【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

カンバン

フリーになったのはいいが、番組制作はまだできずにいる。体調を崩したこともあるが、もっと大きな問題がある。撮影機材のことである。

ハイビジョンカメラがイタリアにはない。いや、あることはあるのだがまだまだ一般的ではない。それなりの品質の機材はレンタルをするにも値段が高い。以前に比べればずいぶんと安くなったが、僕のようにカメラを長く回し続けるスタイルの撮影では金がかかり過ぎる。採算が合わない。

事務所を出してすぐの頃にベータカムカメラを買った。それもカメラをしつこく回す自分のスタイルがあったからである。レンタルをしていては金がかかり過ぎるから、思い切って買ったのである。 もちろん銀行から金を借りた。ついでに簡単な編集機材も手に入れた。カメラを多く回せば撮影テープも増えて、編集にも時間と金がかかる。オフライン(予備)編集ぐらいは自分の事務所でやらないと、編集スタジオの支払いだけで制作予算の大半が吹っ飛んでしまいかねない。

その作戦はうまく行って、カメラを含む撮影機材も編集機材も割と早めに減価償却を済ませて、機材を新しくしたり増やしたりする余裕さえ生まれたこともあった。

ならばハイビジョン機材もそうすれば良いようなものだがそうはいかない。値段のケタが違うし、ハイビジョン仕様が一般的ではないから、編集機材も少ない。それもまた自分で買わなければならなくなりそうだ。とてもじゃないがそんな金はない。もしあったとしても、フリーになった今はそんな気分にはなれない。機材が一般的になってレンタル料金も安くならなければ今は動き出せない。あるいは値段がもっと安くなって自前で買えるようになるか・・。 

撮影機材や編集機材を自前で持つメリットは、安上がりというだけではない。企画を売る前から番組の撮影を始めて、素材をストックしておくという離れ業もできる。そんなことは一介のフリーランスのディレクターには中々できない。なぜなら撮影には機材のレンタル料はもちろん、カメラマン以下のスタッフの人件費や宿泊・飲食費などなど、多くの費用がかかる。しかも企画が通る前の撮影だから、企画が売れなかった場合はまるまる損になる。自分の事務所があって機材もそろえていたりしなければ、簡単にはできない。

ドキュメンタリーを作りつつ、多くの報道番組の撮影などもこなしてムチャクチャに忙しくしていた頃は、数年に一本しか作らない映画監督を羨みつつ「カンバン倒れだ」などと思ったりもした。ほとんどロケに出かけない今は自分が「カンバン倒れ」のようなものだが、ディレクターのカンバンを下ろさないのはまだ作りたい番組があるからである。

そのうちの一つはイタリアの漁。日本ほどではないが、半島国のイタリアには多くの漁法がある。僕はアルプス山中からパンテレリアという地中海の島までの漁法をずっと調べていて、いつか番組にしたいと考えている。それは自分の中では、90年代半ばに「NHKスペシャル」のために作ったシチリア島の「フェルーカ漁」の流れを汲むもので、今はなくなった漁法も含めて少しづつリサーチを続けているのである。

沈み行くベニスも取り上げたい。ベニスは短い撮影も含めて何度も取材をしてきた。かつてNHKの衛星放送でミラノのフアッションショーの取材を担当していた頃や、WOWOWの番組制作にたずさわって主にミラノに張り付いていた頃などを除けば、ベニスはもっともひんぱんに取材に訪れた街である。高潮問題についても何度か取材したが、ある程度の長さになるきちんとした番組はまだ制作していない。

ベニスには映画も含めて世界中から撮影隊が訪れる。でもそれはほとんどの場合、いわばベニスを通りすがりに取り上げる、という類いの撮影であるように思う。自分が何度も取材をした時もそんな形である。僕は沈み行くベニスを、実際にベニスに住む人々の目線で描いてみたいと思っている。自分が知る限りまだそういう視点でのドキュメンタリーはないようだが、例えあったとしても、イタリア在住の利点を活かして自分スタイルでしつこくカメラを回してみたいと考えている。

