【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

秋言葉のあや



イタリア語には、枯れ葉、病葉(わくらば)、紅葉(こうよう)、落葉、朽ち葉、落ち葉、黄葉、もみじ・・などなど、というたおやかな秋の言葉はない。

 

枯れ葉は「フォーリア・モルタ」つまり英語の「デッド・リーフ」と同じく「死んだ葉」と表現する。

少したおやかに言おうと思えば「乾燥葉(フォーリア・セッカ)」という言い方もイタリア語には無いではない。

また英語にも「
Withered Leaves(ウイザード・リーブ)」、つまり「しおれ葉」という言葉もある。

が、僕が知る限りでは、どちらの言語でも理知の勝(まさ)った「死に葉」という言い方が基本であり普通だ。

 

夏がとつぜん冬になるような季節変化が特長的なイタリアでは、秋が極端に短い。おそらくそのこととも関係があると思うが、この国の人々は木の葉の色づき具合に日本人のように繊細に反応することはない。

 

ただイタリア人の名誉にために言っておくと、それは西洋人全般にあてはまるメンタリティーであって、この国の人々が特別に鈍感なわけではない。

 

言葉が貧しいということは、それを愛(め)でる心がないからである。彼らにとっては枯れ葉は命を終えたただの死葉にすぎない。そこに美やはかなさや陰影を感じて心を揺り動かされたりはしないのである。

 

それと似たことは食べ物でもある。たとえば英語では、魚類と貝類をひとまとめにして「フィッシュ」、つまり「魚」と言う場合がある。というか、魚介類はまとめてフィッシュと呼ぶことが多い。

 

日本語で貝やタコを「魚」と言ったら気がふれたと思われるだろう。

 

もっと言うと、そこでの「フッィッシュ」は海産物の一切を含むフィッシュだから、昆布やわかめなどの海藻も含むことになる。もっとも欧米人が海藻を食べることはかつてはなかったが。

 

タコさえも海の悪魔と呼んで口にしなかった英語圏の人々は、魚介類に疎(うと)いところが結構あるのである。

 

イタリアやフランスなどのラテン人は、英語圏の人々よりも多く魚介に親しんでいる。しかし、日本人に比べたら彼らでさえ、魚介を食べる頻度はやはりぐんと落ちる。

 

また、ラテン人でもナマコなどは食い物とは考えないし、海藻もそうだ。もっとも最近は日本食ブームで、刺身と共に海藻にも人気が出てきてはいる。

 

多彩な言葉や表現の背景には、その事象に対する人々の思いの深さや文化がある。

 

秋の紅葉を愛で、水産物を「海の幸」と呼んで強く親しんでいる日本人は、当然それに対する多様な表現を生み出した。
 

もちろん西洋には西洋人の思い入れがある。たとえば肉に関する彼らの親しみや理解は、われわれのそれをはるかに凌駕(りょうが)する。

 

イタリアに限って言えば、パスタなどにも日本人には考えられない彼らの深い思いや豊かな情感があり、従ってそれに見合った多彩な言葉やレトリックがあるのは言うまでもない。

 

さらに言えば、近代社会の大本を作っている科学全般や思想哲学などにまつわる心情は、われわれよりも西洋人の方がはるかに濃密であるのは論を俟たないところである。

 

スパゲティと国際社会



食事マナーに国境はない。

 

もちろん、いろいろな取り決めというものはどの国に行っても存在する。たとえばイタリアの食卓ではスパゲティをずるずると音を立てて食べてはいけない。スープも音を立ててすすらない。ナプキンを絶えず使って口元を拭(ふ)く・・・などなど。

 

それらの取り決めは別に法律に書いてあるわけじゃない。が、周知の通り、人と人がまともな付き合いをしていく上で、時には法律よりも大切だと見なされるものである。

 

なぜ大切かというと、そこには相手に不快感を与えまいとする気配り、つまり他人をおもんばかる心根が絶えず働いているからだと考えられる。マナーとはまさにこのことにほかならない。

 

それは日本でも中国でもイタリアでもアフリカでも、要するにどこの国に行っても共通のものである。食事マナーに国境はない、と言ったのはそういう意味である。

 

スパゲティをずるずると音を立てて食べるな、というこの国での取り決めは、イタリア人がそういうことにお互いに非常に不快感を覚えるからである。スープもナプキンも、その他の食卓での取り決めも皆同じ理由による。別に気取っている訳ではないのだ。

 

それらのことには、しかし、日本人はあまり不快感を抱かない。そばやうどんはむしろ音を立てて食べる方がいいとさえ考えるし、みそ汁も音を立ててすする。その延長でスパゲティもスープも盛大な音を立てて吸い込む。

 

それを見て、日本人は下品だ、マナーがないと言下に否定してしまえばそれまでだが、マナーというものの本質である「他人をおもんばかる気持ち」が日本人に欠落しているとは僕は思わない。

 

それにもかかわらずに前述の違いが出てくるのはなぜか。これは少し大げさに言えば、東西の文化の核を成している東洋人と西洋人の大本(おおもと)の世界観の違いに因(よ)っている、と僕は思う。

 

言うまでもなく、西洋人の考えでは人間は必ず自然を征服する(できる)存在であり、従って自然の上を行く存在である。人間と自然は征服者と被征服者としてとらえられ、あくまでも隔絶した存在なのだ。自然の中にはもちろん動物も含まれている。

 

東洋にはこういう発想はない。われわれももちろん人間は動物よりも崇高な生き物だと考え、動物と人間を区別して「犬畜生」などと時にはそれを卑下したりもする。しかし、こういうごう慢な考えを一つひとつはぎ取っていったぎりぎりの胸の奥では、結局、われわれ人間も自然の一部であり、動物と同じ生き物だ、という世界観にとらわれているのが普通である。天変地異に翻弄(ほんろう)され続けた歴史と仏教思想があいまって、それはわれわれの血となり肉となっている。

 

さて、ピチャピチャ、ガツガツ、ズルズルとあたりはばからぬ音を立てて物を食うのは動物である。口のまわりが汚れれば、ナプキンなどという七面倒くさい代物には頼らずに舌でペロペロなめ清めたり、前足(拳)でグイとぬぐったりするのもこれまた動物である。

 

人間と動物は違う、とぎりぎりの胸の奥まで信じ込んでいる西洋人は、人間が動物と同じ物の食い方をするのは沽券(こけん)にかかわると考え、そこからピチャピチャ、ガツガツ、ズルズル、ペロペロ、グイ!は実にもって不快だという共通認識が生まれた。

 

日本人を含む東洋人はそんなことは知らない。知ってはいても、そこまで突き詰めていって不快感を抱いたりはしない。なにしろぎりぎりの胸の奥では、オギャーと生まれて食べて生きて、死んでいく人間と動物の間に何ほどの違いがあろうか、と達観しているところがあるから、食事の際の動物的な物音に大きく神経をとがらせたりはしないのである。

 

スパゲティはフォークを垂直に皿に突き立てて、そのままくるくると巻き取って食べるのが普通である。巻き取って食べると三歳の子供でも音を立てない。それがスパゲティの食べ方だが、その形が別に法律で定められているわけではない。従って日本人が、イタリアのレストランでそばをすする要領で、ずるずると盛大に音を立ててスパゲティを食べても逮捕されることはない。

 

スパゲッティの食べ方にいちいちこだわるなんてつまらない。自由に、食べたいように食べればいい、とも僕は思う。ただ一つだけ言っておくと、ずるずると音を立ててスパゲティを食べる者を、イタリア人もまた多くの外国人も心中で眉をひそめて見ている。見下している。

 

しかし分別ある者はそんなことはおくびにも出さない。知らない人間にずけずけとマナー違反を言うのはマナー違反だ。

 

スパゲティの食べ方にこだわるのは本当につまらない。しかし、そのつまらないことで他人に見下され人間性まで疑われるのはもっとつまらない。ならばここは彼らにならって、音を立てずにスパゲティを食べる形を覚えるのも一計ではないか、とも思う。

 

窮屈だとか、照れくさいとか、面倒くさいうんぬんと言ってはいられない。日本の外に広がる国際社会とは、窮屈で、照れくさくて、面倒くさくて、要するに疲れるものなのである。スパゲティを静かに食べることと同じように・・・。

 

横綱の品格



「  渋谷君

 

琴奨菊の大関昇進のニュースは、衛星放送やネットなどでここでもしっかり見ています。彼が一気に横綱にまで駆け上がったら楽しいね。

 

そういえば去年は朝青龍の引退騒ぎがありました。それにからんで僕が新聞に寄稿した記事を添付します。

そこに書いた内容は、もちろん今も変わらない僕の真摯(しんし)な思いです。

 



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~横綱の品格とは~

横綱の品格を問われ続けた朝青龍の引退騒ぎを描いたNHKの特集番組を衛星放送で見た。そこでは大相撲のご意見番とも呼べる専門家たちが、横綱の品格とは結局なんなのか分からない、という話に終始していて驚いた。不思議なことである。日本国内にいると日本人自らの姿が良く見えなくなるのかとさえ思った。

 

横綱の品格とはずばり「強者の慎(つつし)み」のことだと僕は考える。

この「慎み」というのは、日本文化の真髄と言ってもいいほど人々の心と社会の底流に脈々と流れている、謙虚、控えめ、奥ゆかしさ、などと同意味のあの「慎み」である。


「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という格言句に完璧に示された日本人の一番の美質であり、僕のように日本を離れて外国に長く住んでいる人間にとっては、何よりも激しく郷愁を掻き立てられる日本の根源である。

 

朝青龍にはそれが分からなかった。或いは分かろうとしなかった。もしかすると分かっていたが無視した。

 

