【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

マフィアと魔王アンドレオッティ


2013年5月6日、イタリア政界きっての大物政治家、ジュリオ・アンドレオッティが94歳で他界した。魔王とも呼ばれた彼は、生涯に渡ってマフィアとの強い癒着を疑われ続けた怪異な存在だった。
 

マフィア戦争

 

1992年5月23日17時58分、イタリア共和国シチリア島パレルモのプンタライジ空港から市内に向かう自動車道を、時速約150キロ(140キロ~160キロの間と推測されている。シチリア島では、マフィアの攻撃を回避するために捜査関係者の車は高速移動を義務付けられている)のスピードで走行していたジョヴァンニ・ファルコーネ判事の車が、けたたましい爆発音とともに中空に舞い上がった。

 

それはマフィアが遠隔操作の起爆装置を用いて、500kgの爆弾を正確に炸裂させた瞬間だった。ファルコーネ判事と同乗していた妻、さらに前後をエスコートしていた車中の3人の警備員らが一瞬にしてこの世から消えた。マフィアはそうやって彼らの最大の敵であるジョヴァンニ・ファルコーネ判事を冷然と葬り去った。

 

そのちょうど1ヶ月前の1992年4月24日、3回7期に渡ってイタリア首相を務めたジュリオ・アンドレオッティの最後の内閣が倒れた。首相自身と側近によるマフィアとの癒着や汚職疑惑を糾弾されたのである。

 

首相の座から引きずり降ろされた後は、アンドレオッティの政治的な影響力が低下して、司法や政界からの反撃が強まるであろうことが予想された。

 

そこで彼は将来に瑕疵を残さないために、当時のマフィアの大ボス、トト・リイナと謀って、マフィア捜査の強力なリーダーであり、反マフィア運動のシンボル的存在でもあった、ジョヴァンニ・ファルコーネ判事を爆殺した可能性がある。

 

キリスト教民主党の首魁

 

第2次大戦後のイタリアをほぼ50年に渡って牛耳ったのは、キリスト教民主(主義)党であり、そのキリスト教民主党の最大の政治家、指導者、黒幕だったのが、ジュリオ・アンドレオッティである。

 

キリスト教民主党はいわば日本の自民党のような存在。第2次大戦後の廃墟からイタリアを経済復興させ、ドイツや日本と共に世界に再び存在感を示すことができる国家に仕立て上げた。功罪合わせて、戦後イタリアの歴史を作り上げた最大の政党である。

 

しかし、そのキリスト教民主党は、腐敗とマンネリズムと古色にまみれて1994年に消滅した。ところが、同党の事実上の最高権力者として君臨したジュリオ・アンドレオッティは、党がなくなった後も終身上院議員としてしぶとく生き残って、隠然たる影響力を行使し続けた。

 

ジュリオ・アンドレオッティの特異は、魑魅魍魎の跋扈するイタリア政界でしぶとく命脈を保ち続けた事実もさることながら、彼がその間一貫して政治力を駆使して犯罪組織のマフィアを操り、逆にマフィアを使って政治力を高めるという、おどろおどろしい手法を用い続けたことである。

 

朋友トト・リイナ

 

マフィアとの黒いつながりを非難され続けたアンドレオッティは、犯罪組織最大のボスであるトト・リイナとの関係が特に深かった。彼はリイナと抱擁し、頬と頬を触れ合わせるマフィア式の挨拶をするところを目撃されてもいる。

 

実はイタリアでは、親しい男同士が抱擁し頬を触れ合わせる挨拶は、少しも珍しいものではない。頬と頬をあわせるキスは、異性間は言うまでもなく同性間でも一般的に行なわれる。それはいわゆる「ハグ」であり、性的な意味合いは毛頭なく、強い親近感を表すだけの「普通の挨拶」である。

 

従って、リイナとアンドレオッティのその挨拶が、マフィアの構成員同士の「特別な」作法に則(のっと)ったものだったのか、それとも「普通の挨拶」だったのかは当事者にしか分からない。

 

とはいうものの、たとえマフィアの構成員同士の抱擁ではなかったとしても、一国の首相とマフィアの大ボスが親しく抱擁し合う様はただ事ではない。しかもトト・リイナは、マフィア始って以来最大の残虐・凶暴な首魁という悪名を轟かせていた男である。

 

トト・リイナは、欠席裁判で幾つもの終身刑の判決を下されながら逃亡潜伏を続けたが、アンドレオッティはその間も密かに彼に会い、逃亡の手助けもしたと見られている。そうした事実は、警察に逮捕された後に司法取引によって当局側に寝返った、マフィアの構成員らの証言によって次々に明らかになっていった。

 

司法の反撃

 

ジョヴァンニ・ファルコーネ判事の暗殺からわずか2ヵ月後の1992年7月19日、ファルコーネ判事の同僚で親友のパオロ・ボルセリーノ判事が、やはり爆発テロによって惨殺された。母親の元を訪ねたボルセリーノ判事の動きを正確に察知していたマフィアが、道路脇の車中に仕掛けた爆弾を炸裂させて、護衛の警察官ともども中空に吹き飛ばしたである。

 

国家への挑戦とまで言われた、マフィアによるテロ事件が頻発した当時のイタリア社会には、マフィアに蹂躙される国家や住民という絶望的な思いが充満して、国中が暗く沈みかけていた。しかし実は、司法当局の逆転反撃を暗示する出来事もまた起こっていた。無敵に見えたマフィアのボスたちが次々に逮捕されていったのである。

 

そのうちの最も大きな出来事がマフィア最強のボス、野獣と異名されたトト・リイナの逮捕だった。それは1993年1月15日のこと。イタリア政界を代表する男、ジュリオ・アンドレオッティの友人とまで目された犯罪者は、24年間の逃亡生活後に司法当局に拘束された。それはトト・リイナの終わりであり、ジュリオ・アンドレオッティの「終わりの始まり」とも言える事件だった。しかし、アンドレオッティは前述したように、政治的にはその後もさらに20年間しぶとく生きのびたのである。

 

大ボスの逮捕から3年後の1996年5月20日、ファルコーネ判事爆殺の実行犯ジョヴァンニ・ブルスカが逮捕された。彼はフィレンツェのウフィッツィ美術館爆破事件の犯人でもある。ブルスカは生涯で100人~200人を殺害したが、正確な数字は覚えていないと告白している。

 

2006年4月11日、トト・リイナ逮捕後のマフィアのトップ、ベルナルド・プロヴェンツァーノが43年間の潜伏逃亡後に逮捕される。その後、組織の首領はサルヴァトーレ・ロ・ピッコロに代わったが、彼も翌年には逮捕された。2013年現在のマフィアのボスは逃亡中のマッテオ・メッシーナ・デナーロと見られている。

 

アンドレオッティ有罪判決


マフィアと国家の戦いが続けられていた2002年、ジュリオ・アンドレオッティは、自身に批判的なジャーナリスト(ミーノ・ペコレッリ)をマフィアを使って殺害した、として禁固24年の有罪判決を受けた。が、翌年、証拠不十分などという不可解な理由で逆転無罪の判決を受けた。

 

アンドレオッティは、その他のマフィアがらみの多くの事件への関与も疑われ起訴もされたが、結局、先日他界するまで投獄されることは無かった。しかし、彼とマフィアの強い「繋がり」に関しては、逆転無罪を言い渡した最高裁もこれを明確に認めた。

 

表舞台で権力を振るわない場合は、背後で強大な影響力を行使し続けた、イタリア政界きっての怪物政治家アンドレオッティには、そんな具合にマフィアとの深い関係や殺人や汚職事件に関与した疑惑などの暗い影や噂がつきまとって消えなかった。

 

2013年5月6日のアンドレオッティ元首相の死は、イタリアの政界とマフィアの一時代が確実に終焉したことを告げている。

 

 

猪瀬東京都知事の発言を他山の石とするべき



五輪招致に絡んだ東京都の猪瀬知事へのバッシングがすごいことになっていますね。ま、バッシングされて当たり前の呆れた「事件」を引き起こしたわけですが、僕は猪瀬さんの「事件」を、自分を含めた日本人はみな肝に銘じて、他山の石とするべし、と思っています。

 

つまり、東京都知事の中にごく自然に、さりげなく、暗澹として巣食っている「差別・偏見」病を、皆わが胸に手を当てて「あれは他人事」かどうか、と沈思検証するべき良い機会だと考えるのです。なぜならほとんどの日本人の中には、猪瀬知事と同じ密かな「差別・偏見」の病原菌が宿っています。

 

それは普段は表に出てこない沈黙の偏見であり差別意識です。その心の闇を抱えこんだ者は日本中に溢れている。そうした人々は偏見や差別なんて意識もしないし、考えてみることもない。その機会も理由もないからです。


かのマザー・テレサは「愛の反対は無関心」だと言いました。実は寛容や理解や融和の反対も無関心です。積極的な偏見や差別ではなくとも、人は無関心であることで偏見や差別に加担します。

 

そうした人は普段、猪瀬知事がやってしまったような偏見や差別に満ちた言葉を口にしたりはしません。でも実は彼らはそれを口に「しない」のではなく、口に「できない」だけです。なぜなら無関心だから。

 

無関心だから何も考えず、何も感じず、したがって言葉に紡(つむ)ぐ何ものも心の内にないのです。そして、そうした人々はまた当然、偏見や差別を糾弾する言葉も発しない。発することができない。ただ沈黙するだけです。

 

日本人の持っている寛容や理解や優しさは、そんな無関心に 拠っている場合が多々あります。国内の事柄もそうですが、特に日本という国の外の事案になるとその傾向が極端に強くなります。それは外国や外国人との接触が少ないことから来る、国際感覚の欠落の一つの証拠。明治維新以降言われ続けている、古くて常に新しい議論「精神的鎖国体制」は、今も歴然として日本に 残っています。島国の面目・根性躍如というわけです。

 

僕は長い間外国暮らしをしていますが、そこでもっとも気を遣うことの一つが、異文化や人種や宗教などに対して偏見を持ったり差別的な言動をしない、という行動規範です。僕はジャーナリズムの末席を汚すTVディレクターとして生きているため、そのことには特に神経を尖らせています。

 

たとえそうではなくても、日本の外に出て自らが「外国人」の立場で生きていく者にとっては、異文化や人種や宗教などは日常的に接するものですから、誰もがそれに関心を持ち、考察しながらそれらを受け入れ、理解し、共存しようと努力します。そうしなければ外国では生きて行けないからです。

 

それでも偏見や差別というのは100%克服するのが難しい。例えば僕は宗教や人種や異文化や女性やゲイ等々のホットなテーマに対して、全く偏見を持っていな い、というのは言い過ぎになるでしょうが、少なくとも偏見を持たない努力をし続けている、と自負しています。それでも例えば僕の自宅近くのスーパーの前で、買い物に行く度にアフリカ移民の男たちに金をねだられ続けると、決して口には出さずとも「仕事をしろ 怠け者の黒人」という言葉に近い、恥ずべき思いを抱くこともある、と白状します。それは心の奥の奥のどこかに「黒人=怠け者」という理不尽な偏見・差別意識が巣食っているからにほかなりません。

 

彼らは仕事をしたくても恐らくその仕事がない。仕事はあっても不法入国者であるため労働許可がない。だから働けない。あるいは合法移民で労働許可もあり労働意欲もある。でも不況のまっただ中にある今のイタリアでは、彼らにまで回ってくる仕事がない。あるいはただ単に黒人であることで差別されて、労働市場から はじき出されているだけかもしれない・・などなど、アフリカ系移民の人々が世界中で舐めてきた辛酸を思い、理解し、同情し、その負の歴史を正すべく全くの微力ながら努力もしているつもりでも、人生のどこかで刻印された胸の奥深くの偏見・差別意識は中々消えてはくれません。

