【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

デザートを食う助手が怖い②



僕らは南イタリアでドキュメンタリーのロケをしている。

今回のような長期ロケの場合は、スタッフ構成はディレクターの僕を含めて4人程度が基本だ。そうしておいて必要があれば、ミラノやローマのみならず、ロケ地に近いイタリア各地から応援のスタッフを呼ぶのが僕のやり方である。

その日と翌日は、夕方から夜にかけて大きな撮影が入っていたため、助っ人の証明マンと助手が加わってスタッフの人数が増え、ワイワイと騒ぐ雰囲気が大きくなって、彼らの気分がさらに仕事から遠ざかりやすくなっていた。

ドキュメンタリーのロケの場合、スタッフは撮影の対象になる出来事や人物やイベントや事件や物の動き等々に合わせて、時間を調整してスタンバイしていなければならない。ロケがたとえば午後四時に始まるならば、普通の場合、どんなに遅くても三時半には現場にいることが要求される。

普通の場合というのは、たとえて言えば、何の変哲もない街や田園の風景を単純に撮影するようなときである。

街とか田園というのは、いつでもそこにあって、動いたり走ったり消えたりすることはない。だからそれをありのままに撮影するときは、カメラを好きなところに据えてそのまま風景を切り取れば良い。

そういうときでも、撮影をはじめる三十分前には現場に行っているのがプロというものである。なぜならプロは撮影の前に充分に時間をかけて準備をするものだからだ。


ディレクターである僕が、切り取りたい風景のイメージをカメラマンに告げ、カメラマンはそれによってカメラ位置やレンズや構図やフレームや光の具合などのいろいろな条件を考慮してテストをくり返した後に、ようやくカメラが回されることになる。

腕の良いカメラマンならば、一連の作業をあっという間に済ませて撮影を終えてしまうが、少しでもいい絵を撮ろうと思えば、それでも準備や設定に三十分程度は軽くかかってしまうものなのだ。

いちばん単純な撮影でさえそうなのだから、照明や音声を設定したり、複雑なカメラワークが必要な撮影だったりすると、準備時間はいくらあっても足りない。

それに加えて、僕が作るドキュメンタリーは、撮影対象が生身の人間だったり、生身の人間にまつわるでき事であったりする場合がほとんどである。 生身の人間が相手だから、物事が撮影の予定時間よりも早く進行したり、撮影直前になって何かが変更になったりキャンセルされたりすることは日常茶飯事だ。

相手の都合ばかりではなく、こちらに起こりうる問題も気に留めておかなければならない。

ロケ現場でいざ撮影をしようとした時に、カメラや照明や音声に不具合が生じることだってないとは限らないのだ。

フィクションの撮影なら、そういう時ゆっくりと構えて機材を調整することもできるが、ドキュメンタリーの場合は撮影する対象が一過性のものであるケースが多いから、その時どきのチャンスを逃してしまうと取り返しがつかない。

そうしたことにすばやく対応するためにも、ロケの現場にはなるべく早く着いていた方が良いのである。

もちろん早めにスタンバイはしたものの、予定の時間よりも逆に遅れて物事が進行することもある。イタリアではむしろその方が多いくらいだ。だからといって、それを期待して時間ぎりぎりに動いたり予定を決めたりするようでは、最早これはプロではない。アマチュアでさえない。単なるバカである。

いまノーテンキな顔でデザートを食っている僕のスタッフは、全員がプロである。

従ってデザートを食っても、次の撮影開始時間の少なくとも三十分前には現場に到達できることを知っている。たとえ全員ではなくても、制作進行を兼ねる監督助手のマリアンナは、そのことを充分に計算している・・・・ように見える。

ところが、これが全くあてにならないのである。メシのため、デザートのためならば、バカと言われようがアマチュアとののしられようが、断固として食卓にへばりついているのがイタリア人である。

(メシもデザートもその日の撮影がすべて終わったところで、いくらでも時間と金をかけて好きなだけ食わしてやる。それだけの予算はちゃんと計上されているのだ。だからロケが進行中は、フツーの人類のように昼食は一時間程度ですませて、早め早めに現場に行ってスタンバイをしようよ)

というのが僕の偽らざる心境である。

僕はできるだけ早くロケ現場に行って、撮影が始まるまでの間に撮影項目や設定や構成や人物や話の流れや・・・といった作品の基本になる様々な事柄をもう一度確認し、あるいは練り直しておきたいのだ。

だからたとえ待ち時間が長くても、それは決してムダな時間ではないのである。

胃潰瘍のウシじゃあるまいし、クチャクチャクチャクチャ食いつづけている時間などないのだ!

 

(つづく)

 

 

デザートを食う助手が怖い③



 

そうは言うものの、できれば食事時間を短く、デザートもほどほどにして仕事にまい進しよう!などというのは、実はディレクターである僕の勝手な言い分である。

ドキュメンタリーに限らず、映画やテレビの撮影の仕事というのは、いつも大変な肉体労働である。肉体的にキツイという意味では、それこそ道路工事や建設現場の重労働と少しもかわらないところがあるのだ。

仕事場の責任者が’監督’と呼ばれるところも共通している。いや、時間が不規則でかつ長時間の拘束になったりすることを考えると、むしろ工事現場の労働よりも辛い、と言い切っても良いかもしれない。

そういう飛んでもない仕事なので、スタッフが休めるときに休んでおきたい、という気持ちになるのも仕方のないことである・・・と僕はときどき部下をいたわる良いボスを気取って思ったりすることもないではない。

 

実際に、イギリスと日本とアメリカで同じ状況に置かれていた時は、僕はそういうヨイボスであったのだ。

しかしイタリアではそうはいかない。そんな甘いことを 口に出した日には、彼らウラヤマシクもイラダタシイ怠け者たちは、いつまでたっても食べることを止めようとはしないのだ!

 

 

イタリアの食事のフルコースは、先ずアペリティブ(食前酒)に始まる。このアペリティブは、いわゆるカクテルの類の軽い酒である。それを飲み終わってから出てくるのが、アンティパスト(前菜)である。このあたりでワインも注文する。ワインを頼んだらミネラルウォターも同時に持ってきてもらうのがふつうである。

アンティパストは、サラミや生ハムや魚介の酢の物や各種の揚げ物などが、一種類か又は盛り合わせになって出てくる。

その次にプリモ(ファーストコース)を食べる。プリモは九割方がスパゲッティーやマカロニなどの、いわゆるパスタである。もちろんここではパスタの代わりにスープ類をたのんでもかまわない。

プリモを食べ終わったところで、ようやくセコンド(メインコース)の登場となる。セコンドはその時どきの食事のハイライトだから、ボリュームたっぷりの肉料理か魚料理になるのが常道である。

 

セコンドの主料理には、コントルノ(付け合わせ)の一品をあわせて頼むことが多い。コントルノはサラダや野菜の煮たものになるのがふつうである。

セコンドにつづいて食べるのが、いわずと知れたデザートである。アイスクリームやケーキにはじまるデザートは、非常に種類が豊富で、選ぶのにも見ていていらいらするくらいに時間がかかることは既に述べた。このデザートの代わりに新鮮なフルーツを食べる人もいる。

デザートやフルーツを食べ終わるころには、ワインの何本かが既に飲みつくされている。そこでアルコール度の強いディジェスティボ(食後酒)が登場し、それを飲み終わったら、仕上げとしてタールのように濃いエスプレッソコーヒーを飲むのである。そこでようやく食事の全行程が終わる。

それらの飲食物が、いっぺんにではなく順を追って出てくるから、それだけでも時間がかかる。加えて、彼らの食べ方がまたのんびりしているために、食事にはいつもおそろしく時間がかかってしまうのだ。

食べ方がのんびりしているというのは、イタリア人が牛のように食べ物をゆっくりと咀嚼(そしゃく)するということではない。彼らは食事の間じゅう片時も休むことなく会話をしつづけるのである。

何度も言うようだが、一口食べてはしゃべってはしゃべってはしゃべり、もう一口食べて、しゃべってはしゃべってはしゃべってはしゃべっては又しゃべってはしゃべる、というのがイタリア人の食事の仕方だ。

イタリア人が一食ごとにボーダイな量の食べ物を平らげることができるのは、ぺちゃくちゃぺちゃくちゃしゃべりつづける間に、つぎつぎに食べ物を消化していくからではないか、と僕は疑っている。

 

(つづく)


デザートを食う助手が怖い④



昼間っから大食らいをするイタリア人は、食後は当然に眠くなって仕事どころではなくなる。そこで古来この国には、昼休みを長く取って食後は本当に一眠りをしてしまうという、うらやましいようなアホらしいような習慣ができあがった。

イタリアを含む南ヨーロッパの国々では、夏の暑さを避けるために昼食休みを長く取る習慣ができた、というもっともらしい説もあるが、それじゃ冬でも昼休みが長いのはどいうわけ?って聞いてみれば、それが真っ赤なウソであることは明らかだ。

要するに、昼食をたらふく食べるために昼休みがムチャクチャに長くなった、というのがイタリアの真実なのではないかと僕は考えている。

ミラノなどの都市部のサラリーマンの中には、何か特別のことでもない限り昼食はどんなに長くても一時間程度で済ませて、夕食を家族と共にゆっくりとたくさん食べるという人も最近は増えている。それでも大方のイタリア人は、今日も昼食に重きを置いてしっかりと食べまくるのが当たり前なのである。

僕のスタッフはもちろんサラリーマンではない。昼食は時間をかけてたっぷりと食べるもの、と誰もが考えまたその通りに生活をしている者ばかりである。

それでも、しかし、なんといっても、ほんとうに !

