【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

大震災、女性の日、ミモザ・・



今日(38日)は女性の日。ここイタリアでは、黄色い球形の小さな花が蝟集(いしゅう)して、枝からこぼれるように咲き乱れる様子が美しい、ミモザの花がシンボルである。女性祭り、ミモザ祭りなどとも言う。

 

昨年311日、僕はイタリアにおける女性の日についてブログに書こうと考えて「3日遅れのミモザ祭り」とか「フェミニズムとミモザの花」とか「ミモザって愛のシンボル?闘争のシンボル?」・・などなど、いつものようにノーテンキなことを考えながらPCの前に座った。

 

そこに東日本大震災のニュースが飛び込んだ。衛星テレビの前に走った僕は、東北が大津波に飲み込まれる惨劇の映像を日本とのリアルタイムで見た。息を呑む、という言葉が空しく聞こえる驚愕のシーンがえんえんと続いた・・

 

そうやって38日の女性の日は、僕の中で、日付が近いという単純な話だけではない理由から東日本大震災と重なり、セットになって住み着くことになってしまった。おそらく永遠に(僕が生きている限りという意味で)。

 

女性の日は元々、女性解放運動・フェミニズムとの関連が強い祭りである。20世紀初頭のニューヨークで、女性労働者たちが参政権を求めてデモを行なったことが原点である。

 

それが「女性の政治参加と平等を求める」記念日となり、1917年にはロシアの二月革命を喚起する原因の一つにさえなって、1975年には国連が38日を「国際婦人デー(日)」と定めたいきさつがある。

 

しかし、この「国際婦人デー(日)」が、目に見える形で今でもしっかり祝福されているのは、僕が知る限りどうもロシアとイタリアだけのようである。

 

ロシアでは革命後、38日を女性解放の日と位置づけて祝ったらしいが、今ではフェミニズム色は薄れて女性を讃え、愛し、女性に感謝する日として贈り物をしたりしてことほぐ日になった。

 

ロシアの状況はイタリアにも通じるものがある。

 

イタリアでは38日には、ミモザの花を女性が女性に送るとされ、それには女性たちが団結してフェミニズムを謳歌する、という意味合いがある。

 

が、実際にはそう厳密なものではなく、ロシア同様にその日は女性を讃え、愛し、女性に感謝をする意味で「誰もが女性に」ミモザの花をプレゼントする、というふうである。

 

男が女にミモザの花を贈るという習わしは実は、元々イタリアにあったものである。そのせいだと思うが、女性の日をフェミニズムに関連付けて考える人は、この国にはあまり多くないように見える。

 

イタリアきってのシンガーソングライター、ファブリツィオ・デアンドレは彼の名作の一つ「バーバラの唄」の中で

 

「♪~あらゆる夫婦のベッドは

 オルティカとミモザの花でできているんだよ

 バーバラ~♪」

 

と歌った。オルティカは触れると痛いイラクサのこと。

 

結婚生活は山あれば谷あり、苦楽でできているんだよバーバラ、と言う代わりに「夫婦のベッドはイラクサとミモザで作られているんだよ、バーバラ」と艶っぽく表現するところがデアンドレの才能だけれど、そういう言い回しができるのがイタリア語の面白さだとも考えられる。

 

だって、これを正確な日本語で言い表すと「夫婦の褥(しとね)は~でできている」とか「夫婦の寝床は~でできている」とかいうふうになって、とたんにポルノチックな雰囲気が漂い出しかねない・・

 

ミモザは前からそんなふうに僕に多くのことを考えさせる花だったが、そこに東日本大震災のイメージが重なって、いよいよ複雑な感情移入をしないではいられない「なにか」になってしまった。

東日本大震災一周年、誇りの再生あるいは確認の時



イタリア最大の週刊誌「パノラマ(panorama)」の最新号が、3月11日を待たずに東日本大震災一周年記念特集を組んだ。1日に発売された同紙の表紙はまるで日章旗そのもののデザイン。白地に大きな日の丸を描き、その中心に「奇跡の日本-以前よりもさらに力強く」と大きくタイトルを打っている。さらにキャプションで地震と津波と原発事故の3重苦に見舞われた日本は、危機的状況に長く留まるであろうという大方の予想を覆して、わずか1年で立ち上がり復興に向けて力強く歩みだした、と説明している。
15ページにも及ぶ「パノラマ」の特集記事は先ず、宮城県の女川市と仙台空港の地震直後、3ヶ月後、さらに6ヵ月後の定点撮影写真を掲載しながら、災害現場から瓦礫が取り除かれ整理されていく様子を紹介して、復興への着実な歩みを印象付ける構成になっている。定点撮影写真の手法は、いろいろな震災報告で使われていて目新しさはないが、瓦礫の山が消えてすっきりしていく様子は、何度見てもやはり、日本人ならではの迅速かつ正確な仕事振りが一目瞭然で感慨深い。

特に行政の仕事が大ざっぱで遅いことが多いここイタリアでは、紹介された一連の写真を見ただけで驚く読者が相当数いるに違いない。なにしろ2009年に起きたイタリア中部地震の瓦礫の整理さえまだ完全には終わっていないし、最近ではナポリのゴミの山の問題が、人々の気持ちを深く落ち込ませたりもしているお国柄だから。

言うまでもなく東北の被災地の瓦礫処理作業はまだ道半ばであり、パノラマの記事でも、2253万トンにものぼる被災地の瓦礫(イタリア全体が一年で出すゴミの約73%に相当する)のうち、2012年2月現在で5.2%が最終処分されただけに過ぎない、と説明することを忘れてはいない。しかし、東北が蒙った圧倒的な被害規模を考慮すればそれでも、日本の作業の進み具合はほとんど奇跡に近い、とこの国の人々が考えても何ら不思議はないのである。

続けて特集記事は、高速道路や鉄道などのインフラ復旧の早さと効率の良さを紹介したあと、大まかに論点を3つに絞って考察を展開している。それは、1)我慢強い国民性、2)産業力の圧倒的な強さ、3)政治の怪物的な無能ぶり、の3点である。そこには日本への真摯な賞賛が溢れている。特に1)と2)に対する思い入れは強く、ほとんど絶賛と言っても良いほどの論陣を張っている。3)の政治の無能を指摘することでさえ、1)と2)の素晴らしさを際立たせるための道具、というような書き方なのである。

パノラマは言う。日本経済の牽引車である自動車産業は今年1月の時点で18.8%の伸び率を示し、東北の部品メーカーの停滞で落ち込んだ昨年の実績が嘘のようにエンジン全開となった。2012年、イタリアを含むEUが債務危機のあおりで-0.5%という厳しい経済成長率を予測されているのに対して、日本経済はなんと、1、7%の成長率が見込まれる(IMF予測)。日本経済の長い間の低迷と大災害に見舞われた昨年の-0、5%の成長率は、今年見込まれる1.7%という大きなジャンプへの助走にしか過ぎなかった。それは決して偶然の出来事ではない。自動車に限らず、付加価値を付ける能力に長けた日本の産業は大震災のあとも健在である。例えばロボット作りもその一つ。経済大国になった中国ではロボットへの需要が急速に大きくなったが、最先端技術であるロボットは日本人にしか作れない。中国人は日本に頭を下げるしかないのだ。

事ほど左様に、日本経済が過去20年に渡って停滞し続けたという経済統計は、単なる伝説であることが明らかになりつつある。日本はヒロシマとナガサキの悲劇を乗り越え、数々の地震災害を撥ね返し、多発する火山の憤怒に打ち勝ち、そして今東日本大震災の3重苦を克服しようとしている。そうした奇跡は、原発の停止によって発生した電力供給能力の急激な低下を、火力と水力に切り替えることで成し遂げられたのだが、原発を素早く他の発電機能に置き換えて電力を確保してしまうこと自体もまた、驚嘆するべき能力であり日本経済の揺るぎない底力を示している。

返す刀でパノラマはわが国の政治の蒙昧も厳しく指摘する。

被災地救済の特別予算こそ与野党一致で通したものの、日本の政治家は国難を尻目に国会で喧嘩ばかりしている。政府はあってないようなもの。首相はこの6年間で6回変わり、有権者の46%が総理大臣なんて誰がなっても同じ。何も期待しない、と答えた。日本は政治の脳死状態の中にあるが、国民と産業界と地方自治体から成る健全優秀な肉体は、何の問題もなく動き続けている、とたたみかける。

パノラマが、しかし、さらに持ち上げて強調するのは日本の国民性である。わざわざ『我慢』という漢字まで文中に実際に使って、被災地の皆さんをはじめとする日本国民の自己犠牲の精神と、忍耐と、強靭な連帯意識の尊さを、これでもかこれでもかとばかりに誉めたたえている。僕は記事を読みながら、まるでエズラ・ヴォーゲルの著書「ジャパン・アズ・ナンバーワン」にはじめて接した時のような、こそばゆい思いさえしたほどだ。

同時に僕は当然、震災直後から世界中の人々が寄せ続けた日本への好意と大きな賞賛も思っていた。そしてあの時と今とは一体何が同じで何が変わっているのか、見極めようとした。震災直後に世界から日本に送られたエールの数々は、ある意味で当たり前のことだった。未曾有の災害に見舞われた国民に同情しない者などいる筈もなく、大震災が起こった直後から世界は日本をあたたかい目で見つめ続けた。

あの時もわれわれ日本人は自らを誇らしく思った。日本人が当然のこととして考え、行う行為が、かけがえのない尊いものであることを外国人の目を通してはじめて気づいたりもした。また、特にパノラマの記事が指摘するような「我慢」や「忍耐」の精神が、世界を驚かせることに驚いたりもした。我慢は自己犠牲の心に通じ、連帯感を芽生えさせ、お互いに助け合い頑張ろう、という強い意志の発露ともなる。しかもそうした覚悟や行動様式は日本人の場合、外に向かって大きくうねりを上げて突き進んでいくものではなく、内に秘めた静かな強い芯のようなものになって体内に沈殿する、と僕には感じられる。それは慎みになり謙遜を誘い節度を生む。日本人の真の美質である「日本的なもの」の完成である。それはまさしく、パノラマがわざわざ日本語の漢字を印刷してまで指摘した『我慢』の中に脈々と波打っているもの、と断定してもあながち過言ではないように思う。われわれはきっとパノラマの賛美を素直に喜んでいいのだ。

これから先しばらくは、おそらく世界中のメディアが競って東日本大震災の一周年特集を組むだろう。そしてその多くが、パノラマと同じように日本に対して肯定的な意見や主張を展開するのではないか。もしそうなれば、それは世界の人々のわが国に対する応援であり、好意であり、そして何よりも忌憚のない賛辞である。われわれはその事実を斜に構えることなく、照れず、真っすぐに受け止めて内なる力となし、さらに謙虚になって前進するべきである。巨大な不幸から一年が経った今、一年を頑張り抜いた被災者の皆さんに深い敬意を表すとともに、われわれ自らをもあらためて見つめ直し、鼓舞し、誇りにするべきなのである。

「中東のダイアナ妃」の化けの皮



欧米のメディアが「中東のダイアナ妃」「砂漠の薔薇」などと呼んで賞賛してきた、シリアのアスマ・アサド大統領夫人の化けの皮がはがれようとしている。いや、もうはがれてしまったと言ってもいいだろう。

 

先月、イギリスの新聞「タイムズ」は“アサドの妻、沈黙を破る”という見出しで、アスマ夫人の公開状を掲載した。シリア危機の発生後、表舞台から姿を消して沈黙を続けていた彼女は、同じタイムズ紙が「アスマ・アサド大統領夫人は、弾圧によって多くのシリア国民が犠牲になっている現実をいったいどう考えているのだろうか」と問いかけた公開状に答える形で、同紙に連絡をしたのである。

「アサド大統領夫人は」と、3人称形式で綴られたメール書簡の中で、彼女は「大統領の夫を支持する」と述べ、「国内の抗争を解消するための対話の構築に腐心し」「暴動に巻き込まれた犠牲者市民の遺族の救済に力を尽くしている」という内容の主張を行なった。

人々は、アスマ夫人が夫の弾圧政策を支持すると明確に述べたことに驚き、且つ対立する国内勢力間の対話の構築に奔走し、暴力の犠牲者遺族の救済に力を尽くしている、という真っ赤な嘘にさらに驚愕した。

イギリスで生まれ育ったアスマ夫人は、シリア騒乱の勃発までは同国内で慈善事業に邁進する進歩的な女性と見なされ、欧米メディアから「中東のダイアナ妃」という愛称さえ与えられていた。そればかりか、騒乱発生から間もない昨年3月には、ファッション雑誌ヴォーグが彼女を「砂漠の薔薇」と讃えてしまい、世界世論の顰蹙(ひんしゅく)を買ったりする事件も起きた。ロンドン生まれの若くて美貌の独裁者の妻は、そうやって多くの欧米メデァアを惑わせてきたのである。

なぜ欧米のメディアはアスマ・アサド大統領夫人を持ち上げ、注目しつづけてきたのか?

