【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

ポポロの海  ①



ベニスの南からアンコーナという町に至る、約300キロメートルのアドリア海沿岸地帯は、イタリアというよりも、おそらくヨーロッパ最大の夏のリゾート地と見なしていいと思う。

ヨーロッパで最大、というくらいだから、もちろんそこはいわゆる高級リゾート地ではない。

地元イタリアと、ドイツを中心とする北欧各国のふつうの人々、つまりサラリーマンやビルの守衛や郵便配達夫や学校の教師やデパートの店員や八百屋の主人夫婦や年金生活の老人・・・・、といった大衆(ポポロ)がどっと押し寄せて、夏のバカンスを楽しむ典型的な大衆リゾート地である。

しかしそこの一帯は、大衆リゾート地とはいうものの、ありとあらゆる施設が完璧に整備された、その意味では一級のリゾート地でもある。

日本の九十九里浜を連想させる(もちろんそれよりははるかに長い)広い砂浜海岸には、色とりどりのビーチテントやバンガローやパラソルや着替え用のキャビンが、びっしりと並んでどこまでもつづいている。

椅子や寝椅子をそろえたそれらの施設は、一定の間隔で区分けされていて、区分けされた一つ一つのグループが同一色に統一されているから見た目が実に美しい。

もっと具体的に言えば、ルキノ・ビスコンティ監督の古典的な名作「ベニスに死す」の中の砂浜のシーンが、300キロメートルにもわたってえんえんと続いていると考えればいい。

あの映画の中で美少年が砂浜に遊ぶとき、パラソルやバンガローと共に色あざやかな細長い布を屋根に張り渡しただけのビーチテントも登場する。

軽く風をはらんで小刻みにゆれるテントとそれを支える細い木柱の色合いは、誰にも真似のできないイタリア人独特の色彩感覚とデザイン感覚をさりげなく、しかも十二分に示していたと思う。

かつて一部の金持ちのためだけに存在したあの映画の世界が、今ではアドリア海沿岸の全域に広がっている。この現象は高級リゾート地が俗化したということではなく、ふつうの人々がそういう海で遊べるほどヨーロッパ社会が成熟した、と考えるほうが正しいように思える。

あの映画が一世を風靡した頃のヨーロッパの大衆は、たとえば今の日本人と同様に、何週間も仕事を休んで遊びほうける、ということはまずできなかったのである。

ビーチで遊ぶ膨大な数のバカンス客を迎える宿泊施設は、5ツ星のグランドホテルからキャンプ場のテントに至るまで、ありとあらゆるクラスのものがそろい、それに伴ってレストランやカフェやバーやスポーツセンターやヨットハーバーやルナパークやショッピングセンター等々の施設も自然に充実していく。

古都ベニスの海岸から派生したアドリア海のリゾート地は、そうやってイタリア最大の規模になりやがてヨーロッパでも最もにぎやかな夏の歓楽地になった。

子供が小さかった頃、僕ら一家はまだ人出の多くない6月を選んで、良くそこにバカンスに出掛けた。

6月なら人出が少ない分ホテルやビーチ施設の料金が安く、しかも梅雨のないイタリアの海はもうすっかり夏になっている。その上にこの国の6月は夏時間の真っ最中だから、日は長くて夜は涼しい。6月というのは、イタリアではバカンスを過ごすにはとてもいい季節なのである。

ただし人出が少ないとはいうものの、それは最盛期の7月と8月に比較しての話で、6月のイタリアのリゾート地はどこもかなりのにぎわいを見せる。6月から学校が休みに入る子供たちとその母親族と、最盛期の混雑を避けて早めの休暇に入る人々がどっとくり出すからである。

仕事が休めない父親を家に残して、子供と母親が先にバカンスに出かけるのは、イタリアでは極めてありふれた光景である。

家族を先にバカンスにやって、父親は週末だけせっせとそこに通うという訳である。僕はそれを勝手に「通勤バカンス」と呼んでいる<9月に会いましょう>。

6月のアドリア海沿岸には、イタリア人に加えて、ドイツ人をはじめとする北欧系の人々の数も多い。彼らは早期休暇に入る地元の人々と同じように、人出がピークになる7月と8月を意図的に避けて、夏の初めに長い休暇を取って南下してくるのである。

6月のイタリアの海でバカンスを過ごすのは、前述したように経済的な面を含めていいことずくめだ。それを見のがす手はない。いかにも合理的な国民にふさわしく、彼らは時間差出勤ならぬ、時間差休暇の制度を整えて、うまくそれを利用するようになった。

僕はイタリア人でもなく、ドイツ人でもなく、母親でもないのに、家族を引き連れてせっせと6月の海に出かけた。ないないずくめのついでに、まっとうな勤め人でもない、という僕の仕事事情があるからそういう芸当ができた。

ただ正確に言うと、実体は僕も週末だけ休暇中の家族の元に通う「通勤バカンス」者に近い部分もあった。それでも、フリーランスのテレビディレクターという立場上、割合に時間の融通がきくから、勤め人の「通勤バカンス者」よりも多く休むことができていたと思う。

僕は普段から休みに向けて人の3倍も4倍も仕事をこなす気で頑張ってきた。僕の仕事哲学は、当時も今も完全に「休むために仕事をこなす」ことだ。

それは少し功を奏して、不安定な職業ながら、いや、おそらく不安定な職業だからこそ、僕は長期の休暇を取ることにはかなり成功してきたように思う。

フリーランスの職業の場合「仕事をこなしてから休む」のでは、いつまで経っても思うような休みは取れない。「休むために仕事をこなす」ことが重要だ。

そして「休むために仕事をこなす」場合は、常にしゃかりきになって仕事をしまくっていなければならない。

組織に縛られずに自由に生きていくとは、必ず「組織人の労働量を凌駕する仕事をこなし続けること」と僕は自分の経験からはっきりと学んだのである。





渋谷君に感謝!



「 渋谷君

 

僕が君に書き送ったこれまでのメール書簡を、このブログに転載しても構わないと許可してくれたことに僕はとても感謝しています。

 

僕が書いた手紙なのだから、それをブログなりなんなりに再録するのは僕の自由なのではないか、と君は鷹揚(おうよう)に言ってくれたね。確かにそうなのかもしれない。

 

でも僕が君に書き送った手紙は、いわば僕から君への贈り物(あまり有りがたくない贈り物(笑)?)、という位置づけができるような気がして、いったん贈ったものを勝手に取り返すのはちょっと・・という気分だったんだ。

 

でも著作権は僕にあるのだから気にするべきではない、と君はまたうまいことを言ったね。著作権とは大げさな表現だが、書いたのは確かに僕なのだから、考え方としては著作権というのはあながち的外れなものではないのかもしれない。

 

すると、僕の手紙を僕が自分のこのブログに掲載するのは問題ではなく、もしも支障があるとするなら、たとえば君が僕の手紙をどこかに転載するとき、ということになるんだろうね。

 

ただ、僕は君が僕の便りをどこかで公表したとしても、あまり困ることはない気がする。妻に読まれてはマズイあれこれを除いては(笑)。奥さんのユリさんに読まれてはマズイ君のあれこれと同じさ(大笑)。

 

君が僕のブログを読んでくれていることを知って、僕はとても嬉しい。

 

しかも銀行勤めで超多忙のはずの君が、ブログをくまなく読んでいるらしいことに僕は感嘆している。

 

僕にほんのひとかけらでも才能のようなものがあるとすれば、それは集中力だと僕はひそかに自負しているんだが、長時間の厳しい仕事の後で僕の拙いブログを隅々まで読む君の集中力(というよりも忍耐力?)にはマケソーだ。まさかブログを読んでリラックスしている、と僕にとっては最大の賛辞を贈ってくれたりはしないだろう?(笑)

 

君に送ったメールをブログに転載させてほしいと頼んだのは、僕が長いあいだ書き続けてきたものが、いわば君だけに向けて書かれた自分のブログなのではないか、ということに気づいたからなんだ。

 

友人としての君に書いた便りと、不特定多数の読者に向けて書いたものとは、もちろん内容も形式も精神も何もかも違う。しかし、このブログを始めた今年3月以前の、僕が「ブログに書きたかった諸々のことドモ」は、君への書簡の中にあますところなく書かれている。

 

僕が新聞や雑誌に書き続けてきたことも、多くの場合はざっくばらんでくだけた、あるいはフザケた表現や内容やスタイルに変わって、僕はやっぱり君への便りにも仕立てているんだ。

 

僕らがメールをやり取りするようになってもう大分時間がたった。その間に僕は仕事や私用でもずいぶんメールを書き送ったが、君への便りが一番目くらいに多く、かつ僕の真情がたっぷり込められているケースがほとんどだ。

 

そうなったのは君のおかげだ。なぜなら君はおそろしく筆まめな男で、僕が書き送る便りには必ず、素早く、あり余るほどのボリュームの返信をくれた。僕はそれに触発されて、さらに次の便りをしたためる、ということのくり返しだったんだ。

 

ここであらためて

 

君の筆まめに乾杯!感謝!

 

メールに関して君と合意ができ、過去の2通エーゲ海の光と風ノブレス・オブリージュ>をブログに転載したこの時点で、僕は今回はこうして君へのメールをブログと同時進行で送ってみることにした。

 

この形に問題がなければ、以前のメールを転載することとは別に、ときどきこんな遊びをするのも面白いかも。

 

このブログを読んだら、いつものように「メールで」感想を聞かせてクデ。

 

よ~し!

 


 

PS:ユリさんの仕事の具合はどう?日本からの情報では、出版不況は深まるばかりで、さまざまな雑誌の休刊廃刊が相次いでいるということだが・・彼女の勤める大手出版社でも状況は厳しいの?

 

 

パリオの行方⑥



キオッチョラが棄権したことを知ったタルトゥーカの人々の喜びようは大変なものだった。誰もがキオッチョラの不運を楽しみ、いい気味だと悪態をつき、もっとひどい事故が起きれば良かった、などと声高に言い合うありさまである。

 

すさまじいのは、タルトゥーカの人々が彼ら同志でひそひそと噂し合うのではなく、その生の感情を誰彼の区別なくぶつけては、哄笑するところだった。もちろん人々はテレビカメラに向かっても堂々とキオッチョラを嘲笑う言葉を吐いた。同情心のひとかけらもないのが見ていても良く分かるのである。

 

シエナの人々は、敵対するコントラーダ間の憎しみ合いを、パリオの間だけの一種のゲームだと主張する。しかしそれは嘘だと僕は思う。彼らの中には日常的に敵コントラーダへの感情的な軋轢(あつれき)が存在している。それでなければ、いかにゲームとはいえ、同じ街の隣接した町内会の人々にあれだけの悪感情は持てない。

 

百歩ゆずって、シエナの人々の主張が本当だとしても、少なくとも年端の行かない子供たちにとっては、町内会が一丸となって敵に対していく異様な状況は、心に深く刻み込まれて祭りが終了すると同時にさっぱりと忘れる、という風にはいかないと思う。わだかまりは祭りの域を越えて残り、やがて1年を通しての彼らの心の常態になっていくであろうことは想像に難(かた)くない。

 

シエナの子供達は、そうやって物心ついた頃から、敵コントラーダへの対抗心や憎しみを吹きこまれつづけて育つのである。そして、今子供たちにそれを教えている大人たちも、かつては又子供だったのである。祭りの間だけのゲーム、と彼らがいうのは大人になった子供が、大人の知恵で口にする対外的な言い訳や建て前であって、彼らの本心はまた別のものである。

 

僕はタルトゥーカを集中的に取材しはじめると同時に、シエナの人々が胸に秘めている暗い情念のようなものを垣間みて衝撃を受けた。正直に言うと、僕はこのときはじめて、パリオの本質が敵対コントラーダへの憎しみを基本に展開される祭りであることを、心底から理解したのである。

 

少し暗い話になるが、僕はこのことを軸にして最終的に作品をまとめるつもりになった。

ところがパリオのドラマは意外な方向に動きだした。

 

キオッチョラが棄権を決めた直後の試し乗りで、今度は「オンダ(波)」町内会の馬が転倒して、騎手が大ケガを負って出場不能になったのである。するとオンダ町内会は、棄権したキオッチョラの騎手を急きょ雇ってパリオに出場すると発表した。

