【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

たかがサッカー。されど、たかがサッカー

躍動1体1650

サッカーとは“たかがサッカー。されど、たかがサッカー”である。それ以上でも以下でもない。

ところがその“たかがサッカー”が、人種問題、国民性、女性差別などの軽くない命題を孕んで存在していると知ると、途端に様子が違って見える。

人種問題とは、主にサッカーの白人ファンが有色人種のプレーヤーを差別し蔑視し罵倒するなどして、軋轢が生じることである。

国民性は、良くも悪くもナショナルチームのプレースタイルや戦術や気構えに如実に現れて、試合展開を面白くする。つまらなくもする。

ごく分かりやすい陳腐な表現で言えば、ドイツチームは個々人が組織のために動く。

イタリアチームは個人が前面に出てその集合体が組織になる。

イングランドチームはサッカーを徹頭徹尾スポーツと捉えて馬鹿正直に直線的に動く。

などということである。

女性差別問題は人々、特にサッカーファンや専門家が、男子サッカーと女子サッカーの「違い」を「優劣」と見なすことから発生する。これはあまたのミソジニーと何ら変わらない重い課題だ。

人種問題は悪ばかりではなく心地よい影響ももたらす。つまり、白人オンリーの欧州各国のナショナルチームが、有色人種の加入によって力強く羽ばたくことだ。

例えばフランスは、移民選手を積極的に育成することでチームを計画的に強くして、1998年ついにワールドカップを初制覇した。

そこではジダンというアルジェリア系移民の選手が活躍。その後は多くの優れた移民選手が輩出しつづけている。最たるものがキリアン・エムバペだ。

ドイツは最も純血主義を守ってきたチームだが、2014年に東欧やトルコまたアフリカ系の選手を擁してW杯で優勝する快挙をなし遂げた。

またほかにも英国、オランダ、ベルギーなどが人種混合のナショナルチームを編成して力をつけた。

人種統合が遅れているイタリアチームにおいてさえ、移民系選手は台頭している。

少し込み入ったそれらのテーマのことは、しかし、世界の強豪チームや天才プレーヤーが躍動する試合を観戦する時には僕はむろん考えない。ひたすらゲームに惑溺する。

そしてできればサッカーは、「 たかがサッカー。されど、たかがサッカー」のままであってほしい、と切に願うのである。




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女子サッカーを断固支持する

FIFA女子スペイン優勝バンザイ写真650

女子サッカーについては今後4年間、つまり次のワールドカップまでほとんど言及することもなさそうなので、やはりここで少しこだわっておくことにした。

今回の女子ワールドカップは大成功だった。男子のそれとは大きな差はあるが、それでも世界で20億人もの視聴者がいたとの推計が出ている。

2023年大会を機に女子サッカーは、ワールドカップもスポーツそのものもはるかな高みに跳躍して、その勢いを保ったままますます発展していくと見られている。

日本女子サッカーのなでしこジャパンは、2011年のワールドカップで優勝し、4年後の2015年大会でも決勝まで進んだ。

今回は2011年大会をも上回る勢いで快進撃したが、準々決勝で敗退。つまりベスト8だ。なでしこジャパンは押しも押されぬ世界の強豪チームなのである。

一方、女子よりもはるかに人気の高い男子サッカー日本代表の強さはどうかというと、ワールドカップでの最高成績はベスト16に過ぎない。

男子サッカーはここ最近は力をつけてきてはいる。だが、世界の舞台ではほとんど目立たない存在だ。

実力もそうだが、むやみやたらにピッチを駆け回るだけのようなプレースタイルとテクニック、またプリンシプルや哲学が良く見えないチームカラーは見ていて寂しい。

日本はスペインを始めとする強豪チームの物まねであるポゼッションサッカーや無意味なボール回し、また“脱兎走り”などを忘れて、「独自の戦術とプレースタイル」を見出す時が来ている。

独創や独自性こそ日本が最も不得手とする分野だ。だがそれを見出さない限り、日本代表男子がW杯で大きく飛躍するのは難しいと思う。

言うまでもなく僕は日本が活躍すれば大喜びし負ければひどくがっかりする。応援もすればチームを鼓舞する目的で、意識して少しのヨイショ記事も書くし発言もする。それらは全て愛国心から出るアクションだ。

だが腹からのサッカーファンで、自らもプレーを実体験し、且つイタリアプロサッカーリーグ・セリエAの取材も多くこなしてきた経験則から正直に言えば、男子日本代表のサッカーは実力もスタイルも見た目も、何もかもまだまだ発展途上だ。

日本が世界の大物チームに期せずして勝ったりすると、僕はふざけて日本が優勝するかも、などという記事を書いたり報告をしたりもする。だがそれは飽くまでもジョークだ。

再び本心を言えば、日本チームが優勝するには懸命に努力を続けても50年から100年ほどはかかるかもしれないとさえ思う。それどころかもしかすると永遠に優勝できないかもしれない。

努力を怠らなければ日本チームは確実に強くなっていくだろう。だがワールドカップで優勝するには、選手のみならず日本国民全体もサッカーを愛し、支持し、学び、熱狂することが必要だ。

しかしながら今のままでは日本国民の心がサッカー一辺倒にまとまることはあり得ない。なぜなら日本には野球がある。世界のサッカー強国の国民が、身も心もサッカーに没頭しているとき、日本人は野球に夢中になりその合間にサッカーを応援する、というふうだ。

よく言われるようにサッカーのサポーターは12人目のプレーヤーだ。国民の熱狂的な後押しは、ピッチ上の11人の選手に加担し12人目、13人目、さらにはもっと多くの選手が加わるのと同じ力となって、ついには相手チームを圧倒する。

サッカー強国とは国民がサッカーに夢中の「サッカー狂国」のことなのだ。日本は野球が無くならない限り、決してサッカー狂国にはならない。すると永遠にワールドカップで優勝することもできない、という理屈だ。

ところがである。

頼りない男子チームを尻目に、片やなでしこジャパンは前述のように、2011年ワールドカップ優勝、その次の2015年大会では準優勝という輝かしい成績を残している。

それなのに、世界では20億人もの人々が大喜びで視聴した2023年女子W杯のテレビ中継は、日本では一向に盛り上がらなかったと聞く。

なぜなのだろう。

理由はいくつか考えられる。

ひとつは女子サッカーの歴史の浅さ。W杯男子は2022大会が22回目、女子は23年大会が第9回目である。

ふたつ目は、女子サッカーのレベル。ゲームを見る者はごく当たり前に既に存在する男子サッカーと較べる。そこでは女子サッカーはレベルが低い、という結論ありきの陳腐な評価が下される。

重要事項の男子と女子の「違い」は無視される。それどころか多くの場合「優劣」の判断材料にされてしまう。男女の「違い」こそが最も魅力的な要素であるにも関わらずだ。

その判断は日本が世界に誇る男尊女卑のゆるぎない精神と相まって、女子サッカーはますます立つ瀬がなくなる。男尊女卑の風潮こそ日本の諸悪の根源の最たるものだが、サッカーに於いても事情は変わらない。

ミソジニストらは、なでしこジャパンが2011年ワールドカップで優勝しその次の2015年大会で準優勝しても、価値のない女子W杯での成績だから意味がない、とはなから決めつけている。

頑迷固陋な、お家絶対、❛男が大将❜メンタリティーの男らが、女子サッカーを睥睨し、結果世界が熱狂的に支持する女子サッカーが日本では軽視あるいは無視される。

世界は女子サッカーの魅力を発見して興奮している。片や日本はなでしこジャパンのすばらしい実績さえ十分には認めず、密かな女性蔑視思想に心をがんじがらめにされているのだ。

男子サッカーは女子サッカーに先んじて歴史を刻んだ。のみならず男子サッカーは、女子に較べて速く、激しく、強く、従って女子よりもテクニックが上と判断される。

それは飽くまでも偏固な思い込みだ。なぜなら女子サッカーと男子サッカーの間にある違いは、個性と同義のまさに「違い」なのであって、人々が自動的に判断している「優劣」ではないからだ。

実際に自分でもプレーし、子供時代には「ベンチのマラドーナ」と呼ばれて相手チームの選手を震え上がらせていた僕は、サッカーの楽しさと難しさを肌身に染みて知っている。

W杯で躍動する女子選手のプレーとそれを支えるテクニックは― 選び抜かれたアスリート達だから当たり前といえば当たり前だが―圧倒的に高く、美しく、感動的だった。

女子サッカーの厳しさとテクニックの凄さが見えない批判者は、十中八九過去にプレーの実体験がない者だろう。

一方、プレー体験があり、サッカーをこよなく愛しながら、なおかつ女子サッカーを見下す者は、多くが執拗なミソジニストである。

弱く、美しくなく、泣く泣くの日本男子サッカーを応援するのもむろん大切だ。

だが、既にワールドカップを制し、堂々たる世界の強豪チームであるなでしこジャパンを盛り上げないのは、どう考えても何かがおかしい。




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女子サッカーに絡まるいつものミソジニー

万歳アメリカ650

女子サッカーのワールドカップが終わった。見ごたえのある試合が多かった。

女子サッカーのレベルは高く、しかも進化向上していくであろう糊しろが大きいと感じられるところが、さらにすばらしいと思った。

女子サッカーを評価しない人々の間には、女子のゲームには男子サッカーとは違うルールを導入したほうがいい、という意見が根強くある。

僕はその意見には2つの意味で反対である。

一つは、女子サッカーは今のルール、つまり男子と全く同じルールのままで十分に面白い。

女子選手の欠点と見られやすい部分は、むしろ女子の長所とさえなっていて好ましいと思う。

二つ目は、ルールを変えろと主張する人々の多くが密かに、だが断固として抱えている、ミソジニーへの強い不同意だ。

女子サッカー懐疑論者が言いたがる女子の試合の欠点とは、プレーが、従って試合展開が遅い、当たりに激しさがない、テクニックが男子に比べて低いなどだ。

だがそれらの論難は、ほとんど言いがかりと呼んでもいいものだ。

試合展開が遅いように見えるのは、女子のプレーがていねいだからだ。激しさがないのは、女子が暴力的な動きをしないからだ。言葉を替えればプレーに誤魔化しがないのだ。

テクニックが男子に比べて低いように見えるのは、動きが男子よりほんのわずかに遅い事実と、体当たりなどの粗暴なアクションの欠如が生み出すファントムである。

要するに批判者が言う、展開が遅い、当たりが激しくない、低テクニックなどとというのは、密かな女性蔑視に基づく主張なのである。

言葉を替えれば彼ら批判者は、女子と男子の「違い」を「優劣」と勘違いしている。

違いは断じて優劣ではない。違いとは、それぞれが美しい個性を発現して輝いているということだ。

女子サッカーが個性的で好ましい理由をさらに少し付け加えておきたい。

例えば批判者の言うスピード不足には、ほんの一瞬の時間のズレが有利に働いてプレーの詳細が鮮明に見える、という利点がある。

また女子選手も試合中は十分に激しく当たり合う。だが既述の如く男子並に「暴力的」にはならない。のみならず彼女たちは、暴力に頼らない分を巧みなテクニックでカバーしていると見える。

