【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2013年02月

ペルー旅 ~霊章~ 付記



インカの人々が建設から100年後になぜマチュピチュを捨ててそこを去ったのかはっきりとは分っていない。

 

インカびとは文字を持たず、征服者のスペイン人はマチュピチュそのものの存在を知らなかったから、記録に残す術がなかった。

実はマチュピチュが建設後100年で遺棄された、というのも推測に過ぎない。

 

周知のようにマチュピチュには多くの謎が秘められている。それは主にインカびとが文字を持たなかったことに起因している。実記が何も残っていないのだ。

 

たとえば、なぜ彼らは外界から隔絶された山の頂上に街を作ったのか。

 

彼らは一体どうやって一つ5トン~20トンにもなるたくさんの巨石を高山に運び上げたのか。

 

そしてどこから。

 

また鉄器具を知らなかった彼らはどうやってそれらの巨石を精巧に掘削し、切り整え、接着し、積み上げていったのか。

 

など。

 

など。

 

謎には、研究者や調査隊や歴史愛好家などの説明や、憶測や、史実に基づいた推論などが多くある。

 

それらの謎のうちの技術的なもの、たとえば今言った「巨石を運ぶ方法」とか、それを「精巧に細工するテクニック」などというのは、正確には分らなくてもなんとなく分かる。

 

つまり、インカびとは巨石や岩を細かく加工するペッキング(敲製)という技術をマチュピチュ以前に既に知っていて、それを活用した。マチュピチュ以外のインカ遺跡にも、ペッキングによる巧緻を極めた岩石細工は多く見られるから、これはほぼ史実と考えてもいいだろう。

 

また巨岩を運ぶ謎についても、傾斜路を造るなどの方法で各地の古代文明が高い技術力を持っていたことが分っている。マチュピチュの場合は、その立地から考えて、他のインカ遺跡と比較しても格段に難しかっただろうが、当時の人々の「割と普通の知恵」の範ちゅう内のワザだった。

 

たとえそうではなくても、巨石文明や石造りの構築物という意味では、エジプトのピラミッドに始まり、ギリシャ文明を経て古代ローマに至る地中海域だけを見ても、マチュピチュを遥かに凌駕する「ハイテク」が地上には存在した。しかもそれは15世紀前後のマチュピチュなどよりもずっと古い、紀元前の文明開化地での出来事であり人類の知恵である。

 

マチュピチュの建造物は言うまでもなく美しく優れたものだが、技術力という意味では地上唯一と呼ぶには当たらない、むしろ「ありふれた」と形容する方がふさわしい事案、だとも言えるのではないか。

 

マチュピチュの鮮烈はもっと他にある。つまり「マチュピチュはなぜそこに、なんのために作られたのか」という根源的な、しかも解明不可能に見える謎そのものの存在である。

 

その謎についても百人百様の主張がある。よく知られている論としては、たとえば

 

マチュピチュはインカの王族や貴族の避暑地として建設されたという説。

 

あるいは祭や神事を執り行なうための聖地説。

 

またそこが遺棄されたのは、疫病が流行って人が死に絶えたから、と主張する研究者もいる。

 

いや、そうではなく、気候変動によって山の斜面を削って作られた畑に作物ができなくなり、暮らしていけなくなった人々がそこを捨てた、とする説もある。

 

マチュピチュ遺跡に実際に立ってみての僕の印象は、そこは祭祀のためだけに造形された場所ではないか、という強い感慨だった。

 

アンデスの山中深くに秘匿された森厳な建物群が、押し寄せる濃霧におおい尽くされて姿を消し、霧の動きに合わせては又ぼうと浮かび上がる神秘的なパノラマは、いかにも霊妙な儀式を行なうためだけに意匠された壮大な徒花、という感じが僕にはした。

 

でもそれには矛盾点も多い。たとえば祭祀のためだけの場所にしては、人の住まいのような建物が多いこと。

 

また街のある山の斜面に多くの段々畑が作られて、トウモロコシやジャガイモなどが栽培されていたこと。

そういう作物は神事にも使用するだろうが、それにしては畑の規模が大きい。やはり住民の食料として生産されていた、と考えるのが理に叶うようである。

 

さらに街そのものも、宗教儀式のためだけの施設と見なすには、畑同様に規模が大き過ぎるように見える。

 

