【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2017年01月

ミラノ北斎展の三つ子の魂 

レアーレ宮北斎ほか看板中ヒキ400pic


昨年9月22日から今年1月29日まで、 イタリア・ミラノで大きな北斎展が開かれている。先日それを見に行った

北斎展は人気の催し物で、200余点の展示品がすばらしく人出も多かった。そこでは展示物の面白さにも負けないくらいの興味深い場面にも出くわした。

おそらく幼稚園児と思われる20名ほどの小さな子供たちが、集団の前後に付き添っている2人の教師に導かれながら、つぶさに作品を鑑賞していたのだ。

グループを先導する女性教師は、どうやら「おじいさんと孫」のストーリーに託して展示物の一つ一つを説明しているらしい。切れ切れに彼女の声が聞こえた。

子供たちは真剣な面持ちで先生の声を聞きながら展示物を「見上げて」いる。文字通りきらきらと輝く瞳を見開いて、北斎の傑作を見つめている彼らの姿はかわいらしく、且つ印象的だった。

同時に彼らはそのつぶらな瞳で一体何を見ているのだろうか、と僕はいぶかった。

会場外北斎看板ヨリ400pic幼い子供にとっての芸術作品は、おそらく学問や教養や学習などとして理解されるものではなく、幼児体験のいわば「不思議」の一つとなって心に残っていくものなのだろう。

子供たちは目の前の北斎作品を理解するのではない。きっと理解できないし理解する必要もない。「良く分からないが、何か美しいもの」として記憶蓄積の中に組みこまれればいいのだ。

大人でも芸術作品を分かる必要はない。知った風な解説や理解は学者や通人にまかせておけばいい。美しいものは「好きか嫌いか」で判断すればいいのだ。

ましてや幼な子は作品の意味や哲学や意図等々に思いを寄せる必要はない。美しいものに接して喜ぶ周囲の人々の呼吸と共に、展示物の「輝き」を心に刷り込めばいいのだ。

三つ子の魂百まで、とは幼児の性格のことをいう諺だが、優れた芸術品に接触した幼な子の体験は、「魂に深く染み込む思い出」となりやすいのではないか、と彼らのいちずな瞳を見て思った。

記憶は心中に沈殿、蓄積し、やがて発酵して、将来どこかで独創力となり花開くのではないか。あるいは少なくとも花開く一助になるのではないか。

イラスト幼児+先生200pic小学校にも上がらないほどの幼い時分に美術展を巡り、鑑賞する子供たちの中からは、次の作家が多く生まれる可能性が高まるに違いない。

芸術の国イタリアには、美術館や博物館が「無数に」という言葉を使いたくなるほど多くある。僕はドキュメンタリー番組の仕事でそこをよく訪ね、いろいろな場所で課外学習や鑑賞ツアーの学生集団に出会った。

その度に優れた芸術作品に容易に接近できる彼らの幸運をうらやましく思った。彼らの中からは、繰り返しになるが、次代の芸術家が生まれ易くなる。芸術品の宝庫であるイタリアは、未来の芸術家の宝庫でもあるのだ。

そうはいうものの、しかし、北斎展で出会った子供たちの幼さは格別だった。僕はそこに独創的と賞賛されるこの国の底力の一つを見みたような気がして、素直に「すごいなぁ」つぶやいた。同時に、ため息も出た。

次代を担う日本の子供たちを思ったのだ。彼らには北斎展で出会ったイタリアの子供たちのような幸運はあるのだろうか、と自問した。きっとあるのだろう。しかし、なぜか受験勉強に忙殺される子供の姿ばかりが頭に浮かんで、僕は再びため息をついたのだった。


ヤ~ッホーッ! きっせのさとおおおおおおお~!!!!


可愛い丸顔


稀勢の里がついに優勝した。本物の優勝だ。つまりマグレではなく、実力での優勝ということだ。

稀勢の里はここ数年横綱を目指しても全くおかしくない成績を上げ続けてきた。昨年は年間最多勝のタイトルまで掴んだ。

ところが初優勝は彼の朋輩大関、琴奨菊と豪栄道に先を越され、彼自身はもう一歩のところで優勝を逃し、従って横綱昇進もままならずに来た。精神力の弱さも指摘されつづけた。

めぐり合わせの不運を怖れる人々も出始めていた、僕もその1人だ。今場所も前半、3横綱と若手の台頭の影に隠れて話題にならないまま勝ち星を積み重ねる彼を、僕は「見て見ぬ振り」で見続けていた。

ブログ記事にも書かなかった。ゲンを担いだのだ。僕が期待したり、表立って期待を口にしたりすると、彼はコケることが多かったからだ。

初場所14日目、つまり昨日、稀勢の里が逸ノ城を破って白鵬の取り組みを待つ場面では、僕は「どうせ白鵬が勝って明日千秋楽の本割で稀勢の里を転がし、優勝決定戦に持ち込んでノミの心臓の稀勢の里は自滅・・」というシナリオを勝手に胸中で描いて諦めていた。

だがそれは本当の諦めではなく、悪く考えることで逆の結果を待ち望む、僕のもう一つのひそかなゲン担ぎだったのだ。

強い力士が好きな、大相撲ファンの僕のその時の本心は、「白鵬が勝って千秋楽で稀勢の里と優勝を賭けて激突。そこで稀勢の里が大横綱を気迫で破って
14勝1敗で初優勝」というシナリオだった。

