【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

~イタリア式 人気番組の作り方~



「同じ公共放送なのに、どうして俺達にはこんな番組が作れないのかなぁ・・・」イタリアのNHKに当たるRAIの番組を見ていた山田さんが、ため息まじりに言った。山田さんはNHKのプロデュサーで僕の友人である。イタリア旅行に来た彼に、僕はわざとゴールデンタイムに放送されるRAIの看板番組を見せて反応を確かめていた。少し前の話だが、イタリアの状況は今もあまり変わっていない。


番組の内容は歌あり踊りありクイズありマジックショーありゲストコーナーあり・・・要するに何でもござれのバラエティーである。たかがバラエティー番組なのに、いや、たかがバラエティー番組だからこそ、そこにはアメリカでもイギリスでもドイツでもない、もちろん断じて日本でもない、イタリア的なセンスが全編にちりばめられていた。


テレビ画面ではふんどしそっくりの布を腰に巻き、ついでに胸元にもその切れ端を二つだけチョンと付けてみました、という感じのアブナイ衣装を着た十人の娘が、スタジオの舞台上で花かごを片手に踊りながら、片方の手では花びらと投げキッスを交互に観客に送っている。十人の娘、というよりもダンサーたちは、いずれもちょっと見かけたことがない、というぐらいに華々しくセクシーでグラマーでそれなのになぜかスマートで、とにかくムチャクチャに魅力的である。そして極めつきは、彼女たちが少しもいやらしくない、という厳然たる事実だった。


ただ美女を集めて、お色気を売り物にするだけの番組なら誰でも作れる。ところがこのRAIのショーは、性を売り物にしているようで、そのくせそこを突き抜けてしまっているために、メルヘンのようなおかしみだけが画面いっぱいに広がって、子供から年寄りまで安心して見ていられる。だからこそゴールデンタイムに放送が可能であり、冒頭の山田さんの「どうして俺達には・・・」という嘆きを誘い出してしまうのである。


イタリアのテレビ局はこの手の遊び番組にどかんと金をかける。たとえば十人の娘は、日本の常識の数倍にはなる大人数の番組スタッフが、手分けしてイタリア中の美形の中から選りすぐり、肉感的でありながらしかもいやらしくない、いわば童話の中のキャラクターでもあるような不思議なダンサーに作り上げる。作り上げるのであって、元々そういうダンサーではないのだ。これだけでも金と時間が相当にかかる。

そして彼女たちが着るコスチュームは、たとえばアルマーニのような超一流のデザイナーブランドに特注して作らせる。番組の司会は年収ン億円の花形タレントを、年収に見合うかそれ以上のギャラを支払って拘束する。他の出演者も同じ。

乗りの良いすばらしい音楽は、イタリアといわず世界中のトップミュージシャンに当たって、納得のいくものを作曲させる。カラフルでまぶしくておシャレなスタジオセットの制作には、これまた莫大な金をかけて超一流のアーティストを呼ぶ、などなど。この手の番組に彼らは思い切って金を注ぎ込む。


それでは単に金をかければいいのかというと、それだけでもやっぱり無理だ。

十人のダンサーに代表される「天真爛漫イケイケゴーゴームチムチムッチリほんとにキレイ!」という風に、性をオブラートに包んで見苦しくない物(子供達に見せても構わないという意味で)に換えてしまう、イタリア人の才能がないとこの手の番組は作れない。


たとえばこれがアメリカならば、金も才能もあるが、十人のダンサーの使い方が女性をバカにしていると女権論者からすぐに猛烈な反発がくる。少なくともゴールデンタイムの放送は無理だ。イギリスのテレビが作ると、007映画よろしくお色気が前面に出すぎて子供には見せにくい雰囲気になる。フランス人がやるとイタリアに一番近くなるが、作る側の照れとか気取りとかが必ず画面にちらついて、あっけらかんとした自然な感じがなくなる。ドイツ人がやると、真面目すぎてひたすらコワイ。わが日本のテレビがやると、たぶん真夜中を過ぎてのピンクショーになってしまうかも・・・。テレビでの性の扱い方は、おそらく日本人が誰よりも不器用なのだから、これはしょうがない。


「そうか。イタリア人の才能というのは分かった。だけど、一つの番組にそんなに金をかけても視聴者は文句を言わないの?」と山田さん。「言いません。これはテレビ番組というよりも一つの壮大な“見世物”だという考え方があって、それには金がかかるのだと誰もが理解しています。そして何よりもイタリア人は“見世物”が大好きです」と僕。


イタリアのNHK、RAIは毎年大赤字である。当然批判も多い。民営化してしまえ、という声も年ごとに高まっている。ところがこうした番組に対しては、まるで局の体質とは関係がないかのように余り批判が起こらない。しかしもっと驚かされるのは、番組が半年間だけ放送されて、しばらく休んだ後に再開されることである。


「番組が休みの間、スタッフは何をしてるの?」と山田さん。「それは充電期間です」僕が答えると、山田さんはヒッと短い叫び声を上げた。恐怖と羨望で顔がひきつっている。

番組が当たれば、スタッフは充電期間どころか、ぶっ倒れてスカスカの干物になるまでむち打たれこき使われて制作をしつづけるのが、日本のテレビ局の常識であることを山田さんは誰よりも良く知っている・・・。

 

 

 

 

小さな大都市ミラノ


 

言うまでもなくミラノはニューヨークやパリやロンドンなどと並ぶ世界のファッションの流行発信地である。そのミラノの中でも最も重要な、いわば流行発信の震源地、とも呼べるのがファッションショーの会場である。僕はテレビ番組の取材でそこにも良く出掛けてきた。


毎年行われるファッションショー、つまりミラノコレクションでは、イタリアのトップデザイナーたちが作った服を、世界中から集められたこれまたトップの中のトップモデルたちが美しく、優雅に、そして華麗に着こなして舞台の上を練り歩く。