今は厳しいロケの真っ最中なのである。僕はなかなか人間のでき上がらない者の悲しさで、スタッフが長々と時間をかけてデザートなどを食い出すのをみると、つい「イイカゲンニシロ!」と心の中で叫ばずにはいられないのである。

一日の仕事が終わったとき、特に夜ならば、ホントは僕はめっぽう良いボスになれるのである。前にも言ったように、彼らが食事にいくら時間と金をかけても、またデザートをガツガツ食いまくっても、少しも文句を言う気になんかならない。

むしろ僕はそうして欲しいとひそかに願っている。なぜかと言うと、僕は彼らが食べている間じゅう好きなだけ酒を飲むことができる。酔うほどに飲むことができる。

僕は口癖に
[イタリアでは酒に酔って一度ハメをはずしてしまうと、よほど特殊な状況でもない限り、その人はもう翌日からはまともな人間として扱ってもらえない]
と言うが、

実は僕にとっては、その数少ない特殊な状況の一つが、ロケのスタッフと共に食べたり飲んだりしている時なのである。

彼らは映画屋やテレビ屋だけあって、皆それなりにくだけている。だからスタッフの中に僕のような本物の酔っぱらいがいても、それほど驚いたりはしない。

言い訳をしておくと、僕は日本でならばなんの変哲もない当たり前の酔っぱらいである。

酔うと楽しくなり、良くしゃべるようになり、くどくなり、からんだり、ヒトの迷惑をカエリミズに歌いまくったりする。ふだんは必死にかくす努力をしているスケベオヤジの本性も出たりするらしい。

要するに、僕は酔ったおかげで、「素面のイタリア人と張り合うだけのエネルギーを持つ男」に変身するのである。

デザートに手を出したフィリッポは、その僕の夜の楽しみまで奪おうとしている。

なぜなら昼食にこれほど大がかりな時間と食欲を費やしてしまったスタッフは、もしかすると彼らの中にほんのわずかに残っているかも知れない良心の呵責 --つまりメシを仕事に優先させたことへの後ろめたさ--にさいなまれることになって、今夜は夕食時間を早めに切り上げてそれぞれがさっさとホテルの自室に引き上げてしまう可能性がないとは言えない。

そうなると僕は、相手の迷惑をかえりみずに飲んで酔っぱらう当の相手がいなくなって、はなはだ面白くないということになる。酔っぱらいの楽しみはとにもかくにも相手がいなければ始まらないのだ。

もしもそういう事態になったときは、僕は今夜はフィリッポをとっつかまえて、朝まで僕の酒の相手をさせてやろうと考えている。

イタリア人の彼にとっては、仕事をクビになったり殺されたりするよりも、酔っぱらいの相手をすることの方がきっと辛い罰になるはずだから・・・

(おわり)

 


国際的味覚



値段の高いものを人がおいしいと感じるのは、下品どころか、感情を備えた人間特有の崇高な性質ではないだろうか。

 

例えば僕は、今が旬のサクランボが大好きだが、イタリアで食べるサクランボは日本で食べるよりもはるかにおいしい。

 

日本とイタリアのサクランボの味は「物理的」にはあまり変わりがないのかも知れない。だが僕は明らかにイタリアのものがおいしいと感じる。なぜか。

 

イタリアのサクランボはドカンと量が多いからである。

 

サクランボを大量に、口いっぱいにほおばっているとき、僕は日本ではあんなにも値段の高い高級品を、今はこんなにもいっぱい食べまくっている、という喜びで心の中のおいしさのボルテージが跳(は)ね上がっているのだ。

 

恐らくこれはイタリア人が感じているものよりも、ずっとずっと大きなおいしさに違いない。

 

なぜなら彼らは、サクランボの「物理的な」おいしさだけを感じていて、日本の山形あたりのサクランボの「超高級品」という実態を知らないから、従って「ああ、トクをしている」という気分が起こらない。

 

僕は日本を出て外国に暮らしているおかげで、時にはこういういわば「味の国際化」の恩恵を受けることがある。

 

しかし、これはいいことばかりとは限らない。

 
というのも僕は日本に帰ってサクランボを食べるとき、そのあまりの量の少なさに、ありがたみを覚えるどころか、なんだかケチくさい悲しみを感じ、もっとたくさん食わせろと怒って、おいしさのボルテージが下がってしまう。

 

このように、何事につけ国際化というものは善(よ)しあしなのである。


民間大使




元大関小錦のKONISHIKIさんが、ハワイと沖縄を結ぶ架け橋になりたい、と宣言して沖縄県の「民間大使」になったそうである。東京の僕の友人の「沖縄病」患者、つまり沖縄大好き男からの知らせである。

 

僕は思わず、ほう、とつぶやいた。実は僕も沖縄県から請(こ)われて「民間大使」になったことがある。昔、アメリカで制作したテレビ番組が、全くのまぐれ当たりで向こうの監督賞をもらったことがきっかけだった。

 

沖縄県というのは愉快なところで、世界に広がる沖縄県人のネットワーク構築と国際交流を目的とした文化の祭典、と銘打って5年に1度「世界のウチナーンチュ大会」という祭りを開催している。

 

ウチナーンチュとは沖縄弁で沖縄県人や沖縄人というような意味。ウチナーは沖縄。チュは「人」のこと。ひと⇒ひとぅ⇒ひちゅ⇒ちゅと変化した言葉である。たとえば漁師のことは「海人(うみんちゅ)」島の人間は「島人(しまんちゅ)」などと使う。

 

僕はアメリカで受賞したことが地元で評価されて、世界に羽ばたくウチナーンチュ(笑)、ということで第1回大会に招待されて、そこで「民間大使」に任命されたのである。

 

大会に招待されたとき、僕は祭りの大げさなコンセプトと、いかにも沖縄らしい「こだわり」が気に入って、いつものように面白がりつつ喜んで帰国した。

 

でも僕が面白がったのはそこまでである。

 

それは主として南米各国に移住した沖縄県出身の皆さんを慰労する会、とでもいうような集まりだった。参加している「世界の」ウチナーンチュの皆さんのほとんども南米からの訪問者だった。日本全国から移民として外国に渡って行った人々の大半がそうであるように、彼らも主に経済的困窮から必要に迫られて祖国を後にし、見知らぬ土地で頑張り抜いて今の生活を手に入れた方々である。

 

多分そのせいだと思うが、僕のように生活苦から移民になったのではなく、「好き好んで」外国に出て行った者にとっては、それはちょっと場違いな祭典に感じられた。

僕は東京で大学を卒業すると同時に「喜び勇んで」外国に飛び出したような軽い人間である。そんな僕が、多くの苦難を経て来たに違いない南米移民の方々と並び立つのは、とても申し訳ない気分がして仕方がなかった。

 
そこで任命された民間大使は一体なにをやるのかというと、それぞれの滞在国に戻って、いわば「県人会」のようなものでも立ち上げて交流しなさい、みたいなことで曖昧模糊(あいまいもこ)としてさっぱり意味が分からなかった。

 

まだ若かったその頃の僕は、ぶっちゃけ県人会とか日本人会とかいうものには全く関心がなかった。ましてや自分でそうしたものを立ち上げるなんて考えも及ばなかった。僕は民間大使としては結局なにもせず(できず)、2年かそこらの任期のあとは自然消滅という感じで終わった。

 

でも新しい民間大使のKONISHIKIさんは、僕などとは違っていろいろと楽しいことができそうに見える。トロピカルなハワイと南国の沖縄。似たもの同士が仲良くできる大いなる架け橋になりそうである。ぜひそうなってほしい。

それはさておき、僕は自分の故郷である沖縄の人々の「こだわり」に少し懸念を抱いたりすることがある。正確に言えば「こだわり過ぎ」に。


例えば「ウチナーンチュ大会」は、南米などに移住し苦労して現在の地位を築き上げた、移民の皆さんを故郷に呼んで慰労するという、とても良い企画である。

でもそれは、僕の見た感じでは、
ひたすら地元の環境だけにこだわっている内向きな祝典である。せっかく沖縄という極小の島社会を抜け出し、日本という小さな島国も飛び出して大きな世界で生きている人々を招いておきながら、外に向かって開かれているようには見えない。

 

そこには例えば、どちらかというと日本社会から冷たく扱われることが多い、全ての日本人移民や日系人の皆さんを等しく大会に呼んで、彼らの功績を大会で顕彰したり交流をしたり、というような大らかな発想があまりないように見える。 

 

こだわりのない人やこだわりのない物はつまらない。でも「こだわり過ぎる」のは何ごとにつけ鬱陶(うっとう)しい。

 

僕は沖縄にも適度にこだわりつつ、それよりもさらに強く「島」というものにこだわりを持ち続けている。例えば島である「沖縄」とはひどく限定されたある特殊なコンセプトだが、沖縄という枕詞を消したただの「島」とは、限定されながら大きな広がりも持つ豊かな概念である。

  

つまり「島」とは、例えば僕の生まれた極小辺鄙の島であり、それより少し大きな宮古島や石垣島であり、また少し大きな九州島でもあり本州島でもある。さらにそれは一段と大きな日本という島国でもあり、ついには大陸と称される世界の島々にまで広がる。

面積がオーストラリア島以上の陸地を「大陸」と呼ぶのはただの方便で、地球上のどの陸地も実は全て日本国と同じ島なのである。日本を含むそれらの島は、やがて地球という島になる。

 

さらに、地球島というのは太陽系という海に浮かぶ島であり、太陽系はそれより大きな銀河系の中の一つの島、さらにさらに、銀河系も宇宙の広がりの中の一つの島で・・というふうに果てしもなく広がって行くのが「島」なのである。 


僕はその「島」にこだわる。

 

でも決して「こだわり過ぎる」ことがないように気をつけようとも考える。

 

なぜならこだわり過ぎると、足元の小さな島の強烈な柵(しがらみ)にからめ取られて、島以外の世界を全て「よそ」と見なしてしまうような、「島国根性」のカタマリに陥(おちい)ってしまう危険性も大だから・・

 



気分転換



僕はイタリアのミラノにある自分の事務所兼プロダクションを基点に、ほぼ20年に渡ってテレビドキュメンタリーのディレクターの仕事をしてきた。ロケでイタリア中を駆け巡っていない時は、ミラノの事務所で編集作業やリサーチその他のデスク仕事をこなすのである。

 

番組編集などで徹夜仕事になった場合は、事務所近くに確保している小さなマンションに泊まったりもするが、基本的には毎日車で40分ほどの自宅に帰る生活。

 

自宅はイタリア特産のシャンパン「スプマンテ」の里として知られる、フランチャコルタ地方の一角にある。まわりをブドウ園に囲まれたのどかな美しい場所である。

 

