【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2015年07月

安倍昭恵・首相夫人への公開状 

Aike一面引き50%

安倍昭恵さま

掲載しました写真は、申し上げるまでもなくあなたがミラノ万博会場においてスピーチをなさった際のものです。イタリアきっての高級紙である「 CORRIERE DELLA SERA」が「万博訪問中の日本首相夫人が伝統に挑戦」というタイトルで一面トップ(見出しのトップはギリシャ問題ですが、あなたの大きな写真が先ず目に飛び込んでくる、という意味では間違いなく一面トップのニュースと言っても構わないでしょう)で取り上げられました。

先に進む前に、私はこの文章のタイトルを付けるのに少し戸惑ったことを告白しておきたいと思います。普通なら「安倍総理(首相)夫人への公開状」というふうにでも言えば済むことですが、イタリア紙の記事の内容は、あなたが夫である安倍首相の影に留まることをやめて、自らも主張し行動する人間でありたいと、外国の、ミラノの万博会場で公式に表明したというものです。簡単に言えば自立宣言です。そのあなたのお気持ちを考慮して、私は首相夫人ではなく、あなたの名前を頭におくのが礼儀だと考えました。

あなたがお辞儀をしている図は、一瞬「なにかを謝っている?」とおどろかされるものでしたが、よく見ると頭を下げつつ微笑んでいるのが分かって、ますます不思議な気がしました。急いて記事を読み、私はなぜこのエピソードがトップ記事扱いになったかを即座に理解して、今度は少々気分が明るくなりました。私はご主人の安倍総理にはなにかと苦言を呈している者ですが、あなたにはエールを送りたく、こうして公開書簡を書かせていただくことにしました。

記事の趣旨は、ミラノ万博会場の公式挨拶の場で「日本の女性の地位は変わらなくてはならない。私はこれまで批判を怖れて言いたいことを言わずに来たが、今後は自分の意見をきちんと表明して行く」とあなたが明確に述べて、男尊女卑の風が色濃く残る日本の伝統(文意からは因習というニュアンスが強い)に挑む決意を表明したというものです。

あなたがそう話したとき、(日本人の男性?)通訳は明らかに動揺しイタリア語への翻訳をためらったそうですね。形式と儀式を重んじる日本社会では、伝統を少しでも踏み外した言動はすぐに傲慢で挑発的なものとみなされやすい。あなたは日本の宰相夫人が公の場では決して言わないはずの「自らの意見」を優雅な、しかし決意に満ちたやり方で表明した、と記事は続けています。

ファーストレディのあなたが公の場で挨拶をした際に、日本的に普通にお辞儀をした瞬間を写真に捉えて、これを象徴的に使った新聞の意図は明らかです。 あなたは頭を下げつつかすかに微笑んでいる。日本女性らしく男性社会に恭順の意を示しながら、あなたはひそかにそれに挑む決意を示して笑っている、と新聞は言いたいのです。イタリア随一の新聞は、そうやってさりげなく日本の問題点と希望とをひと息に描いてみせました。見事な手法だと思います。さらに言えば実はそこには、人々が深々と一礼を交わす日本文化へのイタリア人の賞賛や友好心も入り混じって示されています。

古代ローマ帝国の典儀の記憶を持ち、カトリック教会の厳格な礼式なども知るイタリア人は、日本人のほぼ古代的と形容してもよい辞儀の習慣を、それほど奇異なものとは考えていません。それどころか、彼らが獲得した近代的かつ陳腐な握手の風俗と比較して、ほとんど美しいとさえ考えている節があります。米つきバッタのようにぺこぺこする図はみっともないものですが、深々と一度頭を下げる光景は、きっと古代のDNAを持つ彼らの琴線に触れるのだと私は思います。

記事はまたこうも述べます。「Akie Abeは夫の安倍首相と政治的スタンスが違うことでも知られている。例えば彼女は原発には反対で、緊張関係にある中韓に対してはもっと柔軟な態度で臨むべき、という考えを持っている。彼女は万博の公式の場に屹立して、まるでラッパが鳴り響くように威勢よく自己解放宣言をした。夫から「家庭内野党」と呼ばれている彼女は、果たして沼のように淀んだ、女嫌いの日本の権力機構に風穴を開けることができるだろうか、云々。

あなたの高らかな主張が、親日国イタリアの最有力紙の一面に堂々と取り上げられた背景には、実は重要な伏線があります。 「CORRIERE DELLA SERA」は昨年9月の国際面に安部首相夫妻と習近平主席夫妻が連れ添う写真を並列掲載して「日中、妻たちの雪解け」というタイトルで、昭恵夫人とポン・ リーユアン習主席夫人が、いがみ合う夫らの中を取り持てるように友誼を結ぼうとしている、という趣旨の記事を掲載しました。

50%安倍・習夫妻 並列ヨリ

その記事ではあなたの「融通のきかない夫たちは捨て置いて、2人でいろいろ話し合いましょう」と習夫人に呼びかける知的で開明的な動きが強調されています。あなたは相手の 習夫人を「確固とした自分のスタイルを持ち、親しみ易く、且つオーラがある女性」と最大限の賛辞で評した、と記事は続けます。相手を持ち上げるあなたの 言動はあなた自身のオーラを上げこそすれ決して悪い印象は与えません。私があなたに好感を抱くのもそれが理由の一つです。

