【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

スカラ座初日の。また雪降りの日のことドモ。



雪&カテリーナ

2012年12月8日土曜日、朝6時半の気温-8度。最低気温は-10度。

 

昨日の夕方から降り始めた雪が積もって、外は一面の銀世界。


初雪ではないが、この冬一番の雪らしい雪景色。

 

ウサギのカテリーナが遊び、食べ、生きているブドウ園も、庭園も、屋敷周りも真っ白。

 

2012年12月8日 ブドウ園雪景色①

2012年8日 カテリーナの木
カテリーナお気に入りの木の下の芝も濃い雪化粧

2012年12月8日ブドウ園雪景色②

でも雪の積もらない廃屋や空間はたくさんあるから、彼女はきっとうまく身を護っているだろう。いつものように。

 

菜園

数日前から雪の予報が出ていたので、僕は一昨日初体験の仕事をした。仕事というか趣味というか、遊び。

 

豊作だった菜園のダイコンの多くを、訪ねてくれる友人達に進呈したあと、残りの全てを収穫して土中に埋めた。

 

そういう保存方法があると知ってはいたが、実際にやるのは初めて。埋めたのは大小20本余り。 


2012年12月1日~8日 009

形のいいのは友人らにプレゼントして、残ったのはいびつな形のものが多いが、それでも完全有機栽培のおいしいダイコン。捨てる訳にはいかない。

 

2012年12月1日~8日 011

葉を切り落として根の部分を下にして埋め、一部を逆に差し立てて埋めた。さらに数本は葉を付けたまま埋めた。どの形がより長く新鮮さを保つかの試み。

 

翌日、そこに予定通りに雪が降り積もった。今後少しづつ掘り起こして食べるか、春まで待って一斉に掘り起こしてみるか、ちょっと楽しみ。

 

スカラ座&イタリア危機


昨日、12月7日はミラノスカラ座のシーズン初日。例年のならわし。

 

昨年の同じ日、モンティ首相はナポリターノ大統領と申し合わせてオープニング公演に顔を出した。イタリア財政危機のまっただ中で、国民に苦痛を押し付ける経済緊縮策を発表した直後のパフォーマンスだった。

 

モンティ首相は今年もオープニング公演を観劇した。そこにはナポリターノ大統領の姿はなく、オペラ好きの首相のプライベートな時間というふうで大きなニュースにはならなかった。

 

モンティ内閣の誕生以来、毎日が緊縮財政策の発動と言っても過言ではない。だからあらためてニュースにならないが、イタリアの経済状況は深刻。

 

あらゆる緊縮策のうち、固定資産税や所得税等の加増がもっとも国民生活への影響が大きい。直接の打撃に止まらず、増税のあおりを受けての消費の低迷から景気の落ち込みが激しい。

 

妻の実家の伯爵家は、税金の支払いでもはや半潰れ状態。伯爵家よりも経済基盤の弱い(かつての)貴族家の中には、既に破産の危機にあるところも少なくない、との噂も。

 

今の税制があと数年も変わらずに続けば、妻の実家の伯爵家も潰れる可能性がある。モンティ政権の増税策はそれほど過酷だ。

でもそれはイタリア国家にとって必要なことだから仕方がない・・

 

 

ああ、ハルマフジ・・マジかよ、ドジだよ、恥ジなんだよ



「大関2場所連続全勝優勝」の勲章を引っさげて横綱になった日馬富士は、九州場所でまさか驚嘆なぜ?ビックリの5連敗。ついには9勝6敗のぶざまな成績で千秋楽を終えた。

 

大関2場所連続全勝優勝というのは、大相撲史上最強の横綱であろうあの双葉山と名横綱貴乃花の2人しか成し遂げていない大記録である。

 

僕はそれを踏まえて日馬富士が大横綱になる可能性があると考え、あちこちでそう書いたり発言したりもした。でも日馬富士は新横綱の場所で早くも挫折し、相撲ファンに大きな失望と不安を与えた。

 

横綱になって初めての場所で信じられないような醜態を演じたから言うのではないが、日馬富士が横綱昇進前の2場所を無敗で快進撃していた間も、どこかに常に頼りない感じを漂わせていたのは紛れもない事実である。

 

それは彼の軽量から来るものであったり、スピードを盲信した勇み足的な動きだったり、カッとなって攻めが乱暴になったりする戦い振りにあった。要するにどっしりとした安定感が欠落していて、見る者は常にハラハラドキドキしながら観戦する羽目になるのである。

 

勝ち続けている限りハラハラドキドキ感は決して悪いことではない。むしろそうあった方が観客は喜ぶ。たまに負けるようなケースもファンは許す。しかし、15日間の大相撲の本場所で横綱が5連敗もしては話にならない。それはブザマ以外の何ものでもない。

 

体重だけではない「軽さ」を克服しない限り、日馬富士は史上最悪の情けない横綱になる可能性もある。そしてそれは今にはじまったことではないのだ。

 

それでも僕は、日馬富士が秋場所の千秋楽で白鵬を倒して横綱昇進を決定的にした相撲を見て、彼が真に強い力士になったと心から思った。

 

その相撲で日馬富士は立会い鋭く踏み込んだものの、横綱白鵬のそれが勝って不利な態勢になった。直後、白鵬右四つの組み手の左を巻き変えて双差しになった。巻き変える動きは相手に付入る隙を与えることが多く危険だが、この時の日馬富士の動きは素早くしかも安定感があった。

 

それでも白鵬はさすがの横綱、日馬富士の態勢のわずかな乱れを見逃さず、チャンスと見て一呼吸置いたあとすぐに寄り立てた。そして日馬富士の腰がわずかに伸びた瞬間を捉えて、巻き変えられて上手になっていた右腕で強力な投げを打った。いつもの「軽い」日馬富士ならここでこらえ切れずに投げ飛ばされてもおかしくなかった。

 

ところが日馬富士はびくともしなかった。幕内最軽量の体重がまるで巨大な鉛のカタマリになったのでもあるかのように動じなかったのである。日馬富士はそのあと、攻めて攻めまくる、攻めの連続から振り回すような下手投げを打つ。こらえ切ろうとした横綱はイヤイヤをするように大きく回転したあと、地面に這いつくばった。

 

大一番の勝負の分かれ目、圧巻は、疑いもなく日馬富士が白鵬の上手投げをぐっとこらえた瞬間の重さ、強さだったと僕は思う。そこを見て、あ、日馬富士は白鵬とはホントに力が拮抗しているんだな、と僕は実感したのだった。

 

大横綱白鵬に匹敵するほどの「重さ」が加わった地力に、日馬富士独特の瞬発力を活かした立会いの鋭い当たりがさらに速く厳しくなれば、彼はたちまち同様に軽量だった千代の富士並みの大横綱だ!と僕はその時確信したものだった。

 

それなのに、ああそれなのに、フタを開けてみると新横綱の場所での仰天の大崩落。あまりの出来事に僕は脱力してしまった。まだ大横綱への道は開かれているとは思うが、けっこう悲観的な気分。

 

突然のようだが、彼が日本人女性を妻に選ばなかったことまで暗い材料に見えて仕方がない。今後もしも険しい道が続いた場合、良くも悪くも古い日本が凝縮されて存在する大相撲界で生きる彼にとっては、奥さんが日本人である方が何かと助けになると思うのだが。


実は、外国人力士は日本人女性と結婚したほうが為になる、というのが僕の独断と偏見に基づく持論である。

日本の心が分らずに不祥事を起し続けて、ついに引退にまで追い込まれたあの横綱朝青龍も、もしも日本人女性を妻にしていたなら、あるいは状況が変わっていたのではないか、とさえ僕は本気で考える。

その意味では、応援している大関把瑠都が、白人女性と結婚したのも気がかりである。ロシア人の奥さんは、たとえ日本が大好きだったとしても、把瑠都自身と同様に日本文化や人情の奥深い機微までは中々理解できないこともあるのではないか。

そういうとき逆に、しっかりとした日本人女性が配偶者なら、相撲の師匠の導きとはまた違う、内助の功的な助け舟を出すことができる。そこは日本の伝統と文化が充満する独特の大相撲世界。外国人が完璧に空気を読めるようになるまでには、相当の時間がかかるに違いないのだ。それどころか、あるいはそれは永遠に来ないのかもしれないのである。

九州場所で把瑠都が大関から陥落することが決まったのは、そのこととは恐らく関係がないだろう。しかし、長期的にはやはり何らかの影響が出てくるかもしれない、と考えるのはただの杞憂だろうか・・ぜひ杞憂であってほしいと思う。

