【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2016年11月

黒澤映画でさえ古くなる



先日、僕の住む地域で日本紹介の文化祭りがあった。古武道に始まり、茶道に花、盆栽、楽焼、漫画、映画紹介など、など、多岐にわたるにぎやかな催し物だった。

そこはミラノにほど近い、日本で言うなら大き目の村だが、文化的な催し物への関心が割と高く、日本関係を含むイベントもよく開く。イベントを観光産業に結びつけたい狙いもあるようだ。

僕は今回は、イベントで上映する日本映画の選択と紹介、および解説を頼まれた。祭りの主役は古武道なので、それに掛けて時代劇のうちの黒澤映画“用心棒”と、日本文化紹介に因(ちな)んで“おくりびと”を選んで上映解説した。

用心棒は1961年作。黒澤はそれ以前に、ベニス映画祭で金獅子賞(最高賞)に輝いた「羅生門」や「七人の侍」を発表していて、既に世界的に知られた監督だった。

用心棒は、黒澤を含む全ての映画監督の優れた作品がそうであるように、そこかしこに新しい発見、あるいは独創をちりばめた楽しい映画だが、それ以外の要素でも世界の注目を集めた。

映画公開から3年後の1964年、用心棒はイタリアのセルジョ・レオーネ監督によって「荒野の用心棒(伊タイトル:per un pugno di dollari)」というタイトルでリメイクされた。主役はクリント・イーストウッドである。

僕は今リメイクと表現したが、実はそれはセルジョ・レオーネによる盗作だった。黒澤に無断で模造されたのだ。事件は裁判沙汰になってレオーネ側は全面敗訴。10万ドルの賠償金と日本での興行権、さらに全世界での興行利益の15%を黒澤側に支払う、という結論になった。

盗作騒ぎでも話題になった「荒野の用心棒」は、いわゆるマカロニウエスタンである。黒澤のオリジナルにも勝るほど大ヒットし、レオーネ監督自身と、そして何よりもクリント・イーストウッドを大スターに押し上げた。そうやって同作は映画史上に残る名品になった。

映画はさらに続編として「夕陽のガンマン」、「続・夕陽のガンマン」が同じクリント・イーストウッド主演で制作され、第一作の「荒野の用心棒」と合わせて「ドル箱三部作」とさえ呼ばれた。

大スターの仲間入りを果たしたクリント・イーストウッドは、後年カンヌ映画祭で黒澤に会った際、「ミス ター・クロサワ。あなたなしでは今日の私はなかった」と挨拶して黒澤を称え、これまた映画史上に残る名エピソードになった。

名作の用心棒だが、なにしろ古い映画だ。僕が解説を入れて上映はされたものの、お世辞にも大入り満員というわけには行かなかった。用心棒の新しさは、その後の多くの活劇で繰り返し真似をされて現在に至っている。

その事実を知らない現代の映画ファンにとっては、オリジナルの黒澤映画は展開の遅い退屈な古典、という風にも感じられがちだ。その夜の上映会場にも同じ空気が漂っていた。しかし、嘆いても仕方がない。それが映画のみならず、あらゆるエンターテイメントや芸術の宿命だ。

斬新な作品は、斬新であればあるほど後世の人々に取り入れられ、模倣され、リメイクされ、改善さえされて、時代時代に即応した作品として生まれ変わっていく。だがオリジナル自体は時代に生き血を吸われて衰退し、古びていく。そうやって古くなった傑作はやがて古典と呼ばれるようになる。

「古典は永遠(に面白い)」というのは真実だが、それは古典の良さを知るいわば“通”の人々の真実であり、今を生きる人々の全てに当てはまるコンセプトではない。古典は優れた作品だが、その名の通り“古い”定式なのだ。あるいは手本にもなり得る傑作だが、やはり“古い”のである。

“通”ではない大衆にとっては、“古い”とは退屈以外の何ものでもない。が、“通”や専門家は逆にそれを有り難がる傾向がある。僕はそのことを知りつつ、敢えて用心棒を上映作品に選んだ。上映会が「日本文化祭」の一部だったからだ。

かつて大衆が愛した娯楽作品の用心棒は、今を生きる人々にとってはもはや古く、退屈なものかもしれないが、同時にそれは日本文化の一角を担う古典芸術なのだから、そこで上映される価値がある、と僕は考えたのである。

用心棒とは違って“おくりびと”は多くの観客の感動を呼んだ。黒澤の用心棒からほぼ50年後の作品という「新しさ」もさることながら、葬儀という普遍的な事案に対する普遍的な「偏見」を正面から見据えたその作品は、日陰の生業に光を当てた、日本文化の繊細を人々に知らしめて強力なインパクトを与えた。その意味では僕の狙いは当たった。

それでも黒澤映画への感動がダイレクトに沸き起こらなかった事実は、いまだに僕の心に少しの、しかしけっこう重いしこりとなって残っている。なぜなら黒澤の偉大な娯楽傑作が「もはや人々に受けない」という冷徹な事実は、古典の宿命であると同時に映画の衰退を露骨に示す現象以外の何ものでもない、とも、またいまさらながら思い知るからである。


トランプを抱えた世界の未来図


トランプ次期大統領の大統領としてのあり方を多くの人が予想している。それを三つにまとめるとおよそ次のようになると言っていいように思う。

1.トランプ大統領は、(大統領らしく)過激な物言いはもちろん極端な政策も修正して、普通の政治を行うだろう。

2.いやいや、彼は過激な政策や思想を公約にして当選した(選挙戦を勝ち抜いた)。当然その方向で政治を行うだろう。

3.きっとその中間だ。

それらの予想はどちらも正しく、どちらも間違っている、なぜならどの方向に向かうかは誰にも分からないからだ。

そういう不確実な事態はよくあることだが、今回の場合はトランプ仮大統領自身もおそらく先が見えていない、という意味で普通とは違う。不確実の正体は恐らくそこにある。彼の政策の行方ではなく、彼自身が何を政策にすればいいのか分かっていないのだ。

それでも、今年中なにも起こらなければトランプ大統領は必ず誕生するのだから、彼がどういう動きをするのかを占うのは「彼を監視する」意味で悪いことではない。

トランプ大統領は、米国民からも世界世論からも史上最も注視される大統領になることは間違いない。米大統領をそんな位置にもっていったことも彼の変革《チェンジ》の一つだ。

僕はトランプ大統領はより1.に近い動きをすると予想する。理由は、彼がホワイトハウスでオバマ大統領と面会した時の様子と、ライアン共和党下院議長と面会した時の態度だ。

僕はその様子をBBC国際放送で逐一見たのだが、どちらの会見でもトランプ次期大統領が借りてきた猫もビックリ、と言いたくなるほどのかしこまった物腰でいるのに驚き、失笑し、落胆した。

トランプ氏の卑屈な 態度に比べると、ホワイトハウスでは、昨日の敵を鷹揚に迎え接するオバマ大統領の人格の大きさばかりが目だった。そこでのトランプ氏を見て、彼には選挙キャンペーンで喚いた主張や思いや公約を実行する気概は無いのではないか、とさえ僕はいぶかった。

僕の疑念は、彼がポール・ライアン下院議長と国会を回り、記者会見に臨む姿を見て確信に変った。ポール・ライアン下院議長は次期大統領候補とも目されている共和党きっての実力者である。そして、彼は選挙期間中はトランプ候補と対立し、激しく攻撃したりもした。

選挙選の大詰めでは、しぶしぶトランプ候補支持を表明したものの、ぬるま湯につかったようないやいやながらの手打ちだった。

それにもかかわらずトランプ氏は、自分の息子ほどにも見える若い下院議長の前にかしこまり切って、目も合わせられないほどに恐縮している。僕はその卑屈さにオバマ大統領との会見のときをはるかに上回る驚きを覚えた。

トランプ当選者の目の前にいるのは、彼が選挙期間中ののしり続けた共和党主流派の主役の中の主役、ライアン氏である。その前に跪くトランプ氏は、将来きっと主流派に呑み込まれて主義主張を変えていくのだろう、と僕はそのとき確信にも似た思いを持った。

