【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

ベアトリーチェとシチリア



先週の土曜日、ブレッシャ市近辺の貴族家の晩餐会に夫婦で招かれた。同家は当主夫妻と一男二女、それに当主の姉の6人家族。

 
そのうちの長女ベアトリーチェが、シチリア島のパレルモでマルトラーナ教会の修復作業にたずさわっていると知る。嬉しいサプライズ。

 

イタリアには、絵画を含む芸術作品や歴史的建造物あるいは調度品などの修復、改修、復元などを専門とする「修復師(restauratore)」というりっぱな仕事がある。

 

ベアトリーチェは、2年前に芸大の修復専門科を卒業して、修復師になった。アート好きな若者たちの憧れの職業の一つである。

 

マルトラーナ教会は、ファサード(正面)がバロック様式の美しい建物。サンタ・マリア・デッランミラーリオという舌をかみそうな名前でも知られる。パレルモを代表する歴史的建造物。


マルトラーナ教会のすぐ隣には、アラブのモスク風の赤い丸屋根が、鮮烈な印象を与えるサン・カタルド教会がある。二つの教会はパレルモの有名観光スポットの一つ。

 
サン・カタルド教会は、サン・ジョバンニ・デッリ・エレミーティ教会とともに、シチリア島が9~11世紀にかけてアラブ(ムスリム)の支配下にあったことを如実にあらわす、中東趣味のシンプルで美しい建物。アラブの好影響の一つ。

 

8月のシチリア旅行ではもちろんパレルモにも寄った。マルトラーナ教会にも寄った。僕は何度も訪れてドキュメンタリーの撮影もしている。が、妻にもまた友人夫婦にとっても初めての場所だった。皆が当然写真撮影をしたがった。

 

ところがマルトラーナ教会は修復中で、周りが工事の枠組みに覆われていて何も見えなかった。残念だがイタリアでは良くあること。隣のサン・カタルド教会だけを写真に収めた。

 

「そうか、ベア(ベアトリーチェの愛称)が僕らの写真撮影のジャマをしていたのか」

僕は笑ってべアトリーチェを責めた。

 

「ごめんなさい。そうなの。よく言われるの。修復工事の骨組みが見物のジャマだって」

ベアトチリーチェも笑いながら、でも本気で申し訳なく思っていることが分かる、曇りのない目色で応えた。

 

彼女は翌日の日曜日には再びパレルモに戻った。少なくとも今年いっぱいは向こうに滞在して修複作業に従事するという。

 

僕は若いベアトリーチェが、仕事を通してシチリア島の豊富な芸術や歴史や文化に触れると共に、マフィア問題のような島の暗部にも恐れることなく、正直に、そして堂々と対面して自分を磨き成長していってほしいと願い、また彼女にもはっきりとそう話した。

 

シチリアの話になると、どうも僕はいつも気負った感じになるようだ。ベアはおどろいてしまったかも・・

 

でも、彼女は子供のころから芸術好きで利発で冒険心の強い娘だ。きっと僕の言う意味を理解してくれたに違いない・・


熱砂の大海原に消えた猛獣Ⅱ



カダフィ大佐と共に逃亡、あるいは彼をかくまっていると考えられる「砂漠の青い民」は、独自の国家は持たずにリビア、アルジェリア、ニジェール、マリ、ブルキナファソなどの国々に居住しているのだが、もともと国境という観念が薄い人々だと考えられている。→<熱砂の大海原に消えた猛獣

 
言うまでもなく彼らは、各国の国民としてそこに定住し、仕事をし、普通に生きてもいる。また遊牧や交易を生活の糧としている人々も、貧しい中にも古代とは違う現代風の生活をしていたりしている。

 

同時にまた彼らの多くは、前述のアフリカ5ヶ国にまたがる広大な砂漠地帯を拠点にして、自由に動き回っているとも考えられているのである。

 

また定住をしている人々でさえ、各国の国境線を越えて自在に活動することを当然と捉えるのが普通だという。

 

国境線は彼らにとっては、きっと砂上の風紋や砂に引かれた線のようなものなのだろう。

 

それらの風紋や線は、砂漠にひんぱんに起こる砂嵐によって、いとも簡単に消され、移動し、変化しつづける。

 

つまり、あって無いようなものが「砂漠の青い民」にとっての国境線なのである。

 

国境という概念を持たない、あるいは国境などに縛られない「砂漠の青い民」とは、なんと古代的な、そしてなんとロマンに満ちた民族なのだろう・・・

 

一方で、あえて彼らをスカウトして召抱えたカダフィ大佐も、極めて古代人的なメンタリティーを持つ男のように僕には感じられる。

 

大佐は遊牧民のテントを愛し、国境線の存在を無視して、広大な汎アフリカ主義国家の盟主を目指した可能性さえある。

 

まるで古代ローマ帝国を思わせるような雄大な夢だが、それは古代国家に範を見出さなければならないところからも分かる如く、時代に逆行した、やはり古代的な発想というべきものではないか。

 

そういう古代的な精神を持つカダフィ大佐が、古代的な自由人「砂漠の青い民」に目をつけたのは、あるいは当然といえば当然のことなのかもしれない。

 

大佐は彼らのうちの特に屈強で闘争心に溢れた男たちを呼び集めて訓練し、重用し、長い時間をかけて兵士らと絆を深めていった。

 

そして政権崩壊の混乱が訪れたとき、「砂漠の青い民」と共に彼らの聖地である砂漠地帯へと逃れていった。砂漠の精神は大佐自身の血の中にも流れている。主従がそこに向かったのは当然の帰結だった・・・ジャンジャン・・

 

というのは、もちろん僕の遊びまじりの勝手な妄想である。

 

大佐が大罪を犯し、状況を見誤り、それでも自らの力を過信して政権に固執した結果、追い詰められて砂漠に落ち延びていった、というのが一番真実に近いシナリオだろう。

 

でも、それだけではつまらないから、僕はちょっと大佐を買いかぶってみたり、ミステリアスな「砂漠の青い民」の男たちに思いを馳(は)せたりしながら、あれこれ物語を組み立ててみたりもする。

 

それなのに往生際の悪いカダフィ大佐は、一昨日、僕の妄想をぶち壊すようにシリアの衛星テレビ局を通して「リビア人よ立ち上がれ!立って100万人の行進を行え!」と咆哮した。顔の見えない猛獣の雄叫(たけ)び。負け犬の遠吠え・・

一方で大佐の出身地のシルトでは、立てこもるカダフィ派に反カダフィ派が総攻撃をかけるなど、リビア各地での激しい戦闘は続いている。

 

大佐は逃げ切れるものではなく、やはり本当の終わりが近づいている、というのが現実なのだろう・・


まよい夏



今朝6時半頃、強い風の音で目が覚めた。

 

「あ、テンポラーレ(豆台風)だ」
→<ヴェンデミア(VENDEMMIA)
と思いつくやいなや、走るように急いで窓際に行った。

窓を開けようとして、思いとどまった。

 

家の全ての入り口や窓にはアラーム(盗難警報)のセンサーが設置されている。

 

アラームを解除しないでドアや窓を開けると、けたたましいサイレンの音が鳴り響き、警備会社に自動的に知らせが飛ぶ仕組みなのである。

 

アラームを解除して、もう寝室には戻らずに、自分の書斎兼仕事場に入った。

 

外はまだ真っ暗である。窓から見下ろすブドウ園には、闇の中に風のざわめきが踊り、逆巻き、鈍い光のようなものが見えてブドウの木が揺れている。

 

暗がりの中で木が見えるのは、記憶心理の単なる綾だろうと思ったその時、稲妻が走って闇の一角が輝き、激しく騒ぐブドウの枝葉が一瞬まぶしく浮かんで消えた。

 

雷鳴がつづき、さらに雨の音が聞こえた。でも雷の音も雨の音も、心なしか弱々しい。

 

エネルギーを集めて一気に放出する、夏の盛りの憤怒のようなテンポラーレとは様相が違う。

 

30分もすると空が明るんできた。雷鳴が遠のき、でも、雨は降りつづけている。

 

このまま終わるかと思ったころ、風が少し強まって、ふいに雷が近くで鳴った。雨足も速くなった。それが一気にドシャ降りに変わる。

 

空気がすっと冷たくなるのが分かった。雨が雹(ひょう)に変わる前触れである。

 

雹はブドウの大敵。でも、収穫を終えたブドウ園の木々は、少し残る緑と枯れ葉を全身に乗せて、雨に打たれて立たずんでいるだけである。

被害に遭う心配はない。

 

小さな采園のことが頭をよぎった。トマトとピーマンが少し、それに葉野菜が残っている。強い雹が降れば全滅だろう。

残念・・という思いで外の動きに目をこらした。

 

雨はなおも激しく振りつづけたが、一向に雹にはならなかった。やがて小降りになって風が弱くなり、雷鳴も遠くなった。

 

