【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2016年10月

空飛ぶ大葉~ロンドン生まれのシソをミラノで育てる愉快~ 



今年、僕の菜園にはシソが育たなかった。

正確に言うと、赤ジソはものすごい勢いで芽を出し育った。が、青ジソつまり大葉が全く芽を出さなかった。

菜園の赤ジソ寄り横400pic

青ジソは菜園の場所を変えたり、プランターを持ち出したりして何度も種をまいたものの、一切芽を出さなかった。

おそらく種が古くなったのだろうと思う。

今年は大葉は無し、と諦めた8月末、ロンドンからの客人がシソの種をお土産として持ってきてくれた。

なんとロンドンの種物商から通販で手に入れたのだという。さすがは世界一のグローバル都市ロンドン

イタリアでは、僕が知る限り、シソの種どころか、スーパーで普通に売っている白菜や大根や生姜などの種も手に入らない。

僕は生姜は栽培しないが、白菜、大根、春菊、チンゲンサイ、ごぼう、ネギ、シソなどの日本(&中国)野菜を、イタリアのそれと共に菜園で作る。

それらの野菜の種は帰国するたびに購入してイタリアに持ち帰る。そのうちのシソの種が駄目になっていたのだ。

客人からありがたくいただいたシソの種は、来年に向けて保存することにした。が、屋内で育ててみようと思い直して、9月初めに少し取り出してプランターに撒いた。

日ごとに弱くなる日差しを捉えるためにプランターを移動し続けたり、夜は屋内に取り込むなど、懸命に世話をしたら芽が出て、ゆるゆると育ち始めた。

写真は今日(10月31日)のプランターのシソたち。

プランター5台横400pic



ところでなぜ僕が来年の春を待ちきれずに無理やり9月にシソの種を蒔いたのかというと、12月のクリスマスシーズンを思って心が躍ったからである。

友人らを招いて食事会をする際や家族そろっての食事などで、刺身を振舞うとき、大葉をツマにしようと思いついたのだ。

僕は以前から自分で釣った魚や漁師から譲り受ける魚など、鮮度が間違いないものに限ってよく刺身をこしらえてきた。

最近は市販の魚も利用する。イタリア人が刺身の旨さに気づいたおかげで、スーパー内の大きな魚屋などでも新鮮な魚が手に入るようになったのだ。

盛り合わせまぐろ、はまち、大葉、わさびyoko200picそれが昂じて僕は最近は寿司を握ったりもするようになった。

僕は刺身や寿司を提供する際、わさびに加えて大葉もツマとしてよく食卓に置く。それは刺身好きの者はもちろん、刺身を初めて食する者にも大人気だ。

だが大葉は、9月頃までしか食べられない。その後、短い花の季節を経て、10月終わりの今の時期までには多くが枯れ果てる。クリスマスの頃には大葉はもうどこにもないのだ。

そこで僕は屋内での大葉の栽培を思いついた。それはどうやらうまくいきそうな勢いだ。大きく育つことはないだろうが、クリスマス前に開く食事会などで家族や友人をもてなすにはきっと十分だ。ざるの大葉yoko150pic

それにしても懸命にシソの世話をしながら思うのは、日本食のグローバル化が一気に進んだ昨今の世界の面白さである。

シソなどというマイナーな香辛野菜の種がロンドンの店先に並ぶのは、同地が世界一の国際都市、という事実を差し引いて考えても、ひとえに日本食がグローバル化したのが原因だ。僕はそこに深い感慨を覚える。

さらにその上に、ロンドン(英国)で採れたシソの種を、イタリアのミラノ近辺で僕がこうして当たり前のように栽培しているのも、やはり日本食の国際化が進んだおかげだと気づいて、僕はさらに嬉しく楽しくおいしく思うのである。



「死者の日」によせて



老婆花いっぱいの墓の前の


イタリアを含む欧州のほぼ全域は今日から冬時間に変わった。この時期は寒さが増して冬の始まりが実感されると同時に宗教的にも感慨深い季節である。

明日10月31日はハロウイーン。ケルト族発祥のその祭りを最近、遅ればせながらイタリアでも祝う人が多くなった。

翌11月1日はカトリック教会の祝日の一つ「諸聖人の日」。日本では万聖節(ばんせいせつ)」とも呼ばれるこの日はイタリアの旗日。

続く11月2日は「死者の日」、と祝祭が目白押しである。

「死者の日」という呼び名は日本語ではちょっとひっかかるニュアンスだが、意味は「亡くなった人をしのぶ日」ということであり、日本の盆や彼岸に当たる。

ところで11月1日の「諸聖人の日」は、カトリックでは文字通り全ての聖人をたたえ祈る日だが、プロテスタントでは聖人ではなく「亡くなった全ての信徒」をたたえ祈る日のことである。

プロテスタントでは周知のように聖人や聖母や聖女を認めず、「聖なるものは神のみ」と考える。聖母マリアでさえプロテスタントは懐疑的に見る。処女懐胎を信じないからだ。その意味ではプロテスタントは科学的であり現実的とも言える。

聖人を認めないプロテスタントはまた、聖人のいる教会を通して神に祈ることをせず、神と直接に対話をする。権威主義的ではないのがプロテスタント、と僕には感じられる。

一方カトリックは教会を通して、つまり神父や聖人などの聖職者を介して神と対話をする。そこに教会や聖人や聖職者全般の権威が生まれる。

カトリック教会はこの権威を守るために古来、さまざまな工作や策謀や知恵をめぐらした。それは宗教改革を呼びプロテスタントが誕生し、対立も顕在化していった。

カトリックは慈悲深い宗教であり、懐も深く、寛容と博愛主義にも富んでいる。プロテスタントもそうだ。キリスト教徒ではない僕は、両教義を等しく尊崇しつつ、聖人よりも一般信徒を第一義に考えるプロテスタントの11月1日により共感を覚える。

また、教会の権威によるのではなく、自らの意思と責任で神と直接に対話をする、という教義にも魅力を感じる。それでは僕は反カトリックの男なのかというと、断じてそうではない。

僕は全員がカトリック信者である家族と共に生き、カトリックとプロテスタントがそろって崇めるイエス・キリストを敬慕する、自称「仏教系無心論者」である。

偏見は「遍在」し差別は「偏在」する



偏見は「遍在」し差別は「偏在」するものである。

言い方を変えれば、あまねくどこにでもあるのが偏見。ある一点に集中して存在するのが差別、ということである。偏見は差別を生み、差別があるところには偏見が自然発生的に生まれる。

それでいながら二つの概念は酷似している。あるいはほぼ同一のものでもある。このうち偏見は割と理解されやすいコンセプトだが、差別はそれよりは見えにくい現象だと考えられる。

少し具体的に説明してみたい。たとえば僕はハゲである。まだ完全ではないが、髪の毛はかなり後退し薄くなって、それは日々進行している。父も祖父も完パゲのハゲ家系なので、おそらくつるつるになるはずである。でも気持ち的にはもう完全にハゲの気分、あきらめ気分。憂鬱状態。

