6月からの長い夏休みの前に、学生たちがまた僕のビデオ(編集)スタジオを訪れた。今回はいつもより少ない20人あまりの学生と付き添いの教師が2人だった。
昨年9月の日本祭りの際に上映された僕の古いドキュメンタリーを見せ、他の作品をいくつか早送りで紹介した。その上で少し話をして、学生たちとQ&Aの形でディスカッションをした。
アメリカの公共放送PBSで放送された30分の番組はニューヨークで監督賞を受賞した。30年も前の古い番組を昨年蒸し返したのは、受賞を知っていた祭りのスタッフが、ぜひ上映したい、と熱心に言ってくれたからだった。
長い時間が経つとビデオの場合は特に、映像の質をはじめとして何もかもが古くなる。日進月歩どころが「光速の勢い」とでも形容したくなる進度で変わって行くのがビデオの世界だ。
その作品も例にもれない。画質や音声等の技術的要素はいうまでもなく、切り取られている街の様子や世相や環境などなど、時代の色あいの全てが古い。
ところが一点だけ古くないものがある。作品のテーマである。それは日本の伝統や習俗を追いかけながら、1人の女性の生き方を通していわゆるジェンダーギャップに焦点を当てたものだ。
30年前の日本と今の日本では女性の立場に変化がある。しかし、芯にある女性差別や男女格差はあまり変わっていない。統計がそのことを如実に物語っている。
ジュネーブに拠点を置く「世界経済フォーラム(WEF)」が毎年発表する世界の男女格差ランキングでは、日本は144カ国のうち110位以降が定番である。具体的に言えば、2016年が111位。2017年はさらに悪化して114位だった。
数字は日本が先進国の中ではダントツに男女格差が大きく、状況は欧米先進国に近づくどころか、むしろ女性差別が激しいイスラム教国などに近い、後進性著しい国であることを語っている。
伝統的な社会規範に挑んで、自立とキャリアを追い求める僕の番組の主人公の物語は、今の日本の社会にあてはめてみても、テーマという意味では少しも古くない。
古いどころかまさしく今日的なテーマだ。そのことを発見した僕は作品の上映を受諾し、30年ぶりにはじめてイタリア語版を作成したのだった。
学生たちに見せたのはその作品。作品中に見える古いコンピュターや公衆電話や駅改札の鋏入れなど、など、SNSどころか携帯電話やメールもなかった時代の映像は古色蒼然としていて、学生たちにはもしろ新鮮だったようだ。
上映が終わったあと、僕は学生たちに番組の制作秘話を披露した。それは主として日本とアメリカの文化土壌の違いにまつわるものだが、伝統社会であるイタリア人にも理解できる話だと思ったので、かいつまんで敢えて話した。その詳細は次のようなものである。
米公共放送PBSが放送した13本シリーズは、番組をシリーズ化するかどうかを決めるパイロット版(最初の1本)がコケた。
それを制作したのは、当時日本でも指折りと言われていたドキュメンタリー監督だった。スタッフを全て日本人で固めたその作品は、米国側の大いなる失笑を買った。
日本人がアメリカ向けの番組を作る、という高揚感に満ちているのは分かるが、意気込みが空回りをするばかりで、作品はきわめて冗漫で叙情的なものだった。
その叙情も詩的な叙情ではなく、彼が日本の美と考える景色や情景を独りよがりに押し付けるだけの、きわめて感傷的なものだった。
それはたとえば一企業の広告宣伝(PR映画)のようなもので、批判精神も客観的な観察も考察もない、まるで素人ビデオのような内容だった。
パイロット版が失敗するのはよくあることである。その場合にはプロデュサー側は、手直しや作り変えを要請するのが普通だ。
ところが米国側はその作品を徹頭徹尾否定して、一切のやり直しを認めなかった。それどころか監督は即座に降板させられた。
その直後に、改めてパイロット版を作らないか、と僕に打診があった。当時僕は監督としていわゆる一本立ちをしていたが、まだ若く経験も少なかった。
そんな若造に重大責任の伴うパイロット版の制作のチャンスが舞い込んだのは、僕がそのころ日本にいながら米国向けの番組を作っていたのが主な理由だと思う。
主として米ケーブルTV用の番組を作っていたが、そのころ誕生したばかりのケーブルTVは、新規のアイデアや手法やコンセプトなどに貪欲に挑戦していた。
おかげで僕のような若造にもチャンスが与えられて、僕は大いに勇んで制作にはげんだ。英国で映画作りを学んだことが役に立って、僕はそれなりの評価を得ていたと思う。
僕はパイロット版とドキュメンタリー・シリーズの監督を引き受けるにあたって2つの条件を出した。
その一つはテープを僕が回したいだけ回すこと、だった。
