【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2014年06月

ワールドカップTV観戦記⑥~「ザ・牙男」スアレスのお笑いと闇と~


FIFA(国際サッカー連盟)は、W杯のイタリアVSウルグアイ戦でイタリアDFのキエッリーニに噛み付いたウルグアイのFWスアレスに対して、代表戦9試合の出場停止と4カ月のサッカー活動の禁 止、さらに罰金10万スイスフラン(約1100万円)を科した。

この処分によってスアレスはW杯の残り試合に出場することはできなくなった。FIFA はさらに同選手に対し、W杯スタジアムへの入場とチームとの接触も禁止した。また処罰は来年のコパ・アメリカ(南米選手権)にも及ぶため、スアレスは同大会にも出場 できなくなった。

4カ月に渡って一切のサッカー活動を禁じられたスアレスは、10月末まで所属先のイングランド・リヴァプールでのトレーニングにも参加できない。 またチャンピオンズリーグの最初の3試合も出場禁止になるばかりではなく、プレミアリーグも開幕から9試合はピッチに立てない。

サッカーは肉体が激しくぶつかり合う競技である。その中で頭突キやマワシ蹴リやヒジ撃チやケタグリなどの反則も起きる。しかし、相手に噛み付くという反則 はあまり聞かない。僕が知る限りはスアレスだけが犯している悪行だ。サッカー以外でならボクシングのマイク・タイソンが、イベンダー・ホリフィールド の耳を噛み切った恐るべき「事件」があるが。

スアレスの噛み付きは今回が初めてではない。オランダ・アヤックス時代にも一度、現在所属しているイングランド・プレミアリーグでも相手選手に噛み付い て、出場停止などの重い処分を受けている。そして先日、W杯の大舞台でもまた違反行為をやってしまった。2度あることは3度あるということなのか。3度目 の正直で、もうこれで終わり、ということになるのか・・

展開の速いサッカーの試合中に相手に噛み付くなんて、僕には相当に滑稽感の伴う行為に思えるが、当人のスアレスにとっては笑い話どころか、きっと深刻な心の闇的な原因によってもたらされる反応なのだろう。

噛み付きは小児科学によって説明される。本能的、自己防衛的に子供が見せる行為で、ほとんどの場合は成長と共に消えていく現象であり無害である。しかし、家庭環境が難しかったり成長過程で何らかのトラウマがあったりすると、突発的に噛み付きの衝動が出てしまうことがある。

スアレスは子供の頃に家庭環境が難しかったことが原因でトラウマになり、大試合などで極度の緊張を強いられたりカッとなったりすると、自分を抑えられずに噛み付きの衝動が表れるのではないか、とスポーツ心理学の専門家は分析している。

つまり、スアレスの吸血鬼的行為はほとんど病気なのである。FIFAは彼に処罰を下すだけではなく、心理セラピーなどの治療に専念するよう促すべきだ。 もっともスアレスは実は、既に治療を受けたりもしてはいるらしい。でもドラキュラ伯爵みたいな行為を続けているところを見ると、きっとあんまり効果がない のだろう。

噛み付き行為は被害者にとって深刻な結果をもたらすことも多い。というのも人間の口の中には200近いとも言われる種類のバクテリアが棲みついていて、噛んだときにそれらが相手に作用して感染症を起こすことも少なくない。噛まれて痛い、というだけでは済まないのだ。

昔「♪あなたが噛んだ、小指が痛い♪~」という歌が流行ったが、あれは恋人との小指の思い出で胸が痛いという意味ではなく、あなたに噛まれて私の小指は感染症になった、一体どうしてくれるのよ、という女性の怒りの歌だったのである。

それはさておき、世界トップクラスのストライカーであるスアレスが噛み付き行為に走ったのは、イタリアのDFであるキエッリーニが彼をきっちりと抑え続けたからである。

カテナッチョ(かんぬき)と陰口をたたかれる程に伝統的に守備の強いイタリアチームには、優れたDFが多く輩出する。キエッリーニは現在のイタリアのDF の中では恐らく最も強い選手。スアレスは強力なディフェンダーに行く手を阻まれ続けて、ついに気がおかしくなったのである。

噛み付き行為とスアレスへの批判ばかりが先行して、スアレスを抑え込んだキエッリーニの力量を褒める者が誰もいないのでここで言及しておくことにした。

ところで、そのキエッリーニは試合後は早々とスアレスの行為を許すと宣言し、FIFAの処罰については重過ぎると批判している。そればかりではなく、彼は世界中の非難を浴びているスアレスの家族の立場を慮って、彼への攻撃を止めるべきだとさえ主張している。

僕はスアレスに対しては正直キエッリーニほど優しい気持ちにはなれない。ほぼ病気に近い行為だから強く非難もしない。しかし、彼がピッチ上で審判の処罰を逃れたことには怒りを感じる。あれは明らかにレッドカードものの反則だった。

スアレスは即退場になるべきだったのだ。それをしなかったのは、W杯開幕戦で西村主審がブラジルにPKを与えた誤審にも匹敵するレフェリーの失策だ。

スアレスが退場になっていれば試合の流れは確実に変わっていただろう。審判の行過ぎたアクションで退場者が出て、10人で戦っていたイタリアは、スアレスのレッドカードで同じく10人態勢になったはずのウルグアイに襲い掛かって、ゴールを決めていたかもしれない。

たとえそうはならなくとも、スアレスの大反則の直後の失点は発生せず、引き分けで一次リーグを突破していた・・

と、まぁ、イタリアサッカーのファンとしては思いたくもなるわけなのである。

ワールドカップTV観戦記⑤ ~強弱の溝は埋まりつつあるのか~



アルゼンチンVSイランとドイツVSガーナの2試合は面白かった。

内容は、途中で展開がぴたりと閉ざされて、にっちもさっちもいかなくなって退屈になる「ブロック(閉塞)」現象も起きたが、総体としては極めて興味深いものだった。

なによりもアルゼンチンとドイツという世界サッカーの強豪、W杯の常連優勝候補を相手に、サッカー後進地域のアジアとアフリカの2チームが、それぞれの相手とほぼ互角に渡り合パフォーマンスを見せたのが素晴らしかった。

