【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

9月に会いましょうⅡ



明日8月22日から夏休み。シチリア島へ。友人夫婦と妻と4人で。フェリー以外は全行程車の旅。

 

考えてみると、「友人という他人」を交えて3日以上の旅をするのは、若い時代を含めて人生で初めての体験である。

 

また、シチリア島を純粋に「休み」で訪れるのも、今回が初めて。

 

初めてづくしの旅。

 

まず夫婦共にローマ出身の友人宅(実家)まで車で8~9時間の移動。

 

そこで2晩世話になって、ナポリ近くのサレルノへ。

 

そこからフェリーでシチリア島、メッシーナへ。

 

友人のフェルーカ漁師アレーナ一家と旧交を温めた後、

→<~「フェルーカ」挽歌~

 

観光地のタオルミナ、さらにアルキメデスの故郷シラクーザを経て、歴史遺産に満ちたアグリジェントへ。そこでは兄弟同然の付き合いがある友人のニコラの世話になる。

 

最後はトラパニ県を経てパレルモ。

 

パレルモでは当然、親友のサルバトーレとシルビアの世話になるが、2人とも我われがシチリア島に入った時点ですぐに会いに行くと息巻いているから、へたをすると漁師のアレーナ一族とも一緒に会うことになりかねない。

→<サルバトーレ&シルビア

 

しかし、それではあまりにも「出来事」が多過ぎて逆に印象が薄くなってしまうことが普通だ。もったいないから今回は流しておいて、近いうちに皆で会うイベントを企画しよう、と電話で話して納得してもらった。

 

それやこれやで。

 

それでは。

 

皆さん。

 

ぜひ、

 

9月に会いましょう!!!!

→<9月に会いましょう


カダフィの終焉?



「リビア騒乱の中、反政府軍は首都トリポリからわずか50キロのザウィヤを押さえたらしい・・」と、昨日書き出して、今朝になって続きを書くために情報確認をしていくと、サウィヤどころか首都トリポリにも反政府勢力が進攻して戦闘があったという。

 

そうしたニュースに呼応して、カダフィ大佐が南米のベネズエラに逃亡するらしい、という情報もめまぐるしく駆け巡っている。

 

カダフィの友人、ベネズエラのチャべス大統領が、リビアの隣国チュニジアのジェルバ島の空港に、独裁者のために特別機を飛ばして、彼がやって来るのを待っているというのである。それは十分にあり得る話。世界の異端児カダフィとチャべスが手を組み合っても何も不思議はないように見える。  

 

実は中東の騒乱がリビアに飛び火した直後から、独裁者カダフィの逃亡先についてはいろいろ取り沙汰されてきた。

 

彼が落ち延びて行くであろう先の国々は限られている。カダフィのこれまでの友人が政権の座にある友好国のあれこれ。

 

即ちアフリカの国々ではリビアの隣国のチャド、ニジェール、マリ、モーリタニア、赤道ギニア、コンゴ、ウガンダ、ジンバブエ、南アフリカ。そして中南米のニカラグアとベネズエラ。最後に東欧のベラルーシ。

 

いずれも国際社会との対話に問題を抱える、似た者同志のいわくつきの国々である。

 

それらの友好国の中でも、カダフィにとって特に都合が良いのが、国際裁判所ローマ規定を無視、あるいは批准を拒んでいる国々。つまり戦争犯罪者や人道に反する犯罪者を、国際裁判所に引き渡す義務を負わない国々である。

 

その国とは、アフリカではモーリタニア、赤道ギニア、ジンバブエの3国。さらに中米のニカラグアと東欧のベラルーシがあるのみである。

 

ベネズエラは国際裁判所ローマ規定を批准している。それでもチャべス大統領が政権の座にある間は、カダフィをかばいぬくことができる、と独裁者自身もまたベネズエラの異端児大統領も考えているのだろう。

 

でも果たしてそうだろうか。それって、結構世界を甘く見ているのではないだろうか。自国民をいとも簡単に弾圧殺戮した独裁者を見逃すほど、国際社会は甘くない。カダフィは必ず弾劾され重い償いを課されなければならない。それは死よりもはるかに重い償いであって然るべきである。

 

カダフィばかりではない。シリアのバッシャール・アサド、エジプトのムバラク、イエメンのアリ・サレハ、モロッコのムハンマド6世、そしてサウジアラビア、バーレーンなどなど、時代遅れのあらゆる国々の支配者は、民衆の手によって権力の座から引き摺り下ろされなければならない。

 

あらゆる反民主化勢力、即ち独裁者、独裁主義、極右及び極左主義者と思想、軍国主義と軍国主義者等々は必ず排除されなければならない。抹殺ではない。排除である。

 

それらの極端主義者や過激思想は決して死滅することはない。また死滅させてもならない。なぜなら、それらの醜い存在があるからこそ民主主義が輝く。それらと対比することで民主化がさらに美しくなる。それらは、いわば必要悪。従って抹殺してはならない。徹底的に排除するのみである。

 

中東危機を語るとき、僕はずっとリビアとリビアの支配者を中心に考えを巡らせてきた。理由が幾つかある。

 

1. リビアは僕が住まうこのイタリアのかつての植民地であり、良きにつけ悪しきにつけ身近な話題、問題として常に語られる。

 

2. 独裁者カダフィの変わり身の早さに対する僕自身の興味。砂漠の狂犬、猛獣、などと呼ばれるカダフィは、まさしくその名の通りの暴君でありながら、保身のためとは言え2000年前後から突然欧米列強との対話穏健路線に走った。と思う間もなく、今の政変に際してはケダモノも顔負けの独裁者、あるいは時代錯誤も甚だしい抑圧者に変貌した。いや、変貌したのではなく、彼本来の「地」をさらけ出して咆哮しまくっている。

 

3. 僕のかつての友人ムフタ君への思い。彼は確実に独裁者のシンパ。なにしろ20代の半ばでロンドンのリビア大使館を自由に使っていた男だもの・・

→<イタリアVS砂漠の猛獣Ⅱ

4. とにかくリビアに民主主義体制が根付いてほしい。

 

5. 民主主義体制は、チャーチルの指摘を待つまでもなく、決して「ベスト」ではなく「ベター」な体制であるに過ぎない。民主主義にも多くの欠点がある。最大の欠陥はおそらく多数決による少数派の否定。しかし、今のところわれわれ人類は民主主義以上の政治体制を発見できずにいる。ベスト(最善)が見えない限り、ベターこそベスト(最善)なのである。

 

僕はそういうわけで、お節介と言われようが余計なお世話だと怒られようが、中東諸国に民主主義を持ち込む動きには大いに賛成する。

 

賛成どころか、独裁者どもを権力の座から引き摺り下ろして、地獄の底に投げ込む民衆の動きに、せめて気持ちだけでもしっかりと寄り添って行きたいと強く思っている。

 

それは僕の個人的な利害とも一致する。

つまり僕は中東の国々、特に地中海域の国々を、安心安全にしかも自由に訪れてみたいのだ。

そのためにもようやく芽生えたアラブの春が、一刻も早く「花咲き乱れる輝かしいアラブの春」になってほしいのである。

 

 

ワインビジネス



今収穫中のブドウは、自家のワイン造りにも用いられる。
→<ヴェンデミア(VENDEMMIA)
ワインはイタリアのシャンパン「スプマンテ」である。

 

ワイン造りは今のところは全くの赤字ビジネス。昨年亡くなった義父が残した負の遺産である。

 

伯爵家は大昔から常にワインを造ってきた。しかしそれは一家が消費する分と客に提供する分で、商業ベースのワイン生産ではなかった。

 

伯爵家の農夫のうちワイン醸造に長けた者が、一家のブドウを活用して一族のためだけに赤ワインを造ってきたのである。その伝統は今でも続いていて、混じりけのないシンプルな赤ワインはとても美味しいと僕などは感じる。

 

農学が専門だった義父は、アフリカや南イタリアの農場で仕事をした後、北イタリアに戻って伯爵家の土地で肉牛の生産を始めた。彼は同時に、元々あった一家のブドウ園とは別に、少し規模の大きなブドウ園の経営にも乗り出した。今から30年以上前のことである。

 

肉牛の飼育はすぐに失敗して負債が残った。

 

そこでやめておけば良いものを、彼は自らが作るブドウを使って商業ベースのワインの生産まで始めてしまった。

最初は白ワインと赤ワイン。さらにスプマンテにも手を伸ばした。

 

しかし、裕福な伯爵家で純粋培養されて、何不自由なく育った義父である。商売の厳しさなど知る由もなく、ワインビジネスもまた赤字続きだった。

 

それでも基本的には、放っておいても実が生(な)るブドウの生産はそれなりにうまく行って、ブドウのあがりでワインの赤字を埋める、ということを繰り返して20年余りが過ぎた。

 

義父は亡くなる前の数年間は、ワイナリーを閉鎖する方法を模索していた。赤字だらけのビジネスを残して逝くことには、さすがに忸怩(じくじ)たる思いがあったのだろう。

 

僕もワインの生産を止(や)めたほうがいいと、義父にはそっと言いつづけてきた。金の苦労を知らない大甘な彼の商売は、見ていて胸が痛むほどわびしい感じがいつもした。

 

義父は結局、ワイナリーを閉める「仕事」も貫徹できないまま亡くなった。優しすぎてここ一番での決断ができないところも、いかにも義父らしいといえば言えた。

 

義父が病に倒れた後、専門家の力を借りてワイナリーの実態を徹底的に検証した。結果、ワイン造りを続けたほうが負債の清算が早まる可能性がある、ということが分かった。

 

価格の変動が激しいブドウを収穫してそのまま全て売るのではなく、何割かを付加価値のつくスプマンテに仕立てて一部を樽のまま卸し、残りをこれまで通りに瓶詰めにして販売するのである。

 

義父が亡くなった後は、公私混同が当たり前だった彼の商法も改めた。

若いマネージャーを雇って、ワイナリーをビジネスとして徹底させると同時に、ボトル販売のプロたちとも契約した。

 

机上の計算では、義父の残した負債を8年から10年かけて返済できる計画。

しかし、競争が激しく、切り盛りが難しいワインビジネスである。赤字がさらに進行する兆しが見えたら、ためらうことなく即座に止(や)めてしまうことを前提にしている。

 

ワインは誰にでも造れる。資金さえあれば、ワインの杜氏(とうじ)であるエノロゴが幾らでも造ってくれるのだ。優れたエノロゴを雇えば優れたワインを生産することも可能だ。

 

ワインビジネスの問題は「ワイン造り」などでは全くなく、
ひとえに『販売』が課題なのである。

 

販売が好転する兆しが見えたとき、赤字解消の確かな道筋が生まれ、さらに将来への展望が開けるはずである。

 

それでなければ、全てのブドウ園を失うような事態があっても、少しも不思議ではない、と僕は考えている。

 

ヴェンデミア(VENDEMMIA)



今年一番の自家のブドウの収穫(ヴェンデミア)は810日に始まった。

 

まず初めに僕の仕事場から見下ろす3,5ヘクタールを収穫。それは2年前、2009年春に植え替えた木の初めての実りである。

 

品種は白ブドウのシャルドネ。量はまだ少ない。成果が最大になるのは、植樹から4~5年後である。

 

全体では15,5ヘクタールある自家のブドウの収穫は、今後飛び飛びに日にちを定めて9月半ば頃まで続けられる。

 

今年はここまで雹(ひょう)が一切降らなかった。珍しいことである。

 

暑い日本とは違って、北イタリアでは大きな雹は盛夏に多く降りつける。そのためブドウ栽培者は必ず雹保険に加入している。かなりの確率で被害が発生するから、保険の掛け金も安くない。