僕はほっとするような残念なような気分で窓外を見つづけている。

 

野菜に被害が出るのは悔しいが、強烈な雹も見たかったのだ。

 

僕はテンポラーレや雹や雷鳴や暴風などの、激しい気候変化が好きなのである。

 

9時になっても雨風は止まない。

雷鳴も遠くなったり近づいたりして、一向に去る気配がない。

ひと息に起こって消える、テンポラーレ独特の厚い黒雲もまだ空にある。でもその雲も夏に比べると薄いようである。

 

なにもかもが中途半端なテンポラーレ。

 

この分だと、きっと「寒くない10月」がまだ続くのだろう。

外でくすぶっている風雨が再三強まって、荒々しい本物のテンポラーレに変わり、暑気を完全に吹き飛ばさない限り・・・

 

 

語学習得のヒケツの一つ



ミラノの語学学校でイタリア語を勉強しているN・Y君がこの間僕のところにやって来た。将来イタリアと日本を結んでデザイン関係の大きなビジネスをやりたいと青雲の志に燃えている彼は、今イタリア語にけん命に取り組んでいる。が、それがなかなか思うように上達しないので悩んでいるところだという。

 

「おれ、語学の才能がないんだと自分でも思っています。くやしいけど、そのことは口を大にして言ってもいいですよ。おれ、本気ではそんなことは毛頭認めたくないんですけど・・・」

N・Y君は深刻な顔で彼の悩みを語り始めた。

 

僕はN・Y君のイタリア語がうまくならない理由が分かったと思ったので、なおも話し続けようとする彼を制して、笑って言った。

「イタリア語もいいけど、日本の古典文学をまず勉強した方がいいな」

「へ?」

「たとえば“源氏物語”とか“枕草子”とか、日本の古典文学だよ」

「・・コテン・・・ブンガク・・?」

N・Y君は、まるで頭の中がコテン、とでんぐり返った男でも見るような顔つきで僕を見た。少しふざけ過ぎたと思ったので、僕は言葉を変えた。

 

「今は必死になってイタリア語を勉強しているのだから、日本語は関係がない、と君は思っているだろう。そこが一番の問題なんだ」

「・・・?」

「はっきり言うと君の日本語はおかしい。口を大にして、というのは正確には声を大にして、と言うんだ。本気では、というのもここでは使い方が間違っている。それを言うなら、本心では、と変えた方がいい。毛頭、というむつかしい語の使い方も少しニュアンスが違う。ついでに言うなら、おれ、おれと言いながらデスマス調で言葉をしめくくるのも変だ」

僕はあえて指摘した。

 

N・Y君は決してバカではない。特別でもない。彼の世代の日本の若者は皆彼のような言葉遣いをする。しかし、変なものは変だ。

 

日本語をしっかり話せない日本人は外国語も決して上達しない。それが長い間そこかしこの国で言葉に苦労した僕が出した結論である。

 

語学のうまい、へた、はひたすら「言い換え」の能力によって決まる、と僕は思う。

 

たとえば一番分かりやすい例で<猿も木から落ちる>という諺。これを英語にする時たいていの日本人は<猿>⇒モンキー。<も>はトゥー、あ、でもここでは<でも>の意味だから多分イーブン。<木>⇒ツリー。<から>はフロムなのでフロム・ツリー。そして<落ちる>⇒ドロップ?フォール?多分フォール・・・などと辞書を引き引き考えて、最終的に《EVEN A MONKY FALLS
FROM A TREE》のように英文を組み立てるのではないか。少なくとも受験勉強をしていた頃の僕などはそうだった。

 

こういう直訳の英語で話しかけられた外国人は、目をパチクリさせながら、それでも言おうとする意味は分かるから、苦笑してうなずく。

 

それでは<猿も木から落ちる>と全く同じ意味の<弘法にも筆の誤り>を訳するときはどうするか。前者と同じやり方で《EVEN MR. KOBO MAKES MISTAKES WITH HIS PENCIL》とでも言おうものなら、ドタマの変な奴に違いないと皆が引いたり、避けて通っていくこと必定である。

<ミスター・コーボー>を<空海>と置き換えても<ペンシル>を<ブラッシュ>と置き換えても事情は変わらない。

 

こういうときに、素早く言い換えができるかどうかによって語学のうまい、へた、が決まるのである。

 

二つの諺は<私達はみんな間違いを犯す>という意味である。そこで素早く直訳して《WE ALL MAKE MISTAKES》などと言い換える。あるいは<人間は不完全な存在(動物)である>として
《HUMANS ARE INPERFECT BEINGS 》など言い換える。

 

それらは既に《EVEN A MONKY FALLS FROM A TREE》よりもはるかに英語らしい英語だと思うが、さらに言い換えて<人は誰でも間違いを犯す>《EVERYBODY MAKES MISTAKES》とでもすればもっと良い英語になる。それをさらに言い換えて<完全な人間などいない>つまり《NOBODY IS PERFECT》と簡潔に言い換えることができれば、<猿も木から落ちる>や<弘法にも筆の誤り>のほぼ完璧な英訳と言ってもいいのではないか。

 

事は英語に限らない。外国語はそうやってまず日本語の言い換えをしないと意味を成さない場合がほとんどである。

 

日本語を次々と言い換えるためには、当然日本語に精通していなければならない。語彙(ごい)が豊富でなければならない。僕がN・Y君に言いたかったのは実はその一点なのである。

 

言葉を全く知らない赤ん坊ならひたすらイタリア語を暗記していけばいい。しかし、一つの言語(この場合は日本語)に染まってしまっている大人は、その言語を通してもう一つの言語を習得するしかないのだ。

 

N・Y君は日本語の聞こえないイタリアに来て、イタリア語にまみれてそれを勉強している。これは非常にいいことである。言葉は学問ではない。単なる「慣れ」である。従ってN.Y君も間もなく慣れて、少しはイタリア語が分かるようになる。

 

しかし、うまいイタリア語は日本語をもっと勉強しない限り絶対に話せないと僕は思う。この先彼が何十年もイタリアに住み続け、彼の中でイタリア語が日本語に取って代わって母国語にでもなってしまわない限り・・・。

 

                        

熱砂の大海原に消えた猛獣



リビアのカダフィ大佐が、南米のベネズエラに逃亡した可能性は限りなくゼロに近いものだろう。でも杳(よう)として行方がわからないのだから、100%その可能性がないとも言えない。

→<カダフィの終焉?

 

最新の情報としては、ロイター通信がリビア西部のガダミスに潜伏か、と報じているものの確認は取れていない。

 

ガダミスはアルジェリアとチュニジアの2国と国境を接する砂漠地帯の街。世界遺産にも登録されているオアシス都市である。

 

思いきり可能性が高いのは、独自の国を持たないトゥアレグ族の勢力圏内に潜んでいること。

 

トゥアレグ族の男たちは勇猛果敢で知られ、藍染のターバンと民族衣装を着ることから「砂漠の青い民」と呼ばれている。

 

彼らの勢力圏とは、リビア、アルジェリア、ニジェール、マリ、ブルキナファソにまたがる広大な砂漠地帯のことである。そしてガダミスは実は「砂漠の青い民」の広大な版図の最北端に位置している。

 

カダフィ大佐は革命で政権を奪取して以来、「砂漠の青い民」を徴集して鍛え、手勢や親兵として重用し手厚く保護し続けた。男たちの勇猛と忠誠心を重視したからである。「砂漠の青い民」は、大佐が危機に陥った今も彼と行動を共にし、かくまい続けているものらしい。

 

とはいうものの、カダフィ大佐の命運はもう尽きたも同然であろう。生きて身柄を拘束された場合は、裁判の有無にかかわらず、民衆の怒りに呑みこまれて弾劾されるだろうし、又されるべきである。彼はそれだけの罪を犯していると僕は思う。

→<イタリアVS砂漠の猛獣Ⅱ

 

それでいながら僕は、心のどこかで、カダフィ大佐に共感するような感心するような、不可解な気分も抱きつづけている。

 

大佐は極悪非道な独裁者だが、行動がユニークで、どこか憎めない間抜けでユーモラスな一面も持っている。そして間抜けでユーモラスに見える部分は、少し見方を変えれば、彼の器の大きさを示すもののようでもある。

 

その部分が僕の関心を引き付けるばかりではなく、内心で彼の逃亡を期待するような怪しい気持ちさえ呼び起こしているようなのである。

 

魅力というと語弊があるかもしれないが、大佐の軽妙でユニークな部分とは

 

1)  黒人アフリカとアラブアフリカを結んで、その盟主になろうと画策した誇大妄想。彼にはもしかすると、巨大アフリカの統一王になるつもりさえあったのかもしれない。妄想には違いないが、壮大な野心であり考え方であるとも言える。黒人のオバマ米大統領を「アフリカの息子」と呼んで親しみを示したり、元米国務長官のコンドリーザ・ライス女史のファンで、ひそかに彼女の写真アルバムを作っていたりしたのも、アフリカへの特別の思い入れだろうが、やっぱりちょっとユーモラス。

 

2)  出自の砂漠の民、ベドウィンのテント生活を愛してやまないらしいところ。彼は国賓としてイタリアとフランスを訪れた際も、ローマとパリのど真ん中にテントを設営してそこに滞在した。普通なら超一流ホテルでも借り切って見栄を張るところで、砂漠民のテントにこだわるとは痛快ではないか。

 

3)  アメリカを始めとする欧米列強に歯向かい続けたガッツ。彼が「砂漠の狂犬」とか「砂漠の猛獣」などと呼ばれるのも実はこのあたりが原因だ。欧米マスコミの勝手な命名。僕もそれを何度か拝借したが、多くのアラブ人や反欧米諸国の人々にとっては、逆に「砂漠の英雄」あるいは「砂漠の風雲児」というあたりででもあろう。実を言えば、僕もひそかにその反骨精神には一目おいてきたのだ。

 

4)  もっとも、カダフィのガッツは、状況の変化に応じてさっさと迎合にもなる、風見鶏もマッ青の気骨であることも明らかになったが・・

→<カダフィの終焉?

