【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

シチリア島・トラパニ市長の「オメルタのすすめ」



先日、イタリア・シチリア島トラパニ市の新市長に選ばれたヴィト・ダミアーニ氏が「マフィアについてはあまりしゃべらない方が良い。マフィアにこだわり過ぎることで青少年が恐怖心を抱くことになり、教育上良くない」と発言して物議をかもした。

新市長の表明は、反マフィアのシンボルであるジョヴァンニ・ファルコーネ判事が、シチリア島のカパーチでマフィアに爆殺されてからちょうど20年の節目を意識してのものだった。それに対してイタリア中から強い非難が湧き起こったのである。


1992年5月23日17時58分、イタリア共和国シチリア島パレルモのプンタライジ空港から市内に向かう自動車道を、時速約150キロ(140キロ~160キロの間と推測される)のスピードで走行していたジョヴァンニ・ファルコーネ判事の車が、けたたましい爆発音とともに中空に舞い上がった。

それはマフィアが遠隔操作の起爆装置を用いて、500kgの爆薬を炸裂させた瞬間だった。ファルコーネ判事と同乗していた妻、さらに前後をエスコートしていた車中の3人の警備員らが一瞬にしてこの世から消えた。マフィアはそうやって彼らの敵であるファルコーネ判事を正確に葬り去った。

それから20年後の先月5月23日、イタリア各地から集まった
2500人の学生を乗せた2隻の大型客船が、シチリア島パレルモ港に着いた。学生らはマフィア撲滅の為に戦って命を落とした、ファルコーネ判事を讃えまた記念するために行動を起したのである。若者らのアクションに代表されるそうした「反マフィア」あるいは「マフィア撲滅」キャンペーンが、判事の死後20年という節目の今年はイタリア中で多く計画されている。

特に
犯罪組織のお膝元のシチリア島では、マフィア排撃の気分がどこよりも濃く充満している。トラパニ市長のおどろきの主張は、そのさ中に突然行なわれたのだった。多くの人々はそれを、マフィアを擁護するにも等しいトンデモ発言と捉えた。

マフィアには周知のように『オメルタ(沈黙)』という鉄の掟がある。組織のことについては外部の人間には何もしゃべってはならない。裏切り者はその家族や親戚や果ては友人知人まで抹殺してしまう、というすさまじいルールである。

オメルタは、犯罪組織が島に深く巣くっていく長い時間の中で、マフィアの構成員の域を超えて村や町や地域を巻き込んで巨大化し続けた。容赦ない掟はそうやって、最終的には
シチリア島全体を縛る不文律になってしまった。

シチリアの人々はマフィアについては誰も本当のことをしゃべりたがらない。しゃべれば報復されるからだ。報復とは死である。人々を恐怖のどん底に落とし入れる方法で、マフィアはオメルタをシチリア島全体の掟にすることに成功した。

しかし、恐怖を与えるだけでは、マフィアはおそらくシチリアの社会にオメルタの掟を深く植えつけることはできなかった。シチリア人が持っているシチリア人としての強い誇りが、不幸なことにマフィアへの恐怖とうまく重なり合って、オメルタはいつの間にか抜き差しならない枷(かせ)となって人々にのしかかっていったのである。

ファルコーネ判事に代表される反マフイァ活動家たちが目指してきた「マフィア殲滅(せんめつ)のシナリオ」の一つが、このオメルタの破壊である。いや、オメルタの打破こそ判事が目指した最大の目標だったと言ってもいいだろう。彼はそれに成功を収めつつあった。だからマフィアの反撃に遭って殺害されたのである。

「犯罪組織マフィアとは一体何か」と問われたなら、僕はためらわずにこう答えるだろう。「マフィアとはシチリア島そのもののことである」と。もちろんそれはシチリアの島民の全てがマフィアと関わっているという意味ではない。それどころか彼らは世界最大のマフィアの被害者であり、誰よりも強くマフィアの撲滅を願っている人々である。
 
シチリア人は
独立志向の強いイタリアの各地方の住民の中でも、最も強く彼らのアイデンティティーを意識している人々である。それは紀元前のギリシャ植民地時代以来、ローマ帝国、アラブ、ノルマン、フランス、スペインなどの外の力に支配され続けた歴史の中で培われた。列強支配への反動で島民は彼ら同志の結束を強め、かたくなになり、シチリアの血を意識してそれが彼らの誇りになった。

シチリアの血を強烈に意識する彼らのその誇りは、犯罪のカタマリである秘密結社のマフィアでさえ受け入れてしまう。いや、むしろそれをかばって、称賛する心根まで育ててしまうことがある。なぜならば、マフィアもシチリアで生まれシチリアの地で育った、シチリアの一部だからである。

かくしてシチリア人はマフィアの報復を恐れて沈黙し、同時にシチリア人としての誇りからマフィアに連帯意識を感じて沈黙するという、巨大な落とし穴にはまってしまった。

僕はさっきマフィアとはシチリア島そのものである、と言った。それはシチリア島の置かれた特殊な環境と歴史と、それによって規定されゆがめられて行った、シチリアの人々の心のあり方を象徴的に言ったものである。
 
もう一度自分の言葉にこだわって言えば、マフィアとはシチリア島そのものであるが、シチリア島やシチリアの人々は断じてマフィアそのものではない。島民の全てがマフィアの構成員でもあるかのように考えるのは、シチリア島にはマフィアは存在しない、と主張するのと同じくらいにバカ気たことである。

シチリア島をマフィアの巣窟たらしめている、オメルタの超ど級の呪縛と悪循環を断ち切って、再生させようとしたのがファルコーネ判事であり、彼に続く反マフィア活動家の人々である。20年に渡る彼らの運動は少しづつ奏功しているように見える。それは判事の死後トト・リーナ、ジョヴァンニ・ブルスカ、ベルナルド・プロヴェンツァーノなどのマフィアの大幹部が次々に逮捕されて、犯罪組織への包囲網が狭まっていることからも推測できる。

トラパニ新市長の発言を良いように解釈すれば、ファルコーネ判事の死から20年が過ぎたことを機に、マフィアにこだわるばかりではなく未来志向で生きて行くことも大切だ、という意味合いがあったのかもしれない。しかし、マフィアが未だ壊滅していないシチリア島の厳しい現実を見れば、それはやはり「オメルタの推奨=マフィアの擁護」と見られても仕方のない非常識な物言いというべきであろう。

 

 

 

ヨーロッパカップがまたやって来た!


日本でユーロ杯などとも呼ばれる、4年に1度のサッカーの一大イベント、欧州選手権が始まった。

 

見所はたくさんあるが、一番大きいのは前回優勝のスペインが連続優勝できるかどうか、という点ではないか。

 

なにしろスペインは2008年の欧州選手権で2回目の優勝を果たし、その勢いに乗ったのでもあるかのように2年前のワールドカップも制した。それは同国にとって初めてのW杯制覇だった。

 

もしもスペインが今回のユーロ杯でも頂点に立つなら、それはW杯と欧州杯を跨(また)いで3連続優勝を遂げる初のチームとなる。

 

そんな快挙はW杯4回優勝のイタリアや3回制覇のドイツも経験がない。

 

しかし、スペインチームが興味をそそるのは、優勝回数のみにあるのではない。

 

華麗なパス回しで相手を翻弄する競技スタイルがすばらしいのだ。高いテクニックとチームワークと美意識に裏打ちされた見ごたえのあるプレーの数々が魅惑的。

 

美意識というのはあるいはここではそぐわない言葉かもしれない。しかし、サッカーの歴史始まって以来最高の、と言っても過言ではない、正確で迅速で意表を突く選手たちのボール回しの技術は、見ていてため息が出るほどの美しさだから、僕はあえて「美意識」と表現したいのである。

 

残念ながら僕が応援しているイタリアチームは、今のところスペインには敵わないと断言しても良いだろう。

 

歴史的に見れば、ワールドカップの優勝回数4回と1回から判断して、イタリアがスペインに勝っているとも考えられる。

 

しかし、2006年にイタリアがW杯を制して以降は、目の覚めるようなパス回しを武器に2008年ユーロ杯、2010年W杯と連続優勝したスペインの後塵を拝しているのがイタリアの実情だ。

 

2国間の力の差は何か。

 

僕の勝手な考えでは:「スペインには3人のピルロがいる」から、ということにつきる。

 

アンドレア・ピルロ選手はイタリアチームの司令塔であり肝心要(かんじんかなめ)の偉大なプレーヤーである。2006年W杯のイタリア優勝の立役者も彼だ。

 

アンドレア・ピルロの真骨頂は正確無比なパス回し。そしてスペインには彼に匹敵する華麗なテクニックを持つ選手が3人いる。

 

即ち、シャビ、イニエスタ、ファブレガスの3選手である。このうちファブレガスは実績の点で少し劣るかもしれない。でも1対3じゃイタリアに勝ち目はないのが当たり前だ。

 

若い選手の集まるドイツの活躍いかんも見所の一つ。

 

ドイツはイタリアと共に長く欧州サッカーを引っ張ってきたが、沈滞期に入っているイタリアとは対照的に、プレースタイルの変革と選手の若返りを見事に成功させて、さらに強くなったように見える。

 

ま、波乱が多いのが欧州杯なので迂闊なことは言えないけれど、順当ならば7月1日の決勝戦ではドイツがスペインにぶつかる、というのが衆目の一致するところではないだろうか。

 

もしそうなった時は、どちらが勝つかは神のみぞ知るだが、ラテン的軽快が好きな僕としては、やっぱりスペインに勝ってほしいような・・

 

祭りのあと



伯爵本家でのイベントが終わった。

 

