【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

秋言葉を持たないイタリアの秋も美しい

本物美雪秋写真
北イタリア・コモ湖近くの秋景色

ここ北イタリアの気候は、歴史上もっとも暑いとされた7月を経験した後、8月から10月にかけて平年並みに過ぎた。短い秋を経てこのまま冬に突入かと見られた11月は、サンマルティーノと呼ばれる「小春日和」にも恵まれて、穏やかに推移している。

秋の日はつるべ落と しと言うが、この国では秋そのものがつるべ落としに素早くやって来て、あっという間に過ぎ去る。印象としては夏が突然冬になる。日本の平均よりも冬が長く厳しい北イタリアだが、短い秋はそれなりに美しく、風情豊かに時間が流れて行く。

ところが、イタリア語には、枯れ葉、病葉 (わくらば)、紅葉(こうよう)、落葉、朽ち葉、落ち葉、木の葉しぐれ、黄葉、木の葉ごろも、もみじ・・などなど、というたおやかな秋の言葉はない。枯れ葉は「フォーリア・モルタ」つまり英語の「デッド・リーフ」と同じく「死んだ葉」と表現する。

少し優美に言おうと思えば「乾いた葉(フォーリア・セッカ)」という言い方もイタリア語には無いではない。また英語にも「Withered Leaves(ウイザード・リーブ)」、つまり「しおれ葉」という言葉もある。だが、僕が知る限りでは、どちらの言語でも理知の勝(まさ)った「死に 葉」という言い方が基本であり普通だ。

ミラノ市中の紅葉ヨリ50%
ミラノ市中「il sole24ore紙」中庭の秋景色

言葉が貧しいと いうことは、それを愛(め)でる心がないということである。彼らにとっては枯れ葉は命を終えたただの死葉にすぎない。そこに美やはかなさや陰影を感じて心を揺り動かされたりはしないのである。紅葉がきれいだと知ってはいても、そこに特別の思い入れをすることはなく、当然テレビなどのメディアが紅葉の進展を逐一報道するようなこともあり得ない。

前述したように夏がいきなり冬になるような季節変化が特長的なイタリアでは、秋が極端に短い。おそらくそのこととも関係があると思うが、この国の人々は木の葉の色づき具合に日本人のように繊細に反応することはない。ただイタリア人の名誉にために言っておくと、それは西洋人社会全般にあてはまるメンタリティーであって、この国の人々が特別に鈍感なわけではない。

それと似たことは食べ物でもある。たとえば英語では、魚類と貝類をひとまとめにして「フィッシュ」、つまり「魚」と言う場合がある。というか、魚介類をまとめてフィッシュと呼ぶことは珍しくない。Seafood(シーフード)という言葉もあるが、日常会話の中ではやはりフィッシュと短く言ってしまうことが多いように思う。イタリア語もそれに近い。だが、もしも日本語で、たとえひとまとめにしたとしても、貝やタコを「魚」と呼んだら気がふれたと思われるだろう。

もっと言うと、そこでの「フッィッシュ」は海産物の一切を含むフィッシュだから、昆布やわかめなどの海藻も含むことになる。もっとも欧米人が海藻を食べることはかつてはなかったが-。タコさえも海の悪魔と呼んで口にしなかった英語圏の人々は、魚介類に疎(うと)いところが結構あるのである。

イタリアやフランスなどのラテン人は、英語圏の人々よりも多く魚介に親しんでいる。しかし、日本人に比べたら彼らでさえ、魚介を食べる頻度はやはりぐんと落ちる。また、ラテン人でもナマコなどは食い物とは考えないし、海藻もそうだ。もっとも最近は日本食ブームで、刺身と共に海藻にも人気が出てきてはいる。
 
多彩な言葉や表現の背景には、その事象に対する人々の思いの深さや愛着や文化がある。秋の紅葉を愛で、水産物を「海の幸」と呼んで強く親しんでいる日本人は、当然それに対する多様な表現を生み出した。
 
もちろん西洋には西洋人の思い入れがある。たとえば肉に関する彼らの親しみや理解は、われわれのそれをはるかに凌駕(りょうが)する。イタリアに限って言えば、パスタなどにも日本人には考えられない彼らの深い思いや豊かな情感があり、従ってそれに見合った多彩な言葉やレトリックがあるのは言うまでもない。

さらに言えば、近代社会の大本を作っている科学全般や思想哲学などにまつわる心情は、われわれよりも西洋人の方がはるかに濃密であるのは論を待たないところである。心情が濃密であるとは、言葉が豊かで深く広いということにほかならない。その部分では日本語は未だ欧米語の後塵を拝していると言えるかもしれない。


いつまでも死なない老人の性欲は奇か快か



激増する長寿者を「いつまでたっても死なない老人」と喝破した、ほぼ90歳の義母の名言にここしばらくこだわっている。ハゲて太った点を別にすれば、精神のバカさも含めて30代や40代とあまり変わらないと感じる還暦の自分も、やはり確実に老いているのだろう。、

先ごろ、イタリア、ナポリ近くのサレルノ県スカファーティで、84歳の女性が88歳の夫と離婚したいと表明した。その理由は夫とのセックスに不満だから、というものだった。もっと正確に言うと、セックスの回数が少な過ぎるという主張である。

女性は元教師。4歳年上の夫は元銀行員。女性にとっては3回目の結婚。前夫2人とはともに死別。今の夫は前夫2人とは違って、月に2度しか彼女を愛してくれない。セックスの回数が少な過ぎて欲求不満だと女性は弁護士に告発した。

弁護士がさらに話を聞いてみると、女性は夫にバイアグラを飲んで頑張ってほしいために、離婚話を持ち出してプレッシャーをかけているのだという。夫が受け入れないなら離婚して、ほかに愛人を探す、と女性は言い募った。

女性の直訴に困惑した弁護士は、セックスに代わる何か、つまり女性の年齢に見合う趣味とか生き甲斐を見つけた方が良い、と彼女を促した。それに対して女性は「私には子供も子守をするべき孫も、甥っこや姪っこもいない。たった一つの楽しみがセックスだ。なぜそれを諦めなければならないのか?」と逆切れした。

この女性の言い分は、ある人にとっては眉をひそめたくなるものかも知れない。またある人にとっては滑稽なものであるのかも知れない。エピソードが新聞記事になり英語翻訳版まで出た事実が、興味本位の人々の関心を如実に示している。しかし、高齢者の性欲が好奇なものであるとは僕には思えない。

女性に相談を持ちかけられた弁護士が、セックスではなく年相応の何かに興味を持った方がいいとアドバイスしたことにも納得がいかない。上から目線の弁護士の言い分が事実なら、彼は弁護士を名乗る資格などない。愚かで無知で鈍感な人間だと思う。

江戸の名奉行大岡越前守は、不貞をはたらいた男女の取調べの際、女(やや高齢だった?)が誘った、との男の釈明に納得ができず、自らの母に「女はいつまで性欲があるのか」と問う。すると母親は黙って火鉢の灰をかき回して「灰になるまで。即ち死ぬまで」と告げた。

その話が実話か否かは問題ではない。エピソードには人の性の本質が見事に描かれているから、その話は万人の心を撃つ。年齢と共に変遷する人の心身のあり方には大きな個人差がある。性の様相も千差万別だろうが、人の性欲が死の間際まで存在するというのは普遍的事実だろう。

従って、84歳の女性がセックスに生き甲斐を感じていても何も不思議ではない。そこでの少しの驚きは、女性が夫にバイアグラを飲んでくれと主張した点だ。高齢の女性の旺盛な性欲はそれだけで既に興味深いが、老夫婦の性愛が依然として肉体的な結合であるらしいのは、少なくとも僕にとっては、新鮮な発見だ。

生殖を念頭におかない高齢の男女のセックスは、性器の結合よりもコミュニケーションを希求する触れ合いのセックスである場合が多い。つまりそれは男女が、いわば「生きている」ことを確認し合う行為である。愛の言葉に始まり、唇や手足や胸や背中に触れ合って相手をいつくしむ。

高齢者のセックスの場合は体のあらゆる部分が性器だと表現する専門家さえいる。それは「柔和な癒し合い」という意味だろうが、同時にそれはもしかすると、若い頃のセックスよりもめくるめくような喜びを伴なうものであるのかもしれない。なにしろ体全体が性器だというのだから。

女性の要望や欲求は決して滑稽なものではないと思う。元気で、且つ心と体が若い彼女は、セックスを楽しみたいのである。老人の心身は枯れてしぼんでいるべきで、その年でセックスしたいなどというのはイヤラシイ、恥知らず、気持ち悪いなどというのは、あたらない。

それでも「ババアの性欲はキモイ」みたいな石原慎太郎的差別発言をする者がまだいるなら、僕はその人にこう聞きたい。ならばこの女性が性依存症ならどうだろうか、と。それでもあなたはこの女性を「年寄りのくせにセックスなんか考えるな」と責め続けるだろうか、と。

日本では「セックス中毒」などと面白おかしく語られがちだが、性依存症はりっぱな病気だ。最近の有名例では、ゴルフのタイガー・ウッズがその病気のために世間から総スカンを食って、ついにゴルフ界の帝王の地位から転げ落ちたことが記憶に新しい。

イタリアの片田舎に住むこの高齢の女性は、もしかすると性依存症なのかもしれない。そうだとするなら彼女のセックス好きは、いわば快楽という名の地獄である。それは苦しい病であり、同情されてしかるべき性癖だ。

そうではなく、彼女は年齢が進んだ今もひたすらセックスが好きでしかも実践し続けていたい、というなら、それはそれで素晴らしいことではないか。それを否定するのは、例によって高齢者を「老人」とひとくくりにしてその存在を貶める、世の中の偏見と差別と偽善の所産に過ぎない。

いつまでも死なない老人はどう生きるべきか



去った敬老の日に「いつまでも死なない老人を敬う必要はない」と断言したのは、間もなく90歳になる義母、ロゼッタ・Pである。正確に書くと彼女のセリフは「私のようにいつまでも死なない老人を敬う必要はない」という主旨だった。

義母は真正の老人であるから、彼女が「私を含む」老人はこうあるべき、という形の発言をしても許されると思う。しかし、第三者のたとえば僕が、老人はどう生きるべきか、などと発言するのは僭越であり非礼であり許されないことである。

従って僕はこの記事では、僕自身の将来、つまり必ず老境に入っていく自分はこうありたい、ということを語ろうと思う。還暦の僕は義母ほどの老人ではないが、20代や30代の若者からみればりっぱな老人だろうから、そう語る資格があると思うのである。

一言でいえば、全ての老人は義母が指摘した「老人は愚痴が多く自立心が希薄で面倒くさい」という概念を完全否定する生き方をするべきである。つまり「愚痴を言わず自立心を強く持ち他者に面倒をかけない」ことだ。それは義母自身の生き方でもある。

病気や老衰で動けなくなれば仕方がないが、長生きをする者は義母のように生涯を過ごすのが理想だろう。いや、それを他人事のように「理想」と言ってはならない。そういう生き方を目指すのがむしろ老人の義務だ、と僕は考えている。

ここで言う自立には2つの側面がある。1つは義母が指摘した心体の自立である。それはほぼ健康と同一語だ。肉体の自立は己の意志ではどうしようもないケースが多々ある。病気は他動的なものだからだ。しかし、精神の自立は逆に能動的に獲得できるものだ。

高齢者の精神の自立とは、子供が親離れをするように老人が子供離れをすることである。体が動くのに子供に頼ろうと希求する老人は、少なくとも僕の周囲で は、欧米人に比べて日本人が圧倒的に多い。それは若年の頃から自立志向の教育を受けていないのが原因である。日本人の自立心の弱さは日本国の弱さと同じも のだ。

もう一方の側面は経済的な自立である。これは年金という助けによって成されるべきだが、基本は飽くまでも自らで稼ぐ形でなければならない。つまり、いつま でも死なない老人は、元気でいる限り仕事もするべきである。それもまた老人の義務と言っても良いと思う。それは年金給付年齢の引き上げ、という政策とほぼ 同義でもある。

イタリアを含む欧州のほとんどの国は日本同様に長寿国である。世界の他の先進国も事情は同じだ。それらの国では年金を始めとする社会保障費の膨張は止まる ことを知らず少子化も深刻だ。長寿者は元気に長く生きているのだから、その分仕事をして経済的に自立しなければ国の財政が破綻するのは目に見えている。

敬老の日にちなんで発表された厚労省の統計によると、65歳以上の高齢者が日本の総人口に占める割合は、おととし初めて25%を超えてからも増え続けていて、今年は26,7%。過去最高になった。日本人の4人に1人以上が高齢者だ。

また80歳以上の人は1002万人、史上初の1000万人越えである。それらは慶賀するべきことだろうが、国の財政つまり社会保障費というシビアな観点から見れば、破滅的な状況と言っても過言ではない。

それらの数字が示唆しているのはやはり、高齢者も仕事をするべき、という当然過ぎるほど当然な成り行きである。高齢者というコンセプトには、仕事をしない年齢あるいは仕事ができない年齢の者、というニュアンスが込められている。

