【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2015年04月

「イスラム国」の標的に定められているローマ



イタリア警察は先日、バチカンを攻撃しフランシスコ教皇を殺害する計画を立てていた疑いがある同国内のイスラム過激派組織を摘発し、破壊したと発表した。 組織はイタリアのサルデニア島を基点に本土でも活発に活動を続け、アルカイダのかつての最高指導者ウサマ・ビンラディンとも深くつながっていた。

イタリアは2001年の米国同時多発テロ以降、イスラム過激派の脅迫を受け続けている。イスラム過激派が目の敵にするキリスト教最大派のカトリックの総本山・バチカンを擁すると同時に、重要な文化遺産に満ち溢れているこの国は、宗教のみならず欧州文明も破壊したい、と渇望するテロ組織の格好の標的になっているのである。

そうした威嚇は主にアルカイダ系の組織によるものだが、これまでのところは目立った深刻な事件は起きていない。だが最近の「イスラム国」の恫喝は極めて現実的なものだと多くのイタリア人は感じている。「イスラム国」が他の欧州諸国で活発にテロを起こしている事実もさることながら、彼らがイタリアの隣国のリビアにまで侵入して勢力を伸ばしているからだ。

「イスラム国」は日本人人質の後藤健二さんを殺害した直後、イタリアから地中海を隔てて約175キロの距離にあるリビアの海岸で21人のキリスト教徒を殺害し、例によってその模様を撮影した恐怖映像をインターネット上に公開した。ビデオ映像には「今後はローマに向けて進撃する」という趣旨のメッセージが付 けられていた。

処刑場となったのはイタリアと向かい合うリビアの地中海沿岸である。対岸にはここイタリアがあり、首都ローマには何世紀にも渡ってイスラム教徒と対立してきたバチカンがある。「イスラム国」はバチカンに挑戦状を叩きつけたのである。彼らはローマを占領し、そこを足がかりにヨーロッパ全土を手中にする、という計画を持っている。

イタリアとバチカンに向けての「イスラム国」の恐嚇は、今回が初めてではない。彼らは既に昨年8月、フランシスコ教皇を殺害すると宣告し、同10 月には彼らの機関誌“Dabiq(ダビク)”の表紙に、「イスラム国」の黒旗がバチカンのサンピエトロ大聖堂の広場に翻る合成写真を載せて気勢をあげた。

「イスラム国」がローマに向けてただちに進軍を開始するとは考えにくい。しかし彼らは、シリアやイラクで訓練された「イスラム国」の戦士をイタリアに送り込む可能性が十二分にある。イタリアからも過激派組織に参加するアラブ移民系の若者が増えている。彼らが帰国して国内で破壊活動をする可能性は決して低くない。

だがそうした脅威はあらゆるヨーロッパのキリスト教国に当てはまる。米英独仏の欧米主要国に始まる全ての欧米諸国は、中東やパキスタンなどのイスラム教徒移民の子や孫が、「イスラム国」などの過激思想の影響を受けて自国に牙を剥く異様な風潮の高まりに危機感を抱いている。

イタリアもその例にもれないが、この国の場合は危険がさらに増している。なぜならイタリアには、隣国のリビアやチュニジアを介して中東難民が大量に流入し 続けている。「イスラム国は」、その膨大な数の難民の中に彼らの戦闘員を紛れ込ませてイタリアに送り込み、テロを起こす計画を持っているとされる。

イタリアにはリビアから近いランペデゥーサ島を中心に中東難民が日常的に流れ着き、その数は年々増え続けて昨年は これまでで最大の約17万人が漂着した。そこには難民を食い物にする人間運び屋、つまり密航業者が暗躍して、事態をさらに複雑にし問題の解決を困難にしている。

やっかいなことにイタリアにはもう一つの大きな問題があって、脅威をさらに募らせる。つまり巨大犯罪組織の存在である。マフィアを筆頭にするイタリアの犯罪組織は、北アフリカに勢力を伸ばしてリビア などを縄張りにしたいと考えている。彼らと「イスラム国」が手を結んで、リビアを占領しイタリア共和国を転覆させようと目論んでいる兆候もあるのだ。