イランもガーナも勝っていてもおかしくない試合展開だった。特にイランは堅守からのカウンター攻撃が光った。

アルゼンチンは何度も危ない場面をしのぎ、ロスタイムに例によってエースメッシの左足から繰り出されたシュートで辛うじて勝利を呼び寄せた。

ガーナは僕が優勝候補最右翼と勝手に決めているドイツを相手に互角以上の試合をした。ドイツは先制したが、追いつかれて、さらにすぐに2点目を入れられてリードされる苦しい展開。

ドイツは後半24分ベテランのFWクローゼとMFシュワインシュタイガーを投入。その2分後、クローゼがロナウド(ブラジル)のW杯歴代最多得点15と並ぶゴールを決めて追いつき、やっとのことで引き分けた。

この2試合は昨年のブラジル・コンフェデ杯の日本VSイタリア戦に良く似ていると僕は思った。

コンフェデ杯の日本VSイタリア戦は、イタリアよりもはるかに格下と見られていた日本が果敢に攻めまくって古豪を苦しめた。

結果は3-4で日本が敗れたが、当事者のイタリアはもとより世界中のサッカーファンが日本の強さに舌を巻いた。あの一戦は日本が世界のサッカー強国の仲間入りを果たしたのではないか、という錯覚をさえもたらしたものである。

イランは僕が世界サッカーの四天王と規定する、独伊伯爾(ドイツ・イタリア・ブラジル・アルゼンチン)のうちのアルゼンチンを苦しめ、ガーナはやはりその一角で今回W杯の優勝候補最右翼でもあるドイツと引き分けた。

二つの試合がコンフェデ杯の日本VSイタリア戦に似ていたのは、弱者が強豪を激しく攻め立てて互角以上に戦い抜き、かつその内容が片時も目が離せないほどに面白く充実していた点である。

イランとガーナが今後も世界サッカーの舞台で同じような活躍を見せるなら、欧州と南米が優位を占める世界サッカーのランク図が書き換えられて行くことも不可能ではない。

しかし、この2チームが「コンフェデ杯での強さは一体何だったのか?」と世界中のサッカー愛好家が首を傾げるほどに弱く、頼りなく、陳腐なサッカーを展開している日本みたいに、継続性に欠けるパーフォーマンスしか行えないことが明らかになるなら、欧州と南米が支配する世界のサッカーの勢力図はまだまだ書き換えられることはないだろう。



ワールドカップTV観戦記④



僕にとっては、日本VSギリシャ戦の引き分けのショックも冷めやらない6月20日晩(イタリア時間)、コスタリカが1-0でイタリアを下した。

コスタリカは初戦で強豪のウルグアイを破っているとはいえ、W杯4回制覇の実績を持つイタリアを倒したのは、やはり番狂わせと言っても良い快挙だろう。

イタリアの敗北でD組のもう一つの強豪イングランドの予選落ちが決定した。スペインに続く早々のW杯舞台からの退場確定。

イタリアが最終戦に予選突破をかけるのは日本と同じ立場。一勝しているので予選通過の可能性は日本より高いとはいえ、難しい状況に陥ったことは間違いがない。

僕はこの前の記事で、王者スペインが敗退した今はドイツが優勝候補の筆頭。続いてブラジルとイタリアが並んで、そのすぐ後ろを僅差でオランダが追う、と書いた。そのときは忘れたが、アルゼンチンも優勝候補であることは疑いがないところだろう。

正直に言えば、イタリアがコスタリカに負けるとは予想していなかった。それが現実になった今、果たしてイタリアをブラジルと並ぶ優勝候補の一角、と位置づけることが可能か自問しないことはないが、敢えて状況に変わりなし、と捉えることにした。

希望的観測、という部分も皆無ではないが、過去のイタリアチームのパフォーマンスを考えると、今にも敗退して舞台から消えるのではないかとハラハラさせながら前進する方が強いのだ。

W杯に限らず、欧州選手権などでもイタリアにはそういう傾向がある。優勝候補と目されている時でも、フタを開けるとからきし弱くてよたよたと進む。そして時間経過とともに芯が明確に形成されいって、気がついたら決勝戦まで進出していた、というケースが良くあるのである。少なくともそういう印象の戦いぶりが圧倒的に多い。

そういう意味では、予選第2戦で格下と見られていたコスタリカに苦杯をなめさせられたのは想定内の出来事。むしろ吉兆だという考え方さえできる。

イタリアは予選最終のウルグアイ戦で勝つか引き分けるかして決勝トーナメントに進めば、例によってファンをハラハラどきどきさせながら勝ち続けて、結局決勝戦のピッチに立っている可能性は極めて高い、と僕は今この時点では考える。

データ的にもイタリアに味方するものは少なくない。

例えばW杯直前のコンフェデ杯を制したチームは、W杯では優勝できない。準優勝チームもダメというジンクス。2013年のコンフェデ杯の覇者はブラジル。準優勝はスペイン。そのスペインは既に予選敗退が決定している。

その伝で行くと、優勝したブラジルはW杯では負ける、ということになる。もちろんそれはコンフェデ杯で3位だったイタリアが優勝する、というジンクスにつながるものではないが、もしも2チームが決勝戦で相まみえることがあればイタリア有利、という風には形容できる。

もう一つのデータ、ジンクスもある。これはブラジルにも言えることだが、イタリアは前回W杯を制したチームではない、ということである。

W杯では前回優勝チームが予選リーグで早々に消える、ということも結構起こる。今回のスペインも2010年南アフリカ大会のディフェンディングチャンピオンだった。

ちょうど同じことが1950年のイタリア、1966年のブラジル、2002年のフランス、そして再び2010年のイタリアと史上5回も起きている。

もちろん決勝トーナメントで敗退する前回王者も多い。むしろその方が普通だ。なにしろW杯を連覇している国は史上イタリアとブラジルの2国しかない。

今回大会では、スペインが史上3番目の連覇を目指したが、一次リーグでの敗退、という悪い方のジンクスに絡め取られた。

実を言えばイタリアに不利なデータも多々あるのだが、ここでは敢えてイタリア有利と言えそうな記録の幾つかのみを並べてみた。

もう一度言えば、今の時点での優勝候補NO1はドイツ、続いてブラジル、イタリア。快進撃を続けているオランダとアルゼンチンがその次あたり。

ダークホースとして、ウルグアイ、コスタリカ、フランス・・などなど。

ドイツにはほとんど欠点らしい欠点は見えないが、ブラジルがネイマーまたイタリアはピルロ依存症のチームというのが気になる。同じことはどうもアルゼンチンとメッシの関係にも当てはまる。