 

このニュースを聞いて、タルトゥーカの人々はパニックに陥った。彼らはキオッチョラがタルトゥーカの馬をつぶすために、オンダと組んで騎手をそこに送りこんだと考えたのである。

 

パリオの騎手は一人一人が専門のプロフェッショナルである。彼らは金で雇われて一つの町内から他の町内へと動くことが多い。

 

クジ引きで決められる出走馬とは違って、騎手の選択はパリオの当日まで自由だから、各町内会は彼らを引き抜いたり買収工作をしたりして敵コントラーダをおびやかす。それもまたパリオ伝統のゲームの一つなのである。

 

ただしゲームとはいえ、そこには相当に大きな額の金が動くから、騎手もコントラーダの人々も極めて真剣になり、工作も複雑で陰湿なものになる。

 

キオッチョラが、オンダと組んで騎手を送りこむことは、充分にあり得る話だった。その場合キオッチョラは、騎手はもちろんオンダ町内会にも金を支払っている可能性がある。あるいはオンダには金を渡さず、将来のパリオで協力することを条件に工作をしているかも知れない。

 

いずれにしてもキオッチョラとオンダの間に何らかの合意ができ上がっている、とタルトゥーカの人々は考えたのである。

 

結論を先に言ってしまうと、キオッチョラの騎手が乗ったオンダの馬は、パリオでタルトゥーカの馬の行く手を阻(はば)んであっさりとこれをつぶした。明らかに工作があったのである。

 

それはパリオの僕の映像にもはっきりととらえられている。しかし一瞬のでき事なので誰もが見逃しかねない。たとえ気づいたとしても、それを見る人は偶然のでき事だとして看過する可能性もある。事実そのでき事は関係者が口をつぐみ、「偶然」として片づけられた。

 

しかし、それは決して偶然のでき事ではなかった。僕はパリオが終わった段階で、騎手とキオッチョラの幹部の口からはっきりと工作があった事実を聞いている。その時テレビカメラに向かって証言してくれるように、と何度も頼んだが受けて貰えなかった。

 

そこで僕は、オンダの馬がタルトゥーカの馬の邪魔をする一瞬をストップモーションにして、しばらく画像を伸ばし「オンダはタルトゥーカをつぶした」と短くコメントを入れて視聴者の注意をうながすにとどめた。

 

パリオはその後、先頭を行く3馬がぶつかり合いながら壁に激突し、その間隙を縫って「ブルーコ」町内会の馬が優勝する、という劇的な展開になった。ブルーコ町内会は過去41年間一度もパリオに勝ったことがないチームだから、シエナ中が興奮して大変な騒ぎになった。

 

そうした予期しないでき事が連続したおかげで、僕はキオッチョラの取材拒否の事実や、タルトゥーカの人々のキオッチョラに対する暗い憎しみや、その時のパリオでもまた馬が一頭死んだ事実等々の、影の部分を余り強調することなく作品を仕上げることができた。

 

たとえそれが事実でも、取材を通して長い間つき合って人間関係ができてしまうと、映像にして人々の不利になりかねない部分は、やはり表には出したくなくなるものである。

 

番組はかなりうまく行って、それから大分時間が経った。ロケの最後には気まずい関係になったキオッチョラの人々とも僕は後年仲直りをした。そうやって僕はシエナにもまた多くの友人ができた。

 

パリオは「馬を隠れ蓑(みの)にしたシエナの人々の大喧嘩」である(パリオの行方②)、という当時の僕の考えは今もまったく変わっていない。

そしてそれは、もしもパリオがブランビッラ大臣などの批判をかわして無事に存続していくなら、来年も再来年も、また将来もずっと変わらないに違いない。

 

話は変わるが、

実はパリオは近く世界遺産への登録申請をする予定だった。そこに今回の馬の死亡事故が起こってしまい、観光大臣らの弾劾を呼んで申請は先延ばしになってしまった。それどころか、8月のパリオの開催さえ危ぶまれる事態になっている。

 

僕は早く騒ぎが収束して、パリオが元の元気を取り戻すことを強く願っている・・


(終わり)




パリオの行方⑤



ドキュメンタリーの取材ではしばしばこういう場面に出くわす。仕事と冷たく割り切ってカメラを回すか、彼らの心情を汲んで人間として彼らに寄り添い、彼らの怒りや悲しみや苛立ちを共有する「振りをしながら」しばらく撮影を控えるか、の判断を迫られるのである。

 

僕は後者を選んだ。というよりも後者を選ぶことを強いられた。

 

あたりの雰囲気は非常に悪く、今人々にカメラのレンズを向ければ、たちまち暴力沙汰に発展するであろうことがひしひしと肌身に感じてこちらに伝わってくる。

それでなくてもイタリア人カメラマンのフランコや音声マンのエンツォはすっかりおびえていて、僕がカメラを回せと指示してもおそらく拒否したに違いなかった。彼らはイタリア人であるだけに、同じイタリア人であるキオッチョラの人々の今の心理が誰よりも良く分かっているのである。

 

キオッチョラの人々の怒りは、不名誉な棄権、長年勝てない不運への苛立ち、敵コントラーダのタルトゥーカがパリオを制するかもしれない不安等が原因なのだが、しばらくすると僕ら撮影隊を見る眼が血走ってくるのが分かった。

 

無言のまま憎々し気にこちらを見る者がいたり、グループで固まって何か話しながらチラチラとこちらを盗み見ている者もいる。そのうちに1人2人と僕らの横を通る振りをして体をぶつけていく者も現われた。

 

僕らは危険を感じて、町内会事務所に避難をして幹部たちに助けを求めた。そこには町内会長のベルナルディ氏が待ち受けていて深刻な顔で僕に言った。

「悪いが撮影は中止してくれ。若者たちの怒りが君らに向けられている。こちらの裏口から退散してくれ」

 

何が何やら分からないまま、僕らはまるで犯罪者か何かのようにキオッチョラの町内から締め出された。

 

後で分かったことなのだが、人々は7月と8月の2回のパリオで不運がつづいたのは僕ら撮影隊のせいだ、とその頃考え出していたのである。それは馬の世話をするバルバレスコと呼ばれるグループの男たちが言い出して、一気に町内会全体に噂が広がったものらしかった。

 

クジ引きで割り当てられた出走馬は、町内会の中心部に作られた馬小屋で厳しく管理される。馬小屋は24時間体制で監視されて、たとえ同じ町内会員でも決して馬小屋の中には入れない。獣医を含むバルバレスコの男たちは、馬小屋の中に寝台を持ちこんで馬と共に寝起きをする仰々しさである。

 

普通の場合はテレビカメラなどまず入れてくれないが、僕はバルバレスコの男たちとも良好な関係を作って馬小屋の中にまでカメラを入れることに成功していた。そんな親しい関係があったにもかかわらず、彼らは7月に馬が傷を負い、その後死亡し、8月にも再び事故が起きたのは、全て僕をはじめとする撮影隊のせいだと言い出したのである。

 

ふだんならバカバカしいと笑い飛ばしてくれるはずのキオッチョラの人々は、異様な興奮状態の中でその言い分を信じてしまった。馬好きの人々が非常に迷信深いものであることは僕も知っていたが、まさか人々の怒りが僕らに向かってくるとは想像もしなかった。

 

いずれにしても僕らは危機一髪のところでキオッチョラを退散することができたのだった。

 

しかし退散はしたものの、今後キオッチョラで取材ができなくなってしまったのだから僕は非常に困った。

 

敵対するタルトゥーカと平行して撮影を進めながらも、話の中心はキオッチョラにあったし、また僕はそのつもりでキオッチョラに重きを置いて絵作りを進めてきた。もしもタルトゥーカがパリオで優勝することがあっても、僕は編集段階ではやはりキオッチョラの視点からのドキュメンタリーにしたい、と考えていた。

 

優勝するチームのリアクションはたいてい想像がつく。それは喜びであり笑顔であり満足であり祝賀会であり、要するに明るい大騒ぎである。僕はその部分は最小限に留めて、おそらく敗者となるであろうキオッチョラの人々の淋しさや悲しみや不運や嘆きを、じっくりと追いかけてみたかったのである。

 

しかしキオッチョラで取材ができないのだからどうにも仕様がない。なんとか対策を立てなければならなかった。こういうことも又ドキュメンタリーのロケでは珍しくない。

 

ドキュメンタリーの監督のもう一つの大きな仕事は、予定していた取材がダメになった場合に、何をどのように撮影して話を組み立てるかを常に考えておくことである。計画がダメになったり、予期していたものとは違ったりすることも実はドキュメンタリーの話の流れの一つなのだ。

 

極端に言えば、取材を拒否された時点で、その事実をはっきりと視聴者に伝えるために空白の映像を流すことさえも考えられる。それが真実として大きな意味を持つ場合もあるのである。

 

今回のそれはしかし取材拒否の事実を全面に押し出して作り上げるタイプの話ではない。

 

僕はすばやく頭の中を切り替えて、二台のカメラをタルトゥーカに張り付けることにした。

 

そこでできる限りの取材をして、キオッチョラで取材できない部分を補い、かつタルトゥーカ側から見えるキオッチョラ、という形で人々のインタビューをふんだんにまじえて最終的な物語をまとめようと決心したのである。

 

(つづく)

パリオの行方④




馬の抽選日を境にキオッチョラ町内会の幹部たちは、パリオでの優勝を諦めてタルトゥーカの勝利をはばむ作戦に出ることが予想された。

 

その方法はたくさんある。先ず一つはタルトゥーカの騎手を買収してしまう方法である。パリオでは買収工作は合法である。買収工作も含めた全ての動きがパリオのゲームなのだ。

 

各コントラーダはパリオの資金を豊富に持っている。町内会員がパリオの度に多額の寄付金を提供していて、幹部はそれを自由に使うことができるのである。また各コントラーダは、一年を通してひんぱんにパーティーや夕食会を催して町内会員から資金を集めている。そうした金も全てパリオの運用資金に回される。

 

第2の方法は、他のコントラーダと共同でタルトゥーカ包囲網を作ってしまうことである。これにもやはり金が動く。

 

タルトゥーカの馬を事前に傷つけてしまう方法もある。これは実際に起こることで、敵の厩舎(きゅうしゃ)に忍び込んで馬に睡眠薬を飲ませたり、興奮剤を注射して暴走させたりということも起こる。そのために各コントラーダは敵の襲撃に備えて、24時間体制で馬小屋を警備しつづける。

 

様々な方法で敵の妨害を試みた上で、最終的には彼らはパリオのコース上で直接対決をする。つまり出発と同時に騎手と馬が相手に襲いかかって行く手をはばんでしまうのである。自分の馬で敵の馬に体当たりを食らわせながら、騎手は鞭(むち)を振るって相手騎手をメッタ打ちにする。パリオでは、騎手同志がレース中に馬上から鞭で殴り合いをしても許されるのである。

 

僕がメインの取材をした一つ前のパリオでは、出発前に敵対するコントラーダの騎手が相手を殴りつけながら乗馬服の背中を引っ張りつづけたために、騎手は馬をコントロールすることができずにスタートダッシュができなかった。優勝候補と目されていたその馬はもちろん敗退した。

 

妨害をしたコントラーダは、スタート前に乗馬服を引っ張りつづけた反則を咎められて、何年かの出場停止処分を受けた。しかし彼らにとってはそれでいいのである。共に出走して敵コントラーダに優勝をさらわれることは耐え難い苦痛だ。そこでペナルティを覚悟で、相手の馬をつぶしてしまったという訳である。

 

キオッチョラもタルトゥーカに対してそれと同じような捨て身の妨害作戦を取ることが充分に考えられた。

 

ところがキオッチョラの馬は、パリオの本番の前に行なわれる試し乗りで予想外のいい走りを見せて、もしかすると本番でも勝てるのではないかという気運が高まった。そうなるとキオッチョラは、妨害工作よりも自らが勝つ為の方策に手いっぱいになる筈だから、今度はタルトゥーカ側の作戦も変わってくる。

 

僕はいい方向に事態が動いていると思った。優位に立つタルトゥーカを妨害しようとしてキオッチョラが動くのも面白いが、買収工作を含む彼らのいろいろな裏工作は、おそらく映像には撮らせてもらえないから表現が難しい。