男子が往々にして見せる激しい当たりにこだわると、肝心のプレーテクニックがおろそかになる。そこで女子選手は腕力を避けて技に心血を注ぐのだ。むしろ好ましい現象である。

また女子のテクニックが男子に比べて低いというのは、前述のように多くの場合は誤解と偏見がからまった錯覚だ。

陸上、水泳、体操、スケートetc では、男女の違いが違いとして認識されていて、それぞれに面白い内容のゲームが繰り広げられる。

さらに言えばプロテニス、ゴルフ、バスケットなどにはルールに男女の隔たりはない。サッカーも同様に男女間で差のない現状のルールで十分に魅力的だと思う。

しかしながら、

それらのことをしっかりと認識した上で、男女間の「違い(優劣ではない!)」をさらに強調しての、ルールの変更はあり得るかも知れない。

ピッチを少し小さくし、その分ゴールも低く狭くすれば、今でも面白い女子サッカーに更なる個性が加わって魅力が増す、というのは考えられないことではない

バレーボールが参考になる。バレーボールではネットの高さが男女で少し違う。一般的に上背のある男子のネットが女子よりも高く設定されている。

その違いは男女のゲームに明確な差異をもたらし、試合内容が一層楽しいものなる。

ただでも強い男子のスパイクは、高いネット上から繰り出されることによって、いよいよスピードと破壊力が加わる。それが男子のゲームを面白くする。

一方少し低い地点から打ち込まれる女子のスパイクは、破壊力とスピードはやや劣るものの、相手側がそれを受け、トスし、打ち込み、こちらがそれを受けて連携する、というラリーが生まれやすくなる。

実際に女子のバレーボールは、華麗なテクニックから生まれるボールの激しいやり取りが大きな魅力になっている。

女子サッカーも、バレーボールに習ってゴールの大きさを変えプレー空間を縮小することで、更なる個性と魅力が加わる可能性がないとは言えない。

ミソジニーをかなぐり捨てて、当たり前のリスペクトに基づき女子の個性をうまく引き出せば、女子サッカーの人気は男子のそれに一気に近づくことも不可能ではないと思うのである。






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プーチンは❛歩く死体❜を❛ただの死体❜に変えて自身の死期をケムに巻いた

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ロシア非常事態省は8月23日、民間軍事会社ワグネルの創始者プリゴジン氏の自家用機が、モスクワの北西約300キロ地点で墜落し、乗員3人と乗客7人の計10人全員が死亡したと発表した。

プリジコジン氏は6月、プーチン大統領への反乱を起こした。それは失敗し彼は許されたように見えた。だが反乱後はプリジコジン氏が歩く死体であることは明らかだった。

そうではあるものの、彼がベラルーシ、アフリカ、ロシア間を自在に行き来しているらしい様子は、あるいはプーチン大統領の支配力が低下した証かも知れない、などの憶測ももたらした。

プーチン大統領はプリコジン氏を密かに消すのか、見せしめを兼ねて派手に殺るのかと僕は興味津に見ていたが、非情であり異様なスパイであるプーチン大統領は後者の方法を選んだ。

プーチン大統領の非情さは分かり切ったことだが、隠微を好む傾向があるスパイでありながら、プリコジン氏が乗ったジェットを爆破(撃墜という報も)し、ビデオ撮影させて世界中に発信した手法はラスボスらしい大胆さ。不気味でさえある。

また異様にも見えるのは、プーチン大統領が事件から24時間も経たないうちにテレビ演説で、「事故の犠牲者と家族に哀悼の意を表する」とヌケヌケと述べたことだ。ロシア国内での彼の力は弱まってなどいないことを如実に示すエピソードだった。

プーチン大統領は、今回のプリコジン氏を含め少なく見積もっても30人ほどの政敵や批判者を殺害した疑いがある。100人を超える、という主張さえある。だが、証拠は一切ない。心証はしかし、100%クロである。

プリコジン氏の乗った飛行機が、ロシア上空で爆破されてまっ逆さまに墜落したのと時を同じくして、アメリカではトランプ前大統領がジョージア州フルトン郡の拘置所に出頭し、逮捕された。

彼は続いて指紋を採取され、顔写真を撮られ、身長・体重などを記録された。その後、およそ20万ドル(約2900万円)の保証金を支払って釈放された。

前大統領の拘置所での登録番号は「P01135809」。いかにも凶状持ちという表号で彼にふさわしい。

トランプ前大統領が起訴されて出頭し、逮捕と保釈の一連の手続きを取ったのは、今年だけでなんと4回目だ。

こんな男が再び本当にアメリカ大統領になるのだろうか?彼が暗殺に手を染めていないのは、民主主義国家のトップという立場がもたらした僥倖に過ぎない。

トランプ前大統領が、彼の地金であるファシストの本領を発揮できる国家の指導者であったならば、彼はプーチン大統領に負けずとも劣らない独裁者となり、暗殺指示も朝飯前の暴君となることだろう。

プーチン大統領は、世界の多くの人々が願った権力喪失の罠にはどうやらはまっていないようだ。結果、圧制者としての彼の死期も見えない。

トランプ氏が来年大統領に返り咲けば、シューキンペー国家主席も加わって、世界はまたもや反民主主義勢力が跋扈する、暗殺陰謀フェイクニュース満載なんでもありの、タノシー世界になりそうである。



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令和5年8月15日に聞く東京だョおっ母さん&兵士葬送曲の危うさ


 河嶋靖国800

                               ©ザ・プランクス


島倉千代子が歌う、母を連れて戦死した兄を靖国神社に偲ぶ名歌、「東京だョおっ母さん」を聞くたびに僕は泣く。言葉の遊びではなく、お千代さんの泣き節の切ない優しさに包まれながら、東京での学生時代の出来事を思い出し、僕は文字通り涙ぐむのである。

僕は20歳を過ぎたばかりの学生時代に、今は亡き母と2人で靖国神社に参拝した。僕の靖国とは第一に母の記憶だ。そして母の靖国神社とは、ごく普通に「国に殉じた人々の霊魂が眠る神聖な場所」である。母の心の中には、戦犯も分祀も合祀も長州独裁も明治政府の欺瞞も、つまり靖国神社の成り立ちとその後の歴史や汚れた政治に関わる一切の知識も、従って感情もなかった。母は純粋に靖国神社を尊崇していた。

「東京だョおっ母さん」では戦死した兄が
優しかった兄さんが 桜の下でさぞかし待つだろうおっ母さん あれが あれが九段坂 逢ったら泣くでしょ 兄さんも♫
と切なく讃えられる。

歌を聞くたびに僕は泣かされる。靖国に祭られている優しい兄さんに、同じ神社に付き添って行った温和で情け深い母の記憶が重なるからである。

だが涙をぬぐったあとでは、僕の理性がいつもハタと目覚める。戦死した優しい兄さんは間違いなく優しい。だが同時に彼は凶暴な兵士でもあったのだ。

優しかった兄さんは、戦場では殺人鬼であり征服地の人々を苦しめる大凶だった。彼らは戦場で壊れて悪魔になった。歌からはその暗い真実がきれいさっぱり抜け落ちている。

日本人は自分の家族や友人である兵士は、自分の家族や友人であるが故に、慈悲や優しさや豊かな人間性を持つ兵士だと思い込みがちだ。

だが僕は歌を聞いて涙すると同時に、「壊れた日本人」の残虐性をも思わずにはいられない。

不幸中の幸いとも呼べる真実は、彼らが実は「壊れた」のではないということだ。彼らは国によって「壊された」のだった。

優しい心を壊された彼らは、戦場で悪鬼になった。敵を殺すだけではなく戦場や征服地の住民を殺し蹂躙し貶めた

兵士の本質を語るとムキになって反論する人々がいる。

兵士を美化したり感傷的に捉えたりするのは、日本人に特有の、危険な精神作用だ。

多くの場合それは、日本が先の大戦を「自らで」徹底的に総括しなかったことの悪影響である

兵士を賛美し正当化する人々はネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者である可能性が高い。

そうでないない場合は、先の大戦で兵士として死んだ父や祖父がいる者や、特攻隊員など国のために壮烈な死を遂げた若者を敬愛する者などが主体だ。

つまり言葉を替えれば、兵士の悲壮な側面に気を取られることが多い人々である。その気分は往々にして被害者意識を呼び込む。

兵士も兵士を思う自分も弱者であり犠牲者である。だから批判されるいわれはない。そこで彼らはこう主張する:

兵士は命令で泣く泣く出征していった彼らは普通の優しい父や兄だったウクライナで無辜な市民を殺すロシア兵も国に強制されてそうしている可哀そうな若者だ、云々。

そこには兵士に殺される被害者への思いが完全に欠落している。旧日本軍の兵士を称揚する者が危なっかしいのはそれが理由だ。

兵士の実態を見ずに彼の善良だけに固執する、感傷に満ちた歌が島倉千代子が歌う名曲「東京だョおっ母さん」なのである。

凶暴であることは兵士の義務だ。戦場では相手を殺す残虐な人間でなければ殺される。殺されたら負けだ。従って勝つために全ての兵士は凶暴にならなければならない。だが旧日本軍の兵士は、義務ではなく体質的本能的に凶暴残虐な者が多かったフシがある。彼らは戦場で狂おしく走って鬼になった。「人間として壊れた」彼らは、そのことを総括せずに戦後を生き続け多くが死んでいった。

日本人の中にある極めて優しい穏やかな性格と、それとは正反対の獣性むき出しの荒々しい体質。どちらも日本人の本性である。凶暴、残虐、勇猛等々はツワモノの、つまりサムライの性質。だがサムライは同時に「慎み」も持ち合わせていた。それを履き違えて、「慎み」をきれいさっぱり忘れたのが、無知で残忍な旧日本帝国の百姓兵士だった。

百姓兵の勇猛は、ヤクザの蛮勇や国粋主義者の排他差別思想や極右の野蛮な咆哮などと同根の、いつまでも残る戦争の負の遺産であり、アジア、特に中国韓国北朝鮮の人々が繰り返し糾弾する日本の過去そのものだ。アジアだけではない。日本と戦った欧米の人々の記憶の中にもなまなましく残る歴史事実。それを忘れて日本人が歴史修正主義に向かう時、人々は古くて常に新しいその記憶を刺激されて憤るのである。

百姓兵に欠如していた日本人のもう一つの真実、つまり温厚さは、侍の「慎み」に通ずるものであり、優しい兄さんを育む土壌である。それは世界の普遍的なコンセプトでもある。戦場での残虐非道な兵士が、家庭では優しい兄であり父であることは、どこの国のどんな民族にも当てはまるありふれた図式だ。しかし日本人の場合はその落差が激し過ぎる。「うち」と「そと」の顔があまりにも違い過ぎるのである。

その落差は日本人が日本国内だけに留まっている間は問題ではなかった。凶暴さも温厚さも同じ日本人に向かって表出されるものだったからだ。ところが戦争を通してそこに外国人が入ったときに問題が起こった。土着思想しか持ち合わせない多くの旧帝国軍人は、他民族を「同じ人間と見なす人間性」に欠け、他民族を殺戮することだけに全身全霊を傾ける非人間的な暴徒集団の構成員だった。

そしてもっと重大な問題は、戦後日本がそのことを総括し子供達に過ちを充分に教えてこなかった点だ。かつては兄や父であった彼らの祖父や大叔父たちが、壊れた人間でもあったことを若者達が知らずにいることが重大なのである。なぜなら知らない者たちはまた同じ過ちを犯す可能性が高まるからだ。

日本の豊かさに包まれて、今は「草食系男子」などと呼ばれる優しい若者達の中にも、日本人である限り日本人の獣性が密かに宿っている。時間の流れが変わり、日本が難しい局面に陥った時に、隠されていた獣性が噴出するかもしれない。いや、噴出しようとする日が必ずやって来る。

その時に理性を持って行動するためには、自らの中にある荒々しいものを知っておかなければならない。知っていればそれを抑制することが可能になる。われわれの父や祖父たちが、戦争で犯した過ちや犯罪を次世代の子供達にしっかりと教えることの意味は、まさにそこにある。

真の悪は、言うまでもなく兵士ではない。戦争を始める国家権力である。

先の大戦で多くの若い兵士を壊して、戦場で悪魔に仕立て上げた国家権力の内訳は、先ず昭和天皇であり、軍部でありそれを支える全ての国家機関だった。

兵士の悪の根源は天皇とその周辺に巣食う権力機構だったのである

彼らは、天皇を神と崇める古代精神の虜だった未熟な国民を、情報統制と恐怖政治で化かして縛り上げ、ついには破壊した。

それらの事実敗戦によって白日の下にさらされ、勝者の連合国側は彼らを処罰した。だが天皇は処罰されず多くの戦犯も難を逃れた。

そして最も重大な瑕疵は、日本国家とその主権者である国民が、大戦までの歴史と大戦そのものを、とことんまで総括する作業を怠ったことだ。

それが理由の一つになって、たとえば銃撃されて亡くなった安倍元首相のような歴史修正主義者が跋扈する社会が誕生した。

歴史修正主義者は兵士を礼賛する。兵士をひたすら被害者と見る感傷的な国民も彼らを称える。そこには兵士によって殺戮され蹂躙された被害者がいない。

また彼らは軍国主義日本が近隣諸国や世界に対して振るった暴力を認めず、従ってそのことを謝罪もしない。あるいは口先だけの謝罪をして心中でペロリと舌を出している。

そのことを知っている世界の人々は「謝れ」と日本に迫る。良識ある日本人も、謝らない国や同胞に「謝れ」と怒る

すると謝らない人々、つまり歴史修正主義者や民族主義者、またネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者らが即座に反論する。

曰く、もう何度も謝った。曰く、謝ればまた金を要求される。曰く、反日の自虐史観だ。曰く、当時は誰もが侵略し殺戮した、日本だけが悪いのではない云々。

「謝れ!」「謝らない!」という声だけが強調される喧々諤々の不毛な罵り合いは実は事態の本質を見えなくして結局「謝らない人々」を利している

なぜなら謝罪しないことが問題なのではない。日本がかつて犯した過ちを過ちとして認識できないそれらの人々の悲惨なまでの不識と傲岸が、真の問題なのである。

ところが罵り合いは、あたかも「謝らないこと」そのものが問題の本質であり錯誤の全てでもあるかのような錯覚をもたらしてしまう。

謝らない或いは謝るべきではない、と確信犯的に決めている人間性の皮相が、かつて国を誤った。そして彼らは今また国を誤るかもしれない道を辿ろうとしている。

その懸念を体現するもののひとつが、国民の批判も反論も憂慮も無視し法の支配さえ否定して、安倍元首相を国葬にした岸田政権のあり方だ。

歴史修正主義者だった安倍元首相を国葬にするとは、その汚点をなかったことにしその他多くの彼の罪や疑惑にも蓋をしようとする悪行である。

戦争でさえ美化し、あったことをなかったことにしようとする歴史修正主義者が、否定されても罵倒されても雲霞の如く次々に湧き出すのは、繰り返し何度でも言うが、日本が戦争を徹底総括していないからだ。

総括をして国家権力の間違いや悪を徹底して抉り出せば、日本の過去の過ちへの「真の反省」が生まれ民主主義が確固たるものになる。

そうなれば民主主義を愚弄するかのような安倍元首相の国葬などあり得ず、犠牲者だが同時に加害者でもある兵士を、一方的に称えるような国民の感傷的な物思いや謬見もなくなるだろう。

今のままでは、日本がいつか来た道をたどらないとは決して言えない。

拙速に安倍元首相の国葬を行った政府の存在や兵士を感傷的に捉えたがる国民の多い社会は、78回目の終戦記念日を迎えても依然として平穏な戦後とはほど遠い、と僕の目には映る。



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女子サッカーには未来がある

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女子サッカーW杯の準々決勝で、なでしこジャパンが負けてしまった。

そこまでの戦いぶりは、2011年のW杯で優勝した時よりも勢いのある進撃だったので、僕は密かに優勝を確信していた。

だが、やはり世界の壁は薄くはない。

僕が女子サッカーの魅力に気づいたのは― 恐らくたくさんのサッカーファンがそうであるように― 2011年のW杯を通してだった。

決勝戦で日本のエースの澤穂希選手が見せた絶妙のヒールキックに僕は呆気に取られた。

世界トップの男子プロ選手にも匹敵する彼女のテクニックは、僕の目のウロコを30枚ほどはがしてくれた。

だがそれ以後は女子サッカーに僕の関心が向かうことはなかった。2015年、2019年のW杯もほとんど記憶がない。

2015年には日本は準優勝したにも関わらずである。そのあたりに女子サッカーの人気の限界が垣間見えると言えそうだ。

ことしの大会も、快進撃するなでしこジャパンを英BBCが絶賛している報道を偶然目にして、はじめて大会を知り俄然興味を持ったという具合だった。

関心を抱いてからは、ハイライトシーンを主体に試合の模様を追いかけてきた。

そこには目の覚めるようなプレイの数々が提示されている。世界の女子サッカーのレベルは高いと思う。

女子サッカーを評価しない人々は、試合展開が遅い、激しさがない、テクニックが男子に比べて低いなどど口にする。

だが、ハイライトシーンを見る限りでは試合展開はスピーディーで、当たりも激しく、プレイの技術も十分に高いと感じる。

映像がハイライトシーンの連続、という事実を差し引いても見ごたえがあるのである。

女子サッカーは男子のそれとは違うルールにしたほうがいい、という声もある。

動きが遅く体力差もあるので、ピッチを小さくしそれに伴ってゴールも小さくする、というものである。

だが世界のトッププレーヤーが躍動するW杯を見ていけば、その必要はないという結論になる。

例えばゴルフの男子プロと女子プロのルールは全く同じだが、男子と女子では面白さが違う。人気も拮抗している。もしかすると女子プロの人気のほうが高いくらいだ。

女子サッカーも時間が経つに連れて、男子とは違う独自の面白さをもっとさらに発揮して行くと思う。

例えば批判者の言うスピード不足は、むしろほんの一瞬の時間のズレ故にプレイの詳細が鮮明に見える、という利点がある。

当たりの激しさがないという批判に至ってはほとんど言いがかりだ。選手たちは十分に激しく当たる。だが男子のように暴力的にはならない。

女子選手たちは暴力に頼らない分を、巧みなテクニックでカバーしていると見える。むしろ好ましい現象だ。

テクニックが男子に比べて低いというのは、男子とのスピードの違いや、粗暴な体当たりの欠如などが生み出す錯覚に過ぎない。

今この時の世界のトップ選手が活躍する女子W杯の内容は十分に豊かだ。しかも進化、向上していくであろう糊しろが非常に大きいと感じる。

今後プレー環境が改善されて競技人口のすそ野が広がれば、女子サッカーのレベルがさらに飛躍的に高まり、人気度も男子に拮抗するようになるかもしれない。

例えば女子ゴルフのように。

あるいは女子バレーボール並みに。

その他多くのスポーツ同様に。









知識ではなく情感を豊かにする作業が読書である

Tintom窓絵650

読書とは役に立たない本を読むことだ。経済本や金融本、各種のノウハウ、ハウツーもの、またうんちく、知見、学術、解説等々の本を読むのは読書ではない。それは単なる情報収集作業である。

