【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

天才メッシの8度目の栄冠を寿ぐ 


 il piedi dio 800

先月30日、36歳のリオネル・メッシが8回目のバロンドールを受賞した。言葉を替えれば、年間世界最高プレーヤーとして8度目の認定を受けたということである。

メッシのライバルのクリスティアーノ・ロナウドは5回、彼ら以前の偉大なプレーヤーではヨハン・クライフ、ミシェル・プラティニ、ファン・バステンがそれぞれ3回づつ受賞している

またバッジョやジダンといった傑出したプレーヤーは、それぞれ1度だけ受賞している。

それらの事実を見ると、メッシの8回という数字がいかに偉大なものであるかが分かる。

もっともたとえばメッシと同等か上を行くとさえ評価されるマラドーナは、彼の全盛期にはバロンドールの受賞対象が欧州出身選手だけに限られていたため一度の受賞もなかった。

ことしのメッシの受賞は、昨年12月に開催されたワールドカップでの八面六臂の活躍が評価されたものだ。

36歳のメッシは現在アメリカでプレーしている。今後はそこでいくら活躍をしてもおそらくバロンドールの受賞対象にはならない。米国リーグのレベルが低いからだ。

だがメッシが欧州のクラブにカムバックするかアルゼンチン代表チームで活躍すれば、再びのバロンドール受賞もあり得る。メッシはそれだけ図抜けた選手である。

僕は彼が欧州クラブに復帰し、40歳までにさらに2度、つまり計10回のバロンドール受賞という記録を打ち立ててほしいと密かに願っている。

要するに大天才選手のプレーをもっともっと見てみたいのである。



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賊に立ち向かう

costa遠景手前に杭800

亡くなった義母の手伝いをしてくれたエクアドル人のガブリエラ・Cは、バスの運転手のマルコ・Rと結婚してミラノで子供3人を育てている。

そのガブリエラのエクアドルの山中の実家では、夜の帳が下りるころ父親が空に向けてショットガンを一発撃つ習慣があった。

人里はなれた場所に多い押し込み強盗や殺人鬼や山賊などの闇の勢力に「銃で武装しているぞ。ここに来るな」と知らせるのである。

少し滑稽だが切実でもあるその話をなぞって、僕も先日、闇に包まれた山荘の窓から空に向けて猟銃を一発撃った。

ことしは山荘に賊が2度も侵入した。いずれのケースでもドアに上下2つ付いている錠前のシリンダーを抜き取って無力化し、易々と押し入った

山荘には金目の物はなにもない。ただ家屋が元修道院だった建物であるため、山小屋にしてはムダに規模が大きい。

山荘を見る者の中には、立派に見える建物の内に何か価値のある財物がある、と誤解する輩がいるのだろう。昔からしばしば賊に狙われてきた

また山荘の一部は教会になっていて中に大理石製の祭壇がある。凶漢はそのことを知っていて、一部を剥がして持ち去るなどの計画を立てて侵入した可能性もある。

小さな教会のさらに小さな祭壇だが、それは建物と基礎と土台が堅牢に固められた構造の一部になっていて、建物全体を破壊でもしない限り切り離せない。

いわばローマ帝国得意の建築技術の粋が、その後の強大な教会の力を背景に研ぎ澄まされ改良されて応用されているのだ。

いっぱしの盗賊ならそれぐらいのことは承知だから、聖卓の細部を壊して持ち去ろうと企む。だがそれも徒労だ。切り離して売れるアイテムはとっくの昔に盗まれていて、もう何も残っていないのである。

2度目の侵入は破壊された錠前を新しく付け替えた数日後に起きた。錠前の壊し方がほぼ同じ手口だったので、僕は同一人物あるいはグループの仕業ではないかと考えた。

だが駆けつけた軍警察官は、山荘のような建物に侵入する場合は錠前のシリンダーを壊すやり方がほぼ唯一の方法だから、それだけで同一犯とは断定できない。

また同一犯なら最初の犯行で家内には目ぼしい物は置かれていないと分かったはず。再び押し入る理由が不明だ。むしろ別の犯人の可能性のほうが高い、と見立てた。

鬱蒼と茂る木々に囲まれた山荘は、夜になるとどこよりも深いと見える漆黒の闇に包まれる。

賊が侵犯して以降は、闇は大きな不安も伴ってやって来るようになった。そこで僕は宿泊する場合は猟銃を準備することにしたのだ。

空に向かって銃撃する恐怖心が少し薄まるような気がした。むろんそれは気休めに過ぎない。だが銃はそこにあったほうが、無いよりは増し、と感じたこともまた確かだ。

僕は最近、拳銃の扱い方も習得した。いうまでもなくそれの所持許可も取得している。だが拳銃そのものはまだ購入していない。来年夏には拳銃も準備して宿泊するつもりでいる。

そうはいうものの、自衛のためとはいえ、武器を秘匿しての山小屋滞在は少しも楽しくない、と先日の経験で分かっている。

業腹だが、犯人が捕まったり警備状況が改善したりしない場合は、今後いっさい山荘には宿泊しない、と決める可能性も高い。

イタリアは普通に危険な欧州の一国なのである。






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信者Mのケガの光明

夫婦子供川の字650
©ザ・プランクス



目ざめ

 「やあ、こんにちは。ようやくすっかり目が覚めましたね」

 ベッドで目覚めたMのすぐ目の前にある男の顔は、巨顔症かと思うくらい異常に大きくて丸く、両目はカミソリで切りこんだ傷あとみたいに細くて瞳がまったく見えなかった。男がぶあつい唇を横に引きつらせて笑っているために、顔中の皮膚がずりあがって、ただでも細い目をおおい隠してしまっているのだ。そのうえ男の獅子鼻の下には汚れのようなうすい口ヒゲがこびりついていて、下あごにはカリカチュアの中国人そっくりのみじめったらしい長いヒゲまでぶらさがっていた。

 Mはぎゃ! と悲鳴をあげた。大きな双眸と高い鼻と濃い髭を持つ美顔の白人ばかりを見つづけてきたMの目には、息がかかるほど近くにぬっとつき出されている男の顔はゾンビのように映ったのだ。

 男はMの反応に気をわるくすることもなく、ニコニコと笑いつづけている。気を落ちつけて見ると、男の顔はM自身のそれと同類の日本中のどこにでもころがっている顔だった。白人の感覚でおどろいたMがどうかしているのだ。Mは一転して、あ、やさしい顔だなと思い、そうすると俺は日本にいるのだな、と安心した。

 「ドメニコ・ナガオカです。はじめまして」

男はMの鼻をなめるほど近くに寄せていた顔を上げて一歩うしろに下がり、きまじめな表情でぺこりと頭をさげた。Mの視界がひらけて、男の全身が見えた。どうひいき目に見ても医師の診察着にしか見えない白衣を着ている。Mはそのとき、男の頭のてっぺんがつるつるに禿げあがっていることにも気づいた。

 「たいへんでしたね。3日3晩ずっと眠りっぱなしでしたよ。いやあ、一時はどうなることかと思った。よかった、よかった。もう大丈夫ですからね」

自分がなぜ日本にいるのか、いったい何が起こったのか、どうしてそこに50歳がらみの白衣を着た男がいるのか、何もかもが突然でわけが分からずにいるMにはおかまいなしに、男は精いっぱい愛想をふりまいた。

 「----ここはどこですか。あなたはいったい誰ですか」

ぽかんとして男の顔を見あげていたMはようやく聞いた。

「まあーた。またまたまたまたまた! なかなかお上手ですね。バスルームで倒れて頭を打って、気絶して、時間がたって気がついたら、そこは天国か病院に決まっているじゃないですか」

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「でも、大丈夫。安心しなさい。ここは天国ではありません。サンタマリア元修道院病院です。わたしはごらんの通り、医者です」

「病院……」

「そうです。バチカン市国経営、法王さま直属のサンタマリア元修道院病院。フィレンツエの郊外の丘の上にあります。ごらんなさい」

 医師に言われて窓外に目をやると、なるほど眼下はるかには花の聖母寺の大キューポラを景色の中心に据えた、フィレンツエの美しい街なみが薄い霞のむこうに広がっているのが見える。

 そうか、ここはまだやっぱりイタリアだったのだ------。Mは窓外の景色のようにぼんやりと霞のかかっている頭の中で思った。Mはもう10年近くもフィレンツエに住んでいる貧乏画家だ。しかも彼は気をうしなう寸前まで、フィレンツエにほど近い地中海沿岸の町でイタリア人の妻と子供と共にバカンスを過ごしていたのだ。イタリアにいるのが当たり前なのである。

 「日本じゃないのか……」

Mはなぜかすこしがっかりした。

「日本? まさか。イタリアですよ、ここは。神の国、精神の国、法王さまのおわしますイタリアです。泥のように精神のない国、日本なんかであるはずがないでしょう。気をしっかり持ってください」

「先生は日本人?」

「そうですよ。やっぱりイタリア人に見えます? いやあー、よく言われるんです。しかし正真正銘百パーセント、本家本元純粋ピュアな日本人ですよ」

「でも、日本人じゃないみたい。名前が―――」

「ドメニコのこと? ドメニコは洗礼名です。元の名は洋一。洋一長岡。今は本名もドメニコ・ナガオカでいいです」

医師はMの言葉を途中でさえぎってほがらかに言い、それからえんえんと自分と病院の関係を説明し始めた。

 それを要約すると、彼は敬けんなカトリック教徒で、20年ほど前にバチカンのサンピエトロ寺院に参詣にやって来て、そのままイタリアに住みついたのだという。はじめはローマに住んでいたのだが、10年ほど前からはフイレンツエ郊外の丘の上にあるこのサンタマリア元修道院病院につとめている。しかし仕事は無報酬無私無欲のいわばボランテイアである。彼はバチカンからの指令によってこの病院に派遣されて来ている医師なのだ。

 サンタマリア元修道院病院は、その名前からも分かる通りカトリック系の由緒ある病院である。ここには主に宗教問題で悩んでいるカトリック教徒が多くおとづれる。その大半は、異教圏に生まれながら何の因果かカトリックを信奉するようになってしまい、カトリックの理想と生まれた土地の思想風習文化情愛生活習慣義理人情など、ありとあらゆる因縁としがらみのはざ間で悩み疲れた熱心な信者である。イタリア人も多少いるが、アラブ人、ユダヤ人、アフリカ人、また日本人の信者もかなりの数がおとづれる。

 ドメニコ長岡医師は、本人が若いころに宗教問題で大いに悩んだ経験があるために、そうした人々にきわめて同情的で、すこしでも彼らの力になってやるのが同じ信者としての自分の義務だと考え、バチカンからの指令をこころよく受け入れたのだという。

 「要するにここは気ちがい病院ですか」

医師の話がひと通り終わるとMは聞いた。医師はぎょっとして細い目を思いきり見ひらいた。見ひらいても彼の目は鏡もちのひび割れくらいにしか見えなかった。

「き、気ちがい……なんてことを。それ放送禁止用語ですよ。そんなことはありません。精神の疲れと、き、気ちがいとはまったく話がことなります」

「ぼくは気ちがいじゃないですよ」

「当たり前です。自分で自分のことを気ちがい―――じゃない、え~と、クレージーとかクレージーじゃないとか主張するクレージーなクレージーがいますか。ここには誰ひとりとして気の狂った人間はいません。病院という名前がついているから誤解したのでしょうが、ここは疲れた信者の心を安めるいわば保養所。静かな環境の中でゆっくりと体をやすめて精神をリラックスさせるための場所です。変なことを考えてはいけません」

医師はきっぱりと言い、ふいにはじけるスマイルでMの目の前に再びぐあんと顔をつき出した。

「あなたの洗礼名はフランチェスコですね、Mさん」

仲間意識をあらわにして、医師は猫なで声でささやいた。

「そうだよ」

Mはぶすっとして返した。洗礼名がフランチェスコならどうだというのだ。

 Mは3年前、イタリア人の妻と結婚したのを機会にカトリックの洗礼を受けた。骨の髄までカトリックの信奉者である妻にしつこくすすめられて、彼はその儀式を受けたのだ。信仰心などすこしもなかった。妻にホれた弱みと、白人の仲間入りをしたいという虚栄心があったのだ。今では彼はそのことを後悔している。フランチエスコなどという名前で呼ばれると、目がくらむほど恥ずかしい。柄(がら)ではないと思う。医師が嬉々として自分のことを「ドメニコ」などと呼ぶのを聞くと、Mはよけいにそんな気分になる。鳥肌が立つ。図々しいと思う。Mの顔も医師の顔も、仏教か神道かアニミズムがふさわしい。信仰は顔でするものなのだ。

 「いい名前ですね。本当にいい名前です。フランチェスコというのは、あなたに良く似合っていると思いますよ」

まるでMの腹の中を見すかしたように医師はMを持ち上げておいて、

「さ、それでは何が起こったか話してみて下さい。気絶する前のでき事を一つ一つゆっくりと思い出して、わたしに話してみるのです」

と彼をうながした。

「それと洗礼名と何か関係があるのですか」

「あるかも知れないし、ないかも知れない。そのことをはっきりさせるのが病気をなおす一番の近道です」

「病気?」

「あ、いや。病気ではありません。つまり、あなたのケガのことです。ケガの原因というか、理由というか……。そういうことを知っておかなければなおるものもなおらない。ま、そういうことです」

 ケガの原因………とMはつぶやいた。そうだ、それがあって俺はここにいるのだ、と彼はふいに気づいた。すると頭の後ろがズキズキと痛んだ。Mは無意識にそこに右手をのばした。ごわごわした感触の異物が貼りついている。彼はそのときはじめて、自分の頭に包帯がぐるぐると巻きつけられていることを悟った。

「あ、気をつけて。傷口はまだふさがっていないんです」

医師があわてて両手を上げてMを制した。しかしそのときのMは、医師の言葉にはまったく耳を貸していなかった。

彼はその時けんめいに意識を集中してなにかを思い出そうとしていた。後頭部が激しく痛んだ。ケガのせいか意識がもうろうとしてなかなか考えがまとまらない。それでも彼は考えた。ケガの原因  怪我のゲンイン  怪我の原因  ケガのげんインの怪我のゲンインのケガ-……そうだ! 俺は子供を殺した……それでケガをして……気をうしなって……子供殺しが俺のケガの原因――。長い時間をかけてMはようやく結論に行きついた。

 深い悲しみがどっとMをおそった。ぽろぽろぽろぽろと彼の目から涙があふれ出て、頬をつたって落ちた。やがて彼はおいおいと声をあげて泣いた。涙で枕がぬれて、さらにシーツがぬれても彼は泣きやまなかった。

「さ。さ。ささささささささ。Mさん落ちついて。泣いてばかりいてはだめです。気をしっかりもってなにもかも話してしまうことです。そうすれば救われます。救うのが神の仕事です。さ、さ、さ。さささささささささささ」

 医師にやさしくうながされて、Mはしゃっくりをしいしい話しはじめた。


未知との遭遇

「好きで生まれたわけじゃない」

Mの耳にははっきりとそう聞こえた。はじめはもちろんそら耳だと思った。草木もねむる丑三つ時。午前3時に近い海の借家のキッチンにいるのは、Mと生後70日の彼の息子だけだ。

生まれたての赤ん坊が口をきくはずはない。とすればユーレイか。しかし窓の外には柳の木も見えなければ生あたたかい風も吹かない。それでなくてもスマホ、パソコン、スーパーコンピュターのこの時代にユーレイは冗談がきつい。加えてここは、見るもの聞くもののすべてが陽気じみているのが取り柄の国イタリアだ。そのイタリアのユーレイにしては、低いが良く通る声の質にねばつくような実在感があって、あまりにも愛きょうがなさ過ぎた。

 Mは疲れていた。ビーチでの長い日光浴と慣れない水泳のおかげで、重石を腹にのみこんだような倦怠感を全身におぼえていた。それでも彼は、出産に体力を使いはたして病人のごとく弱っている妻のドリエラに代わって、赤ん坊の世話をしなければならない。

 赤子は手がかかる。おしめの交換や風呂の世話や食事のそれはいうまでもなく、寝ても起きても黙っていても、親の手助けがなければ生きていけないのが赤ん坊だ。赤子がひとりでできるのは吐いて吸う息だけなのだ。

 Mが真夜中の3時に、ドロボー猫よろしくこうしてキッチンでうろうろしているのも、子供に食事をさせてやるためだ。妻のドリエラは、体が弱りきっているために乳が一滴も出ない。なので子供はずっとミルクで育っている。

 朝の7時に始まって1日に6回、ほぼ4時間ごとに子供はミルクを要求する。真夜中の3時が1日の終わりの、あるいは始まりの食事というわけである。日課になっているから機械的に目は覚めるが、そんな時間に子供の面倒を見るのはMはいつもうんざりだった。

