【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2013年04月

イタリア、連立政権発足なるか



再選されたばかりのナポリターノ・イタリア大統領は4月24日、民主党のエンリコ・レッタ前副書記長に組閣要請をした。

 

レッタ氏はベルルスコーニ前首相率いる中道右派とモンティ首相のグループ市民の選択に連立を打診する。

 

レッタ氏はイタリア政界では若い46歳。組閣に成功すれば新世代の宰相の誕生となる。

 

ナポリターノ大統領が選ぶ首相候補の筆頭は、当初ジュリアーノ・アマート元首相だと見られていた。

レッタ氏の名前も挙がっていたが彼は二番手、或いは三番手と言われた。

 

レッタ氏はベルルスコーニ前首相の右腕と言われたジャンに・レッタ氏の甥にあたる。このあたりの事実がどうもクセ者だと僕には見える。

したたかなベルルスコーニさんは、ナポリターノ大統領をたらし込んで、いわば身内を首相候補に仕立て上げた?

 

その真相はやがて明るみに出るだろう。

ともあれ今は、連立政権を船出させてイタリア丸を運航するのが、喫緊の課題だから若いレッタ氏の手腕に期待したいと思う。

 


イタリア、ナポリターノ大統領再選が意味するもの



混迷を極めていたイタリア大統領選挙は、現職のナポリターノ大統領を、国が崩壊してもおかしくない土壇場で再選して終了した。全1007票のうち、自派の候補に固執した五つ星運動系の200余票を差し引いた、約800票中738票を獲得しての当選だから、心情的にはほぼ全会一致の再選、と形容しても良いだろう。

 

4月18日に始まった大統領選挙は、議会2大勢力である中道左派と中道右派の確執、一転しての協力合意、そして裏切り、とドラマチックに展開した。そこには左派の中核である民主党の内部分裂が深く関わっていて、求心力を失った同党のベルサーニ書記長は、大統領選挙後に辞任すると表明。

 

民主党の内紛のあおりを食って大統領選挙は完全に暗礁に乗り上げた。もはやどうにもならないと国中が絶望感に陥った時、なんと辞任を表明したベルサーニ民主党書記長、その天敵のベルルスコーニ前首相、さらに辞任が決まっているモンティ首相の3人が、個別にナポリターノ大統領を訪ねて続投を懇願した。

 

間もなく88歳になる同大統領は、高齢を理由に二期目の大統領選出馬を固辞し続けてきた。しかし、現状、政府さえも存在しないに等しいイタリアの政治混乱に、さらに輪をかけることが確実になった事態を憂慮した大統領は、「国に対する私の責任がある」と悲痛な心境を告白して、ついに3者の要請を受け入れた。

 

その直後に行なわれた6回目の投票で、ナポリターノ大統領はイタリア共和国史上初めて、2期14年を務める国家元首の地位に就くことが決まった。ここから7年の任期を終える頃には、ほぼ95歳になる同大統領は、政治混乱が収束した暁には途中退位すると見られている。が、自己犠牲の発露以外の何ものでもない、勇気ある決断をした老大統領の真情に、イタリア国民の多くは深い敬意を表している。

 

イタリア大統領には、議会解散権や首相任命権、また国民投票実施の権限などが与えられている。しかしそれらは、政治混乱が甚だしい現在のような国の状況でこそ重みを持つが、普段は儀礼的な役割を務める象徴的な国家元首、という面が強い。

 

それでも、イタリア財政危機に端を発した政治混乱の中で、ナポリターノ大統領が見せ続けた誠実な言動と指導力は、まるで無政府状態のように紛糾・空転するイタリア共和国を一つに繋ぎとめる効力があった。その最たる証拠とも言えるのが、大統領選3日目の4月20日の出来事である。

つまり、極限の政治混迷の中で議会が四面楚歌に陥ったその日、徹底的にいがみ合っていた右派のベルルスコーニ前首相と左派民主党のベルサーニ書記長、さらにモンティ首相の3人が、図らずもそれぞれが大統領府に赴いて、任期切れ間近のナポリターノ大統領に再出馬を要請したのである。

僕は今「図らずも」と言った。でも実は、彼らは多分それを「図った」のである。つまり3人は、大統領に面会する前に既に対立を脇に置いていて、政治混乱を収束させる方向に動こう、ということで一つにまとまっていたに違いない。そして彼らのその動きは、ナポリターノ大統領の再選となって見事に結実した。

