【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2018年12月

まんまの渋谷が面白い



109ビル遠景600


渋谷にいる。今年3度目の帰国。成田に着くと、よほどのことがない限りリムジンバスで渋谷に向かい定宿で一息つく。ホテルからはスクランブル交差点と109ビルが望める。

渋谷とは長い付き合いである。学生時代は世田谷に住んで渋谷で電車を乗り継ぎ横浜の日吉と都内の三田に通った。

大学卒業後はイギリス、アメリカ、イタリアと移り住んだが、仕事で日本に帰るたびに多く渋谷に滞在した。

渋谷にはNHKがあり、テレビ屋になった僕はずい分とNHKのお世話になった。民放の仕事もしたが圧倒的にNHKのそれが多かった。

自然、NHKへの出入りが多くなり、宿泊もNHK近くになった。仕事や仕事以外の活動も渋谷、また民放の仕事でも勝手を知った渋谷に泊まってそこから通う、というふうになった。

番組制作やリサーチ、オーガナイズの仕事等で、若い時には年に4~5回の帰国も珍しくなかった。ほとんど全てのケースで渋谷を起点に動いた。

イタリア・ミラノに置いていた事務所を閉めてテレビの仕事を減らしてからは、年に一度、多くてもせいぜい二度帰国するだけになった。

休暇もあれば仕事もあった。ところがNHKとは無関係の仕事や休暇で帰国する際も、成田からまっすぐ渋谷に行って定宿で旅装を解く、という習慣が続いている。

仕事の場合はそこを拠点にするが、休暇の場合は東京経由で故郷の沖縄に飛ぶのが習わし。ところが沖縄の前に必ず渋谷に寄って、長い場合は4~5日滞在してから島に向かう。

僕は体質的に時差ボケに弱い。イタリアと日本を行き来するたびに重い非同期症候群に襲われて苦しむ。

そこで渋谷に寄ってのんびりし、時差ボケを少し修正してから南の島に飛ぶ、と人には説明している。が、実は時差ボケは島でのんびりして治せばいいのである。

渋谷で一時停止をするのは、ひとえにそうすることが楽しいからである。僕は渋谷が大好きで、そこにいると心が弾み、和み、くつろぎ、喜ぶ。

街の喧騒も嬉しく、食べ物は美味しく、酒も美味く、友人たちに会っても会わなくても、気持ちがひとりでに浮かれる。

若いころは渋谷は地元、みたいな意識があった。電車の乗り換え地であり、そこで降りて遊び、アルバイトも良くした。

若い僕はそこが格別に若者の街だとは感じなかった。若者もいれば大人もいる街だった。ところが渋谷はいつからか若者オンリーの街になった。

プロのテレビ屋になって、日米また日伊を往来して目いっぱい仕事をこなしていた頃、NHKの大先輩のUさんと飲み屋で仕事の打ち合わせをした。

そこで渋谷が若者だらけの街になった、というよくある話題になった。Uさんは渋谷が大きく変わったことをひどく嘆いた。僕は相槌を打ちつつ「でも、渋谷は腐っても渋谷です」と返した。

僕は渋谷が若者に占領されて「腐った」とは少しも考えない。腐っても、という言い回しをしたのは、渋谷の変貌を悲嘆するUさんへの僕なりの気遣いのつもりだった。

渋谷は、今はオヤジの僕らが、「若者だった時分に占領していた頃」と何も変わっていないと思う。それというのも昔の渋谷で、「若者だった僕」の目に映るのは他の若者ばかりだった。つまり渋谷は当時も若者の街だったのだ。

同時に渋谷は大人のための食べ物屋や飲み屋や遊び場や施設にもまた事欠かない街であり続けたのであり、今もあり続けている。

それはつまり、渋谷の本質は昔も今も変わっていないということであり、渋谷は表面はともかく「腐って」などいない街だ、と思うのである。

そうはいうものの、しかし、仕事で渋谷に滞在するたびに、年々若者の姿が目立つように感じられるのもまた確かである。矛盾するようだがその意味では渋谷は変わっている。

本質は変わらないものの、表面上は明らかに変わり続けている渋谷は、言葉を替えれば永遠に腐らないまま輝き変化し続ける「若者と大人の街」と言うべきかもしれない。

近年はそれはさらに、永遠に腐らないまま輝き変化し続ける「若者と大人と"人種のるつぼ"の街」へと変わりつつあるように見える。

僕はますます渋谷が好きになりそうである。





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イタリア予算案、ローマがEUに譲歩


EU&イタリア旗はためくPhoto: Gerard Cerles(AFP)