あなたはそこでも原発再稼動に反対し、消費税の引き上げにも反対している。税金を上 げる前に国の無駄使いを先ずカットするべき、と明言したとも書かれています。「CORRIERE DELLA SERA」はこれまで安倍首相に対して、あからさまではありませんが、ゆるい批判的な姿勢をとってきました。ただ多くの欧米メディアと同じく、首相を「右翼」「ナショナリスト」などと呼ぶことには少しも躊躇しませんが。同紙はナショナリストと規定された安倍首相への対立軸としてあなたを認識している節があります。

イタリア人の、日本国や日本人や日本の文化などに対する尊敬や賞賛の念は強く、今も揺るぎません。が、あなたの夫の歴史修正主義的言動 を始めとするひどく右寄りの言動によって、日本の政治的立場は急速に悪化を続け、同紙もそのように報道してきました。あなたが原発や歴史認識問題等で夫の安倍首相に異議を唱えている、と報じることで「CORRIERE DELLA SERA」はさりげなく安倍首相を批判している、と捉えることもできます。

そのスタンスは保ちつつ同紙はしかし、「家庭においては安倍首相が自らの政治的立場に反対の夫人にも理解を示す開明的な男」の一面を持つ、とそれとなく示唆するなど、相変わらず日本贔屓の視点も失わないのです。要するに私の解釈ではこの記事は、あなたの勇気を讃える形で安倍首相にちくりと針を刺しつつ綴られた、日本への応援歌なのです。

私は2重の意味であなたに関するこの記事を嬉しく思っています。あなたが公けの場であたかも日本女性を代表するように堂々と自立宣言をしたこと。またあなたが夫よりもリベラルな考えを持っていて、しかもそれを表出することを怖れていない点です。あなたは政治家ではありませんから権力には近寄れませんが、家庭内でぜひ安倍首相の右カーブ一辺倒の政治姿勢に待ったをかけていただきたい。そうすれば安倍首相の政治スタンスは、もしかすると今よりもより中道方向に軌道修正されて望ましいものになるかもしれません。

あるいはいっそのことあなた自身が政界入りして、総理を目指すのはどうでしょうか。その際には、国際社会から目をつけられて国の評判まで落としつつある安倍首相には引退を願うことになります。アメリカのクリントン夫妻にならって、元トップの夫は総理を目指すあなたの後押しをする、という形が理想ですね。

実際にそんなことが起こったならば、真っ先にあなたの前に立ちはだかって邪魔をするのは、女性嫌いの右翼政治家群や反動官僚やネトウヨなど、安倍首相の現在の支持母体そのものでしょう。もしもそれらを打ち破ってあなたが首相にまで登りつめるなら、わが国は女性の完全解放に向けて一気に走り出すばかりではなく、世界でも1、2を争う模範国家として人々の賞賛と憧憬を集め続けること請け合いだと思います。

日本人のお辞儀に魅せられたイタリア人だぞ



先ごろミラノ万博会場を訪れた安倍首相夫人の昭恵さんは、公式の挨拶の場で「これからは1人の人間として言いたいことを言っていく」と宣言して人々を驚かせた。伝統的な日本の宰相夫人としては異例の発言だったからだ。

そのエピソードは、もっとさらに驚くべきことに、イタリアきってのクオリティーペーパー「CORRIERE DELLA SERA」の一面に大きな写真入りで掲載された。

Aike一面引き50%

その内容や掲載の意味については次に書くことにして、ここでは使われた写真について少し言及しておきたい。

お辞儀をしている写真を不適切と考える人もいるかもしれないが、僕にはこの絵は日本に好意的な図柄にしか見えない。というのもイタリア人は、深々と一礼する日本文化に親和的な印象を抱いている、というのが僕の持論だからである。

イタリア人は近代的な握手の習慣を獲得して以来、辞儀などの厳格な所作の風儀を失ったが、古代ローマ帝国の典儀の記憶やカトリック教会の礼式の影響などもあり、日本人の古代的な風俗をそれほど奇異なものとは感じていない。

米つきバッタのようにぺこぺこと小刻みに頭を下げる姿は軽蔑されるが、深々と頭を下げる日本人の習慣は最近、日本文化が急速に世界に知れ渡っていく過程で徐々に認識され、異質ながら比興な慣行として注視されるようになった。

そうした風潮の中でもイタリア人は特に、日本人が深く一礼をする姿を好意的に見ている、と僕は感じるのである。それは同じ西洋文化圏のうちの、イギリスやアメリカに実際に暮らした経験からの、僕の「感じ」である。

お辞儀は恐らく、前述のローマ帝国やキリスト教などにまつわる「古代のDNA」を持つ彼らの琴線に触れるのだと思う。お辞儀に対する彼らの反応は前述のイギリスやアメリカの人々のそれとは明らかに違うのだ。

最近はそれに加えて、イタリアの名門サッカークラブに所属する長友佑都選手が、ゴールを決めたり好プレーの後で、チームメートに「皆んなのおかげです。ありがとう」と深く一礼するパフォーマンスが注目を集めて、お辞儀はイタリアでさらに有名になった。

長友お辞儀記事選手長友ザネッティお辞儀、見守る






実は僕もずっと以前から、友人知己に向けて深く一礼するパフォーマンスを続けてきた。イタリアでは握手をしたり、男女が頬と頬を合わせる(男同士でも)などの形で親しみを表すが、「日本ではこうします」と言いながら深く一礼するのだ。それはいつも笑いを誘って受けた。