 

去年(2010年)7月には、あたり一面が真っ白になるほど大量の、巨大粒の雹が降りしきった。それは雪のように積もって、翌日まで解けずに残った。

 

ブドウに大きな被害が出て、僕の小さな采園の野菜も完全に破壊されつくした。ナスやトマトやピーマンには大きな穴がいくつも開いた。

 

激しい雹はほとんどの場合「テンポラーレ」と共にやって来る。

 

「テンポラーレ」はイタリアの夏の風物詩。

 

真っ青だった空にとつぜん黒雲が湧いて稲妻が走り、突風が吹き募って雷鳴がとどろく。同時に激しい雨や雹が視界をさえぎって落下する。目をみはるような荒々しい変化である。

 

イタリア語で「テンポラーレ」と呼ぶこの自然現象は、日本語ではちょっと思いつかない。

驟雨とか夕立、あるいは雷雨などの言葉は弱すぎる。

「野分(のわき)」という古語もあるが「テンポラーレ」はそんな詩的な表現では言い尽くせない。

 

「テンポラーレ」は、しばしば雹を伴なって農作物を破壊する。

 

激しい雹を運んでくる猛烈な「テンポラーレ」を、僕は勝手に「豆台風」と呼んだりしているが、長い時間をかけて発達する台風とは違って「テンポラーレ」はふいに起こる現象だから、実はこの言葉もぴたりと当てはまるものではない。

 

今年もここまでに何度も「テンポラーレ」が発生した。でも一度も雹は降らなかった。この先はどうなるか分からないが、ブドウにも僕の采園にも被害は出ていないのである。

 

8月半ば頃からの「テンポラーレ」は例年、発生するたびに急速に秋を運んで来る。

 

季節がいつも通りなら、秋はもうすぐそこである。

 

パリオが終わった!



20118月のシエナのパリオが無事終わった。

 

勝ったのはコントラーダ・ジラファ(キリン町内会)。20047月以来の優勝。

 

またパリオが、カンポ広場を駆け抜ける今の形になった、1644年以来では34回目の勝利である。

 

7月のパリオで馬が死んだキオッチョラ(かたつむり)町内会は敗退。

パリオでは優勝だけが意味を持つ。
2位以下は全て敗北として片付けられるのである。

 

カンポ広場を3周するパリオの所要時間は、110秒からせいぜい120秒程度である。

 

でもそれは恐ろしく中身の濃い1分余りで、まるでウサイン・ボルトの100Mダッシュを見るように速く過ぎる。

 

熾烈(しれつ)で劇的でエキサイティングな勝負。

 

2番手で飛び出したジラファは、1周目の途中でトップに立ってそのまま逃げ切った。

 

僕は3周目の途中まで八百長くさいパリオだと思った。波乱がないように見えたからだ。

 

ブランビッラ大臣ら動物愛護家の糾弾にひるんで<パリオの行方①>、各チームの馬の走りが鈍っているのか、と本気で疑ったとき、急カーブで一頭が転倒して後続が次々に重なり倒れ、騎手が投げ出された。

本気も本気の走りをしていなければ起こり得ない光景。

 

僕はほっとした。パリオは死んでいないと喜んだ。

 

もんどりうって倒れた馬も騎手も全員が無事だと分かって、僕はさらに喜んだ。

 

でも、たとえ馬が無事でも、動物愛護家の人々のパリオへの弾劾はつづくだろう。

5頭が一気に転倒して騎手が放り出されるシーンは、刺激的過ぎて彼らにはとうてい受け入れられないだろうから。


そしてそれは、彼らの立場に立てば、分からないことでもないから。

 

パリオの命運は、まさしく前途多難というふうだ。

 

ったく、困ったものである・・

 

 


フェラゴスト(FERRAGOSTO)



今日8月15日はフェラゴスト(FERRAGOSTO):聖母被昇天の祝日である。

 

聖母マリアが生涯を終えて天に召されたことを祝うこの祭りは、元々は古代ローマのアウグストゥス帝の誕生日にちなんだ、8月1日を祝って休む日だったのだが、キリスト教と結びついて今日8月15日と定められた。

 

バカンス時期にあるこの祭日は、いわば休みの中の休み、とでもいうべき日。リゾート地を除くイタリア中の店も工場も食堂もなにもかも閉まって、国中が空っぽになる。

 

同時に毎年この日は、シエナの8月のパリオの前夜祭にも当たっている。中世の美しい街シエナの競馬祭りは、例年7月2日と8月16日に行われるのである。

 

今年は7月のパリオで競争馬が事故死し、これにブランビッラ観光大臣が異議を唱えて騒ぎになった。動物愛護家の大臣は、長い伝統を持つパリオそのものの廃止にまで言及して、問題はさらに先鋭化した。→<パリオの行方①

 

女性大臣は、街の広場を馬場にして裸馬が疾駆するパリオは、出場馬にとって極めて危険だから祭りを廃してしまえと叫ぶのだが、なぜか馬に乗る騎手の危険性については一言も言及しない。馬と同じ危険にさらされる騎手はどうでもいいが、動物は必ず守れということらしい。

 

また観光大臣でありながら、国の重要な観光資源である伝統的なアトラクションを取り止めろと主張するのは、整合性がないと批判されても仕方がないのではないか。

 

開催が危ぶまれた明日のパリオが予定通り行われるのは嬉しいことである。また、これまでのところは、ブランビッラ女史の声高な問責もない。

 

バカンスまっただ中の今日のフェラゴストだから、ブランビッラ大臣もきっと休暇中なのだろう。でも、パリオの廃止を叫ぶくらいだから、休んでいる場合ではないのではないか。

 

自らシエナに足を運んで、祭りを実体験してみるべきである。馬を愛する人々が、馬と共に熱狂して、感動的な雰囲気に包まれる空気を呼吸してみるべきである。

そうしておいて、それでもやはり祭りを弾劾するというのなら、シエナの人々も少しは納得するというものである。

 

でも、僕がシエナの友人達に確認した限りでは、大臣はここまでのところ今年も祭りの期間中にシエナに足を運んではおらず、祭り以外の期間もおそらく街を訪ねたことはないのではないか、とのこと。

 

それやこれやで、僕はパリオのことも「サンパトリニアーノ コミュニティ」の内紛劇と同じように、少し納得のいかない思いで見守っているのである。


サンパトリニアーノ



ヨーロッパ最大の麻薬患者更生施設「サンパトリニアーノ コミュニティ」が揺れている。創設者の一族が施設の経営から手を引く、と発表したのである。その理由がいろいろと取り沙汰されているが、どうやら問題は「金」の」ようである。

 

最大で2000人近い患者が住む「サンパトリニアーノ コミュニティ」は、麻薬中毒の若者たちを見るに見かねた1人の男が、1978年に自らの家に彼らを招いて、共に自給自足の生活を試みたところから始まる。その男の名はヴィンチェンツォ・ムッチョリという。

 

ムッチョリは後には私財をコミュニティに寄付して、彼自身が中心となって本格的な更生施設の経営に乗り出した。

 

麻薬患者らによる自給自足生活を基本方針にした施設は、イタリア社会に大きな波紋を投げかけながらひたすら成長を続け、現在ではそうした類いの団体としては莫大な、と形容しても構わないな資金を動かす巨大組織になっている。

 

創設者のヴィンチェンツォ・ムッチョリは1995年に亡くなった。

 

僕はその直前に彼のはからいで、コミュニティーの中にある一軒家にスタッフと共に寝泊まりをして、そこで起こるあらゆる事象を刻明にカメラで追いかけた経験がある。

 

その当時「サンパトリニアーノ コミュニティ」は、既に約300ヘクタールの土地を有していた。広大な敷地の中には、家族が住まうための1戸建て住宅が100件余り、1500人を収容する巨大な共同住宅が2棟あった。さらに住民のほぼ全員が一度に食事をする大食堂や劇場や体育館や多種スポーツ施設や図書館や保育園やクリニックや歯科医院まである。

 

同時にそこには、40ヘクタールのぶどう園と年間250万本を生産するワイン醸造所があり、6000頭余りの家畜が飼われ、牧場や畑があり、チーズ工場、パン工場、家具製作所、写真印刷所、自動車修理工場、縫製所、板金塗装工場、内装・造園品製作所等々の仕事場があった。

 

それらの仕事場では、コミュニティー内で消費する分は言うまでもなく、外の世界に売るための製品も生産される。パンやチーズなどを別にすれば、むしろ後者の方が主体である。

 

「サンパトリニアーノ コミュニティー」の中にあるこれらの施設には、2011年現在、140名の外部ボランティアおよび350名の雇われスタッフも仕事をしているが、当時は全てコミュニティーの住民自身の手で運営されていた。ボランティアや、国や県が派遣する助っ人、といった者は一人もいなかったのである。

 

言葉を換えれば、クリニックの医師や歯科医や看護婦や薬剤師また保育園の保母などといった専門職の人々も、全員が麻薬中毒者か一度そうであった体験を持つ者ばかりなのである。彼らはにわか医師や歯科医や看護婦などではない。誰もが国家試験にパスしたれっきとした専門家でありながら、麻薬に手を出して人生を狂わせてしまった人々である。それぞれが麻薬中毒から抜け出すためにコミュニティーに入り、専門の知識を活かして各職場で仕事をしていた。

 

彼らばかりではない。「サンパトリニアーノ コミュニティー」に収容された者は、誰もが収容されたその日から施設内の各仕事場に振り分けられて、わき目も振らずに働くことを義務づけられている。実は「労働を通しての更生」というのが、コミュニティーの治療法の最大の特長なのである。

 

身長190センチ、体重120キロの巨漢だったヴィンチェンツォ・ムッチョリは、施設内の麻薬患者の若者らに深く愛されていた。同時に外の世界には彼の治療法に懐疑的な敵も多かった。

 

施設の経営は、創設者のムッチョリの死後、アンドレアとジャコモの2人の息子にゆだねられた。

 

しかし、3年前に2人は経営方針と金を巡って骨肉の争いを演じ、ジャコモが施設を去った。以来兄のアンドレア・ムッチョリが最高責任者となって施設経営がなされてきた。

そして今--アンドレア・ムッチョリが施設の経営から身を引くと宣言したのである。

 

施設内に流れ込む巨額の資金を巡って欲が欲を呼び、外部からの支援者や資金提供者を巻き込んだ駆け引きと暗闘が繰り広げられた結果、創設者一族が経営から身を引く、という事態になったものらしい。よくある話である。

 

ヴィンツェンツォ・ムッチョリの死に際して、僕は一つの時代の終焉を見たと思った。そして息子のアンドレア・ムッチョリが施設経営から身を引く(おそらく撤退を余儀なくされた)事態を目の当たりにして、もう一つの時代の終焉を見たと感じる。

 

それはとりもなおさず、新しい時代の幕開けでもある。

 

麻薬の罠に嵌まって苦しむ若者は、イタリアはもちろん世界中で後を絶たない。「サンパトリニアーノ コミュニティー」は、それらの若者たちにとっての大きな救いの一つであることは疑う余地もない。

施設は存続しなければならないし、存続させなければならない。僕は事態の成り行きをじっと見守っている・・・

 


独裁家族



イラク戦争中の2003年7月22日、サダム・フセインの2人の息子、ウダイとクサイが米軍の攻撃によって殺害された。2人の息子は、悪辣非道な独裁者である父親のサダムも顔負けの、凶暴残虐な性格だったとされる。

 

その出来事を受けて、誰かがリビアのカダフィ大佐の息子たちもやがて同じ運命をたどるだろうと予言した。当時、実は僕も同じことを考えた。

 