テレビカメラが回りつづけ、写真のフラッシュがひっきりなしにたかれる中で、観客は舞台上のモデルたちを見上げながら、称賛し、ため息をつき、あるいは拍手を送ったりしてショーを盛り上げる。実に華やかで胸が躍るような色彩と光と夢に満ちあふれた催し物である。


ミラノでファッションやデザインを取材する時にいつも感じるのは、なぜこの小さな街がロンドンやパリやニューヨークや東京などの巨大都市と対抗して、あるいはそれ以上の力強さで世界をリードするデザインやファッションを発信して行けるのだろうかということである。 


ロンドンとパリは都市圏の人口がそれぞれ約1200万人、ニューヨークは1900万人もいる。東京の都市圏の人口3000万人には及ばないにしても、巨大な都会であることに変わりはない。それらの大都市に対してミラノ市の人口はおよそ130万人、その周辺部を含めた都市圏でもわずか390万人ほどに過ぎない。


もちろん人口数が全てではないが、人が多く寄ればそれだけ多くの才能が集まるのが普通だから、小さなミラノがファッションの世界で多くの巨大都市に負けない力を発揮しているのはやはり稀有のことである。


それは多分ミラノが都市国家の伝統を持つ自治体として機能し、完結したひとつの小宇宙を作って独立国家にも匹敵する特性を持っているからではないか、と考えられる。つまり、ニューヨークやパリやロンドンが飽くまでも国家の中の一都市に過ぎないのに対して、ミラノは街そのものが一国なのである。都市と国が相対するのだから、ミラノが世界の大都市と競合できたとしても何の不思議もないわけである。

 
ところで、秀れた才能に恵まれたミラノのファッションデザイナーたちが、新しい流行を求めて生み出す服のデザインは、まぎれもなく一級の芸術作品である。しかしその芸術作品は、どんなに素晴らしい傑作であっても、たとえば絵画や小説や音楽のように長く人々に楽しまれることはない。言うまでもなくファッションが、流行によって推移していく消費財だからである。


ファッションデザイナーたちは、一瞬だけ光芒を放つ秀れた作品(服)を作るために、絶え間なく努力をつづけていかなければならない。なにしろファッションショーは、一年間に女物が二回、男物が二回の計四回行なわれる。彼らはその度に、少なくとも数十点の新しい作品を作り上げていかなければならないのである。アイデアをひねり出すだけでも、大変な才能と精進が必要であることは火を見るよりも明らかである。


僕は、10年以上前に44歳の若さで亡くなった偉大なデザイナー・モスキーノが、ファッションショーで語った内容を決して忘れることができない。


モスキーノは当時のミラノのファッション界では、アルマーニやフェレやベルサーチなどと並び称される大物デザイナーだった。同時に彼らとは一線を画す、カラフルで斬新で遊び心の強い作品を魔法のように次々に生み出すことで知られていた。彼のファッションショーも、作り出された服と同じでいつもハチャメチャに明るく賑やかで、舞台劇を見るような楽しさにあふれていた。


ある日彼のショーを取材した後のインタビューの中で、ファッションショーの度に次から次へとアイデアが出るのには感心する、というような月並みな賛辞を僕はモスキーノに言った。するとデザイナーが答えた。

「ファッションショーは一つ一つが生きのびるか死ぬかを賭けたテストなんだ。この間何かの雑誌で読んだけど、日本の大学の入学試験はものすごく厳しいらしいじゃないか。ファッションショーもそれと同じだよ。しかも僕らの入学試験は、仕事を続ける限り毎年毎年三ヶ月に一度づつ繰り返されていく。ときどき辛くて泣きそうになる・・・」

 
駆け出しのデザイナーならともかく、一流のデザイナーとして既に揺るぎない評価を得ているモスキーノが、一つ一つのファッションショーを生きのびるか否かのテストだと言ったのが僕にはすごく新鮮に聞こえた。


季節ごとに一新される各デザイナーの作品(コレクション)は、必ずファッションショーで発表される。そしてそのショーの成否は服の売り上げに如実に反映される。モスキーノはそのことを指して、ファッションショーを生きのびるか否かを賭けたテストだと言ったのである。


ファッションは創作と販売が分かち難くからみついている珍しい芸術分野である。従ってモスキーノが、ファッションショーを生死を賭けたテスト、と言ったのは極めて適切な表現だったと僕は思う。


ミラノには日夜髪を振り乱して創作にまい進する多くのモスキーノたちがいる。だからこそ小さな都市ミラノは、世界中の大都市に対抗して今日も堂々とファッションの世界をリードしていけるのだろう。

 

 

 

 

文章のこと


 
ドキュメンタリーのリサーチや人々との連絡や情報集めなどに追われながらも、ミラノ近郊の自宅から市内にある事務所まで通勤する時間が節約された分、時間に余裕ができた。


自宅から事務所まではミラノ-ベニス間の
A4高速道路を使うが、かなり高速で車を走らせても40分ほどかかる。高速を降りてからの所用時間も含めると、どうしても往復2時間強になる。渋滞に巻き込まれたりするとさらに時間がかかってしまうのは言うまでもない。


自宅で仕事をしているとその時間がまるまる自由になる。そうなってみると、ただ物理的なものだけではなく気持ちにも余裕が生まれるようで、自由な時間がもっと多くなったような喜びを感じるから不思議である。


余裕の生まれた時間で、これまでそこかしこに書き散らかしてきた文章を見直してみようと考えている。


まず手はじめに雑誌や新聞に掲載された分から整理していこうと思う。大したものはないが、掲載された文章は全て字数制限の中で仕上げられている。

特に新聞の場合には雑誌に比べると字数が少なくなるケースがほとんどで、下手な寄稿者の僕のような人間の文章は、厳しい字数制限のおかげで曲がりなりにも引き締まったりする反面、本当に言いたいことが言えなかったり、書いた内容が舌足らずのまま終わったりすることも多い。