それは彼女がアラブ革命の希望の星だったからである。アラブ革命の本質とは言うまでもなく、民主化であり抑圧からの解放である。それには必ず女性解放が伴なう。逆に言えば、女性解放を伴なわない民主化は決して真の民主化ではない。

 

多くのシリア国民が殺害され、弾圧が続き、内戦勃発さえ懸念される状況の前では、大統領夫人の動向などどうでもいいことのようにも見えるが、アスマ夫人を巡るメディアのこだわりの裏には、アラブ革命の根幹の一つを成す「女性解放」という重大なコンセプトが存在するのである。


欧米が勝手に思い込んだことではあるが、人々は彼女にチュニジア・エジプト・リビア・イエメンなどの独裁者の妻や家族とはまったく違う役割を期待してきた。具体的に言えば、独裁者の夫を説得して弾圧をやめさせる。あるいは夫の横暴に反旗を翻して国際世論に訴える。あるいは国外脱出を試みる。あるいは亡命する・・などなど。

 

シリア危機発生前までの彼女の姿が真実なら、夫人は必ずそういう行動に出るはずだった。そして彼女の反抗がたとえ失敗に終わっても、いや失敗に終わった時こそ欧米メディアは、夫のアサド大統領をさらに苛烈に指弾して国際世論を盛り上げ、ついには権力の座から引き摺り下ろすことが可能になるかも知れない。誰言うとなくそんなシナリオが描かれていたように思う。しかし、アスマ夫人が選んだのは「沈黙」という期待はずれの動きだったのである。

ロンドン生まれでイギリス国籍を有し、民主主義大国の教育を大学まで一貫して受け、JPモルガンに勤務した経験もある極めて進歩的な女性、アスマ・アサド大統領夫人。女性の地位向上のためにねばり強く活動をつづけるファーストレディ。3人の子供の母親で慈愛深く、身分を隠して貧民街を歩いては人助けをする・・・などなど、まるで聖女そのものような彼女のイメージは、1年近い沈黙の間に大きく傷ついた。シリア国内の反政府活動家らの告発もあって、独裁者の夫に寄り添う弾圧の共犯者、という見方が徐々に強まったのである。

それでも英国を中心とする欧米のメディアはアスマ夫人への期待を完全に捨て去ることはなかった。

 

「アスマ大統領夫人は夫と同罪の抑圧者であり巨大な権力と金を握っている」と主張する反政府側に対して、欧米は「夫人は無理やり沈黙を強いられているばかりか移動の自由さえ奪われている。また彼女は優雅な生活や贅沢が好きなだけであり、例えば国家の富の大半を盗んだと批判されるエジプト前大統領夫人のスザンヌ・ムバラクなどとは違う」と弁護したりもした。

 

嘘で固められた夫人の公開状を掲載したタイムズ紙に至っては「われわれはアスマ夫人に返答を督促(とくそく)したことはないが(彼女が自主的に公開状を送ってきた・・)≪( )内は筆者注≫」とまるで未練たっぷりにも見える但し書きまで付けたほどである。

だが、夫人が沈黙を守っている間に、シリア国内外の反政府運動家たちによって、彼女の裏の顔は徐々に暴かれていったのであり、このタイムズ紙の弁護は笑止でさえある。

英国籍を持つ彼女は現在では、イギリスにいる実家の家族と結託して大きく財を蓄えつつあり、カタール首長夫人と共同で高級ホテルチェーンを経営したりもしているという。

 

夫人はそうした噂に対抗して、タイムズ紙を通して自らの立場を表明してみたものらしい。しかし、国民を殺戮する夫の立場を支持する、と述べた愚かな声明は致命的なミスだった。

 

人々は今では彼女に対して何の希望も期待も持たなくなり、黒い噂はたちまち真実になって一人歩きを始めた。夫人の今をあえて感傷的に表現するなら、さしずめ「地に落ちた中東のダイアナ妃」あるいは「血にまみれた砂漠の薔薇」とでもいうところか。

僕自身の考えを言えば、アスマ夫人はバッシャール・アサド大統領と結婚した頃まではまさしく、民主的に開けた考えを持つ女性であったろうと思う。彼女のみならず夫のアサド大統領も当初はそうだったのではないか。バッシャール・アサドは、シリアの民主化も視野に入れた進歩的な考えを持って権力の座に就いたフシがあるのである。

 

妻のアスマは夫以上にシリアの民主化を願い後押しをする積もりでいたに違いない。しかし、権力と金と特権はしばしば人を狂わせる。シリアの最高権力者とその妻は時間と共にその罠に嵌まって行った。

 

バッシャールは徐々に独裁者の様相を強め、アスマ夫人もまた同じ道をたどった。間もなく、シリア危機勃発によってその傾向は決定的になって、2人はもはや後戻りができないところまで行ってしまった。僕にはそういう風にも見えるのである。


独裁とはほとんどの場合ファミリービジネスである。2人はこの先も権力の掌握にこだわる一方で、国外送金を含めた蓄財にやっきになって行くに違いない。権力の座からすべり落ちたときは、頼りになるのは金だけである。

 

アサド政権が崩壊する可能性も見つめて、また奇跡的に権力にしがみつくことに成功した場合にはなおさら、彼らは国家から盗み出す莫大な金を死守するべくあらゆる方策を練って行くだろう。それはエジプトやリビアの例を持ち出すまでもなく、アラブの春の動乱の中でこれまで何度も繰り返されてきたことである。

 

そして、シリア国内からの外国送金をはじめとする金の操作を国際的に自由にできるのは、欧米の規制を受け易いシリア国籍のアサド大統領やその側近ではなく、イギリス国籍を有するアスマ夫人その人なのである。


 

 

ルーチョ・ダッラを知ってるかい?



天才シンガーソングライターのルーチョ・ダッラが亡くなった。69歳の誕生日を前にしての訃報。スイスでのコンサートツアー中に心臓発作に見舞われてしまった。

 

僕は彼とは仕事をしていない。友だちとも言えないかもしれないが、でも彼はいつも僕の心の中にいた。

 

1994年の夏、僕はシチリアのリパリ島でルーチョに会った。マグロを追いかけるドキュメンタリーの撮影中のことだった。

 

僕はシチリア本島のメッシーナから遠出をした猟師たちと共に船で寝泊りをして、連日マグロ漁の撮影をしていた。

 

ルーチョはリパリ島で船上のバカンスを過ごしていて、港で一緒になったのだ。

 

彼は僕が行動を共にしている猟師たちと友だちで、よくこちらの漁船にやって来ては夕食を一緒に食べた。カジキマグロを中心にした猟師料理は抜群の美味しさで、彼はリパリ島にいるときはひんぱんに猟師の船に招かれて食事をするのだという。

 

ルーチョはシンプルで自然体で優しい人だった。僕はそこで彼と親しくなり、いつか一緒にドキュメンタりー番組を作りましょうと話した。ルーチョは快くOKしてくれた。

 

その機会はないまま時間は過ぎた。僕の作るドキュメンタリー番組は実は、市井の人々を取り上げるのがほとんどだ。有名人は追いかけないし、あまり興味もない。

 

この世の中に存在する一人一人の人間の生きざまは全てドラマチックである、というのが僕の持論である。従ってあらゆる人々の人生はドキュメンタリーになりうる。

 

有名歌手のルーチョ・ダッラの日々は、市井の人々のそれよりも既に激しく劇的である。でもそれはいわば劇場劇とも言える特殊な劇で、劇場の外の広い巷間に展開される劇とは違うものである。有名人という名の劇場劇と市中劇とは違うのだ。僕が有名人を追いかけるドキュメンタリーに興味がないのはそれが理由である。

 

でも、先のことは分からない。僕はいつか劇場を出たルーチョ・ダッラの人生に行き逢うかもしれない。そのときに、共にドキュメンタリーが作れないとは誰にも言えないのである。

 

シチリア島で出会ったあと、ルーチョ・ダッラとは猟師たちを介して消息を尋ねる程度の付き合いしかなかった。それは付き合いというよりも、天才歌手への僕という一ファンの思い入れ、いう方があるいはふさわしい関係ではあったかもしれないが、僕は彼と仕事をする「可能性」を片時も疑ったことはなかったのである。

 

その機会がないまま時間が過ぎてルーチョは亡くなってしまった。

 

実は僕はファッションデザイナーのジャンフランコ・フェレとも全く同じような体験をしている。NHKの中継番組で一緒に仕事をした時、いつか一緒にドキュメンタリーを撮りましょうと約束したものの、実現しないまま天才デザイナーも亡くなってしまった。

 

彼らの人生は、僕が作るささやかなドキュメンタリーの枠組みなどからは大きく逸脱した、輝くばかりの劇場劇の連続だったのだから、それはそれでまったく問題ないのだけれど。

 

ルーチョ・ダッラを知らない人のためにユーチューブのリンクを一つ。自身のマスターピース『カルーソ』をヴィタスと共に歌うルーチョ・・

 

 

 

イタリア危機に群がる欲望たち




イタリア危機がやって来てベルルスコーニが去って、モンティ新政権が危機脱出のための緊縮財政策を始めて以来、イタリア国民の生活は日々苦しさを増している。

 

原発が稼動していないことが大きく影響して、この国の電気料金はもともとヨーロッパ一高く、ガソリンの値段もほぼ同じ状況がつづいていた。

 

増税と歳出カットを柱にしたモンティ緊縮策がスタートしてからは、あらゆる分野に似たような状況があらわれた。

 

そして、ついにイタリア国民一人当たりの年収は、先週末の統計で約2万3千ユーロとなって、ドイツやオランダのそれの半分近くにまで減った。

 

その数字はギリシャやスペインよりも低いのだ。すべて危機脱出を図るモンティ政権の増税策が原因である。

 

イタリアの元々の財政状況は実はそれほど悪くはなかった。たとえばドイツなどに比べれば、それは確かに良いとは言えないが、基礎的財政収支いわゆるプライマリーバランスは、イタリア危機が叫ばれる直前でもプラスだったのだ。

 

基礎的財政収支がプラスということは、日本や米国などと比較した場合は優等生と言っても過言ではない良好な状況だったのである。

 

それでもイタリアは財政危機に陥った。なぜか。

 

それが世界経済(特に金融市場)の摩訶不思議なところで、数字や論理やファンダメンタルズ(経済活動状況を示す基礎的な要因や数値)だけでは説明ができない。

 

投資家や投機筋や金融機関などの思惑や、不安や、期待や、術策などが複雑にからまって動いているからだ。

 

つまり世界中の投資家や投機筋や金融機関が、ギリシャの財政危機を見てイタリアにも不安を持った。そのためにイタリア国債(イタリア政府の借金)に信用不安が生まれて価値が下がった。

 

国債は価値が下がれば金利が上がる。この上がった金利をイタリア政府は支払えないのではないか、という疑心暗鬼が生じてますます状況が悪くなる・・

 

簡単に言えばそういうことだ。

 

要するに損をしたくないという人間の感情、つまり「欲」が大きく影響してイタリア危機は生まれた。

 

そして、今のイタリア国民の生活の痛みを通してやがて財政収支は改善し、それを見た世界の投資家は安心して、今度は儲けたいという欲に駆られて再びイタリアへの出資を始める。

 

つまりイタリアを危機に陥(おとしい)れた彼らの感情、つまり「欲」が今度はイタリアを財政危機から救い上げるのである。

 

人間の欲って醜悪だし気持ち悪いけど、でもしたたかに面白い・・



ステレオタイプたちのステレオタイプなののしり合い(Ⅱ)



ドイツ国民とイタリア国民が、週刊誌のデア・シュピーゲルと新聞のイル・ジョルナーレを介して
いがみ合いを続けている間も、両国政府は欧州財政危機の回避に向けて緊密に連絡を取り合って仕事をしている。先週末にはメルケル首相がローマを訪問してモンティ首相と会談するはずだったが、ドイツのウルフ大統領が汚職疑惑がらみで辞任したことを受けて、ローマ訪問を中止した。

ウルフ氏は映画制作者から金銭を含む便宜供与を受けたり、他の事業者とも癒着するなど、イタリアの汚職政治家も顔負けの悪徳為政家だったわけだが、幸いイタリアのメディアは、ドイツ大統領の汚職事件をデア・シュピーゲル対イル・ジョルナーレの口論にからませて、不毛な水掛け論に持ち込んだりはしていない。

ドイツのメルケル首相とイタリアのモンティ首相は強い信頼関係で結ばれている。前任のベルルコーニ首相の時とは大違いである。それはあえて言えば、モンティ首相の財政の舵取りがドイツ的だからである。あるいはEU信奉者であるモンティ首相が、EU(つまりこの場合は主にドイツ)の意に沿った方向でイタリアの財政再建に向けて邁進しているからである。国民に多くの犠牲を強いる財政緊縮策を厳しく、緻密に、且つ粛々として押し進めている彼を、ドイツを中心とするEUは今のところ評価している。ドイツ政権とイタリア政権の蜜月関係はそこに起因している。