巨大な虚無感だけが残った。

 

悪い人ばかりではないが、家系や富を拠り所に自らの存在の優越を信じているらしい者を見ると、疲れがどっと僕を襲う。

 

そして問題は、イベントそのものが優越意識に基づいた催し物であるために、少数の「悪い人ではない人々」まで呑みこんで、見るに耐えないスノビズムの巣窟になってしまうことだ。

 

そういうイベントのために館を開けるのは今後一切やめようと家族に話した。

 

虚栄心だけで生きている妻の老いた叔母の存在、という障害はあるが、方向性だけははっきりとしておきたいと考えたのである。

 

慈善事業や地域の為になる行事には、これまで通り積極的に参加し、協力する。

 

しかし、虚飾に満ちた時代錯誤な祭りや、集会や、パーティーには参加もしないし協力もしない。

 

妻も子供たちも僕のその基本的な考えに賛成してくれた。義母も承知している。

 

見栄っ張りの84歳の叔母が亡くなると同時に伯爵家はそういう道を行くだろう。

 

時代は完全に変わったのである。

 

僕は共産主義者でもなければ革命思想の持ち主でもない。普通の感覚を持った一市民である。

 

その一市民の感覚では、人は家系や富や血筋で価値が決まるのではなく、一人ひとりの個人の独立した「在り方」つまり「人となり」によって価値が決まる。

 

特権が自らの存在証明だと勘違いしているような人間には、その普通の市民感覚が分からない場合が多いから、品性が下劣になる。

 

伯爵家を会場にして行なわれたイベントには、悪くない人々、つまり人となりのまともな人々ももちろんいた。

 

そんな人々とは、縁があれば今後も付き合いを願いたい、と考えているのは言うまでもないことである。

しかし、

できればそういう皆さんとは、空虚なイベントの場ではなく、普通の日常の中で普通の出会いをしたい、というのもまた僕の正直な気持ちなのである。

 

 

ガルダ湖畔の社交祭



今日6月8日、ガルダ湖の伯爵本家で行なわれる晩餐会には、ミラノの有名クラブ「クルビーノ」と「ウニオーネ」の会長夫妻も参加するらしい。

 

クルビーノはミラノというより恐らくイタリアで最も知られたクラブ。

数年前に現ベネトン社長のアレッサンドロ・ベネトンさんの入会を拒否してニュースになった。


クルビーノに入会を拒否された著名人は彼を入れて58人目だったそうだ。

クラブがなぜそうした有名人の入会を拒否するのかというと、会の基準ではそれらの人々が「まだ成金の域を出ていない」から。

いろいろともっともらしい理屈を言うが、結局それが本音。

スノビズムの面目躍如。俗物根性真骨頂(笑)。

ベネトンさんのずっと以前には、確か前首相のベルルスコーニさんも入会を拒否されている。僕はそのことについて雑誌に記事を書いた覚えがある。


ところが掲載された雑誌も原稿も見つからない。


PCどころかワープロもなかった頃の僕の手書きの原稿は多くが紛失している。僕はワープロを飛び越してPCを使い出したが、それはつい最近のことである。


そこでインターネットなどを少し当たってみたが、これまでのところベルルスコーニさんが入会を拒否された事実を書いた資料が見当たらない。つまり、事実関係がはっきりしない。


はっきりしないことをあえてこうして書こうと決めたのは、クルビーノという100年以上の歴史を持つ社交クラブの気骨というか、格式というか、はたまた気取り・スノビズムというか・・見方によって変わる存在感が面白いと思うからである。


600名前後のメンバーがいるとされるクルビーノは、それよりもさらに古いミラノの社交クラブ「ウニオーネ」から派生した。

ミラノ・ロンバルディア州の支配・権力階級はもちろん、フィアット創業者のアニエィッリなどイタリア各地の権勢家も会員になっている。


クルビーノは現在ではウニオーネを凌ぐ名声を備えたクラブ。ま、いうならば「青は藍より出でて藍よりも青し」を地で行く華のある社交団体、結社である。

 
今夜の伯爵家には、そんな著名クラブからはじまって、イタリア各地方の有力クラブの会長夫妻と、ブレッシャ県の最有力クラブ「チルコロ・アル・テアトロ」の会員の一部が一堂に会する。

合計200名前後の参加が見込まれている。

湖に面した前庭で食前酒が提供された後、邸内での晩餐会。


僕はイタリア本土のナポリ以南の皆さんと、シチリア島やサルデニア島の皆さんと会うのが楽しみ。


僕は南イタリアと南イタリアの人々が好きなのだ。


僕の独断と偏見によれば、南イタリアには明るくて飾らず、かつ丁重な物腰の人が多いと感じる。


つまりに日本人に近い物腰の人々・・

 

慈善も偽善もある、フツーの日々の。



日曜日のコンサートにはウーゴ神父が出席した。

 

おかげで聴衆の数が予想以上に多くなり、立見席も出た。

 

しばらくぶりに会うウーゴさんは、やはり少し年を取っていた。

 

体調が悪いのも影を落としているのだろうが、88歳という年齢は争えない。

 

それでもウーゴさんはコンサートの終わりにマイクを持って人々に話しかけた。

 

息を切らしながらも、ぜひ貧しい子供たちと不運な人々の存在を忘れないで下さい、と熱く訴えかけた。

 

そこには、わが身を顧みずに行動してきた男の、いつもの静かなカリスマが漂っていた。

 

僕のような俗人の心も動かす慈善イベントは、そうやって今回も人々の誠意に包まれて終了した。

 

が、

 

来たる金曜日には、僕の気を重くするもう一つのイベントが、ガルダ湖畔の伯爵本家で開かれる。

 

イタリア全国の社交クラブの会長とその夫人が一堂に会する行事。言いたくないが、きっと慈善よりも偽善が先行する催し物。

 

亡くなった伯爵家の家族のつながりで、邸宅の開放を頼まれて断りきれずに受けたもの。

伯爵家には慈善事業とは関係のないそんなイベントもしばしば舞いこむ。

 

僕は俗人だが、だからといってスノブな祭りを喜ぶほどの魁偉な俗物性は持ち合わせていない。

 

だから、ひたすら気が重い。


でも、家族への義務があるから逃げない。

 
伯爵家にからむあらゆる出来事に対するときの、それが僕の行動指針。

といっても、別にえらい考えや決意があるわけではなく、どうせ逃げられないから逃げないだけ、ということなのだけれど・・


 

カテリーナも観るコンサート?



今日、6月3日はわが家で一週間遅れの慈善コンサートが開かれる。

 

慈善団体マトグロッソ主催の例年のイベント。

 

今日はバイオリン、ビオラ、チェロの弦楽器にファゴットが参加する。モーツァルト2曲+バッハ2曲+ドヴィエンヌ。

 

早朝、ウサギのカテリーナがコンサート会場の中庭にちょこんと座っていた。
 

2階から声を掛けたら、両耳だけをそばだててきょとんとしている。2階といっても、古い館のそれは普通の家の3階ほどの高さがあるので、僕の姿には気づかないらしい。

 

昨年、マトグロッソの協力を得て東日本大震災支援コンサートを開いたのもこの場所で同時期(5月29日)だった。

 

その頃カテリーナは、今はいなくなったトーボー君といつも一緒だった。

 

震災支援コンサートの日の朝もトーボー君と2匹で中庭にいた
 

寒くなると中庭にはほとんど姿を見せないが、夏が近づくとそうやって屋敷内の庭にも遊びに入って来る。どういう行動原理によるものかは分からないが、不思議で面白くて可愛い。

 

今日のコンサートにはマトグロッソの創始者であるウーゴ神父が顔を出すかもしれない。

 

88歳の神父はペルーの山中で人々に奉仕をする生活だが、
10日ほど前にイタリアに帰ってきた。来週半ばには再びペルーに発つ。

 

ちょっと体調が悪いので、コンサートへの出席は微妙だと、マトグロッソ責任者のブルーノの談。

 

ウーゴ神父は、在野のヨハネ・パウロ2世だと僕は密かに思っている。偉大な人である。

 

数年前、彼を囲む夕食会をわが家で開いた。例によってマトグロッソのブルーノが主催した。

 

30人弱の招待客から、400万円ほどの寄付が集まった。

 

それはウーゴ神父への人々の敬慕の象徴。そうした寄付金は全て南米の貧しい子供たちのために使われることを誰もが知っている。

 

他人のために生きること、人のために行動すること、無償の奉仕、無償の愛・・それは美しく、だが実行は難しい。

 

その難しい行為を自然体で軽々と、かつ真摯に続けているのがウーゴ神父。

 

それを慕って付いて行くのが、ブルーノ率いるマトグロッソのボランティアたち。

 

僕は何もできないが、わが家でのチャリティー・イベントなどで彼らと共に行動できることを誇りに思う。


書きそびれたことども



書こうと思いつつ流れてしまった時事ネタは多い。そこで、できれば将来どこかで言及したいという意味を込めて、自分にとって引っかかる出来事の幾つかを列記しておくことにした。

  

マフィア関連

 

四日前の2012年5月23日は、ジョヴァンニ・ファルコーネ判事がシチリアのカパーチでマフィアに爆殺された、20年目の記念日。

 

マフィアは1992年5月23日、パレルモのプンタライジ空港から市内に向かって時速140km以上のスピードで走るファルコーネ判事の車を、遠隔操作の爆破装置で正確に破壊した

 

ほぼ2ヶ月後の7月19日、彼の朋友で反マフィア急先鋒のパオロ・ボルセリーノ判事もパレルモ市内で爆殺される。

 