ミラノでの仕事に疲れて帰る田舎のわが家は、既に十分に気分転換のできる安らかな場所だが、僕はもう少しリフレッシュしたい時には、よく自宅とは反対方向に30分ほど車を走らせた。するとそこはもうスイスである。

 

つまり僕の仕事場からは自宅よりも外国のスイスの方が近いのである。

 

山国のスイスは言うまでもなく美しい国である。が、南アルプスの山々や、地中海や、強い太陽の光や、ローマ、ベニス、フレンツェなどに代表される歴史都市を懐に抱いているイタリアはそれ以上に美しい、と僕は感じている。

 

ではなぜわざわざ外国のスイスに気分転換に行くのかというと、仕事場から近いという理由もあるが、そこがスイスだから僕は喜んで気晴らしに向かったのである。

 

スイスは町並が整然としていて小奇麗で清潔な上に、人を含めた全体の雰囲気が穏やかである。

 

僕が行くのはせいぜいルガノやロカルノなどのイタリア語圏の街で、湖畔の街頭カフェやリゾートホテルのバーや、うっそうとした木々の緑におおわれた、街はずれのビアガーデンなどでのんびりする。

イタリア語圏だから、そこではミラノにいる時とまったく変わらない言葉でやりとりをする。

 

ところがそこには、イタリアにいる時の、人も自分もいつも躁(そう)状態で叫び合っているかのような騒々しさや高揚がない。雰囲気が静かで落ち着く。 

 

その気分を味わうためだけに僕はあえて国境を越えてスイスに行くのである。

 

要するに僕は、肉やパスタのようにこってりとしたイタリアの喧騒(けんそう)が大好きだが、時々それに飽きて、漬物やお茶漬けみたいにあっさりとしたスイスの平穏の中に浸るのも好きなのである。

 

仕事場を自宅の一角に移してからは、僕はまだ一度も気晴らしの「スイス往復」をやっていない。が、震災支援のコンサートも終わったし、そろそろ夏が来てビールが美味くなる季節でもあるから、スイス直通の高速道路をしばらく走って、ルガノ湖畔にビールでも飲みに行こうかと考えたりしている。

毎年6月恒例の、地中海沿岸巡りの旅に出る前に・・


震災支援 チャリティーコンサートⅦ



わが家のコンサートで集められた義援金は、ミラノの震災支援グループ「l’Isola della speranza(希望の島)」が全て管理し、陸前高田市で炊き出しなどを行っているボランティア団体の藤澤康彦さん宛てに送ることになっている。

 

イベントに参加してくれた皆さんの善意が、素早くそして真っすぐに被災者の皆さんの元に届けば嬉しい限りである。

 

l’Isola della speranza(希望の島)」の友人たちが頑張ったミラノからは、在ミラノ総領事の城守茂美夫妻をはじめとして、多くの日本人の皆さんがコンサートに参加してくれた。

 

僕ら夫婦と慈善団体の「マトグロッソ」の招待客は主にイタリア人だが、わが家のあるブレッシャ県に住む日本人の皆さんにも声をかけ、相当数が参加してくれた。そちらは主に僕ら夫婦と同じ日伊国際結婚カップル。ほとんどがイタリア人の夫と日本人の妻という組み合わせである。

 

最終的な参加者は大ざっぱに言って、イタリア人と日本人の割合が4:1程度のように見えたから、日伊連帯という観点からも、まずは成功と言っていいのではないか、と自画自賛しておこうと思う。

 

スタッフ全員の頑張りでコンサートは成功裡に終わった。おかげで安堵感も喜びもある。

 

しかし、正直に言って、達成感のようなものはあまりない。被災地の巨大な不幸が、われわれのささやかな援助でたちまち癒やされるようなものではないことを知っているからである。

 

被災者の皆さんの復興への苦しい戦いはこれからも続く。

今後、自分に何ができるかは分からないが、少なくともそのことは決して忘れずにいようと思う。

 

忘れなければ、何かの道は必ず開けると思うから・・

 

 

震災支援 チャリティーコンサートⅥ



結局、ウサギ君たちの出番はなかった。

 

期待していた最大数よりも多い220人前後がコンサートを聴きに来てくれた。集まった人数におどろいたらしいウサギ君2匹は、どこかに雲隠れをして影も形も見えなかった。

 

ほっとして、そして、腹の底から嬉しい。

 

一番の喜びは、やはり多くの皆さんが足を運んでくれたことである。そしてそれに見合う演奏パフォーマンスがあったこと。

 

ギターのセグレさんもピアノの吉川さんも、それぞれの楽器のマエストロ(名人)である。従ってソロ演奏の素晴らしさは、いわば当たり前。ところが昨日の二人はデュオさえも見事にこなした。これは少し驚きだった。

 

クラシック音楽音痴の僕には、ピアノとギターの二重奏なんて、正直うまく想像もできなかったが、卓越した二人のアーティストはなんなくこなして、しかも出色の出来だった。聴衆が大喜びしたのがその証拠である。

 

個人的にも心をゆさぶられる出来事があった。重病でもう先は長くない、と医者に宣告されているピエロとフランチェスコが、それぞれの妻に手を引かれるようにして顔を出してくれたことである。二人は兄弟で妻の親戚。僕らの父親世代のうちの最も若い年代に当たるが、残念ながら両人とも癌に侵(おか)されてしまった。

 

二人が力をふりしぼってコンサートに顔を出したのは、僕の妻への親愛はいうまでもないが、普段から僕自身をも可愛がってくれていて、そこから震災に見舞われた日本への愛惜を人一倍募(つの)らせているのが理由である。日ごろの二人との付き合いの中で、僕はそうしたことをひしひしと感じているから、二人の姿を見て涙ぐむほどの感動を覚えた。

 

募金そのものもうまく行った。全てが思った以上に首尾よく運んだ。

 

ほんの少しだけ反省点があるとすれば、220人はわが家でのコンサートとしては、いささか多すぎる人数だったかも知れないということである。会場とした中庭には、詰めに詰めれば500人ほどの聴衆が入れるだろうが、そんなことをしては最早この館でクラシック音楽のコンサートをやる意味が無い。

 

古い貴族館でのコンサートの良さは、ちょっとばかりの気取りと「優雅」である。それが売りなのである。コンサートに続いて供される立食パーティやブッフェも、あくまでもそのコンセプトの中にある。そこに多人数が群(むらが)ってしまうと、元も子もない。また私邸で開く宴(うたげ)だから、余りにも人数が多いと何もかもがキャパシティーを越えてしまう。

 

わが家でのイベントの場合は、やはり最大200人程度が少しの「優雅」を維持できる人数。220人はほんのちょっとオーバーかも・・という微妙な数だった。

 

「優雅」などと言って、わざと少しのスノビズムを「売り」にするのにはもちろん意味がある。そこではより大きな金額を集めやすいのである。

 

100円の善意も10000円の善意も、善意は善意である。しかし、少ない数の参加者からより多くの義援金を集めるためには、心を鬼にしてひたすら10000円を追求するしかない。それでなければ主催者のただの自己満足に終わってしまう。

 

チャリティーコンサートの目標は自己満足ではなく、あくまでも被災地を助けることである。従ってわが家のような貴族館のイベントで、「優雅」を売り物にすることをためらっていては、目標を達成することはできない。

 

より多くの参加者から広く浅く義援金を集めるのであれば、私邸でコンサートを行ってはならない。何千人も或いは何万人も聴衆が入れるような広い場所で開催するべきである。コンサート会場や学校のグラウンドや球場などなど・・そういう場所はいくらでもある。

 

そういうわけで、わが家を会場にした昨夜の東日本大震災支援コンサートは、参加者の数という意味では「嬉しい悲鳴」を上げるレベルに達し、ぎりぎりのところで何とか「優雅」も維持することができた、サクセス興行と言うことができそうである。


 

震災支援 チャリティーコンサートⅤ



忙中閑あり。

 

今日はいよいよコンサート当日。朝6時に起き出して仕事場に入る。ブドウ園に面した窓を開けると、冷たい空気がさっと吹き込んできた。

 

金曜日の夜中に強い雷雨があった。おかげで空気が澄んで朝晩はひんやりしている。日中は少し夏らしくなって気温は上昇するが、本格的なイタリアの夏はまだ先である。

 

昨年の今頃は雨が降って結構寒かった。7月にはすさまじい勢いで雹(ひょう)が降ったりもした。僕の小さな菜園は完全に破壊され、ブドウ園にも大きな被害が出た。イタリアの天気はとても荒々しく男性的である。

 

窓からブドウ園を見下ろした。いつも草を食(は)んでいる二匹のウサギの姿が見えない<東日本大震災でイタリアも揺れているⅧ>。どうやら今日のコンサート会場になる中庭に移動したらしい。

 

中庭とブドウ園はワイナリーの木製の大きな扉越しに繋がっている。年代物の扉にはそこかしこに穴が開いていて、二匹はそこから自由に内と外を行き来して過ごしているのだ。

 

ほぼ二ヶ月前にわが家にやって来た二匹のウサギは、思い切り草を食み続けてすっかり大きくなった。今では行動範囲もかなり増して、二匹は相当に広い敷地内とブドウ園を我が物顔で探索したりしている。

 


ウサギの飼い主の農夫には二匹を捕らえないように伝えた。彼らはウサギが成長したら捕獲して食べるつもりだったから、不満気な顔をしたが最後は納得した。

今では二匹はすっかりわが家の家族の一員なのだ。あまり家には寄り付かない、ちょっと放浪癖のある家族・・

 

夕方6時から始まるコンサートに二匹も参加してくれないものか、と僕はひそかに期待している。

 

玉砂利が敷き詰められた中庭には芝も木々もある。二匹は普段は芝の上で寝転がったり、食事をしたり、木々の下でかくれんぼをしたりして気ままに過ごしている。

 

今日のコンサートでは観客席は玉砂利の上に椅子を並べて作る。二匹がいつも遊んでいる芝上や木下は空き間である。

 

