【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2011年10月

飛び石連休ってなに?



イタリアには飛び石連休というケチなつまらないものは存在しない。

 

飛び石連休は必ず「ponte:ポンテ」つまり「橋」または「繋(つな)ぎ」と呼ばれて「全連休」になる。

 

要するに、飛び飛びに散らばっている「休みの島々」は、全て橋で結ばれて見事な「休暇の大陸」になるのだ(笑)。

 

たとえばこんな具合:

 

来たる11月1日はカトリック教会の祝日の一つ「諸聖人の日」。日本では万聖節(ばんせいせつ)」とも呼ばれるこの日はイタリアの旗日である。

 

11月1日は火曜日。そこで土、日の休みに挟まれた10月31日の月曜日を何のためらいもなく、当たり前に、大喜びで、拍手喝さい、太っ腹に休む。

 

今回の場合は残念ながら飛び石の間のウィークデーは1日だけだが、挟まれている平日が2日でも3日でも構わない。とにかく全部休んじゃえ、という風になるのがイタリア的な発想である。

 

そればかりではなく、飛び石を橋で繋(つな)いで全連休にした後で、前後を見回して可能ならば連休の前の日や後の日もまた休んでしまう、ということもひんぱんに起こる。

 

次の「ポンテ」の例で言う。

 

「諸聖人の日」の翌日の11月2日は、カトリック教会で全ての英霊のために祈りを捧げる「死者の日」と呼ばれる祭礼日。教会のみならず、墓地に足を運んで祈りを捧げる人も多い。

 

公休日ではないが「えい、休んじゃえ!」と、この日もまたいさぎよく休む輩(やから)が出るのである。

 

ひとことで言えばイタリア人は、何かのきっかけや理由を見つけて「なんとしても休む」ことを虎視眈々とねらっている。休みという喜びを見出すことに大いなる生き甲斐を感じている。

 

それを「怠け者」と言下に切り捨てる見方もあるだろう。が、僕にはそれは、人生を楽しむ達人たちの行動規範、という風にしか見えない。

 

あるいは、ま、いわば「人間賛歌」の大合唱。

 

長い夏休みやクリスマス休暇、あるいは春休みなどとは全く別に、イタリアではそうしたことが、一年を通して当たり前に起こっている。

 

ちなみに今日10月29日から始まる連休には、およそ700万人のイタリア人が旅行に出かけると見られ、そのうちの10%が国外に向かう。そしてその経済効果は約20億ユーロ(2200億円内外)と試算されている。

 

試算された額が多いのか少ないのかは良く分からないが、ぐんと寒くなった今の時期に、冷気などものともせずに700万人もの人々が一斉に旅行に出かける図は、椿事(ちんじ)と形容してもいい楽しい出来事ように僕には思える。

もっともイタリアに住んでいる者がそれしきのことで驚いていたら、身が持たないし体幾つ
あっても足りない、ということになるのだけれど・・

 

 

 

ムタシム・カダフィの無念



10月22日土曜日、イタリアきってのQuality Paper(高級紙・全国紙)「コリエーレ・デッラ・セーラ」は、カダフィ大佐の5男ムタシム・カダフィの殺害直前の写真を、一面に大きく掲載した。

 

それはジーンズに血まみれのランニングシャツを着、ミネラルウオーターのペットボトルを持ったムタシムが、マットレスに座って敵(拘束者)を見つめている絵だった。

 

蓬髪にびっしりと生えた無精ひげ。痩せた精悍な顔と体つき。でもなぜか気弱い青年の雰囲気もかもしだしている。

敵意むき出しの拘束者に囲まれた彼の恐怖心が、隠す術もなく表に出てそんな気配になったのだろう。

 

さらに同紙のクローズアップ欄の本編記事では、一面の写真からの連続のシーンで、ムタシムがボトルから水を飲む様子と、撃たれたか切りつけられたかしてマットレスに横たわっている写真が三枚続きで載せられ、そのうちの最後の写真は今まさに息を引き取ろうとする瞬間か、あるいは既に息を引き取った後らしい絵だった。

 

新聞写真はネットなどに流れている映像の一コマづつを転載していた。そのせいかどうか余りむごたらしい感じはないが、一連のシ-ンをビデオのオリジナル映像で見ると、写真とはまるっきり違う印象を与える中身になっている。

 

ムタシム・カダフィが、秘密警察のトップとしてリビア人民を弾圧した罪は厳然としてあるものの、拘束された彼のビデオの様子は、1人の青年が狭い部屋に閉じ込められて虐待され、やがて無残に殺される恐怖の舞台劇以外のなにものでもなく、殺害の瞬間そのものの映像は編集カットされて掲載されていないが、極めて胸が痛む内容であり、哀れである。

 

ムタシム・カダフィは、陥落間近いリビアの首都トリポリでNATO軍に殺害された弟のサイフ・アルアラブに言及して、(元)恋人のタリタ・ヴァン・ゾン<独裁家族の金の行方>にこうも言っているのだ。

 

「僕は弟をうらやましく思う。彼は殉教者として死んでいったのだから・・」

 

兄弟の死を「殉教死」と規定した彼は、弟と同じように英雄として死ぬことを望んでいたのではないか。

 

彼が深く愛する父カダフィ大佐に殉じ、彼にとっての「愛国」リビアに殉じる形で、戦い抜いて死んでいくことを。

 

胸が苦しくなるような殺害直前と直後のムタシムの映像を見ながら、僕は彼の無念を思った。

 

戦闘の中で死ぬのではなく、捕らえられて束縛され、虐待を受けつつなす術もなく屠殺同然に殺されていく、彼の心の強い無念を・・・

 

独裁家族の金の行方




カダフィ大佐と息子のムタシムの拘束、殺害にまつわる生々しい映像が世界中を駆け巡り、その是非について喧喧囂囂(けんけんごうごう)の議論が逆巻く中、リビアの反カダフィ派・国民評議会は、10月23日、東部拠点のベンガジで祝賀式典を開き、全土の解放を宣言した。

 

カダフィ後のリビアの国づくりは、順調にいけば国民評議会を中心にして進み、それは多くのメディアや人々によって格調高く語られていくだろう。

 