 Mは車輪つきの子供の箱ベッドを寝室からキッチンに移動して、寝ぼけまなこで子供のミルクを作っていた。授乳時間にベッドから抱きあげると、子供は目覚まし時計のようにけたたましく泣き出す。だから彼は、ぐっすりと寝こんでいる妻のねむりをさまたげないように、子供を毎晩ベッドごとキッチンにはこびこむのだ。

 ミルクをあたためながらMは腹の中で子供にさんざん悪態をついていた。

(こいつのおかげでせっかくのバカンスが台なしだ。俺はまだまだ子供なんかほしくなかったのだ。ちくしょう、あの晩俺が酔っぱらってさえいなければ、こいつがこの世にひり出されることもなかったのに……。一生の不覚だ。事故で生まれてきたくせに、こいつは1日に人の倍の6回も食事をしたいときた。おまけに自分では少しも体を動かす努力をしやがらない。何かというとビービー泣くだけが能だ。腹が減ったといっては泣き、ねむいといっては泣き、フンをしては泣き、目が覚めたといっては泣き、うれしいときでさえ悲鳴をあげている。ろくでもないチビめ)

そのとき、まるでMの腹の中のつぶやきにこたえるように、冒頭の文句が彼の耳に飛びこんだ。

 Mはかすかな物音も聴きのがすまいとして、ありたけの神経を両耳に集中した。哺乳瓶をあたためているガスコンロの栓をそっとひねる。ぶつぶつと不満たらしい音を立てていた熱湯が静まった。そこにふたたび声がかかった。

「いつまでもブーたれていないで、早く食わせろ」

 まちがいない。声はMの背後にある赤ん坊のベッドからもれて来ていた。

Mの腰から下をおそう虚脱感。まるで他人の下半身を引きずっているみたいだ。後頭部にピストルを突きつけられた逃亡者よろしく、Mはそろりと振りむいて箱ベッドの中をのぞき見た。

 ほっとした。なにも異常はなかった。子供はゴムのような赤い唇に、左手の中指と薬指を思いきり押しこんで、ちゅうちゅうと音を立てて吸っている。おしゃぶりは歯茎に悪いと医者に言われて、Mと妻は子供にそれをあてがわないことにした。手もちぶさたなのか、赤ん坊は生まれてまもなく2本の指を口につっこむ癖をつけた。

 Mはベッドの手すりから手をはなした。哺乳瓶を取ろうとして流し台に振りむきかけたとき、無心に中空を見ていた子供の視線が動いた。同時に瞳の色が鳶色から深みのあるグレーに変わった。

 赤ん坊の瞳の色は白人の妻の血を強く引いていて、日ごとに、極端な場合には時間ごとにくるくると変わって見える。色素の関係で光の当たる量や角度に敏感に反応するのだ。まるでビー玉のようだ。Mはふだんなら赤ん坊の瞳の色の変化をながめて楽しむところだ。子供のころに色とりどりのビー玉を光にかざして見た遊びを思い出して、ノスタルジアをかき立てられるのだ。

 その時はようすが違った。赤ん坊の瞳はなにかの意志を秘めてくるりと変化したように見えた。

 Mの予感はあたった。

「ぼくのおかげでけっこうなバカンスが過ごせるんじゃないか。じゃま者あつかいにするなよ。ミルク、あたたまったんだろう? はやく飲ませてくれ」

子供は指をくわえこんだ唇をくねらせて声を発した。Mの総髪が逆立ってピンポン玉みたいな鳥肌が全身に飛び出す。

「ドリエラ!」

Mはけたたましく妻の名を呼んだ。呼びながら顔を妻のいる寝室の方に向けた。しかし視線が子供の顔に貼りついてどうしても動かせない。だからよく見えた。赤ん坊はMの叫び声にびくんと大きく反応した。反応はしたが、すぐには泣き出さなかった。一呼吸置いて、決心をして、それからわざとらしく顔をゆがめるやいなや、こわれたサイレンのようなすさまじい泣き声を上げたのだ。

(こいつは一筋縄ではいかない怪物だ。演技をしている!)

Mは穴に吸いこまれるような恐怖感におそわれながら頭の片すみで思った。

 「どうしたの!」

声よりも速いかと見える勢いで妻の体がキッチンの中に飛びこんできた。立ちすくんでいるMを一べつする間ももどかしく、彼女は箱ベッドに突進して中をのぞきこむ。たちまち、ずる、とくずおれて、それの手すりにかけている両腕に顔をうずめた。

 「おどかさないで」妻はそのままの姿勢で顔だけをMに向けた。「赤ちゃんがやけどでもしたのかと思った――」

うらめしげに、しかし安堵感を満面にたたえて彼女は言った。

 妻はボロ布のように弱った体にむち打って、夢中で寝室から飛び出してきたにちがいなかった。彼女は出産のときに帝王切開の手術を受けて大量に血をうしなった。それは2個の大きな腫瘍を摘出する作業も兼ねていた。そのために5時間にもおよぶ大手術になってしまった。もともと貧血の体質だった妻は、その後さらに重度の貧血症におちいって、出産の後の体力の回復が遅々として進んでいない。今は育児どころか、自分の身の世話もおぼつかない、なかば寝たきりの療養中の身なのだ。

 箱ベッドに寄りかかったまま妻はしばらく息をととのえた。やがて残る力を振りしぼってゆっくりと身を起こしにかかる。Mは妻に手を貸すこともわすれて、流し台に背中を押しつけて棒のようにつっ立っていた。妻は立ちあがって箱ベッドの中で泣きわめいている赤ん坊を抱き上げた。とたんに赤ん坊はぴたりと静かになった。まるでスイッチを切るような不自然な沈黙。Mはそこでも子供の強い意志を感じた。

 「いったいぜんたいどうしたの?」

ドリエラは子供を胸に抱きしめてそれの肩ごにMを見た。視線にトゲがある。

「……口をきいた」

「え?」

「子供が口をきいた。化け物だ」

ドリエラは真四角な卵でも見るようにMの顔を見た。やがて、ふっと表情がゆるむ。

「あきれた。夢を見たのね」

頭を小きざみに左右にふりながら、妻は芯からあきれた、とMに伝えていた。

 無力感がどっとMの全身をとらえた。妻の反応が当たり前だ。彼女が自分の目と耳でたしかめない限り、Mの話は永久に信じないだろう。動てんしてはいるが、Mにはそれくらいの判断力は残っていた。そして………子供は母親の目の前ではしゃべることがない……。Mが妻の名を呼んだときの子供の反応の仕方や、たったいま母親に抱き上げられてぴたりと泣きやんだときの意志的な態度から推して、Mはそんな予感がした。その予感も後になってみるとやっぱり当たっていた。


誤解

 「あら、まだミルクを飲ませていないの。しょうがないわね」

妻は湯わかしの中にある哺乳瓶に気づいて言った。言いおわるときには既にそれを湯わかしから取り出している。子供を抱きかかえている左腕の手首を器用に前に差し出して、ドリエラは哺乳瓶のミルクの一滴をその上にたらして温度をたしかめた。

「ちょっとぬるいけど、大丈夫」

ドリエラはひとりごとのように言って、ミルクをなめて手首を清め、子供をあお向けに抱き変えて椅子に腰を下ろす。

 子供は泣きやむと同時にふたたび2本の指をしゃぶっていた。妻が赤ん坊の口からそれをそっと引き出してやって、代わりに哺乳瓶の乳首をあてがう。赤ん坊は、飢えたオオカミのような、というたとえも真っ青になるくらいのすごい勢いでバクリとそれに食らいついた。食らいつくと同時に両の拳を顎の下でぎゅとにぎりしめて、こん身の力をこめて乳首を吸いはじめた。

 子供は息をつく間もおしんでひたすら食べつづける。妻はその様子を至福感にくもった目で見おろして微少している。やがて、

「ゆっくり飲みましょうね。はい、ちょっと休んで」

と言いながら、子供の口から乳首を抜いて息をつかせてやる。そうしないと赤ん坊はミルクを飲みながら窒息死しかねない。

 (慣れた手つきだ)

Mは妻の一連の動きを観察しながら思った。

(どうも何かがおかしい。しっくりこないものがある。だがおかしいと言えば今夜はすべてがおかしいのだ。何もかもおかしいから、ついでに目の前に展開されている光景もおかしく見えるのだろう……)

 子供はと見ると、母親が哺乳瓶の乳首を口から抜き出したことにも気づかず、めくれた両唇をつき出して惰性でなおもちゅうちゅうとやっている。そこに妻が哺乳瓶の乳首をあてがった。赤ん坊はふたたびそれにかぶりついて必死に吸う。頃合いを見はからってドリエラが瓶を動かして息をつかせてやる。子供は哺乳瓶の乳首が口から離れても委細かまわずに、唇をつき出してちゅうちゅうとやっている。

 Mの関心は、いつの間にか妻の動静から子供のそれに移ってしまっていた。

(――こいつは何かに似ている……。そうだ、酸素不足にあえぐ生簀の鯉。こんなみじめったらしい生き物が言葉をしゃべるはずがない。もしかすると、しゃべるように見えたのは、口につっこんでいる指のすき間からもれる空気の加減だったのかも知れない………)

 父親など完全に無視してひたすら食事に固執している赤ん坊を見つめて、Mは自分に言い聞かせようとする。しかしどうしてもそれは気やすめのように思えて仕方がない。子供がしゃべるのを見た瞬間からMの中に居すわっている暗い洞のような不安が、彼の気分を決定的に支配していた。

 「赤ちゃんはあなたに何て話しかけたの。パパ? それともオトーサン?」

妻がMの方に顔を上げて、下手くそな日本語をまじえて聞いた。笑っている。Mが子供のしゃべる夢を見て寝ぼけたと信じているのだ。

「好きで生まれたんじゃない。ブーたれずに早くミルクを飲ませろ、と生意気な口をきいた」

Mはブゼンとして言った。妻の目がぱっとかがやいた。

「うわあ、すごい。そんなことパパに言ったの。ジュリオ・タカシ、えらいわねえ!」

哺乳瓶を右手で支えて、子供の口にあてがいながらドリエラは赤子の顔をのぞきこむ。Mはいらいらしたが、うまい反撃の文句は思い浮かばなかった。妻がかさにかかってからかってくる。

「何語で話したの。英語、日本語、それともイタリア語?」

「日本語だ」

Mは言って、しまった、と思った。しかし、もう遅い。妻はバネ仕かけの笑い仮面のようにけたたましく笑った。これで彼女は、Mが夢を見たという思いこみをますます強固にしてしまう。

 子供は生まれてこの方イタリア語しか耳にしていなかった。Mたち夫婦の間の会話は英語だが、子供に話しかける彼らの言葉も、もちろんまわりの人々のそれも、すべてイタリア語なのである。

 妻を含むイタリア人はともかく、なぜMが子供にイタリア語で話しかけていたのかというと、まず第一にMのイタリア語のレベルが幼児並のものだったからだ。第2はイタリア語そのものがにぎやかで愛きょうたっぷりの言語だから、子供に話しかける言葉としてはいちばん都合がいいとMは考えたのだ。したがって今の状況では、子供がまっ先に話す言葉はイタリア語以外にはありえない。

「ジュリオ・タカシは将来は日本語も話せるようになるべきだ、とあなたが思いこんでいるから夢に出たのよ」

ドリエラは勝ち誇って断定した。

 妻はMを誤解している。Mは子供は将来、日本語を話すべきだ、と強制的に思ったことはない。子供は将来は日本語も必要になるだろう、と柔軟に考えているだけだ。だから子供が言葉をえる時期になったら、日本語で話しかけて少しはそれを教えるつもりではいた。しかし教えはするが、日本語を話すのはいやだ、と子供が自主的に判断すればそれはそれでいいと思っている。いやなら日本語など覚えなくてもいいのだ。

 イタリアで育つ限り子供にとってはイタリア語が母国語であり、日本語は第2第3の外国語にすぎない。言葉は国籍だ。イタリア人がイタリア語を話すのでもなければ、日本人が日本語を話すのでもない。イタリア語を話す人間がイタリア人であり、日本語を話す人間が日本人なのだ。なぜなら言葉は人の感情も理性も表情も仕草も思想までも規定する。

 言葉が規定できないのは人の皮膚の色だけだ。したがって子供はイタリアで育ってイタリア語を第1言語にする限り、どう逆立ちしてもイタリア人だ。イタリア人ならイタリア語をうまく話すことが先決問題だから、第2第3言語の日本語などどうでもいい。

 とはいうものの、言葉が規定できない唯一のもの、つまり皮膚の色が子供は両親を白人に持つふつうのイタリア人とは違う。そしてふつうのイタリア人の中には、たいていの日本人と同じように阿呆が多い。だから、そこのところを言いがかりにして子供をいじめる者がこの先にはかならず出てくる。子供がそのとき混乱して、自分のユニークさが他人よりも劣っている、と誤解する日にそなえて日本語を習っておくのも悪くないとMは考えるのだ。

 なにも日本人のMの血が子供の中に半分流れているからそのことにりを持て、と途方もない言いがかりをつけようというのではない。ふつうのイタリア人とも、また日本人ともすこし皮膚の色が違う子供にとっては、日本とイタリアのうちのどちらが住み良いかというと、イタリアは天国、日本は地獄、くらいの差があることをしっかりと認識するためだ。イタリアには人種差別がある。片や日本は、人種差別の存在にさえ気づかない国民が多い、絶望的な人種差別国だ。

 日本語を知っておけば、子供はかならず日本や日本人と接する機会が多くなるから、そのことを人生の早い時期に理解することができる。したがって日本という国に対する間違った好意的な幻想を抱かなくてもむというわけだ。イタリアで多少いじめられても絶対に日本に逃げこんではならない。イタリアで踏ん張っていればかならずいいことがある。なぜかというとこの国は、日本とはまったく逆に、異なものユニークなものを至上と考える、少し頭のネジのゆるんだ人々の住む国だからである。

 事故で生まれてきた子供だとはいえ、Mは赤ん坊の将来に対して一応その程度の見しは立ててやっていたのだ。それなのに子供はMの親心を踏みにじるような暴言をはく。憎たらしいことこの上もない。しかし実を言えば、M自身も彼の父親に暴言を吐きつづけて、それを肥やしにここまで成長した男だ。だから暴言の件は腹は立つが許してやってもいい。

 Mが気に食わないのは、赤ん坊がどうやら人の心を読み取る能力を持っているらしい点だ。

  「好きで生まれたわけじゃない」という文句は、「好きで生んだわけじゃない」というMの内心を察した子供が鋭く放ったジャブパンチのようだし、何も言った覚えはないのに、やはりMの腹の中を見すかして「いつまでもブーたれるな」とストレートパンチをくり出してきた。その上、赤ん坊が言ったように、子供のおかげでMがけっこうなバカンスを過ごしているのも事実なのだ。自前でバカンスを買う金などない貧乏画家の彼は、子供の誕生祝いという名目で妻の家族がプレゼントしてくれた長い海の休暇を、負い目を感じながら過ごしている最中なのである。


食わせ者

(怪物が生まれたのはいったい何が原因だ)

Mは暗闇の中であお向けにベッドに横たわって考えつづけていた。

 赤ん坊はミルクを飲み終えるとすぐに妻の腕の中で寝入った。腹がくちてくると安心してコクリコクリと船をこ、あわてて目覚めては哺乳瓶の乳首にぱくりとむしゃぶりつく、というしまりのない動きを何度かくり返して、ついに本気でねむりこけたのだ。

 Mは妻の腕から子供を受け取って箱ベッドに放りこみ、寝室まではこんでやった。それからドリエラがベッドに横たわるのをたしかめて、ふたたびキッチンにもどった。気を落ち着かせるために彼はそこでワインをしこたま飲んだ。その後で寝室に入って、妻の横のベッドにもぐりこんだのだが、とてもねむるどころの騒ぎではない。

 (アーリア人種のドリエラとモンゴロイドの俺の組み合わせが、子供に突然変異をもたらしたのだろうか。まさか。そんな組み合わせはいくらでもある。いちいち怪物が生まれていたら、いまは世界中がパニックにおちいっている……。コロナの影響―ありそうなことだ。イタリアへの影響は思ったより少なかったというが、役人の発表したことだから絶対に信用はできない。異常気象や大気汚染の付けがまわり出したのかも知れない。クスリ漬けの肉を食いすぎた可能性もある。

 あるいは――地球外生物の落とし子、という線も考えられる。地球の鳥でさえ誰かの巣に卵を産みつけて、他人に子供を育てさせるくらいだ。宇宙の果てから飛んできてドリエラの腹にちゃっかり種を植えつけて、俺たち夫婦に子供を育てさせるくらいの高等な知恵を持つ生物がいても………待て。これが一番あやしいぞ。どこかで一度聞いたような話だ。俺はあの晩したたかに酔っぱらっていて、何が起こったか良くえていない。俺のサッカーのひいきチームのミランが優勝したのを祝って、皆んなで明け方まで飲みまくった日だったのだ。