サダム・フセインとムアマー・カダフィというアラブの2人の独裁者と、その息子達の関係を歴史に照らして見てみれば、彼らの因果の巡りを予測するのは少しも難しいことではないと思う。

 

独裁者とその家族は、しばしば運命を共にして歴史に名を刻んできた。

例えばサダム・フセインと2人の息子の前には、ルーマニアの独裁者チャウシェスクと妻の処刑の例がある。

また処刑はされなかったが、20年にも渡ってフィリピンを独裁支配したマルコスが、蜂起した民衆に追われて妻のイメルダと共にハワイに落ち延びていく姿は、世界中の人々に鮮烈な印象を与えた。

 

もっと言うなら、ムッソリーニも、そしてヒトラーでさえも、独裁者の多くは家族または家族同然の人々を巻き添えにして、悲惨な最期を迎えた。またそれほど目立たないケースでも、独裁者の回りには家族や近親者や幼なじみの友人などが寄り添っている、と見てまず間違いがない。

 

独善と謀略と邪悪を力のより所とする独裁者には、敵も多いために心は決して安まらず、猜疑心のカタマリとなって身内を近くに置きたがる。独裁とは多くの場合「ファミリービジネス」でもあるのだ。

 

現在進行形で言うなら、キューバのカストロは弟のラウルを権力の座に据えた。エジプトのムバラク前大統領は、世界が注視する中、彼に従って権力を振るったアラアとガマルの息子2人と共に裁判にかけられている。わが隣国、北朝鮮の独裁者と息子に関しては、言及するまでもないだろう。

 

さて、今が旬のリビアの独裁者とその家族である。

 

カダフィ大佐の8人の子供のうち、下から2番目のサイフは5月1日のNATO軍の空爆で殺害され、末っ子のカ(ハ)ミスも8月に入って多国籍軍の空爆で死亡した。ただし、後者の死亡のニュースを大佐側は否定している。

 

殺害されたサイフを除く6人の息子たちは、親の威を借りていずれも権力の中枢かそこに近いところにいる。

 

次男のサイフは父親の後継者と見なされ、五男のムタシムと死亡説が流れているカミスは国家保安院あるいは秘密警察に近い組織の要職にあり、他の3人もそれぞれ国家の重要な役職を担っている。

 

このうち三男のサーディはイタリアのプロサッカーリーグ「セリエA」でプレーしたこともある変わり種だが、今回のリビア政変では軍を率いて、ベンガジに拠点を置く反対勢力を攻撃している。

 

また「アラブのクラウディア・シファー」と呼ばれる、大佐の一人娘のアイシャは弁護士。フェミニズムの活動家だが、内戦の混乱の中でも父親を擁護する発言を繰り返し、トリポリでは政権を支持する民衆の前でアジ演説を飛ばして、世界中のメディアに存在感を示したりしている。

 

独裁者と家族たちの行く末は、遅かれ早かれ又多かれ少なかれ、同じキャンバスの同じ絵に描くことができると歴史は教えている。

そのことを思うと、独裁者自身はともかく、親の存在に引きずられて運命を左右されたようにも見える、彼らの子供は少し哀れを誘う、と感じるのは僕だけだろうか。

 

独裁者とその息子たちの関係は、民主化の遅れた社会に共通のものだと言っても過言ではないが、それは日本などにも多い世襲議員のおぞましさにも通じるものがある。

ファミリービジネスの独裁制は、同じファミリービジネスの世襲議員制の、いわば従兄弟(いとこ)という見方もできるのではないか。

 

イタリアVS砂漠の猛獣Ⅲ



昨年始まった中東危機以来、イタリアに流入する難民は増え続けている。

 

当事国のイタリアにおいてさえメディアの注目は日々小さくなっているが、今やこの国に入った中東難民の数は45000人を越えているのである。そのうちの多くはリビアからやって来る。

 

砂漠の猛獣、リビアのカダフィ大佐は、かつての宗主国イタリアへの憎しみを募らせ、口汚くののしり、脅し、8月3日にはリビア近海に展開するイタリアのフリゲート艦に向けてミサイルを発射した。

 

あわてたイタリアの防衛大臣は、戦艦から2キロ離れた海域に落下したミサイルが、イタリア艦を狙ったものではない、と危険性の打ち消しに必死になったりしている。

 

独裁者カダフィは、一向に政権を投げ出さない。それもそうだろう。権力の座を明け渡したとたんに、彼は怒れる民衆の手によって地獄の底に突き落とされることが確実に見える。それこそ死にもの狂いで最後の最後まで抵抗を続けるに違いない。

 

7月28日、大佐を裏切って反体制派に与(くみ)していた筈のアブデル・ユニス将軍が、ベンガジで仲間に殺害された。裏切り者として。

 

カダフィの最も信頼する部下が彼を裏切って敵方に走り、今度は寝返った先の仲間を裏切ったのである。この不思議な話は実は、大佐の狡猾で冷酷な権謀術数のなせる業であったらしい。

 

つまり、1969年のカダフィ革命以来、独裁者の右腕であり続けたユニス将軍は、今回のリビア危機に際して、その鎮圧を目的に大佐によって反体制組織に送り込まれた。彼はスパイとしてボスのカダフィ大佐に反乱軍の内部情報を送り続けたのである。

 

ところが今回大佐は、部下を冷たく切り捨てる形で、ユニス将軍が自分のスパイであることをひそかに反乱軍に知らせた。将軍が独裁者に宛てて送り続けた情報データを証拠として添えて。

 

大佐が送った証拠を突きつけられたユニス将軍は、全く弁解の余地なく裏切り者として反政府軍内で処刑された、というのである。

 

カダフィの狙いは、反乱軍内の幹部たちにお互いへの不信と猜疑心を植え付け、組織内の恐怖と混乱をあおり立てることだった。

 

強力な助っ人と見なされていたユニス将軍が、実は依然として独裁者の片腕でありスパイだったと判明すれば、カダフィに反旗をひるがえした他の政府軍将校などにも疑いが生まれ、寄せ集めの反政府軍内はパニックに陥りかねない。

 

カダフィはそこを狙った。そして彼の狙いは今のところ見事に功を奏していると言われている。

 

事実ならまるで悪魔のような汚い術策だが、40年以上もリビアを牛耳ってきた独裁者は、やはりただ者ではなく、したたかな策士だった、という当たり前の現実の表れだとも考えられる。

 

それだけ悪知恵の働く男が、将軍の死から1週間後、隣国エジプトのムバラク前大統領が裁判にかけられて、その模様が生中継されるテレビ映像を目の当たりにした時、一体なにを思ったのだろうか?

 

ヨーロッパのメディアが「ファラオ(古代エジプト王)」とまで呼ぶ独裁者のムバラク前大統領が、民衆の手に落ちて、老いさらばえた哀れな姿で裁判にかけられる様子は、世界中に生中継された。隣国の、しかも当事者同然のカダフィ大佐が、まさかその映像を見なかったということはあるまい。

 

彼は震えおののきながら映像を見、明日のわが身を思って屈辱感にさいなまれ、憤怒の中でさらなる粛清、弾圧の強化を画策しているのではないか。従って血で血を洗うリビアの内戦は、多国籍軍が決定的な軍事行動を起こさない限りまだまだ続く、と考えるのは穿(うが)ち過ぎだろうか。

 

先日会ったエジプト人の若者たちは、母国の危険は去って平穏が戻ったと強調していた。→<アラブ人学生たちのこと

 

若者らが国を出てイタリアに短期留学できるくらいだから、エジプトにある程度の静けさが戻ったのは事実なのだろう。が、ムバラク前大統領を始めとする独裁政権幹部の裁判を巡って、国民の間に怒りや不信や猜疑が渦巻いている間は、国に真の平穏は訪れないのではないか。

 

エジプトでさえそうなのだから、独裁者のカダフィ大佐がまだ猛獣であり狂犬であり続けているリビアでは、真の「アラブの春」の訪れはまだまだ先のことに違いない・・

 

 

 

アラブ人学生たちのこと



3週間前の日曜日に続いて、昨日(8月7日)もまたガルダ湖畔の伯爵家でコンサートがあった。趣旨は前回とまったく同じ。
→<ノブレス・オブリージュ

 

コンサート開始時間や場所もほぼ同じだが、会場に関しては、今回は初めから前庭ではなく大広間での開催が決まっていた。バイオリン、チェロ、ハープの演奏なので、音響の良い元舞踏会場の大広間で、ということになっていたのである。

 

今回もまた雨に降られた。主催者の中に雨男か雨女でもいるのだろうか。良く雨に降られる。

 

僕は昼間は自宅で仕事をした後、夕方湖の館に移動した。コンサートやその他の用事で、ここ一週間ほどは伯爵家に行きっぱなしの妻と合流。大学生の2人の息子も彼女連れで館にいた。夏休みなのだ。

 

仕事が詰まっているので、今回は音楽会には顔を出さないでおこうかとも考えたが、やはり参加することにした。理由があった。

 

僕は前回のコンサートにエジプト人の若者たちを招待した。彼らは伯爵家のある湖畔の町でイタリア語を勉強していた。ミラノ大学が毎年夏に期間限定でイタリア語講座を開いていて、世界中から生徒がやって来るのである。そこでは日本からの学生もけっこう見かける。

 

エジプト人の若者たちは、友好親善の一環としてアルピーニの集会に招待されていた。僕はそこで彼らに会って、夜のコンサートにもぜひどうぞ、と招待した。<ノブレス・オブリージュ

 


アルピーニの集会場で若者たちを見かけたとき、僕は彼らに強い好奇心を抱いた。男子学生がジーンズにTシャツなど、イタリア人と何も変わらない服装をしているのに対して、女子学生がイスラム教徒のベール「ヒジャブ」を着用していたからである。

 

やはりイスラム女性が用いるベールのブルカとニカブは、公式の場での着用がフランスとベルギーで正式に禁止され、イタリアでもそれに近い法案が提出されたりして、アラブ文化への風当たりが強くなっている。

 

加えてチュニジア、リビア、エジプト、シリア、イエメン、バーレーンなどなどで進行する反乱や暴動の中東危機。それは王族支配体制が巨岩よりも堅牢に見えたサウジアラビアにまで広がる気配を見せている。そして9.11アメリカ同時多発テロ事件以来さらに強まった、欧米社会のイスラム教徒やアラブ国家への猜疑心。

 

そうしたもろもろの状況に加えて、個人的には僕はリビア人の友人ムフタ君との連絡が取れないことへの気がかりも強い。
→<イタリアVS砂漠の猛獣Ⅱ

 

僕はエジプト人の若者たちに話しかけた。そのあと昼食をまじえて歓談した。アルピーニの集会では、いつもバーベキュー形式の食事が供されるのである。

 

彼らはごく普通の明るい若者たちだった。僕はもっともっと彼らと友達になりたかった。そこでその晩のコンサートに招待した。

 

ところが会場の手違いで若者たちが一人を除いて入場を拒否されてしまった。雨模様でコンサート会場が前庭から屋内に変更になったために、主催者側スタッフが早めに入場制限をして扉を閉めてしまった。来場者が多すぎたのである。

 

僕はそういうこともあろうかと思って、主催者側の責任者にエジプト人若者らには便宜を図ってくれるように頼んでいたのだが、混乱の中で入口スタッフへの引継ぎ連絡がうまく行かず、少し遅れて会場にやって来た若者らは閉め出されてしまった。

 

その若者たちは既に帰国した。でも大学には他の学生らが入れ違いに入学して来ると聞いた。僕は仲良くなった若者達に、彼らに続いて短期留学をする学生たちにも、遠慮なく伯爵家を訪ねるように、と話しておいた。

 