なぜ14日目で白鵬が負けて稀勢の里の優勝決定、というシナリオを望まなかったのかというと、千秋楽で白鵬を倒すことで稀勢の里に箔をつけてほしかったからだ。

そうすることでノミの心臓と揶揄される気力の弱さを克服し、同時に真に強い力士として認められて初優勝。そして即横綱昇進も決める、という形のほうが今後の彼のためにいい、と考えたからだ。

ところが白鵬は、初顔合わせだった平幕の貴ノ岩に敗れて、千秋楽を待たずに稀勢の里の優勝が決まった。

仕方がない。こうなったら千秋楽で必ず白鵬を蹴散らして、優勝に花を添えて横綱へ昇進となってほしい、とその時はその時でまた思った。

同時に不安が僕の中に芽生えた。もしも千秋楽で白鵬に勝てなかった場合、相撲協会はそこにケチをつけて「もう一場所様子を見たい」とかなんとかの、相撲協会得意の思わせぶりを発揮して、彼の横綱昇進を見送るのではないか、と考えたのだ。

そこで僕は昨晩急いでブログ記事を書き始めた。その内容は次の通りだ。

白鵬に負けても稀勢の里は横綱に推挙されるべきだ。これは僕が日本人横綱を見たいからではなく、また稀勢の里が日本人だからという意味でも断じてない。彼が横綱にふさわしい力量を備えていると客観的に見て思うからだ。

そのことはここ数年の彼の成績を見れば分かることだ。彼はほぼ常に安定した成績を残し、休場もなく、ひんぱんに優勝争いにも加わっている。

幕内優勝次点の成績を過去に何度も収め、前述したように昨年は年間最多勝も獲得した。優勝回数ゼロの力士が年間最多勝のタイトルを獲得したのは大相撲史上初めての快挙だ。

稀勢の里が「めぐり合わせの悪さ故に横綱になれない」ということではマズい。そんなことになったら、幕内最高優勝を5回も果たしながら横綱になれなかった、あの魁皇の悲劇を繰り返すことになる。

横綱でも5回の優勝を成し遂げるのは至難の技だ。比較的最近の歴史を見ても、魁皇と同じ優勝回数5回の横綱は柏戸と琴櫻。また彼以下の優勝回数しかない横綱は、優勝回数4回が若乃花 (2代目)、隆の里、旭富士。3回が三重ノ海と鶴竜。以下大乃国と双羽黒だ。

稀勢の里は、5回もの優勝を果たしながら横綱になれなかった、魁皇に匹敵する強い大関だ。それは前述の幕内優勝次点の成績の多さ、昨年の年間最多勝、また大関としての勝率ダントツ一位(勝率.714 )などの実績を見ても明らかだ。

稀勢の里は十分に横綱に推挙されて然るべき力量を持っている。繰り返すが、彼が横綱に昇進してほしいというのは私的願望ではなく---いや私的願望ももちろんあるが---大相撲の現状に鑑みて極めて妥当なことだと考えるからである。

幸い、そのブログ記事をアップする前に、稀勢の里は千秋楽に白鵬を倒して優勝に花を添えた。同時に横綱昇進も確実なものにした。やっほう~。

いや~メデタイな~、ホントに!!!!!


トランプのトランプによるトランプのための民主主義


トランプ宣誓400pic


トランプ新大統領の就任式の一部始終を衛星生中継で見た。多くの民主党議員が出席をボイコットした異変と、会場外で抗議デモが燃え盛った点などを別にすれば、式次第は通常のものだった

しかしながら、トランプ氏自身の就任演説は、彼の選挙キャンペーンと同じく、人々の分断を助長する可能性が高い、という意味で警戒しなければならない残念な内容だった。

彼は就任演説で「アメリカ・ファースト(第一)」と叫び、アメリカをアメリカ国民のために取り戻す、と宣言した。選挙公約を実行した形だ。自国の利益を優先させることは一国の指導者の当たり前の姿勢だ。それ自体は悪くない。

だがその宣言の真意は、彼の率いる米国が、世界のことは斟酌せずに自国の利益のみを追求し、且つ「他国には厳しい金持ち国家を目指す」というものである。世界に冠たるリーダー国にはふさわしくない寂しい主張だ。

トランプ氏は就任前からツイッターで個別の企業を名指しで脅した。結果、いくつかの企業が恐れをなして彼の思惑通りの「アメリカ・ファースト(第一)」を実践し、国内に雇用を生み出すための投資を行うと発表した。

世界最大・最強の権力、米大統領職の威光を利用しての恫喝が功を奏した形だ。彼の手法は一時的には好結果をもたらすように見える。が、長い目で見れば破滅だ。それは恐怖政治にほかならないからだ。

アメリカ国民がひたすら自国の経済効率ばかりを追い求め、自らの国と世界政治に望む「彼らの理想」と「建国の精神」を忘れて、新大統領に唯々諾々と従うならば、アメリカはもはやアメリカではない。

理念や哲学のない、従って品格のないアメリカなら、米国はただの成金国家であり戦争屋であり尊大で危険な帝国に過ぎない。換言すれば、トランプ大統領が目指す米国は尊敬するに値しない。