 

意識してそれらと戦っている者でさえそうです。ましてや国内に留まっていて偏見や差別を考えてみる必要が余り無く、従って無関心でいるためにそれらを意識することさえない多くの日本人の場合は、それが消えてなくなることなどあり得ない。それはまさに無関心であるために普段は表に出てこないだけで、心の奥深く に巣ごもっています。そしてそれは何かの拍子に、化けて表に出てきます。猪瀬さんが何気なく重大な差別発言をしてしまったように。

 

沈黙を美徳と捉える文化を持つ我われ日本人は、世界がますますグローバル化して行く今こそ特に、差別や偏見というものが何であるかを、しっかりと口に出して議論しなければならないと思います。黙っていては偏見はなくならない。言葉にしなければ差別が何であるかが分からない。沈黙や無関心はただ「臭い物にフ タ」をしているに過ぎない。

 

言葉を発するという行為は、多くの日本人にとっては苦手どころか、苦痛である場合さえ少なくありません。しかし、世界がさらに狭くなり、インターネット・SNSの発達によってあらゆる情報が瞬時に地球上を飛び交う現在、日本人独特の「寡黙」は害悪でさえあれ決して良いことではありません。沈黙や寡黙は、偏見や差別を助長する悪しき習慣、と見なす方がグローバル社会には合致します。

 

都知事バッシングの矛先は、当初何よりも先ずイスラム教国や文化への差別発言、というところから出発したわけですが、時間と共に次第にそこからシフトしてやれ税金のムダ使いだ、やれ五輪精神を踏みにじる行為だ、やれ東京オリンピックの芽を潰した、知事を辞任しろ、トルコに行って謝罪しろ・・などなど、エスカ レートして行っています。

 

それらの論点は皆大事だと思いますし、僕自身も知事は大の親日国であるトルコまで出向いて、土下座して人々に謝罪をし、その上で今後は東京都もイスタンブールでのオリンピック開催を全面的に支持します、と宣言すればいいと思います。宣言するだけではなく、知事の地位に留まって本当にイスタ ンブール支援のために動けば、災い転じて福となる(する)ことも十分可能だと思うのです。

 

一方我われは、猪瀬知事の失言を他山の石として、自らの胸に手を当てて自問自答すればいいと思います。果たし て自分は彼とどれだけ違う意見や感情や見方を例えばトルコに対して持っているのか。ムスリムに対しては?中国や韓国に対しては?アフリカ人や近隣のアジア人に対しては?などと考え続け、発言をして行く「切っ掛け」に使えば、恐らく吹っ飛んでしまったであろう東京五輪の損失も取り返して、なおお釣りがくるのではないでしょうか。

 

 

イタリア新政権樹立、政治混乱は終わるか



新政権の特徴と課題

 

2ヶ月に渡る政治混乱を経て、イタリアにようやく新政権が樹立された。左派民主党のエンリコ・レッタ氏を首班とする、中道左派と右派の大連立政権。退任するモンティ首相の中道連合もこれに参加する。議会で左派民主党と右派自由国民両党に匹敵す る勢力を持つ五つ星運動は、予想通り政権には協力せず独自の路線を突き進む、と明言した。

 

レッタ新政権はいろいろな意味で、イタリアの政治変革の兆しを感じさせる要素に溢れている。それは、

 

一つ、激しく対立を続けてきた左右の議会最大会派同士が手を結んだこと。

一つ、その流れが87歳という高齢を押して、二期目の大統領選出馬を含む政党間の仲介に奔走した、ナポリターノ大統領の真摯な行為によって作られていったこと。

一つ、エンリコ・レッタ氏がイタリアでは珍しい若手(46歳)の宰相であること。彼は英国のキャメロン首相と同い年である。

一つ、閣僚21人中7人が女性という、イタリア憲政史上最大の女性登用比率を誇る内閣であること。

一つ、これまたイタリア憲政史上初の、黒人閣僚が誕生したこと。

など、などである。

 

連立新政権は、何よりも先ず、若者の失業者が巷に溢れる異様な経済状況を改善するべく、即座に行動を起こさなければならない。それは取りも直さず、イタリア財政危機からの脱出を目指すということであり、それがEU(欧州連合)全体の債務危機改善に貢献し、ひいては世界経済の安定と発展にもつながる重要な取り組みになる。

 

そうした即効の実利を目指さなければならない宿命もさることながら、レッタ新政権は押し寄せる社会変革の大波に乗って形成された、必然の出来事であるように僕には感じられる。

 

新政権の背後にあるもの

 

社会変革の大波とは、なによりも先ず「世代交代」である。イタリアにおいては、過去20年近く政界を牛耳ってきた76歳のベルルスコーニ元首相世代が退却して、レッタ新首相の世代以下の政治家が台頭する兆しがある。それは多くの若者が連帯して、イタリア政界にセンセーションを巻き起こしている、五つ星運動とも水面下で繋がっている。

 

面白いことに、大きな若い波動に敏感に反応したのはイタリアの老国父、87歳のナポリターノ大統領である。彼は宰相候補の最右翼と見られていたベルルスコーニ世代のアマート元首相を退けて、新世代のレッタ氏を首相に指名し組閣を要請した。また以前には、五つ星運動の盟主グリッロ氏を道化師と 呼んだ、ドイツ社会民主党(SPD)のペア・シュタインブリュック氏に腹を立てて、グリッロ氏を尊重するべきだ、と強く抗議したりする気骨も見せている。

 

変革のうねりの中で頭角を現したレッタ氏は、欧米先進国の中では比較的遅れているイタリアの女性の社会的地位を、閣僚登用率を一気に高めることで改善しようとしたようにも見える。同時に、これまた欧米先進国中では出遅れている、有色人種の閣僚起用も実現して、人種差別意識が強い部分もあるイ タリア社会に警鐘を鳴らした。

 

新首相のそうした一連の動きには、前述したように歴史の大きなうねりが作用しているのであり、決して偶然の出来事ではない、と僕は思う。

 

例えばイタリア国民が熱狂するプロサッカー界では、アフリカ系のマリオ・バロテッリ選手がイタリア代表として活躍して、国民の中にある人種差別意識に揺さぶりをかけている。また3月に行なわれたローマ教皇選出会議・コンクラーベでは、黒人のピーター・タークソン枢機卿が有力な教皇候補と見な されたりもした。

 

タークソン卿が、カトリック教会の最高位聖職者であるローマ教皇に選出されるなら、それはほとんど「革命」と形容しても過言ではない歴史的な出来事となる筈だった。


黒人教皇の実現は先送りされたが、コンクラーベの変化は、人種差別主義の巣窟と見なされ続けてきた米国に、史上初めて黒人のバラック・オバマ大統領が誕生して、人類の負の歴史の厚い壁に風穴を開けたこととも連動する、巨大な変革のうねりの表出以外の何ものでもない。

 

新政権の問題点

 

レッタ内閣にはまた、きな臭ささが目立つ新しさもある。それは、

一つ、昨日まで口汚く罵り合っていた民主党と自由国民党が、「あっさり」と形容しても良い手軽さで歩み寄って大連立を組んだ、その軽さの胡散臭さ。

一つ、エンリコ・レッタ新首相が、ベルルスコーニ元首相の右腕ジャンニ・レッタ氏の甥である事実。これはポジティブな効果を生むとも考えられるが、百選練磨のベルルスコーニ氏が背後にいることを考えれば、何らかの裏取引があったと勘ぐりたくもなる。

一つ、ベルルコーニ氏にべったりの、自由国民の幹事長アンジェリーノ・アルファーノ氏が、内務大臣兼副首相になったこと。政権与党の幹事長が連立内閣の重要ポストに就くのは当然かもしれない。が、ベルルスコーニ政権の法務大臣だったアルファーノ氏は、少女買春疑惑を始めとする多くの疑惑で訴 訟まみれになっているボスのベルルスコーニ氏を保護するために、でたらめな法整備をしたという批判がいつもついて回っている。ここもなんだかいかがわしいのである。

 

そうした不審からごく自然に導き出されて見えてくるのは、連立内閣の危うさである。民主党と自由国民の確執が再燃すればレッタ政権はあっという間に崩壊するだろう。事実、新政権の短命を予想する人々は多い。

 

そうした負の印象もあるが、しかし幸いにも、新世代のエンリコ・レッタ首相には、若さと清潔感がある。

 

日本と同様に汚れた老人が多くのさばっているイタリア政界だが、五つ星運動に代表される世代交代を求める社会の大きなうねりを追い風に、レッタ内閣は山積するイタリアの問題を次々に解決して歴史に名を残すかもしれない。ぜひそうなってほしいものである。

 

イタリア、連立政権発足なるか



再選されたばかりのナポリターノ・イタリア大統領は4月24日、民主党のエンリコ・レッタ前副書記長に組閣要請をした。

 

レッタ氏はベルルスコーニ前首相率いる中道右派とモンティ首相のグループ市民の選択に連立を打診する。

 

レッタ氏はイタリア政界では若い46歳。組閣に成功すれば新世代の宰相の誕生となる。

 

ナポリターノ大統領が選ぶ首相候補の筆頭は、当初ジュリアーノ・アマート元首相だと見られていた。

レッタ氏の名前も挙がっていたが彼は二番手、或いは三番手と言われた。

 

レッタ氏はベルルスコーニ前首相の右腕と言われたジャンに・レッタ氏の甥にあたる。このあたりの事実がどうもクセ者だと僕には見える。

したたかなベルルスコーニさんは、ナポリターノ大統領をたらし込んで、いわば身内を首相候補に仕立て上げた?

 

その真相はやがて明るみに出るだろう。

ともあれ今は、連立政権を船出させてイタリア丸を運航するのが、喫緊の課題だから若いレッタ氏の手腕に期待したいと思う。

 


イタリア、ナポリターノ大統領再選が意味するもの



混迷を極めていたイタリア大統領選挙は、現職のナポリターノ大統領を、国が崩壊してもおかしくない土壇場で再選して終了した。全1007票のうち、自派の候補に固執した五つ星運動系の200余票を差し引いた、約800票中738票を獲得しての当選だから、心情的にはほぼ全会一致の再選、と形容しても良いだろう。

 

4月18日に始まった大統領選挙は、議会2大勢力である中道左派と中道右派の確執、一転しての協力合意、そして裏切り、とドラマチックに展開した。そこには左派の中核である民主党の内部分裂が深く関わっていて、求心力を失った同党のベルサーニ書記長は、大統領選挙後に辞任すると表明。

 

民主党の内紛のあおりを食って大統領選挙は完全に暗礁に乗り上げた。もはやどうにもならないと国中が絶望感に陥った時、なんと辞任を表明したベルサーニ民主党書記長、その天敵のベルルスコーニ前首相、さらに辞任が決まっているモンティ首相の3人が、個別にナポリターノ大統領を訪ねて続投を懇願した。

 

間もなく88歳になる同大統領は、高齢を理由に二期目の大統領選出馬を固辞し続けてきた。しかし、現状、政府さえも存在しないに等しいイタリアの政治混乱に、さらに輪をかけることが確実になった事態を憂慮した大統領は、「国に対する私の責任がある」と悲痛な心境を告白して、ついに3者の要請を受け入れた。

 

その直後に行なわれた6回目の投票で、ナポリターノ大統領はイタリア共和国史上初めて、2期14年を務める国家元首の地位に就くことが決まった。ここから7年の任期を終える頃には、ほぼ95歳になる同大統領は、政治混乱が収束した暁には途中退位すると見られている。が、自己犠牲の発露以外の何ものでもない、勇気ある決断をした老大統領の真情に、イタリア国民の多くは深い敬意を表している。

 