イタリアのコンテ首相は12日、イタリアの来年度予算の赤字目標額を引き下げる、とEU欧州委員会のユンケル委員長に告げた。EUはこれを評価。予算案をめぐる両者の対立はさらに緩和された。

コンテ首相は大きな注目を集めたGDP比2.4%の赤字予算案を2.04%にまで引き下げると表明。EUはイタリア政府による初めての「意味のある動き」として好感。金融界もその提案を前向きに捉えている。

最終的な罰金を含むEUの「過剰財政赤字是正手続き(EDP)」がこれで完全に回避されたわけではない。が、EUの財務官僚とイタリアのトリア財務相は、コンテ首相とユンケル委員長の合意を基にさらなる進展を目指して協議を続ける。

イタリアの来年度予算は、ローマの譲歩にも関わらずEUの財務規則のうちに完全に収まるものではない。国の借金を大幅に減らすことを求められているイタリアは、バラマキ予算を見直すことを執拗に迫られている。

それでもイタリア政府は、月十万円余のベーシックインカム(最低所得保障)と年金受給年齢の引き下げは必ず実行するとしている。前者は連立政権の一翼を担う五つ星運動のまた後者はもう一方の同盟の基幹政策だからだ。

ひと口で説明すれば極左と極右のポピュリスト政党、というくくりが該当する組織である両党は、それらの主張をがなり立てることによって政権を奪取したといっても過言ではない。

多様性が盛んであるイタリア共和国には過激論が乱立することが多い。だがまさに多様性の豊かさゆえに国内の政治勢力が四分五裂し、過激論者は他者を仲間に引き入れようとして「より穏健」に傾く。

過激論者であるイタリアのポピュリスト政権が、EUに譲歩したのは偶然ではない。それは過激論者を「妥協」という民主主義の本丸に向かって導く、イタリアの多様性の勝利という見方もできるのである。




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ボランティアという献身、利他主義という高潔



ウーゴさんと
ウーゴさんと。。(ペルーのリマで)


はじまり

カトリック系の慈善団体「マト・グロッソ」のウーゴさんが94歳で亡くなった。

ウーゴさんとは、人生のほとんどを他人のためだけに生きてきた清高な男、カトリック・サレジオ(修道)会のウーゴ・デ・チェンシ神父のことである。

ウーゴさん」と人々に愛称された彼はイタリア北部の生まれ。宣教師としてブラジルに行ったことがきっかけで、土地の名前を取ったマト・グロッソ」という慈善団体を立ち上げた。

「マト・グロッソ」はイタリア国内で年々発展を遂げ、多くのボランティアを南米各国に派遣するなど、広範囲にわたって慈善事業を展開している。

マトグロッソは特に南米のペルーで大きく成長。今では同国で第2位の資産を有するまでになり、その資産を活用して事業を起こし、ペルー人を雇用し、貧者を支援する。

中でも貧しい青少年たちへの支援を中心に、学校事業や社会事業に多大な労力を注いで成果を挙げている。

いきさつ

妻がマト・グロッソと関わっている関係で、わが家ではほぼ毎年マト・グロッソ主催のチャリティーコンサートを開いてきた。募金集めのために食事会を催したりもする。

住まいの由来がかつての貴族館という珍しい広い場所であるため、庭園や屋内で多くの聴衆を受け入れてイベントを開くことができるのである。

2011年には僕が表に立って、わが家で東日本大震災支援のチャリティーコンサートを開いた。その時に協力してくれたのもマト・グロッソのボランティアの皆さんだった。

ウーゴさんを訪ねて


先年、Bresciaマト・グロッソの責任者のブルーノ夫妻と共に、ウーゴ神父を訪ねてペルーに行った。同国でのマト・グロッソの活動地域はほとんどが山中の貧しい場所である。