それなので二匹がそこに陣取って、聴衆と共にコンサートに耳を傾ける振りをしてくれたらどんなに楽しいだろうか、と想像をたくましくしているのである。

草を食むのに夢中でも、かくれんぼに熱中していてもいい。二匹がそこにいてくれれば、聴衆はきっと癒されて、コンサートがさらに盛り上がるに違いない・・



震災支援 チャリティーコンサートⅣ



コンサートまでいよいよあと二日にせまった。少しプレッシャーを感じてきた。

 

ミラノの「希望の島」の友人たちが頑張っていて、慈善団体「マトグロッソ」のスタッフも、リラックスしつつも一生懸命に動いてくれているので安心だが、やはり一抹の不安はある。

 

その最たるものは、やっぱり客足。

 

私邸でのイベントなのであまり多くの客が押し寄せて来ても困るが、だからと言ってひどく少ない数の聴衆では寂しい。

 

前回記事(震災支援チャリティーコンサートⅢ)でも書いた通り、理想の客数は200名程度だが、それより少ない150名前後でも御の字というのが僕の胸算用である。雨天ならその3割減というところか。つまり雨に降られた昨年のコンサートの客数120人程度を目指す。悪天候のときは場所を屋内に移すので、客席のキャパシティは逆にそのくらいが限界である。

 

たとえば発展途上国や、貧困家庭の子供達を支援するためのチャリティーコンサートなら、僕は客足などまったくと言っていいほど気にしなかったと思う。なぜならそういう趣旨のコンサートでは、黙っていてもある程度の数の聴衆は必ず確保できるから。

 

貧しい人々を支援する気持ちでいるイタリア人はそれほど多い。この国の人々にとっては、チャリティーや寄付行為は極めて日常的なことなのである。

 

しかし、日本はイタリアやその他の欧米諸国と同様に豊かな国である。そこがネックになる。豊かな国日本は自力で復興できるのだから、いちいち支援などいらないだろう、と多くのイタリア人が心の中では思っている。

 

それは彼らが冷たいからではない。冷たいどころか、日本に深く同情し、その素早い復興も願っている。が、わざわざチャリティーコンサートに出向いて、(日本にとっては)わずかな金額に過ぎないものを寄付するほどでもないだろう、とも考えてしまうのだ。これはイタリア人である僕の妻や、慈善団体「マトグロッソ」のスタッフなどが心配する点だから、おそらく単なる取り越し苦労とばかりも言えない。

 

卓越した二人のアーティストの出演、古色蒼然とした美しい雰囲気の会場、「マトグロッソ」と「希望の島」のすばらしいボランティアスタッフたち、そしてどうやら好天気に見舞われそうな気象予報・・・今のところ全てがコンサートの盛況を示唆しているように感じられる。


しかし・・

その上で、もしも客足が鈍いようなら、これはもう仕方がない。来て下さる客だけを大事にして、精一杯の持てなしをするばかりであろう。

 

そうすることで、出演者とわれわれオーガナイザーと、東日本大震災の被災地の皆さんとの見えない絆が、少しでも深まることを心から願うばかりである。

 

 

ヨハネ・パウロ2世と日本と



ローマ中心部の終着(テルミニ)駅前に立てられた、前ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の銅像が、本人に似ていないと市民に批判されて、それがイタリアの全国ニュースになったりしている。

 ヨハネ・パウロ2世は先日、カトリックの最高の崇拝対象である聖人の前段階、福者に列福されたばかりである。将来は確実に聖人にも列せられるとみられている。

 僕はニュースを見ながら、教皇の葬儀における日本政府の不可思議な行動を思い出した

 2005年に亡くなったヨハネ・パオロ2世の追悼式は、世界中が固唾を飲んで見守る壮大な祭礼だった。そこにはヨーロッパ中の王室と政府首脳とアフリカ・アラブ・南北アメリカの元首がほぼ全員顔をそろえた。元首や国のトップを送りこんでいない国を探すのが難しいくらいだった。

 例えば欧米主要国だけを見ても、当事国のイタリアから大統領と首相をはじめとするほとんどの閣僚が出席したのは当たり前として、イギリスからは、自らの結婚式まで延期したチャールズ皇太子と当時のブレア首相、フランスがシラク大統領、ドイツは大統領とシュレーダー首相、アメリカに至っては当時の現職大統領ブッシュ、前職のクリントン、元職のブッシュ父の三代の大統領と、ライス国務長官という大物たちがそろって出席したのである。

 そればかりではなく、葬儀にはヨーロッパ中の若者と各国の信者がどっと押し寄せて、その数は最終的には500万人にものぼった。それは過去2000年、263回にも及んだローマ教皇の葬儀で一度も起きたことがない事態だった。ヨハネ・パウロ2世はそれほど人々に愛された。

 彼は敵対してきたユダヤ教徒と和解し、イスラム教徒に対話を呼びかけ、アジア・アフリカなどに足を運んでは貧困にあえぐ人々を支えた。同時に自らの出身地の東欧の人々に「勇気を持て」と諭(さと)して、ついにはベルリンの壁を崩壊させたとさえいわれる。

 ヨハネ・パウロ2世は単なるキリスト教徒の枠を超えて、宗教のみならず、政治的にもまたモラル(道徳・人道)的にも巨大な足跡を残した人物だった。そのために世界中が教皇の死を惜しみ葬儀にも注目した。

 偉大な男の葬儀が、外交的に重大な舞台になることをしっかりと認識していたアメリカは、まず世界中に12億人とも言われるカトリック教徒の心情に配慮した。さらに2000年も敵対してきたユダヤ教徒や、イスラム教徒にも愛された彼の業績の持つ意味を知り、ベルリンの壁を崩壊させた彼の政治力に対する東欧の人々の心情を汲みあげた。加えて、世界中に足を運んで貧困に喘ぐ人々を勇気付けてきた彼の業績に敬意を表して、現職を含む三代の大統領と国務長官をバチカンに送り込む、という派手なパフォーマンスを演出して見せたのだ。さすがだと言わざるを得ない。

 ではその大舞台でわが日本は何をしたか。
なんと、世界から見ればどこの馬の骨とも知れない程度の外務副大臣を送って、お茶を濁(にご)したのである。日本政府は教皇の葬儀が外交上の桧(ひのき)舞台であり、わが国の真摯な心を世界に知らしめる絶好の機会だということを、微塵(みじん)も理解していなかった。

 …あの落差は一体何なのだろう、と今でも考える。    

 日本という国はもしかすると、まだまだ「世界という世間」を知らない鎖国メンタリティーの国家なのではないか。また、当時おそらく日本政府の中には、教皇とはいえキリスト教の一聖職者の葬儀だから、仏教と神道の国である日本はあまり関係がない、という空気があったのではないか。あるいは単純に、ヨハネ・パウロ2世が生前に行った大きな仕事の数々を知らなかったのか。まさか・・

 いずれにしてもそれは、何ともひどい外交音痴、世間知らず、と世界から笑われても仕方のない間抜けな行動だった。

 あれから6年・・

 東日本大震災に襲われた日本は、被災者の秩序ある行動を世界から賞賛される国になった。

が、果たしてわが国政府はあれからどこか変わったのだろうか。大震災と原発事故への対応ぶりを見れば、相変わらず無力で無定見な政治家の集団でしかないように僕には見えるが・・



ファッションモデルのオッパイⅡ



ファッションショーを取材する時には、僕はいつも相反する二つの強い感慨に襲われる。それを強く称賛する気持ちと軽侮する気持ちが交錯して、我ながら戸惑ってしまうのである。

 

称賛するのはデザイナーたちの創造性と、ビジネスとしてのファッション及びファッションショーの重さである。

 


次々に新しいファッションを創り出していくミラノのデザイナーたちは、疑いもなく秀れた才能に恵まれた、かつ厳しいプロフェッショナルの集団である。彼らはたとえば画家や作家や音楽家が創作に没頭するように、新しい流行を求めて服のデザインに没頭する。

 


そうやって彼らが生み出すファッションは、どれもこれも一級の芸術品だが、流行に左右される消費財であるために、まるで作った先から消えていくような短い命しか持ち得ない。

 


それでも彼らが創造するデザインの芸術的価値は、他のいかなる分野のアートに比べても少しも遜色はないと僕は思う。咲いてすぐに散ってしまう桜の花の価値が、命の長い他の花々と比べて少しも遜色がないように。

 


季節ごとに一新される各デザイナーの作品(コレクション)は、必ずファッションショーで発表される。そしてそのショーの成否は服の売り上げに如実に反映される。ファッションは創作と販売が分かち難くからみついている珍しい芸術分野なのである。

 


デザイナーは次の季節の流行をにらんで髪を振り乱して創作をする。この時彼は画家や小説家や作曲家と同じ一人の孤独なクリエイターである。無から何かを作り出す苦しみも喜びも、彼はすべて一人で味わう。

 


その後、彼の作品はファッションショーで発表される。画家の絵が展覧会で披露され、小説家の作品が出版され、作曲家の曲がコンサートで演奏されるのと同じことである。それらのクリエイターは誰もが、発表の場においてある時は称賛され、ある時はブーイングを受ける。つまりそれは誰にとっても「テスト」の場である。

 

それでいながらファッションデザイナーの立場は、他のクリエイターたちのそれとは全く違う。なぜならデザイナーは、前述の三つの芸術分野に即して言えば、クリエイターであると同時に画廊を持つ画商であり、出版社のオーナーであり、コンサートホールの所有者兼指揮者でもある場合が多いからである。


つまりデザイナーという一人のクリエイターは、同時に彼の名を冠したブランドでもあるケースが一般的なのである。たとえばアルマーニとか、亡くなったフェレやベルサーチなどのように。従ってファッションショーは、デザイナーという一人の秀れたクリエイターの作品が評価される場所であるだけではなく、デザイナーの会社(ブランド)の浮沈を賭けた販売戦略そのものでもある。


同時にファッションショーには、舞台上でポロリとこぼれ出るモデルのオッパイみたいに、とても軽い部分も多く存在する。
→<ファッションモデルのオッパイ

 

ファッションの世界にはそんな具合に僕を当惑させる二面性がいつもついて回っている。しかしそれは僕にとっては、どちらかというとファッション界の魅力になっているものであり、決して否定的な要素ではない。