たまに読者から感想が寄せられて、自分の意図とは全く違う受け止められ方をしていることに気づき、愕然とすることもある。


僕は新聞や雑誌に寄稿する時は、まず初めに思いつくままをどんどん書き進めて行って、2稿、3稿、4稿、と字数制限の長さまで削っていく形を取っている。

新聞の場合の第1稿は、長い時は最終原稿の10倍程度の長さがある場合もざらである。


しかし雑誌の場合にはあまりそういうことはない。最初から字数制限を少し越える程度の長さにまとまることが多い。

雑誌では決められたテーマに沿って書くように求められていて、しかも内容もグルメだとかファッションとか旅やホテルなど、その時々の具体的なものごとを書き記すことが多いからだろう。

言葉を替えれば、雑誌の場合には自分の意見を書くのではなく、客観的な事象を記述して行くことがほとんどである。名のある作家やプロの雑誌記者などが書く記事は、おのずからまた別物だろうが、僕のような素人の場合には、現地にいる日本人の見聞記、程度の内容しか求められないことがほとんどである。


新聞は逆に、自分の意見や感想を自由に書くことができる。

極めて少ない字数制限の中に収まりさえすれば、多少の直しが入ることはあるものの、基本的に何を書いてもいい。

少なくとも僕はそういう形の短いコラムもここ何年か書かせてもらっている。それは南の島の新聞だから、自分が今住んでいるイタリアのことを書いても、できれば島に関連付けるなどして読者が親近感を持てるようにして欲しい、と言われてはいる。


しかしそれは建前で、内容やテーマにはほとんど制限がない。


そこで僕は好き勝手なことを書いてきたのだが、ほとんどの文章で欲求不満を覚えている。それはひとえに字数が少ないことから来ている。

字数を増やせば文章が良くなったり内容が自動的に深まったりするものではないだろうが、少なくとも言いたかったことを全てきちんと書きたい、という自分の不満は解消されるのではないか。

そうやって作業を続けて行くうちに、もしかするとこれまでどこにも掲載されることのなかった自分の小説、いや、「文学」を、友人二人を真似てここで発表したい気分になることがあるかもしれない 。そうなったら流れにまかせて漂ってみようと思う。なにしろ「ブンガク」あそびなんだから・・・

 


イタリア時間と島時間と

 


もはや旧聞に属する話だが、イタリア・アッシジのサンフランチェスコ教会の鐘の音を合図に、世界8ヶ国を衛星生中継で結んで、正月コンサートをしようというNHKの番組があった。

指揮者の小澤征爾さんが、イタリアの教会の12時丁度の鐘の音を合図に日本でタクトを振ると、中国、アメリカ、ドイツ、セネガル、イスラエル等の国々の楽団が一斉に演奏を始める。この時小澤さんのいる日本は午後8時、セネガルは午前11時、イスラエルは午後2時、ボストンは午前6時などと時差があるが、一斉に演奏を始めるタイミングはイタリア時間の昼の12時きっかりの鐘の音。

アッシジの中継現場にいた僕は、12時きっかりに合図を出して鐘を打たせる役割を担っていた。そこで1時間ほど前からリハーサルを繰りかえした。生中継でもリハーサルは欠かせないのである。いや、むしろ生中継だからこそ、リハーサルは普通の番組作りよりももっと重要になる。

合図で鐘がうまく鳴り出すようになったのが本番20分ほど前。そこで世界各地を結んで時刻合わせをした。ところがイタリアの時間だけが53秒ずれている。慌てて言わばNTTの117にあたるここの標準時報台に連絡した。するとそこもやはり53秒遅れていた。まさかと思って何度も確認するが結果は同じ。

衛星信号を経由するパリと東京に連絡を取った。2国はぴったりと時間が合っている。他の国々も同じ。つまりその年、1995年1月1日のイタリア時間は、グリニッジ世界標準時から、53秒ズレて動いていたのである!

僕はイタリア時刻を無視して、パリと東京がそれぞれ12時と20時を打った瞬間に鐘にゴーサインを出した。そうやってコンサートは無事に始まり、番組も無難に終わった。もしあの時イタリア時間に合わせて鐘を打っていたら・・と考えると、今でもぞっとする。


それは少し極端な例ではあったが、イタリア人は良く言われるように時間に対してけっこうアバウトな感覚を持っている。彼らが5分待ってくれと言えばそれは20分とか30分であり、1分待ってくれと言えばそれもやっぱり20分とか30分である場合がほとんどだ。


どこかの家に夕食を招待されたりする時も、言われた時間より遅れて行くのが礼儀、という考え方さえある。要するに招待する側もされる側も、あくせく時間にこだわらない、という暗黙の了解があってそういうルールができているのである。


招待された側が時間通りにきちんと現れれば、招待した側はこれに応えるためにあくせく準備作業に精を出さなければならない。逆に招待する側が時間に厳しくこだわれば、招かれた側は万難を排して、急いで準備をし行動を起こして訪問先に姿を現わさなければならない。


イタリア人はそういうきっちりとした動きに余り価値を見出さないところがある。のんびりやろうよ、というのがそういう場合の彼らのキーワードである。それってけっこう沖縄あたりのいい加減な島タイムの感覚に近い。


