【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2016年05月

イタリア、人権闘争の獅子マルコ・パネッラ逝く

パネッラCorri写真UP800pic

イタリア急進党(Partito Radicale)の創設者マルコ・パネッラ氏が86歳で亡くなった。

日本ではほとんど知られていないと思うが、パネッラ氏は旧弊なイタリア社会の変革に情熱を燃やしつづけた政治家である。

同氏は70年代~90年代にはイタリア国会議員。また 1979年から2009年までの間は4度に渡って欧州議会議員も務めた。

彼の最大の功績は、カトリック教のガチガチのドグマに縛られていたイタリアの中絶禁止法と離婚禁止法に噛み付いて、やがてこれを破棄させたことである。

パネッラ氏の政治基盤は自らも創設者の一人だった前述のイタリア急進党。しかし党名は急進(Radical)つまり極左にも近い響きがあるものの、実際の在り方は左右の政治枠には入らないのがその特徴だった。

右翼や保守とは相容れず、左派や共産主義者ともよくぶつかった。あえて他の欧州諸国の政治枠組みに入れてみるなら「進歩党」とでも呼ぶのが適切かもしれない。

パネッラ氏を例えば日本共産党や旧社会党の幹部と並べて評価しようとする意見もあるようだが、それはイタリアの社会の深部を解しない見方である。彼を日本の政治家と比べることはできないと思う。

今のところ日本には、パネッラ氏に匹敵するようなコミュニケーション能力に長けた革新派の政治家はいない。それどころか保守層を含めても、現在この時の日本の政治家の中には見当たらない、というべきである。

歯に衣きせぬ言動で知られたパネッラ氏は、同時に庶民派としても鳴らし、左右を問わない政治家や文化・知識人、そしてなによりも政治への不信感を強く抱くイタリアの民衆に愛された。そこでのキーワードはただ一つ『ぶれない』だった。

彼は自らの政治的主張を実現させるためには、右とも左とも平然として手を結んだ。その典型例が保守派のベルルスコーニ元首相との提携である。返す刀で彼は、ベルルコーニ氏の天敵である左派のプローディ元首相とも気脈を通じた。

そうした動きは当然、「ひより見」「八方美人」などと厳しく糾弾された。しかし、急進主義者の自分が権力を握ることはないことを知悉していた彼は、自身の主義主張を認知させるには大勢と組むのが近道と冷徹に考えた。

故に彼は、その時々で主流政治勢力と妥協し連携することを少しも厭わなかった。だが彼はそうすることで主流勢力に同化することはなかった。彼らの影響力を利用することだけが目的だったのである。

同時にパネッラ氏はその打算を微塵も隠そうとはしなかった。彼の政治手法は生涯一貫していた。そしてそこでのキーワードもやはり『ぶれない』だった。人々はそのことを愛し尊敬した。

彼は一度世界をアッと驚かせた。1987年、ハードコア・ポルノスターの「チチョリーナ」を自らの党に引き入れて国会議員に当選させたのある。そのときの彼女の得票は、党首だったパネッラ氏自身に次いで多かった。

彼は生涯結婚しなかったが、1974年以来ひとりの女性と同棲をつづけた。パネッラ氏はパートナーとの関係は互いを縛らない自由なつながりであり、氏自身はバイセクシュアルで相手の女性もそれを承知している、と明らかにしていた。

パネッラ氏は最近は政治主張をハンガーストライキと共に行うことが多くなっていて、2011年には3ヶ月のハンガーストライキを強行。彼の健康悪化の原因のひとつになったとされる。が、彼は肺癌と肝臓癌も患っていて、それが直接の死因になった。合掌。



イタリアとオーストリアがめでたく和解した


オーストリアがブレンナー峠でのバリケード構築案を引っ込めた。

オーストリア政府によると、地中海からイタリアに流入する「違法難民」がほぼゼロなので、バリケードを作る必要がなくなった、ということである。

しかしながら、地中海経由の難民は相変わらずイタリアに流入している。今年に入ってイタリアには既に28500人が上陸した。

危機感を強く抱くイタリア政府は管理を強化して、難民の申請・登録を徹底させ始めた。オーストリアの言う『違法』難民はこれまでのところゼロになった、とはそういう意味である。