ならば今や高齢者と規定されるべき年齢は65歳ではなく75歳、いやもしかすると80歳でも良いのではないか。65歳以上を高齢者と規定する日本社会のあ り方はもはや時代錯誤だ。高齢者を「老人」とひとくくりにして尊敬する振りで見下したり、無視したりせずに、労働力としてもしっかりと認識するべきであ る。

高齢化の進展という流れで言えば、不惑などというのも40歳ではなく50歳、それどころか思い切って60歳と改めた方が良いとさえ思う。現代人はそれほど長く生き、高齢者も多くがカク シャクとしている。人生50年とも言われた時代に規定された、高齢者の概念を後生大事に抱え込んでいる日本の状況は異常だ。

元気な高齢者が働いて、不幸にして病気や老いで倒れてしまう他の高齢者の生活を支える、というくらいの発想の転換があってもいい。もちろんそれだけでは足りないだろうから、社会保障費をそこに回して手助けをしなければならないのは言うまでもない。

また少子化を穴埋めするために移民を受け入れて、人生経験の豊富な高齢者が移民と1対1で彼らを導き、教育をして日本の文化や風習に溶け込んでもらう手 助けをする、というような仕組みもあっていい。誤解を恐れずに敢えて言えば、彼ら移民を監視誘導して“日本人”になってもらう努力をする、といったことで ある。

超高齢化社会では老人自身と社会全体の意識改革が求められていて、それは若年のころから国民を教育しないと完成しない。恐らく今もっとも求められているの は、「年相応に」とか「年甲斐も無く」とか「~才にもなって・・」などと、人間を年齢でくくって行動や思想や生き方を判断し、その結果として精神を呪縛 し、閉塞感と狭量と抑圧に満ちた世界を形成する、東洋的な行動様式からの1日も早い決別である。


ミラノ万博閉幕、日本館の失敗

30%日本館文字込み行列
10月30日、6時間待ちの日本館の行列

閉会間際の10月30日、ようやくミラノ万博を観ることができた。同万博は10月いっぱいで閉幕するのが惜しい、と言われるほどの盛況だった。中でも日本館の成功は目覚 しいものだった。それなのにこの記事のタイトルをあえて「日本館の失敗」としたのは、万博随一の成功を収めた日本館はもしかすると、もっとさらに大きな成功 を収めることができたのではないか、と実際に会場に足を運んでみて感じたからである。

今年5月の開幕直後から日本館は大人気だった。10時間も待たなければ入場できない日もあり、その人気振りを伝えるニュースがさらに人気を呼んでますます盛況に なった。僕が訪れた日の日本館前も長蛇の列。待ち時間は6時間と言われて入場を諦めた。また閉会直前ということもあったのだろうが、広い会場の全体に人が 溢れていて、日本館前の長い行列が小さく見えるほどだった。

最終的な入場者総数は約2150万人、そのうち日本館へは200万人あまりが入場した。全体の1割にのぼる数字は地元のイタリア館などと並んで最大級であ る。それはもちろん大成功だ。展示デザイン部門では金賞も受賞した。しかし、多くの来場者が日本館に入れなかった、というのもまた事実である。僕の多くの 友人知己がそうであり、僕自身もそのうちの1人だ。

会場に立ってみて率直に感じたのは、たとえば日本館の内部の様子を大スクリーンで写し出すような仕掛けができなかったか、ということである。あるいは多く のモニターを日本館の外壁に設置する方法もあったのではないか。はじめからそういう形を取ることは無理だったかもしれないが、日本館が大人気で入場待ち時 間が毎日長くなる、と分かった時点でそういう形を考えても良かったと思うのである。

30%トルコ館農婦笊もみ
トルコ館網漁30%
トルコ館オープンスペースの映像展示

その思いはトルコ館に接してさらに強くなった。それほどの人気があったとは思えないトルコ館では、オープンスペースにテントのような建物を設置して、その中で同国の食の風景を映像展示していた。 高画質の極めて美しい映像の連続に僕は思わず引き込まれて観賞した。高い技術力を持つ日本は、その気になれば恐らく、トルコ館に勝るとも劣らない映像展示もできたはずである。

ビジネスならば行列ができるのは良いことである。入場できないことがさらなる人気を呼んで差別化になり高級感につながって大儲けができる。しかし、日本館 の目的は日本の文化を世界に知らしめるこである。金儲けではない。従ってより多くの人々に内部の様子を見てもらった方が良い。10人に1人が入場したこと は誰もが認めるように大成功である。しかし、残りの9人は入場していない、あるいは入場できなかったのだ。

9人全員が日本館に入場したいと思うわけではないだろうが、大人気の日本館を覗いてみたいと考えた人はその中に5、6人はいたのではないか。あるいはもっ と多くいたかもしれない。それらの来場者にせめて中の展示の様子を見てもらえれば、訪問者数がさらに膨らむことになり日本の文化を告知するという目的により合致したと思うのである。さらに 言えば、インターネットを通じて日本館の展示を正式に大々的に世界中に配信する、という手もあったと思う。

そんなことをすれば、実際に日本館まで足を運ぶ人が少なくなる、という考え方もあるかもしれない。しかし、何時間も行列を作ってまで日本館を目指した人々 は、恐らく何があっても中を見たかった人々であった公算が大きい。従って来館者数はあまり変わらなかっただろう。また、たとえ映像を展開することで実際 に足を運ぶことを止めた人がいたとしても、映像を見て日本文化に興味を持ったり、その結果日本館に入場したいと考える人の数の方が圧倒的に多かったはずな のである。

それはスポーツのテレビ中継と観客の関係にも似ている。サッカーや野球などの人気スポーツは、生中継をすることによってさらに人気が高まって、球場に足を 運ぶファンが増える。同時に映像によってそれまで無関心だった人がそのスポーツに興味を持ち、ひいてはファンになるという相乗効果が起きる。日本館にもそ ういう現象が起きる可能性があった。それを思うと、日本館の成功を嬉しく思うと同時に、ちょっと残念な気もするのである。



弾丸帰国とロシアも航空券もバカヤロー、みたいな顛末記



「弾丸」という形容が当てはまるかどうか知らないが、仕事で突然帰国。ミラノexpo 巡りとウイーン訪問をドタキャンしての旅だった。伊日の往復時間を差っぴくと日本滞在はおよそ3日半ほど。

長い外国生活でも初めての出来事だった。仕事で帰国すると、無理にでも時間を作って故郷の南の島まで足を伸ばすのが僕の習わしである。

島が無理な場合でも、仕事の前後に多めに時間を割いて東京や京都などに遊ぶ。そうしていなければ、やがて自分が完全に西洋かぶれになるかも、という密かな恐れが常にある。今回はそんな動きも無し。

急ぎ旅のせいもあって今般は幾つものおどろきの体験をした。一つは常宿にしている渋谷のホテルにまったく空きが無かったこと。中国人を中心とするアジア人観光客で満杯なのだという。

109ホテル窓より 50%
常宿の窓から見る渋谷109ビル

二つのクレーンの向こうの小さな109 30%
今回のホテル方面から遠くに望む109ビル

その大きなホテルではこれまでも満室ということはあった。しかし、仕事で長年使っていることもあって、必ずなんとかしてくれた。通常ホテルには予備の部屋というのがあるものなのだ。

50%スクランブル交差点大ロング50%のさらに
常宿から見下ろすスクランブル交差点

渋谷駅移設工事中ー電車込み30%
今回宿からスクランブル交差点に向かう途中の絵

それが今回に限ってはまったく無理だった。聞くと、東京では観光客の増加で全体的に宿泊客室の足りない状況が続いているとのこと。どこかで耳にしていた情報を追認された形で納得。が、そんな体たらくでは観光立国どころか、5年後のオリンピックもおぼつかないのではないか、と大きな疑問も抱く。

10月28日、イタリア戻りの日。成田空港のアリタリア搭乗受け付けカウンターでチェックインの際、航空券の日付がなんと1ヶ月後の11月28日になっている、つまり今日の予約は入っていないと判明。パニックに。

慌しさのあまり、10月が11月になっているのに気づかなった。それは僕のミスだが、発券した旅行代理店の大いなるミスでもある。単なるミスでは済まされないほどの大失態だろう。

しかし航空券を購入したイタリアの旅行代理店に連絡をしたくても、向こうは午前3~4時頃なので無理。困ったことにその日はミラノ便がない。なので、連絡がついてもコマッタ状況は変わらなかったが。。。

すったもんだの末、なんとかローマ便に押し込んでもらう。ミラノへ直行のはずが、成田→ローマ→ミラノの長旅に。疲れるぜ・・と思った。すると、もっと疲れることが待ち受けていた。

ローマ行きのアリタリア便にシベリア上空(ロシア上空)を通過する許可が下りず、同便はロシアの南を通って欧州に至るルートを飛ぶことに。

日本と欧州間の飛行ルートは、これまでにほぼ丸1日もかけて飛ぶ南回り、旧ソ連上空を避けた北極圏ルート、さらにアラスカ経由ルートなどがあった。

その後、ソ連が崩壊してシベリア横断ルートが開拓された。ロシアは、各国の航空機がシベリア上空を飛んでも自国の軍事的な脅威にはならない、と判断したのだ。

現在では日本と欧州を結ぶ航空便のルートは、最短距離であるシベリア上空をえんえんと飛ぶ形が主流になっている。今回はそのルートが取れなくなった。
にだ。なのだ!

イタリアを含む欧州とロシアは、今なにかといがみ合っているから、少しの手違いで許可の降りるのが遅れたのだろうか。それとも軍事がらみか。

あるいはロシアのプーチン大統領が、彼の悪事トモダチであるベルルスコーニ元首相を敵視するイタリア現政権への嫌がらせのつもりで、飛行許可を見送ったのか?などと考えを巡らせる。

しかし、そんなジョークまじりの自分の気持ちは、飛行時間がなんと15時間にも及ぶと知って萎(な)える。通常の欧州便は成田から新潟上空を経てハバロフスク、その後シベリアを横断して飛ぶ。

その場合のミラノまでの所要時間は11時間から長くても12時間。15時間は疲れる長旅がさらに長くなるということだ。しかもその後にローマで乗り換えて、再びミラノまで飛ばなければならない。

うんざりした。が、これも貴重な体験だ、と思い直して飛行データを映し出すモニターに目を凝らした。僕は空の旅では離陸から着陸まで刻々と変わる飛行データを見るのがいつも好きだ。

定刻から30分遅れで成田を飛び立ったアリタリア0785便は、日本上空を南下して九州から韓国をかすめて北京方向へ。15時間分もの燃料を積んでいるせいか、重くて速度も遅い感じ。

北京近くを通って、普通の地図で見る西方向へ真っ直ぐに飛び、中国を抜けてカスピ海へ。そこを横切って今度は黒海へ! 不思議な航程。新鮮な気分。モニターから目が離せない。

大雑把な画面地図上には、北にモスクワ、またニジニ・ノヴゴロドという殺風景な名前に変更された「ゴーリキー」市の表示。南にはテヘランやバグダッドの表示も。

テルアビブの文字まで見えた。そこでちょうど同席していたイスラエル人夫婦に
「ローマなんかに回らずにこのあたりでパラシュートで降りたほうが楽ですね」と語りかけると大笑いしていた。

詳細が分かる拡大地図で見ると、イスタンブールのすぐ上をかすめて飛んで、やや北上しながらバルカン半島を横切ってローマへ、というのが正確なルートらしいと理解できる。

途中にロシアのソチやクリミア半島なども見えて、少し心が波立つ。オランダ発のマレーシア航空機が、その近くでロシア軍関連と見られるミサイルで撃墜されたのはつい最近のことだ。

飛行機はそのあたりで少し加速を始めた。向かい風が弱まったのと、燃料を多く消費して機体が軽くなったのが原因だろう、と勝手に想像する。が、あるいはパイロットも、ふとミサイル撃墜を思い出してアクセルを強く踏み込んだのかも。

幸い何事もなくアドリア海上空を横切ってローマ着。だがシベリア横断ルート時間に合わせて予約されていたミラノへの乗り継ぎ便は既になく、1時間遅れの便に乗る。

あいにく北部イタリアは悪天候に見舞われていて、ミラノ着陸時の飛行機は大揺れに揺れた。無事に着陸。結局わが家に着いたのは午前2時過ぎ。3日前までの夏時間なら午前3時過ぎ。

やれやれ・・・

「イタリア上院改革」で政治が変わってもイタリア人は変わらない 


財政危機に端を発した深刻な不況に苦しんでいたイタリア経済は、今年初め頃からゆるやかに回復を始めた。過去最悪の13.4%まで高まった失業率は現在は11.9%まで持ち直している。またIMFはイタリア経済が予想よりも早く好景気に入りつつあると具体的な数字で示した。

そんな折の10月初め、イタリア上院が自らの議員の定数を315から100に減らす改革案を承認した。イタリア議会は上下2院制を敷いているが、上院と下院が同じ権限を持つと同時に選挙制度が違うため、政府与党が過半数を維持するのが難しい。この制度はファシズムの台頭を抑えるために戦後導入された。