ペルーにはアンデス山脈、アマゾン川、ナスカの地上絵、マチュピチュ等々、魅惑的な観光スポットが多い。

旅では標高約5千メートルの峠越え3回を含む、3700メートル付近の高山地帯を主に移動した。言うまでもなくウーゴさんとマトグロッソの活動を見聞するためだ。

目がくらむほどに深い渓谷を車窓真下に見る、死と隣り合わせの険しい道のりや、観光客の行かない高山地帯の村や人々の暮らしは、全てが鮮烈で面白かった。

面白いとは、旅人の僕のノーテンキな感想で、ウーゴさんとマトグロッソのボランティアたちは、日々厳しい慈善事業に精を出していた。

フィアットよりも大きな会社?

「イタリア最大の産業はボランティア」という箴言がある。イタリアのみならず欧米諸国の人々は概してボランティア活動に熱心だ。

イタリアの場合は、カトリックの総本山バチカンを身内に抱える国らしく、欧米の平均に輪を掛けて人々が活動に一生懸命のような印象を受ける。

この国の人々は、猫も杓子もという感じで、せっせとボランティア活動にいそしむ。博愛や慈善活動を奨励するローマ・カトリック教会の存在がやはり大きいのだろう。

奉仕活動をする善男善女の仕事を賃金に換算すれば、莫大な額になる。まさにイタリア最大の産業である。

「マト・グロッソ」のウーゴさんは、さしずめイタリアのその巨大産業の元締め、あるいは象徴的な存在の一人である。

チャリティーってなに?

チャリティーなんて金持ちやひま人の道楽、と考える人も世の中には多い。それは日々の暮らしに追われている、豊かとばかりも言えない人々の正直な思いだろう。

だが、チャリティーは実は、貧富とは関係のない純粋な自己犠牲行為である。次の統計の一つもそれを物語っている。

慈善活動をする世界の人々のうちのもっとも裕福な20%の層は、収入の1、3%に当たる額を毎年寄付に回す。

一方 慈善活動をする世界の人口のうちのもっとも貧しい20%の人々は、彼らの収入の3、2%を寄付に回している。金持ちは貧乏人よりもケチなのだ。

他人の為に何かをするという行為は尊いものだ。自己犠牲の精神からはほど遠い、俗物然とした心意しか持ち合わせのない僕などは特にそう思う。

一つの例を言えば僕は、東日本大震災支援コンサートを一緒に手伝ってくれた「マトグロッソ」の皆さんには、頭が下がる思いがしてやまない。彼らは「継続して」人のために活動をしているからだ。

思い続ける難しさ

たとえば災害時などに提供する義援金は、一度寄付をすればそこで終わりだが、
「被災者を忘れない」という思いをずっと胸に抱き続けるのは難しい。

思い続けることはいたわりになり、それは行動になる。ボランティアやチャリティーも同じだ。「続ける」ことが重要で、しかもそれはたやすいことではない。

災害の被災者だけではなく、世界中の貧しい子供たちや不運な人たちを思い続けること。それが本物のボランティアやチャリティーの核心だ。

そうはいうものの、「にわかボランティア」や「にわか慈善行為」は、もちろんそれ自体がとても大切なことだ。何はともあれ被災者や被災地に思いを寄せることだからだ。

そしてボランティアや慈善行為を「続ける」ことができれば、さらにもっとすごいことだ。だが、たぶん続けられる人はそれほど多くはない。皆忘れる。「他人を心に思い続ける」のは至難の業だ。

ゴルファーの藍ちゃんの失敗


チャリティーの精神を考えるとき、いつも頭に思い浮かぶエピソードがある。

東日本大震災の直前に、アメリカの女子プロゴルフ界がチャリティーコンペを主催した。チャリティーコンペだから賞金が出ない。賞金は全てチャリティーに回されるのだ。

多くの欧米人プレーヤー参加したものの、宮里藍、上田桃子、宮里美香の日本人トッププレーヤー達は参加しなかった。賞金が出ないからだ。

ところがそのすぐ後に、東日本大震災が起こってしまった。すると日本人3人娘が被災地のためにチャリティーコンペをしようと呼びかけた。

それは良いことの筈だが、当時アメリカでは大変な不評を買った。残念ながら彼女たちは、身内のことには必死になるが、他人のことには鈍感で自分勝手、と見破られてしまったのだ。

