【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

ドイツ首相が必ずEUのリーダーになれるのではない


選挙ポスター3候補650

ドイツの総選挙は事前の予測通り社会民主党の僅差の勝利で終わった。

第一党となった社会民主党(SPD)の得票率は25,7%。過半数にはほど遠いので、当然連立を模索することになる。

引退すると表明しているメルケル首相所属のキリスト教民主同盟(CDU+キリスト教社会同盟(CSU)は24.1%。前回選挙のおよそ33%から大きく後退した。

順当に行けば、議会第1党 のショルツ党首がメルケル首相の後を継いでドイツ宰相になる。

しかし、事態はそう単純ではなく、連立の枠組みによってはキリスト教民主同盟のラシェット党首が首相になる可能性もある。

そればかりではなく、14.8%と過去最高の得票率を得た緑の党のベアボック共同党首が、首班になる可能性もゼロではない。

それらの人々のうちの誰がドイツ首相になっても、ほぼ自動的にEU(欧州連合)の事実上のリーダーになる、と主張する人々がいる。

アンゲラ・メルケル首相がそうであったように、と。

バカを言ってはいけない。

EUの国々は、国力つまり経済力の違いはあるものの、ほとんどが自由と民主主義と人権擁護を国是にする開明的な政体だ。

誰もが対等な存在なのだ。

メルケル首相に率いられたドイツが、近年圧倒的な指導力と影響力を発揮し尊敬と親しみを集め続けたのは、当のメルケル首相自身のカリスマ性ゆえだ。

ドイツはEU第一の経済大国である。黙っていても存在感はゆるぎがない。

しかし、そのことはEU加盟国の誰もが自動的にドイツにひれ伏すことを意味しない。

今この時は、アンゲラ・メルケルの存在の大きさに圧倒されて、ひどく卑小に見える将来のドイツの指導者たちは、彼らがEUをも導くほどの甲斐性の持ち主であることを証明しなければならない。

証明までの過程はおそらく、長期化が予想される連立協議の中での、人物も思想も力量も人格も、全てひっくるめてのバトルになるだろう。

ポスト・メルケルのEUの発展のためにも、ぜひそうであってほしい。





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剽軽な種馬は憎めないが信用もできない

剽軽Johnson切り取り650

イギリスのボリス・ジョンソン首相は、今の妻との間にできた子供を含めて、3度の結婚と婚外交渉によって6人の子供がいる、とすっぱ抜かれ、これを事実と認めた。

現在進行形の妻が2人目を妊娠中なので彼の子供は分かっているだけで7人。だがまだ他にも隠し子がいるかもしれない、といろんな人があれこれ憶測をしている。

2番目の結婚で生れた子供4人と、現在の妻との間の子供2人は隠しようがないから、婚外子の存在が好奇の目にさらされている訳だ。

噂話は醜いからやめろ、と怒る道徳家も少なくないらしいが、ジョンソン首相は人もうらやむイギリス最強の権力者である。

ジャーナリズムの監視や指弾のみならず、大衆の批判や噂話やジョークや蔑みや嫉妬や怒りなど、あらゆる閑談の対象になるのが当たり前。

それはいわば有名税とでも言うべきものだ。

僕はジョンソン首相の、台風一過の鳥の巣みたいなヘアスタイルを思い出しつつ笑う。

ミニ・トランプの彼は政治的には危険な男だが、愛嬌たっぷりで多くの人に愛されている。

そして7人の子供と、もしかするとその他大勢の子供の父親でもあるかも、と露見したことで、間違いなく多くの女性にも愛されていることが明らかになった。

子供は男ひとりではつくれない。それどころか相手の女性の同意や確認なくしては不可能だ。

笑いつつ僕は、ある地方の言葉に「まらだま」というのがあると思い出した。それは漢字で書くと「魔羅魂」あるいは「魔羅っ魂」だと思うが、もしかすると「魔羅玉」のことかもしれない。

仏教語の「魔羅」にからめたその言葉には、男の本性そのものが宿っている、という意味が込められているようにも見えるし、本性が「魔羅」の如く下劣な男、というふうにも読める。

また「魔羅玉」と書くのなら、男根と陰嚢のみで存在が形成されている男、ということなのかもしれない。

実はこのまらだま似た言葉がイタリア語にもある。Testa di Cazzoというのである。

直訳すると「〇んぽアタマ」。〇んぽの如く物を考えない奴、という意味だ。なんだかジョンソン首相のために編み出された言葉のように聞こえなくもない。

いずれにしても「まらだま」も「〇んぽアタマ」も男の本質を鋭く衝いた言葉で、女性やまた全ての女性的な社会現象が、その言葉を嫌悪し卑下するに違いない意味合いを持っている。

それは同時に男の多くが、眉をひそめる振りで実は羨望するような響きもあるように思う。

何度も結婚し、結婚生活中もひんぱんに婚外交渉を重ねて、子供は7人もいて且つまださらに隠し子がありそうだ、というジョンソン首相はまさに「まらだま男」というふうに見える。

そしてこの系譜の政治家は世界中に多い。例えば、俺は有名人だからいつでもどこでもどんな女性のプッシーにも触ることができる、と豪語したトランプ前大統領。

80歳近くになってもBUNGABUNGA乱交パーティーを楽しんでいたここイタリアのベルルスコーニ元首相。

フランスのミッテラン元大統領なども女たらしの本性を見抜かれた有名人だ。

おお、忘れてはならない。ごく最近の例では、セクハラ王のアンドリュー・クオモ前ニューヨ-ク州知事もいるではないか。

昔の日本の政治家もほとんどが一夫多妻で、妾を持つことがステータスというふうだった。政治家ではなくとも、事業家や金持やその他の有名人も妻以外の女性と堂々と関係を持っていた。

時代は変わって、特に日本では誰もが、道徳家ぶって婚外交渉や不倫をバッシングする風潮に変わった。だがジョンソン首相のイギリスでは、彼の艶聞を醜聞と捉えて目を吊り上げて指弾する風儀は強くはない。

ここイタリアの国民性も同じだ。例えばこの国には、すっかり世界の笑いものになった前出のベルルスコーニまらだま元首相がいるが、人々はうわさ話にして楽しむことはあっても、彼の艶聞を弾劾する風潮はない。

大人の国、と定義してしまうと語弊があるが、まらだま男らが物心両面、特に経済面で母子を支えている限り、他人は口を挟まないという傾向がある。

もっとも一部の女性たちが、ベルルスコーニ氏の行為を女性蔑視と指弾して、抗議デモを行うなどの現象は時々起こる。

だが基本的には、それは家族の問題であり、且つその問題の根源は男と女の痴話話。要するにそれは誰にでも起こリ得る物語、と「誰もが」知っている。

僕は三面記事的好奇心にかられて、ジョンソンまらだま首相にまつわるニュースや噂話や浮評はたまた流説めいた情報を眺めたり笑ったり時には羨んだりしている。

だが実はそんなことよりも、僕はジョンソン首相に対しては、ずっとずっと気になることがある。

Brexitを成し遂げた彼が、愛嬌のある言動の裏で画策するトランプ主義的政策や反EUの姿勢。隠微な人種差別主義や、鼻につく伝統的イングランド優越意識など。など。

ドイツのメルケル首相が退陣してしまう今この時こそ、彼にとっては大きなチャンス到来というところだろう。

ミニ・トランプのまらだま英首相が、親中国の真意を隠してどのようなこすからい狼藉を働くのか、しっかり監視して行こうと思う。




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メルケル首相の再就職先

メルケル鸚鵡と遊ぶキャー!650

 

9月26日、ドイツのみならずEU(欧州連合)の命運さえも左右するドイツの連邦議会選挙が行われる。

なぜEUにも「影響を与える」と表現せずにEUの「命運さえも左右する」と強い言葉を用いるかと言えば、選挙後にメルケル首相が退陣するからである。

16年間ドイツを率いてきたメルケル首相は、ドイツだけでなくEUの最大のリーダーでもあった。

それどころか、変形独裁国家の首魁であるプーチン大統領にも毅然として対峙し、トランプ食わせ者 大統領が出現すると、正義と自由と民主主義の旗手として断固たる態度で彼の嘘に挑んだ。

トランプ大統領の太鼓持ちだった安倍首相や定見のない英メイ首相、若いだけが取り柄の仏マクロン勇み足大統領、またただそこにいるだけで空気と同じ無意味な伊ジェンティローニ首相などとは大違いだったのだ。

ドイツもヨーロッパもそして世界も、アンゲラ・メルケルという偉大な指導者を失う。ドイツの総選挙が行われる2021年9月26日は、そんな劇的なコンセプトが遂行される時間なのである。

ポスト・メルケルのドイツの政治地図はカオスと歪みと落書きの坩堝のようである。

メルケル首相が所属するキリスト教民主同盟のラシェット党首、選挙戦終盤になって支持率を伸ばしている 社会民主党のショルツ党首が後継争いをしているが、メルケル首相の前では悲しいほどに器が小さく見える。

目先が変わるという意味で注目を集めた緑の党のベアボック共同党首は、なんと日本にも通底する陳腐な学歴詐称問題と文章盗用疑惑などで激しいバッシングを受けて沈没した。

どんぐりの背比べにしか見えない首班候補らが、しのぎを削っているだけの寂しい現実。それがドイツ総選挙の実態なのである。

世界にはピカロな指導者が跋扈している。

例えば一党独裁国家、中国の習近平ラスボス主席や変形独裁国家の首魁プーチン大統領。彼らの腰巾着である世界の強権首脳たち。

はたまた反動トランプ主義者の英ジョンソン、伯ボルソナーロ、欧州最後の独裁者ベラルーシのルカシェンコ、欧州の最後から2番目の独裁者ハンガリーのオルバン首相など、など。

それらのくえない権力者に対抗できるのは、今のところ、メルケル首相だけだ。

バイデン大統領でもなければマクロン大統領でもない。ジョンソン首相に至っては、トランプ前大統領の金魚のフンという実体を、ピエロの仮面で隠しているだけの危険人物だから問題外だ。

そしてトランプ事件の根源前大統領や、今触れたジョンソンゴマの蠅Brexit首謀者らを称賛するのが、ここイタリアのサルヴィーニ極右「同盟」党首でありメローニ仁義なき戦い「イタリアの同胞」党首だ。

そこにはフランスの極右ルペン指導者がいてオランダの自由党がありオーストリア、ギリシャ、ドイツ、ノルウエーetcの極右「暴力信奉勢力」がずらりと並ぶ。

それらの反動勢力は、極東で言えば中国であり北朝鮮だ。そして中国と北朝鮮にも匹敵するのが、日本国内で隠然と蠢く歴史修正主義者であり靖国信者であり東洋蔑視主義者らだ。

彼らはいわゆるバナナ人種。表は黄色いのに中身が白くなって、アジアを見下し白人至上主義者のトランプやバノンを仲間と勝手に思い込む。

トランプやバノンが蔑んでいる非白人でありながら、自らが白人の域にいるつもりで白人至上主義者らに媚びを売るのだ。

なんと悲しくなんと寂しく、そして何よりもなんと醜い現実だろう。。。

米ケツ舐め実践者&ネトウヨヘイト系排外差別主義者らは、さっさと目覚めなければならない。

目覚めて、われわれの父や祖父らが犯した罪を認めて腹から謝罪し、現実を見据え、歴史を真正面から見て恐れず、そのことによって日本民族の優秀性を証明するべきだ。

日本を含む世界の反動勢力に静かに、だが断固として対峙できる政治家が繰り返しになるが今のところアンゲラ・メルケルただ一人なのである。

そんな彼女が政界を引退するのは、世界の巨大な損失だ。

そこで彼女をなんとしても再就職させたいと考えるのだ。

転職先は、EU(欧州連合)のトップの座である欧州委員会委員長がもっとも相応しいのではないか。

EUの現在の委員長はウルズラ・フォンデアライエン氏だ。

フォンデアライエン委員長は、知性的で清潔感に溢れ人柄も誠実なようだが、残念ながら政治的な重みに欠けるきらいがある。

また世界に跋扈する悪の大物政治家らの向こうを張って、自由と民主主義と人権擁護主義を死守できるのか、心もとない。

引退するメルケル首相が委員長の座に座れば理想的だ。

フォンデアライエン氏はメルケル委員長の補佐役になるか、あるいはドイツ首相へと横滑りしてもらえば良いと思う。

メルケル首相には、なんとしてももうしばらくは世界のリーダーの位置にいてもらいたい、と願うのは僕だけだろうか。



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欧州初のコロナ地獄国イタリアが、欧州初の集団免疫獲得国になる?!