長友選手によって多くのお辞儀ファンができたのは、喜ばしい限りである。でもお辞儀パフォーマンスは、長友選手よりずっと長くイタリアに住んでいる、彼よりもよほど年上の、チョーおやじのこの僕が先に始めたのだぞ。

そういう流れの中で昨年、不祥事発覚で辞任した小渕優子経済産業大臣の「深々とコーベを垂れる」絵が、またまた「CORRIERE DELLA SERA」の一面を飾った。不祥事で謝罪する図なのだが、イタリア人はやはりその不思議な古代的光景に魅せられているのだと思う

70%小渕ヨリ

だから「CORRIERE DELLA SERA」紙は、はるか遠い極東の日本国の一大臣が、不祥事を犯して謝罪する際の、彼らにとっては驚嘆すべき「深いお辞儀」の絵をわざわざ一面トップに掲載したのだ。断じて不祥事そのものを重視したのではない。だってその手の不祥事なんてイタリアでは日常茶飯に起こっていることだもの。

そんなどうでもいい事件(少なくともイタリア随一の新聞の一面に大きな写真付きで掲載されるほどのニュースバリーがあるとは思えない)を深刻に受け止めて、深々とコーベを垂れて謝る日本人はやっぱり、チョーすごい。すばらしい。美しい。云々という人々の思いが表れたのが、このイタリアきっての新聞の一面トップの盛大な絵柄なのである。

最後に、安倍首相夫人の昭恵さんがお辞儀をしている相手は、「CORRIERE DELLA SERA」にとっては、昭恵さんが挑もうとしている日本の男尊女卑社会だ、というのが僕の解釈である。

お辞儀をしつつ彼女が、見方によっては含みのある微笑みを浮かべているのは、日本の伝統を尊重しながら且つ未来に向けても飛び立とうとする、一人の女性の象徴的な姿である。

「CORRIERE DELLA SERA」は、日本という古代的メンタリティーを持つ国家の首相夫人が、公の場で挨拶をした際に、普通に日本的にお辞儀をした瞬間を捉えて、これを象徴的に使いつつ日本の問題点と希望とを淡々と描いてみせる、とても興味深い記事をものにしたのである。

そのことについては前述したように次回記事に書こうと思う。




沖縄2紙の潰し方おしえます


百田尚樹さま

私は前回記事で、沖縄2紙が百田尚樹さんに潰されない方法について書きましたので、賛否両論を併記するという言論報道の基本にたち返って(少し意味が違うかもしれませんが)、今回は百田さんが沖縄2紙を潰す方法について書きます。

沖縄2紙を潰すには、あなたと自民党勉強会の議員の皆さんが考えるようにスポンサーを脅したり、イスラム過激派がシャルリー・エブドに殴り込みをかけてジャーナリストを射殺したような、物騒な、でも言論弾圧者が大好きなやり方をする必要はありません。

もっと穏やかで、まっとうで、当事者の沖縄2紙以外は誰も文句を言えないやり方があります。それはあなたと勉強会の議員の皆さんが、偏向報道とまで断じて批判する、沖縄2紙の執拗で厳しい主張や、キャンペーンの「大元」を断つことです。

つまり、普天間基地をなくすことですね。従って同時に辺野古移設もなくなることです。どうしても普天間基地を温存したいのであれば、次に良い方法は普天間基地を沖縄県外に移すことです。

それが成されれば、沖縄2紙は、そのレゾンデートルの全てといっても過言ではない、辺野古移設反対一色のキャンペーンを張ることができなくなります。そうなれば沖縄県民の地元紙への興味も失せて、沖縄2紙はたちまち潰れること請け合いです。

沖縄2紙を潰せ、と言ったのは百田尚樹さんですが、その言葉が導き出された場は自民党本部内の勉強会においてですから、それは会に出席した議員の皆さん全員の言葉といっても良いでしょう。

そこで百田さんに提案します。どうでしょう、あなたのおトモダチである勉強会の議員の皆さんと共に、辺野古移設を断念するように安倍首相に強く働きかけて、怒る沖縄の2紙をあっさりと潰してみませんか。

そうなれば沖縄の民意も政治も静まり、人々は本来の穏やかで明るい、ちょっとヌケたところもある、南国の心やさしい民衆へと回帰して行くことでしょう。

それは同時に「沖縄の2紙は嫌いだが沖縄は好き」だとおっしゃるあなたが、もっとさらに好きになる、適度にリベラルで保守気質も他府県同様に十分にある、従前の沖縄に戻ることも意味します

最後にあなたが執筆をやめるかも知れない、と聞いて私はとても寂しいと感じています。私はあなたの作品をまだ読んだことがありませんが、ベストセラーをお書きになっていると知り、本好きな者の一人としてぜひ読んでみたいと思っていたところでした。

あなたは過去にも引退を宣言して撤回したりしているそうですから、ま、「沖縄2紙を潰せ」発言と似たギャグの部類なのかも知れませんね。同じギャグでも中身の重さが極端に違いますが。

いずれにしましても、できれば執筆をお続けになり、前回記事で述べたように沖縄2紙へのバッシングを続けて「2紙を強く」するか、逆に普天間基地を反故にする運動を展開して「2紙を潰す」活動にまい進するかしていただきたい。

そうした行為は作家を引退してももちろんできますが、有名人ではなくなったあなたの営為は、選挙に落ちて「ただの人」になった政治家の挙止同様、ほとんど誰にも相手にされないでしょう。