リビアでは、NATOの空爆支援を受けた反政府勢力が、2011年にカダフィ独裁政権を倒して以来、主要都市と石油施設を巡って内戦が続いている。「イ スラム国」の威迫を受けて、イタリア政府はリビアの政治安定のために国連の介入を要請している。しかし混迷を深めるリビアに国連が介入する可能性はほとんどない。

先日、「イスラム国」の脅嚇にさらされておよそ60人のイタリア人ビジネスマンが同国を去って帰国した。リビアはかつてのイタリアの植民地である。旧宗主国のこの国からはリビアに巨額の投資が実行されていて、 2国間には石油関連事業を筆頭に大規模なビジネス権益が絡み合っている。しかし「イスラム国」の脅威は、人々がそれを諦めざるを得ないほど切実になっているのだ。

「イスラム国」はたとえイタリアに上陸しなくても、地中海に進撃して海賊行為を働くかたわら、漁船や、商船や、沿岸警備隊などを襲撃して船舶と乗組員を拉致し、例えば後藤さんと湯川さんの時と同様に彼らの首にナイフを突き付けて見せて、イタリア政府に巨額の身代金を要求するなどの脅迫をすることもできる。そこには極めて現実的な危険が迫っているのである。


赦(ゆる)す心が「イスラム国」を破壊する          ~先ず彼らを潰せ。そして赦せ~




僕は前稿でイエス・キリストが唱道した全き「赦(ゆる)しの心」だけが真に「イスラム国」を破壊できる、と書いた。

だが、われわれはイエス・キリストではない。イエス・キリストの説く赦しの心を理想としつつ、また彼のようでありたいと希求したとしても、われわれの大半は彼の域には到達できない。イエスの明示した世界が理想ならば、われわれの住むこの世界は現実である。

理想に向かって進まなければ理想は実現できない。また理想の存在を知りつつ、且つそこに到達したいと口では言いつつ、「当面は」現実的な解決を目指すというのは、つまり理想を捨てるということである。それは自己欺瞞であり、詭弁であり、偽善だ。

「イスラム国」を真に殲滅したいなら、イエス・キリストと同じ無条件の徹底した赦しの心が必要である。その心とそれに伴う行動だけが、憎しみの連鎖を断つことができる。だがそれは限りなく不可能に近い。

だからこそイエス・キリストは無条件の赦しを人間に要求する。無条件の赦しができるように自らを鼓舞し叱咤し努力せよ、というのがキリストの唱導するところであり宗教の教えだ。

僕はそうしたことを十二分に理解した上で、それでも次の解決策を提唱したい。あるいは世界がその方向に向かっているなら、その立場を追認したい。つまり「イスラム国」は破壊されるべきである。破壊され根絶された後に、はじめて赦されるべきである。

なぜなら彼らは間違っているからだ。彼らがカリフの導く理想国家を目指すのは良い。だがその為に彼らが持ち出した思想やその思想に基づく残虐な行動は許されるべきものではない。間違った思想と行動原理を振りかざして行う彼らの行為は悪であり危険なものだ。

例えば彼らは、何の罪も無い人質の首を斬って動画で晒しものにする、という残虐非道な行為を続けると同時に、イスラム教に改宗しない者は殺し、鞭打つ、と宣言する。また女性は教育を受けてはならず、全身を覆うブルカを着用し、働いてもならない。自由恋愛も禁止し、この禁を破った娘は父親や兄弟や親戚の男らが 名誉殺人と 称して殺しても構わない、などとも考える。

彼らはおよそ市民社会の理念とは相容れない思想信条を持ち、世界がこれまでに築き上げてきた価値観や文明や自由をことごとく否定する。それは洋の東西を問わず、近代的理念を信奉する者にはとうてい受け入れられない態度だ。

アラブ系ムスリム移民を多く抱えて、彼らとキリスト教徒との軋轢がもたらす社会分裂の進行を危惧する欧州の国々の中には、「イスラム国」との対話を模索するべきだという声も少なからずある。ここイタリアにも、フランスにも、またドイツにも。

しかし、今の「イスラム国」との対話が可能だとは僕は思わない。対話の前に先ず「イスラム国」を撃滅するべきだ、と考える。そうやって組織を破壊した後に、組織の残党がいて且つ必要があるならば、そこで彼らと対話を開始すればいいのだ。