僕もリビアにはずっと関心を払っていくつもりだが、ちょっとしたゴシップ調の視点も忘れずに見ていこうと思う。もはやこの世にはいない大佐だが、醜聞まみれの独裁者とその家族の動向は、今後のリビアを語る上でも欠かせない要素のように見える。

特に石油マネーを主体とする莫大な国の資産を、家族総出でせっせと盗み続けた実態を検証するのは、かなり重要なことなのではないか。

 

カダフィ大佐の5男(腹違いの長男から数えて)ムタシムが拘束されたらしい、という情報が流れて一週間が過ぎた10月20日、彼は父親と共に殺害された。

 

ムタシムは元国家安全保障局のボスとか同補佐官などと言われてきたが、要するにリビア秘密警察の最高権力者ということだったのだろう。つまり、リビア民衆を徹底弾圧した現場責任者。最も恐(こわ)持ての男。

 

それでいながら彼は、パーティーや乱痴気騒ぎが大好きなプレイボーイでもあったらしい。

 

ムタシムはカリブ海の島で贅沢三昧の年越しパーティーを開き、アメリカの歌手のビヨンセやアッシャーなどの著名人を招いてドンちゃん騒ぎをやらかしたかと思うと、プライベートジェットで乗り込んだロンドンやパリの一流ホテルの何階かを借り切って、世界中から友人を招待して宿泊させ、連日パーティーを開くなどなど、贅の限りを尽してきた。

 

彼はリビア国営石油会社におよそ1000億円を無心したことさえあるらしい。

 

2004年、ムタシムはイタリアのナイトクラブでオランダ人スーパーモデルのタリタ・ヴァン・ゾンと出会い恋に落ちた。

 

彼はいつもたくさんの豪華な贈り物でタリタを喜ばせた。ルイ・ヴィトンのバッグの全コレクションを彼女の部屋に送り届けたこともある。その時のタリタの部屋は足の踏み場もなかったという。

 

タリタ・ヴァン・ゾンはある日ムタシムに聞いた。

「あなたは一体幾らぐらい小遣いがあるの?」

するとムシタムはしばらく考えてから言った。

「約200万ドル(1ドル=110円で2億2千万円。現在の異常な円高レートでは約1億6千万円)」

「1年で?」

すると彼は事もなげに返した。

「いや。1ヵ月で」

 

・・・独裁者の放蕩息子は一体どれだけの金をリビアから持ち出し、外国の金融機関にプールしたのだろうか。本人死亡後の今は解明するのが難しいかもしれない。

 

ムタシムのすぐ上の兄、ハンニバルは母親と共にアルジェリアに逃亡したと考えられているが、彼はリビアを出国する前に、
1800万ユーロ(約20億円)をチュニジア、フランス、パナマなどの口座に分散、送金したことが分かっている。

 

像に乗ってアルプス山脈を超えて、ローマ帝国に攻め入った古代の英雄・ハンニバルと同じ名前を持つ独裁者の息子は、暴力的な性格でしばしば問題を起してはメディアを賑わせてきた。

 

例えば2001年には、ローマのディスコの出口で警察官を消火器で殴って、イタリア中を唖然とさせた。また2004年には、パリのシャンゼリゼ通りを時速140キロの車で走行して世界を驚かせた。さらに2008年、ジュネーブのホテルで妻と共に従業員に暴行を働き、逮捕。これに対抗して親バカのカダフィは、リビア在のスイス人ビジネスマンを逮捕して、スイス政府にプレッシャーをかけた。もっと言えば、彼の妻のアリネはベビーシッターへの拷問や暴力行為を日常茶飯に行ってきたらしい。

 

ハンニバルと妻子は、彼の母親と共にアルジェリアにいることが分かっているが、母親や亡父とは別に蓄えた彼の資産額は、20億円以外には今のところは明らかになっていない。しかし、叩けばさらにホコリが出るであろうことは衆目の一致するところである。

 

父親と弟が殺害された同じ日に、シルトで拘束されたと伝えられた次男のサイフ・アルイスラムはどうやら逃亡したらしい。彼もまた、独自に南アフリカ、エジプト、アルジェリア、ウクライナなどのタックスヘイブン(税金天国)国、あるいは大金を持ち込む者の素性や理由を詮索しない国々などに、莫大な資金を隠しているとされる。

 

イタリアのプロサッカーリーグ・セリエAでプレーしたこともある3男のサーディは9月6日、車両250台を連ねてリビア南の国境線を越えニジェールへ。同国大統領府近くの、広大な庭園・プール付きの「緑の家」で豪華な逃亡生活を送っている。彼が盗み出した資産もまた、極大の額であろうことは子供でも予測できるところではないか。

 

死んだ大佐を除けば、個人資産に関する家族の圧巻は、アルジェリア滞在中の大佐の妻のサフィヤ(Safiya)。彼女はなんと日本円で約2兆3千億円(210億ユーロ)にも登る個人資産を蓄えていて、それを全てリビアから持ち出したと考えられている。2人の息子と一人娘のアイシャ、及びその家族、従者らを含めた総勢
30人ほどと共に、隣国の首都でこれまた豪勢な逃亡生活をしている。

 

そのほか、リビア危機の初期段階にはトリポリのカダフィ金庫に100億ドル(8千億~1兆円)相当の金塊があった。またそれとは別にカダフィ一族が自由に使える金は約5兆円あった、などなどの憶測が飛び交ったが、家族の個人資産とは別に、カダフィ大佐がリビア国外に持ち出した金は、全体で20兆円を越えるとも見られている。

 

憶測や想像や噂話をさておいても、40年以上に渡ってリビアを牛耳り、国家資産をほぼ独占してきた独裁者とその家族の違法な富が、天文学的数字になるであろうことは疑いないことのように見える。

 

それらの富が国外に持ち出されて、独裁者の家族によって勝手に浪費されることは、失業率が40%を越え国民の大多数が1日2ドル(200円弱)での生活を強いられているリビアではなくても、決して許されるべきことではない。

 

独裁者一族が盗んだ金を取り戻して、リビアの今後の国づくりの資本に充(あ)てることも、民主化を進める同国の指導者たちの重大な仕事の一つであろう。

 

 


独裁者カダフィの余りにも普通過ぎる死




昨日、カダフィ大佐の5男(腹違いの長兄から数えて)ムタシムについて記事を書いていたら、大佐が殺害されたというニュースが飛び込んできた。

 