それらの事件には、収監中のマフィアのトップ、ボス中のボスと言われるトト・リイナ及びNo2のプロヴェンツァーノ、実行犯のジョヴァンニ・ブルスカらが深く関わっていた。

 

トト・リイナが逮捕された後、マフィア組織のトップに君臨していたのは、ベルナルド・プロヴェンツァーノ。彼は2006年に逮捕されて収監中。

 

今月10日、プロヴェンツァーノは刑務所内でプラスチック袋を頭に被って自殺未遂をした。袋が一体どこから彼の手元に渡ったかは不明。いつものマフィアがらみの謎。

 

話が前後するが、

 

2011年9月、トト・リイナの息子サルヴッチョが、8年10ヶ月の刑期を終えて出獄。罪状は「マファアとの連結・相関及び恐喝」だった。

出所後は就職も決まっていたが、世紀の悪人「トト・リイナ」の姓「リイナ」という現代イタリア最大の悪名がたたって、あちこちから拒絶反応が起きてしまい、生まれ故郷のシチリア島コルレオーネ村に送還される。そこでも村長が「良からぬ人物の居住は困る」と公式に発言。とても先進国とは思えない魔女狩りのようなイタリア社会の偏狭固陋な実態が明らかになる。

それを受けて、いくらなんでも罪を償い出所した男を差別し過ぎるという声と、大ボス「リイナ」の息子で本人もマフィアの構成員らしい男への当然の仕打ち、という声がぶつかりあう。犯罪者にも人権があるのかどうか、という古くて新しい議論だが、そんなもの人権があるに決まっている。それを認めなければ犯罪者を裁く行為も違法になるのではなかろうか。

またそれから3ヶ月後の12月7日には、ナポリの犯罪組織「カモッラ」の大ボスで
16年間も逃亡生活を送っていたミケーレ・ザガリア容疑者が逮捕された。彼は逮捕されるときイタリア人らしい名言を吐いた。即ち:
「わかった。国家の勝ちだ(・・・
Ha Vinto lo Stato)」。

日本人ならこんな言葉はまず思いつかないだろう。せいぜい「くそ、サツの勝ちだ」とか「サツに負けた・・」とか、目一杯ゆずって「検察の勝ちだ・・」などとでも言うところではないか。

ザガリアの呟きは、各地方が独立国家のように存在を主張してツッパリあっているイタリアならではの愉快発言、と僕には見える。つまり彼はイタリア人である前に、イタリア共和国内の心情的独立国家「ナポリ国のナポリ人」なのである(笑)。

 

再び話が前後するが、今月初め、93歳のイタリアの終身上院議員、ジュリオ・アンドレオッティが心臓病のため緊急入院。いったん事なきを得たが、老齢のため先行きが危ぶまれている。

アンドレオッティは3回7期に渡って首相を務め、隠れマフィアの一員と見なされて起訴、有罪、逆転無罪を勝ち取るなど、真っ黒に近い灰色政治家。
現在93歳の彼が亡くなればマフィアの一時代も確実に終わる。でも一時代が終わるだけで、マフィアの息の根を止めるのはまだ難しいだろう。

 

ウサギのこと


昨年、うちの庭に放たれたあと姿が見えなくなっていたウサギが、生きていることが判明。隣のパオロが家から200メートルほど離れた空き地で彼を見かけたのだ。僕も早速行ってみたが発見できなかった。でも動物好きのパオロの話では間違いなくうちのウサギだという。

そこで僕は彼に「トーボー君(fuggitivopiccolo)」という名前をつけた。マフィアの欠席裁判ならぬ「欠席命名」だ(笑)。帰って来てくれれば何よりだが、たとえ逃亡を続けても生きていることが分かっただけで嬉しい。空き地周りには畑なども多いので、きっと食べ物には困らない。誰かが捕らえて丸焼きにでもしない限り生きながらえるだろう。よかった・・


その他

 

4月3日、ロータリークラブに依頼されて講演をした。テーマは何でもいいという話だったので、日伊テレビ(番組)比較論でもしゃべろうかと思った。が、普段からイタリアのテレビ、特に公共放送のRAIが、ドキュメンタリー制作の伝統をほとんど持たないことに不満を抱いている自分は、しゃべるうちに頭に血が上って罵詈雑言を吐きそうな気がしたので止めた。

テレビ局がドキュメンタリー制作の伝統や文化を持たないのは、視聴者であるイタリア国民があまりそれを見たがらないからだ。だからテレビを罵倒するのはイタリア人を罵倒することだ。そう思って止めたのである。

その代わりに、素直に日本文化について自分なりの考えを話した。途中で「日本人にとっての自然とは、皆さんにとっての宗教に近い重要なものです」というひと言を入れたら、案の定、特に高齢者のメンバーの人たちが明らかに目をシロクロさせた。予想通りの反応がとても面白かった。一神教のドグマに縛られている人たちには、そういう話は永遠に理解できないのだ。

 

 

地震大国イタリアに生きる-東日本大震災がもたらしたもの-



5月20日未明、ヨーロッパの地震大国、ここイタリアでまたもや死傷者の出る地震があった。

震源は北イタリアのボローニャ市近郊。午前四時過ぎのことだったが、かなりの揺れを感じて飛び起き、家の中でもっとも厚い壁に体を寄せて難を避けた。自宅建物は石造りの古い大きな建築物である。


身を寄せた壁は1メートル近い厚みがある。建物の中心を端から端に貫き、さらに一階から三階を経て屋根にまで至る、いわば家の背骨。大黒柱ならぬ「大黒壁」。地震の際は一番安全ということになっている。

だが、それはもちろん比較の問題に過ぎない。巨大な石造りの建物が崩れ落ちたらかなり危険なことになるだろう。揺れに身をゆだねながら僕は死を覚悟した。これは誇張ではない。

昨年、東日本大震災の巨大な不幸を、遠いイタリアで苦しく見つめ続けた。大津波が家も車も船も畑も何もかも飲みこんで膨れ上がっていく驚愕の地獄絵図を目の当たりにして、人は無常観の根源にある自然の圧倒と死を、歴史上はじめて共有・実体験した、と言っても過言ではないだろう。

3月11日以降の日々に感じた恐怖や悲しみは僕の中に深く沈殿し、その反動のような心の力学が働いてでもいるのか、自分の中で何かが大きく変わってしまったと感じる。あえて言えば、それは自分自身が強くなったような、或いは開き直った、とでもいうような不思議な確信に近いものである

これまでにも繰り返し地震はあった。今回のような揺れを感じたこともある。その度に家の中心にある壁際に身を寄せた。僕は臆病者なので、その時はいつもパニックに陥り、怖れ、不安になった。同時に心のどこかで「何が起きても大丈夫。自分だけは絶対に死なない」と根拠のない「空確信」にもすがりつきつつ、ひたすらうろたえるばかりだった。

ところが今回僕はひどく落ち着いていた。隣で恐慌に陥っている妻をかばいながら冷静に死を思い、覚悟した。そんな反応は東日本大震災の記憶なしにはあり得ない。

マグニチュード9の大震災とマグニチュード6の今回のイタリア地震を比較するのは馬鹿げているかもしれない。 しかし、強い揺れのさ中ではマグニチュードの大小は分からない。加えてこの国では、地震の度に日本では考えられないような建築物の崩落が起きたりもする。

古い石造りの建築物の中には、何世紀にも渡って生きのびる、いわば究極の耐震構造物と形容してもいいような強靭なものもある。それと同時に、地動に弱く一気に崩壊する建物もまた多いのだ。

しかし、石造りの建物が崩壊する恐怖を差し引いても、そこで死を覚悟するなんて滑稽だ、と今になっては思う。でも、揺れのただ中では、僕は確かにそこに死を見ていたのだ。あるいは死に至るなにかを冷静に待ち受けていた。

「死の覚悟」なんて僕はこれまで断じて経験したことがない。東日本大震災が僕の人生観を永遠に変えてしまったのだ、と心の奥の深みで今、痛切に思う。

 

ワンダーランド「君府」の魅力~その光と影~



君府とはトルコのイスタンブールの古い呼び名の一つである。先日、その君府のグランドバザール他でロケをした。仕事にかこつけて、ロケの前後の日々には街を大いに探索した。この記事のタイトルは「ワンダーランド・イスタンブールの魅力-その光と影-」というタイトルでも良かったが、ちょっと目先を変えて「君府」と書いてみた。


西洋と東洋がクロスオーバーする君府は激しく魅惑的な街である。そこには常に西風と東風が吹き込んでいる。風はぶつかり、主張し、逆巻き、やがて相互に受容しながら融和して、涼風になって街の通りに吹き募る。ヨーロッパとアジアが出会う街、イスタンブールを下手な文学調で表現するとそんな感じだろうか。

ヨーロッパの街並みの中にブルーモスクをはじめとするアラブ文化が存在を主張している。6本のミナレット(尖塔)が凛として天を突くブルーモスクはひたすら美しい。

イスタンブールは街の景観が既に複雑な美となって旅人を魅了する。古代ローマ帝国の版図の中で栄え、15世紀以降はオスマン帝国の支配下でオリエント文明の中心地として花開いた街。キリスト教の教会とイスラム教のモスクが併存する、楽しいワンダーランドである。

景観もさることながら、イスタンブールは特に街の「心」が複雑に入り組み、もつれ、綾(あや)なし、紛糾しているように見える。が、それは少しも不快なものではなく、活気にあふれたもの珍しい風となって旅人の頬を撫でて過ぎる。僕の目にはそれが君府の魅惑の根源と映る。