「慎み」というのは世界中で尊敬される価値観である。人は誰でも「実るほど頭を垂れる者」を慕う。そして実った人の多くが頭を垂れるのが世界の現実である。

たとえばイタリア映画の巨匠フェリーニは、僕が仕事で会った際「監督は生きた伝説です」と真実の賛辞を言うと「ホントかい?君、ホントにそう思うかい?嬉しい、嬉しい」と子供のように喜んだ。またバッジョやデルピエロなどのサッカーの一流選手も、仕事の度に常に謙虚で誠実な対応をしてくれた。頂点を極めた真の傑物たちは皆、実るほどに頭を垂れるのが常である。

「慎み」は日本人だけに敬愛される特殊な道徳観ではない。真に国際的な倫理観なのである。

 

相撲には、他のあらゆるスポーツと同様に我われ人間の持つ凶暴さ、残虐性、獣性などを中和する役割がある。同時に、他のスポーツ以上に、それと対極にある思いやりや慎みや謙虚も「演出すること」が求められている。 

 

相撲は格闘技である。強ければそれでいい。慎みや謙虚というのは欺瞞だという考え方もあるだろう。しかし相撲はプロレスやボクシングなどとは違って、極めて日本的な「型」を持つ「儀式」の側面も持つ。

そこでは
強者横綱は「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という日本精神の根本を体現することが強要される。それが相撲の文化なのである。

 

強い横綱だった朝青龍には、せめて倒した相手にダメを押すような行為を慎んで欲しかった。勝負が決まった後の一撃は、見苦しいを通り越して醜かった。そしてもっと無いものねだりをすれば、倒れ込んでケガでもしたかと思うほど参っている相手には、手を差し伸べる仕草をして欲しかった。

 

その態度は最初は「強制された演技」でも「嘘」でも良かったのである。行為を続けていくうちに気持ちが本物になっていく。本物になるともはや演技ではなくなり、じわりとにじみ出る品格へと変貌する。

強くて明るくて個性的な横綱朝青龍は、そうやっていつか品格高い名横綱に生まれ変わる筈だった。残念である。 

  
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シチリアという迷い道



「 渋谷君

 

僕が先日のメールに書いた

 

「~シチリア島に行っていました。相変わらず面白い島。歴史と文化とマフィアと海がいっぱいの国~」

 

という件(くだり)をぜひ撤回させてほしい。

 

僕のメールに対する君の返信

 

『~シチリアってやっぱりマフィアの島なんですね。怖いな。マフィアがいっぱいとは、具体的にどういう?そのあたりで拳銃での撃ち合いがあったり、盗みがあったり、爆弾が炸裂したり、恐喝されたり・・ということなのでしょうか・・~』

 

を読んで、少し大げさに言うと、僕は慄然(りつぜん)とした。

 

君がそれをちょっとふざけ気味に書いているのであろうことは分かったが、人間は心に思わないことは決して口にしないのだから、君の中にはシチリア島への恐怖心や猜疑がどこかにあるに違いないと僕は判断したのだ。

そして僕の不注意なひと言が、それに輪をかけた可能性がある・・

 

誰よりもシチリア島が好きで少しは彼の地のことも知っているはずなのに、ついお気軽に「マフィアがいっぱい」と言ってしまった。

 

そういうのがいけないんだよね。シチリアというとすぐにマフィア、と言葉をつなげるのが・・

 

という風にそこかしこで書き、発言もし、ブログなどにも書いていながら・・・う~ん、まずい。

 

シチリア島には歴史と文化と海がいっぱいで、そういう輝かしい部分と共に、マフィアの存在を思わせる闇の部分もまた垣間(かいま)見える、と言いたかったんだ。

 

「マフィアがいっぱい」と書くと、君が指摘したようにあたかもそこら中に殺人事件や犯罪があふれていて怖い、というふうに誤解されかねない。

 

が、まったくそういうことはなくて、島は安全だし明るいし楽しい。

 

でも、よく見ると、パレルモのような都会にさえ、第二次世界大戦で破壊された建物が未だに再建されずに存在したり、それとは別の廃墟があったり、途中で建設がストップした高速道路のようなでたらめな工事現場があったり、街の一部が恐ろしく汚かったり等々、明らかに行政が怠慢な部分も数多くある。

 

そういうところに悪のマフィアの影響が如実に出ていると僕には見える。それをつい「マフィアがいっぱい」と表現しちゃったんだ。

 

シチリア人はとても明るくて親切で、同時に世界最大の「マフィアの犠牲者」でもある。だから、あなたはシチリアを決して「怖い」なんて思わないでほしい。

 

そういうのって、例えば「山口組がいるから神戸は怖い」と言うのと同じくらいアホーな話なんだ。

 

そして僕は「シチリアにはマフィアがいっぱい」なんて言っちゃって、そんなアホーな話に負けないくらいのバカ話をしちゃったわけだ。

 

大いに反省・・

 

シチリアについては、今回の旅行のことも含めてまたおいおい書いていくつもりだけれど、とりあえず君の誤解を解きたくて、こうして急いで便りをする次第です。 


それでは。  

 

 

歴史を食べる



ミラノの隣、僕の住む北イタリアのブレッシャ県には、有名な秋の風物詩がある。狩猟の獲物を串焼きにする料理「スピエド」である。

 

狩猟は秋の行事である。獲物は鳥類や野ウサギやシカやイノシシなど多岐にわたる。

 

それらの肉を使うスピエドは野趣あふれる料理だが、そこは食の国イタリア、肉の切り身に塩やバター等をまぶしてぐるぐると回転させながら何時間も炙(あぶ)り、炙ってはまた調味料を塗る作業を繰り返して、最後には香ばしい絶品の串焼き肉に仕上げる。

 

スピエドは元々、純粋に狩猟の獲物だけを料理していたが、野生の動物が激減した現在は、狩りで獲得したものに加えてスペアリブや家畜のうさぎや鶏肉なども使うのが普通である。またそれにはよくジャガイモも加えられる。

 

仕上がったスピエドには、ポレンタと呼ばれる、トウモロコシをつぶして煮込んだ餅のような付けあわせのパスタが必ず付いてくる。赤ワインとの相性も抜群である。

 

イタリアは狩猟の国なので、猟が解禁になる秋にはキジなどの鳥類や野うさぎやイノシシなどが各地で食卓に上る。しかしもっとも秋らしい風情のあるスピエド料理はブレッシャ県にしかない。これは一体なぜか。

 

ブレッシャにはトロンピア渓谷がある。そこは鉄を多く産した。そのためローマ帝国時代から鉄を利用した武器の製造が盛んになり、やがて「帝国の武器庫」とまで呼ばれるようになった。

 

その伝統は現在も続いていて、イタリアの銃火器の多くはブレッシャで生産される。世界的な銃器メーカーの「べレッタ」もこの地にある。

 

べレッタ社の製造する猟銃は、これぞイタリア、と言いたくなるほどに美しいデザインのものが多い。「華麗なる武器」である。技術も高く、何年か前にはニューヨークの警官の所持する拳銃がべレッタ製のものに替えられた、というニュースがメディアを騒がせたりもした。

 

ブレッシャは銃火器製造の本場だけに猟銃の入手がたやすく、アルプスに近い山々や森などの自然も多い。当然のように古くから狩猟の習慣が根付いた。狩猟はスピエド料理を生み、それは今でも人々に楽しまれている。

 

つまりスピエドを食べるということには、ギリシャ文明と共にヨーロッパの基礎を作ったローマ帝国以来の歴史を食する、という側面もあるのだ。

 

イタリアにいると時々そんな壮大な思いに駆られる体験をして、ひとり感慨にふけったりもする。 

 
閑話休題

今年一番のスピエドは、アルピーニの集会で食べた。山育ちの者が多いアルピーニたちは、ブレッシャ県人の中でも特にスピエドへの思い入れが強く、料理の腕もずば抜けている。

→<ノブレス・オブリージュ><アラブ人学生たちのこと

 

その後は山荘のチャリティー昼食会で食べ、再び山荘で慈善ボランティアの皆さんと食べた。いずれ劣らず美味だった。

→<9月、秋はじめと仕事はじめの期><チャリティーの夏

 

実はこれからもスピエドを食べる日々はつづく。あちらこちらから招待を受けるのだ。特に伯爵家の本拠地であるガルダ湖近辺での招きが多い。

 

伯爵家の山のそこかしこには「Roccolo(ロッコロ)」と呼ばれる、小さな狩猟小屋が建てられている。鳥類を待ち伏せて撃つ隠れ処(が)のような施設である。

 

ロッコロは無料で提供されている。ハンターたちは一年を通してロッコロに出入りすることを許されていて、狩猟が禁止されている時期でもそこで寝泊りしたりピクニックを楽しんだりしている。

 

伯爵家と山の恩恵を受けるので、狩猟の季節になるとその礼を兼ねて、獲った鳥を主体にしたスピエドを焼いてわれわれを招待してくれるのである。

 

そればかりではなく、付近の農家や友人やチャリティー団体や(スピエド)同好会等々の招きもあって、秋にはスピエドざんまいの日々がつづく。

 

僕は例年うまいスピエドに舌鼓を打ちながら、今年こそスピエドの料理法を習おうと考えるのだが、複雑でひどく手間のかかる行程に恐れをなして、なかなか手を出すことができない。

 

しかし僕にとっては、歴史を食う、というほどの趣を持つ魅力的な料理だから、いつかじっくりとレシピを勉強して、必ず自分でも作ってみるつもりである。


チャリティーの夏


先週の金曜日、マルコとアンナの結婚式を終えて伯爵家に戻ったのは午後11時前。

もっと早く帰宅できたのだが、伯爵家のある町とは対岸になるペスキエーラの街に寄ってから帰った。あえて時間潰(つぶ)しをしたのだ。

 

湖に面した伯爵家の前庭では、大規模な晩餐会が催されていた。僕らはそれを避けてわざと遅れて帰宅した。

 

晩餐会はガルダ湖のヨットレース「チェントミリア」の前夜祭の一環として開かれた。

 

「チェントミリア」は、ブレッシャのクラシックカーレース「ミッレミリア」にならって、60年前に始められた。湖でヨットを楽しんでいた貴族の若者たちが音頭を取ったのだ。