 

しかし、両コントラーダがお互いに優勝を目指してぶつかり合えば、そうした禁忌(きんき)が少なくなって映像にしやすいいシーンがたくさん発生する、と僕は考えたのである。

 

パリオの本番までには試し乗りが6回行なわれる。キオッチョラは2回目もトップでゴールインしていよいよ期待感が高まった。しかし3回目の試し乗りの時に事故が起きた。

 

キオッチョラの馬が急カーブをまがり切れずに壁に激突して、足に傷を負ったのである。

 

普通なら押して本番にも出走させる程度の傷だったのだが、キオッチョラは大事をとってパリオを棄権する決定をした。パリオを棄権することは非常に不名誉なこととされていて、長い歴史の中でもめったに起こったことがない。少々の負傷は隠して出走させるのが当然のことだった。

 

キオッチョラが敢えて棄権する道を選んだのには理由があった。実はその一ト月前に終わったばかりのパリオでも、キオッチョラの馬は試し乗りで傷を負った。街の広場に土を敷き詰めて馬場とするパリオでは、馬が負傷するのは日常茶飯事である。だからこそ本番を前に3日間も時間を取って、出走馬の試し乗りを行なう。馬をコースに慣らせるためである。

 

普通の競馬コースとは違って、カンポ広場では普段の試し乗りができないからこれは非常に重要な行事である。その試し乗りでは良く馬が負傷する。急カーブの広場のコースはそれほど危険なのである。

 

キオッチョラは7月のパリオでは、どこのコントラーダでもそうするように傷を押して馬を本番で走らせた。ところがそれがたたったのでもあるかのように、馬は急カーブの鉄柱に頭から激突して死んでしまった。


そういう伏線があって、キオッチョラは8月のそのパリオでは、断腸の思いで引き下がる決定を下したのである。

 

その決定が下ってしばらくすると、キオッチョラの人々、特に若者たちの態度が一変した。見た目にもすぐにそれと分かるほど彼らの顔には怒りと苛立ちがあふれて、憤懣を何かにぶつけようとしてあたりをうかがっている。一触即発の緊張感がみなぎった。

 

あちこちで口論が起こり、タルトゥーカに殴りこみをかけようと言い出す若者のグループまで出た。パリオの棄権の決定を下した幹部と町内会の長老たちが必死にこれをなだめている。 

 

撮影する側にとっては非常にいいシーンなのだが、あからさまにカメラのレンズをそこに向けるのはまずかった。

(つづく)

パリオの行方③



全ての町内会を満べんなく紹介する、という説明で僕はキオッチョラ地区の人々をなんとか納得させた。

 

しかしそれからが大変だった。キオッチョラの人々は、僕がタルトゥーカでいつ誰と会い、僕の撮影クルーが何をどのように撮影したか、ということを逐一(ちくいち)分かっていて、その度に抗議をしたり皮肉を言ったり、挙げ句の果てはタルトゥーカで撮影したことと同じことをキオッチョラでも撮影しろ、あるいはするな、と掛け合ってくる。

 

さらに困ったことに、タルトゥーカ側もキオッチョラに於ける僕らの動きを詳しく知っていて、やはりいろいろと牽制してくるのである。

 

これは実に不思議なことだった。というのもキオッチョラとタルトゥーカは、祭りの期間中まさに戦争状態としか言いようがないいがみ合いをつづけていて、人と人の交流は全くなくなっている。交流どころか彼らはお互いの町内には決して足を踏み入れようとはせず、誰かが相手の領内に入れば若者たちが袋叩きにしてしまうほど殺気だっている。2つの地区の境界線の通りは、双方が避けて通る為にいつもガランとしているという有り様なのである。

 

パリオの期間中のシエナは、敵対するコントラーダ同志の誹謗中傷合戦はもとより、殴り合いのケンカまでひんぱんに起こるのだ。毎年7月と8月の2回、それぞれ4日間に渡って人々はお互いにそうすることを許し合っている。そこで日頃の欲求不満や怒りを爆発させるせいなのだろうが、シエナはイタリアで最も犯罪の少ない街になっているくらいである。

 

2つの町内会が、直接に情報を交換し合っていることはあり得ないから僕ははじめ困惑したのだが、良く考えてみると、キオッチョラとタルトゥーカはお互いがいがみ合っているだけで、他の15の町内会の人々とは普通に付き合っている。したがって相手のことを知りたければ、たとえばその15の町内会の人々を使ってこっそり視察をして、いくらでも情報を手に入れることができるのである。       

 

僕はそれまで1台のカメラとスタッフを使って両方を行ったり来たりしていた撮影方法を止めて、カメラとスタッフをもう一斑用意して両町内会を別々に平行して取材していくことにした。費用は嵩(かさ)むが、そうでもしないとスタッフが人々に突き上げられて仕事ができない、とぼやくのである。

 

それぞれのカメラクルーには担当する町内の撮影だけに専念してもらい、ディレクターである僕だけがキオッチョラとタルトゥーカの間を大急ぎで行き来するという形に切り替えたのだった。

 

この方法はパリオの祭りがクライマックスに近づくにつれて、正しいやり方だったことが明らかになった。

 

祭りのクライマックスは言うまでもなく本番の競馬(パリオ)である。しかし、その3日前に行なわれる出走馬の割り当て抽選会の時から、人々の気持ちは一気に高ぶって街じゅうが異様な熱気に包まれる。

 

パリオの出走馬は毎年たくさんの候補の中から厳しい審査を経て30頭にしぼられる。その30頭が最終的にはさらに10頭にしぼられて、カンポ広場で晴の舞台に立つのである。この10頭の馬は当然それぞれ能力が違う。したがって良い馬に当たることが、パリオに勝つためのまず第一の条件である。

 

クジ引きではタルトゥーカに強い馬が当たり、キオッチョラは10頭の中ではみそっかすと見なされている馬を引き当ててしまった。

 

この時のキオッチョラの人々の落胆ぶりは、見ていてこちらの胸が痛くなるほどの大仰なものだった。まるで葬式と離婚と借金の返済日が重なったみたいである。彼らは弱い馬に当たった自らの不運に加えて、敵のタルトゥーカに優勝候補の馬が渡ったことで二重に落ち込んでしまった。

 

一方のタトゥルーカは、キオッチョラとは全く逆の二重の喜びで沸き立ったことは言うまでもない。

 

僕はこの日キオッチョラとタルトゥーカの間を行き来して、人々の気持ちを汲み取る振りをしながら一方では泣き顔になり、一方では宝くじに当たったような笑顔を作る努力をつづける羽目になってほとほと疲れた。

 

僕は今「振り」と言った。どう逆立ちしても僕はキオッチョラとタルトゥーカの当事者にはなり得ないから敢えてそう言ったのだが、実はそのとき僕はキオッチョラでは本当にくやしいと思い、タトゥルーカでは浮かれた気分になっている。人々の気持ちに自分がピタリと同化してしまっているのだ。それは矛盾であり偽善である。だから疲れてしまうのだが、撮影現場にいるときはいつもそうなるのだから、これは仕方がない。

 

人間を追いかけるドキュメンタリーの監督の重要な仕事の一つは、撮影対象になる(なってくれる)人々との付き合いである。

 

こちらの思いのままに俳優を動かすフィクションとは違って、ドキュメンタリーでは撮影対象になる人々の実際の姿を、そのまま映像に刻印する形で話を作らなければならない。しかもその場合には、撮影される人々に対して報酬を支払わないことが基本である。

 

例外はもちろんたくさんあるが、金銭が介在することで、撮影する側とされる側の間にビジネスが生じることを避けようとするのがドキュメンタリーである。

 

金を支払えば、撮影される側はその分演技をしなければならないと考えかねない。また支払う側も、金を渡したのだからある程度こちらの思惑通りのこと(演技)をしてもらおうと考えかねない。いわゆるヤラセが発生するのはたいていそういう時である。

 

それではなぜ撮影される側の人々が、しち面倒くさい迷惑なドキュメンタリーの取材に付き合ってくれるのかというと、それは彼らがこちらを信用してくれているからである。

 

陳腐な言い方になってしまうが、撮影する側とされる側の間に、人間としての信頼関係があってはじめてドキュメンタリーは成立する。そしてその人間関係とは、少なくとも僕の場合は、プロデューサーでもカメラマンでも音声マンでもなく、僕自身と撮影される側の人々との信頼関係である。

 

僕はその部分に一番エネルギーを注ぐ。だからいつも一つの作品を作る前に長い準備期間を持つ。何度も足を運んではこちらの意図を説明して人々に納得してもらう。

 

それがうまくいった時だけ、まがりなりにも見るに耐えるだけの作品ができる。

 

(つづく)


パリオの行方②



パリオでは、競馬そのものにも増してすさまじいのが、このイベントにかけるシエナの人々の情熱とエネルギーである。

それぞれが4日間つづく7月と8月のパリオの期間中、人々は文字通り寝食を忘れて祭りに熱中する。

 

シエナの街はコントラーダと呼ばれる17の町内会から成り立っている。17地区のうちのほとんどの町内会は、架空の動物を含む生き物の名前を持ち、その生き物を旗印にしている。また、動物の名を持たないコントラーダも、それぞれ象とイルカとサイを旗印にする。

パリオはその17のコントラーダが、それぞれの馬と騎手を擁して覇を競う町内対抗戦である。ただし1回のパリオに出走できるのは、17のコントラーダのうち10のコントラーダだけと定められている。

 

パリオの度に、前回出走しなかった7つのコントラーダが自動的に出場できる権利を得て、残る3つの枠には、前回走った10のコントラーダの中から、くじ引きで決められた3町内会が入る仕組みになっているのである。

 

シエナで現在の形のパリオが始まったのは1644年である。しかしその起源はもっと古く、牛を使ったパリオや直線コースの道路を走るパリオなどが、12世紀の半ば頃から行なわれていたらしい。

 

パリオでは優勝することだけが名誉である。2位以下は全く何の意味も持たず一様に「敗退」として片づけられる。従ってパリオに出場する10のコントラーダはひたすら優勝を目指して戦う・・・と言いたいところだが、実は違う。

 

それぞれのコントラーダにはかならず天敵とも言うべき相手があって、各コントラーダはその天敵の勝ちをはばむために、自らが優勝するのに使うエネルギー以上のものを注ぎこむ。

 

天敵のコントラーダ同志の争いや憎しみ合いや駆け引きの様子は、部外者にはほとんど理解ができないほどに直截で露骨で、かつ真摯そのものである。天敵同志のこの徹底した憎しみ合いが、シエナのパリオを面白くする最も大きな要因になっている。

 

それぞれのコントラーダの天敵は、ほとんどの場合通りを一つへだてた隣の町内会である。これはその昔、コントラーダ同志が土地や住民の帰属をめぐって奪い合いをした名残りである。また同じ時代にコントラーダ同志が、軍事教練で激しいライバル関係を保ちつづけたことが、現代にまで受け継がれているともいう。

 

ちょっと信じ難いことなのだが、シエナのコントラーダの人々は、たとえば、まるで昨日隣の町内会と境界線の石垣の位置をめぐっていさかいが起こり、その結果奴方に死人が出た、というのでもあるかのような怒りと憎しみを持って敵対するコントラーダに立ち向かっていく。これは言葉の遊びではない。

 

パリオの期間中のシエナは、敵対するコントラーダの住民たちがひんぱんに暴力沙汰を起こす危険な無法地帯になるのである。

 

かつて僕はパリオのドキュメンタリーを制作するためにシエナに行った。それ以前に長い時間をかけてリサーチとロケハンを進めて、僕は17のコントラーダのうちから「キオッチョラ」町内会に狙いを定め、そこの人々の動きを中心にパリオの物語を作ろうと心に決めていた。

 

キオッチョラ町内会はシエナの下町にあって、17のコントラーダのうちでは3番目くらいに規模が大きい。また1644年以来のパリオでの優勝回数も17チームの中で2番目に多い、いわば華のある強いコントラーダの一つである。
 