上院はしばしば改革を骨抜きにしたり、法案をブロックしたり、挙句には政権を転覆させたりもする。イタリアの内閣は戦後これまでに63回も組閣されたが、上院が政権をたやすく引き摺り下ろせる権限を持つために、そうした政治混乱が頻繫に起こってきたのである。

1983年以降イタリアの歴代政権は上院改革を試みてきた。が、自己保身に走る上院によってことごとく阻止された。欧州で政権が両院の信任を受けなければ ならないシステムを持つ国は、元共産主義国のルーマニアを除けばイタリア1国のみである。今回の改革案は下院に送られ、再び上院に戻されて審議された後に 国民投票にかけられる。

改革は道半ばのように見えるが、障害であり続けた上院が承認したことで、来年半ば頃には確実に成立すると見られている。イタリア政局の足枷であり続けた上 院の改革が完成すれば、若きレンツィ首相は1月の大統領選挙に続いて、歴史的と形容してもいい大きな政治的勝利を収めることになる。

レンツィ首相の政敵である五つ星運動と右翼の北部同盟は、上院改革が野心的な首相をより強権的存在に作り変えるとし、同じくレンツィ政権と対立するフォル ツァ・イタリア党のベルルスコーニ元首相は、上院改革によってレンツィ首相は独裁権力を持つ危険な存在になると批判している。

それらは批判のための批判に過ぎない。上院改革は、上院議員以外の全てのイタリア人が望んでいるとさえ言われてきた。それはつまり、彼ら批判者も含めたイ タリア政界と国民の全ての願い、ということである。今回の改革によって「変われば変わるほど全てが同じ」と皮肉好きの国民が嘆いてきた、イタリアの政治は 確実に変わるだろう。

しかし、政治が変わり政権が安定することになっても、時にはカオスにさえ見えるイタリアの国のあり方と、それを支える国民の心は変わらないだろう。この国では、議会でも一般社会でも、一つの事案に対する意見や議論が百出して収拾がつかなくなることが多い。それは「違い」や「多様性」を何よりも愛し、重視す る国民によって生み出される。

イタリアが統一国家となったのは約150年前のことに過ぎない。それまでは海にへだてられた島嶼州は言 うまでもなく、半島の各地域が細かく分断されて、それぞれが共和国や公国や王国や自由都市などの独立国家として勝手に存在を主張していた。現在の統一国家 イタリア共和国は、それらの旧独立小国家群を内包して一つの国を作っている。

それは国家の中に多様な地域が存在するということではない。何よりもまず地域の多様性が尊重され優先され賞賛された後に、そのことを追認する形で国家が存 在する、とでも説明されるべき様態である。少なくとも国民それぞれの心中には、統一国家イタリア共和国に先立って自らの住むかつての独立都市国家が存在 し、その伝統や精神が彼のルーツを形作っているのである。

言葉を変えればイタリア国民は、統一国家の国民であると同時に、心的にはそれぞれがかつての 地方国家にも属する。現在の統一国家が強い中央集権体制に固執するのは、もしもそうしなければ、イタリア共和国が明日にでもバラバラに崩壊しかねない危険性を秘めているからである。

各地方が勝手に独立を唱えるような状況では、統一国家は当然まとまりに欠ける。イタリアの政権が絶えずくるくる変わったり、何事につけ国家としてのコンセ ンサスがとれなかったりするのは、上院と下院が同じ権限を持つ、という特殊な政治制度が直接の原因だが、その遠因には常に、独立自尊の心を持つ各地方が、我が道を行こうとして喧々諤々の主張を続ける現実もあるのである。

そして何よりも大切な点は、イタリア国民の大多数が、「国家としてのまとまりや強力な権力機構を持つことよりも、各地方が多様な行動様式 と独創的なアイデアを持つことの方がこの国にとってははるかに重要だ」と考えている事実である。言葉を変えれば、彼らは、「それぞれの意 見は一致しないし、また一致してはならない」という部分でみごとに意見が一致する。

それは多様化とグローバル化が急速に進んでいく世界の中にあって、非常に頼もしい態度であり良い国の在り方だと僕は思う。多様性こそイタリア共和国の真髄 である。その伝統が「上院改革」によって今日明日にもなくなるとは考えにくい。イタリアはカオスそのものにさえ見える「イタリア的秩序つまり多様性重視」 の国家だからこそイタリアなのである。それが無くなればそれはもはやイタリアとは呼べない。


書きそびれていることども:2015年10月14日

書こうと思いつつ優先順位が理由でまだ書けず、あるいは他の事案で忙しくて執筆そのものができずに後回しにしている時事ネタは多い。僕にとってはそれらは「書きそびれた」過去形のテーマではなく、現在進行形の事柄である。

過去形のトピックも現在進行形の話題もできれば将来どこかで掘り下げて言及したいと思う。その意味合いで例によってここに箇条書きにしておくことにした。

いつまでも死なない老人はいかに生きるべきか
敬老の日に老義母(ほぼ90歳)は「今の老人は誰も死なない。いつまでも死なない老人を敬うな」と発言して僕をう~むとうならせてくれた。老人問題は、日本とイタリアを含む先進国の全てが抱える、国の根幹にかかわる深刻な事案だ。同時にそれは哲学の問題でもある。

いつまでも死なない老人はいつまでセックスをするべきか
つい先日、イタリア、ナポリ近くのサレルノ県スカファーティで、84歳の女性が88歳の夫と離婚したいと表明した。その理由は夫とのセックスに不満だから、というものだった。もっと正確に言うと、セックスの回数が少な過ぎるという主張である。それってニュースにしなければならないほど奇妙なことなのだろうか。

沖縄県の翁長知事の国連スピーチの是非
彼はなぜ尋常ではない手段に出たのだろうか。そもそも彼の手法は本当に尋常ではないのだろうか。国連演説(2分間という短いものだが意義は大きい)に続いて、知事は辺野古の埋め立て承認取り消しも発表した。沖縄の基地問題は佳境に入った。僕は翁長知事を支持する。

欧州大陸から見るサッチャーの賜物
僕は2年前、サッチャー元英国首相の死に際し「イギリスはサッチャーの賜物」と題して、欧州とは距離を置く英国について書いた。EUの一員でありながら、難民問題で欧州とは違うスタンスを取る今の英国を「欧州大陸から眺めるサッチャーの賜物」という視点で分析。

大航海(時代)を呼んだ大西洋の風 
初夏に訪ねたスペイン・アンダルシアでは、セビリア、コルドバ、グラナダ等をじっくりと見て、太陽海岸で遊び、ジブラルタルを訪ねた後に大西洋沿岸に常時吹き付ける強風を体験した。

その風こそ、アトランティス伝説を生んだ、地中海と大西洋を劇的に隔てる荒海の暴風である。コロンブスはその風を捉えて猛る海に乗り出しアメリカにたどり着いた。大航海時代の先陣を切ったのが、さらに強い風の吹くポルトガルの勇者たちだったのは恐らく偶然ではない。

など。

など。


「アンダルシアの天ぷら」は「アンダルシアの犬」よりチョー面白い



2015年初夏、休暇兼リサーチ旅でスペイン、アンダルシアを訪ねた。そこを訪ねると決めたとき、僕はずい分久しぶりにルイス・ブニュエル監督の映画「アンダルシアの犬」を観てみた。

映画「アンダルシアの犬」は、女性の眼球を剃刀で切り裂くシーンを始めとする奇怪な映像の連続が世間を驚かせた、シュルレアリスムの傑作とされる作品である。その映画を初めて観たとき、僕も人並みにおどろいた記憶がある。

「アンダルシアの犬」は無名だったルイス・ブニュエルが、これまた無名だったサルバドール・ダリと組んで1928年に作った短編映画。タイトルは「アンダルシアの犬」だが、映画はアンダルシアの大地とも犬とも何の関係もない。

それでも強いてアンダルシアにこだわれば、映画が世に出た時、これを高く評価したピカソがアンダルシアのマラガ出身というくらいが関連付けられる。が、それよりもブニュエル、ダリ、ピカソの3人がスペイン人、という事実の方がまだ何らかの意味を持ちそうである。

アンダルシアとは関係のない映画を敢えて再び見ようと思ったのは、「アンダルシアの犬」といういつまでも色あせない魅惑的なタイトルに心引かれたからだ。同時に僕は、もし かすると映画には若い時には見落としていたアンダルシアに関する何かが隠されてはいないか、とも考えた。

結論を先に言うと、映画はアンダルシアとはやはり何の関係もなく、内容は最早少しもおどろきではなかった。どれもこれも既視感(デジャヴ)のあるもので、滑稽な印象に満ちていた。もっと正直に言えば奇をてらっただけのつまらない映像である。

既視感を持つのはもちろん僕が一度映画を観ているからである。また、同時にこれまでにシュレレアリスム映画であれ何であれ、似たような映像を多く目にしてきたからでもある。かつて映画学校で学んだこともある僕は、そういう映像に接する機会も少なくなかった。

そういうわけで、今の時点で観る「アンダルシアの犬」は僕にとっては、おどろきでもなく面白い映画でもない。ブニュエルの作品の中では、「アンダルシアの犬」のシュール性に比べた場合はごく普通の作品ともいえる、例えば「昼顔」などがよっぽど面白い。

シュルレアリスムあるいは前衛とは奇をてらうものである。あるいは想像の飛躍、またアナーキーなコンセプトの躍動などと言い換えることもできる。それらの「奇」にしなやかに応じ瞠目するのが若さである。おどろかなくなった僕は、ただ年を取り過ぎたということなのだろう。

アンダルシアはスペインの中でも長大な太陽海岸(コスタ・デル・ソル)を持つ大洋州である。海の幸が豊富な土地だ。そこではペスカイート・フリート と呼ばれる魚介料理が良く食べられる。

衣を薄くまぶしたワカサギ(チカ)、イワシ、ホタルイカ、イイダコ、イカリングなど、各種魚介をオリーブ油で揚げる一品。アツアツで提供され、安くてデリケートで美味い。

ペスカイート・フリートは日本の天ぷらの原型ではないかと言われている。中でも太陽海岸の西の外れ、カディス県のサンルーカル海岸あたりの魚介のフライは一級品。油を強く感じさせないあっさりした味付は、天ぷらの根源と呼ぶに相応しい。

奈良・平安時代の日本には米の粉などを衣にした土着の揚げ物料理が既に存在したという。そこにペスカイト・フリートに代表される西洋風揚げ物、つまり西洋天ぷらが渡来した。室町時代末期のこととされる。

天ぷらの語源はポルトガル語で「調理」を意味する「tempero・テンペロ」、あるいはスペイン語で「天上の日(魚肉の揚げ物を食べる日)」を意味する 「templo・テンプロ」など、諸説がある。

言葉が伝来したとき料理法も日本に入った。あるいは従前から存在した日本土着の揚げ物料理に改良が加えられたのだろう。それでなければ何故わざわざ「天ぷら」という外来語が定着したかの説明がつかない。むろん料理法が先に渡来し言葉がそれに続いた、と考えても事情は同じだ。

アンダルシア州は長い海岸線と共に、内陸には肥沃な大地も抱く。そこではオリーブに始まる豊かな農産物が生産されて、フランス、イタリアなどと並び称される食の文化を育んだ。だが食の国イタリアに住む僕にとっては、何と言ってもぺスカイート・フリートが圧巻に思えた。

イタリアの魚介料理にも揚げ物は多い。また食通の目が光る国だけに味も良い。だが使う油がオリーブ油でも他のオイルでも、出来上がりが必ずと言っていいほど油っこい。ペ スカイート・フリー トには西洋天ぷら独特のそんな油っこさがほとんどない。あっさりと繊細に仕上げられ絶妙な味がする。そう、まさに日本の天ぷらのような・・・

ラグビーもサッカーも「にわかファン」が支えている日本



前半はこの前のエントリーと重なるが、書き足しておくことにした。

2015年10月3日土曜日、僕は午後の時間のほとんどをラグビー・テレビ観戦に費やした。生まれてはじめての出来事である。

同日15時半(イタリア時間)、第8回ラグビー・ワールドカップ、日本VSサモア戦開始。日本は終始押し気味に試合を進めて26:5で勝利。

今回ワールドカップの2勝目。歴史的な勝利だという。初戦の南アフリカにも日本は歴史的勝利。とにかく「歴史的」という枕詞が多い日本の戦い。

ぼくはそれらの枕詞のたびに「へー、そうなんだ」とつぶやきつつテレビ観戦を続けた。ラグビーのことはなにしろまったく分からない。興味もなかった。

ボールを前にパスしないらしい、というルールは辛うじて知っていた。だが、それを横に出すのか、後ろに出すのかはもう分からなかった。

サモア戦が始まって十数分後には、テレビから離れて急いでPCに行きインターネットでラグビーのルールを調べるありさまだった。

そこで選手は1チーム15人、両チーム合わせて30人。パスは後方へ。トライは5点などの基本ルールを知った。

でもボールは前にパスしないことは分かったが、横(直線上)に出していいのかどうかは今も良く理解できない。

そんな状況なのに試合を面白く見た。

日本が頑張っているというインセンティブが先ずあったが、いずれもゴリ風の屈強な男たちがぶつかり合う様子は、それだけでもけっこう面白かった。

日本VSサモア戦が面白かったので、それに続く南アフリカVSスコットランド戦も観てしまった。日本が南アフリカを初戦で破ったことがニュースになった理由が分かった。南アフリカは強い。