そんな僕は、ハゲに対する偏見が世の中には結構蔓延していると感じる。差別とは言えないかもしれないが、嘲笑を含む強い偏見は確かにある。それは日本により強く、イタリアにはそれ程ではないが、それでもやはり存在している。

そしてさらに言えば、もしも僕がハゲでなかったならば、僕はそれ程ハゲという言葉や、ハゲに偏見を持つ人々の態度に敏感になったり、傷ついたりはしなかったはずなのである。

同様なことが、あらゆる身体的特徴や、仕事や、出身地や、国籍や、家族構成(一人っ子はわがままなど)等々に対してなされるのが人間社会である。偏見のない社会など存在しない。

日本にいるとわかりずらいかもしれないが、日本人であることで偏見の目を向けられた体験のない外国住まいの日本人はいないだろう。もしもその体験がないなら、その人はかなり鈍感である。

あるいは、もしもその人がイタリア住まいなら、日本と日本人が好きなイタリア人だけと付き合っている(付き合っていれば済む)、ラッキーな人だからである。世界には日本や日本人が嫌いな人も残念ながら多くいる。

差別は偏見がさらに進んで悪意が増幅したものである。あるいは偏見が変形したものである。偏見は差別する者同士の間でも起こり、差別される者同士の間でも起こる。

これに対して差別は、「差別する者」と「差別される者」に2分化される。「遍在」する偏見とは違い、差別は2分割されるからその分社会が分断される。だから差別は「偏在」するとも言える。

偏見や差別には憎悪と痛みが伴うが、そのうちの痛みは偏見や差別を「受ける側」だけが感じるものである。偏見を投げる者や差別を「する側」には痛みはない。だから偏見も差別もそれを「する側」の感情は関係がない。「される側」の感情だけが問題である。

なぜなら痛みがあるのは異常事態であり、痛みがない状態が人間のあるべき姿だ。従って偏見や差別を「される側」のその痛みは取り除かれなければならない。

という風なことを僕はよく考える。そこで沖縄県高江のヘリパッド建設現場で起きた機動隊員による「土人」発言にからめて、発言が差別意識から出たものという「前提」で一つの記事を書いた。たくさん書く記事のうちの一つに過ぎないが、それが差別という重いテーマなので書いた僕も、たぶん読む読者も、気分はユーウツ状態である。、

「事件」を起こした機動隊員は抗議者の暴言や暴力にさらされて、極度の緊張状態の中で売り言葉に買い言葉よろしく、とっさに「土人」と口走ってしまった事案だろうと思う。つまり失言だ。従って彼を差別主義者と一方的に責め立てるのは酷である。人間誰しも失言もすれば間違いもおかす。

しかし、同時に彼は事もあろうに、基地の加重負担が一向に解消されず、むしろ悪化している現実をもはや「差別以外のなにものでもない」と憤っている人々が群がる場所で、再び事もあろうに差別用語の「土人」と口走ってしまった。

せめて「このハゲ!」とか「この早漏ヤロー!」とか「短小包茎!」とかで済ませられなかったのかね。頼むよ、ホントに。それらの言葉はもちろん差別的な言語だ。そこまではいかなくとも不快用語だ。しかし「土人」よりはまし、と思うのが僕の偏見である。

そうやって言った本人も、言われた芥川賞作家の目取真氏も、目取真氏の背後にいる沖縄県民も、そして彼ら以外の全ての日本人にとっても、見たり聞きたりしたくない不快な事件が始まり、まだ続いている。

こうした事態に遭遇した場合には、バカバカしい、話が大げさになり過ぎている、などとして見過ごすのも手だが、僕はこの際「事件」を正面切って取り上げて議論をするべき、と考えたので敢えて刺激的な言葉も用いつつその記事を書いた。

そういう記事には賛同する人ももちろんいるが、多くの批判や反論や中には誹謗中傷の類も投げつけられる。公に意見を言うのだからそれはもちろん覚悟の上だが、結構疲れるというのも正直な気持ちである。

そこで僕は ----この直前のエントリーでも書いたが---- しばらくは自分らしい「政治抜き」の話に集中して、書くなら楽しみながら書けるテーマだけを書こう、 などと考えている。

暇があってヘビーな話にも興味がある人は:

http://blog.livedoor.jp/terebiyainmilano/archives/52230744.html

を覗いてどうぞ憂鬱になって下さい。

ヤラ・ガンビラジオ


一週間ほど前、10月20日木曜日にブログの閲覧者が爆発的に増える「事件」がまた起きた。

その当日と2日前に投稿した記事のどちらかが読まれているのだろうと思った。

アクセス解析機能で調べてみたらどうも様子が違う。

ブログを訪問しているのは「ヤラ・ガンビラジオ」という検索ワードから導かれた人たちだと分かった。

ヤラ・ガンビラジオは僕の住ま居から近いベルガの少女だ。2010年に殺害された。

事件は驚くような経緯をたどって解決され、犯人は先日、ベルガモ重罪裁判所で終身刑を言い渡された。

死刑のないイタリアではもっとも重い刑罰である。

僕はそのことを書こうと思いつつ時間ばかりが過ぎた。

そこでいつものように「書きそびれていること」の一つとして2014年9月にブログで短く言及した。

どっと増えた閲覧者はその記事を訪ねているようだった。

どこかで誰かが「ヤラ・ガンビラジオ」について論及し、皆がそれについての情報を検索するパターンである。

以前にも、シリアのアサド大統領夫人アスマ・アサドについて書いた記事に閲覧者がどっと群がったことがあった。

それはNHKが7時のニュースで、アスマ・アサド夫人の名前に言及したからだ、と調べて分かった。

大手メディアの影響力はそんな具合に絶大である。

それに比べたらブログなんてほんとにささやかなものだ。

ましてや僕のブログのようにわずかな読者しかいない媒体なんて、悲しいという形容も悲しいほどの、無力な代物だ。

それでも僕はネットというすばらしい表現手段を大切にして、発信を続けようと思う。

理由は簡単だ。僕はその表現手段がたまらなく好きなのだ。

好きこそ物の上手なれ、という言葉もある。ずっと発信し続けていれば表現がうまくなり、なにかいいことも起こるかもしれない。

閑話休題

閲覧者にならって僕も「ヤラ・ガンビラジオ」と打ち込んで検索した。

しかし、僕のブログ記事以外にはこれといったものは見つからなかった。

アスマ・アサド夫人の時は日本の友人知己に問い合わせてNHKのニュースに行き着いたのだが、今回はそういう作業はしなかった。

ヤラ事件に関しては、ブログで数行触れただけできちんとしたものを書いていなかったからだ。

結局なぜ訪問者が増えたかは今もって分からない。

だけど、その不思議な出来事に触発されて「ヤラ・ガンビラジオ」事件について書きたくなった。

なにかと批判もされ反発も受ける政治絡みの記事を書くことに疲れたので、次のエントリーからはできればもっとも自分らしい「政治抜き」の話でいきたい。

でも、なにかと理不尽なことが多い政治については、やっぱりひとこと言いたくなる。

これは悪い癖だろうか、でももしかして、良い癖だろうか。。。。。

「他者を土人と呼ぶ土人」に成り下がらない法

土人発言の真意はなんだろう

沖縄県高江で警備にあたる機動隊員が、抗議行動をする民間人に向かって「土人」と発言したことは、ひどく重大な問題でもあり“どうでもいい”ことでもある。その境目は、「土人」と口にした機動隊員が、一体どういう意識でその言葉を発したか、という点である。もしもそこに「沖縄差別」の意識があったなら、勿論それは軽くない問題だ。

