【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

パリオの行方①



イタリア中部の街シエナは、フィレンツェからおよそ70キロ南にある中世の美しい街である。そこでは毎年夏、パリオと呼ばれる競馬が行なわれる。

 

ただの競馬ではない。街の中心にある石畳のカンポ広場を馬場にして、10頭の裸馬が全速力で駆け抜けるすさまじい競技である。

 

なぜすさまじいのかというと、レースが行なわれるカンポ広場が本来競馬などとはまったく関係のない、人間が人間のためだけに創造した都市空間の最高傑作と言っても良い場所だからである。

 

カンポ広場は、イタリアでも一、二を争う美観を持つとたたえられている。1000年近い歴史を持つこの広場は、都市国家として繁栄したシエナの歴史と文化の象徴として、常にもてはやされてきた。そしてシエナが独立国家としての使命を終えた現在は、イタリア国家を代表する文化遺産の一つとしてますます高い評価を受けるようになった。

 

パリオの10頭の荒馬は、カンポ広場の平穏と洗練を蹂躙(じゅうりん)しようとでもするかのように狂奔(きょうほん)する。狂奔して広場の急カーブを曲がり切れずに壁に激突したり、狭いコースからはじき出されて広場の石柱に叩きつけられたり、混雑の中でぶつかり合って転倒したりする。

 

僕はかつてこのパリオを題材に一時間半に及ぶ長丁場のドキュメンタリーを制作したことがある。例によってNHKの番組だった。6~7年にも渡るリサーチ準備期間を経て作ったその番組は、ことのほかうまく行って僕はNHK衛星局に表彰されるという嬉しい結果にもなった。

 

以来、僕にとってはとても親しみ深いものになったシエナのパリオは、今存続の危機にさらされている。

 

7月1日に行われた競馬のトライアルで、出走した馬の1頭が広場の石柱に激突して死亡した。


動物愛護者や緑の党などの支持者がこれに噛み付いた。

 

実はそのこと自体は今に始まったことではなく、かなり前から動物虐待だと主張する人々はいた。今回いつもよりも問題が大きくなったのは、この国のブランビッラ観光大臣が先頭に立ってパリオを批判したからである。動物愛護家で菜食主義者の彼女は、かねてからシエナのパリオを敵視してきた。今回の事故をこれ幸いとパリオの廃止を声高に叫んでいる。

 

ブランビッラ大臣は、シエナの人々が馬を深く愛し、親しみ、苦楽を共にして何世紀にも渡って祭りを守り続けてきた心など一顧だにしないように見える。彼女のヒステリックな叫びが静まることを願っているのは、多分僕だけではないだろう。

 

馬のケガや死を誰よりも悼(いた)んで泣くのはシエナの民衆であり、人一倍馬を愛し、馬に寄り添って祭りに臨むのもまた彼らである。結果として出走馬が傷を負ったり、死んだりすることはあるが、動物虐待というのは当たらないのではないか。

 

世界中の競馬場で馬はケガをし、死ぬこともある。それも全て動物虐待なのだろうか。それならば、全世界で食肉となるべく毎日屠殺されていく膨大な数の動物もまた、虐待の犠牲者と呼ばなければならないのではないか。

 

歴史遺産以外のなにものでもない伝統の祭りを、馬の事故死という表面事象だけを見て葬り去ろうするのは、あまりにも独善的に過ぎる。

 

そのことはさておき、僕は今年のパリオに因縁めいたものを感じて不思議な気分でいる。

競馬はコントラーダと呼ばれるシエナ市内の17の町内会の対抗試合である。
僕はそのうちの「キオッチョラ(かたつむり)」町内会を話の中心に据えてドキュメンタリーを作った。

 

競馬は毎年7月と8月の2回行われる。キオッチョラはその年はとても運が悪く、7月のパリオでは出走馬が事故で死亡し、8月のパリオでも本番前のトライアル走で馬が傷を負った。

 

町内会の幹部は事実を重く受け取って、馬を休ませるという苦渋の決定をした。それはキオッチョラ町内会が8月の競馬を棄権することを意味した。パリオでは代替馬の出走は許されないのである。

 

パリオを棄権するのは、極めて不名誉なこととされる。町内会は屈辱的な出来事に騒然となったが、人々は結局、出走馬の健康を重んじる地区の幹部の主張を受け入れた。

 

そして今年、キオッチョラの馬がまた死んだ。

 

僕はそのニュースをたまたまギリシャで買ったイタリア紙で読んだ。パリオの時期は僕はギリシャにいたのだ。そして、それまではギリシャのあれこれにかまけきっていて、パリオのことはすっかり忘れていた。

 

思いつきで買った新聞で事故のことを知った事実や、同じパリオでブルーコ(いも虫)町内会が大きなリードを守りきれずに敗れ去ったことも僕をおどろかせた。

 

僕が番組を作った年は、ブルーコ町内会が41年ぶりにパリオに勝って大騒ぎになった。その偶然は、結果として僕の作品に花を添える重要な出来事でもあったのだ。

キオッチョラの馬が死に、ブルーコ町内会が話題になった今年7月のパリオの状況を、僕は旅先で偶然に手にした新聞で知った。

大げさに聞こえるかもしれないが、僕はどうもそこに因縁深いものを感じてしょうがない。

馬好きな人が験(げん)を担ぎやすいのは良く知られている。もしかすると僕は、馬をこよなく愛するシエナの人々に感化されて、少し迷信深くなっているのかもしれない・・
 

(つづく)

  

ギリシャの明るい憂うつ



財政危機で暴動が起きたりしている今回のギリシャ旅行では、エーゲ海の島々に渡る前に首都アテネに寄った。

 

アテネでは国会前で若者らが警官隊と衝突して、投石を繰り返すなどの騒ぎがあったが、不思議と危険は感じなかった。

 

これが今同じように騒動が頻発しているシリアやリビアなどの中東の国なら、極めて物騒なイメージを持ったに違いない。が、ギリシャに関してはヨーロッパの民主主義国家という安心感がある。その違いはやはり大きい。

 

ギリシャ本土を取材するのは今回が初めてである。

 

僕は先ず、地中海にちりばめられているギリシャの島々とは違う、アテネの喧騒とカオスにひどくおどろかされた。

 

古代ギリシャの象徴、アクロポリスの上に建つパルテノン神殿とその周辺のわずかな地域を除くと、アテネの市街地は無秩序に開発拡張されていった現代都市という印象が強い。

 

スラム街と呼ぶのはさすがに言い過ぎだろうが、そういう言葉さえ連想させるほどの混沌(こんとん)が街じゅうを支配している。

 

僕はアテネの猥雑な建物群と、雑多な人種が行き交う通りを眺め、またその雑踏の中に足を踏み入れて自ら人ごみと一体になったりしながら、しきりにある言葉を想った。

即(すなわ)ち、

 

国破れて山河あり・・

 

いうまでもなくその杜甫の詩の意味は

「国は戦火によって破壊されつくしたが、山や川などの自然は、元のままの姿で変わらずそこにある」

という意味である。

 

栄華を極めた古代ギリシャ国家は滅び去り、その滅び去ったものの残骸が、アクロポリスの麓(ふもと)に広がる現代アテネの無原則な市街地のようである。そして、市街地の上方、アクロポリスの丘の上に厳(おごそ)かにそびえ立つ、パルテノン神殿などの古代遺跡が、本来のギリシャの国の形、つまり山や川などの変わらない自然と同じもの・・というふうに見えたのである。

 

繁栄の絶頂にあった古代ギリシャは、ローマ帝国に征服され、あるいはそれと融合しながら歴史を刻み続けて行ったが、以来ギリシャは現代に至るまで、パルテノン神殿が建設された時代の栄光を取り戻したことは一度もない。

 

それどころか、近代国家としてのギリシャは1830年に独立するまではオスマン帝国の支配を受け、独立後もトルコとの戦争や2度の世界大戦に巻き込まれるなど、苦難の道が続いた。第2次大戦後のギリシャの政情は安定し、経済もそれなりに発展したが、内戦や軍部の独裁政治がそれに続くなど、現代国家としてのギリシャは古代の輝きからは遠い存在であり続けている。

 

そうした歴史と、今目の前に広がるアテネの混沌とした風景が錯綜して、僕に不思議な幻想をもたらし、僕は唐突に(国破れて山河あり・・)という感慨を覚えたりしたのだろう。

 

それではアテネは、憂うつな悲しい不快な街なのかというと、まるっきりの逆である。

 

首都は明るく活気にあふれている。国会前で連日行われている抗議デモも、そこを少し離れるとまったく気にならない。財政破綻の危険などどこ吹く風である。そんなアテネの明るさは、どうも地中海の輝かしい陽光のせいばかりではなさそうだ。

 

街が人種のるつぼとなって、大きくうごめいていることが、アテネの殷賑(いんしん)の一番の原因のように僕には見える。

ギリシャ人に加えて、アラブ、アフリカ、インド、アジアなどの人々が、通りを盛んに行き交っている。ギリシャ人とあまり区別がつかないが、そこにはギリシャ以外の欧米人も多く混じっている。

 

古代ギリシャでは、アフリカのエジプトやアラブやトルコなどと交易をする中で、それらの地域の人々とギリシャ人との混血が進んだ。また後にはバルカン半島のスラブ人やアルバニア人、ローマ人を始めとするラテン人などとの混血も絶え間なく続いた。

 

アテネの喧騒を見ていると、まるで古代からの混血の習わしが今もしっかりと生きているような錯覚を覚える。少なくともギリシャ人が、外国からの移民と見られる人々に対して、とても寛容であることがはっきりと分かる。

 

古代地中海域の十字路として、隆盛を誇ったギリシャのグローバルな精神は、アテネの路地や通りや街なかに連綿として受け継がれているように見える。

 

それは僕がかつて住んでいた、ロンドンやニューヨークなどの国際都市とそっくりの雰囲気をかもし出している。

アテネがそれらの街と比較して、経済的に明らかに少し貧しい点を除けば・・

ノブレス・オブリージュ



2008年5月、僕は東京の友人に次のような便りを送った。

 

『 渋谷君

 

今年もまた北イタリアのガルダ湖畔にある妻の実家の伯爵家の庭園で、環境と緑をテーマにしたガーデン祭りが開催される。家は歴史的建造物として国の指定を受けていて、広い庭園内に花や植物や自然食品の展示販売所などが立って多くの入が集まる。

