【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

祝祭の日々割れ


Rotterdum riot lockdown

2021年12月18日、オランダが全土ロックダウンを敢行した。

欧州のコロナ状況ははかばかしくない。オミクロン株への不安に加えて、感染拡大が止まないのである。

人口1700万人あまりのオランダは、1日あたりの感染者数が2万人近くにのぼる日もあり、クリスマス期間の大きな人出に耐えられないと判断した。

オランダに先立ってロックダウンを敷いたオーストリアは、規制を緩和したが状況は予断を許さない。

大国ドイツの感染状況も依然として厳しい。

ここイタリアでもじわじわと感染が拡大し続けている。

だが情勢はいま触れた3国をはじめとする欧州のほとんどの国よりは良い。

特にオミクロン株が今のところは低く抑えられている。

そのことを踏まえてドラギ政権は、EU各国からの旅行者にワクチン接種済みか否かを問わず入国制限をかけた。

オミクロン株を排除するのが目的だが、EU本部からの反発も受けた。

イタリアを含む欧州各国は、経済に大きな影響を与えるクリスマス需要を守ろうと必死になっている。

だがついに-冒頭で触れたように-オランダが脱落してロックダウンを断行した。

状況が良くないドイツがもしも将来ロックダウンに踏み切れば、オランダのそれとは比較にならない大きな影響が出る。

EUを離脱した英国の環境も険悪だ。

ミニトランプのジョンソン首相は、死に物狂いで規制強化を避けようとするだろうが、先行きは極めて不透明。

クリスマスから年末年始にかけては、感染が拡大するであろう、と予想されてきた。

そのため欧州各国はクリスマス期間前に規制を強化して、祝祭の日々をできる限り明るくしようと懸命に動いている。

その結果がどうなろうとも、ワクチン接種を拒否する人々の数が減らない限り、パンデミックの終息は速やかにはやってこないだろう。

来年2月にワクチン接種を義務化するオーストリアの計画が、もしも予定通り遂行されて現実のものとなったとする。

その場合は欧州もまたそのほかの世界も、本格的に反ワクチン住民を仕置きする動きに出るだろう。

それは必要なことかもしれないが、社会はさらに深い分断の闇に飲み込まれていく可能性が高い。

それでも事ここに至っては、何らかの仕置きはなされるべきだろう。ひたすらパンデミックの終焉のために。







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ハゲの横好き


偉大だったドイツのメルケル首相が退陣して、ショルツ新首相が誕生しました。

筆者はショルツ首相を公私ともに応援しています。

「公」は民主主義の旗手、ドイツを率いる彼の手腕。

「私」は容姿が似ている彼への親しみ。

右向き素朴650


筆者はショルツ首相の後を追って、ハゲ街道を驀進中なのです。

なのに、あ~それなのに、いいハゲこいて、もとへ、いいトシこいて、筆者はPerfumeが好きです。

いまPerfumeを香水と思った人はオヤジでありオバchanです。

ならばPerfumeとは何か。Perfumeを知らない若者のために説明しますと、Perfumeは若い女性3人組のアイドルグループです。テクノポップユニット とも言うらしい。

そんなものを好きな筆者のようなオヤジはエロいと見なされることもあります。正確に言うと若い女性歌手やグループを追っかけるオヤジはエロいらしい。エロ目的のくせにエロい情熱を隠して出没する、ということなんでしょうね。

筆者はぶっちゃけそこまでエロくはなさそうです。なぜならPerfumeの追っかけをするほどの元気はありませんし、それほどの情熱もありません。また筆者の子供ほどの年齢のアイドル娘3人をアイドルともみなせません。

筆者のアイドルは(年齢と時代の関係で敢えて言えば)キャンディーズです。へてからに、キャンディーズを知っている人はぶっちゃけオヤジとオバchanです。で、人気絶頂の頃のキャンディ-ズの3人娘は、まぶしくて近寄りがたくて憧れでした。

筆者はそこでもキャンディーズの追っかけをするほどの熱烈なファンではなく、遠くから眺めているという程度の煮え切らない若者でした。が、同世代の女性アイドルを熱く見つめている青年が内に秘めているのは、歌への情熱に織り込んだまさにエロだった、という気はしないでもありません。

perfumeダサコスチューム

ところが、Perfumeの3人の踊り子たちは、とても田舎っぽくて前述したように筆者にはアイドルには見えません。Perfumeは、キャンディーズオジさ んの筆者にとっては憧れではなく、例えば故郷の友人のタカオとかヨシオとかの娘みたいな、 あるいは田舎の姪っ子たちみたいな、要するにフツーの娘過ぎてエロにはならないのです。

とはいうものの、こうしてあれこれ言い訳めいたことを書き連ねているのが怪しい。やっぱりエロだ。というスルドイ指摘もありそうですので、本題に戻ります。

筆者のPerfume好きをもっと具体的に言えば、実は筆者はPerfumeの歌「ワンルーム・ディスコ」が好きなのです。それは♪ジャンジャンジャン♪という電子音(デジタルサウンドと言うらしい)に乗って次のように軽快に歌われます。

ディスコディスコ ワンルーム・ディスコ
ディスコディスコ
ディスコディスコ ワンルーム・ディスコ
ディスコディスコ                           なんだってすくなめ 半分の生活 だけど荷物はおもい 気分はかるい
窓をあけても 見慣れない風景 ちょっとおちつかないけれど そのうち楽しくなるでしょ                           新しい場所でうまくやっていけるかな 部屋を片付けて 買い物にでかけよ
遠い空の向こうキミは何を思うの? たぶん できるはずって 思わなきゃしょうがない
(中略)
新しい場所でうまくやっていけるかな 音楽をかけて計画をねりねり 
今日はなんだかね おもしろいこともないし リズムにゆられたいんだ ワンルーム・ディスコ                          ディスコディスコ ワンルーム・ディスコ
ディスコディスコ~

デジタルサウンドという新鮮な音の洪水に乗って流れるメロディーもいいが、筆者にとっては歌詞がもっと良い。つまり:
「なんだってすくなめ 半分の生活」 
「荷物はおもい 気分はかるい」
「そのうち楽しくなるでしょ」
「たぶん できるはずって 思わなきゃしょうがない」

それらの前向きな態度や思考は、筆者が理解している限りでの全き禅の世界です。作詞・作曲をした中田ヤスタカさんが禅を意識していないのが、余計に禅的で良いと思います。

禅とは徹頭徹尾プラス思考の世界です。しかもそのポジティブで前向きな生き方を意識しないまま、自然体で体現するのがもっとも理想に近い禅世界です。

円相切り取りやや横へ拡大

受身ではなく能動的であること。消極的ではなく積極的であること。言葉を替えれば行動すること。「書を捨てよ。町へ出よう」と動くこと。またはサルトルの「アンガージュマン」で行こうぜ、ということです。

もっと別の言い方で説明すれば、それは筆者の座右の銘である「日々是好日(にちにちこれこうにち(じつ)」と同じ世界です。まさに理想的な禅の世界なのです。

日々是好日とは、どんな天気であっても毎日が面白い趣のある時間だ、という意味です。つまり雨の日は雨の日の、風の日は風の日の面白さがある。あるがままの姿の中に趣があり、美しさがあり、楽しさがある。だからそれを喜びなさい、という意味です。

筆者はバカかった頃、もとへ、若かった頃、この言葉を「毎日が晴れたいい天気だ」と勝手に理解して、東洋的偽善の象徴そのものだと嫌悪しました。これは愚かな衆生に向かって、「たとえ雨が降っても風が吹いても晴れた良い天気と思い(こみ)なさい。そうすれば仏の慈悲によって救われる」という教えだと思ったのです。

まやかしと偽善の東洋的思想、日本的ものの見方がその言葉に集約されていると当時の筆者は思いました。

その大誤解は筆者が日本を飛び出して西洋世界に身を投入する原動力 の一つにもなりました。筆者は禅がまったく理解できませんでした。しかも理解できないまま筆者が思い込んでいる禅哲学が、反吐が出るほど嫌いでした。無知とはゲに怖ろしい。

西洋にも禅的世界観があります。歌の世界であれば:

♪ケセラセラ なるようになるさ~♪

がそうであり、ビートルズの

♪レットイットビー  レットイットビー  レットイットビー♪

もそうです。

ただ西洋のそれは、人生をある程度歩んだ「大人の知恵」という趣が込められた歌だと筆者は感じます。つまりそれは、敢えて言えば哲学です。Perfumeの3人娘が歌うのはそんな重い哲学ではありません。

軽い日常の、どうやら失恋したらしい女の子の、前向きな姿を今風のデジタルな音曲に乗せて、踊りを交えて歌う。その軽さがいい。深く考えることなく、「軽々と」禅の深みに踏み込んでいるところがいい。

あるいは考えることなく「軽々と」禅の高みに飛翔している姿がいい。。

というのはしかし、東洋の、特に禅の全きポジティブ思考に魅せられている「東洋人の」筆者の、東洋世界への依怙贔屓 (えこひいき)に過ぎないのかもしれません。


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歴史を食う

外す3人少しヨリ800

ミラノ近郊の、筆者の住む北イタリアのブレッシャ県には、有名な秋の風物詩があります。狩猟の獲物を串焼きにする料理「スピエド」です。

狩猟は主に秋の行事です。獲物は鳥類や野ウサギやシカやイノシシなど多岐にわたります。

それらの肉を使うスピエドは野趣あふれる料理ですが、そこは食の国イタリア。

肉の切り身に塩やバター等をまぶして、ぐるぐると回転させながら何時間も炙(あぶ)ります。さらに炙ってはまた調味料を塗る作業を繰り返して、最後には香ばしい絶品の串焼き肉に仕上げます。

スピエドは元々、純粋に狩猟の獲物だけを料理していました。

特に山では、ふんだんに獲れる鳥類が、貧しい木こりや農夫の空腹を満たしました。鳥肉の串焼きには山の斜面の痩せた土でも育つジャガイモが加えられました

スピエドの原型は、野鳥の肉とジャガイモの串焼きなのです。

やがて鳥肉以外の狩猟肉も調理されてレシピが発展していきました。

しかし野生の動物が激減した現在は、狩りで獲得したジビエよりも豚肉やスペアリブ、また家畜のうさぎや鶏肉などを使うのが一般的です。

ジャガイモはそこでも変わらずに重宝されます。

焼きあがったスピエドには、ポレンタと呼ばれる、トウモロコシをつぶして煮込んだ餅のような付けあわせのパスタが添えられます。

スピエドは赤ワインとの相性も抜群です。

イタリアは狩猟が盛んな国です。猟が解禁になる秋には、キジなどの鳥類や野うさぎやイノシシなどが全国各地で食卓に上ります。

しかしもっとも秋らしい風情のあるスピエド料理はブレッシャ県にしかありません。

これは一体なぜか、と考えると見えてくるものがあります。

スピエドぐるぐる全体中ヒキ800

ブレッシャにはトロンピア渓谷があります。そこは鉄を多く産しました。

そのためローマ帝国時代から鉄を利用した武器の製造が盛んになり、やがて「帝国の武器庫」とまで呼ばれるようになりました。

その伝統は現在も続いていて、イタリアの銃火器の多くはブレッシャで生産されます。

世界的な銃器メーカーの「べレッタ」もこの地にあります。

べレッタ社の製造する猟銃は、これぞイタリア、と言いたくなるほどに美しいデザインのものが多い。「華麗なる武器」です。

技術も高く、何年か前にはニューヨークの警官の所持する拳銃が全てべレッタ製のものに替えられた、というニュースがメディアを騒がせたりもしました。

ブレッシャは銃火器製造の本場だけに猟銃の入手がたやすく、しかもアルプスに近い山々や森などの自然も多い。

当然のように古くから狩猟の習慣が根付きました。

狩猟はスピエド料理を生み、それは今でも人々に楽しまれている、というのが筆者の解釈です。

つまりスピエドを食べる行為には、少し大げさに言えば、ギリシャ文明と共にヨーロッパの基礎を作ったローマ帝国以来の歴史を食するという側面もある、と筆者はひそかに心を震わせたりもします。

