【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

クリスマスは文明にまで昇華した化け物である

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ここイタリアを含む欧米諸国や世界中のキリスト教国では、人々がクリスマスをにぎやかに且つ厳かに寿ぐ。

同時にキリスト教国以外の世界の多くの国々でも、人々はクリスマスを大いに楽しみ祝う。

むろん日本を典型とする非キリスト教国国々で祝されるのは、宗教としての定式や教義や規律や哲学や典儀を伴う「宗教儀式」ではない。

単なる遊びであり祭りでありショーでありエンターテインメントである。

そうなった背景には西洋文明という巨大な力がある。

クリスマスは文明ではない。それは宗教にまつわる文化だ。

文化とは地域や民族から派生する、祭礼や教養や習慣や言語や美術や知恵等々の精神活動と生活全般のことだ。

それは一つ一つが特殊なものであり、多くの場合は閉鎖的でもあり、時にはその文化圏外の人間には理解不可能な「化け物」ようなものでさえある。

だからこそそれは「化け物の文(知性)」、つまり文化と呼称されるのだろう。

文化がなぜ化け物なのかというと、文化がその文化を共有する人々以外の人間にとっては、異(い)なるものであり、不可解なものであり、時には怖いものでさえあるからだ。

そして人がある一つの文化を怖いと感じるのは、その人が対象になっている文化を知らないか、理解しようとしないか、あるいは理解できないからである。

だから文化は容易に偏見や差別を呼び、その温床にもなる。

ところが文化の価値とはまさに、偏見や恐怖や差別さえ招いてしまう、それぞれの文化の特殊性そのものの中にある。

特殊であることが文化の命なのである。

従ってそれぞれの文化の間には優劣はない。あるのは違いだけだ。

そう考えてみると、地球上に文字通り無数にある文化のうちの、クリスマスという特殊な一文化が世界中に広まり、受け入れられ、楽しまれているのは稀有なことだ。

それはたとえば、キリスト教国のクリスマスに匹敵する日本の宗教文化「盆」が、欧米やアフリカの国々でも祝福され、その時期になると盆踊りがパリやロンドンやニューヨークの広場で開かれて、世界中の人々が浴衣を着て大いに踊り、楽しむ、というくらいのもの凄い出来事である。

でもこれまでのところ、世界はそんなふうにはならず、キリスト教のクリスマスだけが一方的に日本にも、アジアにも、その他の国々にも受け入れられていった。なぜか。

それはクリスマスという文化が、世界を席巻した「西洋文明」という巨大津波に乗って地球上に広がっていったからである。

文明とは字義通り「明るい文(知性)」のことであり、特殊性が命の文化とは対極にある普遍的なコンセプトである。言葉を替えれば、普遍性が文明の命だ。

誰もが希求するもの、便利なもの、喜ばしいもの、楽しい明るいものが文明である。

それは自動車や飛行機や電気やコンピュターなどのテクノロジーのことであり、利便のことであり、誰の役にも立ち、誰もが好きになる物事のことだ。そして世界を席巻している西洋文明とは、まさにそういうものである。

一つ一つが特殊で、一つ一つが価値あるものである文化とは違って、文明には優劣がある。だから優れた文明には誰もが引き付けられ、これを取り入れようとする。

より多くの人々が欲しがるものほど優れた文明である

優れた文明は多くの場合、その文明を生み出した国や地域の文化も伴なって世界に展延していく。そのために便利な文明を手に入れた人々は、その文明に連れてやって来た、文明を生み出した国や地域の文化もまた優れたものとして、容易に受け入れる傾向がある。

たとえば日本人は「ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と言われた時代から、必死になって西洋文明を見習い、模倣し、ほぼ自家薬籠中のものにしてき。

その日本人が、仏教文化や神道文化に照らし合わせると異なものであり、不可解なものであるクリスマスを受け入れて、今や当たり前に祝うようになったのは一つの典型である。

西洋文明の恩恵にあずかった、日本以外の非キリスト教世界の人々も同じ道を辿った。彼らは優れた文明と共にやって来た、優劣では測れないクリスマスという「特殊な」文化もまた優れている、と自動的に見なした。あるいはそう錯覚した。

そうやってクリスマスは、無神論者を含む世界中の多くの人が祝い楽しむ行事になっていった。

今日はキリスト教国のみならず、日本でも中国でもインドでもタイでもアラブの国々でもクリスマスが祝される。イスラエルにさえそれを祝う多くの人々がいる。

むろんそれらの国々の民衆が祝うのは、冒頭で述べたように宗教儀式としてのクリスマスではなく、飽くまでも遊びやショーやエンターテイメントとしてのクリスマスである。

換言すれば日本式クリスマスが、ほぼ全ての非キリスト教国におけるクリスマスである。

世界中が喜び希求する楽しい文化というのは言葉の矛盾だ。従ってクリスマスはもはや文化ではなく、文明に昇華したイベント、と表現したほうが適切かもしれない。

「化け物なのだから何にでも化ける」と考えれば、じゃやっぱり文化じゃん、ということになるのだけれど。












円と共にどこまでも日本国が沈みゆく

沈み行く手


さて、今日はクリスマスイブである。

クリスマスでホップ、正月はステップ、2月にジャンプして東京まで飛ぶが、今回は桜開花までの飛距離は出そうにないな、などとつぶやきつつ帰国準備中。

楽しみは冬のない南の島の海と、大阪と東京での居酒屋巡りである。

先日、帰国がらみにユーロで円を買って、円の弱体ぶりにたまげた。

ためしに今日のレートは?と調べてみると、円はさらに安くなって、1ユーロがなんと約184円だ。要するに今日なら“たった”5435ユーロほどが100万円に相当することになる。

僕は5500ユーロで100万円を手にした。ちょうど一週間前の話だ。

つまり、もしも今日ユーロで円を買っていれば、僕は黙っていても約1万2千円を余計に手に入れることができた。

日本の輸出大企業とインバウンドの外国人観光客ばかりが得をし、日本国民の大半が物価高に苦しむ円安のカラクリだ。

高市首相に言いたい。

台湾有事・日本存立危機発言をさっさと撤回して、異様な円安対策に本腰を入れたほうがいい。

そうすれば、日本初の女性首相の経歴には少し箔がついて、サッチャー英首相やメルケル独首相の域にまでは無理でも、ここイタリアのメローニ首相の足元あたりまでの評価は得るかもしれない

そうしておいて退陣すれば、日本の未来にほのかに明かりがともらないとも限らない。





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日本が文明国なら難民は全て歓迎し移民は条件付きで歓迎するべきだ

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日本では「移民や外国人を何でもいいから分け隔てなく受け入れよう」という意見と、逆に「何でもいいから移民や外国人は去れ」という人々の主張が激しく対立しているように見える。

そこで明らかなのは、日本人が難民と移民をごっちゃにしていることだ。

難民は先進国なら特に、必ず受け入れるべき義務だ。片や移民は-むろん経済的に困窮している外国人に救いの手を差し伸べるという人道的な側面は常について回るが-その国と国民の自由裁量による選択だ。

受け入れてもいいし受け入れなくてもいい。

また移民として受け入れる場合は、当の人材の技能や人格や思想信条等を識別しても一向に構わない。むしろそうやって移民を選別するのが理想的だ。

それは断じて差別ではなく、受け入れる日本国と移民との間の契約事項の一に過ぎない。

何でもいいから外国人を受け入れろ、差別するな、と叫ぶのも思い込んだら百年目の迷妄だ。むろん差別は指弾されるべきだが、包摂と日本国&移民の契約関係は別物だ。

移民を受け入れる日本は、国内法に始まる受け入れの条件やルールを明確に、堂々と、包み隠さずに示しそれに同意してもらう。

移民は約束に従って日本人となり、やがて時間とともに日本生まれの日本人と寸分違わない日本人になっていく。

だが彼また彼女は、生まれ育った国の文化も纏った新しい日本人だ。そこには多様性の萌芽がある。

今この時の日本では、日本人ファーストと叫ぶネトウヨヘイト系人士や、安倍高市歴史修正主義カルト礼拝所あたりで叫ばれる、汚濁言論ばかりが目立っている。

彼らは欧州の状況を表面的に見て、移民が欧州社会を破壊している。欧州の二の舞になってはならない、などと知ったかぶりに主張したがる。

だがそうではない。

欧州には9割以上のまともな、良い移民市民がいる。彼らは欧州社会に溶け込み仕事をし移住先の国の子供たちと同様に自らの子供に教育を受けさせ、税金を払い選挙で投票もする。

しかしごく一部の移民や移民の子孫は、移住先国の社会に溶け込めず、差別されていとある時は正当に感じ、ある時は誤解と被害者意識に支配されてテロに走ったりもする。

それは「事件」だから世界中に報道され、従って日本のネトウヨヘイト系紳士淑女がわが意を得たりと「だから外国人は危険だ、日本に来るな」と叫ぶ元本を提供してしまう。

そうではあるが、しかし、移民の一部が問題を起こすのも厳然たる事実だ。

それは欧州が過去に世界各地を侵略・直民地化して、住民を虐殺し続けた悪行への反省から「欧州の良心」を獲得し、世界中から難民のほぼ全てと移民の多くを受け入れた歴史によっている。