オーストリアの決定の前日、EU(欧州連合)はメンバー5カ国の国境閉鎖期間を半年間延長する決定を下した。

5カ国とはドイツ、オーストリア、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー《メンバーではないがシェンゲン協定署名国》である。

EUの執行機関である欧州委員会は、ブレンナー峠にバリケードを構築しようとするオーストリアを強く非難していた。

オーストリアは欧州委員会の勧告を受けた形だが、南欧との連絡口を閉ざすことの不利益を考慮したのだろう。

経済規模が小さく同国への影響が少ないハンガリーやスロベニア国境を閉ざすのとは違って、欧州大陸で3番目の経済力を持つイタリアとの関係は重要だ。

オーストリアと緊密に連絡を取り合っているであろうドイツもおそらくそのことを認識して、オーストリアに圧力をかけてバリケード案の撤回を促したものと考えられる。

ここでも再びメルケル独首相の変わり身の術が十全に発揮されたようだ。

オーストリアVSイタリアのいがみ合いはいったん回避された。しかし、これから夏に向けて難民の数が増大し、イタリアの管理がずさんになった場合は問題がぶり返されるだろう。

夏の凪の海には程遠い4月中でさえ、イタリア沿岸には8370人の難民が押し寄せた。その数は2015年6月以来、はじめてギリシャを抜いて最大になった。

イタリア政府は難民管理を強化はしたが、流入そのものを阻止する策は今のところ皆無と言ってもいい。オーストリアの不安はイタリアの不安でもあるのだ。

たとえ2国間の緊張がぶり返さなくても、ドイツほか4カ国の「難民擁護」国が、シェンゲン協定を無効にする形での国境管理を続けていることに変わりはない。

シェンゲン協定の崩壊は事実上のEUの崩壊である。国境管理を無くして域内を人と物が自由に往来できる、としたEUの高い理念に挑む難民危機は、まだ全く終わりが見えない。

映画「ローマの休日」でオードリー・ヘップバーンに愛された「VESPA」の人気、いまだ衰えず!

運転ローマの休日ペック後ろから


クリエイティブなMade in Italyの製品の一つ、スクーターの「VESPA」が今年で満70歳になった。

フェラーリ、ランボルギーニ、アルファロメオ、マセラッティなどなど、イタリアには名車が多い。名車はイタリア以外の欧米各国にもたくさんある。が、車に興味のない人でも「一度は聞いたことがある」と答える車種の多さでは、おそらくイタリアが世界一なのではないか。

車ではないが、スクーターの「Vespa(ベスパ)」も疑いなくイタリアが生んだ「名車」の一つである。映画「ローマの休日」の中で、王女のオードリー・ヘップバーンが想い人の新聞記者グレゴリー・ペックと共にVespaに乗ってローマ観光をするシーンがある。

その場面は単純な街めぐりという形ではなく、王女で世間知らずのヘップバーンがおふざけでスクーターに乗って危うく事故を起こしそうになるところを、相手のペックが彼女を抱くように後ろから支えて運転する、という美しくも楽しい設定で始まり、進行する。

名画の中の名シーンで名優2人を乗せて走るVespaは、まるで彼らと競演する名脇役というふうで、忘れがたいものになった。ロンドンに2階建てのバスがありニューヨークにイエローカブがあるように、ローマのそしてイタリアの石畳の細道にはVespaがよく似合う。

Vespaはイタリアのオートバイメーカー・ピアッジョ社の製品である。第一号車は第2次大戦直後の1946年に売り出された。それから7年後の1953年に「ローマの休日」が製作され、同スクーターの人気を不動にした。以来70年、Vespaはグローバルな厳しい競争を生き延びてきた。

ピアッジョ社の前身は航空機メーカーである。1800年代の終わりに創業されたが、航空機を生産していたことが災いして、大戦中に工場が徹底的に破壊された。会社は速やかに再建されたものの、連合軍によって航空機の生産を禁止された。そこでバイク製造に乗り出した。

社長のエンリコ・ピアッジョが考えたのは「信頼できる街なかの乗り物」としてのバイクを生産することだった。依頼を受けたデザイナーのコラディーノ・ダスカニオは、エンジンを座席の下に収納するという画期的な設計で応えた。