破壊するとは、赦さないということである。従って破壊した後に赦して対話をする、というのは大いなる矛盾である。しかし危険や悪を先ず攻撃しておいて、その後に救済するという動きは、人類の歴史上は決して珍しいことではない。矛盾が救いとして作用することはしばしば起こる。

一例を挙げれば、ヒトラーとナチスが殲滅された後に、連合国がドイツに進攻して占領という名の対話を開始して、ドイツを今のまともな道に誘導したこと。あるいはアメリカが同じ大戦で日本の軍国主義を徹底的に破壊した後、戦後日本と「恫喝という名の対話」を続けて、ついにわが国に民主主義を根付かせてくれたことである。

「イスラム国」がもたらす惨禍は、実際のところその組織を徹底的に破壊する形でしか阻止できない。だから破壊するべきだ。だが「イスラム国」の組織と戦闘員を破壊し尽くしても、過激思想は根絶できない。過激思想は必ずまた甦る。あるいは生き続ける。

生き続ける過激思想はやがて誰かを取り込んでは拡大し、将来また新たな「イスラム国」が作り上げられる。人類は、「イスラム国」を破壊することで「イスラム国」を創造する、という自家撞着に陥って問題は永遠に続くことになる。

それでも「イスラム国」は殲滅されるべきだ。なぜなら、そうしなければ「イスラム国」は、人類が間違いと失敗と誤謬を繰り返しながら営々と築いてきた「近代的理念や価値観」を木っ端微塵に粉砕してしまいかねない。だから致し方ない。先ず彼らを駆逐して、それから赦し、対話をする道を模索するしかないのである。

大事なことは、破壊した後に必ず彼らに救いの手を差しのべることだ。つまり、根絶された「イスラム国」の戦士の子供や、家族や支援者の中に芽生える憎しみをやわらげ、和解を求めて一心に行動する。それが破壊した者の義務にならなければならない。その義務を必ず遂行すると確認した上でのみ、破壊者は行動を起こすべきだ。

破壊は憎しみと同義語でありイエスの絶対的な赦しの教えとは相容れない。しかし、それが世俗の問題解決法だ。世俗に生きるわれわれは、憎悪の連鎖に縛られて呻吟しながら、もしも可能ならば、イエスの理想に近づく努力をすれば良い。

だが、世界はそれだけであってはならない。地球上にはイエス・キリストと同じ心を持つ者がいる。あるいはイエス・キリストと同じ心を持たなければ存在価値のない者がいる。それが全ての宗教でありその指導者たちだ。彼らは全き赦しの心を持って「イスラム国」と対峙し、彼らが武器を置いて静かに眠りに就くように説得を続けるべきだ。

残念ながら、「イスラム国」の暴力に暴力で立ち向かう、人々の挑戦は避けられない。世界はこの先ますます騒乱に満ちたものになって行くはずだ。だからこそ、あらゆる宗教指導者は、手を携えて平和を希求し赦しに満ちた世界を標榜し続けるべきだ。中でも特にいがみ合うことの多いキリスト教とイスラム教の指導者たちは、他の誰よりもそれを推進する義務がある。

そうすれば、「イスラム国」が消滅した暁にはあるいは、理想と現実が共鳴しあう「究極の理想世界」が出現するかもしれない。


赦(ゆる)す心が「イスラム国」を破壊する             ~ただひたすらに彼らを赦せ~

僕はキリスト教徒ではない。信仰心が厚い人間でもない。それどころか、あらゆる宗教を「イワシの頭」と規定して受け入れ、尊重し恭敬する者である。従って 信心深いある種の人々にとっては僕は無神論者であり、しかも同時に僕自身も、自らをそのように規定することさえ憚らない人間である。

それなのに僕は先日、「イスラム国」が後藤健二さんの首にナイフを突き付けて殺害する忌まわしい映像を目の当たりにした時、魂が崩れ落ちるのでもあるかのような深い悲しみと、心髄の慟哭の中でひたすら次の言葉を思っていた。

 「主よ彼らを赦(ゆる)せ。彼らは自分たちが何をしているかを知らないのだから・・」

それはイエス・キリストが十字架上で死に行きながら、薄れゆく意識の中で今まさに自分を殺している者らを赦してほしい、と神に祈る言葉である。僕は「イス ラム国」の象徴であるおぞましい死刑執行人「*斬首魔ジョン」の動きを凝視しながら、その言葉を本当に繰り返し思ったのだ。