 

館のあるガルダ湖は有名な観光地だが、近年は少し客足が落ち込んでいる。そこでこのガーデン祭りが考案され、妻の家の家族は全面的に協力することにしたわけだ。

 

祭りを主催しているのは地元の建築家のグループ。伯爵家では館を3日間開放して、年老いた家族の全員が祭りの顔となって催し物に協力する。家族が無償で活動をするのは、祭りが地域の活性化に寄与すると考えるからなんだ。

 

西洋には「ノブレス・オブリージュ」つまり「貴族の義務」という伝統的な考え方があるのは、君も知っての通りだ。古い貴族家に生まれた人間には、奉仕活動や慈善事業など、社会に貢献する義務があるとする思想だね。

 

妻の実家は13、4世紀ごろから続く家柄。二つの貴族家が婚姻を通して一つになった。その一方が13世紀、一方が14世紀に興(おこ)った、と文献にある。恐らく政略結婚ってやつだろうね。昔の貴族社会ではよくあった話さ。

 

一家はガーデン祭りのほかにもチャリティー夕食会やコンサート、文化・学術会議の場所の提供など、よく地域奉仕に動く。

 

館でチャリティー夕食会を開くと、時として20~30人の招待客で300~400万円程度が集まったりする。そういう時はキリスト教文化、特に慈善・博愛精神の底深さを強烈に思い知らされるよ。

 

伯爵家には主な館がそれぞれ違う地域に3軒ある。そのうちの一つ、ガルダ湖畔にある家は一家のメインの建物でパラッツォ(Palazzo=宮殿、館、~宮)と呼ばれる。城と言ったほうがいいかも知れない。アナクロニズムもここまでくればほとんど笑い話の世界さ。


君は銀行員だから、伯爵家の建築物などを見る目も又おのずと違うと思うが、奥さんのユリさんなら出版人の目で見て、僕に賛同して笑ってくれそうな気もするが、どうだろうか?

 

いつか伯爵家のことを本に書く機会があったら必ず「喜劇」調で書くつもりだ、とユリさんに伝えておいてくれ。「貴族にナッチャッタ僕」とかなんとかのタイトルで、貴族にはなれないし又なる気もない男の話をオモシロおかしく書くのさ。もっとも深刻に書いた方が真の喜劇になるのかも知れないが・・。

 

あるいは、貴族になりたいと必死に足掻く(あがく)男という構図の方が、より滑稽になるのかもしれない。でも、それでは設定がありふれているような気もする。貴族にはなれないし(もちろん心理的な話のことだが)又なる気もない僕自身のことを、笑い話に書ければ本望だ。人は自分で自分を笑える間は、心身共に健全な証拠だからね。が、なにしろ執筆には才能というものが関わってくるから難しい話さ。 


さて、本題に戻るよ。

 

館には妻の親と独身の叔父や叔母が同居している。彼らは団結して伯爵家を守って生きてきたが、皆年老いて一番若い叔父でさえ既に78歳。家のさまざまな行事が一人娘の妻の肩に重くのしかかりつつある。

 

若い頃は考えもしなかったが、今後は妻の「貴族の義務」に僕が付き合わなければならない事態がますます頻繁に起こりそうだ。

 

そうなったら仕方がない。それが日本を飛び出してしまった自分の義務とあきらめて、せいぜい構えることなく、且つ自分らしく、適当に楽しくやって行こうと思うぜ~い 』

 
という内容のメールだった。



それからたった1年後に妻の叔父が亡くなり、義父も昨年逝ってしまった。

 

伯爵家には今は妻の老いた母と叔母がいるだけである。しかも義母は独自にも居を構えていて、そこと伯爵家を行ったりきたりする。そういう状況だから、二人の住人を続けざまに失った館の中は、普通以上に寂しくなっている。

 

今週の日曜日、つまり2011年7月17日、僕は妻の実家の伯爵家の活動に付き合って多忙を極めた。

 

朝10時、湖畔の館を出発。

 

家のすぐ背後にある、およそ1000メートルの山中にある別荘に行く。別荘は修道院だった建物で、山の家にしては規模が大きい。伯爵家の持ち家はほとんど全てが同じ。大き過ぎて問題が多い。

 

建物の一部の修復作業がゆっくりながら進展していることを確認して、別荘に付随する敷地内を車で移動してアルピーニ(Alpini)の集会場に行く。

 

アルピーニとは「アルプスの兵士たち」のこと。アルプスを擁するイタリアの軍隊のうちの山岳部隊のことで、近代的な山岳歩兵隊としては世界で最古の組織である。

 

北イタリアの男たちは兵役義務に就く時、アルピーニを志望する者が多いが、前アルプス(南アルプスの南)の山々が目前に迫っているガルダ湖地域では、ほとんどの若者がアルピーニになると言ってもよい。

 

屋敷内にある集会場は、退役したアルピーニたちが親睦のために集まる場所である。そこには教会も建てられていて、元兵士たちにとっては,楽しい懇親会場であると同時に神聖な場所でもある。

彼らは毎年夏に大きな親睦会を催すのだが、その時には土地と建物を提供している伯爵家の全員が招待される。

 

しかしここ4、5年ほどは親睦会に参加するのは僕と妻の2人だけである。年老いた伯爵家の人々は、兵士らの親交パーティーに顔を出すのもままならなくなっていた。義父と叔父が亡くなった今はなおさらである。

 

15時過ぎに下山して湖畔の館に戻る。

 

1時間ほど休憩した頃、湖に面した庭園にざわざわと人群れの声。見るとトラックに積み込まれた椅子を若者らが下ろし始めたところ。

今夜は館でクラシック音楽のコンサートが開催される。これも毎年夏の恒例の行事。

 

コンサートは、地元住民はもちろん、多くの観光客にも楽しんでもらおうという趣旨で行われる。ガルダ湖畔の自治体が共同で計画して、貴族館や高級ホテルなどに協力を求めている。これも地域振興策の一環という側面があるのは言うまでもない。

地元では古くから「寛大な一族」として知られている伯爵家は、そういう行事には常に最大限の協力を惜しまなかった。もうほとんど妻の代になった現在、僕らが突然そういう伝統を否定すれば大きな波風が立つだろう。


でも正直いつまで続けるのかという疑問が、貴族でもイタリア人でもない僕の中に残らないわけではない。

 

音楽会は、5月にガーデン祭りが開催される裏庭とは反対側の、湖に面した前庭で開催する予定だったが、天候不良で屋内へ。かつて頻繁に舞踏会が開かれた大広間で行うことにする。

大広間は吹き抜けのとんでもなく高い天井のある空間だが、舞踏会ばかりではなく音楽会もまた良く開かれる場所で、音響的にも評判のいい部屋である。

 

夜9時過ぎにコンサート開始。

 

会場は立ち見も出る盛況。人で埋めつくされた。屋外開催ではなかったため、残念ながら入場できない人々も出た。

伯爵家は、東日本大震災支援のチャリティーコンサート(震災支援 チャリティーコンサートⅥ)を開いたわが家よりもはるかに大きな建物だが、観光地のしかも入場無料のコンサートには、多くの聴衆が押し寄せて、さすがに全員が入場するのは無理だった。

 

夜11時、コンサート終了。

 

夜11時半頃、コンサート出演者や主催者の皆さんと共にレストランへ。慰労反省会。

 

午前1時半過ぎに帰宅。

 

という1日だった。

 

9月の半ばまではまだ催し物が続くが、8月22日から9月初めまでは休暇を取ってシチリア島へ行く。

 

休暇が待ち遠しい・・・


澤ってバッジョ?



女子サッカーW杯決勝戦での、なでしこジャパン澤穂希選手の延長同点ゴールにはおどろいた。

一瞬で決めたのはたぶん
踵でボールの方向を鋭く変えるヒールキックだと思うが、まるでイタリアの英雄ロベルト・バッジョも顔負けの高等テクニックである。

あるいは意表を突く華麗なテクニックを繰りだす天才だった、英国プロサッカーチーム「マンチェスター・シティ」の監督ロベルト・マンチーニの現役時代をも髣髴(ほうふつ)とさせる見事なプレーだった。

 

僕はこれまで女子サッカーには全く興味がなかった。

体と体がぶつかり合う激しいスポーツであるサッカーに女子がついていけるわけがない。やわい、遅い、軽いの三重苦に低テクニックが加わって、きっと見るに値しないゲームばかりだろうと、勝手に思い込んでいた。

 

とんでもない見込み違いである。選手の動きとボールのスピードに目を瞠(みは)り、テクニックの高さにぶったまげ、当たりの激しさに感嘆した。極め付きが澤選手の同点ゴールのスーパーテクニックである。

 

少しエラソーに言わせてもらうと、僕は長い間イタリアのハイレベルなプロサッカーに接し、仕事をし、少し勉強もした。ある時期にはプロの監督試験を受けて、子供を指導するサッカー監督になろうと真剣に考えたこともある。ボランティアで子供たちに教えようと思ったのだ。

 

受験資格にはプロサッカーチームでプレーした経験かそれに準ずる経験が必要とされているが、僕はイタリアのプロリーグ「セリエA」を長く取材し、生中継に関わり、サッカー番組制作に関わった実績が認められて、受験を許可するという内定を受けていた。ぶっちゃけた話、コネがものを言ったのだ。

だけど忙しさにかまけて受験を先延ばしにするうちに、チャンスが遠のきやがて監督になりたいという僕の情熱も立ち消えになってしまった。

 

そんな経験があるので、少し思い上がって「女子サッカーなんて・・」と正直バカにしていた。今日から襟を正してわが「なでしこジャパン」を見守り応援しようと思う。

 

なでしこジャパンの大活躍が大震災の被災者の皆さんに勇気を与え、日本中を興奮させ明るくしているに違いないことを確信しながら、僕は「えっ、もしかしてバッジョ?」とさえ喜んだ澤選手のすごい技と、全選手の才能に深い敬意を覚えている・・


エーゲ海の光と風Ⅱ



「ヨーロッパとは何か」と問うとき、それはギリシャ文明と古代ローマ帝国とキリスト教を根源に持つ壮大な歴史文明、という答え方ができる。

 