企業経営の論法で国家を運営しようとするのは間違いだ。特にその首謀者自身が優秀な企業家である場合はなおさらである。利益相反が生じるからだ。

首謀者らは決まってそのことを否定する。だが経済、つまり金の計算のみで国を操縦しようとする彼らの立場自体が、利益追求に狂奔するだけの事業家のものだから、ヒトと同じく理想や良心や品格も希求するまともな国家のあり様とは矛盾する。

新大統領の本性はただの商売人なのだ。商売人は商売だけをしている限り何も問題はない。また一国の経済をうまく動かすことももちろん重要である。国家経営の手腕を最も問われる能力の一つだ。だがそれだけではダメなのだ。経済力と共に理念や道心も示してこそ、理想的な国家の設計図が完成する。

トランプ大統領は、ここイタリアのベルルスコーニ元首相を反面教師とするべきだ。事業家の元首相はビジネスと同じやり方で国家の舵取りをしようとした。が、私利私欲に走って破綻した。トランプ大統領はその轍を踏まないようにするべきだ。

トランプ大統領には、選挙戦中に指摘され続けたように、品格がまるでないことが大統領就任式であらためて明らかになった。ここでいう品格とは、彼のような億万長者から貧しい者にまで等しく備わっているはずの、「他者を思いやる」心のことだ。

彼は選挙期間中から執拗に他者への攻撃を繰り返してきた。不寛容と憎しみと差別をあおってきた。だがそれは厳しい選挙戦を戦い抜くための方便ではないか、と多くの人が考えたがった。僕もその1人だ。

正直に言おう。トランプ次期大統領は、就任式でそれまでの無残な醜貌をかなぐり捨てて、世界から尊敬される米大統領の品格の片影をみせるのではないか、と僕はひそかに期待した。全ては裏切られた。トランプ氏はやはりトランプ氏でしかなかった。

彼は選挙戦の攻撃の仕上げとして、冒頭で述べた「アメリカ・ファースト(第一)」のスローガンを盾に、彼の政権は事業家である大統領個人がそうであり続けたように、アメリカの利益のみをひたすら追求する、と言い放ったのである。

それでも僕は、一点だけトランプ大統領の就任演説の内容に共感を覚えた。それはイスラム過激派を殲滅する、という彼の宣言だ。そのことについてもここに明記しておきたい。

彼がイスラム教徒ではなく、あくまでも「イスラム過激派」を目の敵にすることには賛成だ。しかし、それとて全面的に賛成できないのが、トランプ氏の異様な「トランプ主義」なのである。

というのも彼は、イスラム過激派の構成員と共に「彼らの家族」も殺害する、と公言してはばからない。それはトランプ氏の狂気振りを示して余りある、不気味な発想だ。テロリストと彼らの家族は別の存在だ。家族には何の罪もない。むしろ家族は被害者である可能性の方が高い。

トランプ氏が犯罪者と家族は同罪だと言い張るのなら、僕は彼にこう聞きたい。「あなたは女性を性的に虐待したと選挙期間中に糾弾されたが、もしもその告発が事実だと証明されてあなたが有罪になった場合、あなたは自身の妻や子供たちにも罪がある、と考えるのですか」と。

言うまでもなく、トランプ氏の罪と家族は関係がない。テロリストも同じだ。彼らの家族まで殲滅するというのは、狂気にも等しいおぞましい考えだ。だがその狂気をもたらす、彼の思想信条らしいものの正体は、もっとさらにおぞましいものだ。

なぜ彼は犯罪者の家族まで罪人に仕立て上げたいのか?それは例えば、敢えて日本の過去の歴史を遡って考えてみれば明らかになる。つまり、中国大陸から伝来して秀吉の統治法に組み込まれた5人組制度が、精神的呪縛となって国中に生き続け、やがて大戦中の隣組制度にまで受け継がれた「連帯責任」思想と同じものなのだ。

中国古代の人権無視、自由抑圧の野蛮な未開思想が、封建社会の日本に受け継がれて権力者に利用されたのは、世界各地でも同様なことが起こったことからも分かる通り、いわば歴史の必然だった。従ってそのこと自体はもちろん責められるべき事案ではない。

日本と世界は戦争や破壊を繰り返しながらも、その後は少しづつ進歩して暗黒の時代から抜け出した。未開思想を無くし克服しようとする意思に支えられて、今もさらに進化を続けている。トランプ氏はそのポジティブな歴史の流れに真っ向から逆らっている。

1人のあるいは一部の集団の責任を全体に押し付けて、これを抹殺しようとするのは未開人の発想だ。まさにISなどのイスラム過激派の思想とそっくり同じなのだ。第45代米国大統領は、そんな過激思想を隠そうともしないまま、超大国の舵取りを始めてしまった・・

ミラノ北斎展~広重と自我と日本人



北斎展入り口縦400pic
北斎展入り口


昨年9月からイタリア・ミラノで大きな北斎展が開かれている。12月の初めにそれを見に行った。

ミラノでは1999年に大規模な北斎展が行われて以来、かなり頻繁に江戸浮世絵版画展が開かれていて、浮世絵への理解と関心が高いとされている。

展覧会では葛飾北斎のほかに歌川(安藤)広重と喜多川歌麿の作品も展示されていた。合計の展示数は200余り。僕は3巨匠の作品がこれだけの規模で一堂に会した展覧会を見るのは初めてだった。