再選されて任期が伸びたナポリターノ大統領は、議会の解散や総選挙の実施ができるようになった。だが、実は彼が望んでいるのは、政党間の亀裂が再び広がりかねない総選挙ではなく、あらゆる会派が集って作る連立政権である。現実的にはベルルスコーニ前首相の自由国民と書記長辞任を表明したベルサーニ氏の民主党、それにモンティ首相の少数会派「市民の選択」の話し合いによる連立政権が目標となる。

 

その場合、首相候補として名前が挙がっているのは民主党のジュリアーノ・アマート元首相、あるいは同党のエンリコ・レッタ副書記長。また、もしもそこで合意形成が成されないときは、ナポリターノ大統領とモンティ現首相が率いる暫定内閣の可能性も取り沙汰されている。

 

それとは全く違うシナリオも考えられると思う。

大統領には恐らくしおらしい言葉で再出馬を懇願したであろうベルルスコーニ前首相が、豹変して再び解散総選挙を要求することである。彼は大統領候補としても名前が挙がっていたアマート元首相を、連立政権の首班として受け入れるのには問題がないと考えられている。しかし分裂の危機にある民主党が一枚岩にならない時は、大統領選挙を通して弱体化した同党がさらに地盤沈下したと見て、総選挙に打って出たい欲求に駆られるに違いない。

一筋縄ではいかないしたたかな男がベルルスコーニ前首相なのである。

 

ベルルスコーニ前首相、ベルサーニ民主党書記長、モンティ首相という政界の重鎮が、手を携えてナポリターノ大統領の再選を演出したのは、政治混乱の収拾に向けた大きな一歩だった。しかし、多くの思惑が入り乱れて横行闊歩するマキャベリの母国、ここイタリアの政界のことである。先行きは全く不透明だと言わざるを得ない。

 

ただ今回の大統領選挙の騒動で明らかになったことが一つだけあると僕は思う。つまりこのまま既成政党間の連立が成って政権が樹立された場合、大きな政治のうねりを作ってきた五つ星運動の勢いが、かなり殺がれていくのではないか、ということである。

五つ星運動は、大統領選挙でも決して妥協せず、自らが立てた候補に固執した。それどころか、ナポリターノ大統領の再選にさえ、激しく反発した。それが彼らの真骨頂なのだが、政局の混乱を全く意に介していないことが明らかな身勝手な動きは、やはり異様なものに見えた。

既成政党や政治家の腐敗を痛烈に告発した、五つ星運動の功績は断じて無くなることはないだろう。が、今のままでは五つ星運動は、反対のための反対に終始するだけの、ただの「抗議勢力」に留まるのみで、実際に政権運営に関わるような、責任ある真の政党にはなり得ないのではないか、とも思うのである。

 

混迷の度合い深まるイタリア大統領選挙


4月18日に始まったイタリア大統領選挙は、中道左派・民主党の混乱、分裂で紛糾している。

 

民主党は当初、右派連合のベルルスコーニ前首相と同党のベルサーニ書記長が裏取引で決めた大統領候補、フランコ・マリーニ元上院議長を担いで初日の投票に臨んだ。だが、民主党内には右派のベルルスコーニ前首相と取引をした書記長への反発が強く、あえなく頓挫。マリーニ元上院議長の目は初日でなくなった。

 

19日朝、民主党は急ぎロマーノ・プロディ元首相に乗り換えて投票に臨んだ。前日まで共闘していたベルルスコーニ率いる右派はその選択に激怒した。プロディ氏はベルルスコーニ前首相を総選挙で2度破っている不倶戴天の敵だからだ。

 

しかしプロディ元首相は、民主党内の造反者にも受けの良い候補。これで党内の融和が図られ、加えて五つ星運動の支持も得られる可能性がわずかながらあった。しかし、当選に必要な票数が3分の2から過半数に軽減されたにも関わらず、プロディ氏も惨敗。

 

民主党内の書記長への不信と怒りは収まるどころか増幅されていて、造反者がさらに増えていた。この屈辱の結果に切れたベルサーニ書記長は、自らの不徳を棚に上げて、民主党議員の4人に1人は裏切り者。それが我慢できないから大統領選挙後に書記長を辞任すると表明した。だが、そのことを悲しんで泣く者はどこにもいない。

 

20日朝、5回目の投票でももちろん当選者は出ず、政権の行方と同様に大統領選挙も完全に行き詰まったと見えた。ところが、午後の投票を前に、ナポリターノ現大統領がマリオ・モンティ首相やベルルスコーニ前首相の働きかけに応じて、もう一期務めても良い、と表明した。二期目は一年間の期限付きで、という報道もあるが詳細は今のところ不明。