ということはつまり、現世を支配している欧米文明の大本(おおもと)のすべてが、地中海にあるということになる。

 
なぜなら、南北アメリカやオーストラリアやニュージーランドでさえ、天から降ったものでもなければ地から湧き出たものでもない。ヨーロッパがその源である。

また近代日本は欧米を模倣することで現在の繁栄を獲得し、現代中国も欧米文明の恩恵を蒙って大きく発展し続けている。世界中の他の地域の隆盛も同じであることは言うまでもない。

ヨーロッパを少し知り、そこに住み、ヨーロッパに散々世話になってきた僕は、これから先じっくりと時間をかけて地中海域を旅し、その原型を見直してさらに学んでみたいと考えている。

 

ただし、その旅はできれば堅苦しい「勉強」一辺倒の道行きではなく、遊びを基本にして自由気ままに、のんびりと行動する中で見えてくるものを見、見えないものは見えないままにやり過ごす、というふうな余裕のある動きにしたいと願っている。

 

テレビドキュメンタリーや報道番組に長く関わってきた僕は、何事につけ新しく見聞するものを「もしかするとテレビ番組にできないか?」と、いつも自分の商売に結び付けてスケベな態度で見る癖がついてしまっている。つまり、いやらしく緊張しながら物事を見ているのである。

 

僕はそのしがらみを捨てて、本当の意味で「のんびり」しながら地中海世界を眺めてみたい。そうすることで、これまで知識として僕の頭の中に刷り込まれている地中海、つまり古代ギリシャ文明や古代ローマ帝国やキリスト教などの揺籃となった輝やかしい世界を、ゆるい、軽い、自在な目で見つめてみたい。そうすることで、仕事にからめて緊張しながら見る時とは違う何かが見えてくるのではないか、と考えている。

 

基本的な計画はこんな感じ。

 

イタリアを基点にアドリア海の東岸を南下しながらバルカン半島の国々を巡り、ギリシャ、トルコを経てシリアやイスラエルなどの中東各国を訪ね、エジプトからアフリカ北岸を回って、スペイン、ポルトガル、フランスなどをぐるりと踏破するつもりである。

 

中でもギリシャに重きをおいて旅をする。また訪問先の順番にはあまりこだわらず、その時どきの状況に合わせて柔軟に旅程を決めていく計画。


地中海は場所によって呼び名の違う幾つかの海域から成り立っている。

イタリア半島から見ると、西にアルボラン海があり、東にはアドリア海がある。北にはリグリア海があって、それは南のティレニア海へと続き、イタリア半島とギリシャの間のイオニア海、そしてエーゲ海へと連なっていく。またそれらの海に、トルコのマルマラ海を組み入れて、地中海を考えることもある。


今回ギリシャ本土の後に訪ねたミロス島とサントリーニ島は、イオニア海とともに南地中海を構成するギリシャの碧海(へきかい)、エーゲ海に浮かぶ島である。

 

地中海の日光は、北のリグリア海やアドリア海でも既に白くきらめき、目に痛いくらいにまぶしい。白い陽光は海原を南下するほどにいよいよ輝きを増し、乾ききって美しくなり、ギリシャの島々がちりばめられたイオニア海やエーゲ海で頂点に達する。

 

乾いた島々の上には、雲ひとつ浮かばない高い真っ青な空がある。夏の間はほとんど雨は降らず、来る日も来る日も抜けるような青空が広がっているのである。

 

そこにはしばしば強い風が吹きつのる。海辺では強風に乗ったカモメが蒼空を裂くように滑翔(かっしょう)して、ひかり輝く鋭い白線を描いては、また描きつづける。

 

何もかもが神々(こうごう)しいくらいに白いまばゆい光の中に立ちつくして、僕はなぜこれらの島々を含む地中海世界に現代社会の根幹を成す偉大な文明が起こったのかを、自分なりに考えてみたりする。

 

ギリシャ文明は、大ざっぱに言えば、エジプト文明やメソポタミア文明あるいはフェニキア文明などと競合し、あるいは巻き込み、あるいはそれらの優れた分野を吸収して発展を遂げ、やがて古代ローマ帝国に受け継がれてキリスト教と融合しながらヨーロッパを形成して行った。

その最大の原動力が地中海という海ではなかったか。中でもエーゲ海がもっとも重要だったのではないか。

現在のギリシャ本土と小アジアで栄えた文明がエーゲ海の島々に進出した際、航海術に伴なう様々な知識技術が発達した。それは同じく航海術に長(た)けたフェニキア人の文明も取り込んで、ギリシャがイタリア南部やシチリア島を植民地化する段階でさらに進歩を遂げ、成熟躍進した。

 

エーゲ海には、思わず「無数の」という言葉を使いたくなるほどの多くの島々が浮かんでいる。それらの距離は、お互いに遠からず近からずというふうで、古代人が往来をするのに最適な環境だった。いや、彼らが航海術を磨くのにもっとも優れた舞台設定だった。

しかもその舞台全体の広さも、それぞれの島や集団や国の人々が、お互いの失敗や成功を共有し合えるちょうど良い大きさだった。失敗は工夫を呼び、成功はさらなる成功を呼んで、文明は航海術を中心に発展を続け、やがてそれは彼らがエーゲ海よりもはるかに大きな地中海全体に進出する力にもなっていった。

例えば広大な太平洋の島々では、島人たちの航海の成功や失敗が共有されにくい。舞台が広過ぎて島々がそれぞれに遠く孤立しているからだ。だから大きな進歩は望めない。

また逆に、例えば狭い瀬戸内海では、それが共有されても、今度は舞台が小さ過ぎるために、異文化や文明を取り込んでの飛躍的な発展につながる可能性が低くなる。


その点エーゲ海や地中海の広がりは、神から与えられたような理想的な発展の条件を備えていた・・

イタリアやギリシャ本土から島々へ、あるいは島から島へと移動する飛行機の中でエーゲ海を見下ろしながら、僕はしきりとそんなことを考えたりした。


エーゲ海の光と風



6月20日から7月初めにかけてギリシャ本土のアテネとデルフィ、さらにミロス島とサントリーニ島を訪ねた。

 

毎年1度、できれば6月か9月に地中海を巡る旅を始めて、今年で4年目になる。最初の2年間はイタリアの東、バルカン半島のクロアチアを訪れ、去年と今年はギリシャを選んだ。

 

去年9月、僕は生まれて初めてギリシャの島々を旅した。興奮した僕はイタリアに戻って日本の友人に次のような便りを送った。

 


『渋谷君

 

9月6日から10日間エーゲ海で遊んできました。正確にはロードス島とヒポクラテスのコス島。コス島からトルコのボドルムにも渡ったよ。

 

トルコでは子羊料理を食べ、ギリシャでは連日飽食した。食事が美味いんだ。特にナス料理、また子羊とヤギ料理も抜群に良かった。トルコでも同じ経験をしたが、羊やヤギも料理法によってはホントにおいしいということの見本のようだった。

 

エーゲ海は想像したよりも光が白くてまぶしくて魂を揺さぶられた。

 

日本の最南端の島の、強烈な日差しにまみれて育った僕が、
唖然(あぜん)とするほどの輝かしい陽光とはどんなものか君に想像できるかい?

 

砂浜に横たわって真っ青な空を見上げていたら白い線が一閃して、良く見るとそれが強い風に乗って遊ぶカモメ、というような美しい体験を次々にしたよ。空気が乾いて透明だから、白が単なる白じゃなく、鮮烈に輝く白光というふうに見えるんだね。

 

コス島では面白い場所を発見。なんと断崖絶壁が海に落ち込むちょうど真下に温泉が湧いているんだ。熱い湯に漬かっては、冷水代わりに澄んだ青い海に飛び込む、ということをくり返して遊んだ。


僕はこの間、温泉にはあまり興味がないと君に言ったが、それは温泉に入ることに興味がないということではなく、温泉旅館とかホテルとか、温泉に付随する日本の施設があまり好きではないということなんだ。


サービスがどうも押し付けがましいし、客のことを考えている振りをして自分達の都合ばかり考えているように感じる。

 

例えば食事時間の融通がきかないとか、食事をしているそばからすぐに布団を敷いていってさっさと仕事を終わりたがるとか・・なんだか気にいらない。

 

気にいらないと言えば、食事もやたらと量が多過ぎて、せっかくのおいしい料理もうまさが半減してしまうように感じたりするんだ。

 

でも僕も日本人だから温泉に浸かることそのものは大好きだよ。この辺がイタリア人の僕の妻とは違う。彼女は西洋人の常で「湯に浸かって体を温める」ことの良さや幸福を子供の頃から教えられているわけじゃないから、温泉には執着しない。熱い湯も好きじゃない。温泉は飽くまでも医療セラピーとして入る。

 

またキリスト教徒の本性で、素っ裸で他人とともに湯に浸かることにも明らかに抵抗感があるようだ。

 

この間NHKが、外国の温泉に浸かる男を日本風に素っ裸にして撮影していて、実に見苦しかった。彼らが全裸で温泉に浸かることはありえない。プールの感覚だから、屋内外を問わずに男も女も必ず水着を着るのが常識だ。

ディレクターがそういう西洋社会の習慣やメンタリティーに疎(うと)かったのか、日本風を押し通して湯船の縁に裸の男を座らせて撮影したりしてしまい、不自然さが全面に出て実にえげつない絵になってしまっていた。

 

でも恐らく、番組を作っているスタッフ同様に視聴者もそのことには気づいていない。怖い話だと僕は思ってしまうんだ。


なぜって、国際的な誤解というのはそういうささいなところから始まって、大きく深くなって行ったりする。国際的な誤解をなくすつもりで制作した番組が、逆効果になってしまうことも多々あるんだ。だから社会的に強烈な影響力を持つテレビに関わっている僕のようなテレビ屋は、日々もっともっと勉強を続けていかなければならない。

 

お、おふざけが好きな僕にしては、ちょっとマジ過ぎるメールになってしまったね・・・

 

何はともあれ、地中海世界は面白い。今後は何年もかけてどんどん地中海を見て回るつもりだよ~~~

 


ギリシャにいても、結局どこかで日本を考えていたりするのが僕の癖である。

 

今年もギリシャではいろいろなことを見て、いろいろなことを考えさせられた。

 

地中海巡りは仕事半分、休暇半分のつもりの旅行だが、これまでのところは8~9割が仕事になってしまっている。

 