外したスピエドUP800

2020年はコロナ禍でスピエドを食べる機会がほとんどありませんでした。

ことしもコロナ以前に比べるとチャンスはやはり多くはありませんでした。それでも友人一家に招待されて食べることができました。

友人は山育ちです。スピエドでもてなしてくれる筆者の友人は、ほとんどが山の暮らしを知っています。

山では古来、鳥類が多く食べられてきました。

先に触れたスピエドの原型がそこから生まれたのです。

山鳥は野うさぎや鹿に始まる獣類よりも圧倒的に数が多く捕獲も容易でした。

今では獣類も鳥類も大幅に数は減りました。それでもやはり両者のうちでは鳥類が多く狩られます。

山に親しい筆者の友人たちは、彼らが苦心して捕獲した貴重な野鳥をスピエドに加えます。

当節は各家のスピエドに使われる本物の野生動物の肉は、狩猟で獲られる鳥類のみ、といっても過言ではありません。

少しの鳥肉が、豊富な豚肉やスペアリブやウサギやジャガイモとともに香ばしく炙られる場合がほとんどなのです。

ことしはレストランなどでも、週末を中心にスピエドを提供する店がかなり目立ちました。

ただレストランの場合は、狩猟で得られる鳥肉がスピエドに加えられることはまずありません。

鳥類は多くが狩猟が禁止になっています。また捕獲が許されている山鳥でも数が少なく、レストランで提供するのは難しい事情があるのです。

レストランなどでは、野生の鳥肉の代わりに市販の鶏肉が調理され提供される、というのが実情です。

それも美味ですが、少量の山鳥の肉が加わる山のスピエドは、野趣に富み格別の味がします。

最近は料理にも興味を持っている筆者は、友人たちに頼んでスピエドの調理法を習得したいと考えています。

しかし複雑でひどく手間のかかる行程に恐れをなして、なかなか手を出せずにいます。

そうはいうものの筆者にとっては、「歴史を食う」というほどの趣を持つ魅力的な料理ですから、いつかじっくりとレシピを勉強して、必ず自分でも作ってみるつもりでいます。




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蟻の一穴~ イタリア初の安楽死認定

イラストベッド引き610

2021年11月、イタリア生命倫理委員会が、安楽死を切望する四肢の麻痺した40歳の男性の自殺幇助を認める決定を出した。

イタリア初の出来事である。

イタリアではことし8月、安楽死を法制化するように求める署名運動が75万人余りの賛同を集め、それは間もなく100万人を突破した。

50万人以上の署名で国民投票が実施されるのがイタリアの決まり。

それを受けて、早ければ来年にも安楽死への賛否を問う国民投票が実施される見込みになっている。

イタリアの世論は歴史的に安楽死に対して強い抵抗感を示す。その最大の理由はカトリックの総本山バチカンの存在。

ローマ・カトリック教会は自殺を強く戒める。

バチカンにとっては安楽死つまり自殺は、堕胎や避妊などと同様に強いタブーなのである。国民の約8割がカトリック教徒であるイタリアではその影響は大きい。

それにもかかわらず、安楽死を認めるイタリア国民の数は確実に増え続けている。

憲法裁判所は2019年、回復不可能な病や耐え難い苦痛にさらされた人々が、自らの明確な自由意志によって安楽死を願う場合には許されることもある、という決定を出した。

その歴史的な審判は、全身麻痺と絶え間のない苦痛にさいなまれた有名DJが、自殺幇助が叶わないイタリアを出てスイスに渡り、そこで安楽死を遂げたことを受けて示された。

2017年の事例である。

そこでも世論が大きく高まって、2年後には憲法裁判所のその決定につながった。

司法は続いてイタリア議会に安楽死法案の是非を審議するよう求めたが、それは遅々として進まなかった。

だがイタリアは、署名活動の進展、前述の生命倫理委員会の初の自殺幇助の支持決定など、安楽死を合法化する方向を目指している。

僕はその動きを大いに支持する。「死の自己決定権」と安楽死の合法化は、文明社会の真っ当な在り方、と考えるからだ。

イタリアでは基本的に安楽死は認められていない。

憲法裁判所の裁定や生命倫理委員会の決定は、今のところは飽くまでも、いわば例外規定なのだ。

それがゆるぎない法律となるには国民投票を経なければならない。

現在は自殺幇助には5年から12年の禁固刑が科される。

そのため毎年約200人前後ものイタリア国民が、自殺幇助を許容している隣国のスイスに安楽死を求めて旅をする。

イタリアの敬虔なカトリック教徒は、既述のように自殺を否定するバチカンの教えに従う。

医者を始めとする医療従事者はもっと従う。なぜなら彼らの至上の命題は救命であり、且つ彼らの多くもカトリック教徒なのだから。

だがそれは許しがたい保守性だ。不治の病や耐え難い苦痛に苛まれている患者の煩悶懊悩を助長するだけの、思い上がった行為である可能性さえ高い。

僕は以前、そのことについて次のように自らの考えを書いた。

同じことをここで彼らに伝えたい。

安楽死や尊厳死というものはない。死は死にゆく者にとっても家族にとっても常に苦痛であり、悲しみであり、ネガティブなものだ。

あるべき生は幸福な生、つまり「安楽生」と、誇りある生つまり「尊厳生」である。

不治の病や限度を超えた苦痛などの不幸に見舞われ、且つ人間としての尊厳を全うできない生は、つまるところ「安楽生」と「尊厳生」の対極にある状態である。

人は 「安楽生」または「尊厳生」を取り戻す権利がある。

それを取り戻す唯一の方法が死であるならば、人はそれを受け入れても非難されるべきではない。

死がなければ生は完結しない。全ての生は死を包括する。「安楽生」も「尊厳生」も同様である。

生は必ず尊重され、飽くまでも生き延びることが人の存在意義でなければならない。

従って、例え何があっても、人は生きられるところまで生き、医学は人の「生きたい」という意思に寄り添って、延命措置を含むあらゆる手段を尽くして人命を救うべきだ。

その原理原則を医療の中心に断断固として据え置いた上で、患者による安楽死への揺るぎない渇求が繰り返し確認された場合は、しかし、安楽死は認められるべき、と考える。






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「不惑」という困惑

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筆者から見ると若いアラフォー世代の友人女性が、不惑という言葉を知って少し困惑したような、困惑しなかったような、不思議な気分になった様子の連絡をくれました。

そうした世代の男女の友人を見ていると、40歳という年齢に強い感慨を抱いたり不安を覚えるような言動をするのは、男性に比べて女性の方が多いように感じます。

40歳をあらわす不惑という言葉は、言うまでもなく論語の「40歳(しじゅう)にして惑わず」から来ていて、それは人生、つまり寿命が50年程度だった頃の道徳律、と解釈すれば分かりやすいのですが、正確に言うと少し違うようです。

論語の一節であるその言葉を残した孔子の時代、つまり約2500年前は人間の平均寿命は50年よりもきっと短いものだったと考えられます。人間の平均寿命が50歳ほどになったのは明治時代になってからという説さえあります。人間は長い間短命だったのです。

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しかし2500年前の孔子でさえ72歳まで生きています。また70歳をあらわす古希という言葉もあって、それは周知の如く「70歳は古来、希(まれ)なり」のことです。つまり昔は70歳まで生きる者は「ひどく珍しい」と言われるほどの長生きだったのです。孔子はその希な人間の一人でした。

過去の時代は全て「人生50年」ほどの世の中だった、という日本人の思い込みの多くは実は、織田信長が好んだ敦盛の中の「人間50年 下(化)天のうちを比ぶれば 夢まぼろしのごとくなり~♪」の影響が一番大きいように見えます。

そこで言う人間50年とは平均寿命が50年という意味ではありませんが、人の生命は宇宙の悠久に比べるとあっという間に過ぎず、たとえ50年を生きたとしても宇宙の一日にしか当たらない、まことにはかないものだ、ということですから、拡大解釈をして平均寿命50年の人生、というふうに考えても当たらずとも遠からずというところでしょう。

要するに、今現在の平均寿命である約80歳はさておいても、2500年前の孔子の時代から江戸の頃まで、大ざっぱに言って人間はやっぱり50歳程度が平均寿命だった、と考えてもいいと思うのです。

あるいは人々が願った長生きの目標が50歳程度だった、とか。はたまた、正式な統計があったわけではありませんが、50歳まで生きることができればラッキー、というふうに人々は感じていた、とか。

その伝で行くと、不惑の次の「知命」つまり「50歳にして天命を知る」とは、死期に至った人間が寿命や宿命を知るということになり、さらにその次の「還暦」の60歳は、おまけの命だからもう暦をゼロに戻してやり直すということです。

そんなふうに人間が短命だった頃の70歳なんてほぼ想定外の長生き、希な出来事。だから前述したように古希。

さらに、88歳をあらわす「米寿」という言葉は、88歳なんていう長生きはある筈もないから、八十八をダジャレで組み立てて米という文字を作って「米寿」、というふうにでも決めたんじゃないか、と茶化したくなります。

何が言いたいのかというと、年齢を気にして「年相応に」とか「年甲斐も無く」とか「~才にもなって・・」などなど、人間を年齢でくくって行動や思想や生き方を判断しようとするのは、実に偽善的でつまらないことだと思うのです。

40歳を意味する不惑という言葉にも、精神の呪縛をもたらす東洋的な閉塞感と狭量と抑圧の響きが充満していると思います。少なくとも筆者が好きで住んでいるここ西洋には、全くないとは言いませんが、人を年齢で縛る考え方は多くはありません。

天使と悪魔に囲まれて悩む女性

そういうところも筆者が西洋文化を好きなった一因です。感じるままが年齢だ、という生き方に憧れを抱いている筆者にとっては、年齢をあまり気にしない欧米社会の風通しの良さは心地がよいのです。

40歳でも惑いまくり悩みまくるのが普通の人間であって、それは人生50年の時代でも同じだったはずです。ましてや人生80年の現代、40歳の若さで悟りきって惑わない、つまり「不惑」者がいるとするなら、その人こそまさに「古来希な」大天才か、あるいは重いビョウキか何かなのではないでしょうか。

筆者はもうとっくに還暦も過ぎてしまったオヤジーですが、不惑なんて少しも気にしないまま(惑いまくってそれを気にする暇などないまま)ジーオヤになって、しかもそれが当たり前だと腹から思っている男です。

