【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2014年10月

夏から一気に冬へ、日本のイメージみたいなイタリアの時季


夏から一気に冬へ。

いつものイタリアの季節変化のイメージ。

10月25日(土曜日)、客人を迎えて庭でBBQ。天気もよく気温も夏の低温がそのまま続いている感じで程好い。日が暮れると少し肌寒いが依然として心地よかった。

翌26日の日曜日は前日に続く好天。むしろ晴れ間は多いくらい。気温も前日程度。

26日深夜から気温がぐんと下がる。27日にはストーブを点ける。一気に冬へ。

そうやって北イタリアは今年も夏から突然冬になった・・

という印象の季節の移ろいが見られた。

僕はいつものこの国の荒々しい季節変動が好きだ。日本のゆるやかな季節の動きとはまた違う魅力がある。

雨が降り続いた冷夏のまっただ中では、早い冬の訪れを思った。しかし、9月になっても、雨は多いものの急激な気温低下はなかった。

10月になると、気温は10月としては高いまま、つまり夏の気温の流れを引き継いだまま、前述の26日~27日まで来た。

そして一気に冬になった。

ミランの本田は本物か、というタイトルでブログを書こうと思ううちに、直近の2試合で彼の活躍がストップ。開幕から7試合での6ゴールはあのシェフチェンコに迫る凄い記録だったのに。

獣トト・リイナが獄中であれこれ呟いていたのは、どうやらナポリターノ大統領のマフィアがらみ証言を見越して、プレッシャーを掛けようとの魂胆からのようだ。塀の中にいても彼がマフィア組織の支配者?

夏以降、イタリア随一の高級紙「CORRIERE DELLA SERA」に安倍政権にまつわるネガティブな印象の記事が多い。中でも写真付きのそれらはインパクトがさらに強い。

安倍首相は、戦後日本が徹底した平和主義の下で築いてきたグローバルな信用と、東日本大震災を経て得た賞賛を、いとも簡単に反故にしようとしている。いや、もう反故にしてしまったかもしれない。

嫌韓や反中国の日本の世論は、2国が反日だからそれに反発して形成されたものではない。靖国参拝に代表される安倍首相のナショナリスト的言動と、石原慎太郎氏を始めとするその周囲の民族主義者たちの同様の言動が、少し収まりつつあった中韓の反日の激情を呼び覚まし、それに日本国民が反応している、というのが真相だ。

中韓のみに怒りや苛立ちや反感を募らせて、従って中韓しか眼中になく、ほとんど世界を見ていない石原慎太郎さん的「引き籠りの暴力愛好家」たちは、世界が彼らをどう見ているかを知るべきである。

そのヒントが、最近の「CORRIERE DELLA SERA」紙にいっぱいに詰まっている。また欧米各国の、特に英語圏のメディアの記事や言論にも。

麻薬大国 ~モディカ・クアンティタ~


大麻解禁

2014年9月20日、イタリア政府はこれまで禁止されていた大麻の栽培を軍施設に限って解禁すると発表した。欧米では、特に痛みの軽減に効果があるとし て医療用に大麻を使うケースが増えている。イタリアも例外ではなく2007年から医療用大麻の販売や使用が合法化された。

しかしイタリアにおける医療用の大麻は、それが普通に流通している「大麻先進国オランダ」からの輸入がほとんどで、しかも値段が高いために一般化していない。そこでイタリア政府は、医療向けの安い大麻を軍の厳しい管理のもとに生産する決定をした。

その数日後、まるで呼応するように、地中海の島嶼州サルデニアで82歳の麻薬密売人の女ステファニア・マルーが逮捕された。老女は数人の若い男を配下に置いて麻薬密売にいそしんでいて、1962年の初仕事以来50年以上に渡って麻薬を売ってきた猛者だった。