彼は多くの怒れる人々(白人労働者階級ばかりではない。富裕層も貧困者も黒人もヒスパニックもそしてなによりも女性でさえも)が糾弾した体制派の前に跪いている。

対抗者のヒラー・クリントン候補も属し、そしてそれゆえにトランプ候補に攻撃されて共和党支持者は言うまでもなく民主党支持者からもそっぽを向かれた、「古い政治家、古い主流派」に彼は早くも丸め込まれているように見える。それがきっとトランプ氏の正体だ。

僕のその見方がもしも当たっているならば、彼は実はチェンジなど招かなかった。ポジティブな変革は何ももたらさず、ひたすら憎しみと差別と分断のみを世界にもたらした。その意味では彼は、やはり破壊者でしかない、ということになる。



トランプ次期大統領の罪


ついにトランプ米大統領が誕生することになった。

反移民、人種差別、宗教差別など、米国の国是と世界の大勢に真っ向から対立する主張を旗印にして選挙戦を戦ったトランプさんは、言うまでもなく、就任後に有能な大統領に化ける可能性もある。

アメリカを建て直し、中東からISを追い出し、欧州や日本などの同盟国ともうまくやっていくかもしれない。 

だが彼は、「差別や憎しみや偏見などを隠さずに、しかも汚い言葉を使って公言しても構わない」という考えを人々の頭に植え付けてしまった。

つい最近まで、つまりトランプさんが選挙キャンペーンを始める前までは、タブーだった「罵詈や雑言も許される」といった間違ったメッセージを全世界に送ってしまった。

それはつまり、人類が多くの犠牲と長い時間を費やして獲得した「寛容で自由で且つ差別や偏見のない社会の構築こそ重要だ」というコンセプトを粉々に砕いてしまったことを意味する。その罪は重い。
 
彼の愚劣な選挙キャンペーンによって開けられたパンドラの箱は、もう閉めることができない。

トランプさんはその一点でこの先も糾弾され続けなければならない。

その罪過は、将来彼が偉大な大統領として歴史に名を残すことになっても、あるいは帳消しにならないほどの大きなものだ。

「本音を語ることがつまり正直であり正しいことだ」と思いこんでヘイトスピーチを行い、それを容認し、本音の中にある差別や偏見から目をそらす者は、さらなる偏見や差別思想にからめとられる危険を犯している。

それがトランプさんであり、選挙戦中の彼のレトリックである。

大統領に当選したからといって、無条件に彼を祝福する理由はまだ何もない。 

 

豪栄道は横綱ではなく「名大関」を目指せ



九州場所では豪栄道が5連勝している間、相撲に関するブログ記事を書かないように気を遣っていた。彼の快進撃を応援したとたんにコケるのではないか、と心配したからだ。サッカーでは僕がひいきのイタリアナショナルチームにエールを送る記事を書いた先から負ける、ということがよくある。僕は豪栄道にそんな不運を贈りたくなかった。

6日目に玉鷲に敗れたときは、玉鷲のマグレ勝ちなのであり豪栄道には罪はない、と無理に思い込んだ。翌日、豪栄道は魁聖を破って僕の気持ちに応えてくれた。ところが次の日は隠岐の海に負けた。僕の気持ちは落ち込んだ。しかし、最終的に13勝2敗で優勝なら、横綱昇進も十分にあり得ると自分の気持ちを一生懸命に鼓舞した。13勝2敗での優勝とは、翌日以降の対戦相手になる全ての横綱と大関を蹴散らしての優勝ということなのだ。

ところが、その翌日には大関の稀勢の里に完敗。情けない結末。見事なものだ。いつも通りの日本人力士の体たらく。僕は腹立ちを隠して、ツーかもう呆れて記事どころの気分ではなかった。うんざりしながらも、若手の活躍や鶴竜の頑張り、そしてふと気づくと稀勢の里の綱取り再開の足固め、みたいな様相を呈し始めた取り組みを結構楽しみながら観戦したりしていた。

豪栄道は結局また元の木阿弥のクンロク君。彼のファンの皆さんには申し訳ないが、そして大相撲が大好きなファンの立場から敢えて言わせてもらうが、豪栄道は横綱を目指すのではなく「名大関」を夢見て精進した方がいい。かつては清国も貴ノ花も小錦らも、そして幕内優勝5回を誇る魁皇でさえも横綱になれなかった。悪いが大関の地位を守るだけでも精一杯の豪栄道が、横綱なんて10年早いのだ。

そんなわけで今場所12勝を挙げて、来場所は綱取り準備の重要な場所になるかもしれない稀勢の里に期待し、さらに若手の正代、勝ち越しはならなかったものの遠藤、また膝のケガさえ治ればすぐに横綱になるであろう照ノ富士、加えて遅まきながら「化けた」可能性のある鶴竜と玉鷲らに期待したい。

ひとつ確認しておきたいのは、稀勢の里に期待するのは彼が日本人だからではない。横綱になれる器だと思うからだ。日本人だからという思いで、弱い豪栄道を心中でひそかに応援し続けた今場所の愚は再び起こさないでおこう、と僕は強く肝に銘じた。相撲取りというのはベテランも若手も、強い力士が見ていて面白いのであり、彼が日本人か否かはやはり関係がないとあらためて思う。



イタリア国民投票の希望と不安と諦念と


イタリアの政局は、12月4日に行われる憲法改正の是非を問う国民投票を巡って、いつもよりも熱く紛糾している。上院と下院が同じ権力を持つことで生まれる政治停滞を是正して、より安定した政権を作ることで国政をうまく機能させようというのが、国民投票にかけられる憲法改正案の主旨である。

具体的に言えば、上院の権限を大幅に制限して、日本ならば衆議院に当たる下院に権能を集中させようというものだ。上院自体がこの議案に賛成した昨年10月頃は、憲法改正はほぼ成ったも同然の雰囲気があった。

しかし、国民投票へ向けての民意を主導したレンツィ首相は、世論が自らの追い風になっている状況を見て少々思い上がってしまい、2016年12月4日に行われる国民投票が否決された場合は首相を辞任する、と口走ってしまった。そう脅迫することで国民投票の行方をさらに確実にできると考えたのである。

彼に反対する勢力は首相のその宣言に一斉に噛みついた。中でも強烈な「反レンツィ=国民投票NO」キャンペーンを展開したのが、首相の属する民主党と支持率が拮抗している五つ星運動である。2009年の結党以来、一貫して反体制ポピュリズムを掲げる同運動は、国内外のあらゆる既存勢力に反旗を翻して特に若者を中心に人気を博している。

五つ星運動にも勝る勢いで国民投票NOと叫んだのが極右の北部同盟である。そこにベルルスコーニ元首相のFI(フォルツァイタリア)党も参戦した。同党は弱小政党の北部同盟よりも影響力が大きい。支持率が拮抗する民主党と五つ星運動に続くイタリア第3の政治勢力だ。ベルルスコーニ派が国民投票NOに回ったことで、政局はいよいよ錯綜した。

レンツィ首相が「国民投票で私を取るか、それとも私を失うか」という趣旨の問いかけをしたのは、英国のキャメロン前首相が、自らの政治基盤を過信してEU離脱の是非を問う国民投票を実施する、と宣言した事例と瓜二つの大失策だ。

英キャメロン首相は国民投票で敗北し退陣した。レンツィ首相も同じ轍を踏む危険が高い。彼の批判勢力が「上院改革にイエスかノーか」という国民投票の本来の争点を骨抜きにして、「レンツィ政権にイエスかノーかの信任を問うのが国民投票」という議論に民意を誘導し、大成功しているからだ。

五つ星運動は、憲法改正の国民投票をNOに集約することでレンツィ政権を倒し、次の総選挙で政権奪取を目指す考えだ。それは夢物語ではない。同党の支持率はレンツィ首相の民主党と同じか、わずかに上回っているとさえ見られているのだ。しかし、彼らの狙いはもっとほかにある。それがBrexitに掛けたItalexit、つまりイタリアのEU離脱である。

