【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

同じ極右なのに月とスッポンポンの伊日女性首相

若Meloni&高市699

僕は高市早苗首相の動静を、ここイタリアのジョルジャ・メローニ首相と対比しながら監視してきた。

2人には大きな共通点がある。何よりもまずそれぞれが両国初の女性首班であること。両氏ともファシスト的な気迫の政治スタンスやメンタリティーを持つ右派政治家である点だ。

メローニ首相は、15歳でファシスト党の流れを組むMSIに参加し、活発な右翼活動家となった。

2012年には同じ流れの極右政党、イタリアの同胞を結成。その泡沫政党を率いて党勢を拡大させ、2022年総選挙で第一党に躍り出てついに政権を奪取。イタリア初の女性首相となった。

政敵にネオファシストとさえ批判されたメローニ首相は、政権樹立後は中道寄りの現実路線にシフトして、イタリアのみならず欧州全体でも一目おかれる「保守政治家」になった。

政治的にも極端な言動は鳴りをひそめ、対立する政治勢力を敵視するのではなく、意見の違う者として会話や説得を試みる姿勢が顕著になった。

そうした変化が可能になったのは、彼女がイタリアのトップとして統率力を発揮し、支持基盤であるイタリアの同胞に始まる極右モメンタムを抑えているからだ。

片や高市首相は、日本のトップとしての独立した強い権限や独自性はなく、自民党内の安倍残党歴史修正主義一派、日本会議、神社本庁ほかの祭祀陰謀団、また全国に蠢くいわゆる自称文化人やアカデミック層また芸能人などを含む、有象無象のネトウヨヘイト系国民によって操られるパペットであることが明らかになりつつある。

ふたりは元々かけ離れた右翼活動家ではある。ひとことで言えば、メローニ首相が明の右翼政治家、片や高市氏は陰にこもったキャラクターだ。

もっと言えば高市氏は自ら大いに右翼運動を担うのではなく、例えば安倍元首相に庇護されて四囲を睥睨したように威光を笠に着て凄むタイプ。

一方のメローニ氏は自ら激しく動いて道を切り開くタイプだ。

僕は先日、「高市首相は、独裁者気質のトランプ大統領や、極右とも批判されるここイタリアのメローニ首相もできない急カーブのファシスト街道を走りまくって、すわ!中国と開戦、というゴールに飛び込まないとも限らない」

と書いた。

すると高市首相は後日、あっと驚く「台湾有事は日本の存立危機事態」の国会発言をかまして、露わすぎるほど露わに自らの本性を激白した。

高市首相の―あえて大げさな意味合いで言うと―中国への宣戦布告じみた日本の存立危機事態発言は、彼女が仲間のネトウヨ人士らとの会合で気勢を上げるノリで口に出したものだろう。

高市早苗氏は、たとえ逆さに吊るして振り回しても“極右”という毒素しかこぼれ出ない政治家だ。

それでも日本のトップに押し上げられることで、政治的にも人間的にも成長するのではないか、と僕は密かに応援する気持ちでもいた。ここイタリアのメローニ首相がそうであるように。

だがそれはしょせん、大いなる無いものねだりだったようだ。

高市首相は英国のサッチャー首相に憧れていて、彼女のようになりたいと願うらしい。だが、それはあまりにも大それた願望だ。

岩盤支持層に操られるだけの彼女が、大化けにバケてここイタリアのメローニー首相の域にでも変貌できれば、上等以上に上出来だ。だが彼女はそこにさえ至らないようだ。

そうであれば高市首相は、近いうちに詰め腹を切らされる宿命だろうが、日本国民を戦争の崖っぷちにまで追い込んだ責任は重い。




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高市首相は世界ネトウヨ連盟のくび木から早急に抜け出せ

高市キンペー合成650

開いた口が未だに塞がらない。

高市早苗首相の台湾有事・日本存立危機発言とそれに対する中国の反応のことである。

どっちもどっちだ。

貧弱な政治文化の本質がてんこ盛りになった、恥ずかしくも見苦しい言動の数々だ。

高市首相が、台湾有事は日本の存立危機事態と口を滑らせたのは、日本の過去の蛮行を認めない歴史修正主義に凝り固まった精神が言わせたものだろう。

国際政治を知らず、従って外交に疎い迷妄もあるが、中国への深い蔑視と敵愾心も秘匿されている。日本のトップの人物がWEB上で汚い言語を撒き散らすネトウヨに似ているのは寂しい。

これに対して、大阪在の薛剣中国総領事が「勝手に突っ込んできた汚い首を斬ってやる」と、汚い首に付いた汚い口から腐臭を放つ言葉を投げつけた。

中国政府もこれを諌めるどころか、似たり寄ったりの野蛮醜悪な言動を続けている。

それらは“アジア”に共通した未開で好戦的な政治精神の発露だ。ここで言う“アジア”とは、外交も民主主義も理解しない中国的、アラブ的また日本極右的な勢力の全てである。

そこには無論ロシアも北朝鮮も含まれる。またネタニヤフのイスラエル、エルドアンのトルコもりっぱな、いや、“アジア”以上の“アジア”であることは論を俟たない。

最近そこには信じがたい巨大パワーも加わった。言わずと知れたトランプ主義が席巻するアメリカだ。

日本は一刻も早くそれらの「ああ喚(わめ)けばこう叫んで背中に斬りつける」蛮人連合体から抜け出したほうがいい。

そうしておいて意識改革を断行し、欧州並みの政治文化また文明を獲得する努力をするべきだ。

それにはどうするか。ひとえに過去の蛮行を認めて反省し、被害者の国と国民に腹からの謝罪を行って生まれ変わる以外には方法がない。

僕は再び、再三再四、繰り返し何度でも主張する。ドイツを見習え。イタリアを意識しろ。

僕は11月3日、「高市首相は、独裁者気質のトランプ大統領や、極右とも批判されるここイタリアのメローニ首相もできない急カーブのファシスト街道を走りまくって、すわ!中国と開戦、というゴールに飛び込まないとも限らない」

とここに書いた。

それから4日後の11月7日、高市首相は 台湾有事は日本の「存立危機事態になりうる」と既述のあっと驚く国会発言をかまして、露わすぎるほど露わに自らの本性を激白したのだ。

高市首相の―あえて大げさな意味合いで言うと―中国への宣戦布告じみた日本の存立危機事態発言は、彼女が仲間のネトウヨ人士らとの会合で気勢を上げるノリで口に出したものだろう。

高市首相の先の大戦は侵略戦争ではないに始まる一連の歴史修正主義発言や靖国称揚思想、テレビ局への停波するぞ恫喝などのファシスト気質を知りつつ、また政治信条的にも大いに疑問を抱きつつも僕は密かに彼女の❝化け❞を期待してきた。

ここイタリアのジョルジャ・メローニ首相に重ねて彼女を見ようとしたのだ。

イタリア初の女性首相となったジョルジャ・メローニ氏は、ファシスト党の流れを汲む「イタリアの同胞」を率いて選挙を勝ち抜いた。

ところがメローニ氏は、首相になると同時に険しい表情をゆるめ、極右独特の厳しい言動を控えて、いわば強硬右派とでも呼ばれるべき穏健な道を歩みだした。

高市早苗首相は、たとえ逆さに吊るして振り回しても“極右”という毒素しかこぼれ出ない政治家だが、日本のトップに押し上げられることで政治的にも人間的にも成長するのではないか、と僕は密かに応援する気持ちでもいたのである。

だがそれはしょせん、大いなる無いものねだりだったようだ。

高市首相は彼女の岩盤支持層である日本極右勢力、即ちネトウヨヘイト系差別主義者の国民や自民党安倍礼拝族、また日本会議や国家神道など同じ穴の貉会が一体になった、日本ほぼカルト 勢力に呑み込まれあるいは同調して、結局独自の政治信条も無いままさらに右へと急カーブを切り続け、ついには昏倒する運命であるように見える。




記事と写真そのⅡ

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投稿記事と写真の関係についてたくさんのコメントやメッセージをいただいた。御礼申し上げる。

 読み進めるうち、結構深掘りに考えていらっしゃる方が多いらしい雰囲気におどろいた。 

それはひとえに僕の説明の仕方が悪い、つまり文章が拙いせいなのだろう。同時に皆さんが何やら考え過ぎているように見えなくもない。 

そこでまた少し説明をすると、要するに僕の手中にスマホがあるので、簡単に写真を撮っておき気ままに文章に貼り付けているというだけの話である。 

何か意味があるとすれば、写真を思い出や記録や資料やデータ等々にする目的ではなく、FB記事に貼付する、というはっきりした考えを抱いてぱちぱちシャッターを切っているという点だけだろう。

 僕は下手なTVディレクターでロケハンにも多く行くが、写真はほとんど撮らず、常に「メモ」という文章で記録を取って、ロケへ向けての準備を進める習いで来た。 

もしも仕事全盛の頃にスマホがあれば、どれだけ膨大な写真資料があって、どれだけ面白い写真がFBに掲載できただろう。。と残念がりながらの写真貼りである。 

写真は飽くまでもオマケなので、皆さん文章をひとつ、シク、よろしくお願いしますよ。ほんとに。







SNSの記事と写真はほぼ無関係

紅葉越しに隣家650

SNSの記事と貼付する写真はどんな関係があるのか、というコメントをいただいた。

結論を先に言えば、旅や料理や身の回りのあれこれといった個人的な報告は別にして、基本的に記事と写真は関係がない。

シンボリックな絵を掲載している、などと言えば格好がいいのだろうが、写真よりも文章が大事と思っているので実は掲載写真は、ま、二の次という思いだ。

掲載するほぼ全ての写真は僕が記事に貼付する心積もりで撮ったものだ。

二の次だ、どうでもいい、と思いつつも結構気を使って撮影し、掲載分の一枚を慎重に選んでいると言えば、およその状況がお分かりいただけるだろうか。

僕のSNSでの活動は先ずブログから始まった。そこでは写真は一切貼り付けなかった。文章で勝負、と密かに意気込んでいた。

絵もあったほうがいいと言われて、著作権フリーの無償写真サイトから引っ張ってきては少しずつ貼り付けた。

やがてFBにも転載するようになって無償サイトの写真が居心地悪くなった。

グログが間接的であるのに比べてFBは直に読者と接する感覚がある。すると写真は輪郭が暈けていると感じるようになったのだ。

著作権フリー写真と銘打っているWEBサイトの真贋も気になった。

そこで徐々に自分で撮った写真を貼付する使ようになった。

ブログでは今も無償写真を使う。

しかし気分はそれほど良くない。

サイトの写真は本当に著作権がクリアになっているのかどうかが、やはりどうしても気になるのである。

しばらく今のままで行くが、そのうち文章だけで勝負という気持ちになって、ブログもFacebookも写真掲載をやめるかもしれない。



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トランプの終わりの始まりが見えたかも。なの?