しかしそれは、デア・シュピーゲルの記事をきっかけに表面に出た、イタリア国民とドイツ国民の間にくすぶっている古くて新しい問題とは別の話である。さらに言えば、両国の間にくすぶっている古くて新しい問題とは実は、ドイツ国民とその他の全ての欧米諸国民との間の問題、と普遍化してもいい極めて重要な論点なのである。

イル・ジョルナーレがデア・シュピーゲルに『われわれにスケッティーノがあるなら、ドイツ人のお前らにはアウシュヴィッツがある』と言い返したことを受けて、ヨーロッパでは国境を越えて大きな反響があった。ネットなどの書き込みを見ると、人々はイル・ジョルナーレの立場に寄り添いつつも「アウシュヴィッツ」という言葉に困惑し、それでもやはりナチスのアウシュヴィッツでの蛮行を心のどこかで糾弾する思いにあふれたものが多かった。僕がこの前の記事でドイツ国民の言動を憂い、それだけでは飽き足らずにまだこうしてこの問題にこだわっているのもそれが理由である。

最近のドイツは危なっかしい。特にギリシャの財政危機に端を発したEU危機以降、その兆候が強くなった。ドイツは言うまでもなくEU加盟国の中では財政的にもっとも強く且つ安定している経済大国である。そればかりではなくEUの牽引車としてフランスとともに危機脱却のために奮闘している。そのあたりから来る自信のようなものが、ドイツ国民をどうも少し驕慢にしつつあるようにも見える。危なっかしいとはそういうことである。

兆候がはっきりと現れたのは2010年2月。ドイツの週刊誌が、右手の中指を突き立てているミロのヴィーナス像の合成写真を表紙に使って『ユーロファミリーの中のペテン師』というタイトルで、ギリシャの財政問題を強く避難する特集を組んだ頃である。その4ヶ月前の2009年10月、発足したパパンドレウ新政権の下で旧政権が隠蔽しつづけていた巨額の財政赤字が表に出た。それまでギリシャの財政赤字はGDPの4%程度とされてきたが、実際は12、7%に膨らみ、債務残高も113%にのぼっていることが分かった。いわゆるギリシャ危機の始まりである。ドイツの週刊誌は、そのことを皮肉って特集を組んだのだった。

それはギリシャ政府の放漫財政を攻撃したジャーナリズムの当たり前の動きだった。ギリシャはドイツにとって外国とはいうものの、統一通貨のユーロという船に乗った運命共同体である。しかも、ギリシャ危機のツケをもっとも多く被るのは、EUの優等生ドイツになることは火を見るよりも明らかだった。従って、ドイツが怒っても少しも不思議ではない、と第三者の僕のような人間の目には映った。

ところがギリシャ人にとってはそうではなかった。週刊誌の写真はギリシャを侮辱するものだとして激しい反発が起こった。パリのルーブル美術館に所蔵されているミロのヴィーナスは、古代ギリシャの巨大な芸術作品のひとつであり、ヨーロッパの至宝である。週刊誌は、そのミロのヴィーナス像を汚した上にギリシャ人を侮辱したとして人々は怒った。中指を突き立てるのは欧米ではもっとも嫌われる行為。それは尻の穴に中指を突き立てる、という暗喩で顔に唾を吐きかけるのと同じくらいの侮辱、挑発と見なされる。

週刊誌は、神聖なヴィーナス像に最悪のアクションを取らせて彼女自身を侮辱した上に、そのヴィーナスの中指がギリシャの尻の穴にずぶりと突き立てられる、という実にえげつないメタファーを示してギリシャ国民を侮辱した、と多くのギリシャ人は感じた。今でこそ国力ではドイツに遠く及ばないが、ギリシャ人には、過去にヨーロッパの核を成す文化文明を生み出したという自負がある。それは歴史的事実である。だからギリシャ人は、彼らにとってはいわば「新興成金」に過ぎないドイツからの侮辱を甘んじて受けたりする気はない。その上、ドイツはナチスのおぞましい闇を抱えた国だ。思い上がるのもほどほどにしろ、と反発したのである。

ギリシャ人を含めた全てのヨーロッパ人は、ドイツの経済力に感服している。同時にドイツ以外の全てのヨーロッパ人は、心の奥で常にドイツ人を警戒し監視し続けている。彼らはヨーロッパという先進文明地域の住人らしく、ドイツ人とむつまじく付き合い、彼らの科学哲学経済その他の分野での高い能力を認め、尊敬し、評価し、喜ぶ。

しかし、ドイツ人は彼らにとっては同時に、残念ながら未だにヒトラーのナチズムに呪われた国民なのである。ドイツ以外の全てのヨーロッパ人が、心の奥で常にドイツ人を監視・警戒している、というのはそういう意味である。いや、ヨーロッパ人だけではない。米国や豪州や中南米など、あらゆる西洋文明域またキリスト教圏の人々が、同じ思いをドイツ人に対して秘匿している。

僕はここではたまたま、欧州危機の元凶とされるギリシャとイタリアに対するドイツメディアの反応、というところから論を進めることになったが、ドイツとギリシャあるいはドイツとイタリアとの関係性は、ドイツと欧米のあらゆる国とのそれに当てはまる。

それと矛盾するようだが、今メディアを通してドイツといがみ合っているイタリアを筆頭に、欧米諸国のほとんどの人々は、前述したようにドイツ国民の戦後の努力を評価し、アウシュヴィッツに代表される彼らの凄惨な過去を許そうとしている。しかし、それは断じて忘れることを意味するのではない。「加害者は己の不法行為をすぐに忘れるが被害者は逆に決して忘れない」という理(ことわり)を持ち出すまでもなく、ナチスの犠牲者であるイタリア人(枢軸国の一角であるイタリアも加害者だが、最終的にはイタリアはドイツと袂を分かち、あまつさえ敵対してナチスの被害を受けた)を含む欧米人の全ては、彼らの非道を今でも鮮明に覚えている。そのあたりの執念の深さは、忘れっぽいに日本人には中々理解できないほどである。

ドイツ国民は他者の寛大に甘えて自らの過去を忘れ去ってはならない。忘れないまでも過小評価してはならない。なぜなら、ドイツ国民が性懲りもなく思い上がった行動を起こせば、欧米世界はたちまち一丸となってこれを排斥する動きに出ることは間違いがない。ドイツと欧米各国の現在の融和は、ドイツ国民の真摯な反省と慎みと協調という行動原理があってはじめて成立するものであることを、彼らは片時も忘れてはならないのである。

ローズの勇気


ローズ・ニントゥンツェは身長186センチ、痩せ型、鼻筋のすっと通った輝くばかりに美しい30代前半のアフリカ人女性である。

 

彼女は、北イタリアのブレッシャ県を本拠にする、アフリカ支援が専門の大きなボランティア団体の秘書をしている。

 

ローズはその団体のメンバーのひとりである僕の妻と先ず親しくなった。妻とローズたちが行なう様々なボランティア活動の場で何度か顔を合わせるうちに、やがて僕も彼女の友だちになった。

 

先週末、ローズは妻と僕の要請に応じて、僕らの住む村の図書館で「ルワンダ虐殺」について講演をしてくれた。

 

ローズは「ルワンダ虐殺」に巻き込まれて九死に一生を得た過去を持つ。彼女は奇跡的に生き延びたが、母親と2人の兄および16人の親戚が事件の犠牲になった。

 

ルワンダにはツチとフツとトゥワという3種族がいる。

 

ルワンダの人口の約15%を占めるツチ族の人々は、長身で鼻が高く痩せ型。いわゆるマサイ系の人々である。ローズもツチ族の女性だ。

 

トゥワ族の人々は対照的に小柄。いわゆるピグミー系の種族で人口の1%に過ぎない。

 

人口の84%を占めるのがフツ族。彼らが普通に見られるアフリカの黒人の人々と言っていいだろう。

 

1994年に起きた「ルワンダ虐殺」は、同国の多数派であるフツ族の過激派が、少数派のツチ族と共に自らと同じフツ族のうちの穏健派を大量殺害した事件である。

 

事件はイギリス、イタリア、南アフリカの三ヶ国が共同制作した「ホテル・ルワンダ」でも詳しく描かれた。

 

「ルワンダ虐殺」では、約100日間におよそ50万人から100万人が犠牲になったとされる。それはルワンダ全国民の10%から20%にあたり、最終的には隣国のブルンジと合わせて120万人以上が殺害されたという説もある。

 

ローズは正確に言うと、当時は隣国のブルンジにいた。ルワンダとブルンジの二国は、かつては同じ国だった。ベルギーの植民地時代のことである。

 

ブルンジでも歴史的に少数派のツチ族と多数派のフツ族の対立が激しく、虐殺事件では同国も巻き込まれてツチ族の多くの人々が殺害された。

 

ローズはイタリアのブレッシャノ大学の卒業論文で、自らと家族が巻き込まれた「ルワンダ虐殺」にからめて、世界の虐殺事件を取り上げた。

 

昨年それを読んで感動した妻が、論文について講演してくれと頼んだが、ローズはあまり乗り気ではなかった。シャイな性格に加えて、巻き込まれた虐殺事件のトラウマもあって中々そんな気になれなかったのである。

 

その後は僕も妻と共に彼女を説得した。今年になってローズは、顔見知りが多い僕らの村の小さな図書館でなら、という条件付きでようやく講演をOKしてくれた。

 

最近できた彼女の恋人のイタリア人ドクターの後押しも大きかった。ドクターも多くのアフリカの子供たちを助ける活動をしている。

 

それはとても良い講演になった。そこに出席した人々の何人かが、妻同様にすっかり感動して、ローズにそこかしこでのレクチャーを頼んでいる。

 

シャイで控えめなローズは、そのことにかなり困惑している。

 

僕らはローズの勇気と講演の成功を喜ぶと同時に、彼女をあちこちのイベントに引っ張り出そうとする人々を制止するのに苦労しているほど。

 

ローズがその気になって、どんどん講話を引き受けてくれれば一番いいのだが、今のところはそれはとても望めそうにない。

 

僕らは連絡をしてくる人々に事情を話し、どうかローズの気持ちを尊重してしつこくしないでほしい、と釘を刺したうえで彼女に取り次いでいるが・・

 


愛のカテリーナ



雪解けの庭の一角にウサギのカテリーナがいた!

 
丸々と太って。元気いっぱいで。

 

庭やブドウ園の草は厳寒の今も完全には枯れず、ウサギの餌は充分にある分かってはいても、一面が雪におおわれた景色を見ているとやはり心配だった。

 

雪が降っても積もっても、わが家の敷地まわりには倉庫や石垣や門扉脇などにたくさんの庇(ひさし)や日よけや屋根がある。そこには雪はない。草もよく茂る。

 

でも大雪になると、さすがにそれらの空間の多くも「流れ雪」に見舞われてうっすらと綿帽子をかぶる。古い倉庫内を除いて。

 

それなので、積雪中はカテリーナが気になって何度か倉庫周りや中を覗いてみた。しかし、一度も見つけることができなかった。

 

飢え死にすることはあり得ないと分かっていても、姿が見えないとやはりどうしてもやきもきした。

 

白状すると、僕はもうカテリーナは死んだのだとさえ考えたりした。

いろいろな可能性があった。

 

まず庭師のグイドがカテリーナを捕らえて食べてしまったこと。あるいはブドウ園やワイナリーの従業員や近所の農夫の可能性・・

 

また、犬や猫や、あるいはそれとは全く違う野生動物の餌食になったかも知れないこと。

 

さらに、もしかすると、わが家の敷地の外に逃げ出して、誰かに捕らえられたか、交通事故に遭った確率も・・・

が、

逃亡物語りの場合には、近くの畑地や藪や森にまぎれ込んで、そこで生きのびている見込みもあるので、少しの安心も。

しかし、

 

そのどれもが思い過ごしで、カテリーナはちゃんとわが家の敷地内で生きていた!

では、

 

雪が解けると同時に姿を見せたカテリーナは一体どこにひそんでいたのだろうか?

 

白い保護色を頼りに雪の中?