イタリア大統領には、議会解散権や首相任命権、また国民投票実施の権限などが与えられている。しかしそれらは、政治混乱が甚だしい現在のような国の状況でこそ重みを持つが、普段は儀礼的な役割を務める象徴的な国家元首、という面が強い。

 

それでも、イタリア財政危機に端を発した政治混乱の中で、ナポリターノ大統領が見せ続けた誠実な言動と指導力は、まるで無政府状態のように紛糾・空転するイタリア共和国を一つに繋ぎとめる効力があった。その最たる証拠とも言えるのが、大統領選3日目の4月20日の出来事である。

つまり、極限の政治混迷の中で議会が四面楚歌に陥ったその日、徹底的にいがみ合っていた右派のベルルスコーニ前首相と左派民主党のベルサーニ書記長、さらにモンティ首相の3人が、図らずもそれぞれが大統領府に赴いて、任期切れ間近のナポリターノ大統領に再出馬を要請したのである。

僕は今「図らずも」と言った。でも実は、彼らは多分それを「図った」のである。つまり3人は、大統領に面会する前に既に対立を脇に置いていて、政治混乱を収束させる方向に動こう、ということで一つにまとまっていたに違いない。そして彼らのその動きは、ナポリターノ大統領の再選となって見事に結実した。

再選されて任期が伸びたナポリターノ大統領は、議会の解散や総選挙の実施ができるようになった。だが、実は彼が望んでいるのは、政党間の亀裂が再び広がりかねない総選挙ではなく、あらゆる会派が集って作る連立政権である。現実的にはベルルスコーニ前首相の自由国民と書記長辞任を表明したベルサーニ氏の民主党、それにモンティ首相の少数会派「市民の選択」の話し合いによる連立政権が目標となる。

 

その場合、首相候補として名前が挙がっているのは民主党のジュリアーノ・アマート元首相、あるいは同党のエンリコ・レッタ副書記長。また、もしもそこで合意形成が成されないときは、ナポリターノ大統領とモンティ現首相が率いる暫定内閣の可能性も取り沙汰されている。

 

それとは全く違うシナリオも考えられると思う。

大統領には恐らくしおらしい言葉で再出馬を懇願したであろうベルルスコーニ前首相が、豹変して再び解散総選挙を要求することである。彼は大統領候補としても名前が挙がっていたアマート元首相を、連立政権の首班として受け入れるのには問題がないと考えられている。しかし分裂の危機にある民主党が一枚岩にならない時は、大統領選挙を通して弱体化した同党がさらに地盤沈下したと見て、総選挙に打って出たい欲求に駆られるに違いない。

一筋縄ではいかないしたたかな男がベルルスコーニ前首相なのである。

 

ベルルスコーニ前首相、ベルサーニ民主党書記長、モンティ首相という政界の重鎮が、手を携えてナポリターノ大統領の再選を演出したのは、政治混乱の収拾に向けた大きな一歩だった。しかし、多くの思惑が入り乱れて横行闊歩するマキャベリの母国、ここイタリアの政界のことである。先行きは全く不透明だと言わざるを得ない。

 

ただ今回の大統領選挙の騒動で明らかになったことが一つだけあると僕は思う。つまりこのまま既成政党間の連立が成って政権が樹立された場合、大きな政治のうねりを作ってきた五つ星運動の勢いが、かなり殺がれていくのではないか、ということである。

五つ星運動は、大統領選挙でも決して妥協せず、自らが立てた候補に固執した。それどころか、ナポリターノ大統領の再選にさえ、激しく反発した。それが彼らの真骨頂なのだが、政局の混乱を全く意に介していないことが明らかな身勝手な動きは、やはり異様なものに見えた。

既成政党や政治家の腐敗を痛烈に告発した、五つ星運動の功績は断じて無くなることはないだろう。が、今のままでは五つ星運動は、反対のための反対に終始するだけの、ただの「抗議勢力」に留まるのみで、実際に政権運営に関わるような、責任ある真の政党にはなり得ないのではないか、とも思うのである。

 

混迷の度合い深まるイタリア大統領選挙


4月18日に始まったイタリア大統領選挙は、中道左派・民主党の混乱、分裂で紛糾している。

 

民主党は当初、右派連合のベルルスコーニ前首相と同党のベルサーニ書記長が裏取引で決めた大統領候補、フランコ・マリーニ元上院議長を担いで初日の投票に臨んだ。だが、民主党内には右派のベルルスコーニ前首相と取引をした書記長への反発が強く、あえなく頓挫。マリーニ元上院議長の目は初日でなくなった。

 

19日朝、民主党は急ぎロマーノ・プロディ元首相に乗り換えて投票に臨んだ。前日まで共闘していたベルルスコーニ率いる右派はその選択に激怒した。プロディ氏はベルルスコーニ前首相を総選挙で2度破っている不倶戴天の敵だからだ。

 

しかしプロディ元首相は、民主党内の造反者にも受けの良い候補。これで党内の融和が図られ、加えて五つ星運動の支持も得られる可能性がわずかながらあった。しかし、当選に必要な票数が3分の2から過半数に軽減されたにも関わらず、プロディ氏も惨敗。

 

民主党内の書記長への不信と怒りは収まるどころか増幅されていて、造反者がさらに増えていた。この屈辱の結果に切れたベルサーニ書記長は、自らの不徳を棚に上げて、民主党議員の4人に1人は裏切り者。それが我慢できないから大統領選挙後に書記長を辞任すると表明した。だが、そのことを悲しんで泣く者はどこにもいない。

 

20日朝、5回目の投票でももちろん当選者は出ず、政権の行方と同様に大統領選挙も完全に行き詰まったと見えた。ところが、午後の投票を前に、ナポリターノ現大統領がマリオ・モンティ首相やベルルスコーニ前首相の働きかけに応じて、もう一期務めても良い、と表明した。二期目は一年間の期限付きで、という報道もあるが詳細は今のところ不明。

 

いずれにしても今日(20日)午後の投票で、ナポリターノ大統領の二期目の当選が決まるかどうか注目される。

イタリア大統領選挙が始まった



2013年4月18日、イタリア大統領選挙が始まった。

 

上下両院議員とイタリア各州代表によって投票が行なわれ、全体の3分の2以上の得票で選出されるが、そこにはちょっと変わった規定がある。

 

投票は1日に2回行なわれ、3回目の投票までは前述の3分の2以上の得票ルールが適用される。しかし、それまでに当選者が出なかった場合、4回目からは単純過半数の得票で大統領が決まる。

 

決定まで一日に何度も投票が繰り返されるところは、先日行なわれたローマ教皇選出会議・コンクラーベにも似ているが、3分の2以上の規定が単純過半数へ、とハードルが下がるところは、何事につけ全体のコンセンサスを得ることが難しい、パッチワーク国家イタリアらしい取り決めである。

 

選挙で有力視されているのは、左派連合のボスのベルサーニ書記長と、右派連合の親分ベルルスコーニ前首相が推す、フランコ・マリーニ元上院議長。

 

天敵同士と形容しても過言ではない左右の顔役が、投票間際になって裏取引をしてマリーニ元上院議長を推すことで合意した。

 

この露骨な談合に左派連合の主流である民主党員が反発。特に党内でベルサーニ書記長のライバルと目されている、若きフイレンツェ市長マッテオ・レンツィ氏(38歳)は、自らが率いる50人以上の仲間に反対票を投じさせると言明。左派連合内の他の議員もこれに追随すると見られている。

 

僅差で左派と右派に対抗している新興勢力、五つ星運動は、元下院副議長で学者のステファノ・ロドタ氏を推している。

 

民主党内の反発はあるものの、今のところフランコ・マリーニ元上院議長が最有力候補であることに変わりはない。しかし、選挙が長引いて左派連合からさらなる造反者が出た場合には、ステファノ・ロドタ氏が大きく浮上する可能性もある。彼は右派のベルルスコーニ氏とは反目する。その分、民主党の 造反票がすべてロドタ氏に流れる、とする見方もある。

 

イタリア大統領は普段は権限のない名誉職の色合いが強い。しかし政局が混乱した時には、大統領は政党間の調整役として動いたり、首班を指名して組閣要請を出したり、議会を解散して総選挙を行なうなどの権限を持つ。例えば2011年11月、ベルルスコーニ内閣が倒れた際には、現職のナポリター の大統領がマリオ・モンティ氏を首相に指名して、組閣要請を出した。イタリア危機に対応するべく素早く動いたのである。

 

しかし、大統領は任期切れまでに半年以上の時間がない場合は、議会を解散したり総選挙を行なってはならない、という規定がある。2月の総選挙で明確な勝者が出なかったイタリアでは、左派と右派と五つ星運動の3勢力が拮抗したまま、政権の樹立もままならない状態が続いている。だが、5月半ばに 任期が切れるナポリターノ大統領は、事態打開のために再び選挙を行なうという選択を取ることができず、政局の混迷は深まる一方だった。

 

新しく選出される大統領の仲介で、新政権が誕生するのか、あるいは再び総選挙になだれ込むのかは誰も分からない。しかし今日から始まる大統領選挙が、膠着した政局を大きく動かす切っ掛けになるであろうことは、イタリア国民の誰もが知っていて且つ大半の国民がそうなることを願っている。

 


似た者同士の五つ星運動・北朝鮮・維新の会

加筆再録

2月の総選挙から大分時間が経った今も、イタリアでは政局が座礁したまま動かず、誰も組閣できない政治混乱が続いている。下院で辛うじて第一党となった左派民主党、ベルルスコーニ前首相率いる右派自由国民、そしてお笑い芸人グリッロ氏率いる新興勢力の五つ星運動がごちゃまぜになって、政治の混 沌を演出しているのである。

 

イタリアの政治騒動は今に始まったことではなく、楽天的な国民はカオスには慣れている。が、政治空白が長引き混乱の度合いが増すに連れて、さすがにため息をつく者が多くなってきた。国民の大半は、政局を王道に戻そうとに懸命に努力するナポリターノ大統領の動きを、半ば諦めつつも固唾を呑んで 見守っている、という風である。

 

間もなく任期切れを迎える87歳の大統領は、それぞれがエゴと欲と野望をむき出しにして対立する3勢力の間を仲介したり、賢者10人委員会 を組織して国の行く末を模索したり、と最後の奉公に躍起になっている。しかしながら、イタリア国民の父とも呼ばれる誠実を絵に描いたような老大統領の働きかけは、3人のオポチュニストには、カエルの面になんとか、状態で一向に埒が開かない。

 

イタリア人は口癖に

「イタリア共和国は常に危急存亡の渦中にある(L`Italia vive sempre in crisi)」

と言う。

 

誕生から150年しか経たないイタリア共和国は、いつも危機的状況の中にある。イタリアは多様な地域の集合体であり、国家の中に多様な地域が存在するのではない。つまり地域の多様性がまず尊重されて国家は存在するというのが、イタリア国民の国民的コンセンサスである。

 

その考え方は都市国家に代表されるかつての自由独立国家群の精神から来ている。イタリア国民は、統一国家の国民であると同時に、心的にはそれぞれがかつての地方国家にも属する。現在の統一国家が強い中央集権体制に固執するのは、もしもそうしなければ、イタリア共和国が明日にでもバラバラに崩壊しかねない危険 性を秘めているからである。

 

その危うさには大きなメリットもある。つまり彼らは国家の危機に対して少しも慌てないのである。危急存亡の時間や事案に慣れ切っている。アドリブで何とか危機を脱することができるとも考えているし、また実際に切り抜ける。彼らは歴史的にそうやって生きてきたのだ。従って今の無政府状態にも似 た政治の混乱も彼らは必ず切り抜ける・・

 