そう、時間に対するラテン民族の大らかさは、テーゲー(大概、アバウト、いい加減)な南の島の時間感覚に似ているのである。


しかし、島時間がいかにトボけたいい加減なものであっても、公共の時報が1分近くも遅れるなんてあり得ない。


そうして見ると、イタリア時間こそ究極の本物・大物のテーゲーなのかもしれない。


マフィアの亡霊~選挙~




シチリア島は紀元前のギリシャ植民地時代に始まり、外からの大いなる力によって支配され続けた

 国(島)を乗っ取られて迫害を受けたと感じた人々は、列強支配への反発から島民同士で結束し、かたくなになり、時間経過と共にさらに団結を強化して行った。

その団結の要としてマフィアという秘密結社が形成されて、人々を保護したという説がある。その主張には一面の真実がある。マフィアは当初から犯罪組織として存在したのではないのだ。

 しかしマフィアは支配者への抵抗組織という顔を持つと同時に、時間の経過と共にシチリアの中で支配者とは関係なく存在してきた、シチリア社会だけの必要悪でもあったと考えられる。

マフィアは麻薬密売や恐喝や賭博などの犯罪に手を染める一方で、土建業に始まるシチリア島の多くの産業に入り込み、雇用を通して人々を支配し、彼らの票を一手に握って政治家をも支配する。

それはたとえば日本の片田舎で、発展する都会の富に全く浴さないと感じた人々が、土地の山を切り開いたり、施設や道路を作ったりする土建業者にぴたりと寄り添う心理と極めて似通っている。

マフィアは殺人や麻薬密売やテロに手を染める犯罪シンジケートである前に、土地開発にまつわるあらゆる利権を握っているシチリアの有力者、あるいは権力者とも呼べる存在なのである。  

「政治は生活なり」という感覚は都会人には良く分からない。しかし東北や山陰等々の片田舎や奄美・沖縄等の離島に行けば、町長選挙や村長選挙が直接に生活に結びついている構図が日本にもいくらもある。

就職先のない貧しい田舎の人々にとっては、A候補を支持し、A候補が当選することは死活問題である。なぜならばA候補が当選したあかつきには、村役場や施設 で息子や娘が仕事を得るからである。

あるいはA候補を通して公共事業が導入されて、仕事が生まれるからである。そしてその場合には、A候補を支持した者により多くの仕事 が行くのは、火を見るよりも明らかである。

それと同じようにマフィアは建設会社を経営し、建設会社を通して村人を支配し、村人の票を一手 に握って政治家を支配し、その単純な構図をさらに拡大してイタリアの国政にまで入り込んでいる。

そこまでは日本の土建業者や米農家を一手にまとめる村会議 員と何ら変わるところはない。シチリア島は、基本的に土建業者であるマフィアに生活の糧を握られている、巨大なムラ社会なのである。

土建業 者であるマフィアは、そこで儲けた金を元手にあらゆる事業に進出して、ますます強くなった。強くなるためには殺人を犯し恐喝をし無差別殺戮の爆弾テロにま で手を染める。

事業は麻薬密売、売春、密貿易とどんどんエスカレートして、巨大犯罪組織としての側面がふくらんでいくが、貧しい村や町の人々の生活に密接 に関わっている土地の土建業者あるいはこわ持ての有力者、という基本的な立場は少しも変わることなく保ちつづけている。

もっと言えば、シ チリアの人々の生活を助けてくれるのは、ローマの政治家に代表される大陸(シチリア人はイタリア本土を良くそういう風に呼ぶ)の力ではなく、その土地土地 のマフィアの男たちなのだ、と人々に思いこませるだけの力を保持している。

そこがシチリアにおけるマフィアの強さであり、マフィアとはシチリア島そのものだと僕が感じるゆえんである。

 シチリアのマフィアはシチリアの人々のメンタリティーが変わらない限り根絶することはできない。同時にマフィアが征服されない限りシチリアの人々のメンタリティーは変わらない。マフィアはそれほど深く広くシチリア社会の中に根を張っている。

マフィアの起源についてはいろいろな説があるが、元々はシチリア島西部に起こった、支配者フランスへの抵抗組織だという説が有力である。というよりも、シチリアの多くの人々がそう信じたがっているようである。

 その説に従えば、MAFIAという名も「Morte Alla Francese Insurrezione Armata」(武器を持って立ち上がれ。フランス人に死を!)」の頭文字を取ったものだということになる。意味は通じるのである。

ま た同じような解釈で「Morte Alla Francese Indipendenza Autonomia」(フランス人に死を! そして独立と自治を)、あるいは 「Morte Alla Francia Italia Anela(フランスに死を、これはイタリアの叫びだ)」の略語という説もある。

そうした解釈は、マフィアに少なからぬ連帯感を持っている人々のこじつけのような気が僕はする。第二次大戦時のナチスに対するフランスやイタリアのレジスタンス運動に似せて、マフィアをシチリアの民衆の味方として位置づけようとする作意が感じられるのである。

マフィアの持つおどろおどろしいイメージや実態には、むしろ次の二つの説のほうが良く似合う。一つは大昔シチリア島のパレルモ地方を支配していたアラブの種族「 Ma Afir(マ・アフィル)」から来ているという説。 またもう一つは、フランス兵に娘を殺された母親がシチリア方言で「Ma Figlia! Ma Figlia ! 」(娘よ、娘よ)と泣き叫びつづけたことから来るという説である。 Ma Figliaはシチリア訛りの発音では「マフィア」とほとんど区別がつかない。

西洋人がアラブ人に抱く不気味なイメージ、そして哀れなシチリアの農婦が娘の亡骸を掻き抱いて号泣する図。そうした不可解な感じ、土着的なもの、悲哀、古代の粘着感・・・のようなものがマフィアの本質であって、決してレジスタンス運動のような英雄的な、しかもある意味で近代的な思想や歴史を持つ男たちの集合体ではなかった、と僕は思う。

いずれにしても、それらの説には一つだけ重大な共通点がある。つまりどの説も支配され、蹂躙されつづけたシチリアの人々の悲劇や怨念や復讐心や詠嘆を背景にしてマフィアが生まれた、と主張している点である。