腕に射す700に拡大

イタリアのワクチン接種数が急増している。

政府が、10月15日から全労働者にワクチンの接種証明「グリーンパス」の提示を義務付ける、と発表したからだ。

イタリアはことし4月、欧州で初めて医療従事者にワクチン接種を義務付けた。

「グリーンパス」の提示を全労働者に義務付けるのも、欧州ではイタリアが初めてである。

医療従事者に「グリーンパス」の提示を義務付けたのは、全国民へのワクチン接種義務化を目指す伏線、と僕はずっと考えてきた。

だから今回それが全労働者へと拡大されても驚かず、いよいよ全義務化に向けた取り組みが加速した、と捉えた。

マリオ・ドラギ首相が、ワクチン接種の義務化を否定しない、と何かにつけて示唆しつづけていることも僕の推測の根拠になっていた。

また僕自身も、ワクチン接種を義務付けない限り、イタリアの集団免疫確保は困難だろうと考えていた。

イタリア国内に根強くあるワクチン懐疑論や、過激な反ワクチン勢力NoVaxの存在などが気になっていたからだ。

NoVaxは暴力行為や脅迫さえいとわない狂的な反ワクチン運動である。

ごく少数の過激な人々で構成されているが、声が大きく行動が過激な分、影響力も大きい。

反ワクチン派の大多数は、言うならば「ためらい」派あるいは「慎重」派である。

彼らは正しい情報と正確な言葉によって説得すれば、将来はおそらくワクチンの接種を受けるに違いない人々だ。

だが、SNS上にあふれるFake情報がそれを困難にし、NoFaxをはじめとする反ワクチン過激派のかく乱行為が事態を複雑にする。

それやこれらで僕は、イタリア全国民へのワクチン接種の義務化は避けて通れないもの、と考えてきた。

ところが、各労働者に「グリーンパス」の提示を義務付ける、という法律が成立するや否や、ワクチン接種の予約が急増した。

この調子で行くとイタリアは、あるいは欧州で初の「集団免疫獲得国」になるのかもしれない。

楽観的思考また希望的観測に過ぎないとは思うけれど。。





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安楽死~イタリアがついに一級国の仲間入りをしそうだ

握り合う手612

イタリアで安楽死を法制化するように求める署名運動が、75万人余りの賛同を集めた。

これによって、安楽死への賛否を問う国民投票が、早ければ来年にも実施される可能性が高くなった。

イタリアでは50万人以上の署名で国民投票が実施される決まりである。

安楽死は、命の炎が消え行くままに任せる尊厳死とは違って、本人または他者が意図的に命の炎を消す行為である。

その意味では尊厳死よりもより罪深いコンセプトであり、より広範な論議がなされるべき命題と言えるかもしれない。

別の言い方をすれば、安楽死は尊厳死を内在させているが、尊厳死は安楽死を包含しない。

僕は安楽死及び尊厳死に賛成する者だ

いわゆる「死の自己決定権」を支持し、安楽死・尊厳死は公的に認められるべきと考える。

回復不可能な病や耐え難い苦痛にさらされた不運な人々が、「自らの明確な意志」に基づいて安楽死を願い、それをはっきりと表明し、そのあとに安楽死を実行する状況が訪れた時には、粛然と実行されるべきではないか。

生をまっとうすることが困難な状況に陥った個人が、安楽死、つまり自殺を要求することを否定するのは、僭越であるばかりではなく、当人の苦しみを助長させる残酷な行為である可能性が高い。

安楽死を容認するときの危険は、「自らの明確な意志」を示すことができない者、たとえば認知症患者や意識不明者あるいは知的障害者などを、本人の同意がないままに安楽死させることである。

そうした場合には、介護拒否や介護疲れ、経済問題、人間関係のもつれ等々の理由で行われる「殺人」になる可能性がある。親や肉親の財産あるいは金ほしさに安楽死を画策するようなことも必ず起こるだろう。

あってはならない事態を限りなくゼロにする方策を模索しながら-繰り返しになるが-回復不可能な病や耐え難い苦痛にさらされた不運な人々が、「自らの明確な意志」に基づいて安楽死を願うならば、これを受け入れるべきである。

イタリアでは安楽死は認められていない。そのため毎年約200人前後もの人々が、自殺幇助を許容している隣国のスイスに安楽死を求めて旅をする。そのうちのおよそ6割は実際にスイスで安楽死すると言われる。

安楽死に対するイタリア社会の抵抗は強い。そこにはカトリックの総本山バチカンを抱える特殊事情がある。自殺は堕胎や避妊などと同様に、バチカンにとってはタブーだ。その影響力は無視できない。

だが堕胎や避妊と同様に、禁忌の壁が高かった安楽死についても、崩壊の兆しが少しづつ見えていた。そしてついに、その是非を問う国民投票が実施されるかもしれないところまでこぎつけた。

(尊厳死を含む)安楽死は、命を救うことが至上命題である医療現場に、矛盾と良心の呵責と不安をもたらす。イタリアではそこにさらにバチカンの圧力が加わる。

医者をはじめとする医療従事者は、救命という彼らの職業倫理に加えて、自殺を否定し飽くまでも生を賛美するカトリック教の教義にも影響され、安楽死に強い抵抗感を持つようになる。

自殺幇助が犯罪と見なされ、5年から12年の禁固刑が科されるイタリアだが、実は2019年、憲法裁判所は世論の圧力に屈して例外規定を設けた。

延命措置を施されつつも治る見込みのない患者が、肉体的また精神的に耐え難い苦痛を覚え続け、且つ患者が完全に自由で明晰な判断が可能な場合のみ例外とする、としたのだ。

安楽死を推進する人々に対しては、キリスト教系の小政党などから「死の文化」を奨励するものだという批判が上がった。

またカトリックの総本山であるバチカンは、自殺幇助は「本質が悪魔的な行為」として、従来の批判を声高に繰り返した。

それらは極めて健全な主張だ。生を徹頭徹尾肯定することは、宗教者のいわば使命であり義務だ。彼らが意図的に命を縮める安楽死を認めるのは大いなる矛盾だ。

安楽死を怖れ否定するのは、しかし、宗教者や医療従事者のみならず、ほぼ全ての人々に当てはまる尋常な在り方だろう。

生は必ず尊重され、飽くまでも生き延びることが人の存在意義でなければならない。

従って、例え何があっても、人は生きられるところまで生き、医学は人の「生きたい」という意思に寄り添って、延命措置を含むあらゆる手段を尽くして人命を救うべきである。

その原理原則を医療の中心に断断固として据え置いた上で、患者による安楽死への揺るぎない渇求が繰り返し確認された場合のみ、安楽死は認められるべきと考える。

カトリックの教義に従順なイタリアの保守的な世論が、安楽死という重いテーマを正面から見据えて、北欧などを中心とする開明的な国々に追随する方向へと進んでいることを歓迎したい。





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南イタリアの異常気象の化けの皮


650一本の木と猛火

米気象学会は8月25日、昨年2020年のヨーロッパの気温が観測史上最高を記録したと発表した。

それは世界でも史上3番目に入る暑さだった。

スイス、ベルギー、フランス、スペイン、スウェーデン、ノルウェーなど、欧州の17カ国で史上最高気温となった。

一方、米海洋大気局(NOAA)によれば、ことし7月の世界の平均気温は16.73度となり観測史上で最も高かった。

7月は1年で地球が最も暑くなる時期。

2021年7月は例年にも増して暑くなり、142年間の観測史上で最も暑い月となった。

そうした流れの中で2021年8月11日、イタリアのシチリア島では欧州の過去最高気温となる48,8℃が記録された

それまで欧州で最も暑かった記録は、1977年にギリシャのアテネで観測された48℃である。

炎熱はアフリカのサハラ砂漠が起源の乾いた風と共にやってきた。

熱波と乾燥に伴って、シチリア島のみならずイタリア本土やギリシャ、またキプロスやトルコなど、地中海沿岸の国々に山火事が頻発して緊急事態になった。

8月25日までに焼失したイタリア全土の山林はおよそ15万8千ヘクタール。

その数字はイタリアの3大都市圏ローマとミラノとナポリを合わせた面積に匹敵する。

15万8千ヘクタールは、2017年全体の焼失記録およそ141,000ヘクタールを既に超えている。

なおイタリアでは 2018年に14,000ヘクタール、2019年には37,000ヘクタール、2020年には53,000ヘクタールの山林が灰になっている。

山火事は夏のイタリアの風物詩のような様相を呈しているが、他の国々とは違う陰鬱な顔も持っている。

ほとんどの山林火災が、放火あるいは人災として発生しているのである。

具体的には全体の54,7%が放火。13、7%が不慮あるいは人の不注意から来る事故。

一方で落雷などが原因の自然発生的な山火事は、全体の2%以下にとどまっている。

放火は多くの場合犯罪組織と結びついていると考えられている。

マフィア、ンドランゲッタ、カモラなどが、土地争いに絡んで脅迫や強奪を目的に火を点けたり、緑地を商業地に変えようとしたり、ソーラーパネル用の土地を獲得しようと暗躍したりする。

犯罪者の意図的な悪行とは別に、乾き切った山野また畑地などでは火災が容易に発生する。

例えば農夫が焼き畑農法の手法で不注意あるいは不法に下草に火を放った後に制御不能に陥る。

人々がバーベキューや炊事や湯沸かしの火を消し忘れる。

ドライバーが車の窓から火のついたままの煙草を投げ捨てて、乾き切った道路脇の枯草に引火する。

不埒な通行人が同じように煙草のポイ捨てをすることもある。

ほとんど雨が降らない7月から8月の間の南部イタリアの山野は、既述のようにアフリカ由来の高気圧や熱波に襲われて気温が高くなり空気が極度に乾いている。

砂漠並みに乾燥した山野の枯葉や枯草は、ガソリンのように着火しやすく一気に炎上して燃え盛るのである。

犯罪や事故による山林火災は昔から常に発生してきた。近年は地球の温暖化に連れて気温が上がり、山火事がより発生しやすくなっているとされる。

だが、南イタリアの山林火災に関する限り、気候変動を隠れ蓑にした犯罪者らの悪行のほうが、地球の温暖化そのものよりもより深刻、とさえ言えそうである。





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集団免疫効果“ただ乗り”の是々非々


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世論調査によるとイタリア人の8割がコロナワクチンの接種を義務化するべき、と考えている。

驚きの統計は、反ワクチン過激派NoVax(ノー・ヴァックス)が、ワクチン接種を証明するグリーンパスを阻止するとして、全国の駅を占拠すると宣言した直後に発表された。

列車の運行を妨害しようとしたNoVaxの試みは失敗した。強い危機感を抱いた当局が全国の主要駅に厳しい警護策を施したからだ。

グリーンパスはレストランや劇場等への入店入場のほか、飛行機や列車移動に際しても提示を要求される。NoVaxが駅を占拠して列車の運行を妨害しようとしたのもそれが理由だ。

イタリアのワクチン接種は割合順調に進んでいる。

しかしワクチン接種を拒む人々も一定数存在している。彼らはワクチンの拙速な開発や効果を疑って反対する。それは理解できる動きだ。

コロナワクチンが迅速に開発されたのにはれっきとした科学的な理由がある。また完璧なワクチンや効果が100%のワクチンは存在しない。その中でコロナワクチンは効果が極めて高い。

それを知らずに―だが理解できないこともない理由で―ワクチン接種をためらう人々とは別に、根拠のないデマや陰謀論に影響されてワクチン反対を叫ぶ人々もいる。

それらの人々のうち、陰謀説などにとらわれている勢力は、科学を無視して荒唐無稽な主張をするトランプ前大統領や、追随するQアノンなどをほう彿とさせる。

彼らを科学の言葉で納得させるのはほとんど不可能に近い。思い込みがほぼ彼らの宗教になっていて、他者の言葉に貸す耳を持たないからだ。

イタリアにおいてはそれがNoVaxを中心とする少数の反ワクチン過激派の人々だ。

彼らは単にワクチン接種を拒否するばかりではなく、政治家や医療専門家やジャーナリストなどを脅迫したり、ワクチンの接種会場に火炎瓶を投げつけたりするなど、過激な動きを続けている。

NoVaxを含む反ワクチン論者の人々は、彼らなりの考えで自分自身と愛する人々の健康を守ろうとしている。

従って彼らを排除するのではなく、政治が彼らを説得して、ワクチン接種に向かうように仕向けるべきだが、現実はなかなか難しい。

ワクチンはフェイクニュースや思い込みに縛られている人々自身を救う。同時に彼らが所属する社会は、コロナ禍から脱出するために「集団免疫」が必要だ。

反ワクチン派の人々は、それ以外の人々が副反応のリスクなどの対価を払ってワクチンを接種して、やがて社会全体が守られる集団免疫に達したとき、何の貢献もしないまま同じ恩恵を受ける。

それはいわゆる フリーライダーつまりただ乗り以外のなにものでもない。

ワクチン接種の必要性を理解しない者、あるいは理解してもワクチン接種を意図的に拒む者には、罰則が科されてもあるいは仕方がないと考える。反社会的行為にも当たるからだ。