などと思いを巡らせながら、僕はこの国の政治の混迷を眺めている。眺めているうちに気づいたことがある。つまり、右と左の既成2政党の無能無策はさておき、イタリアの今の政局を普段よりもさらに大きな混乱に陥れている五つ星運動が、北朝鮮と日本維新の会に似ている、と思うのである。

 

特に3組織のトップは、酷似している、と言ってもいいくらいだ。つまりベッペ・グリッロ氏と金正恩氏と石原慎太郎さんは、下品で尊大で笑える、という点でぴたりと重なる。組織を独裁者の専横と恐怖政治で運営している点も同じ。

 

北朝鮮は言うまでもないが、五つ星運動もグリッロ氏がメンバーを独断で除籍したり、メディアとの接触を厳しく禁じたり、組織の内実を秘匿したりと、まるでカルト団体かと見紛うばかりの横暴な側面を持つ。

 

この点ではさすがに日本維新の会は同列には並べられないかもしれないが、共同代表の橋下さんは、好戦的で言動が野卑で思い上がりの甚だしい石原さんと手を組む、という巨大な間違いを犯したことで、焦りも手伝ってか独善的な手法での組織の引き締めに躍起になっているようにも見える。

 

維新の会が他の2者と大きく違うところもある。

 

五つ星運動は、党首のグリッロ氏の意味不明の言動や、秘密主義の党運営や、不透明な進路や政策などが明るみになるに連れて、人々の深い困惑を呼んでいる。が、元々はインターネットを駆使して、イタリアの既存の政党や政治家を厳しく断罪し、同時にそれによってグローバルなコミュニケーション・ ネットワークを構築して、将来は世界政府まで樹立しよう、という若々しい理想を掲げている団体である。彼らは少なくとも理念上は、最終的には世界を相手にしようとしているのだ。

 

一方北朝鮮は、脅しや挑発や大嘘によって日米韓を振り回したり、怒らせたり、不安にするなど、違う意味で「世界を相手」にしている。少なくとも東アジア全体に影響を与え、それによって世界にも存在感を示している。

 

この部分では日本維新の会は大いに違う。愛国を装っているだけで、実体は偏狭な排外国粋主義者に過ぎない石原さんが、まるで『引きこもりの暴力愛好家』が壁に向けて吼えるように、世界から顔を背けたまま国内の同種の人々に向かって檄を飛ばすだけの、超ローカルな政治団体に留まってしまっている。

 

北朝鮮は論外だが、彼らはせめて、時代の新しい動きに乗っかったイタリアの五つ星運動の爪の垢でも煎じて飲んで、壁から振り向いて勇気を奮って外出をし、世界を相手に我が国の理想を語り、主張し、行動する、真の意味での愛国者になってほしいものである。

 

 

イギリスはサッチャーの賜物 



エジプトはナイルの賜物。今日あるイギリスはサッチャーの賜物・・


2013年4月8日、サッチャー元英国首相の訃報を聞いて僕はすぐにそんなことを思った。

 

大英帝国からチャーチル、そしてサッチャーへ

それなら英国はチャーチルの賜物でもある、という声が聞こえてきそうだ。だが第二次世界大戦を戦い抜き、勝利した偉大なチャーチルの遺産は、ゆりかごから墓場までと謳われた行き過ぎた社会保障制度に代表される、イギリス国家の浪費と油断と驕りによってすっかり失われ、いわゆる英国病だけが残った。産業革命に始まる大繁栄を経て二度の世界大戦で疲弊し、その疲弊に気づかずにさらに自らを傷つけ続けた黄昏の大国、イギリスに現れたのが鉄の女マーガレット・サッチャーだったのである。

サッチャー元首相が政権を握った頃のイギリスは、まさに重篤の英国病に罹って喘いでいた。英国史上初の女性宰相は、そこに活を入れて社会を大胆に改革した。3期12年近いサッチャー政権をあえてキーワードで括れば「小さな政府」「自由主義経済」「規制緩和」「競争原理」「緊縮財政」「英米蜜月」「EC(後のヨーロッパ連合)との対立、あるいは垣根越しの友情」「武力行使を含む毅然とした外交」などなど・・と言えるだろう。

サッチャー元首相は、それらの政策を強力に推し進めて、英国病と嘲笑され、荒廃し、弛緩しきった老大国イギリスの政治・経済・社会を再生させた。あるいは再生への道筋をしっかりと示した。その後に続いたジョン・メジャー、トニー・ブレア、ゴードン・ブラウン、そして現職のディヴィッド・キャメロン政権は、マーガレット・サッチャーが新しく敷き直したレールの上を楽々と走り、今も走っているに過ぎない、と主張してもあながち過言ではないだろう。功罪を併せて、まさに「今日あるイギリスはサッチャーの賜物」なのである。

巨星をあえて私ごと的視点から見ると

1979年、マーガレット・サッチャーが政権に就いて、1982年にフォークランド紛争で果敢に軍事力を行使するまでの一部始終を、僕は実際に英国に住んで間近に目撃・実体験した。ちょうどその頃、僕はロンドンの映画学校で学んでいたのだ。

颯爽と登場したサッチャー首相のやる事なす事の全ては鮮烈だったが、彼女が打ち出した改革政策は、怠け癖が骨の髄まで沁み込んだ当時の英国民だけではなく、外国人にも厳しく対する内容で、東洋から来た貧乏学生の僕にとっても結構つらいものがあった。

その最たるものは、全ての留学生はイギリス国内で仕事をしなくても勉強を続けて行けるだけの十分な資金を有していることを、内務省に証明しなければならない、とする制度だった。簡単に言えばビザの更新の度に銀行口座の残高を示して、十分に学資があることを証明するのだ。それができなければ滞在許可が下りないから帰国するしかなかった。

それは、勉強にかこつけて仕事ばかりをしている外国人がいて、彼らがイギリス人の仕事を奪っている、とする外国人排斥意識を正当化した立法措置だった。今の日本などにも垣間見える、経済不振に喘ぐ先進国にありがちな度量の狭い、ほとんど言いがかりでしかない政治の動きだった。だが当時は、次々に新しいアイデアを繰り出すサッチャー首相の、さらなる名案だとさえ考えられたのだった。

学費を含む当時の僕の留学資金は乏しく、アルバイトをしながら生活費を稼ぐような境遇だった。そこで僕は金持ちのアラブ人やイラン人などの友人に頼み込んで金を借り、一時的にそれを銀行口座に入れて残高証明をもらって内務省に提出する、ということを繰り返した。金は残高証明を入手するとすぐに引き出して友人らに返還した。

裕福な者はもちろん別だが、多くの貧乏な学生は多かれ少なかれ皆そうやって苦境を乗り越えようとした。それでは埒が開かない場合、EC(欧州経済共同体、後のEU・欧州連合)域内国籍の者と偽装結婚をして、ビザを取得する書類結婚(ペーパー・マリッジ)をする者も続出した。ぶっちゃけた話、僕らのような外国人貧乏留学生にとっては、サッチャー新首相は敵以外の何ものでもなかったのだ。

栄光の3大スーパースター&3大イベント

マーガレット・サッチャーは偉大な政治家であり、スーパー・スターだった。当時でもそうだが今振り返ってみると余計にそんな印象を持つ。スーパー・スターは自身が輝くと同時に、得てして時代そのものの輝きも受ける、という幸運を持ち合わせるものだが、マーガレット・サッチャーの場合もまさしくそうだったと思う。当時、彼女の輝きに合わせるようにたくさんの出来事や、事件や、人物や、異変や、椿事が発生しては時代を疾駆して行った。僕の記憶の中では、特に3つのイベントがサッチャー首相と深く結びついて絡みつき、さんざめいて、今も鮮明に思い出される。

その3つのイベントとは、ジョン・レノンの暗殺、ダイアナ妃の結婚、そしてフォークランド紛争である。

サッチャー首相の就任から約一年半後の1980年12月8日、イギリス音楽界の至宝ジョン・レノンがニューヨークで殺害された。彼は当時ニューヨークに居を移していたが、人々の心の中ではイギリスの地に常在している偉大なアーチストにほかならなかった。天才の死を知らせる悲しいニュースが入った日、僕らはロンドン市内のパブに集まって、ラガー・ビールの大ジョッキを片手に「イマジン」を合唱しながら泣いた。それは言葉の遊びではない。僕らは歌いながら皆本当に涙を流したのだ。そうすることで連帯感を感じたのか、あるいは連帯感があるために歌に涙がかぶさったのか、今でも判然としない。多分その両方だったのだろう。

その頃のサッチャー首相は、倦怠と澱みと沈滞が最高潮に達したイギリス社会を改革するべく、強い意志を持って奔走はするものの、まだ政治的に大きな成功を収めるところまでは行かずにいた。そして僕ら留学生はと言うと、サッチャー首相の動きに翻弄されながらも、実は英国病などどうでも良く、彼女の政治経済政策などはもっともっとどうでも良かった。英国社会の最下層にいる若い外国人留学生の僕らにとっては、ジョン・レノンの死の方が何百倍も重要だったのだ。

悲劇の翌年、1981年7月29日には明るい話題が英国を沸かせた。ダイアナ・スペンサー嬢がチャールズ皇太子と結婚したのだ。式典の模様は全世界にテレビ中継されて大きな反響を呼んだが、実はそれは、一回限りの式典そのものよりもさらに大きく且つ継続的に世界の耳目を集めることになる、未来の「英国の薔薇」、ダイアナ妃の誕生の瞬間を世界に知らしめる世紀のショーでもあった。

英国王室の存在意義の一つは、それが観光の目玉だから、という考え方があるが、それは正鵠を射ていると僕は思う。世界の注目を集め、実際に世界中から観光客を呼び込むほどの魅力を持つ英王室は、いわばイギリスのディズニーランドであり、そこの最大の人気キャラクターがダイアナ妃だったのである。


サッチャー、ジョン・レノン、ダイアナ妃という、僕の中のイギリスのスーパー・スター御三家がそうやって出揃い、同時にそれは3大イベントの核心でもあるという、いよいよもって忘れがたい歴史が紡がれて行くことになった。


サッチャーの成功の秘密の一つ

ダイアナ妃の結婚に続いて、
3番目のイベントでありサッチャー首相の政治生命を決定的に輝かせることにもなる大事件が起こった。それが1982年3月に勃発したフォークランド紛争である。サッチャー首相はそこで断固として武力行使に踏み切り、開戦から3ヶ月でアルゼンチン軍を撃破した。

近代装備に身を固めた西側諸国の軍隊同士による史上初の武力激突は、平和ボケした世界の大半を驚愕させたが、その出来事は当事者であるイギリスにもっとも大きな変化をもたらした。

首相就任以来そこまで、経済低迷で不人気だったサッチャー政権は、紛争をきっかけに総選挙に勝利し、政権2期目の組閣を済ませると同時に急進的な経済改革に向けて力強く歩みだした。彼女の真の経済改革は実はこのときから始まったのである。

話が前後するようだが、それらの事件や出来事と平行して、1981年1月20日には、サッチャー政権と蜜月関係を結ぶことになる米国レーガン政権が船出をしていた。真のStatesman(国に命を捧げる覚悟を持つ廉潔な政治家)と呼ぶにふさわしい巨人だったマーガレット・サッチャーは、世界最強の権力保持者であるロナルド・レーガンを説得してフォークランド紛争の味方に引き込んだ。その後は英米一心同体とも形容できる親密な関係を構築して、その事実を後ろ盾にEU・ユーロッパ連合と一定の距離を保ちつつ孤高の道を歩む、という一見不可能に見える政策も徐々に可能にして行ったのである。

 

ローマ法王?教皇?~僕がローマ教皇と表記する訳~



バチカンに関するニュースを伝える日本のメディアでは「ローマ法王」と「ローマ教皇」で表記が分かれ、混乱している。

 