すぐに衛星局アルジャジーラにチャンネルを合わせて、リビアの殺害現場のシルト(テ)と首都トリポリ、そしてドーハとロンドンとワシントンなどを結んでの生中継に見入った。

 

大佐は出身地のシルトで敵に発見され、拘束されて連れ去られる間の混乱の中で射殺された。少なくとも、シルト現場からの中継を挟んだアルジャジーラの第一報では、そんな風に見えた。

 

殺害時の映像では、まず敵の兵士らに囲まれて、ピックアップトラックから下ろされたカダフィ大佐らしい男が歩く。

兵士らが騒ぎ、叫び、ライフルや拳銃が画面に見え隠れする。

 

1人の兵士の拳銃が、大佐の後頭部をとらえるカメラの映像をさえぎる。

 

画面が変わって(編集されて)、射殺されたらしい大佐の体が地面に横たわっている。

 

顔のアップ。明らかに大佐。そのデスマスク。

 

アルジャジーラの最初の報道はそんな具合だった。その後、トラックで運ばれる遺体などの映像が幾つか紹介されたが、遺体の顔にはボカシ(モザイク)が入ってはっきりとは識別できなかった。血なまぐさ過ぎる絵、との判断がなされたのだろう。

 

さらに後の、アルジャージーラ以外の報道によると、大佐はコンクリートの穴に隠れているところを拘束されたとか、射殺される前に「撃つな!」と叫んだなどとも言われる。

 

正確なことは徐々に明らかになるだろうが、一連のドラマの核心とその意味するところは、詳細がどれほど明白になっても今のままと何も変わらない。

 

つまり、カダフィ大佐は民衆の反撃に遭った独裁者として、余りにも当たり前過ぎる形での最後を迎えたこと。彼の死に方はムッソリーニやチャウシェスクと同じだし、拘束のされ方はサダム・フセインとそっくり同じ。

 

また、彼の死によってカダフィ派の抵抗が終わり、リビアの内戦が確実に収束に向かうであろうこと。そしてこのことが最大の幸運であることは誰の目にも明らかである。

 

それにしても、クセ者の独裁者は、クセ者でありながらひどく凡庸でもあるという事実を世界にさらしてこの世を去った。そのこと自体がやっぱりクセ者の証かとも思う。

 

彼は国内情勢が政権にとって厳しい、と判断した8月末頃の時点で、妻と妊娠中の娘をひそかにアルジェリアに逃亡させている。その際は、戦闘には向かない性格と言われる長男のムハンマドと、4男のハンニバルを同行させることを忘れていない。

 

4男のハンニバルは多くの乱暴狼藉で知られた男だが、カッとなりやすい性格のため戦いには不向き、ということだったらしい。用意周到に見えるこのあたりの判断が、大いにカダフィのクセ者ぶりを示しているように僕には思える。

 

同じ頃、何十台、時には何百台ものトラックや車の隊列が、荷物と共にカダフィ政権の幹部やシンパを乗せて、南方のニジェールやブルキナファソを目指した。その動きは1度きりではなく何度も、リビアやその南の砂漠地帯で見られた。

 

そうした情報から、欧米、特にヨーロッパのメディアの多くは、大佐が「砂漠の青い民」つまりトゥアレグ族の精鋭部隊に守られて、リビア以南の砂漠地帯に逃げ込んだのではないかと考えた。僕もそう信じた1人である。→<熱砂の大海原に消えた猛獣> <熱砂の大海原に消えた猛獣Ⅱ

これが大佐の深謀遠慮だったとしたなら、やはり彼は巨大なクセ者であると言わざるを得ない。


大佐は大方の予想を裏切って、砂漠地帯ではなく彼の生まれ故郷であるリビア北(中)部の町シルトに潜伏していた!「砂漠の青い民」と固い絆で結ばれて、熱砂の大海原や月の砂漠を放浪していたわけではなかったのだ!

 

ったく、ロマンのない男である(苦笑)。

 

それは大佐の意図的な情報操作だったのかもしれない。が、ただ単に、独裁者の彼が疑心と暗鬼のカタマリと化して、人を信用していなかっただけ、という考え方もできそうである。

そしてその見方が正しいとするなら、大佐と「砂漠の青い民」との間に信義など生まれるはずもなく、結局彼は危機に瀕しては、自らと同じ部族の人々が住む出身地のシルトに逃げた、ということなのだろう。

 

それはイラクのサダム・フセインの逃亡劇とそっくり同じ。そしてそこで敵に見つかって惨めな姿をさらしたことも。

 

結局独裁者たちは「自決」なんてことは考えないことが分かる。現代歴史上の悪名高い独裁者のうち、最後に自決をしたのは僕が知る限りヒトラーのみだ。

 

キリスト教徒やイスラム教徒は自殺を禁じられているからその影響もあるのだろう。また、最後の最後まで生きのびて戦う、という決意もあるのかもしれない。そうしているうちに死期を逃して拘束、あるいは殺害される・・

 

追い詰められたら「潔く自決する」のが最善の道、と感じるのはどうやら日本人である僕のような人間だけらしい。

 

ともあれ、これでリビアが民主化に向けて大きく前進することを願いたい。

 

が、昨日、同じく反カダフィ派に殺害された、5男のムタシム以外の息子のうちの何人かがまだ生きていることなどを考えると、予断を許さない状況のようにも見える。

 

 

夏、いきなり・・冬



いつもながら北イタリアの季節変化は荒々しい。つい先日まで夏そのままに暑い日々だったのに、だしぬけにストーブを点ける気温になった。

夏ならび><まよい夏

 

夏がとつぜん冬に変わる、とういうのが北イタリアの季節変化の印象なのだが、それはつまり秋が極端に短いということでもある。

「秋の日はつるべ落とし」と言うが、イタリアの場合は秋そのものが、訪れたと思う間もなく「つるべ落とし」的にさっと過ぎていくのである。

 

僕が昔住んでいたイタリアよりもさらに北国の英国ロンドンでも、また冬の寒さが厳しい米国ニューヨークでも、夏が抜き打ちに冬に変わってしまうみたいな極端な季節の動きはなかった。

 

