【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2019年01月

「渋谷でテロ」という悪夢を招かないために



センター街入り口夜600



先日の記事で取り上げたテーマ、渋谷が変わったかどうか、若者オンリーの街かどうかなどの議論はさておき、渋谷で今もっとも目立つのは若者ではなく外国人である。渋谷センター街を歩くと欧米系の白人がよく目につく。だが日本人と見た目があまり違わないアジア人はきっともっと多いに違いない。

彼らの多くは観光客だが、多くはまた日本に滞在している人々であることは疑いがない。国内に留まっているそれらの人々と、新たに入ってくる外国人のうちの希望する者が、日本に定住することを認めるのか認めないのか、彼らを受け入れるのか受け入れないのか、日本人は真剣に考えるべき時期に来ている。受け入れると決めた場合、それは移民と同義語と心得るべきである。

外国人労働者とか移住労働者、あるいは出稼ぎ労働者、技能実習生、一時就労者、季節労働者など、など、と都合の良いように名前を変えてみても、彼らが移民であることの実態は変わらない。外国人労働者は全て移民と考えるほうが理にかなっている。

日本側の利便に基づいて働かせておいて用済みになったらさっさと帰国してもらう、という考えで外国人労働者を雇う者は、間違いなくレイシストであり排外主義者だ。なぜならそれらの人々は、相手が同じ日本人ならばそんな具合に冷たくは扱わないはずだから。

外国人を自らと同じ「普通の」人間である、と「普通に考えられない」者は誰もが皆、レイシストの素質を色濃く持っている、と認識しなければならない。そしておそらく日本人の8~9割がこの部類に入ると考えられる。

そこには積極的に人種差別的な言動をするような行動パターンは見られないが、何かにつけ白人種に遠慮したり無意識のうちに尊敬する一方で、アジア人や黒人などを「意識的にあるいは無意識に」見下したり忌諱したり揶揄したりする一般的な風潮があることは否めない。

そうした世間知らずな精神風土から派生する日本人の言動は、グローバル社会にあっては「知らなかった」で済まされるような甘い事案ではない。日本人は後進的な閉鎖社会を育むメンタリティーをただちに修正し、多様性を尊重する社会の構築に向けて動き出す必要がある。

外国人の受け入れを厳しく統制し移民政策は取らないと執拗に言い続けてきた安倍政権は、実習生などの名目での裏口入国の移民を黙認し続けてきたが、先日「改正出入国管理・難民認定法(改正入管法)」を成立させてついに「表玄関」からの外国人受け入れに本格的に踏み切り、事実上の移民政策を発進させた。

改正入管法には「特定技能1号」と「特定技能2号」という命名自体が既に人間を物として扱うような「差別的な」響きを持つ在留資格が設けられている。1号は家族の同伴が認められず2号はOKという、日本政府に都合の良い規定が明記されている。しかし人間はそんな風に型通りにあるいは機械的にあつかわれるべき存在ではない。

改正入管法によって入国した人々は、日本で生きていくうちに強い人間関係を構築したり、恋に落ち結婚し子供を持ったり、職場に必要不可欠な大切な人材になったり、と人として当たり前の生活を展開していくことだろう。そうなった時に5年の任期がきたから自分の国に帰れ、と強制すれば摩擦が生じるのは必至である。

また家族の同伴が認められる「特定技能2号」は、初めから移民そのものなのだから、「移民政策は取らない」という安倍首相得意の口先ごまかしの姑息な強弁をやめて、全ての国民に移民を認め共生する道筋をたどるよう、促し説得するべきである。

突然のようだが、沖縄で安倍政権の強権的且つ横暴な手法による辺野古移設工事が強行されても、日本には暴力による抵抗、つまり立ち位置が変わればテロと呼ばれかねない騒動は起きないことが最近明らかになってきた。それは良いことだが、沖縄の屈辱と悲運に目を向けた場合、果たしてそのまま済ませた方が是か非かは定かではない。

辺野古で起きている日本政府の横暴な行為に対しては、もしもそれが日本以外の国での出来事ならば、暴力的抵抗が起きていても決して不思議ではない。周知のように暴力を用いた抵抗運動は、それをされる側にはテロとして規定されるが、歯向かう側から見れば止むにやまれぬアクションであることがほとんどである。

ともあれ辺野古で住民の暴力抵抗が発生していない現実は、日本人が権力には羊のように従順であることを改めて示しているとも言えるわけだが、将来移民が多くなって多文化社会が出現したとき、人々が非民主的且つ強権的な安倍政権の手法を黙って受け入れるかといえば、それはおそらく難しいだろう。