翌日、日曜日はイングランドVSオーストラリア戦を録画で観た。イングランドは歴史的な一次リーグ敗退とのこと。ここでも歴史的、という言葉が躍る。

イングランドは色んなスポーツを発明したが、色んなスポーツであちこちの国の後塵を拝している。サッカーがその典型。ラグビーもそうなんだね。と今回はじめて分かった。

サッカーがめっぽう強いイタリアも、ラグビーでは世界ランクが日本よりも少し下。つまりめっぽう弱い。

でもやはりサッカーがめちゃ強いドイツやスペインが予選敗退なのに、本大会出場を果たしたのだから大したものだ。

イタリアは予選プールD。予選グループを「プール」と呼ぶことも今回はじめて知った。イタリアのプールにはフランス、アイルランドという強豪がいる。

日本が入っているBプールに、南アフリカやスコットランドという強敵がいるのと同じ絶望的状況。でも日本は南アフリカを蹴散らした。

同じ番狂わせを願うイタリアのメディアは、アイルランドは手ごわい。だがわれわれは挑戦する!みたいな勇ましいノリで事前報道をしていた。

結果は16:9でアイルランドの順当・貫禄勝ち。イタリアはここで消える。サッカーではブラジルやドイツと並んで世界をリードするイタリア。なのにラグビーチームは全く精彩がない。そこが面白い。

試合中イタリアの実況中継アナウンサーは、しばしば「日本を見習え!」「日本式で行け!」「日本のプレイを思い出せ!」などと叫んでいた。

突然ラグビー観戦中の僕は、アナウンサーの言う意味が良く分からない。それは多分、世界をおどろかせたという日本VS南アフリカ、またサモア戦での日本の戦い振りを言っているのだろう。

日本チームがW杯で旋風を巻き起こしていることはさすがに分かった。日本はイタリアのようなラグビー弱小国にも勇気を与えているのだ。それは素直に嬉しい。

生まれてはじめてラグビーの試合をテレビ観戦した僕は、そうやってすっかりラグビーのファンになった。そのことをブログ記事にしたらFacebookの友達や読者などから多くの反応があった。

元からのラグビーファンは僕の変節を喜び、その10倍ほどの人々が僕と同じ「にわかファン」で、僕と同じようにラグビーを楽しんだ、好きになった、と書いていた。

ラグビー人気がうなぎのぼりに高まっているのは、おそらく僕を含む「にわかファン」の存在だろう。それはサッカーなども同じだと感じる。

そこでのキーワードは「国際的な大会での日本の活躍」である。サッカーをこよなく愛し仕事としても付き合ってきた僕は、そこでの「にわかファン」をトーシロ、ミーハーなどと少し軽んじてきたところがある。

それは間違いだったと気づいた。自分が「にわかファン」のトーシロ・ミーハーになって分かったが、そして言うのもばかばかしいほど陳腐なことだが、誰でも最初はトーシロなのだ。

そのトーシロが魅了されたら本物のファンになって行く。ラグビーもサッカーも何でもそうだ。古いファンはめったなことでは離れて行かない。だが古いファンばかりではそのスポーツに発展はない。

スポーツを支えるのは、今後本物のファンになる可能性を秘めた「にわかファン」である。彼らの心をしっかり掴むことがその競技の発展につながる。そしてラグビーは今回間違いなく僕の心を掴んだ。多くの人々の心も掴んだように見える。慶賀のいたりである。

さて、多くの「にわかファン」の心をわしづかみにした日本ラグビーは、数々の歴史的イベントを経て今回のW杯で2勝。次の米国戦に勝ち、且つグループ2位のスコットランドがサモアに負けるなどの幸運があれば、次のステージに進む。

サッカーと大相撲に次いで、テレビ観戦をしたくなるスポーツがまた一つ増えてしまった僕は、あ~イソガシイ、時間がない、と嬉しい悲鳴を上げている。

ラグビーは面白い



10月3日土曜日の午後を生まれてはじめてのラグビーテレビ観戦に費やした。

15時半、日本VSサモア戦開始。

日本は終始押し気味に試合を進めて26:5で勝利。

今回ワールドカップの2勝目。歴史的な勝利だという。

初戦の南アフリカにも日本は歴史的勝利。

とにかく歴史的という枕詞が多い日本の戦い。

ぼくはそれらの枕詞のたびに「へー、そうなんだ」とつぶやきつつテレビ観戦を続けた。

ラグビーのことはなにしろまったく分からない。興味もなかった。

ボールを前にパスしないらしい、というルールは辛うじて分かっていた。

それを横に出すのか、後ろに出すのかはもう分からなかった。

サモア戦が始まって十数分後には、テレビから離れて急いでPCに行きインターネットでラグビーのルールを調べるありさまだった。

そこで選手は1チーム15人、両チーム合わせて30人。パスは後方へ。トライは5点などの基本ルールを知った。

でもボールは前にパスしないことは分かったが、横(直線上)に出していいのかどうかは今も良く理解できない。

そんな状況なのに試合を面白く見た。

日本が頑張っているというインセンティブが先ずあったが、いずれもゴリ風の屈強な男たちがぶつかり合う様子はそれだけでも面白かった。

さて、日本は数々の歴史的イベントを経て2勝。

次の米国戦に勝ち、且つグループ2位のスコットランドがサモアに負けるなどの幸運があれば、次のステージに進む。

サッカーと大相撲に次いでテレビ観戦したくなるスポーツがまた増えた。

あ~イソガシイ・・・

売れた又吉本は売れない又吉本より少なくとも100倍は面白い

又吉直樹の「火花」を読んで、久しぶりに芥川賞作品を評価していたら、本が売れまくっていることに疑問を呈する人々がいると知った。

少し違和感のある話だ。芥川賞系の文芸本、あるいはいわゆる純文学系の作品が売れないのは、内容が重箱の隅をほじくるようなものが多く退屈だからだ。

それを売るには何らかの話題性やマーケティング戦略が必要だ。又吉本の場合は、書き手がたまたま芸人、という大きな話題性があって売れた。

元からあった豊かな話題性に加えて、販売戦略もいろいろ工夫があったのだろう。それでなければ純文学本が200万部以上も売れるわけがない。

出版不況が言われて久しい。そんな折に又吉本が売れているのは実に素晴らしいことである。売れている事実に文句を言うのは、嫉妬か怨みか揚げ足取りのようにしか見えない。

又吉本が文学であるかどうか。文学であるなら文学としての批評、また文学でないなら何故それが文学ではないのか、という議論や批評は大いになされて然るべきだ。

しかし、本が売れていること自体をあたかも文学批評のように語るのはナンセンスだ。本の内容を、それが文学か否かも含めて議論するのが文学批評であって、売れた売れないは単なる商売話だ。

文学論争は数学や物理学とは違って、数式で割り切ったり論理的に答えを導き出せる分野ではない。「文学」自体の規定や概念さえ曖昧だ。それらを探る過程が即ち文学、とも言える。

曖昧な文学を語る文学論は「何でも可」である。従って論者それぞれの思考や主張や哲学は全てパイオニアとも言える。そこには白黒が歴然としている理系の平明はない。人間を語るからだ。だから結論が出ない。

そこに売れまくったという「結論」が明快な又吉本が出現した。そこで批判者たちは商売上の結論と文学論上の「出ないはずの結論」を混同して、または意識的に交錯させて売れる又吉本への苦言を語る。

批判者の多くは純文学偏愛者の人々である。彼らにとっては文学論争よりも純文学の又吉本が売れたという事実が重要だ。それは許しがたいことなのだ。というのも純文学とは、売れないことがレゾンデートルでもあるかのような文芸分野だからだ。

作家を含む純文学愛好家たちも元々は本を売りたかった。だが大衆を無視する自己本位のマスターベーション文芸が多く売れるはずはなく、売れないのが当たり前という状況が長く続いた。

そうこうするうちに売れないこと自体が純文学の証のようになった。だから純文学の関係者は、売れる本は中身が何であれ、とにかく先ず否定しようと試みるように見える。寂しい発想である。

純文学はそのままでは文学ではない。それは文芸のうちの大衆文学や古典文学などと並ぶ純文学という1ジャンルに過ぎない。しかも純文学は「日本に特有の」不思議な文芸ジャンルだ。

1文芸ジャンルに過ぎない純文学は、僭越にもわれこそ「文学」と主張して、例えば大衆文学などは娯楽に重きを置くから文学ではない、などと訳のわからないことを言い続けてきた。

そして不思議なことに大衆文学の方もその説に迎合した。そうやって日本の文芸界は、純文学は「文学」、大衆文学は「娯楽」あるいは「エンターテイメント」、と色分けして平然としていた。

その伝でいくと、たとえば山本周五郎や藤沢周平や司馬遼太郎などの優れた小説も文学ではないということになる。それらはいわゆる大衆小説と呼ばれるジャンルの作品群だからだ。そんなバカな話はない。

大衆文学のうちの優れたものはいうまでもなく「文学」である。同じように純文学のうちの面白いものが「文学」になる。又吉直樹の「火花」は面白い純文学、つまり文学の域に達した純文学作品、というのが僕の意見だ。

又吉本「火花」の文学たる所以は、笑いを追及する主人公と準主人公の2人が紡ぐ、笑いの哲学の提示である。そこには言葉の発明と発見があり、新鮮な発想がある。

それがストーリー的には退屈な、あるいは物語の展開の貧弱な、というかほとんど発展のない、ありふれた純文学的状況を補填しあるいは隠蔽して、作品を面白くしている。

そこで提示された芸人の物語は、生の不条理と真実を抉り出した文学的に昇華された世界であり、且つ純文学の退屈を一掃した興味深い構成になっている。つまり本物の文学になっている。

売れないことがゲージュツの証、というような純文学者の態度は、真の芸術を抹殺する。なぜなら「売れない」とは、言葉を変えれば大衆を「置いてけぼり」にすることだからだ。

歴史を見ればそれは一目瞭然だ。例えば映画が登場した際、「われこそ芸術」と誇っていた劇場や劇場人は、映画を下卑た大衆芸能、芸術まがい、けれん、俗物等々とけなし嘲笑した。

しかし、映画を見下すことで大衆から目をそむけた演劇は、間もなく娯楽の王様の座を映画に取って代わられ、劇場は映画館に駆逐されて行った。それは映画が優れた娯楽また芸術として、われわれの世界を席巻して行く過程でもあった。

その後映画は、新しいメディア・表現様式であるテレビを、かつて演劇が映画に対したのと正確に同じ態度で捉え、嘲笑し思い上がっているうちにたちまち衰退して、テレビ全盛の時代を迎えた。

ところが今やそのテレビでさえ、インターネットによって没落させられるのではないか、という時代である。演劇も映画もテレビも決して死ぬことはない。だが時流に押されてますますやせ細っていく。

テレビが芸術か、あるいは芸術の域に達する番組を作り出したか否かは意見の分かれるところだろう。テレビはそこに至る前に死につつある、とも考えられる。ひとつだけ確かなことは、芸術は大衆の心を捉える文物の中にこそある、ということだ。

本が売れないのは、そうした歴史の事例に似た「ゲージュツ」志向に文学関係者が陥った結果だ。言葉を変えれば、面白くないものを面白くない、と正直に認めて改善する努力を怠った結末である。

売れる本が、他の売れない本への興味を喚起して波及効果が現れる、現れないという議論もナンセンスだ。売れない本が売れるようになるのは、その本が実は面白い本だと読者が気づいたときであり、売れまくっている他の本とは何の関係もない。

そういうわけで、又吉本は又吉本として売れまくって終わり。他の出版物とは一切の因果関係を持たない、と考える方が自然だ。同時にそれが大いに売れたことは徹頭徹尾良いことであり、疑問を挟む余地はない。

文学である又吉本は売れた。それは前述したように良いことだ。また又吉本がたとえ文学ではなくても、売れたことはとにかく良いことだ。

本はコミュニケーション手段だ。コミュニケーションとはより多くの人に情報が行き渡るほど価値がある。だからどんな本であれ、つまりこの場合は文学であれ非文学であれ、売れないよりは売れた方が増しなのだ。