ゲイのカップルが子供を持つことの是非、とか。またさらに。


先日結婚した僕の友人でゲイのカップル、ディックとピーターは同性愛者が子供を持つことに懐疑的である。

 

ただそれは僕のようにあれこれと勘案した上での結論というよりも、彼らが今実際に子供を持つとしたら、という前提での現実的な話だった。

 

友人のディックは僕よりも20歳近く年上である。パートナーのピーターは僕に近い年齢だが、それでも50歳を過ぎている。決して若いとは言えない。

 

そんな彼らが子供を持つのは「いろいろと大変」、だから養子を迎える気はない、というのが2人の一致した意見。

 

そして、その場合の「最も大きな大変」とは、やはり彼らの年齢が一番のネック、ということのようだった。

 

もし若かったら子供を持つか、という僕の問いにはディックがこう答えた。

 

「多分持たない。僕らが結婚した主な理由は、生きている間に法的にも社会的にも【普通の夫婦】と同じ扱いを受けたかったことと、僕が先に死んだときにピーターがスムースに遺産相続ができること、だったんだ。子供のことは考えてもみなかったよ」

と。

 

それじゃ、他のゲイのカップルが子供を持つことに対してはどう思うか、と僕はまた訊いた。それに対してはデッィクとピーターが口をそろえてひとこと言った。

 

「う~ん、難しい問題だね・・」

と。

 

察するに、2人は僕とほぼ同じ考えでいるのではないかと思う。

 

つまり

 

当然ながらゲイ差別に反対し、結婚を含む彼らの権利拡大を喜び、もしも彼らの仲間のカップルが子供を持った場合はこれを支持し、断固として子供を差別から守る立場に回る・・

 

「う~ん、難しい問題だね・・」

とつぶやくように言った2人の声音には、そんな意味合いが込められているように僕は感じた。

 

誰にとっても簡単には答えの出ない難しいテーマだと思うが、それでもディックとピーターのケースは同性愛者の友人の中では幸福な話であり環境なのである。

 

最近、長年連れ添った友人夫婦が、妻の同性愛問題で離婚した。またもう1組の友人夫婦は、息子の性同一性障害問題で悩んでいる。

 

性同一性障害は言うまでもなく同性愛とは異なるもので、病気の一種と診断される現象だが、どちらも誤解や偏見が多く、しばしば混同されて語られたりするのは周知の通り。


僕は先ず2組の不幸な友人夫婦について書こうとずっと考えてきたが、ペルー旅が飛び込み、さらにディックの結婚話が飛び込んだりして先送りになっている。

ここからもしばらく同じテーマで書き続けるか、あと回しにしようか、と思案迷い中・・

 

 

「余計なお世話」から生まれたゲイ差別は永久に余計なお世話だ



同性愛者が差別されるのは、さまざまな理由によるように見えるが、実はその根は一つである。

 

つまり、同性愛者のカップルには子供が生まれない。だから彼らは特にキリスト教社会で糾弾され、その影響も加わって世界中で差別されるようになった。

 

同性愛にしろ異性愛にしろ、子供ができようができまいが、そんなものほっとけ!というのが現代人の感覚だろうが、昔の人々はそうは考えなかった。それはある意味理解できる思考回路である。

 

子孫を残さなければあらゆる種が絶滅する。自然は、あるいは神を信じる者にとっての神は、何よりも子孫を残すことを優先して全ての生物を造形した。

 

もちろんヒトも例外ではない。それは宗教上も理のあることとされ、人間の結婚は子孫を残すためのヒトの道として奨励され保護された。だから子を成すことができない同性愛などもってのほか、ということになった。

 

しかし時は流れ、差別正当化の拠り所であった「同性愛者は子を成さない」という命題は、今や意味を持たずその正当性は崩れ去ってしまった。なぜなら同性愛者の結婚が認められた段階で、ゲイの夫婦は子供を養子として迎えることができる。生物学的には子供を成さないかもしれないが、子供を持つことができるのだ。

同性愛者の結婚が認められた時点で、彼らはもはや何も恐れるべきものはなく、宗教も彼らを差別するための都合の良いレッテルを貼る意味がなくなった。ゲイたちは大手を振って前進すればいいのである。事実彼らにとってはそういう生き方は珍しくなくなった。僕はそうした状況を良いことだと素直に思っている。

僕はこの前の記事で、話を分りやすくするために「ゲイの人たちは僕に対して何の迷惑もかけていない。だから僕には彼らを差別する理由がない」と書いた。それは飽くまでも分りやすいからそう書いたのであって、同性愛者・ゲイを差別する根拠に対しては、実は僕はそんなことよりももっと強い違和感を抱いている。

ゲイを差別するのは理不尽なことであり100%間違っている、というのが僕の人間としてのまた政治的な主張である。それはなんと言っても同性愛差別が「余計なお世話」以外の何ものでもないと思うから。

 

それでいながら僕は、ゲイの人たちが子供を成すこと、あるいは子供を持つことに少しの疑念も抱く。彼らが子供を持つというのは、自らの「権利」意識の表明でもあり、それは尊重されるべきことである。ところがその場合には、親となるカップルの権利ばかりが重視されて、子供の権利がきれいさっぱりと忘れ去られているように見える。僕はその点にかすかな不安を覚える。

陳腐な主張に聞こえるだろうが、全ての子供は生物学的な父親と母親を持つ権利があるのではないか、と僕は考えるのである。それでなければ、子供は成長するに従って必ず他の子供たちから、そして社会から「いじめ」や「差別」を受ける。それによって子供が蒙る被害は甚大である。 

 

たとえゲイの両親を持っていなくても、子供たちはあらゆる原因で差別やいじめに遭う。むしろそれが無いほうが珍しいくらいだ。それでも「ゲイの両親」を持つ子供への偏見や差別やいじめは、他の原因による場合よりも激しいものである可能性がある。

 

だからこそ、子供たちにいじめや差別を教え込む社会の歪みを正さなくてはならない。そのためには、今でも既に同性愛者を差別しない僕のような人間がさらに一歩進んで、彼らが子を成すこと、子を持つことも認めて、差別やいじめを否定しなくてはならない。同性愛者を差別しないと表明しながら、彼らが子供を持つことには反対、というのは論理の破綻であり偽善である。そればかりではない。

 

同性愛者が子供を持つということは、子を成すにしろ養子を取るにしろ、種の保存の仕方にもう一つの形が加わる、つまり種の保存法の広がり、あるいは多様化に他ならないのだから、ある意味で自然の法則にも合致するのではないか。否定する根拠も合理性もないのである。それだけでは終わらない。

 

自然のままでは絶対に子を成さないカップルが、それでも子供が欲しいと願って実現する場合、彼らの子供に対する愛情は普通の夫婦のそれよりもはるかに強く深いものになる可能性が高い。またその大きな愛に包まれて育つ子供もその部分では幸せである。しかし、今の社会の現状では、彼らが心理的に大きく傷つき追い詰められて苦しむ懸念もまた強い。ところがまさのそのネガティブな体験のおかげで、子供が他人の痛みに敏感な心優しい人間に成長する公算も非常に高いとも考えられる。

 

是々非々のそれらを全て勘案した上で、僕は今のところはやはり、同性愛者カップルが子供を持つことには積極的には賛成しない立場である。

 

繰り返しになるけれども、僕はゲイの皆さんを差別することはなく、彼らの子供たちに対しても偏見差別などしない。それどころか僕は必ずそれらの子供たちを慈しみ、他の「普通の」子供たちと分け隔てのない存在と見なし、又そう行動するだろう。僕の家族や友人知己にも僕の意見を浸透させる努力をし、あらゆる機会をとらえて同じような活動もするだろう。その上で、それでも「今のところは」やはり、彼らが子供を持つことには微妙に疑念を持つのである。

 

忌憚なく言えば、要するに「そこまでしなくてもいいのではないか」と心奥のさらに深いところで思う。

 

ゲイの皆さんは多くの困難を乗り越えて、ついに同性愛者同士の結婚が認められるところまできたのである。その喜びは2人の間で噛みしめ分かち合って寿げば十分ではないか。多くの混乱と苦悩を受け渡す危険がある「第三者の子供」を巻き込む必要はないのではないか。

この主張が同性愛者に厳しくかつ差別的な態度である可能性を恐れながらも、友人のディックが彼のゲイのパートナーと結婚したことを機会に、僕はこうして、あえて自らの意見を開陳しておこうと考えた。
  


忙中の記



異常気象とまで言われた暑い旱魃の夏のあと、再び異常な降雨と洪水をへて、イタリアは「普通に」冬になった。

 

