ドイツとイタリアは先日、イラク北部で過激派組織「イスラム国」と戦うクルド人勢力に対して武器の供与を行うと発表した。2006年に結成されたイスラム国は、その母体だったアルカイダにも勝る組織力と資金力を持つといわれている。
イスラム国はこれまでに多くの自爆テロや虐殺や誘拐事件を起こし、クルド人やキリスト教徒を殺戮し、先日は米国人ジャーナリストの首をはねる様子を撮影して、ネットに配信するという残虐非道な行動も取っている。
イタリアとドイツの異例の動きは、イラク国内で勢力を拡大し続ける過激派への欧州全体の苛立ちと不安が形になったものであり、それはイラクを空爆している米国やその後方支援に回っている英国などとも連動している。またフランスがクルド人勢力に精密兵器を供与しているのも周知の事実である。
ドイツとイタリアの武器供与宣言は驚くべきものだ。中でも政治・経済的にグローバルな影響力を持つドイツの決定は特筆に値する。
ドイツは世界第3位の武器輸出国でありながら、紛争地域への直接関与を避けて武器の供給等も控えてきた。第2次世界大戦への責任感とナチスの過去の重いくびきがあるからだ。同国が2003年の米国主導のイラク攻撃にさえ反対したのは記憶に新しい。
またイタリアは政治・経済的にはドイツほどの威力を持たないものの、バチカンを擁することで世界中のカトリック教徒に間接的あるいは心理的な影響力を行使している、という見方もできる。それだけに、ドイツに歩調を合わせた今回のイタリア政府の決定も、非常に重い意味を持つ。
欧州は彼らの持てる力を最大限に使って、米国と強調してイスラム国の蛮行に待ったをかける決心をした、と言い切っても間違いではないだろう。自由と民主主義を信じる世界のあらゆる勢力は、団結してこれを支持し、行過ぎたイスラム国の行動を阻止するべきである。
ところで、独伊が武器供与宣言をする2日前には、世界12億のカトリック信者の最高指導者であるバチカンのフランシスコ教皇が「イスラム国に対する国際社会の戦いは合法的である」と武力行使を容認する趣旨の、これまた異例中の異例の発言を行っている。
しかし、一大宗教組織の指導者であるフランシスコ教皇が、事実上「戦争を容認した」と受け取られても仕方のない発言をしたのは大きな疑問だと思う。
バチカンは過去において、キリスト教の名の下に戦争や殺戮等の罪を数多く犯した。その反省から近年は戦争に絶対反対の立場を貫き、いかなる紛争も対話で解決するべきという平和路線を維持してきた。
そうした観点からもフランシスコ教皇の表明は極めて驚くべき出来事だ。イタリアとドイツは、教皇の「戦争容認」発言を受けて大っぴらに武器供与宣言を行ったのではないか。バチカンと独伊の間には事前に合意があった、と考えても決して不自然ではないだろう。
フランシスコ教皇は、昨年3月に就任して以来、多くの急進的な改革に着手し、「マフィアは破門する」等の過激な発言も辞さない。改革を押し進める教皇に苛立つバチカン内の保守官僚組織「クーリア」の一部や、彼に糾弾されて窮地に陥っているマフィア等の犯罪組織は、フランシスコ教皇の暗殺を画策していると実(まこと)しやかに囁かれているほどだ。
そうしたことからも分かるように、フランシスコ教皇は彼の2代前の大ヨハネ・パウロ2世に勝るとも劣らない勇気と信念を持って、バチカンの旧弊や悪を取り除く努力をしている。彼の率直かつ正善な活動の数々は、質素を愛しまた実践する篤厚清楚な人柄と相まって、カトリック教徒のみならず世界中の多くの人々の尊敬を一身に集めている。
フランシスコ教皇の影響力は甚大だ。彼は軽々しく戦争肯定と見られかねないような発言をしてはならない。カトリックを含む世界中のキリスト教徒は既に、彼らの兄弟であるイラクのキリスト教徒を弾圧するイスラム国に怒りを募らせている。教皇の発言は彼らの怨讐心の後押しをするだけの結果になりかねない。
また宗教とは距離を置く欧米の政治勢力や権力機構も、完全に反イスラム国で大同団結している。そればかりではない。心あるイスラム教徒を含む世界の良心も、残虐非道なイスラム国の動きに胸を痛めている。
つまり、世界は反イスラム国一色に染まっているのだ。言葉を変えれば、世界は過激派組織「イスラム国」と国際社会の闘いを支持し、あまつさえその組織の殲滅を願っている、と形容しても過言ではないだろう。
イスラム国憎しの激情が逆巻く先は、憎悪が憎悪を呼び、恨みが恨みを買う暗黒の社会である。そんな折にバチカンは人々の怨嗟の炎に油を注ぐ行為をしてはならない。バチカンは逆に、憎しみの連鎖を遮断する最後の砦となる努力をするべきである。
バチカン及びキリスト教は2000年に渡る血みどろの歴史を持っている。それへの反省から近年は徹底した平和主義を唱え、先導し、実践してきたことは前述した。教皇はバチカンのその努力を水泡に帰すような行為を慎むべきである。
イスラム国への人々の挑戦は、この先いやでも徹底的に実践されるに違いない。従って教皇は、たとえ建前だけでも「戦争には反対」と主張するべきではないか。そうすることで彼は、キリスト教徒のみならず将来必ず破綻するであろうイスラム国の戦士らの魂も救うことができると考える。