また昨年末にはローマでも80歳になる女密売人が逮捕された。彼女はローマ中心街の自宅窓から、通りを歩く客に麻薬を渡して素早く金を受け取る、という方法で薬物を売っていた。同女も長年に渡って麻薬の密売を続けてきた手練れである。

医療用大麻の生産を解禁したイタリア政府の動きは滑稽なほどに鈍かった。それはイタリアに麻薬が蔓延している状況と無縁ではない。中毒患者数を始めとするイタリアの麻薬事情は年々改善傾向にあるが、たとえ医療用とはいえ、それを解禁することが社会にもたらす心理的な影響を考慮して、イタリア政府は二の足を踏んでいたのだと考えられる。

大麻栽培を解禁した政府の動きと、それに前後して麻薬密売の罪で逮捕された2人の老女のエピソードは、実は直接に関連するものではない。しかし、あたかも政府発表に合わせるかのように老密売人2人が逮捕された事実は、僕にはイタリアの麻薬事情を端的に表す逸話のようにも見える。

麻薬汚染都市ミラノ

あまり言いたくないが、僕が長く仕事の拠点にしてきたミラノは実は、世界でも有数の麻薬汚染都市である。過去には「世界最悪の」という有難くない 烙印まで押されたことがある。人口10万人当たりの麻薬関連の死亡者数を比較検討したところ、ミラノが世界第1位に躍り出てしまったことがあるのだ。

そうした統計でワーストNO1に輝くのは米国のサンフランシスコと相場が決まっていた。ミラノはそこを抑えてトップになった。繰り返しになるが、イタ リアには麻薬が蔓延している。国中が麻薬にまみれているという現実が先ずあって、ミラノの問題が出てきた。それは決して偶然のでき事ではない。

イタリアに麻薬が蔓延している理由は、ごく単純に言ってしまえばイタリア社会が豊かだからである。米英独仏蘭などに代表される欧米の国々で麻薬がはびこっ ているのと同じ社会背景があって、イタリアにも麻薬が広がっていった。つまり「豊かさに付いてまわる負の遺産」がこの国の麻薬問題である。

ところがイタリアという国は、何事につけ人騒がせなところがあって、麻薬の場合にもまたまた他人とは違う独特のやり方というか、あり方というか、不可解な「イタリア的事情」をいかんなく発揮して、前述の国々とは異なる麻薬環境を国中に作り出してしまった。

モディカ・クアンティタ

イタリアの麻薬関連法には通称「モディカ・クアンティタ(小量保持)」というコンセプトがある。これは個人が使用する分と考えられる小量の麻薬(モディカ・クアンティタ)の所持を認めるというものである。つまり麻薬は、1人1人の個人の責任において、これを所持し使用する分にはお構いなしという規定だ。

かつてはイタリアの麻薬関連法も、薬物の量の大小に関わらずにそれの保持を厳しく規制していた。それが1970年代を境にモディカ・クアンティタのコンセプトが導入されて規制がゆるくなった。ただし、麻薬を大量に所持してこれを売る者
(売人)は、その生産者と同じく飽くまでも厳しい罰則の対象ではある。

モディカ・クアンティタ(小量保持)の「小量」には具体的な規定がない。いや、あることはあるのだが、すぐに内容が変わるなど厳格さに欠けるため、言葉の解釈をめぐって大きな混乱が起きる。麻薬所持で捕 まった売人が、個人使用の分量だと主張し、裁判の度に有罪になったり無罪になったりもする。

少量の麻薬保持は罪に問わないという法の在り方には、イタリア人得意の物の考え方が関わっている。即ち、麻薬を所持し使用することは個人の問題なのだから、これを他人(国)がとやかく言うべきではない、という立場である。それがモディカ・クアンティタの原則というか基本的な哲学である。

モディカ・クアンティタの廃止・・・?