もう少し自由な時間を広げて、最終的には「リサーチ休暇」のようにするのが夢である。

 

イタリアに戻ってもまだ仕事が続いていて、ブログを書く時間がほとんどない。この状況は少なくとも今週いっぱいまでは続きそうに見える・・


9月に会いましょう



イタリアでは毎年6月にもなると、それほどひんぱんには会わない人同士の別れの挨拶として、「9月に会いましょう」というのが多くなる。

 

夏のバカンス後にまたお会いしましょうね、という意味である。

 

さらに7月にもなると、しょっちゅう会っている人同士でも、この「9月に会いましょう」が別れの常套句、あるいは合言葉のようになる。

 

何が言いたいのかというと、イタリア人にとっては夏の長期休暇というのはそれほどに当然のことで、人々の日常の挨拶にも如実にあらわれるということである。

 

良く言われるように、長い人は1ヶ月の休みを取ることも珍しくない。もちろんそれ以上に長いバカンスを過ごす者もいる。休暇の長さは、人それぞれの仕事状況と経済状況によって、文字通り千差万別である。

 

裕福な人々や幸運な道楽者のうちには、子供の学校の休みに合わせて、3ヶ月の休暇を取るようなトンデモ人間もいたりするが、さすがにそれはごく少数派。

 

それでも、子供の休みに合わせて、妻以下の家族が6月から8月の間海や山のセカンドハウスに移住し、夫は都市部に残って通常通りに働きながら週末だけ家族の元に通う、いわゆる「通勤バカンス」と僕が勝手に呼んでいる時間を過ごす人々の姿もよく見かける。そしてそんな男たちも、もちろんどこかで長期の完全休暇を取るのは言うまでもない。

 

休むことに罪悪感を覚えるどころか、それを大いに賞賛し、鼓舞し、喜ぶ人々が住むこの国では、そんな風にさまざまなバカンス模様を見ることができる。が、実は大多数のイタリア国民、つまり一般の勤め人たちは、最低保証の年間5週間の有給休暇のうち、2週間の夏休みを取るのが普通である。

 

それは法律で決まっている最低限の夏期休暇の日数で、たとえば僕がつい最近まで経営していた番組制作会社のような、個人事務所に毛が生えただけのささやかな会社でも、スタッフには最低2週間の有給休暇を与えなければならない。零細企業にとっては大変な負担である。

 

しかし、それは働く人々にとってはとても大切なことだと僕は感じる。

人間は働くために生きているのではない。生きるために働くのである。

そして生きている限りは、人間らしい生き方をするべきであり、人間らしい生き方をするためには休暇は大いに必要なものである。夏休みがほとんど無いか、あっても数日程度の多くの日本のサラリーマンの皆さんを見るたびに、僕はそういう思いをさらに強くする。

 

イタリアでは2週間の夏の休みは、8月初めから同月の半ば頃までの間に取る人が圧倒的に多い。会社や工場などもこの期間は完全休業になる。

 

ところが、時間差休暇というものがあって、時間に融通のきく仕事を持っている人々の中には、多くの人の休暇が集中する8月の混乱期を避けて、バカンスを前倒しにしたり、逆に遅らせて出かける者も相当数いる。

 

そうすると、どんな仕事でも相手があって成り立っているものだから、普通の期間に休みを取る人々は、休暇前や休暇後に相方不在の状況に陥って、仕事の能率ががくんと落ちる。仕事量が減ることで、やる気もなくなって半分休み状態になることもしばしばである。

 

そこに長期休暇を取る人々の仕事の空白なども加わって、7月から8月末までのイタリアは、国中が総バカンス状態のようになってしまうのである。

 

だから6月にもなると、7月と8月を飛び越して、「9月に会いましょう」が人々の合言葉になるわけである。

 

ロンドン、東京、ニューヨークと仕事をした後にこの国に来た僕は、当初は仕事の能率の上がらないイタリアの夏の状況を怒りまくり、ののしりまくっていたものである。

 

しかし今はまったく違う。これだけ休み、これだけのんびりしながらも、イタリアは一級の富裕国である。働く人々の長期休暇が極端に少ない日本などよりも、豊かさの質がはるかに上だとさえ僕は感じる。とういうことは、イタリア的に休みまくるのはいいことなのではないか、とつくづく考えるようになったのである。

 



※閑話休題


僕の今年の夏の休暇は8月20日以降の予定。行き先はシチリア島。

その前に明後日から地中海沿岸リサーチ旅+義務旅+3日間の休み。それなのでこのブログもしばらく開店休業です。

営業再開予定の7月アタマにまたお会いしましょう。


チャオ~~~~~~~   ~~~~~~~~~!
  

「脱原発クラブ」



12、13日に行われた、原発の是非を問うイタリアの国民投票で「反原発」派が勝利した。

 

ドイツとスイスに次いでイタリアも脱原発に舵を切ったわけだが、イタリアの場合は、福島原発事故後「世界初の国民審判」による「原発ノー」の強い意思表示だけに、その意味するところは大きいというべきだろう。

 

この国ではチェルノブイリ原発事故の翌年87年に、やはり国民投票で「反原発」の結果が出た。それを受けて、90年までに稼動中の全ての原発が閉鎖された。

 

ところが2009年、現在のベルルスコーニ政権が「原発再開法」を制定して原発の再稼動を目指した。しかし前述の通り、国民はその政策を明確に否定したのである。

 

90年以来、先進国の中で唯一原発を持たずにきたイタリアの電気料金は欧州一高い。原発大国フランスの2倍近くにのぼり、国は全電力の1割近くをそのフランスとスイスから輸入しているのが現状である。

 

ベルルスコーニは電力コスト削減を理由に原発再開を目論んだのだが、国民はそっぽを向いた。高い電気料金を黙認してまで・・なんてすばらしいことだろう!

 

僕は以前、今のところは原発に99%反対と書いた。

今のところは・・

 

99%の反対とは

 

「原発には100%反対。ただし核や原発の研究は続けるべき」

 

という意味で1%の賛成を込めて、反対99%と言ってみたのである。

 

その気持ちは今も全く変わらない。

 

いや、わが国がドイツ、スイス、イタリアの欧州三国が発起(ほっき)した「脱原発クラブ」に入会する願いを込めて、原発には120%も150%も反対と言おう。

 

それでもやっぱり1%の賛成も忘れずに込めておこうと思う。《化け物》の核や原発に負けるのはシャクだ。人類は必ずそれを征服するべきだと信じるから・・

 

閑話休題

 

「脱原発クラブ」は本来なら日本が真っ先に旗振りをして結成するべきだった。

ヒロシマを持ちナガサキを持ち、そして不運にもフクシマまで持ってしまったわが国は、なぜ誰よりも先に「脱原発」と叫ばないのだろうか。

 

経済に詳しいと思い上がっている人々、産業だけが国益だと信じ込んでいる人々、金と便利だけを追いかけながら憂い顔で国家を論ずるエセ憂国者、理念や理想をあざ笑うのが癖の原発及びビジネス利権屋などなど・・魑魅魍魎(ちみもうりょう)たちが跋扈(ばっこ)して脱原発を理想主義、ユートピア論などと冷笑する。

 

だがもうたくさんだ。彼らが皮肉たっぷりに言いたがる「少しの不便」や「少しの後退を」覚悟して、脱原発を叫ぼうよ。

 

日本の総電力の3割を担っている原発を止めれば、問題が起こらないはずはない。30%は小さくない数字だ。ドイツの22%よりも大きい。それでも日本はドイツよりも先に脱原発を宣言してしかるべきだった。

 

ドイツには広島も長崎も福島もない。また代替エネルギーの先行きが不透明であることも承知で脱原発を決定した。決定したことで、国を挙げて自然エネルギーの獲得を目指して模索し前進することになる。

 

多くのドイツ国民、特に産業界の人々はもちろんドイツ経済が失速するのではないか、と懸念を抱いている。彼らは脱原発を決めたドイツ国家を相手取って裁判を起こすことさえ考えている。

それでもドイツは自然エネルギーを模索する道を選んだのだ。彼らは創意工夫によって、原発に替わるエネルギーを必ず獲得するだろう。スイスもそうなるだろう。そして、遅ればせながらイタリアも・・

ところで

「創意工夫」こそわが国の専売特許ではなかったか。専売特許が言い過ぎなら、恐らくドイツやスイスさえも凌駕(りょうが)する日本のお家芸ではなかったか。

 

「脱原発」と国が明確に道筋を立てれば、世界一の創意工夫の民は、ドイツよりもスイスよりも先を行く技術や知恵を必ず探し当てる。現に省エネの分野では、電力供給がままならないと分かった大震災以降、多くの発明や工夫をこらした技術や製品が既に生み出されている。

 

脱原発は厳しい道のりを選択することである。だが原発推進は破滅を選択することである。少なくとも、破滅に至るかも知れない恐怖を抱えて生きること、を選択することである。

 

産業は重要である。経済には国の浮沈がかかっている。国が貧しくなれば、国民が不利益や不便をこうむることもある。当たり前だ。

 

だが、人は経済だけで生きているのではない。理念や尊厳や品位を持って生きることも重要だ。少しの不利益や不便を覚悟で、今こそわが国は「脱原発」の意思表示をして「脱原発クラブ」に入会するべきだと思う。

 

入会して、広島と長崎と福島の深い悲しみを力にして世界をリードするべきである。それが日本の義務ではないか。

 

恐らく僕がここで言うまでもなく、多くの日本人はそう思っている。それに気づかないのは愚劣な政争に明け暮れている、民主党政権や野党の政治家らだ。

「国民一流、国家三流」と世界から見なされるゆえんがそこにある。

デザートを食う助手が怖い①



「えーと、何にしようかな。ブディーノ、クロスタータ、パンナコッタ、ティラミス、メリンガータ・・お、カサータ・シチリアーナもいいな。いや、やっぱりジェラート(アイスクリーム)にしようかな・・」

 

カメラ助手のフィリッポが、人生最大のシアワセです、と言わんばかりのニコニコ顔で、デザートのメニューをためつすがめつ読み上げた。


それにつられて、いったん食事を切り上げて仕事に向かうつもりになっていたスタッフの気持ちが、大きくゆらぐのが分かる。

 