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アメリカ発の良いニュースと悪いニュースが飛び交っている。

最新の良いニュースは、トランプ大統領の支持率が急速に悪化していること。

悪いニュースは、それでもトランプ主義が引き続きアメリカを席巻しそうなことだ。

もうひとつの良いニュースと悪いニュースもある。

良いニュースはトランプ支持率が落ちているにもかかわらず、対抗する民主党支持率が上昇していないこと。

悪いニュースは、従って、民主党の早い政権奪取はありそうもないことだ。

今、は?とつぶやいた人も多いだろう。

要するにリベラルの民主党に政権を担ってほしいが、今のままの民主党ではNG、というのが僕の言いたいところだ。

民主党はトランプ主義者のエミリー・フィンリーが指摘した、「民意を無視し、平等、多様性、移民包容など、民主党が認める主張だけを“民意”として容認、やがてそれに合わない主張を排除」する“エリート主義”をかなぐり捨てなければ、“トランプの意のまま共和党”に勝つことはできない。

それどころか個人的には「勝ってはならない」とさえ思う。

なぜならリベラルとしての民主党が、平等の理念を全うし民衆の真のニーズや価値観や思いに寄り添って歩む本来の姿に立ち返らない限り、政権を担うべきではない。

それにしても、負け犬とはいえ米民主党は、トランプ大統領に噛み付き勝手を許さない動きを繰り返している。

ここイタリアでも敗者の民主党などの左派が、右派のメローニ政権に挑んで独断専横を監視している。他の欧州諸国も似たり寄ったりだ。

ところが日本はどうだ。結束すれば自維政権を袋小路に追い込むこともできるはずの野党が、特に立憲民主党のだらしなさ故にひたすら無力全開だ。

今のままの状況では高市首相は、独裁者気質のトランプ大統領や極右とも批判されるここイタリアのメローニ首相もできない急カーブのファシスト街道を走りまくって、すわ!中国と開戦、というゴールに飛び込まないとも限らない。



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男芸者に憧れて女芸者が生まれた

高市安倍合成650

高市早苗首相は、先の大戦は日本の侵略戦争ではなかったと言い張るだけで、紛れもなく歴史修正主義者であり極右である。

そんな人物が日本のトップに据えられた。さぁ大変だ、と騒ぐのは当たらない。極右の歴史修正主義者が日本のトップになった例は枚挙にいとまがない。例えば最近では安倍元首相がそうであり菅元首相もそうだ。

残りの自民党首班も 多かれ少なかれ歴史修正主義者然とした淀んだ私意を胸に秘めているのが普通だ。

実はブレまくるが、一瞥すると善人の石破前首相でさえ、戦後80年所感で先の大戦における日本の加害責任を無視した時点で、歴史修正主義に毒されていると批判されても仕方がない。

そうしてみると高市首相が、自身が死ぬほど愛し盲従するファシスト気質の安倍元首相よりも高い人気を集めるらしいのは、彼女が極右政治家だからではなく、やはり日本初の女性首相だからと考えるのが妥当だろう。

高市首相は就任直後にASEANで外交デビューした。そこにはつわものの“男性の”各国首脳が一堂に会して高市首相を歓迎した。曲がりなりにもアジアの有力国である日本の初の女性首相に対して、ASEANの男性ボスらが最大の敬意を払うのがひしひしと伝わってきた。

ところが高市首相は、ASEAN会議から帰国してトランプ大統領に会ったとたんに、馬脚をあらわした。アメリカの“属国”たる日本の首相の本領を発揮して、トランプ大統領に徹底的に媚びる外交を展開したのだ。

阿諛外交は高市首相の専売特許ではない。特にトランプ大統領との関係では、政治上の彼女の永遠の恋人、安倍元首相の行動がただちに思い起こされる。

安倍元首相は2016年、トランプ氏が大統領選に初勝利したとき、就任前にもかかわらず世界の首脳に先駆けてトランプタワーに乗り込み彼を祝福した。

世界の大半がトランプ勝利に眉をひそめている最中に、「何らの批判精神もなく」彼に取り入った安倍氏の行為は、グローバル世論を驚かせた。

そこには安倍元首相ならではの無邪気と無教養と無恥の気質が如実に現れていた。 自尊心のかけらもないような諂笑を振りまいて恥じない日本のトップの姿は、世界の虚をついた。

トランプ大統領に思いきり媚を売る高市首相の芸者振りを見て、僕は彼女のやり方が安倍元首相を真似たものであると気づいた。

それは翻って同時に僕が、安倍元首相はトランプ接待に長けた男芸者だったのだ、ということを悟った瞬間でもあった。

「世界の真ん中で咲き誇る日本外交」という、高市首相が口にしたがるセリフはネトウヨ界隈で大いに受け、信じられているコンセプトらしい。だが、そんなものは一秒たりとも存在したことはない。

それは文化の特殊性ゆえに常に世界のはずれに置かれていることを恐れる、保守主義者及びネトウヨヘイト系の差別主義者らが、熱病に冒されたように唱える念仏に過ぎない。

日本が真に世界の真ん中で咲き誇ろうとするなら、辺境に生きることを恐れず、万彩に咲く独特な文化の花を慈しみつつ毅然として立つことだ。

そうすれば世界の側がこちらに寄り添って来て、日本を世界の真ん中に押し進めようとする。なぜなら特殊であることこそが文化の価値であり命だからだ。それを大事にする社会を世界は尊ぶ。

今回はそうなる代わりに、高市首相の残念なトランプ接待劇によって、安倍&高市芸者外交が世界の真ん中で咲き誇ることになってしまった。

しかし、ま、そうは言うものの、宮本武蔵や塚原卜伝などの優れた兵法者もかつては「芸者」(武芸者ではない)と呼ばれていたのだから善しとして、今後の展開を待つとしよう。




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愛嬌は良いが媚態は怪しい


高市サッチャー有色・白黒650

高市新首相のASEANでの押し出しはとても良かった。

僕はイタリアにいながら、各国の衛星放送とYouTube、またSNSなどを介して彼女の動静を逐一見た。

高市総理は、日本発の女性首相という後光を担いで、にこやかに鮮やかに振舞った。

ASEAN各国のつわものの首脳たちも、ただちに彼女の存在を認め、称え、歓迎した。一目どころか、三目も、七目も置く雰囲気が伝わってきた。

僕はそれまで彼女を批判的な目で見つづけながら、密かに応援する気持ちでもいた。

なぜか。ひとえに高市氏が女性だからだ。

僕は日本の強烈な男尊女卑文化を国の諸悪の根源の一つと見なす者だ。

高市首相の外交デビューは、彼女が女性であることがポジティブな効果をもたらした。それは日本の明るい未来を示唆するようにさえ見えた。

批判するにしろ称揚するにしろ、高市首相が女性であることを争点にするのは、そのこと自体が「女性差別」だという馬鹿げた議論がある。

その主張を正当化するために、「世界には既に多くの女性首相がいる。だから高市首相が女性であることを問題にするべきではない」というたわけた言い分さえ垣間見える。

それらは議論のための議論、又はああ言えばこう言う類の、奇をてらった態度だ。

世界の潮流に逆行する男尊女卑思想のくび木が、社会の淀みの原因となっている日本で、女性の高市氏が国の最高権力者になった。それは議論に値する大きな出来事だ。

そしてそれは本来なら、ただひたすらに慶賀されるべきドラマだ。

だが、彼女は女性でありながら男尊女卑の通念や政策に賛同するなど、異様な政治信条を公にしている。

ただでも話題にされるべき歴史的な出来事が、歴史を逆行するようなシナリオを内在させているのだから、話題にするなというほうが無理だ。

日本初の女性首相となった彼女は、まさに女性であるがゆえの行動原理でトランプ大統領を遇した。

そのやり方や立ち居振る舞いが、古来男に完璧に支配され続けた日本女性が強いられた様相を彷彿とさせて、女性を貶める醜態にも見えた。

高市首相は一国のトップがしてはいけない動きを何の屈託もなくやってのけた。それは、彼女が尊敬するサッチャー元首相なら嫌悪感を露に叱責するであろうような行儀だった。

メルケル元首相も眉をひそめて軽蔑するだろう。高市首相と同じ極右政治家のここイタリアのメローニ首相も-仲間意識から正面切って批判することは避けるだろうが-内心呆れたに違いない。

トランプ大統領が肩を抱き寄せても身をかわさず、逆に彼の腕に縋り付いて喜ぶ女性首相を目の当たりにした世界中の、特にアメリカの男たちは必ず「ゲイシャ」という言葉を連想してほくそ笑んだに違いない。