そうなると、今のところどこにも隙がなさそうなオランダがドイツと並ぶ優勝候補の最右翼、と言えそうだが、僕はやっぱりオランダの優勝経験0にひっかかりを感じる。

優勝予想なんて無責任なものだし(僕も責任を取る気はない)外れても当たってもあまり意味のあることではないが、一応自分の「考え」をまとめるために考えてみた。

それでも、もしここにあげた国以外のチームが優勝することがあるなら、ほぼ死に体の日本がよみがえって決勝トーナメントに進み、かつ優勝してしまうことだってきっとある、とは思う。

なぜなら世界サッカーのランクは、独伊伯爾の四天王と英仏西蘭などの欧州の強国をまとめたグループと、それ以外の国々のグループが、今日でも深くて巨大な溝を隔てて対峙している、というのが僕の偽らざる感慨だからである。


ワールドカップTV観戦記③



日本VSギリシャは0-0の引き分け。

ギリシャは前半38分、カツラニスが 2枚目のイエローカードで退場。10人で引き分けに持ち込んだ。

負ければ絶望的な状況になるところだったから、この引き分けはギリシャにとっては勝利と同じ程度の価値がある。

逆に日本にとってはほぼ敗戦にも等しい痛い引き分けだ。

崖っぷちに立たされた日本は、決勝トーナメント進出のためには次のコロンビア戦で必ず勝って、同組のギリシャVSコートジボアール戦の結果を待つしかない。

日本の行く手は厳しい。ほぼ絶望的と言っても良いほどに勝ち抜ける可能性は低い。だが、少なくとも可能性はまだ残されている。

ところが王者スペインは、日本と同じく2試合を戦って既に予選敗退が決まった。

ビッグチームではイングランドも2連敗を喫して風前の灯状態。1敗1分の日本よりも厳しいかも知れない。

だが、スペインもイングランドもハイレベルの試合をしての2連敗だ。

一方日本チームは、本田の素晴らしい一撃で先行しながら、まるで蛇ににらまれた蛙よろしくドログバにびびりまくって、あっさりと2ゴールを許して負けた初戦、

また

レッドカード一枚で10人になったギリシャと引き分けた第2戦、

と、ともに退屈な試合をこなしての崖っぷちだ。内容がサッカー先進国のゲームとはまるで違う。

特に昨晩のギリシャ戦は退屈過ぎて涙が出そうなくらいだった。

次の試合では、もちろん勝つに越したことはないが、たとえ敗れることがあってもぜひ楽しめる面白いサッカーをやってほしい。

相手はC組トップ、絶好調のコロンビアだ。勝って予選突破をするためにも、また負けて、でも将来の日本のサッカーに資するためにも、日本は必ず「面白いゲーム」を目指すべきだ。

単調な攻撃や、ワンパターンの揺さぶりにならない揺さぶりや、流行遅れのポゼッションサッカーにこだわるのは、予選最終戦では禁物だ。

いや、スペイン得意のポゼッションサッカーは流行の終わりにあるとはいえ、日本チームの血となり肉となっている戦術なら、まだ戦力にもなる。

だが、日本選手はまだまだそれを「猿真似」している段階だ。それは昨夜のギリシャ戦ではっきりと露呈した。

攻めもなく、想像力もなく、独創性もなく、ただ漫然と仲間うちでパスを繰り返しているだけの物真似ボール回しは、退屈で貧弱で滑稽だ。日本はポゼッションサッカーの意味を全く理解していない。

僕は以前、日本サッカーは楽しいサッカーを自家薬籠中のものにしつつある、と書いた。

それは主に、コンフェデ杯で日本がイタリアと互角に戦った素晴らしいゲームを見て、真剣に感じたことだった。

しかし、W杯の2試合を観戦して僕は自分が希望的観測に犯されていることを知った。

日本のサッカーはまだまだだ。僕は今後、恐らくヨーロッパを始めとする世界のサッカーファンが読んだり聞いたりしたら失笑することが分かっている、日本チームを誉めすぎる話や、個人のプレーヤーを持ち上げ過ぎたりするような記事は書かないようにしようと思う。

僕は日本人以外のサッカー好きにはとうてい受け入れらそうもない話も、そうと知っていて書いた。批判するばかりでは何も生まれない、良いところを見つけて賞賛することも常に重要だ、という考えからそうしてきたのだ。

その考えは今も変わらず、今後もそういう視点での記事は書いていくが、批評や批判も大いにするべきだという気分でいる。

ここでは、昨晩の日本VSギリシャ戦の余りの拙さに呆れて、批判ばかりを書いた。次には心からの賞賛というか、日本サッカーの可能性と良さについても、自分なりに適正に「過剰にならない」形で意見開陳をしていこうと思う。