実用が目的のそれらの本に詰まっている情報はむろん大切なものだ。すぐに役に立つそれらの消息は人の知識を豊富にしてくれる。大いなる学びともなる。

だがそれらの情報は、思索よりも情報自体の量とそれを収集する速さが重視される類の、心得や見識や聞き覚えであって、人間性を深める英知や教養ではない。

要するに読書とは、すぐには役に立たないが人の情感を揺さぶり、心や精神を豊かにし深化させてくれる小説、詩歌、随筆、エッセイ、ドキュメント等々に触れること。特に人間を描く小説が重要だ。

人は一つの人生しか生きられない。その一つの人生は、他者との関わり方によって豊かにもなれば貧しくもなる。そして他者と関わるとは、他者の人生を知るということである。

全ての他者にはそれぞれの人生がある。だがわれわれ一人ひとりは決して他者の人生を生きることはできない。つまり人が他者の人生を実地に知ることは不可能なのだ。

その一方で小説には、無数の他者の人生が描かれている。小説は他者の人生をわれわれに提示し疑似体験をさせてくれる。小説家が描く他者のその人生は、実は本物と同じである。

なぜなら永遠に他者の人生を生きることができないわれわれにとっては、他者の実際の人生は想像上でしか存在し得ない。つまり疑似人生。小説家が描く世界と同じなのである。

そこだけに留まらない。

優れた小説家が想像力と知識と人間観察力を縦横に駆使して創り上げた他者の疑似人生は、それを体験する者、つまり読者の心を揺り動かす。

読者が心を打たれるのはストーリーが真に迫っているからだ。そこに至って他者の擬似人生は、もはや疑似ではなくなり真実へと昇華する。

読書をすればするほど疑似体験は増え、真実も積み重なる。

人はそうやってより多くの他者の人生を知り、学ぶことで、依って自らの人生も学ぶ。そこに魂の豊穣また情緒の深化が醸成される。それが読書の冥利である。





アンチNHKまでは行かないが、辛いねNHK

parabola奥に雪山



1990年に放送を開始したNHK傘下のJSTV(ロンドン拠点)の必要性は、ネットをはじめとする各種媒体が隆盛する2023年の今は増々高まっている。決してその逆ではない。

時代の流れに逆行して日本語放送を停止するNHKの真意はどこにあるのだろう。NHKは世界から目を逸らしてドメスティックな思考に溺れているとしか思えない。

JSTVは欧州からアフリカを経て中近東までを包含し、ロシアを含む中央アジア全域に住まいまた滞在する日本人と、日本語を学ぶ外国人及び日本に興味を持つあらゆる人々の拠り所にもなっている媒体だ。

NHKJSTVを存続させて、ネットという便利だが危険性も高い媒体に対抗し、補正し、あるいは共生しつつ公に奉仕するべきではないか。後退ではなく前進するのが筋道と考える。

33年も続いたビジネスモデルを今になって突然捨てるとは、当初の成功がネットに押されて立ち行かなくなった、ということだろう。

NHKはネットに対抗する変革とビジネス努力をしっかりと行ってきたのだろうか。

ビジネスだからいくら努力をしてもうまくいかなかったということもあるだろう。それでも、あるいはだからこそ「公共放送」を自認するNHKは、傘下にあるJSTVを存続させる努力をするべきだ。

なぜなら ― 繰り返しになるが ― 33年前に必要とされた欧州・アフリカ・中東・ロシア&中央アジアをカバーする日本語放送は、2023年の今はもっとさらに必要とされているからだ。

ニーズは断じて減ってはいない。

時勢に逆行する施策にこだわるNHKは内向きになっている。昨今は日本中が内向きになりがちだ。従って世相から隔絶して存在することはできないメディアの、その一部であるNHKがトレンドに巻き込まれるのは分からないでもない。

だが同時に、NHKは日本のメディアを引っ張る最重要な機関でもある。内向きになり、心を閉ざし、排外差別的になりがちな風潮を矯正する力でもあるべきだ。

世界は日本ブームである。その大半は日本の漫画&アニメの力で引き起こされた。

世界中の多くの若者が日本の漫画&アニメを介して日本文化に興味を持ち、日本語を習い、日本を実際に訪ねたりしてさらに日本のファンになってくれている。

それらの若者がそれぞれの国で頼りにし、親しみ、勉強にも利用する媒体のひとつが日本語放送のJSTVだ。

日本の文化を愛し、日本語を話す外国人は、日本にとって極めて重要な人的リソースになる。

彼らは平時には日本の文化を世界に拡散する役割を担い、日本が窮地に陥る際には日本の味方となって動いてくれる可能性が高い。

ある言語を習得した者は、その言語の母国を憎めなくなる。ほとんどの場合はその言語の母国を愛し親しむ。日本語を習う外国人が、習得が進む毎にさらに日本好きになって行くのはそれが理由だ。

テレビに頼らなくてもむろん今の時代は情報収集には困らない。ネットにも情報があふれているからだ。

だがそこには残念ながら、欺瞞や曲解や嘘や偏見、また思い込みや極論に基づくフェイク情報なども多いのが現実だ。

そういう状況だからこそNHKは、踏ん張ってJSTVの放送を続けるべきだ。フェイクニュースやデマも多いインターネットに対抗できるのは、一次情報を豊富に有するNHKのような媒体だ。

膨大な一次情報を持つNHKの信条は、不偏不党と公平中立、また客観性の重視などに集約される。

個人的には僕は不偏不党の報道の存在には懐疑的だが、NHKがそこを「目指す」ことには大いに賛同する。

NHKの傘下にあるJSTVの哲学も、本体のNHKと同じである。特に報道番組の場合はNHKのそれが日本との同時放送で流れるから変りようもない。

その意味でもNHKJSTVの存続に力を注ぐのは、むしろ義務と言っても過言ではないと思う。

NHKが自ら報告する年次予算の決済はほぼ常に黒字だ。それを例年内部留保に回しているが、そのほんの一部を使ってJSTVを立て直すことも可能と見えるのにその努力をしない。

そうしない理由は明白だ。日本の政治と多くの企業がそうであるように、NHKも内向き志向の保守・民族主義勢力に支配されているからだ。

NHKにはむろん進歩的な国際派の職員もいる。だが彼らは多くの場合「平家・海軍・国際派」の箴言を地で行く存在だ。強い権力は持たない。

もしも彼ら、特に国際派の人々が権力の中枢にいるなら、NHKJSTVを見捨てないことの重要性を理解してその方向に動く筈だが、折悪しく状況は絶望的だ。



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大手メディアの存在価値

地球儀&Breaking news文字

インターネットが好きな人々の中にはテレビを全く見ない、あるいはそれを信用しないという者が多くいる。

人それぞれの考え方があるからそれで構わないと思う。だが同時にそうした人々は、インターネットにも同様の警戒心を抱きつつ進むほうがいい。

テレビをはじめとする大手メディアは資金や人的資源を豊富に持っている。彼らはそれを縦横無尽に使って情報を収集する。大手メディアの報道や番組は一次情報の宝庫だ。

いうまでもなく一時情報は、それがありのままに正直に提示されたものなら、客観的な事実であり真実である場合がほとんどだ。

テレビが嫌いなネット住人もそれを利用しない手はない。受信料を要求されるNHKを除けば、テレビに流れるそれらの一次情報は全てタダなのだ。

同じ無料の情報でも、大手メディアのそれとネット上のそれは違う。

SNSで情報を発信している個人には、自分以外には人材も金もないため、足と時間と労力を使って得る独自情報や見聞は少ない。せいぜい身の回りの出来事が精一杯だ。

そこで彼らは大手メディアが発信する一次情報を基に記事を書いたり報道したりすることになる。そしてそこには必ず彼らの解釈や意見や感じ方が盛り込まれる。

その結果ネット空間には偏向や偏見や思い込みに基づく表現もあふれることになる。

僕はテレビ番組を作ったり紙媒体に記事を書く以外にSNSでも発信している。その場合には今述べた現実をしっかり意識しながら動いている。

つまり、自分の足で集めた情報以外は、あらゆるメディアやツテや友人知己からの一次情報を自分なりに解釈し考察して、その結果を発信するということだ。

そこでは事実や事件の正確な報告よりも「自分の意見を吐露」することが優先される。換言すれば、他から得た情報や事実や見聞に対して自らの意見を述べるつもりで記事を書くのである。

そこでの最も重要なことは、報道者が自らの報道はバイアスのかかった偏向報道であり、独断と偏見による「物の見方や意見」であることをしっかりと認識することだ。

自らの偏向独善を意識するとはつまり、他者の持つ違う見解の存在を認めること、と同義である。他者の見解を認めてそれに耳を貸す者は、やがて独善と偏向から抜け出せるようになる。

SNSでの「発信」を目指す者は、あくまでも情報や事実や「報道」等に基づく、書き手の意見や哲学や思考を述べる努力をするべきだ。個人が情報を発信する意味はそこにあると思う。