それは前述したように恐らく正しい。前近代的な様相を持つシチリア社会は、以後少しづつ変化をしながらも基本的には巨大なムラ社会であり続けている。

その最も象徴的な事例が、選挙でマフィアに支配されていても疑問を感じない、あるいは疑問を感じていない振りをする、旧態依然とした人々の行動心理であり島社会の在り方なのである。


マフィアの亡霊~オメルタ~


北欧系の人々が、美しい国と呼ぶことが多いイタリアも、世界中のあらゆる国と同じように多くの問題をかかえている。

たとえばイタリア共和国の持つ多面性は大きな美点と考えられるが、時として意見の不一致という弊害をもたらして政治不安を招き、国としてのまとまりが弱くなるという欠点もさらけ出す。また古くて新しい問題である南北イタリアの経済格差も健在である。あるいはイタリアの伝統産業を支えてきた職人の極端な後継者不足など、多くの先進国に共通する問題も抱えている。

中でももっとも知られているのはシチリア島にはびこるマフィアの問題ではないかと思う。

僕はシチリア島にたくさんの友人がいて、ロケ撮影やリサーチなどの仕事のほかにプライベートでも良く島を訪ねる。シチリアにはドキュメンタリーにしたい題材が多いが、一番魅力的なテーマはなんと言ってもマフィアである。しかし僕がこれまでにシチリア島で取材したドキュメンタリーも、また今後ロケをするチャンスをうかがっている作品も、今のところマフィアとは直接には関係がない。

それでいながら僕は、シチリアで何かの作品を制作することは、どこかで既にマフィアを描くことにつながっていると考えている。なぜならマフィアとはシチリア島そのものだからである。

シチリアの島民の全てがマフィアとかかわっているという意味ではもちろんない。それどころか彼らは犯罪の被害者であり、誰よりも強くマフィアの撲滅を願っている人々である。

それでいながらシチリアの島民は、恐怖と誇りという二つの強烈な感情の鎖で心をがんじがらめに縛りつけられているために、結果としてマフィアに協力してしまう形になることさえある。

マフィアにはオメルタ(沈黙)という鉄の掟がある。組織のことについては外部の人間には何もしゃべってはならない。裏切り者はその家族や親戚や果ては友人知人まで抹殺してしまう、というすさまじいルールである。オメルタは長い間に村や町や地域を巻き込んで、最終的にはシチリア島全体の掟になってしまった。

シチリアの人々はマフィアについては誰も本当のことをしゃべりたがらない。しゃべれば報復されるからだ。報復とは死である。人々を恐怖のどん底に落とし入れる方法で、マフィアはオメルタをシチリア島全体の掟にすることに成功

しかし、恐怖を与えるだけでは、マフィアはおそらくシチリアの社会にこれだけ深くオメルタの掟を植えつけて行くことはできなかった。シチリア人が持っているシチリア人としての強い誇りが、不幸なことにマフィアへの恐怖とうまく重なり合って、オメルタはいつの間にか抜き差しならない枷(かせ)となって人々にのしかかっていったのである。

シチリア人は独立志向の強いイタリアの各地方の住民の中でも、最も強く彼らのアイデンティティーを意識している人々である。それは紀元前のギリシャ植民地時代以来、ローマ帝国、アラブ、ノルマン、フランス、スペインなどの外の力に支配され続けた歴史の中で培われた。列強支配への反動で島民は彼ら同志の結束を強め、かたくなになり、シチリアの血を意識してそれが彼らの誇りになった。

シチリアの血を強烈に意識する彼らのその誇りは、犯罪のカタマリである秘密結社のマフィアでさえ受け入れてしまう。いや、むしろそれをかばって、称賛する心根まで育ててしまうことがある。なぜならば、マフィアもシチリアで生まれシチリアの地で育った、シチリアの一部だからである。

かくしてシチリア人はマフィアの報復を恐れて沈黙し、同時にシチリア人としての誇りからマフィアに連帯意識を感じて沈黙するという、巨大な落とし穴にはまってしまった。

そうした現実は、イタリア人を含むシチリア島以外の世界中の人々が、島や島人をマフィアそのものと見なしてしまう態度になって彼らにはね返り、シチリアの人々をさらにかたくなにしていく。かたくなになって、彼らはマフィアに関してはなお一層口をつぐんでしまい、マフィアはいよいよそれに助けられる、という悪循環にあえいでいるのがシチリア島の今の状況である。

マフィアはシチリア島の現実だが、島民を含む世界中の人々の恐怖心と嫌悪と怒りによって拡大解釈され、とめどもなく膨れあがって、ついには制御のきかなくなったいわば亡霊のような側面がある。

僕は冒頭で、マフィアとはシチリア島そのものである、と言った。それはシチリアの置かれた特殊な環境と歴史と、それによって規定されゆがめられて行った、シチリアの人々の心のあり方を象徴的に言ったものである。

もう一度冒頭の自分の言葉にこだわって言えば、マフィアとはシチリア島そのものであるが、シチリア島やシチリアの人々は断じてマフィアそのものではない。島民の全てがマフィアの構成員でもあるかのように考えるのは、シチリア島にはマフィアは存在しない、と主張するのと同じくらいにバカ気たことである。







日伊、ダメ首相が行く


ベルルスコーニ伊首相が未成年者買春容疑で起訴された。
 
これまで多くの失言やスキャンダルで物議を醸してきた男だが、持ち前の明るさと機知と権謀術策で難局を逃れてきた。が、今回の少女買春スキャンダルは様相が違う。国民は厳しい目を向けていて、特に女性の怒りは大きい。今月半ばには首都ローマを含む230の街で女性による糾弾集会が一斉に行われ、参加者は優に100万人を超えた。同じ日にはフランスでも抗議デモが起きている。
 
