【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2018年08月

インスタントラーメンから見える中国の国力



出前一丁4袋800ぴc
中国製“出前一丁”


かつては日本の製品の猿まねをしただけの、臭くてまずくて多分不健康な中国製ラーメンは、今や日本のそれと見分けがつないほど品質が向上した製品も出ている。

日本製ラーメンのクォリティーをしのぐものもやがて出てくるに違いない。それとももう出ているのかもしれないが、今日現在は僕は知らない。

日本に帰国する度に、大量の本とインスタントラーメンを買い込んでイタリアに戻るのが、長い間の僕の習いである。

本は自分のため。ラーメンは家族と自分のため。息子2人も妻も日本製のインスタントラ-メンが好きである。イタリア人友人らに贈ることもある。

毎回100食以上を持ち込むが、けっこう早く食べ切ってしまう。そういうときに中国で生産されてアメリカ経由でイタリアに入る(らしい)日本製品を買うことも過去にはあった。

どういう仕組みなのか、味噌ラーメンなどの日本オリジナルのものも中国製という触れ込みで出回っていた。ところがこれがほとんど偽物といってもよい品で臭いがきつい。

ラーメンを固める油が劣悪であるのが原因らしい。だが乾燥具材や粉末スープは日本で買うものと変わらなかった。

そこで 揚げ麺だけを別に茹でて水を捨てる方法で臭いを消し、別の鍋で乾燥具材と粉末スープと共に再び調理をする、という迂遠な方法をとった。それでも臭いがかすかに残った。

そういう製品は最近は見ない。その代わりと言って良いかどうかわからないが、中国や韓国製のインスタントラーメンがアジア食品店などを席巻している。

最近、日本原産でたぶんライセンス生産をしている「出前一丁」を食べる機会があった。麺の臭みはほとんど無く、日本製とは風味が違うが、それほど気にならない味がした。

「出前一丁」は早くから香港や台湾でも大人気になったブランドだが、初めの頃はやっぱり麺の臭みがあった、という話を聞いた。

その体験を踏まえて、完全に中国生産の即席ラーメンを買っておそるおそる食べてみた。こちらも日本製品と遜色のないクォリティだった。

ラーメンの品柄の向上は、そのまま中国の経済成長と裕福を反映している、とつくづく思う。貧しい中国国民が豊かになって、ラーメンの味にうるさくなったから麺の臭みがなくなったのだ。

当然過ぎるほど当然の成り行きだが、少し前までの中国産物資のお粗末を見ている僕の目には、まぶしいほどの変化に見える。

イタリアの市場を席巻していた日本製の家電製品などが、韓国製や中国製に取って代わられて日は浅いが、その状況はますます広がっている。

もしかするとインスタントラーメンもそんな運命にあるのかもしれない。もしそうなれば僕はむしろうれしい。

なぜならそうなった暁には、わざわざ日本まで帰らなくてもイタリアのこの場で日本製と同じおいしいラーメンが手に入る、ということなのだから。。。


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ティレニア海とエーゲ海



800天国海岸
「天国海岸」という陳腐な名称のサルデーニャ島の海の絶景


6月終わりから7月半ばまで滞在したサルデーニャ島では、海とビーチを忘れて観光や食巡りに終始した。海とビーチは昨年のクレタ島で堪能したから今回はなくても構わない、という趣旨の思いを僕は前の記事で書いた。

もっと言えば、「海とビーチはギリシャが最善」だからサルデーニャ島のそれにはあまり魅力を感じなかった、というところである。

多くの人が羨ましがるサルデーニャ島の海なのに、よりによってそこに魅力を感じなかったなんてふざけるな、と島のファンの皆さんに怒られそうだが、それが自分の正直な感想なので仕方がない。

サルデーニャ島の海やビーチは言うまでもなく素晴らしい。しかしながらギリシャの島々の、エーゲ海をはじめとする碧海やビーチは、もっとさらに素晴らしい、というのが僕の率直な心緒なのである。

地中海では西よりも東の方が気温が高くより乾燥している。そしてサルデーニャ島は地中海のうちでも西方に広がるティレニア海にあり、ギリシャの島々は東方のエーゲ海に浮かんでいる。