 

その若者グループのリーダーが、20年前に亡くなった妻の叔父だった。

 

その関係で「チェントミリア」は前夜祭を伯爵家の前庭で行い、レースのスタート地点も同家の前と定めて開催されるのがならわしになった。

 

半世紀以上の歴史を刻んで、ガルダ湖の観光名物として広く知られてきた「チェントミリア」だが、近年は盛り上がりに欠けて注目度も低くなった。レースの規模も年々縮小し、地元の賑わいもどこかに消えた。

 

伯爵家で開催される前夜祭も、最近は形骸化してしまって、地元の政治家たちが彼らの都合で晩餐会を開いて大騒ぎをする、政治ショーのような内容になってしまっている。

僕らは時どきそれに疲れて、晩餐会には場所だけを提供して、なるべく遠くから眺めるようにしている。

 

いやなら場所の提供も拒否すればいいようなものだが、そういうわけにもいかない。内容が空疎になったとはいえ、それは妻の叔父の功績を讃える意味合いから始められたものでもあるから、われわれが否定することはできないのである。

 

また前夜祭の主催者が、ここ数年は実質レースの参加者から街の役場に移ってしまっている事情もあって、なおさら断るのが難しい。

 

とてつもない大きさの邸宅を地域に有しているのだから、街のためになる行事には、伯爵家は館を開放してほしいと考える人々も多い。そしてそれに応えるのが伯爵家のならわしである。

 

今さらその伝統を覆(くつがえ)すのは不可能だ。邸宅がある限りは、地域に貢献するという貴族家の義務もまた続くのだろう。それがいやなら館を手放せばいいだけの話だ。そしてそれはすぐにでも可能なことである。

→<ノブレス・オブリージュ

そんなわけで、僕と妻は先週の晩餐会の夜はちょっとストライキをしてみた(笑)。行事が重なると、時どきそこから逃げ出したくなるのである。


晩餐会は政治ショーであってチャリティーではないが、家を開放して客をもてなすという意味では、僕らにとっては慈善事業と変わらない。

いわば街への寄付、とでもいうべき性格を持つのが、役場主催の晩餐会や展示会などの行事である。

それやこれやで、春から夏にかけては伯爵家とわが家は慈善行事の多い日々になる。

明後日の日曜日は、伯爵家の別荘「ラゾーネ」で再びスピエド昼食会。

→<9月、秋はじめと仕事はじめの期

でもそれはチャリティーとは関係のない仲間同志の集い。前回慈善昼食会を開催したボランティアたちが再び山に集まって、慰労会を開くのだ。

きっと気の張らない楽しいパーティーになるだろう。スピエドもまた格別の味がするに違いない。楽しみである。

 

9月、秋はじめと仕事はじめの期



9月5日深夜、シチリア島「ほぼ一周」旅行から帰還。

 

友人夫婦との旅はある時は楽しく、ある時は少し疲れたりもする日々だったが、おおむね良好。やって良かった、と思えるものだった。

 

シチリア島は「いつものように」玉石混交(ぎょくせきこんこう)の不思議の国。輝くものと暗く沈んだものがいっしょくたになって、僕の心をわしづかみにしてくれた。

 

そのことはまた書くとして

 

明日はベニス近くのビチェンツァで妻の幼馴染みの結婚式に出席する予定。その日のうちに湖の伯爵家に戻って、11日の日曜日には家の背後に広がる山中の別荘「Razone(ラゾーネ)」へ。
→<
ノブレス・オブリージュ

 

そこでは三つの団体が共同で催すチャリティ昼食会がある。供されるのはスピエドと呼ばれる北イタリア、ブレッシャ県地方の郷土料理。

 

元々はジビエ、つまり狩猟肉の串焼きだった野趣あふれる味覚で、ポレンタと称されるトウモロコシを潰して練った餅のようなパスタと共に食べる。赤ワインとの相性が絶妙な料理である。

 

調理をするのは山育ちのスピエド専門家たち。彼らの全員もチャリティ3団体の一員。南米支援グループとチェルノブイリ及びベラルーシ支援団体、それにガルダ湖+山岳救護ボランティア隊の3団体である。

 

人口が3000人にも満たない伯爵家の地元の町には、そうしたボランティア組織が何と17団体も存在する。

 

当日は東日本大震災から半年の節目の日。僕はそのことをしっかりと念頭に置きながら、善意の人々とのチャリティ活動に臨もうと思う。

 

大震災の被災地の皆さんの苦労はまだまだ続いている。何かの折にまた心ばかりの支援活動でもできればと思うが、今のところは少し厳しいだろう。

→<震災支援 チャリティーコンサートⅣ

 

豊かな日本の被災地の復興は必ず訪れる。ところが世界には、復興など永遠にあり得ないであろう不運な人々が溢れている。

彼らに思いをはせることは、日本の被災地を思い続けることと同様に、重要な行為であるように僕には感じられる・・。

 

9月に会いましょうⅡ



明日8月22日から夏休み。シチリア島へ。友人夫婦と妻と4人で。フェリー以外は全行程車の旅。

 

考えてみると、「友人という他人」を交えて3日以上の旅をするのは、若い時代を含めて人生で初めての体験である。

 

また、シチリア島を純粋に「休み」で訪れるのも、今回が初めて。

 

初めてづくしの旅。

 

まず夫婦共にローマ出身の友人宅(実家)まで車で8~9時間の移動。

 

そこで2晩世話になって、ナポリ近くのサレルノへ。

 

そこからフェリーでシチリア島、メッシーナへ。

 

友人のフェルーカ漁師アレーナ一家と旧交を温めた後、

→<~「フェルーカ」挽歌~

 

観光地のタオルミナ、さらにアルキメデスの故郷シラクーザを経て、歴史遺産に満ちたアグリジェントへ。そこでは兄弟同然の付き合いがある友人のニコラの世話になる。

 

最後はトラパニ県を経てパレルモ。

 

パレルモでは当然、親友のサルバトーレとシルビアの世話になるが、2人とも我われがシチリア島に入った時点ですぐに会いに行くと息巻いているから、へたをすると漁師のアレーナ一族とも一緒に会うことになりかねない。

→<サルバトーレ&シルビア

 

しかし、それではあまりにも「出来事」が多過ぎて逆に印象が薄くなってしまうことが普通だ。もったいないから今回は流しておいて、近いうちに皆で会うイベントを企画しよう、と電話で話して納得してもらった。

 

それやこれやで。

 

それでは。

 

皆さん。

 

ぜひ、

 

9月に会いましょう!!!!

→<9月に会いましょう


カダフィの終焉?



「リビア騒乱の中、反政府軍は首都トリポリからわずか50キロのザウィヤを押さえたらしい・・」と、昨日書き出して、今朝になって続きを書くために情報確認をしていくと、サウィヤどころか首都トリポリにも反政府勢力が進攻して戦闘があったという。

 

そうしたニュースに呼応して、カダフィ大佐が南米のベネズエラに逃亡するらしい、という情報もめまぐるしく駆け巡っている。

 

カダフィの友人、ベネズエラのチャべス大統領が、リビアの隣国チュニジアのジェルバ島の空港に、独裁者のために特別機を飛ばして、彼がやって来るのを待っているというのである。それは十分にあり得る話。世界の異端児カダフィとチャべスが手を組み合っても何も不思議はないように見える。  

 

実は中東の騒乱がリビアに飛び火した直後から、独裁者カダフィの逃亡先についてはいろいろ取り沙汰されてきた。

 

彼が落ち延びて行くであろう先の国々は限られている。カダフィのこれまでの友人が政権の座にある友好国のあれこれ。

 

即ちアフリカの国々ではリビアの隣国のチャド、ニジェール、マリ、モーリタニア、赤道ギニア、コンゴ、ウガンダ、ジンバブエ、南アフリカ。そして中南米のニカラグアとベネズエラ。最後に東欧のベラルーシ。

 

いずれも国際社会との対話に問題を抱える、似た者同志のいわくつきの国々である。

 

それらの友好国の中でも、カダフィにとって特に都合が良いのが、国際裁判所ローマ規定を無視、あるいは批准を拒んでいる国々。つまり戦争犯罪者や人道に反する犯罪者を、国際裁判所に引き渡す義務を負わない国々である。

 

その国とは、アフリカではモーリタニア、赤道ギニア、ジンバブエの3国。さらに中米のニカラグアと東欧のベラルーシがあるのみである。

 

ベネズエラは国際裁判所ローマ規定を批准している。それでもチャべス大統領が政権の座にある間は、カダフィをかばいぬくことができる、と独裁者自身もまたベネズエラの異端児大統領も考えているのだろう。

 

でも果たしてそうだろうか。それって、結構世界を甘く見ているのではないだろうか。自国民をいとも簡単に弾圧殺戮した独裁者を見逃すほど、国際社会は甘くない。カダフィは必ず弾劾され重い償いを課されなければならない。それは死よりもはるかに重い償いであって然るべきである。

 

カダフィばかりではない。シリアのバッシャール・アサド、エジプトのムバラク、イエメンのアリ・サレハ、モロッコのムハンマド6世、そしてサウジアラビア、バーレーンなどなど、時代遅れのあらゆる国々の支配者は、民衆の手によって権力の座から引き摺り下ろされなければならない。

 

あらゆる反民主化勢力、即ち独裁者、独裁主義、極右及び極左主義者と思想、軍国主義と軍国主義者等々は必ず排除されなければならない。抹殺ではない。排除である。

 

それらの極端主義者や過激思想は決して死滅することはない。また死滅させてもならない。なぜなら、それらの醜い存在があるからこそ民主主義が輝く。それらと対比することで民主化がさらに美しくなる。それらは、いわば必要悪。従って抹殺してはならない。徹底的に排除するのみである。

 

中東危機を語るとき、僕はずっとリビアとリビアの支配者を中心に考えを巡らせてきた。理由が幾つかある。

 