 ドリエラの言い分によると、完全に正体をうしなっていた俺が、めでたい日だからとかぶせるべき物をかぶせるのをいやがって、抜き身で突っ走った結果、彼女の腹がふくれてしまったのだという。俺は妻の主張を全面的に信じて今日まで来た。が、真相は闇の中だ。なにしろ俺はあの夜ドリエラを実際に抱いたのかどうかさえ覚えてはいないのだ。

 何かがおかしい。それにしても、これと同じような話をたしかに俺はどこかで聞いている。いったいどこ―)

 雷鳴に頭のてっぺんをど突かれたと思った。おどろいてベッドからはね起きた。それが子供の泣き叫ぶ声だと気づくまでにかなりの時間がかかった。Mはいつの間にかねむってしまっていたのだ。

 反射的にサイドテーブルの上の置き時計を見た。七時半を回っている。定刻の七時を過ぎてもMが起きないので、赤ん坊はミルクを要求してわめき立てることにしたらしい。Mはねむりこむ前に同じ時計が6時を示すのをたしかめていた。そうすると一時間かそこらねむったところでたたき起こされた計算になる。

 (てめえさえねむれば、人のことはどうでもいいと思っていやがる。チビエゴイストめ)

脳みそがそこら中をころげ回っているように頭が痛い。もうろうとした意識をふるい起こして、腹の中で子供をののしってからMはベッドを離れた。

 子供の箱ベッドの中をのぞき見る。赤子は歯茎だけの歯の間に赤い舌をつき出して、思いきりわめいている。寝不足の重い頭にガンガンひびく猫じみたかん高い悲鳴。子供の歯茎の奥には、穴のように暗い口腔がぽかりと開いてMを歓待していた。

 「わかった。わかった。いまミルクを好きなだけ流しこんでやるから、そのでかい口を閉じろ」

Mが言いつつ箱ベッドを押して部屋を出ようとしたとき、妻がうめき声をもらした。

「もう7時? 手伝おうかM?」

寝返りを打ってこちらに顔をむけて、つらそうな声で妻は言った。

「いいよ、ドリエラ。ぼくがすこし寝すごしたから、子供は腹を空かして泣きわめいているんだ。起こして悪かった。君はゆっくり寝ていてくれ」

Mは言い残して寝室を出た。

 妻は特に朝が弱い。以前の半分にも回復しない体力に加えて、重度の貧血症だから、朝は長い時間をかけてベッドから立ち上がれるだけのエネルギーを体内に温存しなければならないのだ。Mは7時の授乳のときも妻に気をつかって、子供が泣き出す前に箱ベッドをキッチンに移動して食事の世話をしてやる。今朝はそれがうまく行かなかったために、彼女は赤子の悲鳴におどろいて目を覚ましてしまったのだ。

 「お前の出産のためにドリエラはもうすこしで死ぬところだったんだぞ。ちょっとは気をつかって静かにしたらどうだ。この恩知らずの胃ぶくろヤロー」

キッチンに入って、粉ミルクをスプーンで哺乳瓶に入れながらMは言った。子供が日本語で口をきいて以来、Mも日本語で息子に語りかけている。子供は答えなかった。両目をきつく閉じて、口の中に顔があるかと見えるほどに大口を開けて力の限りに泣き叫ぶばかりだ。

「お前が母親の目の前ではしゃべらない腹づもりでいるのは分っているぞ。だが心配するな。ドリエラはまだ寝ている。さっきのはお前の泣き声でちょっと目をさましただけだ。今ここにやって来ることはないから安心して口をききな」

子供はやはりMの言葉には反応しない。ミルクを要求してひたすらに悲鳴を上げている。

 「ふん。そうやってビービー泣いていると、すこしはかわい気があるようにも見えるからたいしたものだ。なかなかの役者だよ。だが、ごまかされないぞ。どういう魂胆かじっくりと話を聞かせてもらおう――」

「手伝うわ、M」

背後でふいに妻の声がした。おどろいて振りむくと、ガウンの胸元を両手で押さえながらドリエラがキッチンに入って来る。

「ね、寝ていなくてもいいのかい」

Mはうろたえて箱ベッドから離れた。

「すこしは体を動かした方がいいのよ。黙って横になっているといつまでも目がさめないわ。それにいつもいつもあなただけに赤ちゃんの世話をさせているのが悪くて……。疲れたでしょう」

「いや、ぼくはそんな―――」

「ミルクはできたの」

「い、いま、あたためるところだ」

Mはあわてて言って、嘘のばれた詐欺師みたいにこそこそとガスコンロの前に行く。妻に内緒で子供に悪態をついたのがまるで幼児虐待みたいに思えて、Mはつい罪悪感を覚えてしまったのだ。        

 Mは哺乳瓶を湯わかしの水の中に置いてコンロに火をつけた。妻はその間に箱ベッドから子供を抱き上げた。

 「おお、よしよし。いまミルクができますからね、ジュリオ・タカシ。はい、泣かないで。パパ、早くしてちょうだいね。ぼくはお腹がチュいた」

赤ん坊とMを交互に見やりながら話す妻の声に呼応して、子供のわめき声が尻すぼまりに小さくなった。

 (こいつめ、なんて奴だ! ドリエラがここに来ることを予知していたから、さっきはどうしても口をきこうとしなかったのだ………)

Mは赤ん坊をにらんでボーゼンと立ちつくしていた。


ビーチの異変

  キノコ雲みたいなパラソルが生い茂るビーチは、今日も海水浴客でごった返している。

 世界は自分を中心に回っているつもりのガキが、数をかぞえるさえ腹立たしい数で縦横に砂地を駈けめぐっている。

老人らが扁平な胸にこびりついた白い胸毛を見せびらかして、、細い足と巨大な尻を持つ、もはや女とは呼べない女たちを、それでも女に見立てていちゃつきながらボッチェに興じている。黒い鉄の玉を下手投げに前に放り投げるだけの、老いぼれにはもってこいの他愛のないゲームだ。

 隠すよりも見せびらかすことに熱心な若い女たちの挑発的な体が砂地にくねり、男たちの間をねり歩き、波打ちぎわを駆けまわる。海に飛びこむ。飛沫と喚声が上がる。

 ディスコミュージックががんがん鳴りひびいて、若者らがそこかしこでパーテイーをくり広げる。パンク気取りの数人の若者のグループが、一つ一つのパーテイーに飛び入りで参加してはまた離れて、愛きょうの押し売りをつづける。老夫婦がわれ関せずという顔で波打ちぎわに杖を引く。

 キャンデイー屋、パンケーキ売り、アイスクリーム屋、アクセサリー売り、ペット売り兼記念写真屋、ココナツ売り……おびただしい数の物売りが、ビーチの喧騒に拍車をかける。

 バスタオル、帽子、ビーチボール、サーフボード、浮き袋、海水パンツ、サングラス、パラソル、ビキニ、脇や股間のはみ出し毛、サッカーボール、バルーン、凧、広告……色とりどりのオブジェが中空を舞い、止まり、走り、入りみだれて動き回っている。一刻も無駄にすまい、と誰もが目をつり上げている必死のバカンス――。

 Mはミラー貼りのサングラスをかけて、寝不足つづきでチクチク痛む両眼を保護しながら、海風になぶられてうねるパラソルの下の寝椅子に横たわっている。パラソルの日陰の中心には、妻の寝椅子と乳母車がある。妻は長袖のブラウスとスカートを着て、その上にさらに薄手のバスタオルを乗せて、体を保護しながらうつらうつらしている。直射日光と強い風はドリエラの体にはまだ毒だ。

 子供の乳母車は幌付きの真っ赤なやつだ。パラソルが風にうねるたびに影が動いて、強烈な光がそれにかかって赤い化繊布の全体が燃えるようにかがやく。

 赤ん坊はその中で、例によって指をちゅうちゅうやりながら中空を見ている。なにかをじっと考えているようないないような得体の知れない眼差し。まぶしいのか、ときどき目を細める。頭を振る。少し体をずらして冬眠中の小熊みたいにもぞもぞと動く。伸びの仕方もまだ知らない赤子独特のしぐさだ。

 (まったくたいしたタマだ)Mは子供の動きを盗み見ながら内心で舌を巻く。(完璧な演技ぶりだ。どこから見ても純粋無垢な赤ん坊だぜ)

出口のまったく見えてこない迷路に踏みこんでしまったような、もどかしい気分でMは考えていた。はた目にはサングラス越しにビーチのにぎわいをながめているように見えるが、彼はずっと子供の動きを観察しているのだ。気持ちは子供を無視して、以前のようにバカンスを楽しみたいのに、彼の視線は目玉にバネでも取りつけたみたいに絶えず子供の方に引き寄せられてしまう。

 そのくせ赤ん坊が正体をあらわすのは、午前3時の授乳の時だけなのだ。それ以外の時間にはMがいくらそそのかしても、子供は口をきくようなヘマは絶対にやらかさない。

 今のようにビーチにいるときは、たくさんの人の目があるからMはそれは分からないでもない。が、たとえば夜の11時と午前7時の食事時にも、かたくなに口をつぐんでいる赤ん坊の意志の強さには、Mはほとほと感心する。その時間には妻のドリエラは十中八九寝室で横になっている。しかし赤ん坊は母親の眠りが浅く、ときどき起き出してはキッチンに顔を出すことを知っていて、片時も気を許そうとはしないのだ。

 「うっ! かわいい。ね、見て見て!」

股ぐらと胸に申しわけ程度の布きれをあてがった女が、巨大な筋肉の塊にやみくもに剛毛をちりばめてみました、といった風体の連れの男の腕を引っ張って乳母車の中をのぞきこんだ。大男は気のない顔でしぶしぶ立ち止まる。丸裸になった方がまだよっぽど刺激が少ないにちがいない女の大胆な水着とはちきれそうな肉体もうれしいが、ピラミッドでも隠し入れているみたいな男の股間の高まりがMの気を引いた。ふいに敵愾心のような、あるいは嫉妬のような、わけの分らない熱いものがMの身内に湧きおこった。

 「かわいい。食べちゃいたいくらい。あーっ、笑った、笑った。まだ歯も生えていないのよ。ねえ、見て。見てったら!」

女は乳母車の中の子供と男の顔を交互に見やって、ひとりで興奮している。男はうろたえ、困惑しながらも、女にせかされて仕方なく乳母車の中を一べつした。

「ね、かわいいでしょう」

女がすかさず言う。声の調子は明らかな断定的脅迫型同意催促形だ。

「うん……まあ…」

しどろもどろにつぶやく男。

 赤ん坊にこだわって終始重い気分でいたMは、そのことを忘れて(バ~カ)と男の顔にほくそ笑んだ。

 ピラミッドの魅力で女を征服しているかと見えた男は、実のところは女にがんじがらめに束縛されているだけのただの甲斐性なしのようだ。男は毎晩、下半身の爆発の後で「結婚したい」とか「あたしたちの子供きっとかわいいわよ」とか「体はこんなにちがっているのに、あたしたちどうして心はぴたりと一つなのかしら」などと女にいちいち因縁をつけられて、身動きがとれなくなっているにちがいない。

 男のピラミッドに覚えたMの劣等感がすーっと晴れていく。

(まだ若いのに……キンニクバカ。早く子供を作れ。子供を作って地獄を知れ。そうなったら、お前のピラミッドも俺の粗末な一物も同じ穴のムジナだ――)

脈らくのない考えがMの頭に浮かんで、なぜかそれが楽しい。

 彼はこみ上げてくる笑いをけんめいにこらえた。こらえたすき間から、ふふ、ぐふふふ、と笑いの滓がこぼれ出た。こぼれ出た笑いがさらに笑いをさそって、ついに止まらなくなった。

 「M、だいじょうぶ?」

ドリエラの声で我にかえった。すぐに顔を引きしめる。

「ん? なに?」

Mはとぼけた。

「……びっくりした。急に泣き出すんだもの」

ぽかんとしているカップルに、妻は照れ笑いを浮かべて弁解して、うまくごまかした。


絶対美形

 Mたち一家のパラソルには、カップルが去った後にも次々に見物客がやってくる。いつものことだった。見てくれの悪い東洋人のMと、北欧人的に金髪碧眼の容姿を持つ妻の組み合わせは、ただでも人の気を引く。そこに子供の乳母車が強いアクセントを加えて、彼らの姿はいよいよ人々の好奇心をそそるのだ。

 物見高い連中が乳母車の中の子供に期待しているのは、Mのひな型かそれに近い何かだ。白人の妻のひな型はそこら中にいくらでもころがっている。彼らは見飽きている。Mを鋳型にして考える赤ん坊は、彼らにとっては得体の知れない代物だ。誰もが焼けつくような興味を覚える。しかし乳母車の中をのぞきこむ連中は、みごとに期待を裏切られる。赤ん坊はMには少しも似ていない。かと言って妻の分身そのままの形もしていない。

 実は子供は、見る者がその姿を一べつしてギョッとして身を引き、ふたたび本腰を入れて今度はじっくりと観察をしないではいられない、息をのむような美しい姿態をした生き物なのだ。

 赤ん坊の頭は、帝王切開手術で難なく母親の体外に取り出された子供に特有の、ゆがみのない完璧な丸みを帯びている。そこにはほのかにウエーブのかかったうすい栗色の髪の毛が、ふさふさと茂って両耳に触れるか触れないかのあたりで流れるように安んでいる。子供ははじめから髪の毛が生えそろった姿で生まれたのだ。

 額は成長したときの聡明さが今から分かる広いなめらかな形。眉毛は先細の刷毛で軽くひと息に引いたような2本の曲線で、色は金髪のうぶ毛のようにきわめてうすい。

 その下にはMと妻というよりも、東洋人と西洋人のそれぞれの美を集約した形の、圧巻の双眸がある。二重まぶたの大きな目は、吊り目になる手前のほど良い角度で東洋的に切れ上がって、中には色のうすい神秘的な瞳が収まっている。光をたたえているようにも、また光を反射しているようにも見える白人の赤子独特のうすい色の目玉は、無垢な魂の映し絵だ。

 鼻は額と同じく、将来のノーブルなたたずまいが今から明らかな、大きすぎもしない小さすぎもしない盛り上がりを見せ、あるか無きかのすき間をあけて2枚重ねに寄りそっている唇は、小さな桜貝に熱い血をすこし注入したようにやわらかくふくらんでいる。

 容貌だけを見れば、赤ん坊はたしかに世界中の幸運をかき集めてひとりじめにしているような、なんとも愛くるしい姿形をしている。しかし、子供をはじめて見る人間が一度ギョッとして立ちすくみ、自分の身の上に一瞬思いをめぐらせるみたいな変な眼差しをして、それから呆けた柔和な顔つきになって今度はしげしげとそれをながめまわすのは、どうも圧倒的な美形のせいだけではないような気がMはする。

 そのくせ、それじゃ乳母車の中にころがっているのがMに良く似た、言うのも業腹だが、つまりぶさいくなチビだとした場合、見物人がはたしてそれを恍惚として見つめるかと言えば、それはまずあり得ないような気がするから、子供が人の気を引きつけるのはやっぱり見てくれがいいせいだろう、とMは結論づけざるを得ない。


対決

 (なにがこの子はエンジェルよ、だ。どいつもこいつも赤ん坊の正体を知らないから、勝手なことばかりぬかしやがって。他人はともかく、母親のドリエラまで“ジュリオ・タカシは私のちっちゃな天使よ宝物よ星の王子様よ”と公言してはばからないのだから、あきれてものも言えない。しかし―――考えてみれば、これは連中がバカだというよりも、赤ん坊がそれだけ人心をたぶらかす手練手管にたけている、ということの証明なのだからおそろしい。化け物は化け物らしい顔をしていてくれれば、あきらめもつくし少しはかわい気もあるが、化け物とは正反対の顔をした化け物というのは、化け物の中でも一番しまつの悪い化け物だからまったく腹の立つ化け物だ)

 Mはいつの間にかキッチンで子供の食事の準備をしながら、腹の中でぶつくさ言っていた。

 キッチンには3基の蛍光灯が派手にともって、昼間のような明るさだ。子供に食事をさせる時には、Mは以前はガスコンロの上に備えつけられた小さな白熱灯だけをともしていた。箱ベッドの中で子供が目覚めた時にまぶし過ぎないように、と気をつかったのだ。今はそんなこと知るもんか、とキッチンに入ると同時にがんがん明りをつけて意地悪をしてやる。

 子供はさっきから強い光にあてられて顔をしかめ、薄目を開けたり閉じたりして苦労していたが、ふいに左手の中指と薬指をそろえてぎゅと鼻に押しつけた。寝ぼけて口のつもりで鼻面に指を突っこんでいるのだ。

(ザマミロ)