日本の反移民過激派が指摘したがる「欧州の問題」の背景には、日本人が全く思いもよらない欧州の寛大な深い懐がある。

それはトランプ反動大統領が誕生するまでのアメリカにも歴然としてあった、欧米の美点の一つだ。

島国の洞窟に住み、世界に背を向け、壁に向かって「日本人ファースト!外国人来るな!」と怨嗟し吼える未開の民とは人間の格が違うのである。

日本人は移民受け入れを考える場合、欧米の過去の成功例と失敗例を詳細に見、研究しあるいは手本とし、あるいは他山の石として移民対策を考えれば良い。

人権と包摂の心を忘れず、且ついよいよ移民を受けいれる際には、彼らを基本的に日本人として認め、従って日本の法律をそのまま適用し、既述のように日本が独自に決定施行する規則や習いや掟も守ってもらう、と恐れずに表明すればいい。

その場合には日本が世界の手本になるつもりで、時には厳しい規則も含めて正面から堂々と示し、賛成する人だけ日本に来てください。反対の方は日本に来ないでください、と穏やかに、平明に、且つ論理的に言い続ければ良い。

それは移民ばかりではなく、最近数が爆発的に増えたインバウンドの観光客に対しても定型化していいコンセプトだ。

そこには必ず横暴だ非民主的な手法だ、などの批判も起こるだろう。だがそれは日本が身を挺して打ち立てるオーバーツーリズム対策だとわきまえて、堂々とく突き進めばいい。

それは観光公害に悩む世界が、将来はグローバル規格として取り入れる可能性もある重要な先例になるだろう。

繰り返すが、日本が受け入れる移民に関して最重要なことは、彼らを移民として明確に認定し、そのように扱うことだ。

言葉を換えれば移民を日本人として受け入れ、日本生まれの日本人と全く同様に扱う。彼らは国民だから自由に仕事をし、子供に教育を受けさせ、税金を払い、選挙に参加する。

むろん不良移民など問題外だ。性質たちの悪い移民は、犯罪者の日本人と同じように厳しく取り締まればいい。外国人だからという視点で移民を区別し差別するから問題が起きる。

日本人がきっちりと規則を決めて明確な基準で彼らを受け入れ、さらに平等に扱い続ければ、ほぼ100%の移民が日本社会に貢献するだろう。

安倍俳外差別主義政権が行った「移民政策はとらない」としつつ「特定技能」制度などの狡猾な手段で移民に門戸を開放し、しかも日本側の利便に基づき働かせておいて用済みになったらさっさと帰国してもらう、という姑息な考えは断じて世界に通用しない

外国人労働者とか移住労働者、あるいは出稼ぎ労働者、技能実習生、一時就労者、季節労働者など、など、と都合の良いように名前を変えてみても、彼らが移民であることの実態は変わらない。

日本的あいまいさが最大の癌だ。日本は早く国民的議論を喚起して移民を受け入れるのか否かの最大の、且つ根本的な立ち位置を明確にするべきだ。

受け入れないならそれでよし。世界で孤立しやがて国自体が消滅することを潔く認め覚悟して、ゆるりと死にゆけばいい。

逆に受け入れると決意するならば、ここまで述べたような具体的で公明正大な受け入れ条件を掲げて、移民政策を推し進めればいいのである。





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円安の憂愁

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やがて帰国する際に、事情があって少し多めに現金が必要になった。銀行に円調達を頼んでおいたら、たったの5500ユーロが100万円に化けた。

5500ユーロは僕にとっては大金である。100万円はもっとさらに大金だ。

その100万円に比べると5500ユーロはかなり小額に感じる。だから“たったの”5500ユーロと言ってみた

円安は度が過ぎていないか

高市首相は台湾有事が日本存立危機事態と大失言をかまして、撤回するどころか糊塗に全力を注いでいる。

首相のその態度自体がよっぽど日本存立危機事態だが、円安もそれに劣らず日本の危機の域にまで達しているように見える。

高市首相のアイドルの安倍元首相が、ナントカの一つ覚えに円安誘導を仕掛けたツケを払っているのは日本国民だ。

恩恵を受けているのはインバウンドの観光客。

日本国民でありながらイタリアに暮らす僕も、帰国で外国人並に円安の余得を受けた訳だが心は少しも楽しまない。

円安は日本沈下の象徴であり、インバウンド増による観光公害のさらなる悪化のサインでもある。

しかも日本の舵を取る高市首相は、ネトウヨヘイト系排外差別カルト集団の支持を受けて、「そんなことより」中国を威嚇し開戦も辞さないふうの愚かな火遊びに狂奔している。

そうした時世に強いユーロで円を買って得をした、などと喜ぶ気にはとうていなれない。



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イタリアのフェミサイド(女性殺害)は「アモーレ(愛情)過多が原因」というたわけ

薄闇の中両手で防御する女性

イタリアは先月、欧州主要国の中で初めて、女性が女性であるという理由だけで殺害される、いわゆるフェミサイドを独立した犯罪と定めた。

有罪になると自動的に終身刑に処される。死刑のないイタリアでは最も重い仕置きである。

世界の殺人事件の被害者は、およそ8割が男性である。そのため一般的ではない女性被害者にことさらに焦点を当てる、フェミサイド論争はおかしいという見解も根強くある。

しかしフェミサイドの根底にあるのは、深い女性差別の心理であり、男による女性支配願望である。それは家父長制社会の特徴でもある。

そんなメンタリティーが支配する状況では、女性はただ「女性である」という理由で殺される。フェミサイドの被害者にとっては、家の中が最も危険、という容認しがたい環境があるのだ。

そんな理不尽は必ず是正されなければならない。

世界的に認められたフェミサイドの定義はない。だがそれは世界中で頻繁に起きる。人口比率で見ると世界の発生率はアフリカが最も高い。次いで南北アメリカオセアニアアジアヨーロッパの順になる。

発生件数で見ると、世界全体では毎年6万6千人前後の女性がフェミサイドで殺害される。最も多いのは中南米の国々。

またインドやアラブ諸国も多く、米国では1日に平均4人の女性がフェミサイドに遭う。

ちなみに欧州で発生率が高いのはバルト3国次いでクロアチア、オーストリアが高い。その逆にスウェーデン、イタリア、ギリシャ、スペインなどが低い。

ただし発生件数を絶対数で見ると、人口の多いドイツ、フランスでの犠牲者数が多く、イタリアも同様である。

英国は特殊なデータ収集法を用いていて、比較がさらに難しいが、2022年の統計ではフェミサイドと見られる殺人の犠牲者は121人。

このうち12人が息子によって殺されている。英国では2009年から2024年の15年間で170人あまりの母親が息子に殺された。

母親殺しは英国が突出して多いようだ。いわゆるラテン文化の伊仏葡西を少し知る僕には、英国の事情には思い当たるフシがある。

ちなみに2024年のフェミサイドの犠牲者数は、イタリアが116人、フランス107人、ドイツ191人、英国ではおよそ80人という数字が出ている。

しかし、同国では平均して3日に1人の女性が男性によって殺害されているという統計もある。全体では約120人となり、他の主要国に近い数字で納得しやすい。

イタリアのフェミニサイド発生率は前述のように際立って高い訳ではない。英独仏スペインなどとほぼ同程度である。

イタリアは女性の権利意識や社会進出、またジェンダー事案全体の開明性という点などでは、英独仏等に遅れを取りがちだ。

イタリアは現在、世界男女格差指数で85位と、EU加盟国の中でほぼ最下位に位置している。およそ150カ国中で毎年120位前後が定位置の日本ほどではないにせよ、ホントに欧州の国かと疑いたくなるほどの寂しい数字である。

さらに言えば、イタリアにおける
女性の就業率は50%強にとどまるなど、課題は少なくない。

そのイタリアがフェミサイドを重要犯罪と位置づけて特別扱いし、有罪の場合は自動的に終身刑にするとした進歩性を見せた。なぜか。そこにはイタリアならではの事情がある。

イタリアの年間の犠牲者数は記述のように取り立てて高い訳ではない。英独などに比べるとむしろ少ないと見たほうがいい。

イタリアではかつて、フェミサイドの被害者が1年に平均171人もいた。ほぼ2日に1人のペースである。

幸い数字は年々減る傾向にあり、2023年は120人、2024年は既述のように116人、2025年は11月末現在106人。

件数は減り続けているが、それでも毎年100人を優に超す人数の女性がフェミサイドに遭っている。

イタリアの特異さは、フェミサイドが軽視される傾向にあることである。男が主として愛情のもつれから女性を殺害するのは、「相手女性を愛し過ぎているから」という暗黙の了解が厳然としてある。

いわゆる痴話喧嘩の極端なケースがフェミサイドである。そして痴話喧嘩は極めて個人的な事案であり、痴話喧嘩には他人は口を出すべきではない、という心理がイタリア人には強く働く。

まさにアモーレ(愛)の国ならではの在りようだが、被害者になる女性はたまったものではない。だからこそイタリアでも、女性に対する暴力を何とかしなければならない、という気運が高まった。