それは彼が目指した「清潔でかさばらないバイク」というコンセプトをとことんまで追求した結果のアイデア。乗る人の服を汚さず油まみれにもならないように、エンジンを座席の下にコンパクトに隠すことを思いついたのだった。

ダスカニオの工夫はそれだけにとどまらなかった。ギアをハンドルに取り付けてそれまでのバイクとは違う感覚を取り入れ、女性も乗りやすいようにハンドルと座席の間を空けて、サドルを跨たがなくても乗車できる形にした。

さらにVespaには、タイヤの取り外しが簡単にできる仕組みなどの細工も施されている。それらは19世紀以来の航空機メーカーだったピアッジョ社の過去の技術の応用である。シンプルに見えるスクーターには、斬新でしかも複雑な技術もさりげなく、数多く導入されているのだ。

以後世界には(あらゆる優れた製品の周りで起こる現象と同じく)Vespaを模倣した作品が多く出回った。たとえばイギリスのトライアンフ・ティグレス、ドイツの ツェンダップ・ベラなど。無粋を絵に描いたような旧ソビエトにおいてさえ、ヴァトカというコピー製品が生み出されたほどである。

それらの模造品はすべて市場から消えた。一方Vespaは、これまでに150種類のモデルが作られ、世界114カ国で1800万台が販売された。それとは別に多くの国でライセンス生産もおこなわれている。また世界中の愛好家によるVespaクラブには6万人の会員が集まる。

名車と呼ばれるイタリア車の魅力の一つは、完璧の一歩手前の完璧さ、だと僕は思う。つまり速さやデザイン美や華やかさや機能の充実を目指す中に現れる、いわば人間的とも形容できる欠陥が同居する「不完全な完璧」である。

それは以前にも書いたように、例えば屋根の雨漏りであったり、排気音のすさまじさだったり、燃費の悪さであったりする。あるいはイタリアの中世の街並みの中に広がる、石畳の細道には大き過ぎるボディであったりもする。

それらは致命的な障害になりかねない重大な粗漏だが、イタリア車はそうはならない一歩手前で踏みとどまって、いわばかすかな欠陥を形成する。それは車の最も優れた部分と絶妙なバランスを保って、「突出しているが抜けている」というイタリア車特有の魅力を作り上げる、と思うのである。

ではVespaの魅力になる欠陥とは何かと考えた場合、それは「低速」あるいは
「ゆっくり」なのではないかと気づく。いわゆる原付ではあるが、Vespaはイタリアや日本やドイツなどの「普通の」バイクのように速さを追求する方向で発展しても良かった。つまりスクーターの「トップスピード保持車」を目指すこともできたのである。

Vespaはそこには行かず、街なかの「低速」の移動手段に徹した。自転車より速く自転車より疲れず自転車よりスマートな乗り物、という程度のコンセプトの枠の中で、機能美と見た目の美しさと軽さを徹底追及した。言葉を替えればローマの細い石畳の道にもっとも映える二輪車を目指した結果、行き着いた傑作がVespaなのではないか、と思うのである。


トランプ遊び


われながらウンザリするのだがアメリカ大統領選がどうしても気になる。

自分の立場は反トランプで揺るがず、最終的には彼が大統領になることはないだろう、と確信しているので黙って形勢を見守っていればいいのに、グズの愚痴りよろしく目新しくもない自分の思いをまた書くという愚行をくり返している。

一度アメリカに住んで、人種差別や暴力や不平等などの米国の深い病理と、まさにその病理を駆逐しようとする米国民の強い意志のぶつかり合いをつぶさに見た僕は、病理を体現していると見えるトランプさんの動向は不安であり不快である。

最終的には米国民のポジティブな思考が勝つ、と腹から信じているのだが、半数の米国民が彼らの最大の美点である「病理に立ち向かおうとする意志」を放棄しつつあるらしいと知るのはつらい。

トランプさんの躍進を受けて多くの論者がさまざまな意見を述べているが、僕は今この時の世界のパワーゲームや米国内の政治気運から読み解くトランプ現象よりも、いま言った米国のいわばプリンシプルが揺らいでいる現実がひどく気になって仕方がない。