そうではなく、言うに事欠いて、とっさに、売り言葉に買い言葉でそれが口をついて出たのなら、理由が何であれ言ってはならない言葉ではあるものの、大げさに騒ぎ立てるほどのことではないかもしれない。しかしながら、不思議なことがある。その20代の若い機動隊員は、もはや死語にも等しい「土人」という言葉を、なぜ突然思いついたのだろうか?年配の人間でも忘れているような言回しなのに。

発言を咎められて処分されるに際して、彼は「(以前)抗議の人が体に泥をつけているのを見たことがあり、とっさに口をついて出た」 と説明したという。それを聞いて僕は笑ってしまった。下手な嘘に聞こえるからだ。悪知恵の働く上司か誰かが思いついて、マスコミ対策などと称して入れ知恵でもしたのだろうか。

その言い訳を信じるのは中々難しい。死語と考えても構わない「土人」という語がふいに、しかし見方によってはやすやすと口をついて出たのが、やはりどうにも不自然だ。気にならないと言えば嘘になる。多くの人々が指摘するように、彼の発言の背後に沖縄差別がある、と考えれば納得しやすいようでもある。

ドナルド・トランプ候補に通じるもの

僕はそこに思い至った際、まさに今このとき世界中の耳目を集めている米大統領選の、ドナルド・トランプ共和党候補を連想した。彼は平然とイスラム教徒や移民を差別し、黒人を見下し、日本人を含むあらゆる有色人種を否定し、宗教の自由を無視し、女性蔑視を隠さず、排外思想を核に憎しみと不寛容をあおる手法で選挙戦を戦っている。

機動隊員の中に差別意識があったのなら、彼はトランプ候補に通底するものを身内に秘めている、と見られても仕方がない。大げさなことを言うな、という非難の大合唱声が聞こえてきそうである。むちゃくちゃに目立つ存在の米大統領候補と、職務に忠実なだけの沖縄の田舎の一機動隊員を一緒くたにしてはかわいそうだ、と。

その非難にはこう答えようと思う。「普段から意識していたにせよいなかったにせよ、彼の中に沖縄差別感情があったのなら、機動隊員はトランプ候補を熱狂的に支持している一部の人種差別主義者らに似ていなくもない」と。そして人種差別者に似ているとするならば、彼はやはり同類のトランプ氏にも似ているのである。

僕が機動隊員の「事件」を知って突然トランプ氏を連想したのは、もちろん彼が今現在ひんぱんに世界中の話題になっていて、僕自身もその動向を気にしているからである。人種差別主義者や排外ヘイト愛好家は、日本にもここイタリアにも多くいる。世界中にもさらにたくさんいる。トランプ氏はその一人に過ぎず、機動隊員もまた然り。その意味では特別な存在ではない。

暴力が「土人」という差別語を作った

英語のNATIVEに近い「土人」という日本語に、何ゆえ差別の意味合いがこもるようになったかを考えてみると、その原点はかつての植民地主義に基づく日本人の思い上がりだったと知れる。南洋などの土着の民衆を日本人が未開の野蛮人と見下したのは、日本が軍隊を擁して彼らの土地を侵し抑圧したからである。つまり暴力によって彼らを「制圧」した事実が優越意識を生んだ。

かつて欧米人に土人と蔑まれていた日本人自身が、西洋を真似て「文明技術」あるいは「進歩」を手に入れて、まだそれを手にしていない人々を見下し差別した、というのが歴史の真実である。 そこでの拠り所は常に軍事力だった。そして軍事力とはつまり経済力であり技術力だった。要するに進歩とは軍事力、つまり暴力の別名でもあったのだ。

それは日本の先を行っていた欧米列強も同じだった。というよりも、日本は彼らを猿真似したに過ぎない。猿真似で得た西洋伝来の技術力によって、日本は富国強兵を成し遂げ、アジア諸国を侵略した。だが先達の欧米列強の驕りは、植民地の独立によって挫かれた。独立後、元植民地の多くの国々は経済力をつけ、従って政治的にも強くなって欧米の力は相対的に弱まっていった。

欧米の劣化に伴って、彼らに見下されてきた人々は抗議の声を上げ始めた。それを受けて欧米内の優越意識も徐々に崩壊し、世界の後進地域や民衆を対等に見ようとする動きが加速した。第二次大戦の混乱を経て経済復興を成し遂げていた日本は、欧米列強が植民地を失うことで劣化を始めたのを追いかけて、ここでも彼らと同じ運命を辿った。

ポリティカル・コレクトネスの誕生

欧米の劣化に伴う世界の変化の象徴が、差別や偏見や抑圧を是正して平等な社会を築こう、という人々の良心の目覚めだった。そこから政治的正義、いわゆるポリティカル・コレクトネスが生まれた。欧米が驕りきった過去を反省し、人間としてより“上等”になる努力をすることが政治的正義の正体であり、人間としてより“上等”になるとは、知性の進化であり知識の深化のことである。

人間社会の進歩を象徴的に示すポリティカル・コレクトネスを理解しない者、あるいはそのことに無知な人間、社会の進歩から取り残された危険で幼稚な人々は、進歩の対義語的な意味での今日の未開人、つまり死語の「土人」だという例え方さえできる。その代表的な一人が、今まさに世界の話題の台風の目になっている米大統領選、共和党のドナルド・トランプ候補だ 。

欧米を追随する日本は、世界の大きな変化への対応がいつものように遅れてしまった。世界がよく見えない島国根性が災いし、ポリティカル・コレクトネスの習熟でもまた欧米の後塵を拝したのだ。英国と同じ島国でありながら、英国の開明性を持たない「いつもの」日本の不手際である。しかしながら、それでも、日本も変わった。

遅ればせながら近年は、日本でも差別や偏見や疎外を社会から無くそうと多くの人が考えるようになり、また行動を起こした。日本には現在そうした風潮に敵対する排外主義やヘイトスピーチまたヘイトアクションなどが増えつつある。だが大勢はポリティカルコレクトネスを容認し、さらに拡大する方向だろう。そうであってほしい。