 


二面性とは「虚と実」である。「虚」は言うまでもなくファッションショーとその回りに展開される華々しい世界で、「実」はデザイナーの創造性と裏方の世界、つまり、デザイナーがデザインした服を生産管理し、販売していく巨大なビジネスネットワークのことである。

 

虚と実がないまぜになったファッションの世界は、僕が生きている映画・テレビの世界と良く似ている。

 


スクリーンやテレビ画面で展開される華々しい世界は「虚」のファッションショーで、それを作り出したり、放送したり、スポンサーを抱きこんだりしていく大きな裏方の世界は、「実」であるファッションビジネスの巨大ネットワークの部分にあたる。

 


そして虚の部分にひっぱられて実が虚じみて見えたり(あるいは実際に虚になってしまったり)、その逆のことが起こったりするところも、二つの世界はまた良く似ている。

 

そんな訳で僕は、ファッションの世界にたくさんある虚の部分を茶化したり、軽侮したりしながらも、全体としてはそれに一目置いている。

 

僕の泳ぎ回っている映画やテレビの世界も、見栄や虚飾やカッコ付けの多い軽薄な分野だが、僕はそこが好きだし自分なりに結構真剣に仕事をしてもいる。だからきっとファッションの世界に生きている人たちも同じなんだろうな、と僕なりに納得したりするのである。


ファッションモデルのオッパイ



44歳の若さで亡くなったミラノの偉大なデザイナー・モスキーノが語ったように、ファッションショーはデザイナーたちの真剣な戦いの場である。

→<小さな大都市ミラノ

 

ミラノコレクションのファッションショーの会場では、華やかな衣装を身にまとったトップモデルたちが、音楽に合わせて舞台上を行進する。舞台の周りには世界中のファッション関係者やバイヤーが陣取って、彼女たちのきらびやかな服に熱い視線を送る。そこには必ず有名スターやスポーツ選手やミュージシャンなども顔を出して(招待されて)いて、ショーに花を添える仕組みになっている。

 

ファッションショーはカッコ良くてエレガントで胸がわくわくするような楽しい催し物である。  

 

同時にファッションショーは変である。

 

何が変だと言って、たとえばモデルたちの歩き方ほど変なものはない。ショーの舞台には出たものの、彼女たちは歌を歌ったり踊りを披露したりする訳ではないから、仕方がない、とばかりに見せるために歩き方に精いっぱい工夫をこらす。

 

ニコヤカに笑いながら尻をふりふり背筋を伸ばし、前後左右縦横上下、斜曲正面背面膝栗毛、東西南北向こう三軒両隣右や左の旦那様、とありとあらゆる方角に忙しく体を揺すりながら、彼女たちは舞台の上をかっぽするのである。

 

そういう歩き方が、最も優雅で洗練された女性の歩行術だ、という暗黙の了解がファッションショーにはある。しかし、宇宙人か色気違いでもない限り人類は街なかでそんな歩き方はしない、と僕は思う。

 

モデルたちはにぎやかに歩行をくり返しながら、時々ポロリとオッパイをこぼす。これはジョークではない。どう考えても「こぼれた」としか形容の仕方のない現われ方で、モデルたちのきれいなバストがファッションショーではしばしば露出するのである。もちろんそれは着ている服が非常にゆるやかなデザインだったり、ふわりと体にかぶさるだけの形になっていたりするときに起きる。

 

そういう予期しない事件が起きたときに当のモデルはどうするかというと、実は何もしない。知らんぷりを決め込んで堂々と歩行を続ける。恥じらいもなければ臆することもなく、怒りも何もない。まるでこれは他人(ひと)様のオッパイです、とでも言わんばかりの態度である。

 

それではこれを見ている観客はどうするか。彼らも実は何もしない。口笛も吹かなければ拍手もしない。モデルにとっても観客にとっても、この際はファッションだけが重要なのである。だからたまたまこぼれ出たオッパイは無き物に等しい。従って全員が、イチ、ニの、サン!でこれを無視するのである。モッタイナイというか何というか・・・。

 

それはさておき、長身かつプロポーション抜群のモデルたちの着る服は、どれもこれもすばらしく輝いて見える。男の僕が見ても思わず、ウーン、とうなってしまうようなカッコいいデザインばかりである。どれもこれも余りにも決まり過ぎているので、僕はふと心配になる。 

 

「これらのきらびやかな服を、モデルのように長身とはいかないガニ股の、デブの、かつ短足で平鼻の、要するにフツーの人々が着たらどうなるか・・・。これはもう目も当てられない。想像するのも嫌だ。絶対に似合うはずがない!」

と僕は想像をめぐらしては身もだえる。そうしておいて、

「しかし・・・」

と僕はまた気を落ちつかせて考えてみる。

 

「ファッションショーとは、読んで字のごとく要するに「ショー」であり見世物である。従ってモデルたちが着ている服もショーのために作られたものであり、街なかでフツーの人たちが買う服は、またおのずから違うものであろう・・・」

と。

 

ところがこれは大間違いなのである。ファッションショーで発表されて話題になった服は飛ぶように売れる。というよりも、ファッションショーで見られなかった服は、たとえ有名デザイナーのそれでもほとんど売れないという。だからこそファッションショーには世界中のバイヤーが群がるのである。

 

それでは、というので僕はミラノの街に出て、通りを歩く女性たちをじっくりと観察してみる。しかし、いくら目を凝らして見てもファッションショーで見たあのめくるめくように美しい衣装は発見できない。

 

衣装はかならずそこらに出回っているはずだが、フツーの人が着ているためにショー会場で見た輝きがなくなって、少しもそれらしく見えないのだ。もちろんモデルのように変な歩き方をする女性もいない。ましてやオッパイをポロリの女性なんか逆立ちしても見当たらない。

 

単なる見世物かと思えばリアルなビジネスになり、それではその商品を街なかで見てみようとすると実態がない。面食らった僕は、そこでくやしまぎれに結論を下す。

 

「ファッションショーやファッションなんて要するにその程度のものだ。モデルのオッパイと同じで、あって無きがごとし。ごくごく軽いものなのだ・・・・」

と。

熱いまなざし



「このアイスクリームをあの娘の顔に思いきり投げつけてやりたい…」


アイスクリームの発祥の地といわれるナポリの、本場物中の本場物のアイスクリームを食べることも忘れて、右手でそれを強く握り締めながら僕の姉が言った。

 

彼女が怒りを込めて見やる視線の先には、ナポリ出身の名女優ソフィア・ローレンの若い頃にそっくりの、利発で華のある顔立ちをした娘が、ためつすがめつ、という感じで臆面もなくこちらを眺め続けている。

8月の陽光がぎらぎらと照りつけるナポリの街で、涼を求めて立ち寄った一軒のカフェバーでの出来事である。

 

姉はそのとき夏休みを利用してヨーロッパ旅行に来ていた。イギリス、フランス、スイスなどを巡ったあとにイタリアに入った彼女とともに、僕はミラノを出てイタリア半島を南下する旅に出ていた。

 

「もう我慢できない。イタリア人はどこに行ってもジロジロと私の顔を見る。ひとをばかにしている。あの娘は特にひどい」

どうしたのか、と問う僕に姉は声を震わせて悔しそうに言った。

 

「イギリスでもフランスでもスイスでも、向こうの人たちはみんなちゃんと礼儀をわきまえていたわ。見も知らない人の顔をいつまでもジロジロとぶしつけに眺めているなんてことはなかった。イタリア人だけよ、こんなに失礼なのは」

ぷんぷんと怒る彼女をなだめながら、僕はそれから10年以上も前に、はじめてイタリアを訪れたときの自分を思った。

僕はそのとき、姉以上にイタリア人を誤解して、クソイタ公どもめ!と叫んだ経験がある。

 

イタリア人は僕の姉が指摘したように、街なかでもカフェでもレストランでも、あるいは電車やバスやデパートの中でも、要するにどこでも、ジロジロと無遠慮な視線を投げて他人を観察する。その辺の洟(はな)たれや無教養なオッサン・オバサンならともかく、人品卑しからぬ一流の紳士淑女でさえ等しくそうなのである。

 

人品うんぬんの外にいるとされるヤクザでさえ、人の顔を見つめればガンをつけた、つけない、と怒る(つまりそれほど他人をじっと見やる行為を悪く考える)日本の常識に染まって育った僕にとっては、これは非常にショックだった。


(イタリア人はどいつもこいつも俺をバカにしている。俺が東洋人だ、黄色い男だ、と見下してジロジロとあからさまな視線を注いでくる)

とそのとき僕は思い非常に腹を立てた。姉の怒りの原因もそれと全く同じところにある。

 

ところがこれはほとんどの場合日本人の被害妄想なのである。その証拠に彼らは、同じイタリア人同士でもジロジロとぶしつけな視線を投げ合ってお互いを観察している。見る相手の肌の色が黄色だとか黒だとか緑だとかという人種差別的な発想は、ここではあまり関係がないのである。

 

見る対象が価値のあるものと認めたとき、イタリア人は子供のように好奇心をあらわにして、しげしげと相手を見回す。そしてその行為は、日本をはじめとする多くの国々の場合と違って、イタリアでは社会的に少しも悪だとは見なされない。悪どころかむしろ逆の意味の方が強い。だからこの国では、たちの悪いそのあたりの子供から礼儀をわきまえた一流の紳士淑女に至るまで、他人にせっせと熱い視線を注ぐのである。

 

では彼らにとって価値のあるものとは一体なにかと言うと、それは個性的なもの、ユニークなもの、他とは全く違う何か、のことである。東洋人の僕や姉が彼らと違うのは当たり前だ。だから彼らは、僕らをじっくりと観察しないではいられないのである。

 

お互いに見つめること、また見つめられることを良しと考え、日常的にそれを実践しているイタリア人のメンタリティーは、彼らが非常に独創性にあふれた国民である事実と無縁ではないと僕は思う。

 