展示作品は全て素晴らしかったが、僕は今回は特に、北斎の風景画3シリーズ「富嶽三十六景」「諸国滝廻り」「諸国名橋奇覧」と、広重の「東海道五十三次」が並ぶように展示されているのがひどく面白かった。

北斎と広重をほぼ同時並行に鑑賞しながらあらためて感じたことがる。それは広重をはるかに凌駕する北斎の力量だ。北斎はドライで造形的、広重は叙情的で湿っぽい、とよく言われるが、僕は北斎は精密とダイナミズムで広重に勝り、人物造形でも広重より現代的だと感じた。

作品群の圧倒的な美しさに酔いしれながら、僕は人の顔の描写にも強く気を引かれた。北斎は遠くに見える小さな人物の顔の造作も丁寧に描いているが、広重はほとんどそこには興味を抱いていない。そのために描き方も雑で、まるで子供が描く「へのへのもへじ」と同じレベルにさえ見える。

多くの絵で確認できるが、特に人物が多数描かれているケースでそれは顕著である。例えば「嶋田・大井川」の川越人足の顔は、ほとんど全員が同じ造作で描かれている。子供の落書きじみた文字遊戯の顔のほうが、まだ個性的に見えるほどの、淡白な描き方なのである。

東海道五十三次は全て遠景、つまり引きの絵である。大写しあるいはクローズアップの絵は一枚もない。そこでは人物は常に景観の一部として描かれる。これは当たり前のようだが、実は少しも当たり前ではない。そこには日本的精神風土の真髄が塗り込まれているのだ。

つまり、人間は大いなる自然の一部に過ぎない、という日本人にとってはごく当たり前のコンセプトが、当たり前に提示されている。そこでは、個性や自我というものは、自然の中に溶け込んで形がなくなる。あるいは形がなくなると考えられるほどに自然と一体になる。

その流れで個性や自我の発現機能であるヒトの表情は無意味になり、その結果が広重の人物の表情の「どうでもよい」感満載の表現だと思う。のっぺらぼうより少しましなだけの、「へのへのもへじ」程度の顔の造作を「とりあえず」描き付けたのが、広重の遠景の人物の表情なのだ。

それらの顔の造作は「東海道五十三次画」全体の精密と緊張、考究され尽くされた構成、躍動感を捉えて描き付けた動きや構図、等々に比べると呆気ないほどに粗略で拙い。作品の隅々にまで用いられた精緻な技法は、人物の表情には適応されていないのだ。

厳密な意味では北斎の表情の描き方も広重と大差はない。が、北斎は恐らく画家としての高い力量からくる自恃と精密へのこだわりから、これを無視しないで表情を描き加えている。だがそれとて自我の反映としての表情、つまり感情の露出した顔としてではなく、単なる描画テクニック上の必要性から描き加えたもの、というふうに僕には見える。

従って、広重よりはましとはいうものの、北斎もやはり人物の顔の描写をそれほど重視してはいない。たとえば彼の漫画などの人物の表情の豊かさに比べたら、たとえ遠景の人物の表情とはいえ、どう見ても驚くほどにシンプルだ。表情の描写には、彼の作者としての熱意や思い入れ、といった精神性がほとんど見られないのである。僕はそこに近代精神の要である“自我”の欠落のようなものを発見して、一人でちょっと面白がった。

私という個人の自我意識によって世界を見、判断して、人生を切り開いていく、という現代人の我々にとって当然過ぎるほど当然の価値観は、西洋近代哲学の巨人デカルトが“我思う、故に我あり”というシンプルな命題に託して、それまでの支配観念であった「スコラ哲学」の縛りを破壊した“近代的自我”の確立によって初めて可能になった。

スコラ哲学支配下の西洋社会では、「個人」と「個人の所属する集団と宗教」は『不可分のもの』であり、そこから独立した個人の存在はあり得なかった。デカルトが発見した“近代的自我”がそのくび木を外し、コペルニクス的転回ともいえる価値観の変化をもたらした。自我の確立によって、西洋は中世的価値観から抜け出し、近代に足を踏み入れたのである。

日本は明治維新以降の西洋文明習得に伴って、遅ればせながら「自我の意識」も学習し、封建社会の精神風土とムラ社会メンタリティーに執拗に悩まされながらも、どうにか西洋と同じ近代化の道を進んできた。欧米を手本にして進み始めて以降の精神世界の変化は、政治・経済はもとより国民の生活スタイルや行動様式など、あらゆる局面で日本と日本人を強く規定している。

しかし、西洋が自らの身を削り、苦悶し、過去の亡霊や因習と戦い続けてようやく獲得した“近代的自我”と、それを模倣した日本的自我の間には越えられない壁がある。模倣は所詮模倣に過ぎないのだ。それは自我と密接に結びついている、個人主義という語にまつわる次の一点を考察するだけでも十分に証明ができるように思う。

個人主義という言葉は日本では利己主義とほぼ同じ意味であり、それをポジティブな文脈の中で使う場合には、たとえば「いい意味での個人主義」のように枕詞を添えて説明しなければならない。その事実ひとつを見ても、日本的自我はデカルトの発見した西洋近代の自我とそっくり同じものではないことが分かる。デカルトの自我が確立した世界では、「個人主義」は徹頭徹尾ポジティブな概念である。「いい意味での~」などと枕詞を付ける必要はないのだ。