ポリティカルコレクトネスは差別の即時消滅をもたらす魔法ではない

人はそれとは知らずに、あるいは逆にそれと意識して、差別語を用い差別的な行動をし、差別を当たり前にして生きてきた。だが前述したように時代と共に人は「良心に目覚め」、 差別をしない、差別用語を用いない、などの知恵を獲得した。繰り返しになるが、その知恵がいわゆるポリティカル・コレクトネスだ。再び言う、日本は欧米に遅れはしたものの、まがりなりにもこれを獲得した。

差別的な言葉を使うべきではない、という風潮を快く思わない差別主義者たちは、自らが差別主義者であることを隠して、あるいはさらに悪いことには、自分自身が差別主義者であることにさえ気づかないまま、こう主張する場合がある。いわく、言葉を変えても何も変わらない。言葉を変えれば差別が消えて無くなると思うのは偽善でありまやかしだ、と。

だがそれらの非難こそ自らの差別の本性を隠そうとする彼らの偽善でありまやかしだ。言葉を禁止することで即座に差別や偏見がなくなるわけではもちろんない。それは変化の「きっかけ」なのだ。あるいはきっかけにつながる第一歩だ。人々はある言葉が使用禁止になっていると気づいて、「あれ?」と一瞬立ち止まる。そしてなぜそうなっているのかと考える。やがて調べ、確認する。

そうやってその言葉がある状況に置かれている人々を傷つけたり、不快感を与えたり、悲しませたりするから禁止されているのだと知る。そこから差別撤廃への小さな一歩が始まる。人々が「あれ?」と一瞬立ち止まる行為が重要なのである。一人ひとりの一歩はささやかだ。だが無数の人がささやかな一歩を踏み出して、社会全体がまとまって動くことで巨大な流れが生まれる。そうやって差別解消への道筋ができる。

高江という日本の苦悩

沖縄の高江で言われた「土人」という語は、それが沖縄だったからより甚大な意味を持ってしまった。過剰過ぎるほどの意味が付されてしまった、とも言えるだろう。 そこでの真実は恐らく、一時的な感情に絡めとられた機動隊員が思わず口にした失言、というあたりだろう。失言だから、発言そのものは許されるべきだ。だがその失言を生んだ根っこに差別感情という歪みがあるなら、その歪みは必ず是正されなければならない。

発言者の根っこにあるかもしれない歪みの発露の一つは、沖縄を含めた日本の防衛の為に基地は必要だ、だから沖縄は我慢しろ、という考えに通底するいわゆる構造的沖縄差別の可能性だ。沖縄は基地に関しては十分過ぎるほどに我慢している。それどころか我慢できない部分がある。だから、それを沖縄以外の全国の自治体も負担してくれ、というまっとうな主張が無視されている。

無視されるばかりではない。そこに「沖縄には補償金が降りている。つべこべ言うな」というネトウヨ・沖縄ヘイトスピーカーらの得意な罵倒が加わる。しかし沖縄は47都道府県の中で30番目あたりに位置する納税県であり人口1人あたりの政府補助金受領額は10位前後だ。あたかも沖縄が、全国でもっとも多い過剰な補助金を国からもらっている、というようなネトウヨ・ヘイト一党の印象操作にも近い主張は当らない。

沖縄に同情するのではなく自らに正直になれ

沖縄が言っているのは不公平を解消しろ、という一言に過ぎない。そしてそこで言われる不公平とは差別と同義語だ。「土人」発言の中にその差別と同根の思い上がりがあるのなら断じて許されるべきではない。 差別とは、差別されている側が差別だと言う限りどこまで行っても差別である。あるいは差別されていると感じる側が差別されていると「感じて」いる限り、そこには差別があるのだ。

その差別は差別している側には感じられない。だから差別している側は差別はない、と言いたがる。時には差別者と規定されることに憤慨したりもする。 だが、差別に関する限り差別する側の感情は関係がない。差別されている側、あるいは差別されていると感じる側、の感情だけが問題なのである。

なぜなら彼らが差別されていると感じたり、あるいは違和感を持っている限り、そこには何かがある。その何かの正体が差別なのである。その差別が無ければ、差別されている側は、差別している側と同じように「何も感じない」はずなのである。そう考えてみれば、差別する側がよく口にしたがる「被害者意識」という言葉も、差別する側の思い違いである可能性がある。

差別の正体はあなた自身だ

最後に付け加えたい。そこに沖縄差別感情があったにしろなかったにしろ、「土人」という言葉によって喚起された議論は歓迎されるべきことだ。 「土人」の一言によって沖縄問題、特に基地負担問題への理解が増したり、あるいは沖縄差別が実際にあるのだと人々が認識したのなら、それは徹頭徹尾良いことである。

またたとえそこに沖縄差別がなかったとしても、人々が「土人」という言葉を無分別に使ってはならない、と意識し始めたのならそれもやはり歓迎するべきことだ。 なぜならわれわれは、そこからまた開明や解放や寛容や友誼に向かって一歩を踏み出すことができるからである。 差別や偏見という膿は溜め込めば悪化するばかりだ。表に出して議論をして、皆が力を合わせて除去するべきものなのである。

ドナルド・トランプの巨大な勘違い


話にならない、とはまさにこのことである。

米大統領選の最終討論会で、共和党のトランプ候補が「選挙結果を受け入れない」と示唆したことだ。

それは負けを認めない未練がましい行為、として見過ごされるべき軽い事案ではない。なぜなら彼はそこで米国の民主主義を完全否定しているからだ。

米大統領選挙では、敗れた候補者が結果を受け入れて「敗北を認める」と宣言することが常道である。

それは暴力と血にまみれた試行錯誤を経て確立された「平和裏の政権移譲」の原則によっている。「1800年の革命」とも呼ばれる米民主主義の根幹の考え方である。

負けた候補者は敗北を認めることで、自らの次の政権奪還を担保するのだ。つまり敗北者の敗北宣言とは、次回は私が大統領になりますよ、と宣言しているも同然なのである。

勝者はこれを受けて敗北者の挑戦を承認。自らも4年後の再びの勝利を目指して努力をすることになる。勝者と敗者は言うまでもなく個人でもあり彼らが属する政党のことでもある。