いったんそうなった暁には、ワクチンの強制接種、という施策が取られるのも時間の問題だろう。

イタリア国民の80%がワクチンの強制接種に賛成という統計は、2020年に世界に先駆けて凄惨なコロナ地獄を体験した人々の切実な願いの表れと見える。

イタリアではワクチン強制接種論と平行して、基礎疾患のある高齢者を対象に3回目のワクチン接種を始めるべき、という意見も出ている。

後者はすぐにでも実施されるだろうが、ワクチンの強制接種に関しては、まだまだ紆余曲折があるのではいか、と思う。




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口は災いの元、無口は災いそのもの


合成健さん&遠藤650

朴念仁首相を生んだ土壌

菅首相の退陣が決まったとたんに、これまで口を噤んでいた猫も杓子も誰もが、まるで石もて追うように批判の大合唱になっていると見えるのは、僕の思い過ごしだろうか。

多くの問題を抱えて迷走した菅首相だったが、もっとも重大な手落ちは絶望的なコミュニケーション能力だったのではないか。

それは失策というよりも彼の人となりや気質の問題ではあった。

だが何よりも奇妙なのは、発信力がほぼゼロの政治家が長く生き延び、あまつさえ総理の地位にまで登り詰めることができる日本の社会のあり方である。

短期間とはいえ彼が宰相の地位に留まることができたのは、コミュニケーション力をそれほど問題にしない日本独特の社会風習があるからだ。

無口や沈黙を許すのみならず、ほとんど賞賛さえするのが日本の文化である。


ふたりのスター

菅首相の訥弁を思うとき、僕はよく今は亡き銀幕の大スター高倉健と、大相撲の人気力士遠藤を連想する。

そこで日本人に愛される2人の例をひいて、日本人とコミュニケーションについて考えてみたい。

なお、あらかじめ断っておきたいが、僕は健さんと遠藤の大ファンである。

健さんの映画はたくさん観た。寡黙な男の中の男。義理や人情のためなら命も投げ出す「ヤクザの健さん」はいつもまぶしくカッコよかった。

力士の遠藤は、足が天井にまで投げ上げられるかと見える四股の美しさと、相撲のうまさが際立っている。もはや30歳にもなって出世は高くは望めないかもしれないが、いつまでも気になる力士である。

彼らふたりは通常の意味でのコミュニケーション力はゼロ以下だ。だがそのことは、健さんが優れた俳優であり、遠藤が優秀な力士である事実をなんら傷つけない。


ムッツリ遠藤

遠藤はNHKの大相撲中継において、横綱・大関を倒したときや勝ち越しを決めたときなどにインタビューされる。そのときの彼の受け答えが、見ている者が苦しくなるほどに貧しい。

相撲取りはしゃべらないことが美徳という暗黙の掟がある。しゃべる男は軽い、という日本のある種の社会通念に縛られて、無理やり感情の表出を抑える。

そしてその同じ行為を続けるうちに、習慣は彼らの中で血となり肉となってついには彼らの本性にまでなる。相撲社会全体を覆っている無言の行という風儀は、人工的に作られたものだ。しかし、もはやそれが自然と見えるまでに浸透し切っている。

しかし、遠藤の受け答えは自然ではない、と僕の目には映る。自らを強く律して言葉を発しないようにしていると分かる。だがその仕方に相手、つまりインタビューアーへの配慮がない。

自分がインタビューを迷惑がっていると分からせることを意識しているのか、顔や態度や言葉の端々に不機嫌な色を込めてしゃべる。それは見ていてあまり愉快なものではない。

遠藤のインタビュアーへの反感は、巡りめぐってファンや視聴者への反感として顕現される。それはつまりコミュニケーションの否定、あるいは彼自身が理解されることを拒絶する、ということである。

遠藤のあまりの言葉の少なさと、少ない言葉に秘められた一種独特な尊大さは、力士としての彼の力の限界が見えてきたことと相俟って、見ていて悲しい。

遠藤はかつて、大関くらいまではスピード出世するのではないかと見られた。だが、相撲の巧さが即ち相撲の小ささになってこじんまりとまとまってしまい、大関は夢のまた夢状態になった。

だがそれは彼のプロ力士としての力の現実であって、コミュニケーションを拒む彼の訥弁とはむろん関係がない。彼の訥弁を良しとする日本文化が問題なのである。相手を見下すのでもあるかのような遠藤のひどい訥弁も許されるから、彼は敢えてそれを改善しようとは考えない。

そうはいうものの、しかし、大相撲のダンマリ文化から開放された力士が、突然あふれるように饒舌になるのもまたよくあることだ。最近では 稀勢の里の荒磯親方が、引退したとたんに大いなるおしゃべりになって気を吐いている。

また元大関琴奨菊の秀ノ山親方 、同じく豪栄道の武隈親方 なども、引退して親方になるや否や饒舌になって、大相撲解説などで活躍している。 

彼らは心地良いしゃべりをする中々優れたコミュニケーターであり、語り口や語る内容は知性的でさえある。

そうしたことから推しても、力士の無口は強制されたものであることが分かる。遠藤のケースも同じなら、彼は現役引退後にハジけて饒舌になるのかもしれない。


だんまり健さん

高倉健の場合には、20015月に放送されたNHK『クローズアップ現代』で、国谷裕子のインタビューを受けた際に、彼の反コミュニケーション振りが徹底的に示された。

健さんはそこで国谷キャスターの質問の度に、じれったくなるほどの時間をかけて考え、短く、だが再び時間をかけてゆっくりと答えていく。

それは何事にも言葉を選んでしっかりと答える、という彼の美質として捉えられ、確立し、世に伝えられてもいる内容なのだが、僕の目には「言葉を選ぶ」というよりも「言葉が無い」状態に見えた。

あるいは考えを表現する言葉が貧弱、というふうにも。

その後はインタビューを介して、彼がスクリーンで演じる役柄と生身の高倉健自身が交錯し、合体して分別が不可能なほどに一体化していることが明らかになっていく。健さん自身もそのことを認める展開になる。

個人的には現実の人身と架空の役柄が渾然一体となる状態は優れた俳優の在り方ではない。しかし、高倉健という稀有な存在が、生身の自分と銀幕上の個性をそれとは知らずか、あるいは逆に意識して、融合させて生きている現実が明らかになるのは興味深い進展だった。

彼は男らしい男、男の中の男、また義理人情のためなら命も投げ出す高倉健、という日本人が好きなコンセプトに自身をしっかりとはめ込んで生きているのである。

そして高倉健という人間が、本名の小田剛一も含めて「俳優の高倉健」と完全に合体している姿に、彼自身が惚れている。

彼が惚れて自作自演している高倉健は、韜晦し過ぎるほどに韜晦する人間で、しかも彼自身はその韜晦するほど韜晦する高倉健が大好き、とういうのが彼の生の本質だ。

高倉健と力士遠藤は、韜晦し過ぎで且つ韜晦する自分が好きな男たちなのである。

健さんも遠藤も誰をはばかることもない成功者であり有名人だ。むろんそれで一向に構わない。それが彼らの魅力でもある。なぜなら「韜晦」は日本人のほぼ誰もが好きな概念だから。


目は口ほどにはものを言わない

一方、日本人のコミュニケーション力というコンセプトの中では、それらの朴訥な態様はきわめて陰鬱で且つ深刻な命題だ。

「口下手を賞賛する」とまでは言わなくとも、それを忌諱もしない日本文化があって、健さんの寡黙や遠藤の無言、果ては菅首相の訥弁が許されている。

繰り返すが、それはそれで全く構わないと思う。なぜならそれが日本の文化であり、良さである。おしゃべり過ぎる例えばここ欧米の文化が、逃げ出したくなるほど鬱陶しい場合も多々あるのだ。

言うまでもなく人のコミュニケーションや相互理解や国際親善等々は、言葉を発することでなされる。

言葉を用いないコミュニケーションもむろんある。表情やジェスチャーや仲間内の秘密の符丁やサインなど、などだ。

しかし思想や哲学や科学等々の複雑な内容の意思伝達は言葉で行われる。それ以外のコミュニケーションは、動物のコミュニケーションと同じプリミティブな伝達手段だ。

人間のコミュニケーションは「おしゃべり」の別名でもある。しゃべらなければ始まらないのだ。

ところが日本にはおしゃべりを嫌う沈黙の文化がある。寡黙であることが尊敬される。この伝統的な精神作用が、日本人を世界でも最悪な部類のコミュニケーターにする。

自らの考えを明確に伝えて、相手を説得し納得させて同意を得るのがコミュニケーションの目的である。

同時に相手の反論や疑問も受け入れて、それに基づいてさらに説得を試みる。そのプロセスの繰り返しがコミュニケーションだ。

おしゃべりであるコミュニケーションは、井戸端会議の「おしゃべり」に始まって、社会的な重要さを増すごとに「しゃべり」「話し合い」「議論」「討論」「討議」「対話」などと呼ばれる。


言葉は暴力抑止デバイス

それらは全て暴力や闘争や威圧や戦争を避けるために人間が編み出した手段だ。

自然的存在としての人間、あるいは生まれながらの人間は暴力的である。人の行動は生存のためにアグレッシブにならざるを得ない。

そうでない者は食料を得られず、飢えて淘汰される可能性が高い。それが動物の生存原理であり自然の摂理だ。

人の暴力性を和らげるのが言葉である。言葉は発信され、受け止められ、反応されることで言葉になり意義を獲得する。つまりコミュニケーションである。

コミュニケーションは積極的に「しゃべる」者によってより洗練され研ぎ澄まされ、改善されていく。

世界中で行われてきたこの慣行は、人種が交錯し人流が激しい欧米では間断なく練磨が進んだ。違う人種や国民間では対立が激しく、コミュニケーションが無くては血で血を洗う闘争が繰り返されるからだ。

争いが絶えない欧米では、紛争毎にコミュニケーションの訓練も加速した。

一方日本では、封建領主による言論・思想弾圧に加えて、単一民族と国民が誤解するほどに似通った人種や同言語話者が多かったことなども手伝って、コミュニケーションの重要性が薄かった。

そのために、島あるいはムラの人々の間で、お互いに察し合うだけで済む「忖度・あうんの呼吸文化が発達し、今日にまで至った。

何度でも言うが、それはそれで全く構わないと思う。多くを語らなくてもお互いに分かり合える、というのは心が和む時間だ。そこには日本の美が詰まっている。

しかしながら、日本が「世界の中の日本」として生きていく場合には、日本人同士でしか理解し合えない寡黙や無言や訥弁はやはり不利だ。いや、それどころか危険でさえある。

日本はそろそろ重い腰を上げて、討論や会話や対話を重視する教育を始めるべきだ。また重い口を開いて、世界に向けて自己主張のできる者をリーダーとして選択するべき、とも考える。




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あっと驚くタイミング~むべなるかな菅首相の退陣~

緑suga切り取り


自民党の総裁選にからませて、「コミュニケーションが不得手らしい菅首相は日本の国益に資さないから選挙に敗れるか自粛して退いたほうがいい」という趣旨の記事を書いていた。

するとまさにそこに、「菅総理、総裁選に出馬せず総理大臣を辞任」というニュースが飛び込んできてひどく驚いた。

だが驚いたのは、ニュースのタイミングであってその内容ではない。

菅首相の突然の辞任表明は、つまるところ自民党内の政争に敗れた、ということである。政界の暗闘は日常茶飯事だからそれは何も驚くべきことではないのだ。

こういう場合、日本人のいわば心得として、死者を貶めないという 慣習を敷衍して「戦いに敗れて辞めていく者を悪く言わない」という一見善意じみた風儀もある。

だが、政治家や悪人などの場合には、必要ならば死者も大いに貶めるべきだ。

ましてや権力の座にあった者には、職を辞しても死しても監視の目を向け続けるのが民主主義国家の国民のあるべき姿だ。なぜなら監視をすることが後世の指針になるからだ。

公の存在である政治家は、公の批判つまり歴史の審判を受ける。受けなければならない。

「死んだらみな仏」という考え方は、恨みや怒りや憎しみを水に流すという美点もあるが、権力者や為政者の責任をうやむやにして歴史を誤る、という危険が付きまとう。決してやってはならない。

他者を赦すなら死して後ではなく、生存中に赦してやるべきだ。「生きている人間を貶めない」ことこそ真の善意であり寛容であり慈悲だ。

だがそれは、普通の人生を送る普通の善男善女が犯す「間違い」に対して施されるべきべき理想の行為。

菅首相は普通の男ではなく日本最強の権力者だ。日本の将来のために良い点も悪い点もあげつらって評価しなければならない。口をつぐむなどもってのほかなのである。

国際社会においてはコミュニケーションは死活問題である。

コミュニケーションは、沈黙はおろか口下手や言葉の少ない態度でも成立しない。日本人のもっとも苦手なアクションの一つである会話力が要求される。

その観点から眺めたときに、菅義偉首相の訥弁ぶりは心もとない

いや、訥弁でも話の中身が濃ければ一向に構わない。だが、菅首相の弁舌の中身もまた弁舌の形自体も、分かりづらくて国際社会では苦しい。

コミュニケーション力のない政治家が国のトップに座るのは世界では珍しいケースだ。なぜなら国際社会の規範では、コミュニケーション能力こそが国のトップに求められる最重要な資質だからだ。