たとえばここにユニーク(個性的)でセンスのいいファッションに身を包んだ人がいるとする。イタリア人はその人のセンスの良さやユニークさを素直に認め、感心し、じっくりと観察する。観察しながら彼らはこう考えている。「これとは違う私だけが着こなせるファッションは何だろうか・・」と。たとえば日本人ならたちまちその人と同じ服を買いに走るか、あるいはさりげなくコピーをするかもしれない場面で、彼らは全く逆のことを考えているのである。

 

かくしてイタリアでは、ひとつのユニークなファッションが、それを見つめる人々と同じ数の新たなファッションを誘発し、個性的でセンスのいいしかもバラエティーに富んだ装いをした男女が、国中にあふれるということにもなる。

 

これはファッションに限った現象ではない。イタリアでは万事がその精神に貫かれて発生するように見える。


彼らの熱いまなざしはタダモノではないのである。

 

 


 

国の中心はわが街、わが美しい邦Ⅱ



イタリアという国家の中に内包されている強烈な地方中心主義だとか独立自尊の気風というのは、日本人にはなかなか理解してもらえないような気がする。なぜならそれは、たとえば日本のなかでも秋田県と福岡県は風土や歴史や人々の気質が違う、とわれわれが話すときの“違う”とはまるで異なるものだからである。

 

秋田県や福岡県(もちろんどの都道府県でもいいのだけれど)には、明日にでも日本国から独立して勝手に生きていく、という考え方や覚悟や下地というものはまずないと断言できる。日本で一番独自色の強い僕の故郷の沖縄県民でさえ、独立を考える者はあまりいないのではないかと思う。が、イタリアの各地には充分にそれがあるのである。ミラノ、フィレンツェ、ベニス、トリノ、ローマ、シチリア、ナポリ・・・等々はそれ程に違い、それぞれが一つの国や都市国家として完結しているようなところがあるのだ。

 

それを象徴的に現わしているものの一つが、イタリア中の街や県にある独立のテレビ局の存在である。それらのローカルのテレビ局は、全国ネットの大放送網とはまったく関係のない文字どおりの独立テレビである。各地のローカル局のほとんど全てが、東京のいわゆるキー局の系列になっている日本とはそこが明確に違う。

 

彼らはそれぞれがカバーする地域内でスポンサーを得て、同じ街や県内のニュースを流したり地域に密着した番組を制作して、その同じ限られた地域だけに電波を送る。それらの放送局の規模は地域によってまちまちだが、どの局も土地の人々の強い支持を受けている。放送局が小さな独立国家としての各地方の顔であり、いわばそれぞれの国営放送局のようなものだからだ。

 

イタリアには全国ネットのテレビ局が7つある。イタリア国営放送局RAIの3チャンネルと民放4局である。ただこのうちの民放1局は規模が小さく、実質6局という方が正しいかもしれない。誤解のないように言っておくと、それらの全国ネットのテレビ局の影響力は、各地方の独立局のそれとは比べものにならないほどに大きい。全国ネットの前では独立局など吹けば飛ぶような存在に過ぎない。それでも独立局は、決して全国ネットの系列に入ることはなく、堂々と我が道を行くのである。

 

話のついでになるが、僕はイタリアの地方に出向いてドキュメンタリーを制作する時には、先ずその地方の独立局にコンタクトを取る。彼らは当然のことながらそれぞれの地方のでき事に詳しい。たいていの場合、僕が制作をしようとしているテーマについても、何らかの形で既に番組を作っていたりする。正直なところ、それらの番組の質はいつも貧しい。予算もなく視聴者の数も限られた、要するにローカルの番組なのだから、これは仕方がない。しかし、彼らは一年中その土地にいてカメラを回しつづけているために、時間の都合でこちらが撮影できないような映像を撮っていたりする。その場合には数十秒単位で絵をゆずってもらうこともある。

 

僕が独立局にコンタクトを取る第一の理由はしかし、実は別のところにある。僕はテレビ局を通してその土地の制作プロダクションやカメラマンとコンタクトを取りたいのである。制作プロダクションは往々にして、地方局よりも質の良い撮影機材や制作スタッフを持っていることが多い。これは独立テレビ局がその地方だけを仕事の相手にしているのに対して、制作プロダクションは、地方局はもちろん、全国ネットのテレビ局や、時には外国のテレビ局との仕事まで視野に入れているからである。

 

地方に仕事のベースを置いているカメラマンも同じような立場にある。そして彼らの中には、ローマやミラノのカメラマンに少しも引けを取らない腕を持つ連中がたくさんいる。絵作りの腕が同じならば、土地のカメラマンの方がその土地の歴史や風俗や文化や人心に精通している分、いい仕事ができる、と僕は考えている。

 

それにしてもミラノやローマから遠く離れた地方都市にまで、かなりのレベルの制作プロダクションや撮影カメラマンが存在して、しかもそこで充分に仕事をこなしているというのは驚くべきことである。

僕はイタリアに定住する前に、イギリス、日本、アメリカの順序で映画テレビの仕事をしてきた。イギリスには足かけ五年、アメリカにも二年いた。その実体験から言うと、映画テレビの仕事はイギリスはロンドン、アメリカはロサンゼルスとニューヨーク、日本は言うまでもなく東京に集中している。極端に言えばそれ以外の地方都市はゼロと考えて良い。フランスやドイツ等もほぼ似たりよったりだ。

 

この国は事情が違う。ローマとミラノが映画テレビの中心地であることは疑いがないが、同時にアルプス山中の南チロルからシチリア島に至るまで、その地方だけで完結していて、しかもローマやミラノに匹敵するだけの力量を持つ独立プロダクションや制作スタッフやカメラマンが、相当数存在しているのである。

 

そんな具合にイタリアの各地方というのは、現在でも中央とは一線を画して独自の道を歩みつづけている。それは各地方が独立を目指して運動をしているということではない。しかし、その気概だけはいつもあふれるほど持っているのである。

 

※ちなみに現在この国では北部同盟という政党が、経済的に豊かな北部と貧しい南部を切り離せと叫んでいるが、これは僕の話とは少し論点が違う。



 

国の中心はオラが街



イタリアには首都は存在しない。あるいは、イタリアには首都が無数にある。ローマがイタリアの首都だと思いこんでいるのは、当のローマ市民と日本人に代表される外国人くらいのものである。

 

イタリアが統一国家となったのは、今から150年前のことに過ぎない。それまでは海にへだてられたサルデニア島とシチリア島は言うまでもなく、半島の各地域が細かく分断されて、それぞれが独立国家として勝手に存在を主張していた。それは統一から150年がたった今も、実はまったく変わっていない。

 

国土面積が日本よりも少し小さいこの国の中には、周知のようにバチカン市国とサンマリノ共和国という二つのれっきとした独立国家があるが、それ以外の街や地域もほとんど似たようなものなのである。ミラノはミラノ、ベニスはベニス、フィレンツェはフィレンツェ、ナポリはナポリ、シチリアはシチリア・・・と、イタリアは今もってたくさんの小さな独立国家を内包して一つの国を作っている。

 

もちろん正式にはローマが統一国家イタリアの首都だから、国家レベルの政策決定や立法や対外政策というのはローマで成されるし、国会や大統領府もローマに置かれている。このことを指摘するとローマ人は「その通り!」と胸を張る。ところがローマ以外の土地の人々は「アッローラ?(だから何なの)」と、バカにしきった顔で肩をすくめて見せたりする。

 

大昔にローマ帝国が滅亡して以来、ローマ市は法皇が支配する小さな一教会国の首都に過ぎなかった。その間他の地域は、共和国や公国や王国や自由都市として独立し、ローマを圧倒するほどの力と文化を持ち続けるものがいた。その中でも良く知られている例が、ルネッサンスを生み出したフィレンツェであり、東方貿易と海運業で栄えたベニスであリ、ジェノバである。

 

そういう歴史があるために、150年前に国家が統一され、それからさらに10年後の1871年にローマが統一国家の首都となっても、人々は少しも納得しない。ローマはイタリアの首都かも知れないが国の中心ではない。国の中心はあくまでもオラが街だと言い張って、ローマに同調するどころかお互いに反目し合ってばかりいる。

 

実際にイタリアを旅して回ると、人々の言い分が強い根拠に基づいたものであることを思い知らされる。ベニスやフィレンツェやナポリやミラノやシチリア、そして当のローマは言うまでもなく、古い歴史を持つイタリアの都市や地域はすべて独自の文化や町並や気候風土や生活様式を持っている。人々の気風も違えば言葉も違う。

 

それぞれが一家を成す個性派ぞろいの都市や地域が一堂に集まって、イタリアという統一国家の名のもとに政治、経済、立法、対外政策その他の一切を基準化しようというのだから、ローマに居を構えた中央政府は大変である。まとまる物もまとまらない。普通の国の政府なら、一つの勢力が右と言えばすぐに左と叫ぶグループがいて、二者が話し合って妥協案を見つけるけれど、この国には右と言う声に呼応して左はおろか前後縦横上中下、東西南北天地海山松竹梅、欲しがりません勝つまでは!と議論が百出していつも大騒ぎになる。

 

その結果、内閣は回転式のドアみたいにくるくると変わりつづけ、マフィアに国を乗っ取られそうになっても、それに対抗する強力な国家権力機構が中々できなかったりする。イタリア共和国が国家権力の名のもとにマフィアを封じこむことができたのは、イタリア政府が唯一安定した時期、つまりムッソリーニのファシズム政権の間だけなのである。

 

そういうマイナス面はあるが、しかし、それだからこそ今あるイタリアの良い面もまた存在する。つまり誰もが自説を曲げずにわが道を行こうと頑張る結果、カラフルで多様な行動様式と、あっとおどろくような独創的なアイデアが国中にあふれることになるのだ。

 

そして最も肝心な点は、イタリア人の大多数が国家としてのまとまりや強力な権力機構を持つことよりも、各地方が多様な行動様式と独創的なアイデアを持つことの方が、この国にとってははるかに重要だと考えている事実である。

 

言葉を変えれば、彼らは「それぞれの意見は一致しないし、また一致してはならない」という部分でみごとに意見が一致するのである。

 