  ただそれも又、この一筋縄ではいかない独裁者の「優れた政
    治感覚」とも考えられるのだから、困ったものである。

 

5)  好戦的として恐れられていた「砂漠の青い民」の男たちを手なずけて、彼の親衛隊に組み込んだ見識と手腕。「砂漠の青い民」の兵士らは、今やリビアの主勢力となった反カダフィ軍の報復を恐れて、大佐と共に砂漠地帯に逃れているだけだという見方もあるが、もしかすると彼らのボスと本当に強い絆で結ばれていて、最後まで大佐をかばい彼と共に戦い続ける、ということも起こり得るのではないか。まさか、とは思うけれど・・

 

なにはともあれ、僕はカダフィ大佐が、イラクのサダム・フセインをまねて、地下の穴ぐらから敵の手で引きずり出されるような、悲惨な状況はあまり見たくない。
 

逃げ切れない場合は、自首して裁判で堂々と自己主張をした上で処刑されるか、せめて捕まる前に自決をしてほしい、という気分をどうしても拭(ぬぐ)い去る ことができずにいる・・・

 

 

夏ならび



イタリアは暑い日が続いている。統計によると去ったばかりの9月は、同月としては過去150年間でもっとも気温が高かった。月の平均気温を3度以上も上回って今年の9月は終わったのである。

 

もうひとつの記録も塗り替えられた。なんと1753年以来、258年振りに9月に「ラ・ファ(蒸し暑い日)」が記録されたのだ。暑いはずである。

 

北イタリアでは例年8月の半ば頃を境に涼しくなって急速に秋がやってくる。今年は夏の初めから涼しい日が続いて、どうやら「冷夏」と規定される年になるかと思ったが、8月15日前後から逆に暑くなって、それはそのまま記録破りの異常気象の9月へとなだれ込んだ。

 

8月24日からシチリア旅行に出ていた僕は、いつになっても涼しくならない気候におどろいたが、それはきっと南イタリアだからだろうと考えたりした。でもそうではなくて、むしろ北イタリアの方がさらに暑かったのだ。

この現象は北欧にも及んでいて、ロンドンも記録的に暑い9月だったらしい。

 

その9月が過ぎて、10月になった今も暑い日がつづいている。しばらくはこんな気候のままだという予報もあるが、果たしてどうだろうか。

 

ただ、暑いとはいうものの、それは例えば日本の夏の蒸し暑さとはまったく色合いが違う。日中、真夏の陽光に似た輝かしい光が降りそそいで気温が上がるが、空気は乾ききっていてさわやかである。

 

夏の間に小麦色の肌になりそびれた人々が、陽気に誘われて庭や公園や海などに寝椅子を持ち出して、日焼けを試みているが多分それは思い過ごし。10月にも入った日ざしには、さすがに肌をこんがりと焼くほどの力はないのではないか。

 

つまり、その程度の暑さであって、朝晩は空気はひんやりと冷えている。正確に言えば、10月になっても寒くない日々がつづいている、というところか。

 

土曜日には、義母と妻と3人できらめく光を浴びながら山荘のあるラゾーネに遊んだ。海抜1000Mの山中もぽかぽかと暖かく、昼食に寄ったレストランでは驚いたことにまだ屋外での食事が可能だった。

→<9月、秋はじめと仕事はじめの期


白樺や胡桃(くるみ)や
山毛欅(ブナ)の大木の下に入るとさすがに冷えるが、陽だまりにあるテーブル席では、半そでシャツのままで食事をすることができたのである。

 

義母は大病を患っていらい急速に老いている。もしかすると山に遊ぶのは今年が最後かもしれない。相変わらず淡々と日々を過ごしている彼女は、陽光の輝く山の景色を見回しながら、さらに穏やかな表情で食事をしている。僕は妻と目配せをして、義母を山に連れ出してよかった、と互いの胸のうちを確認しあった。

→<母たちの生き方

 

10月になっても夏のような日々がつづくので、イタリア各地の海の家は今月末まで営業を続ける、と決定した。

 

ちょっと信じがたいことだが、今日も確かに暑くなりそうな気配。

 

真っ青に晴れ渡った空と、きらめく陽光が降りそそぐ景色は、まるで6月のギリシャのよう・・

 →エーゲ海の光と風エーゲ海の光と風Ⅱ

 

 

秋言葉のあや



イタリア語には、枯れ葉、病葉(わくらば)、紅葉(こうよう)、落葉、朽ち葉、落ち葉、黄葉、もみじ・・などなど、というたおやかな秋の言葉はない。

 

枯れ葉は「フォーリア・モルタ」つまり英語の「デッド・リーフ」と同じく「死んだ葉」と表現する。

少したおやかに言おうと思えば「乾燥葉(フォーリア・セッカ)」という言い方もイタリア語には無いではない。

また英語にも「
Withered Leaves(ウイザード・リーブ)」、つまり「しおれ葉」という言葉もある。

が、僕が知る限りでは、どちらの言語でも理知の勝(まさ)った「死に葉」という言い方が基本であり普通だ。

 

夏がとつぜん冬になるような季節変化が特長的なイタリアでは、秋が極端に短い。おそらくそのこととも関係があると思うが、この国の人々は木の葉の色づき具合に日本人のように繊細に反応することはない。

 

ただイタリア人の名誉にために言っておくと、それは西洋人全般にあてはまるメンタリティーであって、この国の人々が特別に鈍感なわけではない。

 

言葉が貧しいということは、それを愛(め)でる心がないからである。彼らにとっては枯れ葉は命を終えたただの死葉にすぎない。そこに美やはかなさや陰影を感じて心を揺り動かされたりはしないのである。

 

それと似たことは食べ物でもある。たとえば英語では、魚類と貝類をひとまとめにして「フィッシュ」、つまり「魚」と言う場合がある。というか、魚介類はまとめてフィッシュと呼ぶことが多い。

 

日本語で貝やタコを「魚」と言ったら気がふれたと思われるだろう。

 

もっと言うと、そこでの「フッィッシュ」は海産物の一切を含むフィッシュだから、昆布やわかめなどの海藻も含むことになる。もっとも欧米人が海藻を食べることはかつてはなかったが。

 

タコさえも海の悪魔と呼んで口にしなかった英語圏の人々は、魚介類に疎(うと)いところが結構あるのである。

 

イタリアやフランスなどのラテン人は、英語圏の人々よりも多く魚介に親しんでいる。しかし、日本人に比べたら彼らでさえ、魚介を食べる頻度はやはりぐんと落ちる。

 

また、ラテン人でもナマコなどは食い物とは考えないし、海藻もそうだ。もっとも最近は日本食ブームで、刺身と共に海藻にも人気が出てきてはいる。

 

多彩な言葉や表現の背景には、その事象に対する人々の思いの深さや文化がある。

 

秋の紅葉を愛で、水産物を「海の幸」と呼んで強く親しんでいる日本人は、当然それに対する多様な表現を生み出した。
 

もちろん西洋には西洋人の思い入れがある。たとえば肉に関する彼らの親しみや理解は、われわれのそれをはるかに凌駕(りょうが)する。

 

イタリアに限って言えば、パスタなどにも日本人には考えられない彼らの深い思いや豊かな情感があり、従ってそれに見合った多彩な言葉やレトリックがあるのは言うまでもない。

 

さらに言えば、近代社会の大本を作っている科学全般や思想哲学などにまつわる心情は、われわれよりも西洋人の方がはるかに濃密であるのは論を俟たないところである。

 

スパゲティと国際社会



食事マナーに国境はない。

 

