2016年7月13日、マフィアのボスの中のボス、ベルナルド・プロヴェンツァーノが獄死した。83歳。彼は25歳で最初の殺人を犯し、30歳になるかならないかの頃に逃亡。以後43年に渡って逃亡潜伏を続け、その間にマフィアのトップであるトト・リイナに次ぐ地位にまで上り詰めた。

イタリア国家とマフィアが食うか食われるかの激しい戦いを繰り返していた1992年、反マフィアの急先鋒だったシチリア島パレルモのファルコーネ判事とボルセリーノ判事が爆殺された。爆弾によるテロを主導したのは、マフィアトップのリイナと逃亡中のプロヴェンツァーノだったとされる。

その翌年、司法が反撃に打って出た。マフィアの頂点にいたトト・リイナが逮捕されたのである。その大捕り物劇はNO2のプロヴェンツァーノが仕組んだと言われる。プロヴェンツァーノのさらに上にいて「野獣」と恐れられたボスの中の真のボス、リイナが逮捕された後、プロヴェンツァーノはマフィアNO1の地位に君臨することになった。

敵を容赦なく殺戮排除していく残虐な手法から、彼自身もまた「ブルドーザ(イタリア語でtrattoreだがニュアンスはブルドーザ)」と畏怖されたプロヴェンツァーノは、巨大犯罪組織の資金管理能力にも長けていたことから「会計士」とも形容された。彼は司法によるマフィアへの便宜と引き換えに、テロを抑制することを国家権力に提案したとされる。

事実プロヴェンツァーノがマフィアのトップに就いて以後、犯罪組織による激烈な犯行やテロは次第に鳴りをひそめて行った。だがそれはプロヴェンツァーノの犯罪そのものを帳消しにすることではない。彼は常にイタリア司法当局が追い求める凶悪犯リストのトップに居つづけた。

イタリア警察にはプロヴェンツァーノが20代半ばだった1959年撮影の顔写真があるのみで、近影のものが一切なかった。司法は写真を元に老境に入った犯罪者の指名手配写真をコンピュターで作成して行方を追った。しかし、プロヴェンツァーノの行方は杳(よう)として知れなかった。

1990年代、警察はプロヴェンツァーノの逮捕につながる情報を提供した者には約2億円の賞金を支払うとした。しかし、情報はほとんど寄せられず、2000年代には賞金の額はほぼ3億円に引き上げられた。それでも有力な情報はなく捜査は難航を極めた。

転機は2002年にやって来た。プロヴェンツァーノが大きなミスを犯した。シチリア島を抜け出した大ボスが、密かにフランスのマルセイユに行った。そこの病院で前立腺の治療を受けたのだが、提出した身分証には偽の名前と共に本物の写真が貼り付けられていた。

フランスから書類のコピーを入手したイタリア警察は狂喜した。そこから捜査は進展。確固としたプロヴェンツァーノ追跡が始まった。そして4年後の2006年4月11日、欠席裁判で6つの終身刑を受けながらも逃げ続けた大ボスは、潜んでいたシチリア島パレルモ近郊の農家でついに捕縛された。

プロヴェンツァーノは、1000人以上の殺害に関わり、870億円余の個人資産を蓄えていたとされる。当時マフィアは「みかじめ料」だけで年間約1兆4千億円を巻きあげ、土建業や売春や麻薬密売やテロや賭博等でさらに莫大な収益を上げていた。

逮捕されたプロヴェンツァーノは、「 41-bis」と呼ばれるマフィア凶悪犯禁錮法に基づいて、最大警戒レベル刑務所に収監された。しかし近年は病気がちで気力も弱りしばしば鬱の症状も出た。2012年には刑務所内で自殺もはかったりしていた。

元マフィア担当検事で上院議長のPietro Grasso( ピエトロ・グラッソ)氏は、プロヴェンツァーノの死を受けて次のように語った。「多くの謎が謎のまま残るだろう。プロヴェンツァーノは長い血糊の帯を引きずりながら墓場に行った。おびただしい数の秘密を抱え込んだまま・・」

プロヴェンツァーノの死は、全くマフィアの死を意味しない。彼より3歳年上のトト・リイナは、同じく「 41-bis」の適用された警戒厳重な刑務所でまだ存命している。しかし、プロヴェンツァーノ以上に口が堅いとされる大ボスもきっと何も語ることなく死んで行くのだろう。マフィアの壁は依然として高くぶ厚い。

プロヴェンツァーノが収監された2006年以降、後継者争いに勝って現在マフィアを率いているのは54歳のMatteo Messina Denaro(マッテオ・メッシーナ・デナーロ)とされる。彼はトト・リイナが逮捕された1993年に逃亡。今も潜伏を続けている。恐らくシチリア島内の、しかもパレルモのあたりで・・。