 

いずれにしても今日(20日)午後の投票で、ナポリターノ大統領の二期目の当選が決まるかどうか注目される。

イタリア大統領選挙が始まった



2013年4月18日、イタリア大統領選挙が始まった。

 

上下両院議員とイタリア各州代表によって投票が行なわれ、全体の3分の2以上の得票で選出されるが、そこにはちょっと変わった規定がある。

 

投票は1日に2回行なわれ、3回目の投票までは前述の3分の2以上の得票ルールが適用される。しかし、それまでに当選者が出なかった場合、4回目からは単純過半数の得票で大統領が決まる。

 

決定まで一日に何度も投票が繰り返されるところは、先日行なわれたローマ教皇選出会議・コンクラーベにも似ているが、3分の2以上の規定が単純過半数へ、とハードルが下がるところは、何事につけ全体のコンセンサスを得ることが難しい、パッチワーク国家イタリアらしい取り決めである。

 

選挙で有力視されているのは、左派連合のボスのベルサーニ書記長と、右派連合の親分ベルルスコーニ前首相が推す、フランコ・マリーニ元上院議長。

 

天敵同士と形容しても過言ではない左右の顔役が、投票間際になって裏取引をしてマリーニ元上院議長を推すことで合意した。

 

この露骨な談合に左派連合の主流である民主党員が反発。特に党内でベルサーニ書記長のライバルと目されている、若きフイレンツェ市長マッテオ・レンツィ氏(38歳)は、自らが率いる50人以上の仲間に反対票を投じさせると言明。左派連合内の他の議員もこれに追随すると見られている。

 

僅差で左派と右派に対抗している新興勢力、五つ星運動は、元下院副議長で学者のステファノ・ロドタ氏を推している。

 

民主党内の反発はあるものの、今のところフランコ・マリーニ元上院議長が最有力候補であることに変わりはない。しかし、選挙が長引いて左派連合からさらなる造反者が出た場合には、ステファノ・ロドタ氏が大きく浮上する可能性もある。彼は右派のベルルスコーニ氏とは反目する。その分、民主党の 造反票がすべてロドタ氏に流れる、とする見方もある。

 

イタリア大統領は普段は権限のない名誉職の色合いが強い。しかし政局が混乱した時には、大統領は政党間の調整役として動いたり、首班を指名して組閣要請を出したり、議会を解散して総選挙を行なうなどの権限を持つ。例えば2011年11月、ベルルスコーニ内閣が倒れた際には、現職のナポリター の大統領がマリオ・モンティ氏を首相に指名して、組閣要請を出した。イタリア危機に対応するべく素早く動いたのである。

 

しかし、大統領は任期切れまでに半年以上の時間がない場合は、議会を解散したり総選挙を行なってはならない、という規定がある。2月の総選挙で明確な勝者が出なかったイタリアでは、左派と右派と五つ星運動の3勢力が拮抗したまま、政権の樹立もままならない状態が続いている。だが、5月半ばに 任期が切れるナポリターノ大統領は、事態打開のために再び選挙を行なうという選択を取ることができず、政局の混迷は深まる一方だった。

 

新しく選出される大統領の仲介で、新政権が誕生するのか、あるいは再び総選挙になだれ込むのかは誰も分からない。しかし今日から始まる大統領選挙が、膠着した政局を大きく動かす切っ掛けになるであろうことは、イタリア国民の誰もが知っていて且つ大半の国民がそうなることを願っている。

 


似た者同士の五つ星運動・北朝鮮・維新の会

加筆再録

2月の総選挙から大分時間が経った今も、イタリアでは政局が座礁したまま動かず、誰も組閣できない政治混乱が続いている。下院で辛うじて第一党となった左派民主党、ベルルスコーニ前首相率いる右派自由国民、そしてお笑い芸人グリッロ氏率いる新興勢力の五つ星運動がごちゃまぜになって、政治の混 沌を演出しているのである。

 

イタリアの政治騒動は今に始まったことではなく、楽天的な国民はカオスには慣れている。が、政治空白が長引き混乱の度合いが増すに連れて、さすがにため息をつく者が多くなってきた。国民の大半は、政局を王道に戻そうとに懸命に努力するナポリターノ大統領の動きを、半ば諦めつつも固唾を呑んで 見守っている、という風である。

 