もちろん、いろいろな取り決めというものはどの国に行っても存在する。たとえばイタリアの食卓ではスパゲティをずるずると音を立てて食べてはいけない。スープも音を立ててすすらない。ナプキンを絶えず使って口元を拭(ふ)く・・・などなど。

 

それらの取り決めは別に法律に書いてあるわけじゃない。が、周知の通り、人と人がまともな付き合いをしていく上で、時には法律よりも大切だと見なされるものである。

 

なぜ大切かというと、そこには相手に不快感を与えまいとする気配り、つまり他人をおもんばかる心根が絶えず働いているからだと考えられる。マナーとはまさにこのことにほかならない。

 

それは日本でも中国でもイタリアでもアフリカでも、要するにどこの国に行っても共通のものである。食事マナーに国境はない、と言ったのはそういう意味である。

 

スパゲティをずるずると音を立てて食べるな、というこの国での取り決めは、イタリア人がそういうことにお互いに非常に不快感を覚えるからである。スープもナプキンも、その他の食卓での取り決めも皆同じ理由による。別に気取っている訳ではないのだ。

 

それらのことには、しかし、日本人はあまり不快感を抱かない。そばやうどんはむしろ音を立てて食べる方がいいとさえ考えるし、みそ汁も音を立ててすする。その延長でスパゲティもスープも盛大な音を立てて吸い込む。

 

それを見て、日本人は下品だ、マナーがないと言下に否定してしまえばそれまでだが、マナーというものの本質である「他人をおもんばかる気持ち」が日本人に欠落しているとは僕は思わない。

 

それにもかかわらずに前述の違いが出てくるのはなぜか。これは少し大げさに言えば、東西の文化の核を成している東洋人と西洋人の大本(おおもと)の世界観の違いに因(よ)っている、と僕は思う。

 

言うまでもなく、西洋人の考えでは人間は必ず自然を征服する(できる)存在であり、従って自然の上を行く存在である。人間と自然は征服者と被征服者としてとらえられ、あくまでも隔絶した存在なのだ。自然の中にはもちろん動物も含まれている。

 

東洋にはこういう発想はない。われわれももちろん人間は動物よりも崇高な生き物だと考え、動物と人間を区別して「犬畜生」などと時にはそれを卑下したりもする。しかし、こういうごう慢な考えを一つひとつはぎ取っていったぎりぎりの胸の奥では、結局、われわれ人間も自然の一部であり、動物と同じ生き物だ、という世界観にとらわれているのが普通である。天変地異に翻弄(ほんろう)され続けた歴史と仏教思想があいまって、それはわれわれの血となり肉となっている。

 

さて、ピチャピチャ、ガツガツ、ズルズルとあたりはばからぬ音を立てて物を食うのは動物である。口のまわりが汚れれば、ナプキンなどという七面倒くさい代物には頼らずに舌でペロペロなめ清めたり、前足(拳)でグイとぬぐったりするのもこれまた動物である。

 

人間と動物は違う、とぎりぎりの胸の奥まで信じ込んでいる西洋人は、人間が動物と同じ物の食い方をするのは沽券(こけん)にかかわると考え、そこからピチャピチャ、ガツガツ、ズルズル、ペロペロ、グイ!は実にもって不快だという共通認識が生まれた。

 

日本人を含む東洋人はそんなことは知らない。知ってはいても、そこまで突き詰めていって不快感を抱いたりはしない。なにしろぎりぎりの胸の奥では、オギャーと生まれて食べて生きて、死んでいく人間と動物の間に何ほどの違いがあろうか、と達観しているところがあるから、食事の際の動物的な物音に大きく神経をとがらせたりはしないのである。

 

スパゲティはフォークを垂直に皿に突き立てて、そのままくるくると巻き取って食べるのが普通である。巻き取って食べると三歳の子供でも音を立てない。それがスパゲティの食べ方だが、その形が別に法律で定められているわけではない。従って日本人が、イタリアのレストランでそばをすする要領で、ずるずると盛大に音を立ててスパゲティを食べても逮捕されることはない。

 

スパゲッティの食べ方にいちいちこだわるなんてつまらない。自由に、食べたいように食べればいい、とも僕は思う。ただ一つだけ言っておくと、ずるずると音を立ててスパゲティを食べる者を、イタリア人もまた多くの外国人も心中で眉をひそめて見ている。見下している。

 

しかし分別ある者はそんなことはおくびにも出さない。知らない人間にずけずけとマナー違反を言うのはマナー違反だ。

 

スパゲティの食べ方にこだわるのは本当につまらない。しかし、そのつまらないことで他人に見下され人間性まで疑われるのはもっとつまらない。ならばここは彼らにならって、音を立てずにスパゲティを食べる形を覚えるのも一計ではないか、とも思う。

 

窮屈だとか、照れくさいとか、面倒くさいうんぬんと言ってはいられない。日本の外に広がる国際社会とは、窮屈で、照れくさくて、面倒くさくて、要するに疲れるものなのである。スパゲティを静かに食べることと同じように・・・。

 

横綱の品格



「  渋谷君

 

琴奨菊の大関昇進のニュースは、衛星放送やネットなどでここでもしっかり見ています。彼が一気に横綱にまで駆け上がったら楽しいね。

 

そういえば去年は朝青龍の引退騒ぎがありました。それにからんで僕が新聞に寄稿した記事を添付します。

そこに書いた内容は、もちろん今も変わらない僕の真摯(しんし)な思いです。

 



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~横綱の品格とは~

横綱の品格を問われ続けた朝青龍の引退騒ぎを描いたNHKの特集番組を衛星放送で見た。そこでは大相撲のご意見番とも呼べる専門家たちが、横綱の品格とは結局なんなのか分からない、という話に終始していて驚いた。不思議なことである。日本国内にいると日本人自らの姿が良く見えなくなるのかとさえ思った。

 

横綱の品格とはずばり「強者の慎(つつし)み」のことだと僕は考える。

この「慎み」というのは、日本文化の真髄と言ってもいいほど人々の心と社会の底流に脈々と流れている、謙虚、控えめ、奥ゆかしさ、などと同意味のあの「慎み」である。


「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という格言句に完璧に示された日本人の一番の美質であり、僕のように日本を離れて外国に長く住んでいる人間にとっては、何よりも激しく郷愁を掻き立てられる日本の根源である。

 

朝青龍にはそれが分からなかった。或いは分かろうとしなかった。もしかすると分かっていたが無視した。

 

「慎み」というのは世界中で尊敬される価値観である。人は誰でも「実るほど頭を垂れる者」を慕う。そして実った人の多くが頭を垂れるのが世界の現実である。

たとえばイタリア映画の巨匠フェリーニは、僕が仕事で会った際「監督は生きた伝説です」と真実の賛辞を言うと「ホントかい?君、ホントにそう思うかい?嬉しい、嬉しい」と子供のように喜んだ。またバッジョやデルピエロなどのサッカーの一流選手も、仕事の度に常に謙虚で誠実な対応をしてくれた。頂点を極めた真の傑物たちは皆、実るほどに頭を垂れるのが常である。

「慎み」は日本人だけに敬愛される特殊な道徳観ではない。真に国際的な倫理観なのである。

 

相撲には、他のあらゆるスポーツと同様に我われ人間の持つ凶暴さ、残虐性、獣性などを中和する役割がある。同時に、他のスポーツ以上に、それと対極にある思いやりや慎みや謙虚も「演出すること」が求められている。 

 

相撲は格闘技である。強ければそれでいい。慎みや謙虚というのは欺瞞だという考え方もあるだろう。しかし相撲はプロレスやボクシングなどとは違って、極めて日本的な「型」を持つ「儀式」の側面も持つ。

そこでは
強者横綱は「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という日本精神の根本を体現することが強要される。それが相撲の文化なのである。

 

強い横綱だった朝青龍には、せめて倒した相手にダメを押すような行為を慎んで欲しかった。勝負が決まった後の一撃は、見苦しいを通り越して醜かった。そしてもっと無いものねだりをすれば、倒れ込んでケガでもしたかと思うほど参っている相手には、手を差し伸べる仕草をして欲しかった。

 

その態度は最初は「強制された演技」でも「嘘」でも良かったのである。行為を続けていくうちに気持ちが本物になっていく。本物になるともはや演技ではなくなり、じわりとにじみ出る品格へと変貌する。

強くて明るくて個性的な横綱朝青龍は、そうやっていつか品格高い名横綱に生まれ変わる筈だった。残念である。 

  
――――――――――――――――――――――――――

 

シチリアという迷い道



「 渋谷君

 

僕が先日のメールに書いた

 

「~シチリア島に行っていました。相変わらず面白い島。歴史と文化とマフィアと海がいっぱいの国~」

 

という件(くだり)をぜひ撤回させてほしい。

 

僕のメールに対する君の返信

 

『~シチリアってやっぱりマフィアの島なんですね。怖いな。マフィアがいっぱいとは、具体的にどういう?そのあたりで拳銃での撃ち合いがあったり、盗みがあったり、爆弾が炸裂したり、恐喝されたり・・ということなのでしょうか・・~』