サルデーニャ島よりもさらに空気が乾いているギリシャの島々では、目に映るものの全てが透明感を帯びていて、その分だけ海の青とビーチの白色が際立つように見える。

ギリシャの碧海の青は、乾いた空気の上に広がる空の青につながって融合し一つになり、碧空の宇宙となる。そこには夏の間、来る日も来る日も文字通り「雲ひとつない」時間が多く過ぎる。

真っ青な空間にカモメが強風に乗って凄まじいスピードで飛翔する。それは空の青を引き裂いて走る白光のように見える。

サルデーニャ島の海上にもカモメたちは舞い、疾駆する。だが白い閃光のような軌跡を残す凄烈な飛翔は見られない。

上空に吹く風が弱いためにカモメの飛行速度が鈍く、また空にはところどころに雲が浮かんでいるため、青一色を引き裂くような白い軌跡は、雲の白に呑み込まれて鮮烈を失うのだ。

そうした光景やイメージに、それ自体は十分以上に乾燥しているものの、ギリシャに比較すると湿り気を帯びているサルデーニャ島の環境の「空気感」が加わる。

それらのかすかな違いが重なって、どこまでもギリシャを思う者の心に、サルデーニャ島の「物足りなさ」感がわき起こるのである。それはいわば贅沢な不満ではある。

そんなわけでサルデーニャ島の今回の休暇では、海三昧のバカンスではなく、観光と食巡りに重きを置く日々を過ごした。それはそれで楽しいものだった。


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サルデーニャ食紀行 ~ 勘違いからボタモチ



Lilione羊肉一日目800
絶妙な味がした成獣羊肉


6月終わりから7月半ばまで滞在したサルデーニャ島では、海とビーチを忘れて観光や食巡りに終始したが、サルデーニャ島の食に関しては、僕は一つ大きな勘違いをしていた。

それは島の重要な味覚の一つである子羊料理が、一年中食べられるもの、と思い込んでいたことだ。島では子羊料理は晩秋から春にかけて提供される季節限定の膳だと聞かされて驚いた。

冷凍技術の発達で、子羊の肉はイタリアではいつでも、どこでも手に入る。ましてや羊肉の本場のサルデーニャでは一年中食べられるに違いない、と思い込んでいた。

ところが子羊料理はどこのレストランにもメニューに載っていなかった。代わりに多く目についたのが、サルデーニャ島のもう一つの有名肉料理「ポルケッタ(Porchetta)」、つまり子豚の丸焼きである。

ポルケッタにされる子豚は幼ければ幼いほど美味とされ、乳飲み子豚のそれが最高級品とされる。そのコンセプトは子羊や子ヤギの肉の場合とそっくり同じである。

ヒトの食料にされる動植物は、果物を除けばほぼ全てにおいて、残念ながら幼い命ほど美味とされる。それどころか誕生前のさらに幼い命である卵類でさえも、ヒトは美味いとむさぼり食らう。

ポルケッタ寄り800カリカリに焼けた皮が旨いポルケッタ

ポルケッタは2軒のレストランで食べた。皮ごと提供されるその料理は、通ほどカリカリに焼けた皮を好むとされる。僕は通ではないが、見事に焼きあがった皮の美味さに舌を巻いた。

肉そのものも絶妙な柔らかさに焼きあがって舌ざわりが良く、且つ香ばしい。口に含むとほんのわずかな咀嚼でとろりと溶けた。2軒の膳ともにそうだった。

店の一軒目は壁画アートが熱いオルゴーソロの店。路上にテーブルを出しているほとんど屋台同然の質素な場所だったが、味は極上だった。

2軒目は滞在先のすぐ近くにあるレストランだった。その店は海際の街にありながら魚料理を一切出さず、島のオリジナルの「肉料理」にこだわって評判が高い。

ポルケッタを食べに初めて足を運んだあと、その店には一週間ほど毎日通った。山深い島の内陸部でなければ食べられないような肉料理が盛りだくさんだったからだ。

ポルケッタの次には普通の牛ステーキに始まって、成獣羊肉や牛の内臓や豚のそれを焼き上げた料理を一週間、毎日メニューを変えて味わった。はほぼ全ての膳が出色の出来栄えだった。