自我の確立を遅らせている、あるいは自我を別物に作り変えている日本的な大きな要素の一つが、多様性の欠落である。「単一民族」という極く最近認識された歴史の虚妄に支配されている日本的メンタリティーの中では、他者と違う考えや行動様式を取ることは、21世紀の現在でさえ依然として難しく、人々は右へ倣えの行動様式を取ることが多い。

それは集団での活動をし易くし、集団での活動がし易い故に人々は常にそうした動きを好み、結果、画一的な社会がより先鋭化してさらなる画一化が進む。そこでは「赤信号も皆で渡れば怖くなく」なり「ヘイトスピーチや行動もつるんで拡大」しやすくなる。その上に多様性が欠落しているためにそれらの流れに待ったをかける力が弱く、社会の排外志向と不寛容性がさらに拡大するという悪循環になる。

多様性の欠落は「集団の力」を醸成するが、力を得たその集団の暴走も誘発し、且つ、前述したように、まさに多様性の貧困故にそれを抑える反対勢力が発生し難く、暴走が暴走を呼ぶ事態に陥って一気に破滅にまで進む。その典型例が太平洋戦争に突き進んだ日本の過去の姿だ。

江戸時代の北斎や広重にはもちろん近代的な自我の確立はなかった。しかし、彼らは優れた芸術家だった。芸術家としての誇りや矜持や哲学や思想があったはずだ。つまり芸術家の「独創を生み出す個性」である。それは近代的自我に酷似した個人の自由意識であり、冒険心であり、独立心であり、批判精神である。

しかし、社会通念から乖離した個性、あるいは“近代的自我”に似た自由な精神を謳歌していた彼らでさえ、自らの作品の人物に「個性」を付与する顔の造作には無頓着だった。僕は日本を代表する2人の芸術家が提示した美の中に、“近代的自我”を夢見たことさえないかつての日本の天真爛漫の片鱗を垣間見て、くり返しため息をついたり面白がったりしたのである。

イタリアの紅白歌合戦「サンレモ音楽祭」の陳腐な凄さ


紅白歌合戦に言及したついでに、僕が勝手に「イタリアの紅白歌合戦」と呼んでいるサンレモ音楽祭についても少し触れておくことにした。

紅白歌合戦とサンレモ音楽祭には多くの共通点がある。両者ともに公共放送が力を入れる歌番組で、60年以上の歴史を誇る超長寿番組である。

どちらも1951年のスタート(NHKは1945年開始という説も成り立つ)。当初はNHK、RAI共にラジオでの放送だったが、NHKは1953年から又RAIは1955年からテレビ番組となった。

国民的番組の両者は、近年はマンネリ化が進んで視聴率も下がり気味だが、依然として通常番組を凌ぐ人気を維持。また付記すると、最近のRAIの番組の視聴率はNHKのそれよりも高い傾向にある。

両者ともにほとんど毎年番組の改革を試みて、たいてい不調に終わるが、不調に終わるそのこと自体が話題になってまた寿命が延びる、というような稀有な現象も起こる。

その稀有な現象自体が実は両番組の存在の大きさを如実に示している。先月の紅白歌合戦は大改革を試みて失敗した(と僕は思う)が、来月7日から始まるサンレモ音楽祭はどうだろうか。

2者はまた似て非なるものの典型でもある。両陣営は相似よりも実は差異のほうがはるかに大きい。

紅白歌合戦は既存の歌を提供する番組。一方サンレモ音楽祭は新曲を提供する。あるいは前者は歌を消費するが後者は歌を創造する。サンレモ音楽祭は音楽コンテストだからだ。

紅白歌合戦がほぼ100%日本国内のイベントであるのに大して、サンレモ音楽祭は国際的な広がりも持つ。つまり、そこでの優勝曲はグラミー賞受賞のほか、しばしば国際的なヒット曲にもなってきた。

古い名前だが、例えばジリオラ・チンクエッティの音楽祭での優勝曲は国際的にもヒットしたし、割と新しい歌手ではアンドレア・ボッチェッリなどの歌もある。個人的には1991年の大賞歌手リカルド・コッチャンテなども面白いと思う。

またサンレモ音楽祭は、欧州全体を股にかけたヨーロッパ最大の音楽番組「ユーロ・ビジョン・ソング・コンテスト」のモデルになるなど、特に欧州での知名度が高い。同時に世界的にも名を知られている。

周知のように紅白歌合戦は大晦日の一回のみの放送だが、サンレモ音楽祭は5日間にも渡って放送される。しかも一回の放送が4時間も続く。つまり紅白歌合戦が5日連続で電波に乗るようなものだ。

好きな人にはたまらないだろうが、僕などはサンレモ音楽祭のこの放送時間の膨大にウンザリするほうだ。しかも番組は毎晩夜中過ぎまで続く。宵っ張りの多いイタリアではそれでも問題にならない。

僕は紅白歌合戦とサンレモ音楽祭の根強い人気とスタッフの努力に敬意を表している。が、紅白歌合戦は日本との時差をものともせずに衛星生中継で毎年見ているものの、サンレモ音楽祭はそれほどでもない。