トランプ氏への公開状~間違いだらけの反トランプ・ブロガー~

トランプ・カード

ドナルド・トランプ様


私があなたの「選挙キャンペーン予想レース」ですべりまくっているさえないブロガーです。

あなたは米大統領選の共和党候補者指名争いで勝利し、指名獲得を確実にしたわけですが、私は選挙戦のはじめからあなたを「有力泡沫候補」と規定して、あなたが各州で快進撃をつづける間もどこかで失速して消えると予想し、そこかしこでそう主張しつづけてきました。

しかしあなたは、共和党の主流派が放つトランプ降ろしの策動と連携したライバル候補たちの反撃に時として敗北することはあったものの、ほぼ 常勝と言っても良い勢いで進撃をつづけて、ついに指名獲得が確実というところまで来ました。私はあなたのみごとな戦いぶりに脱帽し、素直にあっぱれトラン プさん、と拍手を送ろうと思います。ただしそれは私がトランプ大統領の誕生を喜ぶことを意味しませんが。

私は徹頭徹尾あなたが合衆国大統領になることには反対します。あなたの政策とさえ呼べない数々の無益な主張や、それを表明する際の粗陋なレ トリックは合衆国大統領にふさわしいものとは思えません。それは人格の問題ということもありますが、もっと重大な点はあなたのそれらの主張は、米国のみな らず世界中に政治的な混乱を招き、今よりもさらに深刻な偏見・差別と憎しみの充満する社会を生み出すきっかけになりかねない、というところにあります。

あなたはここにきて罵詈雑言や中傷や憎まれ口を少しおさえ気味にして演説をするようになりましたね。もしかすると、共和党の主流派へ秋波を 送りはじめたのかもしれません。また「メキシコ人はレイプ魔」や「イスラム教徒排撃」などの過激発言を修正あるいは取り消して、選挙戦を有利にしたい思惑 もあるのでしょう。しかし、問題の核心はレトリックの裏にあるあなたの政治的立場や思想や原理原則ですから、あなたの正体は何も変わらない。

あなたは今後、民主党候補との対決も視野に入れながらさらに「共和党主流派寄り」にレトリックを変え言動を修正して行くかもしれません。そ の場合は、あなたは自らの激烈な主義主張に拍手喝采してきた支持者を納得させる説明を見つけなければならない。しかし、そんな説明などあるはずもない。あ るとすればそれは詭弁であり強弁です。つまりあなたは、コアな支持者を引き止めるためにも扇動的なキャンペーンをつづけなければならないでしょう。

あなたの過激発言の中身は、人々に執拗に不寛容の精神を植えつけようとするものであり、米国の孤立主義を推し進めるものが中心です。それこ そが私が異議を唱えるあなたの政治姿勢です。つまり私があなたのキャンペーン予想で「すべりつづけている」元凶であり、あなたが共和党支持者の多くに受け 入れられた原因です。それらは私が尊敬し憧れるアメリカとは対極にある政治スローガンです。つまり寛容と自由と平等を目指そうとしない米国です。

言葉を変えれば、多くの問題と誤びゅうと差別を抱えているいま現在のアメリカを、より良い方向に導こうとする人々の良心を踏みにじるもの。いま現在のアメリカではなく、米国民が理想と考えるアメリカこそ真のアメリカだとする、その「理想」のアメリカとは相容れないのがあなたの立場です。なぜならその理想とは、より寛容でより自由でより平等なアメリカという理念であり、偏見や差別や憎しみをあおるあなたの政治姿勢とは真っ向からぶつかるものだからです。

あなたのライバルになる民主党の候補が誰になるかは分かりません。しかし、一つだけ確かなことがあります。クリントン氏もサンダース氏も、 あなたのような汚れたレトリックは使わず、より寛容なアメリカ社会を目指そうと主張し、国際的には孤立主義にならない方向を模索しようと国民に訴えるであ ろうことです。私は民主党支持者ではありません。共和党の中の私が考える「まとも」な候補者が脱落した結果、米国民の描く「理想のアメリカ」にいささかな りとも向かおうとする勢力は、恐らく民主党の候補のみになった、と言いたいだけです。