僕がその言葉を脳裏に浮かべたのは、断じて「イスラム国」を赦す気持ちからではない。それどころか、その時の僕の心中には「イスラム国」への憎悪と怨みと、今思い返せば恐らく「殺意」にも似た報復感情が、ふつふつと湧き起こり逆巻いていた、と告白しなければならない。

同時に僕は、人間の所業とは思えない彼らの行為がにわかには信じられず、彼らは自分たちが一体何をしているかを理解しないまま、行為に及んでいるに違いないと考えた。それはイエスの言葉の記憶からの連想だったが、たとえそうではなくとも、画面に映っている光景は、そんな風にでも考えなければ理解不可能な凄惨な図だった。

僕の思惑は、イエス・キリストの赦しの心とは違う精神作用から来るものだった。しかし今にして思えば、彼らのむごたらしい行為を「人間以前の心を持つ者だけが成せる仕業」とみなして、怒りの矛を収める心理があるいはそのとき既に働いていたのかもしれない。

ひとことで言えば彼らは野蛮な未開人なのであり、人間が同じ人間に対して残虐な行為を働いて憚らなかった時代の、険しい精神のままに生きている者どもである。自らが一体何をしているかがわからない者とは又、暴力の理不尽とおぞましさが分からない狂気に支配された者でもある。

人間以下の心性しか持たない人間に怒りをぶつけても仕方がない・・イエス・キリストの赦しの心とは似ても似つかないが、僕はそうやって「イスラム国」の信じ難い行為を何とかして理解しようと、無意識のうちに心中で葛藤していたのだ、と今になってまた思う。

しかし、そのときの僕には「イスラム国」を赦す心の余裕など微塵もなかった。それどころか彼らは殲滅されるべきだと考え、今もそう思っている。

僕のその赦さない心は、実は「イスラム国」の悪意と復讐心に満ちた心と何も変わらない。彼らの胸中深くにあるのは、「目には目を、歯には歯を~」という同害報復思想に拠るキリスト教と西洋文明への恨みだ。つまり彼らの中にあるのも僕と同じ赦さない心なのである。

憎しみには憎しみを、という復讐の連鎖を断ち切って「ひたすら赦せ」と説いたのがイエス・キリストである。そして「イスラム国」を真に根絶できるのは実は、キリストが唱道したその絶対の「赦し」だけである。その理由を次に書く。

2015年1月20日、「イスラム国」は日本人人質の後藤さんと湯川さんを跪かせた状態で2人の殺害を予告し、「*斬首魔ジョン」は、組織を代表して こう宣言した

“日本国の首相よ

お前は「イスラム国」から8500キロ以上離れた場所にいながら、自ら進んで(対「イスラム国」の)十字軍への参加を志願した。お前は我々の女性と子供たちを殺し、イスラム教徒の家々を破壊す るために、2億ドルを得意げに提供したのだ~”


彼はっきりと「安倍首相は我々の女性と子供たちを殺すために2億ドルを提供した」と明言したのだ。つまり彼らと違う立場から見れば「抹殺されるべき悪魔の集団 」である「イスラム国」の男たちにも、守るべき妻や母や姉妹や娘たちがいる。そして何よりも子供たちがいる。つまり家族がある・・それが生の実相だ。

「イスラム国」の組織を殲滅するとは、彼らが守ろうとしている家庭も同時に破壊するということだ。そして破壊された後の瓦礫の荒野には、彼らの子供たちと女性たちと彼らの慰安者たちが残る。彼らの思想も残る。そして残されたそれらの総体とは、つまり、飽くなき憎しみである。

彼らの憎しみは父や夫や兄を殺した敵への復讐心となって燃え盛り、連綿と受け継がれて行く。憎悪は新たな憎悪しか生まない。それを知っていたからこそイエス・キリストは、敵を赦せ、憎しみを破棄しろ、と自らの命を捨ててまで説いた。

ただひたすらに赦すことだけが、「イスラム国」を静かに、真に消滅させ得る唯一の手段なのである。



*「斬首魔ジョン」
(「イスラム国」のビデオ映像に登場する黒覆面の首切り屋をメディアは「聖戦士ジョン」と呼んでいる。これは報道においては私意や偏向を避ける目的で、報道対 象の自称をそのまま使う、という原則によっている。英語のジハディスト(Jihadist)・ジョンを聖戦士と訳しているのだ。し かし、僕のこの文章は報道記事ではない。僕の意見開陳の作文である。だから僕はおぞましい殺人者ジョンを、僕の感覚で斬首魔ジョン、あるいは首切り魔ジョ ンと規定し、そう呼称する)