それは権力の禅譲と民主主義の完璧な遂行を確認する儀式だ。あるいは民主主義の原理に忠誠を誓う行為だ。

たとえば日本の選挙では、負けた候補者が支持者に向かって「私の不徳のいたすところです云々」と語るのが普通である。

それは民主主義の原則に忠誠を誓うというよりも、潔(いさぎよ)さとか謙虚さとかに価値を見出す日本特有の美学に基づく行為に過ぎない。

それでもトランプ氏の見苦しい言動に比べれば、日本人の行動は雲泥の差と形容しても構わないほどの崇高な態度に見える。

共和党は今後の同党のためにも、米国の民主主義のためにも、そして世界の為にも、可能ならば、本気でトランプ候補を撤退させる道を探った方が得策ではないか。

村上春樹にノーベル賞は似合わない


村上春樹はノーベル賞なんか受けなくても既にすばらしい作家なのだから、彼のファンの皆さんが、変に権威主義的な認定を求めて右往左往する必要はないのではないか。

ノーベル文学賞を受けた作家が最高の物書きではないことは、日本の状況を見ただけでもよく分かる。ノーベル賞作家の川端康成と大江健三郎はもちろん優れた小説家だ。

だが ー飽くまでも個人的見解だがー 彼ら2人が日本最高峰の作家ではない。彼らの前に安部公房、三島由紀夫、谷崎潤一郎らがいる。川端と大江はその後にさえ来ない。

3大作家に続くのは、藤沢周平、司馬遼太郎、山本周五郎だ。その後にようやく川端康成と大江健三郎がランクインする。

もっと言えば、日本人作家では夏目漱石がいの一番にノーベル賞をもらうべきだった。しかし1916年に死没した彼の小説が、英語なりに翻訳されて読まれるのはほぼ不可能な時代だったから、1901年に始まったばかりの同賞が彼に行くことはあり得なかった。

年代にこだわって言えば、漱石の次にノーベル賞に値する日本人作家は谷崎潤一郎だろう。事実彼はノーベル文学賞候補になったことが知られている。川端康成は彼の死から3年後の1968年に受賞した。

では、独断と偏見で近代日本の小説家をランク付けしてみよう。その順位がノーベル文学賞に値する日本人作家の順位でもある、というのが僕の意見だ。

1.安部公房 2.村上春樹 3.夏目漱石  4.三島由紀夫 5.藤沢周平 6.谷崎潤一郎 7.山本周五郎 8.司馬遼太郎 9.大江健三郎 10.川端康成11.宮本輝 の順である。                                          

もしかすると藤沢周平、司馬遼太郎、山本周五郎の3人を、日本文学界の奇怪なカテゴリ振り分け慣習に基づいて、大衆文学作家だからノーベル賞に値しない、と反論する者があるかもしれない。

だがそれは当たらない。重箱の隅をほじくる、という形容さえ使いにくい細部フェチの退屈な純文学作品などよりはるかに優れた「文学」になっているのが彼らの小説だ。

それでもまだ納得しない者は、先日のボブ・ディランの受賞に目を向けてみてはどうか。音楽に乗せて世界を魅了した彼の歌詞はまさに大衆芸術だ。

大衆に応えるゲージュツ作品もノーベル賞に値する、といみじくもそれは宣言している。藤沢、司馬、山本の3大エンターテイメント作家がノーベル文学賞でも僕はおどろかない。

でも残念ながら3人とも亡くなってしまったから、ノーベル文学賞の規定が「死没した芸術家も対象にする」と変わらない限りその夢がかなうことはないだろうが・・・

閑話休題

再び僕の独断と偏見では、村上春樹はたとえノーベル賞を受けなくても川端康成や大江健三郎より優れた(面白い)作家だ。ノーベル賞はくれるならいただきましょう、くれないならどうぞご自由に、というくらいの構え方でいたほうがいい。

いや、むしろ権威主義的なノーベル賞は彼には似合わない、と考えて村上春樹の受賞はない、と決めつけたほうがいいかもしれない。彼は芥川賞も直木賞ももらわなかったが、二つの賞の受賞作家の誰よりも優れた物書きだ。ノーベル賞でもきっと同じ。

そういう風にとらえて忘れてしまえば、意外に早く村上春樹ノーベル賞受賞のニュースが入るような予感がする。ボブ・ディランの頭上に突然喜びの光が差したように・・・

それにしても、日本人作家のノーベル賞候補の中では、かろうじて9位と10位にランク付けされるに過ぎない大江健三郎と川端康成が、実際に同賞を受賞したのだから、日本文学のレベルは凄いの一言に尽きるのである。

卑猥なトランプよりももっとさらに卑猥な共和党の幹部たちよ!



米大統領選のトランプ共和党候補が「俺は有名人で金持ちだからいつでも勝手に女のPussyをまさぐり、もてあそぶことができる。女なんてチョロいもんだ」という趣旨の発言をしたことに始まる猥褻醜聞騒動は、最終回の候補者討論会を2日後に控えた今の段階でもとどまるところを知らない勢いで広がっている。

トランプ氏の問題発言は、クリントン氏との第2回の候補者討論会でも取り上げられ、悪行の真偽や真意や策謀の有無等々について厳しく追及された。その後も火種は消えるどころか燃え盛って、ついにトランプ氏から性的虐待を受けたとする女性2人が現れ、実名で彼を告発するに至った。

それをきっかけに、トランプ氏に同様の性的虐待をされた、と主張する女性が次々に名乗り出て、その数は10人近くに上りさらに増えそうである。追い討ちをかけるようにトランプ氏の別れた妻イヴァナさんが、婚姻中に無理やり性交渉を強いられた、つまりレイプされたとする過去の事案まで蒸し返されて、トランプ氏の危機は深まるばかりだ。

離婚に際して明らかになった元妻のケースはさておき、トランプ氏を告発する女性たちの主張がもしも事実だとするならば、彼はもはや狂人にも近い人格とさえ言えるのではないか。狂人ではないとすれば、性依存症やそれに類した障害の持ち主である可能性が高いようにも見える。

そのうちのどれかが当てはまるなら、いずれにしてもそれは病気であるから、彼は大統領選などを戦っている場合ではない。即刻候補を辞退して治療に専念するべきだ。そうなればトランプ氏はれっきとした病人。あまり責められるべきではない。が、依然として選挙運動に固執するなら、彼はこのまま糾弾され続けるだろう。

トランプ氏は女性たちの告発を事実無根だと反論している。しかし、かつて彼は、自身の悪行への告発に対して実際に反撃したことはほとんどなく、その事実が彼への不信感の増大につながった。今回も敢えて告訴するなどの行動に出るとは考えられず、彼への疑惑がますます深まる一因になっている。

そうした風潮の中で、共和党内でもっとも影響力が強く、2020年の共和党大統領候補としても有力視されているポール・ライアン下院議長が、トランプ候補を見捨てると公言し、それを受けていわゆる共和党主流派の人々のトランプ非難声明も相次いだ。

それらはいかにも遅きに失した、というのが正直な感想である。遅いばかりではなく、ライアン議長の心変わりは、これ以上トランプ氏を支持して選挙戦を戦えば、彼の不人気ぶりに押される形で共和党が次の議会選挙で民主党に大敗を喫しかねない。だからトランプ候補を切り捨てる、というものである。

つまりライアン氏は、トランプ発言の背後にある女性蔑視とそれにつながるあらゆる差別意識、偏見、抑圧、排外主義、暴力志向などの「トランプ氏の本質」を糾弾して彼を見捨てるのではなく、共和党を議会選挙で勝利に導く、という実利目的のみで行動を起こしているのだ。

ライアン議長の動きは、極めて遺憾なものだ。その態度はトランプ氏という排外主義者、つまりメキシコ人やイスラム教徒や難民や移民、そして日本人を含む有色人種への差別と攻撃で頭がいっぱいのモンスターを、共和党候補として公認した同党の腐敗と堕落を端的に表しているように見える。