まさか。

 

やはり最も可能性が高いのは、倉庫の中だろう。

 

カッシーナと呼ばれる巨大倉庫は、あちこちが朽ちかけている農業用施設。

かつて、貴族家の屋台骨を支えた巨大農地と農業の、そのまた屋台骨となった建物。

 

何かの奇跡で資金が手に入れば、倉庫を改修して売却あるいは賃貸に出して、伯爵家の建物などの莫大な維持費に宛てたい、と僕が密かに考えているほどの古い大きな価値ある「準」廃屋。

 

カテリーナは、そんな建物を独り占めにして生きている・・


ウ~む、なんとゼイタクな・・・




ステレオタイプたちのステレオタイプなののしり合い(Ⅰ)



財政危機で四苦八苦しているEU(ヨーロッパ連合)の加盟国間に不協和音が深く静かに鳴り響いている。イタリアの豪華客船コスタ・コンコルディアが座礁した事件にからんで、ドイツの有力ニュース週刊誌「デア・シュピーゲル」が客船のフランチェスコ・スケッティーノ船長を非難する記事を発表した。そこまではいいのだが、記事は「スケッティーノ船長がもしもドイツ人かイギリス人だったなら、決してあのような軽薄な操船をすることはなく、船を見捨てて自分だけが助かる行動も取らないだろう。スケッティーノは典型的な卑怯者のイタリア人だ」という趣旨の論陣を張ってしまった。


この記事に対してイタリア中が激しく反発し、イタリアのドイツ大使も正式にデア・シュピーゲルに抗議をする騒ぎになった。つまりイタリアは国民のみならず政府も一体になってドイツに反発しているのである。ドイツ人が持つイタリア人へのステレオタイプな見方に対してイタリアの各メディアは怒りを表明したが、特にミラノの新聞「イル・ジョルナーレ」は『われわれにスケッティーノがあるなら、ドイツ人のお前らにはアウシュヴィッツがある』というキツイ見出しで反ドイツキャンペーンを張り、「ドイツ人へのステレオタイプな見方」に縛られている多くのイタリア国民の支持を得た。

さらに同紙はドイツ人の臆病と卑怯の典型として、2009年9月4日にアフガニスタンで起きたジョージ・クレイン大佐のアフガニスタン市民虐殺事件を引き合いに出して論じた。ドイツ軍のクレイン大佐はタリバンを怖れるあまり、自らは安全な場所に身を隠したまま市民のいる場所を友軍に爆撃させて102人を殺害した。そのことが明るみに出たとき、ドイツ防衛相は辞任に追い込まれた。大佐の行動は、彼が軍人であることを考慮すればなおさら、臆病と卑怯さにおいてスケッティーノ船長をはるかに凌駕する、と新聞はたたみかけた。

イタリア国民が他者の評価や指弾に本気で反発するのは稀である。彼らは外国からの批判や揶揄や悪口には動じない。むしろそれを受け入れて冷静に分析したり受け流したり無視したりする。こう書くと、熱い血を持つラテン人、というステレオタイプのイタリア人像に染まっている人々はきっと驚くだろう。彼らは確かに興奮しやすく大げさな言動も多いのだが、自らを見つめる自己批判の精神が旺盛で日ごろから物事を冷静に見つめるところがある。古代ローマ帝国を築き、繁栄させ、滅び、分裂し、イタリア共和国に収斂するまでの、波瀾と激動と紛擾に満ち満ちた長い歴史の中で培われた「大人の精神」は実は、冷静で緻密で真面目な印象のあるドイツ人よりも、イタリア人の中に顕著なのである。

デア・シュピーゲルの記事はタイミングも悪かった。巨大客船の運行を一手に任されていた男が、個人的な付き合いのある元船乗りを喜ばせるために巨船を無理に陸側に近づけて岩礁に激突、座礁せしめるという前代未聞の行為。その上、船と運命を共にするはずの同船長は、信じがたいことに乗客・乗員合わせて4200人もの人々を沈み行く船に残して、自らは救命ボートに乗り移ってのうのうと生きのびた。イタリア中がスケッティーノ船長の驚愕の行動に言葉を失い、困惑し、大きな怒りに包まれているそのただ中に、デア・シュピーゲルの記事が出てしまったのである。

イタリア国民は二重の意味でこれに激烈に反発した。まず、彼ら自身が誰よりもよく知っているスケッティーノという男の卑劣を、ドイツ人記者があたかも新発見のようにしたり顔で言い募ったことへの怒り。そして二つ目、これが一番大きいのだが、スケッティーノという個人の失態を「イタリア人全体の失態」ととらえて、イタリア人は皆同じ、つまりイタリア人は皆スケッティーノ」というニュアンスで論理を展開したことへの怒りである。ステレオタイプのカタマリ以外の何ものでもない愚かな主張に、イタリア中が激昂のマグマと化してしまった。そこから右寄りの新聞「イル・ジョルナーレ」の『われわれにスケッティーノがあるなら、ドイツ人のお前らにはアウシュヴィッツがある』という厳しい言葉を使った反撃記事が出るまでは時間を要さなかった。ドイツ人=アウシュヴィッツというくくり方は、昨今の欧米論壇ではほとんどタブーに近い表現である。

デア・シュピーゲルのステレオタイプにイル・ジョルナーレがステレオタイプで言い返しただけ、という見方もできるが、毒矢の大きさはイル・ジョルナーレの方がはるかに大きい。記事を書いたデア・シュピーゲルのフレシャウアー記者は、そのつもりがないままイタリアに切りつけてみたが、激しい返り討ちに遭ってしまった、という具合である。

ところで、このフレシャウアー記者の「そのつもりがないまま」というアブナイ態度が何を意味するかというと、それはずばり、想像力の欠如ということである。ここで言う想像力とは、今自分が描写したり表現している事案が「ステレオタイプになっていないかどうか」と一瞬立ち止まって絶えず自問することである。それだけでも多くの間違いが回避できる。人は誰しも「ステレオタイプなものの見方」から完全に自由でいることはできない。しかし、ステレオタイプの可能性を絶えず意識する者と、そうでない者の間には天と地ほどの違いが生まれるのである。

卑怯という言葉がひどく軽く見えるほどのスケッティーノ船長の驚愕の行為を、誰よりも先に非難し、怒り、罵倒するのはイタリア人であろう、と想像するのはたやすいことではなかっただろうか?フレシャウアー記者にはそのほんの少しの想像力が欠如していた。その想像力の欠如という致命的な欠陥は、もっと大きな間違いにつながった。つまりステレオタイプをあたかも重大な発見でもあるかのように書き連ねたことである。この愚かさが、フレシャウアー記者一人のものであることを祈りたい、と言いたいところだが、それはきっとあり得ない。

雑誌記事は記者が書いたものがそのまま掲載されることはまずない。編集者やデスクや編集長や部長や局長など、雑誌の責任者らが目を通し管理をした後に掲載が決定される。ということはつまり、デア・シュピーゲルの責任者達は誰一人として、フレシャウアー記者の書いた記事のステレオタイプな内容に気づかなかった。だからその記事は世の中に出た、ということになる。

それは偶然だろうか?・・・僕にはとてもそうは思えない。

考えられるのは、欧米では今でもよく指摘されることだが、ドイツ人の中にどす黒く沈殿しているごう慢な優越意識が彼らを支配して、皆が集団催眠状態に陥ってしまった。そのために記事の重大な誤謬が誤謬とは見なされずに表に出た。あるいは、彼らの全員が記事の誤謬を充分に知っていてあえて、つまり「わざと」それを世に問うた。もしそうだとするなら、ドイツ国民(読者)の中にヒトラーの選民思想につながる前述の優越意識があり、その要求に従ってジャーナリストたちは記事を発表したという考え方もできる。読者の読みたい内容を意識的に或いは無意識のうちに提示することが多いのが、メディアのアキレス腱の一つだ。

もし本当にそこにナチスの過去の魁偉に直結するようなものがあったとしたら、それはまず誰よりもドイツ国民にとってマズイことである。なぜなら、ドイツを除く欧米各国の国民は、アウシュヴィッツの惨劇とナチスの極悪非道な振る舞いを、今もって微塵も忘れてはいないのだ。それはヨーロッパやアメリカに住んでみれば誰でも肌身に感じて理解できる、いわば欧米の良心の疼きである。開かれた文化文明を持つ西洋人は、ナチスの台頭を許してしまったドイツ人の過去の「誤り」を許すつもりでいて、ドイツ国民に対してそのように振る舞っている。が、誰一人としてその歴史事実を忘れてなどいない。

イタリア人の場合はなおさらだ。彼らにはヒトラーと手を結んだムッソリーニを有した歴史がある。最終的にはイタリアはドイツと袂を分かち、あまつさえ敵対してナチスの被害を受けたが、初めのうちはナチスと同じ穴のムジナだった、という負い目がある。だから彼らは他の欧米諸国民よりもドイツ人に対して寛大である。彼らが過去に数え切れないほど起きた、ドイツメディアのイタリアへの皮肉や非難やステレオタイプに常に鷹揚に対してきたのもそうした背景があるからである。しかし、イタリア国民の多くは今回のデア・シュピーゲルの記事に対しては激しく反論し、今も反発している。これまでとは何かが違っている。それは恐らく今ヨーロッパに大きな影を投げかけている財政危機とも関係がある。

が、それでなくても、アウシュヴィッツの非道を人々に繰り返し思い起させるような行動は、ドイツにとっては少しも良いことではない。なぜなら人々はその度に、ドイツ人が未だにナチスそのものでありアウシュヴィッツの悪魔である、という巨大なステレオタイプにとらわれて、あっさりと過去に引き戻されて盲信してしまうことが多いからである。

それはドイツ国民が戦後、自らの過ちを認め、謝罪し、ナチスの悪行を糾弾し続けて世界の信頼を徐々に取り戻してきた、自身の必死の努力をご破算にしてしまいかねない、愚かな行為以外のなにものでもない。

 

 

スケベで嘘つきで怠け者のイタリア人?


【加筆再録】

 


世界の24時間衛星放送局の報道も、新聞に代表される紙媒体も雑誌も、そしてネットも、依然としてヨーロッパの財政危機問題で埋めつくされている。ヨーロッパ経済が沈没すれば、この地球上のあらゆる国や地域がその影響をもろに受けるのは火を見るよりも明らかだから、世界中のメディアが騒ぎ立て、議論百出して紛糾するのは当然である。

 

中でも当事者であるEU諸国のそれはかしましい。そしてそのEUの中でも、ギリシャと共に危機の元凶みたいに見なされてしまったここイタリアでは、高名な経済学者や財務官僚や金融アナリストや銀行トップや大投資家などが、メディアの要請に応じて理路整然とした数字の理屈や高邁な考察や主張を、これでもかこれでもかとばかりに連日連夜開陳している。

そうした中で、経済も数字もゆるく見えかねない自分の意見を言ったり書いたりするのは不謹慎に映りそうで気が引けるが、経済でさえ断じて数字やファンダメンタルズや理論だけで動くものではないから、僕は僭越を承知であえて人間存在の本質、つまり感情という不透明で面倒でやっかいなものに引き摺(ず)られることが多い不思議にこだわって、記事を書き続けて行ければと考えている。

僕は日本人だが、イタリア的な軽さと寛大と明朗を愛し、できれば彼らに倣(なら)いたい一心でここに住み、テレビ番組を作り、文章を書き、主張をしている。それなので僕の一連の悪文は、論理と数字と科学の明晰だけを愛する方々には、きっと不快なものであると思う。従ってそういう方々は読むのはここまでにして、どうか他の記事や論文や主張にページを移していただき、それらを吟味することに貴重な時間を使ってほしい、と腹の底からの誠実で申し上げておきたい。

閑話休題

先日の記事「“違うこと”は美しい」の中でチラと書いたことにも重なるが、イタリア人(特にイタリア男)のイメージの一つに「スケベで怠け者で嘘つきが多く、パスタやピザをたらふく食って、日がな一日カンツォーネにうつつを抜かしているノーテンキな人々」というステレオタイプ像がある。ここではその真偽について、僕なりの考えを少し述べたい。

イタリア人は恋を語ることが好きである。男も女もそうだが、特に男はそうである。恋を語る男は、おしゃべりで軽薄に見える分だけ、恋の実践者よりも恋多き人間に見える。

ここからイタリア野郎は、手が早くてスケベだという羨ましい(!)評判が生まれる。しかも彼らは恋を語るのだから当然嘘つきである。嘘の介在しない恋というのは、人類はじまって以来あったためしがない。

ところで、恋を語る場所はたくさんあるけれども、大人のそれとしてもっともふさわしいのは、なんと言っても洒落たレストランあたりではないだろうか。イタリアには日本の各種酒場のような場所がほとんどない代わりに、レストランが掃(は)いて捨てるほどあって、そのすべてが洒落ている。なにしろ一つ一つがイタリアレストランだから・・。
 
イタリア人は昼も夜もしきりにレストランに足を運んで、ぺちゃクチャぐちゃグチャざわザワとしゃべることが好きな国民である。そこで語られることはいろいろあるが、もっとも多いのはセックスを含む恋の話だ。実際の恋の相手に恋を語り、友人知人のだれ彼に恋の自慢話をし、あるいは恋のうわさ話に花を咲かせたりしながら、彼らはスパゲティーやピザに代表されるイタリア料理のフルコースをぺろりと平らげてしまう。
 