いや、正確に言えば「ローマ法王」の方が使用頻度は圧倒的に高いと思うが、「ローマ教皇」も併用されていてすっきりしない。

 

僕は2005年に亡くなったヨハネ・パウロ2世への畏敬の念から「ローマ教皇」と決めて、常にそう表記している。

調べてみると、日本のカトリック中央協議会は1981年、ヨハネ・パウロ2世の来日を機に、混乱していた表記を「ローマ教皇」に統一するとしている。その理由は「教える」という字の方が、カトリック教会最高位聖職者の職務をより良く表すからというもの。

 

それまではなぜ「法王」でも良くて、且つ当事者のカトリック教会側でもその表記の方が多かったのか、などを解説していないので、分ったような分らないようなもどかしい言い分だが、個人的には僕は「教皇」派なので、ま、いいか、というところ。

 

加えて、たまたまだが、カトリック中央協議会つまり教会にとっても、僕が敬慕するヨハネ・パウロ2世の存在が「法王」から「教皇」への《改宗》の動機だったらしいし。

 

1981年頃の僕はロンドンで必死に、且つ楽しく映画学校の学生を謳歌していた時代で、宗教にはほとんど興味がなかった。ヨハネ・パウロ2世が日本を訪問したことも知らなかった可能性さえある。ましてやカトリック中央協議会の《改宗》など知る由もない。

 

僕はカトリック教会の推奨とは全く関係なく、ヨハネ・パウロ2世個人を表現するには「教皇」が最適だと感じて、そう表記している。

 

繰り返しになるが、僕はカトリック教徒ではないにもかかわらず、一人の人間としてヨハネ・パウロ2世を深く尊敬しているのである。

 

ヨハネ・パウロ2世の偉大、つまり彼の功績と人格を知るまでは、実は僕も「法王」表記派だった。

 

「法王」という呼称には上から目線の尊大な印象があり、欺瞞の臭いが漂っている。そしてそれは、カトリック教会に対する僕の正直な感想でもある。

一人一人の人物は全て、と言っても良いくらいに神父をはじめとする聖職者の皆さんはいい人だらけなのだが、教会という組織になるとガラリと印象が変わる。世の中のあらゆる組織がそうであるように・・

だが、教会組織のその負の印象というものは、ヨハネ・パウロ2世の真実とは完全に離反している。

 

そのことに気づいて以来、僕は「教皇」という、より謙遜でより親しみやすい「印象」の呼び方が彼にはふさわしいと考えて、そう表記し始めた。

 

結果として彼に続く二人の教皇に対しても同表記を使用し、今後もそうするつもりでいる。

 

忌憚なく言えば、僕は退位したベネディクト16世に対しては今のところ「法王」の印象を抱き続けている。

バチカンは大ヨハネ・パウロ2世の死後、ベネディクト16世と共に後退した。少なくとも停滞した。

 

でも、第266代フランシスコ教皇とともに、再び前進し謙虚になり友好的になりそうな気配がある。

新教皇フランシスコはどちらかと言えば、今のところ、ヨハネ・パウロ2世的でありベネディクト16世的ではない、と僕には思えるのである。

 

 

ついでなのでもう2点:

 

新教皇は自らをfrancescoつまり「フランシスコ」と命名した。「フランシスコ1世」ではない。でも日本語では1世を付けた方が語感的に座りが良い感じもある。しばらく併用ということになるのかもしれない。

 

教皇選出会議conclaveを僕は「コンクラーベ」ではなくわざと「コンクラーヴェ」と表記している。見方によっては気取りに聞こえかねないが、そこかしこでconclaveを「根比べ」と揶揄しているのを見て、聞き飽きたセンスの無いオヤジギャグだと反発。それでわざわざ「コンクラーヴェ」と。でもそれも大人気が無く、反発すること自体がオヤジギャグのレベルだと気づいたので、さて今後はどうするか(笑)。

パスクア2013。また新ローマ教皇。と・・



明日は復活祭。英語のイースター。イタリア語ではパスクア。

いわずと知れたイエス・キリストの復活を祝うキリスト教最大の祭。


キリスト教の祭典としては、世界的にはクリスマスが最大のものだろうが、宗教的には復活祭が最も重要な行事である。


クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日。


復活祭は磔(はりつけ)にされたキリストが死から甦る奇跡を讃える日。


誕生は誰にでも訪れる奇跡だが、死からの再生という大奇跡は神の子であるキリストにしか起こり得ない。

それを信じるか否かはさておいて、宗教的にどちらが重要な出来事であるかは明白であろう。


イタリアの復活祭は、教会でも家庭でも例年にぎやかである。


教会は、キリストが磔になった聖金曜日(venerdisanto)から、復活する三日後の日曜日、そして小パスクアあるいは天使の月曜日と呼ばれる翌日まで、さまざまな催し物を繰り出して祝う。


聖金曜日は教会がミサを執り行わない日だが、その代わりに各地の教会が趣向を凝らして信者とともに祭を寿ぐのである。


例えば僕の住む村では、イエス・キリストが十字架を背負って刑場のゴルゴタの丘まで歩いた「viacrucis(悲痛の道)」をなぞって、当時の服装を身にまとった信者が村の道を練り歩く。


教会が主催するその行列は、例年夕方に始まって夜更けまで続く。けっこう大きなイベントである。

復活祭の期間中は、イタリア全国で似たような祭事が展開される。


一方、家庭では復活祭特有のご馳走の嵐


僕は今年も招かれて行く親戚の家で、思い切り
capretto(カプレット⇒子やぎの肉)料理を楽しむつもり。

ツーか、不信心者の僕にとっては、これだけが復活祭の楽しみ、と言っても良いような・・


そんな僕の個人的な都合はさておき


国民の九割以上がカトリック教徒とされるこの国の、重大祭礼である復活祭は、人々の大きな喜びであるわけだが、今年のそれはさらにひとしおである。


なぜなら、ほぼ半月前に新ローマ教皇が誕生、就任して、以来国中が祝賀ムードに包まれている。

そこにうれしいパスクア・復活祭が重なったのだから、歓喜の極みである。

新ローマ教皇は、貧者に寄り添う姿勢が鮮明な、誠実純朴な人柄が歓迎されて、イタリアといわず全てのカトリック教世界にほんのりと温かい空気が充満している。


それは素晴らしいことである。


宗教的存在、あるいはカトリック教徒の精神的支柱としてのローマ教皇は、聖人ペテロに始まり第266代現教皇のフランシスコまで、多かれ少なかれ常に人々の味方であり、救いであり、希望だった。


それは将来も、永遠に同じである。


僕はこの前の記事で「政治的存在」としてのローマ教皇にまつわる事柄に言及した。


次は「宗教的存在」としてのローマ教皇にまつわる事案についても書こうと思う。


宗教的存在としてのローマ教皇と政治的存在としてのローマ教皇は、まったく別の概念であり現実であり装置であり制度である。

新ローマ教皇が誕生した今、僕はそうしたことについて少しこだわってみようと心に決めている。


が、


今日はとりあえず、明日の子やぎ料理を楽しみに待ちながら、全員がカトリック教徒である家族と共に、復活祭を祝うことにした。


 

 

 

政治的存在としてのローマ教皇にまつわる話



ローマ教皇ってなに?

2013年3月13日、第266代ローマ教皇として、アルゼンチン・ブエノスアイレス大司教のホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿が選出された。およそ2000年の由来があるローマ教皇史上、初の「非ヨーロッパ人」教皇誕生の瞬間だった。

ローマ教皇は、全世界のカトリック教徒14億人の精神的支柱である。それは他のあらゆる宗教・宗派の最高位の司祭と同様に崇高な存在であり、カトリック教徒以外の人間にとっても、再びあらゆる宗教の指導者と同じく、深い敬畏の対象であることは論を待たない。


同時にローマ教皇は、これまた他のあらゆる宗教の司祭長と同様に、政治的存在でもある。信者ではない者から見れば、普段でもそれは同じだが、先日行なわれた教皇選出会議、いわゆるコンクラーヴェのようなイベントに即して見れば、ローマ教皇という存在の政治色はますます濃厚になる。


宗教的存在としてのローマ教皇は、あえて分りやすく言えば、日本における天皇と同じである。多くの日本人にとって天皇が常に崇高な存在であるように、多くのカトリック信者にとっては教皇は、モラル上のほぼ絶対的な存在である。

コンクラーヴェ:教皇選出秘密会議

そうした信者にとっては、カトリックの司祭である枢機卿がバチカンに集合して、教皇選出の秘密選挙を行なうコンクラーヴェでさえ、神聖崇高な宗教儀式として捉えられる。選挙が外部との接触を完全に絶った密室で行なわれ、いきさつも駆け引きも正式には知りえない、ミステリアスな設定の中で決行されることが、無邪気な信者の目を曇らせるのである。だがコンクラーヴェは、清濁の思惑、特に濁の魂胆が激しく錯綜する、極めて世俗的な政治ショーの側面も持つ。

2013年3月12日に始まったコンクラーヴェは、三つの観点からバチカンの長い歴史の中でも特筆に価するものだった。一つは非世襲の終身職と考えられていた教皇職を、第265代教皇のベネディクト16世が突然辞任する、という異様な事態を受けて召集された点。二つ目はローマ教会が聖職者による幼児への性行為、差別問題、バチカン銀行の金融不正事件など、多くの難問を抱えている渦中であること。三つ目は、バチカンが改革を迫られた結果、史上初の非ヨーロッパ人の教皇が誕生する気運が高まっていた点である。非ヨーロッパ人の教皇は、それがもしも黒人やアジア人である場合は特に、革命と呼んでも構わないバチカンの大きな変革の証になる筈だった。

今回のコンクラーヴェでは、黒人とアジア人を含む10人前後の枢機卿が教皇候補として下馬評に上っていた。が、本命と見られる候補者は存在せず、かつ非ヨーロッパ系の候補者が多くいるという特徴があった。またそこには、最終的にローマ教皇に選出されるアルゼンチンのベルゴリオ枢機卿の名前はなかった。僕が知る限り、イタリアの多くのバチカンウオッチャーの記者やジャーナリストも、誰一人として彼の名を挙げる者はなかった。完全なダークホースだったのである。

ベルゴリオ枢機卿は、退位したベネディクト16世が教皇に選出された2005年のコンクラーヴェで次点に入り、そこで教皇候補としての使命を終えた、と見なされていた。ところが彼は今回の秘密選挙で第266代教皇に選ばれた。それ自体が驚きの結果だったが、コンクラーヴェの期間が予想に反して短かったことも人々を瞠目させた。というのも、黒人とアジア人を含む多くの非ヨ-ロッパ人候補が乱立する秘密選挙は、恐らく紛糾して教皇選出までに長い時間がかかる、と見られていたからである。

クーリアの暗躍?