イタリアでは、女性の殺害には至らないものの、顔や体に大きな損傷を受ける酸攻撃の被害者なども少なくない。

たとえば先年、ジェシカ・ノターロさん(27)が元恋人の男に酸を浴びせられて顔を大きく損傷した。ノターロさんはミスユニバースのイタリア代表選で最終選考まで残り、歌手としても知られた存在。

彼女は事件から2ヶ月後に敢えてテレビ出演をして、破壊された顔を画面にさらし「私をこんな姿にしたのは断じてアモーレ(愛)などではない」と訴えて、視聴者の心を震撼させた。

女性の権利意識が高い欧州の中で、イタリアはどちらかというと後進地域の一つであり続けている。そこには保守傾向が強いバチカンを抱えた特殊な事情等がある。

だがそのイタリアに於いてさえ、「愛にかこつけた女性への暴力」の愚劣を根絶しよう、という動きが高まって、ついに欧州でも先進的な・画期的な法律が成立した。

他の国々も続くと見られている

続くべきである。





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死が観念からうつつになる時

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死を語ることは常に観念的である。なぜなら死の実際を語れるのは死者だけだからだ。しかし死者は無言だ。

生者が語る死は全て推知であり嘘である。

生きているわれわれが実況を語れるのは生のみだ。その生は死がなければ完結しない。つまり生は死を内包していると気づくときだけ、死を語ることに何らかの意味が発生する。

それでも生者が語る死はやはり観念的であることからは逃れられない。

ところがその死は、尊厳死また安楽死という言葉に移し変えられると、ふいに観念から実景へと変化する。

そこに法がからまるからだ。つまり強制性が加わる。その場合の強制性とは、ひとことで言えば殺人のことだ。

尊厳死は命の炎が燃え尽きていくままに任せることだが、病院で行われる場合は、医療行為をほぼ停止するという意味で、殺人と言えないこともない。

片や安楽死は、死にゆく本人または他者が意図的に命を絶つ行為である。特に後者は、他者が他者の命を絶つのだから明らかな殺人だ。

だがそれらの行為の前には、死に行く人自身による明確な死の選択がなければならない。

尊厳死も安楽死も回復不可能な病や耐え難い苦痛にさらされた不運な人々が、「自らの明確な意志」に基づいて死を願い、それをはっきりと表明し、そのあとに自殺または自殺幇助による死を実行する状況が訪れた時に遂行される。

そのときにもっとも重要なことは、患者による死への揺るぎない渇求が繰り返し確認されることである。

それでなければ「自らの明確な意志」を示すことができない者、たとえば認知症患者や意識不明者あるいは知的障害者などを、本人の同意がないままに死に至らしめることになりかねない。

そうした場合には、介護拒否や介護疲れ、経済問題、人間関係のもつれ等々の理由で行われる「殺人」になる可能性がある。

親や肉親の財産あるいは金ほしさに安楽死を画策するようなことも必ず起こるだろう。

あってはならない事態を限りなくゼロにする方策を模索しながら、生をまっとうすることが困難な状況に陥った不運な人々が、「自らの明確な意志」に基づいて死を願うならば、これを認めるべきである。

それを拒むのは、僭越であるばかりではなく、当人の苦しみを助長させる残酷な行為である可能性が高い。

生は必ず尊重され、飽くまでも生き延びることが人の存在意義でなければならない。

従って、たとえ何があっても、人は生きられるところまで生き、医学は人の「生きたい」という意思に寄りそって、延命措置を含むあらゆる手段をつくして人命を救うべきである。

その原理原則を医療の中心に「断断固として」すえ置いた上で、患者による死への揺るぎない渇求がくり返し確認された場合は、尊厳死、安楽死は認められるべきと考える。

だが実を言えば、安楽死や尊厳死というものは存在しない。死は死にゆく者にとっても家族にとっても常に苦痛であり、悲しみであり、ネガティブなものだ。

あるべき生は誇りある生、つまり「尊厳生」と幸福な生、つまり「安楽生」である。

不治の病や限度を超えた苦痛などの不幸に見舞われ、且つ人間としての尊厳をまっとうできない生は、つまるところ「尊厳生」と「安楽生」の対極にある状態である。

人は「尊厳生」または 「安楽生」を取り戻す権利がある。

それを取り戻す唯一の方法が死であるならば、人はそれを受け入れても非難されるべきではない。



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いかに死ぬかとは、いかに生きるかという問いである

本から煙

死を見つめるのもそこから目を逸らすのも本質は同じ。死への恐怖である

死という言葉が死を呼ぶという言霊信仰や迷信の影響、という世界共通のありようを別にして語ろうと思う。

イタリア人は、あるいはキリスト教徒は、学問や文学などの領域を除けば、死について日常的に語ることを避ける傾向がある。

日本人のように死は避けられないものと受忍して、折に触れてそれを意識したり口に出すことは少ない。

元々そうではなく、キリスト教徒も死を恐れつつ救いを求めて、行住坐臥に死を語り死を受け入れていた。死の苦しみをやわらげる手助けをするのが宗教である。キリスト教も例外ではない。

だが教会が権威拡大のために死の恐怖を強調し、救いを求める信者が教会への依存を強めるよう画策したことが反発を呼んで、人々はやがて死を語らなくなった。

また近代になって終末期医療の現場が家庭から病院へと移り、死が人々の日常から遠ざかるにつれて、それを不断に意識する機会が減り死に関する話題が避けられるようになった。

加えて次のような理由もある、と僕は考える。

デカルトが「我思う、故に我あり」というシンプルな命題に託して、それまでの支配観念であった「コミュニティが先ずあって個人がある」というスコラ哲学の縛りを破壊した。

いわゆる“近代的自我”の確立である。

私という個人の自我意識によって世界を見、判断して、人生を切り開いていく、という現代人にとっては当然過ぎるほど当然の価値観は、人々の自己への自信を深めた。

自信を深めた我、あるいは私という個人は諦めずに闘い、進化する存在になった。死生観にもそれは現れた。

死は避けられないものだが、それを恐れたり語ったりするよりも、今生きて在る自分自身を大切にし前進し続けるとこそが重要、という考え方が尊重されるようになった。

そうやって現代西洋人はますます死を語る習慣をなくしていった。僕はそこに西洋近代の不首尾の一つを見る。

いつ、どこで、いかに死ぬか、という自身では制御できない問いをあえて問うことは、つまるところ「いかに生きるか」と問うことである。

なぜならば生は死がなければ完結しない。畢竟、死は生の一部にほかならない。

いかに死ぬかを問うことが、いかに生きるか、という問い整合するのは、そのことだけでも明らかである。

いかに生きるかを問わない生き方は、いかに生きるかと問い続ける生き方よりも少し寂しく見えないこともない。




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肉体が命の行く末を差配する

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命の行く末を牛耳っているのは肉体である。

当たり前じゃないか、と思うかもしれない。だが決して当たり前ではない。

なぜならそのことを実感するにはある程度の年齢を重ねなければならない。

若者の命は、あたかも肉体がなくても存在するがごとく躍動している。

若い肉体は生のエネルギーに満ち溢れている。彼らは健康である限り命の行く末などという迂遠なコンセプトには一顧だにしない

あるいは若者は命と肉体を区別しない。それは一体となってたぎっている。

言葉を替えれば若者は命や死に無頓着だ。

意気盛んな若者にとっては、彼らの存在そのものである命も、その対極にある死などというものはもっとさらに、七面倒くさいコンセプトに過ぎない。

僕は60歳代を通過して次の命のステージに飛びこもうとしている。そこは危険な領域である。

周りを観察していると、70歳から72、3歳は肉体の鬼門のように見える。

若者は肉体が命の先行き差配していることを知らない。

肉体が命を牛耳っていると気づくのは、若くなくなった時である。僕の場合はここ1、2年のことだ。

菜園で作業をする時の疲れ方が、それまでとは違うと感じる。

今の疲れには死のほのめかしのようなものがある。単なる筋肉の疲れではなく、体の深奥が呻吟するような疲弊である。

菜園では種まきや稙苗また水遣り以外はほとんど何もしない。畑は有機農法で耕している。雑草が勝手放題に繁茂し虫が大量に湧く。

僕は菜園に細かく手を入れるタイプの野菜作りではない。

作業をしたいのは山々だが時間がない。除草などもほとんどしないまま放っておく。

雑草は取り除かないと次々に花をつけ、種を撒き散らして大きくはびこる。それは分かっているが、じっくりと土に向き合う時間がないので、ミニ耕運機を畑に入れて鋤いてしまうことが多い。