日ごとに寒さが厳しくなっていく。

11月18日、日曜日。

木の下の白いポツン・・



カテリーナ2012年11月18日 004


カテリーナも寒さに参ったよう。


 カテリーナ2012年11月18日 018①


ブドウ園から庭先に入り込んで一日中じっとしていた。


カテリーナ2012年11月18日 022眠り

 

寒さがさらに厳しくなれば、人もメディアもまたまた「異常気象」と言い出すだろう。

 

ペルーの話の続き、同性愛者の話の続き、などを書きたいが例によって時間がない。

 

ペルーで撮影したビデオの編集が終わり次第書くつもりだが・・

 

写真はこうやって文章を端折るときに便利だ(笑)。

 

ペルーの写真がたくさんあるが、ブログに貼り付けようかどうか迷っている。

 

文章を書きたくないときに貼り付ければいいか(笑)・・などと考えつつ。

イタリア洪水、今年もまた北から南へ・・



イタリアの洪水は時期も所も昨年とほんとに似た形で進行している。

 

北のリグーリア州から始まって南に下り、フィレンツェからローマへと進撃中。

 

フィレンツェのあるアルノ川とローマのテベレ川も警戒水域に達した。

フィレンツェ近郊のグロセット県では昨日農夫1人が死亡した。

 

昨日の記事ではベニスの洪水(高潮)の模様を写真でも伝えた。水着姿の観光客が、大きく冠水したサンマルコ広場で遊ぶ様子である。

 

そこには危機感が無いように見える。しかし、それはある意味で開き直った観光客が広場でふざけているだけで、高潮時のベニスは苦難と危機のオンパレードなのである。

 

昨日のこのフィレンツェのように。

 フィレンツェ洪水① 


あるいは1966年の大水害時のこのフィレンツェのように。

 Alluvione_di_Firenze1966


鉄砲雨はイタリア半島をさらに南下して、島嶼部まで襲うと予想されている。

 

その動きは気味が悪いくらいに昨年のそれと酷似している・・

 

 


イタリア洪水、再びの。



イタリアがまた爆雷雨に襲われた。そこかしこで水害。洪水。

 

去年時期も場所も良く似ている。

 

昨年大きな被害のあったジェノバは今年は災害から外れたものの、同市のあるリグーリア州は再びの打撃。

 

リグーリア州には山が直接に海に落ちこむような険しい地形が多い。

普段は絶景の観光地だが、ひとたび大雨が来ると惨事をもたらすことが少なくないのだ。

 

ベニス沈下


恒常(慢性)的に水の被害を受ける、という点でリグーリア州に共通しているのがベニス。

 

ベニス高潮カフェ前回廊
ベニスの老舗有名店「カフェ・フローリアン」前の回廊


今回もサンマルコ広場を1メート49センチもの高さの高潮が襲った。

これは1872年以来では6番目のワースト記録。

 ベニス高潮2012-④
サンマルコ広場の観光客。この日の最低気温は10度前後。


周知のようにベニスは年々水没している。

ベニス高潮2012-②
サンマルコ広場を横切る観光客。

高潮が襲うのはまさにこの時期(11月~)。ここに始まり冬の間発生し続けるケースが多いのである。

ベニス高潮11-11-2012-①
サンマルコ寺院をバックに寒中水泳をする観光客のカップル。新聞のトップページを飾った


今夏、イタリアは「いつものように」異常気象に見舞われた

 

夏の猛暑と旱魃をこの国のメディアは異常気象と呼び続けている。

 

でも、もはやそれは毎年続く行事で「異常」は「通常」になっているように僕は思う。

 

夏の間、人々があれほど待ち望んだ雨は、今は嫌われもの。

 

異常気象ってホント?と僕はヘソを曲げてよく自問したりする。

 

 

 

友人でゲイのディックが結婚しましたが・・それがなにか?



なつかしくて楽しく、さわやかで嬉しいニューヨークの風を運んできてくれたディックとピーターが帰っていった。

 

ハリケーン「サンディ」の被害を気にしながら。でも、持ち前の明るさでそれを笑って否定し「何があっても大丈夫、なんとかなる」と互いに言い交わしながら。

 
2人はとても良い夫婦、ならぬ、良いカップルでありパートナーである。同性愛者への偏見、という摩訶不思議な色眼鏡をかなぐり捨てて見れば、きっと「同性愛差別主義者」でも僕の主張に頷(うなづ)くに違いない。

 

もっとも差別をする人間は、どうしても色眼鏡を捨てられないから「差別者」なんだけれど・・


ディックは人間として善良で、性格的に明るい、しかも優れたTVディレクターである。

 

それはかつて僕が、同僚として彼とニューヨークで付き合った経験から導き出した結論。

 

彼は以後も変わりなくそのように存在しつづけ、今、ピーターという生涯の伴侶を連れて僕を訪ねてくれた。

 

ピーターはディックに良く似た、いかにもディックにふさわしい連れ合いであるように見えた。つまり、善良で明るく、かつ細やかな神経の持ち主。

 

ディックは善良で明るいところは配偶者にそっくりだが、相当にアバウトで大まかな神経の持ち主なのだ(笑)。

 

だからこそ、彼はTVディレクターという仕事の分野では独創的になる、と僕は密かに思っている。それが陳腐な発想と批判されかねないのは承知している。でも、僕は本気でそう信じているのである。

 

それはさておき、このエントリーで僕が本当に話題にしたいのは、同性愛者の結婚について、ということである。

 

僕はゲイではないが、同性愛者に対してほとんど何の偏見も持たないし、もちろん差別もしない。彼らの結婚に対しても賛成である。

 

僕は今、同性愛者に対して【ほとんど】何の偏見も持たない、と言った。なぜ【全く】ではなく【ほとんど】なのかというと、僕は彼らの結婚には賛成だが、彼らが子供を持つということに対して、少し疑念を抱いているからである。

 

そして、そういう疑念を抱くこと自体が既に同性愛者への偏見、という考え方もできると思う。だから僕は今のところは、同性愛者に対して【全く】何の偏見も持たない、と胸を張って言うことはできないのである。

 

実はそのことについて、僕は今回ディックとピーターの2人と議論した。それはとても意義深いものだった。

 

それについてはまた書くが、僕はその前にゲイの人たちを偏見・差別する者に聞きたい。

 

「彼らはゲイであることであなたに何か迷惑をかけていますか?」
と。

 

彼らはゲイではない者に別に何らの迷惑もかけない。もちろん、家族や環境などの状況によっては、ゲイであることで波風を起すケースもあるだろう。しかし、そういう場合でも「先ず同性愛者への差別・偏見ありき」という事例がほとんどだと思う。

 

ゲイの人たちは僕に対して何の迷惑もかけていない。だから僕には彼らを差別する理由がない。

 

差別するどころか僕は、どちらかと言うとゲイの人々が好きである。

 

ディックをはじめとして僕には何人かのゲイの友人がいて、知り合いも少なくない。

 

そして多くの場合彼らは、ディックのように性格が明るくてユーモアのセンスに溢れ、才能が豊かである。

 

その逆のケースももちろんある。が、僕が知る限り、ゲイの人たちは面白くて有能な者である割合が高い、と感じる。

 

ただ僕が彼らを好きなのは、才能が豊かだからではなく、性格が明るくてユーモアがある、というのが主な理由だけれど。

 

元々そんな事情があるが、僕の大好きな友人のディックが、彼のゲイの恋人・ピーターと正式に結婚した。

 

25年という長い春を経て。

 

そして米ニューヨーク州が同性愛者の婚姻を正式に認める、という歴史的な変革を経て。


僕は20世紀最高峰のイタリアワイン、1997年物の「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」を開けて、妻と共にディックとピーターの結婚を祝った。

 
ブルネッロ引き


ほぼ15年の歳月をかけて熟成した赤ワインは絶妙な味がした。

ブルネッロ寄り①

25年の歳月をかけて愛を育て、結実した2人の友のように・・

ハートディック&ピーター&ボトル切り取り
          ディックとピーターとブルネッロ・ディ・モンタルチーノと

 



ディックとピーター



今、ニューヨークからわが家に遊びに来ている友人のディックはゲイである。

 

彼は先日、25年間付き合ってきた恋人のピーターと結婚した。今回のイタリア訪問はピーターを伴なった新婚旅行である。

 

僕は昨日までディックの結婚のことはもちろん、ピーターという彼のパートナーのことも知らなかった。

 

僕がニューヨークでディックと仕事をしていた頃は、彼がゲイであることはいわば公然の秘密だった。

 

秘密というのはちょっと語弊があるかもしれない。なぜならディックの「秘密」には何も暗いものはなく、また彼自身があえてゲイであることを隠している様子もなかった。

 