赦(ゆる)す心が「イスラム国」を破壊する~先ず彼らを潰せ。そして赦せ~ につづく

ミラノ無法裁判所の西部劇



耳を疑うような事件が北イタリアのミラノで起きた。詐欺破産を巡る裁判の公判が開かれている法廷で、裁かれている被告人自身が突然拳銃を取り出して、弁護士と彼の共犯とされる別の被告らに発砲したのだ。

男はさらに別の階にある判事の部屋に押し入り、中にいた裁判官も銃撃して合わせて3人を殺害した。犯人はクラウディオ・ジャルディエロ被告人 、57歳。事業破産を巡って、詐欺に遭ったと思い込んだ詐欺師が、同僚や裁判官を逆恨みして犯行に及んだ、と判断してもよさそうである。

裁判所の通常の入り口は金属探知機などによるチェックが厳しい。そこで容疑者は偽の身分証明書を作成して、金属探知機が設置されていない弁護士や裁判所職 員専用の通用口に提示して侵入。合計13発の銃弾を放って、殺害した3人以外の傍聴席の人々にも 重症を負わせた。容疑者の拳銃は合法的に取得・登録されたものだった。

通常の入り口を避けて判事や弁護士専用の通用口から闖入したとはいえ、やはり法廷に入る際のセキュリティチェックが甘いと批判されても仕方 がないだろう。犯人が侵入した入り口の金属探知機は事件の数ヶ月前に撤去されていた。それならばなおさら身分証明書などのチェックが厳重になされるべきで あり、何よりも偽造が簡単にできるような身分証明書を発行するべきではない。

法を無視しあるいは敵視して、自らが正義の遂行人となり裁きを行う、というのは中世的な未開思考であり、西部劇も真っ青の無法の容認である。曲がりなりに も先進法治国家の一角をなしているはずの、この国で起こったのはお粗末の一言だ。やっぱりイタリアは何かが緩んでいる、バカだ阿呆だと揶揄されても文句は 言えないところだ。

こういう事件が起きたときには反応が二つに分かれる。一つは単なる偶然だと結論づけてたちまち忘れてしまうこと。もう一つは事件の背後や根っこに何か重大な原因が隠されていると考えて、それを見つけ出し、分析し、警鐘を鳴らして社会に注意を促すことである。

後者は、結果的にまさにただの偶然だった事件を大げさに言い立てて、社会不安を煽るなどの愚を冒す危険がある。しかし偶然に見える事件が、社会の深い疲弊 や疾病に根ざしていることを見逃してしまうよりは、はるかに有益である。そこで及ばずながら僕も、この事件の背後にあるかもしれない病原を少し考えてみた。

前代未聞の事件は「いつもの」イタリア社会のゆるみの顕現というよりも、イタリア社会を覆っている強い政治不信や、財政危機対策にまつわる国民の過重な経 済負担、その結果としての社会の困憊や国民の怒りなどが相まって、司法への不信感が募っているのが遠因ではないか、と思う。そして司法への不信感を形成している最大の要因は「不公平感」だ。

つまり国民は、司法が悪徳政治家や強欲な事業家などの社会悪を罰することなく見逃し続けていると感じているのだ。それどころか司法には、社会悪に正義の鉄槌を下すだけの能力や勇気がないのではないか、とさえ国民は考え始めていて、心中に強い不満を募らせている。

国庫を食い潰すだけの無能な政治家や、脱税・詐欺まがいの動きを繰り返して富を膨らませていく悪徳事業家らは、正直者がバカを見る、という怨嗟を国民に植え付け、司法もそうした「黒い権力」に味方をしている、という国民の巨大な不信感を背景に事件が具現した。その見方が正しいならば、容疑者は一般国民と同 じ被害者だとも考えられる。