ところがその強いはずのキオッチョラは、ほぼ15年もパリオの優勝から遠ざかっていた。

町内会の人々にとってはそれだけでも面白くないことなのに、彼らの天敵のコントラーダ「タルトゥーカ(亀)」がその間に2回も優勝している。その事実が耐え難い屈辱となって人々の心に重くのしかかっていた。

僕は先ずそのことに目をつけて、キオッチョラ町内会に通い詰めて撮影取材に協力してくれるようにと交渉しつづけた。 

彼らの敵のタルトゥーカの過去の優勝回数は、キオッチョラに次いで三番目。町内会の規模も拮抗している。2チームのライバル意識の激しさも全体のトップクラスだから、キオッチョラが受けてくれれば、番組はうまくいくと僕は計算していた。
 

シエナの各コントラーダは極めて閉鎖的でテレビの取材には余りいい顔をしない。パリオそのものがいろいろなタブーや迷信じみた拘束を持つ古い祭りであることがその大きな原因だが、近年はパリオの出走馬の扱いが不当だとして、動物愛護家からの強い批判も出たりするから人々は余計にナーバスになっている。

 

今年のブランビッラ大臣の声高の批判も、そういう歴史の中で出てきたのである。

 

紆余曲折を経て僕はキオッチョラの人々の全面的な協力を取りつけることができた。

 

その後で、僕は少し卑怯なやり方だとは知りつつも、彼らの天敵であるタルトゥーカ町内会も同時に取材していきたい、とかねてから計画していたことをはじめて口にした。

 

人々はそのとき露骨に嫌な顔をした。敵のタルトゥーカと並んで写真に撮られるなど真っ平ごめんだ、というわけである。それは予期していた反応だった。

 

「キオッチョラ町内会だけではパリオは成立しません。キオッチョラを話の中心にすえて、他の全てのコントラーダを取材しながらパリオを紹介していくつもりです。タルトゥーカもそのうちの一つなんです」
僕はそう説明をはじめた。

 

パリオに出走する町内会は一応全て取材する計画でいたのは事実だった。しかし、タルトゥーカはキオッチョラとほぼ同じ程度の比重を置いてロケをしたい、というのが僕の本音である。

パリオはその規模や形態や歴史性など全ての面で極めて興味深い祭りである。しかし僕が最も興味を持っているのは、天敵同志のコントラーダの人々が相手に示す、ほとんど理解不能なほどに強烈で露骨な敵対意識だった。

 

要するにパリオは、伝統とか歴史とかシエナの古い文化云々というきれいごとではなく、馬を隠れ蓑(みの)にしたシエナの人々の大喧嘩なのだ、というのが僕のひそかな確信だったのである。

その大喧嘩のおかげで伝統が生まれ、歴史が作られ、文化が形成されていった・・・

(つづく)

パリオの行方①



イタリア中部の街シエナは、フィレンツェからおよそ70キロ南にある中世の美しい街である。そこでは毎年夏、パリオと呼ばれる競馬が行なわれる。

 

ただの競馬ではない。街の中心にある石畳のカンポ広場を馬場にして、10頭の裸馬が全速力で駆け抜けるすさまじい競技である。

 

なぜすさまじいのかというと、レースが行なわれるカンポ広場が本来競馬などとはまったく関係のない、人間が人間のためだけに創造した都市空間の最高傑作と言っても良い場所だからである。

 

カンポ広場は、イタリアでも一、二を争う美観を持つとたたえられている。1000年近い歴史を持つこの広場は、都市国家として繁栄したシエナの歴史と文化の象徴として、常にもてはやされてきた。そしてシエナが独立国家としての使命を終えた現在は、イタリア国家を代表する文化遺産の一つとしてますます高い評価を受けるようになった。

 

パリオの10頭の荒馬は、カンポ広場の平穏と洗練を蹂躙(じゅうりん)しようとでもするかのように狂奔(きょうほん)する。狂奔して広場の急カーブを曲がり切れずに壁に激突したり、狭いコースからはじき出されて広場の石柱に叩きつけられたり、混雑の中でぶつかり合って転倒したりする。

 

僕はかつてこのパリオを題材に一時間半に及ぶ長丁場のドキュメンタリーを制作したことがある。例によってNHKの番組だった。6~7年にも渡るリサーチ準備期間を経て作ったその番組は、ことのほかうまく行って僕はNHK衛星局に表彰されるという嬉しい結果にもなった。

 

以来、僕にとってはとても親しみ深いものになったシエナのパリオは、今存続の危機にさらされている。

 

7月1日に行われた競馬のトライアルで、出走した馬の1頭が広場の石柱に激突して死亡した。


動物愛護者や緑の党などの支持者がこれに噛み付いた。

 

実はそのこと自体は今に始まったことではなく、かなり前から動物虐待だと主張する人々はいた。今回いつもよりも問題が大きくなったのは、この国のブランビッラ観光大臣が先頭に立ってパリオを批判したからである。動物愛護家で菜食主義者の彼女は、かねてからシエナのパリオを敵視してきた。今回の事故をこれ幸いとパリオの廃止を声高に叫んでいる。

 

ブランビッラ大臣は、シエナの人々が馬を深く愛し、親しみ、苦楽を共にして何世紀にも渡って祭りを守り続けてきた心など一顧だにしないように見える。彼女のヒステリックな叫びが静まることを願っているのは、多分僕だけではないだろう。

 

馬のケガや死を誰よりも悼(いた)んで泣くのはシエナの民衆であり、人一倍馬を愛し、馬に寄り添って祭りに臨むのもまた彼らである。結果として出走馬が傷を負ったり、死んだりすることはあるが、動物虐待というのは当たらないのではないか。

 

世界中の競馬場で馬はケガをし、死ぬこともある。それも全て動物虐待なのだろうか。それならば、全世界で食肉となるべく毎日屠殺されていく膨大な数の動物もまた、虐待の犠牲者と呼ばなければならないのではないか。

 

歴史遺産以外のなにものでもない伝統の祭りを、馬の事故死という表面事象だけを見て葬り去ろうするのは、あまりにも独善的に過ぎる。

 

そのことはさておき、僕は今年のパリオに因縁めいたものを感じて不思議な気分でいる。

競馬はコントラーダと呼ばれるシエナ市内の17の町内会の対抗試合である。
僕はそのうちの「キオッチョラ(かたつむり)」町内会を話の中心に据えてドキュメンタリーを作った。

 

競馬は毎年7月と8月の2回行われる。キオッチョラはその年はとても運が悪く、7月のパリオでは出走馬が事故で死亡し、8月のパリオでも本番前のトライアル走で馬が傷を負った。

 

町内会の幹部は事実を重く受け取って、馬を休ませるという苦渋の決定をした。それはキオッチョラ町内会が8月の競馬を棄権することを意味した。パリオでは代替馬の出走は許されないのである。

 

パリオを棄権するのは、極めて不名誉なこととされる。町内会は屈辱的な出来事に騒然となったが、人々は結局、出走馬の健康を重んじる地区の幹部の主張を受け入れた。

 

そして今年、キオッチョラの馬がまた死んだ。

 

僕はそのニュースをたまたまギリシャで買ったイタリア紙で読んだ。パリオの時期は僕はギリシャにいたのだ。そして、それまではギリシャのあれこれにかまけきっていて、パリオのことはすっかり忘れていた。

 

思いつきで買った新聞で事故のことを知った事実や、同じパリオでブルーコ(いも虫)町内会が大きなリードを守りきれずに敗れ去ったことも僕をおどろかせた。

 

僕が番組を作った年は、ブルーコ町内会が41年ぶりにパリオに勝って大騒ぎになった。その偶然は、結果として僕の作品に花を添える重要な出来事でもあったのだ。

キオッチョラの馬が死に、ブルーコ町内会が話題になった今年7月のパリオの状況を、僕は旅先で偶然に手にした新聞で知った。

大げさに聞こえるかもしれないが、僕はどうもそこに因縁深いものを感じてしょうがない。

馬好きな人が験(げん)を担ぎやすいのは良く知られている。もしかすると僕は、馬をこよなく愛するシエナの人々に感化されて、少し迷信深くなっているのかもしれない・・
 

(つづく)

  

ギリシャの明るい憂うつ



財政危機で暴動が起きたりしている今回のギリシャ旅行では、エーゲ海の島々に渡る前に首都アテネに寄った。

 

アテネでは国会前で若者らが警官隊と衝突して、投石を繰り返すなどの騒ぎがあったが、不思議と危険は感じなかった。

 

これが今同じように騒動が頻発しているシリアやリビアなどの中東の国なら、極めて物騒なイメージを持ったに違いない。が、ギリシャに関してはヨーロッパの民主主義国家という安心感がある。その違いはやはり大きい。

 

ギリシャ本土を取材するのは今回が初めてである。

 

僕は先ず、地中海にちりばめられているギリシャの島々とは違う、アテネの喧騒とカオスにひどくおどろかされた。

 

古代ギリシャの象徴、アクロポリスの上に建つパルテノン神殿とその周辺のわずかな地域を除くと、アテネの市街地は無秩序に開発拡張されていった現代都市という印象が強い。

 

スラム街と呼ぶのはさすがに言い過ぎだろうが、そういう言葉さえ連想させるほどの混沌(こんとん)が街じゅうを支配している。

 

僕はアテネの猥雑な建物群と、雑多な人種が行き交う通りを眺め、またその雑踏の中に足を踏み入れて自ら人ごみと一体になったりしながら、しきりにある言葉を想った。

即(すなわ)ち、

 

国破れて山河あり・・

 

いうまでもなくその杜甫の詩の意味は

「国は戦火によって破壊されつくしたが、山や川などの自然は、元のままの姿で変わらずそこにある」

という意味である。

 

栄華を極めた古代ギリシャ国家は滅び去り、その滅び去ったものの残骸が、アクロポリスの麓(ふもと)に広がる現代アテネの無原則な市街地のようである。そして、市街地の上方、アクロポリスの丘の上に厳(おごそ)かにそびえ立つ、パルテノン神殿などの古代遺跡が、本来のギリシャの国の形、つまり山や川などの変わらない自然と同じもの・・というふうに見えたのである。

 

繁栄の絶頂にあった古代ギリシャは、ローマ帝国に征服され、あるいはそれと融合しながら歴史を刻み続けて行ったが、以来ギリシャは現代に至るまで、パルテノン神殿が建設された時代の栄光を取り戻したことは一度もない。

 

それどころか、近代国家としてのギリシャは1830年に独立するまではオスマン帝国の支配を受け、独立後もトルコとの戦争や2度の世界大戦に巻き込まれるなど、苦難の道が続いた。第2次大戦後のギリシャの政情は安定し、経済もそれなりに発展したが、内戦や軍部の独裁政治がそれに続くなど、現代国家としてのギリシャは古代の輝きからは遠い存在であり続けている。

 

そうした歴史と、今目の前に広がるアテネの混沌とした風景が錯綜して、僕に不思議な幻想をもたらし、僕は唐突に(国破れて山河あり・・)という感慨を覚えたりしたのだろう。

 

それではアテネは、憂うつな悲しい不快な街なのかというと、まるっきりの逆である。

 

首都は明るく活気にあふれている。国会前で連日行われている抗議デモも、そこを少し離れるとまったく気にならない。財政破綻の危険などどこ吹く風である。そんなアテネの明るさは、どうも地中海の輝かしい陽光のせいばかりではなさそうだ。

 

街が人種のるつぼとなって、大きくうごめいていることが、アテネの殷賑(いんしん)の一番の原因のように僕には見える。

ギリシャ人に加えて、アラブ、アフリカ、インド、アジアなどの人々が、通りを盛んに行き交っている。ギリシャ人とあまり区別がつかないが、そこにはギリシャ以外の欧米人も多く混じっている。

 

古代ギリシャでは、アフリカのエジプトやアラブやトルコなどと交易をする中で、それらの地域の人々とギリシャ人との混血が進んだ。また後にはバルカン半島のスラブ人やアルバニア人、ローマ人を始めとするラテン人などとの混血も絶え間なく続いた。

 

アテネの喧騒を見ていると、まるで古代からの混血の習わしが今もしっかりと生きているような錯覚を覚える。少なくともギリシャ人が、外国からの移民と見られる人々に対して、とても寛容であることがはっきりと分かる。

 