客観的な情報やニュースは大手メディア上にあふれている。あふれているばかりではなく、それらは正確で内容も優れている場合が多い。個人の発信者の比ではないのである。



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JSTV突然サービス終了のヘキレキ


表紙全体ヒキ650

ことし5月、ロンドン拠点の有料日本語放送局JSTVが、10月末日をもってサービスを終了すると発表した。

JSTVNHK傘下のNHKコスモメディアヨーロッパが所有する放送局である。

僕はJSTVの黎明期からおよそ30年にわたって視聴してきたので、いきなりの宣告に正直驚いた。

突然放送が打ち切りになることもそうだが、「JSTV」のサービス終了を決めたことを、ここにお知らせします、という高飛車なアナウンスの仕方にもびっくりした。

倒産する企業なんてそんなものかもしれないが、大NHKがバックについている割にはなんともお粗末な内容だと思った。

もっともある意味では、大NHKがバックについているからこそそんなアナウンスの仕方になったのかもしれない。

さて自身もテレビ屋である僕は、テレビ番組を作るのと同程度にテレビを見ることも好きなので、JSTVがなくなる11月以降はどうしようかと少し困惑気味である。

その個人的な事情はさておき、NHKJSTVを見捨てることの、大局的な見地からの喪失感が大いに気になる。

JSTVはヨーロッパ、北アフリカ、中東、ロシアを含む中 央アジア地域の60を超える国に住む日本人に、日本語の番組を提供する目的で設立された

突然の放送打ち切りの理由として同局は「加入世帯数の減少と放送を取り巻く環境の変化」によりサービスの継続が困難になったから、としている。それが事実なら非常に残念だ。

なぜなら僕にはその主張は、「インターネットに負けたので放送を止めます」としか聞こえないからだ。NHKは本気でインターネットの前から尻尾を巻いて逃げ出すつもりなのだろうか

テレビ放送がWEBサービスに押されて呻吟している今こそ、逆にNHKJSTVを支えて存続させるべきではないか。

JSTVは今さき触れたように、欧州を中心とする60余国の邦人に日本語放送を提供している重要な使命を帯びているのだ。

だがそれだけではない。JSTVは日本語を学んだり学びたい人々、あるいは日本に関心のある域内の外国人の拠り所となり喜びももたらしている。そのことを見逃すべきではない。

JSTVは日本人視聴者が外国人の友人知己を招いて共に視聴することも多い。

例えば僕なども、日本に関する情報番組などを親しい人々に見せて楽しんだり学ばせたりすることがある。大相撲中継に至っては、友人らを招いて共に観るのは日常茶飯事だ。

そうした実際の見聞ばかりではなく、衛星を介して日本語放送が地域に入っている、という事実の心理的影響も大きい。

日本語の衛星放送が見られるということは、日本の国力を地域の人々に示すものであり、それだけでも宣伝・広報の効力が生まれて国益に資する

公共放送であるNHKは、そうした目に見えない、だがきわめて重要な要素も考慮してJSTV存続に向けて努力するべきと考える。

JSTVのウエブサイトでは「JSTV終了後にNHKがインターネットも活用した視聴方法について準備・検討を進めている」としている。

それは是非とも実行してほしいが、もっと良いのは、インターネットに対抗し同時に共存するためにも、今の放送を継続することである。



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陸自ヘリ墜落の恐怖連想ゲーム

小山上飛ぶヘリ縦650

ことしは6月までに2度帰国し計ほぼ2ヶ月余り滞在した。その間に沖縄の宮古島沖で自衛隊ヘリが墜落する大事故があった。

合計10名の隊員が亡くなった事故は既に重大事件だが、そこに師団長や駐屯地司令官などの幹部が含まれたことで事態はさらに深刻化した。

ところで

事故に対する防衛省、また自衛隊の情報公開はどうなっているのだろう?

フライトレコーダーも回収され、自衛隊内部にはかなりの情報が蓄積されていると考えられる。それなのに情報開示が少ない、遅い。

あるいは何かを隠したがっているのではないか、と感じるのは僕だけだろうか。

旧日本軍に限らずどの国の軍隊も隠蔽体質を持つ。それは専制、暴力、欺瞞、権謀術策、裏切りなどの悪行と表裏一体である。

2つの世界大戦と民主主義が多くの国の軍隊の悪の体質にメスを入れて、少しは情報開示と文民統制の意識が進んだ。

第2次大戦で専制主義による悪事を働いたナチスドイツ、ファシズムイタリア、軍国主義日本のうちのドイツとイタリアは、大戦を徹底総括して軍隊の制御法を学んだ。

それは文民統制と情報公開と民主主義による暴力装置の抑制のことだ。軍自体もそれに沿って進化した。

日本は第2次大戦の徹底総括を怠った。そのために旧日本軍の欺瞞、横暴、隠蔽体質などが密かに自衛隊に受け継がれた可能性がある。

自衛隊が非常事態に際して文民統制を無視し暴走する危険性は常に高い。防衛省また自衛隊が、ヘリの墜落に関する情報公開を徹底できなければ、そのことが露見、確認されることになる。

ここでは国民とマスコミの意識の度合い或いは民度が試されている。

日本国民は依然として、右翼の街宣車が暴力的言辞をがなり立てて公道を行進しても罪にならない、野蛮な社会に生きている。

自衛隊がドイツ、イタリアの軍隊並みに正確に制御され民主化されて、右翼の街宣車が違法として取締りの対象になる時にこそ、日本の戦後が真に終わる。

宮古島沖の陸自ヘリ墜落事故の周囲には ― 情報開示が十分になされないと仮定して ― 軍隊と日本社会の行く末を占う要素が多く秘匿されているようにも見える。








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オランダ・ルッテ首相の真意はどこ?

ルッテ知性的横顔650

これはあくまでも心証である。少しの楽観論も入っている。

先日、オランダのマルク・ルッテ首相が政界から引退すると表明したことに少し感服する思いでいる。

中道右派の自由民主国民党(VVD)を率いるルッテ首相はまだ56歳。

脂ぎった性格の者が多くいつまでも権力に固執する傾向が強い政治家らしからぬ潔さ、と感じるのだ。

ルッテ氏は2010年10月に首相に就任した。以来およそ13年に渡った在任期間はオランダ史上で最も長い。

オランダはほぼ全ての欧州の国々と同様に難民・移民問題で大きく揺れている。

同国は人口約1700万人の小国だが、歴史的に移民を受け入れて成長した多民族国家であり千姿万態が美質の国だ。

国土が狭く貧しいため、歴史的に世界中の国々との貿易によって生存を確保しなければならなかった。

宗教の多様性に加えて、貿易立国という実利目的からも、オランダは常に寛容と自由と開明の精神を追求する必要があった

オランダは国の経済状況に応じて世界中から移民を受け入れ発展を続けた。

だが近年はアフリカや中東から押し寄せる難民・移民の多さに恐れをなして、受け入れを制限する方向に動くことも少なくない。

保守自由主義者のルッテ首相は、流入する難民の数を抑える政策を発表。だが連立政権を組む中道左派の「民主66」と「キリスト教連合」の造反で政権が崩壊した。

ルッテ首相はこれを受けて、総選挙後に新内閣が発足した暁には政界を去る、と明言したのである。

僕は日本とイタリアという、よく似た古い体質の政治土壌を持つ国を知る者として、彼の動きに感銘を受けた。

イタリアにも日本にも老害政治家や蒙昧な反知性主義者が多い。加えて日本では世襲政治家も跋扈する。

日伊両国の感覚では、政治家としてはまだ若いルッテ首相が、あっさりと政界に別れを告げた潔さに、僕は知性の輝きのようなものを見るのだ。日伊の政治家とはずいぶん違うと感じる。

ルッテ首相が示したエリートまた教養主義的な面影は、得てして左派政治家に見られるものだが、この場合は保守主義者のルッテ氏であるのがさらに面白い。

大国ではないが政治的腕力の強いオランダを長く率いる間には、ルッテ首相は財政面でイタリアに厳しい姿勢で臨むなど、強持ての一面も見せた。が、印象は常に潔癖な知性派であり続けた。

そんなたたずまいも彼の政界引退宣言と矛盾しないのである。

そうはいうものの、しかし、ルッテ氏も権謀術数に長けた政治家だ。前言を翻して今後も政界に留まらないとも限らない。そこは少し気をつけて見ていようと思う。




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高市早苗氏に媚びる読売新聞が日本メディア全体の地金である

醜高市国旗込み650

6月半ば、イタリアへ向けて飛ぼうとする日の早朝、滞在先のホテルが部屋に届けてくれる新聞4紙に目を通していた。

4紙の1の読売新聞が、高市早苗経済安全保障相をポスト岸田の候補のひとり、とするヨイショ記事を載せていた。

僕が知る限り他の3紙には、そういう類の記事は一切書かれることはなかった。

メディアを支配できる、また支配しなければならないとする不遜な思想を持つ政治家を、メディアの一角である読売新聞が忖度し持ち上げるのは、同紙がメディアの名に値しないことを示している。