とはいうものの、畑には草が茂り、小石が無数に埋まり、壁に食い込むEderaキヅタ )などの殺人的なしつこい草木がはびこる。ごくたまにはそれらを整理したくなる。

水はけを良くするために砂や粗い堆肥を埋めることもある。少しは有機肥料を入れたりもする。仕事はきつい。今はきっちり1日に1時間だけと決めて作業をする。

気や命だけではほぼ何もできない。肉体が横溢してこその気であり、命であり、作業なのである。




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高市総理を含む日本人は誰もが愛国者だ

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はっきりさせておこう。

スパイやテロリストでもない限り、日本を悪くしようと思う日本人はいない。

右も左もない。

ただ右と左ではより良い日本という頂上に向かう道筋が違う。

そして頂上に向かう道のうちには遭難したり、事故ったり、地滑りや雪崩に遭ったりする危険なものがある。

危険を伴う道程の最たるものは過去を直視しないアプローチだ。それは歴史修正主義という深い迷い道へと続き、ついには脱出が不可能になる。

そして極端な場合は迷い道は、山自体が崩壊するにも等しいほどの結末を招く。それが第2次世界大戦の惨劇へと日本が辿った道だ。

登山の間違ったルートを行かないように右と左が互いに呼びかけるのが、民主主義社会における政治論争であり対話である。

極右や極左の人々でさえも「彼らなりの考えで」日本を良くしようとあれこれ模索している。

だが残念なことに彼らは、民主主義という仕組みを無視し破壊して、一息に頂上を目指そうとする。

それはつまるところ過激主義であり、専制政治や独裁政治に至る不吉な道だ。

保守やリベラルと規定される、過激派よりも穏健な政治思想を持つ人々も、むろん誰もが日本を良くしたいと願っている。

その意味では日本人は誰もが愛国者である。

ネトウヨヘイト系人士を含む右派の多くは、彼らだけが愛国者だと信じて、、対峙するリベラルや自由主義者などの左派を反日、売国奴、自虐史観主義者などと罵倒したがる。

だが彼らは、例えば日本の侵略行為を否定したり、靖国神社を盲目的に称揚したり、旧日本軍の蛮行を認めない等々の歴史修正主義に走ることによって、世界から批判される。

つまり実は彼らのそうした動きこそが、日本を貶める自虐史観行為だ。

平家、海軍、国際派という成句がある。

社会のメインストリームから外れたそれらの人々は、日本では出世できないという意味の言葉だが、政治の論壇などでは往々にして「反日」と同じ風に使われたりもする言い回しだ。

だがそれは間違いで、平家の中にも、海軍の中にも、国際派の中にも愛国者はいる。と言うか、そこには源氏、陸軍、国内(民族)派とまったく同数の愛国者がいるのだ。

そして僕自身は国際派の愛国者を自負している者だ。国際派だから、出世もできずに恐らく死ぬまで外国を放浪し続ける、という寂しい人生を送っているわけだが。

中国に宣戦布告をするのでもあるかのような、高市早苗首相の「台湾有事は日本の存立危機事態」の国会発言は、元を正せば歴史修正主義に根ざしている。

彼女は先の大戦は日本の侵略戦争ではないと信じている。従って被害国への謝罪も必要がないと結論付ける。そこには既に被害国への蔑視感情秘匿されている。

特に隣国の中国、韓国、北朝鮮への優越意識は強い。敵愾心と言い換えてもいい。

劣った国々だから優位にいる日本が彼らを支配しても問題はない、という思い上がった感情がそこにはある。

その気合いは、靖国参拝に反発するそれらの国々への怒りを呼んで、彼女の不機嫌がさらに募る。

高市首相の中国への敵対感情は特に深い。

日本が蹂躙しても構わないほど“劣って”いた中国は、近年経済的にも従って軍事的にも巨大化して、もはや日本は太刀打ちできない。その現実が彼女の怒りをさらに煽る。

そうやってアメリカを頼みにしつつ、台湾を卑小化し宗主国気取りでをこれ庇護するという思い上がりが加わった。

その結果中国に対して居丈高になり勇ましく拳を振り上げたのが、愚かな台湾有事=日本存立危機発言だ。

要するにその意思表明は、WEB上に踊るネトウヨヘイト系排外差別主義者らの勇ましくも空虚な反中国言論と大差ないのである。




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同じ極右なのに月とスッポンポンの伊日女性首相

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僕は高市早苗首相の動静を、ここイタリアのジョルジャ・メローニ首相と対比しながら監視してきた。

2人には大きな共通点がある。何よりもまずそれぞれが両国初の女性首班であること。両氏ともファシスト的な気迫の政治スタンスやメンタリティーを持つ右派政治家である点だ。

メローニ首相は、15歳でファシスト党の流れを組むMSIに参加し、活発な右翼活動家となった。

2012年には同じ流れの極右政党、イタリアの同胞を結成。その泡沫政党を率いて党勢を拡大させ、2022年総選挙で第一党に躍り出てついに政権を奪取。イタリア初の女性首相となった。

政敵にネオファシストとさえ批判されたメローニ首相は、政権樹立後は中道寄りの現実路線にシフトして、イタリアのみならず欧州全体でも一目おかれる「保守政治家になった。

政治的にも極端な言動は鳴りをひそめ、対立する政治勢力を敵視するのではなく、意見の違う者として会話や説得を試みる姿勢が顕著になった。

そうした変化が可能になったのは、彼女がイタリアのトップとして統率力を発揮し、支持基盤であるイタリアの同胞に始まる極右モメンタムを抑えているからだ。

片や高市首相は、日本のトップとしての独立した強い権限や独自性はなく、自民党内の安倍残党歴史修正主義一派、日本会議、神社本庁ほかの祭祀陰謀団、また全国に蠢くいわゆる自称文化人やアカデミック層また芸能人などを含む、有象無象のネトウヨヘイト系国民によって操られるパペットであることが明らかになりつつある。

ふたりは元々かけ離れた右翼活動家ではある。ひとことで言えば、メローニ首相が明の右翼政治家、片や高市氏は陰にこもったキャラクターだ。

もっと言えば高市氏は自ら大いに右翼運動を担うのではなく、例えば安倍元首相に庇護されて四囲を睥睨したように威光を笠に着て凄むタイプ。

一方のメローニ氏は自ら激しく動いて道を切り開くタイプだ。

僕は先日、「高市首相は、独裁者気質のトランプ大統領や、極右とも批判されるここイタリアのメローニ首相もできない急カーブのファシスト街道を走りまくって、すわ!中国と開戦、というゴールに飛び込まないとも限らない」

と書いた。

すると高市首相は後日、あっと驚く「台湾有事は日本の存立危機事態」の国会発言をかまして、露わすぎるほど露わに自らの本性を激白した。

高市首相の―あえて大げさな意味合いで言うと―中国への宣戦布告じみ日本の存立危機事態発言は、彼女が仲間のネトウヨ人士らとの会合で気勢を上げるノリで口に出したものだろう。

高市早苗氏は、たとえ逆さに吊るして振り回しても“極右”という毒素しかこぼれ出ない政治家だ。

それでも日本のトップに押し上げられることで、政治的にも人間的にも成長するのではないか、と僕は密かに応援する気持ちでもいた。ここイタリアのメローニ首相がそうであるように。

だがそれはしょせん、大いなる無いものねだりだったようだ。

高市首相は英国のサッチャー首相に憧れていて、彼女のようになりたいと願うらしい。だが、それはあまりにも大それた願望だ。

岩盤支持層に操られるだけの彼女が、大化けにバケてここイタリアのメローニー首相の域にでも変貌できれば、上等以上に上出来だ。だが彼女はそこにさえ至らないようだ。

そうであれば高市首相は、近いうちに詰め腹を切らされる宿命だろうが、日本国民を戦争の崖っぷちにまで追い込んだ責任は重い。




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高市首相は世界ネトウヨ連盟のくび木から早急に抜け出せ

高市キンペー合成650

開いた口が未だに塞がらない。

高市早苗首相の台湾有事・日本存立危機発言とそれに対する中国の反応のことである。

どっちもどっちだ。

貧弱な政治文化の本質がてんこ盛りになった、恥ずかしくも見苦しい言動の数々だ。

高市首相が、台湾有事は日本の存立危機事態と口を滑らせたのは、日本の過去の蛮行を認めない歴史修正主義に凝り固まった精神が言わせたものだろう。

国際政治を知らず、従って外交に疎い迷妄もあるが、中国への深い蔑視と敵愾心も秘匿されている。日本のトップの人物がWEB上で汚い言語を撒き散らすネトウヨに似ているのは寂しい。

これに対して、大阪在の薛剣中国総領事が「勝手に突っ込んできた汚い首を斬ってやる」と、汚い首に付いた汚い口から腐臭を放つ言葉を投げつけた。

中国政府もこれを諌めるどころか、似たり寄ったりの野蛮醜悪な言動を続けている。

それらは“アジア”に共通した未開で好戦的な政治精神の発露だ。ここで言う“アジア”とは、外交も民主主義も理解しない中国的、アラブ的また日本極右的な勢力の全てである。

そこには無論ロシアも北朝鮮も含まれる。またネタニヤフのイスラエル、エルドアンのトルコもりっぱな、いや、“アジア”以上の“アジア”であることは論を俟たない。

最近そこには信じがたい巨大パワーも加わった。言わずと知れたトランプ主義が席巻するアメリカだ。

日本は一刻も早くそれらの「ああ喚(わめ)けばこう叫んで背中に斬りつける」蛮人連合体から抜け出したほうがいい。

そうしておいて意識改革を断行し、欧州並みの政治文化また文明を獲得する努力をするべきだ。

それにはどうするか。ひとえに過去の蛮行を認めて反省し、被害者の国と国民に腹からの謝罪を行って生まれ変わる以外には方法がない。

僕は再び、再三再四、繰り返し何度でも主張する。ドイツを見習え。イタリアを意識しろ。

僕は11月3日、「高市首相は、独裁者気質のトランプ大統領や、極右とも批判されるここイタリアのメローニ首相もできない急カーブのファシスト街道を走りまくって、すわ!中国と開戦、というゴールに飛び込まないとも限らない」