古代地中海域の十字路として、隆盛を誇ったギリシャのグローバルな精神は、アテネの路地や通りや街なかに連綿として受け継がれているように見える。

 

それは僕がかつて住んでいた、ロンドンやニューヨークなどの国際都市とそっくりの雰囲気をかもし出している。

アテネがそれらの街と比較して、経済的に明らかに少し貧しい点を除けば・・

ノブレス・オブリージュ



2008年5月、僕は東京の友人に次のような便りを送った。

 

『 渋谷君

 

今年もまた北イタリアのガルダ湖畔にある妻の実家の伯爵家の庭園で、環境と緑をテーマにしたガーデン祭りが開催される。家は歴史的建造物として国の指定を受けていて、広い庭園内に花や植物や自然食品の展示販売所などが立って多くの入が集まる。

 

館のあるガルダ湖は有名な観光地だが、近年は少し客足が落ち込んでいる。そこでこのガーデン祭りが考案され、妻の家の家族は全面的に協力することにしたわけだ。

 

祭りを主催しているのは地元の建築家のグループ。伯爵家では館を3日間開放して、年老いた家族の全員が祭りの顔となって催し物に協力する。家族が無償で活動をするのは、祭りが地域の活性化に寄与すると考えるからなんだ。

 

西洋には「ノブレス・オブリージュ」つまり「貴族の義務」という伝統的な考え方があるのは、君も知っての通りだ。古い貴族家に生まれた人間には、奉仕活動や慈善事業など、社会に貢献する義務があるとする思想だね。

 

妻の実家は13、4世紀ごろから続く家柄。二つの貴族家が婚姻を通して一つになった。その一方が13世紀、一方が14世紀に興(おこ)った、と文献にある。恐らく政略結婚ってやつだろうね。昔の貴族社会ではよくあった話さ。

 

一家はガーデン祭りのほかにもチャリティー夕食会やコンサート、文化・学術会議の場所の提供など、よく地域奉仕に動く。

 

館でチャリティー夕食会を開くと、時として20~30人の招待客で300~400万円程度が集まったりする。そういう時はキリスト教文化、特に慈善・博愛精神の底深さを強烈に思い知らされるよ。

 

伯爵家には主な館がそれぞれ違う地域に3軒ある。そのうちの一つ、ガルダ湖畔にある家は一家のメインの建物でパラッツォ(Palazzo=宮殿、館、~宮)と呼ばれる。城と言ったほうがいいかも知れない。アナクロニズムもここまでくればほとんど笑い話の世界さ。


君は銀行員だから、伯爵家の建築物などを見る目も又おのずと違うと思うが、奥さんのユリさんなら出版人の目で見て、僕に賛同して笑ってくれそうな気もするが、どうだろうか?

 

いつか伯爵家のことを本に書く機会があったら必ず「喜劇」調で書くつもりだ、とユリさんに伝えておいてくれ。「貴族にナッチャッタ僕」とかなんとかのタイトルで、貴族にはなれないし又なる気もない男の話をオモシロおかしく書くのさ。もっとも深刻に書いた方が真の喜劇になるのかも知れないが・・。

 

あるいは、貴族になりたいと必死に足掻く(あがく)男という構図の方が、より滑稽になるのかもしれない。でも、それでは設定がありふれているような気もする。貴族にはなれないし(もちろん心理的な話のことだが)又なる気もない僕自身のことを、笑い話に書ければ本望だ。人は自分で自分を笑える間は、心身共に健全な証拠だからね。が、なにしろ執筆には才能というものが関わってくるから難しい話さ。 


さて、本題に戻るよ。

 

館には妻の親と独身の叔父や叔母が同居している。彼らは団結して伯爵家を守って生きてきたが、皆年老いて一番若い叔父でさえ既に78歳。家のさまざまな行事が一人娘の妻の肩に重くのしかかりつつある。

 

若い頃は考えもしなかったが、今後は妻の「貴族の義務」に僕が付き合わなければならない事態がますます頻繁に起こりそうだ。

 

そうなったら仕方がない。それが日本を飛び出してしまった自分の義務とあきらめて、せいぜい構えることなく、且つ自分らしく、適当に楽しくやって行こうと思うぜ~い 』

 
という内容のメールだった。



それからたった1年後に妻の叔父が亡くなり、義父も昨年逝ってしまった。

 

伯爵家には今は妻の老いた母と叔母がいるだけである。しかも義母は独自にも居を構えていて、そこと伯爵家を行ったりきたりする。そういう状況だから、二人の住人を続けざまに失った館の中は、普通以上に寂しくなっている。

 

今週の日曜日、つまり2011年7月17日、僕は妻の実家の伯爵家の活動に付き合って多忙を極めた。

 

朝10時、湖畔の館を出発。

 

家のすぐ背後にある、およそ1000メートルの山中にある別荘に行く。別荘は修道院だった建物で、山の家にしては規模が大きい。伯爵家の持ち家はほとんど全てが同じ。大き過ぎて問題が多い。

 

建物の一部の修復作業がゆっくりながら進展していることを確認して、別荘に付随する敷地内を車で移動してアルピーニ(Alpini)の集会場に行く。

 

アルピーニとは「アルプスの兵士たち」のこと。アルプスを擁するイタリアの軍隊のうちの山岳部隊のことで、近代的な山岳歩兵隊としては世界で最古の組織である。

 

北イタリアの男たちは兵役義務に就く時、アルピーニを志望する者が多いが、前アルプス(南アルプスの南)の山々が目前に迫っているガルダ湖地域では、ほとんどの若者がアルピーニになると言ってもよい。

 

屋敷内にある集会場は、退役したアルピーニたちが親睦のために集まる場所である。そこには教会も建てられていて、元兵士たちにとっては,楽しい懇親会場であると同時に神聖な場所でもある。

彼らは毎年夏に大きな親睦会を催すのだが、その時には土地と建物を提供している伯爵家の全員が招待される。

 

しかしここ4、5年ほどは親睦会に参加するのは僕と妻の2人だけである。年老いた伯爵家の人々は、兵士らの親交パーティーに顔を出すのもままならなくなっていた。義父と叔父が亡くなった今はなおさらである。

 

15時過ぎに下山して湖畔の館に戻る。

 

1時間ほど休憩した頃、湖に面した庭園にざわざわと人群れの声。見るとトラックに積み込まれた椅子を若者らが下ろし始めたところ。

今夜は館でクラシック音楽のコンサートが開催される。これも毎年夏の恒例の行事。

 

コンサートは、地元住民はもちろん、多くの観光客にも楽しんでもらおうという趣旨で行われる。ガルダ湖畔の自治体が共同で計画して、貴族館や高級ホテルなどに協力を求めている。これも地域振興策の一環という側面があるのは言うまでもない。

地元では古くから「寛大な一族」として知られている伯爵家は、そういう行事には常に最大限の協力を惜しまなかった。もうほとんど妻の代になった現在、僕らが突然そういう伝統を否定すれば大きな波風が立つだろう。


でも正直いつまで続けるのかという疑問が、貴族でもイタリア人でもない僕の中に残らないわけではない。

 

音楽会は、5月にガーデン祭りが開催される裏庭とは反対側の、湖に面した前庭で開催する予定だったが、天候不良で屋内へ。かつて頻繁に舞踏会が開かれた大広間で行うことにする。

大広間は吹き抜けのとんでもなく高い天井のある空間だが、舞踏会ばかりではなく音楽会もまた良く開かれる場所で、音響的にも評判のいい部屋である。

 

夜9時過ぎにコンサート開始。

 

会場は立ち見も出る盛況。人で埋めつくされた。屋外開催ではなかったため、残念ながら入場できない人々も出た。

伯爵家は、東日本大震災支援のチャリティーコンサート(震災支援 チャリティーコンサートⅥ)を開いたわが家よりもはるかに大きな建物だが、観光地のしかも入場無料のコンサートには、多くの聴衆が押し寄せて、さすがに全員が入場するのは無理だった。

 

夜11時、コンサート終了。

 

夜11時半頃、コンサート出演者や主催者の皆さんと共にレストランへ。慰労反省会。

 

午前1時半過ぎに帰宅。

 

という1日だった。

 

9月の半ばまではまだ催し物が続くが、8月22日から9月初めまでは休暇を取ってシチリア島へ行く。

 

休暇が待ち遠しい・・・


澤ってバッジョ?



女子サッカーW杯決勝戦での、なでしこジャパン澤穂希選手の延長同点ゴールにはおどろいた。

一瞬で決めたのはたぶん
踵でボールの方向を鋭く変えるヒールキックだと思うが、まるでイタリアの英雄ロベルト・バッジョも顔負けの高等テクニックである。

あるいは意表を突く華麗なテクニックを繰りだす天才だった、英国プロサッカーチーム「マンチェスター・シティ」の監督ロベルト・マンチーニの現役時代をも髣髴(ほうふつ)とさせる見事なプレーだった。

 

僕はこれまで女子サッカーには全く興味がなかった。

体と体がぶつかり合う激しいスポーツであるサッカーに女子がついていけるわけがない。やわい、遅い、軽いの三重苦に低テクニックが加わって、きっと見るに値しないゲームばかりだろうと、勝手に思い込んでいた。

 

とんでもない見込み違いである。選手の動きとボールのスピードに目を瞠(みは)り、テクニックの高さにぶったまげ、当たりの激しさに感嘆した。極め付きが澤選手の同点ゴールのスーパーテクニックである。

 

少しエラソーに言わせてもらうと、僕は長い間イタリアのハイレベルなプロサッカーに接し、仕事をし、少し勉強もした。ある時期にはプロの監督試験を受けて、子供を指導するサッカー監督になろうと真剣に考えたこともある。ボランティアで子供たちに教えようと思ったのだ。

 

受験資格にはプロサッカーチームでプレーした経験かそれに準ずる経験が必要とされているが、僕はイタリアのプロリーグ「セリエA」を長く取材し、生中継に関わり、サッカー番組制作に関わった実績が認められて、受験を許可するという内定を受けていた。ぶっちゃけた話、コネがものを言ったのだ。

だけど忙しさにかまけて受験を先延ばしにするうちに、チャンスが遠のきやがて監督になりたいという僕の情熱も立ち消えになってしまった。

 

そんな経験があるので、少し思い上がって「女子サッカーなんて・・」と正直バカにしていた。今日から襟を正してわが「なでしこジャパン」を見守り応援しようと思う。

 

なでしこジャパンの大活躍が大震災の被災者の皆さんに勇気を与え、日本中を興奮させ明るくしているに違いないことを確信しながら、僕は「えっ、もしかしてバッジョ?」とさえ喜んだ澤選手のすごい技と、全選手の才能に深い敬意を覚えている・・


エーゲ海の光と風Ⅱ



「ヨーロッパとは何か」と問うとき、それはギリシャ文明と古代ローマ帝国とキリスト教を根源に持つ壮大な歴史文明、という答え方ができる。

 

ということはつまり、現世を支配している欧米文明の大本(おおもと)のすべてが、地中海にあるということになる。

 
なぜなら、南北アメリカやオーストラリアやニュージーランドでさえ、天から降ったものでもなければ地から湧き出たものでもない。ヨーロッパがその源である。

また近代日本は欧米を模倣することで現在の繁栄を獲得し、現代中国も欧米文明の恩恵を蒙って大きく発展し続けている。世界中の他の地域の隆盛も同じであることは言うまでもない。

ヨーロッパを少し知り、そこに住み、ヨーロッパに散々世話になってきた僕は、これから先じっくりと時間をかけて地中海域を旅し、その原型を見直してさらに学んでみたいと考えている。

 

ただし、その旅はできれば堅苦しい「勉強」一辺倒の道行きではなく、遊びを基本にして自由気ままに、のんびりと行動する中で見えてくるものを見、見えないものは見えないままにやり過ごす、というふうな余裕のある動きにしたいと願っている。

 

テレビドキュメンタリーや報道番組に長く関わってきた僕は、何事につけ新しく見聞するものを「もしかするとテレビ番組にできないか?」と、いつも自分の商売に結び付けてスケベな態度で見る癖がついてしまっている。つまり、いやらしく緊張しながら物事を見ているのである。

 

