欧米主要国で唯一、同性婚を認めてこなかったイタリア上院で同性婚法案が可決された。法案への支持を強く訴えていたマッテオ・レンツィ首相は、可決と同時に“歴史的快挙。愛は勝つ!”とツイートして喜びを表した。
首相就任以来2年、39歳という若さだけが売りで海のものとも山のものともつかない存在だった首相は、懸案の上院改革案につづいて同性婚法案も形にした。
またレンツィ首相は、上院改革法案の前には大統領選でも自らの意を通して実績を残した。彼は少しづつ「海か山かの確かなもの」ではあるらしい、と証明しつつあるようだ。
同性愛をタブー視するバチカンの強い反対と、それに同調する急進派を含む議員らの抵抗で、同姓婚法案は危なく廃案になりかけた。
どうにか可決にはこぎつけたものの、法案は最終的に結婚に「準じた」形になった。同性同士のカップルが養子縁組で子供を得る条項が削除されたからだ。
同性婚を認めるなら養子縁組も認めるのが筋だ。婚姻者が子供を得たいと願うのは普通の感情だ。合法化して彼らと子供の権利を保護するべきある。
だが、法案は不完全ではあるものの、同性愛者を敵視するカトリックの総本山バチカンとの相克の末の可決、という重い現実を見れば、大きな成功である。
レンツィ首相が“愛は勝つ”ツイッターで言及したように「歴史的な快挙」と言っても過言ではない。削除された養子縁組条項も近い将来必ず復活、承認されるだろう。
同性愛者への偏見差別の大本は、彼らの関係が生物学的には絶対に子供を成さない、ということにつきる。そこからいろいろな中傷や罵詈や嘲笑が生まれてきた。
その一つが以前僕が書いた記事:「友人でゲイのディックが結婚しましたが、それが何か?」
に寄せられた次のコメントである。
コメントは公開された記事に寄せられたものだから、ここで紹介しても構わないと考えた。このコメントへの論評は控えるが一言だけは言っておきたい。
普通の場合は人は、友人夫婦が「どのようにセックスをするのか」などと妄想したりはしない。知らない人に対してはなおさらそうだ。顔も知らない人のあれこれを想像するのは至難の技だ。少なくとも僕はそうだ。 これは善人を装ったり徳人を気取って言うのではない。
そうではあるが、同性愛者への嘲笑や悪意や中傷の中にはこのコメントに近いものも多い、というふうに感じる。いやこのコメントの内容は異性愛者の人々の普通のリアクションであるのかも知れない。
圧倒的多数派の異性愛者は、少数派の同性愛者を「異常性愛者」と決め付けることさえ辞さない。それが差別だということにも気づかないままにそうすることも多い。
同性愛者について語るときは、彼らの恋愛や性愛や痴話のみに関心が行きがちだが、そうした偏見差別のせいで泣いているのは、家族愛などの普通の感情や権利でもあるのだ。
人間である限り、誰が誰をどのように愛そうが問題にするべきではない。それは憎しみや怒りや差別などの対極にある『愛』だからだ。愛を否定するのは憎しみと同義語である。
同性愛者の人々の房事の形を、まさに“ゲスの勘ぐり”で邪推してそれを貶めるのは、差別意識の発露以外の何物でもないことを人々は知るべきだ。
愛の延長線上にある色事の形は、いかなるものでも構わない。それをあれこれ詮索するのは余計なお世話であり、再度言えば“ゲスの勘ぐり”だ。
それが受け入れられない批判者はこう考えてみればいい。同性愛者から見れば彼らの交合の形が普通である。さらにあえて言えば彼らの艶事が「正常」である。
多数者であるあなた(僕も含む)と、あなたの恋人や妻や愛人との情交の形が“変”であり“異常”なのだ。あなたは異性愛者という多数派に属するだけで正義や道徳や節操を代表するものではない。
同性愛者は、ひいてはLGBTの人々は、子を成さない、ということにまつわる宗教的、社会的、歴史的な差別によっていわれのない誹謗を受け続けている。だが彼らはわれわれの社会になんらの危害も与えていない。危害どころか多様性という大きな利益をもたらしているのだ。
先のコメントに同調する人々はもしかすると、同性愛者は道徳的に社会に悪影響を与えていると主張するかもしれない。だがその道徳とは、まず同性愛者悪者論ありき、の上に構築された似非道徳に過ぎない。
そんな道徳は、バチカンによる同性愛者や同姓婚の否定、さらにそれに影響された保守強硬論者やネトウヨ系差別論者の、ヘイトスピーチなどと何も変わるところはないのである。