彼はごく自然体で生きていて、周りの人々が勝手に彼がゲイであることを察して憶測したり、噂をしたり、陰で軽く揶揄したりしている、というふうだった。

 

僕が知る限り、ディックが自らゲイであると周囲に宣言したことはなく、人々が彼にあえて「君はゲイか」と聞くこともなかった。

 

何が言いたいのかというと、要するに、そこは自由と寛容と闊達の風が吹くニューヨークである。ゲイなんて誰も問題になんかしていない、というのが真実だったと思う。

 

ディックとは25年ぶりに再会した。時どき連絡はし合うものの、なかなか会うことができずに長い時間が経ってしまった。

 

彼のイタリア訪問を知り、必ずわが家にも寄ってくれと誘った。その連絡の途中で彼が「恋人」と共にイタリア旅行をするらしいことを知った。

 

僕は気を利かせて(利かせたつもりで)、部屋は幾つ用意すればいいのか、と彼に聞いた。わが家は古い(不便な)大きな家で、部屋数が多いことは彼にも伝えてあったのである。

 

ディックは珍しく、あ~、う~、と口ごもりながら、できたら二部屋あったほうがいいかな、と電話で話した。

 

彼の要請どおりに隣り合った部屋を二つ用意した。

 

昨日午後、ディックとピーターを迎えた。妻もディックと会うのはニューヨーク以来である。

 

ディックとの再会、ピーターとの出会いを喜んでシャンパンを開けた。サラミを肴(さかな)に4人で祝杯を挙げ始めるとすぐに「実は」、とディックが切り出した。

 

今回のこの旅は新婚旅行なのだ、とディックは続けた。

 

僕ら夫婦は驚き、喜び、何度も何度も二人をハグした。ディックは僕らを驚かせるために、あえて結婚のことは話さず、部屋も二つ用意してくれと言ったのである。

 

昨日はシャンパンでの祝杯に始まり、夕食を挟んで大いに飲んだ。

 

今日は庭でバーベキューをする。

 

僕は温存している1997年物の赤ワイン、ブルネッロ・ディ・モンタルチーノを開けるつもりでいる。

 

1997年物のブルネッロ・ディ・モンタルチーノは、20世紀最高のイタリアの赤ワインである。ディックの結婚にはそのワインを開けるだけの価値がある、と僕は判断したのだ!

 


ペルー旅 ~序章~             



10月末、ペルーより生還。

 

日本⇔イタリア往復と良く似た時差ぼけのまっただ中にいる。

 

心身ともに「激しい」旅だった。


入国、リマ経由フアヌコまで 


現地時間10月9日早朝、マドリードを経由してペルーの首都リマに入った。

 

想像を絶するような空港近辺の混雑、渋滞。しかしどこかで見た光景。そう、どこかで何度も見た「想像を絶するような」カオス。

 

南米、東南アジア、インド、中東、ヨーロッパ・・最近ではギリシャの首都アテネでも同様の混雑を見た。それはたいてい貧困がもたらすもの。

 

リマの気候は米フロリダや沖縄あたりに良く似ている。花々や木々にも共通するものが多いようだ。

リマに1泊後、フアヌコへ。

途中で海抜4818メートルのティクリオ峠越えがある。高山病に備えて出発前にアスピリン一錠を服用。

 

長い険しい道程を経て無事に峠を越えた。アスピリンのおかげで少しめまいを覚えただけだった。わずかに息苦しさも感じた。

 

日本やヨーロッパで海抜5000メートル近辺の山に突然登ったら問題だが、赤道に近い南半球のアンデスの山々ではインパクトが少ないのだ。

 

2100mのフアヌクで2泊後、3600メートルにあるプンチャオへ。

リマ⇔フアヌクを凌駕する厳しく険しい道。

1000m~2000mの谷底がすぐそこに口を開けている断崖絶壁の山道を、7時間もかけて移動した。

 


プンチャオからサンルイスまで

PM2時ころプンチャオ着。

人口2千余の村。

道路にはロバと犬と羊と豚が溢れている。それはリマを離れて以来ずっと集落や路上や畑地などの「あらゆる場所」で見てきた光景。

しかし、集落の中で人とそれらの動物が一心同体のように暮らしているプンチャオ村の様子はさすがに面白い。

こんな風景は、日本では極端に貧しかった終戦直後のような時代でもなかった。日本の僻地などに見えた放し飼いの動物といえば、せいぜい鶏ぐらいではなかったか?

プンチャオ村にはもちろん鶏もいるが、羊やロバ、特に豚のインパクトが余りにも大きくて、僕の目にはほとんど印象づけられないのだった(笑)。

 

2晩滞在後、サンルイスへ。

マト・グロッソの雇い運転手ホアンの運転で。

そこまでで最も険しく危険な道程。

しかしホアンの安全運転振りに安心して、ビデオカメラを回し、さらに写真も撮り続けた。撮影は好調。

三脚もない小さなハンディカメラでのロケだが、ロンドンの映画学校の学生だったころ以来の本格カメラいじり。

撮影を続けながら、自分がやはりロケが好きなんだと実感する。

しかも思うことをカメラマンに伝えるわずらわしさがなく、自らが思い、決めたままをビデオに収める。

撮影技術はカメラマンには及ばずとも、思うことをそのまま実行する爽快感がある。

 

 

準備完了、いざペルーへ



明日はペルーに向けて出発する。

 

あれこれ準備に手間取ったが、どうやら完了。

 

準備にもっとも気を遣ったのはビデオのハンディカメラ。

わざわざミラノまで出て小型のHDカメラを購入した。その際はカメラマンのステファノとピーノに見立ててもらった。

 

今はどこにでもあるハイビジョン用の小さなカメラ。でもプロ中のプロのカメラマンの二人に言わせると、セミプロ程度の価値がある、とのこと。

 

僕はディレクターだから、カメラの性能にはほとんど興味がない。

 

いや、ディレクターだからカメラの性能には興味がない、という言い方はおかしい。正確には「僕はカメラの性能にはほとんど興味がないディレクター」である。

 

ディレクターとしての僕の仕事は、一にも二にも「アイデア」をひねり出すことである。

続いてそのアイデアを映像に焼き付けることである。

 

言葉を変えれば、アイデアという抽象を映像という具象に置き換えることである。

 

ビデオカメラはその手段に過ぎない。カメラマンはその手段を活かすオペレーターである。

カメラの性能を活かし又殺すのはカメラマンの仕事だ。

そしてディレクターである僕のアイデアが無くては、カメラの性能もカメラマンの腕もクソもないのである。

僕はひたすらアイデアを考え、それを映像にする道筋を考え続ける。それがあって初めてカメラもカメラマンも存在し活きていく。

 

僕はカメラの性能にはあまり興味がない。言葉を変えれば、カメラの性能にこだわっている時間などない、というのがディレクターたる僕の正直な気持ちである。

 

ペルーでは購入したビデオカメラを自分で回すつもりだが、足手まといになるようならさっさと写真撮影に切り替えるつもり。

たとえそれがカメラの性能に疎(うと)い僕の問題だったとしても。

だって僕はカメラマンじゃないのだから。

 

ハードよりソフト、技術よりアイデア、具象より抽象を追い詰めるのがディレクターである僕の仕事だから。


日馬富士よ、必ず品格高い横綱を目指してほしい


加筆再録


9月の大半は大相撲観戦に結構時間をつぶしました。日馬富士の綱取りが成るかどうか、はらはらしながら連日テレビの前に釘付けになったのです。ヨーロッパの日本衛星放送は、大相撲の本場所中は1日3回
NHKの相撲中継を流します。最初は朝9時(日本時間16時)から日本との同時生放送。午後になってそれの録画再放映があり、さらに夜は幕内の全取組みを仕切りなしで短く見せます。

5年振りの横綱誕生劇は実に面白いものでした。僕は元々日馬富士の横綱昇進を予想していましたが、彼よりも大関把瑠都の方が先に横綱になると考えたりしていましたから、完全な見込み違いでした。それでも相撲が大好きな僕は、久しぶりの横綱誕生が嬉しい。心が躍る。双葉山、貴乃花以来の大関2場所連続全勝優勝、という快挙を成し遂げて横綱になった日馬富士は、大横綱になる可能性を秘めていると思います。しかし、少し不安もあります。

2年前、幕内最高位にいた朝青龍が「横綱の品格」を問われて引退に追い込まれましたが、日馬富士はその朝青龍を慕い、彼に可愛がられていました。僕はそこに一抹の不安を覚えるのです。新横綱は、不祥事を次々に起して前代未聞の引退劇を演じた「朝青龍とは人物が違う」とは思うのですが、日本の心の深みに疎い外国人力士のままでいると、彼の慕う元横綱の二の舞を演じることがないとも限らない。日馬富士にはぜひ朝青龍に欠けていた「横綱の品格」を身につけて大横綱への道を歩んでほしいと思います。その願いを込めて少し意見を述べます。