予想外のベルゴリオ枢機卿が、これまた予想外の短時間で選出された裏には、CURIA(クーリア)の暗躍があったに違いない、と多くのバチカンウオッチャーが考えた。クーリアとはバチカン内で教皇を補佐して、カトリック教会のあらゆる管理行政を行なう強大な政治機構である。政教ががんじがらめに絡み合うバチカン市国の、いわば内閣とも形容できる中心組織。世界各国から集まった聖職者がそのメンバーだが、当然バチカンを抱くイタリアの聖職者が大勢を占める。イタリア人を中心とするクーリアのメンバーは、教皇選出に際しても強い影響力を持っていて、コンクラーヴェの度にその動静が注目を集める。

クーリアはバチカンのいわば保守本流であり、その基本姿勢は極めて明確なものである。組織は教会の改革に立ちはだかり、伝統を守ろうとする。それは、教会の既得権益を死守しようとする行動であり、世界中のあらゆる組織や機構や政治団体が指向するものと微塵も違わない。今回のコンクラーヴェにおけるクーリアのスタンスは、おおよそ次のようなものだったと考えられている。

彼らが支援する候補者は:
一つ、退位したベネディクト16世の基本政策を継承する保守志向の者。一つ、ヨーロッパ系の白人で、できればイタリア人。なぜならば近年、教皇にはポーランド人のヨハネ・パウロ2世、ドイツ人のベネディクト16世、と続けて外国人が選出されていて、その期間は35年の長きに渡る。彼らにはイタリア人教皇が懐かしいのである。一つ、イタリア人が無理ならば、せめてヨーロッパ系の白人に固執する。一つ、もしもそれ(ヨーロッパ人)も無理ならば、南北アメリカ出身の白人候補。それもできれば反骨心の強い北米人ではなく、南アメリカ人が好ましい・・など、である。

彼らはもちろん口が裂けてもアジア人やアフリカ人の教皇の誕生を阻止するとは言わない。が、もちろんそれが望みである。ローマ教会の徹底した変革を待ち望む、バチカン外部の世界の多くの人々とは真逆のスタンスを取っていると見られている。またクーリアは、腹の底では候補に上っていた2人の非白人(フィリピンのルイス・アントニオ・タグレ大司教とガーナのピーター・タークソン枢機卿)はもとより、南北アメリカ出身の教皇の誕生にも否定的だった。飽くまでも伝統に寄り添ったヨーロッパ人教皇の出現を望んだのである。

バチカンの真の主はクーリア、という説も

クーリアの基本的なスタンスにもっとも合致するのは、イタリア人のアンジェロ・スコラ大司教だと考えられた。事実コンクラーヴェの開催が決まった当初は、スコラ大司教が本命という噂がかなり強かった。その後状況は刻々と変化して、米国と南米の候補者が交互にリードしているという情報が漏れ聞こえてきた。同じ頃、前述の2人の非白人候補者の芽が消えたらしい、という情報も密かに流れていた。

有力と見られる候補が入れ代わり立ち代り変化する状況から、今年のコンクラーヴェは長引くと誰もが推測した。周知のようにコンクラーヴェは枢機卿の互選による投票で争われ、全体の2/3の賛成票を得る者が出るまで繰り返し行なわれる。有力な候補者不在の今回のコンクラーヴェでは、誰かが短い時間で当選に必要な票数を獲得するのは困難だと見られた。過去のコンクラーヴェでも紛糾する場合は選挙期間が長引くことが多い。同時にそうした場合には、大きな変革が成就される可能性も高くなる。例えばアジア人や黒人の教皇が誕生する、というような・・

だが結果は前述したように、誰も予想しなかったアルゼンチンのベルゴリオ枢機卿が教皇職に上り詰める、というドラマを生んで終結した。

クーリアは改革推進勢力と直接間接に次のように妥協をして選挙を牛耳ったと考えられる:
先ず選ばれるべき新教皇は政治的スタンスが退位したベネディクト16世に近く、伝統的保守派であること。事実、そのことを裏付けるように、新教皇は選挙終了直後から、ベネディクト16世路線の継承を示唆する言動をしている。一方でクーリアは改革派の顔も立てた。史上初の南米出身の教皇を選出することで、バチカンの小さくはない歴史的変革の第一歩を印象付けたのである。

また一連の画策によってクーリアは、世界政治のスーパーパワーである米国の出身者をしりぞけ、アジア・アフリカ出自の教皇の誕生にも待ったをかけた。それでいながらクーリアは、そこの部分でも又したたかに益を取ることを忘れなかった。つまり、新教皇は確かに史上初の非ヨーロッパ人だが、彼はヨーロッパ移民の、しかも「イタリア人」移民の子孫なのである。クーリアの中核を成すイタリア人聖職者たちが、ほっと胸を撫で下ろす様子が見えるようである。

新教皇は改革の星?それとも・・・

新教皇は、初めての南米出身者であるばかりではなく、初めてのイエズス会出身者でもあり、しかも清貧の象徴であるアッシジの聖フランチェスコの名を史上初めて教皇名に採用する、など、初物ずくしである。それはあるいは、バチカンの本当の、大きな変革の始まりを示唆する出来事なのかもしれない。また彼は謙遜な人柄と質素な暮らしぶりで広く知られていて、そのことが早くも信者に愛され大きな人気を集めている。

しかし、新教皇フランシスコの政治手腕は全く未知数である。バチカンの抱える多くの重大問題や、内外から高まっている改革推進圧力への対応、また史上初めてとなる、前教皇との共存、という課題もある。引退したベネディクト16世は、日本史に於ける上皇のように院政を敷く可能性が取り沙汰されていて、現教皇が果たして前任者の意向を無視して、自らの意志で自らが望む改革を進められるのかどうか、懸念されているのである。

そうした不安に加えて新教皇には、母国のアルゼンチンに於いて、汚い戦争と呼ばれた1970~80年代の軍事政権下で、独裁者に味方をしたのではないか、という極めて重い批判も向けられている。それは一歩間違えば、噂の虚実や真贋に関わらず、致命的なスキャンダルとして肥大強調されて彼の足元をすくう危険がある。

不透明な部分も多い新教皇の船出だが、これまでのところイタリアのメディアは、まだまだ祝儀コメントや分析や主張に終始していて、フランシスコ教皇への批判や非難めいた報道はほとんどない。世界最大の宗教組織のトップとなったローマ新教皇の正念場はこれからなのである。

 

 

第266代新ローマ教皇って誰?



イタリアは、新ローマ教皇が誕生した今月13日以来、祝賀ムード一色に染まって、まだ止む気配がない。

 

カトリックの総本山バチカンを懐に抱くこの国は、財政危機に端を発した政治の混乱が続いていて、2月の総選挙以来誰も組閣できない状態に陥っている。

 

そんな折に、第265代ローマ教皇のベネディクト16世が突然辞任して、新教皇を選出する秘密会議「コンクラーヴェ」が開かれた。

 

バチカン最大のお祭り騒ぎとあって、国民の9割以上がカトリック教徒ともいわれるイタリアは大いに沸き、政治の混乱も空白もすっかり忘れ去られ、人々は宗教上の一大ショーに酔いしれた。

 

長引くと見られたコンクラーヴェは意外と短く、世界中から集まった枢機卿による秘密選挙で、ブエノスアイレス大司教のベルゴリオ枢機卿が第266代ローマ教皇に選出された。

 

今回のコンクラーヴェでは、教皇候補者としてアジアやアフリカ出身の枢機卿の名前も挙がっていて、史上初の有色人種の教皇が誕生するかどうか注目された。

 

結局、退位したベネディクト16世と2005年のコンクラーヴェで争い、次点に終わったグレゴリオ枢機卿が、いわば復活当選した。

 

そこにはコンクラーヴェで大きな力を持つ、バチカンのイタリア人聖職者らの暗躍があったと見られている。

 

バチカンは変革を求められていて、少しづつではあるがその方向に向かっている。しかし、非白人の教皇を受け入れるほどの度量はまだ備えていない。そこが黒人の大統領を生んだアメリカの進展とは異なる。

 

ローマ教皇とは言うまでもなく、カトリック教最高位の聖職者のことであり、世界中に12億人前後いるとみられるカトリック教徒の精神的支柱となる存在である。

 

非世襲のほぼ終身職で、過去およそ2000年、265人の教皇は全てヨーロッパ人が占めてきた。

 

今回初めて南米出身の教皇が誕生して、バチカンのヨーロッパ偏重主義に風穴を開けた。

 

そればかりではない。新教皇は、清貧の象徴であるイタリア・アッシジの聖人フランチェスコの名を、史上初めて自らの教皇名とした。

 

また彼は強力な宣教活動で知られるイエズス会出身の初めての教皇でもある。

 

初ものづくしの新教皇は質素な生活ぶりとつつましい性格が早くも人々の人気を集めている。

 

しかし彼が率いるローマ教会は、聖職者の幼児への性的虐待とそれを隠蔽する旧態依然とした体質、女性や同性愛者への差別問題、さらにバチカン銀行による金融不正事件など、取り組むべき難問が山積していて前途は決して平たんではない。

ああ。ハルマフジよ。



日馬富士よ、引退しないのなら勝て。勝てないなら引退せよ。

 

僕は思わずテレビの前でつぶやいてしまった。

 

9勝6敗・・く・ん・ろ・く・・

 

大相撲春場所で横綱日馬富士がまたまたやってくれました。

 

昨年の九州場所に続くクンロク横綱の誕生です。

 

相撲好きの間には「クンロクオーゼキ」という面白くも厳しい角界監視の言葉があります。

 

要するに9勝6敗の成績しか挙げられないダメ大関を嘲笑う言葉。

 

弱い大関への怒り、悲しみ、苛立ち・・

 

でも、アザケリをばねにして上を、つまり横綱を目指してほしい、という願望もこもった相撲ファンの複雑な思い。

 

ただ、それは大関へのエール。横綱じゃないんですね。あくまでもクンロク「オーゼキ」。横綱は関係ない。

 

なぜなら、横綱ともあろう者が、1場所15戦のうち半分近い6敗もする訳がない。

 

してはならない。

 

横綱はそれほど強い存在である。

 

大関とはまったく立場が違うのだ。

 

クンロク横綱はこれまでにも存在した。

 

でも、横綱在位3場所中2場所がクンロクの横綱なんてありえない。

 

それだけを見る限り、日馬富士は横綱の器じゃない。

 

僕は以前の記事

 

日馬富士は「場所ごとに15戦全勝と9勝6敗の間を行き来する、強いのか弱いのか分らない、強くないときは弱いのだからきっと弱いに違いない、トンデモ横綱になる・・」

 

とふざけて書いた。

 

ふざけて書いたので、内心は違っていて、実は彼は大横綱になる、という思いの方が強かった。

 

なのに、まるでその予言が当たったみたい・・

 

それでも、実は僕は希望を捨てていない。まだ彼を心の奥で応援している。

 

冒頭に書いた「日馬富士よ、引退しないのなら勝て。勝てないなら引退せよ」という僕のつぶやきは、ホントの話。

 

僕はそんな気分にもなった。

 

でもそれは14日目のこと。

 

千秋楽の白鵬戦を見て、日馬富士はやっぱり強い。いや、強いのか弱いのかよく分からないが、面白い、とつくづく思った。

 

横綱決戦に負けはしたが日馬富士は善戦した。見せ場を作った。ブザマなクンロク横綱の動きではなかった。

 

彼はハゲシク闘った。

 

日馬富士はつくづく面白い。

 

まだまだ目が離せない・・



ピーター・タークソン枢機卿のこと



教皇ベネディクト16世の退位を受けて、ローマ教皇選出会議、いわゆるコンクラーヴェ3月12日から開かれることになった。

 

受け取る人によっては、自慢話と決めつけられそうな点が気になるが、ま、自慢話の類いと考えられないこともないので、割り切ってそれに関連した私ごとを書いておくことにした。

 

コンクラーヴェで推挙されると見られている次期ローマ教皇候補の一人、ガーナのピーター・タークソン枢機卿は僕と妻の友人である。もっと控えめに言えば、僕ら夫婦の親しい知人、というのが正しいかも知れない。

 

こうやって奥歯に物が挟まったような言い方をしてしまうのは、もちろんタークソン卿がローマ教皇候補に目された、というちょっと恐れ多い事態が明るみになったからである。

 

キリスト教どころか、どんな宗教にも完全には帰依しない自分だが、親しくしている人物が世界最大の宗派の頂点に立つかも知れない、という現実に直面して、僕はやはり深甚な感慨に襲われている、と告白しておこうと思う。