ワールドカップTV観戦記②


ワールドカップ・日本VSコートジボワール戦は、イタリア時間の6月15日午前3時のキックオフだった。

眠気と闘いながらPAYテレビの生中継に見入った。

試合開始から間もなく、本田圭祐の文字通り目の醒めるようなシュートがゴールに突き刺さった。

ぱっと眠気が吹き飛んで、僕は本気で目が覚めた。

だがその後は香川など活躍が期待された選手たちの沈滞で居眠り。

それでも頑張って観ていた後半、ドログバ登場で目が覚めた。

と思ったら、敵が立て続けに2ゴールを決めて、今度は僕は日本チームの行く末を思って不眠症になってしまった・・・


日本が負けたのは弱いからである。これは悔しくても認めなければならない。

そして、弱ければ強くなれば良いだけの話である。

もっと練習をし、研究し、創造につながる想像力を磨き、思考し、そしてまた練習をする・・

本気でそれを続ければいつか必ず強くなる・・・

と思いたい。

でも

何かが違う、と日本チームの試合運びを見ていていつもそう思う。今回のコートジボワール戦を見ながらもやっぱりそう思った。

「何か」とは何か、自分なりに考えてみた。

何かとは、多分サッカー文化のことである。日本には欧州や南米に深く根付いているサッカー文化が存在しない。

いや、存在しているのだが、その文化の深度が違う。

あるいは大胆に、敢えて言ってしまえば、そもそも日本の蹴球文化が強い欧州や南米のサッカー文化とは違う。

どちらが正しいにしろ、それはほぼ致命的と形容しても良い一つの大きな欠陥に由来している。

つまり、日本国におけるサッカーファンの絶望的な少なさである。

ここで言うサッカーファンとは、ワールドカップや国際試合を目の当たりにして、突然サッカーに興味を抱くにわか仕込みのファンのことではない。サッカーを心から愛し、従って情報収集にもいそしみ、勉強さえする真正のサッカーファンのことである。

日本における多くのサッカーファンと称する人々は、国際試合に際して急にナショナリズムに目覚める愛国的サッカーファンである。彼らはサッカーが好きなのではなく、日本が好きなのである。

それはそれで素晴らしいことだ。しかし、日本サッカーが本気で成長するためにはそれだけでは十分ではない。

ここからTV観戦記を書いていく間にそのことについてまた語りたい。

ここまでのもっとも大きな驚きはスペインの崩壊だ。

スペインの常勝サイクルが終わったことは、昨年のコンフェデ杯を通して僕はかなりはっきりと分かっていた

サッカー強国がしのぎを削る欧州 + 南米がリードする世界サッカーでは、一国がいつまでもトップに居座りつづけることはできない。サッカーを少し本気で追いかけている人間ならば、それはたやすく分かることだ。

しかし、スペインの崩壊を予想はしたものの、僕は正直に言って初戦でオランダに5-1で敗れるほどの大きな、かつ急速で明確な崩壊までは予想しなかった。

優勝争いに最後まで絡んだ上で敗れる、というシナリオを自分の中で描いていたのだ。

僕の独断と偏見では、世界サッカーの四天王はブラジル、ドイツ、イタリア、アルゼンチンである。この4チームはたとえ不調でも、下馬評に上がらなくても、常に強く常に優勝候補の一角を占める。

四天王の下に、スペイン、フランス、イングランド、オランダ、ウルグアイなどが控える。

こう言うと、なぜスペインが四天王の下なんだ、と目をむいて反論する人が必ずいる。

だが、スペインが圧倒的な強さを発揮してきたのは、2008年以降のことに過ぎない。その前にはフランスがジダンを擁して「一時的に」世界サッカーを牛耳った。

スペインが四天王の域に近づくためには、一度沈んでまた這い上がって世界に君臨する、というプロセスを何度か繰り返さなければならない。

四天王の真の強さは、世界のトップになって落ち込み、また這い上がって頂点を目指し、そして君臨する、という過程を何度も経験しているところにある。

W杯前に僕がひそかに予想していた優勝候補の筆頭はブラジル。その後にスペインとドイツ。続いてアルゼンチン、イタリア。そのさらに後ろにオランダ。やがてイングランド、ポルトガル、ウルグアイ等々が並ぶ、というものだった。

スペインの崩落を見た今は、ドイツが優勝候補の筆頭。続いてブラジルとイタリアが並んで、三者に肉薄してオランダ・・という風になった。

なぜスペインを蹴散らしたオランダがイタリアよりも下かといえば、ただ一言「オランダはまだW杯優勝の経験がないのでその分見劣りがする」というだけの、これまた僕の独断と偏見による意見。

だが、オランダは前回大会で決勝まで進んだ経験もあり、かなり高い確率で今回こそ悲願の初優勝、という結末も十分にあるとは思う。






ワールドカップTV観戦記① ~ W杯VS大相撲 ~


ブラジルW杯が始まった。ここから7月13日の決勝戦までわくわくの日々がつづく。

幸い大相撲の名古屋場所とは日程が重ならない。いや、決勝戦の13日は名古屋場所の初日だから、正確に言えば一日重なる。だが、ブラジルとの時差のお陰でどちらも実況放送を違う時間に見ることができる。良かった。
W杯開幕戦のブラジルVSクロアチアでは主審と線審の3人が日本人という、見ていて何となく嬉しくなるような珍しい配置があった。

しかし、主審の西村さんは難しい采配を強いられて、少し後味の悪い結果になった。ブラジルに与えたPKが是か非かという論争が巻き起こったのだ。

結論を先に言うと、西村さんには悪いが、PKを与えたのは失策だったと僕は考える。

試合の模様を録画していたので何度も再生して確認したが、クロアチアのDFロブレンに引き倒されたように見えるブラジルのFWフレッジは、シミュレーションだ。相手の手が体に触った瞬間を捉えて大げさに倒れ込んだのだ。

PKどころか、ファールはむしろ倒れたフレッジから取るべきだった。イエローカードものだと思う。

こういうことを書くと、ヘンなナショナリズムに侵された者がお前は日本人を批判するのか、反日か、などと言い出したりしかねないが、審判はピッチの上の仕事ぶりを評価されるのが宿命だ。国籍は関係がない。

問題の場面では誰が審判であろうと、またPKを与えても与えなくても、必ず批判が起きただろう。

なぜならそれはW杯の開幕戦という大舞台の、しかもゲームが拮抗している場面で起きた極めて重要なジャッジだったからだ。

PKはブラジルのエース・ネイマールによって得点になり、ブラジルが2-1とクロアチアを逆転した。

オウンゴールながらクロアチアに先行されて苦しんでいたブラジルは、1-1に持ち込んでからも本来の調子を取り戻せずにいた。そのまま行けばクロアチアにも十分に勝機がある展開だったのだ。