そんないきさつがあるので、僕はもしかするとアラブ人の若者らが昨日のコンサートに顔を出すのではないか、と思いついて湖に向かったのだった。

 

昨晩はそれらしい若者らは会場にはやってこなかった。

 

僕は少しがっかりしたが、伯爵家での催し物は9月までは続く。

もしかすると、どこかでまたアラブ人の若者らに会えるかもしれない、と僕はひそかに期待をしている・・

 

ポポロの海 ③



チカのビーチに入ると、先ず管理人小屋につづいて着替用のキャビンが並んでいる。シャワーやトイレも同じ場所だ。その先の砂浜にパラソルが2列に渡って整然と立てられていて、さらにその先にビーチテントの列が6列ある。

 

テントは赤と青の縞模様が鮮やかな帯状の化繊布である。等間隔に立てられたたくさんの支柱の上にぴんと張り渡されているが、それぞれの長さは100メートルにも及ぶために絶えず海風をはらんで、ぱたぱたと小気味のいい音を立てる。

 

テントの下には、折りたたみ式の色違いの寝椅子が、2脚ないしは3脚で1組になってずらりと並べられている。1つのテントの下には合計50組もの椅子がある、1つ1つのパラソルの下にも最低2脚の椅子があるから、合計するとチカのビーチでは、1000人前後の人々が日陰の椅子に座ったり寝そべったりして、1日を過ごすことができる計算になる。

 

最前列のテントの前から波打際までの砂浜が、チカ家の管理外にあるいわゆる公共空間である。公共空間は、言うまでもなく
300キロメートルの海岸線のビーチの全体にある。そこでは散歩をしても日光浴をしても誰にも文句を言われない。ただし、大きな音を立てたり、ボール遊びをしたり、要するに他人の迷惑になるような行為をしてはいけないことになってる。

 

そんな決まりを守る気のある人間は一人もいない。

 

ミラノ訛(なまり)の言葉でまくし立てる10人ほどの若者のグループは、トランクの大きさほどもあろうかというオーディオ機器の音量を思いっきり大きくして、早くからディスコパーティーを開いている。

 

子供たちは、見て見ぬふりをする親や大人たちの態度に気をよくして、ありったけの声でわめきながら鬼ごっこをする。そのうちの一人が波打ち際を散歩中の老夫婦に体当たりを喰らわせる。かと思うと、日光浴をしているトップレスの女性の背中を思いっきり踏みつけて、隣の男の上にもんどり打って倒れる者がある。他の二人は、車座になってトランプをしている人々の間を突っ切って向こう側に逃げこむ。

 

ボール遊びをする者も多い。サッカーボールやビーチテニスの玉が右に左に飛び交って、男のサングラスをはたき落とし、金髪女性のビキニの尻を盛大に打ちつける。罵声と悲鳴と子供らの嬌声が間断なくつづく。

 

ビーチには物売りも多い。

 

「ココ・ベッロー! ココ、ベッロー!」と叫ぶのはココ(椰子の実)売りの若者だ。細かく割った椰子の実の入ったカゴを右手に、左手には水入れのバケツを持って、彼らは砂浜を行ったり来たりする。しばらく歩いて両手の荷物を砂に置き、バケツの水を手ですくってカゴの中のココに振りかける。そうしておけば、ココは取り立てのようにいつもつやつやして見える。歩いても立ち停まっても彼らは「ココ・ベッロー!ココ・ベッロー!」、と一番鶏の雄叫びみたいな声を競い合う。

 

クロワッサンに似た手作りのパンケーキを売り歩く女もいれば、蜂密をまぶして焼いた手作りのフルーツを売るキャンディ屋もいる。「ジェラート~、ジェラート~」と間のびした声を出して歩くのはアイスクリーム売りだ。手作りと称するテーブルクロスを両肩に山のようにかついで売り歩く男もいる。

 

明らかにアフリカ産と分かる女物のエキゾティックな装飾品を、箱に入れて売り歩く黒人もいる。生まれて間もないライオンの子を腕に抱いて、いっしょに記念撮影はどうか、と海水浴客にたずね歩くナポリ人もいる。ライオンの子は明らかに密輸入したものだ。

 

物売りの中で一番にぎやかなのはハワイ屋である。アロハシャツに椰子の葉の腰巻きを着て、頭には花輪をつけ、胸には真っ赤なレイと日本製の大型カメラをぶら下げて正装したハワイ屋は、バナナの葉で作ったジャングルの模型をリヤカーに積んで、「ハワイの記念写真はいかが~!」と日がな一日ビーチをねり歩く。

 

客がつくとハワイ屋は、小道具の花輪とレイと腰巻きをリヤカーから取り出して相手に着せ、さらにウクレレを片手に握らせる。ワイキキの海に見立てたアドリア海とジャングルのセットをバックに、ハワイ屋はカメラを構えて「はい、チーズ」と客に愛嬌を振りまく。ばか気たセットにはけっこう人が群がる。

 

ビーチの殷賑(いんしん)を耐え難い騒音の集積と見るか、開放的な活力と受け留めるかによって、リチョーネの海のバカンスは天と地ほども違うものになる。

ここはポポロ(大衆)の海だ。しかもイタリアのポポロの海である。彼らに静けさを要求するのは、日曜日には教会で神に祈れ、と日本人に要求するくらいに無駄だし不当なことだ。

 

憤然と立ち上がって若者や子供らを叱りつけ、ビーチに秩序を植えつけようとするドイツ人がたまにいる。しかし、イタリア人は馬耳東風に聞き流す。ドイツ人の言う秩序が、一歩間違えばヒトラーやムッソリーニのそれになりかねないことを大衆は良く知っている。


第2次大戦が終わって長い時間が過ぎた夏のバカンスにおいてさえ、ヨーロッパ人は戦争の記憶を頑固に胸の片隅にしまいこんでいる。大衆の知恵とはおそらくそういうものなのだろう。

 

ドイツ人のような勇気はなく、かといってイタリア人のように騒々しい寛大さも持ち合わせない僕は、1人そっと立ち上がって「カルロのバー」に行く。喉も渇いているが喧噪に少し疲れてきたから、冷えたビールでも飲んで一休みしたくなったのだ。

 

バカンスで疲れるというのは変な話だけれども、来る日も来る日もビーチで同じシーンがつづくと僕は日ごとに疲れていく。公共空間の騒ぎや売り子の押しつけがましい掛け声もそうだが、ビーチテントの下で隣り合った人々と付き合わなければならないわずらわしさが、僕をどっと疲れさせる。

 

付き合いというのはおしゃべりのことである。昼食の為に「マリネラ」に戻る2、3時間の休憩をはさんで、ビーチでは朝から夕方までぺちゃくちゃしゃべりまくっていなければならない。おしゃべりには男も女も関係がない。が、僕はイタリア語があまり話せない風を装って、ぺちゃくちゃはできるだけイタリア人の妻にまかせ、寝椅子に寝転がって人々の繰り言を黙りがちに聞いている、という形がほとんどだ。

 

しかしおしゃべりというのは、しゃべっている当人たちは好きでやっているからいいものの、無理やりにそれを聞かされている側は極端に疲れて行くものなのだ。

 

そんな訳で、少し長めに取るバカンスが終わりに近づく頃には、僕は1日のほぼ半分くらいを「カルロのバー」で過ごしたりすることにもなる。

 

僕は誰とも口を聴かずに「カルロのバー」で生ビールを飲みながらビーチでの付き合いの疲れを癒やす。飲むのはたいていドイツ製の「ワイスビア」。

 

ほんのりとビールの酔いが回るころ、ようやく僕の中にバカンスの大きな喜びが湧き上がってくる・・じわり、じわりと・・

 


ポポロの海 ②



僕らが行くのは、ベニスから南に200キロほど下った海沿いにある、リチョーネという町である。リチョーネは、今でこそアドリア海岸でも有数のリゾート地として知られているが、つい最近まで誰も目を向けることさえなかった鄙(ひな)びた漁村に過ぎなかった。

 ところがイタリアにリゾートブームが訪れると同時に、ボローニャやフィレンツェなどの都会に近い立地条件が幸いして、他の沿岸添いの村や町に先んじて急速に発展したのである。

僕らが逗留するのは、海から300メートルほど離れた場所にあるペンシオーネ「マリネラ」である。ペンシオーネは宿泊と食事をセットにして提供する施設で、ホテルよりもはるかに割安だから人気が高い。たとえば日本の旅館よりも気が張らず、ペンションよりも規模が大きくてホテル並の施設がある、というのがイタリアのペンシオーネの特長である。

「マリネラ」では、僕らはいつもアパート形式の部屋を借りることにしていた。居間を兼ねた大きめの寝室が一つと子供用のそれが一つ、さらにバスルームと小さな台所とベランダが付いている。しかし台所の入口には引き戸式の白いシャッターがかかっていて、僕らは使うことができない。それは10月から翌年の5月までの間に部屋を借りる人だけが使用することになっている。

つまりその期間中に部屋を借りる人は、自炊することが許されていて、「マリネラ」のレストランで食事をする必要がない。台所には料理と食事に必要な全ての用具はもちろん、冷蔵庫やコーヒーメーカー等も備わっているから、飲食の一切は自部屋で済ませることができるのである。 そうした設備は2、3日の休暇を過ごす場合には無意味かもしれないが、滞在が長ければ長いほど経済的には有利になる。

ヨーロッパの6月から9月はバカンスの最盛期である。「マリネラ」はその間は一つ一つの部屋の台所を閉め切って、宿泊客に飲食のサービスを強制して稼ぐ。こういう言い方をすると余り聞こえはよくないが、ペンシオーネというのは、宿泊と飲食をセットにして客に提供することで彼らの売り上げを伸ばすと同時に、一人一人のバカンス客の出費を少なくすることにも成功している。そういう訳だから、台所が使えなくても誰も文句は言わないのである。

毎朝8時から9時の間に「マリネラ」の食堂で朝食を済ませて、僕と妻と子供二人は海に向かう。砂利の敷かれた「マリネラ」の前庭を突っ切って行くと、門の両側にレバノン松の大木が枝を広げて影を落としている。下を通るとひんやりとした空気が感じられるほどの濃い大きな影である。

そこを抜けて外に出ると、バカンス用の賃貸アパートやホテルやペンシオーネや別荘などがひしめいているフラテロ通りがある。通りにはそれらの建物から吐き出された人々が、僕らと同じようにビーチに向かって思い思いに行進している。

色とりどりのバスタオルや帽子や海水パンツや浮き袋やビーチボールやビキニなどが、歩く人々にまとわりついて、肥大症の蝶のように中空を舞いながらアドリア海を目指す。

フラテロ通りは真っ直ぐに海に向かっていて、ビーチの手前で海岸通りと交差する。

海岸通りには陸側だけに建物が連なっている。レストランやカフェやバールやブティックと並んで、リチョーネの高級ホテルもほとんどこの通りにある。目の前の通りの片側がそのまま砂浜につづいている絶好の立地だからだ。

フラテロ通りと海岸通りの角には、歩道の一部を占拠して営業している「カルロのバー」がある。鉢植の木や草花をいきれる程にたくさん並べて歩道に囲いを作り、その中に水色のクロスにおおわれたテーブルが配置されている。テーブルクロスに限らず、椅子も灰皿も花瓶も店の表の装飾も何もかも、そこでは全てが水色に統一されていて、見るだけでも涼しい気分になる。

リチョーネのバーやカフェやレストランは、かならず独自のシンボルカラーやデザインを決めて店を飾りたてている。「カルロのバー」だけが例外というわけではない。大衆向けの、いわば二流のリゾート地と言ってもいいリチョーネの街だが、一つ一つの店の飾り付けは抜群にセンスがいい。陳腐な言い方だが、そういうところはやっぱりイタリア的だ。