Mは、ぐふふ、と含み笑いをして、粉ミルクをスプーンですくって哺乳瓶に入れる作業をはじめた。

 「化け物、化け物って、さっきからうるさいな。バカの一つ覚えなんだよ」

とたんにMの背後でパンツがずり落ちるくらいに不気味で楽しい子供の声がした。

 それ、来た、とMは体を固くして身構える。しかし、子供がはじめて口をきいた夜のようにあわてて振りむいたりはしなかった。今では彼はこの奇怪な生き物と正面切って対決する腹ができているのだ。

 Mは流し台の前で悠然とミルクを作りつづけながら、顔だけをゆっくりと箱ベッドに向けて、両目におもいきり力をこめてじろりと子供にすごんでやった。

 子供はうまく口の在りかをさぐり当てて、二本の指を押しこんでちゅうちゅうとやっている。薄目を開けて視線を中空に投げて、たったいま口をきいたことなんかそ知らぬ顔だ。

 子供のそらぞらしい態度がMの癇をわしづかみにしてグリグリとこねまわした。敵意があるならあるで堂々とこっちの顔をにらみつけてぶつかってこい、と思わず意見をしかけたとき子供がふたたび言った。

「言っておくけど、あんたに化け物よばわりをされる筋合いはないんだ。ぼくは人よりも早く言葉を覚えてしまっただけさ」

「それが化け物だというんだ、トッツアンボーヤ」Mはぴしゃりと言ってやる。「それとついでだから教えてやるが、人にものを言うときは、まっすぐに相手の顔を見てBGM抜きでやるものだということを覚えておけ」

子供はしゃべるときも2本の指を後生大事に口にくわえこんでいるので、舌が絶えず指にからんで、会話の途中にぴちゃぴちゃとリズミカルな雑音が入る。それでも奇妙なことにしゃべる言葉は少しも舌足らずにならないで良く分る。しかしどうしても態度が横柄に見えてMは気に食わないのだ。

 子供の赤い唇がぐにゅとゆがんだ。

「何がおかしい」

Mはきっと目をむいた。

「人のことをとやかく言う前に自分の態度をあらためてくれ」

「なんだと」

「ぼくを化け物よばわりするなということさ。歩き出すのが人より早い者もいれば、歯が人より早く生える者もいる。ということは、人よりも早く言葉をしゃべる赤ん坊がいてもおかしくないと思わないかい」

「思わないね。お前は生まれてまだ3ヶ月にもならないドチビだ」

「無知な男だな。歯がきれいに生えそろって生まれ出る赤ん坊や、生まれて1月もたたないうちに歩き出す子供のことを知らないらしい」

 Mはぎょっとした。そんな話は彼はたしかに知らない。しかし、それを言って自分で自分の無知を認めるのはシャクだからごまかした。

「ふん。そんなことは百も承知だ。だがそういうのは単なる肉体の発育度の問題だ。肉体なら犬も猫もウサギも持っている。言葉はそれとはちがう。もっと複雑な要素がからんでいるのだ。それともお前のような狂い咲きの赤ん坊がほかにもいるというのか」

 Mは子供がイエスと答えてくれるのをひそかに期待した。他にもこいつと同じ化け物がいるなら、すこしは気が楽だと思ったのだ。

「知らないな。あまり聞いたことがない。できのいい人間というのは数が少ないと相場が決まっているだろう」子供はしゃあしゃあと言った。「あんた、人の親ならぼくのような子供を持ったことをよろこぶべきだよ」

「ほう。そんなに親のよろこぶ顔が見たいのなら、ドリエラの目の前でもしゃべったらどうだ。え? なぜ母親の目の前ではしゃべらないんだ。え?えええええええ。心にやましい物があるからだろう。この極悪人」

Mは鬼の首でも取ったように言いつのった。

「おふくろが卒倒するのを見たくないからだよ」

すずしい声で子供は答えた。

 Mの頭にカッと血がのぼった。

「この ―― 寸足らずの狂い咲きのビンボーガキめ。 俺は卒倒してもいいというのか!」

「分らないかな。あんたを見こんで口をきいてみたんだ。男親なら冷静に現実を見てくれると思ったからさ」

「お前のような子供の父親になって、我ながら情けないという現実なら良く見えている」

「……どうもあんたは本当の父親じゃないような気がしてきた」

「なんだと――お前の父親はほかにいるってのか」

「さあね。本当の父親なら、子供にもっとやさしいんじゃないかと思っただけさ」

 子供はいつの間にか顔をこちらに向けてMを見上げていた。瞳の色がうすい灰色になっている。水晶のように澄んだふしぎな色合いだ。暗い感じではない。しかし意志の読み取れないその双眸が、Mには逆に子供の深い悪意のあらわれのように見えた。

「はっきりしろ。お前、なにかとんでもない秘密をにぎっているんじゃないのか。ドリエラのやつ浮気をしたのか」

 Mは哺乳瓶を振りまわして叫んだ。振りまわすたびに中の粉ミルクが水にとけて、うまい具合に赤ん坊の食事が仕上がっていく。

 「あんまり興奮するなよ。ぼくにそんなことが分るわけがない。おふくろだけだよ、そんなことを100パーセント知っているのは」

「お前が人の心を見抜けることは先刻承知だ。隠さないでさっさと白状しろ」

「ちょっと待ってくれよ、おやじ。変な言いがかりをつけないでくれ。どうしてぼくが人の心を見抜けるんだ。なんのことかさっぱり分らない」

「とぼけるな。それじゃ聞くが、お前がいつも俺の腹の中の考えに正確に反応するのはなぜだ」

「考えていることをぶつぶつしゃべれば、耳があるから聞こえるさ」

「この悪たれ。俺がいつぶつぶつ言った」

「やれやれ。この間おふくろが夢を見たのかとあんたに言ったのは、どうやらそんなに的はずれでもなかったみたいだな。あんたあの夜、ミルクを作りながらさんざんぼくの悪口を言っていたんだぜ。ついさっきもそうだ。人のことを化け物の中でも一番しまつの悪い化け物だとこきおろしたのは、いったいどこの誰だと思っているんだ。あんた、ほんとに覚えていないのかい。モーロクしたんじゃないのか」

「このガキ、よくもそんな出まかせをしゃあしゃあと――」

 Mは逆上してあやうく子供に哺乳瓶を投げつけそうになった。腹の中で赤ん坊に罵詈雑言をあびせたのは否定しない。しかしそれを声に出してぶつくさ言った覚えはない。子供が人の心の内を読み取る暗い能力を隠ぺいするために、父親に濡れ衣を着せようとするのがMは許せなかった。

 「ちょっと待って。タンマ!」子供に制止されてMは哺乳瓶を振り上げている手をおろした。「あの夜と今日だけの話じゃないよ、おやじ。あんたのべつ幕なしにぶつぶつ言ってる。ほんとに記憶にないのなら、一度医者に見てもらった方がいいんじゃないか」

「こ――この……殺してやる」

Mは怒りのあまり胸がふさがって、ほとんどうめくような声になった。

 子供が明らかにうろたえた。Mの怒りが通りいっぺんのものではないことにようやく気づいたらしい。

「ぼくを殺すのは簡単だけど、殺した事実を隠すの不可能だよ、おやじ」

精いっぱいクールに言ったつもりらしいが、赤ん坊の声はひきつってふるえていた。

「どうだか」子供が暴力の前には無力な存在であることに今さらのように気づいて、Mは勝ち誇るように言った。「首をきゅとしめてトイレに流してやる。あとかたもなく消えるぜ」

目を細めて両手でくいと首をひねるマネ真似をした。

「そんなことをしたら、大声で叫んでやる」

赤ん坊の口からはじめて子供らしいかん高い声がもれた。

 「大志をいだけ。大いに叫べ。ヒトゴロシ! ってな。お前は小ざかしく見えても、しょせんは芋虫みたいに無力なガキだから知らないだろうが、大人は聞いたことがない音は空耳だと思って無視するんだ。ドリエラはお前の声には注意をはらわない」

「あんたと2人だけになったら、ぼくは眠らないでずっと見張っている」

「だまれ! 一日に25時間もいびきをかかなきゃ体が持たないヨタローのくせに」

 子供は黙った。Mが哺乳瓶の乳首を子供の口にぐいと押しこんだのだ。ふいをつかれて一瞬ためらった子供は、それでも食べ物に我を忘れて乳首にむしゃぶりつく。一気呵成に食いはじめた。が、たちまちせきこんでごぼごぼとミルクを吐き出す。あお向けに寝ている子供の口にMが瓶を逆さまに押し立てたために、細い喉には大量すぎるミルクがほとばしったのだ。

 Mはあわてて哺乳瓶を子供から離した。子供は目を白黒させて、ヒッと一つしゃっくりをした。それを合図にヒッヒッヒッヒッヒッとしゃっくりのオンパレードがはじまる。

 「チッ」

Mは舌打ちをした。急いで冷蔵庫からレモンの一切れをとりだして、コーヒースプーンに汁をしぼり出す。それを片手に箱ベッドの底から子供をひょいと抱き上げて、うむを言わさず口の中にレモンの汁を流しこんだ。

 子供は、ついに気が違った、としか思えない勢いで盛大に顔をしかめた。酸い味といっしょにたっぷりとショックを味わったのだ。おかげでしゃっくりがぴたりと止まった。

 「手のかかるガキめ」

Mは吐き捨てるように言って、あらためて子供を抱きかかえて椅子に腰を下ろし、膝に乗せて左腕で首を支える。いまいましいがほかに仕様がない。それが子供のいつもの食事のスタイルなのだ。哺乳瓶の先を今度はすこし横倒しにして、Mは子供の口にあてがった。つい先刻の騒ぎもけろりと忘れて、赤ん坊は大口を開けて乳首に食らいつこうとした。Mは腹立ちまぎれに瓶をさっと口から離してフェイントをかけてやる。そうやって3度ばかり肩すかしを食わせてもて遊んでから、Mはようやく赤ん坊の口に乳首を含ませた。

 子供は例によって乳首にむしゃぶりついて、わき目も振らずにがつがつ食う。赤ん坊にとっては食事はいつも大仕事だ。大人とちがって次の食事があることなど知らないから、そのときどきの食べ物を思いきりかきこむ。食事は子供にとっては1回限りの命をかけた大仕事なのだ。恥も外聞も見栄も義理も喜びもない。一心不乱に食べまくって体力を完全に使いはたす。そして眠る。眠るのは次の食事に備えてひたすら体力を養うためだ。

 赤ん坊はそうやって今夜もぷつりと静かになった。

「おい。こら。起きろ。このヤロー。ジュリオ・タカシ。まだ話しは終わっていないぞ。こら。ちくしょう……、また逃げられてしまった」

Mは仕方なく子供の頭を肩に置いて後ろむきに抱きかかえて、背中をさすりながらキッチンの中をしばらく歩きまわった。げっぷをさせるためだ。そうしないと赤ん坊は後で腹痛を起こして泣きぶ。ミルクといっしょに飲みこんだ空気が腹の中にたまるせいだ。

 子供は徹夜あけの工員みたいにりこけながら、それでも父親をバカにして、げぷ、と派手な寝ごとを言った。


独白

 「毎晩そんなことがつづいて、ついに疲れきったんだと思います。それで自分でも何がなにやらわけが分らなくなって、ある日子供を殺してしまおうと……」

Mは神妙な口調で言った。ドメニコ長岡医師は、うんうんうんううううんん、と深くうなづき感激しながらいつものようにMの話を聞いている。

 長岡医師には人を安心させるふしぎな魅力がある。ゾンビのようだとMがはじめおどろいたぶさいくな顔が、今ではMのアイドルになっていて、彼は寝てもめても頭がボーとしていても、長岡医師の顔がなつかしい。長岡医師の治療哲学が、人の心の奥の奥まで見とおして病巣をさぐりあて、その病巣もいっしょに病人をやさしく包容して救ってやろうというものであることが、わかっても分からなくなるMにもわかるのだ。

 ふつうの医者なら病巣をさぐりあてた時点で、焼きゴテやらハサミやらトンカチやら笑顔やらを使って、病人をそっちのけで病巣だけをぶんなぐってやろうとやっきになるものだ。病巣も病人の一部だからなぐられたら痛いという真理は、女王陛下の直参スパイよろしく病巣殺しのライセンスを持っているつもりの彼らにとっては、なぐるのはどうせ他人の病巣だから痛くない、というありあまる真実の思想訓練が鉄壁になされていることもあって、すこしも痛くないのだ、とMは長岡医師を見ていて思ったりしているように感じることがある。

 治療哲学といっても長岡医師のやり方は、毎日決まった時間にMの病室にやって来て、よもやま話しふうにMと会話をするだけのものだ。薬も与えないし精神分析のテストをすることもない。

 Mと医師はその日の気分によって、Mが寝起きする部屋であれこれ話しをすることもあれば、テレビのある娯楽室のソファにのんびりと腰かけて話しをすることもある。またのように、花と緑と彫刻にかこまれた病院の広大な敷地の中を散歩するついでに、そこかしこのベンチにすわって小鳥のさえずりに耳をかたむけながら会話をすることもある。

 「Mさん、あなたは赤ちゃんを殺してなんかいませんよ」長岡医師はこれまで何度もMに言ってきかせたことをまた口にした。「赤ちゃんを風呂に入れてやっただけなんです」

「先生がぼくをかばってそんなふうに言ってくれるのはありがたいと思っています。でもぼくはたしかに子供に殺意を持っていて、実際に子供の首をしめて、死体をトイレに流したんです。きのうのことのようにはっきりと覚えています」

 医師は微笑した。いつものように人の心をなごませる愛に満ちた笑顔だ。彼のこの顔を見ると、Mはなにもかもこの人にまかせておけばだいじょうぶ。すべてを包みかくさずに話して楽になってしまおう、という気分になるからふしぎだ。

「あなたの病名は“チョー重症育児ノイローゼ”です。赤ちゃんの世話に加えて、奥さんと家事のめんどうまで見なければならなかったためにすこし疲れて、それでだんだんふつうとはちがう精神状態になっていったのです。現実と非現実が混乱して見えるのはそれが原因です。

 あなたは赤ちゃんを傷つけもしなければ、もちろん殺しもしなかった。大便器の中にすわらせて体を洗ってやっただけなんです。そこは風呂としてはたしかに変な場所です。しかし洗面台にお湯を入れて赤ちゃんの体を洗う人はいくらでもいます。この国の洗面台は日本のものとはちがってデカイから、赤ちゃんの湯船としてはちょうどいい具合なんですね。異常な状況下にあったあなたが、すぐ近くに並ぶようにそなえ付けられていた大便器と洗面台をまちがえても、そんなにおどろくべきことじゃあない。わたしもやるかもしれない。いやあ、きっとやるなわたしも。うまいところに目をつけたものですよ、あなたは。まいった、まいった。まいっちゃったな、じっさい――。

 そういうわけだから、全てわすれなさいね。赤ちゃんにつらくあたったという自責の念があなたの中には非常に強いために、どうしてもそう思えてしまうんです。あなたは男でありながらじゅうぶんに良く子供の面倒を見ました。しかも病気の奥さんをかかえて、家事のいっさいを切り盛りしながらそれをやったのだから、えらいものです。うん、あなたはえらい。えらいものだよ、あなたは。感心しちゃうな、わたしは」

 Mは医師にそう言われると、なんとなくそんな気がしないでもない。が、実のところはよくわからない。

 彼はたしかに赤ん坊と夜な夜な言い争いをして、しまいには赤ん坊の首をくいとしめて、ぐったりとなったそれを大便器に押しこんでジャーッと派手に水を流したと思うのだ。赤ん坊は小なりとは言え、そこに流すブツとしてはさすがに巨大だったから、なかなかひといきには吸いこまれず、Mは2度3度4度と出水レバーを引きつづけた。そう

しているところに、物音に気づいて目をさました妻がバスルームにやって来て、彼の完全犯罪は失敗に終った………。

 それらのすべてがMの妄想だと医師は力説するのだ。

「妻はバスルームにいるぼくを見て、ギャーッとすごい悲鳴をあげたんだよ、先生。あれは殺人現場を見た人間の絶叫です」

「赤ちゃんが夜中の3時に大便器の中で水浴びをしているのを見れば、奥さんだけではなくカバもツチノコも悲鳴をあげます」

「……でも、妻はすごい形相でぼくを突きとばした。それでぼくはぶっ倒れてタイルに頭をぎゃんとぶつけて……気がついたらここにいたんです」

「奥さんは赤ちゃんを便器から早く救いあげようとして、はずみであなたを突きとばしたんです。でも彼女をうらんではいけませんよ。おかげであなたはすこし正気に返ったんですから」

 なるほど、とMは納得する。納得した先から、どうも変だとまた思う。そんなにも現実感のあるはっきりした記憶が妄想夢想のたぐいなら、今こうして医師と話しをしているのも妄想じゃなかろうかと疑心暗鬼を生ずるのだ。