そして世界の女性は、彼女たちが闘い少しづつ勝ち取った女性の人権とジェンダーフリーへの取り組みが破壊され、歴史が反転後退したとさえ感じただろう。

ここイタリアでは、極右と批判されながら初の女性首相となった先述のジョルジャ・メローニ氏が、プラグマティストへと目覚ましい変貌を遂げて国民の支持を集め続けている。

僕はASEANでの高市首相の輝きを、メローニ首相に重ねて眺めて心を躍らせた。彼女はあるいは日本を大きく変える仕事をするかもしれないとさえ思った。

だがその思いは、彼女が帰国後トランプ大統領と会った時点で消えた。それどころか以前から抱き続けてきた彼女への不信感がよみがえり大きく膨れ上がった。

彼女がトランプ大統領に寄り添い、腕を組み、流し目を送り、はしゃぎまくる姿に驚愕した。それはほとんど卑猥にさえ見える動きの数々だった。

あまりの出来事に僕は初めは状況が呑み込めず-時間が前後したこともあるが-ここFBのコメント欄に彼女の媚はトランプ大統領へのそれではなく自民党の男性議員へのもの、と頓珍漢な書き込みをしたりした。

各メディアから流れ出る彼女の異様な動きはそれほど僕の理解を超えていた。アイドルに魅入られた女子高生でもそれほど見苦しい動きはしないとさえ感じた。

無知と鈍感と下品さがてんこ盛りになった彼女の動きは、世界の心ある人々の眉をひそめさせた。

そうではあるが、しかし、高市首相が成すべき最大の仕事は日本の国益の追求である。彼女がそのためにトランプ大統領に媚を売ったのであるなら、首相としての義務を果たしたことになる。

その真偽はこの先、早々と明らかになるはずである。

国益に資さない動きだったと知れた場合は、高市政権はたちまち終わりに向かって歩み出すだろう。




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高市早苗はおそらくジョルジャ・メローニになれない

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高市早苗首相は、たとえ逆さに吊るして振り回しても“極右”という毒素しかこぼれ出ない政治家だが、日本のトップに押し上げられることで政治的にも人間的にも成長するのではないか、と僕は密かに応援する気持ちも抱いたりした。

しかし、ネトウヨヘイト系差別主義者の国民や自民党安倍礼拝(らいはい)族、また日本会議や祭祀機関などの興奮を自らも共に露骨に身にまとって、来日したトランプ大統領に対し安倍元首相を上回るほどの阿諛外交を展開する姿にすっかり気が重くなった。

その気分は、高市総理がかつて、先の大戦は日本の侵略戦争ではなかったし誰にも謝る必要は無い、などという趣旨の発言を国会でくり返した記憶を呼び起こし、彼女は飽くまでも歴史修正主義者の危険な政治家なのだとあらためて確信に変わった。

高市首相は、自らの強い意志で保守主義を標榜し政治闘争を繰り広げるここイタリアのメローニ首相とはやはり違う。男に媚びあらゆる極右勢力の意向に従順なだけの危うい存在、という実体が徐々に明らかになって行くように見える。


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大相撲ロンドン公演のがっかりと、まっ、いいかと

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大相撲のロンドン公演をテレビ観戦(YouTube)した。

もう少しまともな取り組みかと思ったが、子供だましの闘いの連続だったのでがっかりした。

ケガでもしたら割りに合わないとでも思うのだろう、立ち合いのぶちかましはほとんどなく、示し合わせた動きにさえ見える立ち合いに終始した。

物言いを含む本場所での全ての要素と動きとルールを紹介するのが主目的の公演だから、取り組みの本気度は二の次なのだろうが、本場所の迫力を知る者には物足りなかった。

もっとはっきり言えば立ち合いは全て茶番にしか見えなかった。

それでも過去の海外公演や巡業に比べたらまだ見るに堪えるものだった。

いつの、どの海外公演か巡業かは記憶が判然としないが、土俵上で恥ずかしげもなく飛んだり跳ねたりする取り組みを見た覚えがある。

明らかにプロレスを意識したパフォーマンスだったから、ラスベガスかニューヨーク、あるいはハワイなど、アメリカでの猿芝居だったと思う。

取り組みそのものはそんな具合に残念な内容ではあるものの、しかし、力士、行司、審判などの多くのスタッフと、重さ6トン余りの屋形まで持ちこんでの公演は外観上は充分に見応えがあった。

BBCがインターネットで公演をライブ配信し約2万7千枚のチケットも完売。会場となった有名演劇場「ロイヤル・アルバート・ホール」には連日「満員御礼」の垂れ幕が下がった。

大相撲の宣伝を兼ねた「海外ショー」と考えれば取り組みが真剣味に欠けたものであっても仕方がないのかもしれない。

が、宣伝だからこそ大相撲の神髄である取り組みは飽くまでも真剣であるべき、という考えもある。僕は後者の立場だ。

大相撲の弟子集めが狙いなら、取り組みは否応なく真剣にならざるを得ない。

大相撲に入門する若者はハングリー精神に満ちている。ハングリー精神が旺盛でなければそもそも大相撲などに入らない。

欧州の裕福な国々の若者は、ケツ丸出しの褌が仕事着である大相撲などには気を惹かれない。英仏独伊を始めとする欧州のリッチな国出身の力士はいない。

大相撲に入ってくるのは、欧米では経済的に貧しい国や地域の出身者だ。つまり、例えばロシアやブルガリアやジョージア、また今が旬の安青錦 を輩出したウクライナなどの若者だ。

それらの国や地域で大相撲公演をする場合は必ず真剣勝負になる。

一方で大相撲の喧伝が主な目的ならショーの側面を強調するのは正しい。なぜならBBCを始めとする世界のトップメディアを抱える英国のPR発信力はすさまじい。

取り組みを見世物に仕立てて多くの人の目を惹きつけたほうが得策だ。

僕はロンドン場所の取り組みを見ながら、多くの観客に真剣な闘いを見せれば、大相撲の喧伝と同時に入門者の促進にも資することになるだろうに、もったいない、などとも考え続けた。







高市であろうがなかろうが日本極右は欧州極右よりずっと危険だ

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公明党が連立離脱というニュースが駆け巡っている。自民党の高市新総裁がほぼ自動的に首相になるどころか、誰が次の総理大臣になるのか見通せない、混とんとした状況になった。

どの党が連立に加わっても、また自民党が政権を掌握できなくても、極右化する日本の政治の危険度に変わりはないので❝高市政権が発足したなら❞という前提で意見を述べておくことにした。

高市早苗自民党総裁誕生に関する直近記事に多くの方からコメントやメッセージが寄せられた。

最も多かったのが記事の終わり:「高市政権は船出と同時により右カーブではなく左カーブ、即ち中道寄りへと政策も心情もシフトしていく」に対する疑問や反論である。

多くの方が、高市政権は左寄りにシフトする、と僕が主張したと誤解しているようだ。

極右の高市政権がリベラルになる訳がない。そうではなく、ファシスト気質の高市政権は船出と同時に❝現実路線❞を取るだろう、というのが僕の言いたいところだ。

それをしないなら、少し大げさに言えば、中国・韓国・北朝鮮、特に中国と戦火を交えない限り、彼女の極端な超国家主義者魂の立つ瀬がないだろう。

だがさすがの高市ちゃぶ台返しオヤジ首相でも、隣国と火ぶたを切るほどの狂気はまだ持ち合わせていないだろうから、とりあえずはファシストの正体を秘していわば脱悪魔化をはかる。

要するに現実路線に立ち返る、と考えたのである。

だが全く違う結果も考えられる。

高市首相は日本独特の右翼カルト暴風に吹き巻かれて、ますます右へと突き進みついには政治的に自爆死するかもしれない。

それはここ欧州の極右にはあり得ないことだ。

欧州にも右傾化の強風が吹き荒れている。

欧州に於ける極右の台頭はリベラル勢力の驕りに対する民衆の怒りもあるが、最大の要因は強い反移民感情である。増えすぎた移民に欧州の人々はいら立ち、右派はその不満を利用して勢力を伸ばしている。

だが欧州には「欧州の良心」がある。そのため各国政府による移民排斥の動きには一定のブレーキがかかる。

僕が規定する欧州の良心とは、欧州の過去の傲慢や偽善や悪行を認め、凝視し、反省してより良き道へ進もうとする“まともな”人々の心のことだ。

欧州は世界各地を侵略し殺戮をくり返し、域内の紛争も軍事力で解決するのが当たり前の、野蛮で長い血みどろの歴史を持っている。そして血で血を洗う凄惨な時間の終わりに起きた、第1次、第2次大戦という巨大な殺戮合戦を経て、ようやく「対話&外交」重視の政治体制を確立した。

それは欧州が真に民主主義と自由主義を獲得し、「欧州の良心」に目覚める過程でもあった。

欧州の良心はキリスト教の博愛の精神によって補強されより寛大な方向に展伸するが、第2次大戦後にさらに拍車がかかった。

つまりドイツ国民のナチズムへの徹底総括と深い反省、またイタリア国民の強力な反ファシズム感情がヨーロッパ中に大きな影響を与えて欧州の良心はいよいよ強固になった。

欧州に於ける政治の右傾化、また民衆の反移民感情は欧州の良心と並存している。

政治の右傾化や反移民感情は多分に感情的だが、欧州の良心には理がある。その理が政治の右傾化を監視し反移民感情に待ったをかける。制御心が働くのだ。

その情動には極右も無縁ではあり得ない。

例えば移民排斥を叫んで支持を広げ、ついには政権の座にまで就いたここイタリアのジョルジャ・メローニ首相がその好例だ。

メローニ首相は、ファシスト党の流れを汲む「イタリアの同胞」(党)を率いて反移民感情を人々の間に搔き立てては支持を伸ばし、ついには首相にまで上り詰めた。

昇りつめると彼女は政権公約を果たすべく移民規制に乗り出したが、思うようには進んでいない。いや、思うように進んでいないのではなく、彼女には移民を無慈悲に徹底的に排斥する意思はないのだ。

不法移民を規制する方向には動くものの、彼女の中にある欧州の良心がそれを抑制する。ましてや彼女は難民移民の徹底保護を主張してやまないローマ教会の信者だ。

彼女と同じ感情は欧州の右派に多かれ少なかれ宿っている。そして彼らは反移民レトリックを用いて民衆を主導し勢力を伸ばし続けている。

同時に彼らは政権の座に就くと常識的になるだろう。不法移民、悪意ある外国人は厳しく取り締まるとしつつも、欧州の良心に促されて彼らを平等に扱おうとする情動が働くのだ。