通りすがりに見ると、「カルロのバー」の囲いの中には既に2組のドイツ人のグループがやって来て、ビールの大ジョッキをテーブルに並べて談笑している。

店の奥のカウンターの前にも水着姿の人々がたむろしている。それはビーチに降りる前に、エスプレッソコーヒーとクロワッサンで朝食を済ませようとするイタリア人たちだ。

カウンターの向こう側には、店の主人のカルロと奥さんのアンナが忙しく立ち働いている。

僕はビーチでの日光浴に飽きると、ひんぱんに海岸通りを横切って、「カルロのバー」に行って冷たいビールを飲む。そのせいでカルロと奥さんのアンナとは、僕はけっこう親しく口をきく間柄になっている。

あと2時間もすれば、僕は今日もカラカラに喉をかわかせて、美味いビールを求めてこの店に立ち寄るはずである。そのときには僕は、妻と子供たちのために冷たい飲み物とアイスクリームも買い求めてビーチに戻る。

海岸通りを突っ切って、僕らはチカのビーチに出る。チカというのは、ビーチの一区画を管理している一家の名前である。チカ家はリチョーネの町に権利金を支払って、ビーチの決められた場所にトイレやシャワーやパラソルやビーチテントなどの設備を作る。バカンス客は、チカ家からそれを借りてビーチでの一日を過ごす、という仕組みである。

イタリア・アドリア海の長い砂浜は、どこもおよそ百メートル単位の長さに区画されて、その一つ一つがチカのビーチと同じ形で整備され管理されている。

[~のビーチ]と名付けられた一つ一つの区画の設備は、「カルロのバー」と同様にそれぞれが個性的な色とデザインで統一されて存在を主張している。

ところがたとえば海の上や空から全体を眺めると、不思議なことに一つ一つがお互いに引き立て合いながらしかもきちんと調和しているという、これ又イタリア的としか言いようのない景色に変貌してしまうのである。

 



ポポロの海  ①



ベニスの南からアンコーナという町に至る、約300キロメートルのアドリア海沿岸地帯は、イタリアというよりも、おそらくヨーロッパ最大の夏のリゾート地と見なしていいと思う。

ヨーロッパで最大、というくらいだから、もちろんそこはいわゆる高級リゾート地ではない。

地元イタリアと、ドイツを中心とする北欧各国のふつうの人々、つまりサラリーマンやビルの守衛や郵便配達夫や学校の教師やデパートの店員や八百屋の主人夫婦や年金生活の老人・・・・、といった大衆(ポポロ)がどっと押し寄せて、夏のバカンスを楽しむ典型的な大衆リゾート地である。

しかしそこの一帯は、大衆リゾート地とはいうものの、ありとあらゆる施設が完璧に整備された、その意味では一級のリゾート地でもある。

日本の九十九里浜を連想させる(もちろんそれよりははるかに長い)広い砂浜海岸には、色とりどりのビーチテントやバンガローやパラソルや着替え用のキャビンが、びっしりと並んでどこまでもつづいている。

椅子や寝椅子をそろえたそれらの施設は、一定の間隔で区分けされていて、区分けされた一つ一つのグループが同一色に統一されているから見た目が実に美しい。

もっと具体的に言えば、ルキノ・ビスコンティ監督の古典的な名作「ベニスに死す」の中の砂浜のシーンが、300キロメートルにもわたってえんえんと続いていると考えればいい。

あの映画の中で美少年が砂浜に遊ぶとき、パラソルやバンガローと共に色あざやかな細長い布を屋根に張り渡しただけのビーチテントも登場する。

軽く風をはらんで小刻みにゆれるテントとそれを支える細い木柱の色合いは、誰にも真似のできないイタリア人独特の色彩感覚とデザイン感覚をさりげなく、しかも十二分に示していたと思う。

かつて一部の金持ちのためだけに存在したあの映画の世界が、今ではアドリア海沿岸の全域に広がっている。この現象は高級リゾート地が俗化したということではなく、ふつうの人々がそういう海で遊べるほどヨーロッパ社会が成熟した、と考えるほうが正しいように思える。

あの映画が一世を風靡した頃のヨーロッパの大衆は、たとえば今の日本人と同様に、何週間も仕事を休んで遊びほうける、ということはまずできなかったのである。

ビーチで遊ぶ膨大な数のバカンス客を迎える宿泊施設は、5ツ星のグランドホテルからキャンプ場のテントに至るまで、ありとあらゆるクラスのものがそろい、それに伴ってレストランやカフェやバーやスポーツセンターやヨットハーバーやルナパークやショッピングセンター等々の施設も自然に充実していく。

古都ベニスの海岸から派生したアドリア海のリゾート地は、そうやってイタリア最大の規模になりやがてヨーロッパでも最もにぎやかな夏の歓楽地になった。

子供が小さかった頃、僕ら一家はまだ人出の多くない6月を選んで、良くそこにバカンスに出掛けた。

6月なら人出が少ない分ホテルやビーチ施設の料金が安く、しかも梅雨のないイタリアの海はもうすっかり夏になっている。その上にこの国の6月は夏時間の真っ最中だから、日は長くて夜は涼しい。6月というのは、イタリアではバカンスを過ごすにはとてもいい季節なのである。

ただし人出が少ないとはいうものの、それは最盛期の7月と8月に比較しての話で、6月のイタリアのリゾート地はどこもかなりのにぎわいを見せる。6月から学校が休みに入る子供たちとその母親族と、最盛期の混雑を避けて早めの休暇に入る人々がどっとくり出すからである。

仕事が休めない父親を家に残して、子供と母親が先にバカンスに出かけるのは、イタリアでは極めてありふれた光景である。

家族を先にバカンスにやって、父親は週末だけせっせとそこに通うという訳である。僕はそれを勝手に「通勤バカンス」と呼んでいる<9月に会いましょう>。

6月のアドリア海沿岸には、イタリア人に加えて、ドイツ人をはじめとする北欧系の人々の数も多い。彼らは早期休暇に入る地元の人々と同じように、人出がピークになる7月と8月を意図的に避けて、夏の初めに長い休暇を取って南下してくるのである。

6月のイタリアの海でバカンスを過ごすのは、前述したように経済的な面を含めていいことずくめだ。それを見のがす手はない。いかにも合理的な国民にふさわしく、彼らは時間差出勤ならぬ、時間差休暇の制度を整えて、うまくそれを利用するようになった。

僕はイタリア人でもなく、ドイツ人でもなく、母親でもないのに、家族を引き連れてせっせと6月の海に出かけた。ないないずくめのついでに、まっとうな勤め人でもない、という僕の仕事事情があるからそういう芸当ができた。

ただ正確に言うと、実体は僕も週末だけ休暇中の家族の元に通う「通勤バカンス」者に近い部分もあった。それでも、フリーランスのテレビディレクターという立場上、割合に時間の融通がきくから、勤め人の「通勤バカンス者」よりも多く休むことができていたと思う。

僕は普段から休みに向けて人の3倍も4倍も仕事をこなす気で頑張ってきた。僕の仕事哲学は、当時も今も完全に「休むために仕事をこなす」ことだ。

それは少し功を奏して、不安定な職業ながら、いや、おそらく不安定な職業だからこそ、僕は長期の休暇を取ることにはかなり成功してきたように思う。

フリーランスの職業の場合「仕事をこなしてから休む」のでは、いつまで経っても思うような休みは取れない。「休むために仕事をこなす」ことが重要だ。

そして「休むために仕事をこなす」場合は、常にしゃかりきになって仕事をしまくっていなければならない。

組織に縛られずに自由に生きていくとは、必ず「組織人の労働量を凌駕する仕事をこなし続けること」と僕は自分の経験からはっきりと学んだのである。





渋谷君に感謝!



「 渋谷君

 

僕が君に書き送ったこれまでのメール書簡を、このブログに転載しても構わないと許可してくれたことに僕はとても感謝しています。

 

僕が書いた手紙なのだから、それをブログなりなんなりに再録するのは僕の自由なのではないか、と君は鷹揚(おうよう)に言ってくれたね。確かにそうなのかもしれない。

 

でも僕が君に書き送った手紙は、いわば僕から君への贈り物(あまり有りがたくない贈り物(笑)?)、という位置づけができるような気がして、いったん贈ったものを勝手に取り返すのはちょっと・・という気分だったんだ。

 

でも著作権は僕にあるのだから気にするべきではない、と君はまたうまいことを言ったね。著作権とは大げさな表現だが、書いたのは確かに僕なのだから、考え方としては著作権というのはあながち的外れなものではないのかもしれない。

 

すると、僕の手紙を僕が自分のこのブログに掲載するのは問題ではなく、もしも支障があるとするなら、たとえば君が僕の手紙をどこかに転載するとき、ということになるんだろうね。

 

ただ、僕は君が僕の便りをどこかで公表したとしても、あまり困ることはない気がする。妻に読まれてはマズイあれこれを除いては(笑)。奥さんのユリさんに読まれてはマズイ君のあれこれと同じさ(大笑)。

 

君が僕のブログを読んでくれていることを知って、僕はとても嬉しい。

 

しかも銀行勤めで超多忙のはずの君が、ブログをくまなく読んでいるらしいことに僕は感嘆している。

 

僕にほんのひとかけらでも才能のようなものがあるとすれば、それは集中力だと僕はひそかに自負しているんだが、長時間の厳しい仕事の後で僕の拙いブログを隅々まで読む君の集中力(というよりも忍耐力?)にはマケソーだ。まさかブログを読んでリラックスしている、と僕にとっては最大の賛辞を贈ってくれたりはしないだろう?(笑)

 

君に送ったメールをブログに転載させてほしいと頼んだのは、僕が長いあいだ書き続けてきたものが、いわば君だけに向けて書かれた自分のブログなのではないか、ということに気づいたからなんだ。

 

友人としての君に書いた便りと、不特定多数の読者に向けて書いたものとは、もちろん内容も形式も精神も何もかも違う。しかし、このブログを始めた今年3月以前の、僕が「ブログに書きたかった諸々のことドモ」は、君への書簡の中にあますところなく書かれている。

 

僕が新聞や雑誌に書き続けてきたことも、多くの場合はざっくばらんでくだけた、あるいはフザケた表現や内容やスタイルに変わって、僕はやっぱり君への便りにも仕立てているんだ。

 

僕らがメールをやり取りするようになってもう大分時間がたった。その間に僕は仕事や私用でもずいぶんメールを書き送ったが、君への便りが一番目くらいに多く、かつ僕の真情がたっぷり込められているケースがほとんどだ。

 

そうなったのは君のおかげだ。なぜなら君はおそろしく筆まめな男で、僕が書き送る便りには必ず、素早く、あり余るほどのボリュームの返信をくれた。僕はそれに触発されて、さらに次の便りをしたためる、ということのくり返しだったんだ。

 

ここであらためて

 

君の筆まめに乾杯!感謝!

 

メールに関して君と合意ができ、過去の2通エーゲ海の光と風ノブレス・オブリージュ>をブログに転載したこの時点で、僕は今回はこうして君へのメールをブログと同時進行で送ってみることにした。

 

この形に問題がなければ、以前のメールを転載することとは別に、ときどきこんな遊びをするのも面白いかも。

 

このブログを読んだら、いつものように「メールで」感想を聞かせてクデ。

 

よ~し!

 


 

PS:ユリさんの仕事の具合はどう?日本からの情報では、出版不況は深まるばかりで、さまざまな雑誌の休刊廃刊が相次いでいるということだが・・彼女の勤める大手出版社でも状況は厳しいの?