僕は直情径行(ちょくじょうけいこう)なこの国の季節変化を目の当たりにする時、いつも決まってアフリカ大陸を思う。

 

イタリアの四季の推移がときどき激情的になるのは、明らかにアフリカ大陸のせいである。

 

この国には主に初夏のころ「シロッコ」が吹く。これはアフリカ大陸からイタリアに吹きこむ暑い南風のことである。

 

サハラ砂漠で生まれた風は、地中海上を渡るうちに湿気をたっぷりと吸って、イタリアに到達するときは高温湿潤になる。

 

日本からはるかに遠いヒマラヤ山脈の風と雲が、沖縄から東北までの日本列島に梅雨をもたらすように、シロッコは遠いアフリカからイタリアに吹き込んでさまざまな影響を与える。

 

アルプス山脈を抱く北イタリアでは、アフリカからの暑い空気とアルプスの冷気がぶつかり合ってせめぎ合い、時として猛々しい天候のうねりをもたらす。

 

豆台風みたいなテンポラーレ<ヴェンデミア(VENDEMMIA)>もきっとシロッコが生みの親だ。

あるいは真因ではなくても、必ず遠因の一つには違いない。梅雨時の雨が、その後の日本の気象や風情にさまざまな影響を及ぼすように。

 

そんな訳で、つい10日ほど前まで短パンにランニングシャツみたいな真夏の恰好で、「イタリア中の海の家が10月いっぱいまで営業を続けると発表」などと、そこかしこに書いたり情報を送ったりしていた僕は、今や冬着に衣替えをして、暖炉の焚かれた仕事場でこの記事を書いている。

 

そして僕はどちらかというと、北イタリアの奔流のような季節の流れが好きである。いや、大好きである。

 

その気分は子供のころ、日本の南の島で台風を待ちわび、暴風を喜んだ自分の心理と深く結び着いている。僕はその頃から台風が大好きなヒネた子供だったのだ。

 

台風がやって来れば何よりもまず学校が休みになる。僕はそれが嬉しかった。でもそのことが喜びの主体では断じてなかった。

 

僕は子供心に、日常を破壊して逆巻く暴風雨に激烈な羨望を抱きつづけていた。

 

台風が近づくと、わざと予兆の雨の中で駆けっこをして、ずぶ濡れになって帰宅し、母にこっぴどく叱られた。

 

やがて猛烈な風が吹き荒れると、厳重に戸締りされた家の中で昼夜を問わず暴風の咆哮に耳を傾けて、ひとりひそかに歓喜した。

そこに沸騰する非日常の騒乱に僕はめくるめくような憧れを覚えた。

 

僕がイタリアの強烈な季節変化を愛するのは、子供時代の不思議な憧憬と分かちがたく結び着いている、と強く感じるゆえんである。

 

 

斜陽貴族



先週の土曜日に晩餐会が開かれたのは、北イタリア・ブレッシャ県の貴族家である。

 

一家の館は県都ブレッシャノのすぐ隣の町にあるが、館は館でも、堀に囲まれた城のような堅牢な建物。

 

実際にそこは、館を意味するPalazzo(パラッツォ)ではなく、城を意味するCastello(カステッロ)と一般には呼ばれている。

 

一家の長女で修復師のベアトリーチェは、シチリア島のパレルモで教会の修復作業をしている。

→<ベアトリーチェとシチリア


長男のフランコはサラリーマン、次女のマリアンナは法学部の学生である。

 

僕は3人の子供のうち特に長男のフランコを良く知っている。彼は子供のころ、毎年夏休みを僕ら一家と共に、妻の実家の伯爵家の山荘で過ごしたのだ。

 

息子2人より少しだけ年上の彼は、礼儀正しい大人しい少年で、子供たちと非常に仲がよく、僕ら夫婦もまた伯爵家の人たちも彼をかわいがった。

 

フランコが僕らと夏休みを過ごしたのは、実は彼の家族に子供たちを連れて旅行に出たり、どこかのリゾート地でひと夏を過ごす、などという経済的な余裕がなかったからだった。

 

イタリアはバカンスの国である。どこの家でも夏には家族全員でバカンスに行くのが当たり前だ。ましてや貴族家などの裕福な家庭は、特に長い贅沢なバカンスを過ごすものである。

 

というのが普通の考えで、また実際にそういうことも多いが、しかし、りっぱな邸宅を構えてはいるものの、家計が火の車だったりする貴族家も、また実はとても多いのである。同家はその典型的な例だった。

 

一族の当主は、芸術家肌の男で、あまり甲斐性があるとは言えない。絵を描きつつ看護士として働いてきた。こういう場合にはよく政略結婚のようなことが行われて、古い貴族家の台所を潤(うるお)す事態が起こる。ま、いわば名誉と金の握手。

 

でも、正直者で人の良い彼は、貴族でも金持ちでもない煙草屋の娘と結婚した。大金持ちの事業家や商家などからの縁談もいくつかあったが、彼はその娘との恋愛結婚を選んだのである。

 

同家には、音楽の先生をしている当主の姉も同居している。姉弟2人の給料が、貴族家の収入のほとんどだった。それでは邸宅の台所が火の車になるのは見え見えである。古い館には莫大な維持費が掛かるのだ。

 

かつかつの生活をしている同家では、新妻が家政婦も雇わずに家事の一切を行っている、という信じられないような噂もあった。城とまで呼ばれるバカでかい館は、掃除をするだけでも大変な労力と時間が要る。パートでもいいからせめて家政婦の1人ぐらいは雇わないと、主婦の1日は広大な建物の清掃だけで終わりかねない。
 

その噂を裏付けるような愉快な話もある。一家の主人は、盗難防止のアラームを取り付ける経済的な余裕が無いので、夜な夜な起き出しては警報代わりに邸宅の周囲を巡り歩いて警戒を続けたりもしたという。これは本人から聞いたジョークのような、でも、どうも真実らしい話。

 

妻の実家の伯爵家と同家は、何世代も前からの親しい間柄である。その縁で、一族の跡とりのフランコ少年を、夏休みの間うちで面倒をみたというわけである。もちろんわが家に2人の男の子がいたから、男の子同士で遊ばせる意味合いがあったのは言うまでもない。

 

同じように同家の2人の娘、ベアトチリーチェとマリアンナも、一家の友人や親戚などのもとで夏休みを過ごした。

 