ヨーロッパの街並以外の何ものでもない旧市街を抜けて、グランドバザールの中に足を踏み入れると、そこは純粋の中東世界。そこからさらに足を伸ばすと、えんえんと続く市場通りに、布で髪を隠したヒジャブ姿のムスリム女性が行き交う。全身黒ずくめのニカーブを装ったムスリム女性も多く、むしろ普通の洋装の女性を探すのが難しいくらいの印象である。

そこで目までおおい隠すブルカ姿の女性を見たときは、さすがに強烈な違和感を覚えた。ブルカはタリバンによってアフガニスタン女性が着用を強要された服装、というのが定説だが、暑くて乾燥した気候や強烈な日差しから肌身を守る意味があったという考え方もないではない。でも、もっとも重大な意味を持つのはやはり、それらの装いが女性を一定の価値観の中に縛りつける道具であるという点である。

僕がなぜそうした女性の服装にこだわるのかというと、そこにイスラム教社会の執拗な女性差別の象徴を見る思いがするからである。イスラム教に限らず、いかなる宗教であれ僕は深い敬意を表する。しかし、あからさまな女性差別に関しては、宗教であれ国であれ社会であれ、強い嫌悪感を覚えずにはいられない。それは僕が信奉する民主主義に対するの最大の脅威であり障害だと思うからである。そこで僕は、差し出がましいことを承知で、あらゆる場所や機会を捉えて女性差別を批判したり、修正を要求したり、開明を願うことをいとわない。

トルコ共和国は、建国の父アタテゥルコの強烈な西欧化政策によって近代国家となった。同国の最終目標はEU(欧州連合)への加盟である。だがトルコ共和国悲願のEU加盟交渉は遅々として進んでいない。

その原因の主なものは共和国が抱えるクルド問題やキプロス問題、さらにアルメニア人虐殺問題であるという説明が良くなされる。それは事実である。だが、それよりもさらに大きな障害は、キリスト教国であるEU加盟各国の反イスラムの感情だ。トルコはイスラム世界初の世俗主義国家ではあるが、国民のほとんどがムスリムつまりイスラム教徒であることには変わりがない。

そしてヨーロッパの人々が、イスラム教社会のもっとも大きな問題の一つと見なすのが、女性差別意識なのである。トルコの女性解放は進んでいるがまだ十分ではない、と人々は考え、それがEU加盟国家間の暗黙の了解になっている。 僕は伝統衣装を着てイスタンブールの街を行き交う多くのムスリム女性を見ながら、しきりとトルコのEU加盟問題を思い起したりもしていた。

ヨーロッパとアジアが出あう街とは言葉を替えれば、ヨーロッパでもありアジアでもあるということであり、或いはヨーロッパでもアジアでもない、ということでもある。唐突に聞こえるかもしれないが、そういうイスタンブールの複雑なたたずまいは、日本にも似ていると僕は感じる。西洋化された東洋。景観が西洋化されたように見えるが、内実はがんがんとして東洋のトルコであり同じく東洋の日本であるという共通性。

激しく切なく欧米を恋い慕い、模倣し、ついに追いついたものの、表面はどうであれ決して欧米そのものにはなれないことに気づき、疎外され、傷つき、やがて開き直って、自身のアイデンティティーに目覚める。アイデンティティーに目覚めてそれの追求を始めて、独自の文化・ルーツへの自信も深めながら、依然として欧米への恋心も抱き続けている純真な者たち。それがイスタンブールでありトルコであり日本なのかもしれない。

矛盾と闊達と自信がみなぎっている魅惑の街、君府・イスタンブール。。。

僕はそんなイスタンブールに郷愁にも似た強い親しみを覚えるのである。

国の中心はわが街、わが美しい邦



イタリア共和国には首都は存在しない。あるいは、イタリア共和国には首都が無数にある。ローマがイタリアの首都だと思いこんでいるのは、当のローマ市民と日本人に代表される外国人くらいのものである。

イタリアが統一国家となったのは、今から150年前のことに過ぎない。それまでは海にへだてられたサルデニア島とシチリア島は言うまでもなく、半島の各地域が細かく分断されて、それぞれが独立国家として勝手に存在を主張していた。それは統一から150年が経った今も、実はまったく変わっていない。

国土面積が日本よりも少し小さいこの国の中には、周知のようにバチカン市国とサンマリノ共和国という二つのれっきとした独立国家があるが、それ以外の街や地域もほとんど似たようなものなのである。ミラノはミラノ、ベニスはベニス、フィレンツェはフィレンツェ、ナポリはナポリ、シチリアはシチリア・・・と、イタリアは今もってたくさんの小さな独立国家を内包して一つの国を作っている。

もちろん正式にはローマが統一国家イタリアの首都だから、国家レベルの政策決定や立法や対外政策というのはローマで成されるし、国会や大統領府もローマに置かれている。このことを指摘するとローマ人は「その通り!」と胸を張る。ところがローマ以外の土地の人々は「アッローラ?(だから何なの)」と、バカにしきった顔で肩をすくめて見せたりする。

古代ローマ帝国が滅亡して以来、ローマ市は法皇が支配する小さな一教会国の首都に過ぎなかった。その間他の地域は、共和国や公国や王国や自由都市として独立し、ローマを圧倒するほどの力と文化を持ち続けるものがいた。その中でも良く知られている例が、ルネッサンスを生み出したフィレンツェであり、東方貿易と海運業で栄えたベニスであリ、あるいは同じ海洋国家のジェノヴァである。
 
そういう歴史があるために、150年前に国家が統一され、それからさらに10年後の1871年にローマが統一国家の首都となっても、人々は少しも納得しない。ローマはイタリアの首都かも知れないが国の中心ではない。国の中心はあくまでもわが街だと言い張って、ローマに同調するどころかお互いに反目し合ってばかりいる。

実際にイタリアを旅して回ると、人々の言い分が強い根拠に基づいたものであることを思い知らされる。ベニスやフィレンツェやナポリやミラノやシチリア、そして当のローマは言うまでもなく、古い歴史を持つイタリアの都市や地域はすべて独自の文化や町並や気候風土や生活様式を持っている。食も違い建物も違い、人々の気風も違えば言葉も違う。

それぞれが一家を成す個性派ぞろいの都市や地域が一堂に集まって、イタリアという統一国家の名のもとに政治、経済、立法、対外政策その他の一切を基準化しようというのだから、ローマに居を構えた中央政府は大変である。まとまる物もまとまらない。普通の国の政府なら、一つの勢力が右と言えばすぐに左と叫ぶグループがいて、2者が話し合って妥協案を見つけるけれど、この国には右と言う声に呼応して左はおろか前後縦横上中下、東西南北天地海山松竹梅、欲しがりません勝つまでは!と議論が百出していつも大騒ぎになる。

その結果、内閣が回転式のドアみたいにくるくると変わったり、マフィアに国を乗っ取られそうになっても、それに対抗する強力な国家権力機構が中々できなかったりもする。イタリア共和国が国家権力の名のもとにマフィアを封じこむことができたのは、イタリア政府が唯一安定した時期、つまりムッソリーニのファシズム政権の間だけなのである。

そういうマイナス面はあるが、しかし、それだからこそ今あるイタリアの良い面もまた存在する。つまり誰もが自説を曲げずにわが道を行こうと頑張る結果、カラフルで多様な行動様式と、あっとおどろくような独創的なアイデアが国中にあふれることになるのだ。

そして最も肝心な点は、イタリア人の大多数が国家としてのまとまりや強力な権力機構を持つことよりも、各地方が多様な行動様式と独創的なアイデアを持つことの方が、この国にとってははるかに重要だと考えている事実である。

言葉を変えれば、彼らは「それぞれの意見は一致しないし、また一致してはならない」という部分でみごとに意見が一致する。この国ではあくまでも「違うこと」が美しいのだ。

外から眺めると混乱の極みに見えるイタリアという国には、そういう訳で実は混乱はない。そこにはただ“イタリア的な秩序”があるだけなのである。つまり国がまとまらないことを承知で、なおかつわが街わが邦の独自性を死守しようとするイタリア的な秩序が。

困ったことにその秩序は、イタリア人一人ひとりの対人関係においてもしっかりと生きている。だからイタリアは国も国民もいつも騒がしい。外から見るとそれがまた混乱に見える・・・。

夏まで、の


トルコではイスタンブールのロケのついでに、その魅惑的な街をたっぷりと堪能し、さらに世界遺産のカッパドキアまで足をのばした。

イタリアに戻ってからは、撮影素材の少しの編集作業と多くのチャリティー事業及びその準備に忙殺されている。


先週金曜日からの4日間は、ガルダ湖畔の伯爵家で催されるガーデン祭りに参加。祭りは地域振興が目的のイベント

伯爵家の人々が亡くなったり老いたりして参加しないので、仕事が妻と僕の肩に重くのしかかってくる。少し疲れ気味。

3週間後にはガルダ湖とほぼ同じ趣旨の祭りが僕の住む村でも行なわれる。湖のそれよりもはるかに規模が大きい祭りでは、わが家も会場の一部になる。


毎年2月頃にはじまる祭りの準備は今がピーク。


それは昨年も同じだったのだが、同時に東日本大震災チャリティーコンサートの準備もあったため、僕の頭の中ではそっちの方が優先されていて、ほとんど覚えていない。


今年は東日本大震災チャリティーコンサートに協力してくれた村の人々への感謝も込めて、気を入れて準備作業を手伝っている。たいしたことはできないけれど・・


6月になると、これまた例年のマトグロッソ主催のチャリティーコンサートもわが家で開かれる。マトグロッソは有名な慈善団体。

昨年はマトグロッソの友人たちも東日本大震災チャリティーコンサートに集中してくれた。感謝。


今年は普通に戻って、南米の子供たちを支援するためのコンサートを行なう。イタリア在住の日本人にも参加してほしいが、これは少し難しいだろう。

ガルダ湖の家も含めて、今年もまたそうやってチャリティー事業の多い夏がやって来る。


疲れないわけではないが、どうせ逃げられないのだから、振り向いてこちらから積極的に立ち向かって行こうと思う。


仕事や義務というのは、不思議なことに、逃げれば逃げるほど重圧を増してのしかかって来るものだから。

そして

逃げずにアクティブにかかわるのが何事につけ成功のコツなのだから・・

  