枢機卿はガーナ出身の64歳。大工の父と路上マーケットの野菜売りだった母親の間に生まれた。貧しい中で努力を重ねてニューヨークの大学に学び、その間の学資はビルの清掃の仕事をして稼いだ。2003年、教皇ヨハネ・パウロ2世によって枢機卿に任命され、2009年以来、ベネディクト16世の命によって、バチカンの「正義と平和評議会」議長を務めている。
 

タークソン卿は僕ら夫婦が関わっているアフリカ支援ボランティア団体「エフレム(EFREM:Enargy&Freedamからの造語)」の創設メンバーの一人でもある。

イタリアを拠点にするエフレムは、アフリカでの太陽光エネルギー普及活動を行なう傍ら、数ヶ月に一度ほどの割合でわが家で決算報告会を開く。僕らはその集会でタークソン卿としばしば顔を合わせるのである


ローマ教皇候補と目されるほどの人だけあって、タークソン卿は思慮深い人格者である。それでいて気さくで飾らない人柄でもある。

僕は枢機卿とはイタリア語ではなく英語で意志の疎通をする。2人とも英語の方が気楽で話し易いと感じるのだ。もっとも枢機卿は母国語の南部ガーナ語の他に、英語、イタリア語、ドイツ語、フランス語、ヘブライ語を流暢に話す。従って英語が話し易いと感じるのは、実は僕だけなのかもしれない。

最初に会ったとき、聖職者である彼を英語で何と呼べばいいのか分らず、僕は率直に聞いた。

「イタリア語では枢機卿に対して一定の呼び方がありますが、英語では何とお呼びすればいいのでしょうか?」


それに対してタークソン卿は笑って答えた。

「ピーターと呼んで下さい。私たちはエフレムの共同参加者であり、友達です」

以来われわれはお互いに名前で呼び合う仲である。

もしも枢機卿が教皇に選出されたなら、以後は中々名前では呼べない状況になるだろう。それは少し残念な気がする。が、もちろんそんなことはどうでもいいことだ。

タークソン卿が、カトリック教会の最高位聖職者であるローマ教皇に選出されるなら、それはほとんど「革命」と形容しても過言ではない歴史的な大きな出来事となる。

長い歴史を持つキリスト教カトリックの頂点のローマ教皇には、黒人はおろかアジア人も南北アメリカ人もまだ上り詰めたことがない。

聖ペテロ(英語:ピーター)に始まって265代およそ2000年、教皇の地位は常にヨーロッパの白人が占めてきたのだ。

黒人のタークソン卿がカトリック教会の最高位聖職者に就くことは、アメリカ合衆国に史上初めて黒人の大統領が誕生したことよりももっと大きな意味を持つ、歴史の輝かしいターニングポイントである。

その当事者が僕らの親しい人であることは大きな誇りである。と同時に、少しの落胆でもある。なぜなら彼は教皇に選出された瞬間に、きっと僕らからはぐんと遠い存在になってしまい、気軽に会ったり、共にアフリカ旅行の計画を練ったりするような間柄ではなくなってしまうだろうから。

しかし、繰り返しになるが、そんなことはもちろんどうでも良いことだ。

黒人のローマ教皇の誕生、という考えただけで身震いするような歴史の節目に立ち合うことができるのなら、僕は卿との友情は胸の内に封印して、彼を陰ながら支え、応援していく大衆のひとりとして、事態を大いに寿(ことほ)ごう思う。

 

 

コンクラーヴェ(ローマ教皇選出会議)の行方



ローマ教皇を選出する秘密会議、いわゆるコンクラーヴェが2013年3月12日から開かれることになった。

 

会議はサンピエトロ大聖堂に隣接するバチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂で行なわれ、世界各地から集まったカトリック教会の枢機卿115人の互選によって新教皇が決定される。

 

今回のコンクラーヴェは、終身制だと考えられていた教皇職を、ベネディクト16世が生前辞任する、という驚きの行為を受けて召集された。教皇の生前辞任、しかも自らの自発的意志による引退は、1294年のケレスティヌス5世の辞任以来、719年振りの出来事である。

その椿事を踏まえて召集される極めて珍しい選挙集会、という事実もさることながら、多くの難問を抱えているバチカンにとっては今年のコンクラーヴェは、長い歴史を持つ教皇選出儀式の中でも極めて重要なものになると見られている。

世界中に14億人前後の信者がいるとされるカトリック教会は現在、存続の危機と形容しても過言ではない深刻な状況に陥っている。その最たるものが、聖職者による幼児への性的虐待とそれを隠蔽しようとする旧態依然とした体質であり、女性や同性愛者への偏見差別問題であり、さらにバチカン銀行による金融不正事件、マネーロンダリング疑惑など、など、である。

中世がそのまま生きているような、バチカン及びローマ・カトリック教会のそうした現状は、抜き差しならない泥沼に嵌まった重大な問題になっている。コンクラーヴェで新しく選出される教皇は、それらの難問を解決するべく厳しい責務を負うことになる。バチカンには大きな変革が求められているのである。

バチカンの病的な保守性は、極端なヨーロッパ偏重主義に原因の一つがある。世界中に14億人前後いると見られるカトリック教徒のうち、約76%が南米を筆頭に北米やアフリカやオセアニアなど、ヨーロッパ以外の地域に住んでいる。

ところが聖ペドロ以来265人いるローマ教皇の中で、ヨーロッパ人以外の人間がその地位に就いたことはない。内訳は254人がヨーロッパ人、残る11人が古代ローマ帝国の版図内にいた地中海域人だが、彼らも白人なのであり、現在の感覚で言えば全てヨーロッパ人と見なして構わないだろう。ローマ・カトリック教会においては、世界で最も信者数の多い南米出身者はもちろん、北米出身の教皇さえ歴史上存在しないのである。

12日から始まるコンクラーヴェの選挙では、本命候補はいないというのが世界のメディアの論調である。しかし、本命はいなくても有力と考えられている候補者はいる。しかも下馬評では、ヨーロッパ人以外の候補者が多く名を連ねているのが特徴である。

主な候補者は、メキシコのフランシスコ・ロブレスオルテガ大司教(63)、教皇庁文化評議会のジャンフランコ・ラヴァージ議長(70)、米国ボストンのショーン・オマリー枢機卿(68)、ハンガリー・ブダペストのペーター・エルド大司教(60)、ブラジル・サンパオロのペドロ・シェレル大司教(63)、カナダのマルク・ウエレット枢機卿(68)、ガーナのピーター・タークソン枢機卿(64)、フィリピン・マニラのルイス・アントニオ・タグレ大司教(55)、イタリア・ミラノのアンジェロ・スコラ大司教(71)、また大穴として米国ニューヨークのティモシー・ドラン大司教(63)らの名が挙がっている。

ここで注目されるのは、有力候補と見られるそれらの人々の多くが非ヨーロッパ人である点である。北米や中南米の候補者は、全員がヨーロッパからの移民の流れを汲んではいるが、フィリピンのルイス・アントニオ・タグレ大司教とガーナのピーター・タークソン枢機卿は、100パーセント「非白人」の候補者である。

南北及び中米出身の教皇が誕生すれば、それはそれで既に「歴史的な事件」だが、フィリピンとガーナ、特にガーナのピーター・タークソン枢機卿が選出された場合は、ほぼ「革命」と形容しても過言ではない歴史の巨大な転換点になるだろう。

人種差別主義の巣窟と見なされ続けてきた米国には、初の黒人大統領バラック・オバマが誕生して、負の歴史の厚い壁に風穴を開けた。もしも黒人のローマ教皇が生まれるならば、それはオバマ大統領の出現よりも遥かに大きなインパクトを持つ歴史的な事件になるだろう。

なぜならバラック・オバマはアメリカ一国の大統領に過ぎないが、ローマ教皇は、ほぼ2000年の長きに渡って存在の優越を謳歌してきた欧米の白人を含む、世界14億人のカトリック教徒の精神的支柱となる存在だから。

僕は非白人の教皇、できれば黒人教皇の誕生を熱く願っている。もしも実現するなら、彼は世界中の抑圧された民の救世主とも目される存在になり、同時に進歩発展から取り残されたローマ教会の改革も目指すだろう。

そうなれば理想的ではある。が、実は彼は何もしなくても良い。と言うのも、黒人の教皇の存在自体が既に、歴史上例のない宗教的かつ社会的な大改革になるからである。それはわれわれの住むこの世界が、差別や偏見の克服へ向けてまた一歩前進したことを意味する。

そこに至る道は平坦ではない。むしろ厳しいと見るべきである。コンクラーヴェが近づくにつれて、イタリア人を中心とするローマ在の枢機卿や聖職者のグループが暗躍して、ヨーロッパ系の特定の候補者への票の収斂を画策しているという情報もある。

またそれが叶わないなら、せめて、真摯な改革推進派であるボストンのショーン・オマリー枢機卿を排除して、保守穏健派の白人系候補者を推す動きがあるとも見られている。

ローマ・カトリック教会の地元であるイタリアの、同国人が率いるグループは、最も数が多くコンクラーヴェでは常に強い影響力を持つと言われる。彼らの中にはもちろん改革推進派も数多くいる。が、長い歴史に寄り掛かった守旧派もまた少なくない。

12日に開始されるコンクラーヴェでは、ここに紹介した候補者以外の人間が教皇に選出される可能性も高く、まったく予断を許さない。

ただ一つ確かなことは、もしも守旧派が主導権を握った場合、ローマ教会が改革路線を取ることは困難になり、特に2005年に亡くなった第264代教皇
・ヨハネ・パウロ2世が目指した、世界宗教の融和への道も閉ざされて、バチカンは再び停滞するだろう。

それはカトリック教徒はもちろん、世界中のあらゆる宗派の人々にとっても、極めて遺憾な事態だと言わなければならない。

 

 

カオス風がイタリア的秩序である



数字上の明確な勝者がいなかった2月の総選挙の後、イタリアはカオスのただ中にあるように見える。

 

政府もなく、例えて言えば国王たる教皇ベネディクト16世が退位して、国家元首もいない。大統領は健在だが、イタリア国民の精神的支柱という意味では、やはりローマ教皇が最大最強の存在である。

 

そのことを踏まえて、敢えて再び例えて言えば、今のイタリアの状況は、政府が無く、天皇もいない日本国のようなものである。

 

日本がもし本当にそんな状況に陥ったら、どうなるだろうか。

 

恐慌が社会を支配して惨憺たる有り様になるのではないか。

 

指針がなければ自らを律せない、無節操な大勢順応主義社会の限界である。

 

その点イタリアは実は、カオスなどに嵌(は)まりこんではいない。

 

カオスに絡め取られるかもしれないと誰もが警戒していて、その警戒心が崩壊しようとする社会をしっかりと支えている、という局面である。

 

ということは、イタリアは大丈夫、ということである。

 

国のガイドラインがなくてもイタリアの各地方は困らない。都市国家や自由共同体として独立し、決然として生きてきた歴史がものを言って、地方は泰然としている

 

イタリア国家が消滅するなら自らが国家になればいい、とかつての自由都市国家群、つまり旧公国や旧共和国や旧王国や旧海洋国などの自治体は、それぞれが腹の底で思っているふしがある。

 

思ってはいなくても、彼らの文化であり強いアイデンティティーである独立自尊の気風にでっぷりとひたっていて、タイヘンだタイヘンだと口先だけで危機感を煽りつつ、腹の中ではでペろりと舌を出している。

 

「イタリア国家は常に危急存亡の渦中にある(L`Italia vive sempre in crisi)」

と、イタリア人は事あるごとに呪文のように口にする。

 

それは処世術に関するイタリア人の、自虐を装った、でも実は自信たっぷりの宣言である。

 

誕生から150年しか経たないイタリア国家は、いつも危機的状況の中にある。

イタリア国家は多様な地域の集合体なのであり、国家の中に多様な地域が存在するのではない。

 