出版界はさらなる又吉本を作り出すために話題性と販売戦略を求めてまい進するべきである。売れる本を次々に生み出すこと。それが出版不況を抜け出す唯一の道であり文学復興のキーワードだ。



facebook:masanorinaksone







いつまでも死なない老人を敬う必要はない


去ったシルバーウィークの期間中、間もなく90歳になるイタリア人の義母に日本には「敬老の日」というものがある、と会食がてらに話した。

義母は即座に「私を含めて最近の老人はもう誰も死ななくなった。いつまでも死なない老人を敬う必要はない」ときっぱりと返した。

老人は適当な年齢で死ぬから大切にされ尊敬される。いつまでも生きていたら私のようにあなたたち若い者の邪魔になるだけだ、と義母は続けた。

そう話すとき義母は微笑を浮かべていた。しかし目は笑っていない。彼女の穏やかな表情を深く検分するまでもなく、僕は義母の言葉が本心から出たものであることを悟った。

老人の義母は老人が嫌いである。老人は愚痴が多く自立心が希薄で面倒くさい、というのが彼女の老人観である。そして義母自身は僕に言わせると、愚痴が少なく自立心旺盛で面倒くさくない。

それなのに彼女は、老人である自分が他の老人同様に嫌いだという。なぜならいつまで経っても死なないから。彼女は80歳を過ぎて大病を患った頃から本気でそう思うようになったらしい。

僕は正直、死なない自分が嫌い、という義母の言葉をそのまま信じる気にはなれない。それは死にたくない気持ちの裏返しではないかとさえ考える。だがそれはどうやら僕の思い違いだ。

義母は少し足腰が弱い。大病の際に行われたリンパ節の手術がうまく行かずに神経切断につながった。ほとんど医療ミスにも近い手違いのせいで特に右足の具合が悪い。

足腰のみならず、彼女は体と気持ちがうまくかみ合わない老女の自分がうとましい。若くありたいというのではない。自分の思い通りに動かない体がとても鬱陶しい。いらいらする。

もう80年以上も生きてきたのだ。思い通りに動かない体と、思い通りに動かない自分の体に怒りを覚えて、四六時中いら立って生きているよりは死んだほうがまし、と感じるのだという。

そういう心境というのは、彼女と同じ状況にならない限りおそらく誰にも理解できないのではないか。体が思い通りに動かない、というのは老人の特性であって、病気ではないだろう。

そのことを苦に死にたい、という心境は、少なくとも今のままの僕にはたぶん永遠に分からない。人の性根が言わせる言葉だから彼女の年齢になっても分かるかどうか怪しいところだ。

ただ彼女の潔(いさぎよ)さはなんとなく理解できるように思う。彼女は自分の死後は、遺体を埋葬ではなく火葬にしてほしいとも願っている。カトリック教徒には珍しい考え方である。僕はそこにも義母の潔さを感じる

カトリック教徒が火葬を望む場合には、生前にその旨を書いて署名しておかない限り、自動的に埋葬されるのが習わしである。

そこでカトリック教徒である義母は、50歳台半ば頃にそのことを明記した書類を作成して、火葬協会(SOCREM)に預けた。娘である僕の妻にもコピーを一部渡してある。

現在は書類を作らなくてもカトリック教徒を荼毘に付すことができる。しかし義母がまだ若かった30~40年前までは、イタリアでは火葬は奇怪な風習とみなされていたのだ。今もそう考えるカトリック教徒は多い。

また義母はこのさき病魔に侵されたり、老衰で入院を余儀なくされた場合、栄養点滴その他の生命維持装置を拒否する旨の書類も作成し、署名して妻に預けてある。

生命維持装置を使うかどうかは、家族に話しておけば済むことだが、義母はひとり娘である僕の妻の意志がゆらぐことまで計算して、わざわざ書類を用意したのだ。

義母はこの国の上流階級に生まれた。フィレンツェの聖心女学院に学んだ後は、常に時代の最先端を歩む女性の一人として人生を送ってきた。学問もあり知識も豊富だ。

彼女は80歳台前半で子宮ガンを患い全摘出をした。その後、苛烈な化学療法を続けたが、副作用や恐怖や痛みなどの陰惨をひとことも愚痴ることがなかった。毎日を淡々と生きて来年1月で90歳になる。

理知的で意志の強い義母は、あるいは普通の90歳の女性ではないのかもしれない。ある程度年齢を重ねたら、進んで死を受け入れるべき、という彼女の信念も特殊かもしれない。

だが僕は義母の考えには強い共感を覚える。それはいわゆる「悟り」の境地に達した人の思念であるように思う。理知的ではなかったが僕の死んだ母も義母に似ていた

日本の高齢者規定の65歳が待ち遠しい還暦まっ盛りの「若造」の僕は、運よく80歳まで生きるようなことがあっても、まだ死にたくないとジタバタするかもしれない。

それどころか、義母の年齢やその先までも生きたいと未練がましく願い、怨み、不満たらたらの老人になるかもしれない。いや、なりそうである。

だから今から義母を見習って「死を受容する心境」に到達できる老人道を探そうかと思う。だが明日になれば僕はきっとそのことを忘れているだろう。

常に死を考えながら生きている人間はいない。義母でさえそうだ。死が必ず訪れる未来を忘れられるから人は老境にあっても生きていけるのだ。だが時おり死に思いをめぐらせることは可能だ。

少なくとも僕は、「死を受容する心境」に至った義母のような存在を思い出して、恐らく未練がましいであろう自らの老後について考え、人生を見つめ直すことくらいはできるかもしれない。

これといった理由もないままに忘れ果てていた「敬老の日」が、いつからか9月の第三月曜日と決められ、且つその前後の日々がシルバーウィークと呼ばれることを今回はじめて知った。

「敬老の日」の前日の日曜日、いつもの週末のように妻が母のもとを訪れた際に、妻に伴って行って僕も義母に会った。そこで日本の「敬老の日」の話をしたのである。

義母は足腰以外は今日もいたって元気である。身の回りの世話をするヘルパーを一日数時間頼むものの、基本的には「自立生活」を続けている。そんな義母にとっては「敬老の日」などというのは、ほとんど侮辱にも近いコンセプトだ。

「同情するなら金をくれ」ではないが、「老人と敬うなら私が死ぬまで自立していられるように手助けをしろ」というあたりが、彼女がきっと日本の「敬老の日」への批判にかこつけて僕ら家族や、役場や、ひいてはイタリア政府などに向かって言いたいことなのだろう。

言葉を変えれば、義母の言う「いつまでも死なない老人を敬う必要はない」とはつまり、元気に長生きしている人間を「老人」とひとくくりにして、「敬老の日」などと持ち上げ尊敬する振りで実は見下したり存在を無視したりするな、ということなのだろうと思う。

言い訳は嘘つきの母だぞ


思うようにブログが書けない。

溜まりに溜まっているテーマや書きかけの文章、一度どこかに発表して加筆、省筆、修正したいエッセイやコラムや記事等が多くある。

そこに時事話が加わるので、いよいよ書くべき事案が山積してきた。それはゴミやモノ(所有物)と同じで、溜まるほどに片付けや整理が難しくなる。

収入になる時間潰し、つまり「仕事」さえなければ好きな執筆に専念できる。でもなかなか仕事が減らない。減るどころか増え続けている。

本来のテレビ屋の仕事はぐんと少なくした。しかし、それにかかわるリサーチやビデオ制作コンサルティング的な仕事はなくならない。

そこに、家族にまつわる財務管理あるいは不動産経営見習い、はたまた見よう見まねの経営者、みたいな気の重い仕事がここ数年ドカンと増えた。

ここ数日間も財務管理に駆け回りながら、難民のこと、又吉芥川賞本のこと、敬老の日のこと、アンダルシアのこと、などなど・・の、時事話を書いた。

ツーか、書きかけている。ツーか「下書きを書き上げて」いる。それらは、溜まりに溜まっているテーマやその下書きに加えての「書き物」。

それらの「書き物」は時間が見つかり次第仕上げて投稿するつもり。それは急がないと時事モノなので腐ってしまう。

腐ると個人ブログとはいえ発表できない。発表してはいけない。そうやって投稿できずに僕の「記事ネタ倉庫」に入った腐れネタあるいは記事はたくさんある。

それでも。メチャ忙しくても、僕はいい加減に時間を潰して遊ぶことは忘れない。忙中閑あり。とあえて意識しているわけではない。が、遊ぶことが好きだ。

先々週からは大相撲に心浮かれて過ごしている。大相撲は大好きだ。メチャ忙しいのに大相撲を見る時間は間違ってもアル。間違わなくてもアル。

今場所は白鵬が休場して、照ノ富士の台頭が余計に鮮明になって楽しい。時間がないので、録画をしておいて、長くのんびりの仕切り部分は飛ばして勝負だけを見る。

それでも十分に面白い。それどころか、短い試合が面白い。それを見ていて、なぜ自分が大相撲が好きか分かった。好きな理由の一つが分かった。

それは相撲の勝負がほとんどの場合、一瞬と言ってもいいほどの短時間で決着がつくからだ。長い勝負でも1、2分がいいところ。それ以上だと水入りにさえなる。

短い勝負だから本気の場合は八百長などできない。真剣勝負になる。大相撲が先ごろ八百長問題で揺れたのは本気を失っていたからだ。

大相撲は叩かれて“本気”を取り戻した。それは大相撲をずっと見てきた者には分かる。そして僕は遠いイタリアにいながらもずっと大相撲を見てきた。

ブログが書けない言い訳を探していたら、大相撲に心を奪われている自分に気づいた。そのことを言いたくてこの記事を書き出した。

ブログよりも大相撲が面白い。だから僕はブログ書きに時間を潰すよりも、大相撲観戦に貴重な時間を割り当てているのだ。

Ecco(エッコ)、これがこのエントリーで言いたかったことだ。Eccoとはイタリア語で、ま、いわば「え~っと」とか「つまり」とか「分かった?」みたいなチョー便利な言葉。

あえて日本語で言えば「ありがとう」「ごめん」「こんにちは」「しばらく」などなど、何にでも使える『どうも』みたいな言葉。

Ecco、分かっていただけましたでしょうか?

独メルケル首相は難民に心を閉ざしたのか



ハンガリーに足止めされていた難民を一気にドイツに入国させて世界を感動させた同国のメルケル首相は、一転して国境を一時的に閉鎖すると発表して再び世界を驚かせた。気の早い者は、彼女が「豹変」したと批判しているほどである。

ドイツがEU(欧州連合)域内の人の行き来を自由にするシェンゲン協定を反故にするのではないか、と怖れる人々も多い。だがその心配はないと僕は考える。なぜならシェンンゲン協定はEUの存在意義を担保するもっとも重要な取り決めの一つだからだ。

人が自由に行き来することによって、EU内の文化芸術の交流が盛んになると同時に物の流れもスムースになる。そのことによって経済が活発化する。それによってEU内でもっとも大きな恩恵を受けるのが他ならぬドイツである。もちろん他の加盟国もドイツと同じ恩恵を受けていることは言うまでもない。

ドイツがシェンゲン協定を否定するなら、それは自らの首を絞めるにも等しい愚行である。ではなぜドイツは国境管理体制を導入したのか。それはドイツが『わが国は難民を受け入れる用意がある。しかし全ての重荷を一国で負うつもりは毛頭ない』と他のEU加盟国に向けて宣言したかったからだ。

メルケル首相は中でも特にハンガリー、ポーランド、チェコ、スロバキアの東欧4国を念頭に置いていると考えられる。それらの4国は、難民受け入れによる経済的負担の重さを主な理由に、ドイツが提唱する一定数の分担義務を頑として拒否している。

シェンゲン協定では、緊急の場合は国境を閉じても良い、と定められている。従ってドイツが一時的に国境管理を行い、オーストリア他の国々がそれに追随したのは合法である。が、道義的には周知のように各方面からの非難を浴びた。

しかし、ドイツはハンガリーに集積していた難民を受け入れ、さらにこの先何年かに渡って、年間50万人程度(2015年の申請数は80万人の予想)の難民を受け入れ続けると約束している。その寛容と勇気を決して忘れるべきではない。

膨大な数の難民が一気に押し寄せることによって起こるであろう、混乱と騒擾を避ける意味でも、また前述のいわば反難民の国々を説得する意味でも、ドイツの処置を適切と考えたい。ドイツが沈没すればEUそのものも立ち行かなくなるのだから。

先の大戦への反省と道義的責任、また直近ではギリシャ危機に臨んでの厳し過ぎる態度への反省等々が、メルケル首相の政策決定に影響している。だがそれが全てではない。彼女は政治的、また経済的にも難民受け入れは長期的にはEUにとってプラスだと考えて賭けに出た。

ドイツの主張する難民割り当てにEU各国が合意して、あるいは団結して危機を乗り切る道を模索し、メルケル首相の賭けが必ず成功することを祈りたい。それはEUが一枚岩になることを意味し、ひいては難民を生む中東問題の解決策を見出す糸口にもなり得るからである。