五つ星運動は結党から一貫して反EUを標榜してきた。だが同党は時として本心を隠してカメレオン的な動きをするのが得意だ。たとえばローマ市長選挙では、反EUの看板を下ろしてローマ市政の腐敗を争点に絞って戦い、見事に勝利して史上初の女性ローマ市長を誕生させた。

今回の国民投票反対キャンペーンでも、反EUの旗印を完全に降ろしてはいないが、争点をレンツィ首相信任か否かに持ち込んで集中して議論を進め、大いに成功しているように見える。だが彼らの真の目標は、前述したように、将来イタリアをEUから離脱させることだ。

EU懐疑論と反レンツィでは、極右の北部同盟も左派ポピュリストの五つ星運動と相通じている。今のところ2者が手を組む予兆はないが先のことは誰にも分からない。またベルルスコーニ派はかつて北部同盟と連立政権を組んだこともある。現在はより極右側にシフトした同党とは距離を置いているとはいうものの、反レンツィ=反上院改革、つまり国民投票NOでは意見が合う。

ベルルスコーニ派は国民投票NOキャンペーンに力を入れ、それはつまり反レンツィの主張であり五つ星運動とも通底しているのだが、彼らは五つ星運動に親和的とは言い難い。それどころか五つ星運動が将来政権を取るような事態は、かつての共産党が政権を奪取するのと同じくらいの由々しき状況だと思っている。そこで国民投票NOが大きな意味を持つ。

つまりベルルスコーニ派は、国民投票を否決に持ち込んでレンツィ政権を倒し、同時に上院を現状のまま温存する。そうすることで、将来五つ星運動が政権を握るという彼らにとっての悪夢が現実のものとなったとき、下院と全く同じ力を持つ上院が五つ星運動の暴走を阻止する、という構図である。つまり、イタリアの政治は現在のまま何も変わってはならない、という選択。国民投票NOキャンペーンは彼らにとって、レンツィ首相の退陣と五つ星運動のいわば”封じ込め“をもたらす一石二鳥の良策なのである。。

魑魅魍魎も真っ青なイタリアの「いつもの」政治のカオスだが、さらにもうひとつのどんでん返しがある。実は国民投票が否決された場合の方が五つ星運動の政権奪取の可能性が高くなるばかりではなく、同党の政権運営もスムースに運ぶ公算が高い、という見方もあるのだ。それを受けて、反レンツィ勢力の中にも、いや、やはり国民投票をYesに持ち込んで憲法を改正するべき、と主張する者も出て、ますます紛糾しているのが今日のイタリアの政局である。

僕はレンツィ首相の支持者ではないが、上院を改革していびつなイタリアの政治のあり方を是正するべき、と考えているので国民投票に関しては彼を支持する。上院の権限と議員数を大幅に削減するのが目的の上院改革案は、当の上院議員を除く全てのイタリア国民の悲願とされてきた事案だ。反体制を信条とする五つ星運動は言うまでもなく、ベルルスコーニ元首相率いるFIも北部同盟も元々はその悲願を共有している。

彼らがイタリア共和国の行く末を本気で憂うなら、ここは先ず国民投票をYes に誘導して、その後に政権獲得を目指してお互いに競い合うべきだ。その言い分が政治の汚濁と過酷の中に住まない僕の理想論であることを重々承知しつつも、イタリアを愛しイタリアに住む一日本人移民として、僕はやはり心からそう願わずにはいられないのである。



トランプが背中を押すイタリアのEU離脱



看板+grillo大げさに驚く
ベッペ・グリッロ「五つ星運動」党首


トランプ米次期大統領の誕生で、イタリアの最大野党=左派ポピュリストの「五つ星運動」が勢いづいている。党首のグリッロ氏は、「トランプ次期大統領は五つ星運動と一心同体だ、われわれも彼に続こう!」と支持者に向けて激を飛ばした。

左派の五つ星運動が、敢えて旧来の定義に従って言えば極右に属するトランプ氏に賛同し、あまつさえ一心同体とまで断言するところにイタリア政局の不思議があり、瞠目するほどの柔軟性と多様性がある。それは言葉を変えれば「混沌」ということである。

五つ星運動はポピュリストであること、反体制であること、EU(欧州連合)懐疑派である点などで確かにトランプ氏とよく似ている。トランプ氏は英国のEU離脱を歓迎するなど、欧州域外では最大の反EU主義者だ。

五つ星運動は2009年、お笑い芸人のベッペ・グリッロ氏によって創設され、2013年の総選挙で大躍進。レンツィ首相の民主党に次ぐイタリア第二の政治勢力になった。その後ローマ首長選挙で同党所属のラッジ氏が史上初の女性市長に当選するなど、時には民主党を上回る支持率で快進撃を続けている。

五つ星運動は、先ずユーロからの離脱、さらにはEU(欧州連合)からの離脱も視野に入れた国民投票の実施を政策の目玉に掲げ、12月4日にレンツィ首相主導で行われるイタリア上院の改革を問うもう一つの国民投票には強く反対している。

国民投票を否決に追い込んでレンツィ首相を退陣させ、その後の総選挙で政権を奪取して、将来は英国が行ったと同じ国民投票でイタリアをEU(欧州連合)から切り離す、というのが五つ星運動の構想である。

左派ポピュリストの五つ星運動の主張は、前述したように極右的なトランプ氏の論点に通底し、イタリアを含む欧州各国の極右勢力のそれにもぴたりと合致している。

欧州の極右勢力はトランプ大統領の登場を小躍りして喜んでいる。つまりマリーヌ・ルペン率いるフランスの国民戦線、英国のナイジェル・ファラージの独立党、ギリシャの黄金の夜明け、またオーストリア、オランダ、東欧諸国などの反移民・排外主義勢力である。

それらの政党のイタリア版が、EU(欧州連合)に反対し反移民を叫ぶ北部同盟である。北部同盟はかつては左派的な主張もする抗議政党だったが、現リーダーのサルヴィーニ書記長が就任してからは、欧州中の極右勢力との連携を強めている。

Italexiteymcisyt_400x400横150picしかしながら北部同盟はイタリアの弱小政党に過ぎない。来年春のフランス大統領選で、ひょっとするとルペン党首が当選するかもしれない、とさえ見られているフランス極右の国民戦線などの勢力とは比べるべくもない。ところがそこに五つ星運動が加わることで、イタリアのEU離脱はふいに現実味を帯び始めるのだ。

もしもイタリアがEUから抜ければ、それはEUの完全崩壊にもつながりかねない大事件になる可能性がある。イタリアは欧州政治でもまた世界政治の場でも、英国よりもはるかに小さな影響力しか持たない。G7の中でも政治経済共にほぼミソッカスの位置にいる。

イタリアの存在感は、ミソッカスではないが、英国の国民投票による離脱決定前のEUの中でもほとんど似たようなものだった。EUの中心は英独仏の3国であり、イタリアはその他大勢の中にいた、という見方もできた。

それでいながらイタリアは、EUの事実上の盟主である独仏に対抗したい英国と組んで、陰になり日向になって協力し合う関係も築いてきた。しかしBrexit(英国のEU離脱)派の勝利でその構図は崩れ去った。

Brexit派の勝利後、イタリアはEU第3のパワーになった。同時にイタリアは、英国が仲間だった頃と常に変わらずEU内の「その他大勢」の代表のような存在でもある。そんなイタリアの動静は、EUの盟主である独仏とは違う意味で影響が小さくないのである。

英国の離脱決定は、言うまでもなく、EUの結束という意味では大きな打撃だった。だが英国は、EU参加メンバーになってからも独立独歩の生き方を変えることはなく、何かにつけて特別待遇を要求するうるさい存在だった。英国参加後のEU内では、全参加国28ヵ国のうち、27ヵ国対英国、という分断の構図もしばしば表面化した。

英国以外の27カ国は、程度の差こそあれ、誰もがそのことに不満を感じていた。従って、英国のEU離脱は痛手だが、仕方がない。英国のいないEUは以前よりも増しだ、とひそかに考える向きさえあるのが現実だ。