1. リビアは僕が住まうこのイタリアのかつての植民地であり、良きにつけ悪しきにつけ身近な話題、問題として常に語られる。

 

2. 独裁者カダフィの変わり身の早さに対する僕自身の興味。砂漠の狂犬、猛獣、などと呼ばれるカダフィは、まさしくその名の通りの暴君でありながら、保身のためとは言え2000年前後から突然欧米列強との対話穏健路線に走った。と思う間もなく、今の政変に際してはケダモノも顔負けの独裁者、あるいは時代錯誤も甚だしい抑圧者に変貌した。いや、変貌したのではなく、彼本来の「地」をさらけ出して咆哮しまくっている。

 

3. 僕のかつての友人ムフタ君への思い。彼は確実に独裁者のシンパ。なにしろ20代の半ばでロンドンのリビア大使館を自由に使っていた男だもの・・

→<イタリアVS砂漠の猛獣Ⅱ

4. とにかくリビアに民主主義体制が根付いてほしい。

 

5. 民主主義体制は、チャーチルの指摘を待つまでもなく、決して「ベスト」ではなく「ベター」な体制であるに過ぎない。民主主義にも多くの欠点がある。最大の欠陥はおそらく多数決による少数派の否定。しかし、今のところわれわれ人類は民主主義以上の政治体制を発見できずにいる。ベスト(最善)が見えない限り、ベターこそベスト(最善)なのである。

 

僕はそういうわけで、お節介と言われようが余計なお世話だと怒られようが、中東諸国に民主主義を持ち込む動きには大いに賛成する。

 

賛成どころか、独裁者どもを権力の座から引き摺り下ろして、地獄の底に投げ込む民衆の動きに、せめて気持ちだけでもしっかりと寄り添って行きたいと強く思っている。

 

それは僕の個人的な利害とも一致する。

つまり僕は中東の国々、特に地中海域の国々を、安心安全にしかも自由に訪れてみたいのだ。

そのためにもようやく芽生えたアラブの春が、一刻も早く「花咲き乱れる輝かしいアラブの春」になってほしいのである。

 

 

ワインビジネス



今収穫中のブドウは、自家のワイン造りにも用いられる。
→<ヴェンデミア(VENDEMMIA)
ワインはイタリアのシャンパン「スプマンテ」である。

 

ワイン造りは今のところは全くの赤字ビジネス。昨年亡くなった義父が残した負の遺産である。

 

伯爵家は大昔から常にワインを造ってきた。しかしそれは一家が消費する分と客に提供する分で、商業ベースのワイン生産ではなかった。

 

伯爵家の農夫のうちワイン醸造に長けた者が、一家のブドウを活用して一族のためだけに赤ワインを造ってきたのである。その伝統は今でも続いていて、混じりけのないシンプルな赤ワインはとても美味しいと僕などは感じる。

 

農学が専門だった義父は、アフリカや南イタリアの農場で仕事をした後、北イタリアに戻って伯爵家の土地で肉牛の生産を始めた。彼は同時に、元々あった一家のブドウ園とは別に、少し規模の大きなブドウ園の経営にも乗り出した。今から30年以上前のことである。

 

肉牛の飼育はすぐに失敗して負債が残った。

 

そこでやめておけば良いものを、彼は自らが作るブドウを使って商業ベースのワインの生産まで始めてしまった。

最初は白ワインと赤ワイン。さらにスプマンテにも手を伸ばした。

 

しかし、裕福な伯爵家で純粋培養されて、何不自由なく育った義父である。商売の厳しさなど知る由もなく、ワインビジネスもまた赤字続きだった。

 

それでも基本的には、放っておいても実が生(な)るブドウの生産はそれなりにうまく行って、ブドウのあがりでワインの赤字を埋める、ということを繰り返して20年余りが過ぎた。

 

義父は亡くなる前の数年間は、ワイナリーを閉鎖する方法を模索していた。赤字だらけのビジネスを残して逝くことには、さすがに忸怩(じくじ)たる思いがあったのだろう。

 

僕もワインの生産を止(や)めたほうがいいと、義父にはそっと言いつづけてきた。金の苦労を知らない大甘な彼の商売は、見ていて胸が痛むほどわびしい感じがいつもした。

 

義父は結局、ワイナリーを閉める「仕事」も貫徹できないまま亡くなった。優しすぎてここ一番での決断ができないところも、いかにも義父らしいといえば言えた。

 

義父が病に倒れた後、専門家の力を借りてワイナリーの実態を徹底的に検証した。結果、ワイン造りを続けたほうが負債の清算が早まる可能性がある、ということが分かった。

 

価格の変動が激しいブドウを収穫してそのまま全て売るのではなく、何割かを付加価値のつくスプマンテに仕立てて一部を樽のまま卸し、残りをこれまで通りに瓶詰めにして販売するのである。

 

義父が亡くなった後は、公私混同が当たり前だった彼の商法も改めた。

若いマネージャーを雇って、ワイナリーをビジネスとして徹底させると同時に、ボトル販売のプロたちとも契約した。

 

机上の計算では、義父の残した負債を8年から10年かけて返済できる計画。

しかし、競争が激しく、切り盛りが難しいワインビジネスである。赤字がさらに進行する兆しが見えたら、ためらうことなく即座に止(や)めてしまうことを前提にしている。

 

ワインは誰にでも造れる。資金さえあれば、ワインの杜氏(とうじ)であるエノロゴが幾らでも造ってくれるのだ。優れたエノロゴを雇えば優れたワインを生産することも可能だ。

 

ワインビジネスの問題は「ワイン造り」などでは全くなく、
ひとえに『販売』が課題なのである。

 

販売が好転する兆しが見えたとき、赤字解消の確かな道筋が生まれ、さらに将来への展望が開けるはずである。

 

それでなければ、全てのブドウ園を失うような事態があっても、少しも不思議ではない、と僕は考えている。

 

ヴェンデミア(VENDEMMIA)



今年一番の自家のブドウの収穫(ヴェンデミア)は810日に始まった。

 

まず初めに僕の仕事場から見下ろす3,5ヘクタールを収穫。それは2年前、2009年春に植え替えた木の初めての実りである。

 

品種は白ブドウのシャルドネ。量はまだ少ない。成果が最大になるのは、植樹から4~5年後である。

 

全体では15,5ヘクタールある自家のブドウの収穫は、今後飛び飛びに日にちを定めて9月半ば頃まで続けられる。

 

今年はここまで雹(ひょう)が一切降らなかった。珍しいことである。

 

暑い日本とは違って、北イタリアでは大きな雹は盛夏に多く降りつける。そのためブドウ栽培者は必ず雹保険に加入している。かなりの確率で被害が発生するから、保険の掛け金も安くない。

 

去年(2010年)7月には、あたり一面が真っ白になるほど大量の、巨大粒の雹が降りしきった。それは雪のように積もって、翌日まで解けずに残った。

 

ブドウに大きな被害が出て、僕の小さな采園の野菜も完全に破壊されつくした。ナスやトマトやピーマンには大きな穴がいくつも開いた。

 

激しい雹はほとんどの場合「テンポラーレ」と共にやって来る。

 

「テンポラーレ」はイタリアの夏の風物詩。

 

真っ青だった空にとつぜん黒雲が湧いて稲妻が走り、突風が吹き募って雷鳴がとどろく。同時に激しい雨や雹が視界をさえぎって落下する。目をみはるような荒々しい変化である。

 

イタリア語で「テンポラーレ」と呼ぶこの自然現象は、日本語ではちょっと思いつかない。

驟雨とか夕立、あるいは雷雨などの言葉は弱すぎる。

「野分(のわき)」という古語もあるが「テンポラーレ」はそんな詩的な表現では言い尽くせない。

 

「テンポラーレ」は、しばしば雹を伴なって農作物を破壊する。

 

激しい雹を運んでくる猛烈な「テンポラーレ」を、僕は勝手に「豆台風」と呼んだりしているが、長い時間をかけて発達する台風とは違って「テンポラーレ」はふいに起こる現象だから、実はこの言葉もぴたりと当てはまるものではない。

 

今年もここまでに何度も「テンポラーレ」が発生した。でも一度も雹は降らなかった。この先はどうなるか分からないが、ブドウにも僕の采園にも被害は出ていないのである。

 

8月半ば頃からの「テンポラーレ」は例年、発生するたびに急速に秋を運んで来る。

 

季節がいつも通りなら、秋はもうすぐそこである。

 

パリオが終わった!