僕は失敗したパイロット版の中で、インタビューに答える日本人登場人物たちの朴訥さに危機感を持った。彼らの内容のない、言葉数の少ない「しゃべり」は日本人本来の寡黙さが原因である。
寡黙な人々は議論や討論をすることはおろか、自らを表現する能力も低い。それは日本人の一般的な姿だ。だが、寡黙なことが日本の文化の一つだからそれをそのまま見せればよい、というやり方では番組は成立しない。
無口な人々の姿をそのまま見せれば、そこには無内容の空白だけが存在することになる。なによりも欧米人の視聴者は、しゃべらない人々は「ばかだからしゃべらない、あるいはばかだから“しゃべれない”」という判断をする危険がある。無口は欧米では悪なのだ。
そこで僕は、インタビューの形式は取らず、登場人物たちに思いのまままにおしゃべりをしてもらうスタイルを採用することにした。僕がカメラの後ろから質問や話し合いのテーマを投げ入れて彼らがそれについて勝手にしゃべる。
彼らははじめはぎこちない対話をする。だが話すうちに気分が乗れば対話に熱がこもり始める。長く話すほどに彼らはカメラや撮影スタッフの存在も忘れて話し出す。僕はそこを狙って自然な対話を切り取って番組に組み込む手法を取った。
編集で切り捨てる前のビデオの量は膨大になった。「撮影素材が増える」とは「制作費が膨らむ」ことと同義語である。ビデオの本数はもちろん、機材のレンタル時間も増えスタッフの拘束時間も増える。
それは宿泊費や食費の増加につながり、なによりもスタッフのギャラ(人件費)も増大することを意味する。番組予算を管轄するプロデュサーにとっては死活問題なのである。だから僕はあらかじめ、「自分が回したいだけ回す」ことを承諾させたのだ。
2つ目はカメラマンを日本人ではなく米国人にすること、だった。且つ彼はできれば映画出身つまり映画撮影技術が基本にある者、という条件を出した。
そこは問題なくOKが出た。アメリカ人の彼らにとっては米国人のカメラマンのほうが安心だからである。
僕はそれまで東京で、アメリカのケーブルTV向けの番組をカメラマンを含むスタッフのほとんどを日本人で固めて制作していた。編集だけはアメリカ人スタッフを使った。日本人編集者では、速い展開の欧米式編集ができないからだった。
スタッフのうち日本人カメラマンは、共同作業の意味を履き違えて監督に意見したり監督の指示に従わなかったりする癖があった。指示に従ってもいちいち文句を垂れたりする。チーム全体で作るから、自分にも口出しの権利があると思っている。
そして何よりも、年功序列を意識していて(あるいは無意識のうちに)、若い監督をなめてかかる傾向がある。30歳そこそこの若い監督だった僕は、最低でも10歳程度は年上だったカメラマンの多くと事あるごとに衝突した。僕は長丁場のロケで彼らとムダな時間を過ごす気にはなれなかった。
また日本人カメラマンの撮影手法はほぼ全ての場合において動きが遅い。それは文化的なものに根ざしているので、カメラを振り回して動きを速くする、という泥縄式の修正では決して穴埋めできないギャップである。全てのカメラの動きには意味があるから、技術論と哲学が合体しなければうまい表現にならないのだ。
米国人カメラマンを使う大きなデメリットもあった。彼らは日本語ができない。従ってカメラを回しながら撮影対象の会話や、会話に基づく動きや状況に臨機応変に対応することができない。事実や現実を切り取ることが命の、ドキュメンタリーのカメラマンの動きとしては致命的ともいえる欠陥である。
僕はそのことを知りつつあえて挑戦した。彼らが日本語を理解できないハンディカップは、ディレクターの僕がぴたりと側について一つ一つ指示することにした。監督の指示に絶対服従が信条の彼らは、自分の意をよく受けて動いてくれることを僕はそれまでの経験で知悉していた。そしてそれは、4本の番組制作の全行程において予想通りだったことが確認された。
最後に僕がなぜ映画撮影の経験のあるカメラマンを要求したのかといえば、ビデオ撮影しか知らないカメラマン、特に欧米人のカメラマンは、テレビ的に、もっと具体的に言えば報道的に、カメラを振り回して速い展開に持ち込むことが得意で、ドキュメンタリーの撮影に必要な、時には動きをゆるめる「間に対応」した撮影が不得手であることが多いからだった。
そうやって史上初の日米合作の大型ドキュメンタリーシリーズの撮影が開始され、13本が予定通りに世に送り出された。そして僕が監督した4本の作品のうち、シリーズの冒頭を飾った「のりこの場合(The Story of Noriko)」は監督賞をもらうという余得まであったのである。
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