 

 

パリオの行方⑥



キオッチョラが棄権したことを知ったタルトゥーカの人々の喜びようは大変なものだった。誰もがキオッチョラの不運を楽しみ、いい気味だと悪態をつき、もっとひどい事故が起きれば良かった、などと声高に言い合うありさまである。

 

すさまじいのは、タルトゥーカの人々が彼ら同志でひそひそと噂し合うのではなく、その生の感情を誰彼の区別なくぶつけては、哄笑するところだった。もちろん人々はテレビカメラに向かっても堂々とキオッチョラを嘲笑う言葉を吐いた。同情心のひとかけらもないのが見ていても良く分かるのである。

 

シエナの人々は、敵対するコントラーダ間の憎しみ合いを、パリオの間だけの一種のゲームだと主張する。しかしそれは嘘だと僕は思う。彼らの中には日常的に敵コントラーダへの感情的な軋轢(あつれき)が存在している。それでなければ、いかにゲームとはいえ、同じ街の隣接した町内会の人々にあれだけの悪感情は持てない。

 

百歩ゆずって、シエナの人々の主張が本当だとしても、少なくとも年端の行かない子供たちにとっては、町内会が一丸となって敵に対していく異様な状況は、心に深く刻み込まれて祭りが終了すると同時にさっぱりと忘れる、という風にはいかないと思う。わだかまりは祭りの域を越えて残り、やがて1年を通しての彼らの心の常態になっていくであろうことは想像に難(かた)くない。

 

シエナの子供達は、そうやって物心ついた頃から、敵コントラーダへの対抗心や憎しみを吹きこまれつづけて育つのである。そして、今子供たちにそれを教えている大人たちも、かつては又子供だったのである。祭りの間だけのゲーム、と彼らがいうのは大人になった子供が、大人の知恵で口にする対外的な言い訳や建て前であって、彼らの本心はまた別のものである。

 

僕はタルトゥーカを集中的に取材しはじめると同時に、シエナの人々が胸に秘めている暗い情念のようなものを垣間みて衝撃を受けた。正直に言うと、僕はこのときはじめて、パリオの本質が敵対コントラーダへの憎しみを基本に展開される祭りであることを、心底から理解したのである。

 

少し暗い話になるが、僕はこのことを軸にして最終的に作品をまとめるつもりになった。

ところがパリオのドラマは意外な方向に動きだした。

 

キオッチョラが棄権を決めた直後の試し乗りで、今度は「オンダ(波)」町内会の馬が転倒して、騎手が大ケガを負って出場不能になったのである。するとオンダ町内会は、棄権したキオッチョラの騎手を急きょ雇ってパリオに出場すると発表した。

 

このニュースを聞いて、タルトゥーカの人々はパニックに陥った。彼らはキオッチョラがタルトゥーカの馬をつぶすために、オンダと組んで騎手をそこに送りこんだと考えたのである。

 

パリオの騎手は一人一人が専門のプロフェッショナルである。彼らは金で雇われて一つの町内から他の町内へと動くことが多い。

 

クジ引きで決められる出走馬とは違って、騎手の選択はパリオの当日まで自由だから、各町内会は彼らを引き抜いたり買収工作をしたりして敵コントラーダをおびやかす。それもまたパリオ伝統のゲームの一つなのである。

 

ただしゲームとはいえ、そこには相当に大きな額の金が動くから、騎手もコントラーダの人々も極めて真剣になり、工作も複雑で陰湿なものになる。

 

キオッチョラが、オンダと組んで騎手を送りこむことは、充分にあり得る話だった。その場合キオッチョラは、騎手はもちろんオンダ町内会にも金を支払っている可能性がある。あるいはオンダには金を渡さず、将来のパリオで協力することを条件に工作をしているかも知れない。

 

いずれにしてもキオッチョラとオンダの間に何らかの合意ができ上がっている、とタルトゥーカの人々は考えたのである。

 

結論を先に言ってしまうと、キオッチョラの騎手が乗ったオンダの馬は、パリオでタルトゥーカの馬の行く手を阻(はば)んであっさりとこれをつぶした。明らかに工作があったのである。

 

それはパリオの僕の映像にもはっきりととらえられている。しかし一瞬のでき事なので誰もが見逃しかねない。たとえ気づいたとしても、それを見る人は偶然のでき事だとして看過する可能性もある。事実そのでき事は関係者が口をつぐみ、「偶然」として片づけられた。

 

しかし、それは決して偶然のでき事ではなかった。僕はパリオが終わった段階で、騎手とキオッチョラの幹部の口からはっきりと工作があった事実を聞いている。その時テレビカメラに向かって証言してくれるように、と何度も頼んだが受けて貰えなかった。

 

そこで僕は、オンダの馬がタルトゥーカの馬の邪魔をする一瞬をストップモーションにして、しばらく画像を伸ばし「オンダはタルトゥーカをつぶした」と短くコメントを入れて視聴者の注意をうながすにとどめた。

 

パリオはその後、先頭を行く3馬がぶつかり合いながら壁に激突し、その間隙を縫って「ブルーコ」町内会の馬が優勝する、という劇的な展開になった。ブルーコ町内会は過去41年間一度もパリオに勝ったことがないチームだから、シエナ中が興奮して大変な騒ぎになった。

 

そうした予期しないでき事が連続したおかげで、僕はキオッチョラの取材拒否の事実や、タルトゥーカの人々のキオッチョラに対する暗い憎しみや、その時のパリオでもまた馬が一頭死んだ事実等々の、影の部分を余り強調することなく作品を仕上げることができた。

 

たとえそれが事実でも、取材を通して長い間つき合って人間関係ができてしまうと、映像にして人々の不利になりかねない部分は、やはり表には出したくなくなるものである。

 

番組はかなりうまく行って、それから大分時間が経った。ロケの最後には気まずい関係になったキオッチョラの人々とも僕は後年仲直りをした。そうやって僕はシエナにもまた多くの友人ができた。

 

パリオは「馬を隠れ蓑(みの)にしたシエナの人々の大喧嘩」である(パリオの行方②)、という当時の僕の考えは今もまったく変わっていない。

そしてそれは、もしもパリオがブランビッラ大臣などの批判をかわして無事に存続していくなら、来年も再来年も、また将来もずっと変わらないに違いない。

 

話は変わるが、

実はパリオは近く世界遺産への登録申請をする予定だった。そこに今回の馬の死亡事故が起こってしまい、観光大臣らの弾劾を呼んで申請は先延ばしになってしまった。それどころか、8月のパリオの開催さえ危ぶまれる事態になっている。

 

僕は早く騒ぎが収束して、パリオが元の元気を取り戻すことを強く願っている・・


(終わり)




パリオの行方⑤



ドキュメンタリーの取材ではしばしばこういう場面に出くわす。仕事と冷たく割り切ってカメラを回すか、彼らの心情を汲んで人間として彼らに寄り添い、彼らの怒りや悲しみや苛立ちを共有する「振りをしながら」しばらく撮影を控えるか、の判断を迫られるのである。

 

僕は後者を選んだ。というよりも後者を選ぶことを強いられた。

 

あたりの雰囲気は非常に悪く、今人々にカメラのレンズを向ければ、たちまち暴力沙汰に発展するであろうことがひしひしと肌身に感じてこちらに伝わってくる。

それでなくてもイタリア人カメラマンのフランコや音声マンのエンツォはすっかりおびえていて、僕がカメラを回せと指示してもおそらく拒否したに違いなかった。彼らはイタリア人であるだけに、同じイタリア人であるキオッチョラの人々の今の心理が誰よりも良く分かっているのである。

 

キオッチョラの人々の怒りは、不名誉な棄権、長年勝てない不運への苛立ち、敵コントラーダのタルトゥーカがパリオを制するかもしれない不安等が原因なのだが、しばらくすると僕ら撮影隊を見る眼が血走ってくるのが分かった。

 

無言のまま憎々し気にこちらを見る者がいたり、グループで固まって何か話しながらチラチラとこちらを盗み見ている者もいる。そのうちに1人2人と僕らの横を通る振りをして体をぶつけていく者も現われた。

 

僕らは危険を感じて、町内会事務所に避難をして幹部たちに助けを求めた。そこには町内会長のベルナルディ氏が待ち受けていて深刻な顔で僕に言った。

「悪いが撮影は中止してくれ。若者たちの怒りが君らに向けられている。こちらの裏口から退散してくれ」

 

何が何やら分からないまま、僕らはまるで犯罪者か何かのようにキオッチョラの町内から締め出された。

 

後で分かったことなのだが、人々は7月と8月の2回のパリオで不運がつづいたのは僕ら撮影隊のせいだ、とその頃考え出していたのである。それは馬の世話をするバルバレスコと呼ばれるグループの男たちが言い出して、一気に町内会全体に噂が広がったものらしかった。

 

クジ引きで割り当てられた出走馬は、町内会の中心部に作られた馬小屋で厳しく管理される。馬小屋は24時間体制で監視されて、たとえ同じ町内会員でも決して馬小屋の中には入れない。獣医を含むバルバレスコの男たちは、馬小屋の中に寝台を持ちこんで馬と共に寝起きをする仰々しさである。

 

普通の場合はテレビカメラなどまず入れてくれないが、僕はバルバレスコの男たちとも良好な関係を作って馬小屋の中にまでカメラを入れることに成功していた。そんな親しい関係があったにもかかわらず、彼らは7月に馬が傷を負い、その後死亡し、8月にも再び事故が起きたのは、全て僕をはじめとする撮影隊のせいだと言い出したのである。

 

ふだんならバカバカしいと笑い飛ばしてくれるはずのキオッチョラの人々は、異様な興奮状態の中でその言い分を信じてしまった。馬好きの人々が非常に迷信深いものであることは僕も知っていたが、まさか人々の怒りが僕らに向かってくるとは想像もしなかった。

 

いずれにしても僕らは危機一髪のところでキオッチョラを退散することができたのだった。

 

しかし退散はしたものの、今後キオッチョラで取材ができなくなってしまったのだから僕は非常に困った。

 

敵対するタルトゥーカと平行して撮影を進めながらも、話の中心はキオッチョラにあったし、また僕はそのつもりでキオッチョラに重きを置いて絵作りを進めてきた。もしもタルトゥーカがパリオで優勝することがあっても、僕は編集段階ではやはりキオッチョラの視点からのドキュメンタリーにしたい、と考えていた。

 

優勝するチームのリアクションはたいてい想像がつく。それは喜びであり笑顔であり満足であり祝賀会であり、要するに明るい大騒ぎである。僕はその部分は最小限に留めて、おそらく敗者となるであろうキオッチョラの人々の淋しさや悲しみや不運や嘆きを、じっくりと追いかけてみたかったのである。

 

しかしキオッチョラで取材ができないのだからどうにも仕様がない。なんとか対策を立てなければならなかった。こういうことも又ドキュメンタリーのロケでは珍しくない。

 

ドキュメンタリーの監督のもう一つの大きな仕事は、予定していた取材がダメになった場合に、何をどのように撮影して話を組み立てるかを常に考えておくことである。計画がダメになったり、予期していたものとは違ったりすることも実はドキュメンタリーの話の流れの一つなのだ。

 

極端に言えば、取材を拒否された時点で、その事実をはっきりと視聴者に伝えるために空白の映像を流すことさえも考えられる。それが真実として大きな意味を持つ場合もあるのである。

 

今回のそれはしかし取材拒否の事実を全面に押し出して作り上げるタイプの話ではない。

 

僕はすばやく頭の中を切り替えて、二台のカメラをタルトゥーカに張り付けることにした。

 