間もなく任期切れを迎える87歳の大統領は、それぞれがエゴと欲と野望をむき出しにして対立する3勢力の間を仲介したり、賢者10人委員会 を組織して国の行く末を模索したり、と最後の奉公に躍起になっている。しかしながら、イタリア国民の父とも呼ばれる誠実を絵に描いたような老大統領の働きかけは、3人のオポチュニストには、カエルの面になんとか、状態で一向に埒が開かない。

 

イタリア人は口癖に

「イタリア共和国は常に危急存亡の渦中にある(L`Italia vive sempre in crisi)」

と言う。

 

誕生から150年しか経たないイタリア共和国は、いつも危機的状況の中にある。イタリアは多様な地域の集合体であり、国家の中に多様な地域が存在するのではない。つまり地域の多様性がまず尊重されて国家は存在するというのが、イタリア国民の国民的コンセンサスである。

 

その考え方は都市国家に代表されるかつての自由独立国家群の精神から来ている。イタリア国民は、統一国家の国民であると同時に、心的にはそれぞれがかつての地方国家にも属する。現在の統一国家が強い中央集権体制に固執するのは、もしもそうしなければ、イタリア共和国が明日にでもバラバラに崩壊しかねない危険 性を秘めているからである。

 

その危うさには大きなメリットもある。つまり彼らは国家の危機に対して少しも慌てないのである。危急存亡の時間や事案に慣れ切っている。アドリブで何とか危機を脱することができるとも考えているし、また実際に切り抜ける。彼らは歴史的にそうやって生きてきたのだ。従って今の無政府状態にも似 た政治の混乱も彼らは必ず切り抜ける・・

 

などと思いを巡らせながら、僕はこの国の政治の混迷を眺めている。眺めているうちに気づいたことがある。つまり、右と左の既成2政党の無能無策はさておき、イタリアの今の政局を普段よりもさらに大きな混乱に陥れている五つ星運動が、北朝鮮と日本維新の会に似ている、と思うのである。

 

特に3組織のトップは、酷似している、と言ってもいいくらいだ。つまりベッペ・グリッロ氏と金正恩氏と石原慎太郎さんは、下品で尊大で笑える、という点でぴたりと重なる。組織を独裁者の専横と恐怖政治で運営している点も同じ。

 

北朝鮮は言うまでもないが、五つ星運動もグリッロ氏がメンバーを独断で除籍したり、メディアとの接触を厳しく禁じたり、組織の内実を秘匿したりと、まるでカルト団体かと見紛うばかりの横暴な側面を持つ。

 

この点ではさすがに日本維新の会は同列には並べられないかもしれないが、共同代表の橋下さんは、好戦的で言動が野卑で思い上がりの甚だしい石原さんと手を組む、という巨大な間違いを犯したことで、焦りも手伝ってか独善的な手法での組織の引き締めに躍起になっているようにも見える。

 

維新の会が他の2者と大きく違うところもある。

 

五つ星運動は、党首のグリッロ氏の意味不明の言動や、秘密主義の党運営や、不透明な進路や政策などが明るみになるに連れて、人々の深い困惑を呼んでいる。が、元々はインターネットを駆使して、イタリアの既存の政党や政治家を厳しく断罪し、同時にそれによってグローバルなコミュニケーション・ ネットワークを構築して、将来は世界政府まで樹立しよう、という若々しい理想を掲げている団体である。彼らは少なくとも理念上は、最終的には世界を相手にしようとしているのだ。

 

一方北朝鮮は、脅しや挑発や大嘘によって日米韓を振り回したり、怒らせたり、不安にするなど、違う意味で「世界を相手」にしている。少なくとも東アジア全体に影響を与え、それによって世界にも存在感を示している。

 

この部分では日本維新の会は大いに違う。愛国を装っているだけで、実体は偏狭な排外国粋主義者に過ぎない石原さんが、まるで『引きこもりの暴力愛好家』が壁に向けて吼えるように、世界から顔を背けたまま国内の同種の人々に向かって檄を飛ばすだけの、超ローカルな政治団体に留まってしまっている。

 

北朝鮮は論外だが、彼らはせめて、時代の新しい動きに乗っかったイタリアの五つ星運動の爪の垢でも煎じて飲んで、壁から振り向いて勇気を奮って外出をし、世界を相手に我が国の理想を語り、主張し、行動する、真の意味での愛国者になってほしいものである。

 

 

イギリスはサッチャーの賜物 



エジプトはナイルの賜物。今日あるイギリスはサッチャーの賜物・・


2013年4月8日、サッチャー元英国首相の訃報を聞いて僕はすぐにそんなことを思った。

 