-横綱の品格とは何か-

横綱の品格を問われつづけた朝青龍の引退騒ぎを、僕は当時衛星放送をはじめとする日本の各種メディアを通してずっと見ていました。その中で最も大きくまた真摯な態度で騒ぎを取り上げたNHKの特集番組では、元横綱の北の富士勝昭さんややくみつるさんなど、大相撲のご意見番とも呼べる専門家たちが、横綱の品格とは結局なんなのか分からない、という話に終始していて驚きました。不思議なことでした。鏡に顔を近づけ過ぎると自分の顔の輪郭が良く見えなくなります。それと同じように、日本国内にいると日本人自らの姿が良く見えなくなるのか、とさえ思いました。

横綱の品格とは、ずばり「強者の慎(つつし)み」のことだと僕は考えます。

この「慎み」というのは、日本文化の真髄と言ってもいいほど人々の心と社会の底流に脈々と流れている、謙虚、控えめ、奥ゆかしさ、などと同じ意味のあの「慎み」です。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という格言句に完璧に示された日本人の一番の美質であり、僕のように日本を離れて外国に長く住んでいる人間にとっては、何よりも激しく郷愁をかき立てられる
日本の根源です。日本人から年々慎み深さが消えていっている、といわれる昨今「何をオメデタイことを・・」と反論する人がいるかも知れません。しかし、それは間違いです。日本人は世界の水準で測れば、今でもはるかにはるかに慎み深いのです。

朝青龍は「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という日本の心が分からなかった。あるいは分かろうとしなかった。もしかすると分かっていたが無視した。そのいずれであっても同じことです。彼は日本人が最も大切にしている価値観、道徳を侮辱した。だから激しく非難されたのです。

慎みというのは実は、世界中のどの国に行っても尊敬される道徳律です。人は誰でも「実るほど頭を垂れる者」を慕う。そして実った人の多くが頭を垂れるのが世界の現実です。たとえばイタリア映画の巨匠フェリーニは、僕が仕事で会った際「監督は生きた伝説です」と真実の賛辞を言うと「ホントかい?君、ホントにそう思うかい?嬉しい、嬉しい」と子供のように喜びました。またバッジョやデルピエロなどのサッカーの一流選手も、仕事の度に常に謙虚で誠実な対応をしてくれました。頂点を極めた真の傑物たちは皆、実るほどに頭を垂れるのが普通です。「慎み」は日本人だけに敬愛される特殊な道徳律ではない。真に国際的な倫理観なのです。

相撲には、他のあらゆるスポーツと同様に我われ人間の持つ凶暴さ、残虐性、獣性などを中和する役割があります。同時に、他のスポーツ以上に、それと対極にある思いやりや慎みや謙虚も「演出すること」が求められています。

相撲は格闘技である。強ければそれでいい。慎みや謙虚などというのは欺瞞だという考え方もきっとあるでしょう。しかし相撲は、プロレスやボクシングや総合格闘技などとは違って、最も日本的な伝統と型と美意識を持つ「儀式」の側面を持つスポーツでもあります。そこでは常勝が当たり前の「強者横綱」は、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という日本精神の根本を体現することを強要されます。それが相撲の文化なのです。文化ですからそれは特殊なものであり、普遍性が命の文明とは違って、特殊であること自体に価値があります。

朝青龍は優れたアスリートでした。また疑いなく大鵬、北の湖、千代の富士、貴乃花などの大横綱と肩を並べる存在でもありました。僕は個人的には朝青龍の明るさが好きでした。さらに言えば、土俵外での彼の奔放な行動も、多くが許せるものだったと思います。引退の直接の原因となった泥酔・暴力事件は言語道断ですが、それ以外の不祥事の多くは、破天荒な性格の彼が羽目をはずした、という程度の出来事がほとんどだったように思うのです。しかし、土俵上での態度は横綱の品格を貶めるものも少なくありませんでした。特に勝負が決まった後の動きがそうでした。

たとえば、強い横綱だった朝青龍には、せめて倒した相手にダメを押すような行為を慎んで欲しかった。勝負が決まった後の一撃は、見苦しいを通り越して醜いものでした。そしてもっと無いものねだりをすれば、倒れ込んでケガでもしたかと思うほど参っている相手には、手を差し伸べる仕草をして欲しかった。

その態度は最初は「強制された演技」でも「嘘」でも「欺瞞」でも良かったのです。行為を続けていくうちに気持ちが本物になっていく。本物になるともはや演技ではなくなり、じわりとにじみ出る品格へと変貌します。

強くて明るくて個性的な横綱朝青龍は、そうやっていつか品格高い名横綱に生まれ変わる筈でした。しかし彼は「横綱の品格」を求める多くの日本人の心性が何であるのかを少しも理解できないまま、ついに引退にまで追い込まれてしまったのでした。新横綱日馬富士がその轍を踏まないように強く願いたいと思います。 

 

ペルーまで。ウーゴさんを訪ねて。



今年の夏の慈善事業が昨日、9月29日でほぼ終わった。

 

昨日の仕事は正確に言えば慈善事業ではなく、伝(つて)を通して要請があった歴史的建造物保存会の人々に伯爵家を公開することだった。

 

夏の間は伯爵家では、慈善コンサートや展示会などの催し物のほかに、そうした社会奉仕活動がしきりに舞いこむ。主に妻がそれらの仕事をこなすが、伯爵家の家族の多くが亡くなりまた老いた今は、僕も妻の手伝いに狩り出されることが多くなった。

 

伯爵家にまつわるそれらの役回りは妻の義務である。妻の義務なので僕は黙って彼女に協力する。義務でなければ、おそらく事情は少し違っていただろう。

 

10月8日にペルーに行くことが決まった。ウーゴさんに会いに行くのだ。

 

ウーゴさんとは、今年88歳になるウーゴ・デ・チェンシ神父のこと。彼はマト・グロッソという慈善団体の創始者である。

彼を慕うマト・グロッソのボランティアたちは、神父さんと言う代わりに皆「ウーゴ」と彼を実名で呼ぶ。だから僕も時どき彼らにならう。

 

マト・グロッソには妻も僕も関わりがあって、わが家でのチャリティーコンサートなどは彼らが仕切って開催される。

 

昨年、わが家で催した東日本大震災支援チャリティーコンサートも、マト・グロッソのボランティアの皆さんのおかげで成功裡に終わった。

 

今年は、例年通り6月に南米支援の慈善コンサートを行い、ペルーからイタリアに帰国していたウーゴさんもわざわざ駆けつけてくれた

 

その時に、ペルーに来ないかとウーゴさんに誘われた。僕らは喜んで行くと答えた。

 

問題があった。マト・グロッソの責任者のブルーノが、果たして僕ら夫婦とともにペルーに行けるかどうかがはっきりしなかった。ペルーでは主に山中で活動するマト・グロッソの施設を訪れることになる。マト・グロッソの誰かの案内がなくては難しかった。

 

ブルーノは妻のヴィカと共に重度の障害を持つ息子の世話をしながら仕事をし、マト・グロッソの事業にも関わっている。どこで、どのように時間が取れるかはっきりしなかった。

 

ところが障害を持っている息子のキーコが先日亡くなった。ブルーノ夫妻は36年振りに息子の世話から解放された。

 

悲しみは悲しみとして受け留めつつ、ブルーノとヴィカは息子キーコの死を淡々と見つめた。36年の苦しい年月を生き抜いた息子を誉め讃え、慈しみ、そして見送った。

 

そんな思いがけない展開があって、ブルーノはヴィカと共にペルー行きを決めた。36年振りの夫婦旅行だという。これまでは旅行の機会があっても、どちらか一方が必ずキーコの側にいなければならなかったのだ。

 

そうやって、僕ら夫婦とブルーノ夫婦の4人でウーゴさんに会いに行くことにした。

ブルーノとヴィカは僕ら夫婦よりも年上だが、とても気が合う。その上に僕は彼らの自己犠牲の精神にいつも頭が下がる思いでいる。彼らと旅行できるのは腹から嬉しい。
 

今回の旅にはハンディカメラを持って行くつもり。ウーゴさんとマトグロッソの活動の模様を撮影しておこうと思う。

 

リサーチのつもりだが、ブルーノか誰かに頼まれれば一本の作品にまとめることがあるかもしれない。カメラマンを伴なわないロケだから、たいした絵は撮れないとは思うが・・

 