その大きな理由は、毎日ほぼ4時間に渡って5日間も放送される時間の長さに溜息が出るからだ。しかも翌日にまで及ぶ時間帯に対する疲労感も決して小さくない。

もう一つ僕にとっては重大な理由がある。そこで披露される歌の単調さである。カンツォーネはいわば日本の演歌だ。どれこれも似通っている。そこが時には恐ろしく退屈だ。

もちろんいい歌もある。優勝曲はさすがにどれもこれも面白いものが多い。ところがそこに至るまでの選考過程が長すぎると感じるのだ。

演歌は陳腐なメロディーに陳腐な歌詞が乗って、陳腐な歌い方の歌手が陳腐に歌うところに救いようのない退屈が作り出される場合も多い。カンツォーネも同じだ。

誤解のないように言っておきたいが、僕は演歌もカンツォーネも好きである。いや、良い演歌や良いカンツォーネが好きである。ロックもジャズもポップスも同様だ。あらゆるジャンルの歌が好きなのである。

しかし、つまらないものはすべてのジャンルを超えて、あるいはすべてのジャンルにまたがってつまらない。優れた歌は毎日毎日その辺に転がっているものではない。99%の陳腐があって1%の面白い曲がある。

サンレモ音楽祭も例外ではない。毎日4時間Ⅹ5日間、20時間にも渡って放送される番組のうちの大半が歌で埋まる。だがその90%以上は似たような歌がえんえんと続く印象で、僕にはほとんど苦痛だ。

それでもサンレモ音楽祭はりっぱに生き延びている。批判や罵倒を受けながらも多くの視聴者の支持を得ている。それは凄いことだ。僕は一視聴者としては熱心な支持者ではないが、同じテレビ屋としてサンレモ音楽祭の制作スタッフを尊敬する。

創作とは何はともあれ、「作るが勝ち」の世界だ。番組のアイデアや企画は、制作に入る前の段階で消えて行き、実際には作られないケースが圧倒的に多いからだ。一度形になった番組は、制作者にとってはそれだけで成功なのだ。

そのうえでもしも番組が長く続くなら、スタッフにとってはさらなる勝利だ。なぜなら番組が続くとは、視聴率的な成功にほかならないからだ。サンレモ音楽祭も紅白歌合戦も、その意味では連戦連勝のとてつもない番組なのである。






続: 紅白歌合戦は大丈夫?


紅白歌合戦を批判した前記事に対しては、「仲宗根さんは紅白が嫌いなんですね、悲しいです」という便りもいただいた。読者の方からのコメントは、いつもとても勉強になる。勉強にならなくても示唆に富んでいて、考えるヒントになることが多い。何よりもコメントを下さるということは、僕の下手クソな文章をその方なりにきちんと読んでくれた証拠だから、いつも有難く嬉しい。

しかし「紅白歌合戦が嫌いなんですね」というコメント内容にはちょっと参った。嫌いどころか、僕は紅白歌合戦は好きだからだ。そのことは記事の中でも「~紅白歌合戦は衛星放送で毎年見ている 」「番組の支持者の僕が~」などの表現を筆頭に、論考の随所に示した積もりだった。

2016年の紅白歌合戦に関する僕の批判は、視聴者としてよりも、テレビ番組を作るプロのテレビ屋の立場からの批評だった。それでいながら、あたかも
「視聴者の立場からの不満」でもあるような書き方もしてしまったようだ。そこは撤回させていただくと同時にお許しを請いたい。

ここで前記事の批判を一言にまとめれば、要するに「良いアイデアが時間や制作費などの首木のせいできちんと実現されていない。それを知りながら、僕の見解では「知らない振り」で、あるいは「視聴者は気づかないだろう」という、見方によっては思い上がりとも取られかねない心で、「番組を構成し実践した過誤」ということだ。

要するに演出スタッフは、彼らが思いついたすばらしいアイデアである「ゴジラを(紅白歌合戦の)歌で退治する」というコンセプトを、バカになって子供のように純粋に、明るく楽しくバカバカしく提供することができなかった。つまり、繰り返しになるが、「バカになり切れていなかった」ということだ。

また、タモリ&マツコは、そこに「置物」として置いておいても面白いマツコを、タモリと共に「ブラタモリ」させることで受けを狙ったものの、恐らくリハーサルに多くを割けなかった時間の制約と、「一体何を見せたいのだろう?」と最後まで疑問が残った、設定の根本的な誤りでコケた。

ブラタモリは歩いて色々なことを「発見」するのに、コウハクタモリは番組の外で「迷子」になった。それは2人が紅白会場に入れなかったという設定のことではなく、シークエンスの全体が場違いで、木に竹を継いだ形の深刻な構成上の失敗、という意味だ。換言すれば台本が熟(こな)れていなかった。

あれこれといいたいことを言ってきたが、何事につけ実際に制作をすることと批評は別物だ。テレビでも文章でも映画でも、あらゆる創作は難しい。それを批評するのは、引退した平幕力士が横綱大関の相撲を上から目線で解説するのに似て、ちょっと悲しく滑稽でもある。

大相撲の解説者よりは現役力士のほうが大変だ。テレビ番組の批評家よりは制作現場のスタッフのほうが苦しい。現実に作っているからだ。そしてあらゆる創作は「作った者の勝ち」、というのが実際に制作現場に立ってきた僕の実感だ。

