欧州の技術革新の基礎になったローマ帝国やルネサンスなどの昔を持ち出すまでもなく、現代の医療分野でもそれなりに傑出した貢献をしている国だ。新型コロナのワクチン開発でも同じ。国内での独自の研究開発とは別に、国外の研究機関や施設とも提携して成果を挙げている。

その最たるものが、ローマ近郊の製薬会社IRBMが英オックスフォード大学のJENNER研究室と共同で進めているワクチン開発。世界では現在、合計140(120という説も)種類前後のワクチンの研究開発が進められている。今のところそのうちでもっとも有望なのが、英伊共同開発ワクチンなのだ。

だがほとんど誰もイタリアの関与には触れない。まず「オックスフォード大学が開発中」と研究機関の名を挙げて報道し議論を展開する。イタリアの名前はずっと後になって申し訳程度に言及するのが普通だ。もっとも言及されることがあれば、の話である。

ワクチンはウイルスを改変したり弱体化させて作るのが従来のやり方である。それは接種された者が病気になる危険などを伴うこともあって、細心の注意を払い用心の上に用心を重ねた治験を経て完成する。早くても1年~2年は時間がかかるのが当たり前だ。

ところがオックスフオード大学とIRBMが共同開発中のワクチンは、従来のものとは違って遺伝子を基に作り出す。そのために時間の短縮が可能になる。同ワクチンは研究開始からわずか数ヶ月で臨床試験に入り、もっとも難しい最終段階の治験を夏にかけて行う。これが成功すれば年内にも実用化する可能性がある。

そんな重大な研究開発に最初から絡んでいるイタリアだが、既述のようにほとんど誰もそのことには言及しない。イタリアの厚生大臣だけがIRBMを持ち上げたり、オックスフォード大学のイタリア人研究開発スタッフを紹介したり顕彰したりして、イタリアが研究開発に一枚噛んでいることを懸命に宣伝している。

あるいはIRBMが民間の製薬会社であることも影響するのか、イタリアにおいてさえワクチンの開発事情い同社の名をからめて語るメディアは少ない。ワクチン開発のような事案では、商業目的の薬剤生産者よりも、大学や研究機関などの高邁な探求や開発に人々の関心が向かい勝ちだからだろう。

BBCなどの世界的に影響力のあるメディアは、人々のそうした思考傾向を踏襲し利用しつつ、大学が英国内の施設である事実から来る「愛国心」にも押されて、いよいよオックスフォード大学の名ばかりを強調して報道する。世界のメディアもこれに追随する。イタリアのメディアでさえも。

そうした風潮の底には、先進国の中のハチャメチャ国・イタリアには最先端の技術、学問、哲学等々は育たない、というひそかな偏見も手伝っていると僕は思う。さすがに創造性と芸術の国イタリア、という大きなコンセプトを看過する者はいないと思うけれども。

それやこれらが重なって、あるいは世界を救うかもしれない天晴れな新型コロナワクチン第1号の開発に、イタリア“ごとき”がかかわっているとはメディアはなかなか主張せず、メディアが口をつぐむので人々も気づかない、という現象が生まれる。メディアはそういう局面では、事実に気づいていても無視する(報道しない)からいよいよ性質が悪い。

オックスフォード大学&IRBMワクチン(と仮称する)には、イギリスとイタリアのほか、フランス、ドイツ、オランダ、さらにアメリカが供給契約に署名した。従ってワクチンは完成した暁にはその6ヵ国にまず行き渡り、その後世界各地にも販売されることになる。

日本や中国をはじめとする世界の多くの国々も、オックスフォード大学&IRBMワクチンには強い関心を抱いている。ワクチンが予定通り最終段階の臨床試験をクリアし、年内に供給が始まれば画期的なことだ。だが懸念がないわけではない。

ワクチンはその有効性と安全性を、摂取量や期間またその道筋などの重要事案を3段階に分けて繰り返し確認し、最終的に大規模集団においても確実に有効性と安全性があると認められたときにのみ生産が許される。最終治験では数千人が対象にされることもあり、もっともコストが掛かる。ハードルも高い。有望とされたワクチンがこの段階でボツになることも多い。

オックスフォード&IRBMワクチンが最後の治験でNGとなる可能性はまだ半分はあると考えられる。そこに至る以前に新型コロナが終息して、商業的にも社会的にもまたモラル的にもワクチンを開発する意味がなくなれば、ワクチン開発は沙汰止みとなる。過去にはSARS(重症急性呼吸器症候群)や、MERS(中東呼吸器症候群)のワクチン開発が途中で立ち消えになった。

儲からない事業は前に進まないのが世界の現実だ。しかし新型コロナの場合は状況が全く違う。開発が中止になることはまずないだろう。それどころか、オックスフォード&IRBMワクチンが成功し供給が開始されても、他のワクチン開発が止むことはない。需要が桁違いに多い分、ワクチンの供給は滞る。従って各事業者は儲けを求めて開発を続け、各国政府は自国民を守るためと称して事業者を援護し、自前のワクチンを手に入れようと躍起になる、と考えられる。



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デブるイタリア



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統計によるとイタリア人は、新型コロナ感染抑止のために行われたロックダウン中に平均2キロ太った。

自宅にこもりきりで運動や散歩もできないのに、いやできないからこそ、人々の食事の量は18%増えた。

不安やストレス、またロックダウンによって十分な食料が手に入らなくなるのではないか、という恐怖感などが悪く作用した。

食べるものはジャンクフードにも似た簡単な内容や作りの料理。砂糖のほかパスタに代表される炭水化物、また脂肪質の豊かなもの。

その一方で、料理の勉強のために時間をかけてじっくりと調理をする独身者や若者も増えたが、飽くまでも少数派だった。

ロックダウンが明けた今、イタリア国民の47%にも当たる人々が、減量が当面の最大の目標と答えている。

良い話もある。ロックダウン中は66%の家庭が、野菜や果物の皮など、食べられない部分を除いて食料をほとんど何も捨てなかったと答えた。

またロックダウン初期の3月には、犯罪も大幅に減少した。昨年同月比で約70%も減ったのだ。DV(家庭内暴力)も37,4%少なくなった。ロックダウン中にDVが増えた英国やフランスとは逆の現象である。

一方、高利貸しなどの悪徳商法の被害者は10%近く増えた。これはロックダウンによる営業縮小で、経済的に行き詰まった小規模事業者や個人が、マフィアなどの犯罪組織から金を借りるケースが急増したもの。

シチリア島をはじめとするイタリア南部では、マフィアほかの犯罪組織が経済的に困窮する人々を救済する振りで金を貸したり贈与するなどして、彼らを借金漬けにして食いつぶす手法が社会問題になってきた。

経済活動がほぼゼロにまで制限されたロックダウン下で、組織犯罪が横行し特に貧しい人々が被害をこうむる事態に、イタリア司法は強い警鐘を鳴らしている。

倒産の不安を抱える企業はイタリア全体で4割近くに上る。パーティーや会食などに出張し料理を提供するケータリングを含む飲食サービス業また歓楽業では、5万社が破産し30万人が失業する可能性がある。

営業再開が全面解禁になったものの40%しかオープンしていないホテル業では、5月だけでも11万8千の季節雇用が失われた。

面白いことにロックダウン中にはおよそ63万人が禁煙に成功した。ただし、電子タバコの喫煙者は43万6千人増加。紙巻きタバコから電子タバコに乗り換えた者が多い、と見られている。

その一方で国家環境保護対策局の分析では、ロックダウンによって海やビーチから人影がなくなったことも手伝って、5400キロメートルに渡る海岸線がクリーンになり環境保全のランクが上がった。
  
またイタリア人のほぼ半数は、新型コロナもなんのその、 ことしも夏のバカンスを計画している。しかし実際に宿泊先などの施設や交通機関等の予約を入れているのは、たった5,5%に過ぎない。

最低でも一週間は滞在するのが当たり前のバカンスに、予約なしで出かける者はまずいない。従って「6月になっても予約を入れていない」とは、ほぼバカンスに行かない、と言っているに等しい。

片やバカンスに出ない、と決めた約半数の国民のうちの25%は、ごく素直に新型コロナが怖いからと答えた。また16%の人々は、コロナの影響で収入が減ってとてもバカンスどころではないという。

結局、コロナにもめげずにバカンスに行く、というのはバカンス好きのイタリア国民の願望、ということなのだろう。いつもの年よりも多くの国民が、7~8月のバカンス期に自宅に留まるのは間違いない。

すると、ロックダウン中ほどではないだろうが、人々はそこでもまた大食らいをしそうな雰囲気である。つまるところイタリア人が痩せるのは、ワクチン待ち、ということのようだ。



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Covid-19を斬る~イタリアの苦悩は尽きない



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欧州の多くの国、またEU加盟国のほとんどがロックダウンを解除し国境を開放した6月15日、イタリアのコロナ死亡者数は2月28日以来もっとも少ない26人を記録した。しかしその後は上昇をつづけ、6月18日には66人、19日には47人が亡くなった。

