【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2013年08月

ファッションモデルのオッパイ



加筆再録

 


9月恒例のファッションショー「ミラノコレクション」の季節が今年も間もなくやって来る。テレビの取材でそこに出掛けることが良くある。

言うまでもなくミラノは、ニューヨークやパリと並ぶ世界のファッションの流行発信地である。そのミラノの中でも最も重要な、いわば流行発信の震源地、とでも呼べるのがファッションショーの会場である。そこで撮影をする時は僕はいつも相反する二つの感慨に襲われる。それを強く称賛する気持ちと軽侮する気持ちが交錯して我ながら困惑するのである。称賛するのはデザイナーたちの創造性と、ビジネスとしてのファッション及びファッションショーの重さである。

次々に新しいファッションを創り出していくミラノのデザイナーたちは、疑いもなく秀れた才能に恵まれた、かつ厳しいプロフェッショナルの集団である。彼らが生み出すファッションは、どれもこれも一級の芸術品と言っても良いものだが、流行に左右される消費財であるために、作った先から消えていくのでもあるかのような短い命しか持ち得ない。それでも彼らが創造するデザインの芸術的価値は、他のいかなる分野のアートに比べても少しも遜色はないと僕は思う。

 季節ごとに一新される各デザイナーの作品(コレクション)は、ファッションショーで発表され、しかもそのショーの成否が服の売り上げに如実に反映される。ファッションショーは、デザイナーという一人の秀れたクリエイターの作品が評価される場所であるだけではなく、デザイナーの会社(ブランド)の浮沈を賭けた販売戦略そのものでもある。

ビジネスの厳しい真剣勝負の場であるファッションショーでは、アルマーニやフェレやベルサーチ(デザイナーは亡くなったがブランドはフェレ共々健在である)といった、トップデザイナーたちが作った服を、これまた世界のトップの中のトップモデルたちが軽やかに、優雅に、あるいは華麗に着こなして舞台の上を練り歩く。

ショー舞台は客席の方に長く突き出ている。ちょうど歌舞伎の花道が客席の真ん中にどんと突き通された形である。ショー舞台のまわりの客席には、世界中からやって来たバイヤー(服の買い付け屋)やファッション好きの観客が陣取って、きらびやかな衣装に身を包んだモデルたちに熱い視線を送っている。そして客席には、必ずと言っていいほど世界的な映画スターやスポーツ選手やミュージシャンなどが顔を出して(招待されて)いて、ショーに花を添える仕組みになっている。

テレビカメラが回りつづけ写真のフラッシュがひっきりなしにたかれる中で、観客は舞台上のモデルたちを見上げながら、称賛の声を上げたりため息をついたり拍手を送ったりして、ショーを盛り上げる。実に華やかなものである。カッコ良くてエレガントで胸がわくわくするような色彩とスタイルと夢に満ちあふれた催し物である。

同時にファッションショーは変である。  

何が変だと言って、たとえばモデルたちの歩き方ほど変なものはない。ショーの舞台には出たものの、彼女たちは歌を歌ったり踊りを踊ったりする訳ではないから、仕方がない、とばかりに見せるために歩き方に精一杯工夫をこらす。ニコヤカに笑いながら尻をふりふり背筋を伸ばし、前後左右縦横上下、斜曲正面背面膝栗毛、東西南北向こう三軒両隣、右や左の旦那様、とありとあらゆる方角に忙しく体を揺すりながら、彼女たちは舞台の上をかっ歩するのである。そういう歩き方が、最も優雅で洗練された女性の歩行術だ、という暗黙の了解がファッションショーにはある。しかし、宇宙人か少しアタマの変な人間でもない限り人類は街なかでそんな歩き方はしない、と僕は思う。

モデルたちはにぎやかに歩行をくり返しながら、時々ポロリとオッパイをこぼす。これはジョークではない。どう考えても「こぼれた」としか形容の仕方のない現われ方で、モデルたちのきれいなバストがファッションショーではしばしば露出するのである。もちろんそれは着ている服が非常にゆるやかなデザインだったり、ふわりと体にかぶさるだけの形になっていたりするときに起きる。

そういう予期しない事件が起きたときに当のモデルはどうするかというと、実は何もしない。知らんぷりを決め込んで堂々と歩行を続ける。恥じらいもなければ臆することもなく、怒りも何もない。まるでこれは他人様のオッパイです、とでも言わんばかりの態度である。

それではこれを見ている観客はどうするか。彼らも実は何もしない。口笛も吹かなければ拍手もしない。モデルにとっても観客にとっても、この際はファッションだけが重要なのである。だからたまたまこぼれ出たオッパイは無き物に等しい。従って全員が、イチ、ニの、サン!でこれを無視するのである。モッタイナイというか何というか・・・