実はそのコンセプトで、僕は馴染みのカメラマンとスタッフを連れて、一度ベニスの撮影を始めた。まだ企画も出していなかったが、すぐにはモノにならなくても必ずなんらかの形で一本の番組に仕上げる自信があった。万一ダメでも、高潮に見舞われたベニスの映像は、有りネガとしてストックをしておくだけの価値はあった。ところがそこにハイビジョンの問題が出た。自前のベータカムカメラで回した素材は、将来余り使えない可能性が高くなった。それで撮影をストップした。

今はそういう状況である。でも焦りは少しもない。ここまで走ってきた分のんびりと構えて、リサーチを続けながら機会を待とうと思う。作りたいテーマはたくさんあるのである。作りたい情熱が持続するかどうかは別にして。

情熱、とはまた大きく出るようだが、ドキュメンタリー番組作りなんて心身ともに疲れ果てるきつい、厳しい、気が張るの3K仕事だから、面白がったり熱中できたりする部分がないと中々うまく続けられない。僕はそれをちょっと大げさに「情熱」と呼んでみたりしている。

情熱がなくなったらその時に「ディレクターのカンバン」を下ろそうと思う。もっとも下ろさなくても、情熱がなくなれば僕の中では、テレビ関連のあらゆる仕事は終わるのだけれど。

 

 

再出発



先日、ミラノの事務所を閉めた(法律上。仕事場としてはしばらく維持する)。自分では個人事務所のつもりでいたが、形態は有限会社でやってきた。米粒のように小さな番組制作プロダクションである。

小さいながらいろいろ仕事をやってきたから、感慨はある。

感慨とは少しの未練と大きな安堵である。

未練は80年代終わりからやってきた時間の中での、いわば「慣れ」が無くなることに対する心残り。

安堵は会社のしがらみから開放されて、元のフリーランスのテレビ屋になったことである。

テレビ屋にはいろいろあるが、僕の仕事は映像ドキュメンタリーを作ることである。

僕は東京の大学を卒業した後にロンドンの映画学校で学び少しの仕事もして、日本に帰っていわゆるフリーのテレビ・ディレクターになった。日本では主に米国向けの報道番組を作った。英国で学んだことがそこでは役に立った。アメリカに来ないかと請われて、ニューヨークで2年程仕事をした。

その間に米公共放送PBSの番組制作で、まぐれ当たりに「Monitor Awards」

(日本の新聞などでは国際モニター賞と訳されていたと思う)のニュース・ドキュメンタリー部門の最優秀監督賞というものをもらった。それは番組制作のスタッフ、つまりテレビの裏方である僕らテレビ屋の為の賞で、僕はそれまで存在さえ知らなかったから、わけが分からずに目をシロクロさせていた。が、後にイタリアに移った時に、受賞は少なからず役に立った。人生ではまったくもって何が起こるか分からない。


この国に渡って来た当初、僕はイタリア語もうまく話せず、仕事の経験も人脈もほとんどなかった。アメリカで作った自分の作品のデモテープを手に放送局やプロダクションを回り、懸命に仕事を探したが、そんな時には受賞作のテープが役に立った。すぐに仕事があるわけではないが、テープを見て皆真剣に話を聞いてくれた。NHKのローマ支局やパリ総局とも僕はそうやってつながりができて、後にはそれは東京にも広がり、NHKには散々お世話になることになった。

新天地で若さにまかせてがむしゃらに走るうちに、機会があって僕はミラノに事務所を構えることができた。

事務所を出してからも、委託を受けてNHKの番組制作やWOWOWなどの番組作りにも手を染めていたが、撮影機材を入れてスタッフも増えたあたりから、いわゆるコーディネーターの仕事も多く舞いこむようになった。

