【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

渋谷君への手紙~多様性はそれを知らない者も懐抱する 



抱き合うサル600


5月7日のエントリー「多様性という名のカオス」を読んだ保守系の読者の方から、「やはり多様性は良くないのですね」という趣旨のメッセージが届いた。

ちょうど友人の渋谷君に送った書簡(メール)に直結する内容なので、それを彼にも送り、同時にここにも転載しておくことにした。


『渋谷君

多様性というのは絶対善です。絶対とはこの場合「完璧」という意味ではなく、欠点もありながら、しかし、あくまでも善であるという意味です。民主主義と同じです。

民主主義はさまざまな問題を内包しながらも、われわれが「今のところ」それに勝る政治体制やシステムや哲学を知らない、という意味で最善の政治体制です。

また民主主義は、より良い民主主義の在り方を求めて人々が試行錯誤を続けることを受容する、という意味でもやはり最善の政治システムです。

言葉を変えれば、理想の在り方を目指して永遠に自己改革をしていく政体が民主主義、とも言えます。

多様性も同じです。飽きることなく「違うことの良さ」を追求し受容することが即ち多様性です。多様性を尊重すればカオスも生まれます。だがそのカオスは多様性を否定しなければならないほどの悪ではありません。

なぜならそれは多様性が内包するところのカオスだからです。再び言葉を変えれば、カオスのない多様性はありません。

多様性の対義概念は幾つかあります。全体主義、絶対論、デスポティズム
etc。日本の画一主義または大勢順応主義などもその典型です。

僕はネトウヨ・ヘイト系排外差別主義と、それを無意識のうちに遂行している人々も、多様性の対極にあると考えています。

なぜなら ネトウヨ・ヘイト系排外差別主義らは、彼らのみが正義で他は全て悪と見做す。つまり彼らは極論者であり過激派です。むろんその意味では左派の極論者も同じ穴のムジナです。

それらは絶対悪ですが、多様性を信奉する立場の者は彼らを排除したりはしない。 ネトウヨ・ヘイト系排外差別主義は悪だが、同時にそれは多様性の一環と考えるのです。

多様性の精神は、むしろそれらの人々のおかげで、多様性や寛容や友愛や友誼や共存や思いやり等がいかに大切なものであるかが分かる、という意味で彼らは必要悪であるとさえ捉えます。

君も読んでくれた記事「多様性という名のカオス」の中で僕は、
「多様性を重視するイタリア社会は平時においては極めて美しく頼もしくさえあるが、人々の心がひとつにならなければならない非常時には、大きな弱点になることもある。今がまさにそうである。 」
と書きました。あなたはそれを読んで、僕が多様性を否定しているのではないか、と一瞬思ったということですが、あなたも考え直したようにもちろんそれは誤解です。

多様性は非常時には大きな弱点になること“も”ある。という書き方でも分かる通り、僕はそこでは単純に可能性の話をしただけなのです。

最も重要なことは、多様性が平時においては美しく頼もしいコンセプトである点です。非常時には平時の心構えが大きく作用します。つまり、多様性のある社会では、多様性自体が画一主義に陥り全体主義に走ろうとする力を抑える働きをします。

一方でネトネトウヨ・ヘイト系排外差別主義がはびこる世界では、その力が働きません。それどころか彼らの平時の在り方が一気に加速して、ヘイトと不寛容と差別が横行する社会が出現してしまいます。

日本で最後にそれが起きたのが軍国主義時代であり、その結果が第2次大戦でした。日本はまだ往時の悪夢から完全には覚醒していません。つまり多様性が十分にはないのです。

多様性を獲得しない限り、あるいは多様性の真価を国民の大多数が血肉となるほどにしっかりと理解しない限り、日本は決して覚醒できず真に前進することもできないと考えます。


以上

                                      それではまた』




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報道と見解の狭間



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イタリアはロックダウンの段階的解除2週目に入った。解除第一週目の後半には、いわば「自宅軟禁」からの解放感に我を忘れた人々が、大挙して街にくり出して感染拡大への懸念がふいに高まった。

特に感染爆心地・ロンバルディア州の州都、ミラノにあるナヴィリオ地区の人出が大きく取り上げられた。ナヴィリオはミラノ屈指のおしゃれな街。その日はマスク無しで且つ対人距離も無視した多くの若者が集まって顰蹙を買った。

さらに悪いことに、その動きはミラノだけではなく、感染者の少ない南部イタリアの主要都市でも起こっていたことだと判明。早くも感染拡大が再開するのではないか、とイタリア中が大きな不安に揺れた。。

イタリア全土のロックダウンの開始日については、3月9日、3月10日、3月11日、3月12日、などの説がある。それ以前の地域限定の隔離・封鎖処置などの影響もあって、時系列の情報が混乱して伝えられがちだ。

また政府発表が事前にリークされたり、政策発表の日と施行日が混同していたり、さらに法令の内容が迅速に変わったりするのも混乱の原因だ。

ロンバルディア州を中心とする北部5州に適用されていたロックダウンが、全土に拡大されたのは3月10日からだが、措置の発表は3月9日である。

そして3月11日にはその強化策が明らかにされて、翌3月12日から施行される。この日からレストランなどの飲食店も営業が全面禁止になった。それまでは時間を短縮しての営業が認められていた。

イタリア全土の過酷なロックダウンは「3月12日をもって完成した」というのが僕の考え方である。従って僕は「イタリアのロックダウンは3月12日に始まった」と表記し続けてきた。だが正確には3月10日に始まった、と言うべきだろう。

そこで僕はイタリアのロックダウンの一部解除をテーマにした記事、「イタリアは石橋をたたき、またたたいては渡ると決めた」から、ロックダウン開始日を「3月10日」と改めた。

時事ネタの場合は、「報道ではなくいわば“報道にまつわる私見や考察”を書く」というのが僕のスタンスである。従ってロックダウンの正確な日にちは僕にとってはそれほど重要ではない。それを自分が「どう思うか」がポイントなのである。

だが同時に、ブログを情報源として読んでくださる読者がいることも僕は知っている。従っていい加減なことは書けない。そこでイタリアのロックダウン開始日の“ぶれ”の理由についても書いておこうと考えた。

ブログ記事の場合は、新聞・雑誌・本などの紙媒体とは違って、編集者や校正者がいない。全て書き手がひとりで担う。そのために誤字脱字はもとより、間違いや思い違いや思い込みその他の誤謬が多い。

読み返すたびに、信じられないようなミスを発見する。読み返すたびに添削をしている、といっても過言ではない。ロックダウンの開始日の不明瞭も、僕にとってはある意味で誤謬の一つである。

そこでお断りの一筆を入れておくことにした。



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多様性という名のカオス


5月8日naviglio人群れ650



イタリアが5月4日、新型コロナウイルス感染拡大を抑え込むために導入しているロックダウンの一部を解消してからはじめての週末がきた。

イタリアでは一日当たりの新規感染者数も、累計の感染者数も共に減少し、逆にcovid-19からの回復者の数は増え続けている。

また死者数も減少している。それでも5月4日以降、昨日までの一日当たりの死亡者数は:
4日195人 5日236人 6日369人 7日274人 8日243人、と依然として多い。総計も30201人となった。

死者数がすでにイタリアを上回り、感染者数の合計が明日にもイタリアを超えそうなイギリス、またそのどちらも世界最悪のアメリカに比べれば増しかもしれない。が、例えば日本に比較すればイタリアは相変わらず地獄の様相を呈している。

しかしあらゆる数字が状況の改善を示唆してはいる。1人の感染者がウイルスを何人にうつすかを示す基本再生産数 も1を下回っている。イタリアの死者数が多いのはこれまでに感染し重症化した人が亡くなり続けているからである。

それらの事情を踏まえてイタリア政府は5月4日、ほぼ2ヶ月に渡った過酷なロックダウンを「一部解除」した。ところが多くの地域で人々があたかも「全面解除」のような動きに出て問題になっている。

イタリアの感染爆心地、北部ロンバルディア州ミラノで5月7日、若者を中心とする人々がおしゃれなナヴィリオ地区にどっと繰り出した。彼らはマスク着用や対人距離の確保の義務などを無視して思い思いに集った。

感染予防を全く気にしないそれらの人々への非難が殺到し、ミラノ市長は「恥知らずな行為」とまで罵倒して、再び同じことが起こるなら即座にナヴィリオ地区を封鎖する、と宣言した。

ところが同様な光景がイタリア中に展開されて、感染拡大への懸念が募っている。特に感染者の少ない南部の主要都市で、ミラノにも勝る人数の人々が密集しマスクも外して談笑する様子が多く見られた。

この週末に感染拡大があってもそれはすぐには表面化しない。結果が明らかになるのは来週以降である。そこでCovid19関連の数字が悪化すれば、政府や地方自治体は規制を強化する可能性がある。

だが数字に変化が見られなければ、当局が厳しい動きに出るのは困難になり、人々の開放感はますます募って感染予防策がおろそかになるだろう。

イタリアのコロナ禍は世界のそれと同じように全く終わってなどいない。行過ぎた規制緩和や人々の安易な行動は、将来大きな災いを呼び込む危険性が高い。

多様性を重視するイタリア社会は平時においては極めて美しく頼もしくさえあるが、人々の心がひとつにならなければならない非常時には、大きな弱点になることもある。

今がまさにそうである。



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ロックダウンという名の自由監獄



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以前のエントリーに

“手始めに、次のエントリーあたりでイタリア全土が封鎖された中での具体的な生活の様子を書いてみようと思う。イタリアの切羽詰った状況が日本に飛び火するようなことがあれば、もしかすると、このブログを読んでくれている日本の読者の皆さんの役に立つかも知れないから云々”


と書いたものの、中々すぐには行動できずに来た。他のテーマで書くべきことが多すぎたのだ。また、僕と家族はほぼ完全に自宅籠りの生活を送っていて、これといって特別な要素もない、ということにも気づいた。

加えて、北部イタリア・ロンバルディア州の片田舎にあるわが家には、周辺の家のほとんどがそうであるように庭があって、おかげで開放感がある。さらにわが家は古い落ちぶれ貴族の邸宅だった場所で、床面積が広い。普段はひどく持て余している無駄な空間や不便な造りが、巣ごもりの生活では息抜きをさえもたらす要素になっている。

そんな場所での隔離生活なので、特殊なケースであり、従ってその内容を書いてもあまり役に立つ情報にはならない、という疑念があった。しかし、強制的な外出禁止がいかなるものであるかの「一例」として、書いておくのも悪くない、と思い直した。また明日5月4日から始まるロックダウンの段階的解除がうまくいけば、隔離生活の記憶も薄れていく可能性が高いだろうから、今がチャンス、とも考えた。

「自宅監禁」と呼んでもかまわない厳しい外出制限が真に苦痛になるのは、多くの場合おそらく都会生活者においてだ。特に庭やバルコニーのない狭いアパートやマンションに住む、且つ子供のある家族にとっては極度の苦悶に違いない。またイタリアの場合は、一戸当たりの面積が欧州の中では狭い部類に入る。かつてウサギ小屋と揶揄された日本ほどではないにしても、家族全員が長期間閉じこもるには厳しい環境だ。

苛烈な外出制限や移動規制に象徴される隔離封鎖、あるいはロックダウンが敷かれている日常は、敢えて表現すれば「自由な監獄」である。数は少ないが営業を許されている仕事や病気など、れっきとした理由があれば外出はできる。食料の買出しも可能だ。散歩や運動も自宅内や敷地、また集合住宅の中庭などでならできないことはない。牢屋のようだが少しの自由はあるので「自由な監獄」。