“難民受け入れ”~メルケル独首相の歴史的英断~

20015年9月5日、アンゲラ・メルケル独首相は、ハンガリーで足止めを食っていたシリアをはじめとする中東などからの難民・移民を受け入れる、と発表した。

独首相の表明を受けて、英国ブラウン内閣で史上2番目に若い外務大臣を務めたデイヴィッド・ミリバンド氏は、「ヨーロッパが覚醒した」と驚きと賞賛を込めて発言した。

メルケル独首相の勇気ある決断は、ミルバンド氏の言葉を待つまでもなく、“欧州の歴史の分岐点”としてこの先も長く記憶されていくだろう。

先の大戦の悪夢と汚濁の中から立ち上がったドイツは、ナチスの亡霊と戦いながら国を立て直してきたが、今回また素晴らしい歴史物語を作り上げた。

中東やアフリカから欧州に流入する難民や移民の数は怒涛の勢いで増え続け、受け入れを拒否したい国と同情する国との間に確執が生まれつつあった。

ホロコーストの暗い過去を持つドイツは、欧州の中でも難民や移民の受け入れに積極的であり続けてきた。贖罪の意識がドイツを常にその方向に駆り立てた。

そのドイツでさえ最近の難民の急増には危機感を抱いた。相変わらず欧州最大の難民受け入れ国でありながら、EU(欧州連合)を隠れ蓑にして難民排斥の動きに加担したりもしてきた。

賛否両論が渦巻く混乱の中、3歳のシリア人難民アイラン・クルドちゃんが逃避行の途中の海で溺死し、その遺体写真が世界に衝撃を与えた。国際世論が大きく騒いだ。

人道的にこれ以上の難民拒否は無理だと悟ったメルケル首相は、ドイツを目指す難民・移民を受け入れる、という大いなる決断をした。山が動いたのである。

言うまでもなく幼児の遺体写真だけがメルケル首相の背中を押したのではない。戦乱や貧困を逃れて欧州を目指す難民の悲劇は、それまでにも欧州中のメディアで繰り返し語られてきた。それらの蓄積が首相の決断を促した。

メルケル首相の声明を受けて、ドイツ政府は冬に向けてただちに15万人分のベッドを用意し、今後は1年間に50万人程度の難民・移民を受け入れて行くと発表した。

ドイツが多くの難民を受け入れるのは、EU(欧州連合)のリーダーとしての道義的責任感があるからだ。が、同時に好調な経済状況とそれに伴う労働力不足を補いたい、という実務目的もある。

いずれにしてもドイツの動きは、欧州はもとよりアメリカにも大きなインパクトを与えた。難民受け入れに消極的だった英仏が前向きになったのに加えて、アメリカ政府もシリア難民を少なくとも1万人引き受けると発表した。

これまで欧州では、難民流入の最前線に立たされてきたイタリアやギリシャと、ドイツを主体とするEU(欧州連合)との間に、受け入れを巡って本音と建前を言い合う醜い争いが繰り広げられてきた。

また、EU(欧州連合)のメンバー国でありながら、英国は難民問題に関してはまるで他人事のような態度を取り続け、経済的負担を怖れる東欧のメンバー国も、難民受け入れに難色を示し続けた。

そこにドイツが、「自らの身を切る」と言うにも等しい犠牲を払う決断を下した。すると難民問題に対する欧州諸国の態度が一変した。誰もがドイツに続かなければならない、と考え始めたのである。

EU(欧州連合)がドイツと完全に同じ方向を向いているとはまだ言えない。ドイツが主導して進める難民割り当て制度に反対する国々も、前述の東欧国などをはじめ依然としてある。

しかし難民を巡って分断されつつあったEU(欧州連合)が、「難民受け入れ」という方向に向かって共に歩みを始めよう、とする空気が醸成されつつあることもまた事実である。

もとよりそれは、経済、文化、また社会的にも大きなリスクを伴う歩みである。着の身着のままで流れ着く人々の生活を支え、改善させていくのは受け入れ国にとって大きな経済的負担である。

それらの人々が、社会に順応し融合することを嫌って、摩擦が起きる可能性もある。現に欧州はイスラム系移民とキリスト教系住民との間の対立で、社会が分断されかねない状況にある。そして今の難民のほとんどもイスラム系の人々なのである。

難民受け入れの扉を開け放しにすることによって、生命の危険にさらされている真の難民ばかりではなく、より良い生活を求めて移住を試みるいわゆる経済移民も加わった、さらに多くの流民が殺到する可能性もある。

さらに指摘すれば、イスラム過激派のテロリストが難民を装い難民に紛れて、欧州全体に押し寄せるのではないか、というここイタリアなどで従前から危惧されていた事態が現実化する恐れも高まる。

それでも欧州、特にEU(欧州連合)諸国が、難民を自分以外の誰かに押し付けようとしてギクシャクした関係を続けた過去を捨てて、寛容の精神を回復し団結するなら、それらのリスクを取る価値が大いにある。

なぜなら欧州が一つにまとまれば、そこに北米なども加わって、難民が発生するそもそもの元を断ち切り改善するための方策が立てやすくなる。つまりイスラム過激派などを撃破し、中東に平和をもたらすことである。

そうした動きは欧米が、難民受け入れを実践すると同時に、日本なども含めた世界の国々を巻き込んで、目指していくべき道である。独メルケル首相は見事にその道筋を示した。

彼女の賭けが吉と出るか凶と出るかは分からない。が、メルケル首相が示した広く深い寛容の精神は、狭量と憎悪に支配されかけていた欧州の良心を呼び覚ました。メルケル首相はそうやって歴史に大きな足跡を残した。


子供は親の所有物(モノ)ではない

僕は前回の記事でイスラム教徒と「イスラム国」のテロリストはまったく違うものであり、これを混同してはならない、と書いた。そのことに異議を唱える者は いないと思う。ところが同時に、イスラム教の持つ極端な保守性が、「イスラム国」のテロリストと一般のイスラム教徒を同一のものに見せてしまうような事案 もひんぱんに起こる。次のようなことである。

先日(2015年8月)、中東ドバイのビーチに家族で遊びに来ていた20歳の娘が波に呑みこまれた。助けを求める叫びに応えて居合わせた救助員二人が海に飛び込も うとした。すると屈強な体格の娘の父親が彼らを力ずくで引き止めた。見ず知らずの男に触られたら娘が汚れる、そうなるくらいなら彼女は死んだほうがいい、 と暴力がらみで救助を拒み続け娘はついに溺れて死んだ。

イスラム教徒が起こす類似の事件は欧州でも頻発する。少し前にはここイタリアでパキスタン人移民の娘が父親に喉を掻き切られて殺害され、遺体を庭に埋めら れた。犯行動機は娘が父親の意向に背いて「西洋風」に自由に生きようとし、挙句に「キリスト教徒の」イタリア人若者と付き合っている、というものだった。父親の兄弟が共犯者になった。娘が西洋風に自由に生き、西洋人を恋人にまでしたのは、一族の名誉を汚す行為だからそれは名誉の殺人だと彼らは主張した。

そうした凶悪事件ばかりではなく、親が娘に暴力を振るったり、イタリア人の友人を作ることを禁止したり、親の決めた相手との結婚を強制したりという横暴が 次々に明るみに出ている。移民社会におけるそうした女性虐待の流れの一つで、イタリア国内だけで年間2000件程度の強制未成年者結婚が行われていると推 定されている。この場合の犠牲者も全て女性である。似たような事件は欧米のそこかしこで発生している。

犬が人に噛み付いてもニュースにはならないが、人が犬に噛み付けばニュースになる。異常な出来事だからだ。イスラム教徒によるそれらの事件は、人が犬に噛 み付くケースと同様の異変である。従ってそれらを持って全てのイスラム教徒が同じだと考えてはならない、というのは理想的なあるべき態度である。しかし現 実はそううまくは運ばない。

それらの異様な事件は、イスラム教徒と対立するキリスト教徒が多数を占める欧米社会に強い衝撃を与え、少数派のイスラム移民への偏見や差別を増幅させる。 そのことがひるがえって中東移民を主体とするイスラム社会の反発を招き、憎悪が憎悪を呼ぶ悪循環が繰り返される。結果、欧米で生まれ育ったイスラム教徒の 息子らが、シャルリー・エブド襲撃事件に代表されるテロを起こしたり中東のイスラム過激派に身を投じたりする。

欧米社会の良心ある人々は、一貫して中東移民との融和を唱えて行動してきたが、事態が悪化した現在はさらに危機感を覚えてイスラム社会との対話を強く模索 している。イスラム系移民への欧米側の偏見と差別は糾弾されて然るべきである。同時にイスラム系移民も自らが所属する欧米社会の文化を尊重し、郷に入らば 郷に従え、の精神で欧米社会に順応しようと懸命の努力をするべきだ、というのが欧州住民で且つ第三者的な立場にいる「日本からの移民」の僕が感じることである。

ドバイの事件もイタリアの事件も、根底にあるのは子供、特に女子を親の所有物でもあるかのように見なす時代錯誤な保守性である。それをほとんど未開性と呼 んでもかまわない。見知らぬ男に触れられた娘は傷物であり、従って売り物にならない、つまり嫁に行けない。それは一家の不名誉である。処女信仰も加わった イスラム特有の考え方は奇怪だが、実はそうした考え方や風習はその昔、ヨーロッパにもまた日本にもあったものだ。

今の日本では考えられないことだが、娘を物のように扱って遊郭に売り飛ばしたり、強制的に労働させたり結婚させたりしたのは、つい最近まで日本でも普通に あったことである。時期は違うものの西洋でも事情は同じだった。娘ばかりではない。かつて子供は男女とも親の所有物だった。少なくとも親の所有物に近い存 在だった。子供が生まれながらにして一個の独立した存在であり人格である、と認めそのように社会通念を変えていったのは欧米人の手柄である。

われわれ日本人はイスラム圏の人々よりも一歩早くその恩恵にあずかって、子供、特に女子を親の思いのままに扱う野蛮な文化を捨てた。しかし何百年も続いた 習わしはそう簡単には消えない。日本社会に根強く残る女性差別、男尊女卑の風はその名残である。そればかりではない。親が子供を自己の所有物と見なす風俗 さえも実は日本社会には残っている。それが如実に表れる例の一つが親子の無理心中である。自分が死んだ後に残される子供が不憫だ、という理由で親が子を道連 れにするのは、子供の人格を認めずに自らの所有物だとどこかで見なしているからである。

そこまで極端な例ではなくとも日本社会には同じ陥穽に落ちている現象が多い。たとえば親子の間に会話がなく、思春期の子供が激しく親に反抗する事態なども 実はその遠因に子供を独立の人格と認めない、つまり自らの所有物と見なす精神構造が関係している。幼児から子供を独立の人格と見なしていれば、親は子供と 対等に対話をせざるを得ないし、ただひたすらに勉強しろ、いい大学に入れと問答無用に強制し続けることも無くなる。

今イタリアを含む欧米のイスラム系移民社会で起こっていることは、どこかで日本の過去にもつながっている。欧米の過去にもつながっている。欧米も日本も試行錯誤を重 ねて「学習」し今の自由な社会を築いた。それはそこかしこに問題の多い、まだまだ不完全な自由社会だが、少なくとも中東のイスラム教社会よりは進歩した社 会である。この進歩とは欧米的基準あるいは日本的基準で見る進歩である。従ってイスラム教徒がそれを進歩とは認めないと主張するなら、彼らがそう主張する 権利と自由を認めつつも、やはりこちらの社会の方が進歩している、とわれわれが宣言する進歩である。

イスラム系移民がその進歩した社会に適合する努力をすることと、彼らが自らの宗教を守りその教義を実践することとはいささかも矛盾しない。欧米社会はそこ でもまた不完全ながら、多様性を重視しようと日々努力をしている。イスラム教徒の信仰を認め尊重することを欧米社会はためらわない。しかしそれを他人に押 し付けようとしたり、自らの宗教を盾に欧米社会の価値基準に挑もうとする者は容赦なく排除しようとする。

宗教は個人的内面的なものであり、社会の価値基準は公共の財産である。もしも宗教が公共の社会的価値基準に抵触する行動や主張をしなければならない場合に はこれを慎む、ということが欧州社会における最重要な暗黙の合意事項である。それは自らの神のみが絶対だと信じて疑わないイスラム教徒も例外ではない。しかしながら、イス ラム系移民はこのことを知らず、あるいは知っていてもルールを認めずに我を通そうとすることが多い、と自称「仏教系無神論者」の僕などの目には映る。

イスラム系移民のそんな頑なさは、シャルリー・エブドのジョークや風刺を受け入れない狭量にもつながる。シャルリー・エブドのイスラム風刺はもちろんイス ラム教徒への侮辱である。だが同時にそれは、違う角度から見たイスラム教やイスラム教徒やイスラム社会の縮図でもある。立ち位置によって一つのものが幾つ もの形に見える、という真実を認めるのが多様性を受け入れるということである。そして多様性を受け入れない限り、欧米社会における中東移民と地元住民との融合 はありえない。それはもちろん欧米住民の側にも求められていることである。


アンダルシアを「イスラム国」に重ねて見れば(Ⅰ)


先ごろイベリア半島のスペイン・アンダルシアを訪ねた。イベリア半島は8世紀から15世紀終わりにかけてアラブの支配下にあっ た。中でもジブラルタル海峡を挟んでアフリカと対面するアンダルシア地方は、もっともアラブの影響を受けた地域である。

およそ800年にも渡ったアラブのアンダルシア支配は、多くのイスラム文化遺産を同地に残した。世界遺産にも登録されている目ざましいものをざっと見ただけでも、例えばグラナダのアルハンブラ宮殿、セビリアの大聖堂とアルカサル、コルドバのメスキータ(モスク)等々がある。

