地中海を渡ってイタリアに流入する難民・移民はとどまることを知らない。彼らの救助と救助後の面倒見に翻弄されているイタリアは、EU(欧州連合)の介入と手助けを必死に呼びかけているが、独仏をはじめとするEU各国は「イタリアに同情する」「イタリアを1人にはしない」「イタリアの痛みを分かち合う」などなど、口先ばかりの「連帯」を表明して実はほぼ無関心と言っても良い態度を貫いている。
それどころかEUの問題児のハンガリーは、同国のオルバン首相の名で「イタリアは難民排斥のために全ての港を閉鎖するべき」と呼びかけてこの国を非難した。それにはチェコ共和国、スロベニア、ポーランドの元共産主義国で今や難民・移民排斥の急先鋒の国々の代表が同調した。
イタリアには中東やアフリカからの難民・移民が押し寄せている。今年はその数は、7月末現在までに約10万人にのぼる。その数字は、海が静かな夏の間は確実に増え続けると見られている。それらの難民・移民の大半の「最終目的地」は、実は「ヨーロッパ全体」であってイタリアではない。イタリアにとどまろうとする者は少数なのだ。
つまりそれはEU各国はもちろん欧州全体の安全保障の問題である。ところがEU加盟国を始めとする欧州の大半の国と国民は、それをイタリアだけの問題とみなして、口先だけの連帯を唱えて無関心でいるのだ。それどころか先の東欧4カ国は、EUのメンバー国でありながらイタリアを避難するような声明を出すありさまである。
ハンガリーをはじめとする東欧の国々は、EUに参加はしたものの、いわゆる西側諸国に比べると経済的には弱者である。経済大国ドイツはもちろん、仏伊ほかの国々と比べても豊かさではかなわない。彼らが難民受け入れに反対するのは、経済的な負担を避けたいからである。それは理解できることだ。だがそれだけではない事情もある。
かつてソ連の庇護の下にあった東欧4カ国には、人種差別にあまり罪悪感を覚えない人々が多く住む、という説がある。そうした人々の大半は、第二次世界大戦中のドイツ人やオーストリア人などと同様にユダヤ人を虐殺したり、虐殺に手を貸したりなどしてナチスにぴたりと寄り添い協力した過去を持っている。いわゆるポグロムである。それにもかかわらず、戦後は共産主義世界に組み込まれて戦時の総括をしないままに日を過ごした。
やがてソビエト連邦が崩壊し、現在ではEU(欧州連合)の メンバー国にまでなる幸運を得ながら、先の対戦への総括がなかったために昔風の反ユダヤ主義やイスラムフォビア(嫌悪)やアジア・アフリカ差別などの心理を払拭できずにいる、というのである。もしもその説が正しいならば、難民問題は過去2千年に渡るユダヤ人迫害事案などを始めとする、欧州のもう一つの暗い歴史をあぶりだしていると言える。
ところで、難民・移民問題に関する欧州内の有りさまを見ながら、僕は何かに似ていると思い続けてきたが、イタリアに対するハンガリー主導の先日の4カ国の非難声明を見て、ようやくそれが何であるのかが分かった。要するにそれは辺野古および沖縄米軍基地を巡る日本国内の状況にそっくりなのである。
つまり日本全体の安全保障のための基地過重負担にあえぐ沖縄に、「同情」し「沖縄に寄り添い」「痛みを分かちたい」と口先ばかりの「連帯」を言う安倍政権と多くの日本国民は、欧州の大半の国とその国民に似ている。またイタリアを非難する東欧4カ国は、沖縄の反基地闘争は補助金や補償金が目当て、と誹謗中傷するネトウヨ・ヘイト系の人々に酷似している、と気づいたのである。
沖縄には同情するが、でも米軍基地は「NIMBY=Not In My Back Yard(私の裏庭には持ってこないで)」と願う人々の気持ちは理解できるものだ。欧州各国が難民の重責をイタリア一国に押し付けたがる気持ちもまた同じ。それは世界中のどこの地域のどんな事案にも当てはまる現象なのである。
だからといってその不条理を不条理のまま捨て置くのは許されない。日本国民と欧州各国は見て見ぬ振りをするのではなく、そろそろ沖縄とイタリアの負担軽減に向けて自らの身も削ることを考えるべきだ。その動きが出ないならば、沖縄とイタリアはさらに強くさらに声高に要求し闘い続けるべきだ。
なぜなら米軍基地は沖縄一県ではなく日本全体の安全保障の問題であり、地中海難民問題はイタリア一国ではなく欧州全体の同じく安全保障の問題だからである。沖縄とイタリアに生じた安全保障の綻(ほころ)びは、応力集中を引き起こしてそれぞれの地域の崩壊につながる可能性もあることに、人々はそろそろ気づくべきである。