安倍首相と取り巻きの権力機構は、いつもの伝で「移民政策は取らない」と姑息な口説を用いて真相を隠蔽しつつ改正入管法を成立させた。しかし、あくまでも「外国人労働者」の受け入れに過ぎない、とする在留資格「特定技能1号」と「特定技能2号」は、れっきとした移民肯定法である。

移民を受け入れること自体は悪いことではない。悪いことどころか、日本は今後は移民を受け入れることによってしか生き延びる道がないことは明らかだ。問題は、その「大問題」を矮小化して伝える政権のあり方である。そしてさらなる大きな問題は、それを受け入れる日本国民なのである。

安倍首相はもう姑息な強弁を止めるべきだ。滅びの美学にのっとって国が亡びることを人々が受け入れるなら構わない。だがそれは嘘だ。国民は皆生き延びたいはずである。それならば移民を受け入れるしかない。そうではなく、国と共に滅びたい、というのであれば、それは死にたくない子供を無理やり地獄に引きずり込む、無理心中と同じ奇怪な世界観だと言わなければならない。

ネット上にはびこっている右翼系の排外主義者らは、自らは何らかの方法で生き延びる画策をしておきながら、移民を受け入れるくらいなら共に滅びよう、という趣旨が密かに込められた欺瞞満載の主張をすることさえ厭わない。しかし彼らにだまされてはならない。

日本は生き延びるべきである。そのためには移民を受け入れるしかない。ならばより良く、より正直に、より真摯に生きるために彼らを「我ら」と同じように扱うべきだ。彼らは日本人と同じように教育を受け、社会福祉の恩恵に浴し、言うまでもなくきちんと税金も払ってもらう存在になるべきなのである。

そのうえで彼ら自身のルーツや文化を尊敬されつつ「日本人化」もまた受け入れてもらうのだ。それは矛盾するコンセプトに見えるが、決してそうではない。なぜなら彼らが日本の文化や伝統を心から尊敬していれば、彼らは自然に「日本人化」もしていくからだ。それは欧米諸国の移民を見れば明らである。

欧州に目を向ければ、主にイスラム過激派による近年のテロや反乱によって、あたかもイスラム系移民の全てが移住先の社会に適応できずにテロに走るような印象がある。だが決してそうではない。多くの移民は移住先の社会に受け入れられ適応しているのである。

言うまでもなくそこに順応できずに疎外感を深め、過激思想に染まりテロに手を貸し、挙句にはテロの実行犯になってしまう者もいる。それを無くすには移民が“郷に入らば郷に従え”の精神を持つことと、同時に移住先の国民が彼らを受容する精神を育むことが重要である。

決してやさしい問題ではないことは欧米の状況が物語っている。しかしその背後には多くの成功例があることも忘れてはならない。日本には2018年現在、既に128万人もの外国人労働者が働いているとされる。それが正しい数字ならば、不法労働者や不法滞在者を加えた数字はその2倍程度の可能性がある、と考えた方が現実的だ。

また日本の学校に在籍中の子供のうち、「日本語指導が必要な児童生徒」は4万4000人にものぼる。短期間で帰国する筈だ、あるいは帰国させる、との勝手な思い込みでそれらの子供たちに十分な教育を施さなければ、将来彼らは疎外され怒れる若者となって、欧州等で既に起こっているように暴力やテロに走る可能性も高くなる。

彼らをそのまま放置すれば、 たとえテロに見舞われなくても 、日本社会は増大する外国人によって破壊されてしまうだろう。現実を見つめて寛容でいるべきところは躊躇なく寛容に受け入れ、制限するべきところはきちんと制限し禁止し規定して、一日も早く「本音の」移民政策を掲げるべきである。

安倍政権が「必要な時だけ必要な数の人間」を受け入れて、要らなくなれば帰国してもらう、という都合の良い考えのみで政策を推し進めて行けば、近い将来渋谷のセンター街でテロが発生しても少しもおかしくない。言うまでもなくここでいう渋谷とは、東京中の、ひいては日本中の繁華街のことにほかならない。