僕らの一家の場合は、庭を歩いたり屋内で少し動きはするものの、自主隔離とロックダウン期を加えたほぼ2ヶ月間、一歩も家の外に出ていない。食料の買出しにさえ出ない。普段から食料の備蓄が少しあることと、外出自粛(法令による禁止ではなく)が奨励されていた時期に、割と多目の食料や必需品を買い置いているからだ。

自主的に自宅待機を始める1週間ほど前から、僕らは少しづつ食料の買い置きを始めた。加工牛乳にはじまるロングライフ食材を買い求め、肉類も多く冷凍庫に備蓄した。自宅待機を始めてからも同じ動きをした。僕は長い自宅隔離を意識して、呆れる妻を無視してはビールやワインも大量に買い込んだ。街に出て日本酒までも仕入れた。

わが家は田園地帯にあって買出しには常に車が必要なこともあり、もともと食料を多めに備蓄する習慣がある。それに加えて、友人らを招いて庭でバーベキューをしたり飲み会や食事会などをすることも多い。それに備えての食材の買い置きもごく普通の行動パターンである。元々飲食品の蓄えが多いところに、ロックダウンを意識しての買いだめも進めた。おかげで2ヶ月も閉じこもった今でも、なおかつ食料や飲み物に余裕がある。

それでも野菜や果物などの生鮮品は今日までに3度配達してもらった。住まいのある村のスーパーや食料品店など、営業を許されている生活必需品店は、頼めば宅配サービスをしてくれるのである。そのこと自体は便利だが、実はそこには自ら店に出向いて食材を買う時とは違う不安がある。

店で買い物をするときは、自分の手で商品に触り、仕分けをし、自分で全てを制御する。が、配達の場合は品物の接触も運搬も何もかも全て他人任せだ。従って荷物の受け渡しの際や、あるいは荷物そのものにさえ、スーパーの人混みの中と同様にウイルス感染の可能性があるのではないか、と不安を覚えたりしないでもない。

僕は一歩も外出をせずに読書三昧の暮らしをしている。その合間に執筆をし、料理をして食べ、風呂やシャワーを使い、WEBを巡り、少しだけ妻のおしゃべりに付き合い、日伊英3ヶ国語のニュースを見、読み、聞き、最後にRAI(イタリアのNHK)の夜のニュースをじっくり見ながらワインやビールを飲む、という暮らしを続けている。それは退屈どころか、読書用に1日当たりあと数時間は余計に時間がほしい、とさえ思う日々だ。

繰り返すがイタリアは明日5月4日、ロックダウンの一部を解除する。それに伴い、先ず製造業や建設業などで約450万人の勤め人が仕事に復帰する。段階的解除については賛否両論が渦巻いている。営業再開が遅れる美容業界などは激しく反発。すると即座にそれらの動きに便乗する政治家などが騒がしく声を上げ始めた。また感染者が少ない南部カラブリア州は、6月1日からの営業開始、と国が決めたレストランやカフェなどの飲食店の営業を、明日から許可する、と宣言して物議をかもしたりもしている。

急展開を主張するのは少数派だ。国民の多くは、ここまでの新型コロナの脅威を恐れて、慎重な解除を望んでいる。だがそこは悩ましい状況だ。良く言えば陽気でカラフルな多様性が目覚ましい国、イタリア。悪く言えばジコチューでまとまりのない人々がひしめく国、イタリア共和国である。異を唱え「わが道を行く」と叫んで譲らない者には事欠かない。

新型コロナ以前も不調だったイタリア経済は、2月以来のウイルスとの過酷な戦いによって大きなダメージを受けた。Covid-19にまつわる多くの数字が感染の沈静化を示唆している今、過酷なロックダウンを徐々に緩和して経済を動かし、「自宅待機疲れ」がピークに達している人々のストレスを軽減するのは必要不可欠なことだ。だがそれには飽くまでも、「感染拡大がぶり返した場合には即座にロックダウンに移行する」というコンテ首相の宣言が、担保として付いてまわることを願いたい。




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新型コロナのせいで書きそびれている事ども   (2020年4月30日)



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2月初め以来、新型コロナウイルスにまつわる話ばかりを書いてきた。なにしろ突然イタリアが世界最悪のCovid19跋扈地となり、中でも僕の住まう村を含む北部ロンバルディア州が、正真正銘の感染爆心地となった。身の危険も感じつつそのことについて書き続けてきた。

イタリアは相変わらず苦境の中にいる。日本は「日本式のロックダウン」つまり緊急事態宣言の延長を決めた。新型ウイルスはそれ自体のおぞましさはさて置いて、良い意味でも悪い意味でもあらためて欧州と日本の根本的な違いにも気づかせてくれた。それを実感できるのは外国に住まう者の特権、というふうにも思う。

古来、祖国を出て外国をさまよう者には根無し草の悲哀というものが付きまとうものだが、僕の中にはそういう気分が全く生まれなかった。それは生活や境遇や生業などが原因で「無理やり」国を出なければならなかった人々と違って、僕が「すき好んで」外国に出奔した人間だからだろう。しかも英国、米国、ここイタリアと移り住んだ。その間には多くの国々も訪れた。

悲哀など感じる暇はなかった。今後もさらに多くの国や地域を旅するつもりでいたところに、新型コロナウイルスの惨禍がやってきた。人生はげに何があるかわからない。新型コロナはむろん憎むべき変災だが、それには人間の驕りへの懲罰、という意味合いが込められているようにも感じる。人間はコロナ禍を機に少しは謙虚になっていくのかもしれない。

そうなれば人類も捨てたものではない。世界中でたくさんの人がバタバタ倒れている今はまだ少し早く、敢えて口にすれば不謹慎のそしりを免れない、と感じつつもあえて言葉を選ばずに書いておきたい。つまり、もしも新型コロナウイルスのおかげで人間が「自然や和平や科学や道理の前に恭謙な存在」になるのなら、コロナ禍もまた悪くはないのかもしれない、と。

月9ドラマ「監察医 朝顔」

民放のドラマは欧州では数ヶ月~半年ほどの遅れで放映されることが多い。監察医の主人公と刑事の父親と夫に絡めて、東日本大震災で行方不明になった母親と、彼らが仕事で関わる「遺体」を輻輳させ深化させる手法のこのドラマも同じ。イタリアが新型コロナウイルス感染爆発の地獄に陥る直前に最終回が放映された。

途中の回では、行き倒れた老人と息子が意味深な親子関係だったらしいことを匂わせるエピソードを挿入しながら、結局ふたりの間の壮絶な(?)ドラマは描かれなかった。それはシリーズのまたドラマ構成上のあきらかな破綻だ。

「そこにある銃は発砲されなければならない」とするいわゆるチェーホフの銃は、ドラマ作りにおけるプロットの重要性を説く理論で、劇中に提示されるあらゆるものには意味がある、という本則を伏線のあり方にからめて語っている。言葉を変えれば「劇中に余計な要素を入れてはならない」ということ。「監察医 朝顔」の死んだ老人と息子のエピソードがまさにそれだ。

突然提示された行き倒れの老人と息子のエピソードは、そこに披露された以上必ずストーリーが展開され深化されて全体の中の必然にならなければならない。ところが一切そういうことは起きず、エピソードは無意味にそこに投げ出されて無意味に消えるのである。

最終回では津波に流された母親の死のトラウマを克服する朝顔が描かれる。それはいいのだが、夫の桑原があるいは事故で死ぬのか?と視聴者の気をひきつける展開を示唆しておきながら、何もなかったという安易なドラマ作りになっている。それもまた行き倒れの父親と息子の挿話と同じ粗略さでつまらない。

もう一つ重要な瑕疵に見えるコンテンツを指摘しておきたい。

朝顔の監察チームは、それぞれが医学のエキスパートだが、ドラマで重要な役割を負っている「死体」を常に「ご遺体」と呼ぶ。僕はそこにも強い違和感を覚えた。実際の監察医たちもそうなのだろうか?死体を遺体と呼ぶのは、死んだ人への尊称である。

「ご遺体」と呼ぶのはもっと真摯な言葉だ。特に日本には死者を貶めないという風習がある。悪人でも亡くなってしまえば仏であり敬意の対象だ。ほとんどの日本人はそれを肯定的にとらえる。だが死体を解剖して死の謎を解明する監察医は科学者だ。科学者は、科学する対象に対しては余計な感情移入をしないほうがいい。してはならない。それでなければ冷静な分析や考察や解析が雲る可能性がある。

「ご遺体」という言葉は、ドラマを観ている視聴者の心情に配慮してのフィクションだと思うが、余計な忖度だ。もしも実際の監察医らが、遺骸を常に「ご遺体」と呼んでいるようなら、僕はもっとさらに違和感を覚えるだろう。行過ぎた礼はマナーではなく、慇懃無礼という不実だ。


壇蜜のイスタンブール

壇蜜がトルコのイスタンブールを旅する紀行ドキュメンタリー『壇蜜 生と死の坩堝』 。壇蜜というタレントはとても興味深い。女性的という意味でもそうだが、知性的にもなにかがある、と感じさせる。遺体衛生保全士 であったり葬儀の仕事をしていた体験などが、艶っぽい外観と不思議に調和している気配があって面白い。

街の雰囲気も彼女の自然体の紀行報告も悪くなかった。僕も知っているイスタンブールの街が別の印象になって提示されていた。ベリーダンサーとの交流シーンでは、ひたすら性的なだけと見られがちなベリーダンスが、激しい体の動きによって人を楽しませることが主眼のショーだと訴える。

ベリーダンスの衣装に着替えて体当たりで取材をする壇蜜と、若く美しく且つ小さな子供の母親でもあるダンサーの言動に説得力があって、ベリーダンスへの見方が変わること請け合いのシークエンスになっていたように思う。

タイトルの「生と死の坩堝」にからむエピソードでは、しかし、イスラム教を特別視する姿勢が強すぎて違和感も覚えた。葬儀を取材したものだが、死者の親族の叔父が「死は終わりではなく、始まり」と語ったあとに、壇蜜が「死者に行かないでとすがる気持ちよりも、“逝くなら見送らなくちゃ”という気持ちのほうが強いように思う」と語るシーンは嘘っぽい。

彼らはわれわれ日本人と全く同じように死を悼み、恐れ、愛する者をなくした苦しみの中で、「行かないで!」と懇願しながらそこに立ち尽くしているだけだ。それ以下でもそれ以上でもない。イスラム教徒だけが、あるいはイスラム教の教義だけが、その普遍的な心情とは違う思想や哲学を宿している、と示唆するのは偏見や差別の温床になる可能性さえ秘めた危険な見方だ。


食の起源

NHKスペシャルの「食の起源」は、テーマも情報も眼目も構成もいいのに、TOKIOというあまり必要とは思えないナビゲーターを置いたおかげで、違和感のある仕上がりになった。

TOKIOのファンにはうれしい仕掛けだろうが、この手の番組にはナビゲーターやレポーターは不似合いだ。これは決してTOKIOが悪いという意味ではなく、ドキュメント内容以外の要素はNGという意味である。

ご飯(米)、塩、脂、酒、、美食、と取り上げられた素材を見るだけでも心躍るような構成。だが、せっかくの知的好奇心を満たす要素に、TOKIOのほとんど中身のないコメントや空騒ぎが織り込まれて、全てを台無しにしていると感じた。