20118月のシエナのパリオが無事終わった。

 

勝ったのはコントラーダ・ジラファ(キリン町内会)。20047月以来の優勝。

 

またパリオが、カンポ広場を駆け抜ける今の形になった、1644年以来では34回目の勝利である。

 

7月のパリオで馬が死んだキオッチョラ(かたつむり)町内会は敗退。

パリオでは優勝だけが意味を持つ。
2位以下は全て敗北として片付けられるのである。

 

カンポ広場を3周するパリオの所要時間は、110秒からせいぜい120秒程度である。

 

でもそれは恐ろしく中身の濃い1分余りで、まるでウサイン・ボルトの100Mダッシュを見るように速く過ぎる。

 

熾烈(しれつ)で劇的でエキサイティングな勝負。

 

2番手で飛び出したジラファは、1周目の途中でトップに立ってそのまま逃げ切った。

 

僕は3周目の途中まで八百長くさいパリオだと思った。波乱がないように見えたからだ。

 

ブランビッラ大臣ら動物愛護家の糾弾にひるんで<パリオの行方①>、各チームの馬の走りが鈍っているのか、と本気で疑ったとき、急カーブで一頭が転倒して後続が次々に重なり倒れ、騎手が投げ出された。

本気も本気の走りをしていなければ起こり得ない光景。

 

僕はほっとした。パリオは死んでいないと喜んだ。

 

もんどりうって倒れた馬も騎手も全員が無事だと分かって、僕はさらに喜んだ。

 

でも、たとえ馬が無事でも、動物愛護家の人々のパリオへの弾劾はつづくだろう。

5頭が一気に転倒して騎手が放り出されるシーンは、刺激的過ぎて彼らにはとうてい受け入れられないだろうから。


そしてそれは、彼らの立場に立てば、分からないことでもないから。

 

パリオの命運は、まさしく前途多難というふうだ。

 

ったく、困ったものである・・

 

 


フェラゴスト(FERRAGOSTO)



今日8月15日はフェラゴスト(FERRAGOSTO):聖母被昇天の祝日である。

 

聖母マリアが生涯を終えて天に召されたことを祝うこの祭りは、元々は古代ローマのアウグストゥス帝の誕生日にちなんだ、8月1日を祝って休む日だったのだが、キリスト教と結びついて今日8月15日と定められた。

 

バカンス時期にあるこの祭日は、いわば休みの中の休み、とでもいうべき日。リゾート地を除くイタリア中の店も工場も食堂もなにもかも閉まって、国中が空っぽになる。

 

同時に毎年この日は、シエナの8月のパリオの前夜祭にも当たっている。中世の美しい街シエナの競馬祭りは、例年7月2日と8月16日に行われるのである。

 

今年は7月のパリオで競争馬が事故死し、これにブランビッラ観光大臣が異議を唱えて騒ぎになった。動物愛護家の大臣は、長い伝統を持つパリオそのものの廃止にまで言及して、問題はさらに先鋭化した。→<パリオの行方①

 

女性大臣は、街の広場を馬場にして裸馬が疾駆するパリオは、出場馬にとって極めて危険だから祭りを廃してしまえと叫ぶのだが、なぜか馬に乗る騎手の危険性については一言も言及しない。馬と同じ危険にさらされる騎手はどうでもいいが、動物は必ず守れということらしい。

 

また観光大臣でありながら、国の重要な観光資源である伝統的なアトラクションを取り止めろと主張するのは、整合性がないと批判されても仕方がないのではないか。

 

開催が危ぶまれた明日のパリオが予定通り行われるのは嬉しいことである。また、これまでのところは、ブランビッラ女史の声高な問責もない。

 

バカンスまっただ中の今日のフェラゴストだから、ブランビッラ大臣もきっと休暇中なのだろう。でも、パリオの廃止を叫ぶくらいだから、休んでいる場合ではないのではないか。

 

自らシエナに足を運んで、祭りを実体験してみるべきである。馬を愛する人々が、馬と共に熱狂して、感動的な雰囲気に包まれる空気を呼吸してみるべきである。

そうしておいて、それでもやはり祭りを弾劾するというのなら、シエナの人々も少しは納得するというものである。

 

でも、僕がシエナの友人達に確認した限りでは、大臣はここまでのところ今年も祭りの期間中にシエナに足を運んではおらず、祭り以外の期間もおそらく街を訪ねたことはないのではないか、とのこと。

 

それやこれやで、僕はパリオのことも「サンパトリニアーノ コミュニティ」の内紛劇と同じように、少し納得のいかない思いで見守っているのである。


サンパトリニアーノ



ヨーロッパ最大の麻薬患者更生施設「サンパトリニアーノ コミュニティ」が揺れている。創設者の一族が施設の経営から手を引く、と発表したのである。その理由がいろいろと取り沙汰されているが、どうやら問題は「金」の」ようである。

 

最大で2000人近い患者が住む「サンパトリニアーノ コミュニティ」は、麻薬中毒の若者たちを見るに見かねた1人の男が、1978年に自らの家に彼らを招いて、共に自給自足の生活を試みたところから始まる。その男の名はヴィンチェンツォ・ムッチョリという。

 

ムッチョリは後には私財をコミュニティに寄付して、彼自身が中心となって本格的な更生施設の経営に乗り出した。

 

麻薬患者らによる自給自足生活を基本方針にした施設は、イタリア社会に大きな波紋を投げかけながらひたすら成長を続け、現在ではそうした類いの団体としては莫大な、と形容しても構わないな資金を動かす巨大組織になっている。

 

創設者のヴィンチェンツォ・ムッチョリは1995年に亡くなった。

 

僕はその直前に彼のはからいで、コミュニティーの中にある一軒家にスタッフと共に寝泊まりをして、そこで起こるあらゆる事象を刻明にカメラで追いかけた経験がある。

 

その当時「サンパトリニアーノ コミュニティ」は、既に約300ヘクタールの土地を有していた。広大な敷地の中には、家族が住まうための1戸建て住宅が100件余り、1500人を収容する巨大な共同住宅が2棟あった。さらに住民のほぼ全員が一度に食事をする大食堂や劇場や体育館や多種スポーツ施設や図書館や保育園やクリニックや歯科医院まである。

 

同時にそこには、40ヘクタールのぶどう園と年間250万本を生産するワイン醸造所があり、6000頭余りの家畜が飼われ、牧場や畑があり、チーズ工場、パン工場、家具製作所、写真印刷所、自動車修理工場、縫製所、板金塗装工場、内装・造園品製作所等々の仕事場があった。

 

それらの仕事場では、コミュニティー内で消費する分は言うまでもなく、外の世界に売るための製品も生産される。パンやチーズなどを別にすれば、むしろ後者の方が主体である。

 

「サンパトリニアーノ コミュニティー」の中にあるこれらの施設には、2011年現在、140名の外部ボランティアおよび350名の雇われスタッフも仕事をしているが、当時は全てコミュニティーの住民自身の手で運営されていた。ボランティアや、国や県が派遣する助っ人、といった者は一人もいなかったのである。

 

言葉を換えれば、クリニックの医師や歯科医や看護婦や薬剤師また保育園の保母などといった専門職の人々も、全員が麻薬中毒者か一度そうであった体験を持つ者ばかりなのである。彼らはにわか医師や歯科医や看護婦などではない。誰もが国家試験にパスしたれっきとした専門家でありながら、麻薬に手を出して人生を狂わせてしまった人々である。それぞれが麻薬中毒から抜け出すためにコミュニティーに入り、専門の知識を活かして各職場で仕事をしていた。

 

彼らばかりではない。「サンパトリニアーノ コミュニティー」に収容された者は、誰もが収容されたその日から施設内の各仕事場に振り分けられて、わき目も振らずに働くことを義務づけられている。実は「労働を通しての更生」というのが、コミュニティーの治療法の最大の特長なのである。

 

身長190センチ、体重120キロの巨漢だったヴィンチェンツォ・ムッチョリは、施設内の麻薬患者の若者らに深く愛されていた。同時に外の世界には彼の治療法に懐疑的な敵も多かった。

 

施設の経営は、創設者のムッチョリの死後、アンドレアとジャコモの2人の息子にゆだねられた。

 

しかし、3年前に2人は経営方針と金を巡って骨肉の争いを演じ、ジャコモが施設を去った。以来兄のアンドレア・ムッチョリが最高責任者となって施設経営がなされてきた。

そして今--アンドレア・ムッチョリが施設の経営から身を引くと宣言したのである。

 

施設内に流れ込む巨額の資金を巡って欲が欲を呼び、外部からの支援者や資金提供者を巻き込んだ駆け引きと暗闘が繰り広げられた結果、創設者一族が経営から身を引く、という事態になったものらしい。よくある話である。

 

ヴィンツェンツォ・ムッチョリの死に際して、僕は一つの時代の終焉を見たと思った。そして息子のアンドレア・ムッチョリが施設経営から身を引く(おそらく撤退を余儀なくされた)事態を目の当たりにして、もう一つの時代の終焉を見たと感じる。

 

それはとりもなおさず、新しい時代の幕開けでもある。

 

麻薬の罠に嵌まって苦しむ若者は、イタリアはもちろん世界中で後を絶たない。「サンパトリニアーノ コミュニティー」は、それらの若者たちにとっての大きな救いの一つであることは疑う余地もない。

施設は存続しなければならないし、存続させなければならない。僕は事態の成り行きをじっと見守っている・・・

 


独裁家族



イラク戦争中の2003年7月22日、サダム・フセインの2人の息子、ウダイとクサイが米軍の攻撃によって殺害された。2人の息子は、悪辣非道な独裁者である父親のサダムも顔負けの、凶暴残虐な性格だったとされる。

 

その出来事を受けて、誰かがリビアのカダフィ大佐の息子たちもやがて同じ運命をたどるだろうと予言した。当時、実は僕も同じことを考えた。

 

サダム・フセインとムアマー・カダフィというアラブの2人の独裁者と、その息子達の関係を歴史に照らして見てみれば、彼らの因果の巡りを予測するのは少しも難しいことではないと思う。

 

独裁者とその家族は、しばしば運命を共にして歴史に名を刻んできた。

例えばサダム・フセインと2人の息子の前には、ルーマニアの独裁者チャウシェスクと妻の処刑の例がある。

また処刑はされなかったが、20年にも渡ってフィリピンを独裁支配したマルコスが、蜂起した民衆に追われて妻のイメルダと共にハワイに落ち延びていく姿は、世界中の人々に鮮烈な印象を与えた。

 

もっと言うなら、ムッソリーニも、そしてヒトラーでさえも、独裁者の多くは家族または家族同然の人々を巻き添えにして、悲惨な最期を迎えた。またそれほど目立たないケースでも、独裁者の回りには家族や近親者や幼なじみの友人などが寄り添っている、と見てまず間違いがない。

 

独善と謀略と邪悪を力のより所とする独裁者には、敵も多いために心は決して安まらず、猜疑心のカタマリとなって身内を近くに置きたがる。独裁とは多くの場合「ファミリービジネス」でもあるのだ。

 

現在進行形で言うなら、キューバのカストロは弟のラウルを権力の座に据えた。エジプトのムバラク前大統領は、世界が注視する中、彼に従って権力を振るったアラアとガマルの息子2人と共に裁判にかけられている。わが隣国、北朝鮮の独裁者と息子に関しては、言及するまでもないだろう。