それどころか、運よく古希を迎えても、さらに喜寿(77歳)を過ぎその先まで生きる喜びがあったとしても、きっと相変わらず惑い、悩み、葛藤し、妄想して、煩悩の中に居つづけることでしょう。

いや、きっとそうしていたい。なぜならそれが生きているということであり、悩まなくなった人間はもはや死人と同じだと思うから。

惑い、悩み、葛藤し、妄想して、煩悩の中にいることこそ生きるということであり、生きている限りそれもまたきっと人生を楽しむ、ということなのでしょう。

楽しむ、というのが言い過ぎなら、そうした人生の負の側面でさえ「生きていればこそ」と考えて立ち向かうこと。あるいは積極的に受け入れて肯定すること。つまりそれから目をそらさないこと。

そんな考え方は、言うまでもなく別に筆者の発見ではありません。禅の教えの根本です。いや、分かった風を装ってはなりません。筆者のここまでの浅い知識の範囲で理解している禅の根本です。

そうしてみると、不惑を意識して悩み、不安にかられ、もがいている女性たちは、男などよりも人生を楽しむ術を知っている優れ者たち、ということにもなるのですが・・



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「無原罪の御宿リ」の日に無限大の野菜を収穫した

白菜被せ縦から見る800

128日はイタリアの祝日だった。

聖母マリアが生まれながらにして原罪から解放されていたことを祝う、無原罪の御宿り(Immacolata Concezione)」の日である。

イタリア中がこの日を境にクリスマスモードに入る、とよく言われる。

ことしはコロナの毒の勢いがワクチンによって抑えられていることもあって、クリスマスの祝祭が盛り上がりそうだ。

むろん限界がある。

ワクチン忌諱者がいるために社会全体の自由が狭められているからだ。

欧州第4波の恐怖におののいているドイツに代表されるEU各国は、ワクチンを接種しない住民をロックダウンしたオーストリアに続いて、反ワクチン派の国民への締め付けを強化しようとしている。

4波の痛みが今のところはまだ軽いイタリアも、じわじわと増えるコロナ感染者数をにらんで、ワクチン接種の義務化を含めた反ワクチン派の人々への干渉をしきりに考慮している。

不穏な空気の中、ミラノ・スカラ座は例年通り127日に開演した。

スカラ座の初日が127日と定まったのは1951年である。元々は1226日が初日と定められていて、それは1939年まで140年間同じだった。

127日と決められたのは、その日が街の守護聖人「聖アンブロージョの祝日」だから。

ミラノのクリスマスシーズンは、「聖アンブロージョの日」を境に始まる。無原罪の御宿り」を契機とするイタリア全国よりも1日早いのである。

昨年はコロナ禍でスカラ座も閉鎖された。

ことしはやはりワクチン様様で公演が可能になり、およそ40万円の特等席を含む全てのチケットが、1126日に販売開始から数時間で売り切れた。

オープニングにはマタレッラ大統領も出席した。

大統領は来年2月に退任する。それを惜しんで劇場では「マタレッラ2期目を!」コールが湧き起こった。

そうした世の中の動きを追いかけつつ、僕は菜園でまた少し仕事をした。

ここのところ野菜尽き菜園づくめになっている。

温暖化のせいらしい野菜たちの変化が気になるのである。

ひと言でいえば、12月に入っても夏野菜の幾種類かが収穫できていることへのおどろきと、喜びと、そして不審。

たとえば127日。

スカラ座初日のニュースに気を取られたわけではないが、翌128日が大雪になるというニュースを見逃した。

夜になって予報を知ったが、時すでに遅し。ミックスサラダ菜などの夏野菜は朝までには雪で全てダメになるだろうと観念した。

明けて128日。

5時に起きて書斎兼仕事場から暗いぶどう園を見渡したが、雪が積もっている様子はない。

まだ降り出さないのである。

8時前、どんより曇った空がようやく少し明るくなった。急ぎ菜園に行きミックスサラダ菜ほかの野菜を全て刈り取った。

その後でこれから成長する白菜や大根に雪除けの網をかぶせた。

その際、虫食いの激しい白菜3株も引き抜いた。食害の犯人はヨトウムシとカタツムリが多い。

結球しかけている玉を割ってそれを確認し、退治法を考えようと思った。

空気は冷えて雪の前兆が明白に漂っていたが、作業を全て終わるまで雪は落ちてこなかった。

結局、雪は夕方になって少し降っただけだった。しかもすぐに雨に変わり、雪は溶けて跡形も無くなった。

北イタリアはあちこちでドカ雪になったが、僕の住む一帯はほとんど降雪がなかった。

あわてて野菜を収穫したことを悔いたがもう後の祭り。

無理して収穫した野菜たちの量は今回もまた多い。

できるだけサラダで食べるが、食べきれないときは他の食材と炒めたり、茹でて保存に回したりと、店で買い求めた野菜なら決してやらない余計な仕事を、自分に課す羽目になった。





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先に見え隠れする不都合な真実

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2021126日、イタリアでは「スーパーグリーンパス」制度が施行された。

それ以前に効力があった「グリーンパス」は、①ワクチンを接種した者、 ②コロナから回復した者、 ③48時間以内の陰性証明がある者に与えられた。

「スーパーグリーンパス」はそこから③を除いた証明書。

古いグリーンパスは今後も有効だが、ワクチンを接種しない者は、仕事や交通機関を利用する場合以外はどこにも行くことができず、公共施設も利用できない。

一方でワクチンを接種した者とコロナから回復した者は、これまで通りレストラン、劇場、映画、コンサートなど、自由に娯楽を楽しむことができる。

それを「スーパーグリーンパス」と呼ぶのである。

実質的にワクチン未接種者をロックダウンした形、と考えてもいいだろう。

次に来るのはワクチン接種の義務化となりそうだ。

だが、今日まで頑強にワクチン接種を拒否している人々を翻意させるのは容易ではない。

反ワクチンが宗教の域にまで達している少数の過激な人々と、接種をためらっている多くの慎重派の人々を明確に区別して政治を行うべきだが、今のところ良い知恵はないように見える。

するとパンデミックはいつまでも経っても収束せず、人々の自由は制限され続ける。

誰もが自由を求めている。

ワクチン接種を終えた者も、接種を拒否する者も。

ワクチンを接種した人々が希求する自由は、反ワクチン論者も懐抱する。パンデミックを終息させて、社会全体で共に自由になろうとするものだからだ。

片や反ワクチン派の人々が希求する自由は、ワクチン接種そのものを拒否する自由という、彼ら自身の都合のみに立脚したものである。

そして彼らのその自由は、社会全体が不自由を蒙る、という断じて無視できない害悪をもたらす可能性を秘めている。

国家権力は将来、パンデミックの終焉が望めない、あるいはさらに遅れる、と判明した場合には必ずその害悪を回避しようと動き出すだろう。

その際に暴力の行使が決してないとは誰にも断言できない。

そしていま現在の世相は、国家権力がそんな不快な方向に向かうよう後押ししていると見えないこともない。

そうなれば、ファシズムの到来である。

それはだが、国家権力のみの咎ではない。反ワクチン派の人々が招く不都合な真実だ。

そうならないための鍵は、政府とワクチン未接種者双方の今後の動きの中にある。



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息苦しい報道キャスターは見ているこちらも息苦しい

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NHKの主だった番組は衛星を介してよく見ている。見過ぎるほど見ていると言ってもいいかもしれない。

僕はBBCほかの衛星英語チャンネルとイタリアの地上波も見ているが、両者はニュースとドキュメンタリー、またスポーツ番組以外はほとんど見ない。

一方、日本語の衛星放送は、ニュース、ドラマ、バラエティ、ドキュメンタリー、スポーツなど、あらゆるジャンルの番組をひんぱんに見ている。

僕がテレビをよく見るのは、自身が番組作りをするテレビ屋で且つテレビ番組が大好きだからである。それに加えて日本語や日本文化への渇望感があることが大きい。

かつてはインターネットはおろかテレビの日本語放送などなかった。

その頃は帰国するたびに、大量の本や雑誌を買い込んでイタリアに戻るのが僕の習いだった。週刊誌などはイタリアにいる時は広告までむさぼるように読んだ。

本は昔も今も変わらずに読む。読書は僕の最大の娯楽だ。しかし、日本語のテレビ放送の視聴に費やす時間が増えた分、読書量は減った。

昨今はそこにインターネットで遊ぶ時間も加わって、読書量がさらに削られることは否めない。

しかし、インターネットではかつて本で得ていた情報も得られるので、その領域の場合は時間的には差し引きゼロというところかもしれない。

役に立たない小説などの読書量が減ったのが少し苦しい。

情報や数字や理屈や経済などを語る本は人間を豊かにしない。知識が増え理屈っぽくなり論難に長けた専門バカ風の人間が出来上がるだけだ。

役に立たない小説本ほかの書籍の中にこそ、心を豊かにし情緒を鍛え他者を慮る繊細を伸ばす力が詰まっている。

前置きが長くなった。

NHKをはじめとするテレビの報道番組のキャスターについて語りたい。

僕は仕事でもまた視聴者としてもNHKに大きくお世話になっている。NHKのファンである。

ファンであるばかりではなく、世界のテレビ局とも付き合ってきたプロのテレビ屋としても、NHKを高く評価している。

NHKは報道、ドキュメンタリー、それにドラマ部門で英国のBBCに匹敵する。それらの3部門でBBCに劣るのは、報道における「時の政権」への批判精神だけだ。

いや、批判精神はあるのだろうが、日本の政治また社会風土ゆえに表立ってそれを標榜できず、結局権力に屈するような報道姿勢が垣間見える。

それでもNHKは日本のメディアの宝だ。BBCがイギリスの至宝であるように。

さて報道のうちの、NHKの顔とも言える夜9時のニュースキャスターが最近気になる。今このときで言えば和久田麻由子アナウンサーの身ごなし。

和久田麻由子アナは、美しい顔を皮膚のすぐ下あたりからこわばらせてしゃべる癖がある。

その時は彼女は、ひとりで懸命に深刻になっていて、あたかも世の中を嘆いてみせることがキャスターの役目と弁えているようだ。

聞くところによると彼女は学生時代に演劇を勉強した経験があるという。

表情の豊かさはそのあたりから来ているのだろう。しかし、報道は演技ではない。彼女はもっと淡々と語り、読み、表現するべき、と思う。

彼女が例えば難民の子どもの苦しい生活や、世界の悲劇や、貧困者の苦難や殺人事件などを報道するとき、まるで世界の悲しみをひとりで背負っているのでもあるかのように眉をひそめ、苦悶の表情をするのは少しうっとうしい。