こう書くと単純に聞こえるが、イタリア料理のフルコースというのは実にもってボー大な量だ。したがって彼らが普通に食事を終えるころには、二時間や三時間は軽くたっている。そのあいだ彼らは、全身全霊をかけて食事と会話に熱中する。どちらも決しておろそかにしない。その集中力というか、喜びにひたる様というか、太っ腹な時間のつぶし方、というのは見ていてほとんどコワイ。
 
そうやって昼日なかからレストランでたっぷりと時間をかけて食事をしながら、止めどもなくしゃべり続けている人間は、どうひいき目に見ても働くことが死ぬほど好きな人種には見えない。

そういうところが原因の一つになって、怠け者のイタリア人のイメージができあがる。
 
さて、次が歌狂いのイタリア人の話である。

この国に長く暮らして見ていると、実は「カンツォーネにうつつを抜かしているイタリア人」というイメージがいちばん良く分からない。おそらくこれはカンツォーネとかオペラとかいうものが、往々にして絶叫調の歌い方をする音楽であるために、いちど耳にすると強烈に印象に残って、それがやたらと歌いまくるイタリア人、というイメージにつながっていったように思う。

イタリア人は疑いもなく音楽や歌の大好きな国民ではあるが、人前で声高らかに歌を歌いまくって少しも恥じ入らない、という質(たち)の人々では断じてない。むしろそういう意味では、カラオケで歌いまくるのが得意な日本人の方が、よっぽどイタリア人的(!)である。
 
そればかりではなく、スケベさにおいても実はイタリア人は日本人に一歩譲るのではないか、と僕は考えている。

イタリア人は確かにしゃあしゃあと女性に言い寄ったり、セックスのあることないことの自慢話や噂話をしたりすることが多いが、日本の風俗産業とか、セックスの氾濫(はんらん)する青少年向けの漫画雑誌、とかいうものを生み出したことは一度もない。

嘘つきという点でも、恋やセックスを盾に大ボラを吹くイタリア人の嘘より、本音と建て前を巧みに使い分ける日本人の、その建て前という名の嘘の方がはるかに始末が悪かったりする。
 
またイタリア人の大食らい伝説は、彼らが普通一日のうちの一食だけをたっぷりと食べるに過ぎない習慣を知れば、それほど驚くには値しない。それは伝統的に昼食になるケースが多いが、二時間も三時間もかけてゆっくりと食べてみると、意外にわれわれ日本人でもこなせる量だったりする。
 
さらにもう一つ、イタリア人が怠け者であるかどうかも、少し見方を変えると様相が違ってくる。

イタリアは自由主義社会(こういう言い方は死語になったようでもあるがイタリアを語るにはいかにもふさわしい語感である。また自由主義社会だから中国を排除する)で、米日独仏につづいて第5番目か6番目の経済力を持つ。IMFの統計ではここのところブラジルの台頭が著しいが、イタリアはイギリスよりも経済の規模が大きいと考える専門家も少なくない。言うまでもなくこれには諸説あるが、正式の統計には出てこないいわゆる「闇経済」の数字を考慮に入れると、イタリアの経済力が見た目よりもはるかに強力なものであることは、周知の事実である。
 
ところで、恋と食事とカンツォーネと遊びにうつつを抜かしているだけの怠け者が、なおかつそれだけの経済力を持つということが本当にできるのだろうか?
 
何が言いたいのかというと・・

要するにイタリア人というのは、結局、日本人やアメリカ人やイギリス人やその他もろもろの国民とどっこいどっこいの、スケベで嘘つきで怠け者で大食らいのカンツォーネ野郎に過ぎない、と僕は考えているのである。

それでも、やっぱりイタリア人には、他のどの国民よりももっともっと「スケベで嘘つきで怠け者で大食らいのカンツォーネ野郎」でいてほしい。せめて激しくその「振り」をし続けてほしい。それでなければ世界は少し寂しく、つまらなく見える。

 

ローマの雪と猿と郷愁(?)と・・



今日もはらはら、ひらひらとうすい小さな綿のような雪が舞い落ちている。

 

僕の書斎兼仕事場から見下ろすブドウ畑には、雪が厚く敷きつめられて、冬枯れたブドウの木が白い大地に突き立てられたように整然と並んで広がっている。

 

今のところ、ブドウの木々をおおい隠すほどの雪は降りそうにない。アルプスから遠くない村にあるわが家の周りには、ひんぱんにではないがドカ雪が降ってけっこう難渋することがある。

 

実際にイタリアの各地で大雪が降って、交通機関の混乱にはじまる困難や被害が広がっている。それなのに北イタリアにあるわが家の一帯には、ほとんど雪の影響は出ていないのである。

 

美しいと思えるほどの雪ならいいが、イタリアのほかの地域や新潟をはじめとする北日本の大雪などは、つらい。

 

わが家のあたりは、北陸や東北のように豪雪に見舞われる不運は起こりにくい。アルプスや前アルプスの山々が盾になって、雪雲の南下を絶つからである。

 

それでも時どき往生するような積雪がある。今がその時かと身構えているのだが、何度も言うように大雪になりそうな気配がない。南イタリアなども雪に手を焼いている日々なので、アルプスの山を望む北イタリアの村にいる自分は、ちょっと不思議な気分がするのである。

ローマも雪で難儀をしている。

 

イタリアきっての高級紙(全国紙)「Corriere della Sera(コリエーレ・デッラ・セーラ)」は昨日、古代ローマ帝国の戦士の甲冑を着た大道芸人が、雪に煙るコロッセオを背景にとぼとぼと歩いて帰宅する様子の写真と共に、首都の雪害を一面トップで報じた。

 

観光客を相手に商売をする写真の大道芸人は、まるで(チクショー、商売あがったりだ、バカ雪め!)とでもつぶやきながら、仕事場の観光スポットを後にしているように見えて秀逸。

 

同紙は一面トップから3ページに渡って、大雪によるローマのてんやわんやを伝えているが、掲載された写真がどれもこれも面白い。

ローマの大通りでスキーをする男や、二人の女性が、雪をものともしない足肌の露出したエレガントなハイヒールを履いて、トレビの泉の前を歩く姿など、ただの雪景色ではないユーモラスな絵が多い。

 

その中でももっとも僕の気を引いたのは、ローマの動物公園の日本猿の姿。

降りしきる雪の中、頭に綿帽子をかぶって木の枝に「ひとり」チョコンと座っている。

どう見ても
1匹ではなく「ひとり寂しく」という感じ。

そして、

(もし日本なら大勢の仲間といっしょに温泉に浸かれるのになぁ)


とでもつぶやいているような・・


でも、


実際にそうつぶやいたのは、僕だったのである。


日本から遠く離れたローマの動物公園で、たったひとり(写真だけを見れば)寒そうに座ってこちらを見つめている猿君は、断じて猿なんかではなく「ひとりの同胞」(笑)としてしか僕の目には映らなかった・・



荒ぶる雪景色の情緒



イタリアも日本同様に大雪に見舞われている。交通機関がマヒし大きな被害が出ている。

 

北イタリア・ロンバルディア州の片田舎、わが家のあるフランチャコルタ地方は、一昨日から間断なく降りつづけている雪であたり一面が白銀のパノラマに変わった。

 

他の地方に比べてフランチャコルタには降雪は遅く来た。その代わりに最低気温が氷点下10度近くに留まる寒い日が続いていたのである。

 

おととい始まった雪降りは、始めは無風状態の中のこな雪だったが、間もなく無数の白蝶が踊るかと見まがう、わた雪に変わって積もり始めた。

 

今は、少しの風に押されてわずかに横に乱れ舞う、つぶ雪が降りしきっている。言葉を換えれば、少し横なぐりに落下しつづける細雪(ささめゆき)。谷崎潤一郎の世界・・

 

こう書きながら、雪の風情を想いはじめた。雪の風情とは、雪にまつわる言葉の風情と考えることもできる。雪を表す日本語は秋言葉をはるかに凌ぐほど数が多い。

 

新沼謙治という演歌歌手の歌に、7種類の津軽の雪を愛でたフレーズがあるが、それは太宰治の小説「津軽」に出てくる雪の名称である。即ち:こな雪、つぶ雪、わた雪、みづ雪、かた雪、ざらめ雪、こおり雪の7つ。

 

7種類でもずいぶん多いようだが、降雪と積雪に大別される雪の呼称は、実は7種類どころではないのである。文学的な表現を加えれば、数え切れないと言いたくなるほど数が豊富である。

 

今思い出すだけでも7つのほかに新雪、もち雪、ぼたん雪、みぞれ雪、はい雪、あわ雪、大雪、垂(しず)り雪、べた雪、うす雪、しら雪、にわか雪、み雪、忘れ雪・・etc、etc

と枚挙にいとまがない。

 

だが秋言葉などと同じで、雪を表す言葉もイタリア語には多くない。イタリア語に限らず欧米語の常である。

 

言葉の乏しさは現実の光景にも影響を与えずにはおかない。それはもちろん人間心理の綾(あや)が投影されたもので、自然そのものは何も変わらない。しかし、雪言葉の少ないこの国で見る雪には、風情がそれほどないように感じるのも又事実なのである。

そう感じるのは恐らく、今ここで言葉あそびをしている僕のような人間の、ちょっとゆがんだ感覚がなせるわざに違いない。ペダンチックと言うと少し大げさだが、日本語の多くの雪言葉を通して、いま降りしきっている雪を見ることから来る気取り、くさみ、しったかぶり・・のようなもの。


そこで、

懸命に邪念を振り切って、ありのままの雪景色を見つめようと気持ちを集中してみる。すると、まだドカ雪にならない一帯の白い眺望は、やはり美しく、それなりの深い感慨を見る者に抱かせずにはおかない。

 

静かに降りしきるつぶ雪は、わが家の庭とブドウ園にあるエノキとシナノキにまるで樹氷のような白い大輪の花を咲かせている。

 

綿帽子をかぶった家々の屋根を見下ろしてそびえる巨木の雪の花は、樹氷のようなきらめきや輝きはないものの、イタリアの自然らしく男性的に荒く、雄雄しく咲き誇っている。

 

巨大な雪の花の間に遠景をのぞかせるはずの標高およそ2千メートルのカンピオーネ山は、今日は雪煙の彼方に消されて見えない。そのさらに先に望めるアルプスの山々ももちろん視界には入ってこない・・

 

閑話休題

 

僕は庭の大木たちをエノキにシナノキと書き記しているが、それらの木はイタリア語ではそれぞれ「bagolaro」に「tiglio」と言う。辞書で調べると、それぞれエノキとシナノキ(フユボダイジュとも)となるが、実はシナノキは日本特産の木である。従ってその木の名称はホントは西洋シナノキ、とでも呼ぶべきものではないか、と僕は勝手に考えたりもしている。

 

ついでに言えば、bagolaro(エノキ)は別名spaccasassi(スパッカサッシ)つまり「石割木」という。その名前は、荒涼とした山の岩盤などを突き破って育つ、ド根性幼木をも連想させて僕はとても好きである。

 

 

 


樹氷とウサギとアルプスと



ミラノ郊外にあるわが家はブドウ園の中にある。あるいは屋敷に付随する形でブドウ園が広がっている。

 

ブドウ園の脇にある2本のエノキの大木には、最近は樹氷の花が咲くことが多い。その右手の門柱の外には、一本の巨大なシナノキが冬枯れてそびえている。そこにも白く輝く樹氷がこびりつく。

 

わが家の二つの巨大な樹氷の塊(かたまり)の間に、もう一つ大きな雪の群らがりが見える。標高およそ2千メートルのカンピオーネ山の遠景である。

 

日帰りのスキーも楽しめるその山を見ながら北東に向かってしばらく車を走らせると、そこはもう3千メートル級の山がそびえるアルプスである。空気の澄んでいる日にはわが家からアルプス・チロルの山々の連なりが鮮やかに見える。

そうやって今年もまた雪山の景色が美しい時間が来た。でも寒い。僕はこの時期は、アルプスやプレアルプス(前アルプス)の山々の雪景色と樹氷のコラボにうっとりと見とれながら、南方の暖かい国や島の情景なども強く意識するのが常である。

 

今日は日差しがなく空はどんよりと雲っている。風も眺望も山水も空気も、何もかもが雪をはらんで重く滞っているようである。

 

三階にある僕の書斎兼仕事場から見下ろすブドウ園も、冷気の中に横たわっている。とっくに収穫が済んで葉がすっかり枯れ落ちたブドウの木々は、幹だけが寒そうに並んで立って春に向けての剪定(せんてい)を待っている。

 

ブドウの畝(うね)に沿って生えている下草は、青色と枯れ葉の褐色のまだら模様を描いて、何列にも渡って続いている。草は毎朝、まっ白な厚い霜におおわれるが、日ざしを受けて午前中にはほとんどが元通りのまだら模様に戻る。

 

ブドウ園と邸内の草地を自由に行き来して生きているはずのウサギのカテリーナを想って、僕は連日早朝にぶどう園の草の状態を確かめずにはいられない。

 