それらはほんの一例に過ぎない。マチュピチュには他にもたくさんの矛盾や疑問や驚きがある。しかし、僕にはどうしてもやっぱりそこが、神聖な儀式のための大がかりな設備、というふうに見えて仕方がなかった。

 

マチュピチュには俗なるものが一切ないように僕の目には映ったのだ。その位置する場所、山岳に秘匿された地勢、景観、あらゆる造形物の玄妙なたたずまい、空気感、茫々たる自然・・それらの一切が聖なる秘儀にふさわしい組み合わせ、お膳立てのように見える。

 

そうした印象はもちろん、マチュピチュの失われた時を偲ぶ、僕の感傷がもたらすものに違いない。

しかし、いかなる具体的な描写や考察をもってしても表現できないであろうマチュピチュの美は、そうした感傷や旅愁や感激や深いため息などといった、いかにも「理不尽」な人の感性によってしか把握できない場合が多い、歴史の深淵そのものなのである。
 

 

イタリアもマジにゾンビ復活?




総選挙までほぼ2週間となった現在、イタリアの選挙戦がいよいよ熱気を帯びてきた。劣勢が伝えられていたベルルスコーニ前首相派が巻き返して、情勢が混沌としてきたのである。そこに今日、左派内の不協和音が伝えられて、いよいよベルルスコーニ前首相の鼻息が荒くなってきた。

 

選挙戦初期の頃は、モンティ首相と組む民主党が優勢と見られていた。ベルルスコーニ派の造反で崩壊したモンティ政権だが、総選挙で勝利したあと民主党のベルサーニ書記長の首相就任がない場合は、現首相が再任されるとも見られていたのである(モンティ首相は辞任を表明している)。

 

ベルルスコーニ派はモンティ政権の財政緊縮策、とりわけ極重量級の増税措置を激しく批判して支持を広げてきた。モンティ首相は就任直後から税制改革を断行して「国民が平等に痛みを分かち合う」をモットーに、崩壊の危機にあるイタリアの国家財政を立て直すために突き進んできた。

 

私見を言えば、彼の行く道筋は間違っていないと思う。イタリアは財政再建をきちんとやらなければならない。しかし、やり方が性急に過ぎる。増税比率も大き過ぎる。

 

以前にも書いたことだが、僕はたまたまこの国に多い旧家などの実情を見知っているので、モンティ首相の財政策の危うさを肌身で感じている。

 

彼は政策の方向性は変えずに政策の中身を変えるべきである。つまり改革のスピードを少し落として、増税幅も縮小した方がいい。それでなければイタリア経済はさらに失速して危険水域にのめり込んでいくばかりだろう。

 

ベルルスコーニ前首相は、選挙で勝った暁にはモンティ政権が徴収した税金の一部を現金で各家庭に返還する、とまで公言して支持拡大に躍起になっている。国家財政を破綻の淵まで追い込んだ自らの責任を棚に上げての、凄まじいポピュリズムではないか。

 

イタリア国民の多くは、国家財政への憂慮や経済の先行きへの不安、という大局的な理由からではなく、日々の暮らしの苦しさから、ベルルスコーニ派の空中楼閣的な政策論争にうなずく者が増えている。由々しい事態である。

 

僕はベルルスコーニ前首相に個人的な怨みがあるわけでもなく、モンティ首相や彼の仲間の左派民主党に肩入れをしているわけでもない。イタリアは財政規律を何よりも最優先にして政策を立て直すべきだ、と考えるからベルルスコーニ派のポピュリズムを厭う。しかし、民主党など左派の伝統的かつ極端な経済政策もまた修正するべき、とも考えるのである。

 

そうしたイタリアの状況を見るとき、僕はやっぱり日本の現実との比較をしないではいられない。ベルルスコーニの無責任な大衆迎合指向はアベノミクスと重なって見える。

 

アベノミクスは今のところはとてもうまく行っていると思う。財政規律を無視した空中楼閣的な政策ながら、景気は気なり、の言葉通りに人々の期待や思惑や欲望がポジティブに作用して、順調な経過をたどっている。

 

その状態が長く続けば、空中楼閣はいつか実体になって、日本経済は真に立ち直るかもしれない。それを期待しつつも、僕はやっぱり借金の上に借金を重ねるアベノミクスを危惧する。