しかし、PKを境にブラジルは心理的に楽になって躍動し、最後はダメ押しの3点目を入れてクロアチアを突き放した。

サッカーは、多くのスポーツの中でも特に心理作用が強く働くゲームだ。サッカーの監督は何よりもまず心理分析に優れた者でなくてはならないとさえ言われる。

試合中もその前後でも常に、選手の心理を読み、状態を把握し、それらの集大成である試合の心理(動き)を読み、練習中にも読み続ける。

ブラジルVSクロアチア戦では、ネイマールのPK得点によってゲームを左右する微妙な心理変化の津波が起きた。ブラジルが圧倒的に有利になったのだ。

西村主審がPKの宣告をしたとき、クロアチアの選手が一斉に激しい抗議をしたのは、「彼らから見れば」明らかな誤審を糾弾する意味合いはもちろんだが、 PKが得点に結びついた後に来るであろう、強烈な心理的打撃を怖れたからだ。そうした場面はプロのゲームではひんぱんに見られる。

選手以上に憤懣を隠さなかったのがクロアチアのニコ・コヴァチ監督だった。心理分析の専門家である彼は、試合の流れが劇的に変わるであろうことを知悉しているから怒りをあらわにしたのだが、同時に彼は審判のジャッジがひっくり返らないことも知っている。

それでも激しく抗議をするのは、そうすることで選手をかばい、鼓舞し、士気が崩壊することを避けようとするからである。自チームの選手は悪くない。悪いのは審判でありひいては相手チームの選手だ、と主張することで選手を庇護しチームの戦意を高く保持しようとする。

それは現在進行中のゲームだけではなく、将来の戦いのためにも絶対にやっておかなければならないことだ。なぜならW杯は始まったばかりである。クロアチアはたとえ目の前の相手のブラジルに敗れても、次からの試合に勝ち続けることで予選を突破し、優勝することだって不可能ではない。だから彼は将来も見すえて、そこでは憤怒をあらわに抗議をしておかなければならないのである。

逆にPKを与えなければ、今度はブラジルの選手や監督が激しく抗議をしていたかも知れない。審判は虚実織り交ぜた両チームの猛烈な心理戦の標的になることもしばしばだ。従って主審を務めた西村さんが、その部分で批判されても何も気にすることはない。批判そのものが半ばハッタリの舞台劇だからだ。

しかし、西村さんがクロアチアの選手にPKに価するファールがあった、と判断したのは明らかにミスジャッジだ。それは世界中のテレビやビデオデッキで繰り返し再生された録画映像によって、万人が知るところとなった。

ここで、昔はビデオ映像などなかった。だからそれを見て誤審と判断するのはルール違反だ、などと抗弁するのはそれこそがルール違反だ。なぜなら、今やビデオ録画による確認も含めた一切の事象が、審判の正誤を判断する材料になっているからだ。

サッカーの試合中の激しい動きを見極めるのは至難の業だ。いかに優れた審判でも必ずミスを犯す。だから西村主審が誤審をしても仕方がない。しかし、誤審をそうではないと強弁するのは良くない。スロー再生ビデオで見れば、ブラジルのFWフレッジがシミュレーションをしているのは明白なのに、西村さんは逆にクロアチアのディフェンダーの真正のファールと見誤った。残念だがそれが真実だ。

この誤審はW杯の進展具合によっては世紀の誤審として歴史に残るかもしれない。もしそうなった場合は、西村さんは世紀の誤審を犯したことによって審判のあり方に警鐘を鳴らした、と敢えて考えてむしろ誇りにしてもいいのではないか。いかなる優秀な審判も完璧ではないのだから。

僕はW杯の開幕戦という大舞台で日本人が審判を務めたことを喜び、そこで誤審があったことを大いに残念がり、さらにそれをポジティブに捉えるべき、などと考えを巡らせながらサッカーと並んで僕が好きなスポーツ、大相撲のことを思ったりもした。

大相撲では、審判の誤審は極めて少ない。いや誤審はいくらでもあるのだが、ビデオによる検証が行われている現在は、サッカーのような「大誤審」は起こりようがない。

大相撲の舞台はサッカーのピッチとは違って、狭い丸い土俵の上である。その周りに主審の行司とは別に5人の勝負審判が陣取って、すぐ目の前で起こる力士の動きに神経を尖らせる。彼らの目利きは精確で迅速で見応えがある。行事を含む審判の鑑定は、同時進行で検証されるビデオ映像で補正あるいは補佐されて、さらに確実なものになる。

物言いの場合、審判同士の見解・指摘・確認作業とビデオ映像の検証が同時並行に行われた後、最終的な結果が出る。そこでは行司差し違えで判定がひっくり返るケースもざらにある。この点、試合の動きの中で出された審判の判断が、ビデオ映像と乖離があってもほぼ100%くつがえらないサッカーとは大違いである。

サッカーの試合では、ビデオ検証を審判の判断材料として取り入れた場合は試合のリズムが乱れる、という説などを中心に反対意見が多い。しかし、PKなどではいずれにしてもゲームが中断してプレイのリズムは変化するのだから、そこでビデオによる検証時間を差し挟んでも構わないのではないか。

例えば今ここで問題にしているブラジルVSクロアチアの場合、PKに価するファールと主審が一端結論付けた後にビデオによる検証を行い、そこでシミュレーションがあったと認められた時はPKを取り消して、逆にブラジルのフレッジにイエローカードを示しても良かったのではないか。その上で試合を再開しても、実際にその試合で発生した以上の「リズムの乱れ」は起きなかったのではないか、と思うのは僕一人だけだろうか。




書きそびれている事ども




書こうと思いつつ優先順位が理由でまだ書けず、あるいは他の事案で忙しくて執筆そのものができずに後回しにしているネタは多い。それは「書きそびれた」過去形のテーマではなく、現在進行形の事柄である。過去形のトピックも現在進行形の話題も、できれば将来どこかで掘り下げて言及したいと思う。その意味合いで例によってここに箇条書きにしておくことにした。

大相撲:
5月場所(夏場所)の6日目、琴欧州親方がNHKの大相撲中継の解説者として放送席に座った。それには現役を引退したばかりの彼への慰労の意味合いもあっただろう。ヨーロッパ人初の大関、そしてヨーロッパ人初の親方へ、という経歴への物珍しさもあっただろう。また、NHKとしては彼に解説者としての資質があるかどうかを試す意味合いもあっただろう。あるいは解説者としての資質ありと見抜いていて、実際に力量を測ろうとしたのかもしれない。