そうではないケースも考えられる。それはイタリアの政財界に依然として大きな影響力を行使している、ベルルスコーニ氏に象徴される「勝ち組」の人々の罪過である。20年の間に3期9年余に渡って首相を経験したベルルスコーニ氏は、イタリアの財政破綻をもたらした張本人、というレッテルを貼ら れて失脚した。同時に彼は巨大なビジネス帝国を築いて富を独占し、あまつさえ脱税の罪で実刑判決を受けたりもしている灰色事業家だ。

勝ち組の筆頭でありながら、元首相は常に司法への批判を続けて、支持者の同意を求め司法不信の意識を植え付けようと躍起になってきた。法廷で銃を乱射した容疑者は、あるいは前述とは真逆のベルルスコーニ氏周辺の「勝ち組」の1人であるのかもしれない。一時は事業で成功していたのだからそうした可能性は高い。その場合には彼の犯罪は、富を得た者の思い上がりがさせた行為、とも言える。いずれに してもイタリア社会は病んでいるということだ。

そうした社会不安の行方の不透明さもさることながら、発砲事件はイタリアが抱えるもう一つの懸念にもスポットライトを当てた。つまりイスラム過激派による テロの可能性だ。イタリアはイスラム国やアルカイダなどの過激派組織から常に名指しでテロの警告を受けている。そのうちのアルカイダの威嚇はもう長い間続いているが、これといった深刻な事件はまだ起きていない。

しかし、最近のイスラム国による脅迫は真に迫っていて無視できないと多くのイタリア人は感じている。イスラム国は、キリスト教最大派のカトリックの総本 山・バチカンのあるローマを襲撃する、と公言している。彼らが即座にローマに進撃するとは考えにくい。しかしイスラム国が、シリアやイラクで訓練されたテ ロリストを首都に送り込む可能性は十二分にある。

そればかりではない。イタリアには内戦状態に陥っている隣国のリビアやチュニジアを介して、中東難民が大量に流入し続けている。それは2000年前後に本 格的に始まったが、漂着する難民の数は年々増えて、昨年はおよそ17万人にものぼった。イスラム国はその膨大な数の難民の中に彼らの戦闘員を紛れ込ませてイタリアに送り、テロを起こす計画を持っているとされる。

イタリアでは5月1日から半年間の予定でミラノ国際博覧会が始まり、それが終わるとバチカンによる「大聖年(Jubilee year)祭」が開始される。それは1年間という長丁場の催し物である。国際的にも注目を集めるそれらの催し物は、イスラム国の絶好のテロのターゲットになり得る。

そんな折にミラノの裁判所で驚きの銃撃事件が起きた。そこで暴露された杜撰な警備システムや、保安担当者らの軽いメンタリティーでは、過激派のテロを退けることはとうていできない、と多くの人々が気を揉み出したのも致し方ない。



復活祭のごちそう~子ヤギを食らう罪と快楽~

今日4月5日はキリスト教の「復活祭」である。イタリア語ではパスクア。英語のイースター。イエス・キリストが死後3日目に復活したことを祝う祭。

キリスト教の祭典としては、その賑やかさと、非キリスト教国を含む世界中で祝される祭礼、という意味で恐らくクリスマスが最大のものだろう。が、宗教的には復活祭が最も重要な行事である。

なぜならクリスマスはイエス・キリストの誕生を祝うイベントに過ぎないが、復活祭は磔(はりつけ)にされたキリストが、「死から甦る」奇跡を讃える日だからだ。

誕生は生あるものの誰にでも訪れた奇跡である。が、「死からの再生」という大奇跡は神の子であるキリストにしか起こり得ない。それを信じるか否かに関わらず、宗教的にどちらが重要な出来事であるかは明白である。

イエス・キリストの復活があったからこそキリスト教は完成した、とも言える。キリスト教をキリスト教たらしめているのが、復活祭・イースターなのである。

復活祭のメインの催しは、キリストが十字架を背負って刑場のゴルゴタの丘まで歩いた「via crucis(悲痛の道)」をなぞって、信者が当時の服装を身にまとって各地を練り歩くイベント。

同時に各家庭では復活祭特有のご馳走の嵐が吹き荒れる。中でも特徴的なのは、生まれたての子ヤギの肉を使ったカプレット料理。それにはグルメの国・イタリアの膳らしくヤギ独特の臭いが無く、且つ口にいれると柔らかく舌にからんでとても上品な味がする。