それらの文化遺産の圧倒的な美しさとアラブ文明の息吹は、スペインの中でも特に旅行者に人気の高いアンダルシアを、まさしくアンダルシアたらしめているものであり、同州のみならずスペイン王国全体の宝といっても過言ではないだろう。

アンダルシアを旅しながら、僕はアラブのテロ集団「イスラム国」を思い続けた。理由は二つある。一つは彼らが極端な原理主義を掲げているとはいえ、文化遺産を残した人々と同じイスラム教徒である事実。また「イスラム国」が世界制覇への一段階として、スペインを含むイベリア半島を2020年までに支配下に置く、と宣言していることである。


後藤健二さんを惨殺した「イスラム国」の蛮行は止む気配がない。シリアとイラクにまたがる地域にはびこっていたテロ集団はリビアにも侵攻し、アフガニスタ ンやパキスタンにも魔手をのばした。中東の他の地域にも影響力を及ぼしつつ東南アジアのムスリム国にさえ忍び入る気配である。

また直近ではシリアの世界遺産パルミラ遺跡の破壊を進めながら、遺跡の保護者である82歳の考古学者ハレド・アサド氏を斬首刑にした。アサド氏がテロ集団への協力を拒んだため公衆の面前で殺害し、血まみれの遺体を遺跡の柱に吊るす、という相変わらずの残虐ぶりを見せている。

「イスラム国」が近い将来、イベリア半島からアフリカ、東ヨーロッパから中東を経てインドネシアに及ぶ広大な地域をカリフ制に基づいて支配する、というのは笑い話の世界だ。が、実はそれらの地域の大部分はかつて、あるいは現在のイスラム世界の版図ではある。彼らの主張はその意味では全てが荒唐無稽ではないのである。

そうしたことからも、その昔イスラム教徒の支配下にあったアンダルシアと「イスラム国」を結びつけて考えるのは、筋の通ったものだ。しかし同時に「こじつ け」にも似た不条理でもある。なぜならテ ロリストである「イスラム国」と一般のイスラム教徒とは断じて同じ人々ではない。

従って、例えばイスラム王朝が残したアルハンブラ宮殿と、「イスラム国」の未開と酷薄をイスラム文化あるいはアラブ文明として、ひとくくりにすることはで きない。あるいはコルドバのメスキータを生んだ創造的で開明的な人々と、人質の首にナイフを突き立てて殺害する「イスラム国の」蛮人とを同一視してもなら ない。

そのことを疑問に思う者は、日本人なら例えばオウム真理教のテロリストと自らを対比して考えてみればいい。オウム真理教のテロリストたちは同じ日本人である。だが彼らは僕やあなたを含むほとんどの日本人とは実に違う人々だ。

彼らはまさに狂気に支配されたテロリストである。イスラム過激派とイスラム教徒の関係はそれと同じだ。その単純だが重大な真実に気づけば、アンダルシアの素晴らしいイスラム文化と「イスラム国」を混同するべきではない、と明確に理解できる。

そしてそのことが理解できれば、「イスラム国」が近い将来世界の有志連合によって殲滅されるであろうことを喜ぶ気持ちにもなれる。なぜならアンダルシアに 偉大な文化遺産を残したムスリム とは無縁の「イスラム国」が破壊されても、イスラム教徒の誰も傷つくことはないからである。

その場合の理想の形は、有志連合が世界中のイスラム教徒によって結成されることだ。そうすれば非イスラム教徒は誰も戦いに参加する必要がなくなる。 それはこれまでの歴史の重要な節目ごとに他者、特に欧米人の介入によって翻弄され、傷つけられてきた中東の誇りを取り戻すきっかけになるかもしれない。

スペイン・アンダルシアの壮麗なイスラム文化遺跡を巡りながら、僕はそうした事どもを考え続けた。かつて偉大な文化・文明を有し今も大きな可能性を秘めているかもしれない「イスラム教世界」が、自らの内部に生まれた過激派の蛮行によって傷つけられ貶められて、世界から疑惑の目で見られているのは実に残念なことである。

安倍首相への公開状~謝罪は屈辱の対義語である~



安倍晋三総理大臣

先日発表された戦後70年談話は、各方面への配慮がうかがえる周到な計算に満ちたものでした。それはあなたの当初の思惑とは違う、先鋭且つ挑発的なものではなく、全体として見れば各国が外交上は余り文句を言えない常識的な内容になっています。ひっかかるのは、謝罪が間接的な表現になったことと、未来の日本人は謝罪を続ける必要はない、としたところでしょう。そこにはあなたの本心がてんこ盛りになっていて、中韓との真の和解がまた遠のいたことを知らせてくれます。中韓との和解が完成しない限り、世界との「真の和解」もあり得ません。

各国政府とメディアの反応

中韓は、「植民地支配」「侵略」「痛切な反省」「おわび」といういわゆる「4つのキーワード」がすべて入っているため不満ながらも強い批判をせず、アメリカに至っては談話を評価する姿勢さえ示しています。他の国々は静観という ふうですね。「私の謝罪」という形を避けたあなたの狡知な表現は、中韓でさえ表立って批判はできないものの、だからと言って彼らとの和解が進む形での談話内容でもなかったのは明らかです。

アメリカは、日韓両国の最大の友好国ながら、国益のためには冷徹な決断を下すことを少しもためらいません。近い将来日本を巻き込んで、少なくともアジア太 平洋地域で展開する米軍事費用の多くを負担させたい彼らは、それに向けてどうしても必要な日本の安保法案の成立を後押ししなければならない。だから談話にケチをつけてあなたの立場を弱くしたくない。かくて中韓、特に韓国の不満に寄り添うよりも、あなたの主張を「取り敢えず」は評価するというポーズを取りました。

米政府の見解とは対照的にアメリカのメディアは、ここ欧州のほとんどのメディアと足並みをそろえるように、あなたの談話内容に厳しい見方をしています。私はほぼそうしたメデァアの主張に賛同していますが、これは私が欧州に住んで「西洋かぶれ」になっているからではなく、歴史を直視したい1人の日本人としての立ち位置から眺めて、どうしてもそうなるのだ、ということを先ず強く主張させていただきます。

期待はずれ

私はあなたが談話を発表する前、あなたが世界をあっと言わせるような内容を開示してくれるかもしれない、と敢えて数字に示せば1%程度の確率で期待しました。それというのもあなたが、世論の反発と中韓米その他の国々の牽制発言に不安を覚えて、当初の独りよがりな声明内容から、侵略やお詫びや痛切な反省等々の言葉を盛り込んだものに変えるらしい、という憶測が流れていたからです。

私はあなたがそこからさらに大きく踏み出して、国内の右派も左派も中韓も、また他の世界の国々をも驚かせる内容の談話を発表する可能性が全くないとは言えない、と密かに思ったのです。それは基本的に村山談話を全面的に踏襲して、さらにあなたがあなた自身の強い言葉と表現で、心からの謝罪を改めてする、というものでした。 あり得ない? いえ、あり得ないように見えるからこそ、私は殊更にそう考えてみたのです。

世界から歴史修正主義者のレッテルを貼られているあなたが、180度転回して歴代のどの首相よりも深いお詫びをすることで、中韓を始めとする国々を驚かせ 納得させる、つまり最終的でトータルで完全な謝罪を完遂するかもしれない、と私は心の片隅で本気で期待しました。もしそうなればあなたが談話で言及した
「将来の日本人が最早謝る必要のない」環境がすぐさま作り出されていたことでしょう。

ドイツの謝罪と再生

それは私ひとりの中で生まれた根拠のない妄想ではなく、日本と似た戦争体験を持つドイツが、戦後あざやかに暗い過去を克服して行った歴史の歩みに鑑みて、『あるい は・・』と思いついたものでした。1970年、ドイツがまだ戦争犯罪の後遺症で苦しんでいた頃、当時のウイリー・ブラント首相はポーランドのゲットー英雄 記念碑の前で献花をしたあと、おもむろに大地に跪(ひざまず)いて黙祷し世界を驚かせました。それを政治家のポーズとして捉えることもできますが、彼は「そこに立っているだ けでは十分ではないと感じ自然に跪いた」と追って述懐しました。その後の歴史は、彼の行為が偽善ではなく勇気あるものだった、として讃えています。

彼の真摯な行為は最大の被害者だったユダヤ人やポーランド人を始め、世界中の人々の憤懣を氷解させました。しかし、ドイツ国内の保守派は首相の行為をやり 過ぎだ、屈辱行為だとして糾弾しました。彼らは、跪く行為が敗北であり屈服であるという、暴力や戦闘行為に関連付けた考え方をしたのでした。しかしな がらブラント首相の行動は、前述したように、屈服や屈辱の表明ではなく、ドイツが世界から許されて先の大戦の汚濁の中から立ち上がり、再び誇りと尊厳を取 り戻すきっかけを作ったのです。

ドイツの保守派が歴史の事実を受け入れて改心し生まれ変わるまでには、それからさらに時間が必要でした。ブラント首相の跪座から15年が経った1985 年、つまり第2次対戦の終結からちょうど40年後、当時のヴァイツゼッカー独大統領は、終戦記念の議会演説で「歴史を変えたり、なかったりすることはできない」「過去に目を閉ざす者は、現在に対しても盲目になる」という表現で、ドイツの戦争責任やホロコースト(ユダヤ人大虐殺)と率直に向き合うよう国民に求めて、世界を感動させました。

戦後40年の節目に行われたその講話で、さらに大統領は「非人間的な行為を記憶しようとしない者は再び同じ危険に陥る」「戦争が終わった5月8日は“敗戦の日”ではなく、ナチスの暴力支配からドイツ国民が自由になった“解放の日”である」とも断言しました。ブラント首相の謝罪をさらに推し進めた大統領の良心の叫びは、ついに国内の保守派の人々をも突き動かし、ドイツは歴史を真正面から見つめて揺らがない国へと変貌して行きました。ドイツの戦後はそこで終わり、未来へ向けての新しい歩みが始まったのです。

終わらない日本の戦後

ドイツのブラント首相の行為は、村山元首相の戦後総括談話になぞらえることができます(跪く機会もまたその必要もありませんでしたが)。私はあなたがもし かすると、ヴァイツゼッカー独大統領の役割を果たしてくれるのではないかと密かに期待したのです。そういう話の流れなら村山談話をほぼそのまま踏襲した 2005年の小泉談話がある、という人もいるでしょう。しかし、それでは物足りません。もっと劇的なインパクトのある談話でなくては、先の大戦の巨大な罪とその後の歴史認識の迷走を帳消しにして、日本を甦らせる力はありません。

現に小泉談話のあとも、韓国は解決済の事案を持ち出して日本を責め、中国も同じ動きを見せてきました。もっとも彼らの怒りは、徹底した謝罪をした筈の日本 政府内で、これを否定したり或いはないがしろにするネトウヨ閣僚や議員などが続出することから来ています。閣僚どころか日本のトップであるあなた自身が、 そのあたりのゴロツキのネトウヨよろしく「侵略の定義はない」「教義の強制性はなかった」などと、欺瞞を正当化するための瑣末を相変わらず口にするのです から、彼らの不信感が募るのも無理はありません。

それに加えてあなたは、中韓に限らず多くの国々が疑問を持つ靖国参拝を強行するなど、歴代内閣の「真摯な謝罪」を台無しにする行為を行ってきました(その 意味では小泉さんも同罪です)。それらは日本国内で歴史認識の筋道が未だ確立されず、故にその共有も全く存在しない現状を露呈するものにほかなりません。そのために中韓はもちろん国際世論の大半が、日本の反省と謝罪は無条件に信用できるものではない、と今もなお判断し続けています。

日中韓の兄弟DNA

あなたは、「私が謝るのではなく、歴代政権が謝ったことを認める」という言い回しで、中韓を敵視する排外民族主義者や極右政治家群や歴史修正主義者やネトウヨ 等々に仁義を切ったわけですが、そうすることであなた自身も中韓だけが視界に映る視野狭窄に陥っていることを白状しています。私はそこがいつも不思議でなりません。

先の大戦の総括に議論が及ぶ場合には、たとえ対象が中韓であっても、背後にその他の「世界の全て」が控え、監視していることを決して忘れてはなりません。そこで形成される国際世論は、前述のあなたの言い回し、つまり安手の建前論に誤魔化されるほど馬鹿ではありません。そういうやり方は世界的にはひと言で片付けられてお終いです。即ち「姑息」な論法と。

あなたの支持母体である民族主義者や反動右翼やネトウヨの皆さんは、世界から目を逸らしたまま日本という一軒家にこもって、壁に向かって常に怨嗟を叫び続けています。私が「引き籠りの暴力愛好家」と規定している彼らの視界に辛うじて入っている外の世界は、隣の、彼らにとっての「劣等国」の中韓のみです。