外から眺めると混乱の極みに見えるイタリアという国には、そういう訳で実は混乱はない。そこにはただ“イタリア的な秩序”があるだけなのである。つまり国がまとまらないことを承知で、なおかつオラが街の独自性を死守しようとするイタリア的な秩序が。

 

困ったことにその秩序は、イタリア人一人ひとりの対人関係においてもしっかりと生きている。だからイタリアは国も国民もいつも騒がしい。外から見るとそれがまた混乱に見える・・・。

 

サルバトーレ&シルビアⅡ



長年マフィアのことに興味を持っていろいろ調べるうちに見えてきたのは、マフィアの実体はつかみどころがない、という厳然たる事実である。

情報も見聞も噂も知識も何もかも、時間とともにそれなりに増えていくが、見えてくるのは茫洋としたマフィアの輪郭だけだ。いや、それはもしかするとマフィアの輪郭でさえないのかもしれない。マフィアのまわりに渦巻く情報の山、伝聞のガレキの巨大な堆積、とでもいうようなものに過ぎない。

 


なぜそうなるかと考え続けて分かったのは、マフィアの掟「オメルタ(沈黙)」の巨大な枷(かせ)が、障害となって立ちはだかるということである。リサーチやロケハンや情報収集によって多くのことが分かっても、最終的に「オメルタ(沈黙)」の壁にぶつかって、マファアには決して近づけない。

マフィアの構成員は言うまでもなく、その周囲にいる筈の被害者、つまりシチリア島の人たちが、ほとんど何も語ってくれないために本当のことがまるで見えてこない。もどかしさがいつも付きまとう。それがマフィアリサーチの本質である。それは僕の親友であるサルバトーレとの付き合いの場でさえ同じ。

 


サルバトーレがマフィアの構成員だった彼の祖父のことを打ち明けてくれた直後、僕はどうにかして組織のメンバーに会う手段はないか、と彼に頼んだことがある。すると彼は2、3日後に「ある人に会わせる。しかし彼の前ではマフィアのマの字も出すな」とだけ言って、僕をパレルモ市内の一軒の家に連れて行った。

 


そこはある土建業者のボスの家だった。内装に少し金ぴかな趣味があるが、大きなりっぱな家である。

50歳前後に見えたその男性は、一人で待っていて僕とサルバトーレを居間に通してくれた。愛想は良くない。でも別に不快感や敵愾心を見せるわけでもない。彼はシチリア名産のマルサラワインをご馳走してくれ、われわれはシチリアや僕の住む北イタリアや日本のことなど、当たり障りのない話題をしばらく交わしてそこを辞した。最後まで男性の妻や家族が居間に顔を出すことはなかった。

それだけの出来事である。

 


「彼は誰?」

僕は帰宅する車の中で念のためにサルバトーレに聞いた。

 


土建業者のボス。趣味は良くないが明らかに裕福な住まい。家族の紹介などこれっぽっちも頭の中にない態度。知的ではないが、相手への尊敬の念を決して失わない物腰。射るような目線でほとんど笑わず、お愛想を言わず、かと言って敵意を見せるのでもない動き・・・あまりにも「らしい」要素の数々が、逆に嘘っぽいほどの見事なマフィオーゾ(マフィアの構成員)振りの男性について、僕はサルバトーレに確認を取ったのだ。

 


それに対するサルバトーレの答えは、僕が正確に予期した通りのものだった。


「君が見て、君が感じたままの男だ」


つまり男性は組織の一員である。でもそれはサルバトーレがそう言っているのではなく、一外国人である僕が勝手にそう考えているだけのことだ・・・というのがサルバトーレの言葉の意味である。

 


それがシチリア島のマフィアの実態である。

誰も本当のことは語ってくれない。

僕の親友のサルバトーレでさえそうなのだから、他は推して知るべしである。

 


そうやって僕は次第にマフィアそのものを描くドキュメンタリーの制作を諦めていった。

能力の無い僕には、不得要領なものを映像ドキュメンタリーにする術はない。その代わりに、フィクションでの描写が効用を持つのではないか、と考えるようになった。

しかし、僕はフィクション映像の監督ではない。そこで、せめて文章ででもマフィアについて表現できないものかと考えたりもしている。この先、ここでこうして書いていくのも、あるいはその一手なのだろうか・・



 

 

 



震災支援チャリティーコンサートⅢ



村(コムーネ)主催の一大イベントFranciacorta in Fiore(フランチャコルタの花祭り)の会場になっているわが家は、数日来火事場のような騒ぎになっている。準備や会場設定などが忙しく進められ、記者会見や立食パーティーが開かれるなど、人の出入りが激しい。この騒ぎが落ち着くのは例年祭りの数日後、恐らく5月18~19日頃。

 


そうした中、東日本大震災支援コンサートの準備も着々と進んでいる。会場になる自宅の僕ら夫婦と、慈善団体のマトグロッソ、さらに田中・横田両嬢が中心になって立ち上げた、ミラノの震災支援グループl’Isola della speranza(希望の島)
が密に連絡を取り合って、5月29日を目指している。

 


コンサートの出演者は有名ギタリストのエマヌエレ・セグレさんと今ぐんぐん勢いを増しているピアニストの吉川隆弘さん。二人はデュオにも積極的にトライし、ポピュラーな曲なども演奏してくれる由。素人の僕らの勝手な要求を快く受けてくれてとても嬉しい。コンサートは間違いなく素晴らしいものになると思う。

 


僕は当初、去年の演奏会にこだわって3~4種類の楽器の共演を画策していたが、フルート奏者で友人のマウリツィオ・シメオリは、多くの楽器のコラボは盛り付けの多すぎる料理のようになって失敗する可能性が高い。だからピアノとギターならちょうどいい、という強い意見だった。従って、そこに落ち着いたことにも僕はほっとしたり、喜んだりしている。

 


コンサートには在ミラノ総領事の城守茂美さんが来てくださることも決まった。ミラノの友人たちがイタリア語での挨拶をお願いできないかと交渉しているところ。

 


日本レストランの「ぽぽろ屋」さんから、握り寿司の提供も受けることが決まった。またマトグロッソのブルーノは、生ハムやサラミなどに加えてローストビーフも出してくれるという。そうなると、シャンパンも加わったコンサート後の飲食は最早「軽食」ではなく、「夕食」あるいは「食事」として喧伝することもできるかもしれない。
 


例年自宅で開かれるマトグロッソ主催の慈善コンサートは、
150人前後の集客を目指すことが多い。自宅中庭で行う場合は、最大200人程度の聴衆が入れると思うが、200人の客を集めるためには、最低でも千通ほどの招待状を送らなければならないだろう。大仕事である。ノウハウを持っている彼らは、もう少し効率良く客を集めるが、それでも150人程度を目標にイベントを開催する。

 


今回はミラノの友人らが参加する分を上乗せして、200人程度の聴衆を集めたい。雨が降らなければそれくらいは何とかなるのではないか、と考えているがどうなるか。こればかりはフタを開けてみなければ分からない。ハラハラドキドキという気分である。

 


雨天なら130~
150人程度が来てくれれば御(おん)の字。大成功だった昨年のコンサートは実は雨のために集客率が悪く、
120人程度に留(とど)まった。しかし場所を屋内に移しての演奏だったから、逆に聴衆の数が多くなり過ぎると困ることになる。このあたりの成り行きも悩ましいのが、屋外でのチャリティーコンサートである。





 

 

 

サルバトーレ&シルビア



僕はシチリア島にたくさんの友人がいる。最近は仕事がらみで出来る友人も多いが、イタリアに住み着くずっと以前からの友人もかなりいる。その中でも最も親しいのは、ロンドンでの学生時代に知り合ったサルバトーレである。僕よりも4歳年上のサルバトーレは、当時はまだパレルモ大学の学生で、一年間の予定でロンドンに語学留学をしていた。イタリアでは30歳近くになっても大学に籍を置いて勉強をつづけている学生が多い。サルバトーレもその頃はすでに28歳になっていた。
 

サルバトーレは、ロンドンからシチリアに戻った翌年に大学の哲学科を卒業して弁護士のシルビアと結婚した。二人には現在3人の子供がいる。ロンドン時代は「ラテン・ラバー」ともてはやされたサルバトーレも、今は巨大な太鼓腹を抱えるただの田舎のオヤジになって、会うたびに僕を喜ばせてくれる。ロンドン時代、彼のモテモテぶりに少なからず嫉妬心を抱きつづけていた僕は、最早すっかりオヤジ振りが板についた同士とは云え、下腹の有様だけを見れば、今はこっちの方がよっぽど「ラテン・ラバー」だと優越感にひたるのである。

 

秘密というのではないが、僕は彼と知り合って20年程が経った頃、サルバトーレの口から意外なことを聞かされた。彼の祖父はれっきとしたマフィアの構成員で、組織内の抗争に巻き込まれて射殺されていたのである。祖父はあの悪名高いコルレオーネ村に近い山間部のマフィアファミリーのボスだった。彼はマフィアがまがりなりにも「名誉ある男たち」としての自恃(じじ)を持っていた頃の最後の世代に当たり、主として麻薬密売を一手に握って台頭してきた、若い世代の構成員とぶつかって殺害されたのである。

 

映画「ゴッドファーザー」の中にマーロン・ブランド扮するドン・コルレオーネとその周辺の対立が描かれているが、あれとそっくり同じ状況がシチリアのマフィアの間で実際に起こっていたのである。サルバトーレの祖父はシチリアの小さな村でドン・コルレオーネに酷似した立場にあった男。これはマフィア関連の文献にも記載されている実話である。

 

サルバトーレは僕がマフィアに関心を持っていて、シチリア島に行く度に少しづつ情報を集めていることを知っていた。同時に彼は、僕がシチリア島や島の住民を何かにつけてすぐにマフィアと結びつけて否定する人間ではないことも知っていた。だからこそ僕らは長い間友人でありつづけられたのであり、彼はその頃になって祖父の話を持ち出したのだろうと思う。

 

言葉を変えれば、サルバトーレがマフィアのボスの一人だった祖父の話をしても良いと思うところまで僕を信用するのに、20年の歳月が必要だったとも考えられる。もっともサルバトーレの祖父のことは、僕が無知だっただけで、知る人ぞ知る史実なので秘密でもなんでもなかったのだが、僕は知り合って20年も経った後に、彼自身の口から直接その話が出たことにある種の感慨を覚えたのである。