タレントを使って視聴率を上げる腹積もりは分かるが、番組の質が落ちるばかりで感心しない。せめて彼らの喋りの中に新たな情報が含まれていればまだ我慢もできるが、文字通りのダベリ一色。むろんそれはディレクターを始めとする制作サイドの不手際だ。出演者は台本に沿って喋っている。

知的なテーマや、内容の濃い「構成もの」の質が悪い時に、タレントを添えてゲタをはかせるのは民放の番組の十八番だ。NHKは民放的「殷賑依存症」の番組作りをするようならあまり存在意義はない。それなら民放になれ、と言われても返す言葉がなくなるのではないか。


大相撲3月場所

史上初の無観客での興行。白鵬が、もはや優勝回数を数えるのさえつまらないほどの回数で、また優勝。場所後に朝乃山が大関昇進を果たした。だが、最近は栃ノ心、高安、豪栄道など、大関から陥落する力士が相次いでいて、申し訳ないが朝乃山にもあまり期待する気が起こらない。大関というのは昔はもっとずっと強かったようなイメージがあるが、それは子供時代の僕の錯覚だったのかもしれない。

観客のいない取り組みは初めのころこそ違和感があった。だが僕は割合と早い段階で慣れた。それは土俵上の申し合いが真剣勝負であるのがよくわかったからだ。若いころに元大関貴乃花の藤島部屋で真剣勝負のぶつかり稽古を見たことが、僕の大相撲への信頼の強い土台になっている。

大相撲に八百長があったのは事実だろうが、僕はそれが世論の猛烈な指弾に遭って矯正されたと信じている。なぜならテレビ画面から伝わってくるのは、僕が学生時代に間近で感じた力士たちの真剣で厳しい息遣いと、緊張と裂ぱくの気合が激突するガチンコ対決の凄みと同じ空気だったからだ。

だからといって大相撲を無観客で見続けたいとは思わない。大相撲の醍醐味はやはり、多くのファンの声援が飛ぶ会場での取り組みにこそある、と強く感じる。

新外来語の威力

僕が知る限り、日本語にはつい最近まで、疫学で「小規模の感染者集団」をあらわすクラスターという言葉はなかった。少なくとも「日常日本語」には見られなかった。それは新型コロナウイルス感染症対策に関する政府の専門家会議が初めに使って、たちまち一般化したものだ。

日本の専門家たちには知見が不足していた。そこで英語を持ち出して概念を表現した。お上のその決定を従順な大衆が受け入れた。地域封鎖や隔離や移動禁止などが合わさった「ロックダウン」、爆発的な感染流行を示す「オーバーシュート」という英語由来の外来語も全く同じである。

僕はそういう日本社会の大勢順応・迎合主義、つまり何事につけ主体的な意見を持たず、「赤信号、皆で渡れば怖くない」とばかりに大勢の後ろに回って、これに付き従う者や風潮や精神に強い違和感を覚える者だ。従って文章を書く際には、それらの言葉を用いないようにしようと抵抗を試みた。

ところが三つの言葉は、“即座に”という形容が過言ではないほどの速さで一般化した。感染者集団や隔離封鎖また感染爆発などという日本語よりも、伝達が早くコンセプトもよく理解される。そこで今では僕も、締まらない話ながら、そうした言葉をひんぱんに使うようになってしまった。

それは悪く言えば日本人の節操の無さ、良く言えば日本語ひいては日本文化の柔軟な精神を端的にあらわしている、というふうにも見えてとても面白いと感じる。




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イタリアは石橋をたたき、またたたいては渡ると決めた

無人の広場のマスク警官650


新型コロナ感染拡大を防ぐために欧州で最も厳しく且つ最も長くロックダウンをしてきたイタリアは、5月4日から段階的に封鎖を解除していくことになった。

全土に渡るイタリアのロックダウンは3月10日に始まった。国民は自宅待機を命ぜられ、医療とライフラインに必要な仕事以外の経済活動は全て禁止された。

累計およそ19万8千人の感染者と、2万7千人の死者が出たあとの4月26日、イタリアの1日あたりのCovid19死者数は、3月14日以来もっとも少ない260人となった。

ロックダウンの段階的解除はそのタイミングで発表されたが、1日あたりの新たな感染者数や集中医療室患者も減少し、逆に治癒した患者の数は増えていることなどが、規制緩和の決め手となった。

段階的解除の主な柱は:

5月4日の月曜日から製造業や卸売業及び建設業の再開を認める。人々の運動のための外出、公園への出入り、少人数で且つマスクを着けての親族との面会も許可する。

一方、許可のない人々の州境をまたいでの往来は、5月4日以降も継続して禁止。また学校も引き続き9月までは休校とする。

厳禁だった葬儀も、5月4日からは参列者15人まで、且つできる限り屋外で開くことを条件に認める。またスポーツ選手は個人での練習を再開できるが、団体での活動は5月18日まで待つこととする。

プロサッカーリーグ、セリエAの再開は、無観客での試合開催の可能性を含め、今後の検討事項とする。

レストランは、5月4日から客が店に立ち寄ってのテイクアウトの営業も認める。ただし料理は自宅で消費されなければならない(ロックダウン中はレストランは料理の宅配サービスのみ許されていた)。

5月18日からは商店など小売業の営業、美術館、博物館、図書館などの開館が許可される。またその2週間後の6月1日からは美容院やレストラン、カフェ、バールなどの飲食店も全面解禁とする。

イタリアは2月22日、北部ロンバルディア州での感染爆発を受けて同州の一部地域の隔離・封鎖を閣議決定した。3月9日にはさらなる感染拡大を受けてロックダウン措置を同州の全域に拡大。それでも感染が爆発的に増え続けたため、3月12日には全土封鎖に踏み切った。

それは医療と食料とライフライン従事者以外の国民を、それぞれの自宅に押し込める前代未聞の厳しいロックダウンだった。地域限定の最初のロックダウンから2ヶ月余り。イタリアの施策は効を奏して、未だに死者は多いものの感染拡大の勢いは収まりつつある。

言うまでもなくワクチンや治療法が開発されるまではまったく予断を許さない。だがイタリアは、ロックダウンによって瀕死の重体に陥っている経済を稼動させなければ、イタリア共和国そのものが崩壊しかねない瀬戸際に立たされた。

それを受けて段階的な封鎖の解除を決定した。だが全ての規制緩和は感染状況によって柔軟に対処する。また感染が再び拡大した場合には、イタリア政府は即座にロックダウンを再導入する腹積もりである。

イタリアの動きはイギリスを除く欧州主要国と近辺の国々にも波及しようとしている。


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新聞同時投稿コラム

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           コロナ地獄に咲く花

 欧州最大のCovid-19被害国であるイタリアは現在も苦境のまっただ中にいる。死者数、感染者数を始めとするさまざまな数字がイタリアの窮状を示しているが、中でもすさまじいのが医療現場の医師の殉職数。4月26日現在、150人にものぼる。
 感染爆発によって医療機器が不足し、医師の防護服どころかマスクや手袋さえも不足する事態が続いた。現在は落ち着きつつあるが、それでも一日平均1~2人の医師が新型コロナ感染症で亡くなっている。
 イタリアの感染爆心地である北部ロンバルディア州は、医療崩壊に陥ったほぼ一ヶ月前、300人の退職医師のボランティアを緊急募集した。するとすぐに募集人員の25倍以上にあたる約8000人の引退医師が名乗りを挙げた。年老いた彼らは平穏な年金生活を捨てて、高齢者を襲うことが多いCovid-19の医療の現場に、むろん危険を百も承知で敢然と立ち戻っていった。
 イタリア最大の産業はボランティア、という箴言がある。イタリア国民はボランティア活動に熱心だ。猫も杓子もという感じで、せっせと社会奉仕活動にいそしむ。彼ら善男善女の無償行為を賃金に換算すれば、莫大な額になる。まさにイタリア最大の産業である。
 ボランティア精神はCovid-19恐慌の中でも自在に発揮されている。救急車の運転手ほかの救命隊員や、市民保護局付けのおびただしい数の救難・救護ボランティア、困窮家庭への物資配達や救援、介護ボランティアなども大活躍している。8000人もの老医師が、ウイルスとの戦いの前線に行く、と果敢に決意する心のあり方も根っこは同じだ。
 それらのエピソードが示しているイタリア人の博愛と寛容と勇気と忍耐の精神の強さに、僕はあらためて深い感動を覚えずにはいられない。



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ファシズムなら新型コロナウイルスをあっさりと始末する。ついでに民衆も。



祝4月25日切り取り650


新型コロナウイルスによる米国の死者が5万890人、イタリアのそれが2万5千969人となった今日4月25日は、イタリアの終戦記念日。ここでは解放記念日と呼ばれる。イタリアの終戦はナチスドイツからの解放でもあった。だから終戦ではなく「解放」記念日なのである。

日独伊三国同盟で結ばれていたドイツとイタリアは、大戦中の1943年に仲たがいが決定的になった。同年7月25日にはクーデターでヒトラーの朋友ムッソリーニが失脚して、イタリア単独での連合国側との休戦や講和が模索された。

しかし9月には幽閉されていたムッソリーニをドイツ軍が救出し、彼を首班とする傀儡政権「イタリア社会共和国」をナチスが北イタリアに成立させて、第2のイタリアファシズム政権として戦闘をつづけさせた。

それに対して同年10月3日、南部に後退していたイタリア王国はドイツに宣戦布告。以後イタリアではドイツの支配下にあった北部と南部の間で激しい内戦が展開された。そこで活躍したのがパルチザンと呼ばれるイタリアのレジスタンス運動である。

レジスタンスといえば、第2次大戦下のフランスでの、反独・反全体主義運動がよく知られているが、イタリアにおいては開戦当初からムッソリーニのファシズム政権へのレジスタンス運動が起こり、それは後には激しい反独運動を巻き込んで拡大した。

ファシスト傀儡政権とそれを操るナチスドイツへの民衆の抵抗運動は、1943年から2年後の終戦まで激化の一途をたどり、それに伴ってナチスドイツによるイタリア国民への弾圧も加速していった。

だがナチスドイツは連合軍の進攻もあってイタリアでも徐々に落魄していく。大戦末期の1945年4月21日には、パルチザンの要衝だったボローニャ市がドイツ軍から解放され、23日にはジェノバからもナチスが追放された。

そして4月25日、ついに全国レジスタンス運動の本拠地だったミラノが解放され、工業都市の象徴であるトリノからもナチスドイツ軍が駆逐された。

その3日後にはナチスに操られて民衆を弾圧してきたムッソリーニが射殺され、遺体は彼の生存説の横行を避けるために、ミラノのロレート広場でさらしものにされた。

同年6月2日、国民投票によってイタリア共和国の成立が承認され、1947年には憲法が成立した。新生イタリア共和国は1949年、4月25日をイタリア解放またレジスタンス(パルチザン)運動の勝利を記念する日と定めた。

イタリアは日独と歩調を合わせて第2次世界大戦を戦ったが、途中で状況が変わってナチスドイツに立ち向かう勢力になった。言葉を替えればイタリアは、開戦後しばらくはナチスと同じ穴のムジナだったが、途中でナチスの圧迫に苦しむ被害者になっていったのである。

日独伊三国同盟で破綻したイタリアが日独と違ったのは、民衆が蜂起してファシズムを倒したことだ。それは決して偶然ではない。ローマ帝国を有し、その崩壊後は都市国家ごとの多様性を重視してきたイタリアの「民主主義」が勝利したのである。むろんそこに連合軍の巨大な後押しがあったのは言うまでもない。