ゆらいだ気持ちは、もう元にはもどらない。

椅子から腰を浮かせかけていた音声のアントニオ、照明のミケーレ、運転手兼アシスタントのダニエレの三人が、フィリッポに同調する形でいっせいにデザートの吟味をはじめた。

「時間はだいじょうぶかな」 


カメラマンのロベルトは、さすがに技術スタッフの中心だけあって少しは仕事のことを気にし、同時にせっかちな僕の胸のうちも察して、助監督で制作進行も兼ねるマリアンナにともなく僕にともなく問いかける。


マリアンナは、腕時計と僕の横顔をちらと見くらべて、一瞬だけ迷う振りをしてから言った。


「時間はまだだいじょうぶ。デザート、急いで食べちゃいましょ!」

 

こうして既に2時間以上が過ぎている昼食時間が、さらに三十分程度はのびることが確定した。

 

僕は内心のいらだちを隠して、つとめて平静をよそおってデザートの代わりにコーヒーを注文した。

デザートなど食ってる場合か、と僕なりに抗議をしたつもりだった。

 

ディレクターの僕はロケ隊のボスであり責任者である。仕事中にはスタッフを怒鳴りつける事もある。スタッフに文句を言ったり抗議をしたり、あるいは逆になだめたりすかしたりしながらチームを統率していくのも、ディレクターの仕事の一つだ。

それでいながら僕は、話が今のように食事まわりのあれこれになると、けっこう弱気になる。

”食事はどんなときでもたっぷりと時間をかけて、楽しみながら大いにたらふく食べましょう。それでもって時間がもし許せば、少しだけ仕事をしてもバチは当たらないかも知れない”

みたいなのが、僕のスタッフを含むイタリア人の基本的な生活哲学である。

そのおそるべき食い意地とボージャクブジンな楽天思想を、僕はいつも内心でバカヤローとののしりつつ、同じ心の片隅でなぜか彼らに同調しちゃったりもしてしまう。だからあまり強気になれないのだ。

それにここは僕のアシスタントのマリアンナの顔も立ててやらなければならない。

制作進行は彼女の責任である。それには撮影の時間割や食事時間の振り分けなども含まれる。

僕が口を出すのは簡単だが、余ほどせっぱつまった状況でもない限り、スタッフの役割分担は尊重した方が仕事がうまく行くのだ。

 

苦いコーヒーをすすりながら、僕はデザートのために三十分もの食事時間の延長をもたらすことになった言いだしっぺのフィリッポと、デザートに向かってなだれこんで行く、スタッフのゆるんだ心根と食い気を制止できなかったマリアンナの首を、仕事が終わり次第バッサリと切ってやる、とココロの中ですごんで見せる。

(このクソ忙しいロケの最中に、2時間もかけてメシを食うことさえアキレカエッタ所業なのに、今度はデザートだと~! フィリッポとマリアンナだけじゃない。アントニオもミケーレもダニエレもロベルトも、デザートなんか食う奴は皆んなみんな同じように首を切ってやる。ガオーッ!ガオーッ!)


僕は、表向きは相変わらず平静をよそおっているが、内心ではひたすらに考えをエスカレートさせて、ひとりでコーフンしている。

六人のイタリア人スタッフは、それぞれのお気に入りのデザートをかき抱くようにして、一口食べてはしゃべり、しゃべっては笑い合い、また一口食べてはしゃべってはしゃべってはしゃべっては又しゃべる。

どいつもこいつもとろけたアイスクリームみたいにノーテンキでシアワセイッパイの表情だ。

今の彼らのドタマの中には、仕事のことなんかノミの毛穴ほどの痕跡もないのが見ていて死ぬほど良くわかる。

 

(つづく)

 

 

デザートを食う助手が怖い②



僕らは南イタリアでドキュメンタリーのロケをしている。

今回のような長期ロケの場合は、スタッフ構成はディレクターの僕を含めて4人程度が基本だ。そうしておいて必要があれば、ミラノやローマのみならず、ロケ地に近いイタリア各地から応援のスタッフを呼ぶのが僕のやり方である。

その日と翌日は、夕方から夜にかけて大きな撮影が入っていたため、助っ人の証明マンと助手が加わってスタッフの人数が増え、ワイワイと騒ぐ雰囲気が大きくなって、彼らの気分がさらに仕事から遠ざかりやすくなっていた。

ドキュメンタリーのロケの場合、スタッフは撮影の対象になる出来事や人物やイベントや事件や物の動き等々に合わせて、時間を調整してスタンバイしていなければならない。ロケがたとえば午後四時に始まるならば、普通の場合、どんなに遅くても三時半には現場にいることが要求される。

普通の場合というのは、たとえて言えば、何の変哲もない街や田園の風景を単純に撮影するようなときである。

街とか田園というのは、いつでもそこにあって、動いたり走ったり消えたりすることはない。だからそれをありのままに撮影するときは、カメラを好きなところに据えてそのまま風景を切り取れば良い。

そういうときでも、撮影をはじめる三十分前には現場に行っているのがプロというものである。なぜならプロは撮影の前に充分に時間をかけて準備をするものだからだ。


ディレクターである僕が、切り取りたい風景のイメージをカメラマンに告げ、カメラマンはそれによってカメラ位置やレンズや構図やフレームや光の具合などのいろいろな条件を考慮してテストをくり返した後に、ようやくカメラが回されることになる。

腕の良いカメラマンならば、一連の作業をあっという間に済ませて撮影を終えてしまうが、少しでもいい絵を撮ろうと思えば、それでも準備や設定に三十分程度は軽くかかってしまうものなのだ。

いちばん単純な撮影でさえそうなのだから、照明や音声を設定したり、複雑なカメラワークが必要な撮影だったりすると、準備時間はいくらあっても足りない。

それに加えて、僕が作るドキュメンタリーは、撮影対象が生身の人間だったり、生身の人間にまつわるでき事であったりする場合がほとんどである。 生身の人間が相手だから、物事が撮影の予定時間よりも早く進行したり、撮影直前になって何かが変更になったりキャンセルされたりすることは日常茶飯事だ。

相手の都合ばかりではなく、こちらに起こりうる問題も気に留めておかなければならない。

ロケ現場でいざ撮影をしようとした時に、カメラや照明や音声に不具合が生じることだってないとは限らないのだ。

フィクションの撮影なら、そういう時ゆっくりと構えて機材を調整することもできるが、ドキュメンタリーの場合は撮影する対象が一過性のものであるケースが多いから、その時どきのチャンスを逃してしまうと取り返しがつかない。

そうしたことにすばやく対応するためにも、ロケの現場にはなるべく早く着いていた方が良いのである。

もちろん早めにスタンバイはしたものの、予定の時間よりも逆に遅れて物事が進行することもある。イタリアではむしろその方が多いくらいだ。だからといって、それを期待して時間ぎりぎりに動いたり予定を決めたりするようでは、最早これはプロではない。アマチュアでさえない。単なるバカである。

いまノーテンキな顔でデザートを食っている僕のスタッフは、全員がプロである。

従ってデザートを食っても、次の撮影開始時間の少なくとも三十分前には現場に到達できることを知っている。たとえ全員ではなくても、制作進行を兼ねる監督助手のマリアンナは、そのことを充分に計算している・・・・ように見える。

ところが、これが全くあてにならないのである。メシのため、デザートのためならば、バカと言われようがアマチュアとののしられようが、断固として食卓にへばりついているのがイタリア人である。

(メシもデザートもその日の撮影がすべて終わったところで、いくらでも時間と金をかけて好きなだけ食わしてやる。それだけの予算はちゃんと計上されているのだ。だからロケが進行中は、フツーの人類のように昼食は一時間程度ですませて、早め早めに現場に行ってスタンバイをしようよ)

というのが僕の偽らざる心境である。

僕はできるだけ早くロケ現場に行って、撮影が始まるまでの間に撮影項目や設定や構成や人物や話の流れや・・・といった作品の基本になる様々な事柄をもう一度確認し、あるいは練り直しておきたいのだ。

だからたとえ待ち時間が長くても、それは決してムダな時間ではないのである。

胃潰瘍のウシじゃあるまいし、クチャクチャクチャクチャ食いつづけている時間などないのだ!

 

(つづく)

 

 

デザートを食う助手が怖い③



 

そうは言うものの、できれば食事時間を短く、デザートもほどほどにして仕事にまい進しよう!などというのは、実はディレクターである僕の勝手な言い分である。

ドキュメンタリーに限らず、映画やテレビの撮影の仕事というのは、いつも大変な肉体労働である。肉体的にキツイという意味では、それこそ道路工事や建設現場の重労働と少しもかわらないところがあるのだ。

仕事場の責任者が’監督’と呼ばれるところも共通している。いや、時間が不規則でかつ長時間の拘束になったりすることを考えると、むしろ工事現場の労働よりも辛い、と言い切っても良いかもしれない。

そういう飛んでもない仕事なので、スタッフが休めるときに休んでおきたい、という気持ちになるのも仕方のないことである・・・と僕はときどき部下をいたわる良いボスを気取って思ったりすることもないではない。

 

実際に、イギリスと日本とアメリカで同じ状況に置かれていた時は、僕はそういうヨイボスであったのだ。

しかしイタリアではそうはいかない。そんな甘いことを 口に出した日には、彼らウラヤマシクもイラダタシイ怠け者たちは、いつまでたっても食べることを止めようとはしないのだ!