魑魅魍魎の跋扈する政界で勝ち組のトップにいる菅首相は、、統治能力や政治手腕や権謀術数に長けているのだろう。それでなければ今の地位にいることはあり得ない。

しかし、「政治ムラ」内での現実はともかく、菅首相は国民への訴求力が極めて弱いように見える。訥弁でしゃべる姿が暗く鬱陶しい。

それはいわば貧乏や苦労人であることを売りにする日本の古い暗さである。あるいは時代錯誤がもたらす日本の過去の面倒くささである。

日本の国益に資さないそんな指導者は表に出ないほうが良い、というのが国際社会から祖国を眺めている者の、偽りのない思いだ。




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漁師の命と農夫の政治

牛堆肥800

菜園を耕してみて分かったことの一つは、野菜は土が育ててくれる、という真理です。

土作りを怠らず、草を摘み、水や肥料を与え、虫を駆除し、風雪から保護するなどして働きつづければ、作物は大きく育ち収穫は飛躍的に伸びます。

しかし、種をまいてあとは放っておいても、大地は最小限の作物を育ててくれるのです。

農夫はそうやって自然の恵みを受け、恵みを食べて命をつなぎます。農夫は大地に命を守られています。

大地が働いてくれる分、農夫には時間の余裕があります。余った時間に農夫は三々五々集まります。するとそこには政治が生まれます。

1人では政治はできません。2人でも政治は生まれません。2人の男は殺し合うか助け合うだけです。

シソ整然&costeヒキ800

農夫が3人以上集まると、そこに政治が動き出し人事が発生します。

政治は原初、百姓のものでした。政治家の多くが今も百姓面をしているのは、おそらく偶然ではありません。

漁師の生は農夫とは違います。漁師は日常的に命を賭して生きる糧を得ます。

漁師は船で漁に出ます。近場に魚がいなければ彼は沖に漕ぎ進めます。そこも不漁なら彼はさらに沖合いを目指します。

彼は家族の空腹をいやすために、魚影を探してひたすら遠くに船を動かします。

ふいに嵐や突風や大波が襲います。逃げ遅れた漁師はそこで命を落とします。

帆船嵐イラスト650

古来、海の男たちはそうやって死と隣り合わせの生業で家族を養い、実際に死んでいきました。

彼らの心情が、土とともに暮らす百姓よりもすさみ、且つ刹那的になりがちなのはそれが理由です。

船底の板1枚を経ただけの、荒海という地獄と格闘する漁師の生き様は劇的です。

劇的なものは歌になりやすい。

演歌のテーマが往々にして漁師であるのは、故なきことではありません。

現代の漁師は馬力のある高速船を手にしたがります。格好つけや美意識のためではありません。

大嵐を行く漁船見下ろしbest650

沖で危険が迫ったとき、一目散に港に逃げ帰るためです。

また高速船には他者を出し抜いて速く漁場に着いて、漁獲高を伸ばす、という効用もあります。

そうやって現代の漁師の生は死から少し遠ざかり、欲が少し増して昔風の「荒ぶる純朴な生き様」は薄れました。

水産業全体が「獲る漁業」から養殖中心の「育てる漁業」に変貌しつつあることも、往時の漁師の流儀が廃れる原因になりました。

今日の漁師の仕事の多くは、近海に定位置を確保してそこで「獲物を育てる」漁法に変わりました。農夫が田畑で働く姿に似てきたのです。

それでも漁師の歌は作られます。北海の嵐に向かって漕ぎ出す漁師の生き様は、男の冒険心をくすぐって止みません。

人の想像力がある限り、演歌の中の荒ぶる漁師はきっと永遠です。


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ダンクシュートは異星人のフラメンコ


則イラスト鼻毛up800を100




開会式は見逃してしまったが、パラリンピックの車いすバスケットボール女子の試合をテレビ観戦した。

予選2試合目のオランダvs米国である。

オランダが68-58で米国を下した。片時も目を離せない出色の試合内容でひどく感動した。

選手のテクニックも身体能力もガッツも、そしてむろんスポーツマンシップも、超一流だと心から思った。

いうまでもなく選手は全員が身体障害者だが、彼女たちのプレーに引き込まれるうちに健常者のそれとの違いが分からなくなった。

例えばNBAなどのプロバスケットチームの試合のほうが非現実で、こちらのほうがリアルだと思ったりした。

特に男子のプロバスケットのゲームでは、よくダンクシュートなどのスーパープレーが飛び出して拍手喝采を浴びる。

だがそうした超人的なパフォーマンスは、僕には異空間の出来事のようで、少しも面白くない。

ただの見世物か曲芸の類いにしか見えないのだ。

身長2m内外の大男たちが、ジャンプしてバスケットの上から中にボールを叩き入れるダンクシュートは、単に身体能力の高さを示すだけで、優れたテクニックや意外性や創造性とは無縁だ。

ま、いわばウドの大木の狂い舞い、というところか。

身体能力抜群のプロ選手を「のろまなウドの大木」と形容するのはむろん正確ではない。

なので「異星人のフラメンコ」とでも言い直しておこう。

いずれにしてもダンクシュートは、背が高くてジャンプ力があれば、いわば誰にでもできるアクションだ。

それどころか、例えば身長が2m46㎝あるイランのパラリンピック選手、モルテザ・メヘルザードセラクジャーニーさんなら、ジャンプしなくても普通に立ったままでダンクシュートができそうだ。

その場合も身体能力はむろん高いに違いない。が、テクニックや創造性というわれわれを感動させるスポーツのエッセンスは、やはりほとんど存在しない

一方、女子車いすバスケットの選手たちは、不自由な身体を持ちながらもテクニックによってそれをカバーし、プレーヤーとしてはるかな高みにまで達している。

車いすをまるで自らの体の一部でもあるかのように正確に操作しつつボールを受け、ドリブルしパスを送り、相手の動きをかわしたりブロックしたりする。

そして究極のアクションは、上半身だけのバネを使っての正確かつエレガントなショットの数々。

ショットはもちろん外れることもある。だがおどろくほどの高い確率でボールはゴールネットに吸い込まれる。

ショットの力量も、身体の全ての動きも、ボールコントロール技術も何もかも、飽くなき厳しい鍛錬によって獲得されたものであることがひと目で分かる。

彼女たちがパラリンピアンとして、あるいは世界有数のアスリートとして、そのひのき舞台に立っているのは必然のことなのだ、とまざまざと思い知らされるのだ。

選手の躍動を支えているに違いない激甚なトレーニングと、自己管理と、飽くなき向上心が目に見えるようで激しく心を揺さぶられる。

彼女たちのプレーは現実の高みにあるものである。

言葉を替えれば、われわれ素人がバスケットボールを遊ぶその遊びの中身が、鍛錬と自己規制と鉄の意志によって、これ以上ない練熟の域にまで達したものだ。

ダンクショットを打つNBAの猛者たちももちろん優れたアスリートであり熟練者である。

しかし彼らの身体能力は、キャリア追及の初めから常軌を逸するほどに優れていて、努力をしなくても既にはるかな高みにある。

そのことが彼らをいわば異次元のアスリートに仕立て上げる。現実味がない。いや現実味はあるのだが、われわれ凡人とは違う何者か、という強烈な印象を与える。

もっと言えば、われわれは努力しても逆立ちしてもダンクシュートを打つプレーヤーにはなれないが、われわれは努力し情熱を持ち鍛錬すれば女子車いすバスケットの選手の域に達することができる。

達することができる、とわれわれが希望を持っても構わないような、そんな素晴らしい現実味がある。

彼女たちがわれわれと同じ地平から出発して、プロの高みと呼んでも構わない最高位のプレーヤーの域に達したように。

いや、少し違う。

不自由な肉体を持っている彼女たちは、身体能力という意味ではむしろわれわれ健常者よりも低い地平から身を起こした。

そしてわれわれの域を軽々と超えて、通常レベルのアスリートの能力も凌駕してついに熟練のプレーヤーにまでなった。

しかも彼女たちは、ダンクシュートを打つ異星人ではなく、飽くまでもわれわれと共にいる優れたアスリートであり続ける。

その事実が、われわれを激しく感動させてやまないのである。





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日本の感染爆発とワクチン無策の相関図

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ワクチン無策の危険

日本の今の急激なコロナ感染拡大は、経済活動を含む国民の全ての動きを封鎖する厳格なロックダウンを断行してこなかったことの当然の帰結である。

経済も維持しながら感染拡大も抑える、という理想像を追いかけて日本はここまで来た。

その延長で経済を回すどころか、必ず感染拡大につながると見られていたオリンピックさえ開催した。

そして予想通り感染急拡大がやってきた。

だが日本の課題は感染拡大ではない。ワクチン政策の失敗、あるいはもっと直截に言えば、ワクチン無策が最大の問題である。まともなワクチン政策があったならば日本の今の感染爆発などどうということもなかったのだ。

なぜならワクチン接種が進展していれば、感染拡大が起きても重症化や死亡が防げる。それは医療崩壊危機も遠ざけるということと同義語である。

ここイタリアを含む現在の欧州やアメリカ、またイスラエルなどがそういう状況下にある。

展望なき2人のボスの罪

ウイルス感染を予防するワクチンだけがコロナパンデミックから人類を救うというコンセプトは、コロナ禍が深刻になった時点で世界中の科学者や有能な政治家などに共有されていた。

だがそのことを理解した有能な政治家の中には、残念ながら日本の安倍前首相と菅首相は含まれていなかったようだ。

彼らはワクチン争奪戦が熾烈になることを予測するどころか、ワクチンそのものが人類を救うという厳然たる事実にさえ気づかないように、目の前の感染拡大と経済、つまり金との融和だけに気を取られた。

もっと言えばオリンピックという巨大イベントの開催を執拗に推し進めながら、ワクチンが五輪開催にとって命綱とさえ言えるほどに重要であることに気づかず、たずらに時間を費やした。

その意味では安倍前首相の罪は菅首相にも増して深い。なぜなら安倍前首相こそ五輪開催を熱心に唱えた張本人だからだ。

前首相の右腕だった菅首相は、ボスの足跡を忠実になぞっただけだ。だからと言って、現在は日本最強の権力者の地位にいる菅首相の罪が軽減されるわけではないけれど。

いつか来た道

今の日本の感染拡大のありさまは、イタリアの昨年の10月末~11月ころに似ている。

とはいうものの似ているのは一日当たりの感染者の増減で、重症者や死者の数は圧倒的に当時のイタリアのほうが多かった。

2波に見舞われていた当時のイタリアには、今とは違ってワクチン接種が進行している事実から来る希望も余裕もなかった。

イタリアは世界に先駆けてロックダウンを敢行した第1波時とは逆に、同国に先んじてロックダウンを導入したドイツ、フランス、イギリス等を追いかけて、部分的なロックダウンを断行しながら第2波の危機を乗り切った。

そして20201227日、世界の情勢が読めない日本がまだぼんやりとしている間に、ワクチン接種を開始してコロナとの戦いの新たなフェーズに突入した。

ワクチン争奪戦

ワクチンの入手は当初は困難であることが明らかになった。イギリスのアストラゼネカ社のワクチン生産が間に合わずEUはワクチン不足に陥った。

EUは一括してワクチンを購入し加盟各国に分配する方式を取った。そのためEU加盟国であるイタリアもワクチン不足で接種事業が停滞した。

ところがBrexitEUを離脱したばかりのイギリスは、EUをはるかに凌ぐ勢いでアストラゼネカ社製を含む各種のワクチンを入手して、急速に国民への接種を進めた。

EUは疑心暗鬼になった。イギリスの製薬会社であるアストラゼネカが、秘密裡に母国への供給を優先させているのではないか、と考えたのである。

EU加盟国はこぞってアストラゼネカを責め、同社の製品をボイコットするなどの対抗措置に出た。イギリス政府への不満も募らせた。

誰も表立って認めることはなかったが、そこにはEUを離脱して連合の弱体化を招いたイギリスへの反感もくすぶっていた。それはEUとイギリスの将来の関係を示唆する出来事のようにも見えた。

EUとイギリスは、後者の離脱によって発生したドーバー海峡での漁業権をめぐって既に対立を深めていた。イギリスは海峡に戦艦を送りフランスが対抗するなどの事態にさえなった。