大英帝国からチャーチル、そしてサッチャーへ

それなら英国はチャーチルの賜物でもある、という声が聞こえてきそうだ。だが第二次世界大戦を戦い抜き、勝利した偉大なチャーチルの遺産は、ゆりかごから墓場までと謳われた行き過ぎた社会保障制度に代表される、イギリス国家の浪費と油断と驕りによってすっかり失われ、いわゆる英国病だけが残った。産業革命に始まる大繁栄を経て二度の世界大戦で疲弊し、その疲弊に気づかずにさらに自らを傷つけ続けた黄昏の大国、イギリスに現れたのが鉄の女マーガレット・サッチャーだったのである。

サッチャー元首相が政権を握った頃のイギリスは、まさに重篤の英国病に罹って喘いでいた。英国史上初の女性宰相は、そこに活を入れて社会を大胆に改革した。3期12年近いサッチャー政権をあえてキーワードで括れば「小さな政府」「自由主義経済」「規制緩和」「競争原理」「緊縮財政」「英米蜜月」「EC(後のヨーロッパ連合)との対立、あるいは垣根越しの友情」「武力行使を含む毅然とした外交」などなど・・と言えるだろう。

サッチャー元首相は、それらの政策を強力に推し進めて、英国病と嘲笑され、荒廃し、弛緩しきった老大国イギリスの政治・経済・社会を再生させた。あるいは再生への道筋をしっかりと示した。その後に続いたジョン・メジャー、トニー・ブレア、ゴードン・ブラウン、そして現職のディヴィッド・キャメロン政権は、マーガレット・サッチャーが新しく敷き直したレールの上を楽々と走り、今も走っているに過ぎない、と主張してもあながち過言ではないだろう。功罪を併せて、まさに「今日あるイギリスはサッチャーの賜物」なのである。

巨星をあえて私ごと的視点から見ると

1979年、マーガレット・サッチャーが政権に就いて、1982年にフォークランド紛争で果敢に軍事力を行使するまでの一部始終を、僕は実際に英国に住んで間近に目撃・実体験した。ちょうどその頃、僕はロンドンの映画学校で学んでいたのだ。

颯爽と登場したサッチャー首相のやる事なす事の全ては鮮烈だったが、彼女が打ち出した改革政策は、怠け癖が骨の髄まで沁み込んだ当時の英国民だけではなく、外国人にも厳しく対する内容で、東洋から来た貧乏学生の僕にとっても結構つらいものがあった。

その最たるものは、全ての留学生はイギリス国内で仕事をしなくても勉強を続けて行けるだけの十分な資金を有していることを、内務省に証明しなければならない、とする制度だった。簡単に言えばビザの更新の度に銀行口座の残高を示して、十分に学資があることを証明するのだ。それができなければ滞在許可が下りないから帰国するしかなかった。

それは、勉強にかこつけて仕事ばかりをしている外国人がいて、彼らがイギリス人の仕事を奪っている、とする外国人排斥意識を正当化した立法措置だった。今の日本などにも垣間見える、経済不振に喘ぐ先進国にありがちな度量の狭い、ほとんど言いがかりでしかない政治の動きだった。だが当時は、次々に新しいアイデアを繰り出すサッチャー首相の、さらなる名案だとさえ考えられたのだった。

学費を含む当時の僕の留学資金は乏しく、アルバイトをしながら生活費を稼ぐような境遇だった。そこで僕は金持ちのアラブ人やイラン人などの友人に頼み込んで金を借り、一時的にそれを銀行口座に入れて残高証明をもらって内務省に提出する、ということを繰り返した。金は残高証明を入手するとすぐに引き出して友人らに返還した。

裕福な者はもちろん別だが、多くの貧乏な学生は多かれ少なかれ皆そうやって苦境を乗り越えようとした。それでは埒が開かない場合、EC(欧州経済共同体、後のEU・欧州連合)域内国籍の者と偽装結婚をして、ビザを取得する書類結婚(ペーパー・マリッジ)をする者も続出した。ぶっちゃけた話、僕らのような外国人貧乏留学生にとっては、サッチャー新首相は敵以外の何ものでもなかったのだ。