とここに書いた。

それから4日後の11月7日、高市首相は 台湾有事は日本の「存立危機事態になりうる」と既述のあっと驚く国会発言をかまして、露わすぎるほど露わに自らの本性を激白したのだ。

高市首相の―あえて大げさな意味合いで言うと―中国への宣戦布告じみ日本の存立危機事態発言は、彼女が仲間のネトウヨ人士らとの会合で気勢を上げるノリで口に出したものだろう。

高市首相の先の大戦は侵略戦争ではないに始まる一連の歴史修正主義発言や靖国称揚思想、テレビ局への停波するぞ恫喝などのファシスト気質を知りつつ、また政治信条的にも大いに疑問を抱きつつも僕は密かに彼女の❝化け❞を期待してきた。

ここイタリアのジョルジャ・メローニ首相に重ねて彼女を見ようとしたのだ。

イタリア初の女性首相となったジョルジャ・メローニ氏は、ファシスト党の流れを汲む「イタリアの同胞」を率いて選挙を勝ち抜いた。

ところがメローニ氏は、首相になると同時に険しい表情をゆるめ、極右独特の厳しい言動を控えて、いわば強硬右派とでも呼ばれるべき穏健な道を歩みだした。

高市早苗首相は、たとえ逆さに吊るして振り回しても“極右”という毒素しかこぼれ出ない政治家だが、日本のトップに押し上げられることで政治的にも人間的にも成長するのではないか、と僕は密かに応援する気持ちでもいたのである。

だがそれはしょせん、大いなる無いものねだりだったようだ。

高市首相は彼女の岩盤支持層である日本極右勢力、即ちネトウヨヘイト系差別主義者の国民や自民党安倍礼拝族、また日本会議や国家神道など同じ穴の貉会が一体になった、日本ほぼカルト 勢力に呑み込まれあるいは同調して、結局独自の政治信条も無いままさらに右へと急カーブを切り続け、ついには昏倒する運命であるように見える。




記事と写真そのⅡ

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投稿記事と写真の関係についてたくさんのコメントやメッセージをいただいた。御礼申し上げる。

 読み進めるうち、結構深掘りに考えていらっしゃる方が多いらしい雰囲気におどろいた。 

それはひとえに僕の説明の仕方が悪い、つまり文章が拙いせいなのだろう。同時に皆さんが何やら考え過ぎているように見えなくもない。 

そこでまた少し説明をすると、要するに僕の手中にスマホがあるので、簡単に写真を撮っておき気ままに文章に貼り付けているというだけの話である。 

何か意味があるとすれば、写真を思い出や記録や資料やデータ等々にする目的ではなく、FB記事に貼付する、というはっきりした考えを抱いてぱちぱちシャッターを切っているという点だけだろう。

 僕は下手なTVディレクターでロケハンにも多く行くが、写真はほとんど撮らず、常に「メモ」という文章で記録を取って、ロケへ向けての準備を進める習いで来た。 

もしも仕事全盛の頃にスマホがあれば、どれだけ膨大な写真資料があって、どれだけ面白い写真がFBに掲載できただろう。。と残念がりながらの写真貼りである。 

写真は飽くまでもオマケなので、皆さん文章をひとつ、シク、よろしくお願いしますよ。ほんとに。







SNSの記事と写真はほぼ無関係

紅葉越しに隣家650

SNSの記事と貼付する写真はどんな関係があるのか、というコメントをいただいた。

結論を先に言えば、旅や料理や身の回りのあれこれといった個人的な報告は別にして、基本的に記事と写真は関係がない。

シンボリックな絵を掲載している、などと言えば格好がいいのだろうが、写真よりも文章が大事と思っているので実は掲載写真は、ま、二の次という思いだ。

掲載するほぼ全ての写真は僕が記事に貼付する心積もりで撮ったものだ。

二の次だ、どうでもいい、と思いつつも結構気を使って撮影し、掲載分の一枚を慎重に選んでいると言えば、およその状況がお分かりいただけるだろうか。

僕のSNSでの活動は先ずブログから始まった。そこでは写真は一切貼り付けなかった。文章で勝負、と密かに意気込んでいた。

絵もあったほうがいいと言われて、著作権フリーの無償写真サイトから引っ張ってきては少しずつ貼り付けた。

やがてFBにも転載するようになって無償サイトの写真が居心地悪くなった。

グログが間接的であるのに比べてFBは直に読者と接する感覚がある。すると写真は輪郭が暈けていると感じるようになったのだ。

著作権フリー写真と銘打っているWEBサイトの真贋も気になった。

そこで徐々に自分で撮った写真を貼付する使ようになった。

ブログでは今も無償写真を使う。

しかし気分はそれほど良くない。

サイトの写真は本当に著作権がクリアになっているのかどうかが、やはりどうしても気になるのである。

しばらく今のままで行くが、そのうち文章だけで勝負という気持ちになって、ブログもFacebookも写真掲載をやめるかもしれない。



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トランプの終わりの始まりが見えたかも。なの?

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アメリカ発の良いニュースと悪いニュースが飛び交っている。

最新の良いニュースは、トランプ大統領の支持率が急速に悪化していること。

悪いニュースは、それでもトランプ主義が引き続きアメリカを席巻しそうなことだ。

もうひとつの良いニュースと悪いニュースもある。

良いニュースはトランプ支持率が落ちているにもかかわらず、対抗する民主党支持率が上昇していないこと。

悪いニュースは、従って、民主党の早い政権奪取はありそうもないことだ。

今、は?とつぶやいた人も多いだろう。

要するにリベラルの民主党に政権を担ってほしいが、今のままの民主党ではNG、というのが僕の言いたいところだ。

民主党はトランプ主義者のエミリー・フィンリーが指摘した、「民意を無視し、平等、多様性、移民包容など、民主党が認める主張だけを“民意”として容認、やがてそれに合わない主張を排除」する“エリート主義”をかなぐり捨てなければ、“トランプの意のまま共和党”に勝つことはできない。

それどころか個人的には「勝ってはならない」とさえ思う。

なぜならリベラルとしての民主党が、平等の理念を全うし民衆の真のニーズや価値観や思いに寄り添って歩む本来の姿に立ち返らない限り、政権を担うべきではない。

それにしても、負け犬とはいえ米民主党は、トランプ大統領に噛み付き勝手を許さない動きを繰り返している。

ここイタリアでも敗者の民主党などの左派が、右派のメローニ政権に挑んで独断専横を監視している。他の欧州諸国も似たり寄ったりだ。

ところが日本はどうだ。結束すれば自維政権を小路に追い込むこともできるはずの野党が、特に立憲民主党のだらしなさ故にひたすら無力全開だ。

今のままの状況では高市首相は、独裁者気質のトランプ大統領や極右とも批判されるここイタリアのメローニ首相もできない急カーブのファシスト街道を走りまくって、すわ!中国と開戦、というゴールに飛び込まないとも限らない。



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男芸者に憧れて女芸者が生まれた

高市安倍合成650

高市早苗首相は、先の大戦は日本の侵略戦争ではなかったと言い張るだけで、紛れもなく歴史修正主義者であり極右である。

そんな人物が日本のトップに据えられた。さぁ大変だ、と騒ぐのは当たらない。極右の歴史修正主義者が日本のトップになった例は枚挙にいとまがない。例えば最近では安倍元首相がそうであり菅元首相もそうだ。

残りの自民党首班も 多かれ少なかれ歴史修正主義者然とした淀んだ私意を胸に秘めているのが普通だ

実はブレまくるが、一瞥すると善人の石破前首相でさえ、戦後80年所感で先の大戦における日本の加害責任を無視した時点で、歴史修正主義に毒されていると批判されても仕方がない。

そうしてみると高市首相が、自身が死ぬほど愛し盲従するファシスト気質の安倍元首相よりもい人気を集めるらしいのは、彼女が極右政治家だからではなく、やはり日本初の女性首相だからと考えるのが妥当だろう。

高市首相は就任直後にASEANで外交デビューした。そこにはつわものの“男性の”各国首脳が一堂に会して高市首相を歓迎した。曲がりなりにもアジアの有力国である日本の初の女性首相に対して、ASEANの男性ボスらが最大の敬意を払うのがひしひしと伝わってきた。

ところが高市首相は、ASEAN会議から帰国してトランプ大統領に会ったとたんに、馬脚をあらわした。アメリカの“属国”たる日本の首相の本領を発揮して、トランプ大統領に徹底的に媚びる外交を展開したのだ。