ワクチン争奪戦は一歩間違えば、血で血を洗う武力衝突が日常茶飯事だったかつての欧州への先祖返りさえ示唆するような、深刻な事態を招く可能性もゼロではなかった。

しかしアストラゼネカ社の不正がうやむやになる中、幸いにもファイザー社のワクチンを始めとする各社の製品の供給が進んで、EUのワクチン接種戦略は2月末~3月にかけて大きく進展した。

イタリアの安心

EUへのワクチン供給がスムーズになるに連れて、イタリアのワクチン接種環境も大きく改善した。

2021823日現在、イタリア国民の61,2%が2回の接種を済ませている。

それによって人々の日常は―マスクを付けたまま対人距離を保つ習慣はまだ捨てられないものの―コロナ禍以前と同じ生活に戻りつつある。

それはEUに加盟する国々にほぼ共通した状況である。

イタリアの過ぎた地獄と日本のノーテンキ

イタリアは20203月、コロナの感染爆発に見舞われ医療崩壊に陥った。そのため世界に先駆けて全土ロックダウンを敢行した。

それは功を奏してイタリアは地獄から生還した。

イタリアの先例は後に感染爆発に見舞われたフランス、イギリス、スペイン、ドイツの欧州各国やアメリカなどの手本となり、ロックダウンは世界中で流行した。

世界の成り行きを固唾を飲みながら見守っていた日本政府は、感染爆発の気配が見えた時、「緊急事態宣言」を発出して国民の移動を規制し危機を脱しようと企んだ。

強制力のない「緊急事態宣言」は、日本社会に隠然とはびこる同調圧力を利用しての、政権安易なコロナ政策にほかならない。

国民が自らの「自由意志」によって外出を控え、集合や密を回避し、行動を徹底自制して感染拡大を防ぐ、とは言葉を替えれば「感染拡大が止まなければそれは国民自身のせいだ」ということである。

日本社会の同調圧力は、時として「民度の高さ」と誤解されるような統一した国民意識や行動規範を醸成してポジティブに作用することも少なくない。

だがそれは基本的には、肌合いの違う者や思想を排除しようとするムラの思想であり精神構造である。村八分になりたくないなら政府の方針を守れ、と恫喝する卑怯な政策が緊急事態宣言なのである。

それに対してロックダウンは、政府が敢えて国民の自由な行動を規制して感染拡大を食い止める代わりに、不自由を押し付けた代償として政府の責任において国民生活を保障し国民の健康を守る、という飽くまでも国民のための「不愉快な」強行政策なのである。

日本の幸運がもたらした不幸

安倍前政権と菅政権は、1度目はともかく2度目以降は必ず“宣言慣れ“や“宣言疲れ”が出て効果が無くなる緊急事態宣言を連発して、災いの元を絶たない対症療法に終始した。

その結果起きているのが、閉幕したオリンピックの負の効果も相乗して勢いを増している、今現在の感染爆発である。

だがそれは、日本のコロナ禍が世界の多くの国に比較して軽いという、「僥倖がもたらした行政の怠慢」という側面もあると思う。

つまり日本はこれまで、ロックダウン=国土の全面封鎖という極端な策を取らなければならなくなるほどの感染爆発には見舞われなかった。

だからこそコロナパンデミックの巨大な危機に際して、緊急事態宣言という生ぬるい政策を思いつき、gotoキャンペーンのような驚きの逆行策がひねり出され、挙句にはオリンピックの開催という究極の反動策まで強行することができた。

そうした日本の幸運な、だがある意味では不幸でもある現実に照らし合わせてみれば、安倍前首相や菅総理を一方的に責め立てることはできないかもしれない。

万死に値する無定見

ところが現実には彼らは、日本の最高責任者として万死にも値するというほどの失策を犯した。

それが冒頭から何度も述べているワクチン政策の巨大なミスである。いや、ワクチン対応の巨大な無策ぶりと言うべきかもしれない。

彼らは世界中の多くの指導者が早くから見抜き、遠慮深謀し、そこへ向けてシビアに行動を開始していた「ワクチン獲得への道筋」を考えるどころか、それの重要性さえ十分には理解していなかった節がある。

だからこそ安倍前首相は、東京五輪を開催すると繰り返し主張しながら、長期展望に基づいたワクチン戦略を策定しなかった。いや、策定できなかった。

そんなありさまだったからこそ日本はワクチン争奪戦に敗れた。

そのために欧米またイスラエルなどがワクチン政策を成功させて、パンデミックに勝利する可能性さえ見えてきた情勢になっても、日本国内にはワクチンが不足するという目も当てられないような失態を演じることになった。

それだけでは飽き足らず、日本は人流と密と接触の増大が避けられない東京五輪まで強行開催した。

その結果、冒頭でも例えた如く「予定通りに」感染爆発がやってきた。

祈り

コロナ地獄に陥ったイタリアで、身の危険を実感しながら日々を過ごした体験を持つ僕の目には、実は今の日本の感染爆発はまだまだ安心というふうに見える。

その一方で、ワクチン不足と接種環境の不備という2つの厳しい現実があることを思えば、それは逆に極めて不気味、且つ危険な様相を帯びて見えてくるのもまた事実である。

僕は遠いイタリアで、母国のワクチン接種の進展と、さらなる僥倖の降臨を祈るばかりである。





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一石二鳥のニラツナ・パスタ

笊のニラ


日本にある一般的な野菜の中でイタリアにはないもののひとつがニラです。

筆者はニラが好きなので仕方なく自分で育てることにしました。

わが家はミラノ郊外のブドウ園に囲まれた田舎にあります。ですから菜園用の土地には事欠きません。

日本に帰った際にニラの種を買って戻って、指定された時期にそれを菜園にまきました。が、種は一切芽を出しませんでした。
 
イタリアは日本よりも寒い国だから、と時期をずらしたりして試してみましたが、やはり駄目でした。20年近くも前のことです。

いろいろ勉強してプランターで苗を育てるのはどうだろうかと気付きました。

次の帰国の際にニラ苗を持ち込んでプランターに植えました。今度はかなり育ちました。

かなりというのは日本ほど大きくは育たなかったからです。

成長すれば30~40センチはあるりっぱなニラの苗だったのですが、ここではせいぜい15~20センチ程度しかなく茎周りも細かったのです。

しかし、野菜炒めやニラ玉子を作るには何の支障もありませんので、頻繁に利用しています。

そればかりではありません。ニラはニンニク代わりにも使えます。特にパスタ料理には重宝します。

わが家ではツナ・スパゲティをよく作りますが、そこではニンニクを使わずニラをみじん切りにして加えます。ニンニクほどは匂わずしかもニンニクに近い風味が出ます。

またニンニクとオリーブ油で作る有名なスパゲティ「アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノ」にもニラをみじん切りにして加えたりします。

すると味が高まるばかりではなく、ニラの緑色が具にからまって映えて、彩(いろど)りがとても良くなります。

見た目が美しいとさらに味が良くなるのは人間心理の常ですから、一石二鳥です。





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死刑廃止論も存置論も等しく善人の祈りである

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ステレオタイプの二元論

残忍な殺人事件や、銃乱射、テロ等が発生するたびに死刑制度の是非について繰り返し考える。そのたび思いは深くなり、重なり広がってやがて困惑するのがいつもの道筋である。

最近では77人を虐殺したノルウエーの殺人鬼アンネシュ・ブレイビクが、刑期のほぼ半分を終えて10年後に自由の身となる事実に、いわく言い難い違和感を覚えた。

僕の理性は死刑を否定し、その残虐性を憎み、自らの思いが寛容と開明に彩られた世界の趨勢に共鳴しているらしいことに安堵する。

ところが同時に僕の感情は、何かが違うとしきりに訴えている。

死刑は非情で且つ見ていて苦しいものだが、それを否定することで全ての問題が解決されるほど単純ではない。

死刑制度を否定することで、われわれは犠牲者を忘れるという重大な誤謬を犯しているかもしれない。

だが死刑制度を必要悪として認めてしまえば、それは死刑存置論となにも変わらない依怙地な守旧思想になる。

死刑制度の是非は古くて新しい命題だ。守旧部分にも何らかの真実や事態の本質が詰まっている。

そして守旧派の主張とは死刑制度の肯定以外のなにものでもない。

殺人鬼 

2021年7月22日、極右思想に染まったキリスト教原理主義者のアンネシュ・ブレイビク はノルウエーの首都オスロで市庁舎を爆破したあと、近くの島で若者に向けて銃を乱射する連続テロ事件を起こした。

爆破事件では8人、銃乱射事件では69人が犠牲になった。後者の犠牲者は、全員がリベラル政党を支持するために集まっていた10代の若者たちだった。

警官制服で偽装したブレイビクは、自らが計画実行した市庁舎の爆破事件の捜査を口実にして、若者らを整列させ銃を乱射し始めた。

逃げ惑う若者を追いかけ狙い撃ちにしながら、ブレイビクは倒れている犠牲者の生死を一人ひとり確認し、息のある者には情け容赦なくとどめをさした。

泣き叫ぶ者、情けを請う者、母の名を呼ぶ者などがいた。ブレイビクは一切かまわず冷酷に、そして正確に若者たちを射殺していった。

今からちょうど10年前、そうやって77人もの人々を爆弾と銃弾で虐殺したノルウェーの怪物ブレイビクは、たった11年後には自由の身となる。

ノルウェーの軽刑罰 

残虐な殺人者は、逮捕後は死刑どころか終身刑にさえならず、禁固21年の罰を受けたのみである。

ノルウェーにはほとんどの欧州の国々同様に死刑はなく、いかに酷薄な犯罪者でも禁固21年がもっとも重い刑罰になる。

ノルウェーには他の多くの国に存在する終身刑もない。厳罰主義を採らない国はここイタリアを始め欧州には多いが、ノルウェーはその中でも犯罪者にもっとも寛容な国といっても過言ではないだろう。

世界の潮流は死刑制度廃止であり、僕もかすかなわだかまりを覚えつつもそれには賛同する。

わだかまりとは、死刑は飽くまでも悪ではあるものの、人間社会にとって―必要悪とまでは言わないが―存在する意義のある刑罰ではないか、という疑念が消えないことだ。

少なくともわれわれ人間は、集団で生きていく限り、死刑制度はあるいは必要かもしれない、と常に自問し続けるべきだと思う。

それぞれの言い分  

世界の主流である死刑廃止論の根拠を日本にも絡めて改めて列挙しておくと:

1.基本的人権の重視。人命はたとえ犯罪者といえども尊重されるべき。死刑で生命を絶つべきではない。

2.どんなに凶悪な犯罪者でも更生の余地があるから死刑を避けてチャンスを与えるべき。

3.現行の裁判制度では誤判また冤罪をゼロにすることは不可能であり、無実の人を死刑執行した場合は取り返しがつかない。

4.国家が人を殺してはならないとして殺人罪を定めながら、死刑によって人を殺すのは大いなる矛盾。決して正当化できない。

5.死刑執行法と制度自体が残虐な刑罰を禁止する日本国憲法第36条に違反している。

6.死刑廃止は世界の潮流であるから日本もそれに従うべき等々。

これらの論拠の中でもっとも重大なものは、なんといっても「誤判や冤罪による死刑執行があってはならない」という点だろう。このことだけでも死刑廃止は真っ当すぎるほど真っ当に見える。

一方、死刑存置派はもっとも重大な論拠として、被害者とその遺族の無念、悲しみ、怒り等を挙げる。彼らの心情に寄り添えば極刑も仕方がないという立場での死刑肯定論である。

それらのほかに凶悪犯罪抑止のため。仇討ちや私刑(リンチ)を防ぐため。凶悪な犯罪者の再犯を防ぐため。大多数の日本国民(80%)が死刑制度を支持している。人を殺した者は自らの生命をもって罪を償うべき、等々がある。

主張の正邪

死刑肯定論者が主張する凶悪犯罪抑止効果に対しては、廃止論者はその証拠はない、として反発する。実際に抑止効果があるかどうかの統計は見つかっていない。

また80%の日本国民が死刑を支持しているというのは、設問の仕方が誘導的であり実際にはもっと少ないという意見もある。

また誤判や冤罪は他の刑の場合にも発生する。死刑だけを特別視するのはおかしい、という存置派の主張に対しても、死刑廃止論者はこう反論する。

「死刑以外の刑罰は誤判や冤罪が判明した場合には修正がきく。死刑は人の命を奪う。その後で誤判や冤罪が判明しても決して元に戻ることはできない。従って死刑の誤判や冤罪を他の刑罰と同列に論じることは許されない」と。

そうして見てくると、死刑制度が許されない刑罰であることは明らかであるように思う。

無実の者を死刑にしてしまう決してあってはならない間違いが起こる可能性や、殺人を否定しながら死刑を設ける国の矛盾を見るだけでも、死刑廃止が望ましいと言えるのではないか。

