先日、家庭内祝祭で人生2度目の握り寿司を拵(こしら)えた。ネタはマグロと鯛である。
マグロは地中海産の黒マグロ。最近は刺身の味を覚えたイタリア人がよく食べるので、質の良いものが割りと簡単に手に入るようになった。
鯛は外見が真鯛に良く似た、DENTICE(デンティチェ)と呼ばれる天然もののヨーロッパ黄鯛。2キロ弱の大物を自分でさばいた。
ここイタリアでは鯛(ORATA・オラータ)とは、日本で普通チヌと呼ばれる黒鯛のこと。真鯛はPAGRO(パグロ)というが魚屋ではあまり見かけず、代わりにDENTICE(デンティチェ)が店頭に並ぶことが多い。
DENTICE(デンティチェ)は、味は良いが身がやわらかくて肉(身)が割れやすい、という特徴がある。従って刺身にもまた握りのネタにもあまり適さない。
僕は今回はマグロに加えて、敢えてそのDENTICE(デンティチェ)を使って握りを作ることにした。天然大物のその魚の姿があまりにも美しいので、いつも料理する養殖ものの黒鯛の確実(身割れしないという意味で)を捨てて挑戦する気になったのだ。
結論を先に言うと、僕の握りは今回も大好評で家族の全員と招待客が大いに喜んでくれた。マグロも真鯛もどきのDENTICE(デンティチェ)も。
人気の握り寿司への自信を深めた僕だが、実はそれへの挑戦は、前述したように昨年のクリスマスイブと今回の2回だけである。
昨年、生まれて初めて握り寿司に挑戦した後、僕は日本とイタリア在住の友人知己に連絡をして、彼らが家庭で握り寿司を作るかどうかを確認した。
それというのも、巻き寿司やちらし寿司あるいは稲荷寿司などとは違って、握り寿司は寿司屋で職人が握った品を食べるものであり、自宅で自ら作って食べる 料理ではない、という強い固定観念が僕にはあったからだ。そしてそれは多くの日本人の固定観念でもあるように感じていたからだ。
結果、僕の「感じ」はやはり的を射ていた。ほとんどの人が握りは寿司屋の専売特許、という風な答え方をした。自分で握ることがあると答えた者も、それをいわば握り寿司「もどき」とまでは考えないが、寿司屋で職人の握る寿司とはどこか違うもの、という捉え方のようだった。
僕自身にとっても、『自分で握る握り寿司』の世界はほぼタブーだった。ところが僕は人生でたった2度の寿司握りの体験を経て、そうした思い込みは無意味な「型の縛り」であり、「言霊(ことだま)」にも似た迷信だと確信するに至った。
周知のように言霊とは、言葉に宿るといわれる霊のことで、それは強い力をもってわれわれの生に作用するとされる。古来日本に多く見られる思考観念だが、実は世界中に少な からず見られる傾向である。しかしながら日本の場合は、例えば欧米などと比べるとその縛りが強くて、ほとんど信仰の域にまで達していると思う。
僕の握る寿司は、プロの寿司職人の握る寿司とは完成度や見た目や味のこくや深みなどという部分でもちろん違いはあるだろう。が、それはまぎれもなく握り寿司であって、まがいものや「握り寿司もどき」では断じて無い。
握り寿司は家庭でも作れる料理であり、それを寿司職人の専売特許と考えるのは根拠の無い偏見だ。言葉を変えれば、例えば鯛という魚がメデタイに通じるから 縁起が良い、と考えるダジャレと同じ感覚である。
そうした遊びは遊びとして楽しんでいるうちはいい。が、いつの間にか例えば、鯛だけが縁起ものだからそれ以外の魚は祝いには向かない、などと頑迷に言い張るようになってはつまらない。握り寿司イコール職人芸、という思い込みはどうもそれに似ていると感じる。
僕は今後、さらに握りの腕を磨いて、家族や友人らに喜んでもらおうと考えている。そして、寿司職人の握る素晴らしい味もまた素直に探求しようと思う。寿司 を自分で握ってみて、僕はその見事な料理の絶妙と精良の核心が理解できそうな気になっている。それは言霊や迷信を怖れてチャレンジをしない者には分からない喜びである。
論が前後するようだが、僕は言葉の持つ力を信じる者である。言葉には「言霊」という迷信ではなく、科学的かつ論理的な力がある。つまり、われわれの思考の全ては言葉なのだから、それは肉体と同じ程度の実体と根拠を持つ人間存在の基盤だ。
人は言葉を実際に音にして発するだけではない。思索も言葉で行っている。文学は言うまでもなく、思想も哲学も言葉がなければ存在しない。数学的思考ですら人は言葉を介して行っている。それどころか数式でさえも言葉である。
言葉には人間存在の根源と言っても過言では無い巨大なパワーがある。存在そのものが言葉だと言えば語弊があるが、人間が他の動物と違うのは言葉を獲得したことなのだから、そういう言い方でさえある意味では正しい。
言葉は明晰で実際的な力を持つ人工物である。それは自然物のように説明不可能な霊力を発揮して(飽くまでもそういうことがあるという前提で)人間や世界を変えることはない。人間が自らが作った明晰な言葉によって人間自身に影響を及ぼし、存在を変え、世界を変えるのである。それ以外の形は迷信であり陋習であり、文字通り単なる言葉の遊びに過ぎない。