それはさておき、長身かつプロポーション抜群のモデルたちの着る服は、どれもこれもすばらしく輝いて見える。男の僕が見ても思わず、ウーム、とうなってしまうような素敵なデザインばかりである。何もかもが余りにも決まり過ぎているので、僕はふと心配になる。

(これらのきらびやかな服を、モデルのように長身とはいかないガニ股の、太目の、かつ短足で平鼻の、要するにフツーの人々が着たらどうなるか・・・。これはもう目も当てられない。想像するのも嫌だ。絶対に似合うはずがない!)と僕は想像をめぐらしては身もだえる。

そうしておいて、
(しかし・・・)
と僕はまた気を落ちつかせて考えてみる。

(ファッションショーとは、読んで字のごとく要するに「ショー」であり見世物である。従ってモデルたちが着ている服もショーのために作られたものであり、街なかでフツーの人たちが買う服は、またおのずから違うものであろう・・・)
と。

ところがこれは大間違いなのである。ファッションショーで発表されて話題になった服は飛ぶように売れる。というよりも、ファッションショーで見られなかった服は、たとえ有名デザイナーのそれでもほとんど売れないのが普通だ。だからこそファッションショーには世界中のバイヤーが群がるのであり、デザイナーにとってはショーが創造性とビジネスでの生き残りを賭けた厳しい試練の場となる。

それでは、というので僕はミラノの街に出て、通りを歩く女性たちをじっくりと観察してみる。しかし、いくら目を凝らして見てもファッションショーで見たあのめくるめくように美しい衣装は発見できない。衣装はかならずそこらに出回っているはずだが、一般の人が着ているためにショー会場で見た輝きがなくなって、少しもそれらしく見えないのだ。もちろんモデルのように変な歩き方をする女性もいない。ましてやオッパイをポロリの女性なんか逆立ちしても見当たらない。

単なる見世物かと思えばリアルなビジネスになり、それではその商品を街なかで見てみようとすると実態がない。面食らった僕は、そこでくやしまぎれに結論を下す。
(ファッションショーやファッションなんて要するにその程度のものだ。モデルのオッパイと同じで、あって無きがごとし。ごくごく軽いものなのだ・・・)
と。



ブログ疲れ?


Facebook疲れ、という現象があるそうだ。

 勢い込んでfacebookに投稿を繰り返し、検索し、連絡を取り合い、大いに楽しんだ後にやってくる倦怠感。

 何事につけ、最初の興奮や情熱が少し落ち着くと、興奮は慣れになり情熱はモノトーンに変わる。

 そこでやめてしまうと終りだが、気だるさを克服して再び楽しみを見出すと、その後は長つづきすることが多い。

 僕はFacebookに登録はしているものの、ほとんど利用していないので、興奮も疲れもない。

 ときどきログインして、友達たちの投稿ややり取りを覗いてみるだけである。

 その代わり、どうもブログ疲れのようなものを感じている。

 ブログを始めたばかりの頃は、身の回りにある全てが記事のネタだと思ったが、最近はあまりそんな風には感じない。

 身の回りの出来事や現象や事案は、けっこう繰り返しが多く、それを書いてもだから何なの?みたいな気分になっている。

 これはきっとブログ疲れに違いない。

 でも、投稿している公のブログには書き続けていて、こちらにはまだ疲れは覚えていない。

 時間があまり無いときは、この個人ブログの過去の記事を加筆転載したりもしているからかもしれない。

 それらの記事は、ここにも同時投稿しているから、この個人ブログは一応途切れてはいない。

 しかし、公のブログ記事の場合は、少し身構えて書いていることが多く、自分のブログに書くときの気安さがない。

 それはいいことなのかどうか。今後も試行錯誤を続けていくことになりそうだ。

  個人ブログと公のそれにも関連することだが、「です・ます」調と「だ・である」調の使い分けに今こだわっていて、一本の記事を「です・ます」調締めで書いた後、次の記事を「だ・である」調で書いてみたりしています。

書いてみたりしていますが、この文章の二重構造というか二面性は、けっこう重い意味があるのである。

 このことについては、いつかきちんと書くつもりなので、読んでいただきたいと思います。

 それが今の僕の願いである・・・』

 ね、上の書き方だけを見ても、日本語って不思議な言語だと感じるでしょう?