イタリア内外から厳しく指弾されている同氏だが、僕はそれらの真っ当な非難に同調しながら、一方で彼の存在をとても面白く思って眺めてもいる。
 
ほとんどノーテンキとも言える脇の甘さで各方面から攻撃されながらも、彼は1994年以来3回も首相になり、在任期間の合計は8年を超えて、イタリア憲政史上で戦後最長になった。
 
国民は時にはあきれ、怒ったりしながらも、まるでイタリア人気質のカタマリみたいな奔放で明るい性格の男を愛し、支持し続けてきた。また彼を首相の座から引きずり下ろしても、代わりの人材が皆無、というイタリア政界事情も長期政権維持につながった。
 
人材不足という点では日本の政治環境もよく似ているようだが、わが国の現職総理には、イタリア首相の政治手腕もカリスマ性も人間的な面白みもないばかりか、失言癖でさえ国際的にも話題になるような大放言の類ではなく、ベルルスコーニのそれと比較すると、いかにも器の小さいちまちましたものだからがっかりである
 。
 
政権維持が風前の灯火のように心細くみえる今、どうせなら管総理もノーテンキなイタリア首相にならって、国民を驚かせるようなパフォーマンスの一つもかましてから退陣をして欲しいものである。
 
例えば普天間基地を、米本土のワシントンかニューヨークに移設しろ、とオバマ大統領に迫って、拒否されたから抗議の意味で政権を投げ出します、というぐらいのパーフォーマンス。
 
管さんが辞めても日本国の大勢に影響は無いのだし、普天間基地も永久に今の場所から動きそうにないのだから、せめてそれぐらいやって国民を楽しませてくれ。

カンバン

フリーになったのはいいが、番組制作はまだできずにいる。体調を崩したこともあるが、もっと大きな問題がある。撮影機材のことである。

ハイビジョンカメラがイタリアにはない。いや、あることはあるのだがまだまだ一般的ではない。それなりの品質の機材はレンタルをするにも値段が高い。以前に比べればずいぶんと安くなったが、僕のようにカメラを長く回し続けるスタイルの撮影では金がかかり過ぎる。採算が合わない。

事務所を出してすぐの頃にベータカムカメラを買った。それもカメラをしつこく回す自分のスタイルがあったからである。レンタルをしていては金がかかり過ぎるから、思い切って買ったのである。 もちろん銀行から金を借りた。ついでに簡単な編集機材も手に入れた。カメラを多く回せば撮影テープも増えて、編集にも時間と金がかかる。オフライン(予備)編集ぐらいは自分の事務所でやらないと、編集スタジオの支払いだけで制作予算の大半が吹っ飛んでしまいかねない。

その作戦はうまく行って、カメラを含む撮影機材も編集機材も割と早めに減価償却を済ませて、機材を新しくしたり増やしたりする余裕さえ生まれたこともあった。

ならばハイビジョン機材もそうすれば良いようなものだがそうはいかない。値段のケタが違うし、ハイビジョン仕様が一般的ではないから、編集機材も少ない。それもまた自分で買わなければならなくなりそうだ。とてもじゃないがそんな金はない。もしあったとしても、フリーになった今はそんな気分にはなれない。機材が一般的になってレンタル料金も安くならなければ今は動き出せない。あるいは値段がもっと安くなって自前で買えるようになるか・・。 

撮影機材や編集機材を自前で持つメリットは、安上がりというだけではない。企画を売る前から番組の撮影を始めて、素材をストックしておくという離れ業もできる。そんなことは一介のフリーランスのディレクターには中々できない。なぜなら撮影には機材のレンタル料はもちろん、カメラマン以下のスタッフの人件費や宿泊・飲食費などなど、多くの費用がかかる。しかも企画が通る前の撮影だから、企画が売れなかった場合はまるまる損になる。自分の事務所があって機材もそろえていたりしなければ、簡単にはできない。

ドキュメンタリーを作りつつ、多くの報道番組の撮影などもこなしてムチャクチャに忙しくしていた頃は、数年に一本しか作らない映画監督を羨みつつ「カンバン倒れだ」などと思ったりもした。ほとんどロケに出かけない今は自分が「カンバン倒れ」のようなものだが、ディレクターのカンバンを下ろさないのはまだ作りたい番組があるからである。

そのうちの一つはイタリアの漁。日本ほどではないが、半島国のイタリアには多くの漁法がある。僕はアルプス山中からパンテレリアという地中海の島までの漁法をずっと調べていて、いつか番組にしたいと考えている。それは自分の中では、90年代半ばに「NHKスペシャル」のために作ったシチリア島の「フェルーカ漁」の流れを汲むもので、今はなくなった漁法も含めて少しづつリサーチを続けているのである。

沈み行くベニスも取り上げたい。ベニスは短い撮影も含めて何度も取材をしてきた。かつてNHKの衛星放送でミラノのフアッションショーの取材を担当していた頃や、WOWOWの番組制作にたずさわって主にミラノに張り付いていた頃などを除けば、ベニスはもっともひんぱんに取材に訪れた街である。高潮問題についても何度か取材したが、ある程度の長さになるきちんとした番組はまだ制作していない。

ベニスには映画も含めて世界中から撮影隊が訪れる。でもそれはほとんどの場合、いわばベニスを通りすがりに取り上げる、という類いの撮影であるように思う。自分が何度も取材をした時もそんな形である。僕は沈み行くベニスを、実際にベニスに住む人々の目線で描いてみたいと思っている。自分が知る限りまだそういう視点でのドキュメンタリーはないようだが、例えあったとしても、イタリア在住の利点を活かして自分スタイルでしつこくカメラを回してみたいと考えている。