店のメインの肉料理は炭ではなく徹底して薪の熾火で焼かれる。また味付けはほぼ塩のみでなされるのが特徴で、胡椒などもほとんど使わない。

料理される内臓は主に牛の心臓、肝、肺、腎臓、横隔膜、脳みそなど。また豚の睾丸なども巧みな火加減と塩使いで焼かれて提供される。

ステーキ切り分け前800切り分ける前のステーキ

それらはいずれも秀逸な味付けだった。ごく普通の牛ステーキでさえもちょっとほかでは味わえないような 妙々たる風味があった。有名なフィオレンティーナ・ステーキも真っ青になるような豊かな味覚なのである。

パスタもミンチ肉や内臓の細切り煮込みやチーズなどを活かしたソースを使って、とにもかくにも「サルデーニャ島内陸部の伝統肉料理」にこだわったものである。

サルデーニャ島の料理の基本は肉である。島でありながら魚介料理よりも肉料理が好まれたのは、住人が海から襲ってくる外敵を避けて内陸の山中に逃げ、そこに移り住んだからだ。山中には魚はいない。

現在のサルデーニャ島には魚介料理が溢れていて味も素晴らしい。だがそれは島オリジナルの膳ではなく、沿岸部を中心とするリゾート開発の進行に伴って、イタリア本土の金持ちたちが持ち込んだレシピだ。

魚料理、特にパスタに絡んだサルデーニャ島の魚介料理は、イタリア本土のどの地域の魚介パスタにも引けを取らない。当たり前だ。元々がイタリア本土由来のレシピなのだから。

店で出される島オリジナルの肉料理はなにもかもが珍しく、またどれもが目覚ましい味わいだったが、その店での最高の料理は「羊の成獣の骨付き焼肉」だった。僕の料理紀行を読んでいる人は、「また羊にヤギ肉か」と苦笑するかもしれない。

だがそれは羊肉とヤギ肉が好きな僕の手前みそな評価ではなく、同伴している妻の評価でもあったのだ。妻はどちらかと言えば羊肉やヤギ肉が好きではない類の女性である。

初日に予約していたポルケッタを食べた僕は、メニューに「焼き羊肉」があることを知って小躍りした。そしてレストラン通い2日目に早速それを頼んだ。

目を洗われるような味わいの焼き方だった。しっとりと焼き上げられた羊肉は、肉汁はほとんどないのに肉汁のうま味がジワリと口中に広がるような不思議な秀逸な味がするのだ。

羊の成獣肉の臭みはきれいに消し去られている。だが「子羊肉」にも共通する羊肉独特の風味はきちんと残っている。もしかすると熟成肉なのかとも思ったが確認しなかった。

焼きソーセージを頼んだ妻が、僕の皿の羊肉の一切れをフォークで自分のそれに移して味見をした。僕らはお互いに違う料理を頼んでは2人で分け合うのが習いである。できるだけ多くの種類の地元料理を味わいたいからだ。

妻は羊肉の絶妙な味におどろいて目を丸くしている。おいしい、おいしいと何度も繰り返して言った。そして僕の皿からさらに一切れを取って食べ続けた。

それだけでも驚きだったが、彼女はなんとレストラン通いの最終日にどうしてももう一度味わいたい、と言って今度は自ら焼き羊肉を注文したのだ。

羊肉がむしろ嫌いな部類の女性である妻の反応だけを見ても、その料理がいかに目覚ましいものであったかが分かってもらえるのではないかと思う。

羊(及びヤギ)の成獣の肉料理は僕の中では、これまでカナリア諸島で食べた一皿が一番の味だった。が、今回のサルデーニャ島の焼き羊肉がそれを抑えてあっさりとトップに躍り出た。

それは飽くまでも羊(及びヤギ)の「成獣の肉」の味である。成獣よりも上品でデリケートな味わいのある「子羊の肉」は一体どんな素晴らしい味がするのだろう、と考えるとわくわくする。