 


母たちの生き方





悟りとは「いつでもどんな状況でも平気で死ぬ」こと、という説がある。

死を恐れない悟りとは、暴力を孕んだいわば筋肉の悟りであり、勇者の悟りである。

一方「いつでもどんな状況でも平気で生きる」という悟りもある。

不幸や病気や悲しみのどん底にあっても、平然と生き続ける。

そんな悟りを開いた市井の一人が僕の母である。

子沢山だった母は、家族に愛情を注ぎつくして歳月を過ごし、88歳で病に倒れた。

それから4年間の厳しい闘病生活の間、母はひと言の愚痴もこぼさずに静かに生きて、最後は何も分からなくなって眠るように息を引き取った。

療養中も死ぬ時も、母は彼女が生き抜いた年月のように平穏そのものだった。
 
僕は母の温和な生き方に、本人もそれとは自覚しない強い気高い悟りを見たのである。

同時に僕はここイタリアの母、つまり妻の母親にも悟りを開いた人の平穏を見ている。

義母は数年前、子宮ガンを患い全摘出をした。その後、苛烈な化学療法を続けたが、副作用や恐怖や痛みなどの陰惨をおくびにも出さずに毎日を淡々と生きた。

治療が終わった後も義母は無事に日々を過ごして、今年で87歳。ほぼ母が病気で倒れた年齢に達した。

日本の最果ての小さな島で生まれ育った僕の母には、学歴も学問も知識もなかった。あったのは生きる知恵と家族への深い愛情だけである。

片やイタリアの母は、この国の上流階級に生まれてフィレンツェの聖心女学院に学び、常に時代の最先端を歩む女性の一人として人生を送ってきた。学問も知識も後ろ盾もある。

天と地ほども違う境涯を生きてきた二人は、母が知恵と愛によって、また義母は学識と理性によって「悟り」の境地に達したと僕は考えている。

僕の将来の人生の目標は、いつか二人の母親にならうことである。



「2014年W杯決勝で日伊が激突!」というシナリオは絵空事か?



日伊がW杯決勝で相まみえる、なんてことになればとても嬉しいことですが、ま、今の段階では常識的にはあり得ないでしょうね。たとえば日本野球とイタリア野球が対決すれば大人と子供の戦いになる、と思います。日本が大人でイタリアが子供。サッカーではその立場が逆転してしまうのが日伊の実力差ではないでしょうか。大人と子供という例えは少し大げさとしても、日伊の力の差はまだかなり大きい。なにしろ周知のようにイタリアは、ワールドカップをブラジルの5回に次ぐ4回も制している強豪国です。

 日本代表は確実に強くなった

 日本サッカーは強くなりました。時間の記憶が正確ではありませんが、今から20年かそこらほど前に日本代表チームがイタリアに遠征して、こちらのクラブチームのユベントスと対戦したことがあります。雨天の中で行なわれた試合はユベントスが端から日本代表チームを圧倒し続けました。そしてユベントスは3―0になった時点でふいに力を抜き、明らかに手加減を始めたことが分かりました。日本代表のあまりのか弱さに同情したのです。

 イタリア人は日本が好きですから、日本代表をそれ以上痛めつけたくなかったのだろうと思います。その時の日本代表チームはとても存在感が薄く、セリエAで一、二を争う強力軍団のユベントスの前では全くなす術がありませんでした。その圧倒的な力の差はあまりにも明白で、むしろすがすがしいくらいのものでした。

 当時に比べると、日本代表は相当に強くなりました。隔世の感があると言っても過言ではないように思います。日本代表はたとえば今年6月のコ ンフェデ杯では、負けはしたもののイタリア代表チームと互角に渡り合いました。それどころかほとんど勝利を収めるほどの勢いでした。また日本サッカーは多くのセリエA日本人プレーヤーも輩出しています。

 最近の大きなニュースとしては、世界屈指の強豪チームACミランが、本田圭佑選手を獲得しようと本気で動いていることです。さらに究極の嬉しい(僕にとっての)報告としては、その本田選手を辛口のイタリアのスポーツメディアが「ファンタジスタ」と規定していることです。「ファンタジスタ」は選手に対する最高の賞賛であり、日本人プレーヤーに対して初めて使われた称号です。サッカー大好き人間の僕のような者にとって は、そうしたことはなんとも誇らしい「事件」なのです。

 国民総体の後押しが足りない日本

 日本サッカーの進歩をわれわれは素直に喜ぶべきです。たかがサッカー、されど「たかがサッカー」。でもサッカーは楽しく素晴らしく嬉しい。楽しくて素晴らしくて嬉しいサッカーを、自家薬籠中のものにしつつある日本はもっと素晴らしい。しかし、喜びはそこまでです。

 日本のサッカーは「今のままでは」今後何十年、もしかすると何百年経ってもイタリアサッカーに追いつけない可能性があります。従ってW杯決勝戦での日伊激突は永遠にやって来ないかもしれない。悲観的なことを考えるのにはもちろん理由があります。

 最大の懸念は、サッカーに対する日本国民の心がまだまだ十分には熱くない、ということです。あるいは日本国民の心が真っ二つに割れている。 まるで不実な恋人のように、日本国民はサッカーだけに集中できずに常に二心を抱いています。二心のうちの一心は、そうです、野球です。野球が存在する限り日本国民の心は二つに割れ続けてサッカーだけに熱狂することがない。野球とサッカーの間で心が揺れているのが日本人です。