ライアン氏の行動の直接の引き金になったのは、暴露されたトランプ氏のPussy発言が卑猥過ぎて耐えられない、ということだった。ところで、卑猥とはいったい何だろうか?それは主観的なもので規定には幅があるが、基本は「見る者に羞恥心を覚えさせる事案」のことだ。つまり恥である。トランプ氏の言動は見ていて恥ずかしい。だがライアン議長のそれもトランプ氏に負けず劣らず恥ずかしい。

ライアン議長と取り巻きの人々が、共和党のそしてアメリカの良心を代弁する者だと自負するのなら、彼らはたとえばトランプ氏がイスラム教徒をアメリカから追い出すと言った時、あるいはメキシコ人は皆麻薬中毒で強姦魔だと侮辱した時などに、トランプ氏を支持しない、あるいは見捨てる、あるいは手を切るなどとはっきりと言うべきだった。

それらに加えてトランプ氏が、連邦判事のゴンザロ・クリエル氏はヒスパニックだから偏向していると主張したり、白人至上主義者の恐怖集団KKK(クー・クラックス・クラン)の幹部の支持を否定しないと表明したことなども、一つひとつがそれだけで大統領失格と烙印を押されるほどの醜聞だった。が、彼らはそれらの言動も見て見ぬ振りをした。その罪は重い。

民主党候補のヒラリー・クリントン氏にも問題がないわけじゃない。しかし、事ここに至っては、たとえ消去法に基づく判断ではあっても、クリントン候補の方がはるかに米大統領にふさわしいと言うべきではないか。「人間トランプ」が、米大統領には適さない人格下劣な存在だからではない。

トランプ氏は人種差別主義者、デマゴーグ、女性蔑視主義者、排外白人至上主義者などに分類されるべき危険な存在だから断固として排除されなければならないのである。彼は世界最大最強の民主主義国家のトップには相応しくない思想信条の持ち主なのだ。

しかしながら依然として、共和党支持者の多くがそんな風には考えていないようだ。トランプ支持率は第2回討論会を経て下がったとされるが、下げ率は思ったよりも大きくはない。それはコアなトランプ支持者にとってはたいした問題ではなかった、ということである。

それでもトランプ氏に性的虐待をされたと告発する女性が何人も出てきたことで、これまで態度を決めかねていた無党派層の中に反トランプの気運が高まり出したと見られている。それが事実ならば、トランプ氏を大統領に選んではならない、という従来の自分の主張も実を結びそうで喜ばしい。

しかしたとえそうなったとしても、共和党の約半分の支持者と主流派の幹部らが、ここまでトランプ氏を増長させた責任が消えて無くなるわけではない。トランプ氏が演出した、また今も演出している米国の分断は、世界の分断と言っても過言ではないほどの重大事件だからだ。

ライアン氏を中心とする共和党の幹部が、米国民と国際世論の信頼を取り戻したいと思うなら、彼らはトランプ氏を擁護しないと語るだけの消極的な行動ではなく、トランプ氏の当選を阻む為の積極的な動きに出るべきだ。最善の策は彼を共和党候補の地位から引きずり下ろすことだが、それが可能かどうかは分からない。

書きそびれた「トランプ卑猥発言&大統領選討論芸能バトル!」



トランプ候補猥褻発言の波紋は高まりつづけ、広がりつづけて、収まる気配がない。彼の発言の意味を僕は二つの観点から考えていて、ブログ記事なりにまとめるつもりでいる。

二つの観点とは、政治と言葉についてである。あるいは政治と文化について、と言い換えても良い。政治話の内容は、猥褻なトランプ候補を党公認に選んだ共和党は彼に輪をかけて猥褻だ、というもの。

言葉あるいは文化視点の話とは、トランプ候補が発したPussyという言葉をNHKが直訳しないで、または「直訳できなくて」別の穏便な言葉に置き換えた日本の文化的背景、また愉快についてである。

しかし、筆の遅い僕は2記事の概要をまとめたのみで、まだ書き上げることができない。そこで予告の意味も込めて、書きそびれていること、としてここに記しておくことにした。

米大統領選の第2回討論会を、第1回目と同じく徹夜で見た。正確には午前2時に起き出してイタリア時間の同3時から始まるトランプ候補とヒラリー候補のやり取りをテレビ観戦した。

観戦した、という方がぴったりくる激しいやり取りだった。もっと正確に言えば「選挙芸能バトル」とでも命名したくなる面白いののしり合いだった。

面白いというのは語弊があるかもしれないが、ああ言えばこう「ののしり返す」舌戦は、もはや芸能番組と表現する以外には適切な言葉が見つからない。

冒頭、トランプ候補の猥褻発言が槍玉に挙げられた。彼は(女性蔑視と糾弾された)それについて家族にも米国民にも謝罪したが、共和党員からは謝罪が十分ではない、と非難された。

トランプ候補の言語は下品とか下劣という軽い形容で済まされるものではなく、強い女性蔑視であるから、しっかりと謝罪しなければ女性の票が逃げてしまう、というのが共和党の重鎮らの見解だ。

選挙という観点からはそれはもっともな意見だが、トランプ候補の発言は女性蔑視のみならず、人種差別や宗教差別や移民差別などの、彼特有の偏向思想に連鎖している、と考えられるのが真の問題であり怖さだ。

選挙キャンペーンの当初から常に問題にされてきたトランプ候補の差別意識が、そこでも炸裂して共和党内からもさらなる批判が噴出した格好。

トランプ支持率は第2回討論会を経て下がったとされるが、下げ率は思ったよりも大きくはない。それはコアなトランプ支持者にとってはたいした問題ではなかった、ということである。

当たり前だ。「類は友を呼ぶ」の喩え通り、彼を熱狂的に支持しているのは、彼に近い思想を持つ人々なのだから、いまさら彼の発言にはおどろかない。驚くどころか、むしろ歓迎しているのだろう。

トランプ候補の発言は、前述の「連鎖」を別の言葉に置き換えれば、いわば「氷山の一角」としての汚れなのだが、海面下にある氷の巨大な本体、つまりこれまた前述した「偏向思想」が許しがたいものなのである。

氷山の一角たる彼の発言は、彼自身が釈明したように「ロッカールーム内での戯言」という側面はあると思う。若い男らが、男同士の下ネタ話や猥談の中で交わされる内容のうちの、ひどく過激なもの、という側面はあるが。

普通ならば、いかにピューリタン(清教徒)的な潔癖症に囚われているアメリカ人でも、目くじらを立てて非難する内容ではない。女性が耳にすれば憤慨するだろうが、男同士ではそれほど珍しいものではない。男というものはそんなふうに下卑て助平で猥雑な存在でもあるのだ。

僕は言葉と文化を語る予定の二つ目の記事では、NHKが表現に苦労したらしいPussyという言葉を、対称(対義?)語のDickとともに日本語に直訳して記事を書こうと思っているが、ためらいもある。だからこうしておっかなびっくりに予告編などを書いているわけだけれど。

それらの英語は、敢えて直訳しなくても意味は伝えられるし、直訳しない方が上品ではある。でもそうすると、トランプ候補の過激なまでの卑猥や下劣ぶりが正確に伝わらない可能性がある。逆にストレートに訳して語ると、多くの人々、特に女性読者に怒られたり嫌われたりする可能性もありそうなので、悩ましい。



輝のオッパイは変、と思うのはヘン?