相方の話に相槌をうちつつ、テレビ目線でこちら(テレビカメラ)に向かって流し目を送るのも、全く最善とは言いがたい。

彼女の意図は分かる。視聴者をリスペクトして視聴者の感興を求めて彼女はカメラに視線を投げている。だがそれは行過ぎた所作だ。やはり演技が過ぎるように思う。

キャスターが余計な表現をする習慣は、前任の桑子真帆アナウンサーあたりから顕著になった。

一つ一つのニュースを読み上げた直後に、桑子アナは唇をくいと大げさに引き締める。読後に唇がかすかに開くことを戒めているのだろうが、なんとも不自然な表情だった。

そのスタイルは相方の有馬嘉男キャスターが始めて、桑子アナも真似した印象が強い。むろん有馬キャスターのその仕草も決して見栄えの良いものではなかった。

和久田麻由子アナはその習いを受け継いで、さらに悪化させたと僕の目には映る。

報道番組のキャスターの態度が見ていてつらいこと以外にも、和久田アナの行状が好ましくないもっと重大な理由がある。

悪いニュースにことさら反応して胸の内を表現するなら、彼女は自分が気にいらないニュースにはいつも眉をひそめたり悲しんだり怒ったりしなければならない。

さらに例えば、彼女が支持しない政党の候補者が選挙で当選した場合も不快な気分を露わにしなければならない。報道キャスターとしてそれが許されないのは明らかだ。

彼女は以前、イタリアのベニスで女性受刑者を追いかけるバラエティドキュメントのリポーターをしたことがある。

僕はリポーターが誰なのか全く知らずにその番組を見ていた。若い女性リポーターからは、性質の素直と思いの深さがあふれ出ていて、美しいほどだった。大分あとになって僕はそれが和久田麻由子アナだと知った。

彼女はその分野にふさわしいキャラだと思う。

バラエティ系のドキュメンタリーやソフトニュースなどよりも、定時のニュース番組が格上という暗黙の理解がNHKにはある。

だから和久田アナも定時番組のキャスターになったことで、必要以上に固まって深刻さをアピールする傾向があるようだ。才能豊かな人だけにそれはとても残念だ。

和久田アナは報道ではなく、例えば小野文恵アナウンサーのようにバラエティ系番組の中でこそ最も輝くと思う。その方向に行かないのなら、彼女はもっと感情を抑えて報道しニュースを読む努力をすべきではないか

和久田アナに似たケースが、イタリアの公共放送RAIでも起きている。

RAIの看板番組である夜8時の女性キャスターの一人も特異な報道をする。

見ていてひどく居心地が悪い。

彼女の名前はラウラ・キメンティ(Laura Chimenti)。ニュースを読むのに大きく声を張り上げ挑むような調子で進む。

報道局内でセクハラやパワハラに遭っていて、それを告発したい思いが奇妙な調子になっているのではないか、とさえ僕などは意地悪く考えたくなる。

その枠にはほかにも3人のメインのキャスターがいる。男性2人と女性1人。

そのうちの女性キャスターはエンマ・ダクイノ(Emma D`aquino 。彼女は、例えばフランス2の有名キャスター、アンヌ・ソフィー・ラピ(Anne-Sophie Lapix)を彷彿とさせる。

落ち着いた、自然体の 、従って知性味にもあふれた優れたキャスターである。

和久田麻由子アナも、ここイタリアのラウラ・キメンティアナも、エンマ・ダクイノキャスターやアンヌ・ソフィー・ラピキャスターの爪の垢を煎じて飲めとまでは言わないが、少し見習って出直したほう良い。

この際なのでひとつ余計なことも付け加えておきたい。

和久田アナがときどき披露する、思わずのけぞってしまうほどにひどいファッションセンスは、歌手の夏川りみとどっこいどっこいの、どうでもよいことだと笑い、流して見ていられる。

が、彼女の余計な仕草や思い入れはそうは捉えられない。時間とともに少なくなっているようにも見えるが、ぜひとも改めてほしい。

一人の NHKファンとして切に願う。

もうひとつNHKへの苦言があるが、長くなるので次に回すことにした。




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目からサラダでうろこが落ちた話  


12月一日収穫全体800

2021年11月末日、寒くなった菜園でなにごともなかったかのように繁茂している、チンゲンサイ、ピーマン、ナス、ルッコラ、春菊、ミックスサラダ菜を収穫。

そのうちナスと春菊はほぼ全て採り込んだが、ほかの野菜はまだ菜園に残っている。

急速に寒気が深まればたちまち朽ちるだろうが、いまこのときは十分に青く健やかだ。

温暖化の力は全くもって驚異的である。

収穫したチンゲンサイとナス以外の野菜をツナと混ぜて、オリーブ油と醤油で和えて昼食に。

食べきれないので、野菜はツナを加えたり除いたりしながら、4、5日は続けて食べ、それでも残れば豆腐やハムなどと炒めて食することになる。

サラダをオリーブ油と醤油だけで食するのは、2、3世紀も前のロンドン時代にイタリア人の妻が発明した食べ方。

当時は生野菜をそんな和え方で食べたことがなかったのでびっくりした。

若くて腹を空かしていた僕は、そのころはまだ結婚していなかった若い妻の感覚にあきれながらも、食べてみた。

おいしさにふたたびびっくりした。

それ以来、わが家ではツナのあるなしにかかわらずサラダは常にオリーブ油と醤油で和えて食する。

友人知己を招いての食事会でも同じ。

ただし、食事会で出すサラダは付け合せなのでツナは加えない。新鮮な野菜をオリーブ油と醤油のみで和える。

評判はいつも上々である。

すでに知っている者は、それが楽しみ、と口にしたりもする。

妻はやはりまだ若かりしころ、茶碗蒸しをラーメン用の丼鉢で作って僕を仰天させたこともある。

どうしたのだ、と訊くと、おいしいからたくさん作ったの、と涼しい顔で言う。

ナルホド、と目からうろこが30枚ほど落ちた。

小さな鉢に少なく作るからおいしい、というのは真実だが心理的である。

おいしいから大きな鉢にたくさん作る、というのは真理であり物理的である。

若くて腹を空かしていた僕は、妻の物理的な真理に大いに感心した。

背中に負っている文化が違う者同志が一つ屋根の下で暮らす。

すると摩擦も起きるが文化の化学反応も起きて面白かったりもする。

地球温暖化も障害ばかりではなく何か取り柄があってほしいものだ。

だがいまのところ分かるのは、菜園で野菜の寿命が伸びるケースもあるというささやかなメリットのみ。

一方では地球そのものが危機に瀕しているのだという。

12月に夏野菜が収穫できることを喜んでばかりもいられないのである。

だからといって菜園に罪があるわけではなく、個人的にはむしろ、温暖化による異常気象を感触できる「装置」としても小さな野菜畑を重宝している。





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ハゲとオッパイ

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ハゲとオッパイ

カラフル絵

最近、筆者は急速にハゲてきています。年齢も年齢ですから珍しいことではありませんし、血筋もハゲの系列ですので、さらに大きくハゲることへの覚悟もできています。

それでも、ハゲるのはなんだかイヤだなぁという気分がどうしてもついて回ります。それどころかハゲることが不安のようでもあります。われながらうっとうしいもの思いです。

なぜそうなのか、と考えつづけていたら見えてきたものがあります。

つまり、ハゲは実は女性の問題であり、そう考えてみると、なんとオッパイは実は男性の問題なのではないか、というオソロシイ結論に至りました。

そこで筆者は自分のコワイ発見を、日本のある新聞のコラムに寄稿することにしました。

筆者はこれまで新聞雑誌にも結構記事を書いてきましたが、長く連載を続けているのはそのコラムだけです。つまり筆者とその新聞は、まあまあ強い信頼関係にある、と筆者は考えています。

それにも関わらずその短い記事は、連載開始以来はじめてボツという憂き目を見ました。

記事は次のような内容でした:

ハゲとオッパイ
ハゲは女性の問題であり、オッパイは男性の問題である。
 つまり、男は女のせいでハゲを気にし、女は男のせいでオッパイの大小を気にする。
 僕は男だから100%分かるのだけれども、もしもこの世の中に男しかいなかったなら、男の誰もハゲなんか気にしない。自分のハゲも他人のハゲも。
 たとえば僕は男オンリーの世界でなら、僕の周りの男どもが全員ハゲで、かつ自分が彼らの百倍ハゲていたとしても、まったく気にならないと断言できる。
 世の中の女性が男のハゲを笑い、男のハゲを気にするから、僕ら哀れな男どもはハゲに強烈な恐怖心を抱いている。
 それと同じことがもしかすると女性の側にも言えるのではないか。
 つまり、女性は世の中の男どもが巨乳とかボインとか爆乳とか面白おかしく話題にするから、自分のオッパイの大きさを気にするのではないだろうか。
 もしもこの世の中に女しかいなかったら、自分の胸や他人の胸のデコボコが高いか低いかなんて、全然気にならないのではないか。ハゲは女性の問題であり、オッパイは男性の問題である、とはそういう意味である。
 ところで、男のハゲを気にするのは日本人女性が圧倒的に多い。ここイタリアを含む西洋の女性たちは、男性のハゲをあまり気にしない。
 大人の感覚とも言えるが、欧米人男性が元々毛深くてハゲが多いせいもあるのだろうと思う。女性が男のハゲに寛大だから、西洋の男どもは日本人男性ほどにはハゲを悩みにしていない。
 そんな訳でヤマトナデシコの皆さん、あんまりハゲ、ハゲと僕ら哀れな男どもを笑うのをやめてくれませんか?

記事が掲載拒否になった理由は、ハゲは不快用語で、オッパイという言葉も新聞では使いにくい、というものでした。

ところが実は、まさにハゲが不快用語だからこそ、ほぼハゲである筆者はそれを問題にしました。

つまりハゲと言う言葉に恐怖心を抱いている(不快感をもっている)筆者は、その言葉が無神経に流布している現実への密かな抗議と、また自己防衛の思惑からそのコラムを書きました。

他人にハゲと言われる前に自分で言ってしまえ、というあの心理ですね。

ところが新聞はそこのところを全く無視して、ハゲと言う言葉には読者が不快感を抱きかねないので掲載できない。またオッパイの大小も個性の問題なのであり、これも読者が反発しかねない、という奇妙な論理でボツにしました。

ハゲと言う言葉に不快感を持つ読者とは、つまり「ハゲている読者」のことであり、それらの読者は筆者の同志です。彼らこそまさに、筆者のこのコラムを読みたい人々のはずなのです。

それなのに新聞は、一歩間違えば偽善的とさえ言われかねない自らの考えに固執して、そのことに気づかないように見えます。

またオッパイの大小が女性の個性の一つだというのは、まさにその通りです。

ところが世の中の男どもは、その個性を個性として認めようとはせず、ま、いわば劣情に曇った目で女性の胸を見て、あれこれ品定めをし辱(はずか)しめます。

巨乳よ爆乳よ、とはやし立てるばかりではなく、その逆の大人しい胸を貧乳やペチャパイ、壁やこ(小)っぱいなどと揶揄したりします。

そのことを指摘して、そんなものは男のたわ言であり身勝手な魂胆なのだから、無視して堂々としていた方が良い、というのが最終的には筆者の言いたいところです。

その趣旨は筆者の短い文章の中に十分に示唆されていると考えます。もしもそうでないのなら、それは筆者の文章力の拙さが第一の原因です。

だが、同時にもしかすると、新聞人のあり余るほどの自信と無明がその目を曇らせている、ということもあり得るのではないでしょうか。


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イタリアの化けは偽者だったかも、かい? 