事はバチカンに限らない。世界のあらゆる宗教の指導者たちは、憎しみが逆巻く現在のような時こそ、強い意志で友愛と平和を説き続けるべきである。宗教は戦争に巻き込まれてはならない。そして宗教は自らが戦争に巻き込まれない努力をしない限り、直接・間接に必ずそれに巻き込まれるのが宿命である。
イタリアとドイツの異例の動きは、イラク国内で勢力を拡大し続ける過激派への欧州全体の苛立ちと不安が形になったものであり、それはイラクを空爆している米国やその後方支援に回っている英国などとも連動している。またフランスがクルド人勢力に精密兵器を供与しているのも周知の事実である。
ドイツとイタリアの武器供与宣言は驚くべきものだ。中でも政治・経済的にグローバルな影響力を持つドイツの決定は特筆に値する。
ドイツは世界第3位の武器輸出国でありながら、紛争地域への直接関与を避けて武器の供給等も控えてきた。第2次世界大戦への責任感とナチスの過去の重いくびきがあるからだ。同国が2003年の米国主導のイラク攻撃にさえ反対したのは記憶に新しい。
またイタリアは政治・経済的にはドイツほどの威力を持たないものの、バチカンを擁することで世界中のカトリック教徒に間接的あるいは心理的な影響力を行使している、という見方もできる。それだけに、ドイツに歩調を合わせた今回のイタリア政府の決定も、非常に重い意味を持つ。
欧州は彼らの持てる力を最大限に使って、米国と強調してイスラム国の蛮行に待ったをかける決心をした、と言い切っても間違いではないだろう。自由と民主主義を信じる世界のあらゆる勢力は、団結してこれを支持し、行過ぎたイスラム国の行動を阻止するべきである。
ところで、独伊が武器供与宣言をする2日前には、世界12億のカトリック信者の最高指導者であるバチカンのフランシスコ教皇が「イスラム国に対する国際社会の戦いは合法的である」と武力行使を容認する趣旨の、これまた異例中の異例の発言を行っている。
しかし、一大宗教組織の指導者であるフランシスコ教皇が、事実上「戦争を容認した」と受け取られても仕方のない発言をしたのは大きな疑問だと思う。
バチカンは過去において、キリスト教の名の下に戦争や殺戮等の罪を数多く犯した。その反省から近年は戦争に絶対反対の立場を貫き、いかなる紛争も対話で解決するべきという平和路線を維持してきた。
そうした観点からもフランシスコ教皇の表明は極めて驚くべき出来事だ。イタリアとドイツは、教皇の「戦争容認」発言を受けて大っぴらに武器供与宣言を行ったのではないか。バチカンと独伊の間には事前に合意があった、と考えても決して不自然ではないだろう。
フランシスコ教皇は、昨年3月に就任して以来、多くの急進的な改革に着手し、「マフィアは破門する」等の過激な発言も辞さない。改革を押し進める教皇に苛立つバチカン内の保守官僚組織「クーリア」の一部や、彼に糾弾されて窮地に陥っているマフィア等の犯罪組織は、フランシスコ教皇の暗殺を画策していると実(まこと)しやかに囁かれているほどだ。
そうしたことからも分かるように、フランシスコ教皇は彼の2代前の大ヨハネ・パウロ2世に勝るとも劣らない勇気と信念を持って、バチカンの旧弊や悪を取り除く努力をしている。彼の率直かつ正善な活動の数々は、質素を愛しまた実践する篤厚清楚な人柄と相まって、カトリック教徒のみならず世界中の多くの人々の尊敬を一身に集めている。
フランシスコ教皇の影響力は甚大だ。彼は軽々しく戦争肯定と見られかねないような発言をしてはならない。カトリックを含む世界中のキリスト教徒は既に、彼らの兄弟であるイラクのキリスト教徒を弾圧するイスラム国に怒りを募らせている。教皇の発言は彼らの怨讐心の後押しをするだけの結果になりかねない。
また宗教とは距離を置く欧米の政治勢力や権力機構も、完全に反イスラム国で大同団結している。そればかりではない。心あるイスラム教徒を含む世界の良心も、残虐非道なイスラム国の動きに胸を痛めている。
つまり、世界は反イスラム国一色に染まっているのだ。言葉を変えれば、世界は過激派組織「イスラム国」と国際社会の闘いを支持し、あまつさえその組織の殲滅を願っている、と形容しても過言ではないだろう。
イスラム国憎しの激情が逆巻く先は、憎悪が憎悪を呼び、恨みが恨みを買う暗黒の社会である。そんな折にバチカンは人々の怨嗟の炎に油を注ぐ行為をしてはならない。バチカンは逆に、憎しみの連鎖を遮断する最後の砦となる努力をするべきである。
バチカン及びキリスト教は2000年に渡る血みどろの歴史を持っている。それへの反省から近年は徹底した平和主義を唱え、先導し、実践してきたことは前述した。教皇はバチカンのその努力を水泡に帰すような行為を慎むべきである。
イスラム国への人々の挑戦は、この先いやでも徹底的に実践されるに違いない。従って教皇は、たとえ建前だけでも「戦争には反対」と主張するべきではないか。そうすることで彼は、キリスト教徒のみならず将来必ず破綻するであろうイスラム国の戦士らの魂も救うことができると考える。
事はバチカンに限らない。世界のあらゆる宗教の指導者たちは、憎しみが逆巻く現在のような時こそ、強い意志で友愛と平和を説き続けるべきである。宗教は戦争に巻き込まれてはならない。そして宗教は自らが戦争に巻き込まれない努力をしない限り、直接・間接に必ずそれに巻き込まれるのが宿命である。