まず財政規律を改革の一丁目一番地に据えた上で、景気浮揚策を考えるべきだと思う。

 

財政規律と景気浮揚策は往々にして対立するものである。でも日本の場合はそんなことを言ってはいられないと感じる。国の借金が1000兆円。国民一人当たり750万円にもなる莫大な財政赤字を減らす算段をしてから、景気浮揚策を練るべきではないか。

国が沈没しかねない状況で、一時しのぎの祭を演出して苦境を忘れようとするのは間違っている。日本もイタリアも・・

 

僕は妻の実家の伯爵家の税金対策に翻弄される苦しい毎日の中で、苦しいけれどもそれはイタリアにとって必要な大手術なのだから、何世紀にもわたって特権を享受してきた伯爵家の義務だと考えて、政府の緊縮増税策を支持し、それに添う形で動いている。今のところはそれが僕の嘘偽りのない心境である。

 

ただ、再び繰り返しになるが、モンティ政権のやり方は方向性は間違っていないものの、動きが急激に過ぎて危険だとは強く思う。 


初競りマグロvsベルルスコーニ



少し旧聞じみてしまったが、年初の築地市場でマグロの初競り値が1億5500万円余りと聞いて、僕はすぐにイタリアのベルルスコーニ前首相が、離婚する妻に月300万ユーロ、1日当たり約1100万円もの慰謝料を支払い続ける様を連想した。

どちらも現実離れした金額で、ちょっと面はゆい言葉ながらあえて言えば、極めて「反道徳的」だとさえ感じる。


不況と日本経済の衰退が問題視される中で、いくら宣伝効果を狙った競り値だとはいえ、マグロが1キロ約70万円、寿司にして1貫当たり4万~5万円もするなんて、どう考えても行き過ぎではないか。

同じように、イタリアの財政危機が叫ばれて国民全てが増税と政府の財政緊縮策に苦しんでいるさなかに、そのイタリア危機をもたらした張本人でもあるベルルスコーニ前首相が、離婚慰謝料として日々1千万円余りもの大金を元妻に払い続ける事態は、とても醜悪でやりきれないことのように思う。

餓死者こそ出ないものの、イタリア経済はまさにどん底の状況にあるのだ。莫大(ばくだい)な慰謝料のせめて半分は元妻ではなく、大赤字の国庫に納めろ、とベルルスコーニ前首相に言ってみたくなるほどである。

しかし、別の見方をすれば、経済不振や財政危機に苦しむ日伊両国だが、目玉が飛び出るような金額がばかげた事例に使われるほど2国は裕福であり、悠長で平和な社会であることの証だとも言える。

従って、それはもしかすると喜ぶべきことなのかもしれない、とまったく正反対のことも考えたりする年の初めだった。



 

ペルー旅 ~霊章~ 



クスコ経由マチュピチュまで

ペルーでは多くの恐怖体験を含む鮮烈過激な旅を続けたあと、仕事抜きの純粋に「旅を楽しむ旅」がやってきた。世界遺産マチュピチュ行である。

 

マチュピチュのあるクスコ県行きの飛行機が発着するのは首都リマのホルヘ・チャベス国際空港。ペルー入国後は立ち寄ることがなかった首都に回って、そこから空路南のクスコへ向かった。

 

クスコ県の県都クスコは、標高3600Mにある人口30万人の街。かつてのインカ帝国の首都でもある。クスコは1530年代にフランシスコ・ピ
サロ率いるスペイン人征服者によって占領破壊された。

 

スペイン人はその後、破壊したインカの建物跡の土台や壁などを利用してスペイン風の建築物を多く建立した。そうやってインカの建築技術とスペインの工法が融合した。二つの文明文化が一体化して造形された市街は美しく、その歴史的意義も評価されてクスコは世界遺産に指定されている。

 

クスコ郊外のサクサイワマン遺跡などを見て回ったあと、車でオリャンタイタンボに至る。オリャンタイタンボにもインカの遺跡が多く残っている。いずこも心踊る山並み、街並み、風景、そして雰囲気。それらを堪能して、列車でいよいよマチュピチュへ。


 