 だけど医師の診断によると、今のMは夢とうつつの区別がつけられなくなっていた気絶前の危険な精神状態を脱して、タイルに頭をぶつけた後遺症でまだもうろうとしてはいるものの、かなり正常に近い容態になっているという。

 (第三者のしかも専門家の医師がそういうのだからたぶんまちがいない。だから今こうしているのは、嘘いつわりのない真っ当至極本家本元山本山の輝かしい現実なのだ。したがってこの現実とまったく同じように現実感のあるあれらのでき事が、妄想夢想のたぐいだったということはあり得ないように見えて現実にあるわけだから、あれらの現実は非現実だったと結論づけざるを得ず、そのあたりのアウンの呼吸をまだしつこくこの現実とあの現実と分けて比較検討している自分というのは、現実中の現実であるこの現実の一部でありながら且つ現実には現実でないあの現実の一部でもあると考えている自分でもあるということになり、それは第三者の医師の指摘によれば現実としておかしい。だから現実問題として、自分が変か医師が変かの二つに一つ、二つに二つ、あるいは二つ三つ四つのうちのどちらでもないということになる)

「―――そうでしょう、先生」

Mは頭に浮かぶままのことを医師に話して同意を求めた。

 おだやかな笑みを片ときも絶やさずに、しんぼう強くMの話しを聞いていた長岡医師は答えた。

「そういうふうに考えてもいいが、考えすぎてはいけません。今あなたはトンネルを出かかっているところです。トンネルの中の暗闇に目が慣れきっているために、外のまぶしい光が目に痛いばかりではなく、内側も外側もはっきりとは見えなくなっている。しかしそのまま歩きつづければかならず外に出ます。だからあまりあれこれと気をまわさないでのんびり構えることです。あとはもう時間の問題だけですから。さ、いつものようにあなたが気絶する前のことを一つ一つゆっくりと思い出して、わたしに話してみてください」

「あれ? だって先生。いま考えすぎるなと言ったばかりだよ」

「ワッハハハハ。そうだったね。そういうふうに明るく行こうじゃない」医師は子どもに1本取られた父親のように笑った。「いいですかMさん。思い出すことと考えることはちがいます。あなたは思い出して、思い出した通りをわたしに話してくれればいいのです。思い出したことに批判を加えたり、味付けをしたり、人に知られるのはいやだからここはちょっとゴマカシちゃえ、とかそういうズルをしちゃいけません。わたしが考えすぎるなと言ったのはそういうことです」

「わかりました。はい。いいですよ」

 Mは言ったがあまり気のりはしなかった。なぜなら彼はもう何度も同じことを医師に話して聞かせているからだ。

 長岡医師はそのたびに、すこしもMをばかにしないで真剣そのもの且つほとんどうっとりとした愛情あふれる顔つきでMの話を聞いている。Mの話をたくさん聞いて、それを通してなんとか彼の病気の総元締めに行きついて、今後の治療法の目安にしようとしているな、ということは一瞬わかってわからなくなるMだが、医師は適切なところでうんうんと相づちを打ったり、話の腰を折らないように気をつけながらツボにはまった質問をしたりする。だから話す側にとっては非常に話し甲斐のある聞き手であることはまちがいない。しかしいくらMがタイルに頭を派手にぶつけたせいで、ノイローゼ症状が進んでノーミソがでんぐり返ってしまっている病人だとしても、自覚症状がある分すこしは正常でもあるのかも知れない、と感じている程度のビョーニンだと本人は本人の頭の中で思っているのだから、やはり一応はマンネリズムを退屈だなアと思うこともあるのだ。

 Mはそれでも話しはじめた。ところが赤ん坊がはじめて口をきいて、腰がぬけるほどタマゲたので妻のドリエラの名を呼んだら、彼女が火事場の馬鹿力で、病身にムチ打ってキッチンの中に飛び込んできたというところまで話したとき、ふいに妻と子供はどうしたのだろう、というなつかしさと悲しさの入り混じった気分におそわれて、涙がぽろぽろあふれ出てどうにもならなくなった。

 「……妻と子供は今どうしているんですか、先生。妻はどうしてここをたずねてこないんですか。先生の言うとおり子供は無事でいるなら、妻はぼくを許してくれてもいいいんじゃないの」

「大丈夫。大丈夫ですよ、Mさん。コーフンしてはいけません。あなたはたしかにトンネルを抜けつつあるが、まだ完全には抜けきっていない。だから奥さんはたずねてこないのです。ここには顔を見せていないが、もちろん奥さんはあなたを許してくれていますよ。大丈夫です」


出口

 「そういう気やすめはやめてくれ」

Mはふいに医師が憎らしくなった。

「人のことを気ちがいあつかいにして、気ちがいに逆らうのはまずいと思っていつもうまいことを言っているのは分かっているかも知れないぞ。ああ、俺は気ちがいかもよ。しかし、自分があんたに気ちがいだと思われていることは、はっきり言って自分の頭の中ではひしひしと感じているらしいと、俺は思ったことを否定もしなければ肯定もしない。その板ばさみの痛みを他人よりはかなり理解して、痛みを分ち合えれば理解はさらに深くなっていくだろうと、日々努力を惜しまない俺のような人間をあんたがどう思うか、そんなことはあんた自身で考えて欲しいもんだ。

 大丈夫、大丈夫、奥さんはあなたを許してくれていますよ、なアんて良く言うよ。許しているなら妻はどうしてここにたずねてこないんだ。え? えええええええええええええ? 許すのは俺か妻か、そんなことはあんたも妻も知らないんだ。いいかげんなことを言うな。このカッパハゲ!

 先生だって気ちがいかも知れないと誰それやこの彼女が言わなくても、自分が気ちがいか気ちがいではない人間のどちらかと人に聞いたとき、たぶん気ちがいの部類と断定されるような日常性の端っこのあるか無きかの足場の世界で生きている人間が、あたりを比較検討右顧左眄してながめまわすとき、小説よりも奇なる事実と出来事は森羅万象森森としてもなお波風が立つ場合もあることだし人間いったい誰が気ちがいで誰が気ちがいでないかを当人の気持にかかわりなく決めつけるのは、神ではないから怖いという気持が気持の中でせめぎ合って、あれこれ誰それをあの気ちがいその気ちがいではないと分類するのは、結局人の気持が許さない。だからやっぱり神だけが人の気持を判断できると結論付けるしかないのだ。違いますか?」

 「ピン・ポーン。おみごと。まさにその通り。ここまでしつこくあなたに言いつづけてきた甲斐があったみたい。Mさん、やはりあなたはトンネルを抜けつつあります。神を忘れてはなりません。神こそ命。神こそ全能。神こそ正常の泉。神ある限りあなたはたとえ狂っていてもクレージーじゃない。 なぜなら神の前ではあなたもわたしもトランプもプーチンもシューキンペーも、皆同じ羊だからです。もうすぐです。もうすぐあなたはトンネルを抜けます。トンネルを抜けるとそこは神の国です。雪国なんかじゃありません。トンネルを抜けると雪国だなんて、そんな貧しい救われない、お金も家も財産も定収入も心の平安もない文学なんかやっちゃいけません。トンネルの向こうにはさんさんと光のあふれる愛と希望と酒池肉林の救済の地があるんだ」

長岡医師はガッツポーズで言葉をしめくくった。

 Mの頭の中で歯車がカチとかみ合う音がした。何かが動き出す気配がする。彼は考えているような気分で、先刻から2人が腰を下ろしている白いベンチの上に右膝を立てて、さらにそれに右肘をつぎ木して頬杖をつくる。

 芝生のむこうの大木の下に“考える人”の銅像が置かれていた。生まれつき感化されやすい性質のMは、無意識のうちにそれに感化されたのだが、無意識のうちに感化されるくらいだから、彼の頭の中には当然なにもひらめかない。ただボーバクとした白い地平線のようなものが、じわりふわりとただようだけである。

(あれがトンネルの出口かな)

とMは思った。

「そうです。あれとは何のことか知りませんが、まさしくそれはトンネルの出口ですよ、Mさん」

「あれ。なんだい。先生も赤ん坊みたいに人の心が読める」

「考えていることを口に出して言えば、人には耳があるから聞こえます」

医師はすこし哀れむような声で言った。しかしすぐに思いなおして、笑顔にビジネスと使命感を混ぜ合わせた元の木阿弥になってつづける。

「さ、さ。それよりもトンネルの出口を目ざして歩きましょう。つづけて何が起こったかを思い出してわたしに話してください。考えてはいけませんよ。思い出して、思い出したことをそのまま話しつづければいいんです」

「いやだよ」Mはスネた声を出した。「いつもその手に乗って、しまいには頭がこんがらがっちゃうんだもの」

 「ワッハハハ。ばれたか。今日はいつもとちょっと様子がちがうみたいだな。わッかりました。それではちょっとやり方を変えてみますか。そうですね――それじゃわたしが質問をして、あなたはそれに答えるという形にしましょうか。あ、それがいい、それがいい、とMさんは言いました。いいですね。いいですね」

「………」

「あなたは今なにも言わなかったつもりでしょうが、ちゃんとはっきりと“いいですよ”と言いましたよ。言わなかったことは口に出し、口に出したことは言ってない。夢と現実虚虚実実の世界が、入りみだれてコンゼン一体を成しているのが今のあなたの状態です。したがってわたしの言うことをすべて信じるように。

 それではいいですかあ、質問に行きますよ。考えてはいけません。答えは考えることなく、答えようとして思い出せばいいんです。

 しからば質問の一。

 赤ちゃんがはじめてあなたに話しかけた夜、あなたは子供の世話なんかしたことのないはずの奥さんが、手ぎわ良く赤ちゃんにミルクを飲ませるのを目のあたりにして、何かがおかしいと感じた。あなたはいったいなぜ何かがおかしい、と感じたのでしょうか。あ、あ、あ、あああああああ。またあなたは夢の世界に行こうとしている。奥さんはあなたと結婚したとき、ちっとも処女なんかではなくて、子供をぼんぼこぼんぼこ何人もひり落としたことのあるあばずれだった、とありもしない虚構の世界に安らぎを見出そうとしている。現実に戻りなさい。真実をしっかりと見つめなさい。

 あれは非常に啓示的な出来事だったのですよ。あなたはそのことを良く知っている。もう10日以上も同じことをしつこくあなたの頭の中に吹きこんできたわたしですよ。がっかりさせないで下さいね。さ、良く思い出して答えてごらん。さ。さ。ささささささささささささささ」

 「………妻は……姦婦だ…………」

「まあた。股股股股股股股! めっ!そういうヒネたことを言ってはいけません。そんなフィクションはあなたが考えたことでもなければ体験したことでもない、夢の世界だとあなたは思いたいと思っている。その思いたいと思っている部分が真実の世界で、あなたは本当はそれを信じているんですよ。いいですか。しっかりとそのことを頭にたたきこんで。

 はい。はいはいはいはい。しっかりと真実が見えますね。はい、その通り。今あなたは黙っていると自分では思っていますが、現実にはちゃんとあれは神聖な出来事だった、とあなたが信じていることを口に出して言いました。それでいいんですよ。このことをしっかり覚えておいて、明日わたしが同じ質問をしたら、必ず自分の過去の体験の一部だと思いこんでわたしに話して下さい。いいですね。

 はい。それでは質問の2に行ってみます。

 あなたは赤ちゃんがふしぎな能力を持って生まれたのは、もしかすると人智を超えた何か宇宙的なものが関係しているのではないかと疑い、しかもそれはどこかで聞いたことがあるような話だと感じた。それはいったいなんなのでしょうか。思い出して。はい、ぐっと力んで思い出してごらんなさい。しかし、考えすぎてはいけません。考える必要はないのです。ゆっくり、ゆっくりと思い出せばいいのですよ。思い出したことがあなたの信じていることで、信じていることがあなたの頭の中に浮かんでいるんですから。ほら……そうそう。ゆっくり。ゆっくりと自然に………」

 医師は催眠術でもかけるようにMをさそいながら、彼自身も術にかかった魔術師みたいなうっとりした目つきになる。

 さそわれるMの目つきはというと、医師のそれよりももっとうっとりとすわってしまって、彼の目は医師の目、医師の目はMの目となって、且つ医師の側にも同じ混乱が起こったからたまらない。2人の日本人の視線はぐちゃらもじゃらにからみあって、ついに2体が1体になってしまった。

 「さあ、ようやく調子が出てきたぞ。このままつづけて質問の3に行こう。はい、いいですかあ。今度は赤ちゃんのことを頭に浮かべて――考えちゃダメ。思い出すだけですよ。いいですかあ。

 あなたは赤ちゃんが人の気を引いてやまないのは、ただ単に容貌が美しいせいではなくて、なにか特別のふしぎな魅力があるからではないかと考えた。思い出しましたか……いいですね。

 その通りです! あなたは100パーセント真っ正直に正しい。

 赤ちゃんは神の子です。だから赤ちゃんを見る人は誰もがギョッとして立ちすくみ、一瞬のうちに自分の身の上と赤ちゃんのそれを比較し納得して、それから柔和な顔つきになってうっとりその姿をながめ回さずにはいられなかったのです。人々は赤ちゃんを通して神を見たのです。そうでしょう……? よーく思い出して。ほーら今あなたが思い出していることが、あなたの信ずるべき唯一絶対の真実です。考えてはいけません。考えると疑いが生まれてそこはたちまち雪国ですよ。思い出してそのまま信じてしまえばそこは神の国。さ。さ。ささささささささささ。ただひたすら信じるのです。

 ――信じましたか。信じていますね。そう。それが正しい。あなたは信じている。さあ、それでは核心に行きます。いいですかあああああ、赤ちゃんは神の子で、すると当然……奥さんは……そう、聖母マリア…そう。その通りです。しからば、あなたは―――」

「ぼくはヨセフです」

 Mの口からごく自然に言葉がもれて出た。とろりととろけるような甘い気分がMの全身全霊を支配している。考えるのも思い出すのもすべてが面倒で気だるい。まるでアヘンをしこたま吸いこんだような―――。

 医師は満足げにうなずいた。うなずきながら、彼は吊り目の目をさらに吊り上げて、憑かれたようにダメを押しつづけた。

「ほーら、思い出した。その通り。しっかりとそのことを覚えておくんですよ。明日になってもあさってになっても、9月10月11月がきて来年2年3年10年たっても、あなたはそのことを覚えておいて下さいよ。あなたはその輝かしい真実のおかげでりっぱなカトリック教徒になるんですから。赤ちゃんは神の子。奥さんは聖母マリア。あなたはヨセフ。コキュなんかじゃありませんよ。あなたはヨセフ。ヨセフはあなた。あなたはヨセフ、ヨセフヨセフヨセフヨセフヨセフヨセフヨセフヨセフ…あなたはヨセフはあなた……」

医師はMの耳に口を押しつけるようにしてささやきつづける。その声はMの頭の中で神がかり的に大反響して、福音の渦巻になった。

 

 2人の日本人の様子を病院の一角にあるチャペルの窓からのぞき見ている男女がいた。         

 1人は初老の神父。もう1人はMの妻のドリエラである。

「御主人はこれで妻に裏切られた苦しみを知らずに済み、しかもりっぱなカトリック教徒になる。一石二鳥というやつじゃよ。フオッホホホホホホホ」

神父が便秘の化鳥のような声で笑った。

「でも、神父さま、ほんとにうまく行きますでしょうか」

ドリエラが聞いた。

「お疑いですかな」

「だって、あの先生もここの患者の1人だというのでは心配で――」

「あれでも布教に熱心な信者の1人には違いないのじゃよ。特に同胞の日本人を折伏する段になると、ほとんど狂信的と言っていい力を発揮する。彼がここの病院に収容されているのもまさにそれが理由でしてな。これまで彼の手にかかってカトリックに改宗しなかった日本人は1人もいない。その点は心配しなくてもよろしい」

 ドリエラの顔にほっと安堵の色がにじみ出る。神父が素早くくそれを認めてたしなめた。

「しかし夫を裏切っているあなたの罪がそれで消えるわけではありませんぞ」

「はい。分かっております神父さま」

ドリエラは神妙に答えた。

「赤ちゃんは元気にしていますか」

神父が話題を変えた。

「はい。おかげさまで」

「ふむ――。いくら神経衰弱で頭がおかしくなっていたとはいえ、御主人が人の心を読み言葉をしゃべると思いこんだほどの赤ん坊だ。本当に神の申し子かもしれませんぞ。フオッホホホホホ―――して、わしのかの」

「め、めっそうもない! それにしては見た目が美しすぎます」

ドリエラは思わず言って、しまった、とばかりに右手で口を押さえた。神父は苦りきった顔で相手をにらみつけた。

「―――ったく。どうしようもない女だの。約束が守られるかどうか不安になってきたぞ」

「お許し下さい神父さま。約束はかならず守ります。今後はきっと心は主人だけに、体は神父さまだけに操を立てて神の御心に添うように生きてまいります。きっとそういたします」