僕はそのしがらみを捨てて、本当の意味で「のんびり」しながら地中海世界を眺めてみたい。そうすることで、これまで知識として僕の頭の中に刷り込まれている地中海、つまり古代ギリシャ文明や古代ローマ帝国やキリスト教などの揺籃となった輝やかしい世界を、ゆるい、軽い、自在な目で見つめてみたい。そうすることで、仕事にからめて緊張しながら見る時とは違う何かが見えてくるのではないか、と考えている。

 

基本的な計画はこんな感じ。

 

イタリアを基点にアドリア海の東岸を南下しながらバルカン半島の国々を巡り、ギリシャ、トルコを経てシリアやイスラエルなどの中東各国を訪ね、エジプトからアフリカ北岸を回って、スペイン、ポルトガル、フランスなどをぐるりと踏破するつもりである。

 

中でもギリシャに重きをおいて旅をする。また訪問先の順番にはあまりこだわらず、その時どきの状況に合わせて柔軟に旅程を決めていく計画。


地中海は場所によって呼び名の違う幾つかの海域から成り立っている。

イタリア半島から見ると、西にアルボラン海があり、東にはアドリア海がある。北にはリグリア海があって、それは南のティレニア海へと続き、イタリア半島とギリシャの間のイオニア海、そしてエーゲ海へと連なっていく。またそれらの海に、トルコのマルマラ海を組み入れて、地中海を考えることもある。


今回ギリシャ本土の後に訪ねたミロス島とサントリーニ島は、イオニア海とともに南地中海を構成するギリシャの碧海(へきかい)、エーゲ海に浮かぶ島である。

 

地中海の日光は、北のリグリア海やアドリア海でも既に白くきらめき、目に痛いくらいにまぶしい。白い陽光は海原を南下するほどにいよいよ輝きを増し、乾ききって美しくなり、ギリシャの島々がちりばめられたイオニア海やエーゲ海で頂点に達する。

 

乾いた島々の上には、雲ひとつ浮かばない高い真っ青な空がある。夏の間はほとんど雨は降らず、来る日も来る日も抜けるような青空が広がっているのである。

 

そこにはしばしば強い風が吹きつのる。海辺では強風に乗ったカモメが蒼空を裂くように滑翔(かっしょう)して、ひかり輝く鋭い白線を描いては、また描きつづける。

 

何もかもが神々(こうごう)しいくらいに白いまばゆい光の中に立ちつくして、僕はなぜこれらの島々を含む地中海世界に現代社会の根幹を成す偉大な文明が起こったのかを、自分なりに考えてみたりする。

 

ギリシャ文明は、大ざっぱに言えば、エジプト文明やメソポタミア文明あるいはフェニキア文明などと競合し、あるいは巻き込み、あるいはそれらの優れた分野を吸収して発展を遂げ、やがて古代ローマ帝国に受け継がれてキリスト教と融合しながらヨーロッパを形成して行った。

その最大の原動力が地中海という海ではなかったか。中でもエーゲ海がもっとも重要だったのではないか。

現在のギリシャ本土と小アジアで栄えた文明がエーゲ海の島々に進出した際、航海術に伴なう様々な知識技術が発達した。それは同じく航海術に長(た)けたフェニキア人の文明も取り込んで、ギリシャがイタリア南部やシチリア島を植民地化する段階でさらに進歩を遂げ、成熟躍進した。

 

エーゲ海には、思わず「無数の」という言葉を使いたくなるほどの多くの島々が浮かんでいる。それらの距離は、お互いに遠からず近からずというふうで、古代人が往来をするのに最適な環境だった。いや、彼らが航海術を磨くのにもっとも優れた舞台設定だった。

しかもその舞台全体の広さも、それぞれの島や集団や国の人々が、お互いの失敗や成功を共有し合えるちょうど良い大きさだった。失敗は工夫を呼び、成功はさらなる成功を呼んで、文明は航海術を中心に発展を続け、やがてそれは彼らがエーゲ海よりもはるかに大きな地中海全体に進出する力にもなっていった。

例えば広大な太平洋の島々では、島人たちの航海の成功や失敗が共有されにくい。舞台が広過ぎて島々がそれぞれに遠く孤立しているからだ。だから大きな進歩は望めない。

また逆に、例えば狭い瀬戸内海では、それが共有されても、今度は舞台が小さ過ぎるために、異文化や文明を取り込んでの飛躍的な発展につながる可能性が低くなる。


その点エーゲ海や地中海の広がりは、神から与えられたような理想的な発展の条件を備えていた・・

イタリアやギリシャ本土から島々へ、あるいは島から島へと移動する飛行機の中でエーゲ海を見下ろしながら、僕はしきりとそんなことを考えたりした。


エーゲ海の光と風



6月20日から7月初めにかけてギリシャ本土のアテネとデルフィ、さらにミロス島とサントリーニ島を訪ねた。

 

毎年1度、できれば6月か9月に地中海を巡る旅を始めて、今年で4年目になる。最初の2年間はイタリアの東、バルカン半島のクロアチアを訪れ、去年と今年はギリシャを選んだ。

 

去年9月、僕は生まれて初めてギリシャの島々を旅した。興奮した僕はイタリアに戻って日本の友人に次のような便りを送った。

 


『渋谷君

 

9月6日から10日間エーゲ海で遊んできました。正確にはロードス島とヒポクラテスのコス島。コス島からトルコのボドルムにも渡ったよ。

 

トルコでは子羊料理を食べ、ギリシャでは連日飽食した。食事が美味いんだ。特にナス料理、また子羊とヤギ料理も抜群に良かった。トルコでも同じ経験をしたが、羊やヤギも料理法によってはホントにおいしいということの見本のようだった。

 

エーゲ海は想像したよりも光が白くてまぶしくて魂を揺さぶられた。

 

日本の最南端の島の、強烈な日差しにまみれて育った僕が、
唖然(あぜん)とするほどの輝かしい陽光とはどんなものか君に想像できるかい?

 

砂浜に横たわって真っ青な空を見上げていたら白い線が一閃して、良く見るとそれが強い風に乗って遊ぶカモメ、というような美しい体験を次々にしたよ。空気が乾いて透明だから、白が単なる白じゃなく、鮮烈に輝く白光というふうに見えるんだね。

 

コス島では面白い場所を発見。なんと断崖絶壁が海に落ち込むちょうど真下に温泉が湧いているんだ。熱い湯に漬かっては、冷水代わりに澄んだ青い海に飛び込む、ということをくり返して遊んだ。


僕はこの間、温泉にはあまり興味がないと君に言ったが、それは温泉に入ることに興味がないということではなく、温泉旅館とかホテルとか、温泉に付随する日本の施設があまり好きではないということなんだ。


サービスがどうも押し付けがましいし、客のことを考えている振りをして自分達の都合ばかり考えているように感じる。

 

例えば食事時間の融通がきかないとか、食事をしているそばからすぐに布団を敷いていってさっさと仕事を終わりたがるとか・・なんだか気にいらない。

 

気にいらないと言えば、食事もやたらと量が多過ぎて、せっかくのおいしい料理もうまさが半減してしまうように感じたりするんだ。

 

でも僕も日本人だから温泉に浸かることそのものは大好きだよ。この辺がイタリア人の僕の妻とは違う。彼女は西洋人の常で「湯に浸かって体を温める」ことの良さや幸福を子供の頃から教えられているわけじゃないから、温泉には執着しない。熱い湯も好きじゃない。温泉は飽くまでも医療セラピーとして入る。

 

またキリスト教徒の本性で、素っ裸で他人とともに湯に浸かることにも明らかに抵抗感があるようだ。

 

この間NHKが、外国の温泉に浸かる男を日本風に素っ裸にして撮影していて、実に見苦しかった。彼らが全裸で温泉に浸かることはありえない。プールの感覚だから、屋内外を問わずに男も女も必ず水着を着るのが常識だ。

ディレクターがそういう西洋社会の習慣やメンタリティーに疎(うと)かったのか、日本風を押し通して湯船の縁に裸の男を座らせて撮影したりしてしまい、不自然さが全面に出て実にえげつない絵になってしまっていた。

 

でも恐らく、番組を作っているスタッフ同様に視聴者もそのことには気づいていない。怖い話だと僕は思ってしまうんだ。


なぜって、国際的な誤解というのはそういうささいなところから始まって、大きく深くなって行ったりする。国際的な誤解をなくすつもりで制作した番組が、逆効果になってしまうことも多々あるんだ。だから社会的に強烈な影響力を持つテレビに関わっている僕のようなテレビ屋は、日々もっともっと勉強を続けていかなければならない。

 

お、おふざけが好きな僕にしては、ちょっとマジ過ぎるメールになってしまったね・・・

 

何はともあれ、地中海世界は面白い。今後は何年もかけてどんどん地中海を見て回るつもりだよ~~~

 


ギリシャにいても、結局どこかで日本を考えていたりするのが僕の癖である。

 

今年もギリシャではいろいろなことを見て、いろいろなことを考えさせられた。

 

地中海巡りは仕事半分、休暇半分のつもりの旅行だが、これまでのところは8~9割が仕事になってしまっている。

 

もう少し自由な時間を広げて、最終的には「リサーチ休暇」のようにするのが夢である。

 

イタリアに戻ってもまだ仕事が続いていて、ブログを書く時間がほとんどない。この状況は少なくとも今週いっぱいまでは続きそうに見える・・


9月に会いましょう



イタリアでは毎年6月にもなると、それほどひんぱんには会わない人同士の別れの挨拶として、「9月に会いましょう」というのが多くなる。

 

夏のバカンス後にまたお会いしましょうね、という意味である。

 

さらに7月にもなると、しょっちゅう会っている人同士でも、この「9月に会いましょう」が別れの常套句、あるいは合言葉のようになる。

 

何が言いたいのかというと、イタリア人にとっては夏の長期休暇というのはそれほどに当然のことで、人々の日常の挨拶にも如実にあらわれるということである。

 

良く言われるように、長い人は1ヶ月の休みを取ることも珍しくない。もちろんそれ以上に長いバカンスを過ごす者もいる。休暇の長さは、人それぞれの仕事状況と経済状況によって、文字通り千差万別である。

 

裕福な人々や幸運な道楽者のうちには、子供の学校の休みに合わせて、3ヶ月の休暇を取るようなトンデモ人間もいたりするが、さすがにそれはごく少数派。

 

それでも、子供の休みに合わせて、妻以下の家族が6月から8月の間海や山のセカンドハウスに移住し、夫は都市部に残って通常通りに働きながら週末だけ家族の元に通う、いわゆる「通勤バカンス」と僕が勝手に呼んでいる時間を過ごす人々の姿もよく見かける。そしてそんな男たちも、もちろんどこかで長期の完全休暇を取るのは言うまでもない。

 

休むことに罪悪感を覚えるどころか、それを大いに賞賛し、鼓舞し、喜ぶ人々が住むこの国では、そんな風にさまざまなバカンス模様を見ることができる。が、実は大多数のイタリア国民、つまり一般の勤め人たちは、最低保証の年間5週間の有給休暇のうち、2週間の夏休みを取るのが普通である。

 

それは法律で決まっている最低限の夏期休暇の日数で、たとえば僕がつい最近まで経営していた番組制作会社のような、個人事務所に毛が生えただけのささやかな会社でも、スタッフには最低2週間の有給休暇を与えなければならない。零細企業にとっては大変な負担である。

 

しかし、それは働く人々にとってはとても大切なことだと僕は感じる。

人間は働くために生きているのではない。生きるために働くのである。

そして生きている限りは、人間らしい生き方をするべきであり、人間らしい生き方をするためには休暇は大いに必要なものである。夏休みがほとんど無いか、あっても数日程度の多くの日本のサラリーマンの皆さんを見るたびに、僕はそういう思いをさらに強くする。

 

イタリアでは2週間の夏の休みは、8月初めから同月の半ば頃までの間に取る人が圧倒的に多い。会社や工場などもこの期間は完全休業になる。

 

ところが、時間差休暇というものがあって、時間に融通のきく仕事を持っている人々の中には、多くの人の休暇が集中する8月の混乱期を避けて、バカンスを前倒しにしたり、逆に遅らせて出かける者も相当数いる。

 

そうすると、どんな仕事でも相手があって成り立っているものだから、普通の期間に休みを取る人々は、休暇前や休暇後に相方不在の状況に陥って、仕事の能率ががくんと落ちる。仕事量が減ることで、やる気もなくなって半分休み状態になることもしばしばである。

 

そこに長期休暇を取る人々の仕事の空白なども加わって、7月から8月末までのイタリアは、国中が総バカンス状態のようになってしまうのである。

 

だから6月にもなると、7月と8月を飛び越して、「9月に会いましょう」が人々の合言葉になるわけである。

 

ロンドン、東京、ニューヨークと仕事をした後にこの国に来た僕は、当初は仕事の能率の上がらないイタリアの夏の状況を怒りまくり、ののしりまくっていたものである。

 

しかし今はまったく違う。これだけ休み、これだけのんびりしながらも、イタリアは一級の富裕国である。働く人々の長期休暇が極端に少ない日本などよりも、豊かさの質がはるかに上だとさえ僕は感じる。とういうことは、イタリア的に休みまくるのはいいことなのではないか、とつくづく考えるようになったのである。

 



※閑話休題


僕の今年の夏の休暇は8月20日以降の予定。行き先はシチリア島。

その前に明後日から地中海沿岸リサーチ旅+義務旅+3日間の休み。それなのでこのブログもしばらく開店休業です。

営業再開予定の7月アタマにまたお会いしましょう。


チャオ~~~~~~~   ~~~~~~~~~!
  