結論を先に言うと、琴欧州は僕がいつも感じてきたように、人柄が良くて謙虚で礼儀正しいりっぱな元大関だった。そして解説者としても間違いなくうまくやっていけると思った。現在のNHKの大相撲中継の解説者は、北の富士勝昭さんが最上、貴乃花親方が最低、という図式だが、琴欧州親方は既に中の上くらいの力量があると僕は感じている。

そうこうしているうちに、横綱白鵬の「妻への愛」を貫く美談が飛び出して世間を騒がせている。このエピソードも琴欧州親方誕生のトピックスと同系列の、大相撲界の変化の一端である。妻や家族を愛する男は普遍的である。日本人、アフリカ人、モンゴル人、欧米人、中国人etcは関係がない。だが、それを「表現する仕方」はそれぞれの国であるいは文化圏で異なる。日本人とは違う表現習慣を持つ白鵬は、彼の身内に脈打っているモンゴル風の表現法に素直に従って、妻への愛を公に告知した。それは日本人なら少々躊躇するやり方である。

日本人には照れがあり、慎みを欠くのではないかと葛藤する内心、即ち「ためらい」がある。白鵬がなんなく実行した方法は、実は欧米的な感情表現に極めて近い。これはモンゴルの文化が欧米に追従したり阿(おもね)ったりしているのではなく、大陸的という意味で欧米文化に近いものがあって、愛情表現もそのうちの一つということなのだろう。彼らは欧米人のようにすぐにハグをするし、抱きしめて頬にキスし合う挨拶も普通に行う。大相撲界は彼らの影響を受けながら、そうやって少しづつ「開放的な道筋」を辿る方向に舵を切っている。

マフィア:
イタリアには三大犯罪組織がある。どれも北イタリアとの経済格差が大きい南部に根拠があり、北から順にナポリのカモラ、本土最南端カラブリア州のンドランゲッタ、そしてシチリア島のマフィアである。これにプーリア州のサクラ・コロナ・ウニタや第五のマフィアなどとも形容されるシチリア・マフィアの傍系スティッダなどが加わる。またローマをベースにするバンダ・デッラ・マリアーナもあるが、これは自然消滅したという説もある。

最近、どちらかというとマフィアの影が薄い。つまりメディアでの露出度が大幅に減っている。そこにはEU(欧州連合)の有形無形の圧力が影響している、と僕は考えている。ところがごく最近は、第三の勢力と見えたカラブリアのンドランゲッタの活動(メディア露出度)が増えている。摘発や締め付けやEUをバックにした当局の圧力などを警戒して、息を潜めているらしい2大組織とは対照的だ。怖いもの知らず、というところか。多分そういうことなのだと思うが、ンドランゲッタがマフィアやカモラを抑えて、イタリアの犯罪組織地図を塗り替えつつある、という可能性も皆無ではない。

電子書籍:
先日、海外居住者だけに提供されるサービスを利用して、生まれて初めてインターネットで雑誌を買った。文藝春秋と週刊文春。一つ一つの記事の魅力のなさにおどろく。値段が高い。記事1本1本を買える仕組みを作るべき。アゴラ、yahoo個人、ブロゴス等は基本的にそういう仕組みになっている。もちろん課金されるかどうかの違いはあるが。僕は電子書籍の登場を心待ちにしている。電子書籍は今でもネットで買えるらしいが、新たに端末が必要とか、買える本の数が(種類が)圧倒的に少ないとか、魅力を全く感じない。1年に1~2度帰国する度に大量に本を買い込む、という古くから続いている習慣はまだ捨てられない。

靖国参拝:
僕は先ごろ亡くなった島倉千代子の「東京だよおっかさん」を聞く度に泣かされる。この歌とそっくり同じ僕自身の体験、つまり東京での学生時代に行った母と2人での靖国神社参拝を思い出して、実際に涙にくれるのだ。ぼくの靖国とは、母の記憶である。沖縄の母。「天皇」のひと言で今も直立不動になる沖縄の父。軍国の申し子。父には沖縄を切り捨てた昭和天皇への怨みはないのだろうか。天皇問題の大局と局所の立場。靖国を摩文仁の丘(沖縄戦跡国定公園)に移す法的、思想的、感情的観点の是非について。


握り寿司賛歌:
昨年のクリスマスイブに、これも生まれて初めて握り寿司に挑戦した。ほとんどタブーの世界だった握り寿司。言霊の縛りや型の縛りと同じ、なんだか分からないあるいは無用な日本的な縛りに縛られていただけだったと覚醒。不惑とか年相応etcの縛りも同じ。

サッカー:
夜でもサングラスの本田の革命的愉快。でも本業のサッカーでの不振。彼を持ち上げ過ぎるほど持ち上げた責任を取って、謝罪記事を書こうと思いつつ時間が過ぎて、もはやワールドカップ。そこで本領を発揮して目覚しい活躍を見せてくれれば状況は変わるだろう。が、僕が彼を持ち上げすぎた事実は変わらない。ただし、僕は意識的に持ち上げ記事を書いた。読み方によっては、マラドーナやバッジョに匹敵するような印象さえ与えかねないことを承知で書いたのだ。つまり言霊。口にすれば実際に起こるかも、という言霊信仰に少し乗ってみたのだ。本当にそう意識して。


巨大な足跡~ヨハネ・パウロ2世の聖人昇格を寿ぐ~




先日、バチカン大聖堂前広場で第261代ローマ教皇のヨハネ23世と第264代ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の列聖式が行われた。列聖とは、キリスト教において信仰の模範となるような高い徳を備えた信者を、その死後に聖者の地位に叙することである。

ヨハネ3世は史上もっとも庶民に愛された教皇と形容されるが、正直に言って僕はヨハネ3世を歴史知識としてしか知らない。だが、ヨハネ・パウロ2世については、いわば同時代人として良く知っていると感じている。そこでここでは、自分の経験に即してヨハネ・パウロ2世の聖人昇格について、思うところを語っておこうと考えた。