6月19日現在、イタリアの累計のコロナ死亡者は34561人。感染者の総数はアメリカ、ブラジル、ロシア、インド、イギリス、スペインに次いで世界第7位にまで後退したが、死者数はアメリカ、ブラジル、イギリスに続いて世界第4位。死亡率も高い。

死者数が多いのは、これまでに罹患した人々が亡くなり続けているからである。一日当たりの死亡者が919人にのぼった3月27日以降、日ごとの死者数は徐々に減ってきてはいるが、数字がゼロになるのはまだ先のことになりそうだ。

漸減傾向に変わりはないが、死亡者の数は24時間ごとに減ったり増えたりを繰り返してきた。一方、医療崩壊の象徴とも言われたICU(集中治療室)の患者数は、4月3日の4068人をピークに減り続け、6月19日現在は161人。患者数が前日より増えたのは6月18日のみである。

コロナとの闘いは全く終わっていないが、ICUに余裕ができ新規患者数も死亡者も減って、イタリアの医療の現場は平穏を取り戻しつつある。世界を震撼させた2月の感染爆発と医療崩壊への反省もあり、感染拡大の第2波、第3波への備えも怠りないように見える。

だがコロナで破壊されたイタリア経済の先行きは全くの暗闇だ。イタリアの過酷なロックダウンは-終盤には段階的に緩和されたものの-3ヶ月近くに及んだ。

その間の社会、文化、経済活動の破壊は凄まじいものだった。古くからの経済不振に加え、2010年の欧州ソブリン危機でイタリア経済はさらに落ち込んだ。EU圏内最大の借金約302兆円も抱えている。そこを新型コロナが襲った。

イタリアは一時世界最大のコロナ被害国となり経済が一層停滞した。イタリアでは新型コロナによる打撃によって企業の4割近くが倒産の危機に瀕しているとされる。中でも観光業や飲食業などの被害は甚大だ。

6月3日、イタリアはロックダウンをほぼ全面解除して国内外の移動を自由化。EU加盟国からの観光客やバカンス客も制限なしに受け入れている。ロックダウン期間中はほぼ動きがゼロだった観光業を促進するのが目的である。

イタリアのGDPの13%が観光業によっている。そして観光客の多くは外国人だ。コンテ政権はいま触れたように6月15日を待たずに国内外の観光客の移動を解禁した。が、外国人は言うまでもなくイタリア国内の動きも鈍い。

統計によると、イタリア人のほぼ半数がことしも夏のバカンスを計画している。しかし実際に宿泊先ほかの施設や移動・交通機関などの予約を入れているのは、たった5,5%に過ぎない。

最低でも一週間は滞在するのが当たり前のバカンスに、予約なしで出かける者はまずいない。従って「6月も残り少なくなった今も予約を入れていない」とは、ほぼバカンスに行かない、と言っているようなものだ。

またバカンスを考えている人々の92,3%はイタリア国内での遊興を希望していて、外国にまで足を伸ばす、と答えた者はわずか7,8%にとどまっている。

バカンスに出ない、と決めた約半数の国民のうちの25%は、ごく素直に新型コロナが怖いからと答えた。また16%の人々は、コロナの影響で収入が落ちて、とてもバカンスどころではないという。

イタリア国内における人々の心理的また経済的なあり方は、国によってバラつきはあるが生活水準がほぼ似通っている欧州全体のあり方、と言ってもそれほど乱暴な形容ではないだろう。

そうするとイタリアが国境を開いている国々の人口の半分が夏の旅を考えていて、そのうちの8%弱が外国を訪問しようとしている。そしてその8%弱は行き先別にさらに細かく分けられて、人数が少なくなる。

イタリア全体のホテルは、営業が全面解禁になった今もおよそ6割が営業をしていない。予約が入らないからである。また営業を再開したホテルも、今年の夏のビジネスはほぼ失われたと考えるところが多い。

それはバカンスに行きたい者のうちの5、5%しか予約を入れていない、という国内の統計や、恐らくそれと似たりよったりであろう、欧州全体の状況が如実に反映されたものではないか。

そしてそこに、もしも感染流行の第2波がやってくれば、観光産業においては夏のビジネスどころか、今年の営業収入は全てゼロ、ということにもなるだろう。イタリアの苦悩は少しも尽きるところがないのである。


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景気の気分~ロックダウン解除記念日によせて



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欧州では6月15日、新型コロナの感染拡大を抑えるために敷かれていた移動規制がほぼ全面解除され、EUおよび移動の自由を認めたシェンゲン協定域内での人の移動が自在になった。

あえて楽観的に表現すれば、2020年6月15日は「コロナからの欧州解放記念日」である。むろんコロナの脅威は全く消えていないし、季節が冬に向かえばウイルスはまた牙を剥くのだろう。

それどころか、6月15日を境に欧州全体の社会経済活動が活発になって、冬を待たずにヨーロッパ大陸が再びコロナ地獄に陥る可能性もある。ワクチンの開発まではあらゆる活動再開は暗中での模索だ。

経済破壊が進んだイタリアでは、コロナ恐怖に苛なまれつつも5月4日、建設業と製造業を再開。5月18日に商店や飲食店の営業許可。6月3日以降は全ての移動制限を解除して、EU加盟国からの観光客も受け入れている。

欧州ロックダウンほぼ全面解除直前の週末、正確に記せば6月13日の土曜日、ガルダ湖畔を訪ねた。前アルプスの山並みが迫るリゾート地には、驚くほど多くの地元民や観光客がいた。観光客のほとんどはドイツ人である。

湖畔の町には古くからドイツ人観光客が多い。そこに住み着いたドイツ人も少なくない。ゲーテの時代からドイツ人に愛された場所なのだ。ゲーテ自身もガルダ湖を訪ねて大湖を「海のようだ」と形容した。

町の賑わいには腑に落ちない暗さがあるように感じた。マスク姿の人々と感染予防対策を厳重に施している通りの店のたたずまいが、半ば開いているような半ば閉まっているような印象で、落ち着かない。

ひとことで言えば、働く人々も買い物や飲食を楽しむ人々も、そして明らかにドイツ人と分かる観光客らも、少し無理をして懸命に楽しさを「演出し演技」しているように見えたのだ。

僕はそこにイタリアの観光業の厳しい先行きを見たように思った。経済は人が作り出す生き物だ。その動静をあらわす景気は、気分の景色と書くように人の気分に大きく作用されて動く。

経済学者や専門家は、数字や論理や実体&金融のあり方や学識や机上理財論等々によって景気を語る。そして彼らは往々にしてそのあり方を理路整然と間違う。

専門バカは人の気持ちが分からない。だから人の気持ちの集合が動かす景気が、従って生きた経済が分からない、ということなのかもしれない。

リゾートの町のいわば「空疎な賑わい」は、人々の心がコロナの恐怖で固くなっているからだ。人々は長い外出規制と抑圧から解放されて意気揚々と町に繰り出した。

久しぶりの歓楽はまちがいなく彼らに喜びをもたらしている。だがそれは心の底までしみこむ十全の歓喜ではない。完全無欠の喜悦はコロナの終焉まではおそらく望めないのだ。

ウイルスが消滅することはないのだから、それはごく当たり前に言えばワクチンが開発され人々に行き渡る時、ということだろう。ならばそれは僕自身の心理ともぴたりと符合する。

僕はワクチンが登場するまでは、好きなワインバーやレストランなどに行く気がしない。その気分ではない。多くの人が僕と同じ気分でいるだろう。だから景気は簡単には回復しない。

僕はリゾートの町の通りを急ぎ足に歩いただけで、いつもなら立ち寄る美味いワインが飲める数店のバールやエノテカ(ワインバー)をスルーした。

対人距離を確保して設えられた店のテーブルが満席だったからではない。「気分的に」そこに腰を落ち着けるスペースが見えなかったのである。

イタリア政府は苛烈なロックダウンによって破壊された、特に観光業を救うために早め早めに規制を緩め、国内外からの観光客を呼び込もうと躍起になってきた、だが情勢は厳しい。

イタリアのホテルは営業再開が可能になってもおよそ60%がシャッターを降ろしたままである。営業を再開した飲食店にはガルダ湖畔のように人が集まるケースもなくはない。

だがそうした店で遊ぶことが好きな僕のような人間が、一度、二度三度、と足を運ぶことをためらうケースもまた多い。それらの人々の気分が蝟集して景気が動くことを思えば、やはり先行きは安泰とばかりは言えないようである。


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差別の感じ方&対処法



アジア人攻撃婆あ2


また白人による有色人種差別のエピソードである。

人種差別への抗議デモがアメリカを席巻しているただ中で、そのことを気にするふうもなく差別行為をする。そういう人々がいる現実が差別の根深さとその撤廃の難しさを示唆している。下にURLを貼付する。
https://edition.cnn.com/2020/06/12/us/torrance-woman-park-video/index.html