ですから、筆を折る、などと百田さんらしくない気弱なことをおっしゃらずに、作家活動のかたわらぜひ沖縄2紙を潰す、あるいは強くするための活動を続けて、われわれ一般大衆を楽しませて下さい。


沖縄2紙への公開状 ~百田尚樹さんに潰されない方法おしえます~



何よりも先ず、作家の百田尚樹さんに「潰してやりたい」と名指しで言われた御2紙「琉球新報」と「沖縄タイムス」に、「おめでとう」と心からの祝福を申し上げたいと思います。

と言いますのも、御2紙が「潰されない」ためには、百田氏のような声の大きな方々にどんどん批判され、罵倒され、憎まれ口をたたかれ続けることが重要だからです。

百田氏のおかげで御2紙は今回、全国区の話題になりました。つまり注目されたのです。注目されること、話題にされることこそが、失礼ながら「弱小な地方紙」である御2紙が生き延びるための最強の武器です。

百田氏は恐らく冗談で「沖縄の2誌を潰すべき」と言ったのだと思います。その後、反響のあまりの大きさに驚き、苛立って「本気で潰したい」と再び口走ったのでしょう。

冗談も「頭に浮かんだ意思」ですから、百田さんは本気をギャグにして表現したわけです。そこまではよくある話ですが、冗談の中身が言論弾圧を想起させる重大な内容だったためにどんどん炎上していきました。ことはジョークではなくなってしまったのです。

それは御2紙にとってラッキーな出来事でした。というのも御2紙を潰したい百田さんは、勇み足で逆に御2紙の存在感を高めてしまい、「潰すのが難しい」方向に事態を誘導して行くこと、と同じ行為をする羽目に陥ったからです。

国民が注目しているものを潰すのは容易ではありません。圧力をかけるのも難しくなります。黙っていれば、あるいは百田さんのお友ダチのネトウヨ議員の皆さんが裏から手を回して、「広告主を脅す」方法などもあったのに、もうそれもできなくなりましたね。

御2紙はどうか今のままのやり方で紙面作りにまい進して、百田氏やネトウヨや沖縄嫌いの政治家や官僚などから、さらに激しくバッシングを受けて下さい。彼らのバッシングこそが御2紙の生存の糧です。

ただし、万人承知のように日本には「出る杭は打たれる」という、画一主義と大勢順応主義を端的に表す、且つ狭量と抑圧と因習にまみれたイヤな諺もあります。どうぞ気をつけてください。

中途半端に「出た杭」は打たれますが、「出過ぎた」杭は打たれません。「出過ぎた」杭は強者だからです。卑怯者の大衆は強者を攻撃しません。また攻撃されても強者は潰れません。ですから必ず「出過ぎた」杭を目指してください。

今回の百田さん絡みの話題は特別でしょうが、インターネットなどでは御2紙はネトウヨやその周辺を中心に、けっこう彼らの罵倒ネタになるように見受けられます。これも喜ぶべきことです。無視されては御2紙の存在意義がなくなるのですから。

国内観光地の人気番付けでは、沖縄は北海道と京都に次いで3番目が定番ですが、新聞という意味ではどうでしょうか。私が知る限りでは御2紙がダントツに話題になりやすい。

北海道や京都その他の地方紙が、全国の目を引くような事態はあまり起こらないように感じます。基地問題を始め沖縄は良きにつけ悪しきにつけ何かと話題になるため、新聞もそうなるのでしょう。

御2紙の報道は偏向しているという批判や罵倒が多いようですが、特に基地問題に関しては声を挙げることをひるんではなりません。なぜなら沖縄への基地集中は許される範囲を超えているからです。

日本国47都道府県の一つとして、日本国憲法によってあらゆる権利と地位が平等に保障されているはずの沖縄県には、日本国の一部とは認められないほどの理不尽が押し付けられている。そこで基地の一部、つまりせめて普天間基地を沖縄以外の地に持って行け、というのはまっとうな主張です

何も恐れることはありません。ぜひ激しく声を出しつづけてネトウヨや百田氏のような皆さんの罵声を、これでもかこれでもか、というほどに引き出して下さい。最後には必ずまっとうな主張が勝利します。

それには「日本がまっとうな国ならば」というただし書きがつきますが、そのただし書きを信じて、目標達成までは決して「潰されない」ように、よく知恵を絞ってある限りの罵詈雑言を集め、受け留めて行って下さい。

さてここで、釈迦に説法を承知で、「潰されない」どころか御2紙がさらに「強くなる」方法を提案させていただきます。それは百田氏に代表される敵の数よりもさらに多くの、味方やファンを増やすことです。

そのためには、大いなるパラドックスですが、百田氏らが主張する「御2紙の報道が偏向している」論に誠実に応え、反証し、反論していくことです。元より報道に真の不偏不党、中立などありません。

しかし、だからといって、不偏不党、中立であろうとする努力を怠ってはなりません。ましてやある事案に対して複数の見解がある場合に、一つの立場のみを報道して反対論を含む他の見解を封殺することなどは、断じてあってはなりません。

そうした報道姿勢を貫くことが、味方やファンを増やす唯一の道です。そのようにして得た味方やファンに加えて、御2紙を蛇蝎のように嫌うさらに多くの「百田尚樹氏とネトウヨ仲間たち」を増やせば、御2紙の多大なる発展はもう約束されたようなものです。