僕は再三、今度は子羊料理の旬だという晩秋から春の間に、サルデーニャ島を訪ねようと決意したほどである。


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WEB休暇 ~ インターネットの功罪



インターネット600pic


サルデーニャ島滞在中の2週間あまり、ブログ記事を一本投稿したきりでインターネットに触れなかった。滞在施設の部屋の中ではインターネットが使えなかったからである。

そこではレストランやカフェなどが集まっている公共の空間でしかWIFIが機能しなかった。そのためブログ記事の一つを投稿するにもわざわざそこまでPCを抱えて行かなければならない。

スマホでの投稿もできるのかもしれないが、僕はスマホを電話などの最小限の機能以外はOffにしている。自宅外では自由でいたいからだ。

最近は自宅の仕事場やプライベート空間でもインターネット(PC)に縛り付けられた生活をしている。読書の時間が極端に減ったことでもそれは知れる。

せめて外出の際にはインターネットから離れた生活をしたい、と考えて僕はスマホをほぼ「電話のみ」の使用にとどめる努力をしているのである。

PCを抱えてわざわざカフエやレストランまで出向くのはひどく億劫だった。そうやってインターネットにしがみつかない日々が続いた。気がつくと2週間がまたたく間に過ぎたのだった。

インターネットを使わない延長で、というのは正当な理由ではないが、「なんとはなしに」新聞にも手を出さなかった。施設の中に新聞の売店がなかったのも大きな原因だった。

そうやって情報収集という観点からは俗世間から隔絶された状態になって、トランプも北朝鮮も欧州の難民問題も、また杉田水脈なるカス国会議員のLGBT冒涜発言もなにもかも耳に入らなくなった。耳に入らくなっても全く問題ではなかった。むしろすがすがしい時間を過ごしていた。

トランプ大統領の言動や欧州難民問題あるいはイタリアのポピュリスト政権の動きなどは、W杯を観戦するテレビや人の噂話を介してさすがに少しは耳にしていたが、日本限定マターの水田議員発祥のLGBT問題に至っては、サルデーニャ島から帰還して後にようやく知ったくらいである。

インターネットに縛られないすがすがしい時間がもたらす気楽な心情は、気がついてみると世の中の動きを斜めに見る癖を自分の中に育んでいた。もっと直截に言えば「世の中の出来事などどうでもいい」という気分が強くなっていたのだ。

それは諦観に近い危険な心の動きである。「世の中なんてこんなものだ」と、悟りきったような気分に支配された時、人は文字通り心身ともに死に向かって歩みだす。諦観は死にもつながる危険な心理だ。

「諦観≒死」という表現が大げさならば、諦観は老化現象の一つ、と置き換えても良い。だがいずれにしても、老化とは「死に向かう歩み」の湾曲表現に過ぎない。諦観は心の平穏をもたらすプラスの効果も期待できるが、大勢はネガティブなコンセプト考えても良いのではないか。

僕はそのことに気づいて、自らを叱咤激励して怠惰な鈍(にぶ)りきった心情から脱出した、と言えば聞こえがいいが、実は帰宅してインターネットにアクセスし世の中の動きを追い始めたとたんに、怒りや不満や慨嘆が沸き起こってたちまち元の調子を取り戻していた。

それはインターネットの「功罪」のうちの功の一つだ。世の中の動きを楽に満遍なく見渡せる分、気持ちの張りが途切れない。一方、PCにしがみついて中毒患者のようにWEB上で時間を浪費してしまう罪の側面もある。

両者はコインの表裏のように切っても切れない関係である。従ってその事実を素直に受け入れて、中毒にならないように気をつけていくしかないのだろう。

中毒になりそうになったら一度インターネットから離れてみることだ。そうすると再びそこに戻ったときには頭がリフレッシュされて状況がさらによく見えるようになる。

僕は今回のサルデーニャ紀行を通して偶然にそのことを発見した。働きづめの人間には休暇が必要であるように、インターネット漬けの者にも「WEB休暇」が必須なのだと思う。