批評家がいなくても制作者は存在できるが、制作する者がいなければ批評家は生きていけない。批評する対象がないからだ。そういう意味では批評家ほど軽い悲しい存在はない。しかし、批評家はまた、制作者を褒めたりけなしたりすることで創作を鼓舞する、創作周りの重要な「創作構成要素」でもあり得る。

僕は紅白歌合戦という大番組が、毎回毎回懸命に進化を試みる姿に頭が下がる思いでいる。2016年は特に懸命さが際立っていた。テレビに関しては、僕は実作者で批評家ではないが、微力且つ僭越ながらあるいは次の進化の試みに資するかもしれない、と考え批評じみたものを書いてみた。

ここからは僕が紅白歌合戦を好きな証拠を挙げて、冒頭の読者の方の疑問に応えたい。

マンネリといわれる紅白歌合戦は、僕にとっては実はいつも新しい部分がある。つまり日本の今の音楽シーンに疎い僕は、大晦日の紅白歌合戦を見て今年のヒット曲や流行歌を知る、ということが多いのだ。例えば先日の紅白歌合戦では、混成(?)AKB48やRADIO FISHや桐谷健太などを初めて知った。

その流れでいえば、過去にはPerfume、いきものがかり、ゴルデンボンバー、きゃりーぱみゅぱみゅ、斉藤和義なども紅白歌合戦で初めて見て、「ほう、いいね」と思い、それ以後も機会があると気をつけて見たり聞いたりしたくなるアーティストになった。

数年前はこんなこともあった。たまたま録画しておいた紅白での斉藤和義「やさしくなりたい」を、僕の2人の息子(ほぼ100%イタリア人だが日本人でもある)に見せた。すると日本の歌にはほとんど興味のない2人が聞く先から「すごい」と感心し、イタリア人の妻も「面白い」と喜んだ。それもこれも紅白歌合戦のおかげだ。

また、懐メロという言葉はもはや死語かもしれないが、かつてのヒット曲や歌い手をあらためて見、聞くというのも疑いようのない紅白の楽しみの一つだ。極めて個人的なことをいえば、若いころはほとんど興味がなかった演歌の良さを知ったのも、僕の場合は紅白歌合戦だ。

先日の紅白歌合戦でも歌の部分は例年通りに楽しんだ。好きな歌はじっくり聴き、そうでもない場合は流して眺めた。何事もないいつも通りの年末なら一杯やりながら紅白を楽しみ、ゆく年くる年を見て一年を終える、という陳腐なパターンが僕の大晦日の習わしでもある。実に日本的なのだ。

世界各国の日本人移民の間には、日本の伝統や文化が日本以上によく残っていることが多い。故国日本への思慕が深いからだ。紅白を楽しむ僕の中にも、そんな移民メンタリティーが育ちつつあるのかもしれない。だから紅白の“新しい試み”だった「ゴジラ企画」と「タモリ&マツコ」に違和感を覚えたのかも、とも考える。



グワンバレNHK~でも紅白歌合戦は大丈夫?


2016年大晦日、朝の11時過ぎから日本と同時放送のNHK紅白歌合戦を見た。日本と8時間の時差があるイタリアでは、衛星を介しての生中継はそんな時間になるのだ。

見ている途中も、見終わってからも、「紅白歌合戦、大丈夫?」と思った。

僕は紅白歌合戦をよくイタリアの「サンレモ音楽祭」に重ね合わせて見る。2者はマンネリ感と時代遅れ感がよく似ていて、視聴率も下がり気味だが、依然として決して無視できない人気を保っている。

また僕は両者をそれなりに評価していて、サンレモ音楽祭はあまり見ないものの紅白歌合戦は衛星放送で毎年見ている。でも、NHK大丈夫?と心配になったのは今回が初めてだ。

番組の支持者の僕が不安になったということは、それを強烈に支持した人もまたきっと多かったに違いない。そこに期待しつつ、圧倒的にネガティブな感想を持った自分の意見を書いておくことにした。

僕は「シン・ゴジラ企画」と「タモリ&マツコ」の2要素がひどく気になった。特にゴジラのシークエンスでは僕の頭の中に「?」マークが幾つも点灯した。作っているスタッフが、その場面を信じていない、あるいは愛していない、と感じたのだ。

紅白歌合戦はエンターテイメントなのだから、バカになるなら真剣にバカになるべきだ。あるいはスペクタクルを目指すなら、批判を覚悟で制作費をどんと使って大イベントを演出するべきだ。成功すれば批判は必ず賞賛に変わるのだから。

ゴジラのエピソードにはそのどちらもなかった。スタッフは真剣ではなく、制作費もお粗末なものであろうことが分かった。

スタッフは、もちろんプロとして真剣に仕事をした。だが彼らはゴジラが渋谷に向かって進攻していて、歌でやっつけることができる、というコンセプトを信じてなどいなかった。つまり本気でバカになり切っていなかった。だからその部分では真剣ではなかった。

そのためにゴジラの場面はアイデアだけが先走って、出てきたものはアマチュアの演劇並みの稚拙なシーンの連なりになった。言い換えれば「クサイ話」になった。視聴者はたぶん僕と同じく「?」マークを覚えながら、NHKがやることだから理解できない自分が悪いのだろう、と思って目をつぶったのではないか。