そこでできる限りの取材をして、キオッチョラで取材できない部分を補い、かつタルトゥーカ側から見えるキオッチョラ、という形で人々のインタビューをふんだんにまじえて最終的な物語をまとめようと決心したのである。

 

(つづく)

パリオの行方④




馬の抽選日を境にキオッチョラ町内会の幹部たちは、パリオでの優勝を諦めてタルトゥーカの勝利をはばむ作戦に出ることが予想された。

 

その方法はたくさんある。先ず一つはタルトゥーカの騎手を買収してしまう方法である。パリオでは買収工作は合法である。買収工作も含めた全ての動きがパリオのゲームなのだ。

 

各コントラーダはパリオの資金を豊富に持っている。町内会員がパリオの度に多額の寄付金を提供していて、幹部はそれを自由に使うことができるのである。また各コントラーダは、一年を通してひんぱんにパーティーや夕食会を催して町内会員から資金を集めている。そうした金も全てパリオの運用資金に回される。

 

第2の方法は、他のコントラーダと共同でタルトゥーカ包囲網を作ってしまうことである。これにもやはり金が動く。

 

タルトゥーカの馬を事前に傷つけてしまう方法もある。これは実際に起こることで、敵の厩舎(きゅうしゃ)に忍び込んで馬に睡眠薬を飲ませたり、興奮剤を注射して暴走させたりということも起こる。そのために各コントラーダは敵の襲撃に備えて、24時間体制で馬小屋を警備しつづける。

 

様々な方法で敵の妨害を試みた上で、最終的には彼らはパリオのコース上で直接対決をする。つまり出発と同時に騎手と馬が相手に襲いかかって行く手をはばんでしまうのである。自分の馬で敵の馬に体当たりを食らわせながら、騎手は鞭(むち)を振るって相手騎手をメッタ打ちにする。パリオでは、騎手同志がレース中に馬上から鞭で殴り合いをしても許されるのである。

 

僕がメインの取材をした一つ前のパリオでは、出発前に敵対するコントラーダの騎手が相手を殴りつけながら乗馬服の背中を引っ張りつづけたために、騎手は馬をコントロールすることができずにスタートダッシュができなかった。優勝候補と目されていたその馬はもちろん敗退した。

 

妨害をしたコントラーダは、スタート前に乗馬服を引っ張りつづけた反則を咎められて、何年かの出場停止処分を受けた。しかし彼らにとってはそれでいいのである。共に出走して敵コントラーダに優勝をさらわれることは耐え難い苦痛だ。そこでペナルティを覚悟で、相手の馬をつぶしてしまったという訳である。

 

キオッチョラもタルトゥーカに対してそれと同じような捨て身の妨害作戦を取ることが充分に考えられた。

 

ところがキオッチョラの馬は、パリオの本番の前に行なわれる試し乗りで予想外のいい走りを見せて、もしかすると本番でも勝てるのではないかという気運が高まった。そうなるとキオッチョラは、妨害工作よりも自らが勝つ為の方策に手いっぱいになる筈だから、今度はタルトゥーカ側の作戦も変わってくる。

 

僕はいい方向に事態が動いていると思った。優位に立つタルトゥーカを妨害しようとしてキオッチョラが動くのも面白いが、買収工作を含む彼らのいろいろな裏工作は、おそらく映像には撮らせてもらえないから表現が難しい。

 

しかし、両コントラーダがお互いに優勝を目指してぶつかり合えば、そうした禁忌(きんき)が少なくなって映像にしやすいいシーンがたくさん発生する、と僕は考えたのである。

 

パリオの本番までには試し乗りが6回行なわれる。キオッチョラは2回目もトップでゴールインしていよいよ期待感が高まった。しかし3回目の試し乗りの時に事故が起きた。

 

キオッチョラの馬が急カーブをまがり切れずに壁に激突して、足に傷を負ったのである。

 

普通なら押して本番にも出走させる程度の傷だったのだが、キオッチョラは大事をとってパリオを棄権する決定をした。パリオを棄権することは非常に不名誉なこととされていて、長い歴史の中でもめったに起こったことがない。少々の負傷は隠して出走させるのが当然のことだった。

 

キオッチョラが敢えて棄権する道を選んだのには理由があった。実はその一ト月前に終わったばかりのパリオでも、キオッチョラの馬は試し乗りで傷を負った。街の広場に土を敷き詰めて馬場とするパリオでは、馬が負傷するのは日常茶飯事である。だからこそ本番を前に3日間も時間を取って、出走馬の試し乗りを行なう。馬をコースに慣らせるためである。

 

普通の競馬コースとは違って、カンポ広場では普段の試し乗りができないからこれは非常に重要な行事である。その試し乗りでは良く馬が負傷する。急カーブの広場のコースはそれほど危険なのである。

 

キオッチョラは7月のパリオでは、どこのコントラーダでもそうするように傷を押して馬を本番で走らせた。ところがそれがたたったのでもあるかのように、馬は急カーブの鉄柱に頭から激突して死んでしまった。


そういう伏線があって、キオッチョラは8月のそのパリオでは、断腸の思いで引き下がる決定を下したのである。

 

その決定が下ってしばらくすると、キオッチョラの人々、特に若者たちの態度が一変した。見た目にもすぐにそれと分かるほど彼らの顔には怒りと苛立ちがあふれて、憤懣を何かにぶつけようとしてあたりをうかがっている。一触即発の緊張感がみなぎった。

 

あちこちで口論が起こり、タルトゥーカに殴りこみをかけようと言い出す若者のグループまで出た。パリオの棄権の決定を下した幹部と町内会の長老たちが必死にこれをなだめている。 

 

撮影する側にとっては非常にいいシーンなのだが、あからさまにカメラのレンズをそこに向けるのはまずかった。

(つづく)

パリオの行方③



全ての町内会を満べんなく紹介する、という説明で僕はキオッチョラ地区の人々をなんとか納得させた。

 

しかしそれからが大変だった。キオッチョラの人々は、僕がタルトゥーカでいつ誰と会い、僕の撮影クルーが何をどのように撮影したか、ということを逐一(ちくいち)分かっていて、その度に抗議をしたり皮肉を言ったり、挙げ句の果てはタルトゥーカで撮影したことと同じことをキオッチョラでも撮影しろ、あるいはするな、と掛け合ってくる。

 

さらに困ったことに、タルトゥーカ側もキオッチョラに於ける僕らの動きを詳しく知っていて、やはりいろいろと牽制してくるのである。

 

これは実に不思議なことだった。というのもキオッチョラとタルトゥーカは、祭りの期間中まさに戦争状態としか言いようがないいがみ合いをつづけていて、人と人の交流は全くなくなっている。交流どころか彼らはお互いの町内には決して足を踏み入れようとはせず、誰かが相手の領内に入れば若者たちが袋叩きにしてしまうほど殺気だっている。2つの地区の境界線の通りは、双方が避けて通る為にいつもガランとしているという有り様なのである。

 

パリオの期間中のシエナは、敵対するコントラーダ同志の誹謗中傷合戦はもとより、殴り合いのケンカまでひんぱんに起こるのだ。毎年7月と8月の2回、それぞれ4日間に渡って人々はお互いにそうすることを許し合っている。そこで日頃の欲求不満や怒りを爆発させるせいなのだろうが、シエナはイタリアで最も犯罪の少ない街になっているくらいである。

 

2つの町内会が、直接に情報を交換し合っていることはあり得ないから僕ははじめ困惑したのだが、良く考えてみると、キオッチョラとタルトゥーカはお互いがいがみ合っているだけで、他の15の町内会の人々とは普通に付き合っている。したがって相手のことを知りたければ、たとえばその15の町内会の人々を使ってこっそり視察をして、いくらでも情報を手に入れることができるのである。       

 

僕はそれまで1台のカメラとスタッフを使って両方を行ったり来たりしていた撮影方法を止めて、カメラとスタッフをもう一斑用意して両町内会を別々に平行して取材していくことにした。費用は嵩(かさ)むが、そうでもしないとスタッフが人々に突き上げられて仕事ができない、とぼやくのである。

 

それぞれのカメラクルーには担当する町内の撮影だけに専念してもらい、ディレクターである僕だけがキオッチョラとタルトゥーカの間を大急ぎで行き来するという形に切り替えたのだった。

 

この方法はパリオの祭りがクライマックスに近づくにつれて、正しいやり方だったことが明らかになった。

 

祭りのクライマックスは言うまでもなく本番の競馬(パリオ)である。しかし、その3日前に行なわれる出走馬の割り当て抽選会の時から、人々の気持ちは一気に高ぶって街じゅうが異様な熱気に包まれる。

 

パリオの出走馬は毎年たくさんの候補の中から厳しい審査を経て30頭にしぼられる。その30頭が最終的にはさらに10頭にしぼられて、カンポ広場で晴の舞台に立つのである。この10頭の馬は当然それぞれ能力が違う。したがって良い馬に当たることが、パリオに勝つためのまず第一の条件である。

 

クジ引きではタルトゥーカに強い馬が当たり、キオッチョラは10頭の中ではみそっかすと見なされている馬を引き当ててしまった。

 

この時のキオッチョラの人々の落胆ぶりは、見ていてこちらの胸が痛くなるほどの大仰なものだった。まるで葬式と離婚と借金の返済日が重なったみたいである。彼らは弱い馬に当たった自らの不運に加えて、敵のタルトゥーカに優勝候補の馬が渡ったことで二重に落ち込んでしまった。

 

一方のタトゥルーカは、キオッチョラとは全く逆の二重の喜びで沸き立ったことは言うまでもない。

 

僕はこの日キオッチョラとタルトゥーカの間を行き来して、人々の気持ちを汲み取る振りをしながら一方では泣き顔になり、一方では宝くじに当たったような笑顔を作る努力をつづける羽目になってほとほと疲れた。

 

僕は今「振り」と言った。どう逆立ちしても僕はキオッチョラとタルトゥーカの当事者にはなり得ないから敢えてそう言ったのだが、実はそのとき僕はキオッチョラでは本当にくやしいと思い、タトゥルーカでは浮かれた気分になっている。人々の気持ちに自分がピタリと同化してしまっているのだ。それは矛盾であり偽善である。だから疲れてしまうのだが、撮影現場にいるときはいつもそうなるのだから、これは仕方がない。

 

人間を追いかけるドキュメンタリーの監督の重要な仕事の一つは、撮影対象になる(なってくれる)人々との付き合いである。

 

こちらの思いのままに俳優を動かすフィクションとは違って、ドキュメンタリーでは撮影対象になる人々の実際の姿を、そのまま映像に刻印する形で話を作らなければならない。しかもその場合には、撮影される人々に対して報酬を支払わないことが基本である。

 

例外はもちろんたくさんあるが、金銭が介在することで、撮影する側とされる側の間にビジネスが生じることを避けようとするのがドキュメンタリーである。

 

金を支払えば、撮影される側はその分演技をしなければならないと考えかねない。また支払う側も、金を渡したのだからある程度こちらの思惑通りのこと(演技)をしてもらおうと考えかねない。いわゆるヤラセが発生するのはたいていそういう時である。

 

それではなぜ撮影される側の人々が、しち面倒くさい迷惑なドキュメンタリーの取材に付き合ってくれるのかというと、それは彼らがこちらを信用してくれているからである。

 

陳腐な言い方になってしまうが、撮影する側とされる側の間に、人間としての信頼関係があってはじめてドキュメンタリーは成立する。そしてその人間関係とは、少なくとも僕の場合は、プロデューサーでもカメラマンでも音声マンでもなく、僕自身と撮影される側の人々との信頼関係である。

 

僕はその部分に一番エネルギーを注ぐ。だからいつも一つの作品を作る前に長い準備期間を持つ。何度も足を運んではこちらの意図を説明して人々に納得してもらう。

 