栄光の3大スーパースター&3大イベント

マーガレット・サッチャーは偉大な政治家であり、スーパー・スターだった。当時でもそうだが今振り返ってみると余計にそんな印象を持つ。スーパー・スターは自身が輝くと同時に、得てして時代そのものの輝きも受ける、という幸運を持ち合わせるものだが、マーガレット・サッチャーの場合もまさしくそうだったと思う。当時、彼女の輝きに合わせるようにたくさんの出来事や、事件や、人物や、異変や、椿事が発生しては時代を疾駆して行った。僕の記憶の中では、特に3つのイベントがサッチャー首相と深く結びついて絡みつき、さんざめいて、今も鮮明に思い出される。

その3つのイベントとは、ジョン・レノンの暗殺、ダイアナ妃の結婚、そしてフォークランド紛争である。

サッチャー首相の就任から約一年半後の1980年12月8日、イギリス音楽界の至宝ジョン・レノンがニューヨークで殺害された。彼は当時ニューヨークに居を移していたが、人々の心の中ではイギリスの地に常在している偉大なアーチストにほかならなかった。天才の死を知らせる悲しいニュースが入った日、僕らはロンドン市内のパブに集まって、ラガー・ビールの大ジョッキを片手に「イマジン」を合唱しながら泣いた。それは言葉の遊びではない。僕らは歌いながら皆本当に涙を流したのだ。そうすることで連帯感を感じたのか、あるいは連帯感があるために歌に涙がかぶさったのか、今でも判然としない。多分その両方だったのだろう。

その頃のサッチャー首相は、倦怠と澱みと沈滞が最高潮に達したイギリス社会を改革するべく、強い意志を持って奔走はするものの、まだ政治的に大きな成功を収めるところまでは行かずにいた。そして僕ら留学生はと言うと、サッチャー首相の動きに翻弄されながらも、実は英国病などどうでも良く、彼女の政治経済政策などはもっともっとどうでも良かった。英国社会の最下層にいる若い外国人留学生の僕らにとっては、ジョン・レノンの死の方が何百倍も重要だったのだ。

悲劇の翌年、1981年7月29日には明るい話題が英国を沸かせた。ダイアナ・スペンサー嬢がチャールズ皇太子と結婚したのだ。式典の模様は全世界にテレビ中継されて大きな反響を呼んだが、実はそれは、一回限りの式典そのものよりもさらに大きく且つ継続的に世界の耳目を集めることになる、未来の「英国の薔薇」、ダイアナ妃の誕生の瞬間を世界に知らしめる世紀のショーでもあった。

英国王室の存在意義の一つは、それが観光の目玉だから、という考え方があるが、それは正鵠を射ていると僕は思う。世界の注目を集め、実際に世界中から観光客を呼び込むほどの魅力を持つ英王室は、いわばイギリスのディズニーランドであり、そこの最大の人気キャラクターがダイアナ妃だったのである。


サッチャー、ジョン・レノン、ダイアナ妃という、僕の中のイギリスのスーパー・スター御三家がそうやって出揃い、同時にそれは3大イベントの核心でもあるという、いよいよもって忘れがたい歴史が紡がれて行くことになった。


サッチャーの成功の秘密の一つ

ダイアナ妃の結婚に続いて、
3番目のイベントでありサッチャー首相の政治生命を決定的に輝かせることにもなる大事件が起こった。それが1982年3月に勃発したフォークランド紛争である。サッチャー首相はそこで断固として武力行使に踏み切り、開戦から3ヶ月でアルゼンチン軍を撃破した。

近代装備に身を固めた西側諸国の軍隊同士による史上初の武力激突は、平和ボケした世界の大半を驚愕させたが、その出来事は当事者であるイギリスにもっとも大きな変化をもたらした。

首相就任以来そこまで、経済低迷で不人気だったサッチャー政権は、紛争をきっかけに総選挙に勝利し、政権2期目の組閣を済ませると同時に急進的な経済改革に向けて力強く歩みだした。彼女の真の経済改革は実はこのときから始まったのである。

話が前後するようだが、それらの事件や出来事と平行して、1981年1月20日には、サッチャー政権と蜜月関係を結ぶことになる米国レーガン政権が船出をしていた。真のStatesman(国に命を捧げる覚悟を持つ廉潔な政治家)と呼ぶにふさわしい巨人だったマーガレット・サッチャーは、世界最強の権力保持者であるロナルド・レーガンを説得してフォークランド紛争の味方に引き込んだ。その後は英米一心同体とも形容できる親密な関係を構築して、その事実を後ろ盾にEU・ユーロッパ連合と一定の距離を保ちつつ孤高の道を歩む、という一見不可能に見える政策も徐々に可能にして行ったのである。

 

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