生きている加害者の命は死んだ被害者の命より重いのか

生まれながらの犯罪者はこの世に存在しない。何かの理由があって彼らは犯罪を犯す。その理由が貧困や差別や不平等などの社会的な不正義であるなら、その根を絶つための揺るぎのない施策が成されるべきである。

死刑によって犯罪者を抹殺し、それによって社会をより安全にする、というやり方は間違っている。

憎しみに憎しみで対するのは、終わりのない憎しみを作り出すことである。その意味でも死刑廃止はやはり正しい。

それでいながら僕は、やはりどうしても死刑廃止論に一抹の不審を覚える。それは次のような疑念があるからだ。

殺人鬼の命も重い。従って殺してはならないという死刑廃止論は、殺されてしまった被害者の命を永遠に救うことができない。

命を救うことが死刑廃止の第一義であるなら、死刑廃止論はその時点で既に破綻しているとも言える

また死刑廃止論は、「生きている加害者を殺さない」ことに熱心なあまり、往々にして「死んでしまっている被害者」を看過する傾向がある。

生者の人権は、たとえ悪人でも死者の人権より重い、とでもいうのだろうか。それでは理不尽に死者にされてしまった被害者は浮かばれない。

死刑廃止は凶悪犯罪の抑止にならない

死刑は凶悪犯罪の抑止に資することはないとされる。ところが同時に、死刑廃止も凶悪犯罪の抑止にはつながらない。

死刑のない欧州で、ノルウェー連続テロ事件やイスラム過激派によるテロ事件のような重大犯罪が頻発することが、そのことを如実に示している。

この部分では死刑制度だけを責めることはできない。

なるべくしてなった凶悪犯罪者には死刑は恐怖を与えない。だから彼らは犯罪を犯す。

だがそれ以外の「まともな」人々にとっては、死刑は「犯罪を犯してはならない」というシグナルを発し続ける効果がある。それは特に子供たちの教育に資する。

恐怖感情を利して何かを達成するというのは望ましいことではない。だが犯罪には常に恐怖が付きまとう。

特に凶悪犯罪の場合にはそれは著しい。

従って恐怖はこの場合は、必要悪として認めても良い、というふうにも考えられる。

汚れた命 

殺してはならない生命を殺した凶悪犯は、その時点で「人を殺していない生命」とは違う生命になる。分かりやすいように規定すれば、いわば汚れた生命である。

殺人犯の汚れとは被害者からの返り血に他ならない。

従って彼らを死刑によって殺すのは、彼らが無垢な被害者を殺したこととは違う殺人、という捉え方もできる。

汚れた生命は「汚れた生命自身が与えた被害者の苦しみ」を味わうべきという主張は、復讐心の桎梏から逃れてはいないものの、荒唐無稽なばかりとは言えない。

理論上もまた倫理上も死刑は悪である、だが人は理論や倫理のみで生きているのではない。人は感情の生き物でもある。その感情は多くの場合凶悪犯罪者を憎む。

揺るぎない証拠に支えられた凶悪犯罪者なら、死刑を適用してもいいと彼らの感情は訴える。だが、最大最悪の恐怖は―繰り返しになるが―冤罪の可能性である。

法治国家では誤判の可能性は絶対に無くならない。世の中のあらゆる人事や制度にゼロリスクはあり得ない。裁判も例外ではなく必ず冤罪が起きるリスクを伴う。

ほんのわずかでも疑問があれば決して死刑を執行しない、あらゆる手を尽くして死刑に相当するという確証を得た場合のみ死刑にすることを絶対条件に、極刑を存続させてもいいという考えもあり得る。

ノルウエーのブレイビクのような凶悪な確信犯が、彼らの被害者が味わった恐怖や痛みを知らずに生き延びるのはおかしい。理由が何であるにせよ、残虐非道な殺人を犯した者が、被害者の味わった恐怖や痛みや無念を知ることなく、従って真の悔悟に至ることも無いまま、人権や人道の名の下で保護され続けるのは不当だと思う。

彼らは少なくとも死の恐怖と向き合うべきだ。それは殺されない終身刑では決して体験できない。死刑の判決を受けて執行されるまでの時間と、執行の瞬間にのみ味わうことができる苦痛だ。

彼らは死の恐怖と向き合うことで、必ず自らの非情を実感し被害者がかけがえのない存在であることを悟る。悟ることで償いが完成する。

犯罪者以外は皆善人

死の恐怖を強制するのはむろん野蛮で残酷な仕打ちだ。だが彼らを救うことだけにかまけて、被害者の無念と恐怖を救おうとしない制度はもっと野蛮で残酷だとも言える。

つまるところ死刑制度に関しては、その廃止論者のみが100%善ではない。存置論者も犯罪を憎む善人であることに変わりはないのである。

無闇やたらに死刑廃止を叫んだり、逆にその存置を主張したりするのではなく、多くの人々―特に日本人―が感じている「やりきれない思い」を安んじるための方策が模索されるべきだ。

死刑をさっさと廃止しない日本は、この先も世界の非難を浴び続けるだろう。

だが民意が真に死刑存置を望むなら、国民的議論が真剣に、執拗に、そして胸襟を開いてなされるべき時が来ている。

日本は国民議論を盛り立てて論争の限りを尽くし、その上で独自の道を行っても構わないのではないか。

いつの日か「日本が正しい」と世界が認めることがないとは、誰にも言えないのである。



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イタリアが燃えている


山火事キプロス650

イタリアは文字通り燃えるほどの猛暑に見舞われている。

南部のシチリア島では811日、欧州の最高気温となる48,8℃を記録した。それまでの欧州記録は1977年ギリシャのアテネで観測された48℃。

なお、1999年に今回と同じシチリア島で48,5℃が観測されたが、それは公式の記録としては認められていない。

欧州とは思えないほどの熱波はアフリカのサハラ砂漠由来のもの。広大な砂漠の炎熱は、ヒマラヤ山脈由来の大気が日本に梅雨をもたらすように、地中海を超えてイタリアに流れ込み気象に大きな影響を及ぼす。よく知られているのは「シロッコ」。

熱風シロッコはイタリア半島に吹き付けて様々な障害を引き起こすが、最も深刻なのは水の都ベニスへの影響シロッコは秋から春にかけてベニスの海の潮を巻き上げて押し寄せ、街を水浸しにする。ベニス水没の原因の一つは実はシロッコなのである。

48,8℃を記録した今回の異様な気象は、アフリカ起源の炎熱もさることながら地球温暖化の影響が大きいと見られている。

シチリア島では熱波と空気乾燥で広範囲に山火事が起きた。

シチリア島に近いイタリア本土最南端のカラブリア州と、ティレニア海に浮かぶサルデーニャ島でも山林火災が発生し緊急事態になっている。

同じ原因での大規模火災は、ギリシャやキプロス島など、地中海のいたるところでも連続して起きている。

熱波と乾燥と山火事がセットになった「異様な夏」は、もはや異様とは呼べないほど“普通”になりつつあるが、山火事に関してはイタリア特有の鬱陶しい現実もある。

経済的に貧しい南部地域に巣くうマフィアやンドランゲッタなどの犯罪組織が、人々を脅したり土地を盗んだりするために、わざと山に火を点けるケースも多々あると見られているのだ。

イタリアは天災に加えて、いつもながらの人災も猖獗して相変わらず騒々しい。

偶然だが、ことし6月から7月初めにかけての2週間、いま山火事に苦しんでいるカラブリア州に滞在した。

その頃も既に暑く、昼食後はビーチに出るのが億劫なほどに気温が上がった。

夕方6時頃になってようやく空気が少し落ち着くというふうだった。

それでもビーチの砂は燃えるほどに熱く、裸足では歩けなかった。

人々の話では普段よりもずと暑い初夏ということだった。今から思うとあの暑さが現在の高温と山火事の前兆だったようだ。

北イタリアの僕の菜園でもずっと前から異変は起きていた。

4月初めに種をまいたチンゲン菜とサントー白菜が芽吹いたのはいいが、あっという間に成長して花が咲いた。

花を咲かせつつ茎や葉が大きくなる、と形容したいほどの速さだった。

チンゲン菜もサントー白菜も収穫できないままに熟成しきって、結局食べることができなかった。

温暖化が進む巷では、気温が上昇する一方で冷夏や極端に寒い冬もあったりして、困惑することも多い。

だが菜園では野菜たちが異様に早い速度で大きくなったり、花を咲かせて枯れたり、逆に長く生き続けるものがあったりと、気温上昇が原因と見られる現象が間断なく起きている。

自然は、そして野菜たちは、確実に上がり続けている平均気温を「明確」に感じているようだ。

だがいかなる法則が彼らの成長パターンを支配しているかは、僕には今のところは全くわからない。

今回のイタリアの酷暑は、バカンスが最高に盛り上がる8月15日のフェラゴスト(聖母被昇天祭)まで続き、その後は徐々にゆるむというのが気象予報だ。

だがいうまでもなくそれは、温暖化の終焉を意味しない。

それどころか、暑さはぶり返して居座り、気温の高い秋をもたらす可能性も大いにありそうである。




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開会式で五輪マークという神輿を担いだ日本の孤独 

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危なかしい純真

五輪の開幕式をやや否定的な気分でテレビ観戦した。

思い入れの強いシークエンスの数々が、「例によって」空回りしていると感じた。

「例によって」というのは、国際的なイベントに際して、見本人が自らの疎外感を穴埋めしょおうとしてよく犯す誤謬にはまっていると見えたからである。

英語にnaiveという言葉がある。ある辞書の訳をそのまま記すと:

「(特に若いために)世間知らずの、単純な、純真な、だまされやすい、単純で、純真で、(特定の分野に)未経験な、先入的知識のない、甘い、素朴な」

などとなる。

周知のようにこの言葉は日本語にも取り込まれて「ナイーブ」となり、本来のネガティブな意味合いが全てかき消されて、純真な、とか、感じやすい、とか、純粋な、などと肯定的な意味合いだけを持つ言葉になっている。

五輪開会式のパフォーマンスには、否定的なニュアンスが強い英語本来の意味でのnaiveなものがいっぱいに詰まっていると思った。意図するものは純真だが、結果は心もとない、とでもいうような。

それは五輪マークにこだわった開会式典の、コアともいうべきアトラクションに、もっともよく表れていた。

美しい空回り

日本独特の木遣り唄に乗せて職人が踊るパフォーマンスは興味深いものだった。トンカチやノコギリの音が打楽器を意識した音響となって木霊し、やがて全体が大仕掛けの乱舞劇へとなだれ込んでいく演出は悪くなかった。

だがすぐに盛り下がりが来た。

踊る職人たちの大掛かりな仕事の中身が、「木製の五輪マーク作り」だった、と明らかになった時だ。

演出家を始めとする制作者たちは、日本文化の核のひとつである木を用いて、「オリンピックの理念つまり核を表象しているところの五輪マーク」を創作するのは粋なアイデアだ、と自画自賛したに違いない。またそれを喜ぶ人々も多くいたようだ。

英国のタイムズ紙は、開会式が優雅で質朴で精巧だった、とかなり好意的に論評した。パンデミックの中での開催、日本国民の不安や怒りなどが影響して、あまり悪口は言えない雰囲気があったのだと思う。

木遣り唄のパフォーマンスは、タイムズ紙が指摘したうちの質朴な要素に入るのだろうが、実際にはそれは日本人の屈折した心理が絡んだ複雑極まる演出で、質朴とはほど遠いものだった。

なぜなら職人たちが作ったのは五輪マークという「神輿」だったからだ。

神輿に改造された五輪マークは、そうやって現実から乖離して神聖になり、担いで崇めてさえいればご利益があるはずの空虚な存在になった。

傍観者

僕は五輪マークに異様に強くこだわる心理が世界の気分と乖離していると感じた。

五輪の理念や理想や融和追求の姿勢はむろん重要なものである。

だがそれらは、日本が建前やポーズや無関心を排して、真に世界に参画する行動を起こすときにこそ意味を持つ。

しかし日本はその努力をしないままに、世界や日本自身の問題に対しスローガンや建前を前面に押し出すだけの、いわば傍観者の態度で臨んでいることが多い。

具体的に言えば例えば次のようなことだ。

日本は先進国でありながら困難に直面している難民に酷薄だ。また実態は「移民」である外国人労働者に対する仕打ちも、世界の常識では測れない冷たいものであり続けている。

日本国内に確実に増え続けている混血の子供たちへの対応も後手後手になっている。彼らをハーフと呼んで、それとも気づかないままに差別をしているほとんどの国民を啓蒙することすらしない。

世界がひそかに嘲笑しているジェンダーギャップ問題への対応もお粗末だ。対応する気があるのかどうかさえ怪しいくらいだ。

守旧派の詭弁

夫婦同姓制度についても女性差別だとして、日本は国連から夫婦別姓に改正するよう勧告を受けている。

するとすぐにネトウヨヘイト系保守排外主義者らが、日本の文化を壊すとか、日本には日本のやり方がある、日本には夫か妻の姓を名乗る自由がある、などという詭弁を声高に主張する。日本政府は惑わされることなく、世界スタンダードを目指すべきなのに、それもしない。