阿諛外交は高市首相の専売特許ではない。特にトランプ大統領との関係では、政治上の彼女の永遠の恋人、安倍元首相の行動がただちに思い起こされる。

安倍元首相は2016年、トランプ氏が大統領選に初勝利したとき、就任前にもかかわらず世界の首脳に先駆けてトランプタワーに乗り込み彼を祝福した。

世界の大半がトランプ勝利に眉をひそめている最中に、「何らの批判精神もなく」彼に取り入った安倍氏の行為は、グローバル世論を驚かせた。

そこには安倍元首相ならではの無邪気と無教養と無恥の気質が如実に現れていた。 自尊心のかけらもないような諂笑を振りまいて恥じない日本のトップの姿は、世界の虚をついた。

トランプ大統領に思いきり媚を売る高市首相の芸者振りを見て、僕は彼女のやり方が安倍元首相を真似たものであると気づいた。

それは翻って同時に僕が、安倍元首相はトランプ接待に長けた男芸者だったのだ、ということを悟った瞬間でもあった。

「世界の真ん中で咲き誇る日本外交」という、高市首相が口にしたがるセリフはネトウヨ界隈で大いに受け、信じられているコンセプトらしい。だが、そんなものは一秒たりとも存在したことはない。

それは文化の特殊性ゆえに常に世界のはずれに置かれていることを恐れる、保守主義者及びネトウヨヘイト系の差別主義者らが、熱病に冒されたように唱える念仏に過ぎない。

日本が真に世界の真ん中で咲き誇ろうとするなら、辺境に生きることを恐れず、万彩に咲く独特な文化の花を慈しみつつ毅然として立つことだ。

そうすれば世界の側がこちらに寄り添って来て、日本を世界の真ん中に押し進めようとする。なぜなら特殊であることこそが文化の価値であり命だからだ。それを大事にする社会を世界は尊ぶ。

今回はそうなる代わりに、高市首相の残念なトランプ接待劇によって、安倍&高市芸者外交が世界の真ん中で咲き誇ることになってしまった。

しかし、ま、そうは言うものの、宮本武蔵や塚原卜伝などの優れた兵法者もかつては「芸者」(武芸者ではない)と呼ばれていたのだから善しとして、今後の展開を待つとしよう。




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愛嬌は良いが媚態は怪しい


高市サッチャー有色・白黒650

高市新首相のASEANでの押し出しはとても良かった。

僕はイタリアにいながら、各国の衛星放送とYouTube、またSNSなどを介して彼女の動静を逐一見た。

高市総理は、日本発の女性首相という後光を担いで、にこやかに鮮やかに振舞った。

ASEAN各国のつわものの首脳たちも、ただちに彼女の存在を認め、称え、歓迎した。一目どころか、三目も、七目も置く雰囲気が伝わってきた。

僕はそれまで彼女を批判的な目で見つづけながら、密かに応援する気持ちでもいた。

なぜか。ひとえに高市氏が女性だからだ。

僕は日本の強烈な男尊女卑文化を国の諸悪の根源の一つと見なす者だ。

高市首相の外交デビューは、彼女が女性であることがポジティブな効果をもたらした。それは日本の明るい未来を示唆するようにさえ見えた。

批判するにしろ称揚するにしろ、高市首相が女性であることを争点にするのは、そのこと自体が「女性差別」だという馬鹿げた議論がある。

その主張を正当化するために、「世界には既に多くの女性首相がいる。だから高市首相が女性であることを問題にするべきではない」というたわけた言い分さえ垣間見える。

それらは議論のための議論、又はああ言えばこう言う類の、奇をてらった態度だ。

世界の潮流に逆行する男尊女卑思想のくび木が、社会の淀みの原因となっている日本で、女性の高市氏が国の最高権力者になった。それは議論値する大きな出来事だ。

そしてそれは本来なら、ただひたすらに慶賀されるべきドラマだ。

だが、彼女は女性でありながら男尊女卑の通念や政策に賛同するなど、異様な政治信条を公にしている。

ただでも話題にされるべき歴史的な出来事が、歴史を逆行するようなシナリオを内在させているのだから、話題にするなというほうが無理だ。

日本初の女性首相となった彼女は、まさに女性であるがゆえの行動原理でトランプ大統領を遇した。

そのやり方や立ち居振る舞いが、古来男に完璧に支配され続けた日本女性が強いられた様相を彷彿とさせて女性を貶める醜態にも見えた。

高市首相は一国のトップがしてはいけない動きを何の屈託もなくやってのけた。それは、彼女が尊敬するサッチャー元首相なら嫌悪感を露に叱責するであろうような行儀だった。

メルケル元首相も眉をひそめて軽蔑するだろう。高市首相と同じ極右政治家のここイタリアのメローニ首相も-仲間意識から正面切って批判することは避けるだろうが-内心呆れたに違いない。

トランプ大統領が肩を抱き寄せても身をかわさず、逆に彼の腕に縋り付いて喜ぶ女性首相を目の当たりにした世界中の、特にアメリカの男たちは必ず「ゲイシャ」という言葉を連想してほくそ笑んだに違いない。

そして世界の女性は、彼女たちが闘い少しづつ勝ち取った女性の人権とジェンダーフリーへの取り組みが破壊され、歴史が反転後退したとさえ感じただろう。

ここイタリアでは、極右と批判されながら初の女性首相となった先述のジョルジャ・メローニ氏が、プラグマティストへと目覚ましい変貌を遂げて国民の支持を集め続けている。

僕はASEANでの高市首相の輝きを、メローニ首相に重ねて眺めて心を躍らせた。彼女はあるいは日本を大きく変える仕事をするかもしれないとさえ思った。

だがその思いは、彼女が帰国後トランプ大統領と会った時点で消えた。それどころか以前から抱き続けてきた彼女への不信感がよみがえり大きく膨れ上がった。

彼女がトランプ大統領に寄り添い、腕を組み、流し目を送り、はしゃぎまくる姿に驚愕した。それはほとんど卑猥にさえ見える動きの数々だった。

あまりの出来事に僕は初めは状況が呑み込めず-時間が前後したこともあるが-ここFBのコメント欄に彼女の媚はトランプ大統領へのそれではなく自民党の男性議員へのもの、と頓珍漢な書き込みをしたりした。

各メディアから流れ出る彼女の異様な動きはそれほど僕の理解を超えていた。アイドルに魅入られた女子高生でもそれほど見苦しい動きはしないとさえ感じた。

無知と鈍感と下品さがてんこ盛りになった彼女の動きは、世界の心ある人々の眉をひそめさせた。

そうではあるが、しかし、高市首相が成すべき最大の仕事は日本の国益の追求である。彼女がそのためにトランプ大統領に媚を売ったのであるなら、首相としての義務を果たしたことになる。

その真偽はこの先、早々と明らかになるはずである。

国益に資さない動きだったと知れた場合は、高市政権はたちまち終わりに向かって歩み出すだろう。




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高市早苗はおそらくジョルジャ・メローニになれない

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高市早苗首相は、たとえ逆さに吊るして振り回しても“極右”という毒素しかこぼれ出ない政治家だが日本のトップに押し上げられることで政治的にも人間的にも成長するのではないか、と僕は密かに応援する気持ちも抱いたりした。

しかし、ネトウヨヘイト系差別主義者の国民や自民党安倍礼拝(らいはい)族、また日本会議や祭祀機関などの興奮を自らも共に露骨に身にまとって、来日したトランプ大統領に対し安倍元首相を上回るほどの阿諛外交を展開する姿にすっかり気が重くなっ

その気分は、高市総理がかつて、先の大戦は日本の侵略戦争ではなかったし誰にも謝る必要は無い、などという趣旨の発言を国会でくり返した記憶を呼び起こし、彼女は飽くまでも歴史修正主義者の危険な政治家なのだとあらためて確信に変わった。

高市首相は、自らの強い意志で保守主義を標榜し政治闘争を繰り広げるここイタリアのメローニ首相とはやはり違う。男に媚びあらゆる極右勢力の意向に従順なだけの危うい存在、という実体が徐々に明らかになって行くように見える。


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大相撲ロンドン公演のがっかりと、まっ、いいかと

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大相撲のロンドン公演をテレビ観戦(YouTube)した。

もう少しまともな取り組みかと思ったが、子供だましの闘いの連続だったのでがっかりした。

ケガでもしたら割りに合わないとでも思うのだろう、立ち合いのぶちかましはほとんどなく、示し合わせた動きにさえ見える立ち合いに終始した。

物言いを含む本場所での全ての要素と動きとルールを紹介するのが主目的の公演だから、取り組みの本気度は二の次なのだろうが、本場所の迫力を知る者には物足りなかった。

もっとはっきり言えば立ち合いは全て茶番にしか見えなかった。

それでも過去の海外公演や巡業に比べたらまだ見るに堪えるものだった。

いつの、どの海外公演か巡業かは記憶が判然としないが、土俵上で恥ずかしげもなく飛んだり跳ねたりする取り組みを見た覚えがある。

明らかにプロレスを意識したパフォーマンスだったから、ラスベガスかニューヨーク、あるいはハワイなど、アメリカでの猿芝居だったと思う。

取り組みそのものはそんな具合に残念な内容ではあるものの、しかし、力士、行司、審判などの多くのスタッフと、重さ6トン余りの屋形まで持ちこんでの公演は外観上は充分に見応えがあった。

BBCがインターネットで公演をライブ配信し約2万7千枚のチケットも完売。会場となった有名演劇場「ロイヤル・アルバート・ホール」には連日「満員御礼」の垂れ幕が下がった。