そうはいうものの、しかし、他のメディアも彼女の闇をとことん追及しないところを見れば、みな同じ穴のムジナなのだけれど。

日本のメディアは高市経済安保相の尊大で危険な思想をなぜ徹底的に論難しないのだろうか。

熱しやすく冷めやすく且つ羊っぽい国民が、もうすっかり忘れたか諦めたかしたからだろうか。

ならばメディアは、国民の記憶呼び覚まし不正義への抗議を炊きつけるべく果敢に報道を続けるべきだ。

それともメディアは国民に倣って、高市大臣の危険思想は自然消滅したとでも見做しているのだろうか。

僕が日本の新聞を読むのは、日本に帰国している時ぐらいである。イタリアでは主に衛星テレビとネットで日本の情報を追う。

そこを介してみる限り、日本のメディアが高市大臣の暗い危険な思い込みを探査している様子はもはやない。

あるいはこのままうやむやになって、彼女は日本初の女性首相になるのだろうか。

メディアの監視と批判に耐えられない政治家は首相になるべきではない。

メディアを抑圧し制御できると考える政治家は、政治家でさえない。

それは単なる独裁者だ。

独裁者かもしれない政治家の本性を徹底検証しようとしないメディアは、どうやら彼女の逃げ切りを許してしまったらしい野党と同罪の、悲惨なからくりである。




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イタリア初の女性首相の精悍

三色旗真ん中メロン650

イタリアではベルルスコーニ元首相が6月12日に死去した直後から、彼も参与していたメローニ政権の先行きを危ぶむ声が多く聞かれた。

86歳だったベルルスコーニ元首相はキングメーカーを自認し、周りからは政権の肝煎りとしての役割も期待された。

メローニ政権は首相自身が党首を務める「イタリアの同胞」と故ベルルスコーニ氏が党首だった「フォルツァ・イタリア」、またサルビーニ副首相兼インフラ相が党首の「同盟」の3党連立政権だ。

連立を組む3党はいずれも保守政党。イタリアでは中道右派と規定される。だがその中で中道の呼び方に見合うのは、元首相の「フォルツァ・イタリア」のみである。

メローニ首相率いる議会第1党の「イタリアの同胞」は、ファシスト党の流れを汲む極右政党。政権第2党の「同盟も極右と呼ばれることが多い超保守勢力だ。

「フォルツァ・イタリア」も極右2党に迫るほどの保守派だが、ベルルスコーニ元首相を筆頭に親EU(欧州連合)で結束しているところが2党とは違う。

メローニ首相はベルルスコーニ政権で閣僚を務めたこともある親ベルルスコーニ派。「同盟」のサルビーニ党首も、過去に4期、計9年余も首相を務めたベルルスコーニ氏に一目置いている、という関係だった。

ベルルスコーニ元首相が政権の調整役、という役割を負っても不思議ではなかったのである。

政権の副首相兼インフラ大臣でもあるサルビーニ「同盟」党首は、野心家で何かと独善的に動く傾向があり、過去の政権内でも問題を起こすことが多かった。

そのためベルルスコーニ元首相の死去を受けて、サルビーニ副首相兼インフラ相が俄かに勢いづいて動乱の狼煙をあげるのではないか、と危惧された。

それは杞憂ではなかった。サルビーニ氏は先日、来たる欧州議会選挙ではフランス極右の国民連合と、ドイツ極右の「ドイツのための選択肢」とも共闘するべき、と主張し始めたのだ。

するとすぐに「フォルツァ・イタリア」の実質党首で外相のタイヤーニ氏が、極右の2党とは手を結ぶべきではない、と反論。連立政権内での軋みが表面化した。

「フォルツァ・イタリア」はベルルスコーニ党首の死後、ナンバー2のタイヤーニ外相(兼副首相)が党を率いているが、彼にはベルルスコーニ元首相ほどのカリスマや求心力はない。

それでも政権内ではタイヤーニ外相の存在は軽くない。彼とサルビーニ氏の対立は、一歩間違えば政権崩壊への道筋にもなりかねない重いものだ。

メローニ首相は、前述の欧州最強の極右勢力との共闘については今のところ沈黙している。

彼女は選挙前、サルビーニ氏以上の激しさで極右的な主張を展開した。だが総選挙を制して首班になってからは、激烈な言動を控えて聡叡になった。

ある意味で一国のトップにふさわしい言動を続けて、風格さえ漂わせるようになったのだ。

メローニ首相にはもはやベルルコーニ元首相のような仲介役は政権内に要らないのかもしれない。独自にサルビーニ氏をあしらう法を編み出したのではないか、と見えるほど落ち着いている。

彼女がこの先、サルビーニ“仁義なき戦い”大臣をうまく制御できるようになれば、連立政権は長続きするだろう。

だがその逆であるならば、イタリア初の女性首相の栄光は終わって、早晩イタリア共和国の「いつもの」政治不安の季節が訪れるに違いない。





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プーチンの終わりが始まった

ビニールの中の2人の顔650

ならず者のプリゴジンが、ならず者のプーチンを倒して世界を救うかも、と淡い期待を抱かせたもののあえなく沈没した。

ロシアの民間傭兵組織・ワグネルの反乱は24時間足らずで鎮圧された。毒を持って毒を制すなんてそう簡単にはいかないものだ。

プりゴジンは「7月1日にワグネルがロシア政府によって強制的に解体され消滅するのを防ぐために反乱を起こした。プーチン政権を転覆させるのが目的ではなかった」と言い訳した。

だが当たり前に考えれば、ワグネルのプリゴジンはもう死体になったも同然だと見るべきだろう。

プーチンに武力で対抗しようとして事実上敗れ、プーチンの犬のルカシェンコの庇護の下に入ったのである。プーチンは思い通りに、いくらでも彼をなぶることができるのではないか。

殺すにも幾通りかのやり方がありそうだ。

先ず密かに殺す。スパイのプーチン得意のお遊びだ。殺しておいて知らんぷりをし、殺害現場を見られても証拠を突きつけられても、鉄面皮に関係ないとシラを切り通す

おおっぴらに処刑する。今回の場合などは裏切り者を消しただけ、と大威張りで主張することも可能だ。意外と気楽にやり切るかもしれない。

殺害する場合はどんな手段にしろ、邪魔者を排除するという直接の利益のほかに、プーチン大統領に敵対する者たちへの見せしめ効果もある。

飼い殺しにするやり方もあるだろう。飼っておいていざという時には再び戦闘の最前線に送る、汚い仕事を強制的にやらせる、などの道がある。

殺すとプリゴジンが殉教者に祭り上げられてプーチンに具合が悪い事態になるかもしれない。だが長期的にはほとんど何も問題はないだろう。

逆に殺さなければプーチンの権威がますます削がれて危険を招く可能性が高まる。プーチンはやはりプリゴジンを殺すと見るべきだろう。

だがその前に、プリゴジンと親しくワグネルの反乱計画を事前に知っていた、とされるロシア軍のスロビキン副司令官が逮捕されたと各メディアが伝えている。

プーチンは「ロシアに背中から斬りつけた“裏切り者”」として、先ずスロビキン副司令官を粛清すると決めたらしい。

最大の裏切り者であるプリゴジンではなく、スロビキン副司令官を先に断罪するのは、プーチンがプリゴジンに弱みを握られていることの証だろう。

弱みとは、彼を排除することで、ワグネルの隊員や同調者らの反感を買うことや、先に触れたようにプリゴジンが神格化される可能性などを含む。

それでも彼は、スロビキンを排除したあとにはプリゴジンにも手を伸ばして殺害しようとするのではないか。

このまま何もしないでプリゴジンがベラルーシで生存し続けることを許せば、プーチンの権威はさらに地に落ちる。

そうなれば、遅かれ早かれプーチン自身も失墜し排除されるのは確実だ。

つまり、何がどう転ぼうと、プーチンの終わりは既に始まっている。




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漁師の命と百姓の政治


The Prank 漁650                    ©ザ・プランクス

                         

                     

菜園を耕して分かったことの一つは、野菜は土が育ててくれる、という真理である。

土作りを怠らず、草を摘み、水や肥料を与え、虫を駆除し、風雪から保護するなどして働きつづければ、作物は大きく育ち収穫は飛躍的に伸びる。

しかし、種をまいてあとは放っておいても、大地は最小限の作物を育ててくれるのである。

百姓はそうやって自然の恵みを受け、恵みを食べて命をつなぐ。百姓は大地に命を守られている。

大地が働いてくれる分、百姓には時間の余裕がある。余った時間に百姓は三々五々集まる。するとそこには政治が生まれる。

1人では政治はできない。2人でも政治は生まれない。2人の男は殺し合うか助け合うだけだ。

百姓が3人以上集まると、そこに政治が動き出し人事が発生する。政治は原初、百姓のものだった。政治家の多くが今も百姓面をしているのは、おそらく偶然ではないのである。

漁師の生は百姓とは違う。漁師は日常的に命を賭して生きる糧を得る。

漁師は船で漁に出る。近場に魚がいなければ彼は沖に漕ぎ進める。そこも不漁なら彼はさらに沖合いを目指す。

彼は家族の空腹をいやすために、魚影を探してひたすら遠くに船を動かす。

ふいに嵐や突風や大波が襲う。逃げ遅れた漁師はそこで命を落とす。

古来、海の男たちはそうやって死と隣り合わせの生業で家族を養い、実際に死んでいった。彼らの心情が、土とともに暮らす百姓よりもすさみ、且つ刹那的になりがちなのはそれが理由である。