イタリア戻りは10月26日。戻るとすぐにアメリカ・ニューヨークからの友人を迎える。ディック・ブリリア。優秀なTVディレクター兼プロデュサー。

アメリカ生まれのTV番組「どっきりカメラ」の現代版の創始者の一人である。

 

ニュヨークでは同僚として共に仕事をし、同時に先輩でもある彼からはずい分多くのことを教わった。

 

再会がとても待ち遠しい。

 

 

領土という武骨、秋言葉という風雅


加筆再録



尖閣、竹島、北方四島・・

ここところ、それらを思う度に心が昂ぶり体が戦闘的になるような気がします。自分自身も、また故国日本全体の世論も、ここ数週間ですっかり「兵(つわもの)振り」が身についたようにも見えます。

それはそれでいいのですが、日本には勇猛な武将でさえ花を活け和歌をたしなむ、という文武両道、硬軟融和の伝統もあります。国難を見て心が騒ぐ今こそ、その繊細な文化を思い出してみるのも一興かも知れません。

ここ北イタリアは9月の声を聞くと同時に涼しくなり、今はもうすっかり秋です。異常気象とまで言われた8月の猛暑が遠い昔のようです。秋の日はつるべ落としと言いますが、この国では秋そのものがつるべ落としに素早くやって来て、あっという間に過ぎ去ります。印象としては夏が突然冬になります。

日本の平均よりも冬が長く厳しい北イタリアですが、短い秋はそれなりに美しく、風情豊かに時間が流れて行きます。ところが、イタリア語には、枯れ葉、病葉(わくらば)、紅葉(こうよう)、落葉、朽ち葉、落ち葉、木の葉しぐれ、黄葉、木の葉ごろも、もみじ・・などなど、というたおやかな秋の言葉はありません。枯れ葉は「フォーリア・モルタ」つまり英語の「デッド・リーフ」と同じく「死んだ葉」と表現します。

少ししとやかに言おうと思えば「乾いた葉(フォーリア・セッカ)」という言い方もイタリア語には無いではない。また英語にも「Withered Leaves(ウイザード・リーブ)」、つまり「しおれ葉」という言葉もあります。が、僕が知る限りでは、どちらの言語でも理知の勝(まさ)った「死に葉」という言い方が基本であり普通です。

言葉が貧しいということは、それを愛(め)でる心がないからです。彼らにとっては「枯れ葉」は命を終えたただの死葉にすぎない。そこに美やはかなさや陰影を感じて心を揺り動かされたりはしないのです。山に行けば紅葉がきれいだと知ってはいても、そこに特別の思い入れをすることはなく、当然テレビなどのメディアが紅葉の進展を逐一報道するようなこともあり得ません。

ただイタリア人の名誉にために言っておくと、それは西洋人社会全般にあてはまるメンタリティーであって、この国の人々が特別に鈍感なわけではありません。

それと似たことは食べ物でもあります。たとえば英語では、魚類と貝類をひとまとめにして「フィッシュ」、つまり「魚」と言う場合があります。というか、魚介類はまとめてフィッシュと呼ぶことが多い。Seafood(シーフード)という言葉もありますが、日常会話の中ではやはりフィッシュと短く言ってしまうことが普通です。イタリア語もそれに近い。が、もしも日本語で、たとえひとまとめにしたとしても、貝やタコを「魚」と呼んだら気がふれたと思われるでしょう。

もっと言うと、そこでの「フッィッシュ」は海産物の一切を含むフィッシュですから、昆布やわかめなどの海藻も含むことになります。とは言うものの、欧米人が海藻を食べることはかつてはなかったのですが。タコさえも海の悪魔と呼んで口にしなかった英語圏の人々は、魚介類に疎(うと)いところが結構あるのです。

イタリアやフランスなどのラテン人は、英語圏の人々よりも多く魚介に親しんでいます。しかし、日本人に比べたら彼らでさえ、魚介を食べる頻度はやはりぐんと落ちます。また、ラテン人でもナマコなどは食べ物とは考えないし、海藻もそうです。もっとも最近は日本食ブームで、刺身と共に海藻にも人気が出てきてはいますが。

多彩な言葉や表現の背景には、その事象に対する人々の思いの深さや文化があります。秋の紅葉を愛で、水産物を「海の幸」と呼んで強く親しんできた日本人は、当然それに対する多様な表現を生み出しました。
 
もちろん西洋には西洋人の思い入れがあります。たとえば肉に関する彼らの親しみや理解は、われわれのそれをはるかに凌駕(りょうが)する。イタリアに限って言えば、パスタなどにも日本人には考えられない彼らの深い思いや豊かな情感があり、従ってそれに見合った多彩な言葉やレトリックがあるのは言うまでもありません。

さらに言えば、近代社会の大本を作っている科学全般や思想哲学などにまつわる心情は、われわれよりも西洋人の方がはるかに濃密であるのは論を待たないところだと思います。

と、書き進めても、領土問題の解決には何も役には立ちません。が、逆に領土問題も人の心の琴線を振るわせる何の役にも立ちません。むしろ心を昂ぶらせ、すさませ、虚しくさせる。領土問題ではどうしても気持ちが武闘的になります。その行き着く先は戦争です。戦争などあってはなりません。従って、やはり、われわれは中国その他の国々との問題を平和裏に解決しなくてはなりません。そのためには荒ぶる心を鎮める必要がある。その方法は多々ありますが、陳腐なように見えてもやはり、花や紅葉を愛でる日本の伝統文化に思いを馳せることなどもその一助になる、と考えたりするのはただのこじつけでしょうか。

ブログは自慢話のオンパレード?



渋谷君ではない僕の親しい人が「ブログは全て自慢話に見える」と連絡をくれた。

 

正直、僕の最初の反応は「???・・」だった。

 

それはブロガーの中には自慢話が好きな人もいるだろうが、全てのブログが自慢話というのはおかしいだろう、と思った。

 

僕自身も自慢話を書いているつもりはない。自慢話をするなら、これは自慢話だが、と断ってから書き出すと思う。

 

しかし、そのつもりがなくても、読者から見ると結局自慢話めいたものになったり、自己満足や我田引水的な主張に過ぎない話などもきっとあるに違いない。

 

でもそれは、何をどう書いても見る人によってはそういう風に見えるものだから、考えても仕方がない。と、僕は割り切っている・・

 

僕の反応「???・・」の中身を分析すると、およそそんな感じになる。

 

それで終わりかと思ったら、意外にも自分の中で引っかかっていて、考え続ける羽目になった。

そして、考えたら、「ブログは自慢話」という見方はあながち的外れなものではない、と気づいた。

 

ブログを書くとは表現をすることである。表現をするとは、自分を分ってもらおうとする行為である。

文章、絵画、音楽、劇作、建築、アートetc etc・・あらゆる芸術表現は、人の「自分を知ってほしい」という切実な願いから出ている。

 

自分を知ってほしいのだから、それは自分の自慢話になるのが落ちである。

 

自分の嫌なところ、醜いところ、暗いところを敢えて他人に伝えたい者はいない。特に個人的な表現手段であるブログではその傾向は強いと考えられる。

 

敢えて自らの醜悪な部分や心の闇も描くとそれは文学になる。

そしてその文学も、僕の親しい人の見方に固執して考えると、やはり自慢話である。

 

なぜなら暗部も含めた己自身をさらけ出すことによって、作者はやはり自分を他人に分かってもらいたいのであり、しかも己のネガティブな側面も正直に描き出すことで読者の共感を得たい、と願っている。

正直な人間、誠実な人間、己の全てをさらけ出す勇気ある人間・・などと評価されたいと密かに切望している。

 

だから、それはやっぱり自慢話なのである。

 

そうと分ったら、開き直って「自慢話」を書き続けてやる、と僕は決意した。

ような・・・

かも。

 

世界に感染拡大しようとする中国の蛮声 



昨日、中国の反日デモに関して在ミラノ領事館から次のような知らせがありました。北イタリア在住の邦人全員に送られたメールです。

--------------------------
「尖閣諸島国有化に反対する中国人による抗議活動」

北イタリア治安情勢通報(2012年・第10号)
~ミラノ市内における抗議活動に関する注意喚起~

 今般,尖閣諸島国有化に反対する当地中国人により,ミラノ市内において抗議活動が行われるとの情報を入手しました。実施日時・場所及び注意事項について以下のとおりお知らせします。

1.実施日時
  2012年9月18日(火)14:00~16:00の間

2.実施場所
  ミラノ市内レプッブリカ広場周辺

3.注意事項
○抗議活動が行われている場所へ近づかない
 抗議活動が予定されている当日にレプッブリカ駅及びその周辺へ出かける予定のある方は,抗議活動等が行われている場合,必ず迂回する等して抗議活動が行われている場所を避けるようお願いします。抗議活動が行われている直近を通行した場合,抗議活動参加者から罵声を浴びせられたり,暴行等不測の事態が発生する可能性もありますので,興味本位等で近づくことのないようご注意願います。