 

を読んで、少し大げさに言うと、僕は慄然(りつぜん)とした。

 

君がそれをちょっとふざけ気味に書いているのであろうことは分かったが、人間は心に思わないことは決して口にしないのだから、君の中にはシチリア島への恐怖心や猜疑がどこかにあるに違いないと僕は判断したのだ。

そして僕の不注意なひと言が、それに輪をかけた可能性がある・・

 

誰よりもシチリア島が好きで少しは彼の地のことも知っているはずなのに、ついお気軽に「マフィアがいっぱい」と言ってしまった。

 

そういうのがいけないんだよね。シチリアというとすぐにマフィア、と言葉をつなげるのが・・

 

という風にそこかしこで書き、発言もし、ブログなどにも書いていながら・・・う~ん、まずい。

 

シチリア島には歴史と文化と海がいっぱいで、そういう輝かしい部分と共に、マフィアの存在を思わせる闇の部分もまた垣間(かいま)見える、と言いたかったんだ。

 

「マフィアがいっぱい」と書くと、君が指摘したようにあたかもそこら中に殺人事件や犯罪があふれていて怖い、というふうに誤解されかねない。

 

が、まったくそういうことはなくて、島は安全だし明るいし楽しい。

 

でも、よく見ると、パレルモのような都会にさえ、第二次世界大戦で破壊された建物が未だに再建されずに存在したり、それとは別の廃墟があったり、途中で建設がストップした高速道路のようなでたらめな工事現場があったり、街の一部が恐ろしく汚かったり等々、明らかに行政が怠慢な部分も数多くある。

 

そういうところに悪のマフィアの影響が如実に出ていると僕には見える。それをつい「マフィアがいっぱい」と表現しちゃったんだ。

 

シチリア人はとても明るくて親切で、同時に世界最大の「マフィアの犠牲者」でもある。だから、あなたはシチリアを決して「怖い」なんて思わないでほしい。

 

そういうのって、例えば「山口組がいるから神戸は怖い」と言うのと同じくらいアホーな話なんだ。

 

そして僕は「シチリアにはマフィアがいっぱい」なんて言っちゃって、そんなアホーな話に負けないくらいのバカ話をしちゃったわけだ。

 

大いに反省・・

 

シチリアについては、今回の旅行のことも含めてまたおいおい書いていくつもりだけれど、とりあえず君の誤解を解きたくて、こうして急いで便りをする次第です。 


それでは。  

 

 

歴史を食べる



ミラノの隣、僕の住む北イタリアのブレッシャ県には、有名な秋の風物詩がある。狩猟の獲物を串焼きにする料理「スピエド」である。

 

狩猟は秋の行事である。獲物は鳥類や野ウサギやシカやイノシシなど多岐にわたる。

 

それらの肉を使うスピエドは野趣あふれる料理だが、そこは食の国イタリア、肉の切り身に塩やバター等をまぶしてぐるぐると回転させながら何時間も炙(あぶ)り、炙ってはまた調味料を塗る作業を繰り返して、最後には香ばしい絶品の串焼き肉に仕上げる。

 

スピエドは元々、純粋に狩猟の獲物だけを料理していたが、野生の動物が激減した現在は、狩りで獲得したものに加えてスペアリブや家畜のうさぎや鶏肉なども使うのが普通である。またそれにはよくジャガイモも加えられる。

 

仕上がったスピエドには、ポレンタと呼ばれる、トウモロコシをつぶして煮込んだ餅のような付けあわせのパスタが必ず付いてくる。赤ワインとの相性も抜群である。

 

イタリアは狩猟の国なので、猟が解禁になる秋にはキジなどの鳥類や野うさぎやイノシシなどが各地で食卓に上る。しかしもっとも秋らしい風情のあるスピエド料理はブレッシャ県にしかない。これは一体なぜか。

 

ブレッシャにはトロンピア渓谷がある。そこは鉄を多く産した。そのためローマ帝国時代から鉄を利用した武器の製造が盛んになり、やがて「帝国の武器庫」とまで呼ばれるようになった。

 

その伝統は現在も続いていて、イタリアの銃火器の多くはブレッシャで生産される。世界的な銃器メーカーの「べレッタ」もこの地にある。

 

べレッタ社の製造する猟銃は、これぞイタリア、と言いたくなるほどに美しいデザインのものが多い。「華麗なる武器」である。技術も高く、何年か前にはニューヨークの警官の所持する拳銃がべレッタ製のものに替えられた、というニュースがメディアを騒がせたりもした。

 

ブレッシャは銃火器製造の本場だけに猟銃の入手がたやすく、アルプスに近い山々や森などの自然も多い。当然のように古くから狩猟の習慣が根付いた。狩猟はスピエド料理を生み、それは今でも人々に楽しまれている。

 

つまりスピエドを食べるということには、ギリシャ文明と共にヨーロッパの基礎を作ったローマ帝国以来の歴史を食する、という側面もあるのだ。

 

イタリアにいると時々そんな壮大な思いに駆られる体験をして、ひとり感慨にふけったりもする。 

 
閑話休題

今年一番のスピエドは、アルピーニの集会で食べた。山育ちの者が多いアルピーニたちは、ブレッシャ県人の中でも特にスピエドへの思い入れが強く、料理の腕もずば抜けている。

→<ノブレス・オブリージュ><アラブ人学生たちのこと

 

その後は山荘のチャリティー昼食会で食べ、再び山荘で慈善ボランティアの皆さんと食べた。いずれ劣らず美味だった。

→<9月、秋はじめと仕事はじめの期><チャリティーの夏

 

実はこれからもスピエドを食べる日々はつづく。あちらこちらから招待を受けるのだ。特に伯爵家の本拠地であるガルダ湖近辺での招きが多い。

 

伯爵家の山のそこかしこには「Roccolo(ロッコロ)」と呼ばれる、小さな狩猟小屋が建てられている。鳥類を待ち伏せて撃つ隠れ処(が)のような施設である。

 

ロッコロは無料で提供されている。ハンターたちは一年を通してロッコロに出入りすることを許されていて、狩猟が禁止されている時期でもそこで寝泊りしたりピクニックを楽しんだりしている。

 

伯爵家と山の恩恵を受けるので、狩猟の季節になるとその礼を兼ねて、獲った鳥を主体にしたスピエドを焼いてわれわれを招待してくれるのである。

 

そればかりではなく、付近の農家や友人やチャリティー団体や(スピエド)同好会等々の招きもあって、秋にはスピエドざんまいの日々がつづく。

 

僕は例年うまいスピエドに舌鼓を打ちながら、今年こそスピエドの料理法を習おうと考えるのだが、複雑でひどく手間のかかる行程に恐れをなして、なかなか手を出すことができない。

 

しかし僕にとっては、歴史を食う、というほどの趣を持つ魅力的な料理だから、いつかじっくりとレシピを勉強して、必ず自分でも作ってみるつもりである。


チャリティーの夏


先週の金曜日、マルコとアンナの結婚式を終えて伯爵家に戻ったのは午後11時前。

もっと早く帰宅できたのだが、伯爵家のある町とは対岸になるペスキエーラの街に寄ってから帰った。あえて時間潰(つぶ)しをしたのだ。

 

湖に面した伯爵家の前庭では、大規模な晩餐会が催されていた。僕らはそれを避けてわざと遅れて帰宅した。

 

晩餐会はガルダ湖のヨットレース「チェントミリア」の前夜祭の一環として開かれた。

 

「チェントミリア」は、ブレッシャのクラシックカーレース「ミッレミリア」にならって、60年前に始められた。湖でヨットを楽しんでいた貴族の若者たちが音頭を取ったのだ。

 

その若者グループのリーダーが、20年前に亡くなった妻の叔父だった。

 

その関係で「チェントミリア」は前夜祭を伯爵家の前庭で行い、レースのスタート地点も同家の前と定めて開催されるのがならわしになった。

 

半世紀以上の歴史を刻んで、ガルダ湖の観光名物として広く知られてきた「チェントミリア」だが、近年は盛り上がりに欠けて注目度も低くなった。レースの規模も年々縮小し、地元の賑わいもどこかに消えた。

 

伯爵家で開催される前夜祭も、最近は形骸化してしまって、地元の政治家たちが彼らの都合で晩餐会を開いて大騒ぎをする、政治ショーのような内容になってしまっている。

僕らは時どきそれに疲れて、晩餐会には場所だけを提供して、なるべく遠くから眺めるようにしている。

 

いやなら場所の提供も拒否すればいいようなものだが、そういうわけにもいかない。内容が空疎になったとはいえ、それは妻の叔父の功績を讃える意味合いから始められたものでもあるから、われわれが否定することはできないのである。

 

また前夜祭の主催者が、ここ数年は実質レースの参加者から街の役場に移ってしまっている事情もあって、なおさら断るのが難しい。

 