自分や身内や友人のことなら誰でもいっしょうけんめいになれる。慈善やチャリティーやボランティアとは、全くの他人のために身を削る尊い行為のことである。

それは特に欧米社会では盛んで、有名人やセレブや金持ちたちには、普通よりも大きな期待がかけられる。

チャリティー活動が盛んではない国・日本で育った3人の日本人娘は、トッププレーヤーにはふさわしくない大失態を演じてしまった。

しかしその後、彼女たちは懸命に頑張ってチャリティー活動を行い、1500万円余りの義援金を被災地に寄付したことは付け加えておきたい。

それは「身内の日本人」被災者への思いやりで、彼女たちが「身内でない者」のためにも同じ気持ちで頑張るかどうか分からない、などと皮肉を言うのはやめよう。身内のためにさえ動かない者がいくらでもいるのだから。

見返りを求めるチャリティーはない

チャリティー活動になじみのない日本人にありがちな、気をつけなければならないエピソードは、実は僕の身近でも起こる。

わが家で催したチャリティーイベントで、多くの飲食物が提供された。ところが、事前に告知されていたローストビーフが手違いで提供されなかった。このことに怒った人々が担当者を突き上げた。

実はそうやって強くクレームをつけたのは残念ながら日本人のみだった。そこで大半を占めていたイタリア人は、一言も不平不満を言わなかった。

彼らはチャリティーとは得る(ローストビーフを食べる)ことではなく、差し出す(寄付する)ものであることを知りつくしていたからだ。

イタリア人は、カトリックの大きな教義の一つである慈善やチャリティーの精神を、子供のころから徹底的に教え込まれる。

そうした経験がほぼゼロの多くの日本人にとっては、得るもの(食べ物)があって初めて与える(支払う)のがチャリティー、という思い違いがあるのかもしれない、と僕はそのとき失望感と共にいぶかった。

一方、マトグロッソという慈善団体を立ち上げ、大きく育て、常に他人を思い利他主義に徹した「ウーゴさん」の尊い精神は、彼を慕うボランティアたちを介して今後も生き続けることが確実である。



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悪貨に良貨を駆逐させてはならない



VOX党首・アバスカル600
VOX党首サンティアゴ・アバスカル


スペインのアンダルシア州選挙で、極右政党の「ボックス(VOX )」が躍進し12議席を得た。

スペインの国会や州議会で極右政党が議席を確保するのは、1970年代の同国の民主化以後では初の出来事 。

そこにはカタルーニャ州の独立運動への国内右派の反感に加えて、増大する移民への人々の怒りと危機感がある。

同時にそれは、反移民、排外ヘイトを叫ぶ米トランプ主義と連動した時代の風潮であることは疑う余地がない。

スペインのアンダルシア州は、地理的にはいわば欧州(EU)のイタリアに相当する場所。地中海に面して最もアフリカに近く、そこを渡って中東・アフリカ移民が流入する。

イタリアは怒涛の勢いで押し寄せる移民への反発から、それの排斥を主張する極右政党の同盟を政権に押し上げた

イタリアの傾向は、欧州の全ての国であからさまに、又ひそかにトレンドとなって渦巻き、牙をむいている。

アンダルシア州における極右の「VOX」の躍進を、たかが地方議会での出来事、として軽視しようとする者がいる。だがそれは間違いだ。

欧州の辺境においてさえトランプ主義がはびこりつつある、という意味ではむしろそれは重大な出来事である。

VOXの躍進はイタリアの極右政党「同盟」の台頭ともリンクし、英国のBrexit(EU離脱)勢力や独のAfD(ドイツのための選択肢)などにも繋がっている。

さらに言えば、フランスの国民連合またオランダやオーストリアの極右、加えて旧東欧諸国などで跋扈する極右政治潮流とも軌を一にしている。

一方トランプ主義興隆のトレンドに反して、ドイツのまさにトランプ主義勢力の旗手である「AfD(ドイツのための選択肢)」が、衰退傾向にあるという意外な分析もある。

反移民・排外主義者のAfDは、自由と寛容と民主主義を堅守 しようとするメルケル首相に反発する勢力によって結党された。

彼らは2015年に100万人もの移民を受け入れたメルケル首相の政策を激しく糾弾。反移民の空気が醸成されつつある中で急速に支持を伸ばしついに大幅な議席獲得を果たした。