今回は白人老婆がフィリピン系米人女性に投げつけた激しい侮蔑語の洪水。場所はアジア系の住民が40%近くを占める米カリフォルニア州の町、トーランス。日本人と日系人がきわめて多いことでも知られている。

老婆は数々の罵声の途中で若い女性に言う。「お前がアジアの何国人かは知らないが、とっとと自分の国へ帰れ!ここはお前の家じゃない!」
被害者の女性はCNNのインタビューに「差別問題は知っていたが、それがまさか自分に向けられるとは考えてもいなかった・・」と話した。

被害者女性の「まさか自分に向けられるとは」という思いは、町に多い日本人や日系人のものでもあるだろう。同時にそれは実は全ての日本人のものでもある。この稿では少しそこにこだわりたい。

老婆が繰り返しののしる「アジア人」から僕が先ず連想したのは、アジア人にはむろん日本人も含まれていて、従って老婆の罵声は一歩間違えば日本人にも向けられる性質(たち)の攻撃、ということである。

つまり日本人は世界の中では飽くまでも有色人種なのであり、人種差別はふとしたことで自分にも向けられかねない害悪、と自覚したほうがいい。日本人差別は過去には多く起こり、現在でも世界各地で散発している。要するに今この時に世界を揺るがせている人種差別問題は、事態の進展によっては日本人の問題にもなり得るのである。

人種差別問題では日本人に特有の現象がひんぱんに立ち現れる。つまり日本の内外には、自らがアジア人ではないと無意識に思い込み行動する日本人や、白人か準白人のつもりでいる日本人もきわめて多く、そのことが影響して日本人が人種差別問題に鈍感になる、ということだ。人種差別問題を対岸の火事と捉える日本人は少しも珍しくない。

ましてやそうした人々にとっては、人種差別問題にからんで「自らが差別される側に回る」事態が起こり得るとは思いもよらないことだろう。だが今このエントリーで取り上げているトーランスの町のエピソードを少し注意深く見てみれば、そうも言っていられなくなるのではないか。

加害者の白人女性は明らかに「アジア人は誰も彼も皆同じ」という意識で被害者女性に罵詈雑言を浴びせている。アジア人ではないと無意識に(あるいは意識的に)思っているある種の日本人は、白人女性の差別感情は自分には向けられていない、と主張するかもしれない。

アジア系住民が多いトーランスは、そのアジア人の中でも特に日本人の比率が高いことで知られている。加害者女性もそのことは十分知っているに違いない。それでも彼女はアジア人はアジアに帰れ、と罵倒するのである。繰り返しになるが彼女の言うアジア人にはむろん日本人も含まれている。われわれ日本人はそこのところを真剣に見つめなくてはならない。

自らがアジア人ではないと無意識に思い込み行動する日本人や、白人か準白人のつもりでいる日本人は特に、なによりも先ず自らがアジア人であるという当たり前の現実を冷厳に認めるべきだ。次に常にそれを意識してアジアの人々と対等に付き合い、その上で彼らと共に欧米を始めとする世界にも「対等」な付き合いを要求していくのだ。世界のそこかしこで今回と類似の問題が発覚する度に痛切にそう思う。

それなのに日本には、人種差別主義者のトランプ大統領の太鼓もちに徹する首相がいて、その太鼓もちの動静を喜ぶネトウヨ排外差別主義者や、表は黄色いのに中身が白くなった「アジア蔑視主義者のバナナ国民」が横行している。そんな状況では世界の人種差別問題の意義どころか、そのことに関心さえも抱かない国民が多いのではないか、と危ぶむ。

今世界で巻き起こっている人種差別問題、とくに「黒人差別」問題がよく理解できない人、あるいは実感できない人は、それをまず「アジアと日本」また「アジア人と自分」などの土俵に引き入れて考えてみたらどうだろうか。身近な国や国民との比較で考えれば、あるいは理解が深まるかもしれない。とは言うものの、自らをアジア人と感じない日本人にとってはそれもまた無意味なのだろうが。

日本国内に住んでいる日本人には人種差別問題が中々実感できないことは理解できる。またここイタリアのように親日の人々が多い国に住む者にとっても、居心地が良い分やはり人種差別問題を身近に引き寄せ実感することが難しくなる。むろんこの国にも日本人が嫌いな者はいる。だが人は自分を嫌う他人とはあまり付き合わない。そのため周囲にはますます日本好きのイタリア人ばかりが集うことになる。僕自身の場合もそうだ。

そうではあるものの同時に、故国の外にいる分だけ問題により敏感に反応するのもまた事実だ。今動乱の渦中にあるアメリカははもちろん、欧州でも英仏を筆頭に人種差別問題は頻発する。ここイタリアも例外ではない。多人種が共存する場所では残念ながら避けて通れない課題だ。

そこでは日本人は欧米の人々との友誼を堅持し深化させつつ、自らのアジア人としてのアイデンティティーも直視し続けなければならない。それがぶれることなくまた恐れることなく人種差別問題に対峙する秘訣だ。なぜなら他人種の人々は、表は黄色いのに中身が白いという得体の知れないバナナ的人間よりも、表と中身が一致した本物の、正直な人間を信頼し尊重するものだからである。



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NHKは「BLACK LIVES MATTER」を誤解していないか



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黒人への暴力や構造的差別に反対する抗議デモのニュースで、NHKが「BLACK LIVES MATTER」を「黒人の命“”重要だ」ではなく「黒人の命“”重要だ」と言ったり表記したりするのに強い違和感を抱いてきた。

「は」を「も」に言い換えただけだが、一音違いで差別への認識の濃淡が透けて見えるからだ。英語の「BLACK LIVES MATTER」は、「黒人の命“”重要だ」あるいは「黒人の命“”大切だ」(以下:重要だ、に統一)であって、断じて「黒人の命“”重要だ」ではない。

「黒人の命重要だ」と言えば、黒人の命は白人やアラブ人や日本人やアフリカ人や中国人など、つまり全ての人の命とまったく同じように重要だ、という意味になる。だが「黒人の命“”重要だ」と言えば、黒人の命だけを特別扱いする意味合いが生じる。

そしてそこでの特別扱いの意味はたとえば、「重要ではない黒人の命だが、実は重要なものなのだよ」などとなって、言わば教え諭すような上から目線のニュアンスが入り込む余地ができる。NHKの言い換えの真意もその辺にあるのではないか。

だがそこには、文脈に明白に示されているように、黒人の命だけを特別なものとして扱うことによる黒人差別が秘匿されている。そして、その言い換えは-ここが重要だが-差別するどころかむしろ差別に反対する、という意味でなされている。

黒人や移民との接触が少ない、特に日本人などを含む世界の多くの人々が犯しやすいのは、普段はほとんど気にかけたことさえない黒人差別問題を、ふいに議論のテーマとして目の前に突きつけられた時に、あわててそれを特別扱いしてしまうことだ。

黒人差別が悪いことであるのは誰もが理解している。だから何かが起きると正義感に駆られて抗議の声を上げる。それは欧米、特にアメリカを中心に繰り返し行われてきたことだ。ジョージ・フロイドさん殺害事件への抗議も同じ。むろんその意義や規模の大きさは過去の事例とは非常に違うが。

だが黒人差別問題を身近な事案として「実感できない」人々は、同じく正義感に駆られて抗議行動に出はするものの、往々にして問題の本質を理解しないか、あるいは誤解する。その結果、良かれと思ってしたことが逆の効果を生んだりする。

「黒人の命“は”重要だ」を「黒人の命“も”重要だ」と言い換えることもそうだ。それはあたかも黒人の命だけが重要だ、と主張するのにも似た言わば「善意の差別」だ。正義感は普通並に強いが、黒人差別を実際に自分の町内で見、聞き、実感したことがない現実がそうした齟齬の原因ではないか、と思う。

黒人の命は-敢えて言う必要もないが-白人やアラブ人や日本人やアフリカ人や中国人など、つまりあらゆる人の命とまったく同じように重要である。そのことを全ての人々が極く普通に、自然体で、理解し表明し行動するようになった時、はじめて黒人差別は終焉を迎える。それまでの道のりは長い。

今欧米で起きている抗議デモは、黒人差別を自らの町内で見、聞き、実感している人々の怒りのアクションである。黒人の命重要ではなく、黒人の命重要。なのにそれがそれとして当たり前に認識されないことへの抗議である。黒人の命は特別、と叫んでいるわけではないのだ。

そのことにやや鈍感でいる大部分の日本人の心情がくっきりと現れたのが、NHKの言い換えではないか。日本のメディアで僕が最も信頼するNHKだが、言い換え問題に通じる違和感を時々覚える。その最たるものの一つが、やはりニュースなどでNHKが日本以外のアジアの国々に言及する場合に、全く何のためらいもなく「それらのアジアの国々では~」というふうに表現することだ。