とてつもない大きさの邸宅を地域に有しているのだから、街のためになる行事には、伯爵家は館を開放してほしいと考える人々も多い。そしてそれに応えるのが伯爵家のならわしである。

 

今さらその伝統を覆(くつがえ)すのは不可能だ。邸宅がある限りは、地域に貢献するという貴族家の義務もまた続くのだろう。それがいやなら館を手放せばいいだけの話だ。そしてそれはすぐにでも可能なことである。

→<ノブレス・オブリージュ

そんなわけで、僕と妻は先週の晩餐会の夜はちょっとストライキをしてみた(笑)。行事が重なると、時どきそこから逃げ出したくなるのである。


晩餐会は政治ショーであってチャリティーではないが、家を開放して客をもてなすという意味では、僕らにとっては慈善事業と変わらない。

いわば街への寄付、とでもいうべき性格を持つのが、役場主催の晩餐会や展示会などの行事である。

それやこれやで、春から夏にかけては伯爵家とわが家は慈善行事の多い日々になる。

明後日の日曜日は、伯爵家の別荘「ラゾーネ」で再びスピエド昼食会。

→<9月、秋はじめと仕事はじめの期

でもそれはチャリティーとは関係のない仲間同志の集い。前回慈善昼食会を開催したボランティアたちが再び山に集まって、慰労会を開くのだ。

きっと気の張らない楽しいパーティーになるだろう。スピエドもまた格別の味がするに違いない。楽しみである。

 

9月、秋はじめと仕事はじめの期



9月5日深夜、シチリア島「ほぼ一周」旅行から帰還。

 

友人夫婦との旅はある時は楽しく、ある時は少し疲れたりもする日々だったが、おおむね良好。やって良かった、と思えるものだった。

 

シチリア島は「いつものように」玉石混交(ぎょくせきこんこう)の不思議の国。輝くものと暗く沈んだものがいっしょくたになって、僕の心をわしづかみにしてくれた。

 

そのことはまた書くとして

 

明日はベニス近くのビチェンツァで妻の幼馴染みの結婚式に出席する予定。その日のうちに湖の伯爵家に戻って、11日の日曜日には家の背後に広がる山中の別荘「Razone(ラゾーネ)」へ。
→<
ノブレス・オブリージュ

 

そこでは三つの団体が共同で催すチャリティ昼食会がある。供されるのはスピエドと呼ばれる北イタリア、ブレッシャ県地方の郷土料理。

 

元々はジビエ、つまり狩猟肉の串焼きだった野趣あふれる味覚で、ポレンタと称されるトウモロコシを潰して練った餅のようなパスタと共に食べる。赤ワインとの相性が絶妙な料理である。

 

調理をするのは山育ちのスピエド専門家たち。彼らの全員もチャリティ3団体の一員。南米支援グループとチェルノブイリ及びベラルーシ支援団体、それにガルダ湖+山岳救護ボランティア隊の3団体である。

 

人口が3000人にも満たない伯爵家の地元の町には、そうしたボランティア組織が何と17団体も存在する。

 

当日は東日本大震災から半年の節目の日。僕はそのことをしっかりと念頭に置きながら、善意の人々とのチャリティ活動に臨もうと思う。

 

大震災の被災地の皆さんの苦労はまだまだ続いている。何かの折にまた心ばかりの支援活動でもできればと思うが、今のところは少し厳しいだろう。

→<震災支援 チャリティーコンサートⅣ

 

豊かな日本の被災地の復興は必ず訪れる。ところが世界には、復興など永遠にあり得ないであろう不運な人々が溢れている。

彼らに思いをはせることは、日本の被災地を思い続けることと同様に、重要な行為であるように僕には感じられる・・。

 

9月に会いましょうⅡ



明日8月22日から夏休み。シチリア島へ。友人夫婦と妻と4人で。フェリー以外は全行程車の旅。

 

考えてみると、「友人という他人」を交えて3日以上の旅をするのは、若い時代を含めて人生で初めての体験である。

 

また、シチリア島を純粋に「休み」で訪れるのも、今回が初めて。

 

初めてづくしの旅。

 

まず夫婦共にローマ出身の友人宅(実家)まで車で8~9時間の移動。

 

そこで2晩世話になって、ナポリ近くのサレルノへ。

 

そこからフェリーでシチリア島、メッシーナへ。

 

友人のフェルーカ漁師アレーナ一家と旧交を温めた後、

→<~「フェルーカ」挽歌~

 

観光地のタオルミナ、さらにアルキメデスの故郷シラクーザを経て、歴史遺産に満ちたアグリジェントへ。そこでは兄弟同然の付き合いがある友人のニコラの世話になる。

 

最後はトラパニ県を経てパレルモ。

 

パレルモでは当然、親友のサルバトーレとシルビアの世話になるが、2人とも我われがシチリア島に入った時点ですぐに会いに行くと息巻いているから、へたをすると漁師のアレーナ一族とも一緒に会うことになりかねない。

→<サルバトーレ&シルビア

 

しかし、それではあまりにも「出来事」が多過ぎて逆に印象が薄くなってしまうことが普通だ。もったいないから今回は流しておいて、近いうちに皆で会うイベントを企画しよう、と電話で話して納得してもらった。

 

それやこれやで。

 

それでは。

 

皆さん。

 

ぜひ、

 

9月に会いましょう!!!!

→<9月に会いましょう


カダフィの終焉?



「リビア騒乱の中、反政府軍は首都トリポリからわずか50キロのザウィヤを押さえたらしい・・」と、昨日書き出して、今朝になって続きを書くために情報確認をしていくと、サウィヤどころか首都トリポリにも反政府勢力が進攻して戦闘があったという。

 

そうしたニュースに呼応して、カダフィ大佐が南米のベネズエラに逃亡するらしい、という情報もめまぐるしく駆け巡っている。

 

カダフィの友人、ベネズエラのチャべス大統領が、リビアの隣国チュニジアのジェルバ島の空港に、独裁者のために特別機を飛ばして、彼がやって来るのを待っているというのである。それは十分にあり得る話。世界の異端児カダフィとチャべスが手を組み合っても何も不思議はないように見える。  

 

実は中東の騒乱がリビアに飛び火した直後から、独裁者カダフィの逃亡先についてはいろいろ取り沙汰されてきた。

 

彼が落ち延びて行くであろう先の国々は限られている。カダフィのこれまでの友人が政権の座にある友好国のあれこれ。

 

即ちアフリカの国々ではリビアの隣国のチャド、ニジェール、マリ、モーリタニア、赤道ギニア、コンゴ、ウガンダ、ジンバブエ、南アフリカ。そして中南米のニカラグアとベネズエラ。最後に東欧のベラルーシ。

 

いずれも国際社会との対話に問題を抱える、似た者同志のいわくつきの国々である。

 

それらの友好国の中でも、カダフィにとって特に都合が良いのが、国際裁判所ローマ規定を無視、あるいは批准を拒んでいる国々。つまり戦争犯罪者や人道に反する犯罪者を、国際裁判所に引き渡す義務を負わない国々である。

 

その国とは、アフリカではモーリタニア、赤道ギニア、ジンバブエの3国。さらに中米のニカラグアと東欧のベラルーシがあるのみである。

 

ベネズエラは国際裁判所ローマ規定を批准している。それでもチャべス大統領が政権の座にある間は、カダフィをかばいぬくことができる、と独裁者自身もまたベネズエラの異端児大統領も考えているのだろう。

 

でも果たしてそうだろうか。それって、結構世界を甘く見ているのではないだろうか。自国民をいとも簡単に弾圧殺戮した独裁者を見逃すほど、国際社会は甘くない。カダフィは必ず弾劾され重い償いを課されなければならない。それは死よりもはるかに重い償いであって然るべきである。

 

カダフィばかりではない。シリアのバッシャール・アサド、エジプトのムバラク、イエメンのアリ・サレハ、モロッコのムハンマド6世、そしてサウジアラビア、バーレーンなどなど、時代遅れのあらゆる国々の支配者は、民衆の手によって権力の座から引き摺り下ろされなければならない。

 

あらゆる反民主化勢力、即ち独裁者、独裁主義、極右及び極左主義者と思想、軍国主義と軍国主義者等々は必ず排除されなければならない。抹殺ではない。排除である。

 

それらの極端主義者や過激思想は決して死滅することはない。また死滅させてもならない。なぜなら、それらの醜い存在があるからこそ民主主義が輝く。それらと対比することで民主化がさらに美しくなる。それらは、いわば必要悪。従って抹殺してはならない。徹底的に排除するのみである。

 

中東危機を語るとき、僕はずっとリビアとリビアの支配者を中心に考えを巡らせてきた。理由が幾つかある。

 

1. リビアは僕が住まうこのイタリアのかつての植民地であり、良きにつけ悪しきにつけ身近な話題、問題として常に語られる。

 