 

さて、今が旬のリビアの独裁者とその家族である。

 

カダフィ大佐の8人の子供のうち、下から2番目のサイフは5月1日のNATO軍の空爆で殺害され、末っ子のカ(ハ)ミスも8月に入って多国籍軍の空爆で死亡した。ただし、後者の死亡のニュースを大佐側は否定している。

 

殺害されたサイフを除く6人の息子たちは、親の威を借りていずれも権力の中枢かそこに近いところにいる。

 

次男のサイフは父親の後継者と見なされ、五男のムタシムと死亡説が流れているカミスは国家保安院あるいは秘密警察に近い組織の要職にあり、他の3人もそれぞれ国家の重要な役職を担っている。

 

このうち三男のサーディはイタリアのプロサッカーリーグ「セリエA」でプレーしたこともある変わり種だが、今回のリビア政変では軍を率いて、ベンガジに拠点を置く反対勢力を攻撃している。

 

また「アラブのクラウディア・シファー」と呼ばれる、大佐の一人娘のアイシャは弁護士。フェミニズムの活動家だが、内戦の混乱の中でも父親を擁護する発言を繰り返し、トリポリでは政権を支持する民衆の前でアジ演説を飛ばして、世界中のメディアに存在感を示したりしている。

 

独裁者と家族たちの行く末は、遅かれ早かれ又多かれ少なかれ、同じキャンバスの同じ絵に描くことができると歴史は教えている。

そのことを思うと、独裁者自身はともかく、親の存在に引きずられて運命を左右されたようにも見える、彼らの子供は少し哀れを誘う、と感じるのは僕だけだろうか。

 

独裁者とその息子たちの関係は、民主化の遅れた社会に共通のものだと言っても過言ではないが、それは日本などにも多い世襲議員のおぞましさにも通じるものがある。

ファミリービジネスの独裁制は、同じファミリービジネスの世襲議員制の、いわば従兄弟(いとこ)という見方もできるのではないか。

 

イタリアVS砂漠の猛獣Ⅲ



昨年始まった中東危機以来、イタリアに流入する難民は増え続けている。

 

当事国のイタリアにおいてさえメディアの注目は日々小さくなっているが、今やこの国に入った中東難民の数は45000人を越えているのである。そのうちの多くはリビアからやって来る。

 

砂漠の猛獣、リビアのカダフィ大佐は、かつての宗主国イタリアへの憎しみを募らせ、口汚くののしり、脅し、8月3日にはリビア近海に展開するイタリアのフリゲート艦に向けてミサイルを発射した。

 

あわてたイタリアの防衛大臣は、戦艦から2キロ離れた海域に落下したミサイルが、イタリア艦を狙ったものではない、と危険性の打ち消しに必死になったりしている。

 

独裁者カダフィは、一向に政権を投げ出さない。それもそうだろう。権力の座を明け渡したとたんに、彼は怒れる民衆の手によって地獄の底に突き落とされることが確実に見える。それこそ死にもの狂いで最後の最後まで抵抗を続けるに違いない。

 

7月28日、大佐を裏切って反体制派に与(くみ)していた筈のアブデル・ユニス将軍が、ベンガジで仲間に殺害された。裏切り者として。

 

カダフィの最も信頼する部下が彼を裏切って敵方に走り、今度は寝返った先の仲間を裏切ったのである。この不思議な話は実は、大佐の狡猾で冷酷な権謀術数のなせる業であったらしい。

 

つまり、1969年のカダフィ革命以来、独裁者の右腕であり続けたユニス将軍は、今回のリビア危機に際して、その鎮圧を目的に大佐によって反体制組織に送り込まれた。彼はスパイとしてボスのカダフィ大佐に反乱軍の内部情報を送り続けたのである。

 

ところが今回大佐は、部下を冷たく切り捨てる形で、ユニス将軍が自分のスパイであることをひそかに反乱軍に知らせた。将軍が独裁者に宛てて送り続けた情報データを証拠として添えて。

 

大佐が送った証拠を突きつけられたユニス将軍は、全く弁解の余地なく裏切り者として反政府軍内で処刑された、というのである。

 

カダフィの狙いは、反乱軍内の幹部たちにお互いへの不信と猜疑心を植え付け、組織内の恐怖と混乱をあおり立てることだった。

 

強力な助っ人と見なされていたユニス将軍が、実は依然として独裁者の片腕でありスパイだったと判明すれば、カダフィに反旗をひるがえした他の政府軍将校などにも疑いが生まれ、寄せ集めの反政府軍内はパニックに陥りかねない。

 

カダフィはそこを狙った。そして彼の狙いは今のところ見事に功を奏していると言われている。

 

事実ならまるで悪魔のような汚い術策だが、40年以上もリビアを牛耳ってきた独裁者は、やはりただ者ではなく、したたかな策士だった、という当たり前の現実の表れだとも考えられる。

 

それだけ悪知恵の働く男が、将軍の死から1週間後、隣国エジプトのムバラク前大統領が裁判にかけられて、その模様が生中継されるテレビ映像を目の当たりにした時、一体なにを思ったのだろうか?

 

ヨーロッパのメディアが「ファラオ(古代エジプト王)」とまで呼ぶ独裁者のムバラク前大統領が、民衆の手に落ちて、老いさらばえた哀れな姿で裁判にかけられる様子は、世界中に生中継された。隣国の、しかも当事者同然のカダフィ大佐が、まさかその映像を見なかったということはあるまい。

 

彼は震えおののきながら映像を見、明日のわが身を思って屈辱感にさいなまれ、憤怒の中でさらなる粛清、弾圧の強化を画策しているのではないか。従って血で血を洗うリビアの内戦は、多国籍軍が決定的な軍事行動を起こさない限りまだまだ続く、と考えるのは穿(うが)ち過ぎだろうか。

 

先日会ったエジプト人の若者たちは、母国の危険は去って平穏が戻ったと強調していた。→<アラブ人学生たちのこと

 

若者らが国を出てイタリアに短期留学できるくらいだから、エジプトにある程度の静けさが戻ったのは事実なのだろう。が、ムバラク前大統領を始めとする独裁政権幹部の裁判を巡って、国民の間に怒りや不信や猜疑が渦巻いている間は、国に真の平穏は訪れないのではないか。

 

エジプトでさえそうなのだから、独裁者のカダフィ大佐がまだ猛獣であり狂犬であり続けているリビアでは、真の「アラブの春」の訪れはまだまだ先のことに違いない・・

 

 

 

アラブ人学生たちのこと



3週間前の日曜日に続いて、昨日(8月7日)もまたガルダ湖畔の伯爵家でコンサートがあった。趣旨は前回とまったく同じ。
→<ノブレス・オブリージュ

 

コンサート開始時間や場所もほぼ同じだが、会場に関しては、今回は初めから前庭ではなく大広間での開催が決まっていた。バイオリン、チェロ、ハープの演奏なので、音響の良い元舞踏会場の大広間で、ということになっていたのである。

 

今回もまた雨に降られた。主催者の中に雨男か雨女でもいるのだろうか。良く雨に降られる。

 

僕は昼間は自宅で仕事をした後、夕方湖の館に移動した。コンサートやその他の用事で、ここ一週間ほどは伯爵家に行きっぱなしの妻と合流。大学生の2人の息子も彼女連れで館にいた。夏休みなのだ。

 

仕事が詰まっているので、今回は音楽会には顔を出さないでおこうかとも考えたが、やはり参加することにした。理由があった。

 

僕は前回のコンサートにエジプト人の若者たちを招待した。彼らは伯爵家のある湖畔の町でイタリア語を勉強していた。ミラノ大学が毎年夏に期間限定でイタリア語講座を開いていて、世界中から生徒がやって来るのである。そこでは日本からの学生もけっこう見かける。

 

エジプト人の若者たちは、友好親善の一環としてアルピーニの集会に招待されていた。僕はそこで彼らに会って、夜のコンサートにもぜひどうぞ、と招待した。<ノブレス・オブリージュ

 


アルピーニの集会場で若者たちを見かけたとき、僕は彼らに強い好奇心を抱いた。男子学生がジーンズにTシャツなど、イタリア人と何も変わらない服装をしているのに対して、女子学生がイスラム教徒のベール「ヒジャブ」を着用していたからである。

 

やはりイスラム女性が用いるベールのブルカとニカブは、公式の場での着用がフランスとベルギーで正式に禁止され、イタリアでもそれに近い法案が提出されたりして、アラブ文化への風当たりが強くなっている。

 

加えてチュニジア、リビア、エジプト、シリア、イエメン、バーレーンなどなどで進行する反乱や暴動の中東危機。それは王族支配体制が巨岩よりも堅牢に見えたサウジアラビアにまで広がる気配を見せている。そして9.11アメリカ同時多発テロ事件以来さらに強まった、欧米社会のイスラム教徒やアラブ国家への猜疑心。

 

そうしたもろもろの状況に加えて、個人的には僕はリビア人の友人ムフタ君との連絡が取れないことへの気がかりも強い。
→<イタリアVS砂漠の猛獣Ⅱ

 

僕はエジプト人の若者たちに話しかけた。そのあと昼食をまじえて歓談した。アルピーニの集会では、いつもバーベキュー形式の食事が供されるのである。

 

彼らはごく普通の明るい若者たちだった。僕はもっともっと彼らと友達になりたかった。そこでその晩のコンサートに招待した。

 

ところが会場の手違いで若者たちが一人を除いて入場を拒否されてしまった。雨模様でコンサート会場が前庭から屋内に変更になったために、主催者側スタッフが早めに入場制限をして扉を閉めてしまった。来場者が多すぎたのである。

 

僕はそういうこともあろうかと思って、主催者側の責任者にエジプト人若者らには便宜を図ってくれるように頼んでいたのだが、混乱の中で入口スタッフへの引継ぎ連絡がうまく行かず、少し遅れて会場にやって来た若者らは閉め出されてしまった。