そういう言い方をする時、キャスターやアナウンサーには、ということはつまりNHKの報道の現場には、日本もそれらのアジアの国々と同じアジア国、と言う認識が欠落する。意識的にしろ無意識にしろ、日本はアジアの国ではない、と皆が催眠術にかかったように思い込む瞬間があるのだ。その時の人々の思い込みの中では日本はどこにあるかと言うと、アジアとは違うところの先進国域であり欧米グループの一員、である。

「黒人の命“”重要だ」を「黒人の命“”重要だ」と言い換える軽さには、それと似た無自覚と鈍感と多少の思い上がりと危うさとが併存している、と感じる。日本の良識の牙城-嫌&反NHKの人々が何を言おうがNHKは日本の良識を代表するメディアだーであるNHKがそうだということは、日本人の一般的な意識がほぼそうだということである。NHKは先ず国民があってこそ存在するのだから。

ところがネット論壇などではさらに進んで「Black Lives Matter」を「黒人の命“が”大切」とか「黒人の命“こそ”重要」などと表現する向きもあるらしい。個別の事件にからめてそう記述することが適切な場合もあるかもしれないが、アメリカに始まって欧州ほかにも伝播している今の反人種差別運動のコンセプトの中では、飽くまでも「黒人の命“”重要だ」とするべきだ。

なぜなら-敢えて繰り返すが-黒人の命は、全ての人々の命と寸分の違いもなく重要であり、かけがえのないものだ。そのコンセプトには例外は一切ない。言葉を換えれば、そこでは黒人の命は特別なものではないのである。それを敢えて命“が”、や命“こそ”、などと言い換えて特別扱いすることは、冒頭に触れたNHKの命“も”、と同様に差別を孕んだ表現になってしまう。

特別であり異常であるのは、当たり前に重要でありかけがえのないものである黒人の命が軽視され、差別され、やすやすと奪われさえする現実なのである。それは異常事態だから、普通の、当たり前の状態へと矯正されなければならない。「BLACK LIVES MATTER」運動が目指しているのはまさにそれであり、そのスローガンの正確な訳語は「黒人の命“は”重要だ」である。


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秘められた人種差別こそ真のパンデミック


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黒人のジョージ・フロイドさんが、むごい形で殺害されたことに触発された人種差別反対の抗議デモは、アメリカから欧州に伝播して拡大。特に英独仏等で大きなうねりとなっている。

フロイドさんがミネアポリスで殺害されたちょうど同じ日に、ニューヨークではある意味でフロイド事件よりも重大な意味を持つ出来事があった。

このBBC記事:https://www.bbc.com/news/world-us-canada-52759502
が報告する白人女性による人種差別事件だ。記事の中ほどにあるMelody Cooperさんのツイートがそれである。

事件はニューヨークのセントラルパークで起きた。

黒人のクリスチャン・クーパーさんは、「犬は常にリードにつないでおかなければならない」と明確にサインの出ている場所でバードウォッチングをしていた時、リードから放たれて駆け回る犬を見た。

野生生物が危険にさらされると恐れた彼は、飼い主らしい女性に「お嬢さん、このあたりでは犬をリードでつないでおかないといけませんよ。すぐそこにサインがあるでしょう」と伝えた。

しかし女性が無視(拒否)したので彼は動画で撮影を始めた。すると女性は逆上して「撮影をやめろ。でないと黒人が私の命を脅かしている、と通報する」とクーパーさんに噛み付く。

クーパーさんがどうぞ、なんとでも伝えてください、と言うと女性は犬の首輪をつかみつつ警察に電話。その際の彼女の口振りを忠実になぞると:

女性(マスクをはずし電話に):(セントラルパークの)散策場(ランブル)で黒人が私を撮影しながら私と犬を脅しています。
(正確には「African・Americanman:アフリカ系アメリカ人男性」と発音しているが、敢えてアフリカンを付けることで、黒人であることをもっとさらに強調しようとする意図が見える)

女性(嫌がる犬を無理やり押さえつつ、繰り返す):セントラルパークにいます。黒人が私を撮影しながら私自身と犬を脅しています。

女性(犬が騒ぎ一声吠えるのを押さえて不意に泣き声になって):よく聞こえません。セントラルパークの散策場にいます!男に脅迫されています!すぐに警官を送ってください!


規則違反を指摘されて、恐らく羞恥心も働いたであろう女性の心理も分からないではないが、彼女の嘘と演技と威嚇にはおどろく。

一歩間違えば女性の電話を受けた警察官が駆けつけ、うむを言わさずにクーパーさんを射殺していたかもしれない。

それは少しも大げさな指摘ではない。アメリカではそんなことが日常茶飯に起こっている。ジョージ・フロイドさんの殺害も同じ土壌で発生したのだ。

ちょっとしたことで表に出てしまった彼女の黒人(恐らく白人以外の全ての人種)蔑視の心は、残念ながら少なくない国の、特にアメリカの白人の中に秘められた現実の一つだと思う。

それは常に存在したが、トランプ大統領の出現で米国人のほぼ半数(主にトランプの岩盤支持層)が、そうした人々であることが暴露された。

そのことへの抗議デモが今各地で起こっているわけだが、トランプ大統領がいて且つ彼の岩盤支持層の割合が減らない現実は、差別の撤廃がいかに至難であるかを如実に物語っている。

だからと言って声を上げなければ、差別の解消どころか、そこへ向けての「きっかけ」さえ生まれない。その意味でいまアメリカから世界に広がりつつある黒人差別への抗議デモは重要である。



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こやじ外相のトッツァンボーヤな言動



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ギリシャは6月15日から観光客の受け入れを開始するが、新型コロナの被害が甚大なイタリアからの入国は拒否する、と発表した。

するとさっそく、イタリアのルイジ・ディマイオ外相が「イタリア人の入国を受け入れないのはけしからん」とギリシャに噛み付いた。

あわてたギリシャは、方針を変えてコロナ感染率の高いイタリアの北部4州すなわちロンバルディア、ピエモンテ、ヴェネト、エミリア・ロマーニャからの訪問客のみを規制するとした。

その内容は、6月15日から6月30日の間、4州からの入国者にウイルス検査を義務付け、陽性の場合は2週間、陰性の場合は1週間それぞれホテルなどに隔離する、というもの。

イタリアはこれにも猛反発。特にヴェネト州のルカ・ザイア知事はギリシャの統一性のない規制や解禁は理解不可能、として激しく抗議した。

ちなみにザイア知事は極右の同盟所属。新型コロナが猛威を振るっていた3月には「中国人は生きたネズミを食べる」と発言するなど、差別主義的な思想傾向があるようにも見える。

ギリシャはさらに妥協して、7月1日からはイタリアを含む全ての国からの入国を受け入れ、空港で無作為にウイルス検査だけを実施する、と改めた。

このエピソードにはイタリアの傲岸な一面があらわれているような気がしないでもない。

ギリシャとイタリアは、ギリシャ文明とローマ文明という共通の巨大な歴史足跡を持ち出すまでもなく、心理的にも地理的にもとても近い親和的な間柄だ。

現代では、ギリシャと比較して人口で約6倍、経済規模でおよそ9倍の大きさがあるイタリアから、観光やバカンスで多くの国民がギリシャへ移動し同国経済に貢献する、いう事情もある。両国の関係はイタリアが兄貴、ギリシャが弟の、いわば兄弟分というふうである。

ギリシャの観光業はGDPのほぼ21%を占め、国全体の就労者の4分の一を支えている。ギリシャはウイルスの早期封じ込めに成功した国の一つだが、観光業のほとんどを外国人客に頼っているため、新型コロナの世界的流行で大打撃を受けた。

それは世界中の多くの国と同じだ。が、ギリシャはGDPに占める割合が世界平均の2倍にも当たる巨額を観光業に依存している。ダメージはさらに深刻だ。切羽詰った状況にも押されて、ギリシャは早めに外国人観光客を受け入れることを決めた。

ギリシャが受け入れるのは、EU域内と世界の合わせて29のコロナ低感染国である。同じ欧州内でも感染者が多いスペイン、フランス、イギリスなどは除外される。イタリアだけが入国拒否のターゲットになっていたわけではないのだ。

それを知りつつイタリアがギリシャにねじ込んだのは、「親しい仲ゆえの甘え」という面もあるが、やはり兄貴分としての少しの優越意識もあるようである。それはイタリア国民というよりも、ディマイオ外相の個人的な思いこみの所産、という印象が強い。

ディマイオ外相は、コメディアンのベッペ・グリッロ氏が11年前に創設した五つ星運動の元党首である。30歳そこそこで政界にデビューし、31歳で同党のトップになった。彼はそれまで政治経験はおろかまともに就職したことさえない流浪の若者だった。