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書きそびれていることども2019年1月23日 


600則①



《書こうと思いつつ優先順位が理由でまだ書けず、あるいは他の事案で忙しくて執筆そのものができずに後回しにしている時事ネタは多い。僕にとってはそれらは「書きそびれた」過去形のテーマではなく、現在進行形の事柄である。過去形のトピックも現在進行形の話題もできれば将来どこかで掘り下げて言及したいと思う。その意味合いで例によってここに箇条書きにしておくことにした。とはいうものの、これまでではそうやって記録しておいたテーマを改めてじっくりと考察し書き上げたものは少ない。次々と書くべき題材が増えていくからだ。それは刻々と過ぎる時間と格闘するSNSでの表現の良さであり同時に欠点である。ともあれ時事ネタを速報するのが目的ではなく、それを観察し吟味して自らの考えを書き付けるのが僕のブログのあり方なので、『いつか書くべきテーマ』というのは自分の中ではそれなりに意味を持つのである。いつも、「いつか実際に書く」つもりでいるので。。。》

1.サルヴィーニ副首相と安倍首相は一卵性双生児
イタリアのマッテオ・サルヴィーニ副首相は日本の安倍晋三首相に似ている、とよく思う。2人の見た目はひどく違っている。サルヴィーニさんはネクタイ姿が全く似合わない、いわばワイルドな野獣。一方の安倍さんは育ちの良さがにじみ出た都会風の紳士である。でも2人の腹の中身は同じ。極論者は右も左も言動が酷似して区別がつかなくなるが、当事者たちは彼我は大いに違うと考えそう主張する。そのあたりはある意味で正直だ。サルヴィーニ同盟党首兼副首相は、そういう正直な政治家である。安倍首相にはその点での真率がない。そして怖いのは、彼自身が意識して腹の中身を隠すのではなく、首相自身の人となりが腹の中身を自然に消し去るふうに見える点だ。だが彼は、サルヴィーニ同盟党首兼副首相に酷似した危うい政治家である。

2.「ボヘミアン・ラプソディ」
昨年末、「ボヘミアン・ラプソディ」を観た。実はいろいろな場所でいろいろな人がいろいろなことをケンケンガクガク言ってることに触発されて映画館まで足を運んだ。結論を言えば、おおいに楽しんだ。映画の王道を行っていると思った。 「ボヘミアン・ラプソディ」は普通に優れたエンターテインメント映画だ。ただそれだけなのに、いろいろと理屈っぽい人たちがウンチクや分析や考察やダメ出しを、衒学的な表現を用いたり,なまはんかな知識を振り回したりして、あれこれとへ理屈を開陳しているのを面白がった。かなり前の話になるが、スーパーマン(1978年の映画)が世に出たとき、シチリア人の友人がバカバカしい映画で全くつまらんと憤慨したのを思い出した。「ボヘミアン・ラプソディ」を否定的に語る人々は僕のその友人に似ている。

3.台湾~不潔な楽園
台湾の魅力と不衛生力について。台湾は楽しい島だが不潔な印象も強い。彼我の衛生観念の相違はおそらく中国本土との比較にも当てはまることだろう。そう考えると僕は中国旅行への興味をすっかり殺がれてしまった。それでも台湾が好きなことに変わりはない。離島で生まれ育った僕には、島の文化やあり方や「島人」のメンタリティーが結構分かる、と自負している。それは台湾の場合も同じ、と感じる。

4.ノーベル賞文学の退屈は純文学の退屈と同じ。
カズオ・イシグロの作品は、初め数ページ読んで挫折。しかし、なぜ退屈かを見極めるために拷問を承知で読破することにし、本当に読破した。すると静謐な筆致が好ましいと分かった。執事という英国の文化に触れた喜びもあった。だがいわゆる純文学に属する文体とテーマと細部フェチの全体像は、やはりつまらない。ノーベル賞の作家に共通する退屈が満載である。つまり「特殊」な文学ジャンルに属する作品なのだ。その特殊な文学ジャンルのノーベル賞作家で、僕にとって唯一面白いのはガルシア・マルケスだけ。川端康成も大江健三郎もその観点で言えば実はつまらない。

5.「流転の海」完結をことほぐ
宮本輝の長編小説の完成は日本文学の金字塔とも形容されるべき偉業だと思う。骨太の人間ドラマを僕は楽しみつつ学びつつ読み続けてきた。多作の天才の一人である宮本輝は、カズオ・イシグロよりも優れた物書きだ。「ノーベル賞系」の作家ではないから、ノーベル賞をもらう可能性は非常に低いが、ノーベル賞が「優れた作家・作品に与えられる賞」と世の中に思い込まれていることを思えば、彼にもぜひその賞を授与してほしい、と思う。僕の宮本輝体験は芥川賞受賞作品の「蛍川」始まり、オムニバス長編「夢見通りの人々」のうちの“肉の鏡”によって決定的に重要になった。 流転の海はまだ6巻までしか読んでいない。食事の際おいしいものをよけておいて、「後で食べる喜び」をかみしめるように、最後の3巻のページを開かないまま眺めたり想像したりして楽しんでいる。