ところがメルケル首相の権威が失墜し、ついには2021年を限りに彼女が政界引退を表明したことにより、AfDは「反メルケル党」としての存在意義を失い、急速に凋落するというのである。

その表れが緑の党の党勢復活。同党はメルケル首相所属のキリスト教民主同盟 (CDU) と同友のキリスト教社会同盟(CSU) の零落に伴い、受け皿としての役割を果たしているとされる。

それはつまり、与党支持者のうちの左派がグリーン支持に回っているということである。結果、政権与党内では保守派が勢力を増すことになる。

保守派はAfDにより親和的である。彼らが与党内で主流になれば、メルケル首相の理念が否定され、与党内がより極右寄りに傾斜していく可能性が高まる。

右派は左派よりもトランプ主義に取り込まれやすいのは自明の理だ。そうなればAfDの巻き返しも大いにあり得る。決して予断は許されない。

世界中で勢いを増しているトランプ主義は、2年後の米大統領選でトランプ大統領が再選を果たせば、もはや誰にも止められないほどの強いトレンドになるだろう。

そういう世界だからこそ、排外差別とネトウヨ・ヘイトイズムを信条とするトランプ主義に異を唱える者は、強い潮流に流されないよう決然とした態度で対抗しなければならない。

トランプ主義の行き着く果ての果てには、「いつか来た道」に至る陥穽が待ち受けている可能性が高い。トランプ主義は必ず阻止されなければならないのである。


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五つ星運動と同盟にも見るべきところはある



大EU旗に小イタリア旗重なってはためく


11月24日、イタリアのコンテ首相と欧州委員会のユンケル委員長は予算案をめぐって協議した。以後、2019年度のイタリア予算案に関する同国とEUの軋轢はどうやら緩和されつつある。

首相と委員長は、互いの見解の相違を埋めるためにイタリアとEUが作業を続け対話を絶やさないことで合意。結果、イタリアとEU双方が鋭く対立していた空気がにわかに和らいだ。そこにはイタリアポピュリスト政権の譲歩がある。

イタリア政府の実質上の首班であるディマイオ及びサルヴィーニの両副首相は、彼らの主張する政策が予算案に盛り込まれる限り、GDP比率2,4%とした財政赤字目標を引き下げても構わない、とそれぞれ述べた。

望ましい方向に事態が動き出したのは、温和な手法と物腰で国民的人気を集めつつあるコンテ首相の手柄だが、いうまでもなくその背景には極論主義者である政権党の五つ星運動と同盟の軟化がある。

イタリアの過激論は国内の政治勢力が四分五裂している分、反対勢力を取り込もうとして過激派がより穏健派へとシフトする、というのが僕の持論である。

過激論者あるいは極論者の五つ星運動と同盟が先鋭な主張を和らげたのは、EUからの強い批判と修正圧力に加えて、イタリア独特のその政治風土が影響したと考えるべきだ。

連立政権を組む両者は、ひと口で説明すれば極左と極右のポピュリスト政党、というくくりが該当する組織であることに変わりはない。しかし、彼らの主張の全てが悪だとは僕は考えない

五つ星運動の看板政策のうち、一律一月あたり10万円余の現金を貧困層にバラまく(ベーシックインカム保障)という主張は、常軌を逸した愚策である。

イタリア政府にはそんな財源の余裕はなく、なによりも10万円余りもの現金を受け取る国民の多くは、働く気をなくしてますます失業者が増えるのが目に見えているからだ。

社会の分断と格差が開いて貧困にあえぐ人々が増大している。それらのうち真に生存の危機にさらされている人々は言うまでもなく救済されなければならない。

だが膨大な数の国民に現金を配るとする五つ星運動の施策は、国の援助や保障を「当然」と考える傾向が強い国民性を考えた場合、とても正当な策には見えない。人々は悪知恵を絞って無償の金を激しく希求するだろう。