何よりも先ず、僕はキリスト教徒ではないが、ヨハネ・パウロ2世の聖人昇格を心から喜ぶ者である。2005年に亡くなった教皇は、単なるキリスト教徒の枠を超えて、宗教のみならず政治的にも道徳的にも巨大な足跡を世界に残した人物だった。

彼は他宗教との交流や融和に積極的に取り組み、キリスト教徒と敵対してきたユダヤ教徒及びイスラム教徒に対話を呼びかけ、プロテスタント緒派や東方正教会等にも胸襟を開いて相互理解を模索し、和解を演出した。もちろん仏教などの他の宗教に対しても同様の姿勢を貫いた。彼は共存と相互尊重による真の和平を目指したが、それを理念や理想として語ったり呼びかけたりするだけではなく、実際の行動によって達成する方向を選んだ。

そのために世界中を旅し続け、1981年には広島と長崎を訪れて「戦争は死です」と日本語で訴えた。それは日本だけで成された特別な行為ではなかった。ヨハネ・パウロ2世は世界の行く先々で、現地の言語で語りかけるのを常としたのである。そこにはあらゆる人種、文化、宗教等を敬仰し親しもうとする、彼の真摯な思いが込められていた。

旅の多さから「空飛ぶ教皇」とも呼ばれた男は、病の中にあってさえ世界各地に足を運んで貧困や戦乱にあえぐ弱者に手を差し伸べ、慈しみ、支え、人々のために生きた。同時に自らの母国であるポーランドの人々に「勇気を持て」と諭して同国に民主化の大波を発生させた。その大波はやがて東欧各地に伝播して、ついにはベルリンの壁を崩壊させる原動力になった、とも評価される。

バチカンもキリスト教徒も、過去には多くの間違いを犯し、今もたくさんの問題を抱えている。ヨハネ・パウロ2世はそれらの負の遺産を認め、謝罪し、改善しようと多大な努力をした。そうした事績と彼の人徳が広く認められて、教皇は亡くなって間もない異例の早さで聖人に列せられた。

しかし実は、ヨハネ・パウロ2世の在位中の大半をイタリアに住んで、彼の仕事を目の当たりにし続けてきた僕の中では、教皇は生前から既に聖人の域に達している偉大な存在だった。列聖式はそれを追認する単なる典礼に過ぎない。

ところで、今回の列聖式の場合もそうだったが、僕はヨハネ・パウロ2世にまつわる何かが起こるたびに、2005年の同教皇の葬儀にまつわる日本政府の不可思議な行動を思い出すのが慣わしになっている。

亡くなったヨハネ・パオロ2世の追悼式は、世界中が固唾を飲んで見守る壮大な祭礼だった。そこにはヨーロッパ中の王室と政府首脳とアフリカ・アラブ・南北アメリカの元首がほぼ全員顔をそろえた。元首や国のトップを送りこんでいない国を探すのが難しいくらいだった。

例えば欧米主要国だけを見ても、当事国のイタリアから大統領と首相をはじめとするほとんどの閣僚が出席したのは当たり前として、イギリスからは、自らの結婚式まで延期したチャールズ皇太子と当時のブレア首相、フランスがシラク大統領、ドイツは大統領とシュレーダー首相、アメリカに至っては当時の現職大統領 ブッシュ、前職のクリントン、元職のブッシュ父の三代の大統領と、ライス国務長官という大物たちがそろって出席したのだった。

そればかりではなく、葬儀にはヨーロッパ中の若者と各国の信者がどっと押し寄せて、その数は最終的には500万人にものぼった。それは過去2000年、263回にも及んだローマ教皇の葬儀で一度も起きたことがない事態だった。ヨハネ・パウロ2世はそれほど人々に愛された。

世界に強い影響を与えた偉大な男の葬儀が、外交的に重大な舞台になることをしっかりと認識していたアメリカは、まず世界中に12億人いるとも言われるカトリック教徒の心情に配慮した。さらに2000 年も敵対してきたユダヤ教徒や、またイスラム教徒にも愛された彼の業績の持つ意味を知り、ベルリンの壁を崩壊させた彼の政治力に対する東欧の人々の心情を汲みあげた。加えて、世界各地に足を運んでは人々を勇気付けた彼の功労に敬意を表し、現職を含む3代の大統領と国務長官をバチカンに送り込む、という派手なパフォーマンスを演出して見せたのだった。さすがだと言わざるを得ない。

ではその大舞台でわが日本は何をしたか。

なんと、世界から見ればどこの馬の骨とも知れない程度の外務副大臣を送って、お茶をにごしたのである。日本政府は教皇の葬儀が外交上の檜舞台であり、わが国の真摯な心を世界に知らしめる絶好の機会だということを、微塵も理解していなかった。

…あの落差は一体何なのだろう、と今でも、そしていつも考える。    

日本という国はもしかすると、まだまだ「世界という世間」を知らない鎖国メンタリティーの国家なのではないか。また、当時おそらく日本政府の中には、教皇とはいえキリスト教の一聖職者の葬儀だから、仏教と神道の国である日本はあまり関係がない、という空気があったのではないか。あるいは単純に、まさかとは思うが、ヨハネ・パウロ2世が生前に行った大きな仕事の数々を知らなかったのか・・

いずれにしてもそれは、何ともひどい外交音痴、世間知らず、と世界から笑われても仕方のない間抜けな行動だった。

それはさておき、

世界12億の信者の心の拠り所であるバチカンは、大ヨハネ・パウロ2世の死後、前教皇ベネディクト16世の在位中に後退した。少なくとも停滞した。

しかし、昨年第266代フランシスコ現教皇が就任すると同時に、再び前進を始めた。清貧と謙虚と克己を武器に、バチカンの改革を推し進めている現フランシスコ教皇は、聖人ヨハネ・パウロ2世に似た優れた聖職者であるように見える。少なくともベネディクト16世とは似ても似つかない・・。

頼もしい限りである。

EUは極右の巣窟になり得るか



先日の欧州議会選挙では、フランスの国民戦線に代表される反EU(欧州連合)や反移民などを掲げる極右政党が躍進した。この事実を受けて、多くのジャーナ リストや識者や論者が憂い顔で欧州の行く末を案じる議論を展開している。だが、彼らが心配するほど欧州の民主主義はひ弱ではない。