大相撲・幕内上位の日本人力士が、時たま優勝したりそれに近い活躍はするものの、概して不甲斐ない成績に終始する中、輝(かがやき)という新鋭日本人力士が強くなりそうなパフォーマンスを見せている。

大関を目指しそうな高安、期待感が高まる前頭の御嶽海、遠藤、正代らとともに楽しみな輝だが、ちょっとコマッタことがある。オッパイだ。輝には変にイロっぽいオッパイが2個ついているのだ。

僕は異性愛者なので男のオッパイには興味がないつもりだけれど、輝のオッパイが気になるのは、もしかして僕の中に同性愛者の要素があるのかな?

土俵ヒキ2力士オッパイ横800picそれはそれで新しい発見だから面白い。が、ンにしても、自分が同性に愛的魅力を感じるとはちょっと信じランない。なので、多分、「輝のオッパイ」が気になるのではなく「オッパイ」オンリーが気になっているんだろうなぁ。

そうは言っても、あれは男のオッパイだから気にするな、と自分に言い聞かせながら観てはいるものの、メノヤリバにこまるなぁ、と毎回思うのだ。ツミツクリな輝のオッパイ。

あの妙に愛くるしいオッパイはなんとかならないものだろうか。ブラジャーとかチチサポーターなどを着けて相撲を取ってもいいと思うが、たぶん相撲協会はOKを出さないだろう。

胸にサポーターなんか巻いたら、今でもヘンな輝のオッパイは、もう取り返しがつかないくらいにヤバいシロモノになるだろうし。だって、チチサポーターを着けたとたんに、「輝のオッパイは怪しい」と公に認めることになる。

そうなったら日本全国と世界の大相撲ファンが、テレビ画面で炸裂する輝のオッパイを観ながら皆で一斉に「これはナンデモナイ・・」、と暗黙の了解を共有し合って無視しまくっている現状が崩壊して、大騒ぎになるはずだもの。

実は、輝のオッパイが提示している命題は、男の豊かなオッパイはヘンんんん~?というだけの単純なものじゃない。本物の「おっぱい」の存在意義にもかかわる重要課題なのだ。ホント言えばこれからが話の本筋なの。横剥き出しオッパイヨリ横800pic

つまり、輝のオッパイを観ていると、僕はあの心あたたまる美しい女性の「おっぱい」への不信感、疑問、あまつさえ失望までおぼえるところがマズイのだ。

なぜ男の輝のオッパイがアヤシーか。それは彼のオッパイが女性的にふくらんでいるからである。なぜふくらんでいるのかと問えば、彼がデブだからである。

このことは最近自分もデブになって、オッパイが、ぷく、とふくらんできた実態からも文字通り実感できる。デブな男のオッパイはよくふくらむのだ。

繰り返すが、男のオッパイもデブればふくらむ。その時のふくらみの正体は脂である。デブの輝の脂肪が、あのアヤシクも愛くるしいオッパイなのだ。え~っ!!?てことは、女性のあの美しい「おっぱい」もただの脂肪?

そんな根源的な疑問にぶちあたって僕は悩ましいわけ。「おっぱい」は脂肪かもしれないが、でもそんな軽いモノじゃないでしょ、「おっぱい」は。「おっぱい」はもっと崇高、っツーか、もっと複雑微妙なものだよね。「おっぱい」は、さ。

それともこんな考えは輝のオッパイと同じでケッタイなもの思いなのかな?など、など、と相撲観戦に徹したい僕に余計なことを悩ましく考えさせるのが、輝のオッパイだ。ジツに、メンドくさい。

で、皆さん、できたら来場所にでも大相撲をテレビ観戦して、果たして僕がヘンタイ的もの思いに浸っているだけなのかどうか、確認して教えてくださいネ。ツーのがこの記事の趣旨です。

あ、大相撲会場でライブで輝を観ても、砂被り(土俵下の席)にでもいない限り遠過ぎて彼のオッパイのヘンさは判らないと思う。テレビカメラがアップで輝の上半身を捉えるから、アレ?と思わず観てしまうわけ。コマッタもんだよ、ホントに・・



二重国籍者は日本の宝物 

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蓮舫 by Kenji Andrea Nakasone

蓮舫さんの人となりはさておいて

蓮舫民進党代表の二重国籍問題は、バッシングのピークが過ぎてもしつこくこれを取り上げる人々がいて、問題の大きさがうかがい知れる。彼女の人となりには意見したいこともあるが、ここではそれとは全く無関係の主張をしたい。

蓮舫氏の二重国籍問題は、多くの人が指摘している通り「間違いを認めてごめんなさい」と言えば済んだことかもしれない。ところが彼女はそれを嘘で固めて、しかも発言内容が二転三転したから大問題だ、と明言する人々がそれを許さない。

彼女の嘘は糾弾されて然るべきだ。だがそれをいいことに、蓮舫氏の政治家としての資質を問題にしている振りで、いつまでもネチネチといびり続ける態度には、これまた多くの人が指摘するように、民族差別意識や排外主義が色濃く滲んでいるようにも見える。

その態度は蓮舫代表の嘘と同程度か、下手をするとそれ以上に見苦しいものになりかねない。蓮舫氏がらみの話はまた後述することにして、ここでは先ず二重国籍や二重国籍保持者の是非や可不可やメリットやデメリットについて論じてみたい。

排斥ではなく抱擁することが国益

手取り切り取り
二重国籍を有する者は今の日本では、本人が外国で生まれたり、生まれた時に両親が外国に滞在していたりというケースなどを別にすれば、日本人と外国人の間に生まれた子供、というケースが圧倒的に多いと考えられる。

理由が何であれ、そうした人々は日本の宝である。なぜならば、彼らは日本で育つ場合は言うまでもなく、外国で育っても、いや外国で育つからこそ余計に、自らのルーツである日本への愛情を深く心に刻みつつ成長していくことが確実だからだ。

そんな彼らは将来、日本と諸外国を結ぶ架け橋になる大きな可能性を秘めている。日本を愛するが日本国籍を持たない人々、すなわち親日や知日派の外国人は世界に多い。われわれはそうした人々に親近感を持つ。彼らの態度を嬉しいと感じる。

ましてや二重国籍の日本人は、黙っていても日本への愛情や愛着を身内に強く育んでいる人々なのだから、純粋あるいは土着の日本人が、彼らに親近感を抱かない方がおかしい。彼らを排斥するのではなく抱擁することが、国益にもつながるのだ。