大相撲の宣伝を兼ねた「海外ショー」と考えれば取り組みが真剣味に欠けたものであっても仕方がないのかもしれない。

が、宣伝だからこそ大相撲の神髄である取り組みは飽くまでも真剣であるべき、という考えもある。僕は後者の立場だ。

大相撲の弟子集めが狙いなら、取り組みは否応なく真剣にならざるを得ない。

大相撲に入門する若者はハングリー精神に満ちている。ハングリー精神が旺盛でなければそもそも大相撲などに入らない。

欧州の裕福な国々の若者は、ケツ丸出しの褌が仕事着である大相撲などには気を惹かれない。英仏独伊を始めとする欧州のリッチな国出身の力士はいない。

大相撲に入ってくるのは、欧米では経済的に貧しい国や地域の出身者だ。つまり、例えばロシアやブルガリアやジョージア、また今が旬の安青錦 を輩出したウクライナなどの若者だ。

それらの国や地域で大相撲公演をする場合は必ず真剣勝負になる。

一方で大相撲の喧伝が主な目的ならショーの側面を強調するのは正しい。なぜならBBCを始めとする世界のトップメディアを抱える英国のPR発信力はすさまじい。

取り組みを見世物に仕立てて多くの人の目を惹きつけたほうが得策だ。

僕はロンドン場所の取り組みを見ながら、多くの観客に真剣な闘いを見せれば、大相撲の喧伝と同時に入門者の促進にも資することになるだろうに、もったいない、などとも考え続けた。







高市であろうがなかろうが日本極右は欧州極右よりずっと危険だ

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公明党が連立離脱というニュースが駆け巡っている。自民党の高市新総裁がほぼ自動的に首相になるどころか、誰が次の総理大臣になるのか見通せない、混とんとした状況になった。

どの党が連立に加わっても、また自民党が政権を掌握できなくても、極右化する日本の政治の危険度に変わりはないので❝高市政権が発足したなら❞という前提で意見を述べておくことにした。

高市早苗自民党総裁誕生に関する直近記事に多くの方からコメントやメッセージが寄せられた。

最も多かったのが記事の終わり:「高市政権は船出と同時により右カーブではなく左カーブ、即ち中道寄りへと政策も心情もシフトしていく」に対する疑問や反論である。

多くの方が、高市政権は左寄りにシフトする、と僕が主張したと誤解しているようだ。

極右の高市政権がリベラルになる訳がない。そうではなく、ファシスト気質の高市政権は船出と同時に❝現実路線❞を取るだろう、というのが僕の言いたいところだ。

それをしないなら、少し大げさに言えば、中国・韓国・北朝鮮、特に中国と戦火を交えない限り、彼女の極端な超国家主義者魂の立つ瀬がないだろう。

だがさすがの高市ちゃぶ台返しオヤジ首相でも、隣国と火ぶたを切るほどの狂気はまだ持ち合わせていないだろうから、とりあえずはファシストの正体を秘していわば脱悪魔化をはかる。

要するに現実路線に立ち返る、と考えたのである。

だが全く違う結果も考えられる。

高市首相は日本独特の右翼カルト暴風に吹き巻かれて、ますます右へと突き進みついには政治的に自爆死するかもしれない。

それはここ欧州の極右にはあり得ないことだ。

欧州にも右傾化の強風が吹き荒れている。

欧州に於ける極右の台頭はリベラル勢力の驕りに対する民衆の怒りもあるが、最大の要因は強い反移民感情である。増えすぎた移民に欧州の人々はいら立ち、右派はその不満を利用して勢力を伸ばしている。

だが欧州には「欧州の良心」がある。そのため各国政府による移民排斥の動きには一定のブレーキがかかる。

僕が規定する欧州の良心とは、欧州の過去の傲慢や偽善や悪行を認め、凝視し、反省してより良き道へ進もうとする“まともな”人々の心のことだ。

欧州は世界各地を侵略し殺戮をくり返し、域内の紛争も軍事力で解決するのが当たり前の、野蛮で長い血みどろの歴史を持っている。そして血で血を洗う凄惨な時間の終わりに起きた、第1次、第2次大戦という巨大な殺戮合戦を経て、ようやく「対話&外交」重視の政治体制を確立した。

それは欧州が真に民主主義と自由主義を獲得し、「欧州の良心」に目覚める過程でもあった。

欧州の良心はキリスト教の博愛の精神によって補強されより寛大な方向に展伸するが、第2次大戦後にさらに拍車がかかった。

つまりドイツ国民のナチズムへの徹底総括と深い反省、またイタリア国民の強力な反ファシズム感情がヨーロッパ中に大きな影響を与えて欧州の良心はいよいよ強固になった。

欧州に於ける政治の右傾化、また民衆の反移民感情は欧州の良心と並存している。

政治の右傾化や反移民感情は多分に感情的だが、欧州の良心には理がある。その理が政治の右傾化を監視し反移民感情に待ったをかける。制御心が働くのだ。

その情動には極右も無縁ではあり得ない。

例えば移民排斥を叫んで支持を広げ、ついには政権の座にまで就いたここイタリアのジョルジャ・メローニ首相がその好例だ。

メローニ首相は、ファシスト党の流れを汲む「イタリアの同胞」(党)を率いて反移民感情を人々の間に搔き立てては支持を伸ばし、ついには首相にまで上り詰めた。

昇りつめると彼女は政権公約を果たすべく移民規制に乗り出したが、思うようには進んでいない。いや、思うように進んでいないのではなく、彼女には移民を無慈悲に徹底的に排斥する意思はないのだ。

不法移民を規制する方向には動くものの、彼女の中にある欧州の良心がそれを抑制する。ましてや彼女は難民移民の徹底保護を主張してやまないローマ教会の信者だ。

彼女と同じ感情は欧州の右派に多かれ少なかれ宿っている。そして彼らは反移民レトリックを用いて民衆を主導し勢力を伸ばし続けている。

同時に彼らは政権の座に就くと常識的になるだろう。不法移民、悪意ある外国人は厳しく取り締まるとしつつも、欧州の良心に促されて彼らを平等に扱おうとする情動が働くのだ。

彼らは極右らしく暴力的だが、かつてのナチスのように非情な人種差別意識をむき出しにして人々に牙を剥くことはあり得ない。

欧州の今この時の極右勢力はかつてのナチスやファシストではない。

ヒトラーはヒトラーを知らなかった。だがいま欧州で最も大きな脅威と見られているドイツの極右Afdはヒトラーを知悉している。だから彼らはヒトラーの轍は踏まない。

同様にムッソリーニはムッソリーニを認識できなかったが、ムッソリーニを良く知るイタリアの同胞は、メローニ首相をより穏健な極右、あるいは中道寄りに向かう急進右派たる存在に造り変えた。

日本ではあたかも欧州の極右のように反移民をあおる参政党が躍進した。各野党もそれに近い主張をした。自民党の総裁選では高市早苗候補が外国人差別を煽る動きにさえ出た。

だが世界の国々に比較すると日本の移民の数などたかが知れたものだ。ところが参政党を筆頭にする右派は、アメリカや欧州の真似をして選挙で反移民キャンペーンを張った。つまり彼らは例によって欧米の物真似をしたのである。

そうであれば可愛いもので取るに足らない。

しかしながら、その中身は日本独特の天皇崇拝・靖国偏執跪拝・国家神道狂信・日本会議及び安倍憑依教団等々が一体になったカルトの顕れである恐れがある。

一見すると、右傾化という世界共通の現象の中にあるようだが、実はそこには属さずに孤立し鬱屈して牙を研いでいる、デモーニッシュななにかのように見えるのだ。

極右の流れが本流となり、さらに激流となって世の中を席巻するのは、中道や左派の主要政党が彼らの真似をして国民の関心を買おうと考える時だ。そうなると極右モメンタムは制御不能となって爆発する

欧州の極右の動きには因果があり筋道がある。熱に浮かされて天皇崇拝や靖国遥拝や国家神道などを叫ぶ神懸かり的な精神論が入る余地はない。

ところが日本の場合はそうした理や制御心が働かないように映るのだ。いわゆる先進国のうちでは圧倒的に少ない移民に対して、既述のように参政党が突然憎悪を爆発させ、他の保守勢力が追随する。政権党の自民党も例外ではない。

繰り返しになるが、欧米を含む世界の流行が日本で根拠なくコピーされるパターンである。だがその流行は歌やファッションの流行りではない。偏見差別と、究極には殺戮行為にまで簡単に進みかねない反移民運動の流行なのである。

それはやはり日本カルトの顕現としか形容の仕様がない異様な光景だ。カミカゼ的サイコパス政治勢力が何の障りもなく、誰にも阻止されずに当たり前に存在する、世界の中の異形の土地の恐怖だ。