最後に、御2紙へのエールを送りましたので、できれば次回は百田さんとネトウヨ議員の皆さんに向けて「沖縄2紙を潰す方法」を披露しようと思います。反対論も明記するのが公平な議論の基本ですから。


ギリシャ危機は金持ちクラブ内の強欲な収奪合戦に過ぎない


【加筆再録】

ギリシャ危機が続いている。国民投票の中身を無視したようなギリシャのチプラス首相の財政改革案を巡って、EU首脳は12日から13日にかけて夜を徹しての討議を重ねた。

結果、ギリシャへの金融支援の「協議を開始する」ことで合意。金融支援をすると決めたのではなく、支援に向けての「話し合いを始めると決めた」だけだが、危機はひとまず回避されたようだ。

ギリシャ危機の根は深く、一歩間違えばEU(欧州連合)のみならず世界経済を混乱に陥れ、それは政治混乱を招いて世界動乱へ・・というシナリオも可能性としては必ずあり得ることだ。

だが実は、たとえそうなったとしても、「だから? なに?」というのが僕の腹の底の、さらにその底での思いである。

僕 は決して運命論者ではない。経済を無視する夢想家でもなければアナキストでも皮肉屋でもない。ましてや悲観論者などでは断じてない。

それどころか、楽観論者でありたいと願い、その努力もしているつもりの人間だが、いまだに手放しの大いなる楽観論者にはなれずにいる凡人である。

その中途半端な凡人の目で見てみても、ギリシャ危機がもたらすかもしれない欧州恐慌や世界恐慌など、実は大したことではないのだ。

仮にギリシャが財政破綻したとする。

それは事件だが、ギリシャの人々は翌日から食うに困るわけではない。生活は苦しくなるだろうが、世界の最貧国や地域の人々のように飢えて死んで行くのでは決してない。

それどころか、依然としてこの地上で最も豊かな欧米世界の一員として、それなりの生活水準を維持していくだろう。ギリシャの今の、そして将来の貧しさなんて、ヨーロッパ内や米国や日本などと比較しての貧しさでしかない。

昨今、その豊かさが大いに強調されて報道されたりする、中国の大多数の国民と比較してさえ、まだまだ雲の上と断言してもいい「貧しさ」だ。それって、断じて貧しさなんかじゃない。

ギリシャの破綻が、さらにポルトガル、スペイン、イタリアなどの欧州諸国に波及したとする。

それもまた大いなる事件だが、人々はやはり飢え死にしたりはしない。生活の質が少し悪くなるだけだ。あるいはかなり悪くなるだけだ。

危機にあおられて、同時不況に見舞われるであろう世界の富裕国、つまり日米欧各国や豪州なども皆同じ。今のところそれらの国々は、依然として豊かであり続けるだろう。

最近の騒ぎは ― そして僕も少しそれに便乗してブログに書いたりあちこちで発言したりしているが ― 日米欧を中心とする世界の金持ちが集まる、ま、いわば「証券取引所」内だけでの話、と矮小化してみても、当たらずとも遠からずというところではないか。

たとえギリシャが破綻し、南欧諸国の経済が頓挫し、欧州全体の恐慌が世界に波及しても、今の世界の「豊かさの」序列がとつぜん転回して、天地がひっくり返るのではない。

それらの出来事は、この先何年、何十年、知恵があれば場合によっては何百年、あるいは何千年かをかけてゆっくりと、しかし確実に衰退し、没落し、落下していく日米欧を中心とする富裕国家間に走る激震、一瞬のパニックでしかないのである。

地震は過ぎ、パニックは収まる。

そして富裕国家は被害を修復し、傷を癒やし、また立ち上がって、立場を逆転しようとして背後に大きく迫るいわゆる振興国の経済追撃の足音を聞きながら、それでも今の地位は守りつつ破滅に向かっての着実な歩みを続けるだろう。

各国経済はグローバル化している。従って富裕先進国のダメージは新興国にも及び、さらに弱者の貧困世界をも席巻するに違いない。

つまり、《ギリシャや欧州の失速→世界恐慌》の図式の中で真に苦しむのは、今も昔もまた将来のその時も同じ、世界の貧しい国の人々でしかないのである。

それにしても

たとえ世界恐慌が起ころうとも、今この時でさえ餓死者が出る世界中の貧困地帯に、それ以上の悲惨が待っているとも思えない。

底を打った彼らの極貧は、もはや下には向かうことはなく、富裕国の落下と入れ替わりに上昇あるのみではないのだろうか。

たとえそこに途方もない時間がかかろうとも……。

そうやって見てみれば、世界経済には何も悲観するべきことはないように思える。全てがなるようになる。

なるようにしかならない世界は、なるようにしかならないのだから、きっとそれ自体がまっとうである。

ならばそれを悲観してみても始まらない。流れのままに、世界も、ギリシャも欧州も日本も、また人間も、流れていけばいいのである。


ギリシャ危機の責任はEUにもある



EU(欧州連合)などによる財政緊縮策に、国民投票で【ノー】と言って世界をおどろかせたギリシャは、一転してEUに歩み寄る姿勢を見せて新たな構造改革案をESM(欧州安定化機構)に提出。今日明日中にもEUとの合意が成立するかもしれない。

借金を頼りに身の丈以上の生活をして、首が回らなくなったところで「節約をしろ」と債権者に責められ、「節約はいやだ。でも借金は棒引きにしてくれ。そのほうがあんたのためにも良い」と、EUに対して開き直ったのがギリシャの【ノー】の意味だった。