右傾化する社会心理を受けて、欧州の良心である民主主義の信奉者や守護者たちは、気を引き締めて危険な芽を摘みに行く動きを加速させるだろう。欧州には多様性という極めて大きな武器がある。極右や排外主義や人種差別主義等の悪でさえ、欧州の多様性の一環という側面があるほどだ。それらは欧州民主主義の主流勢力の驕りを戒める重要な少数派だ。彼らが政権を取ったり、それに近い勢力にまで成長する可能性は限りなくゼロに近い。とはいうものの、決して無視されるべき存在でももちろ んない。
欧州議会選挙は、加盟各国の政治、社会、経済問題などについて争われる場合がほとんどで、有権者の動向はそれぞれの国内政権への批判、という形で終わるのが常である。積極的選択というよりも異議申し立ての意味合いが強い。今回の極右の躍進にも抗議の意味合いがあるのであり、それ以上でも以下でもない。

先日の選挙でもっとも耳目を集めたフランスの極右政党・国民戦線の躍進は、フランスの国内政治の主流派への不満、特に現政権のオランド大統領と社会党への抗議が直接に反映された結果だ。それは今後政治不安を招き、欧州の他の極右勢力と相まって、混乱をもたらす可能性も確かにある。が、前述したように彼らが政治の主流となって政権を担ったり、欧州の舵取りをすることはあり得ない。

なぜなら欧州は、過去の各国家間の血にまみれた闘争やいがみ合いや夥しい間違いや経験を通して、対話と開明と寛容の尊さを学び且つそれらを民主主義の枠組みの中で最大限に生かす術を獲得した。それが形になって現われたのがEU(欧州連合)である。経済共同体として出発したEUは、加盟国間の経済の結びつきだけを目指すものではない。周知の通りそれには究極の戦争回避装置という役割がある。

戦争とは、国家間の対話拒否や閉鎖主義や不寛容や憎悪が膨張して爆発する破壊、とも定義ができる。そしてフランスの国民戦線に代表される極右政党の本質とは、まさに対話拒否や閉鎖主義や不寛容や憎悪である。欧州の民主主義はそうした危険な勢力を押さえ込む方法を知っている。今回のネガティブな民意の潮流を目の当たりにした「正当な」政治勢力は、そのこと自体を糧にしてさらに強固な民主主義を構築する道筋を探るだろう。そこにこそ欧州の真価がある。

先の欧州議会選挙では実は、イタリアの民主党の大勝利という「事件」もあった。マリーヌ・ルペンと国民戦線及びファラージの英国独立党の躍進、という2つの大きな話題に飲み込まれてほとんど注目されなかったが、イタリア民主党の勝利は「歴史的」と形容しても過言ではない大きな出来事だった。若きレンツィ首相率いる民主党は41%の票を獲得したが、それはイタリア民主党史上最強の数字であり、反EUを標榜する五つ星運動のほぼ2倍もの得票率に当たる。EU支持の主流派が勝って反EU政党の五つ星運動が負けるという、フランスとは逆の現象が起きたのである。

ところが昨年、イタリアの総選挙において最大勢力だった民主党は、国民の政治不信と主流政党への不満をうまく引き寄せて、反EUを唱えて総選挙を戦った五つ星運動に敗北した。民主党とベルルスコーニ元首相率いる勢力が主流であるイタリアで、反EUを掲げる第3勢力に過ぎなかった五つ星運動が大躍進をし、そのあおりを食って民主党は沈んだのだ。今回フランスで国民戦線が大勝して社会党が沈んだのとそっくり同じ構図である。

しかし総選挙後、イタリアの五つ星運動は衰退した。 党首のグリッロ氏の意味不明の言動や、政権を含む他党との協力や共闘を完全に拒否する責任逃れとも見える動きや、カルト染みた内部粛清の体質や、党首の専横ぶりなどが明るみに出て支持者離れが進んだ。結果、今回の欧州議会選挙では惨敗した。一年前の総選挙で僅差ながら民主党を押さえて、下院第一党に躍り出た時とは雲泥の差だ。

フランス国民戦線とルペン党首は、昨年の五つ星運動の躍進とグリッロ氏を彷彿とさせる。やり方を間違えれば彼女の党は必ず五つ星運動と同じ運命をたどるだろう。それは翻って、レンツィ首相への警鐘でもある。つまり今後レンツィ首相が、オランド仏大統領の轍を踏んで改革の歩みを失速させたり逡巡したり間違ったりすれば、彼もまた即座に落第の烙印を捺されてしまうであろうということだ。このようにEU内の政治地図は加盟国同士が互いに影響しあい、先導や後追いや批判や賛同を繰り返しながら絶えず書き換えられていく。EUの多様性とはそういうことであり、それが欧州の民主主義の強さである。

ところで、英仏伊あるいはギリシャなど、局地的には重い意味を持つ欧州内の極右あるいは反EU(欧州連合)政党だが、彼らはそれぞれが勝手に主張し行動をすることが多 く、国境を越えて手をつなぎ合うという関係にはなりにくい。その辺りがまさしく「極」の枕詞がつきやすい政治集団の限界である。街宣車でわめき散らす日本の極 右などと同じで、彼らは蛮声をあげて威嚇を繰り返すばかりで他者を尊重しない。従って相手の言い分を聞き、会話し、妥協して協力関係を築き上げる、という民主主義の原理原則が中々身につかない。

そのために彼らは欧州内にあってもそれぞれが孤立し、大きな政治の流れを生み出すには至らない。今後も恐らくそうなるとは思うが、もしもその流れが変わって、彼ら過激政党がお互いに手を組み合うようになれば、それこそ憂慮すべき事態である。そこからさらに進んで過激派が政権を取るような場面があるなら、その時点で世界政治・経済・文化その他の分野における欧州の優越性は、がらがらと音を立てて崩れ去ることになるだろう。

しかし、栄光と、また苦難にも事欠かない歴史体験と、そこから生まれた知恵と良心と誇りに満ちたEUあるいは欧州が、それを許すとはいかにも考えにくい。


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