書こうと思いつつ流れてしまった時事ネタは多い。そこで、できれば将来どこかで言及したいという意味を込めて、自分にとって引っかかる出来事の幾つかを列記しておくことにした。
マフィア関連
四日前の2012年5月23日は、ジョヴァンニ・ファルコーネ判事がシチリアのカパーチでマフィアに爆殺された、20年目の記念日。
マフィアは1992年5月23日、パレルモのプンタライジ空港から市内に向かって時速140km以上のスピードで走るファルコーネ判事の車を、遠隔操作の爆破装置で正確に破壊した。
ほぼ2ヶ月後の7月19日、彼の朋友で反マフィア急先鋒のパオロ・ボルセリーノ判事もパレルモ市内で爆殺される。
それらの事件には、収監中のマフィアのトップ、ボス中のボスと言われるトト・リイナ及びNo2のプロヴェンツァーノ、実行犯のジョヴァンニ・ブルスカらが深く関わっていた。
トト・リイナが逮捕された後、マフィア組織のトップに君臨していたのは、ベルナルド・プロヴェンツァーノ。彼は2006年に逮捕されて収監中。
今月10日、プロヴェンツァーノは刑務所内でプラスチック袋を頭に被って自殺未遂をした。袋が一体どこから彼の手元に渡ったかは不明。いつものマフィアがらみの謎。
話が前後するが、
2011年9月、トト・リイナの息子サルヴッチョが、8年10ヶ月の刑期を終えて出獄。罪状は「マファアとの連結・相関及び恐喝」だった。
出所後は就職も決まっていたが、世紀の悪人「トト・リイナ」の姓「リイナ」という現代イタリア最大の悪名がたたって、あちこちから拒絶反応が起きてしまい、生まれ故郷のシチリア島コルレオーネ村に送還される。そこでも村長が「良からぬ人物の居住は困る」と公式に発言。とても先進国とは思えない魔女狩りのようなイタリア社会の偏狭固陋な実態が明らかになる。
それを受けて、いくらなんでも罪を償い出所した男を差別し過ぎるという声と、大ボス「リイナ」の息子で本人もマフィアの構成員らしい男への当然の仕打ち、という声がぶつかりあう。犯罪者にも人権があるのかどうか、という古くて新しい議論だが、そんなもの人権があるに決まっている。それを認めなければ犯罪者を裁く行為も違法になるのではなかろうか。
またそれから3ヶ月後の12月7日には、ナポリの犯罪組織「カモッラ」の大ボスで16年間も逃亡生活を送っていたミケーレ・ザガリア容疑者が逮捕された。彼は逮捕されるときイタリア人らしい名言を吐いた。即ち:
「わかった。国家の勝ちだ(・・・Ha Vinto lo Stato)」。
日本人ならこんな言葉はまず思いつかないだろう。せいぜい「くそ、サツの勝ちだ」とか「サツに負けた・・」とか、目一杯ゆずって「検察の勝ちだ・・」などとでも言うところではないか。
ザガリアの呟きは、各地方が独立国家のように存在を主張してツッパリあっているイタリアならではの愉快発言、と僕には見える。つまり彼はイタリア人である前に、イタリア共和国内の心情的独立国家「ナポリ国のナポリ人」なのである(笑)。
再び話が前後するが、今月初め、93歳のイタリアの終身上院議員、ジュリオ・アンドレオッティが心臓病のため緊急入院。いったん事なきを得たが、老齢のため先行きが危ぶまれている。
アンドレオッティは3回7期に渡って首相を務め、隠れマフィアの一員と見なされて起訴、有罪、逆転無罪を勝ち取るなど、真っ黒に近い灰色政治家。現在93歳の彼が亡くなればマフィアの一時代も確実に終わる。でも一時代が終わるだけで、マフィアの息の根を止めるのはまだ難しいだろう。
ウサギのこと
昨年、うちの庭に放たれたあと姿が見えなくなっていたウサギが、生きていることが判明。隣のパオロが家から200メートルほど離れた空き地で彼を見かけたのだ。僕も早速行ってみたが発見できなかった。でも動物好きのパオロの話では間違いなくうちのウサギだという。
そこで僕は彼に「トーボー君(fuggitivopiccolo)」という名前をつけた。マフィアの欠席裁判ならぬ「欠席命名」だ(笑)。帰って来てくれれば何よりだが、たとえ逃亡を続けても生きていることが分かっただけで嬉しい。空き地周りには畑なども多いので、きっと食べ物には困らない。誰かが捕らえて丸焼きにでもしない限り生きながらえるだろう。よかった・・
その他
4月3日、ロータリークラブに依頼されて講演をした。テーマは何でもいいという話だったので、日伊テレビ(番組)比較論でもしゃべろうかと思った。が、普段からイタリアのテレビ、特に公共放送のRAIが、ドキュメンタリー制作の伝統をほとんど持たないことに不満を抱いている自分は、しゃべるうちに頭に血が上って罵詈雑言を吐きそうな気がしたので止めた。
テレビ局がドキュメンタリー制作の伝統や文化を持たないのは、視聴者であるイタリア国民があまりそれを見たがらないからだ。だからテレビを罵倒するのはイタリア人を罵倒することだ。そう思って止めたのである。
その代わりに、素直に日本文化について自分なりの考えを話した。途中で「日本人にとっての自然とは、皆さんにとっての宗教に近い重要なものです」というひと言を入れたら、案の定、特に高齢者のメンバーの人たちが明らかに目をシロクロさせた。予想通りの反応がとても面白かった。一神教のドグマに縛られている人たちには、そういう話は永遠に理解できないのだ。