つまり地域の多様性がまず尊重されて国家は存在する。というのが、イタリア国民の国民的コンセンサスである。

 

だから彼らは国家の危機に対して少しも慌てない。慣れている。アドリブで何とか危機を脱することができると考えているし、また実際に切り抜ける。歴史的にそうやって生きてきたのだ。

 

イタリア人ではない僕でさえ、彼らがなんとか危機を克服するだろう、と楽観的に見ている。

その認識は、言うまでもないことだが、イタリアでの日々の暮らしの中で僕が実際に見聞きしてきた、多くの事象に基づいて形成されたものである。

その顕著な事例の一つが、僕がこれまで何度も行なってきた、イタリアと日本を結ぶ衛星生中継の現場。

 

衛星回線を利用してのテレビの生中継の現場は、失敗の許されない極度に緊張した空気の中で進行する。

 

ディレクターの僕は言うまでもなく、スタッフの作業を見守るプロデュサーもカメラマンも中継車スタッフも誰もかもが、それぞれの持ち場で一回限りの本番に備えて完璧を期して仕事をする。

 

そうした中で必ず起こるのがイタリア側の仕事の遅れ。あるいはミス。あるいは不正確。あるいは緊張感の無さetc・・

 

極端なケースでは、本番間近になっても衛星回線が繋がらなかったり、繋がっても映像が出なかったり、音声が途切れたりということが平然と起こる。

 

それにも関わらず、少なくとも僕が手を染めた番組では、彼らは生中継に穴を開けたことがただの一度も無い。ぎりぎりのところでいつも「なんとか」してしまうのである。

 

一時が万事、イタリア人はそんな風に当意即妙の才に長けている。あるいは反射神経が鋭い。あるいは機転がきく。

 

繰り返しになるが、それはほんの一例である。でも、あらゆる局面で見られるイタリア人の目覚ましい才覚だと僕は密かに感じ入っている。

 

そんな訳で、無政府状態に陥った今回の政治の混乱も、彼らはその才能を十二分に発揮して無事に切り抜ける、と僕は信じて一向に疑わないのである。

 

女性の日。ミモザの日。再びの。



今日は3月8日。

男が女にミモザの花を贈って祝う女性の日。

イタリアの例年の習わし。

 

今年はミモザの花が少ないように感じる。

 

開花が遅れているのか、道路脇の屋台などで売られているミモザの花束の山も、例年より薄いようである。

 

この時期に多く咲き乱れるミモザと同じ黄色の花、レンギョウも数が少ない。

 

と言うか、僕の仕事場兼書斎から見えるレンギョウの黄色い花々は、今年はまだ一切見えない。

 

2月中旬以降、雪の多い寒い日が続いたから、やっぱりきっと花々の開花が遅れているのだろう。

 

天気が回復すれば、イタリアらしく一気に春めいて花も咲き乱れるに違いない。

その日が待ち遠しい。

 

3日後の11日は東日本大震災2周年。

 

東北の被災者の皆さんにとって2011年3月11日は永遠に「今」に違いない。

 

当事者ではない僕でさえ大震災を忘れることはあり得ない

 

が、あの巨大な悲しみも恐怖も、とてつもない失意も何もかも、たった2年という時間の、記憶蓄積のベールに包まれて少し見えづらくなっている。

 

人間は薄情で利己的で忘れっぽい存在だ。

 

でも、だからこそ、凄まじい不幸や悪夢のような体験も、いつか克服することができるのかもしれない。

 

忘れることができなければ、いつまでもその重圧に押しつぶされてついには壊れてしまいかねない。

 

心の傷の回復とは、つまり「忘却」である。

 

極大の惨禍の記憶は無論消え去ることはない。

しかし凄惨な個々の出来事の詳細が、少しずつ記憶蓄積のベールに覆われて行き、やがて癒しの海に沈んで、ついに安らぐ。

 

爛漫と咲くミモザやレンギョウの花を伴なった、そんな春の日が一刻も早く被災者の方々に訪れることを祈りたい。


 

日伊往来が楽しい


一時帰国をした。

32日にイタリアに戻って、時差ボケのまっただ中にいる。

仕事でも遊びでもよく旅をするが、僕はいつも非同期症候群の大波に見舞われて結構つらい思いをする。

時差ボケは若くて体力のある人ほど症状が軽いと言われる。

が、僕は若いときから常に症状が重かった。

それに慣れて対処法も分ってきた分、むしろ若くなくなった今の方が変調が少ないような感じさえする。

ともあれ、世の中には時差ボケにならない人もいるから、僕のはきっと体質に違いなく、従ってうまく付き合って行くしかない。

というふうに考えると、ますます症状が軽くなるような気がしないでもないから不思議である。「日々是好日」の心境の縁に佇んでいるのだ。

体調不良ながら、だから、気分は少しも暗くない。気分が暗くないと、霞がかかったようにはっきりしない頭の中にも光が差すようで、考え事さえ苦痛ではなくなる。

そうやって少し考えた。

帰国以前から気づいていたことだが、最近特にイタリア旅行をしたい、という日本の友人知己が増えている。

彼らにとってはイタリアは非日常である。だから新鮮だし、憧れる。

ところが僕にとっては、イタリアは慣れきった日常である。イタリアを夢見る彼らとは逆に、僕にとっての憧れとは、実は、自分が生まれ育った国、日本である。

長い外国生活を経て僕は今、日本をすごく新鮮に感じている。長い間、平均して1年に3回強程度の割合でイタリアと日本を行き来して過ごしてきた。

大まかに言えば、2回強は仕事で、1回は休暇でというふうだったが、休暇は仕事を兼ねることも多く、また若いころは仕事で帰国する回数がかなり多かった。

テレビの仕事を減らしたここ数年は、仕事と休みを兼ねて1年に1度くらい帰るのが常となっている。

帰国する頻度が減った最近特に、イタリアと日本というのは天と地ほども違う、まことに異質の世界だ、と今更ながら感じる。

異質ながら似ている部分も実はまた多いのだが、違いの部分がはるかに大きく際立って見えるのである。

日伊の違いは、若いころは自分の中でいわば消化吸収されて融和していて、「違うが、でも同じだ」みたいな感覚になっていたように思う。

今は日伊の違いが鮮明で、かつ違いの度合いが大きいと感じる。しかもそうした違いは、僕にとってはとても心地よいものである。

イタリアと日本を隔てる飛行時間12時間の時空を超えるたびに、全く違う新鮮な世界に出会ったと感じて僕はとても興奮する。

そんな折には、日伊を往復して暮らしている自らの境遇を、結構幸せだ、と思ったりもするのである。



ペルー旅 ~霊章~ 付記



インカの人々が建設から100年後になぜマチュピチュを捨ててそこを去ったのかはっきりとは分っていない。

 

インカびとは文字を持たず、征服者のスペイン人はマチュピチュそのものの存在を知らなかったから、記録に残す術がなかった。

実はマチュピチュが建設後100年で遺棄された、というのも推測に過ぎない。

 

周知のようにマチュピチュには多くの謎が秘められている。それは主にインカびとが文字を持たなかったことに起因している。実記が何も残っていないのだ。

 

たとえば、なぜ彼らは外界から隔絶された山の頂上に街を作ったのか。

 

彼らは一体どうやって一つ5トン~20トンにもなるたくさんの巨石を高山に運び上げたのか。

 

そしてどこから。

 

また鉄器具を知らなかった彼らはどうやってそれらの巨石を精巧に掘削し、切り整え、接着し、積み上げていったのか。

 

など。

 

など。

 

謎には、研究者や調査隊や歴史愛好家などの説明や、憶測や、史実に基づいた推論などが多くある。

 

それらの謎のうちの技術的なもの、たとえば今言った「巨石を運ぶ方法」とか、それを「精巧に細工するテクニック」などというのは、正確には分らなくてもなんとなく分かる。

 

つまり、インカびとは巨石や岩を細かく加工するペッキング(敲製)という技術をマチュピチュ以前に既に知っていて、それを活用した。マチュピチュ以外のインカ遺跡にも、ペッキングによる巧緻を極めた岩石細工は多く見られるから、これはほぼ史実と考えてもいいだろう。

 

また巨岩を運ぶ謎についても、傾斜路を造るなどの方法で各地の古代文明が高い技術力を持っていたことが分っている。マチュピチュの場合は、その立地から考えて、他のインカ遺跡と比較しても格段に難しかっただろうが、当時の人々の「割と普通の知恵」の範ちゅう内のワザだった。

 

たとえそうではなくても、巨石文明や石造りの構築物という意味では、エジプトのピラミッドに始まり、ギリシャ文明を経て古代ローマに至る地中海域だけを見ても、マチュピチュを遥かに凌駕する「ハイテク」が地上には存在した。しかもそれは15世紀前後のマチュピチュなどよりもずっと古い、紀元前の文明開化地での出来事であり人類の知恵である。

 

マチュピチュの建造物は言うまでもなく美しく優れたものだが、技術力という意味では地上唯一と呼ぶには当たらない、むしろ「ありふれた」と形容する方がふさわしい事案、だとも言えるのではないか。

 

マチュピチュの鮮烈はもっと他にある。つまり「マチュピチュはなぜそこに、なんのために作られたのか」という根源的な、しかも解明不可能に見える謎そのものの存在である。

 

その謎についても百人百様の主張がある。よく知られている論としては、たとえば

 

マチュピチュはインカの王族や貴族の避暑地として建設されたという説。

 

あるいは祭や神事を執り行なうための聖地説。

 

またそこが遺棄されたのは、疫病が流行って人が死に絶えたから、と主張する研究者もいる。

 

いや、そうではなく、気候変動によって山の斜面を削って作られた畑に作物ができなくなり、暮らしていけなくなった人々がそこを捨てた、とする説もある。

 

マチュピチュ遺跡に実際に立ってみての僕の印象は、そこは祭祀のためだけに造形された場所ではないか、という強い感慨だった。

 

アンデスの山中深くに秘匿された森厳な建物群が、押し寄せる濃霧におおい尽くされて姿を消し、霧の動きに合わせては又ぼうと浮かび上がる神秘的なパノラマは、いかにも霊妙な儀式を行なうためだけに意匠された壮大な徒花、という感じが僕にはした。

 

でもそれには矛盾点も多い。たとえば祭祀のためだけの場所にしては、人の住まいのような建物が多いこと。

 

また街のある山の斜面に多くの段々畑が作られて、トウモロコシやジャガイモなどが栽培されていたこと。

そういう作物は神事にも使用するだろうが、それにしては畑の規模が大きい。やはり住民の食料として生産されていた、と考えるのが理に叶うようである。

 

さらに街そのものも、宗教儀式のためだけの施設と見なすには、畑同様に規模が大き過ぎるように見える。

 

それらはほんの一例に過ぎない。マチュピチュには他にもたくさんの矛盾や疑問や驚きがある。しかし、僕にはどうしてもやっぱりそこが、神聖な儀式のための大がかりな設備、というふうに見えて仕方がなかった。

 

マチュピチュには俗なるものが一切ないように僕の目には映ったのだ。その位置する場所、山岳に秘匿された地勢、景観、あらゆる造形物の玄妙なたたずまい、空気感、茫々たる自然・・それらの一切が聖なる秘儀にふさわしい組み合わせ、お膳立てのように見える。

 

そうした印象はもちろん、マチュピチュの失われた時を偲ぶ、僕の感傷がもたらすものに違いない。

しかし、いかなる具体的な描写や考察をもってしても表現できないであろうマチュピチュの美は、そうした感傷や旅愁や感激や深いため息などといった、いかにも「理不尽」な人の感性によってしか把握できない場合が多い、歴史の深淵そのものなのである。
 

 

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