 信者は皆、真っ正直に生きている、と下界を見おろしながら神がつぶやいた。

                                                                      



                                         (了)




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知られざるタイクーンの笑衝撃

夜照明マッシモ劇場650

 シチリア島の中心都市のパレルモに、日本人が大量に押し寄せている、という連絡が当のシチリア島の友人らから入った。

多くが好意的な心情にあふれたものだったが、中には明らかに困惑しているらしい声音の報告もあった。

要約すると、日本人の大富豪(らしい)のNakajima某氏が1400人もの客を招待して、パレルモ市内の高級ホテルや劇場を借り切って自分の誕生祝いをする、というものだった。

最初はジョークだと思った。真っ先に知らせてくれた友には、中国の大富豪かアラブの皇太子の祭りの間違いだろう?と電話口で笑った。

1400人ものゲストを伴って、地中海の十字路とも呼ばれた美しい歴史都市パレルモを、我が物顔に闊歩する日本人の姿は僕には中々想像できなかった。

ところがその後も何人かの友人知己が同じ知らせをもたらした。そこで念のためにタブって、もとへ、ググってみた。

するとシチリア島発の新聞やネット報道に、日本人富豪の誕生祝い、また日本から直行便!マッシモ劇場を借り切って宴会!などの見出しの記事が踊っている。

シチリア島随一の新聞「Giornale di Sicilia」も取り上げているので、どうやらフェイクニュースではないらしいと納得した。

さらにググると、しかし、シチリア発のニュース以外はどこも話題にしていない。日本発も同じ。それでもググったおかげで、主人公のNakajima某氏のことは少し分かった。

マルチ商法で有名なアムウェイで大成功した人物とのこと。なるほど、それで信奉者や顧客を集めてパレルモで誕生日の大祝賀会を開く、ということだと理解した。

それにしても、映画「ゴッド・ファーザー」の舞台にもなったマッシモ劇場他の公共施設まで借り切っての宴会、というストーリーには正直驚いた。

Roberto Lagalla(ロベルト・ラガッラ)パレルモ市長までがNakajima某氏に面会したという。

そのことを追求されると市長は、1400人の日本人が1人あたり1000ユーロづつ金を落としてくれれば、パレルモ市の経済にとって悪いことではない、とインタビューで開き直った。

一方、Renato Schifaniレナート・シファニ)シチリア州知事は、多人数のゲストを伴ったNakajima某氏が、市内の複数の劇場を借り切り一流ホテルを独占した事態は公私混同の極みだ、として強く批判した。

微苦笑劇ふうに見えるお騒がせなエピソード。

スルーしようと思ったが、1400人もの日本人がパレルモの街で騒ぐ様子を想像すると心が波立つので、やはり書いておくことにした。



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聖人も信徒も霊魂は皆同じ

横長ローソク650

11月1日は「諸聖人の日」。イタリアの祝日である。

カトリックでは「諸聖人の日」は、文字通り全ての聖人をたたえて祈る日だ。

ところがプロテスタントでは、聖人ではなく「亡くなった全ての信徒」をたたえ祈る日、と変化する。

プロテスタントでは周知のように聖人や聖母や聖女を認めず、「聖なるものは神のみ」と考える。

聖母マリアでさえプロテスタントは懐疑的に見る。処女懐胎を信じないからだ。

その意味ではプロテスタントは科学的であり現実的とも言える。

聖人を認めないプロテスタントはまた、聖人のいる教会を通して神に祈ることをせず、神と直接に対話をする。

権威主義的ではないのがプロテスタント、と僕には感じられる。

一方カトリックは教会を通して、つまり神父や聖人などの聖職者を介して神と対話をする。

そこに教会や聖人や聖職者全般の権威が生まれる。

カトリック教会はこの権威を守るために古来、さまざまな工作や策謀や知恵をめぐらした。

それは宗教改革を呼びプロテスタントが誕生し、カトリックとの対立が顕在化して行った。

カトリックは慈悲深い宗教であり、懐も深く、寛容と博愛主義にも富んでいる。

プロテスタントもそうだ。

キリスト教徒ではない僕は、両教義を等しく尊崇しつつ、聖人よりも一般信徒を第一義に考えるプロテスタントの11月1日により共感を覚える。

また、教会の権威によるのではなく、自らの意思と責任で神と直接に対話をする、という教義にも魅力を感じる。

ならば僕は反カトリックの男なのかというと、断じてそうではない。

僕は全員がカトリック信者である家族と共に生き、カトリックとプロテスタントがそろって崇めるイエス・キリストを敬慕する、自称「仏教系無論者」である。





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化け物みたいなハロウィンの集団陶酔

不気味手首ハロウィン650

ハロウィンを祝いに渋谷に来るな、と警察が呼びかけている日本発のニュースを見てタメ息をついた。

なぜ無意味に大騒ぎをするのだろう。祭りだから、と言えばそれまでだが。。

ハロウィンは3日間に渡るキリスト教の祝祭の口火を切る祭りである

つまり10月31日の「ハロウィン」、翌11月1日の「諸聖人の日」、11月2日の「死者の日」のことである。

ハロウィンには「諸聖人の日の前夜」という含みもある。

3つの祭りは“全ての”キリスト教徒ではなく、“多くのキリスト教徒“にとっての、ひとかたまりの祭りだ。

次の理由による。

ハロウィンは元々キリスト教の祝祭ではなく古代ケルト人の祭り。それがキリスト教に取り込まれた。カトリック教会では今もハロウィンを宗教儀式とは考えない。

一方、米英をはじめとする英語圏の国々では「ハロウィン」は重要な宗教儀式である。プロテスタントだからだ。

プロテスタントは聖人を認めない。だからハロウィンの次の緒聖人の日を祝うこともない。

ところが「死者の日」はプロテスタントも祝う。カトリックを批判して宗教改革を進めたマルティン・ルターが祭りを否定しなかったからである。

つまりひとことで言えば、ハロウィンはキリスト教のうちでもプロテスタントが主に祝う。諸聖人の日はカトリック教徒が重視する。死者の日はいま触れたように両宗派が祝う。

既述のようにハロウィンは、キリスト教本来の祭りではないためカトリック教会はこれを認知しない。

だが最近は、ケルト族発祥のハロウィンを遅ればせながらイタリアでも祝う人が多くなった。

そうではあるが、渋谷で見るような異様な騒ぎはここでは間違っても起こらない。まがりなりにも宗教イベントだからだ。意味もなく集団で騒ぐ風習は日本独特のものなのである。

それは少し不気味な感じがしないでもない。




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ハマスもイスラエルも国連もテロ組織である

著作権マーク切り取り650

ハマスもイスラエルも国連もテロ組織である。 あるいは同時に、ハマスもイスラエルも国連もテロ組織ではない。

テロあるいはテロリズムは、自らと自らの支持者以外の者や組織が、政治的な目的を達成するために振るう暴力のことである。

たとえば国連は2004年、テロリズムを

「住民を威嚇する、または政府や国際組織を強制する、あるいは行動を自制させる目的で、市民や非戦闘員に対して殺害または重大な身体的危害を引き起こす事を意図したあらゆる行動」と規定した。

その定義は、住民に加えて

政府や国際組織を強制する、あるいは行動を自制させる目的で」とわざわざ指摘しているように、政府つまり体制側と、国際組織すなわち国連に敵対する者の暴力がテロ、と狡猾に規定している。

そうではない。テロまたテロリズムとは、見方や立ち位置によって加害者と被害者がくるくると入れ替わる、暴力と脅迫と権謀術策のことだ。

今このときの中東危機に鑑みて言えば、イスラエルから見るハマスはテロリストである。逆にイスラエルはハマスに言わせれば大テロリストである。

また、イスラエルを支持する欧米から見たハマスもテロ組織である。

片やハマスを支持するアラブ各国またイスラム教国のイランやトルコに言わせれば、イスラエルだけがテロリストである。

ハマスは、イスラエルという強者あるいは圧制者に対抗して生まれた、パレスチナ解放運動グループだ。

ハマスの襲撃によってイスラエルの民間人が殺害されるのは、イスラエルの攻撃によってパレスチナの無辜の人民が虐殺されることの代償である。

惨いことだがそれが戦争の実態だ。

そうはいうものの、しかし、ハマスはイスラエルの横暴に反撃してイスラエルの民間人を殺害するミスは犯しても、子供の首を切り落とすような残虐非道な蛮行を働くべきではない。

イスラエルは無差別攻撃でパレスナ人民を殺害するテロリストだ。欧米各国はそれに加担する偽善者でありテロ支援者だ。

だがこれだけは確実に言える。彼らは子供の首を切ったり無辜の民を人質に取るなどの蛮行はもはや決してやらかさない。

なぜなら彼らは過去にそうした酷薄非道な行いを多く仕出かして、そこから学び反省し僕が主張するところのいわゆる“欧州の良心”を獲得しているからだ。

“欧州の良心”には、いかに敵を憎んでも、子供の首を切り無辜の民を人質に取る選択肢はあり得ない。

ハマスやイスラム国などのイスラム過激派と、イスラエルを含む欧米列強の人民のメンタイティーの間にはそこに巨大な溝がある。





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各種発言に込められたパレスチナ危機のまだら模様の真実

3人合成無題

ハマスVSイスラエル闘争に関しては、一方的な思い込みや驕慢に基づく発言が多い。

例えばイスラエルのネタニヤフ首相は、「ホロコーストの犠牲者であるユダヤ人を殺すのは普通よりも罪が重い」という趣旨の発言をした。

それは取りようによっては、ユダヤ人の命はパレスチナ人の命よりも重い、というふうにも聞こえる。

彼が言いたいのは、ホロコーストを経験したユダヤ人は、特別な感慨また無残な思いを胸中深く抱いて生きているということなのだろう。

だが強硬なシオニストの彼は、パレスチナ民間人を無差別に殺戮することも厭わない国家テロの首謀者だ。それだけに発言は異様な響きを持つ。

彼らシオニストが不遜にも聞こえる物言いをしていると、ユダヤ人の不幸に同情的な世界の世論が疲弊して、可愛さ余って憎さ百倍とばかりに暗転しないとも限らない。

いや、欧米各国の政府見解はさておき、人々の間ではその傾向に拍車が掛かりつつあるようにも見える。

被害者の強烈過ぎる被害者意識は、加害者を含む世の人々の強い反感を買うことも少なくない。

トルコのエルドアン大統領は、「ハマスはテロ組織ではなく、パレスチナ市民と土地を守るために戦う解放グループだ」と発言。これも彼の成心が言わせた言葉だ。

もっとも同大統領は、イスラエルの横暴を諌める意味合いで、敢えてハマスを全面擁護する発言をした可能性がある。

なぜならトルコは、10月7日のハマスのイスラエル攻撃で多数の民間人の犠牲が出たことを非難しつつ、一貫してイスラエルに自制を求めて来たからだ。

それでもエルドアン大統領は、子供の首を落としたり民間人を人質に取ったりする、ハマスの残虐な行為を肯定するような発言は断じて控えるべきだ。

ハマスがパレスチナ解放を目指す武闘組織であることは明らかだが、子供の首を切り無辜の人々を虐殺し人質に取るなどの蛮行は明らかな国際法違反だ。

だが、法律云々を持ち出すまでもなく、それらの行為は“獣じみた”と言えば獣を侮辱することにもなりかねないほどの、非人間的で残酷野蛮な所業だ。

エルドアン大統領は、ハマスはパレスチナ解放を目指す武闘組織だが、民間人を殺したり人質にするなどの蛮行は言語道断だ、とあらためて明確に批判するべきだったのだ。

また国連のグテーレス事務総長は、「ハマスが生まれたのは偶然ではない。ハマスは56年間に渡ってパレスチナの人々を抑圧したイスラエルの横暴があってはじめて出現した」と主張。

無力な国連の、無能な事務総長が、珍しくきっぱりと真実を語ったことに僕は目を瞠った

だが程なくグテーレス事務総長は、「あたかも私がハマスのテロ行為を正当化しているかのように、発言の一部が誤解されている。ショックだ。これは誤りだ。真逆だ」と懸命に弁明。事実上発言を撤回してしまった。

イスラエルのエルダン国連大使が、「ハマスはナチスだ。ナチスを弁護する国連事務総長などあり得ない。すぐに辞任しろ」と激しく指弾したことに恐れをなしたのだ。

イスラエルのコーヘン外相もエルダン国連大使に負けない勢いで事務総長を批判した。彼らはイスラエルに味方する欧米列強の威光を笠に着ていたから、事務総長は余計にびびった。

だがグテーレス事務総長の指摘は正しいものだった。彼は発言をあたかも誤りであったかの如く弁明、撤回するべきではなかった。

彼にそうすることを強いたイスラエル側の強弁は、言論テロと呼ぶことさえできる傲岸不遜なものだ。

イスラエルの思い上がりは時とともに膨らんでいくように見える。それはイスラエルとユダヤ人への反感を買う危険があるばかりではなく、和平への道を閉ざす過激な行為でもある。

とても残念なことだ。





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ユダヤ人の悲運はイスラエルの横暴の免罪符にはならない。が・・ 

負傷者運ぶ男らospedale-gaza650

アメリカを筆頭にする欧米列強がイスラエル支持で一つにまとまる中、各国民の中にはイスラエルへの反発心も確実に高まっているように見える。

僕もハマスの蛮行に怒りを覚えつつ、イスラエルの横暴に違和感を持ち、そう発言し続けている。

何かが劇的に展開しない限りおそらくそのスタンスは変わらない。

しかし、イスラエルという国家の暴虐によってあるいは忘れ去られるかもしれないユダヤ人の悲しみについては、必ず胸に刻み続けて行きたいと思う。

欧州では、ローマ帝国がユダヤ人をエルサレムから放逐して以降、彼らへの偏見差別が続いた。差別の最も奥深いものは、ユダヤ人がイエス・キリストを殺した、という思い込みである。

固陋で未開な僻見が欧州人の目を曇らせ続けた。ユダヤ人の2000年の苦悩の本質は、そこから発生した差別にほかならない。

差別ゆえに彼らは当時軽蔑されていた金融業に就くことを余儀なくされた。幸運にもそれは彼らに莫大な富ももたらした。

金持ちで知的能力が高く、且つキリスト教とは相容れない異質の宗教とそれに付随する生活習慣に固執するユダヤ人は、欧州人による執拗な偏見差別の対象になった。

パレスチナから追放されて以後、辛酸を舐め続けたユダヤ人の不幸は、20世紀になってヒトラーが先導したホロコーストによって最高潮に達した。

イスラエルが自身の存続と防衛に死に物狂いで取り組むのは、その国民であるユダヤ人が欧州で差別され殺戮され排除され続けてきた悲惨な過去があるからだ。

彼らは国を持つことによって、無残な過去への回帰を避けようとする。彼らの必死の思いはイスラエルに匹敵する数のアメリカのユダヤ人とその他の世界中のユダヤ人に熱烈に支持される。

イスラエル国民の寄る辺なさと恐怖と悲しみは、欧米を始めとする世界各国のユダヤ人の寄る辺なさと恐怖と悲しみとそっくり同じものである。

差別と抑圧に苦しめられたユダヤ人の国のイスラエルが、弱者であるパレスチナの住民を抑圧し殺戮するのは、見るのも耐え難い歴史の皮肉だ。

だが今現在のイスラエルを観察すると、彼らは自己保身に集中するあまり、イスラエル建国までのユダヤ人と同じ境遇にあるパレスナ民衆の苦しみが見えなくなっているようだ。

パレスチナVSイスラエルの抗争に於いて、欧州が米国と共に頑強にイスラエル支持に回るのは、2000年に渡ってユダヤ人を抑圧してきた過去への償いの思いがあるからだ。

それは欧州の良心の発露である。

大半がキリスト教徒である欧州人は、ユダヤ人を迫害してきたことへの後ろめたさと、同時に反ムスリムの心情からもユダヤ人国家のイスラエルを強く擁護する。

イスラエル建国は、間接的には欧米の力、特にオスマン帝国に続いて当時パレスチナを支配していたイギリスの暴挙によるものだ。

だが、イギリスはアラブVSユダヤの争いに音を上げて卑怯にもパレスチナの混乱から身を引いた。その空白を縫ってユダヤ人がイスラエルの建国を宣言した、というのが史実だ。