 

 

イタリアの食事のフルコースは、先ずアペリティブ(食前酒)に始まる。このアペリティブは、いわゆるカクテルの類の軽い酒である。それを飲み終わってから出てくるのが、アンティパスト(前菜)である。このあたりでワインも注文する。ワインを頼んだらミネラルウォターも同時に持ってきてもらうのがふつうである。

アンティパストは、サラミや生ハムや魚介の酢の物や各種の揚げ物などが、一種類か又は盛り合わせになって出てくる。

その次にプリモ(ファーストコース)を食べる。プリモは九割方がスパゲッティーやマカロニなどの、いわゆるパスタである。もちろんここではパスタの代わりにスープ類をたのんでもかまわない。

プリモを食べ終わったところで、ようやくセコンド(メインコース)の登場となる。セコンドはその時どきの食事のハイライトだから、ボリュームたっぷりの肉料理か魚料理になるのが常道である。

 

セコンドの主料理には、コントルノ(付け合わせ)の一品をあわせて頼むことが多い。コントルノはサラダや野菜の煮たものになるのがふつうである。

セコンドにつづいて食べるのが、いわずと知れたデザートである。アイスクリームやケーキにはじまるデザートは、非常に種類が豊富で、選ぶのにも見ていていらいらするくらいに時間がかかることは既に述べた。このデザートの代わりに新鮮なフルーツを食べる人もいる。

デザートやフルーツを食べ終わるころには、ワインの何本かが既に飲みつくされている。そこでアルコール度の強いディジェスティボ(食後酒)が登場し、それを飲み終わったら、仕上げとしてタールのように濃いエスプレッソコーヒーを飲むのである。そこでようやく食事の全行程が終わる。

それらの飲食物が、いっぺんにではなく順を追って出てくるから、それだけでも時間がかかる。加えて、彼らの食べ方がまたのんびりしているために、食事にはいつもおそろしく時間がかかってしまうのだ。

食べ方がのんびりしているというのは、イタリア人が牛のように食べ物をゆっくりと咀嚼(そしゃく)するということではない。彼らは食事の間じゅう片時も休むことなく会話をしつづけるのである。

何度も言うようだが、一口食べてはしゃべってはしゃべってはしゃべり、もう一口食べて、しゃべってはしゃべってはしゃべってはしゃべっては又しゃべってはしゃべる、というのがイタリア人の食事の仕方だ。

イタリア人が一食ごとにボーダイな量の食べ物を平らげることができるのは、ぺちゃくちゃぺちゃくちゃしゃべりつづける間に、つぎつぎに食べ物を消化していくからではないか、と僕は疑っている。

 

(つづく)


デザートを食う助手が怖い④



昼間っから大食らいをするイタリア人は、食後は当然に眠くなって仕事どころではなくなる。そこで古来この国には、昼休みを長く取って食後は本当に一眠りをしてしまうという、うらやましいようなアホらしいような習慣ができあがった。

イタリアを含む南ヨーロッパの国々では、夏の暑さを避けるために昼食休みを長く取る習慣ができた、というもっともらしい説もあるが、それじゃ冬でも昼休みが長いのはどいうわけ?って聞いてみれば、それが真っ赤なウソであることは明らかだ。

要するに、昼食をたらふく食べるために昼休みがムチャクチャに長くなった、というのがイタリアの真実なのではないかと僕は考えている。

ミラノなどの都市部のサラリーマンの中には、何か特別のことでもない限り昼食はどんなに長くても一時間程度で済ませて、夕食を家族と共にゆっくりとたくさん食べるという人も最近は増えている。それでも大方のイタリア人は、今日も昼食に重きを置いてしっかりと食べまくるのが当たり前なのである。

僕のスタッフはもちろんサラリーマンではない。昼食は時間をかけてたっぷりと食べるもの、と誰もが考えまたその通りに生活をしている者ばかりである。

それでも、しかし、なんといっても、ほんとうに !

今は厳しいロケの真っ最中なのである。僕はなかなか人間のでき上がらない者の悲しさで、スタッフが長々と時間をかけてデザートなどを食い出すのをみると、つい「イイカゲンニシロ!」と心の中で叫ばずにはいられないのである。

一日の仕事が終わったとき、特に夜ならば、ホントは僕はめっぽう良いボスになれるのである。前にも言ったように、彼らが食事にいくら時間と金をかけても、またデザートをガツガツ食いまくっても、少しも文句を言う気になんかならない。

むしろ僕はそうして欲しいとひそかに願っている。なぜかと言うと、僕は彼らが食べている間じゅう好きなだけ酒を飲むことができる。酔うほどに飲むことができる。

僕は口癖に
[イタリアでは酒に酔って一度ハメをはずしてしまうと、よほど特殊な状況でもない限り、その人はもう翌日からはまともな人間として扱ってもらえない]
と言うが、

実は僕にとっては、その数少ない特殊な状況の一つが、ロケのスタッフと共に食べたり飲んだりしている時なのである。

彼らは映画屋やテレビ屋だけあって、皆それなりにくだけている。だからスタッフの中に僕のような本物の酔っぱらいがいても、それほど驚いたりはしない。

言い訳をしておくと、僕は日本でならばなんの変哲もない当たり前の酔っぱらいである。

酔うと楽しくなり、良くしゃべるようになり、くどくなり、からんだり、ヒトの迷惑をカエリミズに歌いまくったりする。ふだんは必死にかくす努力をしているスケベオヤジの本性も出たりするらしい。

要するに、僕は酔ったおかげで、「素面のイタリア人と張り合うだけのエネルギーを持つ男」に変身するのである。

デザートに手を出したフィリッポは、その僕の夜の楽しみまで奪おうとしている。

なぜなら昼食にこれほど大がかりな時間と食欲を費やしてしまったスタッフは、もしかすると彼らの中にほんのわずかに残っているかも知れない良心の呵責 --つまりメシを仕事に優先させたことへの後ろめたさ--にさいなまれることになって、今夜は夕食時間を早めに切り上げてそれぞれがさっさとホテルの自室に引き上げてしまう可能性がないとは言えない。

そうなると僕は、相手の迷惑をかえりみずに飲んで酔っぱらう当の相手がいなくなって、はなはだ面白くないということになる。酔っぱらいの楽しみはとにもかくにも相手がいなければ始まらないのだ。

もしもそういう事態になったときは、僕は今夜はフィリッポをとっつかまえて、朝まで僕の酒の相手をさせてやろうと考えている。

イタリア人の彼にとっては、仕事をクビになったり殺されたりするよりも、酔っぱらいの相手をすることの方がきっと辛い罰になるはずだから・・・

(おわり)

 


国際的味覚



値段の高いものを人がおいしいと感じるのは、下品どころか、感情を備えた人間特有の崇高な性質ではないだろうか。

 

例えば僕は、今が旬のサクランボが大好きだが、イタリアで食べるサクランボは日本で食べるよりもはるかにおいしい。

 

日本とイタリアのサクランボの味は「物理的」にはあまり変わりがないのかも知れない。だが僕は明らかにイタリアのものがおいしいと感じる。なぜか。

 

イタリアのサクランボはドカンと量が多いからである。

 

サクランボを大量に、口いっぱいにほおばっているとき、僕は日本ではあんなにも値段の高い高級品を、今はこんなにもいっぱい食べまくっている、という喜びで心の中のおいしさのボルテージが跳(は)ね上がっているのだ。

 

恐らくこれはイタリア人が感じているものよりも、ずっとずっと大きなおいしさに違いない。

 

なぜなら彼らは、サクランボの「物理的な」おいしさだけを感じていて、日本の山形あたりのサクランボの「超高級品」という実態を知らないから、従って「ああ、トクをしている」という気分が起こらない。

 

僕は日本を出て外国に暮らしているおかげで、時にはこういういわば「味の国際化」の恩恵を受けることがある。

 

しかし、これはいいことばかりとは限らない。

 
というのも僕は日本に帰ってサクランボを食べるとき、そのあまりの量の少なさに、ありがたみを覚えるどころか、なんだかケチくさい悲しみを感じ、もっとたくさん食わせろと怒って、おいしさのボルテージが下がってしまう。

 

このように、何事につけ国際化というものは善(よ)しあしなのである。


民間大使




元大関小錦のKONISHIKIさんが、ハワイと沖縄を結ぶ架け橋になりたい、と宣言して沖縄県の「民間大使」になったそうである。東京の僕の友人の「沖縄病」患者、つまり沖縄大好き男からの知らせである。

 

僕は思わず、ほう、とつぶやいた。実は僕も沖縄県から請(こ)われて「民間大使」になったことがある。昔、アメリカで制作したテレビ番組が、全くのまぐれ当たりで向こうの監督賞をもらったことがきっかけだった。

 

沖縄県というのは愉快なところで、世界に広がる沖縄県人のネットワーク構築と国際交流を目的とした文化の祭典、と銘打って5年に1度「世界のウチナーンチュ大会」という祭りを開催している。

 

ウチナーンチュとは沖縄弁で沖縄県人や沖縄人というような意味。ウチナーは沖縄。チュは「人」のこと。ひと⇒ひとぅ⇒ひちゅ⇒ちゅと変化した言葉である。たとえば漁師のことは「海人(うみんちゅ)」島の人間は「島人(しまんちゅ)」などと使う。

 

僕はアメリカで受賞したことが地元で評価されて、世界に羽ばたくウチナーンチュ(笑)、ということで第1回大会に招待されて、そこで「民間大使」に任命されたのである。

 

大会に招待されたとき、僕は祭りの大げさなコンセプトと、いかにも沖縄らしい「こだわり」が気に入って、いつものように面白がりつつ喜んで帰国した。

 

でも僕が面白がったのはそこまでである。

 

それは主として南米各国に移住した沖縄県出身の皆さんを慰労する会、とでもいうような集まりだった。参加している「世界の」ウチナーンチュの皆さんのほとんども南米からの訪問者だった。日本全国から移民として外国に渡って行った人々の大半がそうであるように、彼らも主に経済的困窮から必要に迫られて祖国を後にし、見知らぬ土地で頑張り抜いて今の生活を手に入れた方々である。

 

多分そのせいだと思うが、僕のように生活苦から移民になったのではなく、「好き好んで」外国に出て行った者にとっては、それはちょっと場違いな祭典に感じられた。

僕は東京で大学を卒業すると同時に「喜び勇んで」外国に飛び出したような軽い人間である。そんな僕が、多くの苦難を経て来たに違いない南米移民の方々と並び立つのは、とても申し訳ない気分がして仕方がなかった。

 
そこで任命された民間大使は一体なにをやるのかというと、それぞれの滞在国に戻って、いわば「県人会」のようなものでも立ち上げて交流しなさい、みたいなことで曖昧模糊(あいまいもこ)としてさっぱり意味が分からなかった。

 

まだ若かったその頃の僕は、ぶっちゃけ県人会とか日本人会とかいうものには全く関心がなかった。ましてや自分でそうしたものを立ち上げるなんて考えも及ばなかった。僕は民間大使としては結局なにもせず(できず)、2年かそこらの任期のあとは自然消滅という感じで終わった。

 