彼らは極右らしく暴力的だが、かつてのナチスのように非情な人種差別意識をむき出しにして人々に牙を剥くことはあり得ない。

欧州の今この時の極右勢力はかつてのナチスやファシストではない。

ヒトラーはヒトラーを知らなかった。だがいま欧州で最も大きな脅威と見られているドイツの極右Afdはヒトラーを知悉している。だから彼らはヒトラーの轍は踏まない。

同様にムッソリーニはムッソリーニを認識できなかったが、ムッソリーニを良く知るイタリアの同胞は、メローニ首相をより穏健な極右、あるいは中道寄りに向かう急進右派たる存在に造り変えた。

日本ではあたかも欧州の極右のように反移民をあおる参政党が躍進した。各野党もそれに近い主張をした。自民党の総裁選では高市早苗候補が外国人差別を煽る動きにさえ出た。

だが世界の国々に比較すると日本の移民の数などたかが知れたものだ。ところが参政党を筆頭にする右派は、アメリカや欧州の真似をして選挙で反移民キャンペーンを張った。つまり彼らは例によって欧米の物真似をしたのである。

そうであれば可愛いもので取るに足らない。

しかしながら、その中身は日本独特の天皇崇拝・靖国偏執跪拝・国家神道狂信・日本会議及び安倍憑依教団等々が一体になったカルトの顕れである恐れがある。

一見すると、右傾化という世界共通の現象の中にあるようだが、実はそこには属さずに孤立し鬱屈して牙を研いでいる、デモーニッシュななにかのように見えるのだ。

極右の流れが本流となり、さらに激流となって世の中を席巻するのは、中道や左派の主要政党が彼らの真似をして国民の関心を買おうと考える時だ。そうなると極右モメンタムは制御不能となって爆発する

欧州の極右の動きには因果があり筋道がある。熱に浮かされて天皇崇拝や靖国遥拝や国家神道などを叫ぶ神懸かり的な精神論が入る余地はない。

ところが日本の場合はそうした理や制御心が働かないように映るのだ。いわゆる先進国のうちでは圧倒的に少ない移民に対して、既述のように参政党が突然憎悪を爆発させ、他の保守勢力が追随する。政権党の自民党も例外ではない。

繰り返しになるが、欧米を含む世界の流行が日本で根拠なくコピーされるパターンである。だがその流行は歌やファッションの流行りではない。偏見差別と、究極には殺戮行為にまで簡単に進みかねない反移民運動の流行なのである。

それはやはり日本カルトの顕現としか形容の仕様がない異様な光景だ。カミカゼ的サイコパス政治勢力が何の障りもなく、誰にも阻止されずに当たり前に存在する、世界の中の異形の土地の恐怖だ。

異形の土地は天皇を神と崇める旧人魂と過去の対戦を総括できなかった無念の歴史事実とに守られて厳然として残った。

それに乗っかった日本極右の危険度は、ドイツAfdやイタリアの同胞、またその他多くの欧州極右とは比べものにならないほど高いのである。





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女性姿のオヤジ首相が向かう先

高市国旗

高市早苗氏が自民党総裁に選出され、ほぼ確実に次期首相になるという見方が広がっている。

僕は彼女を深い懐疑の目で観察しながら淡い期待も抱いている。

その複雑な思いは、2024年の総裁選時を始めとして自身のブログに全て書き込んだ。

その主旨をまとめると次の如くだ。

僕は高市早苗候補だけは決して日本のトップにしてはならない、と考え、つい最近までそこかしこにそう書いてもきた。

今もそうだが、それでも2度に渡って総裁候補の顔ぶれを見ているうちに、毒を持って毒を制す、のような気分にもなった。

高市という猛毒をもって日本の男社会という毒に楔を打ち込む、という印象である。

つまり、猛毒の高市候補が日本初の女性首相になる手もあるのではないかと考え出したのだ。

❛高市首相❜もありかもと考える第1の、そして最大の理由は高市候補がオヤジよりもオヤジ的な政治家でありながら、それでも女性だという点だ。

首相になれば日本の諸悪の根源である男尊女卑メンタリティーにとりあえず一撃を見舞うことになる。それは、無いよりはあったほうが確実に日本のためになるイベントだ。

心優しい良い女性、すばらしい女性を待っていては日本には永久に女性首相は生まれない。女性首相の大きな条件の一つは「タフな女」であることだ。

サッチャー元首相もメルケル元首相も、またここイタリアのメローニ首相も男などにビビらないタフさがある。高市候補は権力者のオヤジらに媚びつつも、鉄面皮で傲岸なところがタフそのものに見える。

2つ目は肩書の奇跡だ。

肩書きが人間を作る、というのは真実である。

一つ例を挙げる。

イタリアで初の女性首相となったジョルジャ・メローニ氏は、ファシスト党の流れを汲む「イタリアの同胞」を率いて選挙を勝ち抜いた。

選挙中、彼女は右寄りの政策を声高に叫びつつ一つのスローガンをさらに大声で主張した。

いわく、「私はジョルジャだ。私は女性だ。私は母親だ。そして私はイタリア人だ」と。

「私はジョルジャだ」は自らが自立自尊の人格であることを、「私は女性だ」は女性であることを誇ると同時にジェンダー差別への抗議を、「私は母親だ 」は愛と寛容を、「私はイタリア人だ」は愛国の精神を象徴していると僕は見た。

メローニ氏はそうやって国民の支持を得て首相の座に上り詰めた。

ところがメローニ氏は、首相になるとと同時に激しい言葉使いを避け、険しい表情をゆるめ、女性また母親の本性があらわになった柔和な物腰にさえなった。

政治的にも極端な言動は鳴りをひそめ、対立する政治勢力を敵視するのではなく、意見の違う者として会話や説得を試みる姿勢が顕著になった。

彼女のそうした佇まいは国内の批判者の声をやわらげた。僕もその批判者のひとりだ。

また同氏に懐疑的なEUのリベラルな主勢力は、警戒心を抱きながらもメローニ首相を対話の可能な右派政治家、と規定して協力関係を構築し始めた。

ジョルジャ・メローニ首相は資質によってイタリア初の女性首相になったが、イタリアのトップという肩書きが彼女を大きく成長させているのも事実なのである。

高市自民党新総裁は、あるいは日本初の女性宰相となり、その肩書きによって人間的にも政治的にも成長するかもしれないと僕は秘かに考えているが、大きな問題もある。

つまりメローニ首相と同じ右翼政治家の高市氏には、イタリアのトップに備わっている女性としての自立心や明朗な政治姿勢や誇りが感じられない。

その代わりに虎の威を借る狐の驕りや、男に遠慮する「女性オヤジ政治家」の悲哀ばかりが透けて見える。女性オヤジ政治家は旧態依然とした男性議員を真似るばかりで進取の気性がない。その典型が高市氏だ。

3つ目は天皇との関係だ。人格者の上皇、つまり平成の天皇は静かに、だが断固として安倍路線を否定した。現天皇は今のところ海のものとも山のものともつかない。顔がまだ全く見えない。

❛高市首相❜が本性をあらわにファシスト街道を突っ走るとき、天皇がどう出るか、僕はとても興味がある。

天皇は政治に口出しをしないなどと考えてはならない。口は出さなくとも「天皇制」がある限り彼は大いなる政治的存在だ。それを踏まえて天皇は「態度」で政治を行う。

彼に徳が備わっていれば、という条件付きではあるが。

日本の政治と社会と国民性は、先の大戦を徹底総括しなかった、或いはできなかったことでがんじがらめに規定されている。

右翼の街宣車が公道で蛮声を挙げまくっても罪にならず、過去を無かったことにしようとする歴史修正主義者が雲霞のように次々に湧き出てくるのも、原因は全てそこにある。

ドイツが徹底しイタリアが明確に意識している過去の「罪人」を葬り去るには、再び戦争に負けるか、民衆による革命(支配層が革命の主体だった明治維新ではなく)が起きなければならない。

しかし、そういう悲惨は決して招いてはならない。

僕はこれまで高市早苗氏を、安倍元首相の腰巾着であり、歴史修正主義義者であり、メディアを恫喝支配できると信じているらしい思い上がった思想の持ち主、とみなし批判してきた。

彼女が総務相時代の20016年、放送局が政府の気に入らない放送を繰り返したら電波停止を命じる、と示唆した発言はあまりにも重大だ。

メディアの監視と批判に耐えられない政治家は首相になるべきではない。メディアを抑圧し制御できると考える政治家は、政治家でさえない。それは単なる独裁者だ。

高市候補にはそのように暗く危険なファシズム的気質がある。それはここイタリアのジョルジャメローに首相にも通底する個性だ。

高市候補は2度に渡って総裁選に出馬し戦う動きの中では、女性であることを意識しないとも強調した。彼女は選択的夫婦別姓制度にも反対だ。

だがそれではダメだ思う。彼女は女性であることを大いに意識し、彼女が日本初の女性首相になることは、日本の諸悪の根源である男尊女卑思想を一掃するための大いなる一歩、と位置づけ闘っていくべきだ。

高市氏がここまでそうしないのは、彼女の岩盤支持者である保守強硬派の男らの反発を避けるのが狙いだろう。だが女性蔑視のメンタリティーが国の未来まで貶めることが確実な日本にあっては、女性であることを前面に押し出すことは重要だ。

高市候補に限らず、男に媚びることが多い日本の「オヤジ女性政治家」が、真に「男女を意識されない」一人の政治家と見なされるためには、闘う本人が先ず女性であることに誇りを持ち、女性として自立し認められることが重要だ。