○又,当日当館に来られる予定の方は,周囲の状況に気をつけて下さい。

平成24年9月17日 
在ミラノ日本国総領事館

--------------------------

華僑を始めとするイタリア在住の中国人が、ミラノの中心地の共和国広場で反日デモを行なう、という。中国人のしつこさと熱いほどの行動力にうんざりし、やがて暗澹たる思いに捉われました。

その思いは二つの理由によっています。一つは今言った中国人の行動への疎ましさ。もう一つはわが国政府の無能、つまりコミュニケーション力の欠落と外交音痴ぶりへのがっかり感、脱力感。

多くの国のメディアや専門家が指摘しているように、反日デモは中国政府筋あるいは権力筋の肝煎りで行なわれていると見るべきでしょう。海外在住の中国人にまで彼らの管理統制は及んでいると考えられる。だからミラノでも反日デモが組織化されたのです。

ミラノには華僑が集中するチャイナタウンがあります。そこは無法地帯としてイタリア人の不評を買ったりもします。チャイナタウンをミラノ郊外に丸ごと移転させようとする計画さえあります。イタリア政府は世界のあらゆる国々と同様に、中国の経済力を無視できずにかの国に擦り寄る態度もときどき見せます。

しかし、ミラノに限らずイタリア国民の多くが、中国人に不信や苛立ちを感じているのも事実です。その原因の多くは、彼らが圧倒的な人数でこの国に押し寄せているにもかかわらず、全くと言って良いほどイタリア社会に溶け込まないことにあります。

彼らの反日デモは恐らく異様な出来事としてイタリア人の目には映るでしょう。従ってそれほど心配するには及びません。しかし、それでも、デモを異様と感じたイタリア人の中には例えば、せめてデモの意味を知ろうとする者や、また何とかそれを理解しようと努力する者、あるいはそれをきっかけに日中の確執に興味を抱き始める者等々も出て来るでしょう。そうなればそれは、デモを起した中国人たちの勝利です。

我われ日本人から見れば理不尽なことが多い彼らの主張は、それらの何も知らないイタリア人たちの関心を引き、しかもその関心は中国人側のフィルターを通して形成される確率が高くなります。なぜなら主張しているのは我われではなく中国人だから。そして、そうしたことの積み重ねが、国際世論に影響を及ぼす可能性は決して低くないのです。

彼らの策動に対抗するためには、日本政府が動かなくてはなりません。騒ぎを起せ、ということではなく、中国政府と国民に毅然として相対する一方で、世界に向けて我われの真実と言い分を喧伝しなければならないのです。世界中のメディアに「金をかけて」広告や主張を掲載し、各国政府に働きかけ、政財界のあらゆる伝を使ってわが国の立場を強く申し立てていかなければなりません。つまりコミュニケーションの構築です。黙っていてはいけないのです。好むと好まざるにかかわらず、主張する者が勝つ、或いは認められる。それが国際社会です。

でも政府民主党は党首選挙でそれどころではないようですし、自民党も同じ。一体いつになったら内向きの姿勢を正して、外に向けても働きかけることのできる政権や政治家が出て来るのか疑問です。反日デモはそのうち収まるでしょうし、また収まってほしいと願いますが、領土問題だけに限らず日本が国際社会に向かって主張し対話をし続けなければならない懸案は、今後も決して無くなることはありません。これを一つのきっかけに、世界と楽に対話のできる国造りを目指し、今回の騒動もまんざら捨てたものでもなかった、と誰もが将来笑い合えるようになることを祈りたいと思います。

観光産業の落とし穴~能動的であるべきか否か~




北イタリアのガルダ湖は、イタリア最大の湖である。その周りには、南アルプスの連山と北部ロンバルディア州の豊かな森林地帯が迫って、青い湖面に影を落とす。それは幾層もの緑の帯となって湖水深く沈み、大湖をさらに重厚なエメラルド色に染め抜く。


湖畔には観光客が愛してやまない景勝地がたくさんある。DHローレンスやゲーテなどの大作家も讃えた、例えばシルミオーネ、ガルドーネ、サンヴィジリオ、マルチェージネ等々、おとぎの国のような美しい村々。そうした湖畔の集落は、芸術家たちが住んだり旅をしたりした当時とほとんど変わらない姿で今もそこにある。


イタリアは周知の通り世界でも屈指の観光大国である。
国中に数え切れないほど存在する古都や歴史遺跡や自然や人や文化や食や産業が、世界中の観光客を引き付けてやまない。

この国の観光資源は大きく分けると二つある。一つはローマやベニスやフィレンツェなどに代表される数多くの歴史都市とそこに詰まっている文化芸術遺産。もう一つは豊かな自然に恵まれた海や山や湖などのリゾート資源である。

この二大観光資源のうち、歴史都市の多くには黙っていても観光客が訪れる。そこはいわば「受け身の観光地」という捉え方もできる。受け身でいても良い観光地の人々は、極端に言えば何もしない。何もしなくても、彼らが「もうこれ以上来てくれなくてもいい」と密かに陰口を叩くほどの訪問客が毎年ある。先に挙げた3都市などはまさにそういう場所だ。

しかし夏のバカンス客や冬場のスキー客、あるいはその他の旅人を相手にするリゾート地の場合は、自ら客を呼び込む努力をしない限り決して土地の発展はない。イタリアのリゾート地の多くはその厳しい現実を知りつくしていて、各地域がそれぞれに知恵をしぼって客を誘致するために懸命の努力をしている。そこは言わば「攻め気の観光地」、つまり住民の自発性が物を言う観光地である。

僕はそうした人々の努力の一環を、30年近く前に初めて訪れたガルダ湖で目の当たりにして、驚いたことがある。そのときの旅では遊覧船に乗って湖を巡ったのだが、最初の寄港地であるガルドーネという集落に船が近づいていったときの光景が、今も忘れられない。

遊覧船が近づくにつれてはっきりと見えてくる湖岸は、まるで花園のようだった。港や道路沿いや護岸など、町のあらゆる空間に花が咲き誇っているのが見えた。そればかりではなく、湖畔に建っている民家やカフェやホテルなどの全ての建物の窓にも、色とりどりの花が飾られている。まるで一つ一つの建物が花に埋もれているかのような印象さえあった。

船がさらに岸に近づいた。そこで良く見ると、花は窓やベランダに置かれているのではなく、鉢や花かごに植えられて、窓枠やベランダの柵に「外に向かって」吊り下げられている。要するにそれらの花々は、家人が鑑賞し楽しむためのものではなく、建物の外を行く人々、つまり観光客の目を楽しませるために飾られているのだった。

南アルプスのふもと近くに位置していることが幸いして、ガルダ湖地方には歴史的にドイツを始めとする北部ヨーロッパからの訪問客が多く、観光産業が発達してきた。そのため住人の意識も高く、誰もが地域の景観を良くするための努力を惜しまない。町を花で埋め尽くす取り組みなどはそのひとつで、観光地のお手本とされ、今ではイタリアのどこのリゾート地に行っても当たり前に見られる光景になった。

突然話が飛ぶようだが、世界の観光地の中には、受動的であるべきか能動的であるべきかの区別がつけられずに、四苦八苦している美しい土地が結構あるように思う。一例を挙げれば、僕が知る限り日本の南の島々の一部もそうである。それらの島々には例えば、古代ローマ時代からルネサンスを経て現代にいたる、イタリアの偉大な歴史遺産に匹敵する観光資源は残念ながらない。しかしガルダ湖などに代表される、イタリアのリゾート地に勝るとも劣らない観光資源なら大いにある。言うまでもなく美しい海がそうであり、冬でも暖かい気候がそうである。

そこを活かして、観光客を「楽しませ」「遊ばせる」ための自発的な行動や施策や方針や活動が必要なのに、何を勘違いするのか、地元の人々は良くムラの遺跡や文化にこだわって、観光客を呼ぶためにまずそれらのひどく「ローカルな文物」を整備しようと躍起になったりする。それらの伝統はもちろん重要である。しかし観光客はほとんどの場合、そうしたものを見るために島に足を運んだりはしない。島の自然を遊ぶために訪ねて行くのだ。その後で時間があり、しかも気が向けば歴史観光もするかもしれないという程度のものだ、と話してもなかなか分ってくれなかったりするのである。