イタリアは独仏蘭ルクセンブルクまたベルギーと共に、EUの創立国6ヶ国の一角を占め、常にそれを強く支持してきた国だ。EUへの肩入れの強さは、ぬるま湯のようだった英国のそれとはケタが違う。

英国の離脱はEUにとって大きなボディーブローだったが、イタリアの離脱は一発KOの打撃になる可能性がある。その試金石の初めが、五つ星運動が否決を目指して激しく動く、12月4日のイタリア国民投票なのである。




トランプに挑戦状を叩きつけたユンケル欧州委員会委員長

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ジャン=クロード・ユンケル欧州委員会委員長


EU(欧州連合)のユンケル欧州委員会委員長が、ルクセンブルクの大学での講演で、米大統領選で勝ったドナルド・トランプ氏に欧州とは何であるのか。どのように機能しているかなどの基本的なことを教えなければならない。彼は欧州と米国の関係を破壊する可能性を秘めている、などと発言して注目されている。

欧州委員会は欧州理事会や欧州議会と並ぶEUの主要組織。EUの政策執行機関であり、いわば政府。従って委員長はEUの首相に当たる。はじめから強い権限を有するが、元ルクセンブルク首相のユンケル氏は、2014年に委員長に就任して以来強いリーダーシップを発揮してEUを引っ張り、今では彼がEU最強の政治家、という見方もある。

ユンケル委員長は続いて、トランプ氏は世界の実態を知らなすぎる。われわれは彼が世界を旅してその実態を把握するまでに、2年間はムダに浪費することになるだろう、とトランプ氏の無知を公然と批判した。

さらに同委員長は、トランプ氏がEU本部と北大西洋条約機構(NATO)本部のあるベルギーを一つの都市と思い込んでいた事実を取り上げて、彼は欧州に関心を抱いていないからそんな(子供じみた)誤解を抱く、と再びトランプ氏の無知に不満を示した。

ユンケル委員長の主張は、トランプ氏が選挙戦中に過激な表現で欧州と米国の共通の価値観を愚弄し続けたにもかかわらず、彼の当選を機にうやむやにして、当たり障りのない意見を開陳している、欧州の多くのリーダーたちとは一線を画した厳しいものになった。

ドイツのメルケル首相もユンケル委員長に近い反応をした。彼女はトランプ氏への当選祝辞を述べながら、彼が欧州との共通の価値観、つまり全ての人々の権利の尊重と自由と民主主義を重んじてほしい、とやんわりと釘を刺した。メルケル首相の言う全ての人々とは、トランプ氏が性別や宗教や肌の色や出身地や性的嗜好などを理由に差別的言語を投げつける人々を含む、文字通り全人類のことにほかならない。

またフランスのオランド大統領は、トランプ氏の登場で世界は不確実な時代に入った。トランプ氏は欧州とアメリカが共有してきた価値観や倫理観や哲学と相容れないものも持っている、とやはり米次期大統領を遠回しに批判した。独仏のトップはこのあたりが、批判精神のかけらもなくトランプ氏に会いにニューヨークに飛んだ安倍晋三首相とは、指導者としての品格と心構えが全く違う。

ユンケル委員長は、より穏便な言い回しでトランプ氏を諌めたオランド大統領やメルケル首相とは違って、強い直截な言い回しでトランプ氏を糾弾した。彼が言明しているのは結局、欧州は差別や憎しみや不寛容をあおるトランプ氏の立場を拒否する、ということだ。

EUの盟主、ドイツとフランスの首脳に並ぶ、欧州連合の権力者ユンケル欧州委員長が、トランプ米次期大統領に歯に衣着せぬ言葉で注文をつけたのは、欧州からの『トランプ大統領の米国』へのいわば挑戦状、と見ることもできる。

ユンケル委員長の苛立ちを後押しするように、米国内のトランプ氏への抗議デモは収まる気配がない。収まるどころかそれは、地球温暖化対策を話し合う国連会議COP22 が開かれているモロッコなどにも飛び火した。

トランプ氏をこのまま米国大統領として受け入れない、という人々の抗議はまだまだ続きそうな雲行きだ。トランプ氏と米共和党の指導者たちは、その事実を真正面から受け止めてなぜそうなったのかを真剣に問い、米国の分断と世界の分断がこれ以上深化しないように対策を講じるべきだ。


男はだまって大いにしゃべる



僕は故国日本の次にはヨーロッパが好きで、さらにアメリカも好きで、大学卒業後すぐに日本を出てからは英国、米国、そしてここイタリアに移り住み、その他の多くの国々を訪ね、勉強し、もちろん仕事もたくさんこなして来た。好きな国々なのでいつも楽しく過ごしてきたのだけれど、一つだけとても辛いものがある。それが社交である。

社交とは何か。それは「おしゃべり」のことである。つまり会話の実践場がいわゆる社交である。僕にとっては社交こそ、特に西洋で生きる時の一番疲れる気の重い時間だ。しかもそれは欧米社会では、社会生活の根幹を成す最も重要なものの一つと見なされる。社交、つまり「おしゃべり」ができなくては仕事も暮らしもままならない。

昔、日本には、三船敏郎が演じる「男は黙ってサッポロビール」というコマーシャルがあった。あのキャッチフレーズは、沈黙を美徳とする日本文化の中においてのみ意味を持つ。あれから時間が経ち、世界と多く接触もして日本社会も変わったが、沈黙を良しとする風潮は変わっていない。

一方欧米では、男はしゃべることが大切である。特に紳士たる者は、パーティーや食事会などのあらゆる社交の場で、 自己主張や表現のために、そして社交仲間、特に女性を楽しませるために、一生懸命にしゃべらなければならない。「男はだまって、つべこべ言わずにしゃべりまくる」のが美徳なのである。

例えばここイタリアには人を判断するのに「シンパーティコ⇔アンティパーティコ」という基準があるが、これは直訳すると「面白い人⇔面白くない人」という意味である。そして面白いと面白くないの分かれ目は、要するにおしゃべりかそうでないかということである。

ことほど左様にイタリアではしゃべりが重要視される。イタリアに限らず、西洋社会の人間関係の基本には「おしゃべり」つまり会話がドンと居座っている。社交の場はもちろん、日常生活でも人々はぺちゃくちゃとしゃべりまくる。社交とは「おしゃべり」の別名であり、日常とは「会話」の異名なのである。

言葉を換えれば、それはつまりコミュニケーションの重大、ということである。コミュニケーションのできない者は意見を持たない者のことであり、意見を持たないのは、要するに思考しないからだ。つまり西洋では沈黙はバカとほぼ同じ意味合いを帯びて見られ、語られる。怖いコンセプトなのである。

西洋人のコミュニケーション能力は、子供の頃から徹底して培われる。家庭では、例えば食事の際、子供たちはおしゃべりを奨励される。楽しく会話を交わしながら食べることを教えられる。日本の食卓で良く見られるように、子供に向かって「黙って食べなさい」とは親は決して言わない。せいぜい「まず食べ物を飲みこんで、それからお話しなさい」と言われるくらいだ。

学校に行けば、子供たちはディベート(討論)中心の授業で対話力を鍛えられ、口頭試問の洗礼を受け続ける。そうやって彼らはコミュニケーション力を育てられ、弁論に長けるようになり、自己主張の方法を磨き上げていく。社交の場の「おしゃべり」の背景にはそんな歴史がある。それが西洋社会だ。

沈黙を美徳と考える東洋の国で育った僕は、会話力を教えられた覚えはない。おしゃべりな男はむしろ軽蔑されるのが、いかに西洋化されたとはいえ日本の厳然たる日常だ。男は黙ってサッポロビールを飲んでいるべき存在なのだ。自己表現やコミュニケーションを重視する西洋文化とは対極にある。

日本の風習とは逆のコンセプト、つまり「‘おしゃべり’がコミュニケーション手段として最重要視される」西洋社会に生きる者として、僕は仕事や日常生活を含むあらゆる対人関係の場面で、懸命に会話術の習得を心がけようと努力してきたつもりである。