そんな貧しい家族だったが、7、8年ほど前に突然羽ぶりが良くなった。当主の叔母が亡くなって遺産が彼のところに入ったのである。それは県都のブレッシャ市にある広大な館。彼はすぐに遺産を売りに出した。館の値段は、浪費さえしなければ一家が今後何世代かに渡ってのんびり暮らせるだけの巨額。それは周知の事実。

 

以来、同家は昔のように晩餐会も催す余裕を取り戻した。バカンスなども優雅に過ごせるようになった。

 

遺産相続前までの一家のように、経済的に厳しい状況に置かれている貴族家は多い。いや、よほど幸運に恵まれてでもいない限り、現在まで存続している貴族家はどこも経済的に困窮していると見ていい。
 

同家のような僥倖(ぎょうこう)はそうそうは巡って来ない。貴族の多くは、豪華な館などの外見とは裏腹に、昔の蓄えを少しづつ食いつぶしながらつましく暮らし、ひっそりと生きているケースがほとんどなのである。

 

妻の実家の伯爵家なども事情は同じ。伯爵家の場合は、まだ決して貧しくはないが、巨大な館や建物などの膨大な維持費に家計を押しつぶされて、苦しいやりくりをしているのが実情である。


そして、それは将来も悪化し続けることが宿命である。悪化し続けて、ついには伯爵家そのものが消滅する。
 

でも、それだから世の中は面白い。

 

始まった全てのものは必ず終わり、栄華を極めた者は例外なく落ちる。そして富を手に入れた者がやがてそこに入れ替わる。それが人の世の、そして歴史の法則。

別にどうということはないのである。

 

 

 


ベアトリーチェとシチリア



先週の土曜日、ブレッシャ市近辺の貴族家の晩餐会に夫婦で招かれた。同家は当主夫妻と一男二女、それに当主の姉の6人家族。

 
そのうちの長女ベアトリーチェが、シチリア島のパレルモでマルトラーナ教会の修復作業にたずさわっていると知る。嬉しいサプライズ。

 

イタリアには、絵画を含む芸術作品や歴史的建造物あるいは調度品などの修復、改修、復元などを専門とする「修復師(restauratore)」というりっぱな仕事がある。

 

ベアトリーチェは、2年前に芸大の修復専門科を卒業して、修復師になった。アート好きな若者たちの憧れの職業の一つである。

 

マルトラーナ教会は、ファサード(正面)がバロック様式の美しい建物。サンタ・マリア・デッランミラーリオという舌をかみそうな名前でも知られる。パレルモを代表する歴史的建造物。


マルトラーナ教会のすぐ隣には、アラブのモスク風の赤い丸屋根が、鮮烈な印象を与えるサン・カタルド教会がある。二つの教会はパレルモの有名観光スポットの一つ。

 
サン・カタルド教会は、サン・ジョバンニ・デッリ・エレミーティ教会とともに、シチリア島が9~11世紀にかけてアラブ(ムスリム)の支配下にあったことを如実にあらわす、中東趣味のシンプルで美しい建物。アラブの好影響の一つ。

 

8月のシチリア旅行ではもちろんパレルモにも寄った。マルトラーナ教会にも寄った。僕は何度も訪れてドキュメンタリーの撮影もしている。が、妻にもまた友人夫婦にとっても初めての場所だった。皆が当然写真撮影をしたがった。

 

ところがマルトラーナ教会は修復中で、周りが工事の枠組みに覆われていて何も見えなかった。残念だがイタリアでは良くあること。隣のサン・カタルド教会だけを写真に収めた。

 

「そうか、ベア(ベアトリーチェの愛称)が僕らの写真撮影のジャマをしていたのか」

僕は笑ってべアトリーチェを責めた。

 

「ごめんなさい。そうなの。よく言われるの。修復工事の骨組みが見物のジャマだって」

ベアトチリーチェも笑いながら、でも本気で申し訳なく思っていることが分かる、曇りのない目色で応えた。

 

彼女は翌日の日曜日には再びパレルモに戻った。少なくとも今年いっぱいは向こうに滞在して修複作業に従事するという。

 

僕は若いベアトリーチェが、仕事を通してシチリア島の豊富な芸術や歴史や文化に触れると共に、マフィア問題のような島の暗部にも恐れることなく、正直に、そして堂々と対面して自分を磨き成長していってほしいと願い、また彼女にもはっきりとそう話した。

 

シチリアの話になると、どうも僕はいつも気負った感じになるようだ。ベアはおどろいてしまったかも・・

 

でも、彼女は子供のころから芸術好きで利発で冒険心の強い娘だ。きっと僕の言う意味を理解してくれたに違いない・・


熱砂の大海原に消えた猛獣Ⅱ



カダフィ大佐と共に逃亡、あるいは彼をかくまっていると考えられる「砂漠の青い民」は、独自の国家は持たずにリビア、アルジェリア、ニジェール、マリ、ブルキナファソなどの国々に居住しているのだが、もともと国境という観念が薄い人々だと考えられている。→<熱砂の大海原に消えた猛獣

 
言うまでもなく彼らは、各国の国民としてそこに定住し、仕事をし、普通に生きてもいる。また遊牧や交易を生活の糧としている人々も、貧しい中にも古代とは違う現代風の生活をしていたりしている。

 

同時にまた彼らの多くは、前述のアフリカ5ヶ国にまたがる広大な砂漠地帯を拠点にして、自由に動き回っているとも考えられているのである。

 

また定住をしている人々でさえ、各国の国境線を越えて自在に活動することを当然と捉えるのが普通だという。

 

国境線は彼らにとっては、きっと砂上の風紋や砂に引かれた線のようなものなのだろう。

 

それらの風紋や線は、砂漠にひんぱんに起こる砂嵐によって、いとも簡単に消され、移動し、変化しつづける。

 

つまり、あって無いようなものが「砂漠の青い民」にとっての国境線なのである。

 

国境という概念を持たない、あるいは国境などに縛られない「砂漠の青い民」とは、なんと古代的な、そしてなんとロマンに満ちた民族なのだろう・・・

 

一方で、あえて彼らをスカウトして召抱えたカダフィ大佐も、極めて古代人的なメンタリティーを持つ男のように僕には感じられる。

 