イタリア共和国の最大最良の特徴は「多様性」である。多様性は時には「混乱」や「不安定」と表裏一体のコンセプトだ。イタリアが第2次大戦中一貫して混乱の様相を呈しながらも、民衆の蜂起によってファシズムとナチズムを放逐したのはすばらしい歴史だ。

それから75年後の今、イタリアは民主主義世界の先頭に立って、新型コロナウイルスとの戦いを繰り広げている。それに先立って一党独裁国家の中国は、邪魔な国民を排除-あるいはもしかすると抹殺さえして-都合の悪い情報を隠蔽し、思い通りに民衆を圧迫する方法でウイルスと対峙した。

自由主義世界のうちの民主主義国家のイタリアは、国民との対話を続け、情報を徹底開示し、国民の協力を得つつ都市封鎖を実践して、どうやら感染封じ込めに成功しつつある。イタリアの成功はスペイン、フランスにも波及し、今日現在は厳しい状況にあるイギリスやアメリカも間もなく追いつくだろう。

もともと症状の軽いドイツをはじめとする北欧諸国は、イタリアよりも明確な形で現われた封じ込めの効果を逃さず、ロックダウンを緩和してさらに先に進もうとしている。日本も感染爆発や医療崩壊をうまく回避できれば、経済をはじめとする全てが速やかに復調していくだろう。

イタリアの終戦は先に触れたようにナチズムからの解放だった。同時にそれはナチズムと強く結託していたファシズムを打倒した瞬間でもあった。ナチズムやファシズムは、民衆への圧制や虐待や弾圧によって即座に全土を封鎖分断し、新型コロナウイルスでさえも思いのままに封じ込めることだろう。一党独裁国家・中国が武漢でやったように。

ナチズムやファシズム、また日本軍国主義や一党独裁体制下では、人民は虫けらと同じだ。だから人々を思いのままに縛り上げ抑圧し抹殺して、都市封鎖でも何でも自在に断行しウイルスの封じ込めができる。だが民主主義国家ではそれはできない。やってもならない。

民主主義国の政府は国民と対話し、情報開示を完遂しながら国民の自由意志と権利を死守する。その上で必要ならば「自らの責任」においてロックダウンのような苛烈な規制を国民に課する。時には「自主規制」と称して責任を国民に押し付ける歪形ロックダウンもあるが、それとて独裁方式よりはましだ。

民主主義国家でも規制はかけるが、それは例えば中国が武漢でやったような有無を言わせずに力で抑え込むものではなく、法の支配の原則に基づく民主的な方策だ。罰則もかけるが、それらも全て民主主義の手続きを経て国民との合意に基づいて科されるものだ。

独裁国家や専制体制の国々が、強権を用いて人々を圧迫し、よってウイルスの感染も阻止する様を見て、独裁や専制も悪くないと考える者が必ずいる。だがそれは間違っている。世界はナチズムやファシズム、また軍国主義や独裁や専制による辛酸をさんざん味わい苦しんだ後に、これを打倒して今の民主主義と開明と自由を獲得した。

われわれはその開かれた仕組みによってパンデミックを克服し、例えば一党独裁国家中国よりも優れた体制の下にあることを証明しなければならない。それでなければ、第二次大戦前までと同じ暴虐と抑圧と恐怖が支配する暗黒の世界に逆戻りしかねない。

中国におけるパンデミックは、警察国家としての同国の性格をより強化するのに役立った、という論考がある。それは恐らく正しい。全ての民主主義国家は、繰り返しになるが、中国とは対極にある開明と自由を基にパンデミックを克服するべきである。例えば75年前の今日、イタリアがナチズムとファシズムを放逐して自由を獲得したように。



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Covid-19を斬る~イタリアの回復が始まったようだ


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イタリアの新型コロナ感染者の実数が、パンデミック開始以来はじめてマイナスに転じた。感染者の実数とは、累計の総感染者数から死者数と治癒者数を差し引いたものである。

2020年4月20日時点の感染者実数は108237。前日の数字は108257。前日比20人減である。これまでの地獄絵を思えばこれは画期的な数字であり出来事だ。

死者数は454。もちろんむごたらしい数字だが、多いときには連日800人前後が亡くなり死者の総計が2万5千人にも迫ろうとするイタリアの現実では、これもまた朗報だ。

治癒した患者数は増え、集中医療室の患者数は減っている。いずれも確実なトレンドらしくなってきた。新規感染者の減少傾向が確実になれば、Covid-19禍が一旦収束する道が見えてきたと考えてもいいだろう。

言うまでもなく、治療法が見つかりワクチンが開発されるまでは全く安心はできない。それでも病気の勢いが弱くなる様子を見て、全土封鎖・ロックダウンを緩和しようという動きも出てきた。

イタリアの経済は破壊され、生活困窮者が溢れ、学校閉鎖による子供と親のストレスは膨張し、不幸が国中を覆って文化社会生活はズタズタになっている。

だがそれらの苦難は、新型コロナウイルスの撃滅のために避けては通れない犠牲だった。いや、過去形ではなく犠牲生活は今も続き、今後もおそらく続く。地獄を経験したイタリア国民はそのことにもまた勘づいている。

それでも、いやそれだからこそ、ロックダウンの期限が一旦切れる5月3日を境に、規制を一部緩めようという考えが出てきた。絶えず最大級の警戒を続けながら徐々に束縛を解くのは、おそらく必要なことだ。

それでなければ、苛烈なロックダウン策で死にかけているイタリアの経済が、正真正銘の死を迎えかねない。今の世の中ではイタリアの国家経済の死とは、イタリア共和国そのものの完全消滅と同義語といっても過言ではない。

不運は往々にして幸運とセットになっている。イタリアはこの危機のおかげで、自らに難局を乗り切る才幹があることを再確認した。ふいに世界最悪のCovid-19被害地に陥りながら、不屈の精神と勇気と連帯で絶望の淵から立ち上がりかけている。

国民は当初、事の重大さがなかなか理解できずに移動禁止令を無視して出歩いたり、集会や宴会やイベントを催したり、井戸端会議やカフェでの語らいやバーやレストランでの集いまた歓楽を諦めようとはしなかった。

だが彼らは、急速に厳重なロックダウンの必要性を認識した。言葉を替えれば、Covid-19の毒牙が人々を容赦なく恐怖のどん底に突き落とした。人々は戸惑いつつも全土封鎖の辛苦を受け入れ始めた。

国の規制や禁止や抑圧に激しく反発する自由奔放な人々が、移動の禁止を受け入れ、外出を控え、自宅待機の訳合いを十分以上に理解してじっと耐えるようになった。

人々は家に籠もって、連日連夜展開されるCovid-19と医療現場の戦士たちの壮絶な戦いを、テレビ画面で目の当たりにした。戦士は医師であり看護師であり病院のライフラインを支える技師であり清掃員などの末端の労働者だった。

壮絶な戦いの中で、4月20日現在138名の医師がCovid-19の毒牙にかかって斃れ、30名余りの看護師が殉職した。またパンデミックの最初からイタリア全国で休みなく働き続けている薬剤師の中からも、12人の犠牲者が出ている。

医療崩壊がもっとも凄まじかったロンバルディア州が、300人の退職医師のボランティアを緊急募集した際には、アナウンスから24時間以内に定員の25倍以上にあたる8000人もの引退医師が名乗りを上げた。

年老いた彼らは安穏な年金生活を捨てて、高齢者を襲うことが多い新型コロナウイルスが猛威を振るう医療の現場に、むろん危険を百も承知で敢然と立ち戻っていった。

それだけに限らない。救急車の運転手ほかの救難隊員や、市民保護局付けのおびただしい数の救命・救護ボランティア、困窮家庭への物資配達や救援、救助また介護ボランティアなども大活躍し今も活躍している。

イタリア最大の産業はボランティア、という箴言がある。イタリア国民はボランティア活動に熱心だ。猫も杓子もという感じで、せっせとボランティア活動にいそしむ。博愛や慈善活動を奨励するローマ・カトリック教会の存在も大きいのだろう。奉仕活動をする善男善女の仕事を賃金に換算すれば、莫大な額になる。まさにイタリア最大の産業である。

そのボランティア精神がCovid-19恐慌の中でも自在に発揮されている。普段からボランティア活動に一生懸命な人々は、感染のリスクを恐れながらも人助けに動かずにはいられない。8000人もの老医師が、ウイルスとの戦いの前線に行く、と果敢に決意する心のあり方も根っこは同じだ。

イタリアに居を定めている外国人の僕は、それらのエピソードが如実に示しているイタリア人の博愛の精神の強さと、寛容と忍耐と優しい心の強靭に、あらためて目を瞠(みは)らずにはいられない。そうやってかねてから強いこの国への僕の愛着と、敬愛と、歓喜はもっとさらに深まり強度を増している。

あとは今のところは、故国日本のコロナ禍の状況が、厳しい中でもイタリアほかの欧州各国またアメリカのような感染爆発に至ることなく、何とか地獄絵の世界を避ける方向に推移して行ってくれれば言うことはない。そうなることを心から祈るばかりである。


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似て非なる日本とスウェーデンの未来は同じ?



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Covid-19対策で厳しいロックダウンを敷く欧州各国や、アメリカ、インド、イランなどとは一線を画して、国民を縛らないゆるい施策を取るスウェーデンと日本を、同列に見る日本人が少なからずいるようだ。

だがそれは大きな心得違いだ。スウェーデンと日本は今のところは、厳しいロックダウン策を取っていないという意味で、偶然にも確かに似ていなくもない。しかしその中身は全く別物だ。

スウェーデンの施策は、成熟した民主主義に基づいて国民と政府がお互いに何をしていてまた何をすべきかを明確に理解し合いながら動くスキームだ。そこには事態の成り行き次第で即座にロックダウンに切り換え替えるという合意がある。

一方日本の緊急事態宣言は、イタリアほかの国々が採用しているロックダウン策を、日本独特のヌエ的な手法で骨抜きにして、「自粛」という一見民主的だが実は強制以外の何ものでもない権謀を国民に押し付ける措置。

自粛には「同調圧力」という日本社会独特の刑罰が伴っている。それは歴史的には村八分とも呼ばれてきた社会的仕置きだ。その点を除けば緊急事態宣言の内容はロックダウンと何も変わらない。

翻って スウェーデンは、学校閉鎖もしない、大小の各種イベントも禁止しない、国民に自宅待機も呼びかけない等々、世界の趨勢に真っ向から立ち向かう政策方針を取っている。それにはれっきとした合理的な根拠がある。

早くから自宅待機を強要すれば、ちょうど感染流行が最高潮に達したころに、「自主隔離疲れ」を覚えた人々が一斉に表に出てしまう危険がある。大規模イベントや集会を禁止しないのは、それらが行われる広い空間では、自宅や個人集会の狭い空間で家族や友人同士が感染し合う可能性よりもリスクが低いから。

また学校を閉鎖するのも無意味。なぜなら子供がかかりやすい季節性のインフルエンザの場合は学校閉鎖が効果的だが、新型コロナは高齢者を襲うケースが多く子供の発症リスクは低い、など、など、科学的な知見に基づいて実行している。

それらの見識とスキームは、実は以前にイギリスで生まれた。同国のボリス・ジョンソン首相は、イギリスがまだパンデミックの入り口にいたころ、その施策を実行に移そうとして国民の猛烈な反発に遭い、早々と諦めてロックダウン策に方向転換した。

同じ方針が人口が少なく且つ民度の高いスウェーデンでは受け入れられた。政府と国民がいわば大人と大人の強い信頼関係で結ばれ、手を取り合い、感染拡大を抑えるために責任を持って行動する戦略が採用されているのだ。