でも新しい民間大使のKONISHIKIさんは、僕などとは違っていろいろと楽しいことができそうに見える。トロピカルなハワイと南国の沖縄。似たもの同士が仲良くできる大いなる架け橋になりそうである。ぜひそうなってほしい。

それはさておき、僕は自分の故郷である沖縄の人々の「こだわり」に少し懸念を抱いたりすることがある。正確に言えば「こだわり過ぎ」に。


例えば「ウチナーンチュ大会」は、南米などに移住し苦労して現在の地位を築き上げた、移民の皆さんを故郷に呼んで慰労するという、とても良い企画である。

でもそれは、僕の見た感じでは、
ひたすら地元の環境だけにこだわっている内向きな祝典である。せっかく沖縄という極小の島社会を抜け出し、日本という小さな島国も飛び出して大きな世界で生きている人々を招いておきながら、外に向かって開かれているようには見えない。

 

そこには例えば、どちらかというと日本社会から冷たく扱われることが多い、全ての日本人移民や日系人の皆さんを等しく大会に呼んで、彼らの功績を大会で顕彰したり交流をしたり、というような大らかな発想があまりないように見える。 

 

こだわりのない人やこだわりのない物はつまらない。でも「こだわり過ぎる」のは何ごとにつけ鬱陶(うっとう)しい。

 

僕は沖縄にも適度にこだわりつつ、それよりもさらに強く「島」というものにこだわりを持ち続けている。例えば島である「沖縄」とはひどく限定されたある特殊なコンセプトだが、沖縄という枕詞を消したただの「島」とは、限定されながら大きな広がりも持つ豊かな概念である。

  

つまり「島」とは、例えば僕の生まれた極小辺鄙の島であり、それより少し大きな宮古島や石垣島であり、また少し大きな九州島でもあり本州島でもある。さらにそれは一段と大きな日本という島国でもあり、ついには大陸と称される世界の島々にまで広がる。

面積がオーストラリア島以上の陸地を「大陸」と呼ぶのはただの方便で、地球上のどの陸地も実は全て日本国と同じ島なのである。日本を含むそれらの島は、やがて地球という島になる。

 

さらに、地球島というのは太陽系という海に浮かぶ島であり、太陽系はそれより大きな銀河系の中の一つの島、さらにさらに、銀河系も宇宙の広がりの中の一つの島で・・というふうに果てしもなく広がって行くのが「島」なのである。 


僕はその「島」にこだわる。

 

でも決して「こだわり過ぎる」ことがないように気をつけようとも考える。

 

なぜならこだわり過ぎると、足元の小さな島の強烈な柵(しがらみ)にからめ取られて、島以外の世界を全て「よそ」と見なしてしまうような、「島国根性」のカタマリに陥(おちい)ってしまう危険性も大だから・・

 



気分転換



僕はイタリアのミラノにある自分の事務所兼プロダクションを基点に、ほぼ20年に渡ってテレビドキュメンタリーのディレクターの仕事をしてきた。ロケでイタリア中を駆け巡っていない時は、ミラノの事務所で編集作業やリサーチその他のデスク仕事をこなすのである。

 

番組編集などで徹夜仕事になった場合は、事務所近くに確保している小さなマンションに泊まったりもするが、基本的には毎日車で40分ほどの自宅に帰る生活。

 

自宅はイタリア特産のシャンパン「スプマンテ」の里として知られる、フランチャコルタ地方の一角にある。まわりをブドウ園に囲まれたのどかな美しい場所である。

 

ミラノでの仕事に疲れて帰る田舎のわが家は、既に十分に気分転換のできる安らかな場所だが、僕はもう少しリフレッシュしたい時には、よく自宅とは反対方向に30分ほど車を走らせた。するとそこはもうスイスである。

 

つまり僕の仕事場からは自宅よりも外国のスイスの方が近いのである。

 

山国のスイスは言うまでもなく美しい国である。が、南アルプスの山々や、地中海や、強い太陽の光や、ローマ、ベニス、フレンツェなどに代表される歴史都市を懐に抱いているイタリアはそれ以上に美しい、と僕は感じている。

 

ではなぜわざわざ外国のスイスに気分転換に行くのかというと、仕事場から近いという理由もあるが、そこがスイスだから僕は喜んで気晴らしに向かったのである。

 

スイスは町並が整然としていて小奇麗で清潔な上に、人を含めた全体の雰囲気が穏やかである。

 

僕が行くのはせいぜいルガノやロカルノなどのイタリア語圏の街で、湖畔の街頭カフェやリゾートホテルのバーや、うっそうとした木々の緑におおわれた、街はずれのビアガーデンなどでのんびりする。

イタリア語圏だから、そこではミラノにいる時とまったく変わらない言葉でやりとりをする。

 

ところがそこには、イタリアにいる時の、人も自分もいつも躁(そう)状態で叫び合っているかのような騒々しさや高揚がない。雰囲気が静かで落ち着く。 

 

その気分を味わうためだけに僕はあえて国境を越えてスイスに行くのである。

 

要するに僕は、肉やパスタのようにこってりとしたイタリアの喧騒(けんそう)が大好きだが、時々それに飽きて、漬物やお茶漬けみたいにあっさりとしたスイスの平穏の中に浸るのも好きなのである。

 

仕事場を自宅の一角に移してからは、僕はまだ一度も気晴らしの「スイス往復」をやっていない。が、震災支援のコンサートも終わったし、そろそろ夏が来てビールが美味くなる季節でもあるから、スイス直通の高速道路をしばらく走って、ルガノ湖畔にビールでも飲みに行こうかと考えたりしている。

毎年6月恒例の、地中海沿岸巡りの旅に出る前に・・


震災支援 チャリティーコンサートⅦ



わが家のコンサートで集められた義援金は、ミラノの震災支援グループ「l’Isola della speranza(希望の島)」が全て管理し、陸前高田市で炊き出しなどを行っているボランティア団体の藤澤康彦さん宛てに送ることになっている。

 

イベントに参加してくれた皆さんの善意が、素早くそして真っすぐに被災者の皆さんの元に届けば嬉しい限りである。

 

l’Isola della speranza(希望の島)」の友人たちが頑張ったミラノからは、在ミラノ総領事の城守茂美夫妻をはじめとして、多くの日本人の皆さんがコンサートに参加してくれた。

 

僕ら夫婦と慈善団体の「マトグロッソ」の招待客は主にイタリア人だが、わが家のあるブレッシャ県に住む日本人の皆さんにも声をかけ、相当数が参加してくれた。そちらは主に僕ら夫婦と同じ日伊国際結婚カップル。ほとんどがイタリア人の夫と日本人の妻という組み合わせである。

 

最終的な参加者は大ざっぱに言って、イタリア人と日本人の割合が4:1程度のように見えたから、日伊連帯という観点からも、まずは成功と言っていいのではないか、と自画自賛しておこうと思う。

 

スタッフ全員の頑張りでコンサートは成功裡に終わった。おかげで安堵感も喜びもある。

 

しかし、正直に言って、達成感のようなものはあまりない。被災地の巨大な不幸が、われわれのささやかな援助でたちまち癒やされるようなものではないことを知っているからである。

 

被災者の皆さんの復興への苦しい戦いはこれからも続く。

今後、自分に何ができるかは分からないが、少なくともそのことは決して忘れずにいようと思う。

 

忘れなければ、何かの道は必ず開けると思うから・・

 

 

震災支援 チャリティーコンサートⅥ



結局、ウサギ君たちの出番はなかった。

 

期待していた最大数よりも多い220人前後がコンサートを聴きに来てくれた。集まった人数におどろいたらしいウサギ君2匹は、どこかに雲隠れをして影も形も見えなかった。

 

ほっとして、そして、腹の底から嬉しい。

 

一番の喜びは、やはり多くの皆さんが足を運んでくれたことである。そしてそれに見合う演奏パフォーマンスがあったこと。

 

ギターのセグレさんもピアノの吉川さんも、それぞれの楽器のマエストロ(名人)である。従ってソロ演奏の素晴らしさは、いわば当たり前。ところが昨日の二人はデュオさえも見事にこなした。これは少し驚きだった。

 

クラシック音楽音痴の僕には、ピアノとギターの二重奏なんて、正直うまく想像もできなかったが、卓越した二人のアーティストはなんなくこなして、しかも出色の出来だった。聴衆が大喜びしたのがその証拠である。

 

個人的にも心をゆさぶられる出来事があった。重病でもう先は長くない、と医者に宣告されているピエロとフランチェスコが、それぞれの妻に手を引かれるようにして顔を出してくれたことである。二人は兄弟で妻の親戚。僕らの父親世代のうちの最も若い年代に当たるが、残念ながら両人とも癌に侵(おか)されてしまった。

 

二人が力をふりしぼってコンサートに顔を出したのは、僕の妻への親愛はいうまでもないが、普段から僕自身をも可愛がってくれていて、そこから震災に見舞われた日本への愛惜を人一倍募(つの)らせているのが理由である。日ごろの二人との付き合いの中で、僕はそうしたことをひしひしと感じているから、二人の姿を見て涙ぐむほどの感動を覚えた。

 

募金そのものもうまく行った。全てが思った以上に首尾よく運んだ。

 

ほんの少しだけ反省点があるとすれば、220人はわが家でのコンサートとしては、いささか多すぎる人数だったかも知れないということである。会場とした中庭には、詰めに詰めれば500人ほどの聴衆が入れるだろうが、そんなことをしては最早この館でクラシック音楽のコンサートをやる意味が無い。

 

古い貴族館でのコンサートの良さは、ちょっとばかりの気取りと「優雅」である。それが売りなのである。コンサートに続いて供される立食パーティやブッフェも、あくまでもそのコンセプトの中にある。そこに多人数が群(むらが)ってしまうと、元も子もない。また私邸で開く宴(うたげ)だから、余りにも人数が多いと何もかもがキャパシティーを越えてしまう。

 

わが家でのイベントの場合は、やはり最大200人程度が少しの「優雅」を維持できる人数。220人はほんのちょっとオーバーかも・・という微妙な数だった。

 

「優雅」などと言って、わざと少しのスノビズムを「売り」にするのにはもちろん意味がある。そこではより大きな金額を集めやすいのである。

 

100円の善意も10000円の善意も、善意は善意である。しかし、少ない数の参加者からより多くの義援金を集めるためには、心を鬼にしてひたすら10000円を追求するしかない。それでなければ主催者のただの自己満足に終わってしまう。