大佐は遊牧民のテントを愛し、国境線の存在を無視して、広大な汎アフリカ主義国家の盟主を目指した可能性さえある。

 

まるで古代ローマ帝国を思わせるような雄大な夢だが、それは古代国家に範を見出さなければならないところからも分かる如く、時代に逆行した、やはり古代的な発想というべきものではないか。

 

そういう古代的な精神を持つカダフィ大佐が、古代的な自由人「砂漠の青い民」に目をつけたのは、あるいは当然といえば当然のことなのかもしれない。

 

大佐は彼らのうちの特に屈強で闘争心に溢れた男たちを呼び集めて訓練し、重用し、長い時間をかけて兵士らと絆を深めていった。

 

そして政権崩壊の混乱が訪れたとき、「砂漠の青い民」と共に彼らの聖地である砂漠地帯へと逃れていった。砂漠の精神は大佐自身の血の中にも流れている。主従がそこに向かったのは当然の帰結だった・・・ジャンジャン・・

 

というのは、もちろん僕の遊びまじりの勝手な妄想である。

 

大佐が大罪を犯し、状況を見誤り、それでも自らの力を過信して政権に固執した結果、追い詰められて砂漠に落ち延びていった、というのが一番真実に近いシナリオだろう。

 

でも、それだけではつまらないから、僕はちょっと大佐を買いかぶってみたり、ミステリアスな「砂漠の青い民」の男たちに思いを馳(は)せたりしながら、あれこれ物語を組み立ててみたりもする。

 

それなのに往生際の悪いカダフィ大佐は、一昨日、僕の妄想をぶち壊すようにシリアの衛星テレビ局を通して「リビア人よ立ち上がれ!立って100万人の行進を行え!」と咆哮した。顔の見えない猛獣の雄叫(たけ)び。負け犬の遠吠え・・

一方で大佐の出身地のシルトでは、立てこもるカダフィ派に反カダフィ派が総攻撃をかけるなど、リビア各地での激しい戦闘は続いている。

 

大佐は逃げ切れるものではなく、やはり本当の終わりが近づいている、というのが現実なのだろう・・


まよい夏



今朝6時半頃、強い風の音で目が覚めた。

 

「あ、テンポラーレ(豆台風)だ」
→<ヴェンデミア(VENDEMMIA)
と思いつくやいなや、走るように急いで窓際に行った。

窓を開けようとして、思いとどまった。

 

家の全ての入り口や窓にはアラーム(盗難警報)のセンサーが設置されている。

 

アラームを解除しないでドアや窓を開けると、けたたましいサイレンの音が鳴り響き、警備会社に自動的に知らせが飛ぶ仕組みなのである。

 

アラームを解除して、もう寝室には戻らずに、自分の書斎兼仕事場に入った。

 

外はまだ真っ暗である。窓から見下ろすブドウ園には、闇の中に風のざわめきが踊り、逆巻き、鈍い光のようなものが見えてブドウの木が揺れている。

 

暗がりの中で木が見えるのは、記憶心理の単なる綾だろうと思ったその時、稲妻が走って闇の一角が輝き、激しく騒ぐブドウの枝葉が一瞬まぶしく浮かんで消えた。

 

雷鳴がつづき、さらに雨の音が聞こえた。でも雷の音も雨の音も、心なしか弱々しい。

 

エネルギーを集めて一気に放出する、夏の盛りの憤怒のようなテンポラーレとは様相が違う。

 

30分もすると空が明るんできた。雷鳴が遠のき、でも、雨は降りつづけている。

 

このまま終わるかと思ったころ、風が少し強まって、ふいに雷が近くで鳴った。雨足も速くなった。それが一気にドシャ降りに変わる。

 

空気がすっと冷たくなるのが分かった。雨が雹(ひょう)に変わる前触れである。

 

雹はブドウの大敵。でも、収穫を終えたブドウ園の木々は、少し残る緑と枯れ葉を全身に乗せて、雨に打たれて立たずんでいるだけである。

被害に遭う心配はない。

 

小さな采園のことが頭をよぎった。トマトとピーマンが少し、それに葉野菜が残っている。強い雹が降れば全滅だろう。

残念・・という思いで外の動きに目をこらした。

 

雨はなおも激しく振りつづけたが、一向に雹にはならなかった。やがて小降りになって風が弱くなり、雷鳴も遠くなった。

 

僕はほっとするような残念なような気分で窓外を見つづけている。

 

野菜に被害が出るのは悔しいが、強烈な雹も見たかったのだ。

 

僕はテンポラーレや雹や雷鳴や暴風などの、激しい気候変化が好きなのである。

 

9時になっても雨風は止まない。

雷鳴も遠くなったり近づいたりして、一向に去る気配がない。

ひと息に起こって消える、テンポラーレ独特の厚い黒雲もまだ空にある。でもその雲も夏に比べると薄いようである。

 

なにもかもが中途半端なテンポラーレ。

 

この分だと、きっと「寒くない10月」がまだ続くのだろう。

外でくすぶっている風雨が再三強まって、荒々しい本物のテンポラーレに変わり、暑気を完全に吹き飛ばさない限り・・・

 

 

語学習得のヒケツの一つ



ミラノの語学学校でイタリア語を勉強しているN・Y君がこの間僕のところにやって来た。将来イタリアと日本を結んでデザイン関係の大きなビジネスをやりたいと青雲の志に燃えている彼は、今イタリア語にけん命に取り組んでいる。が、それがなかなか思うように上達しないので悩んでいるところだという。

 

「おれ、語学の才能がないんだと自分でも思っています。くやしいけど、そのことは口を大にして言ってもいいですよ。おれ、本気ではそんなことは毛頭認めたくないんですけど・・・」

N・Y君は深刻な顔で彼の悩みを語り始めた。

 

僕はN・Y君のイタリア語がうまくならない理由が分かったと思ったので、なおも話し続けようとする彼を制して、笑って言った。

「イタリア語もいいけど、日本の古典文学をまず勉強した方がいいな」

「へ?」

「たとえば“源氏物語”とか“枕草子”とか、日本の古典文学だよ」

「・・コテン・・・ブンガク・・?」

N・Y君は、まるで頭の中がコテン、とでんぐり返った男でも見るような顔つきで僕を見た。少しふざけ過ぎたと思ったので、僕は言葉を変えた。

 