おかげで僕は日本人としては、パーティーや食事会などでも人見知りをせず、割合リラックスしてしゃべることができる部類の男になったのではないかと思う。ところがそれは、西洋人の男に比べると、お話にもならない程度のしゃべりに過ぎないのだ。子供時代から会話力を叩き込まれてきた彼らに対抗するには、僕は酒の力でも借りないと歯が立たない。

ワインの2、3杯も飲んで、さらに盃を重ねた場合のみ、僕はようやく男たちのおしゃべりの末席を汚すか汚さないか、くらいの饒舌を獲得するだけである。

その後は知らない。彼らのしゃべりに圧倒されて、負けないゾと頑張って、頑張るために杯を重ねて、絶対にやってはいけない「酒に呑まれて」しまってはじけたりして、やがて人々のヒンシュクを買ったりもするのである。



あっぱれなトランプさんは危険なトランプさんかもしれない

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トランプさんが米大統領選挙を制した。まさか、というか、やっぱり、というか、あっぱれトランプさん。

僕は選挙戦の始めからほぼ一貫してトランプさんの敗北を予想してきた。

ほぼ、というのは一時期トランプさんの優勢を意識して、もしかすると勝つかも、と感じそういう趣旨のブログ記事を書いたりもしたからだ。

それでも内心はヒラリーさんの勝利を疑ったことはなかった。僕は選挙予想では徹頭徹尾スベリまくったのである。

ではそれに恥じ入っているかというと、全く恥じてなどいない。

排外思想や人種差別を旗印に戦ったトランプさんの前には、自由と平等と寛容を強く支持するもう一方の米国人有権者が立ちはだかっている、と信じて疑わなかったし今も疑わないからである。

彼らの数はいわゆる白人労働者階級の人々のそれに及ばなかった ---むろんそれだけが要素ではないが、話をわかりやすくするために、そう定義して話を進めようと思う--- で、だからヒラリーさんは負けた。

それは厳然たる事実だ。だから僕は選挙の結末を見誤った不明を率直に反省しようと思う。また、選挙に勝ったトランプさんと支持者の皆さんには、心から「おめでとう」と言おう。

だが僕はトランプさんを認めない。認めない、という言い方は、大上段に振りかぶったようで少し不遜かもしれない。ならば彼は、第45代アメリカ合衆国大統領にはなるものの、その資格はないと考える、と言い直そうと思う。

トランプさんは就任後、有能な大統領に化ける可能性ももちろんある。アメリカを建て直し、中東からISを追い出し、欧州や日本などの同盟国ともうまくやっていくかもしれない。

だが彼は、「差別や憎しみや不寛容や偏見を隠さずに、汚い言葉を使って口に出しても構わない」という考えを人々の頭に植え付けてしまった。

つい最近、つまりトランプさんが選挙キャンペーンを始める前までは、タブーだった「罵詈や雑言も普通に許される」という間違ったメッセージを全世界に送ってしまったのだ。

それはつまり、人類が多くの犠牲と長い時間を費やして積み上げた、「差別や憎しみや不寛容や偏見を是正する努力こそ重要だ」というコンセプトを粉々に砕いてしまったことを意味する。

その罪は重い。彼の愚劣な選挙キャンペーンによって開けられたパンドラの箱は、もう閉めることができない。トランプさんはその一点で糾弾され続けなければならない。

「本音を語ることがつまり正直であり正しいこと」と思いこんで、本音の中にある差別や偏見から目をそらす者は、さらなる偏見や差別思想にからめとられる危険を犯している。

それがトランプさんであり、彼のレトリックであり、トランプさんとレトリックを信じる彼の支持者や賛同者である。

差別ヘイトスピーチは、正直なことだからまっとうな態度である、という間違ったメッセージが今後は欧州にも、アジアにも日本にも、その他の全ての世界にも急速に拡散して行くだろう。

そこでは人々の意識の後退のみならず、政治的な悪影響も避けられない。彼の勝利はさらなる負の波紋を世界に広げることが確実だ。波紋は真っ先にここ欧州の極右勢力に到達するだろう。いや、もう届いている。

人種差別と不寛容と憎悪を旗印に政治主張を続けてきたフランスの国民戦線を始め、イギリス独立党、イタリア北部同盟、オーストリア自由党、ギリシャ黄金の夜明け、東欧各国のナショナリストなどの極右勢力が、トランプさんの当選を喜んでいる。

ここイタリアに関して言えば、与党民主党と並んで国内政治勢力を2分する「五つ星運動」も、トランプさんの躍進を小躍りして歓迎している。彼らは極右の北部同盟とは毛並みが違うように見えながら、『反EUと親トランプ』のスタンスで相通じているのだ。

北部同盟と五つ星運動が手を組めば、イタリアのEU離脱はふいに現実味を帯びたものになる。英国に続いてイタリアがEUから離脱すれば、欧州連合はたちまち崩壊の危機に直面するだろう。

EUの分断は世界の分断と同じ、と言っても過言ではない。それは世界がますます不安定化し、格差が広がり、不満と怒りが充満していくことを意味する。危険なトランプさんは、危険な世界への入り口である可能性も高いのである。


DNAが暴いたレイプ犯の秘密の連鎖~下~


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ヤラさんの写真と棺

「13歳少女ヤラ殺害事件」は、2010年末の事件発生から2014年の犯人逮捕を経て、2016年7月の結審に至るまでのおよそ6年間、一貫してイタリア中の関心を集め続けた。

事件は当初から偽証や誤認逮捕で2転3転するなど、マスコミの強い関心を引いた。やがて22000人ものDNAを検査する前代未聞の大掛かりな捜査が始まって激しい報道合戦を呼び、いつまでも色あせることがなかった。

DNA捜査で捕まった犯人は、彼の母親と10年前に死んだ男との間の不倫で生まれた婚外子であり、しかも母親は容疑者の父親、つまり自らの夫は言うまでもなく、容疑者自身にも誰にもその事実を告げずに隠し通してきた。

そのいきさつが明らかになると、イタリア中のメディアは複雑かつ奇抜な交流関係や運命に彩どられた人間劇を「遺伝子(DNA)メロドラマ」と命名して連日騒ぎ立てた。

ドラマは、後半の主役となった不倫の母エステル・アルヅィッフィの登場でますます佳境に入り、妻に不貞を働かれた上にそこでできた他人の子を40年以上も実子と思い込まされていたエステルの夫、ジョバンニ・ボッセッティへの同情や嘲笑や揶揄や憐憫などが飛び交った。

そこに、犯人をかばって決して見捨てようとしない彼の妻の動向や思いや発言、さらに父親の生前の不貞と、少女殺害犯人が異母兄弟だったことを発見する、グエリノーニ家の人々の驚愕や、困惑や、怒り等々がからまって、ドラマはいつまでたっても魅力を失わなかった。

騒ぎが大きくなるにつれて、最大の被害者であるヤラさんの両親と家族への思いやりやケアは往々にして吹き飛ばされて、ワイドショーも真っ青の煩雑且つ無責任な、だが同時に第三者にとっては面白すぎる出来事や秘密が次々にあばかれた。

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犯人マッシモ・ボセッティ

被害者の少女と犯人の2人よりもワイドショーの話題を集めたのは、なんといっても前述の不倫の母エステル・アルヅィッフィ。夫を裏切った密通で身ごもりながら、生まれた双子の子供は夫ジョバンニ・ボッセッティの子だと白を切り通したツワモノである。

自らの不貞の結晶である子供が殺人者となったために、過去の悪行が全て明らかになった彼女だが、さらに驚くべき事態が待ち受けていた。なんと彼女の末っ子もまた不倫の末の非嫡出子であることが明らかになったのである。

エステルの次男、つまり犯人の弟は、夫ジョバンニ・ボッセッティの子供ではなく、かといってかつての不倫相手グエリノーニの子供でもない。新たな第三の男との間にできた子供だったのだ。

多情な女、エステル・アルヅィッフィは、そうやってますますワイドショーの格好の花形キャラになって行った。

ワイドショーや新聞社会面やゴシップ雑誌はもちろん、シリアスなメディア媒体も長期間に渡って報道し続けた騒々しい事件は、犯人の終身刑判決でいったん終息した。だが、このケースはまだ終わっていない。被告側が控訴したからだ。