2. 独裁者カダフィの変わり身の早さに対する僕自身の興味。砂漠の狂犬、猛獣、などと呼ばれるカダフィは、まさしくその名の通りの暴君でありながら、保身のためとは言え2000年前後から突然欧米列強との対話穏健路線に走った。と思う間もなく、今の政変に際してはケダモノも顔負けの独裁者、あるいは時代錯誤も甚だしい抑圧者に変貌した。いや、変貌したのではなく、彼本来の「地」をさらけ出して咆哮しまくっている。

 

3. 僕のかつての友人ムフタ君への思い。彼は確実に独裁者のシンパ。なにしろ20代の半ばでロンドンのリビア大使館を自由に使っていた男だもの・・

→<イタリアVS砂漠の猛獣Ⅱ

4. とにかくリビアに民主主義体制が根付いてほしい。

 

5. 民主主義体制は、チャーチルの指摘を待つまでもなく、決して「ベスト」ではなく「ベター」な体制であるに過ぎない。民主主義にも多くの欠点がある。最大の欠陥はおそらく多数決による少数派の否定。しかし、今のところわれわれ人類は民主主義以上の政治体制を発見できずにいる。ベスト(最善)が見えない限り、ベターこそベスト(最善)なのである。

 

僕はそういうわけで、お節介と言われようが余計なお世話だと怒られようが、中東諸国に民主主義を持ち込む動きには大いに賛成する。

 

賛成どころか、独裁者どもを権力の座から引き摺り下ろして、地獄の底に投げ込む民衆の動きに、せめて気持ちだけでもしっかりと寄り添って行きたいと強く思っている。

 

それは僕の個人的な利害とも一致する。

つまり僕は中東の国々、特に地中海域の国々を、安心安全にしかも自由に訪れてみたいのだ。

そのためにもようやく芽生えたアラブの春が、一刻も早く「花咲き乱れる輝かしいアラブの春」になってほしいのである。

 

 

ワインビジネス



今収穫中のブドウは、自家のワイン造りにも用いられる。
→<ヴェンデミア(VENDEMMIA)
ワインはイタリアのシャンパン「スプマンテ」である。

 

ワイン造りは今のところは全くの赤字ビジネス。昨年亡くなった義父が残した負の遺産である。

 

伯爵家は大昔から常にワインを造ってきた。しかしそれは一家が消費する分と客に提供する分で、商業ベースのワイン生産ではなかった。

 

伯爵家の農夫のうちワイン醸造に長けた者が、一家のブドウを活用して一族のためだけに赤ワインを造ってきたのである。その伝統は今でも続いていて、混じりけのないシンプルな赤ワインはとても美味しいと僕などは感じる。

 

農学が専門だった義父は、アフリカや南イタリアの農場で仕事をした後、北イタリアに戻って伯爵家の土地で肉牛の生産を始めた。彼は同時に、元々あった一家のブドウ園とは別に、少し規模の大きなブドウ園の経営にも乗り出した。今から30年以上前のことである。

 

肉牛の飼育はすぐに失敗して負債が残った。

 

そこでやめておけば良いものを、彼は自らが作るブドウを使って商業ベースのワインの生産まで始めてしまった。

最初は白ワインと赤ワイン。さらにスプマンテにも手を伸ばした。

 

しかし、裕福な伯爵家で純粋培養されて、何不自由なく育った義父である。商売の厳しさなど知る由もなく、ワインビジネスもまた赤字続きだった。

 

それでも基本的には、放っておいても実が生(な)るブドウの生産はそれなりにうまく行って、ブドウのあがりでワインの赤字を埋める、ということを繰り返して20年余りが過ぎた。

 

義父は亡くなる前の数年間は、ワイナリーを閉鎖する方法を模索していた。赤字だらけのビジネスを残して逝くことには、さすがに忸怩(じくじ)たる思いがあったのだろう。

 

僕もワインの生産を止(や)めたほうがいいと、義父にはそっと言いつづけてきた。金の苦労を知らない大甘な彼の商売は、見ていて胸が痛むほどわびしい感じがいつもした。

 

義父は結局、ワイナリーを閉める「仕事」も貫徹できないまま亡くなった。優しすぎてここ一番での決断ができないところも、いかにも義父らしいといえば言えた。

 

義父が病に倒れた後、専門家の力を借りてワイナリーの実態を徹底的に検証した。結果、ワイン造りを続けたほうが負債の清算が早まる可能性がある、ということが分かった。

 

価格の変動が激しいブドウを収穫してそのまま全て売るのではなく、何割かを付加価値のつくスプマンテに仕立てて一部を樽のまま卸し、残りをこれまで通りに瓶詰めにして販売するのである。

 

義父が亡くなった後は、公私混同が当たり前だった彼の商法も改めた。

若いマネージャーを雇って、ワイナリーをビジネスとして徹底させると同時に、ボトル販売のプロたちとも契約した。

 

机上の計算では、義父の残した負債を8年から10年かけて返済できる計画。

しかし、競争が激しく、切り盛りが難しいワインビジネスである。赤字がさらに進行する兆しが見えたら、ためらうことなく即座に止(や)めてしまうことを前提にしている。

 

ワインは誰にでも造れる。資金さえあれば、ワインの杜氏(とうじ)であるエノロゴが幾らでも造ってくれるのだ。優れたエノロゴを雇えば優れたワインを生産することも可能だ。

 

ワインビジネスの問題は「ワイン造り」などでは全くなく、
ひとえに『販売』が課題なのである。

 

販売が好転する兆しが見えたとき、赤字解消の確かな道筋が生まれ、さらに将来への展望が開けるはずである。

 

それでなければ、全てのブドウ園を失うような事態があっても、少しも不思議ではない、と僕は考えている。

 

ヴェンデミア(VENDEMMIA)



今年一番の自家のブドウの収穫(ヴェンデミア)は810日に始まった。

 

まず初めに僕の仕事場から見下ろす3,5ヘクタールを収穫。それは2年前、2009年春に植え替えた木の初めての実りである。

 

品種は白ブドウのシャルドネ。量はまだ少ない。成果が最大になるのは、植樹から4~5年後である。

 

全体では15,5ヘクタールある自家のブドウの収穫は、今後飛び飛びに日にちを定めて9月半ば頃まで続けられる。

 

今年はここまで雹(ひょう)が一切降らなかった。珍しいことである。

 

暑い日本とは違って、北イタリアでは大きな雹は盛夏に多く降りつける。そのためブドウ栽培者は必ず雹保険に加入している。かなりの確率で被害が発生するから、保険の掛け金も安くない。

 

去年(2010年)7月には、あたり一面が真っ白になるほど大量の、巨大粒の雹が降りしきった。それは雪のように積もって、翌日まで解けずに残った。

 

ブドウに大きな被害が出て、僕の小さな采園の野菜も完全に破壊されつくした。ナスやトマトやピーマンには大きな穴がいくつも開いた。

 

激しい雹はほとんどの場合「テンポラーレ」と共にやって来る。

 

「テンポラーレ」はイタリアの夏の風物詩。

 

真っ青だった空にとつぜん黒雲が湧いて稲妻が走り、突風が吹き募って雷鳴がとどろく。同時に激しい雨や雹が視界をさえぎって落下する。目をみはるような荒々しい変化である。

 

イタリア語で「テンポラーレ」と呼ぶこの自然現象は、日本語ではちょっと思いつかない。

驟雨とか夕立、あるいは雷雨などの言葉は弱すぎる。

「野分(のわき)」という古語もあるが「テンポラーレ」はそんな詩的な表現では言い尽くせない。

 

「テンポラーレ」は、しばしば雹を伴なって農作物を破壊する。

 

激しい雹を運んでくる猛烈な「テンポラーレ」を、僕は勝手に「豆台風」と呼んだりしているが、長い時間をかけて発達する台風とは違って「テンポラーレ」はふいに起こる現象だから、実はこの言葉もぴたりと当てはまるものではない。

 

今年もここまでに何度も「テンポラーレ」が発生した。でも一度も雹は降らなかった。この先はどうなるか分からないが、ブドウにも僕の采園にも被害は出ていないのである。

 

8月半ば頃からの「テンポラーレ」は例年、発生するたびに急速に秋を運んで来る。

 

季節がいつも通りなら、秋はもうすぐそこである。

 

パリオが終わった!