「とっつぁん坊や」とも「こやじ青年」ともつかない不思議な雰囲気を持つ彼は、連立政権の出だしのころこそ無難に第一党のリーダー役をこなしているように見えた。しかし時間経過とともに 政治のみならず人生の無経験ぶりももろに影響するのか、やることなすことに精彩を欠くようになった。

ことし2月、イタリアが突然世界最悪の新型コロナ地獄に陥ると、ディマイオ外相は迷い子を彷彿とさせる頼りない言動を繰り返して無力になり、ますます存在感をなくしていった。外相が所属する五つ星運動に近いジュゼッペ・コンテ首相が、鮮やかな手際でコロナ危機に対処する姿とは好対照だった。

だがそんな中でもディマイオ外相は、中国を賞賛することは忘れなかった。中国のマスク外交をありがたがり、武漢の封鎖策を賞賛し、イタリアのロックダウンに口を挟む中国を持ち上げ、イタリア語でいうLeccaculo(ケツナメ)外交を遺憾なく発揮して、習近平主席のケツを舐め続けた。

外相も率いるポピュリストの五つ星運動は、中国の一帯一路構想の信奉者である。イタリア政府は昨年3月、EUを筆頭に多くの国々が反対するのを無視して、一帯一路構想に協力する旨の覚書を中国との間に交わした。そこには政権与党の五つ星運動の、ゴリ押しともいえる猛烈な勧奨があった。

イタリア共和国の外交政策は、いつもしたたかでフルボ(知恵者)で且つ大人然としている。だから覚書自体にはそれほど重みはないと考えられる。イタリアはいざとなれば即座に覚書を破棄する腹積もりだ。だがそれを交わしたことによる中国との関係の深化は、きわめて重大な結果をもたらした。

覚書が交わされたとたんに、イタリアには中国人観光客が大量に押し寄せ、中国人ビジネスマンが急増し、それまでも既に国中に溢れていた中国人移民がさらに増えた。そんな折に新型コロナがイタリアを急襲し感染爆発が起きた。そこには中国人が関係していた、と見る専門家も多い。

しかし、イタリアにはそのことを指摘して中国を非難する風潮は今のところはない。むろん親中国の五つ星運動とその中心人物のディマイオ外相の場合はなおさらだ。中国を責めるどころか相変わらず賞賛するふうでさえある。

不思議なことに反中国の極右政党同盟やその他の右派また中道勢力などからの論難もない。中国の国民ではなく、中国共産党と習近平指導部は新型コロナの流行に責任があるなら厳しく指弾されるべき、と考えている僕はいささか解せない。だがそれが現実である。

感染予防策としてイタリアからの観光客の入国を拒否するギリシャに声高に抗議をするのは、ディマイオ外相の政治パフォーマンスだ。存在感が皆無の最近の外相の仕事は、EUをはじめとする国外の組織や国や仕組みや人物に、反対や反論また抗議の声を挙げてイタリアを、いや、五つ星運動をなめるな、と叫ぶことだけのようにさえ見える。ギリシャに噛み付いたのもその一環だ。

ディマイオ外相は、友好国ギリシャの今このときの暫定的な措置に文句を言う時間があるなら、一党独裁国家中国が新型コロナのパンデミックに関して責任があるのかどうか、また「一帯一路覚書」に象徴されるイタリアの中国への施策に誤謬、行き過ぎ、緩みなどがなかったかどうか、など、もっと重大な事案の考察にも時間を割いてほしいものである。



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コロナ収束祈願


サントリーニ青屋根教会海見下ろし650



一年でヨーロッパがもっとも輝く季節、6月が始まった。花々が咲き乱れ、木々の緑が増し、日差しが強く多くなって万物がめいっぱいに生を謳歌する。

梅雨でじめじめする日本の感覚では分かりづらいかもしれないが、6月のイタリアも1年でもっとも美しい季節だ。

だがここイタリアを含む欧州は未だに新型コロナ禍の真っ只中にある。それでも-アメリカは混乱し世界の感染状況も予断を許さないものの-つい昨日まで世界の感染爆心地だった欧州は落ち着きつつある。

イタリアの感染者と死者の数は減り続け、スペインは6月に入ると同時に一日の死者数ゼロを記録した。フランスまたそのほかの国々の環境も改善している。欧州で最も感染者と死者の数が多い英国でさえも、一部の学校が再開された。

イタリアは6月3日以降ロックダウンが解除され各州間の人の往来も自由になる。EU域内からの外国人の入国も解禁される。つまり義務化された感染予防策を別にすれば、ほぼ全てが新型コロナ以前の相貌に戻る。

いつもの6月は僕にとっては、ギリシャの海などでの休暇を計画する時期でもある。だがことしは新型コロナのせいで様相がまったく違う。バカンスどころではない気分だ。

それでも、もしかすると状態が良くなって、マスクなども気にせずに旅ができるようになるかもしれない、という希望的観測が胸に湧いたりもする。

そうすると思うのは、やはりギリシャの島々である。南イタリアも良いが、そこよりももっと南の、そして地中海の中でももっと東寄りの、できればエーゲ海などの島がいい。

地中海では、同じ緯度なら西よりも東のほうが気温が高く、空気もより乾いている。そのため光はまぶしく清涼感も高く、なにもかもが輝き白色に染まっているような心地よい錯覚をもたらす。

そのうえ6月はとても日が長く、7月や8月ほどには暑くなく、人出も少ない。人出が少ないから旅や移動や宿泊、また飲食や歓楽などの費用もより安い。いいことずくめなのである。

費用の安さという意味では9月~10月も同じだが、陽光の目覚ましさや万物の命の輝き、などという視点からはやはり夏の初めの6月にはかなわない。

ところがことしは大きな障害があると知った。ギリシャは6月15日から観光客やバカンス客を受け入れるが、新型コロナに襲われたイタリアからの入国は拒否すると発表したのだ。

新型コロナの感染が極めて深刻だったイタリアだから当然といえば当然だが、ちょっとおどろいた。ギリシャにとってイタリア人観光客は上得意だし親しみも強い。

背に腹は変えられないということだろうが、少しさびしい気がしないでもない。日本からの入国はOKなので日本人の僕はギリシャ訪問が可能だ。が、イタリア人の妻が渡航できない。

それでなくてもイタリアに長く住み、イタリアに感情移入することが多い僕は、ひとりでそこに渡ろうとは思わない。イタリアがことし2月、突然新型コロナ地獄に陥ってからはさらにその傾向が強まった。

新型コロナ危機に立ち向かうイタリア国民の強さと、真摯と、勇気と、誠実に僕は強く撃たれた。以来、僕のイタリアへの親愛感はさらに深まった。イタリア国籍は持たないが、僕は心情的イタリア人のつもりにさえなっている。

ギリシャは新型コロナの早期封じ込めに成功した国のひとつである、6月1日現在、感染者は2918人 死者は179人に留まっている。一方イタリアは感染者の累計が6月1日現在233197人、死亡者数33475人にものぼる。

イタリアの新型コロナ危機は先に触れたように落ち着きつつある。3月~4月の状況からは想像もできないほどの劇的改善、と言ってもいい。それでも6月1日の新規感染者数は200人、死者も60人と終息と呼ぶには程遠い情勢だ。

今このときの状相 ではギリシャの措置はきわめて妥当だ。ギリシャは最初の受け入れから2週間後の7月1日に、改めて入国受入れ国の見直しを行う予定。そこではおそらく十中八九の割合でイタリア人もギリシャ入国を認められることになるだろう。

そうなった暁には、僕は9月か10月のギリシャ旅を考えるかもしれない。6月には及ばないものの、ギリシャの9月はまだ夏真っ盛りだ。過去の経験では10月も同じ。7月と8月に比べればむしろ凌ぎやすい夏、というふうである。

いずれにしても7月と8月はイタリアで過ごすのが僕らの慣わし。よほどのことがなければ外国には出ない。イタリアに留まること自体が既にバカンス、という気分でさえいます。なにしろイタリアは国全体が世界有数のリゾート地なのだから。

ことし中にギリシャ旅に出ることがあるなら、それは間違いなく新型コロナが収束したか、それに近い状況になっていることを意味する。ぜひそうなっていてほしいものである。終息まではまだ時間がかかるだろうが。。

ところで、

イタリアのディマイオ外相が、イタリアからの観光客の入国を拒否する、とギリシャが発表したとたんに、ギリシャへの抗議と怒りの声を張り上げた。これには僕は冷笑苦笑するしかない。

そのことについては次のエントリーで語ろうと思う。



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 渋谷君への手紙~リスキー・ビジネス



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『 渋谷君

お問い合わせのイタリアのロックダウン解除の件です。

つい最近まで世界最悪の新型コロナ被害国だったイタリアも落ち着いて、通常化へ向けて歩みを始めました。しかし問題は尽きません。

6月3日に予定されているロックダウンの「ほぼ全面解除」を前に、厳しい外出禁止策に疲れ果てた人々が、大挙して街や海やその他の歓楽地に繰り出して物議をかもしたりしています。