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名歌「東京だヨ、おっ母さん」に秘められた暗部


ロシア系切り取り言わずと知れた九段北の


先ごろ亡くなった島倉千代子が歌う、母を連れて戦死した兄を靖国神社に偲ぶ名歌、「東京だョおっ母さん」を聞くたびに僕は泣く。言葉の遊びではなく、東京での学生時代の出来事を思い出し、文字通り涙ぐむのである。そんな折に僕は、お千代さんの泣き節の切ない優しさに包まれながら、祖国から遠く離れた異国の地にいる自分の境遇や、演歌に感じ入る年齢になった自らの行く末をも思う。それは純粋に感傷の世界である。

僕は20歳を過ぎたばかりの学生時代に、今は亡き母と2人で靖国神社に参拝した。僕の靖国とは第一に母の記憶だ。そして母の靖国神社とは、ごく普通に「国に殉じた人々の霊魂が眠る神聖な場所」である。母の心の中には、戦犯も分祀も合祀も長州独裁も明治政府の欺瞞も、つまり靖国神社の成り立ちとその後の歴史や汚れた政治に関わる一切の知識も、従って感情もなかった。母は純粋に靖国神社を尊崇していた。

僕の母は沖縄で生まれ、育ち、そして沖縄の地で死んだ。母は90余年の生涯を、国家と夫によるあらゆる横暴や理不尽にじっと耐えて生きた。母の不幸は沖縄の不幸に重なる。だから僕はそれが何者によるものであろうが、またいかなる形ででもあろうが、沖縄への狼藉や理不尽を許さない。それは僕の母への侮辱と同じことでもあるからだ。

一方、僕には「天皇」のひと言でいつも直立不動になる軍国の申し子の父がいる。国家には忠実で妻には見高だった父は、100歳に至って何も分からなくなったが、今日もまだ生きている。父には沖縄を切り捨てた昭和天皇への怨みはないのだろうか。また母には、天皇とその周辺には卑屈なほどに従順で、妻には横柄だった夫への怒りはなかったのだろうか、と僕はよく自問自答する。

血肉の奥まで軍国思想に染まっている父には天皇への反感はかけらほどもない。「恍惚の人」になる直前まで彼は天皇の従僕だった。母もまた天皇の子供だった。しかし母の中には父への怒りや怨みがあったと思う。母の言葉の端々にそれは感じられたのだ。母には伝統への反逆法と、伝統によって阻まれている経済的自立の方策が皆無だった。だから彼女は耐え続けた。全ての「伝統的な」母たちがそうであるように。

男の無道に耐える女性たちの悲劇は、経済的自立が成就されたときにほぼ確実に消える。夫に「養ってもらう」窮屈や屈辱からの解放がすなわち女性の解放だ。母の次の世代の母たちはそのことに気づいて闘い、その次の若い母たちの多くはついに経済的に自立し解放されつつある。女性たちの自主独立志向は欧米に始まり日本でも拡散し、さらに勢いを得て広がり続けている。

閑話休題

「東京だョおっ母さん」で
♫優しかった兄さんが 桜の下でさぞかし待つだろうおっ母さん あれが あれが九段坂 逢ったら泣くでしょ 兄さんも♫
と切なく讃えられる優しかった兄さんは、戦場では殺人鬼であり征服地の人々を苦しめる悪魔だった。日本男児の2面性である。

僕は歌を聞いて涙すると同時に、「壊れた日本人」の残虐性をも思わずにはいられない。だが彼らは「壊れた」のではない。国によって「壊された」のだった。優しい心を壊された彼らは、戦場で悪鬼になった。敵を殺すだけではなく戦場や征服地の住民を殺し蹂躙し貶めた。

「東京だョおっ母さん」ではその暗部が語られていない。そこには壊れる前の優しい兄さんだけがいる。歌を聴くときはそれがいつも僕をほろりとさせる。優しい兄さんに靖国で付き添った母の記憶が重なるからである。だが涙をぬぐったあとでは、僕の理性がいつもハタと目覚める。戦死した優しい兄さんは間違いなく優しい。同時に彼は凶暴な兵士でもあったのだ。