コーディネーターとは簡単に言えば、番組制作の手伝いをするプロのことである。僕の事務所の場合は、イタリアにいて日本からの依頼を受けてリサーチやロケハンやロケそのものの手伝いをする。当然日本人ならイタリア語ができなければならないし、逆にイタリア人なら日本語ができなければ仕事にならない。日本のテレビが外国ロケをする場合には、必要不可欠な存在である。

もっと言えば、コーディネーターがいなければ外国ロケはまず成立しないと考えてもいい。極めて重要な役割であり、れっきとしたキャリア仕事である。コーディネーターとしてりっぱに独立して食べている日本人は、イタリアはもちろんアメリカにもイギリスにも世界中に多い。

重要な仕事であると同時に、コーディネーターにはアシスタントディレクター、つまり助監督という側面もある。そこで僕は初めから積極的にコーディネーターの仕事も受けた。というのも、僕はスタッフがその仕事をこなすことで、助監督としての腕を磨くことができる、と考えたからである。助監督になれれば監督、つまりディレクターまではもうすぐである。

ところが、そうはうまくは行かなかった。コーディネーターとして仕事をしてくれた全てのスタッフは、ディレクターにはなれなかった。あるいはならなかった。明らかにディレクターとしての資質を持つ者もいたが、そういうスタッフに限ってイタリアで別にやりたいことがあって、結局その道に進んでいった。

ディレクターとコーディネーターの違いは、敢えてひと言で言ってしまえば、番組のアイデア或いは企画をひねり出せるかどうか、ということである。全てが同じではないが、フリーランスのディレクターは基本的に自分で番組のアイデアや企画を考えて、テレビ局や制作プロダクションなどに売り込む。

つまり何もないところから出発するのがディレクターであり、企画があって番組制作の骨子があるところに「手伝い」に行くのがコーディネーターである。

ディレクターの僕から見ると、それは少し物足りない。できれば自分で企画を考えて番組を作りたい。最初は一、二分の報道番組でもいい。自分のアイデアが受け入れられて番組になる喜びを、スタッフにもぜひ味わって欲しい。それはおこがましく言えば、「創造する喜び」である。「創造の手伝い」をすることとは少し違う。

実はそれは事務所の経営上も重要だった。なぜなら企画が受け入れられるとは、仕事が発生するということだから。

コーディネーターは仕事が入って来るのを待つだけだが、ディレクターは自ら仕事を生み出すことができるのである。

僕一人のささやかな企画だけではなく、スタッフも企画が出せれば仕事はもっと増えるし、仕事の内容ももっともっと面白くなるはずである。

しかしほとんどのスタッフはあまりそのことには熱心ではなかった。

事務所に仕事を求めて応募してくる日本人は、単身イタリアに渡ってくるだけあって優秀な人ばかりだった。またイタリア人も、どちらかと言うとこの国ではマイナーな外国語である日本語を流暢に話すくらいだから、優秀でないわけがなかった。

しかし、独自にアイデアを考えて、企画に仕上げる作業はしんどいことだし、情熱もいる。

結局、番組制作が何よりも好き、という基本的な心持ちがないと無理だった。

事務所は僕が作る番組やロケ、またスタッフがこなしてくれるコーディネートの仕事で問題なく前に進んだ。しかし僕はあまりハッピーではなかった。というのも、仕事の比重がだんだんコーディネートの方に傾いていき、ここ数年は僕自身が作る番組やロケの機会も少なくなって、事務所がすっかりコーディネーター会社のようになってしまった。僕自身もコーディネーターの仕事をしなければならないことも多くなった。

仕事が回っていればそれはそれでいいことである。だが僕はやっぱり企画から出発する番組作りをしたかった。コーディネート会社のオヤジ社長でいるよりも、カメラマンを始めとするスタッフと共にロケ現場で駈けずり回る仕事が好きだった。