マスクの着用や対人距離の確保などの感染予防も忘れて、はしゃぐ人々の様子は欧州で最初の且つ最も長かったロックダウン策の過酷を物語っています。

9割以上のイタリア国民が支持してきたロックダウンですが、人々の心と体への負担は耐えがたいレベルにまで達しています。

ご存じかとは思いますが、欧米のひいては世界のロックダウン策とそこからの出口策の多くは、イタリアが先鞭をつけました。

イタリアはロックダウンの施行法を中国に倣いましたが、民主主義国家ですので一党独裁国の強権的手法をそのまま用いることはできず、あくまでも民主主義の枠組みの中で敢行しました。

その意味でイタリアの先駆けは画期的なものでした。他の欧米諸国が一斉にそれに倣ったのも肯けます。

ひとつ付け加えておけば、イタリアのロックダウン策は国内外から「国民の自由行動を保障する憲法に違反している」とさえ批判されました。

ところが中国政府の専門家は、イタリアのロックダウンは「生ぬるい」と斬って捨てました。独裁国家では権力は、人権も自由も民意も全て無視して思いのままに何でもできますから、そんな発言ができるんですね。

イタリアにおける突然の感染爆発。それを受けての前代未聞のロックダウン。また医療崩壊の悲惨などは、日本でも逐一報道されていました。

しかし感染爆発の連鎖がスペインからフランス、ドイツ、やがてイギリス、アメリカと伝播するに従って、日本の報道はたちまち仏独英米に移りイタリアは忘れ去られました。

欧州は英独仏が中心、また日本の「宗主国」はアメリカ、という報道界(日本国民)の思い込みが露骨に出ました。いつものことですね。

ただ僕は、映像ドキュメンタリーが専門ではありますが、報道番組も多く手がけてきましたので、「報道の偏向体質」の担い手のひとりでもあります。

したがって日本の報道や報道姿勢、またその担い手などを批判する場合には、常に自戒の意味も込めて発言していることは付け加えさせてください。

新聞テレビSNSなどにあふれるそれらの「偏向報道」を監視しつつ、僕はイタリアに居を構え且つイタリア-特にその多様性-を愛する者としての役目も意識しています。

つまり、一貫してこの国の情報を流し続けることです。その意味も込めて、新型コロナ関連では、欧州の中でもまずイタリアの情報を優先させて発信しています。

イタリアは3月10日に導入したロックダウンを、5月4日を皮切りに段階的に緩和し始めました。それはおよそ一週間単位で拡大されてきています。

政策は今のところはうまく行っています。感染の拡大も抑えられています。いうまでもなくウイルスとの闘いは続きますが、かつてのイタリアの惨状は過去のものになりつつあります。

そこでイタリア政府は先日、「感染拡大が再燃すれば即座にロックダウンに戻る」ことを条件に、6月3日をもってロックダウンを全面解除する、と発表しました。

すると前述の如く、人々が解除の10日も前の特に週末などに、一斉に自宅から飛び出しては遊びほうけ、大騒ぎになったりしているのです。

残念ながら新型コロナとのイタリアの闘いは全く終わってなどいません。感染流行第2波への警鐘はけたたましく鳴り響いたままです。

イタリア政府は5月29日現在、予定通り6月3日の全面解除を目指しています。しかし、そうした状況なども勘案して、各州間の人の移動にはしばらくの間規制をかけ続けることも検討しています。

ちなみにロックダウンの解除日が、6月1日の月曜日ではなく6月3日の水曜日とされているのは、間の火曜日がイタリア共和国記念日になっているからです。

第2次大戦後の1946年6月2日、イタリアでは国民投票により王国が否定されて、現在の「イタリア共和国」が誕生しました。以来その日は共和国記念日となっています。

共和国記念日は祭日です。そこで週末と旗日の火曜日に挟まれた月曜日も休みにして、5月30日から6月2日までの4日間が連休。その連休が明ける6月3日が解禁日と決まったのです。

                               それではまた  』


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コロナ忙中の閑


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イタリアが世界最悪の新型コロナ被害地だった頃から今日にかけて、心穏やかでいたつもりだが、やはりCovid-19の悪影響から完全に自由ではいられなかったらしい。

その痕跡は、ここまでテーマを新型コロナ一色に絞って書き綴って来たブログ記事や、コラムその他の文章の内容に如実に示されている。

加えて、移動規制が緩和された今でさえ、外出をひどく億劫に感じたりするのも、おそらくコロナの障りに違いない。

菜園管理にも悪影響が出た。例年3月始めころに果菜類を主体にプランターで育苗をして、4月に直播きの野菜と前後して菜園に移植するが、ことしはまったく育苗をする気になれなかった。

それでも小さな畑に耕運機を入れて土起こしだけはやった。その後、4月も終わりになった頃に、菜園のかなりの部分にサラダ用野菜の混合種をびっしりと蒔いた。

野菜が隙間なく生い茂れば、一部を収穫して普通にサラダとして食べ、残りは雑草の抑えとしてそのまま茂るにまかせるつもりだった。

菜園では、農薬も化学肥料も使わない有機栽培を実行していて、雑草が繁茂し虫が多く湧く。雑草には特に苦労している。

そのせいもあって、以前から生食用の野菜を一面に育てて雑草の邪魔ができないか、と考えていた。それが土にどんな影響を与えるかは知らないが、ことしとうとう実行してみた。

5月になるとミックスサラダの新芽が生い茂った。雑草の害も明らかに少ない。気をよくしつつ一部を収穫して食べるうちに、ふつうに菜園管理への意欲がわいてきた。

先日、苗屋に行ってみた。人々はロックダウン中もきちんと仕事をしていて、りっぱな苗が育っていた。ロックダウンのため店は半ば閉まっているが、訪ねてくる客には販売もしているという。早速トマト、ピーマン、ナス、ズッキーニ、胡瓜、また少しのハーブ苗を購入した。

ことしは毎年自分で育苗をするトマトも育てなかったので、夏以降に行うトマトソース作りも中止、と考えていた。それだけに苗屋で新芽を手に入れられたのは嬉しかった。トマトソースは毎年大量に作って友人らにも裾分けするのが僕の習いだ。

トマトは購入した苗に加えて、昨年の落実から菜園で自然に芽吹いた苗も育ててみることにした。両方がうまく育てば、結局いつもの年よりも多目のトマトソースができることになるだろう。

ところで日本人の中には、トマトソースをイタリア料理の基本と考える人もいるようだが、それは誤解である。イタリア料理では確かにパスタやピザや煮込みなどにトマトソースがよく使われる。

とはいうものの、トマトソースはイタメシの基本でもなければ主体でもない。あくまでも料理素材の一部に過ぎない。

もっとも僕はトマトソースに塩、胡椒のみを加えて、そのまま煮ただけでも美味しいと感じる。そのため他の食材に加えて料理をするばかりではなく、ソースそのものもふつう以上によく食べるけれど。

菜園では、いたるところに蒔いたサラダが生い茂ったおかげで、いつもよりもあきらかに雑草が少ない。今後は毎年同じことをやってみようかとも考えている。

それをやれば連作障害が起きる懸念がある。が、しつこくて始末に困るある種の雑草の成長をブロックできるなら、それでも構わないのではないか、とも思う。実際のところはどうなのだろうか。




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正常化へ向けての日替わりメニュー



ハート背景に抱き合うマスク男女


イタリア政府は、欧州で最も長く且つ最も厳しい新型コロナ対策・ロックダウンを、6月日3日に全面解除すると発表した。人々の動きが自由になり店やレストランや工場やオフィスなど、ビジネスの全てが解禁される。EU域内からの外国人の入国も許可される。

つまり、新型コロナウイルスの感染拡大が確認されれば、ただちにロックダウンを再導入する、という段階的解除の度に付けられてきた条件と同じ要項を別にすれば、ほぼ全ての社会経済生活の営みが新型コロナ以前に戻る、ということである。

最新のイタリア政府の施策の根本は上記のようになっているが、実はここ数日は、ロックダウン解除に向けての政府の方針の細部はめまぐるしく変わっている。

特にレストランやビーチ施設や美容院などの営業再開に向けての緩和基準が、早い再開を要求する事業者自身や、彼らを後押しする野党議員や経済人などの口出しで揺れにゆれている。

ひとつの典型的な例がレストランのテーブルの設定条件。感染は始まったもののロックダウンがまだ導入されなかった頃の規則では、テーブルとテーブルの間を最低1メートル以上空けること、とされた。

その規則は感染拡大が進むに従って厳しくなり、すぐに1、5メートルと改められて次には2メートルなどとも言われた。カフェやバールなどで立ち飲みをする際の、人と人の間隔も似たようなものだった。

ところがその規定は、ロックダウンが解除されて営業を再開する際には、テーブルは4メートル四方内に1セットだけ設定すること、とされた。たった一つのテーブルのために4メートル四方ものスペースを割けというのは、小規模店は営業するな、と言うにも等しい厳しい条件である。