つまり国民と政府が政治的合意の下にロックダウンを避けているもので、既述のように必要ならいつでもロックダウンに移行できる態勢だ。安倍首相が国会の場で「日本はロックダウンはしない」と明言した、「行き当たりばったり」術に見えなくもない方策とは意味が違うのである。

ところが同時に、両国はまた似ているところもある。つまりここまでの状況では、スウェーデンも日本も結局、イタリアが先鞭をつけたロックダウン策を導入しなければ感染拡大を阻止できなくなるのではないか、との見方も出始めているのである。



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建前「緊急事態宣言」が本音「ロックダウン」に変わるならば

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7都府県が対象だった「緊急事態宣言」が4月16日、7都府県から全国に拡大された。僕は「緊急事態宣言」はいわば建前であり、本音はロックダウンだと捉えている。

ただし、そのロックダウンの罰則は日本独特の同調圧力を利用した村八分。そこがイタリア発・欧州各国またアメリカなどのロックダウンとは違う。

その観点から7都府県に限定した「緊急事態宣言」は意味を成さないと思っていた。なぜなら北部地域に限定したイタリアのロックダウンも効果が薄かったからだ。

ロックダウン域から規制の薄い地域へ逃亡する不心得者が必ずいる。またそうではなくても規制をかけた地域とそうでない地域の人々の仕事などでの往来が絶えないのが原因だ。

案の定、「緊急事態宣言」は全国に拡大された。イタリアのロックダウンがそうであったように。全国への拡大は正しい方向だと思う。

それによって日本の感染拡大が抑え込まれることを祈りたい。そうなればここイタリアに始まり、スペイン、フランス、イギリス、アメリカ、また世界各地をなぶっているCovid19の毒牙も極小になるだろう。

だが、そうならないケースも考えておいたほうがいい。つまり、「自粛」を頼りにする日本式ロックダウン、即ち「緊急事態宣言」がうまく作用しない場合だ。

その時は、世界各地で実行されている罰則さえ伴う「正真正銘」のロックダウンへの移行を余儀なくされるだろう。そこでは経済のさらなる破壊と国民の大きな犠牲が不可避だ。

同時に日本政府も、自らの責任を曖昧にしたまま国民だけに「自粛という犠牲」を強いる、「緊急事態宣言」の守護神という都合のいい立場ではいられなくなる。

禁止や罰則を国民に強いることで、日本政府はそこから出る結果に全て責任を持ち、壊滅した経済の再生や社会秩序の護持、そして何よりも国民の安全保障のために死に物狂いで取り組まなければならない。

ロックダウン策を取る場合は日本は、先ず一部地域を封鎖して徐々に拡大するのではなく、一気に全国を封鎖したほうがいい。なぜなら全国一律にしなければ、そこでもまた7都府県を対象にした「緊急事態宣言」の時と同じ瑕疵が必ず露呈するからだ。

そのことを含めて、ほとんど全てのアイデアと対策と実行法は、ここイタリアまた欧州各国、さらにアメリカが既に発明している。それは日本が「緊急事態宣言」そのものと、そこに至るまでの試行錯誤の過程で遺憾なくパクった通りだ。

日本政府は、もしもロックダウンをしなければならないような不運に見舞われた場合は、今度こそそれは施策の本家本元の欧州に倣ったものであることを隠さず、正直に国民に相対し、重い責任を全て背負い直して、決死の覚悟でウイルスに立ち向かっていくべきだ。



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ズレているのはこちらかも知れないが言わずにはいられない


白黒ギャー!


4月15日、「3月に日本を訪れた外国人観光客は93%減少したという“衝撃の統計”が発表された」とのNHKの報道に、言葉の遊びではなく、僕は腹から2重の「衝撃」を受けた。

一つは、コロナがはびこるこの期におよんでもまだ「7%」もの観光客がいるという衝撃。

一つは外国人観光客の93%の減少を「衝撃」と捉える、NHKのズレた感覚への衝撃。

観光客はもはやゼロが当たり前だ。従ってそれは衝撃などではない。

イタリアを見ろ。スペインを見ろ。フランスを見ろ。アメリカを見ろ。

NHKは世界を通り一遍に報道するのではなく、そこの真実にももっと目を凝らすべきだ。

そしてそれを国民に伝えて、時としていまだに島の洞窟の中で騒いでいるようにも見えるある種の人々を外に連れ出し、現代の空気に触れさせ、蒙昧な鎖国主義を解き、地球住民になるようにしっかり先導してやるべきだ。

そうすれば、それらの人々と同じ土俵上にいる日本政府も、あるいは中世世界のような精神構造から抜け出して、「今」を生きられるようになるかもしれない。

だが今頃になっても「観光客が93%“も”減った」と騒ぐNHKは、世界が見えないそれらある種の人々と同次元にいるようで、なんとも心もとない。



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Covid19の今を斬る~いつまでも死なない老人も死ぬ不幸



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イタリアのCovid-19の死者が突出して多いのはなぜか、という質問を10人前後の皆さんからいただいた。ひとことで言えば今のところ、イタリアが高齢化社会だから、というのがその答えだ。

新型コロナウイルスは高齢者を多く攻撃し、重症化させ、死に至らしめる。そしてイタリアは欧州随一の高齢化社会であるため、必然的に死者が多くなるという理屈。今のところは専門家の間でさえそれ以上に納得のいく説明はなされていない。

その答えを最も良く知るはずの現場の医療関係者は、医療崩壊が深刻な状況の中で患者を救うための必死の仕事を続けていて、今はとてもそのことの説明や、分析や、もしかすると告発などに時間を割く余裕はない、というのが現実だろうと思う。

正確な答えは、パンデミックが終息し彼らが統計学ほか幅広い分野の専門家等も交えて分析・考察を行えるようになったときに、必ず明らかにされることだろう。

そうはいうものの、今このときに考えられる答えはあるのでそれを再び書いておくことにした。それは多くの情報とパンデミックの経緯と数値と、加えて現地にいることで得られる知見に基づいた、僕なりの分析によって導き出したものである。従って正確ではない可能性があることをあらかじめ断っておきたい。

専門知識と経験、また事実とエビデンスに基づいた学術的な考察は、いま述べたように近い将来きちんと導き出されることと思う。そうされなければならないほどに、イタリアのCovid-19の死者数は異様に大きいものに見える。

イタリアは欧州随一の老人大国。高齢者が多いのがCovid-19死亡率の高さにつながっている、というのが先に触れたように当のイタリアを含む欧州での通説である。65歳以上の者が全人口に占める割合、いわゆる高齢化率はイタリアでは23パーセントを超えている。ちなみに死亡者がイタリア並みに多い米国は16パーセントである。

イタリアでの被害が拡大したもうひとつの理由は、若者が祖父母などの高齢者と頻繁に交流する文化があること、という考察もある。だがそれは感染拡大の理由にはなっても、なぜ死者が多いのかの説明にはならないと思う。むろん感染が多いから死者も多い、という理屈は成り立つが。

イタリアの死者が多いのは高齢化社会のせい、という説はむろん正しい。だがそれだけが正解ではないと思う。感染者が爆発的に増えて医療は重症者を十分にケアできていない、というのもきわめて重要なポイントではないか。

Covid-19にまつわるイタリアの劇的な変化は2月22日に始まった。巨大津波のようなオーバーシュート(感染爆発)に襲われたのだ。ふいに足元をすくわれ、体勢を立て直す暇もないまま、さらにそれの波状攻撃を受けてにっちもさっちもいかなくなった。患者の数があまりにも多く、感染爆心地の北部イタリアの医療体制はパンクした。

別名、医療崩壊という名の恐慌に陥った医療の現場では、治療が全く行き届かず患者がバタバタと死んでいった。火事場騒ぎの中で、患者の生死を分けるトリアージなどもほとんどためらいなく進行して行った。いや敢えてトリアージを行うまでもなく、重症者は次々に死亡した。

患者が十分な治療を受けられない状況が急激にそして長く出現した。ピークの頃は患者の出現、入院、治療、死亡までの平均時間がたった8日間だったことでも明らかだ。さらに医師の感染、死亡もこれまでで116名と異様に多い。そのこともまた医療崩壊の惨劇を如実に物語っている。

日本の医療専門家や評論家の中には、イタリアがほぼ医療崩壊に陥った事態を、医療レベルが低いから、としたり顔で指摘する者が少なくない。彼らは日本式画一主義あるいは大勢順応・迎合主義にでっぷりと浸っていて、その毒に侵された目と頭脳でしか物が見えず考えられない。

そのため地域の多様性に富むイタリアの実情も自らの土俵に呼び込んで、「画一的」思考で判断しイタリアの医療レベルは低いと断じる。だが多様性が持ち味のイタリア社会には-その是非は別にして-平均的事案が少なく、突出しているものと劣悪なものが並存している。医療分野もその例に洩れない。

イタリア最大のCovid-19被災地である北部ロンバルディア州は、欧州全体でもトップクラスのGDPや生活水準を誇る場所である。従ってそういう場所は当然、医療レベルもトップクラスのものを備える。ロンバルディア州の医療レベルは欧州でもきわめて高いのだ。

そのロンバルディア州の高レベルの医療体制が、感染爆発であっさりと崩壊した。医療レベルが低かったからではなく、感染爆発の勢いがあまりに強烈だったからである。感染者の数が急激に増え、それに連れて高齢者が主体の重症者も激増した。そうやって遺体の山が築かれていった。

イタリアの医療レベルを全体で均らすと、中南部が弱い分確かにドイツなどの北欧よりは低いかもしれない。だが、ロンバルディア州を頂点にピエモンテ、ヴェネト、エミリアロマーニャなどの北部大規模州と周辺の小規模州は、ドイツほかの国々の医療レベルに引けをとらない質がある。

医療レベルの高いイタリアの北部州でさえ、新型コロナウイルスに自在に蹂躙された、というのが僕の論点である。感染爆発が中南部で起こっていたなら、イタリアの惨状は、さらにもっと辛いものなっていただろう。日本の知ったかぶり論者らは、イタリアを案ずるよりも足元の日本の今の医療態勢を憂慮して、政府の対応に物申すなどの役立つ言動をしたほうがいいのではないか。


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covid19を斬る~「復活祭」復活までの隠忍


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イタリアのロックダウン(全土封鎖)は予定では今日(4月13日)までだったが、あっさりと5月3日までに延長された。当然過ぎるほど当然の成り行きである。

イタリアの1日あたりのCovid19死者は減少傾向にある。それでも昨日(4月12日)の死者数は431人にのぼる。新たな感染者数も1984人出た。少しづつ減ってはいるものの、ICU(集中治療室)患者も依然として3343人いる。

そんな中で、ちょうど1ヵ月に渡って続けられてきた新型コロナウイルス対策のガードをゆるめるのは、ほとんど狂気のさたというものだろう。それでも規制を緩和しろと主張する者はいる。

最たるものは財界人である。ロックダウンによって、ただでも絶好調とは言えなかったイタリア経済は青息吐息だ。失業者も巷に満ちている。

収入の道を絶たれた多くの貧しい人々からも、助けを請う悲痛な叫びがあがり始めている。また街中などの狭いアパートやマンションに閉じ込められた人々も、「苦しい」と訴え出した。

だが今の状況では誰もがただひたすら耐えるしかないだろう。経済は最小限の歯車は回り続けている。弱者の人々への救済策も一応打ち出されている。外出は状況が改善され次第徐々に許されるだろう。