彼らは同類の者同士でつるんで、隣国の「劣等国民」を罵倒しては自己満足に浸ります。実はそれと同じことを、まさに中韓の一部の人々もやっています。あちらのネトウヨの皆さんです。反日をあおる中韓のそれらの人々と、日本のネトウヨ民族主義者の皆さんは、実は同じアジアのDNAで強く結ばれた血縁の濃い兄弟です。心が狭く、未開で、無知で、ネチネチと細部にこだわり、怒りっぽい。

中韓のネトウヨの皆さんが怨みつらみに絡めとられて、こめかみの血管を膨らませて日本を罵倒すれば、日本のネトウヨの皆さんは、南京虐殺の被害者数を執拗に問題にし、慰安婦に軍が関わったことを示す証拠はないと重箱の隅をほじくっては得意になり、果ては侵略の定義はない、などとかつての日本軍の蛮行をなんとか否定しようと試みる。瑣末にこだわる粘着質のそうした性根は日中韓で共通しています。

和解こそ未来志向の原点

戦後処理と和解には1-法的処理、2-謝罪、3-和解の3段階があるとされます。そのプロセスは加害者側が真摯に誠実にこれを執行するときにのみ完遂します。例えば韓国との間の法的処理は、1965年の日韓基本条約等で既に完成しています。それを無視した言い分には冷静に対応し、なお埒が開かない場合には、事案を国際法廷に持ち込む可能性も考えつつ、しかし飽くまでも和解を目指している間柄ですから剣呑な動きは最終手段にして、そこでもできる限り話し合いによる解決を模索して行くべきです。

ネトウヨ民族主義者の皆さんは、何度謝罪すればいいのだ、とすぐに目を剥いて蛮声を挙げます。その答えは単純です。つまり、和解が成立するまでは何度でも謝るのです。あるいはそのつもりで相手と対するのです。こちらに真心があるなら謝罪は必ず受け入れられます。確かに中韓共に日本に対して頑なに過ぎて、和解は遠いと見えることもあります。だが、日本はつい最近まで中韓とも完全和解に向けた歩みを続けていました。

それを停滞させたのは、日本側の事情に限って言えば、安倍首相、あなた自身の言動です。今からでも遅くありません。あなたが真に歴史に名を刻みたいなら、あなたの支持母体である多くの保守派やネトウヨの皆さんなどの反発を覚悟で、これまでの政策を一度方向転換し、アジアの隣国との真の和解を最優先事項にするべきです。その上で、憲法改正を含むあなた本来の政策を真正面から推し進めれば、あなたは先の大戦の亡霊のしがらみから遂に日本国民を解き放した名宰相として、必ず歴史に名を残すことでしょう。

敬具

イタリア・シエナの広場を疾駆する美しき裸馬たち


イタリア中部の街シエナは、フィレンツェから50キロほど南にある中世の美しい街である。そこでは毎年夏、パリオという名の競馬が行なわれる。街を構成する「コントラーダ」と呼ばれる17の町内会のうち、くじ引き等で選ばれた10の町内会の馬が競い合う。毎年7月と8月の2回行われ、明日8月16日が今年最後のパリオの日である。

パリオはただの競馬ではない。街の中心にある石畳のカンポ広場を馬場にして、10頭の裸馬が全速力で駆け抜けるすさまじい競技である。なぜすさまじいのかというと、レースが行なわれるカンポ広場が本来競馬などとはまったく関係のない、人間が人間のためだけに創造した、都市空間の最高傑作と言っても良い場所だからである。

カ ンポ広場は、イタリアでも1、2を争う美観を持つとたたえられている。1000年近い歴史を持つその広場は、都市国家として繁栄したシエナの歴史と文化の 象徴として、常にもてはやされてきた。シエナが独立国家としての使命を終えて以降は、イタリア共和国を代表する文化遺産の一つとしてますます高い評価 を受けるようになった。
 
パ リオで走る10頭の荒馬は、カンポ広場の平穏と洗練を蹂躙しようとでもするかのように狂奔する。狂奔して広場の急カーブを曲がり 切れずに壁に激突したり、狭いコースからはじき出されて広場の石柱に叩きつけられたり、混雑の中でぶつかり合って転倒したりする。負傷したり時には死ぬ馬も出る。

カンポ広場を3周するパリオの所要時間は、1分10秒からせいぜい1分20秒程度。熾烈で劇的でエキサイティングな勝負が展開される。が、それにも増して激烈なのが、このイベントにかけるシエナの人々の情熱とエネルギーである。それぞれが4日間つづく7月と8月のパリオの期間中、人々は文字通り寝食を忘れて祭りに没頭する。

シエナで広場を疾駆する現在の形のパリオが始まったのは1644年である。しかしその起源はもっと古く、牛を使ったパリオや直線コースの道路を走るパリオなどが、13世紀の半ば頃から行なわれていたとされる。もっと古いという説もある。

パリオでは優勝することだけが名誉である。2位以下は全く何の意味も持たず一様に「敗退」として片づけられる。従ってパリオに出場する10の町内会「コントラーダ」は、ひたすら優勝を目指して戦う・・・と言いたいところだが、実は違う。

それぞれの町内会「コントラーダ」にはかならず天敵とも言うべき相手があって、各「コントラーダ」はその天敵の勝ちをはばむために、自らが優勝するのに使うエネルギー以上のものを注ぎこむ。

天敵のコントラーダ同志の争いや憎しみ合いや駆け引きの様子は、部外者にはほとんど理解ができないほどに直截で露骨で、かつ真摯そのものである。天敵同志のこの徹底した憎しみ合いが、シエナのパリオを面白くする最も大きな要因になっている。

パリ オの期間中のシエナは、敵対するコントラーダ同志の誹謗中傷合戦はもとより、殴り合いのケンカまで起こる。毎年7月と8月の2回、それぞれ4日間に渡って人々はお互いにそうすることを許し合っている。そこで日頃の欲求不満や怒りを爆発させるからなのだろう、シエナはイタリアで最も犯罪の少ない街とさえ言われている。

長い歴史を持つパリオは、現在存続の危機にさらされている。2011年7月のパリオに出走した馬の1頭が、広場の壁に激突して死んだ。動物愛護者や緑の党の支持者などがこれに噛み付いた。実 はそのこと自体は今に始まったことではなく、パリオを動物虐待だとして糾弾する人々はかなり以前からいた。

2011年の場合は事情が違った。当時ベルルスコーニ内閣の観光大臣だったミケーラ・ブランビッラ女史が、声を張り上げて反パリオ運動を主導したのである。動物愛護家で菜食主義者の大臣は、かねてからシエナのパリオを敵視してきた。事故を機に彼女はパリオの廃止を強く主張し、その流れは今も続いている。

僕はかつてこのパリオを題材に一時間半に及ぶ長丁場のドキュメンタリーを制作したことがある。6~7年にも渡るリサーチ準備期間と、半年近い撮影期間を費やした。幸い番組はうまく行った。僕は今もパリオに関心を持ち続け、番組終了後の通例で、撮影をはじめとする全ての制作期間中に出会ったシエナの人々とも連絡を取り合う。その経験から言いたいことがある。

パリオで出走馬が負傷したり、時には死んだりする事故が起こるのは事実である。だがシエナの人々を動物虐待者と呼ぶのは当たらないのではないかと思う。なぜなら馬のケガや死を誰よりも悼(いた)んで泣くのは、まさにシエナの民衆にほかならないからである。街の人々は馬を深く愛し、親しみ、苦楽を共にして何世紀にも渡って祭りを盛り上げてきた。

彼らは馬を守る努力も絶えず続けている。石畳の広場という危険な馬場に適合した馬だけを選出し、獣医の厳しい監視を導入し、馬場の急カーブにマットレスを敷き詰め、最終的には激しい走りをするサラブレッドをパリオの出走馬から外すなど、など。それでも残念ながら事故は絶えない。

しかし、だからと言って歴史遺産以外のなにものでもない伝統の祭りを、馬の事故死という表面事象だけを見て葬り去ろうするのは、あまりにも独善的に過ぎるのではないか。今日も世界中の競馬場で馬はケガをし、死ぬこともある。それも全て動物虐待なのだろうか?

最後に不思議なことに、ブランビッラ元大臣を含むパリオの動物虐待を指摘する人々は、馬に乗る騎手の命の危険性については一切言及しない。また僕が知る限り、元大臣を含む多くの反パリオ活動家の皆さんは、パリオ開催中のシエナの街に入ったことがない。つまり彼らは、パリオについては、馬の事故死以外は何も知らないように見える。

安倍首相の戦後70年談話に期待する



14日に発表される予定の安倍首相の戦後70年談話は、当初の独りよがりで勇ましい内容のものから、侵略やおわびや反省という言葉を盛り込んだ内容になるのではないか、と推測されている。そうした言葉を入れるのは、戦争を防ぐ備えを造営していく心構えの一環として当たり前だと思う。またそれは唯我独尊思考をゴリ押しして、世界の顰蹙を買うよりもましなものだが、世論に押されて言葉を変えるだけの嘘ではないことを祈りたい。

安倍首相は、米国務省の東アジア統括国務次官補ラッセル氏が7月21日、
「日本が過去70年間に渡って、地域の平和や国際秩序、世界の経済や文化に貢献してきたりっぱな業績についても談話に盛り込んで欲しい」という言葉などにも意を強くして、過去への反省やおわびを軽視、あるいは無視したミーイズム盛りだくさんの談話を考えていた節がある。

だが国務次官補のラッセル氏は同じ文脈の中でまた、「戦後70年談話には
“侵略”や“おわび”に言及した 過去の首相のように、第2次世界大戦に対する日本政府や国民の思いと、それを実践してきた反省の気持ちが盛り込まれるべきだ」とも語っていたのだ。安倍首相はその部分を黙殺しようとしたのだろうか。もしそうならば、再び「姑息」と批判されても仕方がない。

安倍首相の戦後70年談話を巡っては、有識者会議が8月5日の報告書で“侵略”を明記し、8月10日に政権幹部が“おわび”に言及すると漏らすと、稲田朋美政調会長は逆に “おわび”はいらないとの考えを示した。続いて公明党の山口那津男代表が記者 会見で“侵略”や“おわび”の文言を盛り込んだ 歴代談話を踏襲するべきと再び釘を刺すなど、歴史認識がガタガタにぶれまくる国の醜態をさらし続けている。

安倍首相の戦後70年談話は、いうまでもなく村山政権の戦後50年、および小泉政権の戦後60年談話に続くものだが、そこの内容を踏まえるのは当然として、僕は今年1月に亡くなったドイツのヴァイツゼッカー元大統領の、戦後40年談話とも比較して見ていこうと考えている。

ドイツの良心という異名も持つヴァイツゼッカー元大統領は、数々の名演説で知られている。特に有名なのは「歴史を変えたり、なかったりすることはできない」「過去に目を閉ざす者は、現在に対しても盲目になる」という表現で、ドイツの戦争責任やホロコースト(ユダヤ人大虐殺)と率直に向き合うよう国民に求めた、1985年5月8日の議会演説である。

戦後40年の節目に行われたその講話で、さらに元大統領は「非人間的な行為を記憶しようとしない者は再び同じ危険に陥る」「戦争が終わった5月8日は“敗戦の日”ではなく、ナチスの暴力支配からドイツ国民が自由になった“解放の日”である」とも断言した。僕はそれにちなんで、8月15日は“日本の敗戦の日”ではなく、軍国主義の暴力支配から日本国民が自由になった“解放の日”である、と言いたい。

戦後のドイツは、過去の清算と反省なしに国際社会への復帰はできず、近隣諸国との和解も遠かった。元大統領の熱い訴えがドイツ国民の良心を呼び覚まし、過去を直視して揺らがない道筋がつくられると同時に、世界中が感銘を受けてドイツを許した。そうやって戦後ドイツは、国際社会の信頼を回復し今日に至っている。

元大統領の戦後40年講話が極めて重要なのは、良く指摘されるように、「彼が誰も気づいていないことを言ったからではない。敗戦から40年が経ったその時点のドイツにおいてさえ、なお多くの国民が知りたくないと思っていたこと、だが国民が必ず知らなければならないまさに“そのこと”を語った」からである。

ドイツと似た過去を持つ日本。間もなく発表される安倍首相による戦後70年の談話。中身がやはり気になる。安倍首相は地元の山口県で12日、「日本はこの70年間、先の大戦に対する深い反省のもと平和を守り、アジアの繁栄のために力を尽くしてきた。平和国家としての日本の歩みは今後も変わらない」と強調し「日本は今後も勝ち得た信頼のもとに世界に貢献していかねばな らない」とも述べたという。

ところが安倍首相は、数々の極右的言動によって「日本が勝ち得た世界の信頼」を多く揺るがしてきた張本人でもある。また失礼ながら安倍さんとワイツゼッカーさんでは人間の器も違う。その結果、歴史認識まで違う。それでも、戦後40年でドイツ社会を一変させたワイツゼッカーさんにあやかって、安倍さんが日本国民と近隣諸国と世界を感銘させる立派な談話を発表し、国際社会から「歴史修正主義者」と規定されている自らの不徳を一蹴するよう腹から期待したい。


記事検索
月別アーカイブ
プロフィール

なかそね則

カテゴリ別アーカイブ
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