 

その若者たちは既に帰国した。でも大学には他の学生らが入れ違いに入学して来ると聞いた。僕は仲良くなった若者達に、彼らに続いて短期留学をする学生たちにも、遠慮なく伯爵家を訪ねるように、と話しておいた。

 

そんないきさつがあるので、僕はもしかするとアラブ人の若者らが昨日のコンサートに顔を出すのではないか、と思いついて湖に向かったのだった。

 

昨晩はそれらしい若者らは会場にはやってこなかった。

 

僕は少しがっかりしたが、伯爵家での催し物は9月までは続く。

もしかすると、どこかでまたアラブ人の若者らに会えるかもしれない、と僕はひそかに期待をしている・・

 

ポポロの海 ③



チカのビーチに入ると、先ず管理人小屋につづいて着替用のキャビンが並んでいる。シャワーやトイレも同じ場所だ。その先の砂浜にパラソルが2列に渡って整然と立てられていて、さらにその先にビーチテントの列が6列ある。

 

テントは赤と青の縞模様が鮮やかな帯状の化繊布である。等間隔に立てられたたくさんの支柱の上にぴんと張り渡されているが、それぞれの長さは100メートルにも及ぶために絶えず海風をはらんで、ぱたぱたと小気味のいい音を立てる。

 

テントの下には、折りたたみ式の色違いの寝椅子が、2脚ないしは3脚で1組になってずらりと並べられている。1つのテントの下には合計50組もの椅子がある、1つ1つのパラソルの下にも最低2脚の椅子があるから、合計するとチカのビーチでは、1000人前後の人々が日陰の椅子に座ったり寝そべったりして、1日を過ごすことができる計算になる。

 

最前列のテントの前から波打際までの砂浜が、チカ家の管理外にあるいわゆる公共空間である。公共空間は、言うまでもなく
300キロメートルの海岸線のビーチの全体にある。そこでは散歩をしても日光浴をしても誰にも文句を言われない。ただし、大きな音を立てたり、ボール遊びをしたり、要するに他人の迷惑になるような行為をしてはいけないことになってる。

 

そんな決まりを守る気のある人間は一人もいない。

 

ミラノ訛(なまり)の言葉でまくし立てる10人ほどの若者のグループは、トランクの大きさほどもあろうかというオーディオ機器の音量を思いっきり大きくして、早くからディスコパーティーを開いている。

 

子供たちは、見て見ぬふりをする親や大人たちの態度に気をよくして、ありったけの声でわめきながら鬼ごっこをする。そのうちの一人が波打ち際を散歩中の老夫婦に体当たりを喰らわせる。かと思うと、日光浴をしているトップレスの女性の背中を思いっきり踏みつけて、隣の男の上にもんどり打って倒れる者がある。他の二人は、車座になってトランプをしている人々の間を突っ切って向こう側に逃げこむ。

 

ボール遊びをする者も多い。サッカーボールやビーチテニスの玉が右に左に飛び交って、男のサングラスをはたき落とし、金髪女性のビキニの尻を盛大に打ちつける。罵声と悲鳴と子供らの嬌声が間断なくつづく。

 

ビーチには物売りも多い。

 

「ココ・ベッロー! ココ、ベッロー!」と叫ぶのはココ(椰子の実)売りの若者だ。細かく割った椰子の実の入ったカゴを右手に、左手には水入れのバケツを持って、彼らは砂浜を行ったり来たりする。しばらく歩いて両手の荷物を砂に置き、バケツの水を手ですくってカゴの中のココに振りかける。そうしておけば、ココは取り立てのようにいつもつやつやして見える。歩いても立ち停まっても彼らは「ココ・ベッロー!ココ・ベッロー!」、と一番鶏の雄叫びみたいな声を競い合う。

 

クロワッサンに似た手作りのパンケーキを売り歩く女もいれば、蜂密をまぶして焼いた手作りのフルーツを売るキャンディ屋もいる。「ジェラート~、ジェラート~」と間のびした声を出して歩くのはアイスクリーム売りだ。手作りと称するテーブルクロスを両肩に山のようにかついで売り歩く男もいる。

 

明らかにアフリカ産と分かる女物のエキゾティックな装飾品を、箱に入れて売り歩く黒人もいる。生まれて間もないライオンの子を腕に抱いて、いっしょに記念撮影はどうか、と海水浴客にたずね歩くナポリ人もいる。ライオンの子は明らかに密輸入したものだ。

 

物売りの中で一番にぎやかなのはハワイ屋である。アロハシャツに椰子の葉の腰巻きを着て、頭には花輪をつけ、胸には真っ赤なレイと日本製の大型カメラをぶら下げて正装したハワイ屋は、バナナの葉で作ったジャングルの模型をリヤカーに積んで、「ハワイの記念写真はいかが~!」と日がな一日ビーチをねり歩く。

 

客がつくとハワイ屋は、小道具の花輪とレイと腰巻きをリヤカーから取り出して相手に着せ、さらにウクレレを片手に握らせる。ワイキキの海に見立てたアドリア海とジャングルのセットをバックに、ハワイ屋はカメラを構えて「はい、チーズ」と客に愛嬌を振りまく。ばか気たセットにはけっこう人が群がる。

 

ビーチの殷賑(いんしん)を耐え難い騒音の集積と見るか、開放的な活力と受け留めるかによって、リチョーネの海のバカンスは天と地ほども違うものになる。

ここはポポロ(大衆)の海だ。しかもイタリアのポポロの海である。彼らに静けさを要求するのは、日曜日には教会で神に祈れ、と日本人に要求するくらいに無駄だし不当なことだ。

 

憤然と立ち上がって若者や子供らを叱りつけ、ビーチに秩序を植えつけようとするドイツ人がたまにいる。しかし、イタリア人は馬耳東風に聞き流す。ドイツ人の言う秩序が、一歩間違えばヒトラーやムッソリーニのそれになりかねないことを大衆は良く知っている。


第2次大戦が終わって長い時間が過ぎた夏のバカンスにおいてさえ、ヨーロッパ人は戦争の記憶を頑固に胸の片隅にしまいこんでいる。大衆の知恵とはおそらくそういうものなのだろう。

 

ドイツ人のような勇気はなく、かといってイタリア人のように騒々しい寛大さも持ち合わせない僕は、1人そっと立ち上がって「カルロのバー」に行く。喉も渇いているが喧噪に少し疲れてきたから、冷えたビールでも飲んで一休みしたくなったのだ。

 

バカンスで疲れるというのは変な話だけれども、来る日も来る日もビーチで同じシーンがつづくと僕は日ごとに疲れていく。公共空間の騒ぎや売り子の押しつけがましい掛け声もそうだが、ビーチテントの下で隣り合った人々と付き合わなければならないわずらわしさが、僕をどっと疲れさせる。

 

付き合いというのはおしゃべりのことである。昼食の為に「マリネラ」に戻る2、3時間の休憩をはさんで、ビーチでは朝から夕方までぺちゃくちゃしゃべりまくっていなければならない。おしゃべりには男も女も関係がない。が、僕はイタリア語があまり話せない風を装って、ぺちゃくちゃはできるだけイタリア人の妻にまかせ、寝椅子に寝転がって人々の繰り言を黙りがちに聞いている、という形がほとんどだ。

 

しかしおしゃべりというのは、しゃべっている当人たちは好きでやっているからいいものの、無理やりにそれを聞かされている側は極端に疲れて行くものなのだ。

 

そんな訳で、少し長めに取るバカンスが終わりに近づく頃には、僕は1日のほぼ半分くらいを「カルロのバー」で過ごしたりすることにもなる。

 

僕は誰とも口を聴かずに「カルロのバー」で生ビールを飲みながらビーチでの付き合いの疲れを癒やす。飲むのはたいていドイツ製の「ワイスビア」。

 

ほんのりとビールの酔いが回るころ、ようやく僕の中にバカンスの大きな喜びが湧き上がってくる・・じわり、じわりと・・

 


ポポロの海 ②



僕らが行くのは、ベニスから南に200キロほど下った海沿いにある、リチョーネという町である。リチョーネは、今でこそアドリア海岸でも有数のリゾート地として知られているが、つい最近まで誰も目を向けることさえなかった鄙(ひな)びた漁村に過ぎなかった。

 ところがイタリアにリゾートブームが訪れると同時に、ボローニャやフィレンツェなどの都会に近い立地条件が幸いして、他の沿岸添いの村や町に先んじて急速に発展したのである。

僕らが逗留するのは、海から300メートルほど離れた場所にあるペンシオーネ「マリネラ」である。ペンシオーネは宿泊と食事をセットにして提供する施設で、ホテルよりもはるかに割安だから人気が高い。たとえば日本の旅館よりも気が張らず、ペンションよりも規模が大きくてホテル並の施設がある、というのがイタリアのペンシオーネの特長である。

「マリネラ」では、僕らはいつもアパート形式の部屋を借りることにしていた。居間を兼ねた大きめの寝室が一つと子供用のそれが一つ、さらにバスルームと小さな台所とベランダが付いている。しかし台所の入口には引き戸式の白いシャッターがかかっていて、僕らは使うことができない。それは10月から翌年の5月までの間に部屋を借りる人だけが使用することになっている。

つまりその期間中に部屋を借りる人は、自炊することが許されていて、「マリネラ」のレストランで食事をする必要がない。台所には料理と食事に必要な全ての用具はもちろん、冷蔵庫やコーヒーメーカー等も備わっているから、飲食の一切は自部屋で済ませることができるのである。 そうした設備は2、3日の休暇を過ごす場合には無意味かもしれないが、滞在が長ければ長いほど経済的には有利になる。