 

しかしながらサルバトーレも又シチリア島の人間である。マフィアについては余り立ち入ったことは話したがらない。それは同じシチリア人である彼の妻のシルビアにも言える。ただ僕らは次のような会話をすることはある。

 

僕「マフィアの構成員って見ていてすぐに分かるの?」

シ「分かるわよ。それは」

僕「サルバトーレ、君も?」

サ「うん。分かる」

僕「君ら二人が分かるということ? それともシチリアの人は皆んな分かるということ?」

サ「分かるさ。誰も何も言わないだけだ」

僕「ふーん。日本のヤクザみたいなものなのかな」

 

サルバトーレもシルビアもヤクザのことは知っている。僕がマフィアにからませて時々話題にすることもあるが、それでなくてもYAKUZAというのは国際的な言語になっていて、インテリの部類に入るイタリア人はけっこう知っていることが多い。

 

シ「ヤクザはいかにもヤクザって格好をしているの?」

僕「少し前まではね。今だにそういうのもいるけど、ふつうのビジネスマンみたいになって分からなくなったのも多い」

サ「それでも分かる訳か」

僕「何となく。何かあるとすぐ分かる」

シ「マフィアは何もなくても分かるわね」

僕「服装とかそういうの?」

サ「そうじゃなくて、雰囲気。動き方とか目の表情だとか、握手の仕方、抱擁の仕方・・・いろいろな要素がある」

 

シチリア人の誰もがマフィアの構成員を即座に見抜く、というのは少し大げさなような気もするが、僕はサルバトーレとシルビアに関しては彼らの話を信用する。サルバトーレは祖父の関係で少しはマフィア内部のことに詳しいはずだし、シルビアは弁護士としての立場上、同じようにマフィアに関してはたくさんの情報を持っているはずである。

 

マフィアを相手にする司法関係者は、シルビアのようなシチリア人でなければ意味がない、と良く言われる。それはマフィアの精神構造とシチリアの人々のそれが同一の土壌にあって、よそ者には決して踏みこむことができないということである。

 

たとえば1992年にマフィアに殺害されたジョバンニ・ファルコーネ判事は、シチリア人であったためにマフィアをとことん追い詰めてイタリアの英雄になった。彼はサルバトーレが話したような、マフィアの構成員に独特の動作や目の表情や言葉遣い等に精通していた。同時に彼らを尋問するに当たっては、どういう話し方をしてどういう態度で臨めば彼らに屈辱感を与えず、しかも判事自らの権威を保つことができるかを知悉(ちしつ)していたという。マフィアは屈辱を最も恐れ、権威には従順なところがある。ただし権威とは、彼らが彼らだけの基準で認めた権威である。普通の人が権威と認めるものでも、マフィアはその気になれば何のためらいもなく否定し破壊する。

 

要するにファルコーネ判事は、シチリア人同志でなければ通じ合わないものを最大限に活かして、仕事をしたのである。そのおかげで彼は、口を割らせるのが難しいマフィアの男たちを次々に落として、組織を追いつめていった。そしてまさにその力量が災いして、彼は高速道路を走行中にマフィアが道路に仕掛けた爆弾によって車ごと吹き飛ばされた。マフィアは時速140キロメートル以上のスピードで走っている判事の車を、遠隔操作の爆破装置で正確に破壊したのである。その2ヶ月後には、彼と二人三脚でマフィアを追いつづけていた、同じシチリア島出身のパオロ・ボルセリーノ判事も殺害される。

 

シチリア出身のマフィア専門の法曹は、ファルコーネ判事の前にももちろんいた。しかしそのほとんどが目立った成果を挙げられずにいた。それどころかマフィアとの癒着を疑われて世論の批判を浴びる有様だった。シチリア出身の法曹は、同じシチリアの犯罪組織であるマフィアを良く知っている分、マフィアの男たちに取り込まれやすい危険がいつもつきまとっている。ジョバンニ・ファルコーネ判事と相棒のパオロ・ボルセリーノ判事は、誰もが認める勇気と行動力を持って真っ向からマフィアに立ち向かって行った、シチリアの司法史上ほとんど初めての、と言っても良い現地出身の裁判官だったのである。

 

“マフィアと闘う者はたくさんいる。しかし彼らは実は何もしていない。その証拠に彼らはまだ生きている”とシチリアの人々は良く口にする。マフィアに真剣に立ち向かえば消される、というやり切れない現実を言い当てた格言である。その格言通り二人の判事はこの世から消えた。

 

実際にシチリア島に足を運び、人々に出会い、資料を集めたりしながら、僕はとりとめもなくマフィアについて考えを巡らせつづけている。いつかはそれをテーマにきちんとした作品を作ってみたいからである。


僕はイタリアの友人や知人に良くそのことを話す。すると誰もが決まって「やめた方がいい。命にかかわるぞ」と真剣な顔で僕に忠告する。僕は命知らずの勇敢な男ではないから、そのたびに少なからずビビってしまう。同時に彼らのリアクションは
マフィアの亡霊に脅えているだけなのではないか、とも思う。

 

そうやって不安と疑問と恐怖の間をオロオロと行き来しながらも、僕は一つだけ「大丈夫、危険なことはない」と自分にいいきかせることのできる物を持っている。

 

それはシチリア島の僕の親友、サルバトーレの存在である。サルバトーレは、僕がマフィアを題材にした作品を制作できないかと模索し続けていることを、誰よりも良く知っている。しかし、彼は一言も危ないとか、やめておけ、といった忠告をしたことがない。むしろ、僕の意図するところには賛成である。弁護士で奥さんのシルビアもそうだ。

 

マフィアを知悉している二人は、僕が知らず知らずのうちに危険な道に踏みこんだ場合、すぐに警告をしてくれるであろう・・・・・と、僕はひそかに確信しているのである。

 

とは言うものの、最近の僕は、マフィアを直接に取り上げる映像ドキュメンタリーの意義については、かなり大きな疑問を抱いている。多くのテレビ番組や映画や活字媒体が取り上げ続けてきたテーマに、果たして自分なりの視点や思いや発見を付け加えることができるのか。またマフィアの本質になんらかの形で僅かなりとも迫ることができるのか。そうした重大な疑問に僕は何一つ答えを見つけ出せずにいる。

 

結局、マフィアをテーマに新しく映像作品を作るなら、ドキュメンタリーではなくフィクションの形でのそれしかないのではないか、と僕は感じ始めている。それは映像ドキュメンタリー監督、あるいはドキュメンタリー作家を自負している自分としては、屈辱であり敗北宣言にも等しい感慨だ。が、ことマフィアに関する限り、僕は茫漠とした広がりを見せる情報と見聞と現実の前に、今のところはなす術もなく立ち尽くしている、という風なのである。

 

 


イタリアVS砂漠の猛獣Ⅱ



イタリアはついに、多国籍軍によるリビア爆撃にも参加することを表明した。そして南イタリアに漂着するリビア難民は増え続けている・・


それでも、今のところ僕は、多国籍軍によるリビア攻撃に賛成である。

 


欧米列強が徒党を組んで多国籍軍を形成し、中東の一国リビアを攻撃するのは内政干渉であり、主権・自決権の侵害であり、弱い者いじめの思い上がりである。それはいつか来た道。デジャヴ(既視感)などではなくて、確かに何度も見てきた現実だ。最近で言えば湾岸戦争、アフガニスタン紛争、イラク戦争など。

 


そうではあるが、民主化を要求する国民の声を無視し、あまつさえこれを弾圧するカダフィ独裁政権の動きは容認できないものである。従って、余計なお世話の多国籍軍のリビア攻撃に、僕は今のところ賛成に回るしかない。

 


つまり、多国籍軍を投入する欧米列強の横暴と、独裁者カダフィの横暴を天秤にかけた場合、後者の横暴の方がはるかに悪であるように僕には見えるのである。どちらも悪だが、少なくとも民主主義国家の集合体である多国籍軍の大義名分を僕は支持したい。彼らのリビア、ひいては中東全体の石油利権への執着と、それを隠して「爆撃はリビア人民の保護のため」と言い続ける偽善にはここでは目をつぶって。

 


なぜならリビアにも、また他の中東諸国にも民主主義が訪れ、根付いて欲しいから。その第一歩が独裁者の排斥であろう。

 


リビアのカダフィ大佐は、それぞれが万死に値する二つの罪を犯していると僕は思う。



一つは政権に不満を表明した自国民に向かって発砲したこと。もう一つは政権に固執し過ぎて、欧米列強にリビア攻撃の口実を与えてしまったことである。

 


チュニジアのベンアリ、エジプトのムバラク前大統領のように、国民の要求を入れて政権を明け渡していれば、長い独裁政治の罪は消えないとはいえ、少なくとも自国民を欧米列強の爆撃の危険にさらし、さらにその後も列強の干渉を呼び込み兼ねない可能性を排除できたはず。やはりカダフィは、必ず万死に値する者である。

 


そのこととは別に、僕は個人的にひっかかっていることがある。ロンドンの映画学校で一緒に学んだリビア人のムフタ君の運命だ。リビアの国費でその学校に学んでいた彼は、自国の大使館を借り切ってクリスマスパーティを開催したこともある。明らかにリビアのエリート青年だった。

 


彼とは学校卒業と同時に連絡が途切れてしまった。若気の至り、若気の思い上がりで、僕らは当時友人間で連絡先を控え合う習慣がなかった。われわれはお互いに映画監督になって世界的に有名になる。従って連絡先を控えておく必要などないと、かつて僕らは口には出さずとも皆そう思っていたのだ。

 


ムフタ君はロンドンの学生時代からカダフィ大佐側、体制側の人間だった。今はもっとそうだろう。



そんな訳で僕は、リビア危機を伝えるアルジャジーラやBBCのニュース映像の中に、もしかしてムフタ君の顔がないか、懸命に探したりもしているのである。




 

記事検索
月別アーカイブ
プロフィール

なかそね則

カテゴリ別アーカイブ
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