夫婦別姓で文化が壊れるなら、世界中のほとんどの国の文化が壊れていなければならない。だが実際には全くそうなってなどいない。

その主張は、男性上位社会の仕組みと、そこから生まれる特権を死守したい者たちの妄言だ。

日本の法律では夫か妻の姓を名乗ることができるのは事実だ。だがその中身は平等とはほど遠い。ほとんどの婚姻で妻は夫の姓を名乗るのが現実だ。そうしなければならない社会の同調圧力があるからだ。

同調圧力は女性に不利には働いている。だから矯正されなければならない、というのが世界の常識であり、多くの女性たちの願いだ。

言うまでもなく日本には、何事につけ日本のやり方があって構わない。だがその日本のやり方が女性差別を助長していると見做されている場合に、日本の内政問題だとして改善を拒否することは許されない。国内のトランプ主義者らによる議論のすり替えに惑わされてはならないのだ。

五輪は世界に平和をもたらさない

それらの問題は、日本が日本のやり方で運営し施行し実現して行けばよい他の無数の事案とは違って、「世界の中の日本」が世界の基準や常識や要望また世論や空気を読みながら、「世界に合わせて」参画し矯正していかなければならない課題だ。

日本が独自に問題を解決できればそれが理想の形だ。だが日本の政治や国民意識が世界の常識の圏外にあるばかりではなく、往々にして問題の本質にさえ気づかないケースが多い現状では、「よそ」のやり方を見習うのも重要だ。

日本は名実ともに世界の真の一員として、世界から抱擁されるために、多くの命題に本音で立ち向かい、結果を出し、さらに改善に向けて行動し続けなければならない。

「絆を深めよう」とか、「五輪で連帯しよう」とか、「五輪マークを(神輿のように)大事にしよう」とか、あるいは今回の五輪のスローガンである感動でつながろう(united by emotion」などというお題目を、いくら声高に言い募っても問題は解決しない。

オリンピックは連帯や共生やそこから派生する平和を世界にもたらすことはない。世界の平和が人類にオリンピックをもたらすのである。

そして平和や連帯は、世界の国々が世界共通の問題を真剣に、本音で、互いに参画し合って解決するところに生まれる。

今の日本のように、世界に参加するようで実は内向きになっているだけの鎖国体制また鎖国メンタリティーでは、真に世界と連携することはできない。

輪開会式に漂う日本式の「naive」なコンセプトに包まれたパフォーマンスを見ながら、僕はしみじみとそんなことを頭に思い描いたりした。

美しい誤謬

この際だから最後に付け加えておきたい。

古い日本とモダンな日本の共存、というテーマも五輪の意義や理想や連帯にこだわりたい人々が督励したコンセプトである。

そのことは市川海老蔵の歌舞伎十八番の1つ「暫(しばらく)」と女性ジャズピアニストのコラボに端的に表れていた。

日本には歴史と実績と名声が確立した伝統の歌舞伎だけではなく、優秀なモダンジャズの弾き手もいるのだ、と世界に喧伝したい熱い気持ちは分かるが、僕は少しも熱くならなかった。

古い歌舞伎に並べて新しい日本を世界に向けてアピールしたいなら、例えば開会式の華とも見えた「2000台近い発行ドローンによる大会シンボルマークと地球の描写」をぶつければよかったのに、と思った。

ドローンによるパフォーマンスこそ日本の技術と創造性が詰まった新しさであり、ビジョンだと感じたのだ。

日本の誇りである「大きな」且つ「古い」歌舞伎に対抗できるのは、ひとりのジャズピアニストではなく、新しいそのビジョンだったのではないだろうか。

さらに、意味不明のテレビクルーのジョークはさて置き、孤独なアスリートや血管や医療従事者などのシンボリックなシーンは、手放しでは祝えない異様な五輪を意識したものと考えれば共感できないこともない。だが残念ながらそこにも、再び再三違和感も抱いた。

そもそも心から祝うことができないない五輪は開催されるべきではない。だが紆余曲折はあったものの既に開催されてしまっているのだから、一転してタブーを思い切り蹴散らして、想像力を羽ばたかせるべきではないかと感じた。アートに言い訳などいらないのだ。

オリンピックは、例えば「バッハ“あんた何様のつもり?”会長」の空虚でむごたらしくも長い「挨拶風説教」や、政治主張や訓戒や所論等々の強要の場ではなく、世界が参加する祝祭なのだ。祝祭には祝祭らしく、活気と躍動と歓喜が溢れているほうがよっぽど人の益になる。

最後に、自衛隊による国旗掲揚シーンは、2008年中国大会の軍事力誇示パフォーマンスほど目立つものではなかったが、過去の蛮行を一向に総括しようとはしない「守旧日本の潜在的な脅威の表象」という意味では、中国の示威行動と似たり寄ったりのつまらない光景、と僕の目には映った。





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秘境のヤギ料理はチョー世界一の味がした

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チヴィタ風カプレット(子ヤギ)煮込み


6月から7月初めにかけて滞在したカラブリア州では、いつものように地域グルメを満喫した。

今回の休暇でも、1日に少なくとも1回はレストランに出かけた。昼か夜のどちらかだが、初めの1週間はこれまた例によって1日に2度外食というのがほとんどだった。

だが時間が経つに連れて、美食また飽食に疲れて2度目を避けるようになったのも、再び「いつもの」成り行きだった。

海のリゾートなので食べ歩くレストランではまず魚介料理に目が行った。

海鮮のパスタは全く当たり外れがなく、全てが極上の味だった。

イタリアではそれが普通だ。パスタの味が悪いイタリアのレストランは「あり得ない」と断言してもいい。もしあるならそれはまともなレストランではない

イタリアにおけるレストランのレベルは、パスタを食べればすぐに分かる、というのが僕の持論である。

一方、魚そのものの料理の味わいは、いつも通りだと感じた。

つまり日本食以外の世界の魚料理の中では1、2を争う美味さだが、日本の魚料理には逆立ちしてもかなわない、という味である。

そんな訳で結局、魚介膳はパスタに集中することになった。

それに連れて、メインディッシュは肉料理が多くなった。

そこでもっとも印象に残ったのは、黒豚のロースト・秘伝ソース煮込みである。肉を切るのにナイフはいらず、フォークを押し当てるだけでやわらく崩れた。口に入れるととろりと舌にからんでたちまち溶けた。

芳醇な味わいと、甘い残り香がいつまでも口中に漂った。

黒豚皿全体800pic
黒豚のロースト秘伝タレ煮込み


肉料理に関してはさらに驚きの、全く予期しない出来事もあった。

なんと僕が追い求めているカプレット(子ヤギ肉)の煮込み料理に出会ったのだ。味も一級の上を行くほどの秀逸なレシピだった。

場所はカラブリア州コセンザ県の山中の町、チヴィタのレストランである。

チヴィタは15世紀頃にバルカン半島のアルバニアからイタリアに移り住んだ、「アルブレーシュ」と呼ばれる人々の集落である。アルブレーシュの集落がコセンツァ県には30箇所、カラブリア州全体では50箇所ほどあるとされる。

キリスト教のうちの正教徒であるアルブレーシュの人々は、彼らの故郷がイスラム教徒のオスマントルコに侵略されたことを嫌って、イタリア半島に移住した。

チヴィタは広大なポッリーノ国立自然公園内にある。よく知られた町でアルバニア系住民を語るときにはひんぱんに引き合いに出される。

アルブレーシュの人々は、むろん今はイタリア人である。彼らは差別を受けるのでもなければ、嫌われたりしているわけでもない。

イタリア人は、日本人を含む世界中の全ての国民同様に混血で成り立っている。

そのことをよく知り且つ多様性を誰よりも愛するイタリア人は、自らのルーツを忘れずに生き続けるアルブレーシュの人々を尊重し親しんでいる。

僕はそうした知識を持って滞在地から30キロほど離れた山中にあるチヴィタを訪ねた。

そこでチヴィタ独特のカプレット(子ヤギ)料理があると聞かされたのである。

それまでは「アルブレーシュ」の人々が、ヤギや羊肉料理に長けているとは思ってもみなかった。

僕はイタリアを含む地中海域の国々を訪ねる際には、いつもカプレットや子羊を含むヤギ&羊肉料理を食べ歩く。むろん他の料理も食べるが、ヤギや羊肉は地中海域独特の膳なので集中して探求するようになった。

初めは珍味どころか、ゲテモノの類いにさえ見えていたヤギ&羊肉膳は、最近ではすっかり僕の大好きな料理になっている。

以前はそれを見るさえいやだ、と怒っていた妻も、今では僕と同じか、あるいはさらに上を行くかもしれないほどのヤギ&羊肉料理愛好家になってしまった。

カラブリア州でも「ヤギ&羊肉を食べるぞ」計画を立てて乗り込んだが、海際のリゾート地にはそれらしい料理は見当たらなかった。

山中のチヴィタで初めて、思いがけなく出会ったのだ。

チヴィタで食べたカプレットの煮込みは、これまでに食べたヤギ&羊肉料理のなかでもトップクラスの味がした。

食べながら少し不思議な気がした。

ヤギや羊肉を好んで食べるのは、イスラム教徒を主体にする中東系の人々である。宗教上の理由で豚肉を避ける彼らは、自然にヤギや羊肉の調理法を発達させた。

アルバレーシュはキリスト教徒である。従ってイスラム教徒やユダヤ教徒、また中近東系のほとんどの人々のようにヤギや羊を好んでは食べない、と僕は無意識のうちに思い込んでいた。

だが思い返してみると実際には、地中海域のキリスト教徒もヤギや羊をよく食する。イスラム教徒の影響もあるだろうが、ヤギや羊は地中海地方のありふれた家畜だから、彼らも自然に食べるようになった、というのが歴史の真実だろう。

チヴィタでよく知られたレストランは、どこでもカプレット料理を提供していた。他のアルブレーシュの町や村でも同じだという。

アルブレーシュ風のヤギ・羊肉膳は、ソースやタレで和えた煮込みと焼き料理が主だが、肉を様々にアレンジしてパスタの具にする場合もある。

チヴィタでは日にちを変えて3件のレストランを訪ね、それぞれが工夫を凝らしたカプレット料理を堪能した。

また、滞在地から遠くない内陸の村にもアルブレーシュの女性が経営するレストランがあり、カプレット料理を出すことが分かった。チヴィタのレストランで得た情報である。

早速訪ねてカプレットの煮込みを食べてみた。そこの味も出色だった。

場所が近いのでもう一度訪ねて、今度はカプレットの炭火焼きに挑戦しようと思ったが、時間が足りずに叶わなかった。

そのレストランもチヴィタの店も、もう一度訪ねたい気持ちは山々だが、旅をしたい場所や国は多く、人生は短い。

果たして再び行き合えるかどうかは神のみぞ知るである。





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地中海の土左衛門の愉悦

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エーゲ海まで

6月から7月初めにかけての2週間イタリア本土最南端のカラブリア州に遊んだ。

正確に言えば、カラブリア州のイオニア海沿岸のリゾート。

ビーチを出てイオニア海をまっすぐ東に横切ればギリシャ本土に達する。そこからさらに東に直進すればエーゲ海に至る、という位置である。

地中海は東に行くほど気温が高くなり空気が乾く。

今回の滞在地は、西のティレニア海に浮かぶサルデーニャ島と東のエーゲ海の中間にある。エーゲ海の島々とサルデーニャ島が僕らがもっとも好んで行くバカンス地である。

2021年初夏のカラブリア州のビーチは、定石どおりにサルデーニャ島よりは気温は高いものの、空気はやや湿っていた。

しかし、蒸し暑いというほどではなく、紺碧の空と海を吹き渡る風が、ギラギラと照りつける日差しを集めて燃え、心地良い、だが耐え難い高温を運んでは去り、またすぐに運び来た。