船底の板1枚を経ただけの地獄と格闘する、漁師の生き様は劇的である。劇的なものは歌になりやすい。演歌のテーマが往々にして漁師であるのは、故なきことではない。

現代の漁師は馬力のある高速船を手にしたがる。格好つけや美意識のためではない。沖で危険が迫ったとき、一目散に港に逃げ帰るためである。

また高速船には他者を出し抜いて速く漁場に着いて、漁獲高を伸ばす、という効用もある。

そうやって現代の漁師の生は死から少し遠ざかり、欲が少し増して昔風の「荒ぶる純朴な生き様」は薄れた。

水産業全体が「獲る漁業」から養殖中心の「育てる漁業」に変貌しつつあることも、往時の漁師の流儀が廃れる原因になった。

今日の漁師の仕事の多くは、近海に定位置を確保してそこで「獲物を育てる」漁法に変わった。百姓が田畑で働く姿に似てきたのだ。

それでも漁師の歌は作られる。北海の嵐に向かって漕ぎ出す漁師の生き様は、男の冒険心をくすぐって止まない。

人の想像力がある限り、演歌の中の荒ぶる漁師は永遠なのである。




「怪物」より怪物的に面白い「アバウト・シュミット」  

about Shmidt JNicolson650

 映画「怪物」の退屈にうんざりした直後、イタリアへと飛ぶ飛行機の中で、たまたまジャック・ニコルソン主演の米映画「アバウト・シュミット」を観た。

面白く心を揺さぶられる内容だった。映画の良さを再確認した。そこで先日批判した「怪物」との決定的な違いについて書いておくことにした。

ジャック・ニコルソン演じるウォーレン・シュミットは、一流保険会社からの定年退職をきっかけに自身の人生を見つめなおす環境に置かれる。

妻のヘレンと2人で悠々自適の生活のはずが、仕事のない日常は退屈で不満だらけ。ストレスがたまっていく。

わずかな救いは、アフリカの貧しい子供を救うプロジェクトに参加してささやかな寄付をし、手紙を通して6歳の男の子の養父となっていることだった。

そんな中、妻が突然亡くなり、遠くに住む一人娘とはたまにしか会えない。ひとりで悶々と暮らすうちに、死んだ妻が親友と浮気していたことを知り彼の心はすさむ。

彼は妻と2人で行くはずだったキャンピングカーを運転して、ひとりで自分探しの旅に出る。孤独と挫折を経験しながら、シュミットは次第に人生の意味を学んでいく。

最後には、自身が養父になっているアフリカの少年とのつながりも、美しい人生のひと駒であることを悟って、はらはらと涙をこぼす、という展開である。

「アバウト・シュミット」は、派手なアクションや麻薬や陰謀や殺人や戦闘シーン等々の活劇が無いヒューマンドラマである。その意味では「怪物」の系譜の映画だ。

「アバウト・シュミット」が「怪物」と決定的に違うのは、出だしは少したるい展開だが時間経過と共にストーリーが俄然面白くなる点だ。

「怪物」は逆に始まりが興味深く、時間経過と共に話は重くわかりづらくなる。思い入れたっぷりの展開がうっとうしい。

「アバウト・シュミット」では、観る者は観劇の途中で余計なことは何も考えずにストーリーに引き込まれて行く。そして笑い、ホロりとさせられ、感動する。

あげくには「観劇後に」いろいろと考えさせられる。優れた映画の典型的な作用である

片や「怪物」では、観客はストーリーを追いかけるのに苦労し理解しようと考え続け、ついには「映画館で」疲れ果ててしまう。

つまらない映画を観る観客がたどる典型的な道筋である。

実を言えば僕は「アバウト・シュミット」という映画の存在を知らなかった。

日本からイタリアまでの長いフライトに疲れてビデオ画面をいじくるうちに、ジャック・ニコルソンらしい画面が目に入った。

僕はジャック・ニコルソンのファンだ。「アバウト・シュミット」が21年も前の作品だとは気づかず、俳優が今も若いことをかすかに喜びながらストーリーに引き込まれて行った。

映画が2002年の制作で、ジャック・ニコルソンが先日死去したイタリアのベルルスコーニ元首相とほぼ同じ年齢の86歳と知ったのは、イタリアに戻ってネット検索をした時である。

僕は名優のファンだが彼の年齢には無頓着だった。もはや86歳と知って少し寂しくなった。

同時に21年の歳月を経ても色あせない「アバウト・シュミット」の名画振りを思い、改めて感慨に浸った。



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ベルルスコーニの置き土産

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2023年6月12日、人生と政治生命の黄昏に立たされても鈍い光沢を放ち不死身にさえ見えたベルルスコーニ元イタリア首相が死去した。

脱税、少女買春、利害衝突とそれを否定する法改悪、数々の人種・女性・宗教差別発言、外交失言、下卑たジョークの連発、などなど、彼は彼を支持する無知な大衆が喜ぶ言動と、逆に彼を嫌悪する左派インテリがいよいよ激昂する、物言いや行動を無意識にまた多くの場合はわざと繰り返した。

そのために彼の周りでは騒ぎが大きくなり、ポピュリストしての彼の面目が躍動するというふうになった。

ベルルスコーニ元首相は道化師のように振舞ったが、常にカリスマ性を伴っていた。彼は一代で富を築いた自分を国民の保護者として喧伝し、国家の縛りに対抗して誰もが自分のように豊かになれる、と言い続けた。

彼はまたポリティカルコレクトネス(政治的正義主義)とエリートと徴税官と共産主義を嫌う大衆の心を知り尽くしていて、自分こそそれらの悪から国民を守る男だ、と彼の支配するメディアを通して繰り返し主張した。

それからほぼ30年後にはアメリカに彼とそっくりの男が現れた。それがドナルド・トランプ第45代米大統領だ。

彼と前後して出たブラジルのボルソナロ前大統領、トルコのエルドアン大統領、ハンガリーのオルバン首相、果てはBrexitを推進した英国右翼勢力までもがベルルスコーニ元首相のポピュリズムを後追いした。

美徳は模倣されにくいが、不徳はすぐに模倣される現実世界のあり方そのままだ。悪貨は良貨を駆逐するのである。

ちなみにそれらのポピュリストとは毛並みが違うものの、ベルルスコーニ元首相の負の遺産と親和的という意味で、安倍元首相やプーチン大統領などもベルルスコーニ氏のポピュリズムの影響下で蠢く存在だ。

世界のポピュリストに影響を与えたベルルスコーニ元首相は同時に、それらの政治家とはまったく異なる顔も持つ。それが彼の徹頭徹尾の明朗である

トランプ前大統領との比較で見てみる。

ベルルスコーニ元首相は、トランプ前大統領のように剥き出しで、露骨で無残な人種偏見や、宗教差別やイスラムフォビア(嫌悪)や移民排斥、また女性やマイノリティー蔑視の思想を執拗に開陳したりすることはなかった。或いはひたすら人々の憎悪を煽り不寛容を助長する声高なヘイト言論も決してやらなかった。

言うまでもなく彼には、オバマ大統領を日焼けしている、と評した愚劣で鈍感で粗悪なジョークや、数々の失言や放言も多い。前述のようにたくさんの差別発言もしている。また元首相は日本を含む世界の国々で-欧州の国々では特に-強く批判され嫌悪される存在でもあった。

僕はそのことをよく承知している。それでいながら僕は、彼がトランプ米前大統領に比べると良心的であり、知的(!)でさえあり、背中に歴史の重みが張り付いているのが見える存在、つまり「トランプ主義のあまりの露骨を潔しとはしない欧州人」の一人、であったことを微塵も疑わない。

言葉をさらに押し進めて表現を探れば、ベルルスコーニ元首相にはいわば欧州の“慎み”とも呼ぶべき抑制的な行動原理が備わっていた、と僕には見える。再び言うが彼のバカげたジョークは、人種差別や宗教偏見や女性蔑視やデリカシーの欠落などの負の要素に満ち満ちている。

だが、そこには本物の憎しみはなく、いわば子供っぽい無知や無神経に基づく放言、といった類の他愛のないものであるように僕は感じる。誤解を恐れずに敢えて言い替えれば、それらは実に「イタリア人的」な放言や失言なのだ。

あるいはイタリア人的な「悪ノリし過ぎ」から来る発言といっても良い。元首相は基本的にはコミュニケーション能力に優れた楽しい面白い人だった。彼は自分のその能力を知っていて、時々調子に乗ってトンデモ発言や問題発言に走る。しかしそれらは深刻な根を持たない、いわば子供メンタリティーからほとばしる軽はずみな言葉の数々だ。

いつまでたってもマンマ(おっかさん)に見守られ、抱かれていたいイタリア野郎,つまり「コドモ大人」の一人である「シルビオ(元首相の名前)ちゃん」ならではの、おバカ発言だったのだ。

トランプ氏にはベルルスコーニ元首相にあるそうした無邪気や抑制がまるで無く、憎しみや差別や不寛容が直截に、容赦なく、剥き出しのまま体から飛び出して対象を攻撃する、というふうに見える。

トランプ前大統領の咆哮と扇動に似たアクションを見せた歴史上の人物は、ヒトラーと彼に類する独裁者や専制君主や圧制者などの、人道に対する大罪を犯した指導者とその取り巻きの連中だけである。トランプ前大統領の怖さと危険と醜悪はまさにそこにある。

最後にベルルスコーニ元首相は、大国とはいえ世界への影響力が小さいイタリア共和国のトップに過ぎなかった。だが、トランプ前大統領は世界最強国のリーダーである。拠って立つ位置や意味が全く異なる。世界への影響力も、イタリア首相のそれとは比べるのが空しいほどに計り知れない。

その観点からは、繰り返しになるが、トランプ前大統領のほうがずっと危険な要素を持っていた。

ベルルスコーニ元首相が亡くなって世界からひとつの危険と茶目が消えた。だが彼が発明して世界に拡散した危険は、トランプ氏が再び米大統領に返り咲く可能性を筆頭に、ポピュリズムの奔流となってそこら中に満ち溢れている。




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怪物的な「怪物」の退屈

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鳴り物入りで上映が始まり進行している映画「怪物」を、帰伊直前の慌ただしい中で観た。

退屈そのものの内容に、時間を奪われた思いで少し腹を立てた。

カンヌ映画祭で脚本賞を受賞したのは何かの間違いではないか、と疑う気持ちにさえなった。

だがしかし、むしろ思わせぶりの内容だからこそ映画祭での受賞となったのだろう、と思い直した。

映画祭や賞や専門家は、大衆受けするエンタメよりも“ゲージュツ的難解”を備えたような作品を評価したがるものだ。

映画の初めは興味津々に進む。今ホットなテーマであるイジメの話と見えたのだ。

イジメではないか、と学校にねじ込む女主人公と対応する校長らとのやり取りの場面は、深く面白くなるであろう映画の内容を予感させた。

だが期待は裏切られる。

イジメられているらしい子供の担任の教師が見せる矛盾や、時間経過と共に― 作者の意図するところとは逆に― 子供たちの存在が軽く且つ鬱陶しさばかりが募っていく展開に食傷した。