言葉を変えればそれは、厳罰主義を嫌うイタリア国民の強い意志の表明でもある。少量の麻薬保持を容認する態度の根っこには、人間は罪深い存在であり、間違いを犯すものであり、従って許されるべき存在であるというキリスト教的な死生観がある。

モディカ・クアンティタのコンセプトの根源は宗教的である分これを否定したり、矯正、改削することが難しい。加えてそこには、マリファナやハシシなどのいわゆる「軽い麻薬」を、酒や煙草よりも健康被害の少ない嗜好品、と見なす欧米社会の通念に近い考え方もあるからなおさらである。

2014年現在、イタリアの麻薬法は少量保持も禁止、という立場を取っている。しかしながら依然として罰則はゆるく、初犯の場合にはお構いなし。再犯やそれ以降でも運転免許証やパスポートが一時的に停止される場合もある、という程度である。 モディカ・クアンティタの精神を良しとする社会風土は、法の規定にはお構いなく歴然として存在する。

モディカ・クアンティタという厄介な考え方のおかげで、イタリアの麻薬環境は半ば野放し状態になった、という風に僕は考えている。そうしたイタリアの社会状況の中で、多くの麻薬患者は言うまでもなく、麻薬から最も遠いところにいると見える前述の2人の老婆のような者まで密売人になった。

麻薬はそうやってイタリアの日常茶飯の出来事の一つになって行った。
                        
                       (つづく・随時)

~さて、それはともかく。いずれにしても。である~ 


先月、イタリア政府は軍の管理の下で医療用大麻の栽培を進めると決めた。

それに関連してイタリアの麻薬汚染状況についてブログ記事を書き出したが、一向に進まず書き止まっている。

僕は90年代の半ばにイタリアの麻薬問題を取り上げたドキュメンタリーを作ったことがある。その作品はテレビ局によってずたずたにされ、改編され、報道番組として細切れに電波に乗った。

僕は怒りまくったが、編集権を含む全ての権利は金を出したテレビ局にあったので、どうすることもできなかった。その局とは以後一切付き合わないと決め、その通りになった。

ブログが書けないのはしかし、苦い記憶のせいではもちろんない。

当時僕はスタッフを総動員して麻薬関連の事実を徹底的に調べ上げた。自分でも足を使いコネを使い無いアタマを使って懸命に勉強した。真剣に番組制作に向かい合うときは常にそうであるように。

そうして力を尽くした事案は、番組終了と同時に僕の興味の対象外に去ってしまうことがある。調べ尽くし、格闘し尽くした内容が激烈だったりすると、しばらくそのことを忘れたくなるのだ。

イタリアの麻薬問題がまさにそうである。

それでも記事を書くと決めた以上、今の情報を集め確認し自分なりに検証しなければならない。

その作業に手間取っている。だから短いブログ記事に過ぎないのに中々書き終えることができない。気分が重い。

などと愚痴をこぼしている暇があったら記事を書けばいいのに、と自分に言い聞かせながらこうして愚痴三昧の駄文を書くのは、もしかして気分転換にならないかとの思いから・・




ハゲとオッパイ



最近、僕は急速にハゲてきている。年齢も年齢だから珍しいことではないし、血筋もハゲの系列だから、さらに大きくハゲることへの覚悟もできている。

それでも、ハゲるのはなんだかイヤだなぁという気分がどうしてもついて回る。それどころかハゲることが不安なようでもある。われながらうっとうしいもの思いである。

なぜそうなのか、と考えつづけていたら見えてきたものがある。

つまり、ハゲは実は女性の問題であり、そう考えてみると、なんとオッパイは実は男性の問題なのではないか、というオソロシイ結論に至ったのだ。

そこで僕は自分のコワイ発見を、10年以上に渡ってスペースをもらっている日本のある新聞のコラムに寄稿することにした。

僕はこれまで新聞雑誌にも結構記事を書いてきたが、10年以上も連載を続けているケースなど、ほかにはない。つまり僕とその新聞は、まあまあ強い信頼関係にある、と僕は考えている。