20118月のシエナのパリオが無事終わった。

 

勝ったのはコントラーダ・ジラファ(キリン町内会)。20047月以来の優勝。

 

またパリオが、カンポ広場を駆け抜ける今の形になった、1644年以来では34回目の勝利である。

 

7月のパリオで馬が死んだキオッチョラ(かたつむり)町内会は敗退。

パリオでは優勝だけが意味を持つ。
2位以下は全て敗北として片付けられるのである。

 

カンポ広場を3周するパリオの所要時間は、110秒からせいぜい120秒程度である。

 

でもそれは恐ろしく中身の濃い1分余りで、まるでウサイン・ボルトの100Mダッシュを見るように速く過ぎる。

 

熾烈(しれつ)で劇的でエキサイティングな勝負。

 

2番手で飛び出したジラファは、1周目の途中でトップに立ってそのまま逃げ切った。

 

僕は3周目の途中まで八百長くさいパリオだと思った。波乱がないように見えたからだ。

 

ブランビッラ大臣ら動物愛護家の糾弾にひるんで<パリオの行方①>、各チームの馬の走りが鈍っているのか、と本気で疑ったとき、急カーブで一頭が転倒して後続が次々に重なり倒れ、騎手が投げ出された。

本気も本気の走りをしていなければ起こり得ない光景。

 

僕はほっとした。パリオは死んでいないと喜んだ。

 

もんどりうって倒れた馬も騎手も全員が無事だと分かって、僕はさらに喜んだ。

 

でも、たとえ馬が無事でも、動物愛護家の人々のパリオへの弾劾はつづくだろう。

5頭が一気に転倒して騎手が放り出されるシーンは、刺激的過ぎて彼らにはとうてい受け入れられないだろうから。


そしてそれは、彼らの立場に立てば、分からないことでもないから。

 

パリオの命運は、まさしく前途多難というふうだ。

 

ったく、困ったものである・・

 

 


フェラゴスト(FERRAGOSTO)



今日8月15日はフェラゴスト(FERRAGOSTO):聖母被昇天の祝日である。

 

聖母マリアが生涯を終えて天に召されたことを祝うこの祭りは、元々は古代ローマのアウグストゥス帝の誕生日にちなんだ、8月1日を祝って休む日だったのだが、キリスト教と結びついて今日8月15日と定められた。

 

バカンス時期にあるこの祭日は、いわば休みの中の休み、とでもいうべき日。リゾート地を除くイタリア中の店も工場も食堂もなにもかも閉まって、国中が空っぽになる。

 

同時に毎年この日は、シエナの8月のパリオの前夜祭にも当たっている。中世の美しい街シエナの競馬祭りは、例年7月2日と8月16日に行われるのである。

 

今年は7月のパリオで競争馬が事故死し、これにブランビッラ観光大臣が異議を唱えて騒ぎになった。動物愛護家の大臣は、長い伝統を持つパリオそのものの廃止にまで言及して、問題はさらに先鋭化した。→<パリオの行方①

 

女性大臣は、街の広場を馬場にして裸馬が疾駆するパリオは、出場馬にとって極めて危険だから祭りを廃してしまえと叫ぶのだが、なぜか馬に乗る騎手の危険性については一言も言及しない。馬と同じ危険にさらされる騎手はどうでもいいが、動物は必ず守れということらしい。

 

また観光大臣でありながら、国の重要な観光資源である伝統的なアトラクションを取り止めろと主張するのは、整合性がないと批判されても仕方がないのではないか。

 

開催が危ぶまれた明日のパリオが予定通り行われるのは嬉しいことである。また、これまでのところは、ブランビッラ女史の声高な問責もない。

 

バカンスまっただ中の今日のフェラゴストだから、ブランビッラ大臣もきっと休暇中なのだろう。でも、パリオの廃止を叫ぶくらいだから、休んでいる場合ではないのではないか。

 

自らシエナに足を運んで、祭りを実体験してみるべきである。馬を愛する人々が、馬と共に熱狂して、感動的な雰囲気に包まれる空気を呼吸してみるべきである。

そうしておいて、それでもやはり祭りを弾劾するというのなら、シエナの人々も少しは納得するというものである。

 

でも、僕がシエナの友人達に確認した限りでは、大臣はここまでのところ今年も祭りの期間中にシエナに足を運んではおらず、祭り以外の期間もおそらく街を訪ねたことはないのではないか、とのこと。

 

それやこれやで、僕はパリオのことも「サンパトリニアーノ コミュニティ」の内紛劇と同じように、少し納得のいかない思いで見守っているのである。


サンパトリニアーノ



ヨーロッパ最大の麻薬患者更生施設「サンパトリニアーノ コミュニティ」が揺れている。創設者の一族が施設の経営から手を引く、と発表したのである。その理由がいろいろと取り沙汰されているが、どうやら問題は「金」の」ようである。

 

最大で2000人近い患者が住む「サンパトリニアーノ コミュニティ」は、麻薬中毒の若者たちを見るに見かねた1人の男が、1978年に自らの家に彼らを招いて、共に自給自足の生活を試みたところから始まる。その男の名はヴィンチェンツォ・ムッチョリという。

 

ムッチョリは後には私財をコミュニティに寄付して、彼自身が中心となって本格的な更生施設の経営に乗り出した。

 

麻薬患者らによる自給自足生活を基本方針にした施設は、イタリア社会に大きな波紋を投げかけながらひたすら成長を続け、現在ではそうした類いの団体としては莫大な、と形容しても構わないな資金を動かす巨大組織になっている。

 

創設者のヴィンチェンツォ・ムッチョリは1995年に亡くなった。

 

僕はその直前に彼のはからいで、コミュニティーの中にある一軒家にスタッフと共に寝泊まりをして、そこで起こるあらゆる事象を刻明にカメラで追いかけた経験がある。

 

その当時「サンパトリニアーノ コミュニティ」は、既に約300ヘクタールの土地を有していた。広大な敷地の中には、家族が住まうための1戸建て住宅が100件余り、1500人を収容する巨大な共同住宅が2棟あった。さらに住民のほぼ全員が一度に食事をする大食堂や劇場や体育館や多種スポーツ施設や図書館や保育園やクリニックや歯科医院まである。

 

同時にそこには、40ヘクタールのぶどう園と年間250万本を生産するワイン醸造所があり、6000頭余りの家畜が飼われ、牧場や畑があり、チーズ工場、パン工場、家具製作所、写真印刷所、自動車修理工場、縫製所、板金塗装工場、内装・造園品製作所等々の仕事場があった。

 

それらの仕事場では、コミュニティー内で消費する分は言うまでもなく、外の世界に売るための製品も生産される。パンやチーズなどを別にすれば、むしろ後者の方が主体である。

 

「サンパトリニアーノ コミュニティー」の中にあるこれらの施設には、2011年現在、140名の外部ボランティアおよび350名の雇われスタッフも仕事をしているが、当時は全てコミュニティーの住民自身の手で運営されていた。ボランティアや、国や県が派遣する助っ人、といった者は一人もいなかったのである。

 

言葉を換えれば、クリニックの医師や歯科医や看護婦や薬剤師また保育園の保母などといった専門職の人々も、全員が麻薬中毒者か一度そうであった体験を持つ者ばかりなのである。彼らはにわか医師や歯科医や看護婦などではない。誰もが国家試験にパスしたれっきとした専門家でありながら、麻薬に手を出して人生を狂わせてしまった人々である。それぞれが麻薬中毒から抜け出すためにコミュニティーに入り、専門の知識を活かして各職場で仕事をしていた。

 

彼らばかりではない。「サンパトリニアーノ コミュニティー」に収容された者は、誰もが収容されたその日から施設内の各仕事場に振り分けられて、わき目も振らずに働くことを義務づけられている。実は「労働を通しての更生」というのが、コミュニティーの治療法の最大の特長なのである。

 

身長190センチ、体重120キロの巨漢だったヴィンチェンツォ・ムッチョリは、施設内の麻薬患者の若者らに深く愛されていた。同時に外の世界には彼の治療法に懐疑的な敵も多かった。

 

施設の経営は、創設者のムッチョリの死後、アンドレアとジャコモの2人の息子にゆだねられた。

 

しかし、3年前に2人は経営方針と金を巡って骨肉の争いを演じ、ジャコモが施設を去った。以来兄のアンドレア・ムッチョリが最高責任者となって施設経営がなされてきた。

そして今--アンドレア・ムッチョリが施設の経営から身を引くと宣言したのである。

 

施設内に流れ込む巨額の資金を巡って欲が欲を呼び、外部からの支援者や資金提供者を巻き込んだ駆け引きと暗闘が繰り広げられた結果、創設者一族が経営から身を引く、という事態になったものらしい。よくある話である。

 

ヴィンツェンツォ・ムッチョリの死に際して、僕は一つの時代の終焉を見たと思った。そして息子のアンドレア・ムッチョリが施設経営から身を引く(おそらく撤退を余儀なくされた)事態を目の当たりにして、もう一つの時代の終焉を見たと感じる。

 

それはとりもなおさず、新しい時代の幕開けでもある。

 

麻薬の罠に嵌まって苦しむ若者は、イタリアはもちろん世界中で後を絶たない。「サンパトリニアーノ コミュニティー」は、それらの若者たちにとっての大きな救いの一つであることは疑う余地もない。

施設は存続しなければならないし、存続させなければならない。僕は事態の成り行きをじっと見守っている・・・

 


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