少し体調が良くなかった機会を捉えて、僕は思いきって事務所を閉める決意をした。

そうやって僕は元のフリーランスのディレクターになった。


 

ブンガクあそび



人生初めてのブログ参入。

大学時代の友人二人が、すっかりオヤジになった今になって小説を書き出すという。いや、一人はもう大分前から書いていたらしい。僕はそのことにひそかに心を動かされた。

触発されてこのブログを始めることにした。

僕も小説家を夢見たことがあった。大学を卒業してロンドンの映画学校で学んでいた頃、小説新潮という文芸誌の月間新人賞佳作というものに選ばれて、有頂天になったこともある。月間賞の佳作なので作品そのものは雑誌には掲載されず、佳作受賞の知らせのみが載ったが、賞金というか原稿料がちゃんとロンドンまで送られてきた。確か2万円か3万円だったと思う。

僕はロンドン中のありたけの友人を呼び集めて、安ワインを大量に買って、お祝いに飲んで大いに騒いだ。いっぱしの作家気分だった。

僕の若さはバカさだったとつくづく思う。でも自分では面白がっている。それでなければ、今さらこんなブログなんか始めない。

その短編小説の後は泣かず飛ばず。文学雑誌に掲載された作品もあったが、ほとんどが原稿のままホコリまみれになっただけだった。僕はその頃映画制作の勉強に夢中になっていた。またロンドンの学校を終わってからは、プロとしてテレビドキュメンタリーや報道系番組の制作に一生懸命になった。だから余り書く時間がなかった、と後には友人たちに話した。それはほんの少しだけ真実だが、多くは嘘である。要するに才能がなかったから、書かなかった或いは書けなかっただけの話だ。

イギリスから日本に帰り、すぐにアメリカに行って次にはここイタリアへと移り住みながら、僕は忙しくテレビの仕事をしてきた。その間には本を出さないかという話もあって、時間を見つけて懸命に原稿を書いたがボツになった。日伊比較文化論のような、いかにもつまらない内容の雑文だった。その後、同じような趣旨で書かないかともう一つの話もあったが、こちらは原稿さえ書き上げられないまま長い時間が経った。

その間には雑誌や地方新聞にエッセイのようなコラムのような雑文記事を結構書いたが、小説はまるで世に出なかった。少しだがひそかに書いてはいたのだ。やがて諦めた。数年前から地方新聞に超短文のコラムなどを書いたりはしている。

そんな折、友人二人の決意を知った。僕らは東京の大学の文学部に籍を置いたかつての文学青年である。それにしても今になって彼らが小説を書き出すとは思いもよらなかった。文学オヤジの登場に僕はびっくりして、そして喜んだ。

僕は「今のところは」小説を書く気はない。モノにならないことが分かったから。でも文学ならやってもいいと思っている。ただし、ここで言う文学とは、僕が勝手に考える文学で深刻な意味はない。

つまり僕は金のもらえる小説だけを「小説」と呼んで、雑文を含む残り全てを「文学」と考えてみたのである。「文学」を「ブンガク」と表記してもいい。言葉を替えればプロの文章とアマチュアの文章。

アマチュアの文章にもすごい作品はある。例えば最近目にしたNHKの「カシャッと一句!フォト575」の俳句などはその一つだ。僕はたまに衛星放送でその番組を見て舌を巻いたりしている。素晴らしい作品も多いが、作者の皆さんはプロの作家ではないようだ。少なくともあそこで紹介される作品で金銭報酬は受けていないはずである。

そんな域には達せずとも、好きなことを好きなように書く「文学」を友人二人にならって僕も始めることにした。彼らは「小説」書き、つまりプロの物書きを目指す計画らしい。僕はそんな才能も勇気もないので、誰か読んでくれるかどうかも分からないこのブログで、書きたいことを書くことにした。

それでも結構ワクワクしている。なにしろ自分では「文学」・・いや「ブンガク」であそぶつもりだから・・・

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