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イタリアは2022年W杯出場権を逃したかもしれない。

W杯欧州予選グループCでスイスに首位を奪われて、激烈な「仁義なき戦い」が繰り広げられるに違いないプレーオフに回ったからだ。

しかもそこでは強豪国のポルトガルと激突する可能性が高い。

プレーオフ決勝戦で敗れれば、イタリアは2018年に続いて2大会連続でワールドカップから締め出されることになる。

イタリアは2006年にW杯を制して以降、深刻な不振に陥り、2018年にはW杯ロシア大会への出場権さえ逃した。

だが同じ年にロベルト・マンチーニ監督が満を持して就任。再生へ向けての治療が開始された。

治療は成功してイタリアは回復。2021年7月には53年ぶりに欧州選手権を制した。

イタリアの長い低迷の最大の原因は、違いを演出できるファンタジスタ(ファンタジーに富む創造的なフォーワード)がいないからだ、と僕はずっと考えそう主張してきた。

だがマンチーニ監督は、ファンジスタが存在しないイタリア代表チームを率いて、見事に欧州選手権で優勝した。

彼はそれによって、傑出した選手がいないイタリアチームも強いことを証明し、彼自身に付いて回っていた「国際試合に弱い監督」という汚名も晴らした。

僕も彼の手腕に魅了された。

マンチーニ監督がいる限り、再生したイタリア代表チームの好調はしばらく持続する。欧州選手権に続くビッグイベント、2022W杯でも活躍し優勝さえ視野に入ったと考えた。

ところが早くも障害にぶつかった。楽々と予選を突破をすると見られた戦いで引き分けを繰り返し、ついにはプレーオフに追い込まれた。

しかも運の悪いことにそこには、前回の欧州選手権を制したポルトガルも同グループにいる。順当に行けばイタリアとポルトガルは、一つの出場枠を巡って争う。

イタリアは欧州選手権で優勝した後、軽い燃え尽き症候群に陥っている。そのことが影響してCグループでスイスの後塵を拝したと見ることもできる。

プレーオフで強豪のポルトガルが立ちはだかるのは想定外だが、障害を克服した暁にはイタリアは「逆境に強い伝統」を発揮してW杯で大暴れするかもしれない。

いや、きっと大暴れする、と言えば明らかなポジショントークだが、客観的に見てもその可能性は高そうだ。

だが強いポルトガルには世界最強のプレーヤーのひとりであるロナウドがいる。ロナウドはひとりで試合をひっくり返す能力さえある怖い存在だ。

イタリアと対峙するときのロナウドは、さらに怖さを増すことが予想される。

それというのも彼は、3年間所属したイタリアのユヴェントスからお払い箱同然の扱いでトレードに出された。アッレグリ新監督の意向だった。

過去の実績を頼りに自信過剰になったアッレグリ監督は、ロナウドはその他大勢のユヴェントス選手となんら変わるところはない。全て私の指示に従ってもらう、という趣旨の発言をした。

「ユヴェントスを勝利に導くのは、一選手に過ぎないロナウドではなく優れた監督であるこの私だ」という思い上がりがぷんぷん匂う空気を察したロナウドは、静かにユヴェントスを去った。

そうやって英国プレミアリーグに復帰したロナウドは、早速9月の月間MVPに選ばれるなど衰えない力を見せつけている。

一方、ロナウドのいないユヴェントスを率いるアッレグリ監督は絶不調。間もなく解任されそうな体たらくだ。

ロナウドはアッレグリ監督への恨みつらみはほとんど口にしていない。だが、いつもよりも激しい闘志を燃やしてイタリア戦に臨みそうだ。だから怖い。

それでもイタリアがロナウドのポルトガルを退けてW杯本戦に乗り込んんだ場合には、イタリアのほうこそ怖い存在になるだろう。

そしてその後、W杯本戦をイタリアが強いのか弱いのか分からないじれったい調子で勝ち進むなら、イタリアの5度目のW杯制覇も夢ではなくなる。

イタリアはヨタヨタとよろめきながら勝ち進むときに真の強さを発揮する。

それが魅力の、実に不思議なチームなのである。




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カダフィの亡霊

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2011年、アラブの春の騒乱の中で殺害されたリビアの独裁者ムアマー・カダフィ大佐の息子セイフイスラム氏が、12月の大統領選挙への立候補を表明した。

イフイスラム氏はカダフィ大佐の次男。かつては独裁者の父親の最も有力な後継者と見なされていた。

そして彼は父親から権力を移譲された暁には、欧米民主主義世界と親和的な立場を取るだろうと期待されてもいた。

それというのも彼がロンドンの著名大学ISEロンドン・スクール・オブ・エコノミクス・アンド・ポリティカル・サイエンス )で学び、英語にも堪能だからである。

欧米のメディアは時として、独裁者の子弟やその対立者が欧米で学んだ場合、彼らが民主主義に洗脳されて帰国後に同地に善政や徳をもたらすと単純に考えることがある。

例えば先年死去したジンバブエのムガベ大統領やシリアのアサド大統領夫妻などがその典型だ。

だがムガベ大統領は英国から帰国後にジンバブエに圧制を敷いた。同じく英国で眼科を学んだアサド大統領は、シリアを牛耳って民衆を苦しめ殺害し続けている。

またアサド大統領の妻アスマは、一時期は欧米メディアに「砂漠のバラ」「中東のダイアナ妃」などと持ち上げられたが、後には夫に負けるとも劣らない民衆の敵であることが暴露された。

欧米のメディアは、ロンドン大学の一角を成すISEに留学したイフイスラム・カダフィ氏にも過剰な期待を寄せた。だが前述のように彼も民衆を弾圧する暴君であると明らかになった。

セイフイスラム氏は、2011年のリビア内戦で父親が殺害されたことを受けて逃亡を余儀なくされた

また同年には父親に寄り添って民衆を弾圧したことに対して、ICC(国際刑事裁判所)が「リビア国民への人道に対する罪」で彼に逮捕状を出した。

逃亡したセイフイスラム氏は、砂漠で反政府軍につかまり裁判で死刑を宣告された。しかし2017年には釈放された。理由は判然としない。

セイフイスラム視以外のカダフィ大佐の家族も殺害されたり国外に逃亡したりしたが、その際彼の妻と息子らは国庫から莫大な富を盗み出したと見られている。

その富は、カダフィ大佐が40年以上に渡ってリビアの石油を売っては着服し続けた莫大な資金と重なって、さらに膨らんで天文学的な数字になるとされる。

だがカダフィ政権が崩壊して後のこれまでの10年間で、秘匿された金がリビア国民に返還されたことは一切ない。

セイフイスラム氏は、政治的な動きが特徴的な存在で、家族とは別行動を取っている。だが、何らかの方法でリビアから盗み出された金を流用しているとも信じられている。

彼は自国民を虐殺した罪とリビア国民の財産を盗んだ無頼漢だが、10年の逃亡生活を経てあたかも何事もなかったかのように表舞台に登場した。

リビアは2011年以来、ほぼ常に内戦状態にある。独裁者のカダフィ大佐はいなくなったものの混乱が続いて、独裁にも劣らない非道な政治がまかり通っているのだ。

セイフイスラム氏はその混乱に乗じて大統領選挙に立候補した。もしも彼が当選するようなことがあれば、リビア民衆は2重3重にカダフィ一族の横暴にさらされることになるだろう。

リビアの政治状況はここイタリアに影響をもたらす。リビアがかつてイタリアの植民地だったからだ。イタリアには同国への負い目がある。

イタリアはドイツと同じように過去を清算し、謝罪し、リビアとも良好な関係を築いている。日本のように歴史修正主義者らが過去を否定しようと騒ぐこともない。

だがリビアは近年、地中海を介してヨーロッパに渡ろうとするアフリカや中東などの難民・移民の

中継地となっている。リビアと親しいイタリアが目と鼻の先にあるからだ。

イタリアはリビアと連携して不法な難民・移民の流入を阻止しようと努めているが、リビアの政治状況が不安定なために中々思い通りには進まない。

世界はトランプ米大統領の登場やBrexit、また欧州大陸に台頭する極右など、風雲急を告げる状況が延々と続いている。

そこにコロナパンデミックが起きて、国際社会はますます分断され、憎悪と不信と不安がうずまく重い空気に満たされている。

消息不明の闇の中からふいに姿をあらわして、リビアの大統領選挙に立候補したセイフイスラム氏は、混乱する世界のもうひとつの象徴に見えて不気味でさえある。

同時にイタリアにとっては、隣国でかつての植民地であるリビアが、一体どこに向かうのかを示唆しあまつさえイタリアの国益にも大きく影響しかねない、極めて現実的な存在なのである。



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ワクチン過激派に転じたオーストリアの活眼

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11月15日からワクチン未接種者をロックダウンしたオーストリアは、22日からは対象を拡大して全国民の移動を禁止する完全ロックダウンに入る、と発表した。

オーストリア政府は、およそ200万人のワクチン拒否者の国民をロックダウンするだけでは感染爆発を抑えられない、と判断したのである。

完全ロックダウンはクリスマス前まで。結果が思わしくなければ、ワクチン未接種の国民だけに再びロックダウンを掛ける予定。

オーストリア政府はまた、来年2月からは12歳以上の住民全員へのワクチン接種を義務づける方針も発表した。

実行されれば、欧州では初めての措置となる。

欧州を襲っている第4波は、東欧各国と隣接するオーストリア、またドイツ等を大きく巻き込んで急拡大している。

中でも人口が900万人に満たない小国オーストリアは、1日当たりの感染者数が1万人を超えて、医療危機を含む深刻な事態に陥っている。

そこで反ワクチン人口のロックダウンを断行し、それだけでは飽き足らずに完全ロックダウンに踏み切り、果てはワクチン接種の義務化さえ強行する計画である。

イタリアのお株を奪う初物づくしの厳格な施策のオンパレードだ。

2020年、コロナの感染爆発と医療崩壊に見舞われたイタリアは、世界初の全土ロックダウンを敢行した。前代未聞のアクションだった。

イタリアはその後も世界初や欧州初という枕詞がつくコロナ対策を次々に打ち出した。

おかげでイタリアの感染拡大は比較的に小規模で推移してきた。

しかし隣国のオーストリアは、これまでのワクチン接種率が65%に留まり、急激な感染拡大に襲われている。

オーストリアはそれを踏まえて過激な措置を連発しているのである。

ところがオーストリアの苦境は、その北隣の大国ドイツにも伝播しつつある。

そればかりではない。

過酷な全土ロックダウン以降も厳格なコロナ対策を取り続けて、困苦をなんとかしのいできた南隣の大国、ここイタリアにも波及しようとしている。

イタリアを含む欧州各国は、今このときに厳格なコロナ対策を導入して感染を減らし、少しでも平穏なクリスマスを迎えたいと画策している。

平穏なクリスマスは、旺盛なクリスマス商戦と経済興隆を呼び込む。

その意味でも万難を排して感染拡大を阻止したいのである。

だがその思惑は、ワクチンを無体に拒み続ける人々の存在によって阻害される可能性が高い。

そこで各国政府は、国民の分断をさらに深めかねないことを承知で、反ワクチン人口の封鎖やワクチン接種を義務化して危機を乗り切ろうとしている。

それが功を奏するかどうかは、ワクチン接種をためらう人々のうちの一定数が翻意して、接種会場に向かうか否かにかかっている。

ワクチンの接種を義務化しても、彼らの家に押しかけたり引きずり回したりして注射を打つわけにはいかない。

中国や北朝鮮などに始まる、世界のならず者国家でなら朝飯前だろうが。

結局、彼らを説得する以外には道はないように見える。

それでも敢えて反ワクチン派の住民をターゲットに厳しい措置を取らなければならないところに、コロナ対策の険しさがある。

オーストリアは欧州各国に先駆けて敢えて過酷な選択をした。僕はその決断を支持し施策の成功を腹から祈ろうと思う。




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反ワクチン派は強制ロックダウンがいやなら自らを「自由意志で自由に」ロックダウンすれば良い