新型コロナウイルスは既存の経済社会の仕組みを根底から揺さぶり、人々の慣習や常識や幸福を破壊し続けている。われわれは変化を受け入れ、耐え、生き方を修正することでウイルスの脅威に対抗するしかない。

中でも今このときに全ての人々に求められているのは、忍耐である。苦境に耐え続ければ、苦境が常態となって耐えやすくなる。だから厳しい規制が少しづつ延長されるのは良いことだ。

もちろんそれが永遠に続いて良いわけではない。むしろ逆だ。窮乏生活を一刻も早く終わらせるために、今を耐えるのである。そう信じて耐えなければ、何人も耐えられない。われわれはそんな正念場の時間の中にいる。

昨日、4月12日は「復活祭」だった。イエス・キリストが、死から3日後に甦(よみがえ)る奇蹟をたたえる、キリスト教最大の祭りである。

日本などの非キリスト教世界でも祝われるクリスマスは、イエス・キリストの誕生を寿ぐ祭典。いうまでもなく盛大なイベントだ。だがキリスト教最大の祭りではない。

誕生と死はイエス・キリストのみならず誰にでも訪れる。だが死後3日で甦生する大奇蹟は、イエス・キリストにしか訪れない。クリスマスと復活祭のどちらが重要かは火を見るよりも明らかである。

復活祭も新型コロナウイルスの前に屈服させられた。フランシスコ教皇は信者のいない無人の教会で祈り、人々は家に押し込められたままテレビ画面でその孤独な姿を見た。

家族や友人やゆかりの人々が集って、にぎやかに食べ、飲み、歓談する復活祭の宴も姿を消した。むろん食卓を飾る復活祭特有の子ヤギや子羊料理もほぼ同じ運命になった。

そして復活祭2日目の今日は「小復活祭-パスクエッタ」と呼ばれる「春を讃える」祝日。人々は野山にピクニックに出かけて爛漫の春を満喫する習慣がある。

今年はその楽しみも峻厳な外出禁止令に阻まれて完全に消滅した。僕の住まうロンバルディア州の片田舎の村には、無人の田園地帯が芽吹き始めた緑に覆われて粛然と広がっているばかりである。



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緊急事態宣言の内容はイタリアのロックダウンのコピペです


長鼻安倍似?


日本政府の新型コロナウイルス対策、特に緊急事態宣言とその直後の対応に関連して、安倍首相信奉者の読者の方からまたメッセージがあった。

「安倍首相も彼のブレーンもよくやっている。Covid-19への理解も疫学的な知見も素人の自分には全て目からウロコ体験だ。あなた(仲宗根)はそこがよく分かっていないようだ」という趣旨の便りである。

いうまでもなくこのブログの直近記事“緊急事態宣言はノーテンキな茹でガエル論だ”を読んでのコメントだ。

僕は今回は彼に宛てて次のような趣旨の長い返事を書いた。それは公開にする意味があると思うので敢えてここに転載することにした。



緊急事態宣言の中身は、罰則を含む法律や条例による縛りがないという点以外は、全てイタリアのロックダウンひいては欧州各国のロックダウンの模倣です。

そのことを説明する前に、日本が行っている感染拡大阻止法について言及します。日本は感染爆発(オーバーシュート)を回避するために懸命にクラスター(小規模集団感染)潰しを行っています。それもまた欧州が必死でやっている(やってきた)ことの後追いです。感染爆発を抑えることで、イタリアやスペインで起きている医療崩壊を回避しようとしているわけです。

イタリアもスペインもむろんクラスター潰しに動きました。イタリアは2月21日から23日にかけて起きた突然の感染爆発によってそれが不可能になりました。一方フランスは当初は確実に0号患者(疫学調査上の最初の感染者)を見つけては、クラスターを確実に潰していきました。それはドイツ他の欧州の国々も同じ。

イタリアの不運は、そもそも最初のクラスターの0号患者さえ特定できなかったことです。0号患者はイタリアに溢れている中国人であった可能性がありますが、ここではそのことは論じません。クラスター発見の直後に感染爆発が起き、続いてスペイン、やがてフランスも同じ道をたどります。同様にドイツ、イギリス、やがてアメリカと、欧米の国々の「イタリア化」は急速に進みますが、ドイツほかの北米諸国は医療崩壊にまでは至っていません。

それは元々の医療体制の堅牢さにも原因がありますが、イタリアの状況をつぶさに観察し分析し、また当のイタリアとの情報共有も堅持しながら、懸命に感染爆発を「遅らせて」きたから達成できたことです。日本は欧州の対応を模倣してクラスター潰しを丹念に行い、2020年4月10日現在、なんとか持ちこたえています。だが、危険域に入ったため緊急事態宣言を出した、というのが今の状況です。

その緊急事態宣言のあり方をめぐって私は批判的に捉え、あなたはそうではない。そしてその旨また連絡をいただいたので、私はあなたの思い込みや誤解を解くためにこうして反論を書いています。それは公の議論にする価値があると私は判断しましたので、この文章は後ほどSNSにても発信することをお知らせしておきます。

ロックダウンは敢えて単純化して言えば、公衆衛生または疫学上の考え方である「全ての国民が人との接触を8割減らせば感染拡大を抑止できる」というセオリーに基づいて実行されます。8割の国民が家に籠もって残りの2割の国民がライフラインの維持や医療の遂行、食料の生産、輸入、搬送、販売、などを担う、というふうに考えてもいいでしょう。

また公共交通機関、薬店、情報関連業務(販売店を含む新聞、テレビ・ラジオ・インターネットなど)、銀行等々もライフラインの一部とみなして営業を継続させます。そしてそれらの仕事に従事する者も、また8割の国民のうちの必要不可欠な理由(食料買い入れ、病気など)で移動をする者も、政府発行の移動許可書を常に携帯する(イタリア、フランスなど)。

疫学あるいは公衆衛生では8割という数字には重要な意味があるようです。たとえば新型コロナウイルスがほしいままにはびこって感染が止め処もなく広がるとします。それは永久に続くことはなく、全人口の最大およそ8割が感染すると人々の体内に免疫ができる。つまり新型コロナウイルスでさえ危険な死病ではなくなる。

英国のボリス・ジョンソン首相はこの知見を元に、ウイルスの拡散を放っておいても構わない、という趣旨の発言をして国民の猛烈な怒りを買いました。それは政治的には許されない動きですが、科学的には意義のあることなのです。欧州にはそうした知見や知識や哲学があります。

欧米では中国の実態も精査して、独自の歴史と経験と知見に基づく規範を立てて、先ずイタリアがロックダウンとそれに関連する政策を果敢に進めました。むろん今この時も進めています。そして-繰り返しになりますが-イタリアのデータは独仏スペインに始まる他の国々に共有され、彼らは時間差でイタリアの状況が自国にも及ぶことを見越して準備を進めました。

Covid-19とのイタリアの戦いの成否が、他の国々の基本戦略にも影響しますから誰もが固唾を呑んで見守りました。同時に自国での感染爆発に備えて動いてもいました。しかしイタリアの格闘の成否が明確になる前に、感染爆発はスペイン、フランス、ドイツへと飛び火し周辺の小国スイス、オーストリア、ベルギー等々を巻き込んでいきました。

殺人ウイルスとの間の戦渦は、欧州大陸とドーバー海峡をはさんで孤立しているイギリスにも伝播しました。そして欧州と社会・文化・政治・経済の各分野が密接に交錯しているアメリカにも拡散し、むろんその他の多くの世界の国々も抱き込んでひたすら拡大しています。

そうした大きなうねりの中で、情報や政策やデータや知見が幅広く共有され分析され修正され実行されているのが、欧米対Covid-19の戦いです。欧米は古代ギリシャに始まり、ローマ帝国によって基礎ができて以来発達し続けた公衆衛生、特に疫病の知見を最大限に活かして殺人ウイルスと闘っています。

欧州の知見はむろん十分ではありません。疫病や感染症への理解は中世には抑圧され、ルネサンスの開明のおかげで再び躍進しますが、人々は14世紀と17世紀のペストや20世紀のスペイン風邪など、感染症の大流行の前にはほとんど無力でした。それでも知識と経験は蓄積されていったのです。

長い歴史に裏打ちされた知見を武器に、新型コロナウイルスと闘う欧州の戦略を、日本はいつものように遠くから監視し学習し知見として急速に取り込みました。それは政府の専門家会議や大学また現場の医療専門家らが、頻繁にテレビに出演して発言する中で明らかになっていきました。

その構図は、4月7日の緊急事態宣言の際の安倍首相と諮問委員会の尾身茂会長の記者会見で、さらに明確になりました。つまりそこで開陳された知見やデータや政策の骨子は、既に欧米、特に欧州で実行されたものばかりなのです。日本はそれをなぞっているに過ぎません。

だがここで、日本はまた欧米の猿真似をしておいしいところだけを盗んでいる、という古くて新しく且つ心の狭い議論は止しましょう。日本がかつて欧米の進んだ科学や文明や哲学やあまつさえ文化の恩恵さえ受け、これを模倣してはオリジナリティーの欠如を非難され続けたのは歴史的事実です。が、日本は今では多くの分野で世界の最先端に立って、世界を引っ張っているのもまた事実です。

欧米各国は多くが陸続きで、社会は人種の坩堝(るつぼ)とも言える構成になっています。そこでは人の往来や混血や混交が激しいために疫病が多く、それに対応する研究や治療や予防その他の対策も前述の如く発達しました。

島国で人の往来や混交の少ない日本は、感染症や疫学的知見では欧米に遠く及ばない。従ってそこで欧米と情報を共有するのは良いことです。日本はそうすることで将来は必ず独自の施策や対策法を見出し、それは翻って欧米また世界の国々の益にもなることが確実だと考えるからです。

そのように欧米と日本は新型コロナウイルスとの戦いでは同じ土俵上にいます。むろん今日現在の日本の感染状況は欧米に比べてまだ緩やかです。だが遅かれ早かれ欧米の水準に達すると考えられていますし、そうならない場合でも欧米の経験と知見を活用してのCovid19対策が功を奏したことは間違いありません。要するに日本のCovid19対策の内容は何もかもがデジャヴ(既視)の出来事なのです。

唯一の違いは、新型コロナウイルス対策として打ち出された安倍首相の緊急事態宣言が、私が何度も指摘しあなたがそれに反論している「刑罰を伴うロックダウンではなく、国民の“自粛”に頼る日本独特の不思議な方策」だという点です。、私の目にはそれは、中途半端な内容のいわば似非ロックダウンというふうに見えます。

むろん日本には日本のやり方があって良い。法律や条令で強制するのではなく、日本社会の「同調圧力」に頼るやり方が、本当に感染抑止に資するなるのならば-その悪弊を容認する姿勢は醜悪であるとしても-それはそれで構わない。背に腹は変えられない、という思いです。

それでもやはり、できるならば政府が一切の責任を負う、罰則さえも伴うほどの厳格なロックダウンを実行して、できるだけ速やかにウイルス感染の抑止に動くべき、と思います。特に緊急事態宣言の後、同調圧力を利用するという責任逃れに加えて、多くの決定また決断を7つの都府県の知事に丸投げしたようにも見える、新たな無責任体質も問題だと思います。

もしもそれが例えばここイタリアで起こったならば、地方の首長は権限の委譲を大喜びで受け止めて、早速独自の施策を実行しては我が道を行くところです。だが日本文化の一大特徴である「大勢順応・迎合メンタリティー」は、むろん各都府県の知事らの中にもあって、こちらはこちらで政府の指示がほしいと哀訴するばかり。私の目には中央政府も地方自治体も、どっちもどっちの優柔不断体質と映ります。