「不惑」という困惑



僕から見ると若いアラフォー世代の友人女性が、不惑という言葉を知って少し困惑したような、困惑しなかったような、不思議な気分になった様子の連絡をくれた。

そうした世代の男女の友人を見ていると、40歳という年齢に強い感慨を抱いたり不安を覚えるような言動をするのは、男性に比べて女性の方が多いように感じる。

40歳をあらわす不惑という言葉は、言うまでもなく論語の「40歳(しじゅう)にして惑わず」から来ていて、それは人生、つまり寿命が50年程度だった頃の道徳律、と解釈すれば分かりやすいのだが、正確に言うと少し違うようだ。

論語の一節であるその言葉を残した孔子の時代、つまり約2500年前は人間の平均寿命は50年よりもきっと短いものだったと考えられる。人間の平均寿命が50歳ほどになったのは明治時代になってからという説さえある。人間は長い間短命だったのである。

でも2500年前の孔子でさえ72歳まで生きている。また70歳をあらわす古希という言葉もあって、それは周知の如く「70歳は古来、希(まれ)なり」のことである。つまり昔は70歳まで生きる者は「ひどく珍しい」と言われるほどの長生きだったのだ。孔子はその希な人間の一人だった。

過去の時代は全て「人生50年」ほどの世の中だった、という日本人の思い込みの多くは実は、織田信長が好んだ敦盛の中の「人間50年 下(化)天のうちを比ぶれば 夢まぼろしのごとくなり~♪」の影響が一番大きいように見える。

そこで言う人間50年とは平均寿命が50年という意味ではないが、人の生命は宇宙の悠久に比べるとあっという間に過ぎず、たとえ50年を生きたとしても宇宙の一日にしか当たらない、まことにはかないものだ、ということだから、拡大解釈をして平均寿命50年の人生、というふうに考えても当たらずとも遠からずというところだろう。

要するに、今現在の平均寿命である約80歳はさておいても、2500年前の孔子の時代から江戸の頃まで、大ざっぱに言って人間はやっぱり50歳程度が平均寿命だった、と考えてもいいと思うのである。

あるいは人々が願った長生きの目標が50歳程度だった、とか。はたまた、正式な統計があったわけではないが、50歳まで生きることができればラッキー、というふうに人々は感じていた、とか。

その伝で行くと、不惑の次の「知命」つまり「50歳にして天命を知る」とは、死期に至った人間が寿命や宿命を知るということになり、さらにその次の「還暦」の60歳は、おまけの命だからもう暦をゼロに戻してやり直すということである。

そんなふうに人間が短命だった頃の70歳なんてほぼ想定外の長生き、希な出来事。だから前述したように古希。

さらに、88歳をあらわす「米寿」という言葉は、88歳なんていう長生きはある筈もないから、八十八をダジャレで組み立てて米という文字を作って「米寿」、というふうにでも決めたんじゃないか、と茶化したくなる。

何が言いたいのかというと、年齢を気にして「年相応に」とか「年甲斐も無く」とか「~才にもなって・・」などなど、人間を年齢でくくって行動や思想や生き方を判断しようとするのは、実に偽善的でつまらないことだと思うのである。

40歳を意味する不惑という言葉にも、精神の呪縛をもたらす東洋的な閉塞感と狭量と抑圧の響きが充満していると思う。少なくとも僕が好きで住んでいるここ西洋には、全くないとは言わないが、人を年齢で縛る考え方は多くはない。

そういうところも僕が西洋文化を好きなった一因である。感じるままが年齢だ、という生き方に憧れを抱いている僕にとっては、年齢をあまり気にしない欧米社会の風通しの良さは心地よいのだ。

40歳でも惑いまくり悩みまくるのが普通の人間であって、それは人生50年の時代でも同じだったはずだ。ましてや人生80年の現代、40歳の若さで悟りきって惑わない、つまり「不惑」者がいるとするなら、その人こそまさに「古来希な」大天才か、あるいは重いビョウキか何かなのではないか。

僕はもう過ぎてしまった不惑からの時間よりも還暦までの時間の方が短くなったオヤジーだが、不惑なんて少しも気にしないまま(惑いまくってそれを気にする暇などないまま)ジーオヤになって、しかもそれが当たり前だと腹から思っている男である。

それどころか、還暦になっても、また運良く古希とか喜寿(77歳)とかまで生きることがあっても、きっと相変わらず惑い、悩み、葛藤し、妄想して、煩悩の中に居つづけるだろう。

いや、きっとそうしていたい。なぜならそれが生きているということであり、悩まなくなった人間はもはや死人と同じだと思うから。

惑い、悩み、葛藤し、妄想して、煩悩の中にいることこそ生きるということであり、生きている限りそれもまたきっと人生を楽しむ、ということなのだろう。

楽しむ、というのが言い過ぎなら、そうした人生の負の側面でさえ「生きていればこそ」と考えて立ち向かうこと。あるいは積極的に受け入れて肯定すること。つまりそれから目をそらさないこと。

そんな考え方は、言うまでもなく別に僕の発見ではない。禅の教えの根本である。いや、分かった風を装ってはならない。僕のここまでの浅い知識の範囲で理解している禅の根本である。

そうしてみると、不惑を意識して悩んでいる女性たちは、男などよりも人生を楽しむ術を知っている優れもの、ということにもなるのだが・・

潰れ貴族



「潰(つぶ)れ百姓」という歴史的事実を表す言葉がある。

江戸時代、凶作や税(貢租)の重さや、商品経済の浸透による負債の累積などが原因で、年貢が納められなくなって破産した農民のことである。

潰れ百姓たちは飢え、餓死し、生きのびた者は江戸などの都市に流れ込んで、そこでも悲惨な生活を送った。


世界を揺るがしている欧州の財政危機は、イタリアで「潰れ百姓」ならぬ「潰れ貴族」を大量に生み出しかねない状況を招いている。

フランス革命のような激烈な世直しが起こらなかったイタリアには、今でも古い貴族家が所有する館などの歴史的建造物が数多く存在している。またイタリアの世界遺産の登録件数は世界一(47件)。世界の文化遺産の40%がこの国にあるとも言われている。

イタリアの膨大な歴史遺産の有様はざっと見て次の如くである。
1)大規模な歴史的旧市街centri storici principali:900箇所  
2)小規模な歴史的旧市街centri storici minori:6850箇所 
3)歴史的居住集落nuclei abitati storici:15.000箇所
4)歴史的居住家屋dimore storiche:40.000 軒 
5)城及び城跡rocche e castelli:20.000箇所
6)空き家の歴史的居住家屋abitazioni storiche non utilizzate:
1.300.000軒

このうち妻の実家の伯爵家の住居などが含まれるのは4)の歴史的居住家屋。つまりイタリアには「現在も人が住んでいる」4万軒もの貴族の館やそれに準ずる古い建築物が存在し、また人が住んでいない貴族館等の6)の歴史的建築物を含めると、その数はなんと134万軒にも上るのである。

そうした家の固定資産税は低く抑えられ、相続税はほとんどゼロに近い優遇策が取られている。それはなぜか。

それらの古い広大な家には、膨大な維持費や管理費が掛かるからである。

本来ならほとんど全てが国によって管理されるべき歴史遺産や文化財に匹敵する建物群が、個人の支出によって管理維持されている。

イタリア共和国は彼らの犠牲に応える形で税金を低く抑えてきた。

僕は今、「犠牲」と言った。それは真実だが、外から見れば「犠牲」などではなく逆に「特権」に見える場合も多い。また、広大な館を有する貴族や名家の中には、今でも充分に実業家などに対抗できるだけの富を維持している者も、わずかながらだが確かにいる。

しかし、そうした古い家々の多くは、昔の蓄えを食い潰しながら青息吐息で財産の維持管理をしている、というのが家計の状況である。固定資産税や相続税がまともに課されたら、彼らのほとんどはたちまち困窮して、家を放棄するしかないであろう。

イタリアの歴代政権は、国家財政が困窮するたびにそうした家への課税を強化しようとしたが、増税の結果「潰れ貴族」が出現して逆に国家の財政負担が一気に拡大するリスクを恐れて、一回限りの特別課税などとしてきた。

イタリア中の貴族家や旧家の建物を全て国が維持管理することになれば、イタリア共和国の国家財政は明日にでも破綻してしまうだろう。

一方でイタリアには「労働憲章法18条」一般に「条項18」と呼ばれる、世界でも珍しいほどの労働者保護の立場に立った法律がある。

それは実質、雇主が労働者を解雇できない強い規制を伴なうもので、イタリアの労働市場をガチガチに硬直させている。

要するにこの国の経営者は「条項18」を恐れるあまり、めったに人を雇わないのである。その結果古くて無能な労働力が会社に残り、そのあおりを食って若者の失業者が増え、経済のあらゆる局面が停滞して悪循環に陥る、ということがくり返されてきた。