異形の土地は天皇を神と崇める旧人魂と過去の対戦を総括できなかった無念の歴史事実とに守られて厳然として残った。

それに乗っかった日本極右の危険度は、ドイツAfdやイタリアの同胞、またその他多くの欧州極右とは比べものにならないほど高いのである。





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女性姿のオヤジ首相が向かう先

高市国旗

高市早苗氏が自民党総裁に選出され、ほぼ確実に次期首相になるという見方が広がっている。

僕は彼女を深い懐疑の目で観察しながら淡い期待も抱いている。

その複雑な思いは、2024年の総裁選時を始めとして自身のブログに全て書き込んだ。

その主旨をまとめると次の如くだ。

僕は高市早苗候補だけは決して日本のトップにしてはならない、と考え、つい最近までそこかしこにそう書いてもきた。

今もそうだが、それでも2度に渡って総裁候補の顔ぶれを見ているうちに、毒を持って毒を制す、のような気分にもなった。

高市という猛毒をもって日本の男社会という毒に楔を打ち込む、という印象である。

つまり、猛毒の高市候補が日本初の女性首相になる手もあるのではないかと考え出したのだ。

❛高市首相❜もありかもと考える第1の、そして最大の理由は高市候補がオヤジよりもオヤジ的な政治家でありながら、それでも女性だという点だ。

首相になれば日本の諸悪の根源である男尊女卑メンタリティーにとりあえず一撃を見舞うことになる。それは、無いよりはあったほうが確実に日本のためになるイベントだ。

心優しい良い女性、すばらしい女性を待っていては日本には永久に女性首相は生まれない。女性首相の大きな条件の一つは「タフな女」であることだ。

サッチャー元首相もメルケル元首相も、またここイタリアのメローニ首相も男などにビビらないタフさがある。高市候補は権力者のオヤジらに媚びつつも、鉄面皮で傲岸なところがタフそのものに見える。

2つ目は肩書の奇跡だ。

肩書きが人間を作る、というのは真実である。

一つ例を挙げる。

イタリアで初の女性首相となったジョルジャ・メローニ氏は、ファシスト党の流れを汲む「イタリアの同胞」を率いて選挙を勝ち抜いた。

選挙中、彼女は右寄りの政策を声高に叫びつつ一つのスローガンをさらに大声で主張した。

いわく、「私はジョルジャだ。私は女性だ。私は母親だ。そして私はイタリア人だ」と。

「私はジョルジャだ」は自らが自立自尊の人格であることを、「私は女性だ」は女性であることを誇ると同時にジェンダー差別への抗議を、「私は母親だ 」は愛と寛容を、「私はイタリア人だ」は愛国の精神を象徴していると僕は見た。

メローニ氏はそうやって国民の支持を得て首相の座に上り詰めた。

ところがメローニ氏は、首相になるとと同時に激しい言葉使いを避け、険しい表情をゆるめ、女性また母親の本性があらわになった柔和な物腰にさえなった。

政治的にも極端な言動は鳴りをひそめ、対立する政治勢力を敵視するのではなく、意見の違う者として会話や説得を試みる姿勢が顕著になった。

彼女のそうした佇まいは国内の批判者の声をやわらげた。僕もその批判者のひとりだ。

また同氏に懐疑的なEUのリベラルな主勢力は、警戒心を抱きながらもメローニ首相を対話の可能な右派政治家、と規定して協力関係を構築し始めた。

ジョルジャ・メローニ首相は資質によってイタリア初の女性首相になったが、イタリアのトップという肩書きが彼女を大きく成長させているのも事実なのである。

高市自民党新総裁は、あるいは日本初の女性宰相となり、その肩書きによって人間的にも政治的にも成長するかもしれないと僕は秘かに考えているが、大きな問題ある。

つまりメローニ首相と同じ右翼政治家の高市氏には、イタリアのトップに備わっている女性としての自立心や明朗な政治姿勢や誇りが感じられない。

その代わりに虎の威を借る狐の驕りや、男に遠慮する「女性オヤジ政治家」の悲哀ばかりが透けて見える。女性オヤジ政治家は旧態依然とした男性議員を真似るばかりで進取の気性がない。その典型が高市氏だ。

3つ目は天皇との関係だ。人格者の上皇、つまり平成の天皇は静かに、だが断固として安倍路線を否定した。現天皇は今のところ海のものとも山のものともつかない。顔がまだ全く見えない。

❛高市首相❜が本性をあらわにファシスト街道を突っ走るとき、天皇がどう出るか、僕はとても興味がある。

天皇は政治に口出しをしないなどと考えてはならない。口は出さなくとも「天皇制」がある限り彼は大いなる政治的存在だ。それを踏まえて天皇は「態度」で政治を行う。

彼に徳が備わっていれば、という条件付きではあるが。

日本の政治と社会と国民性は、先の大戦を徹底総括しなかった、或いはできなかったことでがんじがらめに規定されている。

右翼の街宣車が公道で蛮声を挙げまくっても罪にならず、過去を無かったことにしようとする歴史修正主義者が雲霞のように次々に湧き出てくるのも、原因は全てそこにある。

ドイツが徹底しイタリアが明確に意識している過去の「罪人」を葬り去るには、再び戦争に負けるか、民衆による革命(支配層が革命の主体だった明治維新ではなく)が起きなければならない。

しかし、そういう悲惨は決して招いてはならない。

僕はこれまで高市早苗氏を、安倍元首相の腰巾着であり、歴史修正主義義者であり、メディアを恫喝支配できると信じているらしい思い上がった思想の持ち主、とみなし批判してきた。

彼女が総務相時代の20016年、放送局が政府の気に入らない放送を繰り返したら電波停止を命じる、と示唆した発言はあまりにも重大だ。

メディアの監視と批判に耐えられない政治家は首相になるべきではない。メディアを抑圧し制御できると考える政治家は、政治家でさえない。それは単なる独裁者だ。

高市候補にはそのように暗く危険なファシズム的気質がある。それはここイタリアのジョルジャメローに首相にも通底する個性だ。

高市候補は2度に渡って総裁選に出馬し戦う動きの中では、女性であることを意識しないと強調した。彼女は選択的夫婦別姓制度にも反対だ。

だがそれではダメだ思う。彼女は女性であることを大いに意識し、彼女が日本初の女性首相になることは、日本の諸悪の根源である男尊女卑思想を一掃するための大いなる一歩、と位置づけ闘っていくべきだ。

高市氏がここまでそうしないのは、彼女の岩盤支持者である保守強硬派の男らの反発を避けるのが狙いだろう。だが女性蔑視のメンタリティーが国の未来まで貶めることが確実な日本にあっては、女性であることを前面に押し出すことは重要だ。

高市候補に限らず、男に媚びることが多い日本の「オヤジ女性政治家」が、真に「男女を意識されない」一人の政治家と見なされるためには、闘う本人が先ず女性であることに誇りを持ち、女性として自立し認められることが重要だ。

男を真似する「オヤジ女性政治家」は“フェイク”であることを、何よりもまず女性政治家自身が悟らなければならない。

ネガティブな要素も多く抱えた高市自民党新総裁は、日本初の女性首相になる機会を得た。ならばチャンスを活かして生まれ変わってほしい。

女性であることにこだわるメローニ首相はまた、トランプファシズム気質大統領と親和的な関係でもある。同時に彼とは1対1の対等な立ち位置もしっかりと保って動いている。

片や高市新総裁はどうだろうか。首相になって米大統領と対等な関係を構築できるだろうか。それは恐らくないものねだりに終わるだろう。

彼女は安倍元首相を神とも崇めひれ伏す存在だ。その安倍氏はトランプ氏を勝手に友と呼ぶだけの大統領の忠犬だった。

忠犬の忠犬である未来の高市首相に、トランプ大統領にNOと言える器量を期待するのは無理だろう。

自らをバカに見せる狡智も備えているらしいトランプ大統領は、総裁選に勝った高市氏を「知恵と強さを持った人物」とSNSで評価した。ところがその際には高市氏の名前には言及しなかった。

そのあたりに日本と日本のトップを見下しているトランプ大統領の本音が透けて見える。同時に彼の本音に何らかの形で一撃を加える女っぷりなどなさそうな高市氏の正体も。

なにしろ女の姿をしただけの❛オヤジ気質の首相❜なのだから。

高市新総裁はファシズム的な体質が似ている点を除けば、イタリアのメーローニ首相とは似ても似つかない存在だ。メローニ首相が明なら彼女は陰、と形容しても良いほど印象が違う。

もっと言えば高市氏は、自ら率先して右翼運動を担うのではなく、例えば安倍元首相に庇護されて四囲を睥睨してきたように、威光を笠に着て凄むタイプだ。

一方のメローニ氏は自ら激しく動いて道を切り開くタイプの政治家である。

それでも高市新総裁は、日本初の女性宰相になれば、その肩書きに押されて人間的にも政治的にも成長するかもしれない。

最後に、高市政権は船出と同時により右カーブではなく左カーブ、即ち中道寄りへと政策も心情もシフトしていくと僕は予想する。

日本は孤立した国だがひとりで生きているのではなく、近隣国があり世界世論の影響を大きく受けて存在している。それらに圧されて❛高市首相❜は必ず穏健路線に向かうだろう。

もしそうならなかった場合は、世界を席巻している右傾化の潮流は実は日本には届かず、天皇崇拝や靖国的神懸かりカルトが「日本右傾化」の本質ということが明らかになって、高市政権の危険度は一気に高まるだろう。



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