復活祭になぜヤギ料理なのかというと、イエス・キリストが贖罪のために神に捧げられる子ヒツジ、すなわち「神の子羊」だとみなされることから、復活祭に子 ヒツジを食べてイエス・キリストに感謝をする習慣ができた。子ヒツジの肉はやがてそれに似た子ヤギの肉にも広がっていった。

子やぎは癒し系の愛くるしい生き物である。よちよちと近寄ってきたり、無防備に人に体を預けたり、触れられても嫌がったりしないことが多い。目元も顔つきも姿の全体も実にかわいい。

そのせいかどうか、子ヤギ料理は日本では全く人気がない。ヤギ肉を食する習慣がある南の島の、粗大ゴミかと見紛うゴリ顔の男でさえ、イタリアの子ヤギ料理の話をすると皆一様に「????」という表情になって、挙句には「かわいそー」などとのたまう。

だがそれを言えば、子牛の肉や若鶏のから揚げや卵や小魚やいくらなども食べるのは言語道断、「かわいそー」ということになりかねない。食材としての動物は、悲しいことに幼いものほど美味という傾向もある。

人間が生きるとは殺すことだ。人は人間以外の多くの生物を殺して食べ、そのおかげで生きている。肉や魚を食べない菜食主義者の人々でさえ、植物という生物を殺して食べていることに変りはない。

人間が他の生き物の命を糧に、自らの命をつなぐ生き方は仕方のないことだ。も しもそれが悪であり犯罪であるなら、われわれ人間は一人残らず悪人であり罪人である。

乳飲み子でさえそうだ。なぜなら赤子は、生物を食べて生きる母親が与える母乳を頼りに生存している。従って、何かを殺して食べること自体を否定したり非難したりするのは無意味である。子ヤギとてその例にもれない

だが、人間とはまた強欲な存在でもある。ゼイタクのためにも人は生き物を殺す。たとえば究極のグルメとは、親牛の子宮に手を突っ込んで胎子を引っ張り出して、これを料理して食らう、というものである。それは実際に行われてきたことであり、今でも行われていると言われる。

子宮に手を突っ込んで胎子を引っ張り出す、というのは恐らく秘密を守るグルメたちの偽悪の装いか、それらの人々を憎む者たちの陰口だろう。実際には母牛を 屠刹して、胎子を取り出して料理するのではないか。胎子を食らうために母牛までも犠牲にする図は、彼らが自らの「裕福また成金振り」に自己満足を覚えたり、あるいはそれを喧伝したりするには格好の材料 だ。

そうした行為は糾弾されても仕方のないことだ。が、強欲も人間存在の重大な一構成要素だと認めれば、おのずと見えるものが違ってくる。つまり、そうした行為を容認するのは政治的正邪(ポリティカル・コレクトネス)に照らし合わせれば、邪である。だが人間を業に捉われた存在として見れば、なんら奇怪なことではない。

人間から業を取り去れば清浄無垢な何ものかが立ち現れるのだろう。だが、そんな存在はもう人間ではない。神に近い何ものかであり、人間の対極にあるものである。つまり理想という名の虚偽だ。

人間の良さは、業に縛られた存在である己を知り、己の罪深さを見つめて、それから少しでも解放されようと業にまみれて呻吟することである。

理想は実現できないからこそ理想なのである。あるいは実現することが限りなく不可能に近い難事だからこそ、理想なのである。従って理想に向かって懊悩する「プロセスそのもの」が、つまりは理想的な生き方ということなのではないか。

子ヤギといういたいけな生き物を殺して食べるのは、人間の業であり、業こそが人間存在の真実だ。大切なことはその真実を真っ向から見据えることだ。子ヤギを慈しむ心とそれを食肉処理して食らう性癖の間には何らの齟齬もない。

それを食らうも人間の正直であり、食わないと決意するのもまた人間の正直である。僕は一年に一度、イタリアにいる限りはイースターの子ヤギ料理を食べると決めた。

その罪と快楽の一部を示すURLを次に貼り付けて、食材となる子ヤギたちに深く感謝をしたい。

子ヤギレシピ⇒ https://www.google.co.jp/search?q=capretto+ricetta&hl=ja& amp;source=lnms&tbm=isch&sa=X&ei=H9UeVa_xN42p7Abi44CIBA&ved=0CAgQ_AUoAQ&biw=1152&bih=586
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