映画の構成は重層的である。イジメとLGBTQと人間の二面性が絡みあって描かれる。謎解きのような魅力も垣間見える。

時間を遡及する際に、過去のシーンの切り返しの絵を使って退屈感を殺そうとする試みも好ましい。

嵐のシーンの細部の絵作りもリアリティーがある。

ところがそれらの努力が、全体のストーリー展開のつまらなさ故に全て帳消しとなって、ひたすらあくびを嚙み殺さなければならない時間が過ぎた。一昔前芸術追従映画を観るようだった。

映画は映画人が、芸術一辺倒のコンセプトでそれを塗り潰して、独りよがりの表現を続けたために凋落した。

言葉を換えれば、映画エリートによる映画エリートのための映画作りに没頭して、大衆を置き去りにしたことで映画産業は死に体になった。

それは映画の歴史を作ってきた日仏伊英独で特に顕著だった。その欺瞞から辛うじて距離を置くことができたのは、アメリカのハリウッドだけだった。

映画は一連の娯楽芸術が歩んできた、そして今も歩み続けている歴史の陥穽にすっぽりと落ち込んだ。

こういうことだ。

映画が初めて世に出たとき、世界の演劇人はそれをせせら笑った。安い下卑た娯楽で、芸術性は皆無と軽侮した。

だが間もなく映画はエンタメの世界を席巻し、その芸術性は高く評価された。

言葉を換えれば、大衆に熱狂的に受け入れられた。だが演劇人は、「劇場こそ真の芸術の場」と独りよがりに言い続け固執して、演劇も劇場も急速に衰退した。

やがてテレビが台頭した。すると映画人は、かつての演劇人と同じ轍を踏んでテレビを見下し、我こそは芸術の牙城、と独り合点してエリート主義に走り、大衆から乖離して既述の如く死に体になった。

そして我が世の春を謳歌していた娯楽の王様テレビは、今やインターネットに脅かされて青息吐息の状況に追いやられようとしている。

それらの歴史の変遷は全て、娯楽芸術が大衆に受け入れられ、やがてそっぽを向かれて行く時間の流れの記録だ。

大衆に理解できない娯楽芸術は芸術ではない。それは芸術あるいは創作という名の理論であり論考であり学問であり理屈であり理知また試論の類である。つまり芸術ならぬ「ゲージュツ」なのだ。

気難しい創作ゲージュツを理解するには知識や学問や知見や専門情報、またウンチクがいる。

だが「寅さん」や「スーパーマン」や「ジョーズ」や「ゴッドファーザー」や「7人の侍」等を愛する“大衆”は、そんな重い首木など知らない。

彼らは映画を楽しみに映画館に行くのだ。「映画を思考する」ためではない。大衆に受けるとは、作品の娯楽性、つまりここでは娯楽芸術性のバロメーターが高い、ということである。

「怪物」はそこからは遠い映画だ。

映画祭での受賞を喧伝し、作者や出演者の地頭の良さをいかに言い立てても、つまらないものはつまらない。

追い立てられて映画館に走り、裏切られて嘆いても時すでに遅し。支払った入場料はもう返ってこない。



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ベルルスコーニの功と影と罪と罰

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醜聞まみれの大衆迎合政治芸人、ベルルスコーニ元イタリア首相が死去した。6月12日のことである。

元首相は土建屋から身を起してテレビ、広告界に進出。イタリアの公共放送RAIに対抗するほど大きな3局の民放を武器に、ほぼあらゆる業界で事業を展開して席巻。押しも押されぬ金満家になった。

そして1994年、ビジネスで得た財力を背景に政界に進出した。進出するや否や自らの党・フォルツァイタリア(Forza Italia)が総選挙で第1党に躍進。党首の彼は首相になった。

その後、浮き沈みを繰り返しながら4期ほぼ9年に渡って首相を務めた。

彼の政治キャリアについては、訃報記事用にあらかじめ用意されていたものを含め多くの報道がある。

そこで僕は彼の履歴説明はここで止めて、日本人を含む多くの世界世論がもっとも不思議に思う点について述べておきたい。

つまりイタリア国民はなぜデタラメな行跡に満ちた元首相を許し、支持し続けたのか、という疑問である。その答えの多くは、世界中のメディアが言及しないひとつの真実にある。

つまり彼、シルヴィオ・ベルルスコーニ元首相は、稀代の「人たらし」だったのである。日本で言うなら豊臣秀吉、田中角栄の系譜に連なる人心掌握術に長けた政治家、それがベルルスコーニ元首相だった。

こぼれるような笑顔、ユーモアを交えた軽快な語り口、説得力あふれるシンプルな論理、誠実(!)そのものにさえ見える丁寧な物腰、多様性重視の基本理念、徹頭徹尾の明るさと人なつっこさ、などなど・・・元首相は決して人をそらさない話術を駆使して会う者をひきつけ、たちまち彼のファンにしてしまった。

彼のそうした対話法は意識して繰り出されるのではなく、自然に身内から表出された。彼は生まれながらにして偉大なコミュニケーション能力を持つ人物だったのだ。人心掌握術とは、要するにコミュニケーション能力のことだから、元首相が人々を虜にしてしまうのは少しも不思議なことではなかった。

ここイタリアには、人を判断するうえで「シンパーティコ」「アンティパーティコ」という言葉がある。

これは直訳すると「面白い人」「面白くない人」という意味である。

面白いか面白くないかの基準は、要するに「おしゃべり」かそうでないかということだ。

コミュニケーション能力に長けたベルルスコーニ元首相は、既述のようにこの点でも人後に落ちないおしゃべりだった。「シンパーティコ」のカタマリのような男だったのだ。

さらに言おう。

イタリア的メンタリティーのひとつに、ある一つのことが秀でていればそれを徹底して高く評価し理解しようとするモメンタムがある。

極端に言えばこの国の人々は、全科目の平均点が80点の秀才よりも、一科目の成績が100点で残りの科目はゼロの子供の方が好ましい、と考える。

そして どんな子供でも必ず一つや二つは100点の部分があるから、その100点の部分を120点にも150点にものばしてやるのが教育の役割だと信じ、またそれを実践している節がある。

たとえば算数の成績がゼロで体育の得意な子がいるならば、親も兄弟も先生も知人も親戚も誰もが、その子の体育の成績をほめちぎり心から高く評価して、体育の力をもっともっと高めるように努力しなさい、と子供を鼓舞する。

日本人ならばこういう場合、体育を少しおさえて算数の成績をせめて30点くらいに引き上げなさい、と言いたくなるところだと思うが、イタリア人はあまりそういう発想をしない。要するに良くいう“個性重視の教育”の典型なのである。

イタリア人は長所をさらに良くのばすことで、欠点は帳消しになると信じているようだ。だから何事につけ欠点をあげつらってそれを改善しようとする動きは、いつも 二の次三の次になってしまう。

ベルルスコーニ元首相への評価もそのメンタリティーと無関係ではない。

醜聞まみれのデタラメな元首相をイタリア人が許し続けたのは、行状は阿呆だが一代で巨財を築いた能力と、人当たりの良い親しみやすい性格が彼を評価する場合には何よりも大事、という視点が優先されるからだ。

ネガティブよりもポジティブが大事なのである。もっと深い理由もある。

「人間は間違いを犯す。間違いを犯したものはその代償を支払うべきであり、また間違いを決して忘れてはならない。だがそれは赦されるべきだ」というのが絶対愛と並び立つカトリックの巨大な教えである。

ほとんどがカトリック教徒であるイタリア国民は、ベルルスコーニ元首相の悪行や嫌疑や嘘や醜聞にうんざりしながらも、どこかで彼を赦す心理に傾く者が多い。「罪を忘れず、だがこれを赦す」のである。

彼らは厳罰よりも慈悲を好み、峻烈な指弾よりも逃げ道を備えたゆるめの罰則を重視する。イタリア社会が時として散漫に見え且つイタリア国民が優しいのはまさにそれが理由だ。

そうやってカトリック教徒である寛大な人々の多くが彼を死ぬまで赦し続けた。つまり消極的に支持した。あるいは罪を見て見ぬ振りをした。

結果、軽挙妄動の塊のような元首相がいつまでも政治生命を保ち続けることになった。

元首相は寛大な国民に赦されながら、彼のコミュニケーション力も遺憾なく発揮した。

相まみえる者は言うまでもなく、彼の富の基盤であるイタリアの3大民放局を始めとする巨大情報ネットワークを使って、実際には顔を合わせない人々、つまり視聴者にまで拡大行使してきた。

イタリアのメディア王とも呼ばれた彼は、政権の座にある時も在野の時も、頻繁にテレビに顔を出して発言し、討論に加わり、主張し続けた。有罪確定判決を受けた後でさえ、彼はあらゆる手段を使って自らの無罪と政治メッセージを申し立てた。

だがそうした彼の雄弁や明朗には、負の陰もつきまとっていた。ポジティブはネガティブと常に表裏一体である。即ち、こぼれるような笑顔とは軽薄のことであり、ユーモアを交えた軽快な口調とは際限のないお喋りのことであり、シンプルで分りやすい論理とは大衆迎合のポピュリズムのことでもあった。

また誠実そのものにさえ見える丁寧な物腰とは偽善や隠蔽を意味し、多様性重視の基本理念は往々にして利己主義やカオスにもつながる。さらに言えば、徹頭徹尾の明るさと人なつっこさは、徹頭徹尾のバカさだったり鈍感や無思慮の換言である場合も少なくない。

そうしたネガティブな側面に、彼の拝金主義や多くの差別発言また人種差別的暴言失言、少女買春、脱税、危険なメディア独占等々の悪行を加えて見れば、恐らくそれは、イタリア国民以外の世界中の多くの人々が抱いている、ベルルスコーニ元首相の印象とぴたりと一致するのではないか。



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