インカの失われた都市

マチュピチュ遺跡は、列車の終点アグエスカリエンテ駅のあるマチュピチュ村からバスでさらに30分登った、アンデス山脈中にある。

山頂の尾根の広がりに構築された街は、周囲を自身よりもさらに高い険しい峰々に囲まれている。平地に似た熱帯雨林が鬱蒼と繁るそれらの山々にはひんぱんに雲が湧き、霞がかかり、風雨が生成されて、天空都市あるいは失われたインカ都市などとも呼ばれるマチュピチュにも押し寄せては視界をさえぎる。

2012年10月23日の朝も、マチュピチュには深い霧が立ち込めていた。麓から見上げれば雲そのものに違いない濃霧は、やがて雨に変わり、しばらくしてそれは止んだが、遺跡は立ち込める霧の中から姿をあらわしたりまた隠れたりして、茫々として静謐、かつ神秘的な形貌を片時も絶えることなく見せ続けていた。

 

マチュピチュの標高は2300Mから2400mほど。それまで標高ほぼ5000Mもの峠越えを3回に渡って体験し、平均3700M付近の高地を移動し続けてきた僕にとっては、天空都市はいわば「低地」のようなものである。インカ帝国の首都だった近郊のクスコと比較しても、マチュピチュは1000M以上も低い土地に作られているのだ。

 

ところがそこは、これまで経験してきたどの山地の集落や遺跡よりもはるかな高みに位置するような印象を与えるのである。遺跡が崖に囲まれた山頂の尾根に広がり、外縁にはアンデス山脈の高峰がぐるりと聳えている地形が、そんな不思議な錯覚をもたらすものらしい。

マチュピチュはまた、自らが乗る山と、附近の山々に繁茂する原生林に視界を阻まれているため、麓からはうかがい知れない秘密の地形の中にある。文字通りの秘境である。 

遺跡の古色蒼然とした建物群が、手つかずの熱帯山岳に護られるようにしてうずくまっている様子は、神秘的で荘厳。あたかも昔日の生気をあたりに発散しているかのようである。同時にそこには、悲壮と形容しても過言ではない強い哀感も漂っている。


遺跡の美とはなにか

古い町並や建造物などの遺跡が人の心を打つのは、それがただ単に古かったり、巨大だったり、珍しかったりするからではない。それが「人にとって必要なもの」だったからに他ならないのである。 


必要だから人はそれを壊さずに大切に守り、残し、修復し、あるいは改装したりして使い続けた。そして人間にとって必要なものとは、多くの場合機能的であり、便利であり、役立つものであり、かつ丈夫なものだった。そして使い続けられるうちにそれらの物には人の気がこもり、物はただの物ではなくなって、精神的な何かがこもった「もの」へと変貌し、一つの真理となってわれわれの心をはげしく揺さぶる。

精神的な何か、とは言うまでもなく、歴史と呼ばれ伝統と形容される時間と空間の凝縮体である。つまり使われ続けたことから来る入魂にも似た人々の息吹のようなもの。それを感じてわれわれは感動する。淘汰されずに生きのびたものが歴史遺産であり、歴史の美とは、必要に駆られて「人間が残すと決めたもの」の具象であり、また抽象そのものである。

マチュピチュの遺跡はインカの人々が必要としたものである。必要だったから彼らはそれを作り上げたのだ。しかしそれはわずか100年後には遺棄された。つまり、今われわれの目の前にあるマチュピチュの建物群は、その後も常に人々に必要とされて保護され、維持され、使用されてきたものではない。それどころか用済みとなって打ち捨てられたものである。

もしもマチュピチュにインカの人々が住み続けていたならば、スペイン人征服者らは必ずそこにも到達し、他のインカの領地同様に占領破壊し尽くしていただろう。マチュピチュは「捨てられたからこそ生き残った」という歴史の不条理を体現している異様な場所でもあるのだ。

マチュピチュをおおっている強い哀愁はその不条理がもたらすものに違いない。必要とされなかったにも関わらず残存し、スペイン人征服者によって破壊し尽くされたであろう宿命からも逃れて、マチュピチュ遺跡は何層にもわたって積み重なり封印されたインカびとの悲劇の残滓と共に、熱帯の深山幽谷にひっそりと横たわっている。

そうした尋常ではないマチュピチュの歴史が、目前に展開される厳粛な景色と重なり合って思い出されるとき、われわれは困惑し、魅了され、圧倒的なおどろきの世界へと迷い込んでは、深甚な感動のただ中に立ち尽くして飽きないのである。

 

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