それにも関わらずその短い記事は、連載開始以来はじめてボツという憂き目を見た。記事は次のような内容だった:

ハゲとオッパイ

ハゲは女性の問題であり、オッパイは男性の問題である。
 つまり、男は女のせいでハゲを気にし、女は男のせいでオッパイの大小を気にする。
 僕は男だから100%分かるのだけれども、もしもこの世の中に男しかいなかったなら、男の誰もハゲなんか気にしない。自分のハゲも他人のハゲも。
 たとえば僕は男オンリーの世界でなら、僕の周りの男どもが全員ハゲで、かつ自分が彼らの百倍ハゲていたとしても、まったく気にならないと断言できる。
 世の中の女性が男のハゲを笑い、男のハゲを気にするから、僕ら哀れな男どもはハゲに強烈な恐怖心を抱いている。
 それと同じことがもしかすると女性の側にも言えるのではないか。
 つまり、女性は世の中の男どもが巨乳とかボインとか爆乳とか面白おかしく話題にするから、自分のオッパイの大きさを気にするのではないだろうか。
 もしもこの世の中に女しかいなかったら、自分の胸や他人の胸のデコボコが高いか低いかなんて、全然気にならないのではないか。ハゲは女性の問題であり、オッパイは男性の問題である、とはそういう意味である。
 ところで、男のハゲを気にするのは日本人女性が圧倒的に多い。ここイタリアを含む西洋の女性たちは、男性のハゲをあまり気にしない。
 大人の感覚とも言えるが、欧米人男性が元々毛深くてハゲが多いせいもあるのだろうと思う。女性が男のハゲに寛大だから、西洋の男どもは日本人男性ほどにはハゲを悩みにしていない。
 そんな訳でヤマトナデシコの皆さん、あんまりハゲ、ハゲと僕ら哀れな男どもを笑うのをやめてくれませんか?


記事が掲載拒否になった理由は、ハゲは不快用語で、オッパイという言葉も新聞では使いにくい、というものだった。

ところが実は、まさにハゲが不快用語だからこそ、ハゲである僕はそれを問題にした。つまりハゲと言う言葉に恐怖心を抱いている(不快感をもっている)僕は、その言葉が無神経に流布している現実への密かな抗議と、また自己防衛の思惑からそのコラムを書いた。他人にハゲと言われる前に自分で言ってしまえ、というあの心理ですね。

ところが新聞はそこのところを全く無視して、ハゲと言う言葉には読者が不快感を抱きかねないので掲載できない。またオッパイの大小も個性の問題なのであり、これも読者が反発しかねない、という奇妙な論理でボツにした。

ハゲと言う言葉に不快感を持つ読者とは、つまり「ハゲている読者」のことであり、それらの読者は僕の同志である。彼らこそまさに、僕のこのコラムを読みたい人々のはずなのだ。それなのに新聞は、一歩間違えば偽善的とさえ言われかねない自らの考えに固執して、そのことに気づかないように見える。

またオッパイの大小が女性の個性の一つだというのは、まさにその通りである。ところが世の中の男どもは、その個性を個性として認めようとはせず、ま、いわば劣情に曇った目で女性の胸を見て、あれこれ品定めをし辱(はずか)しめる。巨乳よ爆乳よ、とはやし立てるばかりではなく、その逆の大人しい胸を貧乳や壁やこ(小)っぱいと揶揄したりする。

そのことを指摘して、そんなものは男のたわ言であり身勝手な魂胆なのだから、無視して堂々としていた方が良い、というのが最終的には僕の言いたいところである。その趣旨は僕の短い文章の中に十分に示唆されていると考える。もしもそうでないのなら、それは僕の文章力の拙さが第一の原因である。が、同時にもしかすると、新聞人のあり余るほどの自信がその目を曇らせている、ということもあり得るのではないか。従軍慰安婦VS朝日新聞の例もあることだし・・

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