「遺伝子(DNA)メロドラマ」は、今後もイタリア国民の格好の噂話のネタになり続けるだろう。

ワイドショーや三面記事も嫌いではない僕は、できれば彼らと同じ興味でそれを見ていくつもりだが、実は僕はこの事件の捜査のあり方を、少し大げさに言えば「目も眩む」ほどの驚きと共に見守ってきた。

捜査の展開は英語の媒体でも逐一伝えられたから、もしかするとイタリア人はもちろん、世界中に僕と同じ感慨を抱きながら見つめた人々がいたかもしれない。

捜査の疑問点並びに瞠目する点は次の通りだ。

1.警察は「地元に住む男性のDNAをシラミつぶしに調べた」が、実は地元とはどこからどこまでを指すかは曖昧だった。対象になった地域は島という名だったが、それは実際の島ではなく、ベルガモ県からミラノ一帯へ、さらにはイタリア半島全体にまで広がる陸続きの場所だった。

2.またシラミつぶしにDNA検査を敢行したことは、大胆だが極めて杜撰(ずさん)な動きでもあった。なぜならマスコミが指摘したように、犯人は地元の人間ではない可能性も大いにあったからだ。

3.ジュゼッペ・グエリノーニの実子(摘出子)のDNAが犯人のそれと合致しないと判明したとき、ならば彼らの異母兄弟がいるのではないのか、という思考の広がり方は優れた、あるいは結構ブッ飛んだ発想のように僕には感じられるが、どうだろうか。

隠し子がいればそれは男の死亡のさらに30年ほど前の不倫でできた子だから、父親を疑うのは自然のように見える。が、DNA確認作業が行き詰まった段階で存在しない父親を疑うのは難しい。普通はそこで捜査員らがあきらめて事件は迷宮入り、という様相を呈するのがありがちな結末ではないか。

たとえそうではなくても、10年も前に死んだ男の墓を掘り起こしてまでDNAを調べる気概は、いずれにしても瞠目に値すると僕には思える。

4.再び10年も前に死んだ男の、いるかいないかも分からない愛人探しを敢行するメンタリティーも面白い。しかもバスの運転手だったグエリノーニの地元に愛人がいる、というアバウトな前提での調査なのだから、もはや蛮勇である。仮に愛人がいたとしても、地元の女性ではない可能性は幾らでもあったのだから。

それらのほころびを抱えつつ捜査を敢行したイタリア警察の剛毅と独創性。22000人ものDNAを調べまくったねばりと緻密。だが対象地域を無理やり限定した驚くべき杜撰さと破天荒。

それらはまるで「バカと天才は紙一重」の諺を髣髴とさせる、まさにイタリア的なアクションであるように僕の目には映る。しかもそれは見事に成功した。彼らの功績は、今後の世界中のDNA関連捜査にも大きな道筋をつけたのではないか。

実はそれに似た事例はイタリアには多い。直近の例を一つ挙げれば、犠牲者ほぼ300人が出たイタリア中部地震である。あの時は多くの建物も崩壊した。完璧な耐震設計を謳っていたにもかかわらずにだ。

ところがイタリアには建設から数百年、はなはだしい場合は2000年も地震や風雪に耐えて生き延びている建築物もまた多い。

優れた建築技術がありながら、たとえば日本ならば、ほとんど被害が出ない程度の揺れの地震でも崩れ去る建物を造る稚拙が、イタリアには厳然として存在する。「突出しているが抜けている」のである。

「13歳少女ヤラ殺害事件」の捜査で遺憾なく発揮されたのもそうしたイタリア的メンタリティーだ。警察の捜査法はまさに「突出しているが抜けている」あるいは「抜けているが突出している」を地で行くものだった。

そのイタリア的捜査法に乾杯!という思いになるのは僕だけだろうか?


DNAが暴いたレイプ犯の秘密の連鎖~上~


2016年7月1日、長い間イタリア中のゴシップの種であり続けた「13歳少女ヤラ殺害事件」の犯人に終身刑が下された。

10月20日にこのブログの閲覧者が突然増えたのは、民放がバラエティ番組で同事件を取り上げたのが原因らしい。複数の読者の方から指摘があった。

つまりシリアの独裁者の妻、アスマ・アサド夫人の時と同じ。NHKが彼女に言及したおかげでこのブログへの訪問者がどっと増えたが、今回またもやテレビがその影響力の大きさを見せつけた形になった。

事件のあらましを時系列で述べると次のようになる。

1.2010年11月26日、ミラノにほど近い北イタリアベルガモ県内の「ベルガモ島(二つの川に挟まれた三角地帯の呼称で、島ではない)」で、当時13歳だったヤラ・ガンビラジオ(Yara Gambirasio)さんが姿を消した。少女は新体操が好きで、その日も体操のジムに向かうところだった。

2.失踪からちょうど3ヶ月後の2011年2月26日、少女は近くの野原で死体で発見される。彼女の全身には致命傷には至らなかった幾つかの刺し傷があり、頭にも鈍器で殴られた跡があった。犯人は少女をレイプしようとして抵抗され暴力を行使したらしい。被害者は生きたままそこに放置され、寒さと出血多量で死亡したと推定された。

3.2011年6月、少女の下着とレギンスに付着していた血痕から白人男性のDNAが確認され、DNAの主は「不明男№1(IGNOTO1)」と名づけられた。そこからDNAを元に「不明男№1」探しが始まった。

地元に住む男性のDNAがシラミつぶしに調べられた。テストを受けた人数は最終的にはほぼ2万2千人にものぼる大がかかりなものになった。確認作業は犯人が外部在住の男だったり、検査を避けて逃亡したかもしれない可能性、などをマスコミに追求されながらの苦しい捜査になった。

4.2011年10月21日、問題のDNAに良く似た構造のDNAが見つかった。ダミアーノ・グエリノーニという青年のものだった。ダミアーノの血族のDNA鑑定が開始された。結果、ダミアーノの従兄弟3人が特に良く似たDNAを持つことが判明した。だが彼らは「不明男№1」ではない。

5.そこで1999年に亡くなった従兄弟の父親、ジュセッペ・グエリノーニのDNAが調べられた。DNA鑑定では、個人や親子などの識別や血縁鑑定が可能だからだ。最初は父親の運転免許証に張られた収入印紙の唾のDNAをチェック。さらに明確にするために父親の墓が開けられて遺骨からもDNAが鑑定された。

こうして父親ジュセッペ・グエリノーニは、「不明男№1」の父親でもあることが判明。その検査ではさらに「不明男№1」は45歳前後というところまで分かった。ところが、ジュゼッペ・グエリノーニの実子3名のDNAは、前述したように「不明男№1」のDNAとは合致しなかった。

ジュゼッペ・グエリノーニが犯人「不明男№1」の父親であることは間違いない。それなのになぜDNAは合致しないのか?謎が深まる中、やがて浮上したのが、ジュゼッペ・グエリノーニには妻以外の女性との間にできた隠し子がいるのではないのか、という推測だった。

6.警察はその推測に基づいてさらに捜査を進めることを決定。10年前に死んだ父親の、存在するかどうかもわからない浮気の相手。さらに2人の間に生まれたと想像される子供。その時点ではほとんど夢想にも近いドラマの中の2人の登場人物を、現実世界で本当に探り当てることができるのか。

捜査班は大きな疑問を抱えながら、ジュゼッペ・グエリノーニが生前関係を持ったと考えられる愛人を探し出すという、途方もなく困難に見える作業に取りかかった。そうやってグエリノーニと少なくとも一度は接触があった、と考えられる
500人余りの女性のDNA鑑定が実施されると同時に、地道な聞き込み捜査も進められた。

7.2014年6月、聞き込みをしていたある捜査員の耳に重大な情報がもたらされた。バスの運転手だったグエリノーニの元同僚の男が「グエリノーニはその当時エステル・アルヅィッフィを妊娠させてしまった」と自分に打ち明けた、と話したのだ。ここから事態が急展開した。エステル・アルヅィッフィは実在の人物だったのだ。