これに対してアラブ連盟5ヶ国は、イスラエル建国宣言と同じ日に同国に宣戦布告。翌15日にはパレスチナに侵攻して第1次中東戦争が始まった。

イスラエルはその戦いでアラブ連合を撃破。そこからイスラエルによる過酷なパレスチナ支配が始まる。

歴史に連綿と刻まれたユダヤ人の悲運は、イスラエルの横暴の免罪符にはならない。

だが、われわれは同時に、彼らの巨大な悲しみもまた決して忘れてはならないと思う。 





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ハマスの攻撃もそれへの報復も同じ穴のムジナの蛮行だ 


 瓦礫子供抱いてさ迷う母親650

107日、ハマスがイスラエルを攻撃。残虐行為を働いた。被害者のイスラエルはすぐに応酬。ハマスに劣らない凶悪さでガザ地区住民を虐殺し続けている。

ところがイスラエルへの非難は、ハマスへのそれに比べると弱い。

ハマスが先に手を出したことと、戦闘員が子供の首を切り落とすなどの残忍非道な行いをしたことが、世界世論の憎しみを誘ったからだ。

同時に、繰り返しになるが、報復したイスラエル側の攻撃も酷いものになった。それにしては彼らに対する視線は寛容すぎるほど寛容だ。

欧米は反ハマス一辺倒である。それはイスラエル支持につながり、イスラエルのガザへの反撃は自衛のためのものだから正当、という議論を呼ぶ。

その延長で、ここイタリアでは反イスラエルまたパレスチナ擁護の立場の者への、魔女狩り的な動きさえ出ている。

イタリアのユダヤ人喜劇俳優 モニ・オヴァディアは、イスラエルの無差別攻撃を断罪して劇場から締め出された。

アラブ世界の抑圧的な政治を批判して英雄扱いされたエジプト人青年、パトリック・ザキは、ハマスの攻撃にはそれなりの理由があると発言しただけで、イタリアの名誉市民権を剥奪されようとしている。

またドイツでは、イスラエルに批判的なパレスチナ人女性作家アダニア・シブリが激しい論難にさらされている。

一方的にイスラエルだけを擁護する言説は危険だ。

ハマスのイスラエルへの残虐な無差別攻撃は、むろん許しがたいものだ。

だがそこに至るまでには、イスラエルによるパレスチナ人民への抑圧、侵略、虐殺行為などが頻発してきたのもまた事実だ。

パレスチナ人とユダヤ人は、2000年の長きに渡ってほぼ無縁の時間を過ごした後、イスラエル建国に続いたユダヤ人の一方的なパレスチナ占領によって、抑圧と抵抗が雪だるま式に膨れ上がり、連鎖していく悲劇に陥った。

血で血を洗う闘争は、ハマスに始まるアラブ強硬派とイスラエル右派またユダヤ原理主義勢力が消滅しない限り終わらない。

和平への道は常に彼らが閉ざしてきた。今回の武力衝突もパレスチナの過激派とイスラエルの極右勢力が引き起こしたものだ。そして2者は永遠に妥協もしなければ消滅もしないように見える。

武力衝突を止めさせる力を持つ欧米列強は、イスラエル支持でほぼ一枚岩になっていて、アラブまたパレスチナの敵意を喚起し続け、やはりどうしても虐殺の連鎖を断ち切ることはできない。

それはつまり、病院爆破に象徴されるイスラエルとパレスチナの無残な殺し合いは果てしなく続き、民間人の犠牲は今後も増え続けていくということである。






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ステレオタイプたちの真実

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イタリア男のイメージの一つに「女好きで怠け者で嘘つきが多く、パスタやピザをたらふく食って、日がな一日カンツォーネにうつつを抜かしているノーテンキな人々」というステレオタイプ像があります。

イタリアに長く住む者として、その真偽についての考察を少し述べておくことにしました。

イタリア人は恋を語ることが好きです。男も女もそうですが、特に男はそうです。恋を語る男は、おしゃべりで軽薄に見える分だけ、恋の実践者よりも恋多き人間に見えます。

ここからイタリア野郎は手が早くて女好き、というウラヤマシー評判が生まれます。しかも彼らは恋を語るのですから当然嘘つきです。嘘の介在しない恋というのは、人類はじまって以来あったためしがありません。

ところで、恋を語る場所はたくさんありますが、大人のそれとしてもっともふさわしいのは、なんと言っても洒落たレストランあたりではないでしょうか。イタリアには日本の各種酒場のような場所がほとんどない代わりに、レストランが掃いて捨てるほどあって、そのすべてが洒落ています。なにしろ一つひとつがイタリアレストランですから・・。
 
イタリア人は昼も夜もしきりにレストランに足を運んで、ぺちゃクチャぐちゃグチャざわザワとしゃべることが好きな国民です。そこで語られるトピックはいろいろありますが、もっとも多いのはセックスを含む恋の話です。

実際の恋の相手に恋を語り、友人知人のだれ彼に恋の自慢話をし、あるいは恋のうわさ話に花を咲かせたりしながら、彼らはスパゲティーやピザに代表されるイタリア料理のフルコースをぺろりと平らげてしまいます。
 
こう書くと単純に聞こえますが、イタリア料理のフルコースというのは実にもってボー大な量です。したがって彼らが普通に食事を終えるころには、2時間や3時間は軽くたっています。そのあいだ彼らは、全身全霊をかけて食事と会話に熱中します。

どちらも決しておろそかにしません。その集中力といいますか、喜びにひたる様といいますか、太っ腹な時間のつぶし方、というのは見ていてほとんどコワイ。
 
そうやって昼日なかからレストランでたっぷりと時間をかけて食事をしながら、止めどもなくしゃべり続けている人間は、どうひいき目に見ても働くことが死ぬほど好きな人種には見えません。

そういうところが原因の一つになって、怠け者のイタリア人のイメージができあがります。
 
さて、次が歌狂いのイタリア人の話です。

この国に長く暮らして見ていると、実は「カンツォーネにうつつを抜かしているイタリア人」というイメージがいちばん良く分かりません。おそらくこれはカンツォーネとかオペラとかいうものが、往々にして絶叫調の歌い方をする音楽であるために、いちど耳にすると強烈に印象に残って、それがやたらと歌いまくるイタリア人、というイメージにつながっていったように思います。

イタリア人は疑いもなく音楽や歌の大好きな国民ではありますが、人前で声高らかに歌を歌いまくって少しも恥じ入らない、という性質(たち)の人々ではありません。むしろそういう意味では、カラオケで歌いまくるのが得意な日本人の方が、よっぽどイタリア人的(!)です。
 
そればかりではなく、助平さにおいても実はイタリア人は日本人に一歩譲るのではないか、と筆者は考えています。

イタリア人は確かにしゃあしゃあと女性に言い寄ったり、セックスのあることないことの自慢話や噂話をしたりすることが多いが、日本の風俗産業とか、セックスの氾濫する青少年向けの漫画雑誌、とかいうものを生み出したことは一度もありません。

嘘つきという点でも、恋やセックスを盾に大ボラを吹くイタリア人の嘘より、本音と建て前を巧みに使い分ける日本人の、その「建て前という名の嘘」の方がはるかに始末が悪かったりします。
 
またイタリア人の大食らい伝説は、彼らが普通1日のうちの1食だけをたっぷりと食べるに過ぎない習慣を知れば、それほど驚くには値しません。それは伝統的に昼食になるケースが多いのですが、2時間も3時間もかけてゆっくりと食べてみると、意外にわれわれ日本人でもこなせる量だったりします。
 
さらにもう一つ、イタリア人が怠け者であるかどうかも、少し見方を変えると様相が違ってきます。

イタリアは自由主義社会(こういう表現は死語になったようですがイタリアを語るにはいかにもふさわしい語感です。また自由主義社会ですから中国は排除します)の主要国の中で、米日独仏などにつづく経済力を持ちます。イタリアはイギリスよりも経済の規模が大きいと考える専門家さえいるのです。

言うまでもなくそれには諸説ありますが、正式の統計には出てこないいわゆる「闇経済」の数字を考慮に入れると、イタリアの経済力が見た目よりもはるかに強力なものであることは、周知の事実です。
 
ところで、恋と食事とカンツォーネと遊びにうつつを抜かしているだけの怠け者が、なおかつそれだけの経済力を持つということが本当にできるのでしょうか?
 
何が言いたいのかといいますと・・

要するにイタリア人というのは、結局、日本人やアメリカ人やイギリス人やその他もろもろの国民とどっこいどっこいの、助平で嘘つきで怠け者で大食らいのカンツォーネ野郎に過ぎない、ということです。

それでも、やっぱりイタリア人には、他のどの国民よりももっともっと「助平で嘘つきで怠け者で大食らいのカンツォーネ野郎」でいてほしい。せめて激しくその「振り」をし続けてほしい。それでなければ世界は少し寂しく、つまらなく見えます。



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 生きる奇跡

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この世のあらゆるものは「当たり前」と思った瞬間に色あせる。

それを「奇跡」と思ったとたんに輝く。

たとえば一輪の花を見て、当たり前ジャン、と思ったとたんに花は枯れる。

感動がなくなるからだ。

見つめて、その美しさを「奇跡だ・・」と感じた瞬間に花は永遠の命を得る。

魂の震えが止まなくなるからだ。

この世の中のものは全てが奇跡である。

ならば、どうということもない自らの存在も―全てが奇跡なのだから―むろん奇跡である。

奇跡と見なせば、どうでもいい存在の自分も輝いて見える、と信じたいところだが中々そうはいかない。

なので奇跡を求めて、今日も懸命に生きていくしかない。













それでも欧州の良心は死なない

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アフリカに最も近いイタリアの地、ランペドューサ島への難民・移民の流入が続いている。冬に向けて荒れる海が気候変動の影響で凪いでいるのも一因だが、難民・移民を密航させて儲ける人身売買業者が暗躍して、難民・移民を次々に海欧州へと送り出しているのだ。

むろん問題の大元には、難民・移民の故郷が戦乱や政変で荒廃し迫害された人々が貧困にあえがなければならない厳しい現実がある。人々はそこから逃れようとして人身売買業者の甘言にすがりつく。

EUは、難民・移民危機がピークだった2015年前後の状況にも迫ろうとする、渡りの群集の増大に危機感を抱いて、彼らの転入をより厳しく制限する方向に舵を切り、危機規制という名の協定を加盟国間で結んだ。

EU加盟国は、イタリアやギリシャなどの難民・移民の上陸最前線の国々に寄り添う形で規制を強化し、各国が多くの移民申請者を自国に受け入れるか、割り当てられた移民の受け入れを拒否する場合は1人当たり2万ユーロを支払うか、またはインフラや人材支援に資金を提供する義務を負うことになった。

また加盟各国は流入した難民・移民をこれまでは最長12週間拘束することができたが、協定によって20週間まで伸ばすことができるようになる。これは場合によっては、難民・移民が彼らの故国に送り返されるリスクが高まることを意味する。また難民手続きが遅滞し大規模な監禁につながる危険も高まる。

協定の成立までには紆余曲折があった。特に難民・移民の最初の上陸地となるイタリアは流入の制限に積極的だったが、多くの難民・移民が移住を希望するドイツは、厳しい制限は人道上ふさわしくないとして反対してきた。

イタリアは難民・移民を乗せた船舶の寄港を制限する動きに出たが、ドイツは難民・移民を乗せてイタリアの港を目指す同国籍のNGOの船舶に支援金を出すなどして、イタリアの反発を買った。

そのドイツも最終的にはイタリアの批判に折れる形で、危機規制協定に調印した。EUで最も寛大な移民措置を取ってきたドイツがついに規制に動き出すのは、難民・移民危機がいかに深刻化しているかの証だ。

それでもEUを中心にする欧州は、難民・移民の受け入れを今後も続けることは疑いがない。難民・移民に厳しそうに見えるイタリアは、せっせと彼らを救出し受け入れてきた。片やドイツは労働力の確保という実利を見つめてはいるものの、道義という意味ではイタリアをはるかに凌ぐ勢いで困難に陥った人々を支援してきた。

ほかの欧州の国々も、程度の差こそあれ基本的には難民・移民を温かく迎えてきた。いうまでもなく彼らを嫌う欧州発のネトウヨヘイト系差別主義者も存在するが、「欧州の良心」が常に勝利を収めてきたのだ。

EUひいては欧州の国々は、時には対立することがあっても、難民と移民の違いさえ知らない為政者や国民も多いように見える例えば日本などに比べれば、とてつもなく広い心で困窮した人々を救っていくだろう。

救い続けていくと信じたい。



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皇太子を「王太子」と言い換えるペテンの悲哀

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中東などの皇太子をあえて「王太子」と名づけたがる者がいる。

皇太子を「王太子」と言うのは、野球の早慶戦を「慶早戦」とわざと言い換えるようなものだ。

要するに、関係者だけが悦に入っている図が明白な、バカの大壁である

この場合の関係者とは、ネトウヨヘイト系排外差別主義者と僕が規定している日本洞窟内の民族主義系住民

彼らは支配者である天皇を他の支配者とは違うと見る欺瞞の心根と、欧米への劣等意識の裏返しである差別感情から、中東域の皇太子のみを敢えて王太子と言い換えたがる。

その証拠に彼らは、例えば英国王室の皇太子を王太子と言い換えようとは夢にも思わない。

決まって欧米外の王室の世子のみをそう呼ぼうとする。それは偏見差別体質の現れ以外のなにものでもないのである。

天皇は元々は、世界のあらゆる国の王や帝王や皇帝と同じく、抑圧と殺戮と暴力によって民衆の上に君臨した権力者である。皇太子はその後嗣であり次代頭首だ。

つまり天皇も皇太子も共にアナクロな概念であり反民主主義的な存在である。

その後天皇は象徴となり、やがて平成の天皇の如き崇高な人格者も出た。その源である天皇家は尊敬に値するものだ。

だが天皇は、日本洞窟内民族主議者が悪用する可能性を秘めた「天皇制」に守られた存在である限り、あくまでも否定的なコンセプトでもある。

世界の主要国の中には、未だに王権あるいは王権の残滓にひれ伏す日本や英国のような国もある。

2国は民主主義国家でありながら、実は未だに王権の呪縛から精神を解放できない後進性を持つ、似非民主主義国家だ。

なぜなら真の民主主義国家では、国家元首を含む全ての公職は、主権者である国民の選挙によって選ばれるべきものだからだ。

それは「全ての人間は平等に造られている」 という人間存在の真理の上に造られた制度であり哲学だ。

人が皆平等である真の民主主義世界では、王権や天皇権があたかも降臨した如くひとりの人間や家族に与えられることはない。

天は人の上に人を作らず、天は人の下に人を作らない。

人は学び努力をすることで人の上に押し上げられ、身を粉にして世に尽くすという約束をすることで、選挙を介して首班や国家元首になるべきだ。

生まれながらにして人の上に立つ人間の存在を認めるのは、愚かであり欺瞞であり恥ずべきことである。

皇太子を王太子と言い換えたがる者はその権化だ。彼らは精神の昏睡による暗黒の中にいる。

早く覚醒したほうがいい。








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移民嫌いのネトウヨの皆さんは彼らを助けて目的を達成すればよい  


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イタリアのジョルジャ・メローニ首相は、地中海からの大量移民の抑制を公約に掲げてほぼ1年前に政権を握った。

だが地中海を介してイタリアに流入する難民・移民の数は増え続けている。

理由はアフリカ、中東地域の政治混乱や貧困、また紛争や迫害などから逃れたい人々が海に向かうからである。

また、そうした人々を密航させる人身売買業者が暗躍して、難民・移民を意図的に作り出し欧州に向けて運んでいるという側面もある。

難民・移民移送で稼ぐ多くの人身売買業者が、貧しい人々の背中を押して海へ、イタリアへ、ひいては欧州へと向かわせるのである。

イタリア右派政権は「人々を誘い鼓舞して欧州へと密航させる業者を撲滅するのが最重要課題だ。だが同時に、不法移民も厳しく取り締まるべき」と声高に主張する。

その右派の中の強硬な人々、つまり例えば日本のネトウヨ系排外差別主義者の政治・経済・文化人などに似た勢力は、国境を閉ざし鉄条網を巡らせ壁を作ってそれらの移民を排除しろと叫ぶ。

だがそれは愚かな主張だ。なぜなら腹を空かせたそれらの難民・移民は、いくら国境を閉鎖しても壁を乗り越え、金網を破って侵入する。

飢餓に襲われている者を排斥することはできない。彼らは生きるために文字通り「必死」で国境に殺到し、そこを突破する。

飢えは死の恐怖と同義語だ。死に直面した人々を止めるものは何もない。

人類の起源を辿るときにはミッシングリンク、あるいは失われた環(わ)がよく議論される。謎とされるミッシングリンクだが、飢餓が生んだ現象と考えれば辻褄が合う。

つまりミッシングリンクは、飢えたわれわれの祖先が、自らと同類の原始の民を殺しては食べつくしたことで生じた空白である。

そのことからも分かるように飢えて切羽詰っている者を抑えるのは不可能なのだ。飢餓に瀕した者、という意味では現代の難民・移民も同じだ。

ならばどうするのか。

解決策の第一は、難民・移民の故国に政情安定と経済発展がもたらされることである。それは彼らの自己責任によって成されるべきことだ。

しかしそれだけでは全く不十分だ。不可能と言ってもいいだろう。そこには先進国の支援がどうしても必要である。

それ故に本気で彼らの流入を阻止したいなら、彼らと彼らの国を支援して人々がそれぞれの国で平穏に生きていけるようにしなければならない。

従って、難民や移民を遠ざけておきたいと願うイタリアの強硬右派勢力や、日本のネトウヨ系排外差別主義者の皆さんは、その目的達成の為に誰よりも率先して「難民・移民支援」にまい進するべきなのである。