間もなく2月。今が一番の寒さ。ブドウ園の下草は、さすがに色あせてはいるが十分に青いものも多い。ウサギの餌としてはあり余るほどだと素人目にも分かる。

 

庭師のグイドは、彼が食用に飼っているウサギのために、せっせとブドウ畑や庭園の草を刈っている。干し草がたくさんあるが、新鮮な草も与えた方がウサギはより元気に大きく育つそうだ。

 

雪が降れば庭や畑の草の多くは枯れるだろうが、それでもカテリーナ1匹には充分すぎるほどの青草は残る。青草がなくてもウサギは枯れ草を食べ、それもなくなれば木の実や樹皮や昆虫まで食べる。だからカテリーナは春までにはさらに丸々と太るだろう、とグイドは笑いながらいつもの自説を説く。僕はそれを聞いてさらに安心する。

 

それにしても一年で一番寒いこの時期になっても、庭や畑に青草がかなりあることには驚く。霜や雪や氷の世界が一面に広がる印象の真冬には、このあたりでは針葉樹を除くほとんどの野生植物が枯れてしまう、と思い込んでいたのが不思議である。

 

人は虫歯になってはじめて歯痛の辛さを知る。それまでは無関心だ。ウサギを放し飼いにしてはじめて僕は冬の植物の生態に関心を持った。ありがとう、カテリーナ!(笑)

 

最低気温が氷点下10度前後だった一週間ほど前の寒さを経ても、青草はそうやってけっこう繁っている。そうとは知らずに僕がカテリーナの餌を心配したのはほとんど笑い話だし、草むらに逃げた番(つがい)のウサギが数年で100匹近くにまで繁殖したという話も、今なら「なるほど」と心からうなずけるのである。
 

 

‘違うこと’は美しい



僕はここイタリアではミラノにある自分の事務所を基点にテレビの仕事をして来たが、これまでの人生ではイギリスやアメリカにも住まい、あちこちの国を旅し、学び、葛藤し、そしてもちろん大いに仕事もこなして来た。そんな外国暮らしの日々は、いつの間にか僕が大学卒業まで暮らした故国日本での年月よりも長くなってしまった。長い外国暮らしを通して僕はいろいろなことを学んだが、その中で一つだけ大切なものを挙げてみろといわれたら、それは”違い”を認める思考方法と態度を、自分なりに身につけることができたことだと思っている。

国が違えば、人種が違い言葉が違い文化も習慣も何もかも違う。当たり前の話である。ある人は、人間は全ての違いがあるにもかかわらず、結局は誰も皆同じであると言う。またある人は逆に、人間は人種や言葉や文化や習慣などが違うために、お互いに本当に理解し合うことはできないと主張する。それはどちらも正しく且つどちらも間違っている。なぜなら人種や言葉や文化や習慣の違う外国の人々は、決してわれわれと同じではあり得ず、しかもお互いに分かり合うことが可能だからである。

世界中のそれぞれの国の人々は他の国の人々とは皆違う。その「違う」という事実を、素直にありのままに認め合うところから真の理解が始まる。これは当たり前のように見えて実は簡単なことではない。なぜなら人は自分とは違う国や人間を見るとき、知らず知らずのうちに自らと比較して、自分より優れているとか、逆に劣っているなどと判断を下しがちだからである。

他者が自分よりも優れていると考えると人は卑屈になり、逆に劣っていると見ると相手に対してとたんに傲慢になる。たとえばわれわれ日本人は今でもなお、欧米人に対するときには前者の罠に陥り、近隣のアジア人などに対するときには、後者の罠に陥ってしまう傾向があることは、誰にも否定できないのではないか。

人種や国籍や文化が違うというときの”違い”を、決して優劣で捉えてはならない。”違い”は優劣ではない。”違い”は違う者同士が対等であることの証しであり、楽しいものであり、面白いものであり、美しいものである。

僕は今、日本とは非常に違う国イタリアに住んでいる。イタリアを「マンジャーレ、カンターレ、アモーレ」の国と語呂合わせに呼ぶ人々がいる。三つのイタリア語は周知のように「食べ、歌い、愛する」という意味だが、僕なりにもう少し意訳をすると「イタリア人はスパゲティーやピザをたらふく食って、日がな一日カンツォーネにうつつを抜かし、女のケツばかりを追いかけているノーテンキな国民」ということになる。それらは、イタリアブームが起こって、この国がかなり日本に知れ渡るようになった現在でも、なおかつ日本人の頭の中のどこかに固定化しているイメージではないだろうか。

ステレオタイプそのものに見えるそれらのイタリア人像には、たくさんの真実とそれと同じくらいに多くの虚偽が含まれているが、実はそこには「イタリア人はこうであって欲しい」というわれわれ日本人の願望も強く込められているように思う。つまり人生を楽しく歌い、食べ、愛して終えるというおおらかな生き方は、イタリア人のイメージに名を借りたわれわれ自身の願望にほかならないのである。

そして、当のイタリア人は、実は誰よりもそういう生き方を願っている人々である。願うばかりではなく、彼らはそれを実践しようとする。実践しようと日々努力をする彼らの態度が、われわれには新鮮に映るのである。

僕はそんな面白い国イタリアに住んでイタリア人を妻にし、肉体的にもまた心のあり方でも、明らかに日伊双方の質を持つ二人の息子を家族にしている。それはとても不思議な体験だが、同時に家族同士のつき合いという意味では、世界中のどこの家族とも寸分違わない普通の体験でもある。

日本に帰ると「奥さんが外国人だといろいろ大変でしょうね」と僕は良く人に聞かれる。そこで言う大変とは「夫婦の国籍が違い、言葉も、文化も、習慣も、思考法も、何もかも違い過ぎて分かり合うのが大変でしょうね」という意味だと考えられる。しかし、それは少しも大変ではないのである。僕らはそれらの違いをお互いに認め合い、受け入れて夫婦になった。違いを素直に認め合えばそれは大変などではなく、むしろ面白い、楽しいものにさえなる。

日本人の僕とイタリア人の妻の間にある真の大変さは、僕ら夫婦が持っているそれぞれの人間性の違いの中にある。ということはつまり、僕らの大変さは、日本人同士の夫婦が、同じ屋根の下で生活を共にしていく大変さと何も変わらないのである。なぜなら、日本人同士でもお互いに人間性が違うのが当たり前であり、その違う二人が生活を共にするところに「大変」が生じる。

僕らはお互いの国籍や言葉や文化や習慣や何もかもが違うことを素直に認め合う延長で、人間性の違う者同志がうまくやって行くには、無理に“違い”を矯正するよりも「違うのが当然」と割り切って、お互いを認め合うことが肝心だと考え、あえてそう行動しようとする。

それは一筋縄ではいかない、あちこちに落とし穴のある油断のならない作業である。が、僕らは挫折や失敗を繰り返しつつ“違い”を認める努力を続け、同時に日本人の僕とイタリア人の妻との間の、違いも共通点も全て受け継いで、親の欲目で見る限り中々良い子に育ってくれた息子二人を慈しみながら、日常的に寄せる喜怒哀楽の波にもまれて平凡に生きている。

そして、その平凡な日常の中で僕は良く独(ひと)りごちるのである。

――日本とイタリアは、この地球上にたくさんある国のなかでも、たとえて言えば一方が南極で一方が北極というくらいに違う国だが、北極と南極は文字通り両極端にある遠い大違いの場所ながら、両方とも寒いという、これまた大きな共通点もあるんだよなぁ・・・――

と。

 

 

 

ギリシャのまぶしい憂うつ(Ⅰ)

【加筆再録】

 

言うまでもなくギリシャ危機は今年も続いていて、経済の専門家の皆さんの解説や分析や情報も巷にあふれている。そこで僕は少し違う、ゆるいギリシャ情報をここに書いてみたいと思う。

 

僕は基本的にギリシャ危機に対しても、また僕が住んでいるこの国、イタリア危機に関しても楽観的な見方をしている。両国が財政破綻に陥って世界経済が混乱する可能性は十分にあり、それはもちろん重苦しく悲観的な未来図だが、それでも、さらにその先にある世界の様相はそんなに暗いものではないという気がするのである。それは実際に危機の渦中にあるイタリアに住み、同じく問題を抱えているギリシャを旅しての感想でもある。

 

昨年6月、財政危機で暴動が起きたりしているギリシャを旅した。僕は1年に1度の割合で地中海を巡る旅を続けている。ヨーロッパに長く住み、ヨーロッパを少しだけ知った現在、西洋文明の揺籃となった地中海世界をじっくりと見て回りたいと思い立ったのである。去年が4度目の旅だった。そのときのギリシャ旅行では、エーゲ海の島々に渡る前に首都アテネに寄った。

 

アテネでは緊縮財政策に抗議する若者らが国会前で警官隊と衝突して、投石を繰り返すなどの騒ぎがあった。でも僕は不思議と危険は感じなかった。

 

これが今同じように騒動が頻発しているシリアをはじめとする中東の国々なら、極めて物騒なイメージを持ったに違いない。が、ギリシャに関してはヨーロッパの民主主義国家という安心感がある。その違いはやはり大きかった。

 

ギリシャ本土を取材するのはそのときが初めてだった。僕は先ず、地中海にちりばめられているギリシャの島々とは違う、アテネの喧騒とカオスにひどくおどろかされた。

 

古代ギリシャの象徴、アクロポリスの上に建つパルテノン神殿とその周辺のわずかな地域を除くと、アテネの市街地は無秩序に開発拡張されていった現代都市という印象が強い。

 

スラム街と呼ぶのはさすがに言い過ぎだろうが、そういう言葉さえ連想させるほどの混沌が街じゅうを支配している。

 

僕はアテネの猥雑な建物群と、雑多な人種が行き交う通りを眺め、またその雑踏の中に足を踏み入れて自ら人ごみと一体になったりしながら、しきりにある言葉を想った。

即(すなわ)ち、

 

国破れて山河あり・・

 

いうまでもなくその杜甫の詩の意味は

「国は戦火によって破壊されつくしたが、山や川などの自然は、元のままの姿で変わらずそこにある」

ということである。

 

栄華を極めた古代ギリシャ国家は滅び去り、その滅び去ったものの残骸が、アクロポリスの麓(ふもと)に広がる現代アテネの無原則な市街地のようである。そして、市街地の上方、アクロポリスの丘の上におごそかにそびえ立つ、パルテノン神殿などの古代遺跡が、本来のギリシャの国の形、つまり山や川などの変わらない自然と同じもの・・というふうに見えたのである。

 

繁栄の絶頂にあった古代ギリシャは、ローマ帝国に征服され、あるいはそれと融合しながら歴史を刻み続けて行ったが、以来ギリシャは現代に至るまで、パルテノン神殿が建設された時代の栄光を取り戻したことは一度もない。

 

それどころか近代国家としてのギリシャは、1830年に独立するまではオスマン帝国の支配を長く受け、独立後もトルコとの戦争や2度の世界大戦に巻き込まれるなど、苦難の道が続いた。第2次大戦後のギリシャの政情は安定し、経済もそれなりに発展したが、内戦や軍部の独裁政治がそれに続くなど、現代国家としてのギリシャは古代の輝きからは遠い存在であり続けている。

 

そうした歴史と、今目の前に広がるアテネの混沌とした風景が錯綜して、僕に不思議な幻想をもたらし、僕は唐突に(国破れて山河あり・・)という感慨を覚えたりしたのだろうと思う。

 

それではアテネは、憂うつな悲しい不快な街なのかというと、まるっきりの逆なのである。

 

首都は明るく活気にあふれている。国会前で連日行われていた抗議デモも、そこを少し離れるとまったく気にならなかった。財政破綻の危険などどこ吹く風である。そんなアテネの明るさは、どうも地中海の輝かしい陽光のせいばかりではなさそうだ。

 

街が人種のるつぼとなって、大きくうごめいていることが、アテネの殷賑(いんしん)の一番の原因のように僕には見えた。

ギリシャ人に加えて、アラブ、アフリカ、インド、アジアなどの人々が、通りを盛んに行き交っている。ギリシャ人とあまり区別がつかないが、そこにはギリシャ以外の欧米人も多く混じっている。

 

古代ギリシャでは、アフリカのエジプトやアラブやトルコなどと交易をする中で、それらの地域の人々とギリシャ人との混血が進んだ。また後にはバルカン半島のスラブ人やアルバニア人、ローマ人を始めとするラテン人などとの混血も絶え間なく続いたことが分かっている。

 

アテネの喧騒を見ていると、まるで古代からの混血の習わしが今もしっかりと生きているような錯覚をさえ覚える。少なくともギリシャ人が、外国からの移民と見られる人々に対して、とても寛容であることがはっきりと分かる。

 

古代地中海域の十字路として、隆盛を誇ったギリシャのグローバルな精神は、アテネの路地や通りや街なかに連綿として受け継がれているように見える。

 