 たとえばサッカー狂を自認する僕でも、実は元々は野球少年です。中学校までは実際にプレーもしました。しかし後年、僕が熱心なファンだったプロ野球チームの老オーナーの傍若無人な言動や、彼の思い上がった精神に強い怒りを覚えて以来、そのチームが嫌いになりやがてプロ野球そのものにも距離感 を覚えるようになってしまいました。それでいながら僕は、今でも大リーグで活躍する日本人選手の動向に一喜一憂し、夏の高校野球には遠いイタリアから熱い視線を送り続けています。事ほど左様に野球は、その人気に陰りが見えてきたとはいえ、まだまだ多くの日本人の心を鷲づかみにしている、というのが現実ではないでしょうか。

 サッカー強国とは「サッカー狂国」のこと

 ヨーロッパではどの国に行っても、サッカーが国技と呼べるほどの人気がありますが、中でもサッカーに身も心も没頭している国はイギリスとイタリアとドイツだとよく言われます。 イギリスはサッカー発祥の地だから分かるとしても、血気盛んなラテン系のイタリア国民と、冷静沈着な北欧系のドイツ国民がサッカーにのめりこんでいる状況は、とても面白いところです

 イタリアとドイツは、ワールドカップの優勝回数がそれぞれ4回と3回と、ヨーロッパの中では他に抜きん出ています。やはり国民が腹からサッカーを愛していることが、両国の強さにつながっているのだとも考えられます。もっとも今挙げた3国のほかにもスペイン、フランス、オランダ、ポルトガル等々、ヨーロッパにはサッカーに熱狂し且つ実力もあるチームがごろごろしている訳ですが。

 豊かな国々のヨーロッパでさえそういう状況です。サッカーに耽溺することぐらいが人生の楽しみ、という貧しい国々も多いアフリカや南米では、人々の心がサッカーへの情熱で熱く燃え盛っているのは周知の通りです。そういう下地があって、南米ではブラジルやアルゼンチンやウルグアイなどのサッカー大国が生まれました。

 日本は国民の総体が心の半分を野球に奪われ続けている限り、いつまで経ってもそれら世界の「サッカー狂」の強豪国には追いつけないのではないか。日本代表チームのテクニックや戦術や精神力といったものは、今後どんどん進歩して世界の強豪国に並びあるいは追い越すこともあるでしょう。しかし、国民総出の後押しがなくてはW杯のような世界の大舞台では勝てない。「クラブチームのサポーターは12人目の選手」と良く言われますが、ナショナルチームへの国を挙げての熱い応援は、12人目どころか13人目、14人目、もしかすると15人目の選手分にも匹敵するほどの力があるのです。

イタリアはなぜ強いのか

 長い間イタリアのプロサッカーリーグ「セリエA」を取材し、観察し続けてきましたが、 そこで最も印象的なことを挙げるとすれば、やはりイタリアのサッカー人口の多さ、裾野の圧倒的な広さだと思います。しかもそれを見つめる国民の情熱が強烈。各地方の我が強く政治的にはまとまりのないのがイタリアという国ですが、サッカーを愛するという一点ではイタリア国民の心はぴたりと一つにまとまっています。それが日本とは比べ物にならないほどに深くて強固で広大なイタリアのサッカー文化を形成しています。

 周知の通りイタリアサッカーは、ディフェンスの堅さからカテナッチョと呼ばれて嫌われたりもします。実はそれはもう陳腐と言っても良いほどの古い見方で、ほとんど偏見の類いに属します。当たり前だけれど、イタリアのサッカーは守備も中盤も攻撃も強い。だからW 杯を4回も制したのです。ただ、たとえばブラジルやスペインなどの、攻撃的で華麗な且つ見ていて楽しいサッカーに比べると、やっぱり守備が強いな、という印象は拭えない。強烈な守備力は勝つためには重要な要素ですが、ディフェンスが前面に出過ぎると、勝ちに行くよりも「負けない」ゲーム運びに見え勝ちですから、その意味ではイタリアサッカーはいつも損をしています。

 もっとも僕はイタリアのプレースタイルを勝手に「玄人好み」と名付けていて、意外性に富んでいながら渋い、深みのあるゲーム展開をするのが特徴だと考えています。堅い守りから電撃的なカウンター攻撃を繰り出すのがイタリアの伝統的な攻撃パターン、とこれまたステレオタイプに考えられ勝ちです。しかし、実は近年はそれは、特にスペインのポゼッションサッカーにも影響されて、大きく変わっています。今やイタリア代表チームの持ち味とは、カウンター攻撃とパス回しでゴールエリアをうかがう戦法を、ざっくりと見て半々程度にまで織り込み血肉化している点だと言えます。