男を真似する「オヤジ女性政治家」は“フェイク”であることを、何よりもまず女性政治家自身が悟らなければならない。

ネガティブな要素も多く抱えた高市自民党新総裁は、日本初の女性首相になる機会を得た。ならばチャンスを活かして生まれ変わってほしい。

女性であることにこだわるメローニ首相はまた、トランプファシズム気質大統領と親和的な関係でもある。同時に彼とは1対1の対等な立ち位置もしっかりと保って動いている。

片や高市新総裁はどうだろうか。首相になって米大統領と対等な関係を構築できるだろうか。それは恐らくないものねだりに終わるだろう。

彼女は安倍元首相を神とも崇めひれ伏す存在だ。その安倍氏はトランプ氏を勝手に友と呼ぶだけの大統領の忠犬だった。

忠犬の忠犬である未来の高市首相に、トランプ大統領にNOと言える器量を期待するのは無理だろう。

自らをバカに見せる狡智も備えているらしいトランプ大統領は、総裁選に勝った高市氏を「知恵と強さを持った人物」とSNSで評価した。ところがその際には高市氏の名前には言及しなかった。

そのあたりに日本と日本のトップを見下しているトランプ大統領の本音が透けて見える。同時に彼の本音に何らかの形で一撃を加える女っぷりなどなさそうな高市氏の正体も。

なにしろ女の姿をしただけの❛オヤジ気質の首相❜なのだから。

高市新総裁はファシズム的な体質が似ている点を除けば、イタリアのメーローニ首相とは似ても似つかない存在だ。メローニ首相が明なら彼女は陰、と形容しても良いほど印象が違う。

もっと言えば高市氏は、自ら率先して右翼運動を担うのではなく、例えば安倍元首相に庇護されて四囲を睥睨してきたように、威光を笠に着て凄むタイプだ。

一方のメローニ氏は自ら激しく動いて道を切り開くタイプの政治家である。

それでも高市新総裁は、日本初の女性宰相になれば、その肩書きに押されて人間的にも政治的にも成長するかもしれない。

最後に、高市政権は船出と同時により右カーブではなく左カーブ、即ち中道寄りへと政策も心情もシフトしていくと僕は予想する。

日本は孤立した国だがひとりで生きているのではなく、近隣国があり世界世論の影響を大きく受けて存在している。それらに圧されて❛高市首相❜は必ず穏健路線に向かうだろう。

もしそうならなかった場合は、世界を席巻している右傾化の潮流は実は日本には届かず、天皇崇拝や靖国的神懸かりカルトが「日本右傾化」の本質ということが明らかになって、高市政権の危険度は一気に高まるだろう。



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エーゲ海のあっと驚くタメゴローな開放感に魅せられて

下降滑空800

リゾート感覚のイタリアよりももっとさらにリゾートなエーゲ海にいる。

イタリアは敢えてその気になって見れば、国全体がリゾート地と呼べるほどに楽しく美しい国である。

そのイタリアに住む僕が、呆れて絶句するほどただひたすらに輝くリゾート地が、エーゲ海とそこに浮かぶ島々だ。

そのエーゲ海にことしも無事に立つことができた。

正確にはクレタ島のビーチ。エーゲ海の最南端。クレタ海と呼ばれることもある碧海である。

地中海は東に行くほどに空気が乾き気温も高くなる。

イタリアよりも東にあるギリシャの乾いた空気は、白く輝き圧倒的な開放感を呼ぶ。

雨が全くと言ってもいいほど降らず、雲一つないぬけるような青空がどこまでも高く広がる。

碧空を裂いて白光が一閃する。エーゲ海特有の強風❝メルテミ❞を捉えたカモメが滑空し遊ぶ姿だ。

スピードに乗り動きが直線的なために航跡が白く結んで輝く光芒となる。

大小あわせて2500とも3000とも数えられる島々が浮かぶエーゲ海は、西洋文明の揺籃の地である。

そのうちの最南端のクレタ島は、古代ギリシャ文明に先立つミノア文明を生み出した奇跡の大地だ。

島の中心都市ヘラクリオンにあるクノッソス宮殿がその象徴である。

広島県ほどの大きさに過ぎない島が、西洋文明の原点である古代ギリシャの、そのさらに揺りかごだったという歴史事実は、目のくらむような感慨を呼び覚まさずにはいられない。

だがミノア文明とは、今からおよそ5000年も前に興隆した青銅器文明のこと。リゾート化した21世紀の島で、常にそのことを意識しつづけるのは難しい。

クレタ島は長い歴史の間には、ローマ帝国やアラブやビザンツ帝国 の支配下に入り、やがてヴェネツィアまたオスマン帝国に侵略されるなど、恒常的に厳しい環境に置かれた。

第二次大戦でもドイツ軍に蹂躙されたが、ギリシャ共和国の一部として復興。やがて欧州に始まった観光ブームによって今の発展を手に入れた。

2008年頃、僕は10年ほどをかけて中東や北アフリカを含む地中海域を旅するという計画を立てた。

ヨーロッパを少し知り、そこに住み、ヨーロッパに散々世話になってきた僕は、これから先じっくりと時間をかけて地中海域を旅し、その原型を見直してさらに学んでみたいと考えたのだ。

ただし、その旅はできれば堅苦しい「勉強」一辺倒の道行きではなく、遊びを基本にして自由気ままに、のんびりと行動する中で見えてくるものを見、見えないものは見えないままにやり過ごす、というふうな余裕のある動きにしたいと願った。

テレビドキュメンタリーや報道番組に長く関わってきた僕は、何事につけ新しく見聞するものを「もしかするとテレビ番組にできないか?」と、いつも自分の商売に結び付けてスケベな態度で見る癖がついてしまっている。

つまり、いやらしく緊張しながら物事を見ているのである。

僕はそのしがらみを捨てて、本当の意味で「のんびり」しながら地中海世界を巡りたい。

そうすることで、これまで知識として僕の頭の中に刷り込まれている地中海、つまり古代ギリシャ文明や古代ローマ帝国やキリスト教など、西洋文明の揺籃となった輝やかしい世界を、ゆるい、軽い、自在な目で見つめてみたい。

それができれば、仕事にからめて緊張しながら見る時とは違う何かが見えてくるのではないか、と考えた。

基本的なプランは次のようである。

イタリアを基点にアドリア海の東岸を南下しながらバルカン半島の国々を巡り、ギリシャ、トルコを経てシリアやイスラエルなどの中東各国を訪ね、エジプトからアフリカ北岸を回って、スペイン、ポルトガル、フランスなどをぐるりと踏破する。

中でもギリシャに重きをおいて旅をする。また訪問先の順番にはこだわらず、その時どきの状況に合わせて柔軟に旅程を決めていくという計画。

だが僕のそのプランは、アラブの春や立て続けに起きるイスラム過激派のテロのおかげであえなく頓挫した。

僕は命知らずの勇敢な男ではないので、テロや誘拐や暴力の絶えない地域を旅するのはまっぴら御免だ。

そこに新型コロナが追い打ちをかけた。パンデミックの衝撃は気持ちを挫き状況がますます悪くなった。

そこで僕は、アラブまた北アフリカの国々は「将来世情が落ち着いた場合のみ訪ね歩く」ときっぱり割り切って、地中海紀行はギリシャを中心に欧州各地を巡る形に変えた。

そんなわけでエーゲ海を良く訪れる。6月には最大3000とも言われる島々の内の幾つか。9月から10月はクレタ島のビーチ、というのが基本の考えだが、あまりこだわらない。

7月と8月の観光シーズンのピークを避けて費用を抑え、のんびり、楽しく、食い気満々の旅である。




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イタリア、ドイツはパレスチナ国家承認せず。なぜだ?

メロメルツがキス?

G7構成国のうち英仏カナダがそろってパレスチナ国家を正式承認した。

背景にあるのは、イスラエルとアメリカによる極悪非道のガザ攻撃だ。

一方で― 悪行の実行犯のアメリカは当たり前として―日独伊3国も承認を拒んだ。

偶然にもこちらも、かつての3国同盟、悪の不始末枢軸3大国だ。

このうち日本は、承認しない理由を「国家承認はパレスチナ情勢の進展には繋がらない」としゃーしゃーとのたまった。

それは単にトランプ大統領を怖れ、おののき、ひたすら拝跪するだけの恥ずかしい心根から出た言葉だ。

例によって、独立不羈の行動哲学など逆立ちしても見えない。

ドイツは、国家承認はイスラエルとパレスチナの交渉合意の末に行う、と同国の根本方針を繰り返した。

ドイツはホロコーストへの巨大な贖罪感に縛られて、イスラエル批判にはほぼ常に二の足を踏む。それは理解できることだ。

しかし、イスラエルのガザへの蛮行を糾弾することと、ホロコーストへの怖れと反省は別物であるべきだ。

パレスチナ国家を承認することで、イスラエルの今現在の悪行にNOを突き付けるのは、反ユダヤ主義ではない。それは飽くまでもネタニヤフ政権への断罪だ。

ドイツが真にユダヤ人への贖罪を志向継続するのなら、ガザへの惨たらしい攻撃を続けることで、心ある多くのユダヤ人を貶めているネタニヤフ首相を糾弾するべきだ。

片やイタリアのメローニ首相は、パレスチナの建国を「強く支持する」とした上で、「国家の樹立前に承認することはできない」と笑い話も真っ青の主張をしている。

国家の樹立ができないから、敢えて道徳的な後押しをするためにパレスチナ国家を承認するのだ。

それは飽くまでもイスラエルとアメリカへの抗議の意志表示だ。

むろん、だからこそメローニ首相は、英仏カナダと足並みを揃えることができない。

なぜならメローニ首相は、トランプ主義と親和的な政治信条を持つ極右政治家だからだ。

彼女はトランプ大統領自身とも親密な関係だ。友を裏切ることはできないのだろう。




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イギリスの遅過ぎたパレスチナ国家承認

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9月22日、イギリスがパレスチナ国家を正式に承認した。

イギリスの前にはカナダとオーストラリア、またすぐ後にはポルトガルもパレスチナを国家承認した。

さらにフランスも一日遅れでそれらの国々に続いた。

イギリスは2000年以上続くユダヤ・パレスチナ問題を近代になって複雑化させた張本人だ。

同国は第一次大戦中にそれぞれが矛盾する3つの狡猾因業な秘密協定を結んだ。

そのうちの一つはアラブ人に独立国家を認め、もう一つの協定ではユダヤ人国家を認めるとした。後者はユダヤ人の金を横取りするのが主な目的だった。

第1次大戦が終わるとパレスチナはイギリスの委任統治領となった。するとユダヤ人との秘密協定に沿ってパレスチナにユダヤ人が移住し始めた。

当初ユダヤ人は先住のアラブ人と平和共存していた。だが入植者は増え、金にあかせて土地を買いまくってはアラブ人を圧迫排除する動きに出た。

ユダヤ人入植者は第2次大戦とホロコーストを経てさらに増え続け、対立はますます激しくなった。イギリスは大戦後の1948年、パレスチナの統治を諦めて国際連合に問題を丸投げした。