彼女は既婚。夫との間に男女1組の双子ともう1人の子供がいる。可能性は彼女がグエリノーニと不倫をして子供が生まれたことだ。さらに調べを進めていくと、彼女と夫は結婚当時グエリノーニと同じ棟のアパートに住んでいたことが分かった。

8.警察は密かに「不明男№1」の年齢と似通うエステルの双子(43歳)の子供のうちの男性を監視し始めた。そして2014年6月16日、飲酒運転検査と見せかけて彼を路上で引きとめ、呼吸検査。それで得た唾液を調べた結果「不明男№1」のDNAと完全に合致した。

そこで逮捕された男の名はマッシモ・ジュゼッペ・ボセッティ(Massimo Giuseppe Bossetti)。母親のエステル・アルヅィッフィとジュゼッペ・グエリノーニが不倫をした末に生まれた子供だった。

マッシモ・ジュゼッペ・ボセッティは起訴され、ほぼ2年間の裁判審理を経て、冒頭で述べたように、今年7月1日、終身刑を言い渡された。                                                                                                                                         

イタリア地震は天罰、と言い張る神父の「お化け」度

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カトリックの一人の神父が、約300人の犠牲者とおびただしい数の被災者を出したイタリア中部地震は「同性カップルの権利を認めたシビル・ユニオン法に対する神の罰」だ、発言して物議を醸している。

神父の名はジョバンニ・カバルコリ(Giovanni Cavalcoli)。彼は以前から強硬派の神学者として知られており、カトリック系のラジオ局の宗教番組の中で自説を展開した。

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カバルコリ神父

神父のトンデモ発言は、多くの犠牲者と住む家を失った被災者が続出した、8月24日のイタリア中部地震よりもさらに大きな揺れが来た、10月30日に飛び出した。

その日の地震の震度はマグニチュード6、6。8月24日以降11月4日までに続くおよそ2万3千回の余震はおろか、過去36年間の全てのイタリア地震の中でも最大の揺れだった。が、神父の宣言は、それにも勝るほどの激震を国中にもたらしたようだった。

神父の発言はどこかで聞いた話だと僕はすぐに思った。記憶の糸をたぐるまでもなく気がついた。世界の実相には目もくれずに日本土着の狭窄思想に頼って万事を怨嗟する「引きこもりの暴力愛好家」石原慎太郎氏が、東日本大震災は天罰、とのたまった事案と同じだ。

石原さんは彼独自の傲慢と無神経と酷薄から、他者への配慮に欠ける言動をすることが多い。その時の天罰発言もそれに類したものだったように思う。いわゆる天譴論(てんけんろん)ではなく、彼の十八番である「鈍感KY論」が炸裂したものだった。

一方、カバルコリ神父の天罰論は、天譴論そのものと言っても構わない。確信犯なのである。その証拠に彼の属するバチカンは、神父の公言は(神と)カトリック信者を冒涜し、信者ではない人々に恥をさらす行為だ、として厳しく非難した。

ところがカバルコリ神父は全くひるまず、彼はその後も、地震は人間の罪業と家族や結婚の尊厳を破壊するシビル・ユニオンに対する神の厳罰だ、と主張し続けている。

LGBT旗yoko300イタリアはLGBTへの対策がひどく遅れた国だが、その原因の多くはカトリック教にもある。LCBTを認めない同教の戒律に、9割以上がカトリック信者であるイタリア国民が強い影響を受けているのだ。

欧州の中ではもっとも遅れていた、同性カップルの権利を認めるイタリアのシビル・ユニオン法も、ようやく先月施行されたばかりだ。神父の主張はそうした流れに真っ向から対立する。

またローマ教会の改革を推し進めるフランシスコ教皇も、同性婚や同性カップルを認めることなどを始めとして、LGBTへの理解を示す方向でいることは明らかだ。教皇イラストyoko250pic

バチカンの最高権力者で、カバルコリ神父のボスでもある教皇の指弾をものともせずに、神父が自説を声高に叫ぶのはなぜか。

それはおそらく彼の背後に、バチカンの保守派官僚組織「クーリア」が控えているからだと考えられる。クーリアの官僚の一部あるいは多くは、とてもシビル・ユニオンに好意的とは言いがたい。

だからこそ同性愛者を受け入れようとするフランシスコ教皇のバチカン改革案も、遅々として進まない。教皇とクーリアの対立を象徴的に表しているのが、カバリコリ神父の不可解な動きなのではないか、と僕は思う。


建物は人~ミラノ中央駅とムッソリーニ~

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ミラノ中央駅


イタリアにある膨大な数の歴史的建築物の中で、最も新しいものの一つがミラノの中央駅舎である。1931年にオープンしたミラノ中央駅は、イタリアの国鉄駅の中ではずば抜けて威厳のある外観を持つ建物。世界で一番美しい駅舎と呼ぶ建築評論家もいる。

駅舎は1925年に工事が始まって6年後に完成。イタリアの国家的大プロジェクトは、かつては何百年も工事が続くことも多く、その伝統は今も残っていて進捗が遅い。大事業だった駅舎がわずか6年で完成したのは、マッチョで厳しいファシズム政権が関係者の尻をたたき続けたからである。

駅舎を規定する正式な建築様式名はない。リバティやアールデコの混合様式とされるが、「リットリア様式」とも呼ばれる。リットリアとはムッソリーニが権力を握っていた時代の建築群の総称。つまりファシスト様式。古代ローマ帝国に倣って質実剛健を目指したと言われる。

僕が知る限り、ミラノを訪れる多くの日本人も駅の堂々としたたたずまいには感動する。僕も嫌いではない。ところが、実は、この駅の建物を多くのイタリア人は嫌う。理由はただひと言「威張っている」、である。要するに洗練されていない、ということだ。

僕はイタリア人のそのセンスや見識に感嘆する。例えばベニスの中心、大運河沿いに立ち並ぶ建築群は、その一つひとつが洗練を極めた美しいものばかりである。それに比較するとミラノ駅舎のシンプルな力強さは、硬い印象があり繊細とは言えないかもしれない。

ベニスでは当時の貴族や大商人が、東方貿易で得た莫大な富を惜しみなく注ぎ込んで、優美な建築物を作った。大運河沿いに家を持つことは名誉なことだと考えられたから、彼らは競ってより美しいものを創ろうとした。そのために建築群はさらに洗練を極めることになった。彼らにはそんな家が必要だったのである。

切り取り3人からムッソyoko200pic一方独裁者のムッソリーニは、自らの威厳を示そうとして大上段に構えた威圧的、高圧的な印象を持つ建物を創る必要があった。要するに彼もまた彼なりの必要に迫られたのである。「建物とは人」のことなのだ。そうやってムッソリーニの時代には、ファシズムを象徴するリットリア様式の建築物が多く造られ、中でも目立つものがミラノ中央駅舎である。

目の肥えたイタリア人は、駅舎の威風にムッソリーニの野心やごう慢や民主主義への冒涜などをかぎ取ってまゆをひそめる。それは洗練を極めた建物群で街を埋め尽くして、ついには全体が芸術作品と言っても過言ではないベニスのような都市を造ってきた、イタリア人ならではの厳しい批評だと僕には見える。

建築が彼らに受け入れられるためには、ムッソリーニの負の記憶がなくなって、駅舎が建物自体の生命を宿し始める、恐らく何世紀もの時間が必要に違いない。長い時を経ても駅舎がなおそこに立っているなら、それはつまり人々が、存続させるに値する建物、と考えたからである。

誰かが必要としたために生まれた建物は、その後の人々の要求に支えられて生き続け、時代の要望やニーズによってさらに長生きをし、短い命しか与えられていない我々人間から見れば、ほとんど永遠にも見える年月をさえ生き抜く。

駅舎が将来そんな運命をたどったまさにその時こそ、人々は建物を美しいと感じるだろう。長い時間を生き延びてきた建築物に宿る独自の生命、つまり建物を必要とした古人の意図と、時間と、建物そのものが分かちがたく融合した美に心を撃たれて、人々は恍惚としてそこに立ち尽くすはずである。