6.銃の重さ
銃を扱う訓練を始める計画である。1994年、イタリア、シチリア島で長期ロケをしていたとき、仕事の合い間をぬってカメラマンのマッシミリアーノ・Tの自宅に招待された。そこは偶然にも、反マフィア闘争の英雄パオロ・ボルセリーノ判事が1992年にマフィアに爆殺されたダメリオ通りにあった。そこでTが合法的に取得・登録済みだという拳銃を見せてくれた。護身用だという。実弾も装填されているそれを手に取ったとき、ずしりと重い感触がそのまま強い不安感に変わった。今にも暴発しそうなイヤな感触だった。僕は引き金に指を掛けた訳でもなくグリップさえ握らずに、銃を寝かせたまま全体を手の平に乗せて軽く包み込むように持っているだけである。怖い気分、イヤな感じはそのまま残った。それは僕の屈辱になった。人間が作った道具を僕はそれへの無知ゆえに激しく恐怖した。それが僕に屈辱感を与えた。武器に関わる恐怖心の実相は二つある。一つは武器と武器を持つ人間とが犯す事件やその可能性への恐怖。もう一つは武器そのものへに恐怖である。これは「知らない」ことから来る恐怖だ。僕はその恐怖を克服するために武器を勉強することにした。まず猟銃から始めた。猟をする気は毛頭ないが、素人には猟銃のほうが扱いやすい、という友人の軍警察官のアドバイスに従った。そうやって猟銃は平穏に扱えるようになった。これから拳銃の訓練を受ける予定である。恐怖の克服が第一義の理由だが、イタリアの特殊な家に住んでいる僕の私的な事情と、将来あり得るかもしれない状況に備える意味も、実はひそかに思っている。

7.イタリアでテロが起きない理由(わけ)
欧州ではイスラム過激派によるテロが相次いでいる。もしかすると収まったのかと見えていた2018年12月12日、フランスでイスラム過激派によるテロがまたもや起きた。容疑者は拳銃やナイフで通行人を襲い、2人が死亡10数人が重軽傷を負った。フランスでは2015年に130人が死亡するISのテロが発生するなど、繰り返しイスラム過激派の脅威にさらされている。英独ほかの欧州主要国なども同様だ。その中で執拗な襲撃予告を受けながらもイタリアは今のところテロを回避できている。意外に見えるかもしれないがそれはイタリア警察が有能であることの証である。イタリア警察はテロ防止を目指して熾烈な闘いを続けている。

8.お騒がせな五つ星運動?
イタリア連立政権の一翼を担うポピュリストの五つ星運動は、突飛な主張やキャンペーンを繰り広げて人心を騒がせると同時にそれを掌握するにも長けた政党である。五つ星運動所属でローマ史上初の女性市長、ヴィルジニア・ラッジ氏も自らの政党を代弁するような驚きの言動に事欠かない。その一つがヤギや羊やその他の動物を市内の公園や歴史的建造物の庭園に放牧して、草や木々の葉を食べさせて清掃させようという考え。財政難が続く永遠の都の台所を救い環境保護にも役立てる、と主張した。五つ星運動と犬猿の仲の前政権与党民主党は、ゴミをカモメに食べてもらうアイデアに続くラッジ市長の懲りない荒唐無稽な言動、と一笑に付すと同時に、彼女は次は蚊退治のためにヤモリの大群をローマに導入しようと言い出すに違いない、などと嘲笑している。でもカモメやヤモリはさておくとして、ヤギや羊に公共の施設の草を食べてもらう、というのは悪い考えではないかもしれない。。。



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オヤジには「アレルギーバケツ理論」が似合う



紅斑拡大600




還暦過ぎの男が突然アレルギーに見舞われた。食物アレルギー「らしい」。まだ正式な検査をしていないので「らしい」と書くが、薬剤師や医師によればおそらく食べ物、それも魚介だろう、という診たてである。

体中に紅斑ができ、顔も真っ赤になり鼻下から顎までの皮膚がかさかさに乾燥するようだった。かゆみや痛みや緊張はそう強くはなかったが、不快感が大きい。

ところが病院で医者にかかるまでもなく、付き合いの長い薬剤師の処方した薬で効果てきめん、症状が目に見えて収まった。そこまでがイタリアでの話。

すっかり良くなって安心して帰国した。薬のあまりの効果抜群ぶりに気を良くして、というのか、妙に自信を得て、東京でも帰郷先の沖縄でもあらゆる料理を普通に食べ続けた。いや、食べまくった。