そこで当のEUや世界の多くの人々は、図々しい、怠け者、恥知らず、盗人たけだけしいなど、など、とギリシャを罵倒している。そこには一面の真実がある。金を借りたら返す。それが当たり前の人の道だからだ。

しかしそうした主張には、貸した者にも責任がある、という片面の真実が抜けている。金の貸し借りでは、借りた方の100%の責任に加えて、貸した側にも一つの蓋然性をしっかりと認識しておかなければならない、という意味でのやはり100%の責任があると考えるべきである。

つまり、債権者は金を貸したのだからそれを返済してもらうのが当然のことながら、借りた側がそれを返済しない、あるいは返済「できない」可能性がある、ということをはっきりと認識しておかなければならない。

ギリシャ危機、つまりギリシャの国庫の粉飾決算が明らかになった2010年以降、EU、ECB(欧州中央銀行)、IMF(世 界通貨基金)のいわゆるトロイカは、同国が財政破綻するかもしれない現実を熟知しながら、ギリ シャに金を貸し続けた 。見返りを期待したからだ。

EUは「いや、見返りを期待したからではない。EUの一員であるギリシャを援助したかったからだ」と言うだろう。それはきっと本心だ。だがその本心は、金に縛られた現実を金ではない何か、つまり「心」に置き換えてモノゴトを語る、全き偽善以外の何ものでもない。

財政破綻が明らかになってからは、ギリシャも緊縮政策を実施してギリシャなりに頑張った。ギリシャ人は怠け者、と決め付ける単細胞の人々は、ギリシャが頑張ったなどとは決して認めようと しないだろう。しかしギリシャも頑張ったのだ。

ギリシャ国民の頑張りが見えづらいのは、ギリシャ人は怠け者という悪意ある先入観と、ドイツを筆頭にする成金国の主張ばかりがメディアに充満していたからだ。それに加えて-- 実はこれがもっとも重要なのだが-- 緊縮策によるギリシャ経済の疲弊があったから、ますます彼らの頑張りが見えにくくなった。

それをいいことに、ギリシャ自身が頑張らないから財政難が少しも改善しない、と前述の成金たちはさらに執拗に主張しまくった。だが、そうではなく、彼らが債務の減免をしないでギリシャだけに節約を押し付け続けたから、同国の財政危機は一向に改善しなかったのだ。

2010年に財政赤字の隠蔽が明るみに出たことを機に、いわゆるギリシャ危機が始まった。以来EUはギ リシャに厳しい緊縮財政策を要求した。ギリシャは懸命に、忠実にこれを履行した。これが真実だ。繰り返す、ギリシャはギリシャなりのやり方で懸命に、忠実にこれを履行したのだ。 EU、特にドイツはそのことを忘れている。

経済成長を無視した緊縮財政は、十中八九その国の経済を悪化させる。借金の返済のためにひたすら節約をし続ける家計には消費活 動をする余裕はない。だから経済は沈滞する。沈滞する経済は税金も払えない。なのに国は払えない税金を無理に徴収する。だからさらに経済が落ち込むという 悪循環に陥る。それがギリシャの状況だったのだ。

EUの要求を達成しようと緊縮策を懸命に実行した結果、ギリシャの名目のGDPは、2011年から昨年までの3年間で約14%も減少した。当たり前だ。増税と緊縮策が同時進行したのだから経済が転ばない方がおかしい。それにもかかわらずにドイツを柱とするEUは、彼らが規定する「怠け者」のギリシャに、もっと節約し ろ、年金をカットしろ、増税もしろ、そうやって財政を立て直せと言い続けた。

彼らは言うばかりではなく、その間に実際に資金も投入し続けた。何のために?借金返済のために。つまり、EUが投入した資金は借金の返済金として「EUに舞い戻り」、ギリシャ社会にはほとんど流通しなかった。ギリシャ社会は節約のみによって辛うじて生きながらえてきた。その証拠が大きな経済減速だ。

両者ともに何かがおかしいとは気づきつつも「何とかなるだろう」と自らに言い続けた。そうやって破綻がきた。破綻がきたら、債務者ギリシャに節約緊縮を求めるのは当然だが、貸した側も債権放棄、つまり借金の棒引きを含む大きな痛みを受け入れないと問題は解決しない。

特にドイツは、通貨統合によって得た巨大な利益の一部をギリシャに還元するべきだ。その状況が受け入れられないのなら、1953年にギリシャを含む欧州各国 が、戦争で疲弊したドイツを救済するために、借金を棒引きにした親切を思い出すべきである。「怠け者の貧しい」ギリシャはかつて、「ケチで大金持ち」のドイツの借金をチャラにしてやった歴史があるのだ。

もう一度強調しておきたい。ギリシャ危機を招いたのはギリシャ自身である。だが、ギリシャの「放漫財政」が明らかになって以降のさらなる危機、あるいは「一向に改善しない」ギリシャ問題の責任は、ドイツに代表されるEUにもある。EUは国民投票の後でギリシャが示してきた妥協案を受け入れて、2010年時点で拒否したギリシャ負債の大幅免除を実施するべきだ。既に溺れているギリシャを、お前だけがもっと頑張れと強要するのは「死ね」と言っているようなものだ。