「今は必死になってイタリア語を勉強しているのだから、日本語は関係がない、と君は思っているだろう。そこが一番の問題なんだ」

「・・・?」

「はっきり言うと君の日本語はおかしい。口を大にして、というのは正確には声を大にして、と言うんだ。本気では、というのもここでは使い方が間違っている。それを言うなら、本心では、と変えた方がいい。毛頭、というむつかしい語の使い方も少しニュアンスが違う。ついでに言うなら、おれ、おれと言いながらデスマス調で言葉をしめくくるのも変だ」

僕はあえて指摘した。

 

N・Y君は決してバカではない。特別でもない。彼の世代の日本の若者は皆彼のような言葉遣いをする。しかし、変なものは変だ。

 

日本語をしっかり話せない日本人は外国語も決して上達しない。それが長い間そこかしこの国で言葉に苦労した僕が出した結論である。

 

語学のうまい、へた、はひたすら「言い換え」の能力によって決まる、と僕は思う。

 

たとえば一番分かりやすい例で<猿も木から落ちる>という諺。これを英語にする時たいていの日本人は<猿>⇒モンキー。<も>はトゥー、あ、でもここでは<でも>の意味だから多分イーブン。<木>⇒ツリー。<から>はフロムなのでフロム・ツリー。そして<落ちる>⇒ドロップ?フォール?多分フォール・・・などと辞書を引き引き考えて、最終的に《EVEN A MONKY FALLS
FROM A TREE》のように英文を組み立てるのではないか。少なくとも受験勉強をしていた頃の僕などはそうだった。

 

こういう直訳の英語で話しかけられた外国人は、目をパチクリさせながら、それでも言おうとする意味は分かるから、苦笑してうなずく。

 

それでは<猿も木から落ちる>と全く同じ意味の<弘法にも筆の誤り>を訳するときはどうするか。前者と同じやり方で《EVEN MR. KOBO MAKES MISTAKES WITH HIS PENCIL》とでも言おうものなら、ドタマの変な奴に違いないと皆が引いたり、避けて通っていくこと必定である。

<ミスター・コーボー>を<空海>と置き換えても<ペンシル>を<ブラッシュ>と置き換えても事情は変わらない。

 

こういうときに、素早く言い換えができるかどうかによって語学のうまい、へた、が決まるのである。

 

二つの諺は<私達はみんな間違いを犯す>という意味である。そこで素早く直訳して《WE ALL MAKE MISTAKES》などと言い換える。あるいは<人間は不完全な存在(動物)である>として
《HUMANS ARE INPERFECT BEINGS 》など言い換える。

 

それらは既に《EVEN A MONKY FALLS FROM A TREE》よりもはるかに英語らしい英語だと思うが、さらに言い換えて<人は誰でも間違いを犯す>《EVERYBODY MAKES MISTAKES》とでもすればもっと良い英語になる。それをさらに言い換えて<完全な人間などいない>つまり《NOBODY IS PERFECT》と簡潔に言い換えることができれば、<猿も木から落ちる>や<弘法にも筆の誤り>のほぼ完璧な英訳と言ってもいいのではないか。

 

事は英語に限らない。外国語はそうやってまず日本語の言い換えをしないと意味を成さない場合がほとんどである。

 

日本語を次々と言い換えるためには、当然日本語に精通していなければならない。語彙(ごい)が豊富でなければならない。僕がN・Y君に言いたかったのは実はその一点なのである。

 

言葉を全く知らない赤ん坊ならひたすらイタリア語を暗記していけばいい。しかし、一つの言語(この場合は日本語)に染まってしまっている大人は、その言語を通してもう一つの言語を習得するしかないのだ。

 

N・Y君は日本語の聞こえないイタリアに来て、イタリア語にまみれてそれを勉強している。これは非常にいいことである。言葉は学問ではない。単なる「慣れ」である。従ってN.Y君も間もなく慣れて、少しはイタリア語が分かるようになる。

 

しかし、うまいイタリア語は日本語をもっと勉強しない限り絶対に話せないと僕は思う。この先彼が何十年もイタリアに住み続け、彼の中でイタリア語が日本語に取って代わって母国語にでもなってしまわない限り・・・。

 

                        

熱砂の大海原に消えた猛獣



リビアのカダフィ大佐が、南米のベネズエラに逃亡した可能性は限りなくゼロに近いものだろう。でも杳(よう)として行方がわからないのだから、100%その可能性がないとも言えない。

→<カダフィの終焉?

 

最新の情報としては、ロイター通信がリビア西部のガダミスに潜伏か、と報じているものの確認は取れていない。

 

ガダミスはアルジェリアとチュニジアの2国と国境を接する砂漠地帯の街。世界遺産にも登録されているオアシス都市である。

 

思いきり可能性が高いのは、独自の国を持たないトゥアレグ族の勢力圏内に潜んでいること。

 

トゥアレグ族の男たちは勇猛果敢で知られ、藍染のターバンと民族衣装を着ることから「砂漠の青い民」と呼ばれている。

 

彼らの勢力圏とは、リビア、アルジェリア、ニジェール、マリ、ブルキナファソにまたがる広大な砂漠地帯のことである。そしてガダミスは実は「砂漠の青い民」の広大な版図の最北端に位置している。

 

カダフィ大佐は革命で政権を奪取して以来、「砂漠の青い民」を徴集して鍛え、手勢や親兵として重用し手厚く保護し続けた。男たちの勇猛と忠誠心を重視したからである。「砂漠の青い民」は、大佐が危機に陥った今も彼と行動を共にし、かくまい続けているものらしい。

 

とはいうものの、カダフィ大佐の命運はもう尽きたも同然であろう。生きて身柄を拘束された場合は、裁判の有無にかかわらず、民衆の怒りに呑みこまれて弾劾されるだろうし、又されるべきである。彼はそれだけの罪を犯していると僕は思う。

→<イタリアVS砂漠の猛獣Ⅱ

 

それでいながら僕は、心のどこかで、カダフィ大佐に共感するような感心するような、不可解な気分も抱きつづけている。

 

大佐は極悪非道な独裁者だが、行動がユニークで、どこか憎めない間抜けでユーモラスな一面も持っている。そして間抜けでユーモラスに見える部分は、少し見方を変えれば、彼の器の大きさを示すもののようでもある。