それがうまくいった時だけ、まがりなりにも見るに耐えるだけの作品ができる。

 

(つづく)


パリオの行方②



パリオでは、競馬そのものにも増してすさまじいのが、このイベントにかけるシエナの人々の情熱とエネルギーである。

それぞれが4日間つづく7月と8月のパリオの期間中、人々は文字通り寝食を忘れて祭りに熱中する。

 

シエナの街はコントラーダと呼ばれる17の町内会から成り立っている。17地区のうちのほとんどの町内会は、架空の動物を含む生き物の名前を持ち、その生き物を旗印にしている。また、動物の名を持たないコントラーダも、それぞれ象とイルカとサイを旗印にする。

パリオはその17のコントラーダが、それぞれの馬と騎手を擁して覇を競う町内対抗戦である。ただし1回のパリオに出走できるのは、17のコントラーダのうち10のコントラーダだけと定められている。

 

パリオの度に、前回出走しなかった7つのコントラーダが自動的に出場できる権利を得て、残る3つの枠には、前回走った10のコントラーダの中から、くじ引きで決められた3町内会が入る仕組みになっているのである。

 

シエナで現在の形のパリオが始まったのは1644年である。しかしその起源はもっと古く、牛を使ったパリオや直線コースの道路を走るパリオなどが、12世紀の半ば頃から行なわれていたらしい。

 

パリオでは優勝することだけが名誉である。2位以下は全く何の意味も持たず一様に「敗退」として片づけられる。従ってパリオに出場する10のコントラーダはひたすら優勝を目指して戦う・・・と言いたいところだが、実は違う。

 

それぞれのコントラーダにはかならず天敵とも言うべき相手があって、各コントラーダはその天敵の勝ちをはばむために、自らが優勝するのに使うエネルギー以上のものを注ぎこむ。

 

天敵のコントラーダ同志の争いや憎しみ合いや駆け引きの様子は、部外者にはほとんど理解ができないほどに直截で露骨で、かつ真摯そのものである。天敵同志のこの徹底した憎しみ合いが、シエナのパリオを面白くする最も大きな要因になっている。

 

それぞれのコントラーダの天敵は、ほとんどの場合通りを一つへだてた隣の町内会である。これはその昔、コントラーダ同志が土地や住民の帰属をめぐって奪い合いをした名残りである。また同じ時代にコントラーダ同志が、軍事教練で激しいライバル関係を保ちつづけたことが、現代にまで受け継がれているともいう。

 

ちょっと信じ難いことなのだが、シエナのコントラーダの人々は、たとえば、まるで昨日隣の町内会と境界線の石垣の位置をめぐっていさかいが起こり、その結果奴方に死人が出た、というのでもあるかのような怒りと憎しみを持って敵対するコントラーダに立ち向かっていく。これは言葉の遊びではない。

 

パリオの期間中のシエナは、敵対するコントラーダの住民たちがひんぱんに暴力沙汰を起こす危険な無法地帯になるのである。

 

かつて僕はパリオのドキュメンタリーを制作するためにシエナに行った。それ以前に長い時間をかけてリサーチとロケハンを進めて、僕は17のコントラーダのうちから「キオッチョラ」町内会に狙いを定め、そこの人々の動きを中心にパリオの物語を作ろうと心に決めていた。

 

キオッチョラ町内会はシエナの下町にあって、17のコントラーダのうちでは3番目くらいに規模が大きい。また1644年以来のパリオでの優勝回数も17チームの中で2番目に多い、いわば華のある強いコントラーダの一つである。
 

ところがその強いはずのキオッチョラは、ほぼ15年もパリオの優勝から遠ざかっていた。

町内会の人々にとってはそれだけでも面白くないことなのに、彼らの天敵のコントラーダ「タルトゥーカ(亀)」がその間に2回も優勝している。その事実が耐え難い屈辱となって人々の心に重くのしかかっていた。

僕は先ずそのことに目をつけて、キオッチョラ町内会に通い詰めて撮影取材に協力してくれるようにと交渉しつづけた。 

彼らの敵のタルトゥーカの過去の優勝回数は、キオッチョラに次いで三番目。町内会の規模も拮抗している。2チームのライバル意識の激しさも全体のトップクラスだから、キオッチョラが受けてくれれば、番組はうまくいくと僕は計算していた。
 

シエナの各コントラーダは極めて閉鎖的でテレビの取材には余りいい顔をしない。パリオそのものがいろいろなタブーや迷信じみた拘束を持つ古い祭りであることがその大きな原因だが、近年はパリオの出走馬の扱いが不当だとして、動物愛護家からの強い批判も出たりするから人々は余計にナーバスになっている。

 

今年のブランビッラ大臣の声高の批判も、そういう歴史の中で出てきたのである。

 

紆余曲折を経て僕はキオッチョラの人々の全面的な協力を取りつけることができた。

 

その後で、僕は少し卑怯なやり方だとは知りつつも、彼らの天敵であるタルトゥーカ町内会も同時に取材していきたい、とかねてから計画していたことをはじめて口にした。

 

人々はそのとき露骨に嫌な顔をした。敵のタルトゥーカと並んで写真に撮られるなど真っ平ごめんだ、というわけである。それは予期していた反応だった。

 

「キオッチョラ町内会だけではパリオは成立しません。キオッチョラを話の中心にすえて、他の全てのコントラーダを取材しながらパリオを紹介していくつもりです。タルトゥーカもそのうちの一つなんです」
僕はそう説明をはじめた。

 

パリオに出走する町内会は一応全て取材する計画でいたのは事実だった。しかし、タルトゥーカはキオッチョラとほぼ同じ程度の比重を置いてロケをしたい、というのが僕の本音である。

パリオはその規模や形態や歴史性など全ての面で極めて興味深い祭りである。しかし僕が最も興味を持っているのは、天敵同志のコントラーダの人々が相手に示す、ほとんど理解不能なほどに強烈で露骨な敵対意識だった。

 

要するにパリオは、伝統とか歴史とかシエナの古い文化云々というきれいごとではなく、馬を隠れ蓑(みの)にしたシエナの人々の大喧嘩なのだ、というのが僕のひそかな確信だったのである。

その大喧嘩のおかげで伝統が生まれ、歴史が作られ、文化が形成されていった・・・

(つづく)

パリオの行方①



イタリア中部の街シエナは、フィレンツェからおよそ70キロ南にある中世の美しい街である。そこでは毎年夏、パリオと呼ばれる競馬が行なわれる。

 

ただの競馬ではない。街の中心にある石畳のカンポ広場を馬場にして、10頭の裸馬が全速力で駆け抜けるすさまじい競技である。

 

なぜすさまじいのかというと、レースが行なわれるカンポ広場が本来競馬などとはまったく関係のない、人間が人間のためだけに創造した都市空間の最高傑作と言っても良い場所だからである。

 

カンポ広場は、イタリアでも一、二を争う美観を持つとたたえられている。1000年近い歴史を持つこの広場は、都市国家として繁栄したシエナの歴史と文化の象徴として、常にもてはやされてきた。そしてシエナが独立国家としての使命を終えた現在は、イタリア国家を代表する文化遺産の一つとしてますます高い評価を受けるようになった。

 

パリオの10頭の荒馬は、カンポ広場の平穏と洗練を蹂躙(じゅうりん)しようとでもするかのように狂奔(きょうほん)する。狂奔して広場の急カーブを曲がり切れずに壁に激突したり、狭いコースからはじき出されて広場の石柱に叩きつけられたり、混雑の中でぶつかり合って転倒したりする。

 

僕はかつてこのパリオを題材に一時間半に及ぶ長丁場のドキュメンタリーを制作したことがある。例によってNHKの番組だった。6~7年にも渡るリサーチ準備期間を経て作ったその番組は、ことのほかうまく行って僕はNHK衛星局に表彰されるという嬉しい結果にもなった。

 

以来、僕にとってはとても親しみ深いものになったシエナのパリオは、今存続の危機にさらされている。

 

7月1日に行われた競馬のトライアルで、出走した馬の1頭が広場の石柱に激突して死亡した。


動物愛護者や緑の党などの支持者がこれに噛み付いた。

 

実はそのこと自体は今に始まったことではなく、かなり前から動物虐待だと主張する人々はいた。今回いつもよりも問題が大きくなったのは、この国のブランビッラ観光大臣が先頭に立ってパリオを批判したからである。動物愛護家で菜食主義者の彼女は、かねてからシエナのパリオを敵視してきた。今回の事故をこれ幸いとパリオの廃止を声高に叫んでいる。

 

ブランビッラ大臣は、シエナの人々が馬を深く愛し、親しみ、苦楽を共にして何世紀にも渡って祭りを守り続けてきた心など一顧だにしないように見える。彼女のヒステリックな叫びが静まることを願っているのは、多分僕だけではないだろう。

 

馬のケガや死を誰よりも悼(いた)んで泣くのはシエナの民衆であり、人一倍馬を愛し、馬に寄り添って祭りに臨むのもまた彼らである。結果として出走馬が傷を負ったり、死んだりすることはあるが、動物虐待というのは当たらないのではないか。

 

世界中の競馬場で馬はケガをし、死ぬこともある。それも全て動物虐待なのだろうか。それならば、全世界で食肉となるべく毎日屠殺されていく膨大な数の動物もまた、虐待の犠牲者と呼ばなければならないのではないか。

 

歴史遺産以外のなにものでもない伝統の祭りを、馬の事故死という表面事象だけを見て葬り去ろうするのは、あまりにも独善的に過ぎる。

 

そのことはさておき、僕は今年のパリオに因縁めいたものを感じて不思議な気分でいる。

競馬はコントラーダと呼ばれるシエナ市内の17の町内会の対抗試合である。
僕はそのうちの「キオッチョラ(かたつむり)」町内会を話の中心に据えてドキュメンタリーを作った。

 

競馬は毎年7月と8月の2回行われる。キオッチョラはその年はとても運が悪く、7月のパリオでは出走馬が事故で死亡し、8月のパリオでも本番前のトライアル走で馬が傷を負った。

 

町内会の幹部は事実を重く受け取って、馬を休ませるという苦渋の決定をした。それはキオッチョラ町内会が8月の競馬を棄権することを意味した。パリオでは代替馬の出走は許されないのである。

 

パリオを棄権するのは、極めて不名誉なこととされる。町内会は屈辱的な出来事に騒然となったが、人々は結局、出走馬の健康を重んじる地区の幹部の主張を受け入れた。

 

そして今年、キオッチョラの馬がまた死んだ。

 

僕はそのニュースをたまたまギリシャで買ったイタリア紙で読んだ。パリオの時期は僕はギリシャにいたのだ。そして、それまではギリシャのあれこれにかまけきっていて、パリオのことはすっかり忘れていた。

 

思いつきで買った新聞で事故のことを知った事実や、同じパリオでブルーコ(いも虫)町内会が大きなリードを守りきれずに敗れ去ったことも僕をおどろかせた。

 

僕が番組を作った年は、ブルーコ町内会が41年ぶりにパリオに勝って大騒ぎになった。その偶然は、結果として僕の作品に花を添える重要な出来事でもあったのだ。

キオッチョラの馬が死に、ブルーコ町内会が話題になった今年7月のパリオの状況を、僕は旅先で偶然に手にした新聞で知った。

大げさに聞こえるかもしれないが、僕はどうもそこに因縁深いものを感じてしょうがない。

馬好きな人が験(げん)を担ぎやすいのは良く知られている。もしかすると僕は、馬をこよなく愛するシエナの人々に感化されて、少し迷信深くなっているのかもしれない・・
 

(つづく)

  

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