則イラスト鼻毛up800を100

オーストリアはコロナ感染急拡大を受けて、2021年11月15日からワクチン未接種者をロックダウンしている。

事実上国民の4分の一強が対象となる。オーストリアではワクチン接種対象の国民のほぼ3分の一が接種を拒否している。

言葉を変えれば、反ワクチン派の住民を外出禁止措置にした時点で、同国のワクチン接種率は65%程度。EU加盟国内では最低水準の接種率である。

ロックダウンによって彼らは仕事や食料品の買出し以外には外出できない。警察は抜き打ち検査で違反者を洗い出す。

違反すると最高1450ユーロ(19万円弱)の罰金を科される可能性がある。

オーストリアの隣国、ここイタリアのコロナ感染者もじわじわと増えて、11月17日の感染者数は1万人を超えた。ことし5月以来となる高水準だ。

ドイツの1日あたり5万人超よりは状況はましだが、感染は拡大の一途をたどっている。

感染した者の多くがワクチン未接種者である。

また集中治療室に運ばれた患者のおよそ8割もワクチンを接種していない者である。

ワクチン拒否者は自主ロックダウンに入るべきだろうが、そんな良識を彼らに求めても無理だろう。

なのでイタリアもオーストリアを倣って彼らへの封鎖を強制するべき時期に来ているのかもしれない。

欧州では感染対策の厳しい措置は、これまでほとんどの場合はイタリアが先鞭をつけきた。

2020年2月、イタリアは孤立無援のままコロナ地獄に陥った。そこには見習うべき規範が何もなかった。

イタリアは暗中模索で世界初の全土ロックダウンを敢行した。

その後も医療従事者へのワクチン接種義務、娯楽施設でのグリーンパス提示義務、全労働者へのグリーンパスの提示義務など、世界初や欧州初という枕詞がつく過酷な施策を次々に導入した。

それは割合にうまく運んで、いくつかの施策は欧州ほか世界の国々が追随した。

現在の感染拡大は欧州では第4波に当たる。その兆しが見えるとすぐに、イタリアではワクチン接種の義務化や、ワクチン未接種者へのロックダウンを敢行するべきという声も起こった。

だが、それらは実現されずに来た。ここまでに繰り出された厳格な施策が功を奏して、感染拡大が比較的ゆるやかだったからだ。

その一方で、ドイツやオーストリアまた東欧諸国では感染が急拡大した。原因はワクチン接種率の低さだと見られている。

そして先日、冒頭で触れたように、オーストリアがついにワクチン拒否者にロックダウンを強制することになった。

ドイツも東欧各国もオーストリアに続く可能性がある。

イタリアもクリスマスを前に反ワクチン人口に外出規制をかけるかもしれない

ワクチン接種が自発的な選択で成されなければならないのは、民主主義世界では自明のことだ。

誰も個人の自由や権利を冒すことはできないし冒してもならない。

それでもワクチン拒否を押し通す人々のせいで感染拡大が続くならば、政府は国民の健康を守るためにそれらの人々に外出禁止などの強い枷をかけるだろう。

緊急事態だからその措置は許されるべき、と僕も考える。

個人の自由を盾にワクチンの接種を拒絶している人々は、イタリア政府に強制される前に、自らの「自由意志で自由に」ロックダウンを導入してはどうだろうか。

そうしなければ感染拡大が繰り返され、社会全体の行動の自由が引き続き制限される可能性が高い。

「自らの自由は守るが他者全体の自由はどうにでもなれ」という態度では、他者である世論全体には中々理解されにくい。

反ワクチン派の人々はそろそろそのことに気づいたほうが良い。



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温暖化の恩恵は悪魔の囁きか~2021年11月現在の菜園始末記

則手唐辛子空に掲げる800

地球全体の気温上昇を1.5℃までに抑えようとするCOP26は紛糾し、会議期間が一日延長されたにもかかわらず、またもや問題を先送りにする採択をしてお茶を濁した。

誰もが問題の核心を知っていて、誰もがエゴむき出しにして自らの犠牲を逃れようとする。

地球を健康体に戻そうとする試みは相変わらず困難を極めている。

太平洋の島国をはじめとする被害国を除いて、CO2大量排出国のほとんどが、問題を真に自らの痛みとして捉えられないことが混乱の原因だ。

地球規模で破滅をもたらすかもしれないと恐れられる温暖化と、それによる気候変動は、ことし夏のイタリアに48,8℃という欧州記録の異常気温をもたらした。

欧州ではその1ヶ月前の7月、ドイツ、ベルギー、オーストリアなどを豪雨が襲って河川が氾濫し、多数の人命を含む大きな被害が出た。

言うまでもなく温暖化は単に気温を上昇させるだけではなく、異様な酷暑、豪雪、山火事、巨大台風、海面上昇などの異常気象をもたらすとされている。

異常気象は高温と冷温が交互にやって来るような印象もあって、特に冷温やドカ雪が降ったりすると、熱をもたらすという温暖化は実は嘘ではないか、という誤解を与えたりもする。

トランプ前大統領に代表されるポピュリストらは、そのことを利用して温暖化理論はまやかし、と叫んで世界をさらに混乱に陥れようと騒ぐ。

僕の菜園の野菜たちにも一見混乱がもたらされる。温暖化によって野菜の成長が極端に早まり、あっという間に花が咲いて結実する。それは植物の早い死滅を意味する。

ところが一方で、気候がいつまで経っても温暖なために、夏の終わりには命を終える野菜たちが長く生き続ける、という一見矛盾した現象も起きるのである。

僕の菜園ではほぼ毎年それに近い変化が起きている。だが自然の変化は異様なものではなく、人間だけが不審がる「自然の常態」、というのがほとんどだと思う。

そうはいうものの、近年はそれが普通の域をはるかに超えて、実際に「異変」になっていると感じられることが多い。つまりそれが温暖化の影響ということなのだろう。

異様さは近年はますます目立つようになっている。例えば僕の菜園では2016年も野菜が極端に長命だった。その年は12月近くなっても多くの野菜が枯れなかった。

だが長命だったのはほとんどが夏の葉野菜だった。実が生る果采類は、夏の終わりから秋の初めには普通に命を終えた。

ピーマン4個列生り11月800

ところがことしはまた状況が違う。菜園の果菜類が長命で、9月にはほとんどが枯れるピーマンとナスが、11月になっても実を付け続けているのである。

トマトも未だ完全には枯れず、わずかだが実を付けている茎がある。

鮮やかな朱色が好きで、ほぼ観賞用だけのつもりで毎年作る唐辛子も健在だった。

唐辛子はもう少し菜園に置いて楽しもうとさえ考えたが、料理用に欲しいという家族のリクエストに応えて収穫した。

ピーマンとナスはまだ育ちそうなので様子見も兼ねていくつか残した。

夏野菜のほかには、冬用に白菜とラデッキオ(菊苦菜)と大根が成長中。

夏の初め、チンゲンザイが異様な勢いで伸び盛り、とうが立つどころか結実して、そのこぼれ種が再び発芽した。

そのことに触発されて、9月、あらたにチンゲンサイの種を別場所にまいた。

その時に間違って大量にこぼした種も発芽した。

間引きをしようと思いつつ、ぼうぼうに盛る様子が面白くて放っておいた。

だがさすがに伸び過ぎた。遅まきながら近いうちに間引きをして、豆腐と豚肉とでも和えて食べる腹づもり。

チンゲイサイの播種ついでに、夏サラダや春菊の種もまいてみた。そのどちらも9月に育てた経験はない。

それらはあくまでも、6月に花が咲き結実したチンゲンサイに刺激されて、実験の意味合いで種をまいたものである。

温暖化、あるいは気候変動を確認したい思いからだ。

チンゲンサイが異常生育をして、収穫前に結実したのは温暖化の負の影響だが、それが再発芽したり 11月まで夏果菜類が収穫できるのは逆に好影響と言えるのではないか。

もっともそうやって喜ばせておいて、最後には大きなドンデン返しがありそうにも見えるのが、不気味でないこともないけれど。。





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菜園のうれしい訪問者

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2021年11月6日土曜日、秋晴れの菜園で仕事中に雉が迷い込んだ。

菜園には小鳥をはじめ多くの鳥がやってくるが、巨大な雉の姿は圧巻だった。

呆然と、しかしワクワクしながらスマホを向けて訪問者の一挙手一投足を追いかけた。

雉は冬枯れの、だがまだ緑も見える、コの字形の僕の菜園の中を行きつ戻りつして動き回る。日差しが強くて僕はしばしば珍客の姿を見失った。

鳥はまるで勝手知ったるかのように菜園を縦横に動き回り、野菜の枯れ色に擬態したり、隠れたり、紛れ込んだりして僕の目をくらました。

菜園は中世風の高い壁を隔てて広いぶどう園につながっている。

ぶどう園は有機栽培である。有機栽培なので昆虫などの生き物が増え、それを狙う動物も目立つようになった

ぶどう園にもたくさんの鳥がやってくる。それを追うらしい鷹も上空を舞う。夕刻と早朝には小型のフクロウの姿も目撃できる。

ぶどう園にはネズミなども生息していると容易に想像できる。

ぶどう園の隣の僕の菜園にも多くの命が湧く。菜園も有機栽培なので虫も雑草も思いきりはびこっている。

ヘビもハリネズミもいる。石壁の隙間や2箇所の腐葉土場の周囲、また夏は野菜とともに生い茂る雑草の中に紛れ込んでいたりする。小さなトカゲもたくさん遊び騒ぐ。

ヘビは毒ヘビのVipera(鎖蛇)ではないことが分かっているので放っておくが、出遭うのはぞっとしない。

向こうもそれは同じらしい。ここ数年は姿を見ないが、脱皮した残りの皮が壁や野菜の茎などにひっかかっていて、ギョッとさせられる。

ヘビは僕と遭遇する一匹か、命をつないだ固体が、今日もその辺に隠れているに違いない。

雉は菜園を行き来しつつ、しきりに腐葉土周りにも立ち止まった。腐葉土の中にはカブトムシの幼虫に似た巨大なジムシが多く湧いている。それを食べるのかもしれない。

雉にとっては隣接する広いぶどう園と僕の菜園はひとつながりの餌場なのだろう。ぶどう園に寄ったついでに菜園も覗いてみた、というところか。

あるいはこうも考えられる。

イタリアはいま狩猟の季節の真っ盛りだ。住宅地に近い山野や畑でも狩が行われていて、パンパンという銃声が絶えない。

雉はもしかすると銃弾を避けて飛来したのかもしれない。それならずっと僕の菜園で遊べばいいが、雉はきっと僕の気持ちも状況も分からないだろう。

でも実は分かっていて、明日も明後日もずっと訪ねてきてくれるのなら、菜園での僕の楽しみがまた増えるのだけれど。




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ミニトランプ・ボルソナロの喜悦 

ボルソナロin Italy650

ブラジルのミニ・トランプ、ボルソナロ大統領がイタリアを訪問して、大方は総スカンを食らったが一部では大歓迎された。

ボルソナロ大統領は、ローマで開催されたG20サミット出席を口実にイタリアを訪れた。彼はサミットでも各国首脳に冷ややかに扱われた。

サミットに出席した各首脳のうちで唯一、新型コロナワクチンを接種していなかったトンデモ男が、ボルソナロ大統領である。

表向きはそのことが冷遇の原因のようだが、米トランプ氏並みの嘘や放言また傲岸な態度への反発もあったと見られる。

また新型コロナを軽視し続けて、ブラジルがアメリカに次いで多い60万人を超える死者を出している事実への非難の空気も強かったとされる。

イタリアの国民の一部はしかし、ボルソナロ大統領を歓迎した。政治家で彼を暖かく迎えたのはイタリアのミニ・トランプ、サルヴィーニ「同盟」党首とその他の右翼の面々。

またベニスに近いアングイラーラでは、ボルソナロ大統領はほとんど熱狂的とも言える持て成しを受けた。彼の先祖はその町からブラジルに移住したイタリア人なのだ。

そこで極右政党「同盟」所属の女性市長が、ボルソナロ大統領に名誉市民の称号を与えた。彼はその授与式典に同地を訪れて大いに歓待されたのである。

世界中から冷たい視線を注がれることも少なくないボルソナロ大統領は、実のところは、イタリアの小さな町での栄誉に気を良くして欧州に来たのではないか、とさえ僕は疑う。

イタリアは痩せても枯れてもG7の一角を成す世界の民主主義大国だ。そこで歓迎を受けることは、何かと非難されることが多い彼にとってはこの上もなく有難い利得に違いない。