凶暴であることは兵士の義務だ。戦場では相手を殺す残虐な人間でなければ殺される。殺されたら負けだ。従って勝つために全ての兵士は凶暴にならなければならない。だが旧日本軍の兵士は、義務ではなく体質的本能的に凶暴残虐な者が多かったフシがある。彼らは戦場で狂おしく走って鬼になった。「人間として壊れた」彼らは、そのことを総括せずに戦後を生き続け、多くが死んでいこうとしている。僕の父のように。

日本人の中にある極めて優しい穏やかな性格と、それとは正反対の獣性むき出しの荒々しい体質。どちらも日本人の本性である。凶暴、残虐、勇猛等々はツワモノの、つまりサムライの性質。だがサムライは同時に「慎み」も持ち合わせていた。それを履き違えて、「慎み」をきれいさっぱり忘れたのが、無知で残忍な旧日本帝国の百姓兵士だった。

百姓兵の勇猛は、ヤクザの蛮勇や国粋主義者の排他差別思想や極右の野蛮な咆哮などと同根の、いつまでも残る戦争の負の遺産であり、アジア、特に中国韓国北朝鮮の人々が繰り返し糾弾する日本の過去そのものだ。アジアだけではない。日本と戦った欧米の人々の記憶の中にもなまなましく残る歴史事実。それを忘れて日本人が歴史修正主義に向かう時、人々は古くて常に新しいその記憶を刺激されて憤るのである。

百姓兵に欠如していた日本人のもう一つの真実、つまり温厚さは、侍の「慎み」に通ずるものであり、優しい兄さんを育む土壌である。それは世界の普遍的なコンセプトでもある。戦場での残虐非道な兵士が、家庭では優しい兄であり父であることは、どこの国のどんな民族にも当てはまるありふれた図式だ。しかし日本人の場合はその落差が激し過ぎる。「うち」と「そと」の顔があまりにも違い過ぎるのである。

その落差は日本人が日本国内だけに留まっている間は問題ではなかった。凶暴さも温厚さも同じ日本人に向かって表出されるものだったからだ。ところが戦争を通してそこに外国人が入ったときに問題が起こった。土着思想しか持ち合わせない多くの旧帝国軍人は、他民族を「同じ人間と見なす人間性」に欠け、他民族を殺戮することだけに全身全霊を傾ける非人間的な暴徒集団の構成員だった。

そしてもっと重大な問題は、戦後日本がそのことを総括し子供達に過ちを充分に教えてこなかった点だ。かつては兄や父であった彼らの祖父や大叔父たちが、壊れた人間でもあったことを若者達が知らずにいることが重大なのである。なぜなら知らない者たちはまた同じ過ちを犯す可能性が高まるからだ。

日本の豊かさに包まれて、今は「草食系男子」などと呼ばれる優しい若者達の中にも、日本人である限り日本人の獣性が密かに宿っている。時間の流れが変わり、日本が難しい局面に陥った時に、隠されていた獣性が噴出するかもしれない。いや、噴出しようとする日が必ずやって来る。

その時に理性を持って行動するためには、自らの中にある荒々しいものを知っておかなければならない。知っていればそれを抑制することが可能になる。われわれの父や祖父たちが、戦争で犯した過ちや犯罪を次世代の子供達にしっかりと教えることの意味は、まさにそこにある。

靖国にいるのは壊れた人々の安んじた魂である。それは安らかにそこにいなければならない。同時に生きているわれわれは、彼らが壊れた事実と彼らを「壊した」者らの記憶を失くしてはならない。靖国に眠る「壊された」人々の魂が、安んじたままでいるためには、「壊した」者らを封じ込めるしか手はない。なぜなら戦争はいつも「壊した」者らの卑劣によって引き起こされるものだからである。

島倉千代子の「東京だョおっ母さん」を聞く度に僕は泣かされる。母を思って心が温まる。その母は「壊された弱い人々を思いなさい」と僕に言う。母の教育はいつもそういうものだったのだ。だが、僕は母の教えをかみしめながら、「壊した」者らへの憎しみも温存し彼らへの返礼をも思う。歌手の優しい泣き節は、僕のその荒々しい心を鎮めようとする。