それは僕がかつて住んでいた、ロンドンやニューヨークなどの国際都市とそっくりの雰囲気をかもし出していた。

アテネがそれらの街と比較して、経済的に明らかに貧しい点を除けば・・

 

中東危機こぼれ話


【加筆再録】


テレビ屋でありながら僕はネット情報をひんぱんに利用し、日英伊3ヶ国語の新聞や雑誌などにも注意しているが、24時間衛星放送を主体とするテレビからももちろん目を離さない。それらの情報網を観察・吟味・分析するのは仕事であると同時に大いなる楽しみでもある。

 

テレビに限って言えば、中東問題が大きくなった昨年以来、僕はCNNよりも衛星放送のアルジャジーラ・インターナショナルを見ることが多くなった。アラビア語は分からないが、完璧な英語放送なので付いて行くことができる。

アルジャジーラは中東カタールに本拠を置く衛星局だから、現地の情勢に詳しく、24時間体制で流れる情報の多くに臨場感がある。イタリアで見ている同局の英語放送はドーハから発信されているが、ロンドンからの放送かと見まがうくらいに洗練されていて、かつ力強い。僕が知る限り中東現地からの生中継は、例えばイギリスのBBCインターナショナルよりもはるかに量が多く、新情報の発信速度もわずかばかり速いようである。BBCインターナショナルもCNNと共に普段から僕が良く覗いている衛星チャンネルである。

少し古い話になるが、例えばエジプト危機の最中にムバラク元大統領の息子が政府の要職を辞任したニュースを、僕はアルジャジーラの画面テロップで最初に見た。しかし、直後にチャンネルを回したBBCにはまだ出ていなかった。僕が見逃したのでなければ、恐らくアルジャジーラが世界で最初にその情報を発信したのだろうと思う。

ただ情報発信の速度に関して言えば、今や世界中の放送局が様ざまな情報ネットワークを駆使してしのぎを削っていて、あまり大きな差はないと言える。

BBCインターナショナルのほかに、NHKのニュースも衛星放送で日本と同時に見ているが、アルジャジーラやBBCが現地からの生中継でえんえんと伝えている中東の主だった動きについては、ほぼ間違いなく取り上げていて遅滞感はない。速度ばかりではなく、その時々で現地情勢を掘り下げて詳しく伝える手法もNHK独特のものがあって、それなりに見ごたえがある。

イタリア公共放送RAIのニュースももちろん見ているが、時差の関係でこちらは速さや臨場感ではあまり頼りにしていない。イタリアにいてRAIの「時差」というのも変だが、こういうことである。

まず朝のうちにアルジャジーラやBBCの24時間体制に近い中東中継を見る。気が向けばCNNも覗く。その後NHKの午後7時のニュースを日本とのリアルタイムで見る。イタリア時間の午前11時である。そこまで見ると、少なくとも中東情勢に関しては充分。13時半に始まるRAIの昼のニュースは見なくても間に合う、というのが実感である。

それでもやはりイタリアの放送局のニュースも見る。中東がらみのイタリアの報道では、特に難民問題が重い。今はかなり落ち着いたが、アフリカ北岸に近い南イタリアのランペドゥーサ島には昨年、中東からかなりの難民が押し寄せた。当初はチュニジア人が主流だったが、やがてリビアからの難民も加わってイタリア国内には緊張が高まった。着の身着のままで島に上陸する多くの難民を見ると、中東の混乱はイタリアのすぐ隣で起こっているのだとあらためて痛感させられたものである。

リビアがイタリアの植民地だった歴史的ないきさつとは別に、両国は近年きわめて友好的な関係を築きつつあった。特に2009年のリビア革命40周年記念式典に、当時のベルルスコーニ・イタリア首相が植民地支配の謝罪と賠償約束のために同国を訪問して以来、友好関係は促進された。イタリアがリビアの石油の主要な輸出国である事実なども相俟って、ベルルスコーニ前首相と故カダフィ大佐は個人的にも親交を深めていたほどである。

それだけにカダフィ大佐は、リビアを攻撃するEU主体の多国籍軍にイタリアが参加した事実に激昂した。彼は「ローマに裏切られた。地中海沿いのイタリアの街を火の海にする」などと宣言して、イタリアへの恨みを募らせた。しかしイタリア政府が真に恐れていたのは、瀕死の独裁者のそうした脅迫などではなかった。

南イタリアのランペドゥーサ島には、慢性的に北アフリカからの難民や不法移民が流入し続けている。2005年から2010年までを見ると、その数は年平均で2万人弱である。ところが昨年は1月からの3ヶ月間で、島に上陸した中東危機の難民は既に3万人近くにのぼり、8月過ぎには5万人に迫ろうとする勢いだった。さらにその頃カダフィ大佐は、1万人以上の囚人を難民に仕立て上げてイタリアに向かって放つ計画を持っていた。イタリア政府がもっとも恐れていたのは、砂漠の猛獣とも狂犬とも呼ばれたリビアの独裁者のそうした動きだったのである。

中東危機を逃れて流入して来る難民の増大に悲鳴を上げたイタリアは、EU(欧州連合)に助けを求める一方で、人道的措置として昨年1月1日から4月5日までの間にイタリアに上陸した難民2万人に、一律に6ヶ月間の滞在許可証を与えた。そこまでは良かったのだが、滞在許可証はいわゆるシェンゲン協定に基づいてEU内を自由に移動することができる、としたためフランスやドイツを始めとする国々が難色を示して騒ぎになった。EU加盟国の多くは不法移民や不法滞在者の増大に神経を尖らせているから、フランスやドイツの反応はある意味当たり前だった。マルタを除く加盟国の全てが、イタリアの決定に反対したことを見てもそれは分かる。

EUはイタリアの滞在許可証を認めない、と正式にこの国に通告した。

それに対して今度はイタリアが怒った。中東問題はEU全体の課題であり難民問題もそのうちの一つだ。それにも関わらずイタリアだけがひとり取り残されて難民を押し付けられるなら、EUに加盟している意味はないとして連合からの離脱をほのめかしたり、EU諸国と足並みをそろえて国外に派遣している兵士を召還して、難民排除のための国境警備に就かせると主張したりした。意外に思えるかもしれないが、イタリアはアフガニスタンを筆頭にコソボ、ボスニア、イラク、レバノン、バーレーン等々、世界の30の国と地域に軍隊を派遣している。EUが移民問題でイタリアを見捨てるなら、イタリアはEUとの強調派兵を止めるというのである。

難民問題に関するEU内の混乱は、その後大きくなったギリシャ・イタリアに端を発するヨーロッパ財政危機の前に影をひそめる形で見えにくくなっている。しかし、未だ国家の形を成していないリビアは言うまでもなく、チュニジアやエジプトなどの政治体制も理想の民主主義とはほど遠い。いつ再び混乱が始まってもおかしくない情勢である。さらにシリアやイエメンなどの政情も依然として混沌としている。中東からイタリアへ、そして他のEU諸国へと流入する難民のマグマは、いつ再噴火を開始してもおかしくないのである。

イタリアに押し寄せる中東難民を見る時、僕はいつもの癖でどうしても日本のことを考えずにはいられない。

もしも中東の混乱或いは変革が、中国や北朝鮮にまで波及した場合、日本にも難民の波が押し寄せる日が来るかも知れない。イタリアの現実を見ていると、それは決して荒唐無稽な妄想ではないような気がする。

多くの難民は先ず陸続きの韓国に流れるだろうが、日本にも必ずやってくると考えるのが自然だろう。ろくなエンジンも搭載しない北朝鮮の小さな漁船が、冬の日本海の荒波をかいくぐって日本沿岸まで到達できるのだから、切羽詰った難民が少し大きめの船に鈴なりになって何艘も、そして繰り返し押し寄せる様子は想像に難くない。リビアやチュニジアからイタリアに押し寄せる難民がそうであるように。

わが国は彼らの隣人として、また責任ある先進国として、その時どう行動するべきか考えておく必要があるのではないか。

そうしておいて、もしもそれが杞憂に終わった場合はそれで良しとするが、そこで考えたことは、将来高い確率でやって来るであろう、移民と日本人との共存社会の構築に役立てることもできるはずである・・

 

 

イタリア危機です。でも・・正月だもんね。



イタリアにいても、又たまに日本に帰っても「イタリアのクリスマスや正月はどんな感じですか」とよく人に聞かれる。その質問に僕は決まって次のように答える。

 

「イタリアのクリスマスは日本の正月で、正月は日本のクリスマスです」と。

 

祝う形だけを見ればイタリアのクリスマスは日本の正月に酷似している。ここでは毎年クリスマスには家族の全員が帰省して水入らずでだんらんの時を過ごす。他人を交えずに穏やかに、楽しく、かつ厳かな雰囲気の中でキリストの降誕を祝うのがイタリアのクリスマスである。

 

カトリックの総本山バチカンを抱える国だけあって、アメリカやイギリスといったプロテスタントの国々と比較しても、より伝統的で荘厳な風情に満ちていると言える。たとえば日本のクリスマスのように家族の誰かが外出したり、飲み会やパーティーを開いて大騒ぎをしたりすることは普通はまずないと断言してもいい。

 

 

ところが正月にはイタリア人も、他のキリスト教国の人々と同じように、家族だけではなく友人知己も集まって飲めや歌えのにぎやかな時間を過ごす。それが大みそか恒例のチェノーネ(大夕食)会である。食の国イタリアだけに、クリスマスイブの夕食会にもチェノーネと呼ばれるほどの豊富な料理が供されるが、大勢の友人が集まって祝うことが圧倒的に多い大みそかのチェノーネは、クリスマスよりもはるかにカラフルでにぎやかで、かつクリスマスよりもさらに巨大な夕食会、というふうになるのが一般的である。

 

チェノーネはたいてい大みそかの夜の9時前後から始まり、新年をまたいで延々と続けられる。年明けと同時にシャンパンが勢い良く開けられて飛沫(しぶき)の雨が降り、花火が打ち上げられ、爆竹が鳴り響く中で人々は乾杯を繰り返す。そしてひたすら食い、また食う。食いつつ喋り、歌い、哄笑する。新年を祝う意欲にあふれたチェノーネは、にぎやかさを通り越してほとんど「うるさい」と形容してもいいくらいである。

 

あえて言えば、チェノーネで供される食材がイタリアのお節料理ということになる。チェノーネにはお節料理のように決まった「型」の類いはほとんどないが、それに近い決まりのようなものはある。それは食事の量がムチャクチャに多い、ということである。チェノーネ(大夕食)という名前はまさにそこからきている。

 

イタリア料理のフルコースというのは、もともと日本人には食べきれないと言い切っても良いほど大量だが、チェノーネで供される食事の量はそれの2倍3倍になることもまれではない。とにかくはんぱじゃない量なのである。

 

チェノーネではまず「サルミ」と総称される生ハムやサラミなどの加工肉類と、魚介のサラダなどにはじまる前菜がテーブル狭しと並べられる。小食の人はこの前菜だけで腹いっぱいになることは間違いがない。

 

そこにパスタ類が運ばれる。パスタは通常は一食一種類だが、チェノーネではスパゲティ、マカロニ、手打麺など、何種類も並ぶことも多い。

 

次に来るメインコースがすごい。大量の肉料理の山である。魚も入る。コントルノ(つけ合せ)と呼ばれる野菜類も盛大にテーブルを飾る。

 

それが終わると果物とデザート。食事の最後になるこの二つも普通は一方を食べるだけである。チェノーネでは両方出ると考えてほぼ間違いない。

 

この間に消費されるワインも大量になる。午前0時を回ると同時に開けられたシャンパンは言うまでもなく、ワインや食後酒のグラッパやウイスキー等々の強い酒もどんどん飲み干される。酔っ払いを毛嫌いするイタリア人だが、この日ばかりは酔って少々ハメをはずしても許されることが多い。

 

それは各家庭だけではなく、レストランなどの夕食も同じ。大みそかにはほとんどのレストランも、そのものずばり「チェノーネ」という特別メニューを設定して大量の料理で客を迎える。もちろん料理の嵩(かさ)に応じて値段も普通より高くなるが、新年を祝う催しだから客も気前よく金を払う。

 

イタリア財政危機が叫ばれる今回の年末年始では、イタリア全国でチェノーネに費やされた飲食費は、残念ながら前年と比較して20%余り低かったことが分かっている。

 

前述したようにチェノーネには、日本のお節料理のように決まった形というものはないが、地方によって食材の定番というものはある。良く知られているのはカピトーネと呼ばれるナポリの料理である。カピトーネは大ウナギを豪快に切断して油で揚げたもの。その脂っこい料理には必ずレンズ豆が添えられる。

 

レンズ豆はお金に似ているということで、カピトーネに限らず新年の料理には付け合せとしてよく添えられる食材である。お金が儲かって豊かになれますように、という願いがこもった縁起物なのである。そればかりではない。レンズ豆は脂っこい食材を淡白にする効果がある。だからえらく脂っこいウナギ料理の付け合せとしても最適なのである。