つまり世界中でしばしばやってきたように、散々甘い汁を吸った後、無責任に問題を放置してトンずらしたのだ。

それから77年後の先日、パレスチナ人を虫けら同然に見なすトランプ大統領を、チャールズ英国王はまるで聖人君子をもてなすようにもてなした。

相変わらずパレスチナ人民を貶めて平然としていると僕の目には映った。

英仏の2大国がアメリカの意向に逆らってパレスチナを国家承認したが、実のところそれは象徴的なアクションに過ぎず、ガザでの殺戮も終わらなければパレスチナ国家の独立も起こりえない。

アメリカがイスラエルを抑えてパレスチナの国家樹立を認めない限り、現状は決して変わることはないのだ。

ましてや飽くまでもイスラエルの蛮行を支持し、パレスチナ人を殲滅して彼らの土地をリゾートに造り変える、と本気で考えているトランプ大統領という人非人の心を持つ男が、アメリカを「独裁統治」している限り哀れなパレスチナには明日はない。

そうではあるが、しかし、イギリスが今この時トランプ大統領の顔を潰してまでパレスチナを承認したことは、「欧州の良心」の発露のひとつで道徳的に大きな意義がある。

トランプ大統領の顔色を窺い忖度に終始し、「現時点での承認は停戦や中東和平の実現には繋がらない」 と岩屋外務大臣の声を使って痴ほうじみた声明を出した日本政府の姿勢は無残だ。

国家承認はパレスチナ情勢の進展には資さない、という日本政府得意の姑息な建前レトリックが、トランプ大統領を怖れる卑怯者の本音隠匿術であることを世界は知らないとでも思っているのだろうか。



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叶わなかったフェレとのコラボ

デブ目立つ625

ミラノコレクション取材の仕事は数年間続き、僕はジャンフランコ・フェレを追いかけるドキュメンタリーを撮る、という約束をデザイナー本人と交わすなどした。

フェレは当時 、先日91歳で他界したアルマーニまたヴェルサーチとともに、ミラノモードの3Gと称えられたレジェンドである。

建築家でもあったフェレの作品には、ベルサーチの才気やアルマーニの優美とは違う何か確固としたものが底流にあった。

建築設計の技術や見識が、ファッションデザイナーとしての彼の創造性を支えている、とでもいうような強い何かである。僕はそのことと彼のキャラクターにドキュメンタリー監督として魅力を感じた。

巨大な肥満体を持て余して、いつもはにかんでいるみたいな雰囲気があった彼は、自らの作品の強さとは裏腹にとことん静かな優しい人で、ファッション音痴の僕が繰り出すバカな質問にもいやな顔一つせずに答えてくれた。

雑音の激しいオープンスタジオからテレビの生中継をした際、「少し大き目の声でしゃべって下さい」と僕が頼むと、彼は「分かりました」と蚊の鳴くような声で答えた。が、結局しゃべっている間はずっと蚊の鳴くような声だった。

高慢や軽薄や尊大とは無縁だった大アーティストを取り上げる番組を僕は考え、生中継の仕事の後で彼に提案をすると、デザイナーが出演を快諾してくれたのだった。

だがその企画は実現しなかった。僕自身が他の仕事にかまけきっている間にどんどん時が過ぎて、とうとうカリスマデザイナーが亡くなってしまった。2007年のことだ。

僕が多忙だったのは事実だが、本当のことを言えば、撮影開始に至らなかったのはもっとほかにも理由がある。

僕は有名デザイナーのジャンフランコ・フェレを、どうすれば僕の制作スタイルのドキュメンタリーの枠内にはめ込めるかの道筋がつかめず、呻吟するうちに時間が過ぎ去ったのだ。

僕の作るドキュメンタリー番組は、市井の人々を取り上げるのがほとんどだ。有名人は追いかけないし、あまり興味もない。いや、興味がないわけではないが、市井の人のほうにより強い興味を覚える。

フェレとのコラボを考えている間にも、僕はシエナの市中競馬の話やらシチリア島の突きんぼ漁譚やらオリーブ物語やらスローフード発祥ルポ等々、多くの長短物のドキュメントや報道物を制作していたが、そのほとんども市井の人が話の中心にいた。

この世の中に存在する一人一人の人間の生きざまは全て劇的だ。それが僕の持論だ。従ってあらゆる人々の人生はドキュメンタリーになり得る。

だが同時に、喜び、怒り、悲しみ、親しみ、憎み、家族を愛し、家族に苦しみetcという全ての人間の人生は似通ってもいる。

似通っているが一つ一つの人生は、しかし、同時にそれぞれ違う。その違いを際立たせることが即ち人間を描くドキュメンタリーの真髄だ。

人は生涯でたった一つの人生しか生きられない。つまり人は、自分自身の人生以外の他者の生についてはその実態を知らない。

知っていると感じるのは、家族だったり友人知己だったり、あるいはどこかで見たり聞いたりした他人の人生の物語に触れた経験があるからだ。しかしそれは単なる「知識」であり「情報」である。

人が自らの人生を生きつつ他者の人生を生きることは、永遠に不可能なのである。

従って他者の人生は全て珍しい特異な事象だ。それだけでも興味深いものになるはずだが、それだけでは足りない。アクセントがほしい。

そのアクセントが取り上げる人物の仕事であり、考え方であり、特殊能力であり、人となりやあるいはキャラクターである。

そこに人物の日常を彩る例えば家族や友人や同僚などの人間の輪がからむ。その人間の輪は隣近所や村や町の共同体へと広がる。

共同体には祭りやイベントや寄り合いや、式典や見せ物や年中行事等々の盛りだくさんの文化と、それが織りなす歴史が満ち満ちている。

主人公はそれらと共存し、時には格闘し、悩み、喜びながら成長していく。その過程を網羅し描ききることによって、主人公となる人物あるいは人物群が躍動し、輝き、存在感を増していく。

どこにでもいる「普通の人」が特別な「何者か」になりドラマチックに変貌する瞬間だ。それを見ている視聴者は自分とあまり変わらない人物が輝きを放つことに共感を覚える。

普遍が特殊化するときに、市井の人の人生のドラマが完成するのである。

それを紡ぎだすのがドキュメンタリー監督の仕事だ。もっと言えば、視聴者が納得し感情移入できる人物像の造形が、つまるところドキュメンタリー制作者の使命なのである。

さて、

僕が取り上げようと考えたジャンフランコ・フェレは普通の人ではない。セレブである。有名デザイナーのジャンフランコ・フェレの日々は、市井の人々のそれよりも既に激しく劇的だ。

でもそれはいわば劇場劇とも言える特殊な劇で、劇場の外の広い巷間に展開される劇とは違うものである。有名人という名の劇場劇と市中劇とは違うのだ。

僕が有名人を単に有名人という理由だけで追いかけるドキュメンタリーに興味がないのはそれが理由である。

デザイナーとしてのフェレをそのまま追いかければ、何もしなくても既にドラマチックだ。視聴率も稼げるだろう。そういう形のドキュメンタリーはごまんとある。

だが僕が知りたいのは、つまり描きたいのは、デザイナーである以前のフェレである。言葉を替えれば仕事師のフェレではなく、人間フェレなのだ。

ここでは市井の人を追うドキュメンタリーとは逆に、既に特別な存在であるジャンフランコ・フェレを世間並みの存在に変貌させなければならない。特殊を普遍化するのだ。

視聴者が同じ人間としてエンパシーを感じたとき、主人公は人として輝く。

それを成すためには僕はもっとデザイナーと付き合い、信頼関係を築き、本音で語り合える環境を作り上げなければならない。

僕が追及したいと願う「人間」を描くドキュメンタリーは、 市井の人であれ有名人であれ、撮影する側とされる側の間に人としての信頼関係があってはじめて成り立つ。

そしてその人間関係とは、監督である僕自身と撮影される側の人々とが結ぶ友誼 であり精神的絆だ。

僕はその部分に一番エネルギーを注ぐ。だからいつも一つの作品を作る前に長い準備期間を持つ。何度も足を運んではこちらの意図を説明して人々に納得してもらう。

それがうまくいった時だけ、まがりなりにも見るに耐えるだけの作品ができる。

お互いに多忙な中で僕は機会を探し、待った。だがそれさえ構築できないうちに彼は他界した。

彼よりひと回り若い僕は少しのんびりしすぎたかもしれないが、もう後の祭りだった。

実は僕はフェレの場合ととそっくりの経験をもうひとつしている。

1994年夏、僕はシチリアのリパリ島で天才シンガーソングライターのルーチョ・ダッラに会った

マグロを追いかけるドキュメンタリーの撮影中のことだった。

僕はシチリア本島のメッシーナから遠出をした猟師たちと共に船で寝泊りをして、連日マグロ漁の撮影をしていた。

ルーチョはリパリ島で船上のバカンスを過ごしていて、港で一緒になった。

彼は僕が行動を共にしている猟師たちと友だちで、よくこちらの漁船にやって来ては夕食を一緒に食べた。

カジキマグロを中心にした猟師料理は抜群の美味しさで、彼はリパリ島にいるときはひんぱんに猟師の船に招かれて食事をするのだった。

ルーチョはシンプル且つ自然体の男だった。僕はそこで彼と親しくなり、いつか一緒にドキュメンタりー番組を作りましょうと話した。ルーチョは快くOKしてくれた。

その機会はないまま時間は過ぎた。そして2012年3月に彼が亡くなって、こちらも幻の企画になってしまった。







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 嘘かまことかうつつか夢か

鮮明白人前面650


《加筆再録》

ファッションショーを取材する時には、僕はいつも相反する二つの感慨に襲われる。それを強く称賛する気持ちと、軽侮とまでは言わないものの、粘性の違和感が交錯して我ながら戸惑ってしまうのである。