「脱原発クラブ」



12、13日に行われた、原発の是非を問うイタリアの国民投票で「反原発」派が勝利した。

 

ドイツとスイスに次いでイタリアも脱原発に舵を切ったわけだが、イタリアの場合は、福島原発事故後「世界初の国民審判」による「原発ノー」の強い意思表示だけに、その意味するところは大きいというべきだろう。

 

この国ではチェルノブイリ原発事故の翌年87年に、やはり国民投票で「反原発」の結果が出た。それを受けて、90年までに稼動中の全ての原発が閉鎖された。

 

ところが2009年、現在のベルルスコーニ政権が「原発再開法」を制定して原発の再稼動を目指した。しかし前述の通り、国民はその政策を明確に否定したのである。

 

90年以来、先進国の中で唯一原発を持たずにきたイタリアの電気料金は欧州一高い。原発大国フランスの2倍近くにのぼり、国は全電力の1割近くをそのフランスとスイスから輸入しているのが現状である。

 

ベルルスコーニは電力コスト削減を理由に原発再開を目論んだのだが、国民はそっぽを向いた。高い電気料金を黙認してまで・・なんてすばらしいことだろう!

 

僕は以前、今のところは原発に99%反対と書いた。

今のところは・・

 

99%の反対とは

 

「原発には100%反対。ただし核や原発の研究は続けるべき」

 

という意味で1%の賛成を込めて、反対99%と言ってみたのである。

 

その気持ちは今も全く変わらない。

 

いや、わが国がドイツ、スイス、イタリアの欧州三国が発起(ほっき)した「脱原発クラブ」に入会する願いを込めて、原発には120%も150%も反対と言おう。

 

それでもやっぱり1%の賛成も忘れずに込めておこうと思う。《化け物》の核や原発に負けるのはシャクだ。人類は必ずそれを征服するべきだと信じるから・・

 

閑話休題

 

「脱原発クラブ」は本来なら日本が真っ先に旗振りをして結成するべきだった。

ヒロシマを持ちナガサキを持ち、そして不運にもフクシマまで持ってしまったわが国は、なぜ誰よりも先に「脱原発」と叫ばないのだろうか。

 

経済に詳しいと思い上がっている人々、産業だけが国益だと信じ込んでいる人々、金と便利だけを追いかけながら憂い顔で国家を論ずるエセ憂国者、理念や理想をあざ笑うのが癖の原発及びビジネス利権屋などなど・・魑魅魍魎(ちみもうりょう)たちが跋扈(ばっこ)して脱原発を理想主義、ユートピア論などと冷笑する。

 

だがもうたくさんだ。彼らが皮肉たっぷりに言いたがる「少しの不便」や「少しの後退を」覚悟して、脱原発を叫ぼうよ。

 

日本の総電力の3割を担っている原発を止めれば、問題が起こらないはずはない。30%は小さくない数字だ。ドイツの22%よりも大きい。それでも日本はドイツよりも先に脱原発を宣言してしかるべきだった。

 

ドイツには広島も長崎も福島もない。また代替エネルギーの先行きが不透明であることも承知で脱原発を決定した。決定したことで、国を挙げて自然エネルギーの獲得を目指して模索し前進することになる。

 

多くのドイツ国民、特に産業界の人々はもちろんドイツ経済が失速するのではないか、と懸念を抱いている。彼らは脱原発を決めたドイツ国家を相手取って裁判を起こすことさえ考えている。

それでもドイツは自然エネルギーを模索する道を選んだのだ。彼らは創意工夫によって、原発に替わるエネルギーを必ず獲得するだろう。スイスもそうなるだろう。そして、遅ればせながらイタリアも・・

ところで

「創意工夫」こそわが国の専売特許ではなかったか。専売特許が言い過ぎなら、恐らくドイツやスイスさえも凌駕(りょうが)する日本のお家芸ではなかったか。

 

「脱原発」と国が明確に道筋を立てれば、世界一の創意工夫の民は、ドイツよりもスイスよりも先を行く技術や知恵を必ず探し当てる。現に省エネの分野では、電力供給がままならないと分かった大震災以降、多くの発明や工夫をこらした技術や製品が既に生み出されている。

 

脱原発は厳しい道のりを選択することである。だが原発推進は破滅を選択することである。少なくとも、破滅に至るかも知れない恐怖を抱えて生きること、を選択することである。

 

産業は重要である。経済には国の浮沈がかかっている。国が貧しくなれば、国民が不利益や不便をこうむることもある。当たり前だ。

 

だが、人は経済だけで生きているのではない。理念や尊厳や品位を持って生きることも重要だ。少しの不利益や不便を覚悟で、今こそわが国は「脱原発」の意思表示をして「脱原発クラブ」に入会するべきだと思う。

 

入会して、広島と長崎と福島の深い悲しみを力にして世界をリードするべきである。それが日本の義務ではないか。

 

恐らく僕がここで言うまでもなく、多くの日本人はそう思っている。それに気づかないのは愚劣な政争に明け暮れている、民主党政権や野党の政治家らだ。

「国民一流、国家三流」と世界から見なされるゆえんがそこにある。

デザートを食う助手が怖い①



「えーと、何にしようかな。ブディーノ、クロスタータ、パンナコッタ、ティラミス、メリンガータ・・お、カサータ・シチリアーナもいいな。いや、やっぱりジェラート(アイスクリーム)にしようかな・・」

 

カメラ助手のフィリッポが、人生最大のシアワセです、と言わんばかりのニコニコ顔で、デザートのメニューをためつすがめつ読み上げた。


それにつられて、いったん食事を切り上げて仕事に向かうつもりになっていたスタッフの気持ちが、大きくゆらぐのが分かる。

 

ゆらいだ気持ちは、もう元にはもどらない。

椅子から腰を浮かせかけていた音声のアントニオ、照明のミケーレ、運転手兼アシスタントのダニエレの三人が、フィリッポに同調する形でいっせいにデザートの吟味をはじめた。

「時間はだいじょうぶかな」 


カメラマンのロベルトは、さすがに技術スタッフの中心だけあって少しは仕事のことを気にし、同時にせっかちな僕の胸のうちも察して、助監督で制作進行も兼ねるマリアンナにともなく僕にともなく問いかける。


マリアンナは、腕時計と僕の横顔をちらと見くらべて、一瞬だけ迷う振りをしてから言った。


「時間はまだだいじょうぶ。デザート、急いで食べちゃいましょ!」

 

こうして既に2時間以上が過ぎている昼食時間が、さらに三十分程度はのびることが確定した。

 

僕は内心のいらだちを隠して、つとめて平静をよそおってデザートの代わりにコーヒーを注文した。

デザートなど食ってる場合か、と僕なりに抗議をしたつもりだった。

 

ディレクターの僕はロケ隊のボスであり責任者である。仕事中にはスタッフを怒鳴りつける事もある。スタッフに文句を言ったり抗議をしたり、あるいは逆になだめたりすかしたりしながらチームを統率していくのも、ディレクターの仕事の一つだ。

それでいながら僕は、話が今のように食事まわりのあれこれになると、けっこう弱気になる。

”食事はどんなときでもたっぷりと時間をかけて、楽しみながら大いにたらふく食べましょう。それでもって時間がもし許せば、少しだけ仕事をしてもバチは当たらないかも知れない”

みたいなのが、僕のスタッフを含むイタリア人の基本的な生活哲学である。

そのおそるべき食い意地とボージャクブジンな楽天思想を、僕はいつも内心でバカヤローとののしりつつ、同じ心の片隅でなぜか彼らに同調しちゃったりもしてしまう。だからあまり強気になれないのだ。

それにここは僕のアシスタントのマリアンナの顔も立ててやらなければならない。

制作進行は彼女の責任である。それには撮影の時間割や食事時間の振り分けなども含まれる。

僕が口を出すのは簡単だが、余ほどせっぱつまった状況でもない限り、スタッフの役割分担は尊重した方が仕事がうまく行くのだ。

 

苦いコーヒーをすすりながら、僕はデザートのために三十分もの食事時間の延長をもたらすことになった言いだしっぺのフィリッポと、デザートに向かってなだれこんで行く、スタッフのゆるんだ心根と食い気を制止できなかったマリアンナの首を、仕事が終わり次第バッサリと切ってやる、とココロの中ですごんで見せる。

(このクソ忙しいロケの最中に、2時間もかけてメシを食うことさえアキレカエッタ所業なのに、今度はデザートだと~! フィリッポとマリアンナだけじゃない。アントニオもミケーレもダニエレもロベルトも、デザートなんか食う奴は皆んなみんな同じように首を切ってやる。ガオーッ!ガオーッ!)


僕は、表向きは相変わらず平静をよそおっているが、内心ではひたすらに考えをエスカレートさせて、ひとりでコーフンしている。

六人のイタリア人スタッフは、それぞれのお気に入りのデザートをかき抱くようにして、一口食べてはしゃべり、しゃべっては笑い合い、また一口食べてはしゃべってはしゃべってはしゃべっては又しゃべる。

どいつもこいつもとろけたアイスクリームみたいにノーテンキでシアワセイッパイの表情だ。

今の彼らのドタマの中には、仕事のことなんかノミの毛穴ほどの痕跡もないのが見ていて死ぬほど良くわかる。

 

(つづく)

 

 

デザートを食う助手が怖い②



僕らは南イタリアでドキュメンタリーのロケをしている。

今回のような長期ロケの場合は、スタッフ構成はディレクターの僕を含めて4人程度が基本だ。そうしておいて必要があれば、ミラノやローマのみならず、ロケ地に近いイタリア各地から応援のスタッフを呼ぶのが僕のやり方である。

その日と翌日は、夕方から夜にかけて大きな撮影が入っていたため、助っ人の証明マンと助手が加わってスタッフの人数が増え、ワイワイと騒ぐ雰囲気が大きくなって、彼らの気分がさらに仕事から遠ざかりやすくなっていた。

ドキュメンタリーのロケの場合、スタッフは撮影の対象になる出来事や人物やイベントや事件や物の動き等々に合わせて、時間を調整してスタンバイしていなければならない。ロケがたとえば午後四時に始まるならば、普通の場合、どんなに遅くても三時半には現場にいることが要求される。

普通の場合というのは、たとえて言えば、何の変哲もない街や田園の風景を単純に撮影するようなときである。

街とか田園というのは、いつでもそこにあって、動いたり走ったり消えたりすることはない。だからそれをありのままに撮影するときは、カメラを好きなところに据えてそのまま風景を切り取れば良い。

そういうときでも、撮影をはじめる三十分前には現場に行っているのがプロというものである。なぜならプロは撮影の前に充分に時間をかけて準備をするものだからだ。


ディレクターである僕が、切り取りたい風景のイメージをカメラマンに告げ、カメラマンはそれによってカメラ位置やレンズや構図やフレームや光の具合などのいろいろな条件を考慮してテストをくり返した後に、ようやくカメラが回されることになる。