 イタリアのサッカーは変わったのです。相変わらずの鉄壁の守りが変革を見えにくくすることもありますが、攻撃的で華やかになっています。しかし、そういうプレースタイルを持つ世界の強豪チームは、ブラジルを筆頭にアルゼンチン、スペインなど多く存在します。だからイタリアチームが獲得した攻撃性や華やかさは、実際よりも色あせて見えるのです。

 コンフェデ杯日伊決戦では「日本が負けた」のではない

  ンフェデ杯の準決勝でイタリアはスペインに惜敗しました。また周知のように日本は初戦から3連敗して、一次リーグで姿を消しました。日本はコンフェデ杯では完敗したとして、特に国内のサッカーの専門家を中心にほとんどバッシングと言っても良いようなブーイングが起きましたが、本当にそれに相応しいようなブザマな敗退だったのでしょうか?僕は全くそうは思いま せん。

 2試合目のイタリア戦を見れば、日本が相当に力を付けつつあるチームであることは火を見るよりも明らかです。あの試合は「日本が負けた」のではありません。W杯4回制覇の勇者「イタリアが勝った」のです。これは言葉の遊びではありません。日本は実質勝っていたのですが、底力の強大な古豪イタ リアが「勝っている日本に」襲い掛かって、これを「無理やり負かした」のです。つまり現時点での彼我のありのままの力量差が出た、ということにほかなりません。

 言葉を変えれば、日本が弱いのではなく、イタリアがまだ依然として強い。2点のビハインドをひっくり返し、かつ素晴らしい動きでプレッシャーを掛け続けるザックジャパンを、イタリアは苦しみながらも退けた。そこにこそイタリアサッカーの実力があります。もしもあれがイタリアではなく、スペイン、ドイツ、ブラジル、アルゼンチンなどであったとしても、恐らく同じようなことが起こった可能性が高い。「ブラジルには初戦で3-0で負けている、寝言を言うな」と揚げ足を取らないで下さい。ここでは飽くまでも日本チームの「今現在」の実力を、敢えてイタリア戦にからめて語ろうと試みているだけです。

 日本はメキシコにも敗れて結局決勝トーナメント進出はなりませんでした。しかし僕はその事実をもって代表チームを否定する気には全くなりません。この前の記事にも書きましたが、コンフェデ杯出場8チームのうち、日本が確実に実力で勝っていたのはタヒチだけです。欧州と中南米のチームはもちろん、アフリカの強豪国ナイジェリアにも力負けしていた可能性が高い。言うまでもないことでしょうが、サッカーのアジア王者の実力は世界的にはまだまだ低いと考えるべきです。

 ザック批判ばかりでは日本は強くならない

   ンフェデ杯3連敗の厳しい結果を見て、日本ではザック監督へのバッシングも起こりましたね。このことにも僕は違和感を覚えました。3連敗の責任は、選手同様もちろん大いに監督にもあります。従って監督は批判されても良しとしなければならない。しかし、監督を替えればチームが突然強くなる、と言わんばかりの主張や分析は少しおかしいと思います。繰り返しますが敗戦の責任は監督にも多々あるので彼は批判されて然るべきです。しかしザック監督は、就任以来日本サッカーの向上のために大いに働いてきたこともまた事実だと思います。その証拠として世界一番乗りで2014年W杯出場を決めたことを挙げるだけでも十分でしょう。

 彼は世界屈指のサッカー指導者生産国であるイタリアにおいても、一目置かれている存在です。ミラン、インテル、ユベントスのイタリアセリエA御三家の監督にもなりました。イタリアには多くの優秀な指導者がいますが、セリエA御三家全ての監督を歴任したのは、ザック監督のほかには2002年W杯日韓開催時のイタリア代表監督であり、この国随一のサッカー指導者とも見なされているジョヴァンニ・トラッパトーニ監督がいるだけです。その事実は決して小さくありません。

 経験豊富な監督であるアルベルト・ザッケローニは、日本大表チームにヨーロッパの風を吹き込んでチームの底上げに成功した。それなのにコンフェデ杯での3敗を理由に彼を解雇するべきと、短絡的に主張するのはどうでしょうか。百歩譲ってザッケローニを解任したとして、それでは次は一体誰を監督にすれば日本チームは強くなるというのでしょうか?ペップ・グアルディオラ?ジョゼ・モウリーニョ?ビセンテ・デル・ボスケ?ブラジルのスコラーリ?あるいはマンチェスターUを長年率いたアレックス・ファーガソン?その誰でもありません。それらの世界的な「勝ち組」の監督が日本代表チームを率いても、日本が「突然」今以上に強くなることはないのです。