称賛するのはデザイナーたちの創造性と、ビジネスとしてのファッション及びファッションショーの重さである。

次々に新しいファッションを創り出していくミラノのデザイナーたちは、疑いもなく秀れた才能に恵まれた、かつ厳しいプロフェッショナルの集団である。彼らはたとえば画家や作家や音楽家が創作に没頭するように、新しい流行を求めて服のデザインに没頭する。

そうやって彼らが生み出すファッションは、どれもこれも一級の芸術品だが、流行に左右される消費財であるために、作った先から消えていくような短い命しか持ち得ない。

それでも彼らが創造するデザインの芸術的価値は、他のいかなる分野のアートに比べても少しも遜色はないと思う。咲いてすぐに散ってしまう桜の花の価値が、命の長い他の花々と比べて少しも遜色がないように。

むしろ存在が儚いために一段と輝きを増すという一面の真実もある。

デザイナーは次の季節の流行をにらんで髪を振り乱して創作をする。この時彼は画家や小説家や作曲家と同じ一人の孤独なクリエイターである。無から何かを作り出す苦しみも喜びも、彼はすべて1人で味わう。

その後、彼の作品はファッションショーで発表される。画家の絵が展覧会で披露され、小説家の作品が出版され、作曲家の曲がコンサートで演奏されるのと同じことである。

それらのクリエイターは誰もが、発表の場においてある時は称賛され、ある時はブーイングを受ける。つまりそれは誰にとっても「テスト」の場である。

それでいながらファッションデザイナーの立場は、他のクリエイターたちのそれとは全く違う。

なぜならデザイナーは、前述の三つの芸術分野に即して言えば、クリエイターであると同時に画廊を持つ画商であり、出版社のオーナーであり、コンサートホールの所有者兼指揮者でもある場合が多いからである。

つまりデザイナーという1人のクリエイターは、同時に彼の名を冠したブランドでもあるケースが一般的なのである。たとえばアルマーニとかフェレ、はたまたヴェルサーチやミッソーニやモスキーノetcのように。

従ってファッションショーは、デザイナーという1人の秀れたクリエイターの作品が評価される場所であるだけではなく、デザイナーの会社(ブランド)の浮沈を賭けた販売戦略そのものでもある。

同時にファッションショーには、華やかで楽しいだけの「見世物」の軽さも必ず付いて回る。舞台上で時々ポロリとこぼれ出るモデルたちのたおやかなオッパイみたいに。

ファッションの世界にはそんな具合に僕を当惑させる二面性がいつもついて回っている。しかしそれは僕にとっては、どちらかというとファッション界の魅力になっているものであり、決して否定的な要素ではない。

二面性とは「虚と実」である。「虚」は言うまでもなくファッションショーとその回りに展開される華々しい世界で、「実」はデザイナーの創造性と裏方の世界、つまりデザイナーがデザインした服を生産管理し、販売していく巨大なビジネスネットワークのことである。

虚と実がないまぜになったファッションの世界は、僕が生きているテレビ・映画の世界と良く似ている。

テレビ画面やスクリーンで展開される華々しい世界は「虚」のファッションショーで、それを作り出したり、放送したり、スポンサーを抱きこんだりしていく大きな裏方の世界は、「実」であるファッションビジネスの巨大ネットワークの部分にあたる。

そして虚の部分にひっぱられて実が虚じみて見えたり(あるいは実際に虚になってしまったり)、その逆のことが起こったりするところも、2つの世界はまた良く似ている。

そんな訳で僕は、ファッションの世界にたくさんある虚の部分を茶化したり、やや軽侮したりしながらも、全体としてはそれに一目置いている。

僕の泳ぎ回っているテレビや映画などの映像の世界も、見栄や虚飾やカッコ付けの多い軽薄な分野だが、僕はそこが好きだし自分なりに真剣に仕事をしてもいる。

だからきっとファッションの世界に生きている人たちも同じなんだろうな、と僕なりに納得したりするのである。



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ファッションモデルのオッパイは粋なオッパイかも。かい?

雰囲気良多人数650

《加筆再録》


44歳の若さで亡くなったミラノの偉大なデザイナー・モスキーノが語ったように、ファッションショーはデザイナーたちの真剣な戦いの場である。

ミラノコレクションのショー会場では、華やかな衣装を身にまとったトップモデルたちが、音楽に合わせて舞台の上を行進する。

舞台の周りには世界中のファッション関係者やバイヤーが陣取って、彼女たちのきらびやかな服に熱い視線を送る。

そこには必ず世界の有名スターやスポーツ選手やミュージシャンなどが顔を出して(招待されて)いて、ショーにさらなる華を添える仕組みになっている。

ファッションショーはカッコ良くてエレガントで胸がわくわくするような楽しい催し物である。  

同時にファッションショーは変である。

何が変だと言って、たとえばモデルたちの歩き方ほど変なものはない。

ショーの舞台には出たものの、彼女たちは歌を歌ったり踊りを披露したりする訳ではないから、仕方がない、とばかりに見せるために歩き方に精いっぱい工夫をこらす。

ニコヤカに笑いながら尻をふりふり背筋を伸ばし、前後左右縦横上下、斜曲正面背面東海道中膝栗毛、東西南北向こう三軒両隣の右や左の旦那様、とありとあらゆる方角に忙しく体を揺すりながら、彼女たちは舞台の上をかっぽする。

そういう歩き方が、最も優雅で洗練された女性の歩行術、という暗黙の了解がファッションショーにはある。

しかしそれは、誰かが「イカレ者か宇宙人でもない限り人類は街なかでそんな歩き方はしない」と茶々を入れてもおかしくないような、不思議な歩き方でもある。

モデルたちはにぎやかに歩行をくり返しながら、時々ポロリとオッパイをこぼす。これはジョークではなく、茶化しでもない。

どう考えても「こぼれた」としか形容の仕方のない閑雅な現われ方で、モデルたちのきれいなバストがファッションショーではしばしば露出するのである。

もちろんそれは着ている服が非常にゆるやかなデザインだったり、ふわりと体にかぶさるだけの形になっていたりするときに起きる。むろん大揺れに揺れる、揺さぶり歩行の影響も大きい。

そういう予期しない事件が起きたときに当のモデルはどうするかというと、実は何もしない。知らんぷりを決め込んで堂々と歩行を続ける。

恥じらいもなければ臆することもなく、怒りも何もない。まるでこれは他人(ひと)様のオッパイです、とでも言わんばかりの態度である。

それではこれを見ている観客はどうするか。彼らも実は何もしない。口笛も吹かなければ拍手もしない。

モデルにとっても観客にとっても、この際はファッションだけが重要なのである。だからたまたまこぼれ出たオッパイは無き物に等しい。

従って全員が、イチ、ニの、サン!でこれを無視するのである。モッタイナイなどと言ってはいけない。

モデルたちの覚悟ある身ごなしも、それに共振する観客の佇まいも、見事な粋の骨頂だ。言葉を換えれば全体が都会的に洗練されている。徹頭徹尾文明的なのだ。

人の振りを見て、さりげなく見ない振りができるのは、文明人の文明人たるゆえんの一である。

見て見ぬ振りは、“無関心”というマザーテレサが悲しんだネガティブな立ち居を示す場合もある。悪や不正義を見逃したり見過ごしたりする隠微な態度につながることもある。

だがそれには、他人のちょっとした失敗や無粋を目くじらを立てて責めない。さりげなく許すという意味合いもある。

見知らぬ者の野暮に遭遇した都会人はそっと身を引く。見て見ぬ振りをする。それは都会人の、いわば秘すれば花のゆかしいエートスでありルールだ。

他者のしくじりを容赦なく攻撃するのはムラの住人の慣習で、見知らぬ者のマナー違反を正面切って指摘するのはマナー違反だ。

そこで見て見ぬ振りをするのが洗練なのである。

こぼれ出た自らのバストを気にしない。あるいは気にはしても、身に纏ったデザイナーの新作の服を引き立てるための動きを断固として優先させる、というモデルの気迫はあっぱれだ。プロの心意気である。

また露出した美しい胸を見て「お!」「あ!」「ヤバい!」などと一瞬思っても、見て見ぬ振りでやり過ごす観衆の料簡は粋の極みだ。

要するにファッションショーの会場には、デザイナーとモデルと観衆が醸し出す粋と洗練と文化の香気が満ち満ちている。

そうしてみると、洗練と文明がいきれるほどに詰まった広いショー会場にいる者のうちの最大の野暮天は、見て見ぬ振りができないまま―カメラマンにカットの指示をすることも忘れて― モデルの美しいオッパイにポカンと見とれているこの僕なのだった。




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小さなミラノの底力

moschino昔?800

《加筆再録》

アルマーニが亡くなり一時代が終わったという実感をかみしめつつ、もう少しファッションにこだわっておくことにした。

ミラノコレクションを取材したのは80年代後半~90年代初め頃のことである。

この仕事をしたことで、僕はそれまで無視あるいは軽視していたファッションとファッションビジネスを見直した。よくあることだ。

実は僕はファッションを無視あるいは軽視していたのではなく、無知ゆえに何も見えなかっただけの話だった。

ドキュメンタリーまた報道取材に関わっていると、時としてそういう僥倖に行き逢う。

ミラノでファッションショーを取材する時にいつも感じたことがある。

それは、なぜこの小さな街がロンドンやパリやニューヨークや東京などの巨大都市と対抗して、あるいはそれ以上の力強さで、世界をリードするファッションやデザインを発信して行けるのだろうか、ということだ。 