たとえば日本に在住するブラジル人の場合、その人が日本国籍を持っていないケースでは日本を愛しているかどうかは分からない。日本に住んでいるのだからおそらく日本が好きな人が多いのだろう、という推測はできるけれども。

一方、日系ブラジル人の場合にはほぼ100%日本贔屓であると考えても構わない。ルーツを日本に持つとはそういうことだ。血のつながりは何よりも強い。ましてや日本人の親を持ち日本国籍も有するブラジル人の場合はなおさらだ。

ブラジルで生まれ育った二重国籍の日本人はあるいは、日本社会の慣習や文化を知らずに周囲とトラブルや摩擦を起こすこともあるだろう。その場合には無論、彼らが日本の風習文化を理解する努力をすることが第一義である。

同時に日本で生まれ育った純粋土着の日本人も、彼らの心情を察してこれを受け入れ、ハグしていく寛容が必要だ。それを全て相手が悪いとして排撃する者は、グローバル世界の今のあり方を解しない内向きの民族主義者、と見られても仕方がないのではないか。

国防ではなく安全保障を見据えるべき

文化や心情や人となりで物事を理解するのが不得手な民族主義者らは、日本に限らずどの国の者でも、暴力的なコンセプトで世界を捉える傾向がある。そこでそれらの人々に分かりやすい言葉で解説を試みたい。

二重国籍者を排撃しようとするのは、喧嘩や暴力や戦闘を意識して力を蓄えて、それを行使しようとする態度に近い。つまり国家戦略で言えば「国防」の考え方である。先ず戦争あるいは暴力ありき、なのだ。

これに対して二重国籍者を受け入れるのは「安全保障」の立場だ。つまり、抑止力としての軍備は怠りなく進めながらも、それを使用しないで済む道を探る態度、言葉を変えれば友誼を模索する生き方、のことである。

renho 5たとえば蓮舫議員のことを考えてみよう。彼女をバッシングする人々の中には、台湾との摩擦があった場合、台湾(国)籍の彼女は日本への忠誠心が希薄なので、日本の不利になるような動きをして台湾に味方するのではないか、という疑問を持つ者がいる。

その困惑は理解できることである。そういう危険が絶対にないとは言えない。だが、こうも考えられる。彼女は台湾(国)籍を持っているおかげで台湾との対話や友誼の構築を速やかに行うことができ、そのおかげで日台は武力衝突を避けて平和裡に問題解決ができる、という可能性も高くなるのだ。

これを疑う人は、フジモリ元ペルー大統領のケースを考えてみればいい。われわれ日本人の多くはフジモリ大統領に親近感を抱いた。彼が日本にルーツを持っていたからだ。それと同じように台湾や中国の人々は、日本の指導者である蓮舫氏が台湾にルーツを持っている事実に親近感を抱くだろう。renho 4

それは彼らの敵愾心を溶かしこそすれ決して高めることにはならない。これこそが「安全保障」の一環だ。排撃や拒絶や敵愾心は相手の心に反発を生じさせるだけである。片や、受容や寛容や親愛は、相手の心にそれに倍する友誼を植え付け、育てることだ。

引きこもりの暴力愛好家になるな

グローバル世界を知らない、また知ろうという気もない内向き・ドメスティックな日本人は、概して想像力に欠けるきらいがあるからそのあたりの機微にも疎い。が、国内外にいる二重国籍の日本人というのは、えてしてそうではない日本人以上に日本を愛し、さらに日本のイメージ向上のためにも資している場合が多いのだ。

土着純粋の日本人は、グローバル化する世の中に追いつくためにも、世界から目をそむけたまま日本という家に閉じこもって壁に向かって怨嗟を叫ぶ、石原慎太郎氏に代表される「引き籠りの暴力愛好家」の態度を捨てて、世界に目を向けて行動を始めるべきだ。二重国籍者の価値を知ることはその第一歩につながる。

血のつながりに引かれるのは、イデオロギーや政治スタンスとは関係のない人間の本質的な性(さが)だ。それは親の片方が日本人で、且つ外国に住んでいる二重国籍の子供たちを多く見知っている僕にとっては、疑いようもない当たり前の真実だ。

外国に住んでその国の国籍と同時に日本国籍も有する子供たちの日本への愛着は、ほぼ例外なく強く、好意は限りなく深い。目の前に無い故国は彼らの渇望の的なのだ。外国に住まうことでグローバルな感覚を身につけたそれらの日本人を、わが国が受容し懐抱して、彼らの能力を活用しない手はない。

それと同じことが、日本国内に住まう二重国籍の日本人にも当てはまるのではないか。蓮舫国籍問題にかこつけて差別ヘイトに夢中になっている人々は、今こそ先入観をかなぐり捨てて「二重国籍者という国の宝」を排斥する間違いを正し、国益を追求する「安全保障」の方向に舵を切って歩みを始めるべきである。


豪栄道のモノホン「化け」に期待する

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クンロクとさえ呼べないほどのダメ大関だった豪栄道が、秋場所で全勝優勝したのはすばらしいの一言につきる。

先日の記事の中で、横綱鶴竜、大関琴奨菊、大関豪栄道の3人は平幕に落ちるべき、と書いた自分の不明と失礼をお詫びしたい。

優勝した豪栄道が次の九州場所で綱取りに挑むのは「慣わし」とは言え、先場所に勝るとも劣らない活躍をしてぜひ横綱の地位に駆け上がってほしい。

その本心とともに僕は彼の「化け」が本物ではなく、初場所優勝の琴奨菊や過去数場所の稀勢の里の「化け」と同じく見せかけに終わるのではないか、という不安もまた抱いている。

なぜならば、初優勝した琴奨菊がコケ、何場所も横綱を彷彿とさせる活躍をしていた稀勢の里が見事に期待を裏切って、まさに「化け」の皮が剝がれた苦い体験があるからだ。

さらに厳しいことを言わせてもらえれば、全勝優勝の相撲内容にも不安が残る。横綱日馬富士を首投げで「辛うじて」破った一番を筆頭に、危うい勝ち方も目立った。

また豪栄道の最大の欠点である引き技と、本番に弱いノミの心臓は姿を見せなかったものの、僕が「う~む、強い!」と思わずうなるような場面も正直少なかった。

とはいうものの豪栄道が、優勝決定直後のインタビューの中で「ここで終わればまたダメ大関」と言われる、と語った自己認識の的確さに僕は大きな期待も寄せている。

来場所は強い横綱白鵬もおそらく土俵に戻ってくる。その白鵬を倒し、日馬富士をねじ伏せ、他の横綱と大関の全員も蹴散らす強さで文句なしの横綱昇進を果たしてほしい。

そうではなく、準優勝程度の成績で横綱に推挙されるならば、稀勢の里の綱取り予想でも言ったように、彼もまた鶴竜並みのダメ横綱で終わる可能性が高いと考える。




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