 監督がチームを変えるのではなく、チームが監督を変える

 分り易く極端な例で言います。たとえば中学生のサッカーチームにどんなに偉大な監督を据えてもW杯で優勝できるチームにはなりません。監督はいかに優れた者でも、チームの力量の中でしか戦術を立てることはできないのです。言葉を替えれば監督はチームを変えることはない。チームが監督を変えるのです。つまり、チームの力を見抜いて、自らをそれに合わせてチームの力を最大限に引き出すのが監督の仕事です。その作業の連続がやがてチームの力の底上げを招く。優れた監督は各クラブやナショナルチームを渡り歩くたびに、常にそうやってこれを指導しています。

 例えばスペイン代表チームを率いて目覚ましい戦果を挙げ続けているデル・ボスケ監督が、明日から日本代表監督に就任したとします。でも彼は、逆立ちしてもすぐさま日本代表チームをスペイン代表のように作り変えることはできません。彼はもちろんザッケローニ監督とは違う指導をするでしょう。が、それは飽くまでも日本代表のレベル内での改善や戦術転換や展開であって、日本代表チームが自らの限界を超えて突然違うチームに変身する訳ではないのです。ザック監督を更迭すれば、日本代表チームが魔法のように生まれ変わって、コンフェデ杯やW杯で快進撃をするだろう、とでも言いたげな主張はちょっとどうかと思います。

 チームが不振続きの場合、監督の首をすげ替えるのは世界のプロチームの常套手段です。それには戦略や方向性を含む全てのチームカラーを一気に変えてしまおうという意味と、チームに活を入れる、つまりショック療法で不振の連鎖を断ち切るという意味があります。従ってザッケローニ監督を解任するのはもちろん「あり」です。しかし、繰り返しになりますが、それによって日本チームが突然ブラジルやスペインのレベルにジャンプアップするのではないのです。

 日本代表は脱亜入欧を目指せ

 日本チームの最大の課題は、アジアという低レベルの土俵が主戦場である点です。強豪がひしめく南米や欧州の舞台に立つためには、そこで勝って国際大会への出場権を得るか、親善試合で世界のトップクラスと相まみえるかですが、国際大会へは常に出場できるとは限らず、また親善試合では本気の戦いは望めず、従ってレベルの向上には余りつながらない。そんなハンディキャップを背負っていますから、せめて監督ぐらいは世界の実情を知り世界に通じる「外国人」にした方がいいと思います。

 日本人監督の場合、いかに優れた指導者であっても、時どき「世界の感覚」に欠けるケースもあるように見受けられます。たとえ世界感覚を体得しているように見えても、やはり彼はアジアの島国である日本の土壌から完全に自由であることはできないのです。つまりそれは世界土俵では、島国的視野や思惑や感性に捉われて限界に見舞われやすいということを意味します。従って日本代表チームが「世界感覚」をしっかりと身に付けるまでは、欧州や南米など、サッカー文化が強固に根付いた国々の指導者を監督に迎え続けた方がいい、と考えるのです。

 そうやって代表チームが徐々に世界感覚を体得し、そこでプレーした選手やスタッフが恩恵を受けて彼らも世界的な感覚を身に付けて行き、やがて将来彼らの中から指 導者が生まれた時、日本は国際的にも堂々と渡り合える和製監督を獲得することになります。日本代表チームが強くなるとは、将来優れた監督が日本に続々と誕生することも意味しているのです。

 その場限りのチーム批判や監督バッシングは脇に置いて、長期的な視野に立ってサッカーの裾野をさらに広げること、つまり日本国民の心を分断している野球との競合に勝つこと。同時にアジアのさらに先に広がる「世界のサッカーの感覚」を育てること。これが日本サッカーを真に強くする秘訣だと考えます。その二つの課題を達成した上で、日本の特徴であるスピード、テクニック、組織力、運動力などにさらに磨きをかけて行けば、W杯の決勝で日本とイタリ アが激突!という血湧き肉踊るような夢の舞台の出現も、きっと夢ではなくなるものと僕は密かに期待しています。


ベルルスコーニ有罪判決が意味するもの


ベルルスコーニ元首相に実刑判決が下った。ついに彼の終りが始まった、と言いたいところだが、世紀の大政治喜劇役者の命脈はどっこいまだ断ち切られていないのかもしれない。

イタリア最高裁(破毀院)は、脱税事件で起訴されていたベルルスコーニ 氏に禁錮4年の有罪判決を言い渡した。また2審のミラノ高裁判決「禁錮4年、公職追放5年」のうち、公職追放は認めたが、その期間については支持せずに高 裁に差し戻した(6年に確定)。この意味するところは、元首相は今のところは上院議員の地位は剥奪されず、彼の政治活動の牙城である自由国民党党首の地位も守られる、と いうことである。