クリスマスを故郷の島で過ごした夜も魚介類を含む多くの料理を食べた。するとその翌日再び症状が出た。島の診療所で診察を受け、アレルギーの薬を処方してもらった。

しかし今回はあまり薬の効果がなく、顔と上半身に見えるアレルギーの症状が収まらなくなった。それは新年を経て台湾旅行をする間も執拗に出つづけた。台湾では魚介料理を一切食べなかった。

台湾から沖縄に戻り、病院の皮膚科を訪ねて塗り薬を処方してもらった。アレルギーの薬を飲むかたわら皮膚に塗り薬をすりこむと、嘘のように症状がやわらいだ。

イタリアでは飲み薬が効き、日本では塗り薬がてきめんに効果を発揮した。だがそれが何を意味するのかは医師も良くは分からないらしい。イタリアに戻って徹底的に検査をしてもらうつもりでいる。

イタリアでの検査は150種以上の食物へのアレルギー反応を調べると聞いた、と医師に告げると、日本ではそんなに多くの種類の検査はない、と驚いていた。どうやらイタリアのアレルギー医療は悪くないらしい。

帰国前にイタリアで最初の症状が出たとき、実はすぐに検査をすると決めていた。だが日本へ帰る直前だったので、迷わずに先送りにした。

また既述したように症状も薬ですぐに収まったので、検査は日本から戻ってからで構わないと思った。そればかりではなく、病気を少し甘く見てしまったきらいもある。

反省すると同時に、良く言われる「アレルギーバケツ理論」というのは正しいのではないか、と真剣に考えたりしている。これまで何の問題もなく食べ続けてきた魚介に当たった(らしい)ことが不思議でならないのだ。

「アレルギーバケツ理論」とは、生まれながらに持っている自分の体内のアレルゲンの入れ物(バケツ)があふれると突然発症する 、というもので俗説であり間違いだとされる。

だがアレルギー反応の説明には、境目や境界やボーダーなどを意味する"閾値(いきち)"というコンセプトもあって一筋縄ではいかない、と言われるのもまた現実だ。

要するに、誰でも持っている可能性があるアレルギー発症のスイッチが、いつどこでどのように反応するかはまだ謎のままなのである。

これまでいつでもどこでも、食べたいだけ食べてきた魚介類に、拒絶反応が起こって突然発症したのは、僕の体内のアレルゲン貯蔵庫が満杯になって溢れてしまったから、と考えれば辻褄があうようだ。

要するに僕は、生まれながらに決められていた食べるべき魚介類の量を既に消費してしまい、もうこれ以上は食べてはならない、と神様に告げられたようなものだ。

だが僕は、魚介が食べられないなら死んだ方がまし、と思うほど海鮮料理が好きだ。必ず原因を突き止めて、その素材(タコかエビか貝が怪しい)だけを除いてまた食べまくってやる、と決意しているのである。



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クリスマスもどきの日本のクリスマス



高穴海ヒキ800
2018年クリスマス当日の島の海、風雨強く寒かった



25年ぶりに年末年始を日本で過ごしている。正確には故郷の沖縄で。

大小の喜びや驚きや発見を楽しんでいるが、これまでのところ特に大きな2つの発見があった。

一つは沖縄の寒さ。12月の半ばに東京経由で沖縄に着いた。直後の2日間は夏日に近い気温だった。ところがそれ以後は温度が下がり、風雨が強まって連日寒い。

低温とはいうもののせいぜい14℃。良く下がって13℃程度だ。ところが風が強いため体感温度がひどく低い。そこに冷たい雨の追い打ち。震える寒さになる。

また屋内でも、暖房設備がないために、空気や床や壁が冷えている。イタリアを出た日の最低気温は-4℃だった。大げさではなく、イタリアの-4℃の方が沖縄の今よりも暖かったような気さえする。

むろんそこには大きな心理的な要因が作用している。暖かいのが当たり前のはずの沖縄の寒さは、驚きと「ガッカリ」のダブルパンチを伴って胸を撃ち、それが物理的冷温と相まってさらに寒さが増幅される。

僕の場合には特に「ガッカリ」の差し響きが大きく、寒さの度合いがますます深まってしまう。そうなると気分に反映される冷寒がほとんど大げさな領域にまで到達するのである。