そういう状況に鑑みれば、やはり安倍首相と権力機構がきちんと責任を取って、明確に国民に指針を示すロックダウンを果敢に行うべき、と思うのです。それはここ欧州で明らかなように経済を破壊し、国民に窮乏を押し付け、社会のあらゆる明朗を消し去る極めて憂鬱な施策です。だがそれをすれば、失われた社会の活気は近い将来必ず戻ってきます。逆にそれをしなければ、多くの国民の命が失われ社会は半永久的に暗闇の中に留まる可能性も高い、と腹から憂慮します。



以上




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緊急事態宣言はノーテンキな茹でガエル論だ




茹でガエル切り取り無拡張


この直前のエントリー“「緊急事態宣言」という名の日本式ロックダウン”に関して安倍首相ファンの読者から「ロックダウンでも日本には日本のやり方がある。海外の真似をする必要はない」とのいつものご立腹コメントをいただいた。

もっともな主張だ。この方はいつもきちんと名前を名乗って僕の記事への反論を寄せてくれる。安倍首相の熱烈な支持者なので、たいてい“安倍最高”バイアスのかかった意見だ。が、それはそれで全く構わない。むしろそうあるべきだ。

僕は僕で、安倍首相の全てに反対ではないが、政治的には彼を支持しない。従って-公に意見を開陳する以上必ず客観的であろうと努力はしているつもりだが-僕の見方にも僕のスタンスに立ったバイアスがかかっている可能性がある。いや、必ずバイアスはかかっているだろう。

僕はたいていの場合、反論やお叱りをいただくその読者の方にも以上のような前置きを伝えた後で、さらに自分なりの反論をさせていただく。だが今回は、ブログ上に反論を書かせていただく、と伝えただけでご本人への直接の便りは控えた。理由は単純。申し訳ないが時間がない。

さて、

昨日発せられた緊急事態宣言は、刑罰の伴わない一部地域のロックダウンである、と僕は規定した。なぜそう規定するのかといえば、法律や条令による罰則はないものの、そこには罰則に値するかあるいはそれ以上の強い刑罰が科されていると考えるからだ。それは日本社会特有の同調圧力による社会的制裁、いわば村八分だ。

日本政府や都道府県は、その気になればここイタリアを始めとする多くの欧米諸国がやっているように、刑罰の伴う法律や条例を定めて、緊急事態宣言即ちロックダウンを実行に移すこともできる。だがそれをしない。いま触れたようそれに匹敵するかそれ以上に厳しい制裁ルールが日本社会にはあるからだ。

それは政権や都道府県や官憲にとっては、幾重にも都合のいい日本社会のあり方なのだ。法律や条令を持ち出せば、権力側に責任が生じる。外出や仕事や営業を禁止すれば補償もしなければならない。国民から訴えられる可能性だってある。

現に緊急事態宣言発令後にテレビのインタビューを受けた居酒屋のオーナーは、補償があるなら自粛して店を閉めるが、補償がなければ生活していけないから店を開け続ける、と宣言した。それは多くの自営業者や飲食業者、事業者や中小企業や小規模ビジネスオーナーらの偽らざる心境だろう。

政府の正式規制による閉店や閉鎖なら、お上は責任を負って彼らを補償しなければならない。だが、それらの人々の自発的な自己規制つまり「自粛」なら、人々の自発的な仕事停止や閉店や工場閉鎖だから、政府は法律的な責任を負わない。

責任は負わないが慈悲深い権力は、彼ら困窮民に救いの手を差し伸べる。それが今行われようとしている経済政策だ。30万円を配り、百万円単位の援助を事業者に施す。政府の法的義務としてではなくいわば「慈悲」として、また「情け」として。法による罰則を伴なうロックダウンと言わずに、飽くまでも国民の自粛を期待する「緊急事態宣言」だと言い張る背景には、そういう思惑も透けて見える。

一方、ここイタリアを含む欧米各国が行っているロックダウンは、国家の責任と明確な意志によって国民の移動を制限あるいは禁止し、食料生産とその搬送と販売、またライフラインを維持するのに必須な業種以外の営業を規制または禁止する措置だ。それは国民への抑圧ではなく、国民の安全保障のための国家の責任としての行為だ。だから確固とした法律や条令で国家の責任を明らかにして、これを国民に守らせるのである。

一方日本政府のやっていることは、相も変わらず、未開社会にも似た人々の同調圧力を利用しての既述の姑息な手段だ。法律や条令によって自らの責任を明らかにした上で、国民の利益のために必死に動くべきなのに、責任を放棄したままで責任を取る施策と同じ効果が挙がる、日本社会の旧弊を利用した方法を取っている。

権力が利用している同調圧力、ムラ社会メンタリティーは、近代国家ならむしろ法律によって規制するべき醜悪な文化だ。それは差別や偏見や排外主義の温床にもなる悪弊だ。それを利用するとはつまり差別や偏見や不寛容や排外主義を鼓舞し標榜するにも等しい、許しがたい行為である。

国民の自由意志を尊重することは、民主主義国家の規範の一丁目一番地だ。またそれを持つ国家の縄墨に答えるだけの民度がある国民もすばらしい。だが、国家が責任を逃れるために、たとえそのつもりはなくとも、結果として責任逃れになるような行動を起こすようでは、Covid19の類の未曾有の危機の前ではあまりにも危険が多すぎる。

今日も日本から入るリアルタイムの衛星放送では、政府の側の専門家と称される人々が、国民に8割の人的接触を減らしてほしい、とテレビ画面を通して訴えている。だがそうではないのだ。人々の8割の人的接触を減らすために、政府は責任をもって法的な禁止措置を取り、そのうえでさらに国民に「お願い」をするのが筋なのだ。

まるで他人事でもあるかのような様態で国民に「頑張ろう」「成否はわれわれの覚悟にかかっている」等々と呼びかけるのは、この期に及んで全家庭にマスク2枚づつを配布する政策と同じ程度に、いやそれ以上に無責任で無意味でほとんど噴飯ものにも見える愚策だ。

7都道府県が自主規制要請の対象になったことを受けて、長野県の軽井沢、伊豆諸島や小笠原など東京都の島嶼部、沖縄県の離島などに避難民が押し寄せているとも聞く。そうしたことも罰則を伴なう移動禁止令などを出してブレーキをかけないと、やがて制御不能に陥る。

ロックダウンとは、住民が住まう自治体からの出入を完全に禁止することだ。従ってたとえば東京や大阪の住民が、軽井沢や伊豆諸島や沖縄などの「今のところの安全地帯」への避難、逃亡ができなくなる。また封鎖ラインをうまく抜けて目的地に着いたとしても、今度はそこから出られなくなるため、人々の逃亡・移動意欲が殺がれる、という仕組みでもある。

むろん事は観光地やリゾート地だけの問題ではない。国民の自主的な規制や禁止のみに任せておけば、新型コロナウイルスを身内に宿した人々が全国を動き回って、思いのままにそれをばら撒く悪夢のような事態がやって来かねない。

もう既に遅い懸念さえある。国はやはり可及的速やかに緊急事態宣言を日本全土に適用し、罰則も含むロックダウンなり非常事態宣言なりに切り替えて、断乎とした態度で人の移動を規制また禁止してウイルスの拡散を抑制するべきではないか、と考える。


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「緊急事態宣言」という名の日本式ロックダウン



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衛星生放送で日本から送られてきた緊急事態宣言の内容をぱっと見た印象をひとことで言えば、それは罰則を伴わない一部地域のロックダウンである。

安倍首相はロックダウンではない、と強調しているが、発令されたのは罰則の代わりに国民の「同調圧力」を行政が利用するロックダウン以外のなにものでもない。

国民の同調圧力とは、大半の国民が自発的に国や都道府県の自粛要請を受け入れ、それをしないものを反乱者、または戦時中の古い言い回しなどに従えば非国民などと指弾して、社会から排除する衆寡敵せずの圧力のことである。

言葉を替えれば、何事につけ主体的な意見を持たず、「赤信号、皆で渡れば怖くない」とばかりに大勢の後ろに回ってこれに付き従う者、つまり大半の日本国民の行動パターンであリメンタリティーである。僕はそれを「大勢順応・迎合主義」と定義している。

政府は日本社会のその悪弊あるいはムラ気質を利用しつつ、自主的に行動を規制するという建前が、実は強制以外のなにものでもないことを、見て見ぬ振りをしている。いつものことだ。

だがそうはいうものの、緊急事態宣言が新型コロナウイルスの感染拡大を抑えるならこれに越したことはない。日本社会のムラ精神は宿弊そのものの不快な存在だが、今はCovid19の殲滅が全てに優先する。

また、戦前・戦中の国家による国民の監視と統制の歴史と、それを完全には総括していない日本の民主主義の脆弱を慮った場合には、強制を伴わないロックダウンは歓迎するべき事態、という見方もできる。

しかしながら7都道府県に限定した緊急事態宣言あるいは「日本式ロックダウン」は、おそらく十分ではないだろう。経済をできる限り停滞させることなく新型コロナも抑止する、という野望はここイタリアに始まる欧州各国とアメリカが必死で目指しているものだ。が、誰一人として成功していない。

安倍政権が至難の目標を掲げて国を引導しようとするのは頼もしいことだ。しかし、経済を構成する多くの事業や事業者や労働者が「自粛する」とは、裏を返せば人々が活動を「自主的に」継続して外出をしては動き回ることを意味し、それはウイルス感染拡大の大きなリスクを伴う行為であることを忘れるべきではない。

日本はここまで確かに感染拡大のスピードをうまくコントロールしているようにもみえる。オーバーシュートつまり突然の感染爆発が起きていないのがその説明だ。だがもしも感染爆発が起きて事態が制御不能になったときには、安倍首相は、今このときに強制力を伴った正しい意味のロックダウンを行わなかった責任を負わされる羽目になるのかもしれない。


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Covid19の今を斬る~この期に及んでの権力の不正直Ⅱ



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緊急事態宣言を出し渋る日本政府の態度は、偶然にも数週間前のイギリスや今のスウェーデンに似通っている。違いはイギリスとスウェーデンが、民主主義の鉄則と確固とした意志と理論と科学に基づいて動いているのに対して、日本は行き当たりばったりに漂っているように見える、ということだ。

こういうことを言うと、欧米への劣等感への裏返して欧米に反感を持ち、従って欧米の精神や政治手法などを評価する言動にもすぐにかっとなって、反日、国賊、などとわめきつつ欧米のあら探しと日本擁護に躍起になる者が必ず出る。

そこであらかじめ言っておくが、これは何でもかんでも欧米が一番と思い込む「西洋かぶれ」論ではなく、また「日本人であることだけが唯一の誇り」主義者を糾弾する話でもない。日本がなにかと追従しがちな、欧米と日本そのものを客観的に見比べる試みに過ぎない。

イギリスはCovid19への対応策として当初、学校閉鎖もしない、大小の各種イベントも禁止しない、国民に自宅待機も呼びかけない等々、世界の趨勢に真っ向から立ち向かう政策方針を宣言していた。

早くから自宅待機を強要すれば、ちょうど感染流行が最高潮に達したころに、「自主隔離疲れ」を覚えた人々が一斉に表に出てしまう危険がある。それを避けようという計算がそこにはある。

またイベントや集会を禁止することは、その混乱やコストの割には感染予防の効果が薄い。さらに大規模集会やイベントが行われる広い空間では、自宅や個人集会の狭い空間で家族や友人知人同士が感染し合う可能性よりもリスクが低い。