実はそのコンセプトで、僕は馴染みのカメラマンとスタッフを連れて、一度ベニスの撮影を始めた。まだ企画も出していなかったが、すぐにはモノにならなくても必ずなんらかの形で一本の番組に仕上げる自信があった。万一ダメでも、高潮に見舞われたベニスの映像は、有りネガとしてストックをしておくだけの価値はあった。ところがそこにハイビジョンの問題が出た。自前のベータカムカメラで回した素材は、将来余り使えない可能性が高くなった。それで撮影をストップした。

今はそういう状況である。でも焦りは少しもない。ここまで走ってきた分のんびりと構えて、リサーチを続けながら機会を待とうと思う。作りたいテーマはたくさんあるのである。作りたい情熱が持続するかどうかは別にして。

情熱、とはまた大きく出るようだが、ドキュメンタリー番組作りなんて心身ともに疲れ果てるきつい、厳しい、気が張るの3K仕事だから、面白がったり熱中できたりする部分がないと中々うまく続けられない。僕はそれをちょっと大げさに「情熱」と呼んでみたりしている。

情熱がなくなったらその時に「ディレクターのカンバン」を下ろそうと思う。もっとも下ろさなくても、情熱がなくなれば僕の中では、テレビ関連のあらゆる仕事は終わるのだけれど。

 

 

再出発



先日、ミラノの事務所を閉めた(法律上。仕事場としてはしばらく維持する)。自分では個人事務所のつもりでいたが、形態は有限会社でやってきた。米粒のように小さな番組制作プロダクションである。

小さいながらいろいろ仕事をやってきたから、感慨はある。

感慨とは少しの未練と大きな安堵である。

未練は80年代終わりからやってきた時間の中での、いわば「慣れ」が無くなることに対する心残り。

安堵は会社のしがらみから開放されて、元のフリーランスのテレビ屋になったことである。

テレビ屋にはいろいろあるが、僕の仕事は映像ドキュメンタリーを作ることである。

僕は東京の大学を卒業した後にロンドンの映画学校で学び少しの仕事もして、日本に帰っていわゆるフリーのテレビ・ディレクターになった。日本では主に米国向けの報道番組を作った。英国で学んだことがそこでは役に立った。アメリカに来ないかと請われて、ニューヨークで2年程仕事をした。

その間に米公共放送PBSの番組制作で、まぐれ当たりに「Monitor Awards」

(日本の新聞などでは国際モニター賞と訳されていたと思う)のニュース・ドキュメンタリー部門の最優秀監督賞というものをもらった。それは番組制作のスタッフ、つまりテレビの裏方である僕らテレビ屋の為の賞で、僕はそれまで存在さえ知らなかったから、わけが分からずに目をシロクロさせていた。が、後にイタリアに移った時に、受賞は少なからず役に立った。人生ではまったくもって何が起こるか分からない。


この国に渡って来た当初、僕はイタリア語もうまく話せず、仕事の経験も人脈もほとんどなかった。アメリカで作った自分の作品のデモテープを手に放送局やプロダクションを回り、懸命に仕事を探したが、そんな時には受賞作のテープが役に立った。すぐに仕事があるわけではないが、テープを見て皆真剣に話を聞いてくれた。NHKのローマ支局やパリ総局とも僕はそうやってつながりができて、後にはそれは東京にも広がり、NHKには散々お世話になることになった。

新天地で若さにまかせてがむしゃらに走るうちに、機会があって僕はミラノに事務所を構えることができた。

事務所を出してからも、委託を受けてNHKの番組制作やWOWOWなどの番組作りにも手を染めていたが、撮影機材を入れてスタッフも増えたあたりから、いわゆるコーディネーターの仕事も多く舞いこむようになった。

コーディネーターとは簡単に言えば、番組制作の手伝いをするプロのことである。僕の事務所の場合は、イタリアにいて日本からの依頼を受けてリサーチやロケハンやロケそのものの手伝いをする。当然日本人ならイタリア語ができなければならないし、逆にイタリア人なら日本語ができなければ仕事にならない。日本のテレビが外国ロケをする場合には、必要不可欠な存在である。

もっと言えば、コーディネーターがいなければ外国ロケはまず成立しないと考えてもいい。極めて重要な役割であり、れっきとしたキャリア仕事である。コーディネーターとしてりっぱに独立して食べている日本人は、イタリアはもちろんアメリカにもイギリスにも世界中に多い。

重要な仕事であると同時に、コーディネーターにはアシスタントディレクター、つまり助監督という側面もある。そこで僕は初めから積極的にコーディネーターの仕事も受けた。というのも、僕はスタッフがその仕事をこなすことで、助監督としての腕を磨くことができる、と考えたからである。助監督になれれば監督、つまりディレクターまではもうすぐである。

ところが、そうはうまくは行かなかった。コーディネーターとして仕事をしてくれた全てのスタッフは、ディレクターにはなれなかった。あるいはならなかった。明らかにディレクターとしての資質を持つ者もいたが、そういうスタッフに限ってイタリアで別にやりたいことがあって、結局その道に進んでいった。

ディレクターとコーディネーターの違いは、敢えてひと言で言ってしまえば、番組のアイデア或いは企画をひねり出せるかどうか、ということである。全てが同じではないが、フリーランスのディレクターは基本的に自分で番組のアイデアや企画を考えて、テレビ局や制作プロダクションなどに売り込む。

つまり何もないところから出発するのがディレクターであり、企画があって番組制作の骨子があるところに「手伝い」に行くのがコーディネーターである。

ディレクターの僕から見ると、それは少し物足りない。できれば自分で企画を考えて番組を作りたい。最初は一、二分の報道番組でもいい。自分のアイデアが受け入れられて番組になる喜びを、スタッフにもぜひ味わって欲しい。それはおこがましく言えば、「創造する喜び」である。「創造の手伝い」をすることとは少し違う。