新型コロナウイルス感染拡大が続く中、ブラジル国内でのボルソナロ氏の支持率は大きく低迷している。今のままでは来年の大統領選挙での敗北も確実視されているほどだ。

青息吐息の大統領は、たとえわずかでも失地回復に資する可能性があるなら、と考えてイタリアに乗り込んだ可能性は否定できない。

名誉市民の称号獲得、という象徴的な意味合い以外にも イタリアを訪れるメリットはある。同国の右派勢力と親交を深め、あまつさえ提携まで模索することだ。

ボル・サル握手切り取り伊伯のミニトランプが握手

先に述べたサルヴィーニ氏に始まるイタリアの極右勢力は彼とは親和関係にある。しかもイタリアの極右は右派全体の核となって勢力を広げている。

極右を熱狂的に支持する国民は少数派だが、近年は彼らと保守層およびコロナワクチン懐疑派の人々との接点が増えてきた。

そこにトランプ大統領の登場によって勢いを得た、アメリカと欧州の「ネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者」らが交会した。

2018年、イタリアでは極右政党が政権入りを果たした。それと前後して英国ではBrexitが完成し、フランスでは極右の候補者が大統領選の決選投票まで進んだ。ドイツにおいてさえ極右勢力は台頭した。

そうした世界政治の流れは今日現在も続き、トランプ主義者と極右、またそれに親和的な右派の勢いは、多くの国でリベラル派と拮抗するモメンタムであり続けている

その勢力はボルソナロ大統領とも親和的だ。同時にそれは民主主義と対立するという意味で、世界のならず者国家、つまり中露北朝鮮などとも並列して捉えられるべき政治力学だ。

ボルソナロ大統領を歓迎した、極右が主体のイタリアの右派勢力は、次の選挙で政権を握る可能性もある。フランスでも反移民の政情などが手伝って、極右の勢いはとどまるところを知らない。

加えて英国のBrexit勢力も健在だ。それどころか、バイデン大統領が圧倒的な支持を集めない限り、2024年の米大統領選ではトランプ前大統領の復活当選の目もある。

トランプ主義の台頭で分断された世界は、コロナパンデミックによってさらに対立を深め、分断され、懐疑主義が横行した。

世界はボルソナロ的勢力、あるいはトランプ主義者のさらなる跳梁によってますます分断化されて憎しみの多い不安定な状況に陥りかねない。

コロナ渦中にもかかわらず且つワクチン接種さえ受けていないブラジルの“仁義なき戦い”大統領が、イタリアの小さな町アングイラーラで満面の笑みを浮かべる姿を、僕は複雑な思いで眺めたのである。




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2021采園始末~七転び八起き


結実し枯れるサントー采800

野菜つくりをしながら気候変動の徴を見ようと努めているが、ことしはほとんどここに報告しなかった。

理由は単純。

サッカー欧州選手権やオリンピックなどのイベントが多かったこと。コロナ禍が少し落ち着き、ワクチン接種も済ませて休暇旅に出たことなどで時間が足りなかった。

ことしも菜園では不思議なことが起こった。春に種をまいたチンゲン菜とサントー白菜が、異常な速さで生育して、収穫もできないままトウが立ち結実した。

チンゲン菜はトウの立ちやすい野菜とされるが、それでも成長の速度が速すぎるように思えた。サントー采は春まき用の種から芽吹いたもので、こちらもさっさと育って花が咲いた。

結局いちども食べられなかった2種類の野菜だが、チンゲン菜は実って自然に落ちた種つまりこぼれ種が9月に芽吹き、サントー白菜は枯れたと見えた茎から新芽が出た。

チンゲン菜は秋から冬にかけて獲れる野菜だが、僕は春に種をまくことが多い。栽培が容易で放っておいても育つ。それはいいのだが、突然急成長して結実し、こぼれ種から再び芽吹いたのに驚いた。

またサントー白菜も、育ち過ぎて倒れた太い茎のそこかしこから芽が出て、それらが立派に育ちそこそこに収穫することができた。

チンゲン菜もサントー白菜も僕が継続的に育てている野菜ではない。それなので菜園で起きた現象が普通なのか異常な出来事かは判然としない。

ただ両野菜ともに成長がびっくりするほどに速く、一度枯れたものが夏の間に再生して、収穫できるまでに育った。いわば二期作である。不思議ではないか。

二期作は温暖な地方で行われる農業だ。僕の菜園で起きたことも、やはり温暖化と関係しているのではないかと思う。少なくとも空気が寒冷ならあり得ない現象だ。

こぼれ種から芽吹いたチンゲン菜に触発されて、僕は9月に新たに場所を変えてチンゲン菜の種をまいた。

それは問題なく成長した。空気が冷涼だからだろう、トウが立つこともなく、11月1日現在も順調に育っている。

実を言うと僕はチンゲン菜を多くは作らない。チンゲン菜は栽培が春菊やラディッシュ並に簡単だから、その気になればいくらでも作れるが、野菜炒め以外には料理法が分からないのである。

菜園を始めたころは、面白いように育つので毎年作った。だが豆腐や豚肉と炒めて食べるくらいで、それ以上はレシピが広がらない。漬物にもしてみたが具合が悪い。サラダとしてもいまいちだ。

そんなわけで最近は、思い出したときにぱらぱらと種をまくだけになった。ことし敢えて秋にも種をまいたのは、ひとえにこぼれ種の発育に刺激されたからである。

それとは別に秋にはナスやピーマンにも異変があった。どちらも遅くまで枯れずに残って多くの実を付けてくれた。ナスの実はほぼ全てが小さくて硬かった。

一方ピーマンはナスとは違って実が成長し続けるので、11月に入った今も生かしている。急に寒くなったり霜が降りたりしなければまだ育ちそうに見える。

実は2016年にも野菜は長命だった。そのときは11月の終わりになっても多くの野菜が枯れなかった。だがほとんどが葉野菜だった。果采類は秋の初めには普通に命を終えた。

800仕上がり7本半

僕の采園の果采類の王様はトマトである。トマトはほぼ全てソースに使う。ことしは7月、8月、9月と3度に渡ってトマトソースを作った。

以前は7月と8月の2回という年が多かった。作るソースの量は変わらないものの、最近はそれを仕上げる回数が増えた気がする。トマトの生育期間が長くなったのだろう。

するとそこにもやはり温暖化が影響している、と見ていいのかもしれない。





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自由な人々には自らをロックダウンする自由もある


山荘への道2021-10月800

イタリアのワクチン接種は順調に進んでいるが、数日来新規の感染者が増えている。

早めに接種を済ませた人々の発祥予防効果が薄れ出したこと。

ワクチン未接種の人々の感染増加などが原因と見られている。

欧州全体が似通った状況になっている。

反ワクチンの立場が宗教の域にまで達している者や、これを煽る極右の政治勢力はさておいて、ワクチンに懐疑的な人々が未だに多いのは不思議だ。

彼らを説得できない政治が悪いのか、彼ら自身がヘンなのか。

たぶん両方なのだろう。

ワクチン接種は個人の自由意志によるべきだ。

民主主義社会では個人の自由が何よりも大切であることは論を俟たない。

だがその個人の自由を担保する「自由な社会」そのものが、コロナによって破壊されようとしているのが今の現実だ。

もしも未接種の人々のせいでコロナが収束しない、と科学的に証明されるなら、それらの人々には「自由意志で」彼らだけのロックダウンに入ってもらうのが筋だろう。

だが、むろんそれだけでは問題は解決しない。




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日本人に愛されたいと切望した大横綱白鵬の悲哀 


白鵬-宝富士切取550

おどろき

NHKスペシャル「横綱 白鵬 “孤独”の14年」というドキュメンタリー番組を見た。不可解な部分と妙に納得できる部分が交錯して、いかにも「異様な横綱」に相応しい内容だと感じた。

2007年に22歳の若さで横綱になった白鵬は、心技体の充溢したような強い美しい相撲で勝ち続けた。

途方もない力量を持つ白鵬の相撲が乱れ出したのは30歳を過ぎた頃からだ、とNHKスペシャルのナレーションは説明した。

加齢による力の衰えと、“日本人に愛されていない”という悩みが彼の相撲の劣化を招いた、というのである。

加齢は分かるが、白鵬には「日本人に愛されていないという悩みがあった」という分析は、新鮮過ぎて少しめまいがしたほどだった。

僕は引退前5~6年間の白鵬の動きにずっと違和感を抱いてきた。それは30歳を過ぎてから白鵬の相撲が乱れ始めた、という番組の見方とほぼ一致している。

だが僕は白鵬の変化を、彼の思い上がりがもたらしたものと考えてきた。一方NHKスペシャルは、彼の力の衰えと日本人に愛されたいといういわば「コンプレックス」が乱れの原因と主張するのだ。

大横綱の光と影

白鵬は2020年にコロナパンデミックが起きる前までは、荒っぽい取り口も多いものの常に力強い相撲を取っていると僕は感じていた。

今の時代、アスリートの力の衰えをは30歳で見出すのは中々むつかしい。20歳代後半から30歳前後がアスリートの最盛期というイメージさえある。

一方で取り組み前や取り組み後の彼の所作は見苦しかった。鼻や口を歪めてしきりに示威行為を繰り返し、仕切り時間一杯になるとタオルを放り投げたりする

取り組みで相手を倒すとダメ押し気味に殴る仕草をする。ガッツポーズは当たり前で腕を振り肩をいからせてドヤ顔を作る。威嚇する。

仕上げには賞金をわしづかみにして拝跪し、それだけでは飽き足らずに振り回し振りかぶる。日本人には中々真似のできないそれらの動きは品下って見えた。

見苦しい所作は、時間が経つにつれて増えていった。だが20歳代までの白鵬は、冒頭で触れたように心技体の充実した模範的な横綱に見えていたのた。

事実、横綱になって3年後の2010年には、彼の優勝を祝して館内に自然に白鵬コールが起こるほどに彼は尊敬され愛され賞賛されていた。後に目立つようになる醜い所作も当時はほとんど見られなかった。