元首相は、高裁による公職追放期間の再審理後には上院議員の資格も確実 に失うことになった。だが90年台半ば以来、ほぼ20年の長きに渡ってイタリア政界を牛耳ってきた男は、大いなる知恵者であり寝業師でもある。今後も多く の訴訟事案を抱えている事情もあって、政財界はもちろん司法にも影響力を行使し続けたい彼は、死に物狂いで反撃に打って出ることになるだろう。事実最高裁 の判決が出た直後から、元首相と自由国民党の幹部は司法改革を要求し、それが成されなければ総選挙を実施するべき、と声高に主張し始めた。政界での生き残 りを賭けた元首相の揺さぶりが既に始まったのである。

ベルルスコーニ氏は数々のスキャンダルにまみれ、30余の裁判事例を抱 えながら、自らの政治力を有効に使って全てを有利に運んできたが、今回初めて最高裁で4年の実刑を言い渡された。しかしそれは、刑務所の過密収監状態を緩 和するために制定された恩赦法によって、禁錮1年に減刑された。70歳以上の罪人の禁錮刑は自宅軟禁または社会奉仕活動で代替することができ、元首相は 30日以内にどちらを選ぶかを決めることになる。

最高裁で断罪されたとは言うものの、元首相の「終りが始まった」と考えるのは早計だと思う。なぜなら公職追放期間が高裁に差し戻されて再審理となった事実が、ベルルスコーニ氏の「終りの始まり」を阻む可能性があると考えるからである。

この審理差し戻しこそ玉虫色の政治決着である。なぜなら元首相は下級審での審理が結審するまでは上院議員や自由国民党党首に留まることができる。最高裁の決定は、元首相をただちに公職から追放することで起きるであろう、政界の大混乱を避けたものである。

い政治混乱を経てようやく樹立されたイタリア民主党のレッタ現政権は、元首相の王国である自由国民党との連携で辛うじて命脈を保っている。イタリア危機が 叫ばれ、深刻な財政危機に伴う不況からの脱出の出口が全く見えない現在のこの国の状況では、少なくとも現政権の安泰は絶対に必要なものである。イタリア政 財界はもとより、EU連合構成国や米国などの水面下でのプレッシャーにも後押しされて、イタリア最高裁は苦肉の策で公職禁止期間の差し戻しを決定した。

それは僕などもある程度予測していた結果 あり、イタリア共和国にとっては極めて重要な判決である。ベルルスコーニ氏と彼が党首を務める自由国民党は、前述したように実刑判決を不服として司法改革 や総選挙の実施を求める声明を出すなどして既に神経戦を展開している。彼らは2審高裁の判決が出ると予想されている年末までの間に、巻き返しを狙って必死 に攻勢をかけ続けるだろう。その間は影響力の失墜を怖れて、政権を手放すというような無謀な真似は恐らくしない。むしろ懸命に連立政権の維持を模索するの ではないか。そしてそれこそが、最高裁による公職期間差し戻し審理の本旨なのである。

権中枢の民主党議員団の中には、有罪判決を受けた元首相を党首に戴く自由国民党との提携はただちに解消するべき、という主張も決して少なくない。しかし同 党のエンリコ・レッタ首相は、「イタリアの利益が最優先されなければならない。事態に過剰反応することなく冷静になるべき」、として自由国民との連立政権 の維持を表明し、政治混乱の再来を深く懸念するナポリターノ大統領も、「司法制度の尊重」を訴えながらレッタ首相の立場を支持している。

曾有の経済危機にさらされているイタリアは現在、政権崩壊や政治混乱を容認する余裕はまったくない。それは反目する各政党や国民、またレッタ首相や大統領 や、果てはベルルスコーニ元首相その人までが同じ気持ちである、と断言しても恐らく過言ではないと思う。むろん司法界も例外ではない。繰り返しになるが、 そうした政治状況の中で出たのが、最高裁の玉虫色の政治的判決なのである。

首相は高齢(76歳)を理由に刑務所には収監されず、自宅軟禁か社会奉仕活動で贖罪をすると見られる。最高裁の判決の前には、政界や司法への揺さぶりを意 識して「実刑判決が出るなら刑務所に入る」と公言したりしていたが、判決が出た今はそれについては口を閉ざしており、恐らく自宅軟禁の道を選択するのでは ないか。

ラノ高裁は公職追放期間を5年から3年に減刑すると見られているが、ここから年末までの間にベルルコーニ氏と自由国民が激しく攻勢に出れば、状況は幾らで も変化すると考えられる。なにしろ元首相と自由国民は、レッタ連立政権をいつでも空中分解されられる決定的なカードを手にしている。自由国民が政権を離脱 すると宣言すれば、レッタ内閣はたちまち瓦解するのである。