Perfumeと禅



禅円1

Perfumeの音楽は面白い。踊りの趣味も、音楽ほどではないが、それほど悪くはない、と個人的な興味で眺めたりする。

イタリアにいるので、彼女たちのパフォーマンスが見られるのは衛星テレビのみだ。それもほとんどNHK絡みである。

つまり、それほど見たり聞いたりしているわけではない。が、見たり聞いたりした範囲では、彼女たちのパフォーマンスを楽しみ且つ感心することが多い。

中でも彼女たちの「ワンルーム・ディスコ」が好きである。それは♪ジャンジャンジャン♪という電子音(デジタルサウンドと言うらしい)に乗って次のように軽快に歌われる。

ディスコディスコ ワンルーム・ディスコ
ディスコディスコ
ディスコディスコ ワンルーム・ディスコ
ディスコディスコ

なんだってすくなめ 半分の生活 だけど荷物はおもい 気分はかるい
窓をあけても 見慣れない風景 ちょっとおちつかないけれど そのうち楽しくなるでしょ

新しい場所でうまくやっていけるかな 部屋を片付けて 買い物にでかけよ
遠い空の向こうキミは何を思うの? たぶん できるはずって 思わなきゃしょうがない
(中略)
新しい場所でうまくやっていけるかな 音楽をかけて計画をねりねり 
今日はなんだかね おもしろいこともないし リズムにゆられたいんだ ワンルーム・ディスコ

ディスコディスコ ワンルーム・ディスコ
ディスコディスコ~

デジタルサウンドという新鮮な音の洪水に乗って流れるメロディーもいいが、僕にとっては歌詞がもっと良い。つまり:

「なんだってすくなめ 半分の生活」 
「荷物はおもい 気分はかるい」
「そのうち楽しくなるでしょ」
「たぶん できるはずって 思わなきゃしょうがない」

それらの前向きな態度や思考は、僕がいま理解している限りでの全き禅の世界である。作詞・作曲をした中田ヤスタカさんが禅を意識していない(らしい)のが、余計に禅的で良い。

禅とは徹頭徹尾プラス思考の世界である。しかもそのポジティブで前向きな生き方を意識しないまま、自然体で体現するのがもっとも理想に近い禅の在り方ではないか、と僕は捉えている。

受身ではなく能動的であること。消極的ではなく積極的であること。言葉を替えれば行動すること。「書を捨てよ。町へ出よう」と動くこと。またはサルトルの「アンガージュマン(社会参画)」で行こうぜ、ということである。

もっと別の言い方で説明すれば、それは僕の座右の銘である「日々是好日(にちにちこれこうにち(じつ)」と同じ世界だ。まさに理想的な禅の世界なのだ。

日々是好日とは、どんな天気であっても毎日が面白い趣のある時間だ、という意味である。つまり雨の日は雨の日の、風の日は風の日の面白さがある。あるがままの姿の中に趣があり、美しさがあり、楽しさがある。だからそれを喜びなさい、という意味である。

僕はバカかった頃、もとへ、若かった頃、この言葉を「毎日が晴れた良い天気だ」と勝手に理解して、東洋的偽善の象徴そのものだと嫌悪した。これは愚かな衆生に向かって、「たとえ雨が降っても風が吹いても晴れた良い天気と思い(こみ)なさい。そうすれば仏の慈悲によって救われる」という教えだと思ったのだ。

まやかしと偽善の東洋的思想、日本的ものの見方がその言葉に集約されている、と当時の僕は思った。その大誤解は僕が日本を飛び出して西洋世界に身を投入する原動力 の一つにもなった。僕は禅がまったく理解できなかった。しかも理解できないまま僕が思い込んでいる禅哲学が、反吐が出るほど嫌いだった。無知とはゲに怖ろしい。

西洋にも禅的世界観がある。歌の世界であれば:

♪ケセラセラ なるようになるさ~♪

がそうであり、ビートルズの

♪レットイットビー  レットイットビー  レットイットビー♪

もそうである。

ただ西洋のそれは、人生をある程度歩んだ「大人の知恵」という趣が込められた歌だと僕は感じる。つまりそれは、敢えて言えば哲学である。Perfumeの3人娘が歌うのはそんな重い哲学ではない。

軽い日常の、どうやら失恋したらしい女の子の、前向きな姿を今風のデジタルな音曲に乗せて、踊りを交えて歌う。その軽さがいい。深く考えることなく「軽々と」禅の深みに踏み込んでいるところがいい。

あるいは考えることなく「軽々と」禅の高みに飛翔している姿がいい。

というのはしかし、東洋の、特に禅の全きポジティブ思考に魅せられている「東洋人の」僕の、東洋世界への依怙贔屓 (えこひいき)に過ぎないのかもしれない・・・

チキンレースの米大統領選

討論:ヒラリー背中越しトランプ横400pic


投票日まで一週間を切ったのに米大統領選の行方は全くわからない。

トランプさんの猥褻女性スキャンダルで勝負あった、と見えたのに、ヒラリーさんの引き離しはそれほど強くなく、トランプさんが強いのかヒラリーさんが弱いのか、といぶかるうちに又もやメール問題が再燃して、ヒラリーさんは青息吐息。

各種データを見ると、あれだけの女性蔑視、猥褻問題が表に出たにもかかわらず、共和党の白人女性有権者の間では、トランプ候補の方がヒラリー候補よりも支持率が高い。

それはとてもおどろきだ。あの卑猥極まる女性虐待スキャンダルは、さすがにどの人種でもどんな階層の女性であっても、皆が「許せない」と憤る事案ではないか、と思う。

それでも多くの女性がまだトランプ候補を支持するのは、つまり、翻って、彼女たちにとってはヒラリー候補がそれだけ嫌な存在、ということなのだろう。切り取り銃弾噴くトランプyoko150pic

僕はヒラリーさんに当選してほしいが、同じ女性たちにかくも嫌われるヒラリー候補とは一体なんだろう、と首を傾げざるを得ない。

彼女のちょっと威張り気味の物言いや、体制主流派内を泳ぎ続けた汚れや、従って新味の無さ、などという欠点を差し引いても、である。

また、トランプ支持者は「白人の低所得労働者階級」という一般的な見方に反するように、低所得者層は相対的にヒラリー支持が多い、などのデータも出回っている。

そればかりではない。あれだけトランプさんに攻撃されたヒスッパニックの人々も、およそ3人に1人はトランプ支持、という分析もあるのだ。

ひと口にヒスパニックといっても、大きく分けてメキシコ系とキューバ系の人々に分かれる。このうちキューバ系の多くの人々が、トランプ支持に回ると見られるためにそんな数字が飛び出す。

イタリア時間11月2日の午後の時点では、激しく追い上げるトランプ候補とヒラリー候補の差はわずか2ポイント余り。しかも勢いは前者にある。

今の様子ではどちらが勝ってもおかしくない。いや、多分トランプ候補に分があるのではないか。

服ヒラリー真っ赤なyoko100pic僕は、前述したように、ヒラリー候補に勝ってほしい、と一貫して思っている。積極的に彼女を支持するからではない。

トランプさんが米大統領を目指す男にしては人格も政策もあまりにもひどい、と僕の目には映るため、彼に比べた場合は、彼女がまだまし、と思うからだ。

消去法による支持、という消極的な支持ではあるが、支持は支持だ。だが今日この時点では、彼女の形勢は不利のように見える。

しかし、悲観はしていない。トランプ候補有利の空気に危機感を抱いた彼女の支持者たちが、11月8日には大挙して投票所に向かう可能性があるからだ。

特にヒラリー候補を支持している若年層は、日本と同じで米国でも投票率が低い。彼らが多く投票すればトランプ氏よりもヒラリー候補に有利に働くだろう。

全く逆もあり得る。6日間の間に事態が二転三転して、危機感を抱いたトランプ支持者らが大挙して投票所に向かい、最終的にトランプ候補が勝利するケースだ。

全きチキンレースは面白いと言えば面白いのかもしれないが、トランプ大統領の誕生はここ欧州にも日本にも悪影響を及ぼすと考える僕は、息をひそめて見守っている、というのが正直なところだ。



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