特にイタリア南部に巣食う犯罪組織の存在も不安を掻き立てる。マフィア、カモラ、ンドランゲッタなどの犯罪グループは、あの手この手を使って政府支出の公的資金を食い尽くそうとしのぎを削るに違いない。

犯罪組織の被害に遭うのは、政府が救いたいとする貧困層の人々そのものである。悪のシンジケ-トは、あらゆる局面でそうであるように、弱者を食い物にして肥え太る。ベーシックインカムの数兆円の多くが、彼らの懐に納まるのは既定の路線、と断じても過言ではない。

だが五つ星運動は、弱者に寄り添う姿勢の延長で、特権にどっぷりと浸っている国会議員の給与や年金を削る、とする良策も推進している。

またベルルスコーニ元首相に代表される腐敗政治家や政党を厳しく断罪することも忘れない。6月の連立政権発足にあたっては、連立相手の同盟にベルルスコーニ氏を排除しろ、と迫って決して譲ることがなかった。

一方同盟は、反移民を旗印にする排外差別主義政党である。アメリカのトランプ大統領を賛美し、フランスの極右政党国民連合を始めとする欧州の極右政党と連携を強めている。

彼らは個人事業者を中心とするイタリア北部の富裕層の支持を背景に勢力を拡大した。本来は五つ星運動の基幹政策であるベーシックインカム保障策には真っ向から反対の立場だが、連立協議の中でしぶしぶ受け入れた。

その代わりに彼らは一律15%の所得税導入を声高に叫ぶと同時に、五つ星運動に同調して年金給付年齢の引き下げも主張。彼らもバラマキ政策が十八番なのである。

同盟の施策の中で唯一賛同できるのは、自己防衛の厳格化だ。イタリアでは外国人による凶悪犯罪が増えている。いうまでもなくイタリア人犯罪者のそれも多い。

強盗に襲われた者が殺害されるケースも増大し、それに従って銃などの武器で反撃する被害者も増えた。ところが被害者の護身行為を過剰防衛として非難する人々もイタリアにはまた多い。

その大半は同盟の右派強硬路線に反対するリベラル勢力である。彼らは強盗に襲われ、殺害されても被害者は黙ってそれを受け入れろ、と主張しているようなものだ。そんな理不尽が許されていいはずがない。

それに対して同盟は、強盗に襲われた被害者の反撃を全て正当防衛と認めろ、と主張している。そうなれば過剰防衛が増大するのは目に見えている。しかし、そもそも他人の家や施設に侵入すること自体が間違っている。

「殺される前に殺す」といえば物騒だが、被害者が自己防衛のために行動を起こすことは止むを得ない状況ではないか。僕はその点では同盟の言い分を支持する。

また彼らが「不法な」難民移民を受け入れない、とする施策にも賛成せざるを得ない。地中海を介してイタリアに流入する難民移民は後を絶たない。

イタリアはほぼ無制限にそれらの人々を入国させ、一部はイタリア自身にまた大半が他のEU諸国に移動し居住する手助けをしてきた。だがそれは財政的にも心理的にも限界に近づいている。

厳しい政策を実施することで、真に困窮している難民や移民までもが排斥される危険が生じる。いや必ずそうなるだろう。残念なことだが、イタリアはいったんその方向に動いて、今後の方策を冷静に固める時期に来ていると思う。

EU信奉者である僕は、五つ星運動と同盟の主張や政策の9割ほどには違和感を持つ。しかし彼らの信条の1割程度にシンパシーを感じるのも事実だ。

そしてその1割程度の主義主張とは、イタリアに「革命的変革」をもたらすほどにインパクトのある政策ばかりだ。EUも重要だが、そのEUとイタリアの強烈な変革もまた必要、と思うのである。

イタリアの予算案をめぐる合意、つまりイタリア側の赤字目標引き下げの具体的な数字とEUの受け入れはまだ先の話で、双方の駆け引きとけん制と化かし合いは依然として止まない。が、とにもかくにも対話が継続されるのは僥倖である。



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