それは四方を海に囲まれた島々にはない、大陸に特有の高温である。僕はイタリア半島が、まぎれもなく大陸の一部であることを、いまさらのように思い起こしたりした。

今回も例によって仕事を抱えての滞在だった。だが、やはり例によって、できる限り楽しみを優先させた。

イタリア最貧州と犯罪組織

カラブリア州はGDPで見ればイタリアで1、2を争う貧しい州だ。

だがそこを旅してみれば、果たして単純に貧しいと規定していいものかどうか迷わずにはいられない。

景観の中には道路脇にゴミの山があったり、醜悪な建物が乱立する無秩序な開発地があったり、ずさんな管理が露わなインフラが見え隠れしたりする。

行政の貧しさが貧困を増長する、南イタリアによくある光景である。カラブリア州の場合はあきらかにその度合いが高いと知れる。

時としてみすぼらしい情景に、同州を基盤にする悪名高い犯罪組織“ンドランゲッタ”のイメージがオーバーラップして、事態をさらに悪くする。

イタリアには4つの大きな犯罪組織がある。4つとも経済的に貧しい南部で生まれた。

それらは北から順に、ナポリが最大拠点のカモラ、プーリア州のサクラコロナユニタ 、カラブリア州のンドランゲッタ、そしてシチリア島のマフィアである。

近年はンドランゲッタが勢力を拡大して、マフィアを抑えてイタリア最大の犯罪組織になったのではないか、とさえ見られている。


貧困の実相

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それらの闇組織は貧困を温床にして生まれ、貧困を餌に肥え太り、彼らに食い荒らされる地域と住民はさらに貧しさの度合いを増す、という関係にある。

だが、そうではあるものの、カラブリア州の貧しさは「“いうなれば”貧しい」と枕詞を添えて形容されるべき類いの貧しさだと僕は思う。

つまりそこは、やせても枯れても世界の富裕国のひとつ、イタリアの一部なのである。

住民は費用負担がゼロの皆保険制度によって健康を守られ、餓死する者はなく、失業者には最低限の生活維持に見合う程度の国や自治体の援助はある。

それとは別に、よそ者である僕らが2週間滞在したビーチ沿いの宿泊施設は快適そのものだった。海に面した広大なキャンプ場の中にある一軒家である。

海で休暇を過ごすときにはほぼ決まって僕らはそういう家を借りる。今回の場合は普通よりもベランダが広々としていて、快適度が一段と増した。


旅人たちは憩う

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僕らは朝早い時間と夕刻にビーチに向かう。

波打ち際を散歩し、泳ぎ、パラソルの下で読書をし、気が向けばアペリティブ(食前酒)を寝椅子まで運んでもらい、眠くなれば素直にその気分に従う。

そうした動きもまた、海で休暇を過ごすときの僕らのお決まりの行事だ。

今回は少しだけ様子が違った。

昼食後にビーチに向かう時間が普段よりもかなり遅くなった。降り注ぐ日差しが強烈過ぎて、午後6時ころまでビーチに出る気がしないのである。

空気は熱く燃え、ビーチの砂は裸足で歩けば確実に火傷をするほどに猛っていた。

今回の休暇でも、1日に少なくとも1回はレストランに出かけた。昼か夜のどちらかだが、初めの1週間はこれまた例によって、1日に2度外食というのが普通だった。

だが時間が経つに連れて、美食また飽食に疲れて2度目を避けるようになった。それもまた「いつもの」成り行きだった。

食べ歩いたレストランはどこも雰囲気が良く、頼んだ料理はことごとく一級品だった。

カラブリア州の可能性

宿泊施設もレストランもあるいは地元住民とは無縁の、「貧しさの中の富裕」とでも形容するべき特権的な事象かもしれない。

しかし、旅人が利用する宿泊施設はさておき、レストランは地元民も利用する。それは地元の人々の嗜好を反映し、いわば民度に即した形で存在する施設だ。

そこで提供される食事も、特に地域グルメや郷土料理の場合は、地元民自身が美味い食事をしていない限り、旅人にとってもおいしいという料理は生まれにくい。

つまり強烈な陽光と青い海に恵まれた「貧しい」カラブリア州は、イタリア随一のバカンス地であるサルデーニャ島や、ギリシャのエーゲ海域にも匹敵する可能性を秘めた、いわば「発展途上の」リゾート地というふうである。



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書きそびれている事ども 2021年7月30日

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コロナワクチンのおかげで例年通り6月に休暇に出ることができた。そこに4年に1度開催されるサッカー欧州選手権が重なった。サッカー好きの僕は試合のテレビ観戦と記事執筆で「休む暇」もない有り様だった。選手権はバカンス後も続き、ただでも面白いのにイタリアの活躍でますます愉快になった。今度は「仕事をする暇」もないほど喜んだ。選手権が終わり、東京ではオリンピックが始まった。オリンピックでは陸上を毎回よく見る。陸上以外では水泳と体操を少々見る、という程度だ。僕はオリンピックにはあまり魅力を感じない方だ。それでも陸上には興奮する。特に駆けっこが好きだ。

7月から9月のイタリアは国中がバカンスモードに入って仕事がうまく進まない。仕事には相手が必要だ。だからその期間中は、休暇ではない者までも「相手不足」で仕事が思うようには回転しないのである。加えて僕は7月-9月は本職以外の仕事でも多忙になる。イタリア北部のガルダ湖畔にある歴史的建造物の管理にかかずらう、という仕事外の大仕事があるのだ。

それやこれやで書こうと思いつつ優先順位が理由でまだ書けず、あるいは忙しくて執筆そのものができずに後回しにしている時事ネタが多くある。僕にとってはそれらは「書きそびれた」過去形のテーマではなく、現在進行形の事柄である。ブログの趣旨が時事ネタの速報ではなく、それを観察し吟味して自らの考えを書き付けることだからだ。過去形のトピックも現在進行形の話題もできれば将来どこかで掘り下げて言及したいと思う。その意味合いで例によってここに箇条書きにしておくことにした



マンチーニの変貌?

サッカーイタリア代表チームのロベルト・マンチーニ監督にはかつて、国際試合に弱く、「スタープレーヤー」なしでは勝てない、などの悪評がついて回った。クラブチームを優勝に導くものの、そこには必ず強力なスタープレーヤーがいる。そして彼はそれらの卓越した選手に頼る戦略を多用し重宝する。だがそのクラブチームは、欧州全体が相手のチャンピオンズリーグでは勝てない、と陰口をたたかれた。

だが彼は、2018年にイタリア代表チーム監督に就任して以来、スター選手不在のチームを改造し鍛え上げてきた。そして欧州選手権の予選を含む国際試合で不敗記録を作り、ついには欧州選手権そのものまで制した。そうやって彼について回った酷評を一気に吹き飛ばしてしまった。

彼は変貌したのか。あるいは単純に批評家らが判断ミスを犯していたのか。


殺人鬼を死刑にすることは正か邪か

もちろん邪である。

だが20114月、僕はこのブログに

「調べても勉強しても、考えても分からないことがある。そこで僕は、考え続けても分からないことや結論付けられないあらゆることに「今のところは」と枕詞をつけることにしている。というか、それが僕の主義であり原理原則である

と書き、続いて

「今のところ僕は、死刑制度に賛成」

と書いた

また20173月には

僕は今のところ、自分の復讐心を制御できないのではないか、と感じるのである。その一点を正直に認めるために、僕はどうしても死刑制度に反対、と主張することができない

とも書いた

そして直近の記事ではさらに

「死刑制度を否定するのは、論理的にも倫理的にも正しい世界の風潮である。僕は少しのわだかまりを感じつつもその流れを肯定する。

だが、そうではあるものの、そして殺人鬼の命も大切と捉えこれを更生させようとするノルウェーの人々のノーブルな精神に打たれはするものの、ほとんどが若者だった77人もの人々を惨殺した犯人が、あと11年で釈放されることにはやはり割り切れないものを感じる

と書き、

最後に

「(77人を虐殺したアンネシュ・ブレイビク には)終身刑も釈放のない絶対終身刑あるいは重無期刑を、と言いたいが、再びノルウェー国民の気高い心情を考慮して、更生を期待しての無期刑というのが妥当なところか」

と締めくくった

僕はそこでは少し卑怯な気持ちにとらわれていた。ノルウェー(そして世界の多くの国々)の制度に便乗して、あたかも僕自身がもはや完全に死刑反対論者でもあるかのように誤魔化したのだ。

だが僕は今も、理性では死刑制度に反対しながら、感情がどうしても100%そうだとは言えない、懐疑論者である。

いや、野蛮だ、未開だ、残酷だ、等々の批判を覚悟で言えば「消極的な死刑賛成論者」だと告白しよう。

「消極的な死刑賛成論者」の“消極的”とは何なのか。

特にノルウェーの殺人鬼アンネシュ・ブレイビクに絡めて論じようと思う。


東京五輪開幕式に露呈したいつもの日本の課題

五輪の開幕式の様子をやや否定的な気分でテレビ観戦した。思い入れの強いシークエンスの数々が、「例によって」空回りしていると感じた。その思いを書こうと決めてあれこれ考えていたら、英国のタイムズ紙 がえらく好意的な記事を発表した。他のメディアも概ね肯定的な評価だった。

それらを見、読んでいくうちに記事を書く気持ちが失せた。言うまでもないが批判的な視点は、逆のそれよりも鬱陶しい。ネットにあふれるショボイ、ダサイに始まる否定コメントに自分の見方の暗さが重なった。コロナ禍中のいわくつきの五輪とはいえ、もう始まったのだ。始まった以上はやはり成功してほしい。祝賀にケチをつけるのは控えようという気持ちになった。

ところが、時間とともにやはり書いておくべき、という考えが強くなってきた。

どのシークエンスの思い入れが強く、なぜ空回りをしているのかを書くのは、公に意見を開陳している者の義務でさえある、というふうに心が動いている。

開会式の速報や時論時評を書くのは僕の仕事ではない。それらに絡めた自らの根本の考え方や意見を記すのが僕のブログの趣旨なのだから、今さら遅い、などと引かずに近いうちに書こうと思う。


コロナ禍中のバカンスについて

コロナパンデミックが到来して初の本格的な休暇を、これまた初めてイタリア半島最南部のカラブリア州で過ごした。地中海に突き出た大陸の気候とイタリアの最貧州の趣について。

意外な出来事もあった。予期に反して、地中海域で僕が探索し続けているヤギ羊肉の絶品に出会ったのだ。秘境とも呼ぶべき山中にミステリアスな人々が住む集落があって、そこで育まれたレシピなのである。


白鵬の無残と照ノ富士の不安

大相撲は衛星放送を介して欠かさず観ている。白鵬は強い怪物横綱などではなく、異様悲壮な安い怪物男、という本性を7月場所で露わにした。

その白鵬に千秋楽で負けた照ノ富士は先行きが不安だ。白鵬の見苦しい動きに惑わされた軽さはそこだけのもので、横綱に昇進した先の頼りなさを暗示するものではないことを祈りたい。






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PK戦も物にするのが真の強者~付記


子供PK650

2020サッカー欧州選手権では、イタリアがイングランドとのPK戦を制して優勝した。

PK戦を偶然が支配するイベントと考える者がいるが、それは間違いだ、と前のエントリーで書いた。

そこでは主に選手に焦点をあてて論じた。

実はPK戦にはもうひとつの側面がある。そのこともPK戦にからむ偶然ではなく、戦いの結末の必然を物語る。

PKを蹴る5人の選手を決めるのは、たいていの場合監督である。

監督のなくてはならない重要な資質のひとつに、選手の一人ひとりの心理やその総体としてのチームの心理状況を的確に読む能力がある。

監督は優れた心理士でなければ務まらないのだ。

監督は大きなプレッシャーがかかるPK戦に際して、選手一人ひとりの心理的状況や空気を察知して、気持ちがより安定した者を選び出さなければならない。

緊張する場面で腰が入っているのは選手個人の特質だが、それを見抜くのは監督の力量である。その2つの強みが合わさってPKのキッカーが決まる。

より重要なのは選手の心理の様相を見抜く監督の能力。それは通常ゲーム中には、選手交代の時期や規模に託して試合の流れを変える手腕にもなる。

監督はそこでも卓越した心理士でなければならない。

代表チームの監督は、各クラブの監督とは違って、いかに有能でも優れた「選手を作り出す」ことはできない。彼の最重要な仕事は、国内の各チームに存在する秀でた「選手を選択」することだ。

選択して召集し、限られた時間内で彼らをまとめ、鍛え、自らの戦略に組み込む。彼が選手と付き合う時間は短い。

ナショナルチームの監督は、その短い時間の中で選手の心理まで読む才幹を備えていなければならない。厳しい職業である。

イタリアのマンチーニ監督は、あらゆる意味で有能な軍師であり心理士だ。長く不調の底にいたイタリアチームを改造して、53年ぶりの欧州選手権制覇へと導いた器量は大いに賞賛に値する。

欧州選手権の決勝戦では特に、彼は力量を発揮して通常戦と延長戦を戦い、最後にはPK戦でも手際を見せてついに勝利を収めた。

一方、敢えて若い選手をキッカーに選んで敗れたイングランドチームのサウスゲート監督は、「誰が何番目にPKを蹴るかを決めたのは私。従って敗れた責任は私にある」と潔く負けを認めた。

イタリアのマンチーニ監督も、もし負けていれば同じコメントを残しただろう。

2人の天晴れな監督の言葉を待つまでもなく、PK戦とは2チームが死力を尽くして戦う心理戦であり、偶然が支配するチャンスはほぼゼロと見なすべきサッカーの極意なのである。




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