ルルスコーニ氏は、今現在は連立政権内に留まることが自身の利益になるとは知りつつも、政治的社会的な生き残りを賭けてありとあらゆる奇策や方策や陰謀を 繰り出すのだろう。そのうちには政権離脱、という常識的に見れば自身の立場に不利益な手法も含まれるに違いない。何をするか予見できないのが元首相の本領 だ。

したたかな政治家である彼は、イタリア財政危機の操縦を誤った責任を取らされての2年前の失脚や、2審高裁での有罪判決などを受けて政治生命を絶たれた、とみなされていたにも関わらず、今年2月の総選挙で民主党に肉薄する勝利を得て見事に復活した。

にとっては1年間の自宅軟禁や前科者の烙印などはどうということもないだろう。それよりも、ミラノ高裁での結審後に上院議員の地位を失う公職追放の方が大 きな痛手である。しかし、巨大な財力としたたかな政治臭覚が衰えない限り、再び逆境から立ち上がる可能性は充分にある。たとえばイタリアの政治環境を大き く揺るがしたネット党「五つ星運動」の党首ベッペ・グリッロ氏にならって、自らは国会議員になることなく党を支配して大きな影響力を行使し続けることもで きる。

ベルルスコーニ元首相の終りはまだ始まっていない可能性が大いにあるのである。

ベルルスコーニの終りの始まり?


2013年8月1日、イタリア最高裁(破毀院)でベルルスコーニ前首相の脱税事件への判決が言い渡される。

 可能性が3つある。

 1. 無罪放免

2. 判決の先延ばし(詳細部分の審理やり直し等の理由で)

3. 有罪

 1. の場合は言うまでもなくベルルスコーニ氏の大勝利。イタリア政局は安泰。

2. の場合は文字通り結論の先延ばし。少なくとも数ヶ月は政局安泰。

3. の場合はイタリア政界にビッグバン襲来。上を下への大騒ぎになって、レッタ連立政権が一気に崩壊する可能性が高くなる。

 イタリアのエンリコ・レッタ民主党政権は、ベルルスコーニ前首相が率いる中道右派の自由国民との連立で辛うじて命脈を保っている。左の民主党と右の自由国民は元々は天敵同士。面従腹背、同床異夢のアカンベー連盟である。何かあれば互いに足元を掬おうと身構えながら、内閣を構成している。

 そんな間柄だから、自由国民党首のベルルスコーニ氏が有罪判決を受けた場合、民主党内から激しい拒絶反応が出て連立解消、たちまち政権崩壊というシナリオが十分に考えられるのである。

 そうなるとイタリアは再び政治混乱に陥り、第二次大戦後最悪とも言われる大不況・財政危機がさらに深刻化して、それはEU・ヨーロッパ連合にも飛び火して行くだろう。それを避けるためにイタリア国内からも、また密かにEU各国からもイタリア最高裁に圧力がかかって、3.を避けてしかし流石に1.は余りにも見え透いていてマズイので、結局2.の玉虫色の判決に落ち着く・・・

 というのは、僕の勝手な憶測、妄想である。でも、それは結構イタリア的な政治手法であり大人の処世術でもあるのだ。三権分立の一角である司法に政治が介入するのはどの国でもありふれた現実だが、イタリアの場合はそのからくりを隠そうとしないところが特徴。だから面白い。何事につけ玉虫色の落としどころを追求するのはわが日本のお家芸だが、イタリアも中々捨てたものではないのである。

もしも

 1.になった場合は、僕は個人的には呆れ果て腹を立てると思うが、ベルルスコーニ氏の事件裁判は未成年者買春疑惑を筆頭にこの後も目白押しなので、どこかで何らかの鉄槌が下ることを期待したい。

 2.になった場合は、やっぱり・・・

 3. になった場合ベルルスコーニ氏には、4年の禁錮刑と5年間の公職追放命令が言い渡される。つまり彼はその瞬間に国会議員の地位から転がり落ち、しかも5年間は選挙に立候補できない。ただのヒトになる訳である。そのインパクトはここイタリアでは巨大なものになる。

 付記しておくと

4年の禁錮刑が確定した場合、3年が減刑されてベルルスコーニ氏は1年の禁錮刑に処される。しかし、70歳以上の罪人は刑務所には収監されず、一年間の社会奉仕活動か又は自宅監禁という形での贖罪ができる。76歳のベルルスコーニ氏はこれに該当するが、彼は有罪判決が出た場合、刑務所で罪を償う、と公言している。これはレッタ内閣や最高裁への牽制発言と考えられる。彼は自らが断罪された場合の社会的な衝撃を知悉していて、政界や司法に揺さぶりをかけているのである。

 また求刑5年間の公職追放令は、3年に短縮され且つそれは議会の承認を必要とする。

 

 

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