 

わが家のチェノーネにはよくザンポーネが出る。僕が好きでできるだけ出してもらうようにしている。ザンポーネは豚の足をくりぬいて皮だけにして、そこに肉や脂身をミンチにして詰めて煮込んだものである。味はどちらかというとスパム(SPAM・ポークランチョンミート)に近いが、スパムよりもこってりとしていて、かつイタメシだけにスパムよりもうまい。

 

ザンポーネの中身を食べた後の皮は普通は捨ててしまうが、そこの脂っこさが好きでわざわざ食べる人もいる。僕も一度だけ味見をしてみた。味は不味くはないが脂っこさと匂いに辟易して一口以上は食べられなかった。ザンポーネの付け合せもレンズ豆が定番。レンズ豆はやっぱり、縁起がいいだけではなく脂っこいものに強いのである。

 

北イタリアの厳しい寒さの中で食べるザンポーネはとても美味しい。カロリーの高い食べ物だが、きっとカロリーが高いからこそ寒さの中で最も美味しく感じられるものなのだろう。ダイエットさえ気にしなければ、脂っこさにもかかわらず幾らでも食べられそうに思えるのが、ザンポーネのすごいところだと僕は勝手に感心している。

 

 

「時には娼婦のように」の革命的愉快



なかにし礼作詞・作曲の「時には娼婦のように」は次のような歌詞である。

 

『時には娼婦のように 淫らな女になりな 

真赤な口紅つけて 黒い靴下をはいて
大きく脚をひろげて 片眼をつぶってみせな 

人さし指で手まねき 私を誘っておくれ

バカバカしい人生より バカバカしいひとときが 

うれしい ム・・・・・


時には娼婦のように たっぷり汗を流しな 

愛する私のために 悲しむ私のために
時には娼婦のように 下品な女になりな 

素敵と叫んでおくれ 大きな声を出しなよ


自分で乳房をつかみ 私に与えておくれ 

まるで乳呑み児のように むさぼりついてあげよう

バカバカしい人生より バカバカしいひとときが 

うれしい ム・・・・・


時には娼婦のように 何度も求めておくれ 

お前の愛する彼が 疲れて眠りつくまで』

 

この歌が発表された時、僕は東京の大学の学生だった。歌詞の衝撃的な内容に文字通り目をみはった。歌謡曲詞の革命だとさえ思った。今もそう思っている。「時には娼婦のように」について書こうと思ったのは、実はそのことに尽きる。

 

でも歌詞を書き出したとたんにがっくりときた。何か気のきいたことを書けないかと思ったのだがまるでダメだ。この歌詞の偉大さの前には自分が何を言っても空しいと感じる。

 

かつて三島由紀夫は詩が書けないから小説を書くんだと言った。詩とはそれほど卓越したものである。そして音楽とともに存在する歌詞もまた詩の一種だ。エライものなのである。

 

なかにし礼という作詞家は、亡くなった阿久悠と共に日本歌謡詞界の双璧であるのは、今さら僕ごときが指摘しなくても周知の事実だと思うが、「時には娼婦のように」を生み出した分、なかにし礼の方が少し上かなと僕は考えている。それほどこの歌詞はすごいと思う。

 

歌詞に限らず、あらゆる創造的な活動とは新しい発見であり発明である。新しい考え、新しい見方、新しい切り口、新しい哲学、新しい表現法などなど、これまで誰も思いつかなかったものを提示するのが創造である。

 

「時には娼婦のように」はそういう創造性にあふれた歌詞である。際どい言葉の数々を駆使しながらポルノにならず、「歌詞」という型枠を嵌められた「詞」でありながら、自由詩の大きさや凄みの域に達していると思うのである。

 

男の下賎な妄想である「昼は貞淑、夜は娼婦」という女の理想像を、歌謡曲という子供も女性たちも誰もが耳にする可能性のある普遍的な表現手段に乗せて、軽々とタブーを跨(また)ぎ越えて世の中に広めてしまった。ウーむ、マイッタ。

 

もう一方の天才・阿久悠は、名曲「津軽海峡冬景色」を

<上野発の夜行列車おりた時から 青森駅は雪の中~>

と始めて、短い表現で一気に時間を飛ばし、東京の上野駅と青森駅を瞬時に結んでドラマを構築した。よく知られた分析だが、こちらもまたすごいので一応言及しておこうと思う。
 

作詞家なかにし礼はそのほかにも多くの創造をしたけれど、新人の頃には「知りたくないの」という訳詞でも物議をかもした。エルビス・プレスリーも歌った英語の名曲「I really don't want to know」を「あなたの過去など知りたくないの~」という名調子で始めたのだが、歌い手の菅原洋一が「過去」という語はよくないとゴネたという。でも彼は信念を押し通して、そのおかげで今ある名訳詞が世の中に出回ることになった。ヨカッタ。

 

僕の独断と偏見による意見では、イタリアにも「なかにし礼」はいる。ファブリツィオ・デアンドレというシンガーソングライターである。

10年余り前に亡くなった彼は、歌詞でも音楽でも圧倒的な存在感を持っている。あえて日本の歌手にたとえれば、小椋佳と井上陽水を合わせて、さらに国民的歌手に作り上げた感じ、とでも言おうか。実力人気ともに超がつく名歌手、名作詞家、名作曲家である。

 

デアンドレもよく娼婦の歌を作り歌った。彼は娼婦に対してとても親和的な考えを持っていた。娼婦を不幸な汚れた存在とは見ずに、明るく生命力にあふれた女として描いた。

 

娼婦や娼婦に似せた女を歌うタブーは、デアンドレの活動期の頃のイタリアには存在しなかったから、禁忌を勇敢に破って世に出た「時には娼婦のように」とデアンドレの歌を同列には論じられないかもしれない。

でも、僕はどうしても両者の「歌詞」の一方を聞くたびに、片方を思い起こしてしまうのである。

 

あとまわしの理由



いろいろと書きたいことがあるのに、そのテーマがどんどん後回しになっていく。とても不思議な気分。

 

たとえば少しづつ書いていくと自分に約束した「今のところは・・」の幾つかの項目、サッカーのこと、これまでに出会い共に仕事をした名のある人たちのこと、ロケや取材の話、貴族たちの話、マフィアにまつわるあれこれ、オッパイの話、ワインのこと、島のことetc、etc・・さらにetc、etc・・

 

それらはある意味テーマが決まっている事がらである。その気になって時間があればすぐにでも書ける。

 

ところが、やはりどうしても時事話が自分の中では先行して、そちらがブログの優先事項にもなる。同時に実は、読んでくれている皆さんもどちらかというときっとそっちの方を期待しているのではないか、という思いもある。

 

1日1本の記事を書くという決意もまったく成就できない。あれこれと忙しく、時間が足りなくて無理だ。だから書くべきことがどんどん後回しになる。でもいつか最低1日1本を書く、というふうにはなりたい。

 

最近、ネット論壇にも寄稿したりして、ますます時間の余裕がない。このブログと同じ記事を掲載してもらう場合でも、いろいろと時間を取られるのだ。

 

いや、ホントのことを言うと、ネット論壇に書いた記事をここにも転載する、という場合が多い。理由はネット論壇は「よそ行き」の雰囲気があって肩が張り文体にも違いが出る。だから書くのに時間がかかる。いきおいそっちの方が気分的にも時間的にも重くなる、ということが起きる。

 

ネット論壇とこのブログで文体が違う、というのはなるべくあってはならないことである。二重スタンダードだしヘタ丸出しだ。でも今のところはそれが現実。どちらも自分の文章だしスタイルだが、向こうは気が張ってこちらはリラックスできる。

 

そして僕はリラックスしている方こそホントの自分であろうと考えている。従って、リラックスできないネット論壇は、今のところはオッカナビックリというふうな感じで書いている。多分自分の性格からして、いつまでもリラックスできなければさっさとやめてしまう方向に向かうだろう。でもリラックスするつもり・・・

 

てな感じで、書きたい題材がますます、またまた遠のいていくという訳である。

 

ま、書くことがあるということは、恐らくこのブログがまだ続いていくという証でもあるから、焦らず前進しよう、というのが新年の抱負。

 

実はこの稿では「名前、又はニックネームのこと?」でたまたま言及してしまった、なかにし礼さんの「時には娼婦のように」について書くつもりだった。

なにかの拍子で言及したことが気になって仕方がなかったり、そこから妄想がふくらんでしまって書かずにはいられなくなる、というのも僕の悪い癖である。そこから文章がどんどん先に進んでしまうことも。今のように。

 

という具合に長くなってしまったので「時には娼婦のように」は次の稿に回すことにする。

 

それでないとたとえば「9月、秋はじめと仕事はじめの期の時のように、テーマが分散して自分としては不満の多い記事になってしまう・・

 

 

バクチャーたちの熱い正月



渋谷君

僕の友人の自称投資家の男が、彼の幼なじみのギャンブラーに宛てて書いた年賀状を見せてくれました。というか、メールで送ってきました。ちょっと面白いので、友人の許しを得て君にも送信します。君のところの銀行なども、最近ギャンブルばっかりやってないかい?(笑)
 

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バクチャーのタイガー直人クンよ、友よ。


まだ生きているか。それともバクチで身を滅ぼしてもうこの世にはいないのか。


なんとかまだ生きているなら「新年おめでとう」。


今年こそバクチから足を洗って清く正しく生きなさい。現代の博徒、つまりバクチャーは、大金持ちも君のような貧乏人も皆一様に暗い


君は子供時代や若い頃は明るい人間だったのに、暗いオヤジになってしまったのはバクチのせいだから、さっさとやめるように。


バクチャーはなぜ暗いか。


仕事をしないから生産性がないから怠け者だからなどなど・・・、世間ではいろいろと分析される。それには一理あると思うが、俺はバクチャーの暗さは刹那(せつな)的だからとスルドく見通しておるよ。


刹那的とは今だけを大事にする生き方だから、ある意味ではカッコいいと言える。そう、バクチャーはカッコいい存在ではあるが暗いのだ。


バクチに負けて暗いのは納得できるが、勝っても暗いのはなぜか。


それはやっぱ刹那的だからなのよ。今だけを生きているから将来もなければ過去もない。将来も過去も無い存在は人間としてはまともじゃない。だから暗いのよ。分かるかね?


で、エラソーに分析した後で告白するが、

俺は今、はたから見たらバクチャーみたいに暗い顔をしているんじゃないかと自分で気にしておる。

というのも去年一年FXで大負けをしたのだ。負けるのは仕方ないが、負け方がまずい。バクチのような相場の張り方をして負け続けたのだ。


FXは確かにバクチの要素も多いが投機や投資の要素も強い。


バクチは一度賽(さい)が振られたら丁半が出るまで何もできないが、FXは自由意志で途中でやめることができる。つまり負けを限定管理できるんだ。そこが純粋のバクチとは違う。


負けを管理し続けていればいつかは金が残る。だから投資になる・・・と十分わかっていて勉強もしているんだが、大きく勝とうとして勝った分を次々に全額投入しては負ける、の繰り返しだったのだ。つまり大いなるバクチなのよ。


だからきっと俺も、バクチャーの君のように暗い顔になっているんじゃないかと心配しておる。このまま自分をコントロールできなくなると、俺の本性は君よりももっともっと激しいバクチャーだから身の破滅だ。もうやめようかと思っている。そうするとギャルの心を買う金も稼げなくなるから悲しいが・・

あ、ここでひと言。君は以前に「女の心は金では買えない」とノタマッタが、それを世間では負け犬、つまり貧乏人の遠吠えと呼んでおる。

金さえあれば女の心もギャルの心も、この世に金で買えないものなどないのよ。体という当たり前の嬉しいものばかりではなく「お心」まで買えるのが金のすばらしさだ。


嘘だと思うなら億単位の金をバクチで稼いで、女やギャルに見せびらかしてみな。それでなびかない者がおったら、その女やギャルは心が病んでおるから二度と近づかないように。


そうやってトライしてみて、俺のスルドい分析が正しいか間違っておるか、必ず教えてくれよ。なにしろ俺は大金などつかめそうにないから、従って女やギャルに対する自分のシャープな見通しの正否について、実際に確認する術がないのよ。よろしく頼むぞ。


だがその前に、たった今言ったことと矛盾するようだが、君もどうせバクチでは大儲けできないだろうから、この際そんな仕事はやめて、幸いにも今ある持ち家を売っぱらって、その金で南の島に小さなマンションでも買って楽しく生きたらどうだ?という考えもあるな。


ところで、石垣島のダイビングショップ経営のヒロ坊が脳溢血で倒れたのは言ったっけ?彼は俺達と同い年だ。仕事ももうできないらしい。

ヒロ坊に代わって君が向こうでダイビングショップでも出さない限り、俺はこのままでは石垣島ではもう海遊びもできない。


困った・・・






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