功績

彼は優勝を重ね、全勝優勝の回数を増やし、双葉山に次ぐ連勝記録を打ち立て、北の湖、千代の富士の優勝回数を上回る記録を作った。そしてついには大鵬の優勝回数を超えてさらに大きく引き離した。

次々に記録を破り大記録を打ちたてながら、彼は相撲協会を襲った不祥事にも見事に対応した。賭博事件と八百長問題で存続さえ危ぶまれた相撲協会をほぼひとりで支えた。

名実ともに大横綱の歩みを続けるように見えた白鵬はしかし、日馬富士、鶴竜、稀勢の里の3横綱の台頭そして引退を見届けながら徐々に荒れた相撲を取るようになった。同時に取り組み前後の所作も格段に見苦しくなって行く

僕は彼の取り口ではなく、土俵上の彼の行儀の悪さを基に、白鵬は横綱としての品格に欠けると判断し、そう発言してきた。

白鵬が次第に品下っていったのは、彼の思い上がりがなせる技で、誰かが正せば直ると僕は信じていた。だが一向に矯正されなかった。そして彼はついに、僕に言わせれば「晩節を汚したまま」引退した。

だがNHKスペシャルは、白鵬の所作ではなく「取り口」が乱れたのだと力説した。それは横綱審議委員会と同じ見方である。

つまりどっしりと受けてたつ「横綱相撲」ではなく、張り手やかち上げを多用する立会いが醜い、とNHKスペシャルも横綱審議委員会も主張するのだ。

それは僕の意見とは異なる。僕は以前にこのブログで次のように書いた。


強い横綱は張り手やかち上げなどの喧嘩ワザはできれば使わないほうが品格がある、というのは相撲文化にかんがみて、大いに納得できることである。
だが僕は、白鵬の問題は相撲のルール上許されている張り手やかち上げの乱発ではなく、土俵上のたしなみのない所作の数々や、唯我独尊の心を隠し切れない稚拙な言行にこそあると思う。
白鵬が張り手やかち上げを繰り出して来るときには、彼の脇が空くということである。ならば相手はそこを利して差し手をねじ込むなどの戦略を考えるべきだ。
あるいは白鵬に対抗して、こちらも張り手やかち上げをぶちかますくらいの気概を持って立ち合いに臨むべきだ。
白鵬の相手がそれをしないのは、張り手やかち上げが相手を殴るのと同様の喧嘩ワザだから、「横綱に失礼」という強いためらいがあるからだ。
白鵬自身はそれらの技が相撲規則で認められているから使う、とそこかしこで言明している。横綱の品格にふさわしくないかもしれないが、彼の主張の方が正しいと僕は思う。
それらのワザが大相撲の格式に合わないのならば、さっさと禁じ手にしてしまえばいいのである。
要するに何が言いたいのかというと、横綱審議委員会は白鵬の相撲の戦法を問題にするなら、対戦相手の対抗法も問題にするべき、ということだ。
張り手やかち上げは威力のある手法だが、それを使うことによるリスクも伴う。白鵬はそのリスクを冒しながらワザを繰り出している。
対戦相手は白鵬のそのリスク、つまり脇が空きやすいという弱点を突かないから負けるのだ。横綱審議委員会はそこでは白鵬の品格よりも対戦相手の怠慢を問題にしたほうがいい。
もう一度言う。横綱としての白鵬の不体裁は相撲テクニックにあるのではなく、相撲規則に載っていない種々の言動の見苦しさの中にこそあるのだ。


晩節を汚した立ち合い

そんな具合に僕は横審ともNスペともちょっと違う意見を持っている。だが、自分の見解が果たして妥当なものであるかどうかの確信はない。それというのも白鵬は、彼の最後の土俵となったことしの名古屋場所で、またしても驚きの動きをしたからだ。

全勝で迎えた7月場所の14日目、白鵬は時間いっぱいの仕切りで、仕切り線から遠い俵際まで下がって立ち合いの構えに入った。館内がどよめき対戦相手の正代は面食らって立ちすくんだ。

NHK解説者の北の富士さんが「正気の沙汰とは思えない」と評価した立ち合いである。正代は訳がわからないままに立ち、白鵬は例によって張り手を交えた戦法でショックから立ち直れない正代を下した。

異様な相撲はそこでは終わらなかった。白鵬は翌日の千秋楽でも大関の照ノ富士を相手に、殴打あるいは鉄拳にさえ見える張り手を何発も繰り出して、相手の意表をつき小手投げで勝った。45回目のしかも全勝での優勝の瞬間だった。

白鵬は正代との一戦を「散々考え抜いた末に、彼にはどうやっても勝てないと感じたので、立ち合いを“当たらない”で行こうと決めた」とインタビューで語った。

立ち合いを当たらないとは、要するに変化する、逃げる、などと同じ卑怯な注文相撲のことである。

だが何が何でも勝ちに行く、という白鵬の姿勢は責められるべきものではない。相撲でも勝つことは重要だ。また、仕切り線から遠い俵際まで下がって立ち合いに臨むのも、反則ではない。かち上げや張り手が禁じ手ではないように。

それどころか仕切り線から遠くはなれて俵際から立ち合うという形は、ある意味では誰も思いつかなかった斬新な戦法である。ましてや横綱がそれをやるなどとは誰も考えないだろう。

文化と文明の相克

白鵬の張り手やかち上げを「まともな戦法」と主張する僕は、正代戦での彼の立ち合いもまっとうな戦術の一つ、と認めて庇護しなければならない。だが、全くそんな気分にはなれない。

その立ち合いと、立ち合いに続く戦いは、白鵬の土俵上の所作や土俵外での言動に勝るとも劣らない醜さだと僕は感じた。

白鵬の戦法は理屈では理解できる。しかし僕の感情が受け入れない。そしてこの感情の部分こそが、つまり、「文化」なのである。

勝つことが全て、という白鵬の立場は普遍的だ。相撲は勝負であり格闘技だから勝つことが正義だ。それはモンゴル人も、ヨーロッパ人も、アフリカ人も、われわれ日本人も、要するに誰もが理解している。

誰もが理解できるコンセプトとはつまり文明のことだ。白鵬の立ち位置は文明に拠っているためにいかにも正当に見える。だが僕を含む多くの日本人はそこに違和感を持つ。われわれにの中には文明と共に日本文化が息づいているからだ。

その日本文化が、大相撲はただ勝てば良いというものではない、とわれわれに告げるのである。

文化は文明とは違って特殊なものだ。日本人やモンゴル人やイタリア人やスーダン人など、あらゆる国や地域に息づいている独特の知性や感性が文化だ。そして文化は多くの場合は閉鎖的で、それぞれの文化圏以外の人間には理解不可能なことも珍しくない。

普遍性が命である文明とは対照的に、特殊性が文化の核心なのである。従って文化は、その文化の中で生まれ育っていない場合には、懸命に努力をし謙虚に学び続けない限り決して理解できず、理解できないから身につくこともない。

相撲は格闘技で勝負ごとだから何をしても勝つことが重要、という明晰な文明は正論だ。だがそれに加えて「慎みを持て」という漠たる要求をするのが文化である。日本文化全体の底流にあるそのコンセプトは、大相撲ではさらに強い。

文明のみを追い求める白鵬は、そのことに気づき克服しない限り決して横綱の品格は得られない。さらに言えば白鵬の場合、気づいてはいるものの克服する十分な努力をしていない、というふうにも見える。

驚きの“日本人に愛されたい症候群”

しかしながら白鵬の在り方のうちで最もよく分からないのは、彼が「日本人に愛されたいという強い願望を持っている」というNHKスペシャルの指摘である。

番組によると白鵬は、日本人に愛されたいと願っていて、それが叶わないために屈折しコンプレックスとなりプレッシャーになって相撲が乱れたのだという。

そうした白鵬の思い込みは、最後の日本人横綱である稀勢の里との対戦の際に、観客が日本人である稀勢の里のみを応援して自分を軽んじている、という見方を彼にもたらした。

彼はさまざまな場面でそんなひけ目や葛藤また孤独感を抱いて相撲ファンを恨み、それに沿った言動をして日本社会から隔絶していった。

それらが事実なら、反動で白鵬は優勝インタビューにかこつけて万歳三唱を観客に要請したり(2017年)、3本締めを強制したり(2019年)して顰蹙を買い、さらに溝を深めていった、という分析も可能だ。

僕は白鵬の土俵上の所作とともに万歳三唱や3本締めを冷ややかに見てきた。あまり利口なやり方ではない、と苦笑する思いでいた。従ってそのことに批判的らしい番組の方向性に納得した。しかしその原因が、いわば「日本人に愛されたい症候群」によるとは思いもよらなかった。

日本人に愛されたい願望がある、とは日本人に嫌われているということである。少なくとも白鵬自身はそう感じているということだ。

それはもしかすると、日本人の中にある執拗な人種差別あるいは排外感情を、白鵬が感じ続けているということなのかもしれない。

大相撲に絡んだ人種差別は、小錦騒動などでも明らかだった。僕はモンゴル人の鶴竜が横綱に昇進した時点で、人種差別は克服されたと書いた。

白鵬はバナナ日本人など恐れなくていい

だが圧倒的な強さを誇った白鵬が、そんな苦悩を抱えていたという意識とともに最後の優勝シーンを思い返してみると、ちょっとつらい気持ちになった。

名古屋場所の千秋楽に白鵬は家族を招待していた。彼が優勝を遂げた瞬間、奥さんと子供たちは嬉し泣きをした。僕はそれを、膝の怪我を克服して復活した白鵬を家族が喜び称える姿、と信じて疑わなかった。だがそこに人種差別的な要素が加わるとひどく違うシーンに見える。

白鵬の「日本人の奥さん」と「日本人の子供たち」は、理不尽な差別を受ける夫また父親が、重圧を跳ね返してまた優勝を遂げたことを祝い、賞賛し、誇る気持ちから喜びの涙にくれた、とも考えられるのである。

向かうところ敵なしの強さと、存在感を示し続けた白鵬を否定しようとする勢力があるとすれば、日本人であるということ以外には何にも誇るものを持たない「ネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者」、あるいは皮膚は黄色いのに中身が白人のつもりのバナナ市民、つまり「国粋トランプ主義者」あたりだろう。

それらの下種な勢力は、モンゴル人だからという理由で白鵬を貶めようとすることも十分考えられる。

だが先に触れたように白鵬は、2007年に横綱に昇進して以降力強く美しい相撲で快進撃を続け、野球賭博や八百長問題で存続の危機にまでさらされた大相撲を救った立役者だ。

その意味では日本人以上に日本の最重要な伝統文化の一つを守った男なのだ。白鵬がもしもバナナ国民の中傷や攻撃を受けていたのなら、怖れることなく告発をするべきだ。

日本の国際的な評判を貶めるだけの反日・亡国の輩、すなわち「ネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者」あるいは「国粋バナナ・トランプ主義者」等々を怖れる必要などないのである。





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