同じようなことはイタリアでも起こる。例えば僕の住むここ北イタリアの村は、前述の日本の島のように自然豊かで、且つイタリア特産のシャンパン、スプマンテの産地としても知られる。村役場は観光客の誘致に力を入れていて、ひんぱんに祭やイベントを催したりして頑張っている。観光課の責任者たちと話をする機会が良くあるが、彼らは村の今の特徴を真っ先に考えるべきところで、一律に「文化」や「歴史」にこだわってしまい、大観光地のフィレンツェやローマを真似て歴史遺産を観光の目玉にしたいと考える者が多い。また実際に、村の貴重な税金を使って、古い建物や遺跡の整備をしたりもする。

でもそうした活動は、「村の住民の心を豊かにする」ために為されるべきことであって、「観光客の誘致」という観点からは余り意味がない。そこで整備・改善されて村人の心を癒やし続けた「村の文物」はやがて将来、長い時間の経過の後で、フィレンツェやローマの歴史芸術にも匹敵する観光資源となるかもしれない。が、旅人にとっては今のところは、例えば「未知の土地のわずらわしいオブジェや田舎の美意識の過剰な表出」のようなものでしかない、というケースも結構あるのだ。

イタリアには主要歴史都市以外にも、歴史文化遺産を多く抱える町や村や地域が吐いて捨てるほどある。だから僕が住む無名の村にあるような文化遺産では、訴求力が弱すぎて人は呼べないと思う。それよりも、例えば村域にある広大なブドウ園を結んで遊歩道を築いたり、各ワイナリーと提携して常時試飲会を開いたり、販売促進イベントを開催するなど、地域の特徴を活かすべきではないかと僕などが話すと、なるほど良いアイデアだと頷いたりするものの、中々そうした方向には動かない。ムラ人たちはいつも、歴史的観光都市や地方への密かな憧れと劣等意識を抱え込んでいて、その反動で「ムラの文化や歴史」にこだわり過ぎてしまうきらいがある。だから村の観光事業は、いつまで経っても滑走離陸しない場合が多いのである。

 


雨、テンポラーレ、カテリーナ、たち・・



シリアの話、マフィアの動き、終わったばかりのオリンピックこぼれ話、英王室がらみ、一年前から書く計画の「今のところ」のあれこれ・・

 

と、書くべき或いは書きたいテーマは多くあるのに、天気のことが気になってしょうがない。

 

というか、天気のことを書いておきたい。記録或いは記憶用に。

 

昨日(9月5日水曜日)も雨。

 

乾ききった長いcaldoafricano(アフリカ暑熱)への反動で、一度雨が降ると止まらなくなって降り続くのではないか、という人々の予想は今のところはハズレに見える。

 

でも、まだ分らないけれど。

 

今夏、もっとも僕の印象に残っているのは、異常と形容してもいいような暑さや乾燥ではなく、激しい雷雨を伴なって暴力的に吹く風(僕が豆台風と勝手に名付けている)、テンポラーレがほとんど無かった事実。

 

イタリアの夏はテンポラーレと共にあり、テンポラーレと共に終わる、と言っても良いほどそれはひんぱんに吹き募る。

 

盛夏にはテンポラーレが吹いて一時暑気を飛ばし雨が降る。暑気はすぐに戻って大気中に熱がこもり霞が沸き広がる。

 

霞やもやは鬱積して、間もなくテンポラーレがやってきて一掃する。

 

ということが繰り返される。

 

8月も半ばを過ぎると、テンポラーレの一撃ごとに涼風が募って、秋が駆け足でやって来る。

 

その秋はせわしなく、やって来た時と同じ早足で去って、するともう冬・・

 

というのが一年後半のイタリアの季節の動き。少なくとも僕の印象にある季節変化。

 

今年はそこでの主役のテンポラーレが無かったのだ。ちょっと不思議。

 

でも雨と共にやって来た涼気は、テンポラーレが運び来るそれと変わらない。早朝には冷気と言ってもいいほど気温は下がる。

 

ほんの一週間ほど前までの暑さが嘘のよう。やっぱりイタリアの季節変化は荒々しい。面白い。

 

昨日夕刻、冷たい雨に打たれてカテリーナがブドウ園にうずくまっていた。

 

ちょうど僕の書斎兼仕事場の窓に近い場所。

 

ブドウ園は広く、また敷地内には雨を凌げる場所がいくらでもあって、カテリーナは冬の間などはそこで寒さを避けながら生きているようだ。

 

なのに、昨日は冷たい雨に濡れて、わざわざ僕の目につきやすい場所にいた。

 

気になって仕方がない。

天気のことにこだわっているのは、そのことともほんの少し関係がある・・


カテリーナ引き
真ん中あたりの白いポツン・・

カテリーナ中引き
寄ってみると・・

カテリーナ寄り
もっと寄ってみると・・

う~む

ちょっと切ないぜ・・

招き招かれも人生。かも。楽しいかも。



友人を招いてのスピエド料理パーティー(昼食会)は大成功だった。

 

天気は結局最悪。

 

前日から降り出した雨が、パーティー当日の土曜日も降り続いた。むしろ前日よりも強く。

 

それでもパーティーは成功裡に終わった。

 

雨を警戒して、Aperitivo(食前酒会)を屋内用にも準備していたことと、そして何よりも昼食メイン料理のスピエドが、抜群に美味しく大好評だったのが良かった。

 

スピエドは秋の料理だが、標高1000Mの山中は涼しいので、夏でも良く食べられる。その場合には、冷凍保存していた前年の狩猟の獲物肉少々と、スペアリブや鶏肉などが多く使われる。

 

晴れてくれれば食前酒会は屋外で開く予定だった。

 

ガルダ湖を見下ろす絶景の中で飲む食前酒は、また格別の味がした筈だが、ま、仕方がない。

 

時どき晴れ間も出たので、窓から少しのパノラマも楽しめたし。

 

招いたのは40人弱。

 

1/3の親しい友人と、2/3の社交友人、つまり招かれたお返しに招いた客人。

 

ま、でもその皆さんも友人と言ってもいいだろう。

 

招待されて出た集まりやパーティーで出会う人々を、全て招くことはできないので。

 

また招くのは妻や僕ではなく、実は「伯爵家を招いている」だけというケースも多いので。

 

それぐらいの認識、見きわめはいつでもしているし(笑)。


だから今回初めて招いた2/3の客人たちは、それなりに気心の知れた友達だな。やっぱり。
 

社交はつらいところもあるけれど、ワインを少し飲めばはしゃいで少しはおしゃべりもできる。

 

本来のノーテンキな自分が表に出て、まあまあ社交的にもなる。

 

もっともノーテンキは、飲まなくてもしっかり表に出ているとは思うが(笑)。

 

9月いっぱいは、週末を中心にまたそこかしこに招(よ)ばれている。

ホントの友人らの招きもあれば、義理の友人たち(?)からのそれも。

 

後者は疲れる。

が、

でも、

義理が転じて友にもなることを信じて。

さ、

行くぞ~~~い!!

 

想い雨



待ちに待った雨が降った。この直前の記事「ブログ日和」を書いてすぐに。


北イタリアのみ。


南の方はまだ乾いた日々が続きそうだ。でも、雨雲もそのうちに南下するだろう。


季節の変わり目なのに、雷鳴を伴わない静かな降雨である。つまり、テンポラーレ(豆台風)ではない普通の雨。


長い間雨が降らなかったから、今度は逆に多過ぎるほどの雨が降り続ける、とまるで見てきたように確信をこめて話す人々が結構いる。

誰もが異常気象に慣れてきたのだ。


異常気象が続けばそれが常態になる。気温が上昇傾向にあるのはどうやら間違いないらしいから、もう既に異常は「普通」になっているのかもしれない。


そうなったらそれで、人も自然も世界も、しぶとく順応して行くのだろう。ある程度の犠牲や、混乱や、痛みを克服しながら。


歴史はいつもそうやって作られてきた。


人も自然も世界も、しぶとい。


幸いなことに・・


今ガルダ湖畔にいる。大湖の水嵩はかなり低い。灌漑用に抜き取られたのだ。例年のことだが、今夏は特に多くの水が灌漑に使われた。


今回の雨量程度では大湖の渇きは癒されない。水位が戻るのは、アルプスの雪解け水が流れ込む来年の春だろう。


冬、雪が十分に降れば・・ 異常気象でなければ・・


明日はスピエド・パーティの日。雨が降り続けなければいいが。と自分の都合に合わせて考え、祈る。


昨日まで、そして夏の間中、あれほど雨を待ち続けていたくせに。


人間はほんとに自己チューで、しぶとい・・




記事検索
月別アーカイブ
プロフィール

なかそね則

カテゴリ別アーカイブ
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