なにしろ「沖縄旅行の最適な季節はいつ?」と聞かれると「断ぜん冬。なぜなら冬がないから」と答えるほど沖縄の暖かい冬を愛している僕には、寒い沖縄などもってのほかなのだ。

もう一つの大きな発見はクリスマスの無意味さ。日本におけるクリスマスはいわば「空(くう)」という驚きである。

過去25年間、イタリアで過ごすクリスマスでは宗教や信仰や神について考えることがよくあった。考えることが僕の言動を慎重にし、気分が宗教的な色合いに染められていくように感じた。

それは決して僕が宗教的な男だったり信心深い者であることを意味しない。それどころか、僕はむしろ自らを「仏教系無神論者」と規定するほど俗で不信心な人間である。

だが僕は仏陀やキリストや自然を信じている。それらを畏怖すると同時に強い親和も感じている。ここにイスラム教のムハンマド を入れないのは僕がイスラム教の教義に無知だからだ。

それでも僕はイスラム教の教祖のムハンマドは仏陀とキリストと自然(神道核)と同格であり一体の存在でありコンセプトだと信じている。いや、信じているというよりも、一体あるいは同格の存在であることが真実、という類の概念であることを知っている。

ところが、そうやって真剣に思いを巡らし、ある時は懊悩さえするクリスマスが、まさにクリスマスを日本で過ごすことによって、それが極々軽いコンセプトに過ぎないということが分かるのである。

当たり前の話だが、クリスマスは日本人にとって、西洋の祭り以外の何ものでもない。つまり、それは決して「宗教儀式」ではないのである。従ってそこにはクリスマスに付随する荘厳も真摯もスタイルもない。

なぜそうなのかといえば、それは日本には一神教の主張する神はいないからである。日本にいるのは八百万の神々であり、キリスト教やイスラム教、あるいはユダヤ教などの「神」は日本に到着すると同時に八百万の神々の一つになる。

言葉を変えれば、一神教の「神」を含むあらゆる"神々"は、全て同級あるいは同等の神としてあまねく存在する。唯一神として他者を否定してそびえたつ「神」は存在しない。

一神教の信者が言いつのる「神」、つまり唯一絶対の神は日本にはいない、とはそういう意味である。「神」は神々の一、としてのみ日本での存在を許される。

自らが帰依する神のみならず、他者が崇敬する神々も認め尊重する大半の日本人の宗教心の在り方は、きわめて清高なものである。

だがそれを、「日本人ってすごい」「日本って素晴らし過ぎる」などと 日本人自身が自画自賛する、昨今流行りのコッケイな「集団陶酔シンドローム」に組み込んで語ってはならない。

それというのも他者を否定するように見える一神教は、その立場をとることによって、他の宗教が獲得できなかった哲学や真理や概念―たとえば絶対の善とか道徳とか愛など―に到達する場合があることもまた真実だからだ。

また一神教の立ち位置からは、他宗教もゆるやかに受容する日本人の在り方は無節操且つ精神の欠落を意味するように見え、それは必ずしも誤謬ばかりとは言えないからだ。

あらゆる宗教と教義には良し悪しがあり一長一短がある。宗教はその意味で全て同格でありそれぞれの間に優劣は存在しない。自らの神の優位を説く一神教はそこで大きく間違っている。

それでもなお、自らの「神」のみが正しいと主張する一神教も、あらゆる宗教や神々を認め尊重する他の宗教も、そうすることで生き苦しみ悩み恐れる人々を救う限り、全て善であり真理である。

日本人は他者を否定しない仏教や神道やアニミズムを崇めることで自から救われようとする。一神教の信者は唯一絶対の彼らの「神」を信奉することで「神」に救われ苦しみから逃れようとする。

日本には一神教の「神」は存在しない。従ってそこから生まれるクリスマスの儀式も実は存在しない。日本人がクリスマスと信じているものは、西洋文明への憧憬と共に我われが獲得したショーとしてのクリスマスでありクリスマス祭なのである。

それはきわめて論理的な帰結だ。なぜなら宗教としての定式や教義や規律や哲学や典儀を伴わない「宗教儀式」は宗教ではなく、単なる遊びであり祭りでありショーでありエンターテインメントだからである。

それは少しも不愉快なものではない。日本人はキリスト教の「神」も認めつつ、それに附帯するクリスマスの「娯楽部分」もまた大いに受容して楽しむ。実にしなやかで痛快な心意気ではないか。



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