あなたとなたの支持者たちは、もちろん11月の決選投票での勝利を目指しています。そして現在の勢いで行くならば、私の主義主張や願いは空 しく、ドナルド・トランプ第45代アメリカ合衆国大統領の誕生は間違いないことでしょう。私は何度も申し上げるようにあなたの批判者ですが、厳しい選挙戦 を勝ち抜いて世界最強の権力者の地位に着くであろうあなたには敬意を表します。飽くまでも民主主義の法則を遵守しての勝利ですから、たとえ反対者でも勝者 のあなたには祝福を送るべきです。私は心からそうします。

最後に、私はあなたの選挙戦予想レースにおいて、完璧に「すべりつづけている」男である、とも再び記させていただきます。

敬具




有名人のツイートに噛みつく人々の心は邪悪なのか

希望の光ハート

熊本地震に関連した2人の女優や有名タレントのツイッターの内容が、不謹慎だとしてバッシングを受けたと知った。調べてみると、炎上後に削除されたとかで一部しか読めなかったが、そこだけで理解する限り、投稿の内容は普通ならあまり人の気にさわるようなものではないと感じた。

東日本大震災のときもそうだったが、災害時には何事もそこに結び付けて過剰な反応をする傾向が日本人にはある。それは被災者への強い連帯や思い遣りという 形になって実を結ぶという利点もあるが、一方で誰もが常に100%そこに関心を持ちつづけているべきで、娯楽やジョークや笑いなどはもってのほか、不謹慎だ、などとして排撃しようとする負の側面もある。

それは画一思考や大勢順応主義に陥りやすい日本人の危険な性癖とも言える。だが同時に、他者の痛みを深くしん酌できる美質の一つでもあるように思う。それなので僕は---他者が日本人以外の人々である場合にも果たして同じ態度で臨むかどうかという懸念はあるものの---有名人のツイートに噛み付いて糾弾する人々を、行き過ぎだ、として一方的に非難する気にはなれない。

あまりにも意識高い系の高潔な人々、と皮肉交じりに言われたりもするそれらの批判者たちは、熊本の被災者への同情心や惻隠の情が強すぎるために、今はたぶんそれ以外の事案に心を砕いている余裕がないのだろう。彼らはおそらく悪い人ではないのだ。そういう思いは自分自身の実際の体験からもきている。

僕は先日、地震とは関係のない記事をブログに投稿し、それをさらにFacebookに転載した直後に、NHKの衛星放送ニュースで被災地の厳しい状況をあらためて知っ た。そのとき何の前触れもなく、また誰かの影響でも指摘でもなんでもなく、つまらない記事を書いてしまった。申し訳ないという気持ちがふつふつと湧き起こった。唐突な感情は消えることなく僕の中に居残った。

その心理を自分なりに分析すると、被災者に何もしてあげられない自分が恥ずかしいこと。せめてブログなりその他の媒体で連帯や気持ちのつながりを示す記事をいち早く発表しな かったことへの反省。被災地の困難と比較したときの記事内容のノーテンキ振りの情けなさ、などが紛糾し輻輳して自分がいやになった、というあたりだったと思う。

東日本大震災の折には連日のようにブログ記事などで自分なりの連帯の思いを記し、微力ながら被災地を応援するためのチャリティーコンサートも開催したりした。そのときと比べて 自分が何もしていないことがひどく後ろめたく思えたのだ。誰に指摘されたわけでもないのに僕がそんな引け目を感じたように、被災者や被災地への思いが特に強い皆さんは、そうではないように見える人々に苛立ちを覚えるのではないか。

彼らが自らの基準に照らし合わせて他者を非難するのは少し厳し過ぎるかもしれない。が、僕はそうした人々の辛らつを許してやってもいいのではないか、とも思うのだ。許すという表現は、上から目線風であるいは適切ではないかもしれないが、少なくとも僕は彼らの気持ちが分かるような気がしないでもない。

彼らの潔癖な態度は、甚大な災害に頻繁に直面する日本人が秩序を失わず、他人を押しのけたりせず、苦しさをじっと堪えて危機を乗り越えていく強さとどこかでつながっている。他者を容赦なく攻め立てる心は、心それ自体の弱さの発露である。だが、それが強さももたらすものであるなら、弱さという悲観には目をつぶって、強さという楽観のみを称揚したほうがより建設的であり健全なのではないか、とつらつら思ってみたりもするのである。

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