今回のイタリア財政危機を回避するべく政権の座に就いたマリオ・モンティ首相は、様々な改革を推し進めているが、中でも彼がもっとも重要と見なして取り組んでいるのが「条項18」の改正。必要に応じて経営者が労働者を解雇できる普通の労使関係に戻すべく動いている。

そこで出てきたのが例によって歴史的居住家屋への増税案。最大で現行の年間税率の6倍にもなる固定資産税を課すことも検討されている。

「国民が平等に痛みを分かち合う」ことをモットーにしているモンティ政権は、40年前に発効した「条項18」を死守しようとする強力な労組への懐柔策として、これまた長い間改正されずに来た貴族館などへの増税をバーターとして提示しているのである。

増税率がどの程度に落ち着くのかは今のところ不透明だが、大幅な増税が一時的ではなく持続的なものになった場合、イタリア全国で相当数の「潰れ貴族」家が出るのは間違いないだろう。

「斜陽貴族」でも書いたように、栄華を極めた者が没落するのは歴史の必然である。古い貴族家が潰れたなら、新規に富を得た者がそこを買い入れて、建物の歴史を新しく書き続けていけばいいだけの話だ。


しかし、今回のような不況のまっただ中で「潰れ貴族が」出た場合、彼らの住まいなどの歴史的建造物が打ち捨てられたまま荒廃する可能性が高くなる。

なぜなら新たに富を得た実業家なども経済的に困窮している時期だから、買い手が付かなくなるケースが増大すると考えられるからである。

膨大な数のイタリアの歴史的遺産は、たとえそれが私有物であっても、最終的には国の財産であることには変わりがない。

モンティ首相は就任以来、財政危機を確実に修正してイタリアをまともな方向に導いているように見える。

が、一歩道を間違えると、国の文化遺産を破壊したトンデモ首相として、歴史に名を残す可能性も又、無きにしも非ずなのである。

 

パスクア2012



明日48日はパスクア(復活祭)。

イエス・キリストの復活を祝う重要な祭り。英語のイースターである。

 

パスクアは毎年日付けが変わる。が、祭りの中身は例年ほぼ同じ。

 

家族・親戚・友人などが集って、イタリア定番の食事会を開いて祭りを祝う。その時に供されるのが子羊または子山羊(ヤギ)の肉

 

妻の実家の伯爵家とその親戚筋はどこも子山羊料理がメインコースで出る。

 

今年は親戚の一つの、そこも伯爵家に招待されている。メインはやはり子山羊のオーブン焼き、という知らせがあった。

 

子羊や子山羊料理に次ぐパスクアの名物は2種類のスイート。卵を模(かたど)った大小のチョコレートとコロンバ。

 

卵チョコレートは、ヒナが殻から生まれ出ることを「キリストが墓から出て復活する」ことにたとえたもの。

 

コロンバは鳩のことで、その名の通り鳩の形をしたふかふかのパンのようなスイート。

言葉を変えれば、発酵パン菓子とでもいうところか。平和や愛のシンボルである。

 

僕はそうしたスイートにはほとんど興味がない。食べたいのはメインの肉料理。

 

子羊でも子山羊でもいいができれば子山羊が嬉しい。

 

なぜなら子羊の料理はいつでも食べられるが、子山羊のそれはパスクアの時期にしか食べられないから。

 

長年妻の実家の伯爵家で子山羊料理を食べてきたが、今年は違う親戚の家のレシピが楽しみである。

 

復活祭の翌日はパスクエッタと呼ばれる振り替え休日。その日は友人宅に招(よ)ばれている。

そこでのメイン料理は多分子羊。友人本人はヴェジタリアン。でも客には普通の料理を出す。

 

復活祭の後はトルコのイスタンブールに飛ぶ。バザールでのロケ。

 

ロケの後には技術スタッフと別れて、世界遺産カッパドキアを訪ねる計画。

 

トルコは僕が長い時間をかけて巡る予定の地中海域の一角。

 

今後も何度か訪ねると思うが、今回は仕事ついでにイスタンブール一帯とカッパドキアを見てくるつもりである。

それやこれやで忙しく、パスクア休日を利用してミラノにやってくるシチリア島の友人にも会えそうにない。

仕事のほかにも忙しさがある。

イタリアの財政危機にからんで税法なども変わり、伯爵家はかなり逼迫(ひっぱく)すると見られている。

それはイタリア国民全てに当てはまるが、古い貴族家にとっては事態はさらに重くなりそうな様相。

そこでの関わりでも動くことが重なって多忙を極めている。

しばらくブログも更新できないかもしれないので、今日、明日中に時間があればできるだけ書いておきたいと思うが、

さて・・

スーパーマリオ、イタリア・モンティ首相に乾杯!



イタリア、モンティ首相の日本訪問は予想以上に成果があったのではないか。

 

日本との経済協力関係強化とか友好関係の強化とかいうことではなくて、前首相ベルルスコーニがまき散らしたイタリアの負のイメージの払拭(ふっしょく)という意味で。

 

欧州連合の信奉者で優れた経済学者でもあるモンティ首相率いる現政権は、ドイツ並みの固さと精密と実直で、ゆるみ切ったイタリア財政の改革を進めていて欧州各国から高い評価を受けている。

 

その政策は首相の人となりとも重なる。

 

今回の日本訪問では、モンティ首相の真面目で実直で落ち着いた物腰や考え方が、NHKのインタビューなどを通して日本国民に知れ渡ったように見える。

 

日伊の友好や経済関係は、今さら強化するまでもなく良好なものだと思う。

 

それでも

前首相ベルルスコーニが、いい加減で不誠実な言動や少女買春容疑などで不評を買い、イタリアのイメージを大きく損ねたことは否めない。

 

その前首相の失点を、モンティ首相が今回の日本訪問である程度回復したように見えるのは嬉しい限りである。

 

第二の母国とも言えるほどに長く住んでいるこの国を、僕は故国日本に対するのと同じように時には批判もし怒ったりもするが、日本と同様に深く愛している。だから、イタリアが外から悪く見られるのは悲しい。

 

ましてやそれが日本からの批判や罵倒だったりすると、悲しいを通り越してほとんどつらい思いさえする。

 

だから、

 

スーパーマリオ、すなわち仕事師マリオ・モンティ首相バンザイ、という心境なのである。

 

ただ、


ここまで話したことと完全に矛盾するようだが、真面目で堅物でどちらかというとドイツ人的なモンティ首相を見ていると、ベルルスコーニさんが懐かしく見えたりもするから、おかしなものである。

 

以前の記事<スケベで嘘つきで怠け者のイタリア人?>でも書いたように、僕は明るくていい加減で遊び好きなイタリア人が好きなので、堅苦しいだけの人を見るとちょっとつらい。

 

からかったり茶化したくなって、しまいには避けたくなる。

それはきっと、自分がいい加減でノーテンキな人間だからに違いない・・

 

 


ミモザがはこび来る春



去った3月8日は、イタリア人がミモザの花を女性に贈りあるいは贈られて華やぐ「女性の日」。

当日なぜミモザが主役になるのかというと、それが木に咲く花(草ではなく)としては春一番だから、という程度の意味らしい。

 

確かに、冬から春に向かう寒い時期にも見られる草花というものはあるが、初春に木の枝に咲く花、というのはミモザあたりが先ず思い浮かぶ。

 

他にもあるのかも知れないが、鮮やかな黄色が目にまぶしいミモザがやっぱり一番目立つようだ。

 

日本で言えば梅の花とでもいうところか。

もっともミモザは、梅の花の楚々としたたたずまいに比べると、華やかな雰囲気が少し勝るように思うが。

 

ミモザが表舞台から姿を消すと、同じ黄色のレンギョウの花がそこら中に咲き乱れる。

レンギョウも木に咲く花。今が盛りでミモザよりももっと色鮮やかである。

 

僕の仕事場から見下ろすブドウ園の周囲の壁際にも、そこかしこにレンギョウの黄色い花の盛り上がりが立っている。

 

花の季節の先陣を切ってミモザが咲き誇り、つづいてレンギョウが花開くと、堰を切ったように多くの草花が咲き競う、春爛漫。そのスタートダッシュの時が今なのである。

 

去った日曜日には友人宅で早咲きのソメイヨシノも見物した。

イタリアも今年の冬は寒かったので、桜の開花は遅れると思い込んでいて花見の期待はしなかったのだが、3月半ば過ぎから勢いよく春めいて、早咲きの桜はもう満開。

 

いつもながら、イタリアの季節の変化は急激で、めりはりがきいていて面白い。


鯨は家畜ですか?シーシェパード暴力との訣別法



最近メディアでの論争が少なくなっていますが、捕鯨に対する世界の目は日本に対して決してあたたかいものではありません。以前、ミラノの自分の事務所で翻訳の仕事を頼んだ日本語ぺらぺらの外国人女性に「ノルウェーの捕鯨は文化だから許せるが、日本の捕鯨はそうじゃない。野蛮なだけだ」と言われたことがあります。彼女は日本語習得のために日本に住んだことがあり、その間に捕鯨についての情報を得たということでしたが、無知と人種差別感情が丸出しなだけの呆れたコメントに、僕は少し大げさに言えば、殺意に近いほどの怒りを覚えたことを白状します。


あれから随分時間が経ちましたが、鯨を捕らえてその肉を食べる日本人を疎ましく思う人々が世界には依然として多くいます。それに反発して、鯨肉と牛肉のどこが違う?とか、豚は殺してもいいが鯨を殺すなというのは偽善であり言いがかりだ、などと主張する人々もまた少なからずいます。しかしそうした議論や反論には、僕はいつも違和感を覚えます、

