スクランブル交差点大ロング50%アダン手前浜






2年ぶりに一時帰国をした。

帰りのアリタリア機の中にマスクをしてごほごほ咳をしている人が何人もいた。

そこで風邪をうつされたらしく、喉が痛くなり鼻水がとまらず、体もだるく少しの発熱もあったので、3日ほどほぼずっと寝て過ごした。

おかげで時差ぼけをあまり感じないまま4日が過ぎた。僕は体質的に時差ぼけに弱い。時差ぼけもつらいが、風邪もつらいので、どっちにしても難儀な旅の終わりになった。

でも、久しぶりの日本は楽しかった。最近僕は日伊往来をひどく面白く感じる。その感じは年とともに大きくなっていて、ほとんどワクワクする気分である。

何が楽しいのかというと、日伊の違い、つまり文化や景色や人情や食事や空気の違いetc・・がひどく楽しく、かつ嬉しく、面白く、ときめくのだ。


50%中ヨリ50%岩浜






いつものように帰国後は、人ごみに紛れ込んだり、逆に人のいない場所で密かに過ごしたりした。

仕事以外では僕はいつもそうしてきた。大都会とド田舎が好きなのだ。

都会と田舎の落差は、日本とイタリアの違いほどの新鮮な喜びを僕にもたらす。


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都会では、たとえば渋谷の繁華街のど真ん中のホテルに部屋を取って、好きな時間に出かけて本屋を巡り、食べ、グッズ店や路地やデパ地下などを覗いてまた本屋に寄って、夜は居酒屋で食べて少し飲む。

田舎では、南の島の海で過ごす。島には大小があり、大は観光客などで結構にぎやかだが、小はまったくの隔絶社会、というところも多い。幸い僕はその中でもひどく辺鄙な小さな島で生まれ育った。


岩と浜50%50%波打ち際






その島の冬の海には誰もいない。白いビーチと水と景色が全て自分のものだ。そんなゼイタクを密かに謳歌する。

50%岩集合中ヨリ















海はしかし、常に少しの恐怖心とともにある。写真の岩は津波によってもたらされたものと言われる。それらはいつもそこにあった。でも昔は誰も津波のことなど考えもしなかった。

岩手前後方広がり50%















2011年3月11日を境に、景色が一変した。それらの岩が外海の深くから掻き出されて、巨大な波に乗って島に投げ上げられる様子が、誰の目にもはっきりと見えるようになった。

歴史の記憶と幻想がもたらす恐怖はしかし、幸いなことに、絶景の中に1人ひたっている実感がもたらす絶大な喜びを挫(くじ)くことはない。

%岩手前半分後方広がり50















日本では僕はそうやって、人海の中の孤独と無人の浜の孤独を交互に楽しむ。それは何ものにも替えがたい深い喜びである。

それなら僕は人嫌いなのか。

断じてそんなことはない。

僕は都会でも南の島でも友人知己と大いに交わり、飲み、食べ、談笑して飽くことがない。

でもそれが終わると、1人静かに孤独の海にたゆたうことをいとわない。むしろそれを希求する。

それは映像作りと書きものの関係に似ている。

映像は1人では作れない。僕というディレクターがいて、カメラマンがいる。音声マンがいて照明担当者がいる。それらの助手もいる。

スタジオ撮影の場合はさらに多くのスタッフがいる。ロケが終わると編集者がいて、最終仕上げにも多くのスタッフがかかわる。

映像は集団で作りあげるものである。

物を書く作業は、逆に1人ですべてをこなす。書斎に1人こもってもくもくと書き、調べ、読み、また書き進める。

社会的作業が映像制作。孤独な作業が執筆だ。

僕はその両方が大好きである。