明日は復活祭。英語のイースター。イタリア語ではパスクア。
いわずと知れたイエス・キリストの復活を祝うキリスト教最大の祭。
キリスト教の祭典としては、世界的にはクリスマスが最大のものだろうが、宗教的には復活祭が最も重要な行事である。
クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日。
復活祭は磔(はりつけ)にされたキリストが死から甦る奇跡を讃える日。
誕生は誰にでも訪れる奇跡だが、死からの再生という大奇跡は神の子であるキリストにしか起こり得ない。
それを信じるか否かはさておいて、宗教的にどちらが重要な出来事であるかは明白であろう。
イタリアの復活祭は、教会でも家庭でも例年にぎやかである。
教会は、キリストが磔になった聖金曜日(venerdisanto)から、復活する三日後の日曜日、そして小パスクアあるいは天使の月曜日と呼ばれる翌日まで、さまざまな催し物を繰り出して祝う。
聖金曜日は教会がミサを執り行わない日だが、その代わりに各地の教会が趣向を凝らして信者とともに祭を寿ぐのである。
例えば僕の住む村では、イエス・キリストが十字架を背負って刑場のゴルゴタの丘まで歩いた「viacrucis(悲痛の道)」をなぞって、当時の服装を身にまとった信者が村の道を練り歩く。
教会が主催するその行列は、例年夕方に始まって夜更けまで続く。けっこう大きなイベントである。
復活祭の期間中は、イタリア全国で似たような祭事が展開される。
一方、家庭では復活祭特有のご馳走の嵐。
僕は今年も招かれて行く親戚の家で、思い切りcapretto(カプレット⇒子やぎの肉)料理を楽しむつもり。
ツーか、不信心者の僕にとっては、これだけが復活祭の楽しみ、と言っても良いような・・
そんな僕の個人的な都合はさておき
国民の九割以上がカトリック教徒とされるこの国の、重大祭礼である復活祭は、人々の大きな喜びであるわけだが、今年のそれはさらにひとしおである。
なぜなら、ほぼ半月前に新ローマ教皇が誕生、就任して、以来国中が祝賀ムードに包まれている。
そこにうれしいパスクア・復活祭が重なったのだから、歓喜の極みである。
新ローマ教皇は、貧者に寄り添う姿勢が鮮明な、誠実純朴な人柄が歓迎されて、イタリアといわず全てのカトリック教世界にほんのりと温かい空気が充満している。
それは素晴らしいことである。
宗教的存在、あるいはカトリック教徒の精神的支柱としてのローマ教皇は、聖人ペテロに始まり第266代現教皇のフランシスコまで、多かれ少なかれ常に人々の味方であり、救いであり、希望だった。
それは将来も、永遠に同じである。
僕はこの前の記事で「政治的存在」としてのローマ教皇にまつわる事柄に言及した。
次は「宗教的存在」としてのローマ教皇にまつわる事案についても書こうと思う。
宗教的存在としてのローマ教皇と政治的存在としてのローマ教皇は、まったく別の概念であり現実であり装置であり制度である。
新ローマ教皇が誕生した今、僕はそうしたことについて少しこだわってみようと心に決めている。
が、
今日はとりあえず、明日の子やぎ料理を楽しみに待ちながら、全員がカトリック教徒である家族と共に、復活祭を祝うことにした。