何もかもが中途半端で、結果、みすぼらしくなった。演出スタッフに「照れ」があり「気取り」があるのが最大の失敗だった。言葉を変えれば演出スタッフ(特にディレクターとその周りのプロデュサー)は、荒唐無稽な話を荒唐無稽な話、と意識したままエピソードを作っていた。

あるいは(こんなバカ話は実は俺たちは信じていない)という思いがありありと出ていた。制作者自身が信じていない話を、視聴者が信じるわけがない。しかしポイントは視聴者がその内容を信じることではなく、「制作者がバカ話を真剣にバカになって作っている」と視聴者が感じるかどうかだ。

制作者がバカ話を真剣に捉えて、誠心誠意、気持ちを込めて真剣に作っていることが分かれば視聴者は納得し、面白がり、心を揺さぶられる。バカ話であればあるほどスタッフは「真剣にバカになる」必要がある。バカ話をふざけた軽い気持ちで作ってはならないのだ。

つまり、「すばらしい歌を聴くとゴジラは死ぬ(ゴジラのパワーがなくなる)」というコンセプトをスタッフは、特に演出家は、腹から信じて真剣に作らなければ道半ばになって失敗する。ゴジラが歌で破壊される、というアイデアが信じられないなら演出をするべきではない。信じなければうまく演出ができないからだ。

スタッフの「照れ」はなかったが、「タモリとマツコ」も制作コンセプトが徹底しない大失策だったと思う。面白くしたい、という作り手の強い思いは十分に伝わってきた。同時に「どうだ面白いだろう」という彼らのドヤ顔もそこに見えるようでシラけた。

それらのシーンは恐らく、打ち合わせやリハーサルの段階では面白かったのだろう。タモリとマツコのやり取りに、もしかすると、出演者も制作スタッフも結構笑ったのではないか。それで彼らは自信をもってあの恐ろしくも退屈で、場違いで、未成熟なシーンを電波に乗せてしまった。

下手くそなディレクターである僕の、大して多くもない似たような演出の体験から言わせてもらえば、制作現場でスタッフが笑い転げるコメディーのシーンは、実際に電波に乗るとたいていコケる。スタッフが楽しんでしまって視聴者が見えなくなるのだ。視聴者を笑わせたり楽しませたいなら、スタッフは現場で笑ったり楽しんではならない。苦しむべきだ。制作の真剣とはそういうことだ。

NHKの優秀なスタッフがそのことを知らない筈はない。だが彼らは見事にその落とし穴にはまったようだ。スタッフは、あるいは現場で、タモリのカリスマ性に催眠状態にさせられたのだろうか。そうでもなけれなあれだけつまらないシーンやエピソードが、あれだけ自信たっぷりに放送されるわけがない、と感じた。

念のために言っておくが僕はNHKのファンである。ファンとはプロのテレビ屋としても、また一視聴者としても、という意味である。僕は下手くそなディレクターながら仕事でもNHKには大いにお世話になった。

だから言うのではないが、NHKは世界の公共放送の中でも優れた番組を作る優れた放送局の一つだ。報道ドキュメンタリー系の番組は、イギリスのBBCに肉薄するものも多いと思うし、ドラマも面白い。エンターテイメントも質の良いものが多い。

一方NHKは、たとえば先ごろ退任が決まった籾井さんのようなトンでも会長がいたり、BBCとは違って政権に臆することなく物申すことができなかったり、予算の問題で批判を浴びるなど、もちろん課題も多い。しかし、例えばここイタリアの公共放送RAIなどに比べればはるかに良心的だ。

僕はRAIの民営化には賛成だが、NHKの民営化には反対の立場でさえある。RAIはドキュメンタリーや文化番組が極端に少なく、トークショーやバラエティ番組が異様に多い。また視聴者に受信料を課しながらCMもがんがん流す、といういい加減な公共放送局だ。その部分ではNHKには比ぶべくもない。

また、民放がたくさんある日本で、もう一つの民放などいらない、というのも僕がNHKの民営化に反対する理由だ。NHKは民放の持つしがらみから自由だからこそ価値がある。ある種の人々からの強い批判を覚悟で断言するが、NHKは日本の宝だ。BBCが英国の宝であるように。

そこを確認した上で言いたい。紅白歌合戦は開き直って徹底した改革ができないのなら、規模を縮小しターゲットも絞って再出発したほうが良いと思う。たとえば番組のコンセプトを若者向けか年配者向けかに決め、それに合わせて演歌や懐メロ三昧なり、ポップス系なりの歌番組に徹底するなどの方法だ。

多様性が進んだ今の時代に、「国民の大多数」によく受ける歌番組なんてある筈がない。存在しないコンセプトを追いかけて規模を無理に広げるのは苦しい。ここイタリアの紅白歌合戦、前述の「サンレモ音楽祭」も時代遅れになった。改革は失敗しつづけ、老舗番組は「ただ存続しているだけ」、というふうになった。

紅白歌合戦も、毎年姑息な「変化努力」で誤魔化すことはやめて、思い切って番組を縮小し、前述したようにターゲットを視聴者の一定層に絞り込んで出直したらどうだろうか。中途半端な改革は結局、必ず中途半端な番組しか生み出さないのだから。

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