人間が生きるとは殺すことです。われわれは人間以外の多くの生物を殺して食べ、そのおかげで生きています。肉や魚を食べない菜食主義者の人々でさえ、植物という生物を殺して食べていることに変りはありません。

もしもそれが悪であり犯罪であるなら、われわれ人間は一人残らず悪人であり罪人です。乳飲み子でさえそうです。なぜなら赤子は、生物を食べて生きる母親が与える母乳を頼りに生存しています。従って人類は、シーシェパードの活動家も、鯨肉大好き人間も赤子も、誰も彼もが皆悪人であり罪人である、という同じ土俵に立っています。

それはつまり、何かを殺して食べること自体を否定したり非難したりするのは無意味だということです。シーシェパードの活動家が鯨肉を食う者を非難するのも、またこれに反論して牛肉食いや豚肉食いをあれこれ言うのも同じく意味がありません。われわれは誰もが悪く、あるいは誰もがちっとも悪くないのです。人間は皆等しく他の生命を糧に生きている生命であるだけです。

そうして見ると、シーシェパードなどが非難しているのは食べる行為よりも殺す行為であるらしいことが分かります彼らがそのことを意識しているかどうかは定かではありませんがかも殺す対象が野生の生物であることを彼らは問題にしているようです。だから絶滅危惧種かもしれない野生の鯨を殺すのは悪で、生育可能な家畜である牛や豚を殺すのは構わない、という理屈なのでしょう。

ならば、シーシェパードをはじめとする反捕鯨論者を論駁し、黙らせる方法が一つだけあります。言うまでもなく、鯨を養殖する、つまり家畜化してしまうことです。子鯨を捕らえて育てる蓄養ではなく、人工的に育てた鯨に子供を生ませてこれを食用として育てる、完全養殖ならぬ完全家畜化です。

鯨を人工的に繁殖させて食肉として利用すれば、それは牛や豚と同じになって野生の絶滅危惧種とは言えなくなり、シーシェパードなどが環境保護を主な拠り所に捕鯨船を攻撃したり、日本人を批判する理由がなくなります。

しかし

さて、鯨の完全家畜化に成功して大手を振って鯨肉を食べられるようになったとします。実はそれでもシーシェパード率いる反捕鯨論者たちの日本批判や攻撃は止むことはありません。なぜなら彼らは、環境保護や動物愛護の精神から捕鯨に反対していると同時に、彼らの好き嫌いの感情に従って反捕鯨を叫んでいる可能性が高いからです。

つまり、愛犬家が犬肉を食べる者を憎むように、鯨が大好きな彼らは鯨を殺すな、食べるなと叫んでいる可能性がある。嗜好は言うまでもなく主観的なものです。従って彼らを黙らせるのは多分不可能に近い。しかし、だからこそ日本は、鯨を養殖し完全家畜化することで、環境破壊はやっていないとはっきりと主張するべきです。それでも彼らが非難を続けるなら、その時こそ「鯨と同じ家畜である牛や豚を殺すあなたたちとわれわれのどこが違うのか」と反論すればいいのです。

え?そうは言っても、鯨の完全養殖や家畜化はコストがかかり過ぎるですって?

ならばコストパフォーマンスに見合うだけの顧客を世界中に求めればいいだけの話です。当たり前の企業努力ですね。しかし、そうなれば鯨肉好きな日本人へのバッシングがさらに熾烈になるでしょう。鯨肉を商品にしたい皆さんはそれを覚悟で前進しなければなりません。もしそれがいやなら、いっそのこと「鯨は食べません」と世界中に宣言してしまえば済むことです。

そうなのです。捕鯨問題を解決する最善の道は、もう捕鯨なんてやめた、と世界に向かって表明してしまうことです。捕鯨は割に合いません。捕鯨はかつて日本人が生きていくために必要不可欠なものでした。しかし今は事情が違います。豊かな日本は捕鯨が、つまり鯨肉がなくてももはや飢えることはない。だから絶滅が危惧される鯨をあえて殺す必要はありません。またたとえ鯨は絶滅危惧種ではないとしても、世界中の多くの人々が嫌悪感を抱く捕鯨や鯨肉食を続けるのは、われわれにとって少しも良いことではないと思うのです。

捕鯨は日本の伝統であり、鯨を食べることは日本の重要な食文化の一つであることは疑う余地がありません。しかし時代は変ったのです。残念ながらそれらは、時代変化とともに伝統ではなく、グローバル社会の中で「因習」と見なされるものになってしまった可能性があります。それは好むと好まざるとに関わらず、時代が進み世界が狭くなって、日本が国際社会の中に投げ出された時点で必然的に起こったことです。仕方のないことです。

日本がいま捕鯨を完全にやめた場合、捕鯨を生業にしたり、そこから派生する仕事で生活を支えている人々が困窮するという問題はあるでしょう。が、わが国は国際社会から鯨を保護し環境に配慮するように求められている先進国の一員です。その地位に相応しく捕鯨を全面禁止にして、それによって職を失う人々を国の責任で救済するなどの処置を取るべき時が、もうそろそろ来ているのではないでしょうか。

ギリシャのまぶしい憂うつ(Ⅱ)


【加筆再録】

ギリシャ危機はいったん回避されて、ヨーロッパには少し平穏が戻りつつある。ギリシャの国家財政は病んだままだから、いつ再び問題が起きても不思議ではないが、財政危機に陥ったEU自体が、問題児のギリシャを切り捨てかねない、という経済効率のみの視点からの論は間違っていたことが証明されたのである。それは少しも偶然ではない。

「ヨーロッパとは何か」と問うとき、それはギリシャ文明と古代ローマ帝国とキリスト教を根源に展開する壮大な歴史文明、という答え方ができるのは周知のことである。ということはつまり、現世を支配している欧米文明の大本(おおもと)のすべてが、地中海世界にあるということになる。なぜなら、南北アメリカやオーストラリアやニュージーランドでさえ、天から降ったものでもなければ地から湧き出たものでもない。そこを支配している文明はヨーロッパがその源である。


また近代日本は欧米を模倣することで現在の繁栄を獲得し、現代中国も欧米文明の恩恵を受けて大きく発展し続けている。世界中の他の地域の隆盛も同じであることは言うまでもない。

ヨーロッパの核を形成した3大要素の中でもギリシャは、地中海の十字路として沿岸各地の異文化や文明を吸収し融合させ発展させたことで特に重要なものだった。多大な変転や衝突や紆余曲折を繰り返しながらも、古代ギリシャに始まる壮大な文明を共有し連綿と受け継いできたヨーロッパ、つまりEUが、経済動向だけを拠り所にギリシャを切り捨てるとは、経済以外の自らの大きな根源を切り捨てる行為でもあるから、EUはそう易々とはできないのである。

EUとは言うまでもなく経済を核に形成された運命共同体ではあるが、加盟国間の絆がそれだけに留まらない事実もまた言うに及ばないない。EUがギリシャを切り捨てる確率は今後も、同じEUが彼らにとっては宗教的に「異邦人」のトルコを、連合に組み入れる確率よりも低いのではないか。

西洋文明の揺籃となった地中海は場所によって呼び名の違う幾つかの海域から成り立っている。イタリア半島から見ると、西にアルボラン海があり、東にはアドリア海がある。北にはリグリア海があって、それは南のティレニア海へと続き、イタリア半島とギリシャの間のイオニア海、そしてエーゲ海へと連なっていく。またそれらの海に、トルコのマルマラ海を組み入れて、地中海を考えることがあるのは周知のことであろう。

昨夏、僕はギリシャ本土を訪ねた後に、エーゲ海に浮かぶミロス島とサントリーニ島を旅した。エーゲ海はイオニア海とともに南地中海を構成するギリシャの碧海(へきかい)である。

地中海の日光は、北のリグリア海やアドリア海でも既に白くきらめき、目に痛いくらいにまぶしい。白い陽光は海原を南下するほどにいよいよ輝きを増し、乾ききって美しくなり、ギリシャの島々がちりばめられたイオニア海やエーゲ海で頂点に達する。

乾いた島々の上には、雲ひとつ浮かばない高い真っ青な空がある。夏の間はほとんど雨は降らず、来る日も来る日も抜けるような青空が広がっているのである。

そこにはしばしば強い風が吹きつのる。海辺では強風に乗ったカモメが蒼空を裂くように滑翔(かっしょう)して、ひかり輝く鋭い白線を描いては、また描きつづける。

何もかもが神々(こうごう)しいくらいに白いまばゆい光の中に立ちつくして、僕はなぜこれらの島々を含む地中海世界に現代社会の根幹を成す偉大な文明が起こったのかを、自分なりに考えてみたりした。

ギリシャ文明は、大ざっぱに言えば、メソポタミア文明やエジプト文明あるいはフェニキア文明などと競合し、あるいは巻き込み、あるいはそれらの優れた分野を吸収して発展を遂げ、やがて古代ローマ帝国に受け継がれてキリスト教と融合しながらヨーロッパを形成して行った。

その最大の原動力が地中海という海ではなかったか。中でもエーゲ海がもっとも重要だったのではないか。

現在のギリシャ本土と小アジアで栄えた文明がエーゲ海の島々に進出した際、航海術に伴なう様々な知識技術が発達した。それは同じく航海術に長(た)けたフェニキア人の文明も取り込んで、ギリシャがイタリア南部やシチリア島を植民地化する段階でさらに進歩を遂げ、成熟躍進した。

エーゲ海には、思わず「無数の」という言葉を使いたくなるほどの多くの島々が浮かんでいる。それらの距離は、お互いに遠からず近からずというふうで、古代人が往来をするのに最適な環境だった。いや、彼らが航海術を磨くのにもっとも優れた舞台設定だった。