ヨーロッパの6月から9月はバカンスの最盛期である。「マリネラ」はその間は一つ一つの部屋の台所を閉め切って、宿泊客に飲食のサービスを強制して稼ぐ。こういう言い方をすると余り聞こえはよくないが、ペンシオーネというのは、宿泊と飲食をセットにして客に提供することで彼らの売り上げを伸ばすと同時に、一人一人のバカンス客の出費を少なくすることにも成功している。そういう訳だから、台所が使えなくても誰も文句は言わないのである。

毎朝8時から9時の間に「マリネラ」の食堂で朝食を済ませて、僕と妻と子供二人は海に向かう。砂利の敷かれた「マリネラ」の前庭を突っ切って行くと、門の両側にレバノン松の大木が枝を広げて影を落としている。下を通るとひんやりとした空気が感じられるほどの濃い大きな影である。

そこを抜けて外に出ると、バカンス用の賃貸アパートやホテルやペンシオーネや別荘などがひしめいているフラテロ通りがある。通りにはそれらの建物から吐き出された人々が、僕らと同じようにビーチに向かって思い思いに行進している。

色とりどりのバスタオルや帽子や海水パンツや浮き袋やビーチボールやビキニなどが、歩く人々にまとわりついて、肥大症の蝶のように中空を舞いながらアドリア海を目指す。

フラテロ通りは真っ直ぐに海に向かっていて、ビーチの手前で海岸通りと交差する。

海岸通りには陸側だけに建物が連なっている。レストランやカフェやバールやブティックと並んで、リチョーネの高級ホテルもほとんどこの通りにある。目の前の通りの片側がそのまま砂浜につづいている絶好の立地だからだ。

フラテロ通りと海岸通りの角には、歩道の一部を占拠して営業している「カルロのバー」がある。鉢植の木や草花をいきれる程にたくさん並べて歩道に囲いを作り、その中に水色のクロスにおおわれたテーブルが配置されている。テーブルクロスに限らず、椅子も灰皿も花瓶も店の表の装飾も何もかも、そこでは全てが水色に統一されていて、見るだけでも涼しい気分になる。

リチョーネのバーやカフェやレストランは、かならず独自のシンボルカラーやデザインを決めて店を飾りたてている。「カルロのバー」だけが例外というわけではない。大衆向けの、いわば二流のリゾート地と言ってもいいリチョーネの街だが、一つ一つの店の飾り付けは抜群にセンスがいい。陳腐な言い方だが、そういうところはやっぱりイタリア的だ。

通りすがりに見ると、「カルロのバー」の囲いの中には既に2組のドイツ人のグループがやって来て、ビールの大ジョッキをテーブルに並べて談笑している。

店の奥のカウンターの前にも水着姿の人々がたむろしている。それはビーチに降りる前に、エスプレッソコーヒーとクロワッサンで朝食を済ませようとするイタリア人たちだ。

カウンターの向こう側には、店の主人のカルロと奥さんのアンナが忙しく立ち働いている。

僕はビーチでの日光浴に飽きると、ひんぱんに海岸通りを横切って、「カルロのバー」に行って冷たいビールを飲む。そのせいでカルロと奥さんのアンナとは、僕はけっこう親しく口をきく間柄になっている。

あと2時間もすれば、僕は今日もカラカラに喉をかわかせて、美味いビールを求めてこの店に立ち寄るはずである。そのときには僕は、妻と子供たちのために冷たい飲み物とアイスクリームも買い求めてビーチに戻る。

海岸通りを突っ切って、僕らはチカのビーチに出る。チカというのは、ビーチの一区画を管理している一家の名前である。チカ家はリチョーネの町に権利金を支払って、ビーチの決められた場所にトイレやシャワーやパラソルやビーチテントなどの設備を作る。バカンス客は、チカ家からそれを借りてビーチでの一日を過ごす、という仕組みである。

イタリア・アドリア海の長い砂浜は、どこもおよそ百メートル単位の長さに区画されて、その一つ一つがチカのビーチと同じ形で整備され管理されている。

[~のビーチ]と名付けられた一つ一つの区画の設備は、「カルロのバー」と同様にそれぞれが個性的な色とデザインで統一されて存在を主張している。

ところがたとえば海の上や空から全体を眺めると、不思議なことに一つ一つがお互いに引き立て合いながらしかもきちんと調和しているという、これ又イタリア的としか言いようのない景色に変貌してしまうのである。

 



ポポロの海  ①



ベニスの南からアンコーナという町に至る、約300キロメートルのアドリア海沿岸地帯は、イタリアというよりも、おそらくヨーロッパ最大の夏のリゾート地と見なしていいと思う。

ヨーロッパで最大、というくらいだから、もちろんそこはいわゆる高級リゾート地ではない。

地元イタリアと、ドイツを中心とする北欧各国のふつうの人々、つまりサラリーマンやビルの守衛や郵便配達夫や学校の教師やデパートの店員や八百屋の主人夫婦や年金生活の老人・・・・、といった大衆(ポポロ)がどっと押し寄せて、夏のバカンスを楽しむ典型的な大衆リゾート地である。

しかしそこの一帯は、大衆リゾート地とはいうものの、ありとあらゆる施設が完璧に整備された、その意味では一級のリゾート地でもある。

日本の九十九里浜を連想させる(もちろんそれよりははるかに長い)広い砂浜海岸には、色とりどりのビーチテントやバンガローやパラソルや着替え用のキャビンが、びっしりと並んでどこまでもつづいている。

椅子や寝椅子をそろえたそれらの施設は、一定の間隔で区分けされていて、区分けされた一つ一つのグループが同一色に統一されているから見た目が実に美しい。

もっと具体的に言えば、ルキノ・ビスコンティ監督の古典的な名作「ベニスに死す」の中の砂浜のシーンが、300キロメートルにもわたってえんえんと続いていると考えればいい。

あの映画の中で美少年が砂浜に遊ぶとき、パラソルやバンガローと共に色あざやかな細長い布を屋根に張り渡しただけのビーチテントも登場する。

軽く風をはらんで小刻みにゆれるテントとそれを支える細い木柱の色合いは、誰にも真似のできないイタリア人独特の色彩感覚とデザイン感覚をさりげなく、しかも十二分に示していたと思う。

かつて一部の金持ちのためだけに存在したあの映画の世界が、今ではアドリア海沿岸の全域に広がっている。この現象は高級リゾート地が俗化したということではなく、ふつうの人々がそういう海で遊べるほどヨーロッパ社会が成熟した、と考えるほうが正しいように思える。

あの映画が一世を風靡した頃のヨーロッパの大衆は、たとえば今の日本人と同様に、何週間も仕事を休んで遊びほうける、ということはまずできなかったのである。

ビーチで遊ぶ膨大な数のバカンス客を迎える宿泊施設は、5ツ星のグランドホテルからキャンプ場のテントに至るまで、ありとあらゆるクラスのものがそろい、それに伴ってレストランやカフェやバーやスポーツセンターやヨットハーバーやルナパークやショッピングセンター等々の施設も自然に充実していく。

古都ベニスの海岸から派生したアドリア海のリゾート地は、そうやってイタリア最大の規模になりやがてヨーロッパでも最もにぎやかな夏の歓楽地になった。

子供が小さかった頃、僕ら一家はまだ人出の多くない6月を選んで、良くそこにバカンスに出掛けた。

6月なら人出が少ない分ホテルやビーチ施設の料金が安く、しかも梅雨のないイタリアの海はもうすっかり夏になっている。その上にこの国の6月は夏時間の真っ最中だから、日は長くて夜は涼しい。6月というのは、イタリアではバカンスを過ごすにはとてもいい季節なのである。

ただし人出が少ないとはいうものの、それは最盛期の7月と8月に比較しての話で、6月のイタリアのリゾート地はどこもかなりのにぎわいを見せる。6月から学校が休みに入る子供たちとその母親族と、最盛期の混雑を避けて早めの休暇に入る人々がどっとくり出すからである。

仕事が休めない父親を家に残して、子供と母親が先にバカンスに出かけるのは、イタリアでは極めてありふれた光景である。

家族を先にバカンスにやって、父親は週末だけせっせとそこに通うという訳である。僕はそれを勝手に「通勤バカンス」と呼んでいる<9月に会いましょう>。

6月のアドリア海沿岸には、イタリア人に加えて、ドイツ人をはじめとする北欧系の人々の数も多い。彼らは早期休暇に入る地元の人々と同じように、人出がピークになる7月と8月を意図的に避けて、夏の初めに長い休暇を取って南下してくるのである。

6月のイタリアの海でバカンスを過ごすのは、前述したように経済的な面を含めていいことずくめだ。それを見のがす手はない。いかにも合理的な国民にふさわしく、彼らは時間差出勤ならぬ、時間差休暇の制度を整えて、うまくそれを利用するようになった。

僕はイタリア人でもなく、ドイツ人でもなく、母親でもないのに、家族を引き連れてせっせと6月の海に出かけた。ないないずくめのついでに、まっとうな勤め人でもない、という僕の仕事事情があるからそういう芸当ができた。

ただ正確に言うと、実体は僕も週末だけ休暇中の家族の元に通う「通勤バカンス」者に近い部分もあった。それでも、フリーランスのテレビディレクターという立場上、割合に時間の融通がきくから、勤め人の「通勤バカンス者」よりも多く休むことができていたと思う。

僕は普段から休みに向けて人の3倍も4倍も仕事をこなす気で頑張ってきた。僕の仕事哲学は、当時も今も完全に「休むために仕事をこなす」ことだ。

それは少し功を奏して、不安定な職業ながら、いや、おそらく不安定な職業だからこそ、僕は長期の休暇を取ることにはかなり成功してきたように思う。

フリーランスの職業の場合「仕事をこなしてから休む」のでは、いつまで経っても思うような休みは取れない。「休むために仕事をこなす」ことが重要だ。

そして「休むために仕事をこなす」場合は、常にしゃかりきになって仕事をしまくっていなければならない。

組織に縛られずに自由に生きていくとは、必ず「組織人の労働量を凌駕する仕事をこなし続けること」と僕は自分の経験からはっきりと学んだのである。





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