実はそれは事務所の経営上も重要だった。なぜなら企画が受け入れられるとは、仕事が発生するということだから。

コーディネーターは仕事が入って来るのを待つだけだが、ディレクターは自ら仕事を生み出すことができるのである。

僕一人のささやかな企画だけではなく、スタッフも企画が出せれば仕事はもっと増えるし、仕事の内容ももっともっと面白くなるはずである。

しかしほとんどのスタッフはあまりそのことには熱心ではなかった。

事務所に仕事を求めて応募してくる日本人は、単身イタリアに渡ってくるだけあって優秀な人ばかりだった。またイタリア人も、どちらかと言うとこの国ではマイナーな外国語である日本語を流暢に話すくらいだから、優秀でないわけがなかった。

しかし、独自にアイデアを考えて、企画に仕上げる作業はしんどいことだし、情熱もいる。

結局、番組制作が何よりも好き、という基本的な心持ちがないと無理だった。

事務所は僕が作る番組やロケ、またスタッフがこなしてくれるコーディネートの仕事で問題なく前に進んだ。しかし僕はあまりハッピーではなかった。というのも、仕事の比重がだんだんコーディネートの方に傾いていき、ここ数年は僕自身が作る番組やロケの機会も少なくなって、事務所がすっかりコーディネーター会社のようになってしまった。僕自身もコーディネーターの仕事をしなければならないことも多くなった。

仕事が回っていればそれはそれでいいことである。だが僕はやっぱり企画から出発する番組作りをしたかった。コーディネート会社のオヤジ社長でいるよりも、カメラマンを始めとするスタッフと共にロケ現場で駈けずり回る仕事が好きだった。

少し体調が良くなかった機会を捉えて、僕は思いきって事務所を閉める決意をした。

そうやって僕は元のフリーランスのディレクターになった。


 

ブンガクあそび



人生初めてのブログ参入。

大学時代の友人二人が、すっかりオヤジになった今になって小説を書き出すという。いや、一人はもう大分前から書いていたらしい。僕はそのことにひそかに心を動かされた。

触発されてこのブログを始めることにした。

僕も小説家を夢見たことがあった。大学を卒業してロンドンの映画学校で学んでいた頃、小説新潮という文芸誌の月間新人賞佳作というものに選ばれて、有頂天になったこともある。月間賞の佳作なので作品そのものは雑誌には掲載されず、佳作受賞の知らせのみが載ったが、賞金というか原稿料がちゃんとロンドンまで送られてきた。確か2万円か3万円だったと思う。

僕はロンドン中のありたけの友人を呼び集めて、安ワインを大量に買って、お祝いに飲んで大いに騒いだ。いっぱしの作家気分だった。

僕の若さはバカさだったとつくづく思う。でも自分では面白がっている。それでなければ、今さらこんなブログなんか始めない。

その短編小説の後は泣かず飛ばず。文学雑誌に掲載された作品もあったが、ほとんどが原稿のままホコリまみれになっただけだった。僕はその頃映画制作の勉強に夢中になっていた。またロンドンの学校を終わってからは、プロとしてテレビドキュメンタリーや報道系番組の制作に一生懸命になった。だから余り書く時間がなかった、と後には友人たちに話した。それはほんの少しだけ真実だが、多くは嘘である。要するに才能がなかったから、書かなかった或いは書けなかっただけの話だ。

イギリスから日本に帰り、すぐにアメリカに行って次にはここイタリアへと移り住みながら、僕は忙しくテレビの仕事をしてきた。その間には本を出さないかという話もあって、時間を見つけて懸命に原稿を書いたがボツになった。日伊比較文化論のような、いかにもつまらない内容の雑文だった。その後、同じような趣旨で書かないかともう一つの話もあったが、こちらは原稿さえ書き上げられないまま長い時間が経った。

その間には雑誌や地方新聞にエッセイのようなコラムのような雑文記事を結構書いたが、小説はまるで世に出なかった。少しだがひそかに書いてはいたのだ。やがて諦めた。数年前から地方新聞に超短文のコラムなどを書いたりはしている。

そんな折、友人二人の決意を知った。僕らは東京の大学の文学部に籍を置いたかつての文学青年である。それにしても今になって彼らが小説を書き出すとは思いもよらなかった。文学オヤジの登場に僕はびっくりして、そして喜んだ。

僕は「今のところは」小説を書く気はない。モノにならないことが分かったから。でも文学ならやってもいいと思っている。ただし、ここで言う文学とは、僕が勝手に考える文学で深刻な意味はない。

つまり僕は金のもらえる小説だけを「小説」と呼んで、雑文を含む残り全てを「文学」と考えてみたのである。「文学」を「ブンガク」と表記してもいい。言葉を替えればプロの文章とアマチュアの文章。

アマチュアの文章にもすごい作品はある。例えば最近目にしたNHKの「カシャッと一句!フォト575」の俳句などはその一つだ。僕はたまに衛星放送でその番組を見て舌を巻いたりしている。素晴らしい作品も多いが、作者の皆さんはプロの作家ではないようだ。少なくともあそこで紹介される作品で金銭報酬は受けていないはずである。

そんな域には達せずとも、好きなことを好きなように書く「文学」を友人二人にならって僕も始めることにした。彼らは「小説」書き、つまりプロの物書きを目指す計画らしい。僕はそんな才能も勇気もないので、誰か読んでくれるかどうかも分からないこのブログで、書きたいことを書くことにした。

それでも結構ワクワクしている。なにしろ自分では「文学」・・いや「ブンガク」であそぶつもりだから・・・

記事検索
月別アーカイブ
プロフィール

なかそね則

カテゴリ別アーカイブ
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