しかもその舞台全体の広さも、それぞれの島や集団や国の人々が、お互いの失敗や成功を共有し合えるちょうど良い大きさだった。失敗は工夫を呼び、成功はさらなる成功を呼んで、文明は航海術を中心に発展を続け、やがてそれは彼らがエーゲ海よりもはるかに大きな地中海全体に進出する力にもなっていった。

例えば広大な太平洋の島々では、島人たちの航海の成功や失敗が共有されにくい。舞台が広過ぎて島々がそれぞれに遠く孤立しているからだ。だから大きな進歩は望めない。また逆に、例えば狭い瀬戸内海の島々では、それが共有されても、今度は舞台が小さ過ぎるために、異文化や文明を取り込んでの飛躍的な発展につながる可能性が低くなる。

その点エーゲ海や地中海の広がりは、神から与えられたような理想的な発展の条件を備えていた・・

イタリアからギリシャ本土へ、そしてギリシャ本土から島々へ、あるいは島から島へと移動する飛行機の中から見下ろすエーゲ海には、その美しさと共に悠久の歴史を思わずにはいられない魅惑的な光が満ちあふれている。

光の中の島々は、ギリシャ危機、イタリア危機、さらにはEU危機の混乱の中で脱税の巣窟のような見方をされ、僕自身も島々を訪ねる際にそうした考えにとらわれて感慨に耽ったりもした。

が、

島々には経済の憂うつに伴なう暗い影はなく、ただひたすらにまぶしい光が爛漫と踊り狂っているばかりなのである。

 

 

「夫婦の寝床」と「夫婦のベッド」の違い



少しこだわり過ぎに見えるかもかもしれないが、実は日伊ひいては日欧(米)の文化の根本的な違いにまでかかわる事象の一つとも考えられるので、あえて書いておくことにした。

 

この前の記事に書いたファブリツィオ・デアンドレの「バーバラの唄」の歌詞

 

「♪~あらゆる夫婦のベッドは

  オルティカとミモザの花でできているんだよ ~♪」

 

をイタリア語で書くと、

 

「♪~ ogni letto di sposa

e’ fatto di ortica e mimosa ~♪」

 

となり、そのうち「夫婦のベッド」に当たるのは「letto di sposa」である。

 

前回、なぜ僕がその部分を直接に「夫婦の寝床」とか「夫婦の褥(しとね)」あるいは「夫婦の布団」などと訳さずに「夫婦のベッド」と訳して、それをさらに日本語では「夫婦の寝床」とか「夫婦の褥(しとね)」とするのが正しい、みたいな回りくどい言い方をしたのかというと、イタリア語をそのまま日本語にすると「letto di sposa」の持つ「性的な意味合い」だけが突然強調されて、その結果、原詩が強く主張している(夫婦の)人生や生活や暮らし、というニュアンスが薄くなると考えたからである。ポルノチックになりかねないと書いたのもそういう意味だった。

 

だが、そうではあるものの、二次的とはいえ「letto di sposa」には性的な含蓄も間違いなくあって、それらの微妙なバランスがイタリア語では「艶っぽい」のである。

 

日本語とイタリア語の間にある齟齬やずれは、性あるいは性的なものを解放的に語ったり扱ったりできるかどうか、という点にある。イタリア語のみならず欧米語ではそれができるが日本語では難しい。

 

言葉が開放的である、とは思考や行動が開放的である、ということである。そう考えれば性的表現における欧米の開放感と日本の閉塞感の違いが説明できる。性や性表現が閉鎖的だから、日本にはそのはけ口の一つとして「風俗」という陰にこもった性産業が生まれた、とも考えられるのである。

 

人生の機微や結婚生活の浮き沈みの中には、夫婦の性の営みも当然含まれていて、欧米文化の方向性はそのことも含めて直視しようとする。日本文化の方向性はそこから目をそらせる。あるいは見て見ぬ振りをする。あるいはぼかして捉える。そこには日本文化の奥ゆかしさに通じる美もあるが、内向して「風俗」的な執拗につながる危うさもあるように思う。

 

良くしたもので、日本語には都合の悪い表現を別の言い回しでうまく切り抜ける方法がある。それが外来語である。

 

たとえば日常の会話の中ではちょっと言いづらい「性交」という言葉を「セックス」と言い換えると、たちまち口に出しやすくなるというようなこと。僕がバーバラの唄の「letto di sposa」を「夫婦の寝床」と訳さずに、あえて下線まで引いて「夫婦のベッド」と表現したのもそれと同じことである。

 

ベッドはもはや、日本語と言っても良いほどひんぱんに使われる言葉だが、夫婦の「寝床」や「褥」や「布団」に比べると、まだまだ日本語のいわば血となり肉となっている言葉ではない。だから「性交」に対する「セックス」という言葉のように、生々しい表現のクッションの役を果たして、それらの直截的な言い回しをぼかす効果があるように思う。

 

そればかりではなく、日本の家の中には「夫婦のベッド」なんて存在しないのが普通である。夫婦のベッドとは巨大なダブルベッドのことである。だから狭い家にはなじまない。

また例えそれを用いていても、ベッドはあくまでもベッド、あるいは寝台であって、朝になれば畳まれて跡形もなくなる「寝床」や「褥」や「布団」ではないのだ。

 

そんな具合に日本の家においては「ベッド」は、やっぱりまだ特別なものであり、日本語における特別な言葉、つまり外来語同様に特別なニュアンスを持つ家具なのである。だから夫婦の「寝床」や「褥」や「布団」と言わずに「夫婦のベッド」と表現すると、この部分でも恥ずかしいという感じがぐんと減って、耳に心地よく聞こえるのである。

 

もっと言えば、日本語では「夫婦の寝室」「や「夫婦の寝間」などと空間を広げて、つまりぼかして言うことは構わないが「夫婦の寝床」とピンポイントで言ってしまうと、微妙に空気が変わってしまう。そこがまさに日本語のつまり日本文化の面白いところであり、ひるがえってそこと比較したイタリア語やイタリア文化、あるいは欧米全体のそれの面白さの一つなのだと思う。



大震災、女性の日、ミモザ・・



今日(38日)は女性の日。ここイタリアでは、黄色い球形の小さな花が蝟集(いしゅう)して、枝からこぼれるように咲き乱れる様子が美しい、ミモザの花がシンボルである。女性祭り、ミモザ祭りなどとも言う。

 

昨年311日、僕はイタリアにおける女性の日についてブログに書こうと考えて「3日遅れのミモザ祭り」とか「フェミニズムとミモザの花」とか「ミモザって愛のシンボル?闘争のシンボル?」・・などなど、いつものようにノーテンキなことを考えながらPCの前に座った。

 

そこに東日本大震災のニュースが飛び込んだ。衛星テレビの前に走った僕は、東北が大津波に飲み込まれる惨劇の映像を日本とのリアルタイムで見た。息を呑む、という言葉が空しく聞こえる驚愕のシーンがえんえんと続いた・・

 

そうやって38日の女性の日は、僕の中で、日付が近いという単純な話だけではない理由から東日本大震災と重なり、セットになって住み着くことになってしまった。おそらく永遠に(僕が生きている限りという意味で)。

 

女性の日は元々、女性解放運動・フェミニズムとの関連が強い祭りである。20世紀初頭のニューヨークで、女性労働者たちが参政権を求めてデモを行なったことが原点である。

 

それが「女性の政治参加と平等を求める」記念日となり、1917年にはロシアの二月革命を喚起する原因の一つにさえなって、1975年には国連が38日を「国際婦人デー(日)」と定めたいきさつがある。

 

しかし、この「国際婦人デー(日)」が、目に見える形で今でもしっかり祝福されているのは、僕が知る限りどうもロシアとイタリアだけのようである。

 

ロシアでは革命後、38日を女性解放の日と位置づけて祝ったらしいが、今ではフェミニズム色は薄れて女性を讃え、愛し、女性に感謝する日として贈り物をしたりしてことほぐ日になった。

 

ロシアの状況はイタリアにも通じるものがある。

 

イタリアでは38日には、ミモザの花を女性が女性に送るとされ、それには女性たちが団結してフェミニズムを謳歌する、という意味合いがある。

 

が、実際にはそう厳密なものではなく、ロシア同様にその日は女性を讃え、愛し、女性に感謝をする意味で「誰もが女性に」ミモザの花をプレゼントする、というふうである。

 

男が女にミモザの花を贈るという習わしは実は、元々イタリアにあったものである。そのせいだと思うが、女性の日をフェミニズムに関連付けて考える人は、この国にはあまり多くないように見える。

 

イタリアきってのシンガーソングライター、ファブリツィオ・デアンドレは彼の名作の一つ「バーバラの唄」の中で

 

「♪~あらゆる夫婦のベッドは

 オルティカとミモザの花でできているんだよ

 バーバラ~♪」

 

と歌った。オルティカは触れると痛いイラクサのこと。

 

結婚生活は山あれば谷あり、苦楽でできているんだよバーバラ、と言う代わりに「夫婦のベッドはイラクサとミモザで作られているんだよ、バーバラ」と艶っぽく表現するところがデアンドレの才能だけれど、そういう言い回しができるのがイタリア語の面白さだとも考えられる。

 

だって、これを正確な日本語で言い表すと「夫婦の褥(しとね)は~でできている」とか「夫婦の寝床は~でできている」とかいうふうになって、とたんにポルノチックな雰囲気が漂い出しかねない・・

 

ミモザは前からそんなふうに僕に多くのことを考えさせる花だったが、そこに東日本大震災のイメージが重なって、いよいよ複雑な感情移入をしないではいられない「なにか」になってしまった。

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