感染のリスクが低くなるように、店の外にテーブルを設置しての営業を促す意味合いも、それにはあったように見える。店の外なら密閉また密集することが少なくなるから、感染防止対策上の理想の形だ。

だが全てのレストランが、店の外に自由に使えるスペースのある場所に建っているわけではない。むしろそうではない店のほうがはるかに多いだろう。

案の定、狭いスペースしか持たないレストランをはじめとする飲食店から激しいブーイングが起こった。すると当局は早速、テーブルとテーブルの間に一定以上の以上の間隔を空けること、と修正した。

そうした混乱に加えて、資金不足や解雇した従業員の再雇用ができないなどの理由で、店を再開できないケースも多くなると見られている。一事が万事そんな具合だ。営業再開に向けてはまだまだ紆余曲折がありそうだ。

イタリアでは法律や法令や自治体の条例などが、施行された後でふいに変わるのは日常茶飯事だ。それらの規則の試行(Prova)期間というものがあって、実際に運用した上で不都合があればさっさと変更される。

それはきわめて現実的で柔軟な制度だ。しかし、はたから見ている者の目には、いつものイタリアのカオスや混乱やいい加減さが顕現したもの、と映りがちだ。つまり例外だらけの法律。それは例外のない法律と同程度の悲喜劇だ。

だがそれほど悪いシステムとも思えない。法律や規則は人間が作り人間に適用されるものだ。実際に施行してみて、人間と人間の関係性に不都合が生まれるならさっさと改訂し、再びトライしてはまた改善すれば良い。

イタリア社会の典則のほとんどは官僚に支配されている。官僚制度の複雑さ奇怪さは日本以上に目に余る。社会機能を停滞させる悪しき仕組みでさえある。ところが同じその体系が、いま述べたように新しく施行される法令等の修正や改定にはとても身軽だ。

それは混乱であると同時にフットワークが良いとも形容できる仕組み。カトリックの古い体質と価値観が、インターネットを駆使する若い政治勢力「五つ星運動」と併存する国、イタリアならではの光景だ。僕はいつものことながらため息をついたり感心したりするのみである。

6月3日をもってイタリアのロックダウンの全面解除が実施されるのは、今後「感染拡大の第2波が襲わない限り」間違いない。しかしその中身の詳細は日々変化していくことが予想される。

そんなわけで、今日ここに記した内容が明日には変わっている、という事態が今後も「ひんぱんに」と形容してもかまわない確立で起きるであろうことを、ここにお知らせし、了解を願っておきたい。


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ロンバルディア州が石橋をたたき続ける理由(わけ)

ドゥオーモ+鳩+消毒AFP650


イタリア政府は先日、コロナ感染抑止策として導入したロックダウンを5月4日から7日周期で徐々に緩和して行き、6月3日に全面解除すると発表していた。

ところが営業許可が出るのが一番最後になるレストランなどの飲食業界と、美容業界から猛烈な抗議の声が挙がり、政府はそれに応える形で2週間前倒しして5月18日に全ての業種の営業再開を認める、と決めた。

収入の道を絶たれて苦しむ勤労者世帯と経済界から歓喜の声が沸きあがる中、ひとつ転遷があった。新型コロナウイルスの最大の被害地、北部ロンバルディア州が政府の決定に異議を唱えたのである。

ロンバルディア州のアッティリオ・フォンターナ知事が、2業種の営業開始を1週間遅らせて5月25日にする、と宣言した。するとすぐに隣接州のピエモンテが知事に同調した。ピエモンテ州はロンバルディア州の次に新型コロナの感染者が多い。

いうまでもなくレストランやカフェは人と人の接触が極めて多い。営業空間も濃密だ。また美容業界も客とスタッフが顔を寄せ合って作業が進む場所だ。

同時に美容室や理髪店では、待合室を含む屋内空間も狭いのが普通だから、感染の可能性が高まる。人懐っこい国民が多いイタリアではなおさらだ。それだけに営業再開がいつも慎重に議論される。

ふたつの業界はまた個人営業である場合が多い。そのため資本的な体力も弱いのが普通だ。閉鎖されている間の政府の支援などがあってもなくても、生き残るのは厳しい業界である。関係者が早期の営業再開を主張するのは当然といえる。

ロンバルディア、ピエモンテ両州の感染状況は、イタリア全体と同じように確実に改善に向かっている。それでも5月14日の新規感染者はロンバルディア州が522人、ピエモンテ州が151人と楽観できない数字になっている。

ちなみに5月14日現在の2つの州の感染者と死者の総計は、それぞれロンバルディア州が83820人、死者は15296人。ピエモンテ州が感染者29209人、死者は3493人である。

両州を合わせたは感染者の数は全国の50%強、死者のそれはほぼ60%。僕も住むここロンバルディア州一州のみの感染者と死者の数は、それぞれ約38%と49%にも達するのである。

そうした状況に鑑みてフォンターナ州知事は、政府が5月18日とした2業種の営業再開日を、一週間遅らせる、と決めたのだ。

その動きは、州都ミラノのジュゼッペ・サーラ市長が5月7日、多くの若者が繁華街に無防備に集まったことに激怒して、「街を再びを閉鎖することも辞さない」と宣言した強い危機意識に通じている。

繁華街のナヴィリオで起きた現象は、ミラノ市長の脅迫じみた宣言も功を奏して、その後ぴたりと収まった。そうしたエピソードが語るように、多様性を重視する結果、時としてエゴイストにさえ見える自己主張の強いイタリア国民の間にも、Covid-19への切迫感と連帯意識は強い。

ロンバルディア州と思いを同じくするピエモンテ州が、前者に倣ってレストランの再開を遅らせたのは理解できることだ。またヴェネト、エミリアロマーニャ、トスカーナなど感染者の多い他の北部各州も、ロンバルディアとピエモンテ両州と同じように経済活動の拙速な全面再開には慎重な姿勢だ。

それでもベニスが州都であるヴェネト州は、隣のフリウリ・ヴェネツィア・ジュリア州との間の人の往来を、政府の決めた期日を前倒しして再開すると決めた。そのようにイタリアでは中央政府の決定と地方のそれが違うことがよくある。それは双方が合意の上で起こる齟齬である。

イタリア共和国の政治の仕組みは、地方がまず在って、その地方の合意の上に中央政府が存在する、と考えればよく理解できる。各地方の独自性、言葉を変えれば全体の中での多様性が重視されるのが当たり前なのだ。

多様性が大きいと国家はまとまりに欠けるように見える。だがそこ には大きなプラス面もある。つまり多様性がもたらす精神の開放と、それに触発された人々の自由な発想の乱舞だ。誰もが自説を曲げずに独自の道を行こうと頑張る結果、イタリア共和国にはカラフルで多様な行動様式と、あっとおどろくような 独創的なアイデアが国中にあふれることになる。  

そして何よりも重要なポイントは、イタリア人の大多数が、「国家としてのまとまりや強力な権力機構を持つことよりも、各地方が多様な行動様式 と独創的なアイデアを持つことの方がこの国にとってははるかに重要だ」と考えている事実だ。要するに彼らは、「それぞれの意 見は一致しないし、また一致してはならない」という部分でみごとに意見が一致する。

多様性を尊重し重視しようとするイタリア国民の確かな哲学は、凄惨な新型コロナ危機を経ても無くなっていない。各州に代表される地方自治体が、中央政府や他の地方とは違う歩みを歩むことを恐れず、恐れるどころかむしろわが道を行く気概を強調しつつ、イタリアは独自のやり方で復興への道筋を見極めようとしている。


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3密空間で食べるイタメシの味


男と女400


イタリアの経済は新型コロナウイルスによって破壊された。いうまでもなくそれは欧州のほとんどの国を含む世界中が同じ状況だが、欧州財務危機以来の不況と借金苦に悩まされているイタリアの現実はより深刻だ。

ジュゼッペ・コンテ首相が5月4日からのロックダウンの段階的緩和を発表したとき、営業開始が遅れるレストランなどの飲食業者と美容師組合などは早速大きな抗議の声を上げた。

それに呼応するように、南イタリア・カラブリア州のヨーレ・サンテッリ( Jole Santelli )知事は、レストランほかの飲食店の営業を政府が指定する6月1日からではなく、解除初日の5月4日から許可すると宣言して物議をかもした。

ベニスではレストランオーナーや美容師らが街の中心のサンマルコ広場に集合して、6月1日を待たずに営業を許可しろと抗議デモを行った。世界に名高い観光都市ベニスを象徴する美しい広場での怒りの集会は、主催者の思惑通りメディアの注目を集めた。

5月4日の第一段階の規制緩和では、約450万人が働く製造業と建設業の営業が許可され、5月18日からは飲食業と美容業以外のほとんど全ての業種の営業が始まる、とされた。しかし営業許可が遅れる業種からは強い不満が沸き起こったのである。