ギリシャとEUが互いの主張ばかりに固執すると、ギリシャのみならず両者が沈没しかねない。それは経済のみならず大きな政治危機を招く恐れがある。つまり生活の苦しいギリシャにはロシアと中国が近づいて欧州の分断を狙う。欧州が分断されると、中東へのEUの圧力が弱くなって「イスラム国」などの勢いが増してさらなる混乱が起きる。

ロシアと中国は、反欧米のスタンスから中東の混乱を容認し、それを是正しようと動く欧米はさらに疲弊していく。欧米と立場を同じくする日本もそれに引きずられていく、という最悪のシナリオが待ち受けている可能性がある。ギリシャ問題は遥かな遠い国の出来事ではなく、世界の多くの事案と同じように日本にも関係する重要課題であることは、いまさら僕がここで言うまでもない。


百田尚樹氏+自民勉強会+イスラム過激派、また表現の自由と不自由と

思い上がり

百田尚樹氏が「沖縄の新聞をつぶすべき」と発言して問題になっている。氏は冗談だったと釈明し、後で「やっぱり本気でつぶすべき」と言ったそうだが、思い 直した言い訳であることが見え見えの分、そちらの方がもっとずっとジョークに聞こえる。それはジョークだから何かと大騒ぎをするべき事案ではないのかもしれない。彼のそのジョークよりも重いのは国会議員らが発したという「マスコミを懲らしめろ」論だ。

しかし、百田氏の失言(?)を冗談として受け流しつつ、僕はまたこうも考えている。人は考えないことはジョークにしない。それがジョークであろうがなかろうが、頭の中にその考えが浮かばなければ言葉にはならない。つまり彼が発した言葉は必ず彼が頭の中で考えていることである。今回の発言の経緯と内容を見た場合、その考えの中身と、中身が形成された背景は重要なことである。従ってそれは検証に値する。そこで、検証してここに意見を書いておくことにした。

百田氏の発言には今の日本国の世論や政治や空気の様相が色濃く染み出しているように見える。勉強会の議員の「広告を無くしてマスコミを懲らしめろ」発言も同様だ。強権的ともいえる安倍政権の周囲にいる彼らが「われわれには言論弾圧をする力もある」と、頭のどこかで思っている本音がポロリと口をついて出たものだろう。

彼らの言動は、彼らがそれを意識したかどうかに関わりなく、世界が長い時間と多くの犠牲を払って獲得し、定着させようと日々呻吟している表現の自由の理念に挑み、それを阻もうとする意図が秘匿されたものだと断定されても仕方がない。思い上がりもここに極まれり、というところである。おいそれと見逃すわけにはいかない、というのが正直な感想だ。

表現の自由の全き自由と不自由と

表現の自由とは、差別や偏見や憎しみや恨みや嫌悪や侮蔑等々の汚濁言語を含む、あらゆる表現を公に発表する自由のことである。言葉を換えれば表現の自由の原理原則とは、言論等の表現に一切のタガをはめないこと、それが表現である限り何を言っても描いても主張しても良い、とまず頑々として認めることである。

言論の自由が保障された社会では、例えばSNSの匿名のコメント欄におけるヘイトコメントや罵詈雑言でさえ許される。それらはもちろんSNS管理者によって削除されるなどの処置が取られるかもしれない。が、原理原則ではそれらも発表が許されなければならない。そうやって「何でも構わない」と表現を許すことによっ て、トンデモ思想や思い上がりやネトウヨの罵倒やグンコクナチズムなどもどんどん表に出てくる。

そうした汚れた言論が出たとき、これに反発する「自由な言論」、つまりそれらに対する罵詈雑言を含む反論や支持論や分析や議論がどの程度出るかによって、その社会の自由や平等や民主主義の程度が明らかになるのである。百田氏と勉強会の議員の言論に対して議論百出しているのは、今まさにそれが行われているからである。それは何を意味しているのかというと、要するに「表現や言論の自由とは何を言って構わないということだが、そこには責任が付いて回って誰もそれからは逃れられない」ということである。

言葉を換えれば、表現の自由には限界がある、ということだ。「表現の自由の限界」は、表現の自由そのもののように不可侵の、いわば不磨の大典とでもいうべき理念ではない。表現の自由の限界はそれぞれの国の民度や社会の成熟度や文化文明の質などによって違いが出てくるものだ。 一言でいえば、人々の良識によって言論への牽制や規制が成されるのが表現の自由の限界であり、それは「表現する者の責任」と同義語である。

議論対議論

たとえば百田氏のケースでは、彼が「沖縄の2紙はつぶすべき」と発言したのは、表現の自由を行使したのであって、それ自体は何の問題もない。しかし、その中身について今僕がこうして批判的な文章を書いているのと同様に、多くの人々も彼の発言に疑念を投げかけている。同時に氏の発言の中身を正当と捉え支持 し、擁護する人々もまたいる。そうした舌戦に対してもまたさらに反論し、あるいは支持する者が出て、議論の輪が広がっていく。

それらの言い合いは、百田氏が彼への批判に反論する言葉も含めて、全て表現の自由の行使である。それは歓迎するべきことだ。議論が深まることによって、表 現の自由が興隆し、その議論の高まりの中で表現の自由の「限界」もまた洗練されて行くのである。いわく他者を貶めない、罵倒しない、侮辱しない、差別しない、POLITICAL CORRECTNESS(政治的正邪)を意識して発言する・・など。など。