ロンドンとパリは都市圏の人口がそれぞれ約1400万人と1200万人、ニューヨークは2000万人もいる。東京の都市圏の人口3700余万人には及ばな いにしても、巨大な都会であることに変わりはない。

それらの大都市に対してミラノ市の人口はおよそ140万人、その周辺部を含めた都市圏でもわずか390万人余りに過ぎない。

もちろん人口数が全てではないが、人が多く寄ればそれだけ多くの才能が集まるのが普通だから、小さなミラノがファッションの世界で多くの巨大都市に負けない力を発揮しているのはやはり稀有なことである。

それは多分ミラノが、都市国家の伝統を持つ自治体として機能し、完結したひとつの小宇宙を作って独立国家にも匹敵する特性を持っているからではないか、と考えられる。

つまり、ニューヨークやパリやロンドンが飽くまでも国家の中の一都市に過ぎないのに対して、ミラノは街そのものが一国なのである。

都市と国が相対するのだから、ミラノが世界の大都市と競合できたとしても何の不思議もないわけだ。

言葉を換えれば、都市国家メンタリティーをルーツにするイタリアの多様性の良さが、最も先鋭的に表れているのがミラノのファッション界ではないか、と思うのである。




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モスキーノを偲ぶ

モデル合成650

《加筆再録》

ミラノファッションの大御所、アルマーニが亡くなって一時代が終わったことを実感すると同時に、ファッションに完全無知だった自分が、ミラノコレクションの取材をするようになったいきさつをあらためて考えたりしている。

フリーランスのテレビ屋である僕は、番組を制作する場合、簡単に言えば、企画書をテレビ局やプロダクションやスポンサーなどに提出して、OKをもらい制作費を得る。

企画書を出すまでには情報を収集し、テーマを決め、リサーチを徹底し、ロケハンを重ね、アイデアを文章にまとめて反復推敲し、受け入れ側あるいは資金提供者と折衝を繰り返す。それは僕の場合ほぼ100%がテレビ局だ。

僕が追及したいと願う「人間」を描くドキュメンタリーでは、 撮影する側とされる側の間に、人としての信頼関係があってはじめて番組、つまり自分の考えるドラマが成立する。

そしてその人間関係とは、プロデューサーでもカメラマンでも音声マンでもなく、監督である僕自身と撮影される側の人々との信頼関係である。

僕はその部分に一番エネルギーを注ぐ。だからいつも一つの作品を作る前に長い準備期間を持つ。何度も足を運んではこちらの意図を説明して人々に納得してもらう。

それがうまくいった時だけ、まがりなりにも見るに耐えるだけの作品ができる。

こちらから積極的に働きかける仕事のほかに、向こうから依頼が舞い込むこともある。

ミラノコレクション(ファッションショー)の撮影取材は、NHKパリ総局の要請で始まった。だが、言いだしっぺは自分だったかもしれない。衛星放送の黎明期で僕の拙い企画もよく通った。

その仕事自体は、撮影素材とそれに伴う情報だけをNHKパリ総局に送り、彼らが編集仕上げをして電波に乗せる、という形だった。

それは僕自身が企画を出してOKをもらい、制作費を得て取材から編集仕上げまでを責任を持って遂行する仕事とは大きく違う。

有体に言えば、企画から最終仕上げまでを一括して請け負う番組作りに比べると、リラックスしたものだった。だが、言うまでもなくそれは、「手抜き」してもいいという意味ではない。

一度でもそういうことをすれば、しがないフリーランスのディレクターの自分には、翌日から一切の仕事が来なくなるだろう。

フリーランスは、組織の歯車に組み込まれないという自由奔放な良さがある反面、一度でもしくじれば仕事を干されるという怖さがある。

僕はファッションには全く無知でほとんど興味もなかったが、フリーランスの立場では仕事は断れない。また断ってはならない、というのが若い頃の信条であり身上だった。

そういう場合の常で、僕は仕事を請けると同時に大急ぎでミラノコレクションについて情報を集め懸命に勉強して取材を開始した。

僕はそうやってミラノの3Gと称えられたアルマーニ、フェレ、ヴェルサーチを筆頭にするイタリアの有名デザイナーたちと知り合う機会を得た。

言うまでもなくミラノは、ニューヨークやパリやロンドンなどと並ぶ世界のファッションの流行発信地である。そのミラノの中でも最も重要な、いわば流行発信の震源地、とも呼べるのがファッションショーの会場である。

ミラノコレクションでは、イタリアのトップデザイナーたちが作った服を、世界中から集められたこれまたトップの中のトップモデルたちが美しく、優雅に、そして華麗に着こなして舞台の上を練り歩く。

テレビカメラが回りつづけ、写真のフラッシュがひっきりなしにたかれる中で、観客は舞台上のモデルたちを見上げながら、称賛し、ため息をつき、あるいは拍手を送ったりしてショーを盛り上げる。華やかで胸が躍る色彩と光と夢に満ちあふれた催し物である。

秀れた才能に恵まれたミラノのファッションデザイナーたちが、新しい流行を求めて生み出す服のデザインは、まぎれもなく一級の芸術作品だ。

しかしその芸術作品は、どんなに素晴らしい傑作であっても、たとえば絵画や小説や音楽のように長く人々に楽しまれることはない。

言うまでもなくファッショ ンが、流行によって推移していく消費財だからである。

ファッションデザイナーたちは、一瞬だけ光芒を放つ秀れた作品を作るために、絶え間なく努力をつづけていかなければならない。

なにしろファッション ショーは、1年間に女物が2回、男物が2回の計4回行なわれる。彼らはその度に、日々の制作とは別に、多くの新しい作品を作り上げていく。

アイデアをひねり 出すだけでも、大変な才能と精進が必要であることは火を見るよりも明らかである。

20世紀も終盤に入った頃、44歳の若さで亡くなった偉大なデザイナー、フランコ・モスキーノが、かつてファッションショーで語ってくれた内容を、僕は決して忘れることができない。

モスキーノは当時のミラノのファッション界では、3Gなどと並び称される大物デザイナーだった。

同時に彼らとは一線を画す、カ ラフルで斬新で遊び心の強い作品を魔法のように次々に生み出すことで知られていた。

彼のファッションショーも、作り出された服と同じでいつもハチャメチャ に明るく賑やかで、舞台劇を見るような楽しさにあふれていた。

ある日彼のショーを取材した後の雑談の中で、ファッションショーの度に次から次へとアイデアが出るのには感心する、というような月並みな賛辞を僕はモスキーノに投げかけた。するとデザイナーが答えた。

「ファッションショーは一つ一つが生きのびるか死ぬかを賭けたテストなんだ。この間何かの雑誌で読んだけど、日本の大学の入学試験はものすごく厳しいらしいじゃないか。

ファッションショーもそれと同じだよ。しかも僕らの入学試験は、仕事を続ける限り毎年毎年4回、敢えて言えば 3ヶ月に1度の割合いで繰り返されていく。ときどき辛く て泣きそうになる・・・」

駆け出しのデザイナーならともかく、一流のデザイナーとして既に揺るぎない評価を得ているモスキーノが、一つ一つのファッションショーを「生きのびるか否かのテストだ」と言ったのが僕にはすごく新鮮に聞こえた。

季節ごとに一新される各デザイナーの作品(コレクション)は、必ずファッションショーで発表される。そしてそのショーの成否は服の売り上げに如実に反映される。モスキーノはそのことを指して、ファッションショーを生きのびるか否かを賭けたテストだと言ったのである。

ファッションは創作と販売が分かち難くからみついている珍しい芸術分野である。創作がそのまま販売を左右する。モスキーノが、ファッションショーを生死を賭けたテスト、と言ったのは極めて適切な表現だった思う。

ミラノには日夜髪を振り乱して創作にまい進する多くのモスキーノたちがいる。その頂点に君臨し続けたのが、数日前に91歳で亡くなったジョルジョ・アルマーニだった。

アルマーニの死とともにひとつの時代が終わり、新しい時代が始まった。

だがそこを支え続けて行くのもまた、多くの優れたモスキーノたちであることは疑う余地がない。



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アルマーニは気さくなセレブだった

Armaniソフィアローレンと

偉大なジョルジョ・アルマーニが亡くなった。
NHKの衛星放送の黎明期、定期的にミラノコレクション(ファッションショー)の取材をした。仕事なら何でも請けていた頃だ。
アルマーニのショーも多く撮影した。アルマーニはデザイナーが一堂に会してショーを展開するフィエラという会場ではなく、彼自身が所有するビルの中で季節ごとのショーを開催した。
一度ショーの撮影許可だけを取り、スタッフを伴って建物に入ったときアルマーニ自身と行き逢った。僕は彼に、ショーの後でインタビューをさせてくれ、と直接声をかけた。
彼は気軽に「いいよ」と請け負ってくれた。
これが大きな問題になった。ショーの取材を取り仕切っているスタッフのトップが、勝手なことをするな、と激怒したのだ。
デザイナーのインタビューは事前に申し入れて許可を取るのが常識だった。僕はそのことを熟知していた。アルマーニ以外の多くのデザイナーに許可を取ってインタビューもしていた。
ところがその時は、アルマーニの自然体の動きや笑顔につられて僕は何気なく声をかけた。少しの慣れと驕りと若さがからみあって、ルールを無視してしまったのである。
前述の広報のトップの女性は、ショーの撮影も拒否しかねないほど怒っていたが、アルマーニ自身がなだめて事なきを得た。
彼女は自分の権限を無視されたと感じて怒りまくったのだと分かった。僕は失策を謝りインタビューの要請も取り下げた。
当時も今も並ぶ者のない大物だったアルマーニが、僕の突然のインタビュー要請を気安くOKし、続いて怒りまくる自身のスタッフを静めてくれたことが強く印象に残った。
合掌
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