するとすさんだ心は静まる。島倉千代子の歌唱力のすごさが凶悪な物思いを鎮めるのである。だが僕は歌を聴いたあとに必ず、密かに、「壊した」者らへの敵愾心をなお育み、拡大させようと心に誓う。島倉千代子の「東京だョおっ母さん」を聞く度に僕は泣かされる。泣きながら、男たちを壊した力、すなわち日本を破壊し、沖縄を貶め、従って母を侮辱する力への抵抗と弾劾を改めて決意するのである。

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サルデーニャ島のエッセンス



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2018年6月、20年ぶりに再訪したイタリア・サルデーニャ島では見たいもの、聞きたいこと、確認事項、食べたいもの、知りたい事案など、などが僕の中で目白押しになっていた。

島には世界遺産のヌラーゲ(古代巨石遺跡)やイタリア随一のリゾート地「ポルトチェルヴォ」あるいはスティンティーのラ・ペローザビーチ、マダレーナ諸島、手付かずの各地の自然など、見るべきものが数多くある。

その中でも最も見たいものが、島のほぼ中央部の東寄りにあるオルゴーソロ
(Orgosolo)のアート壁画だった。

島の深い山中にあるオルゴーソロは人口約4500人の村。かつて「人殺しの巣窟」とまで呼ばれて悪名を馳せていた犯罪者の拠点集落である。

犯罪者の拠る場所は往々にして貧民の集落と同義語だ。山賊や殺人鬼や誘拐犯らがたむろしたかつてのオルゴーソロは、まさにそんな貧しい村だった。

一般社会から隔絶された山中の村人は、困窮する経済状況に追い詰められながらも、外の世界との付き合いが下手で不器用なために、それを改善する方策を知らなかった。

そうやってある者は盗みに走り、ある者は誘拐、また別の者は強盗や家畜略奪などに手を染めた。また残りの村人たちはそうした実行犯を助け、庇護し、官憲への協力を拒むことで共犯者となっていった。

犯罪に基盤を置く村の経済状況は良くなることはなかった。それどころか、外部社会から後ろ指を指される無法地帯となってさらに孤立を深め、貧困は進行した。かつてのオルゴーソロの現実こそ、サルデーニャ島全体の貧しさを象徴するものだったのではないか。

時代が下ってイタリア共和国に組み込まれたサルデーニャ島は、イタリア国家の経済繁栄にあずかって徐々に豊かになり、おかげでオルゴーソロの極端な貧困とそこから発生する犯罪も姿を消した。

ある日、国が村の土地を接収しようとしたことをきっかけに、村人らの反骨精神が燃え上がった。彼らは国への怒りを壁画アートで表現し始めた。山賊や殺人犯や誘拐犯らは、イタリア本土の支配に反発する愛郷心の強烈な人々でもあったのだ。

彼らは村中の家の壁に地元の文化や日常を点描する一方、多くの政治主張や、中央政府への抗議や、歴史告発や、世界政治への批判や弾劾などを描きこんで徹底的に抵抗した。1960年代のことである

だが実は、オルゴーソロはサルデーニャ島における壁画アートの先駆者ではない。島南部の小さな町サン・スペラーテの住民が、観光による村興しを目指して家々の壁に絵を描いたのが始まりである。

それは島の集落の各地に広まって、今では壁画アートはサルデーニャ島全体の集落で見られるようになった。特に内陸部の僻地に多い。そこは昔から貧しく今も決して豊かとは言えない村や町が大半である。

そうした中、かつての犯罪者の巣窟オルゴーソロは、インパクトが大きい強烈な政治主張を盛り込んだ壁画を発表し続けた。それが注目を集め、イタリアは言うに及ばず世界中から見物者が訪れるようになった。

外部からの侵略と抑圧にさらされ続けた島人が、「反骨の血」を体中にみなぎらせて行くのは当然の帰結である。そこに加えて貧困があり、「反骨の血」を持つ者の多くは、貧困から逃れようとして犯罪に走った。

イタリア共和国の経済繁栄に伴って村が犯罪の巣窟であることを止めたとき、そこには社会の多数派や主流派に歯向かう反骨の精神のみが残った。そして「反骨の血」を持つ者の一派だった無政府主義者が中心となって壁画を描き始め、それが大きく花開いた。