 

その部分が僕の関心を引き付けるばかりではなく、内心で彼の逃亡を期待するような怪しい気持ちさえ呼び起こしているようなのである。

 

魅力というと語弊があるかもしれないが、大佐の軽妙でユニークな部分とは

 

1)  黒人アフリカとアラブアフリカを結んで、その盟主になろうと画策した誇大妄想。彼にはもしかすると、巨大アフリカの統一王になるつもりさえあったのかもしれない。妄想には違いないが、壮大な野心であり考え方であるとも言える。黒人のオバマ米大統領を「アフリカの息子」と呼んで親しみを示したり、元米国務長官のコンドリーザ・ライス女史のファンで、ひそかに彼女の写真アルバムを作っていたりしたのも、アフリカへの特別の思い入れだろうが、やっぱりちょっとユーモラス。

 

2)  出自の砂漠の民、ベドウィンのテント生活を愛してやまないらしいところ。彼は国賓としてイタリアとフランスを訪れた際も、ローマとパリのど真ん中にテントを設営してそこに滞在した。普通なら超一流ホテルでも借り切って見栄を張るところで、砂漠民のテントにこだわるとは痛快ではないか。

 

3)  アメリカを始めとする欧米列強に歯向かい続けたガッツ。彼が「砂漠の狂犬」とか「砂漠の猛獣」などと呼ばれるのも実はこのあたりが原因だ。欧米マスコミの勝手な命名。僕もそれを何度か拝借したが、多くのアラブ人や反欧米諸国の人々にとっては、逆に「砂漠の英雄」あるいは「砂漠の風雲児」というあたりででもあろう。実を言えば、僕もひそかにその反骨精神には一目おいてきたのだ。

 

4)  もっとも、カダフィのガッツは、状況の変化に応じてさっさと迎合にもなる、風見鶏もマッ青の気骨であることも明らかになったが・・

→<カダフィの終焉?

  ただそれも又、この一筋縄ではいかない独裁者の「優れた政
    治感覚」とも考えられるのだから、困ったものである。

 

5)  好戦的として恐れられていた「砂漠の青い民」の男たちを手なずけて、彼の親衛隊に組み込んだ見識と手腕。「砂漠の青い民」の兵士らは、今やリビアの主勢力となった反カダフィ軍の報復を恐れて、大佐と共に砂漠地帯に逃れているだけだという見方もあるが、もしかすると彼らのボスと本当に強い絆で結ばれていて、最後まで大佐をかばい彼と共に戦い続ける、ということも起こり得るのではないか。まさか、とは思うけれど・・

 

なにはともあれ、僕はカダフィ大佐が、イラクのサダム・フセインをまねて、地下の穴ぐらから敵の手で引きずり出されるような、悲惨な状況はあまり見たくない。
 

逃げ切れない場合は、自首して裁判で堂々と自己主張をした上で処刑されるか、せめて捕まる前に自決をしてほしい、という気分をどうしても拭(ぬぐ)い去る ことができずにいる・・・

 

 

夏ならび



イタリアは暑い日が続いている。統計によると去ったばかりの9月は、同月としては過去150年間でもっとも気温が高かった。月の平均気温を3度以上も上回って今年の9月は終わったのである。

 

もうひとつの記録も塗り替えられた。なんと1753年以来、258年振りに9月に「ラ・ファ(蒸し暑い日)」が記録されたのだ。暑いはずである。

 

北イタリアでは例年8月の半ば頃を境に涼しくなって急速に秋がやってくる。今年は夏の初めから涼しい日が続いて、どうやら「冷夏」と規定される年になるかと思ったが、8月15日前後から逆に暑くなって、それはそのまま記録破りの異常気象の9月へとなだれ込んだ。

 

8月24日からシチリア旅行に出ていた僕は、いつになっても涼しくならない気候におどろいたが、それはきっと南イタリアだからだろうと考えたりした。でもそうではなくて、むしろ北イタリアの方がさらに暑かったのだ。

この現象は北欧にも及んでいて、ロンドンも記録的に暑い9月だったらしい。

 

その9月が過ぎて、10月になった今も暑い日がつづいている。しばらくはこんな気候のままだという予報もあるが、果たしてどうだろうか。

 

ただ、暑いとはいうものの、それは例えば日本の夏の蒸し暑さとはまったく色合いが違う。日中、真夏の陽光に似た輝かしい光が降りそそいで気温が上がるが、空気は乾ききっていてさわやかである。

 

夏の間に小麦色の肌になりそびれた人々が、陽気に誘われて庭や公園や海などに寝椅子を持ち出して、日焼けを試みているが多分それは思い過ごし。10月にも入った日ざしには、さすがに肌をこんがりと焼くほどの力はないのではないか。

 

つまり、その程度の暑さであって、朝晩は空気はひんやりと冷えている。正確に言えば、10月になっても寒くない日々がつづいている、というところか。

 

土曜日には、義母と妻と3人できらめく光を浴びながら山荘のあるラゾーネに遊んだ。海抜1000Mの山中もぽかぽかと暖かく、昼食に寄ったレストランでは驚いたことにまだ屋外での食事が可能だった。

→<9月、秋はじめと仕事はじめの期


白樺や胡桃(くるみ)や
山毛欅(ブナ)の大木の下に入るとさすがに冷えるが、陽だまりにあるテーブル席では、半そでシャツのままで食事をすることができたのである。

 

義母は大病を患っていらい急速に老いている。もしかすると山に遊ぶのは今年が最後かもしれない。相変わらず淡々と日々を過ごしている彼女は、陽光の輝く山の景色を見回しながら、さらに穏やかな表情で食事をしている。僕は妻と目配せをして、義母を山に連れ出してよかった、と互いの胸のうちを確認しあった。

→<母たちの生き方

 

10月になっても夏のような日々がつづくので、イタリア各地の海の家は今月末まで営業を続ける、と決定した。

 

ちょっと信じがたいことだが、今日も確かに暑くなりそうな気配。

 

真っ青に晴れ渡った空と、きらめく陽光が降りそそぐ景色は、まるで6月のギリシャのよう・・

 →エーゲ海の光と風エーゲ海の光と風Ⅱ

 

 

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