腕の良いカメラマンならば、一連の作業をあっという間に済ませて撮影を終えてしまうが、少しでもいい絵を撮ろうと思えば、それでも準備や設定に三十分程度は軽くかかってしまうものなのだ。

いちばん単純な撮影でさえそうなのだから、照明や音声を設定したり、複雑なカメラワークが必要な撮影だったりすると、準備時間はいくらあっても足りない。

それに加えて、僕が作るドキュメンタリーは、撮影対象が生身の人間だったり、生身の人間にまつわるでき事であったりする場合がほとんどである。 生身の人間が相手だから、物事が撮影の予定時間よりも早く進行したり、撮影直前になって何かが変更になったりキャンセルされたりすることは日常茶飯事だ。

相手の都合ばかりではなく、こちらに起こりうる問題も気に留めておかなければならない。

ロケ現場でいざ撮影をしようとした時に、カメラや照明や音声に不具合が生じることだってないとは限らないのだ。

フィクションの撮影なら、そういう時ゆっくりと構えて機材を調整することもできるが、ドキュメンタリーの場合は撮影する対象が一過性のものであるケースが多いから、その時どきのチャンスを逃してしまうと取り返しがつかない。

そうしたことにすばやく対応するためにも、ロケの現場にはなるべく早く着いていた方が良いのである。

もちろん早めにスタンバイはしたものの、予定の時間よりも逆に遅れて物事が進行することもある。イタリアではむしろその方が多いくらいだ。だからといって、それを期待して時間ぎりぎりに動いたり予定を決めたりするようでは、最早これはプロではない。アマチュアでさえない。単なるバカである。

いまノーテンキな顔でデザートを食っている僕のスタッフは、全員がプロである。

従ってデザートを食っても、次の撮影開始時間の少なくとも三十分前には現場に到達できることを知っている。たとえ全員ではなくても、制作進行を兼ねる監督助手のマリアンナは、そのことを充分に計算している・・・・ように見える。

ところが、これが全くあてにならないのである。メシのため、デザートのためならば、バカと言われようがアマチュアとののしられようが、断固として食卓にへばりついているのがイタリア人である。

(メシもデザートもその日の撮影がすべて終わったところで、いくらでも時間と金をかけて好きなだけ食わしてやる。それだけの予算はちゃんと計上されているのだ。だからロケが進行中は、フツーの人類のように昼食は一時間程度ですませて、早め早めに現場に行ってスタンバイをしようよ)

というのが僕の偽らざる心境である。

僕はできるだけ早くロケ現場に行って、撮影が始まるまでの間に撮影項目や設定や構成や人物や話の流れや・・・といった作品の基本になる様々な事柄をもう一度確認し、あるいは練り直しておきたいのだ。

だからたとえ待ち時間が長くても、それは決してムダな時間ではないのである。

胃潰瘍のウシじゃあるまいし、クチャクチャクチャクチャ食いつづけている時間などないのだ!

 

(つづく)

 

 

デザートを食う助手が怖い③



 

そうは言うものの、できれば食事時間を短く、デザートもほどほどにして仕事にまい進しよう!などというのは、実はディレクターである僕の勝手な言い分である。

ドキュメンタリーに限らず、映画やテレビの撮影の仕事というのは、いつも大変な肉体労働である。肉体的にキツイという意味では、それこそ道路工事や建設現場の重労働と少しもかわらないところがあるのだ。

仕事場の責任者が’監督’と呼ばれるところも共通している。いや、時間が不規則でかつ長時間の拘束になったりすることを考えると、むしろ工事現場の労働よりも辛い、と言い切っても良いかもしれない。

そういう飛んでもない仕事なので、スタッフが休めるときに休んでおきたい、という気持ちになるのも仕方のないことである・・・と僕はときどき部下をいたわる良いボスを気取って思ったりすることもないではない。

 

実際に、イギリスと日本とアメリカで同じ状況に置かれていた時は、僕はそういうヨイボスであったのだ。

しかしイタリアではそうはいかない。そんな甘いことを 口に出した日には、彼らウラヤマシクもイラダタシイ怠け者たちは、いつまでたっても食べることを止めようとはしないのだ!

 

 

イタリアの食事のフルコースは、先ずアペリティブ(食前酒)に始まる。このアペリティブは、いわゆるカクテルの類の軽い酒である。それを飲み終わってから出てくるのが、アンティパスト(前菜)である。このあたりでワインも注文する。ワインを頼んだらミネラルウォターも同時に持ってきてもらうのがふつうである。

アンティパストは、サラミや生ハムや魚介の酢の物や各種の揚げ物などが、一種類か又は盛り合わせになって出てくる。

その次にプリモ(ファーストコース)を食べる。プリモは九割方がスパゲッティーやマカロニなどの、いわゆるパスタである。もちろんここではパスタの代わりにスープ類をたのんでもかまわない。

プリモを食べ終わったところで、ようやくセコンド(メインコース)の登場となる。セコンドはその時どきの食事のハイライトだから、ボリュームたっぷりの肉料理か魚料理になるのが常道である。

 

セコンドの主料理には、コントルノ(付け合わせ)の一品をあわせて頼むことが多い。コントルノはサラダや野菜の煮たものになるのがふつうである。

セコンドにつづいて食べるのが、いわずと知れたデザートである。アイスクリームやケーキにはじまるデザートは、非常に種類が豊富で、選ぶのにも見ていていらいらするくらいに時間がかかることは既に述べた。このデザートの代わりに新鮮なフルーツを食べる人もいる。

デザートやフルーツを食べ終わるころには、ワインの何本かが既に飲みつくされている。そこでアルコール度の強いディジェスティボ(食後酒)が登場し、それを飲み終わったら、仕上げとしてタールのように濃いエスプレッソコーヒーを飲むのである。そこでようやく食事の全行程が終わる。

それらの飲食物が、いっぺんにではなく順を追って出てくるから、それだけでも時間がかかる。加えて、彼らの食べ方がまたのんびりしているために、食事にはいつもおそろしく時間がかかってしまうのだ。

食べ方がのんびりしているというのは、イタリア人が牛のように食べ物をゆっくりと咀嚼(そしゃく)するということではない。彼らは食事の間じゅう片時も休むことなく会話をしつづけるのである。

何度も言うようだが、一口食べてはしゃべってはしゃべってはしゃべり、もう一口食べて、しゃべってはしゃべってはしゃべってはしゃべっては又しゃべってはしゃべる、というのがイタリア人の食事の仕方だ。

イタリア人が一食ごとにボーダイな量の食べ物を平らげることができるのは、ぺちゃくちゃぺちゃくちゃしゃべりつづける間に、つぎつぎに食べ物を消化していくからではないか、と僕は疑っている。

 

(つづく)


デザートを食う助手が怖い④



昼間っから大食らいをするイタリア人は、食後は当然に眠くなって仕事どころではなくなる。そこで古来この国には、昼休みを長く取って食後は本当に一眠りをしてしまうという、うらやましいようなアホらしいような習慣ができあがった。

イタリアを含む南ヨーロッパの国々では、夏の暑さを避けるために昼食休みを長く取る習慣ができた、というもっともらしい説もあるが、それじゃ冬でも昼休みが長いのはどいうわけ?って聞いてみれば、それが真っ赤なウソであることは明らかだ。

要するに、昼食をたらふく食べるために昼休みがムチャクチャに長くなった、というのがイタリアの真実なのではないかと僕は考えている。

ミラノなどの都市部のサラリーマンの中には、何か特別のことでもない限り昼食はどんなに長くても一時間程度で済ませて、夕食を家族と共にゆっくりとたくさん食べるという人も最近は増えている。それでも大方のイタリア人は、今日も昼食に重きを置いてしっかりと食べまくるのが当たり前なのである。

僕のスタッフはもちろんサラリーマンではない。昼食は時間をかけてたっぷりと食べるもの、と誰もが考えまたその通りに生活をしている者ばかりである。

それでも、しかし、なんといっても、ほんとうに !

今は厳しいロケの真っ最中なのである。僕はなかなか人間のでき上がらない者の悲しさで、スタッフが長々と時間をかけてデザートなどを食い出すのをみると、つい「イイカゲンニシロ!」と心の中で叫ばずにはいられないのである。

一日の仕事が終わったとき、特に夜ならば、ホントは僕はめっぽう良いボスになれるのである。前にも言ったように、彼らが食事にいくら時間と金をかけても、またデザートをガツガツ食いまくっても、少しも文句を言う気になんかならない。

むしろ僕はそうして欲しいとひそかに願っている。なぜかと言うと、僕は彼らが食べている間じゅう好きなだけ酒を飲むことができる。酔うほどに飲むことができる。

僕は口癖に
[イタリアでは酒に酔って一度ハメをはずしてしまうと、よほど特殊な状況でもない限り、その人はもう翌日からはまともな人間として扱ってもらえない]
と言うが、

実は僕にとっては、その数少ない特殊な状況の一つが、ロケのスタッフと共に食べたり飲んだりしている時なのである。

彼らは映画屋やテレビ屋だけあって、皆それなりにくだけている。だからスタッフの中に僕のような本物の酔っぱらいがいても、それほど驚いたりはしない。

言い訳をしておくと、僕は日本でならばなんの変哲もない当たり前の酔っぱらいである。

酔うと楽しくなり、良くしゃべるようになり、くどくなり、からんだり、ヒトの迷惑をカエリミズに歌いまくったりする。ふだんは必死にかくす努力をしているスケベオヤジの本性も出たりするらしい。

要するに、僕は酔ったおかげで、「素面のイタリア人と張り合うだけのエネルギーを持つ男」に変身するのである。

デザートに手を出したフィリッポは、その僕の夜の楽しみまで奪おうとしている。

なぜなら昼食にこれほど大がかりな時間と食欲を費やしてしまったスタッフは、もしかすると彼らの中にほんのわずかに残っているかも知れない良心の呵責 --つまりメシを仕事に優先させたことへの後ろめたさ--にさいなまれることになって、今夜は夕食時間を早めに切り上げてそれぞれがさっさとホテルの自室に引き上げてしまう可能性がないとは言えない。

そうなると僕は、相手の迷惑をかえりみずに飲んで酔っぱらう当の相手がいなくなって、はなはだ面白くないということになる。酔っぱらいの楽しみはとにもかくにも相手がいなければ始まらないのだ。

もしもそういう事態になったときは、僕は今夜はフィリッポをとっつかまえて、朝まで僕の酒の相手をさせてやろうと考えている。

イタリア人の彼にとっては、仕事をクビになったり殺されたりするよりも、酔っぱらいの相手をすることの方がきっと辛い罰になるはずだから・・・

(おわり)

 


国際的味覚



値段の高いものを人がおいしいと感じるのは、下品どころか、感情を備えた人間特有の崇高な性質ではないだろうか。

 

例えば僕は、今が旬のサクランボが大好きだが、イタリアで食べるサクランボは日本で食べるよりもはるかにおいしい。

 

日本とイタリアのサクランボの味は「物理的」にはあまり変わりがないのかも知れない。だが僕は明らかにイタリアのものがおいしいと感じる。なぜか。

 

イタリアのサクランボはドカンと量が多いからである。

 

サクランボを大量に、口いっぱいにほおばっているとき、僕は日本ではあんなにも値段の高い高級品を、今はこんなにもいっぱい食べまくっている、という喜びで心の中のおいしさのボルテージが跳(は)ね上がっているのだ。

 

恐らくこれはイタリア人が感じているものよりも、ずっとずっと大きなおいしさに違いない。

 

なぜなら彼らは、サクランボの「物理的な」おいしさだけを感じていて、日本の山形あたりのサクランボの「超高級品」という実態を知らないから、従って「ああ、トクをしている」という気分が起こらない。

 

僕は日本を出て外国に暮らしているおかげで、時にはこういういわば「味の国際化」の恩恵を受けることがある。

 

しかし、これはいいことばかりとは限らない。

 
というのも僕は日本に帰ってサクランボを食べるとき、そのあまりの量の少なさに、ありがたみを覚えるどころか、なんだかケチくさい悲しみを感じ、もっとたくさん食わせろと怒って、おいしさのボルテージが下がってしまう。

 

このように、何事につけ国際化というものは善(よ)しあしなのである。


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