 

チャリティーコンサートの目標は自己満足ではなく、あくまでも被災地を助けることである。従ってわが家のような貴族館のイベントで、「優雅」を売り物にすることをためらっていては、目標を達成することはできない。

 

より多くの参加者から広く浅く義援金を集めるのであれば、私邸でコンサートを行ってはならない。何千人も或いは何万人も聴衆が入れるような広い場所で開催するべきである。コンサート会場や学校のグラウンドや球場などなど・・そういう場所はいくらでもある。

 

そういうわけで、わが家を会場にした昨夜の東日本大震災支援コンサートは、参加者の数という意味では「嬉しい悲鳴」を上げるレベルに達し、ぎりぎりのところで何とか「優雅」も維持することができた、サクセス興行と言うことができそうである。


 

震災支援 チャリティーコンサートⅤ



忙中閑あり。

 

今日はいよいよコンサート当日。朝6時に起き出して仕事場に入る。ブドウ園に面した窓を開けると、冷たい空気がさっと吹き込んできた。

 

金曜日の夜中に強い雷雨があった。おかげで空気が澄んで朝晩はひんやりしている。日中は少し夏らしくなって気温は上昇するが、本格的なイタリアの夏はまだ先である。

 

昨年の今頃は雨が降って結構寒かった。7月にはすさまじい勢いで雹(ひょう)が降ったりもした。僕の小さな菜園は完全に破壊され、ブドウ園にも大きな被害が出た。イタリアの天気はとても荒々しく男性的である。

 

窓からブドウ園を見下ろした。いつも草を食(は)んでいる二匹のウサギの姿が見えない<東日本大震災でイタリアも揺れているⅧ>。どうやら今日のコンサート会場になる中庭に移動したらしい。

 

中庭とブドウ園はワイナリーの木製の大きな扉越しに繋がっている。年代物の扉にはそこかしこに穴が開いていて、二匹はそこから自由に内と外を行き来して過ごしているのだ。

 

ほぼ二ヶ月前にわが家にやって来た二匹のウサギは、思い切り草を食み続けてすっかり大きくなった。今では行動範囲もかなり増して、二匹は相当に広い敷地内とブドウ園を我が物顔で探索したりしている。

 


ウサギの飼い主の農夫には二匹を捕らえないように伝えた。彼らはウサギが成長したら捕獲して食べるつもりだったから、不満気な顔をしたが最後は納得した。

今では二匹はすっかりわが家の家族の一員なのだ。あまり家には寄り付かない、ちょっと放浪癖のある家族・・

 

夕方6時から始まるコンサートに二匹も参加してくれないものか、と僕はひそかに期待している。

 

玉砂利が敷き詰められた中庭には芝も木々もある。二匹は普段は芝の上で寝転がったり、食事をしたり、木々の下でかくれんぼをしたりして気ままに過ごしている。

 

今日のコンサートでは観客席は玉砂利の上に椅子を並べて作る。二匹がいつも遊んでいる芝上や木下は空き間である。

 

それなので二匹がそこに陣取って、聴衆と共にコンサートに耳を傾ける振りをしてくれたらどんなに楽しいだろうか、と想像をたくましくしているのである。

草を食むのに夢中でも、かくれんぼに熱中していてもいい。二匹がそこにいてくれれば、聴衆はきっと癒されて、コンサートがさらに盛り上がるに違いない・・



震災支援 チャリティーコンサートⅣ



コンサートまでいよいよあと二日にせまった。少しプレッシャーを感じてきた。

 

ミラノの「希望の島」の友人たちが頑張っていて、慈善団体「マトグロッソ」のスタッフも、リラックスしつつも一生懸命に動いてくれているので安心だが、やはり一抹の不安はある。

 

その最たるものは、やっぱり客足。

 

私邸でのイベントなのであまり多くの客が押し寄せて来ても困るが、だからと言ってひどく少ない数の聴衆では寂しい。

 

前回記事(震災支援チャリティーコンサートⅢ)でも書いた通り、理想の客数は200名程度だが、それより少ない150名前後でも御の字というのが僕の胸算用である。雨天ならその3割減というところか。つまり雨に降られた昨年のコンサートの客数120人程度を目指す。悪天候のときは場所を屋内に移すので、客席のキャパシティは逆にそのくらいが限界である。

 

たとえば発展途上国や、貧困家庭の子供達を支援するためのチャリティーコンサートなら、僕は客足などまったくと言っていいほど気にしなかったと思う。なぜならそういう趣旨のコンサートでは、黙っていてもある程度の数の聴衆は必ず確保できるから。

 

貧しい人々を支援する気持ちでいるイタリア人はそれほど多い。この国の人々にとっては、チャリティーや寄付行為は極めて日常的なことなのである。

 

しかし、日本はイタリアやその他の欧米諸国と同様に豊かな国である。そこがネックになる。豊かな国日本は自力で復興できるのだから、いちいち支援などいらないだろう、と多くのイタリア人が心の中では思っている。

 

それは彼らが冷たいからではない。冷たいどころか、日本に深く同情し、その素早い復興も願っている。が、わざわざチャリティーコンサートに出向いて、(日本にとっては)わずかな金額に過ぎないものを寄付するほどでもないだろう、とも考えてしまうのだ。これはイタリア人である僕の妻や、慈善団体「マトグロッソ」のスタッフなどが心配する点だから、おそらく単なる取り越し苦労とばかりも言えない。

 

卓越した二人のアーティストの出演、古色蒼然とした美しい雰囲気の会場、「マトグロッソ」と「希望の島」のすばらしいボランティアスタッフたち、そしてどうやら好天気に見舞われそうな気象予報・・・今のところ全てがコンサートの盛況を示唆しているように感じられる。


しかし・・

その上で、もしも客足が鈍いようなら、これはもう仕方がない。来て下さる客だけを大事にして、精一杯の持てなしをするばかりであろう。

 

そうすることで、出演者とわれわれオーガナイザーと、東日本大震災の被災地の皆さんとの見えない絆が、少しでも深まることを心から願うばかりである。

 

 

ヨハネ・パウロ2世と日本と



ローマ中心部の終着(テルミニ)駅前に立てられた、前ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の銅像が、本人に似ていないと市民に批判されて、それがイタリアの全国ニュースになったりしている。

 ヨハネ・パウロ2世は先日、カトリックの最高の崇拝対象である聖人の前段階、福者に列福されたばかりである。将来は確実に聖人にも列せられるとみられている。

 僕はニュースを見ながら、教皇の葬儀における日本政府の不可思議な行動を思い出した

 2005年に亡くなったヨハネ・パオロ2世の追悼式は、世界中が固唾を飲んで見守る壮大な祭礼だった。そこにはヨーロッパ中の王室と政府首脳とアフリカ・アラブ・南北アメリカの元首がほぼ全員顔をそろえた。元首や国のトップを送りこんでいない国を探すのが難しいくらいだった。

 例えば欧米主要国だけを見ても、当事国のイタリアから大統領と首相をはじめとするほとんどの閣僚が出席したのは当たり前として、イギリスからは、自らの結婚式まで延期したチャールズ皇太子と当時のブレア首相、フランスがシラク大統領、ドイツは大統領とシュレーダー首相、アメリカに至っては当時の現職大統領ブッシュ、前職のクリントン、元職のブッシュ父の三代の大統領と、ライス国務長官という大物たちがそろって出席したのである。

 そればかりではなく、葬儀にはヨーロッパ中の若者と各国の信者がどっと押し寄せて、その数は最終的には500万人にものぼった。それは過去2000年、263回にも及んだローマ教皇の葬儀で一度も起きたことがない事態だった。ヨハネ・パウロ2世はそれほど人々に愛された。

 彼は敵対してきたユダヤ教徒と和解し、イスラム教徒に対話を呼びかけ、アジア・アフリカなどに足を運んでは貧困にあえぐ人々を支えた。同時に自らの出身地の東欧の人々に「勇気を持て」と諭(さと)して、ついにはベルリンの壁を崩壊させたとさえいわれる。

 ヨハネ・パウロ2世は単なるキリスト教徒の枠を超えて、宗教のみならず、政治的にもまたモラル(道徳・人道)的にも巨大な足跡を残した人物だった。そのために世界中が教皇の死を惜しみ葬儀にも注目した。

 偉大な男の葬儀が、外交的に重大な舞台になることをしっかりと認識していたアメリカは、まず世界中に12億人とも言われるカトリック教徒の心情に配慮した。さらに2000年も敵対してきたユダヤ教徒や、イスラム教徒にも愛された彼の業績の持つ意味を知り、ベルリンの壁を崩壊させた彼の政治力に対する東欧の人々の心情を汲みあげた。加えて、世界中に足を運んで貧困に喘ぐ人々を勇気付けてきた彼の業績に敬意を表して、現職を含む三代の大統領と国務長官をバチカンに送り込む、という派手なパフォーマンスを演出して見せたのだ。さすがだと言わざるを得ない。

 ではその大舞台でわが日本は何をしたか。
なんと、世界から見ればどこの馬の骨とも知れない程度の外務副大臣を送って、お茶を濁(にご)したのである。日本政府は教皇の葬儀が外交上の桧(ひのき)舞台であり、わが国の真摯な心を世界に知らしめる絶好の機会だということを、微塵(みじん)も理解していなかった。

 …あの落差は一体何なのだろう、と今でも考える。    

 日本という国はもしかすると、まだまだ「世界という世間」を知らない鎖国メンタリティーの国家なのではないか。また、当時おそらく日本政府の中には、教皇とはいえキリスト教の一聖職者の葬儀だから、仏教と神道の国である日本はあまり関係がない、という空気があったのではないか。あるいは単純に、ヨハネ・パウロ2世が生前に行った大きな仕事の数々を知らなかったのか。まさか・・

 いずれにしてもそれは、何ともひどい外交音痴、世間知らず、と世界から笑われても仕方のない間抜けな行動だった。

 あれから6年・・

 東日本大震災に襲われた日本は、被災者の秩序ある行動を世界から賞賛される国になった。

が、果たしてわが国政府はあれからどこか変わったのだろうか。大震災と原発事故への対応ぶりを見れば、相変わらず無力で無定見な政治家の集団でしかないように僕には見えるが・・



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