サルデーニャ島は、イタリア共和国の中でも経済的に遅れた地域としての歩みを続けてきた。それはイタリアの南北問題、つまり南部イタリアの慢性化した経済不振のうちの一つと捉えられるべきものだが、サルデーニャ島の状況は例えば立場がよく似ているシチリア島などとは異なる。

サルデーニャ島はまず地理的にイタリア本土とかけ離れたところにある。地中海の北部ではイタリア本土と島は割合近いものの、イタリア半島が南に延びるに従って本土はサルデーニャ島から離れていく形状になっている。

一見なんでもないことのように見えるが、その地理的な配置がサルデーニャ島を孤立させ、歴史の主要舞台から遠ざける役割も果たした。イタリア半島から見て西、あるいはアフリカ側にあると考えられた島は軽視されたのである。

その要因は、先史時代のアラブの侵略や後年のイスラム教徒による何世紀にも渡る支配など、島が歩んで来た独特の歴史と相俟って、サルデーニャをイタリアの中でもより異質な土地へと仕立て上げていった。

島の支配者はアラブからスペインに変り、最終的にイタリア本土になるが、サルデーニャ島はそこへの同化と、同時に自らの独自性も強く主張する場所へと変貌し、今もそうであり続けている。。

島が政治経済文化的に本土の強い影響を受けるのは、あらゆる国の島嶼部に共通する運命だ。また島が多数派である本土人に圧倒され、時には抑圧されるのも良くあることである。

島は長いものに巻かれることで損害をこうむるが、同時に政治経済規模の大きい本土の発展の恩恵も受ける。島と本土は、島人の不満と本土人の島への無関心あるいは無理解を内包しつつ、「持ちつ持たれつ」の関係を構築するのが宿命だ。

ある国における島人の疎外感は、本土との物理的な距離ではなく本土との精神的距離感によって決定される。サルデーニャ島の人々は、イタリアの他の島々と比べても、本土との精神的距離が遠いと感じているように見える。

そうしたサルデーニャ人の思いが象徴的に表れているのが、オルゴーソロの
「怒れるアート壁画」ではないか、と僕は以前から考えていた。だから島に着くとほぼ同時に僕はそれを見に行かずにはいられなかった。

抗議や怒りや不満や疑問や皮肉などが家々の壁いっぱいに描かれたアート壁画は、芸術的に優れていると同時に、村人たちの反骨の情熱が充溢していて、僕は自分の思いが当たらずとも遠からず、という確信を持ったのだった。


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ニラツナ・パスタ



ニラ大地の出産投稿済み




日本にある一般的な野菜の中でイタリアにはないもののひとつがニラである。僕はニラが好きなので仕方なく自分で育てることにした。

わが家はミラノ郊外のブドウ園に囲まれた田舎にあるので、菜園用の土地には事欠かない。

日本に帰った際にニラの種を買って戻って、指定された時期にそれを菜園にまいた。が、種は一切芽を出さなかった。
 
イタリアは日本よりも寒い国だから、と時期をずらしたりして試したが、やはり駄目だった。10年以上も前のことである。

いろいろ勉強してプランターで苗を育てるのはどうだろうかと気付いた。

次の帰国の際に故郷の沖縄からニラ苗を持ち込んでプランターに植えた。今度はかなり育った。かなりというのは日本ほど大きくは育たないからである。

成長すれば30~40センチはあるりっぱなニラの苗だったのだが、ここではせいぜい15~20センチ程度しかなく茎周りも細い。

しかし、野菜炒めやニラ玉子を作るには何の支障もないので、頻繁に利用している。

そればかりではない。ニラはニンニク代わりにも使える。特にパスタ料理には重宝する。

わが家ではツナ・スパゲティをよく作るが、そこではニンニクを使わずニラをみじん切りにして加える。ニンニクほどは匂わずしかもニンニクに近い風味が出る。

またニンニクとオリーブ油で作る有名なスパゲティ「アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノ」にニラをみじん切りにして加えると、味が高まるばかりではなく、ニラの緑色が具にからまって映えて、彩(いろど)りがとても良くなる。
 
見た目が美しいとさらに味が良くなるのは人間心理の常だから、一石二鳥である。


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