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桃太郎にマフィア鬼の退治を頼んでみたい

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ことし1月に逮捕され収監されていたマフィアの最後の大ボス、マッテオ・メッシーナ・デナーロが死亡した。61歳だった。

大ボスは逮捕時には癌の治療を受けていた。獄中でもそれは続けられ悪化して病院に移送された。彼はそこで死んだ。

メッシーナ・デナーロは1993年から逃亡潜伏を続けていた。そうしながらさまざまな秘密の場所から一貫して部下に命令を出していたと考えられている。

彼の前にはボスの中の大ボス、トト・リイナが、1993年に逮捕されるまでの24年間姿をくらましていた。

圧巻は2006年に逮捕されたベルナルド・プロヴェンツァーノである。彼は時には妻子まで連れて43年間隠伏し続けた。

3人とも逃亡中のほとんどの期間をシチリア島のパレルモ市内で過ごした。

プロヴェンツァーノが逮捕された時、マフィアのトップの凶悪犯が、人口70万人足らずのパレルモ市内で、時には妻子まで引き連れて40年以上も逃亡潜伏することが果たして可能か、という議論がわき起こった。

それは無理だと考える人々は、逮捕直前にイタリアの総選挙で政権が交替したのを契機に何かが動いて、ボス逮捕のGOサインが出たと主張した。

デナーロのケースでも、彼が30年の長きに渡って逃亡潜伏し続けられたのはなぜか、という強い疑問が起こった。疑問は今も問われ続けている。

僕はマフィアの構成員がシチリア島内で逃亡潜伏するのは比較的たやすいことではないか、と考えている。いわゆる『オメルタ(沈黙)』がそれを可能にするのである。

『オメルタ』は、仲間や組織のことについては外部の人間には何もしゃべってはならない。裏切り者は本人はもちろんその家族や親戚、必要ならば 友人知人まで抹殺してしまう、というマフィアのすさまじい掟である。

シチリアは面積が四国よりは大きく九州よりは小さいという程度の島である。人口は500万人余り。大ボスはシチリア島内に潜伏していたからこそ長期間つかまらずにいた。

四方を海に囲まれた島は逃亡範囲に限界があるように見える。しかし、よそ者を寄せつけない島の閉鎖性を利用すれば、つまり島民を味方につければ、 逆に無限に逃亡範囲が広がる。

司法関係者や政治家等々の島の権力者を取り込めばなおさらである。

そうしておいて、敵対する者はうむを言わさずに殺害してしまう鉄の定めオメルタを、島の隅々にまで浸透させていけばいい。

マフィアはオメルタの掟を容赦なく無辜の島民にも適用していった。島全体に恐怖を植えつければ住民は報復を怖れて押し黙り、犯罪者や逃亡者の 姿はますます見えにくくなっていく。

オメルタは犯罪組織が島に深く巣くっていく長い時間の中で、マフィアの構成員の域を超えて村や町や地域を巻き込んで拡大し続けた。

冷酷非道な掟はそうやって、最終的にはシチリア島全体を縛る不文律になってしまった。

シチリアの人々は以来、マフィアについては誰も本当のことをしゃべりたがらない。しゃべれば報復されるからだ。報復とは死である。

人々を恐怖のどん底に落とし入れる方法で、マフィアはオメルタをシチリア島全体の掟にすることに成功した。

オメルタが高く厚い壁となって立ちはだかり、マフィアを保護する。そうやって稀代のマフィア鬼の多くが悠々と逃亡、潜伏を続けることができた。

だが一方では言うまでもなく、多くのシチリアの島民がマフィアとオメルタに敢然と立ち向かっている。その最たるものがマフィアに爆殺されたファルコーネ、ボルセリーノの両判事である。

シチリア島民は世界中の誰よりも強くマフィアの撲滅を願っている人々だ。マフィアとの彼らの闘いは、今後も折れることなく続いていくだろう。

メッシーナ・デナーロは旧世代のマフィアの最後のボスだったとも見られている。

彼以後の若いマフィアは、寡黙でビジネスライクに悪事を働く姿の見えない存在である。デナーロは新旧のマフィアをつなげる最後のボスだった。

彼の死は古いタイプのマフィーオーゾ(マフィアの構成員)の消滅を象徴するが、それはマフィアの死を意味するものではない。

組織が地下に潜り、スーツにネクタイを締めてネットで麻薬の販売や売春の手配、また詐欺や殺人を指示する「見えないマフィア」は、むしろより危険になったと考えたほうが理に適う。




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老共産主義者の一徹 

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イタリアのジョルジョ・ナポリターノ前大統領が922日、入院先のローマの病院で死去した 。98歳だった。

前大統領は南部ナポリ生まれ。第2次大戦中にレジスタンス運動に加わり20歳で共産党入りした。

若いころは国王に似た容姿や物腰から赤いプリンスと呼ばれ、徐々に筋金入りの共産主義者へと変貌していった。

赤いプリンスは下院議長、閣僚、欧州議会議員などを経て2006年、共産党出身者として初めての大統領に就任。

同大統領は1期目7年の任期が終わろうとしていた2013年、強く請われて2期目の大統領選に出馬した。

イタリアは当時、財政危機に端を発した政治混迷が続き、総選挙を経ても政権樹立が成らない異常事態に陥っていた。

そこに新大統領決定選挙が実施されたが、政治混乱がたたって事態が紛糾し、次期大統領が中々決まらなかった。

事実上政府も無く、大統領も存在しないのではイタリア共和国は崩壊してしまいかねない。

強い危機感を抱いた議会は、高齢のため強く引退の意志表示をしていたナポリターノ大統領に泣きつき立候補を要請した。

大統領は固辞し続けたが、最後は負けて「仕方がない。私には国に対する責任がある」と発言して立候補。圧倒的な支持を受けて当選した。

87歳という高齢での当選、また2期連続の大統領就任も史上初めてのことだった。

だが何よりも国民は、立候補に際して大統領がつぶやいた「私には国に対する責任がある」という言葉に改めて彼の誠実な人柄を認め、同時に愛国心を刺激されて感銘した

イタリア人ではない僕は、ナポーリターノ大統領が不屈の闘志一念の共産主義者である事実にも瞠目しつづけた。

政治体制としての共産主義には僕は懐疑を通り越して完全に否定的だが、その思想のうちの弱者に寄り添う形と平等の哲学には共感する。

そしてその思想はもしかすると、私利私欲に無縁だった老大統領の、ぶれない美質の形成にも資したのではないか、と考えて強い感慨を覚えたりするのである。

欧州最大の規模を誇ったイタリア共産党が崩壊して大分時間経つ。

ナポリターノ前大統領の死去によって、かすかに命脈を保っていた旧共産党の残滓が完全に払拭された、と感じるのは僕だけだろうか。




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欧州の終わらない難民・移民危機


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イタリアへの難民・移民の流入が止まらない。イタリアは歴史的に移民の流入に慣れている。ローマ帝国時代から地中海を介して多くの人々が行き交ったからだ。

だが近年の難民・移民の上陸には政治的な思惑も色濃く反映して問題が複雑化している。言うまでもなくそれはEU(欧州連合)をはじめとする欧州全体の国々に共通する課題である。

ことし1月から9月半ばまでの間にイタリアには129、869人の難民・移民が押し寄せた。それは難民危機が最高潮に達した2015~2016年に迫る数字だ。

右派のジョルジア・メローニ首相は移民の規制強化を選挙公約にしてきた。政権の座に就いてからも彼女は一貫して反移民のスタンスを貫いている。

それでも難民・移民の流入は止まらない。むしろ増えている。

強い危機感を抱いた彼女はEUに窮状を訴えた。すると欧州委員会のフォンデアライエン委員長が、難民・移民が多く流入するイタリア南部のランペデゥーサ島を訪問、視察した。

欧州連合はリベラル保守勢力が優勢だが、強硬右派のメローニ政権の訴えに耳を傾けることも多くなっている。イタリア以外の国々の危機意識も一段と強くなっているからだ。

イタリアに到着する難民・移民は、そこを経由地にして欧州全体、特に北部ヨーロッパを目指して旅をしていく者が多いのである。

難民危機真っ最中の2015年9月、ドイツのメルケル首相はハンガリーで足止めされていた難民・移民100万人あまりをドイツに受け入れた。

その後、メルケル首相の政策は批判され、欧州は移民に対して厳しい方向に動いている。だがそれは欧州が移民に扉を閉ざすことを意味しない。

欧州は今後も人口減少傾向が続くだろう。移民を受け入れて労働力を確保し、彼らの子供たちが教育を受け社会に溶け込み融合して、欧州人として成長していくことを認める以外に生き残る道はない。

極右とも規定されるメロ-ニ首相でさえそのことを知悉している。だからこそ彼女は、例えば日本のネトウヨ系排外差別勢力のように「移民絶対反対」などとは咆哮せず、飽くまでも不法移民を排斥しようと主張する。

法治国家である限り、社会は法に支配され庇護されてしか存在し得ない。従って彼女の主張は正しい。

だが問題は例によって、極右勢力などが我が意を得たりと勇んで、反移民感情が徐々に醸成されることだ。

放置するとそれは拡大強調されて、ついには社会全体が不寛容と憎悪の渦巻くファシスト支配下のような空気に満たされかねない。

イタリアを含む欧州が、難民はさておき、移民への寛大な施策を捨ててより厳しい規制をかける方向に動き出せば、その危険は高まるばかりだ。





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伯爵家の流転変遷


ことしの正月、Facebookに次のような投稿をしたが、ここに転載するのをすっかり忘れていたので、記憶また記録の意味合いであらためて掲載しておくことにした。

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あけましておめでとうございます
普段は夏の間だけ住まう北イタリア・ガルダ湖畔にある妻の実家の伯爵家で、生涯初の(妻にとっても)クリスマスまた正月を過ごしています。300年来の疲弊で館の雨漏りがひどく、大改修するために夫婦泊まり込みで修復作業の管理中です。館は維持費が嵩むため追いつかず、週末に結婚披露宴会場として貸出し有料での訪問客も受け入れることにしました。英国の貴族家などではかなり昔から導入されている館維持のための方策ですが、何事につけ遅れているイタリアでは最近まで余り例がありませんでした。週末だけとはいえ公開に踏切りましたので、ここにも投稿することにしました。ことしもまたFBではブログ紹介・告知記事などでお騒がせすると思います。本年もよろしくお願い申し上げます。
参照:


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敬老の日という無礼

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日本では今日9月15日は老人の日で、4日後の9月18日は敬老の日とされている。

先年亡くなったイタリア人の義母が間もなく90歳になろうとしていた頃、日本には「敬老の日」というものがある、と会食がてらに話したことがある。

義母は即座に「最近の老人はもう誰も死ななくなった。いつまでも死なない老人を敬う必要はない」と一刀両断、脳天唐竹割りに断罪した。

老人は適当な年齢で死ぬから大切にされ尊敬される。いつまでも生きていたら私のようにあなたたち若い者の邪魔になるだけだ、と義母は続けた。

そう話すとき義母は微笑を浮かべていた。しかし目は笑っていない。彼女の穏やかな表情を深く検分するまでもなく、僕は義母の言葉が本心から出たものであることを悟った。

老人の義母は老人が嫌いだった。老人は愚痴が多く自立心が希薄で面倒くさい、というのが彼女の老人観だった。

そしてその頃の義母自身は僕に言わせると、愚痴が少なく自立心旺盛で面倒くさくなかった。

それなのに彼女は、老人である自分が他の老人同様に嫌いだという。なぜならいつまで経っても死なないから。

僕は正直、死なない自分が嫌い、という義母の言葉をそのまま信じる気にはなれなかった。それは死にたくない気持ちの裏返しではないかとさえ考えた。

義母は少し足腰が弱かった。大病の際に行われたリンパ節の手術がうまく行かずに神経切断につながった。ほとんど医療ミスにも近い手違いのせいで特に右足の具合が悪かった。

足腰のみならず、彼女は体と気持ちがうまくかみ合わない老女の自分がうとましい。若くありたいというのではない。自分の思い通りに動かない体がとても鬱陶しい。いらいらする、と話した。

もう90年近くも生きてきたのだ。思い通りに動かない体と、思い通りに動かない自分の体に怒りを覚えて、四六時中いら立って生きているよりは死んだほうがまし、と感じるのだという。

そういう心境というのは、彼女と同じ状況にならない限りおそらく誰にも理解できないのではないか。体が思い通りに動かない、というのは老人の特性であって、病気ではないだろう。

そのことを苦に死にたい、という心境は、少なくとも今のままの僕にはたぶん永遠に分からない。人の性根が言わせる言葉だから彼女の年齢になっても分かるかどうか怪しいところだ。

ただ彼女の潔(いさぎよ)さはなんとなく理解できるように思った。彼女は自分の死後は、遺体を埋葬ではなく火葬にしてほしいとも願っていた。埋葬が慣例のカトリック教徒には珍しい考え方である。僕はそこにも義母の潔さを感じた。

また義母は将来病魔に侵されたり、老衰で入院を余儀なくされた場合、栄養点滴その他の生命維持装置を拒否する旨の書類も作成し、署名して妻に預けていた。

生命維持装置を使うかどうかは、家族に話しておけば済むことだが、義母はひとり娘である僕の妻の意志がゆらぐことまで計算して、わざわざ書類を用意したのだ。

義母はこの国の上流階級に生まれた。フィレンツェの聖心女学院に学び、常に時代の最先端を歩む女性の一人として人生を送ってきた。学問もあり知識も豊富だった。

彼女が80歳を過ぎて患った大病とは子宮ガンである。全摘出をした。その後、苛烈な化学療法を続けたが、彼女は副作用や恐怖や痛みなどの陰惨をひとことも愚痴ることがなかった。

義母は90歳になんなんとするその頃までは毎日を淡々と生きていた。

理知的で意志の強い義母は、あるいは普通の90歳前後の女性ではなかったのかもしれない。ある程度年齢を重ねたら、進んで死を受け入れるべき、という彼女の信念も特殊かもしれない。

だが僕は義母の考えには強い共感を覚えた。それはいわゆる「悟り」の境地に達した人の思念であるように思った。理知的ではなかったが、「悟り」というコンセプトで見ると僕の死んだ母も義母に似ていた

日本の高齢者規定の65歳を過ぎたものの、当時の義母から見ればまだ「若造」であろう僕は、この先運よく古希を迎えさらに80歳まで生きるようなことがあっても、まだ死にたくないとジタバタするかもしれない。

それどころか、義母の年齢やその先までも生きたいと未練がましく願い、怨み、不満たらたらの老人になるかもしれない。いや、なりそうである。

そこで義母を見習って「死を受容する心境」に到達できる老人道を探そうかと思う。だが明日になれば僕はきっとそのことを忘れているだろう。

常に死を考えながら生きている人間はいない。義母でさえそうだった。死が必ず訪れる未来を忘れられるから人は老境にあっても生きていけるのだ。だが時おり死に思いをめぐらせることは可能だ。

少なくとも僕は、「死を受容する心境」に至った義母のような存在を思い出して、恐らく未練がましいであろう自らの老後について考え、人生を見つめ直すことくらいはできるかもしれない。

自らでは制御できない死の時期や形態を想像して「いかに死ぬか」を考えるとは、つまり、いかに生きるか、という大きな問いを問うことにほかならない。

義母は当時、足腰以外はいたって元気だった。身の回りの世話をするヘルパーを一日数時間頼むものの、基本的には「自立生活」を続けていた。そんな義母にとっては「敬老の日」などというのは、ほとんど侮辱にも近いコンセプトだった。

「同情するなら金をくれ」ではないが、「老人と敬うなら、私が死ぬまで自立していられるようにきちんと手助けをしろ」というあたりが、日本の「敬老の日」への批判にかこつけて彼女が僕ら家族や役場や、ひいてはイタリア政府などに向かって言いたかったことなのだろう。

言葉を変えれば、義母の言う「いつまでも死なない老人を敬う必要はない」とはつまり、元気に長生きしている人間を「老人」とひとくくりにして、「敬老の日」などと持ち上げ尊敬する振りで実は見下したり存在を無視したりするな、ということだったのだろうと思うのである。


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