罵詈雑言を含むあらゆる表現が噴出するのを見て、さらに多くの人々がこれに賛同し、あるいは反対し、感動し、憤り、悩んだりしながら表現の自由を最大限に 利用して意見を述べる。そのプロセスの中で表現の自由に対する規制が自然に生まれる、というのが文明社会における言論の望ましいあり方である。その規制を法規制として正式整備するかどうかは、再び議論を尽くしてそれぞれの国が決めていくことになる。

糾弾される理由

民間人である百田氏は、表現の自由の権利を行使して何でも言う自由がある。従って沖縄の2紙をつぶせと言おうが、皆でぜひ購読しようと主張しようが彼の勝手だ。勉強会の議員の発言も、何でも言って良いという表現の自由の原理原則の前ではそうだ。それにもかかわらずに彼らが批判されなければならないのはなぜか。それは言うまでもなく、彼らが権力者だからである。

日本国憲法に定められた表現の自由とは、国民が政府を批判する自由を含む「国民の表現の自由」のことである。国家は国民のその表現の自由を守らなければならない。憲法が国家権力を縛るとはそういうことである。安倍政権にぴたり と寄り添っている勉強会の議員らは国家権力の一角を成す権力者である。権力者だから、彼らのマスコミ懲らしめ論は威圧となって当事者に重くのしかかる。言論弾圧と同じ効果がある。だから彼らは指弾されなければならない。なぜなら彼らには国民の表現の自由を守る「義務」があるからである。彼らの言動は本末転倒なのだ。

今回の場合、百田氏もそれらの権力者と共にいる同じ穴のムジナ、のようなものだから糾弾されても仕方がない。というか、糾弾されるべきである。同時に彼は民間人なのだから、言論の自由によって擁護されるべき存在でもある。だから百田氏擁護論がそこかしこから出ている風潮は健全なことだ。しかし、勉強会の議員らの場合は、彼らが権力者である事実から100%アウト。ひたすら論難の対象になるばかりであり、また論難しなければならない。。

話が飛ぶようだが、実は彼らの言動は、今年1月に起きたフランスの言論弾圧事件、つまりイスラム過激派がムハンマドへの皮肉が気に食わないからと、自動小銃でシャルリー・エブドの表現者を射殺した事件をさえ連想させる重大事である。気に食わないからと銃撃することと、気に食わないからと権力でつぶしたり懲らしめたりすることの間にはいささかの距離もない。彼らはもちろん脅しを実行してはいない。が、事の本質は同じなのである。

もっと言えば、例えばネトウヨと呼ばれる人々は安倍政権を支持する者がほとんどだと思うが、権力が勢いに乗って言論統制まで行くと、彼らネトウヨの“罵詈雑言を言う自由”も必ず弾圧される。なぜなら彼らの罵詈雑言が「自由な言論」だからだ。権力による言論弾圧とはそういうものである。しかし、もしも一般の人々が、他人を誹謗中傷する書き込みやメーッセージに反論をし圧力をかけても、それは言論弾圧ではない。それは言論の自由に守られた市民が、言論の自由の権利を行使して、同じく言論の自由に守られたネトウヨの言論を社会悪と見なしてこれを排除しようとする、極めて健全な行為なのである。

その過程で世論は行き過ぎて、ある個人や団体や事案を叩き過ぎる状況も起こりうる。しかし、言論の自由が保証されている限り、、そのことに対する反論や指摘や擁護をする「自由な言論」がまた必ず起こって、行き過ぎは修正される。それが言論の自由を守る社会の意義であり最大の良さだ。

沖縄保守新聞を読みたい

最後に、百田氏が沖縄の地元紙が左翼に偏向していると考えるなら、「つぶさなくてはいけない」などと物騒なことを言う前に、トモダチのネトウヨ議員の皆さんや安倍さんなどと組んで、保守主義を標榜する「中立公正」な新聞を彼の地で発行したらどうだろうか。

沖縄では地元2紙が圧倒的なシェアを誇っていて、全国紙はほとんど読まれていないという。そのあたりも2紙が偏向していると批判される原因の一つだろうが、全国紙が沖縄で読まれない、つまり売れないのは、それが面白くないから、ということもあるのではないか。

地方紙の価値はひたすら地元に寄り添うところにこそある。沖縄地元で売れている新聞は地元の感覚では面白い、少なくとも「つまらなくない」ということだ。 右や左というイデオロギーが支持されているからではなく、地元にとってもっとも関心のあるニュースや情報が受けているだけの話だろう。つまり沖縄の新 聞が世論をリードしているのではなく、沖縄の世論に引きずられる形で新聞が存在している、というのがより現実に近いのではないか。

新聞はもちろん世論をリードすることもある。新聞が報道を続けるので、大衆がその意志に引きずられる可能性もある、というのもまた真実だ。だがそれが全てだと考えるのは笑止だ。先ず新聞ありき、ではなく人々の要望を体現して新聞が生まれるのだ。従って新聞は人々の民度レベルに即してしか存在できない。これは新聞に限らずあらゆるメディアがそうであり、一国の政府もまったく同じだ。もしも政府やメ ディアがバカならば、それは国民がバカだからである。

バカでもなく偏向もしていない百田氏と仲間の皆さんが発行する沖縄保守新聞を、僕は本気で、ぜひ読んでみ たい、と思う 。ただし、あえて確認しておくが、沖縄「右翼」新聞ではなく、あくまでも沖縄「保守」新聞である。

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