感染拡大への恐れと、経済のさらなる破壊を懸念する声が激突して、イタリアは騒然とした。多様性を何よりも重んじ、自己主張の噴出を当然のこととして受容するイタリア社会の、いつも通りのにぎやかな光景である。

業種ごとに営業許可の日にちが違うのは不公平という反論と、経済の全面的な再始動を要求する財界からの強い圧力にさらされたイタリア政府は、ついにレストランや美容室を含む全ての業種の営業を5月18日付けで許可すると発表した。

それを受けてイタリア高等保健研究所(ISS)と全国労働災害保険機構(INAIL)は、レストランなどの飲食店とビーチ施設等の営業条件を発表した。その内容は:

1.客はレストランへの出入りの際にはマスク着用を義務付けられ、トイレに行くときなど席を離れる際にもにも必ずそれを着ける。

2.テーブルはウエイターの動きも勘案して、4メートル四方内に1セットだけ置くこと。飲食費の精算は人と人の接触を避けるためにWebなどによる電子決算が推奨される。

3.メニューは伝統的なものではなく人が直接に手で触れないものにする。たとえば黒板表記にする。あるいは使い捨ての紙などに書く。またWEBやアプリで見る形などにする。

3.店の必要な場所、たとえばバスルームの出入り口などにはたえず消毒薬を用意しなければならない。客はその使用を義務付けられる。

4.また入店を待って客が集まったり、待合室で人が密集したりすることを避けるために、予約制で営業すること。同じ理由でビュッフェも禁止とする。

など、など。

それらの設備やルールの多くは店側に課せられるものである。だが客にとってもひどく窮屈な内容だ。むろん必要不可欠の措置だろうが、いかにも重苦しい。

個人的には、食べている時間以外は店の中でもマスク着用が義務付けられる環境は、密閉空間にウイルスがふわふわ浮かんでいるような印象。そんなところで、わざわざ金を払って食事をする気には残念ながらなれない。

しかしレストランでぺちゃくちゃしゃべりながら食べたり、ビーチで家族や友人としゃべり遊んだり、いつでもどこでも寄り集まってしゃべりふざけるのが大好きなイタリア人にとっては、ウイルスがいようがいなかろうが、レストランに行けること自体がきっと既に至福なのである。



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渋谷君への手紙~多様性はそれを知らない者も懐抱する 



抱き合うサル600


5月7日のエントリー「多様性という名のカオス」を読んだ保守系の読者の方から、「やはり多様性は良くないのですね」という趣旨のメッセージが届いた。

ちょうど友人の渋谷君に送った書簡(メール)に直結する内容なので、それを彼にも送り、同時にここにも転載しておくことにした。


『渋谷君

多様性というのは絶対善です。絶対とはこの場合「完璧」という意味ではなく、欠点もありながら、しかし、あくまでも善であるという意味です。民主主義と同じです。

民主主義はさまざまな問題を内包しながらも、われわれが「今のところ」それに勝る政治体制やシステムや哲学を知らない、という意味で最善の政治体制です。

また民主主義は、より良い民主主義の在り方を求めて人々が試行錯誤を続けることを受容する、という意味でもやはり最善の政治システムです。

言葉を変えれば、理想の在り方を目指して永遠に自己改革をしていく政体が民主主義、とも言えます。

多様性も同じです。飽きることなく「違うことの良さ」を追求し受容することが即ち多様性です。多様性を尊重すればカオスも生まれます。だがそのカオスは多様性を否定しなければならないほどの悪ではありません。

なぜならそれは多様性が内包するところのカオスだからです。再び言葉を変えれば、カオスのない多様性はありません。

多様性の対義概念は幾つかあります。全体主義、絶対論、デスポティズム
etc。日本の画一主義または大勢順応主義などもその典型です。

僕はネトウヨ・ヘイト系排外差別主義と、それを無意識のうちに遂行している人々も、多様性の対極にあると考えています。

なぜなら ネトウヨ・ヘイト系排外差別主義らは、彼らのみが正義で他は全て悪と見做す。つまり彼らは極論者であり過激派です。むろんその意味では左派の極論者も同じ穴のムジナです。

それらは絶対悪ですが、多様性を信奉する立場の者は彼らを排除したりはしない。 ネトウヨ・ヘイト系排外差別主義は悪だが、同時にそれは多様性の一環と考えるのです。

多様性の精神は、むしろそれらの人々のおかげで、多様性や寛容や友愛や友誼や共存や思いやり等がいかに大切なものであるかが分かる、という意味で彼らは必要悪であるとさえ捉えます。

君も読んでくれた記事「多様性という名のカオス」の中で僕は、
「多様性を重視するイタリア社会は平時においては極めて美しく頼もしくさえあるが、人々の心がひとつにならなければならない非常時には、大きな弱点になることもある。今がまさにそうである。 」
と書きました。あなたはそれを読んで、僕が多様性を否定しているのではないか、と一瞬思ったということですが、あなたも考え直したようにもちろんそれは誤解です。

多様性は非常時には大きな弱点になること“も”ある。という書き方でも分かる通り、僕はそこでは単純に可能性の話をしただけなのです。

最も重要なことは、多様性が平時においては美しく頼もしいコンセプトである点です。非常時には平時の心構えが大きく作用します。つまり、多様性のある社会では、多様性自体が画一主義に陥り全体主義に走ろうとする力を抑える働きをします。

一方でネトネトウヨ・ヘイト系排外差別主義がはびこる世界では、その力が働きません。それどころか彼らの平時の在り方が一気に加速して、ヘイトと不寛容と差別が横行する社会が出現してしまいます。

日本で最後にそれが起きたのが軍国主義時代であり、その結果が第2次大戦でした。日本はまだ往時の悪夢から完全には覚醒していません。つまり多様性が十分にはないのです。

多様性を獲得しない限り、あるいは多様性の真価を国民の大多数が血肉となるほどにしっかりと理解しない限り、日本は決して覚醒できず真に前進することもできないと考えます。


以上

                                      それではまた』




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報道と見解の狭間



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イタリアはロックダウンの段階的解除2週目に入った。解除第一週目の後半には、いわば「自宅軟禁」からの解放感に我を忘れた人々が、大挙して街にくり出して感染拡大への懸念がふいに高まった。

特に感染爆心地・ロンバルディア州の州都、ミラノにあるナヴィリオ地区の人出が大きく取り上げられた。ナヴィリオはミラノ屈指のおしゃれな街。その日はマスク無しで且つ対人距離も無視した多くの若者が集まって顰蹙を買った。

さらに悪いことに、その動きはミラノだけではなく、感染者の少ない南部イタリアの主要都市でも起こっていたことだと判明。早くも感染拡大が再開するのではないか、とイタリア中が大きな不安に揺れた。。

イタリア全土のロックダウンの開始日については、3月9日、3月10日、3月11日、3月12日、などの説がある。それ以前の地域限定の隔離・封鎖処置などの影響もあって、時系列の情報が混乱して伝えられがちだ。

また政府発表が事前にリークされたり、政策発表の日と施行日が混同していたり、さらに法令の内容が迅速に変わったりするのも混乱の原因だ。

ロンバルディア州を中心とする北部5州に適用されていたロックダウンが、全土に拡大されたのは3月10日からだが、措置の発表は3月9日である。

そして3月11日にはその強化策が明らかにされて、翌3月12日から施行される。この日からレストランなどの飲食店も営業が全面禁止になった。それまでは時間を短縮しての営業が認められていた。

イタリア全土の過酷なロックダウンは「3月12日をもって完成した」というのが僕の考え方である。従って僕は「イタリアのロックダウンは3月12日に始まった」と表記し続けてきた。だが正確には3月10日に始まった、と言うべきだろう。

そこで僕はイタリアのロックダウンの一部解除をテーマにした記事、「イタリアは石橋をたたき、またたたいては渡ると決めた」から、ロックダウン開始日を「3月10日」と改めた。

時事ネタの場合は、「報道ではなくいわば“報道にまつわる私見や考察”を書く」というのが僕のスタンスである。従ってロックダウンの正確な日にちは僕にとってはそれほど重要ではない。それを自分が「どう思うか」がポイントなのである。

だが同時に、ブログを情報源として読んでくださる読者がいることも僕は知っている。従っていい加減なことは書けない。そこでイタリアのロックダウン開始日の“ぶれ”の理由についても書いておこうと考えた。

ブログ記事の場合は、新聞・雑誌・本などの紙媒体とは違って、編集者や校正者がいない。全て書き手がひとりで担う。そのために誤字脱字はもとより、間違いや思い違いや思い込みその他の誤謬が多い。

読み返すたびに、信じられないようなミスを発見する。読み返すたびに添削をしている、といっても過言ではない。ロックダウンの開始日の不明瞭も、僕にとってはある意味で誤謬の一つである。

そこでお断りの一筆を入れておくことにした。



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