首相就任以来2年、39歳という若さだけが売りで海のものとも山のものともつかない存在だった首相は、懸案の上院改革案につづいて同性婚法案も形にした。
またレンツィ首相は、上院改革法案の前には大統領選でも自らの意を通して実績を残した。彼は少しづつ「海か山かの確かなもの」ではあるらしい、と証明しつつあるようだ。
同性愛をタブー視するバチカンの強い反対と、それに同調する急進派を含む議員らの抵抗で、同姓婚法案は危なく廃案になりかけた。
どうにか可決にはこぎつけたものの、法案は最終的に結婚に「準じた」形になった。同性同士のカップルが養子縁組で子供を得る条項が削除されたからだ。
同性婚を認めるなら養子縁組も認めるのが筋だ。婚姻者が子供を得たいと願うのは普通の感情だ。合法化して彼らと子供の権利を保護するべきある。
だが、法案は不完全ではあるものの、同性愛者を敵視するカトリックの総本山バチカンとの相克の末の可決、という重い現実を見れば、大きな成功である。
レンツィ首相が“愛は勝つ”ツイッターで言及したように「歴史的な快挙」と言っても過言ではない。削除された養子縁組条項も近い将来必ず復活、承認されるだろう。
同性愛者への偏見差別の大本は、彼らの関係が生物学的には絶対に子供を成さない、ということにつきる。そこからいろいろな中傷や罵詈や嘲笑が生まれてきた。
その一つが以前僕が書いた記事:「友人でゲイのディックが結婚しましたが、それが何か?」
に寄せられた次のコメントである。
佐藤 -- · 東京都 港区
ゲイに限らないのかも知れないが、アナルセックスは汚らしい。
いいね! · 返信 · 2012年11月15日 10:15
コメントは公開された記事に寄せられたものだから、ここで紹介しても構わないと考えた。このコメントへの論評は控えるが一言だけは言っておきたい。
普通の場合は人は、友人夫婦が「どのようにセックスをするのか」などと妄想したりはしない。知らない人に対してはなおさらそうだ。顔も知らない人のあれこれを想像するのは至難の技だ。少なくとも僕はそうだ。 これは善人を装ったり徳人を気取って言うのではない。
そうではあるが、同性愛者への嘲笑や悪意や中傷の中にはこのコメントに近いものも多い、というふうに感じる。いやこのコメントの内容は異性愛者の人々の普通のリアクションであるのかも知れない。
圧倒的多数派の異性愛者は、少数派の同性愛者を「異常性愛者」と決め付けることさえ辞さない。それが差別だということにも気づかないままにそうすることも多い。
同性愛者について語るときは、彼らの恋愛や性愛や痴話のみに関心が行きがちだが、そうした偏見差別のせいで泣いているのは、家族愛などの普通の感情や権利でもあるのだ。
人間である限り、誰が誰をどのように愛そうが問題にするべきではない。それは憎しみや怒りや差別などの対極にある『愛』だからだ。愛を否定するのは憎しみと同義語である。
同性愛者の人々の房事の形を、まさに“ゲスの勘ぐり”で邪推してそれを貶めるのは、差別意識の発露以外の何物でもないことを人々は知るべきだ。
愛の延長線上にある色事の形は、いかなるものでも構わない。それをあれこれ詮索するのは余計なお世話であり、再度言えば“ゲスの勘ぐり”だ。
それが受け入れられない批判者はこう考えてみればいい。同性愛者から見れば彼らの交合の形が普通である。さらにあえて言えば彼らの艶事が「正常」である。
多数者であるあなた(僕も含む)と、あなたの恋人や妻や愛人との情交の形が“変”であり“異常”なのだ。あなたは異性愛者という多数派に属するだけで正義や道徳や節操を代表するものではない。
同性愛者は、ひいてはLGBTの人々は、子を成さない、ということにまつわる宗教的、社会的、歴史的な差別によっていわれのない誹謗を受け続けている。だが彼らはわれわれの社会になんらの危害も与えていない。危害どころか多様性という大きな利益をもたらしているのだ。
先のコメントに同調する人々はもしかすると、同性愛者は道徳的に社会に悪影響を与えていると主張するかもしれない。だがその道徳とは、まず同性愛者悪者論ありき、の上に構築された似非道徳に過ぎない。
そんな道徳は、バチカンによる同性愛者や同姓婚の否定、さらにそれに影響された保守強硬論者やネトウヨ系差別論者の、ヘイトスピーチなどと何も変わるところはないのである。