学校を閉鎖するのも無意味だ。なぜなら子供がかかりやすい季節性のインフルエンザなら学校閉鎖が効果的だが、新型コロナは高齢者を襲うケースが多く子供の発症リスクは低い。だがこの場合、学校に通い続けることで子供から大人への感染リスクは高まる。

一方で、学校に行かずに自宅に留まり続ける子供の世話のために、医療スタッフが身動きできなくなる事態を回避することができる。感染大流行時に医療現場のスタッフが足りなくなれば、医療崩壊にもつながる重大案件だ。

さらに多くの高齢者は既に隔離されているケースが多い。従って年老いた人々をあらためて自宅待機をさせることのメリットはあまりない。それよりも家族や友人知己など、親しい人から彼らを引き離すことで、余計な孤独感を押し付けて健康を害するなどのリスクのほうが、よっぽど不利益。

新型コロナウイルスがはびこれば、やがて国民の中に免疫ができていく。ウイルスは今後何年も繰り返し出現する可能性がある。そうなった場合には、国民に免疫を付けておくことがより重要である。

ジョンソン首相は科学者らの提言を受けて、上記の政策を実行に移しかけた。だがすぐに彼のウイルス対策は「国民の命を危険にさらす」と別の多数の科学者らが反対。特に感染拡大を管理すれば国内人口のウイルスに対する免疫が高まる、との主張が反感を買った。

ジョンソン首相は結局、政治的圧力に耐え切れずに全面降伏。自由主義社会では先ずイタリアが先鞭をつけ、スペイン、独仏そして後にはアメリカなども採用した厳しいロックダウン策を取るようになった。

イギリスのあとにはスエウェーデンが似たような策を採っている。人口が少なく且つ民度の高いスウェーデンでは、政府と国民がいわば大人と大人の強い信頼関係で結ばれていて、お互いが手を取り合い感染拡大を抑えるために責任を持って行動する。

つまり政治的合意の下にロックダウンを避けているもので、必要ならいつでもロックダウンに移行できる態勢を取っている。イギリスが試みようとした「最終的には国民に免疫を付けさせること」も視野に入れた積極的な「放置」策ではなく、感染を防止することを目標にロックダウンを拒否する、消極的な「放置」策ともいえるやり方である。

安倍首相は、国会の場で「日本ではフランスのようなロックダウンはない」と断言した。では実際に感染爆発が起きてイタリアを始めとする欧州各国やアメリカのような危機が来たらどうするつもりなのだろうか。規制をかけずにそのまま感染を拡大させるのだろうか?

それは先刻触れたようにイギリスがやろうとしてできず、今はスウェーデンが似たような対応をしている。が、日本とスウェーデンでは民度の違いなどもあるからやはりそれはできるはずもなく、たとえできたとしても政治的な圧力ですぐにつぶされるだろう。イギリスのジョンソン首相がつぶされたように。

そうなると結局、いま日本が取るべき道は、①ロックダウンをかける。②ロックダウンをせずにウイルスがはびこるままにする。③安倍首相だけが知っているあっと驚くようなウイルス殲滅策を持ち出す、である。

このうち③はマスク散布というブラックジョーク以外はあるはずもなく、ウイルスがはびこるままに放置する②は政治的にできない。すると①のありきたりのロックダウンしか手はない。それなのに彼はそれを認めずのらりくらりと時間をつぶしている。それはやはり日本伝統の権力の「不正直」さがなせる業であるように見えるのである。



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Covid19を斬る~封鎖一ヶ月目の数合わせ



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全土のロックダウン(封鎖)が4週間目に入って初の週末。イタリアは新型コロンナウイルスとの凄惨な戦いを続けながら、かすかな希望の光を見出しては自らを鼓舞しようとしている。

4月4日の土曜日にもそれは見つかった。イタリア全国の集中治療室患者数が、前日の金曜日の4068人から74人減って3994人になったのだ。
Covid19パニックが始まって以来、初の減少である。

同じ日の死亡者は681人。感染者数も2886人増えた。一日あたりの死亡者数も、感染者数も“いつものように”相変わらず高い。死亡者の総計は15362人となって依然として世界最悪だ。

集中治療患者が減少したのは朗報だが、一日あたりの感染者数がマイナスに転じない限り本当の福音とは言えないのではないか。

解放された集中治療室の74床のうち55床は、僕の住むここロンバルディア州のものである。今も世界最悪のCovid19被害地と呼んで構わないだろう同州では、日々の感染者も恒常的に増え続け、死亡者も昨日だけで345人に及んだ。トンネルの向こうの光はまだ見えない。

ロンバルディア州にある僕の住む村の窮状も改善していない。4月5日現在、人口1万1千人のうち91人が感染し、19人が死亡。回復した患者30人。隣町の県都ブレシヤ市の被害状況も相変わらず悲惨で、僕らの友人知己の家族だけでも死亡者は10人を超える。

なお、先日来ここで言及している集団感染現場、エリート族のパーティー関連では、宴会を主催した76歳の男性を含む4人が亡くなり、入院した者と自宅監禁者のほとんどは無事回復した。パーティーの規模は70~80人程度だったらしい。

ここロンバルディア州を筆頭にイタリア全土が惨劇の只中にある。ところが週末になって、厳しい封鎖規制にあえぐ人々の不満と忍耐が破裂。ルールを無視して外出をする者が国中に溢れた。最も厳しい状況にあるロンバルディア州においてさえ。

これが独裁国家中国と民主主義国家イタリアの違いである。民主主義国家では住民を力で自宅に監禁することはできない。刑罰や罰金には限界がある。住民の意識改革のみが死神ウイルスを駆逐する力を持つ。だが道のりは平坦ではない。

感染者の数が世界最悪の312076人となったアメリカ、前日から感染者が6969人増えて総数がついにイタリアを上回ってしまったスペイン、続いて中国の上を行くドイツ、フランスなど、欧米各国の苦境は日毎に募るばかりだ。

Covid19との壮絶な戦いを繰り広げる民主主義国家の全てが、最初に被害を蒙ったイタリアのやり方を真似てロックダウン(全土封鎖)を行っている。それは実は中国が武漢で採用した戦法だ。大きな違いは前述のように、中国が人権無視の抑圧策を何の問題もなく取れるのに対して、民主主義体勢の欧米諸国はそれができない。

先を行くイタリアの形勢は、これも既述のように良く言えば一進一退、悪く言えば民度の低い住民が、多くの人々の努力を台無しにするような行動をやめない体たらく。全く予断を許さない。死神ウイルスとの戦いは、どうやら民主主義と愚民との戦いの様相を帯びてきた。もしかすると真に怖いのは新型コロナではなく、民主主義国内にうごめくそれらの愚民であるのかもしれない。

そしてこうして書きつつ、日本の現況を見れば、ここ欧州の愚民に匹敵する不埒な輩は、国民を守るために大胆迅速な決定を出して新型ウイルスに対抗しようとしない、政府の中にいるように見える。事ここに至っては、国民を守るとは経済を守ることではなく、国民の健康を守ることなのに。。



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Covid19の今を斬る~この期に及んでの権力の不正直

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新型コロナウイルス関連では毎日のように世界記録が樹立される。4月2日には大きなものが2つ出た。

一つ、世界の感染者数がはじめて100万人に達した。この記録は今こそ驚きだが、1ヶ月もすればかわいい懐かしい数字に見え、1年もするとバカバカしく低い数字に見えるほどに、感染者が世界中で溢れかえっている可能性がある。

一つ、アメリカの1日あたりの死亡者が1169人となって、スペインの前日の世界記録932をあっさりと破った。この項目ではイタリアがダントツのトップで毎日のように記録を塗り替えてきたが、数日来スペインがイタリアの地位を奪って記録更新を競う勢いになっていた。

今後はアメリカが1日あたりの死者数の記録を伸ばし続けそうだ。アメリカもいつかはどこかの国に抜かれるのだろうが、その頃には世界はどれほどの傷を負っているのだろうか。世界がまだ生きていれば、の話だけれど。。

イタリアの全土封鎖・ロックダウンはほぼ3週間になった。一方日本は、感染者数が3000人の大台を超えた今日も、十年一日のごとく感染爆発の瀬戸際にいると言い、医療崩壊の危険が迫っていると壊れたレコードのように反復し続けている。

安倍首相をはじめとする政府の権力中枢の頭の中はいったいどうなっているのだろう。もはや非常事態宣言を出して新型ウイルスの猛攻に備えるべきなのに、感染拡大防止をめざして全世帯に布マスク2枚を配布するという、今となってはほとんどブラックジョークにしか見えない策を大真面目で言い出す始末だ。

そのことに関しては、文章を練っていてはとても間に合わないと感じるので、僕はSNSでとりあえず次のように発信した。

お~いニッポン!お前はいったいどこにいるんだぁ~?火星か?地球か?火星にいるなら今のまま行け。地球にいるなら地球人のやり方で新型コロナに対峙しろ~

ロックダウンも視野に入ったと明確に国民に告げつつ厳重な外出禁止令を発動しろ~経済のロスは取り返せるが、国民の命は取り返せないぞ~

マスク散布は以前なら上等な政策だった可能性があるが、今となってはベニヤ板の壁で巨大津波を止めるようなものだ~

コロナをやっつける独創的なアイデアがあるならいいが、ないのならさっさと非常事態宣言を出して殺人コロナと戦え~~~

僕の正直な思いだ。この週末も東京や大阪を始めとする自治体が外出を自粛してほしいと住民に呼びかけている。が、悠長な外出自粛ではなく、少なくとも東京だけでも外出禁止令を出して死に物狂いで感染拡大を抑え込みにいくべきだ。ぐだぐだと理由をつけては決定を先延ばしにしている場合ではない。

まだオーバーシュートに至っていない、という言い訳は許されない。ここイタリアの惨劇に始まる欧州の苦境と、それに続くアメリカの危難が目に入らないのだろうか。そこから教訓を見出して大至急行動を起こすべきなのに、安倍首相と政権はぐずぐずしている。信じがたい光景である。

近代日本の権力機構はしばしば、あるいは常に国民に対して不正直に振舞ってきた。典型的な例が第二次大戦を招いた愚劣な統帥機関だ。彼らは不正直のカタマリのような行動規範によってあっさりと国を滅ぼした。

それ以前の権力も「国民への正直」とは程遠いところで国を統治した。江戸幕府の権力中枢は論語の「民は由らしむべし 知らしむべからず」に拠って、しかも本来の意味を意図的に曲解して「バカな人民には理由など知らせず、一方的に法に従わせればよい」という方針で臨んだ。

権力の思い上がった在り方は、お上を畏怖する従順な羊的人民の存在もあって、明治維新を経て第二次大戦の巨大な世直しを見ても変わらなかった。いや、民主主義の仮面を付けて一見変わったようには見えた。だが本質は変わっていない。

そうした権力の不正直が、本音と建前を使い分ける文化と相まってしばしば露呈するのが、日本の政治の一大特徴である。安倍政権が新型コロナウイルスがもたらす兇変の足音を聞きながら、優柔不断にも見える動きで非常事態宣言への決断を先延ばしにしているのがその典型だ。

政権は不正直と思い上がりに絡めとられて政策を誤っている。子供だましにも等しい姑息な主張や理由付けや詭弁を弄して、世界が第二次世界大戦以来の未曾有の危機と捉えて果断に動くのを尻目に、素早く行動することを躊躇っている。それは取り返しのつかない事態を招く可能性もある。


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