【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2019年02月

アートに救われた人殺しの村



加筆再録

前景老人&奥の3階家壁600
 


イタリア、サルデーニャ島に集落中の建物が壁画で覆われた村があります。深い山中にあるオルゴーソロ(Orgosolo)です。人口約4500人のその村は、かつて「人殺しの巣窟」とまで呼ばれて悪名を馳せていた犯罪者の拠点集落。

犯罪者の拠る場所は往々にして貧民の集落と同義語です。山賊や殺人鬼や誘拐犯らがたむろしたかつてのオルゴーソロは、まさにそんな貧しい村でした。イタリア本土の発展から取り残された島嶼州サルデーニャの、さらに奥の陸の孤島に位置していたからです。

一般社会から隔絶された山中の村人は、困窮する経済状況に追い詰められながらも、外の世界との付き合いが下手で不器用なために、それを改善する方策を知りませんでした。貧しさの中に溺れ、あがき続けていたのです。

そのためにある者は盗みに走り、ある者は誘拐、また別の者は強盗や家畜略奪などに手を染めました。また残りの村人たちは、隣人であるそれらの実行犯を助け、庇護し、官憲への協力を拒むことで共犯者となっていきました。

犯罪に基盤を置く村の経済状況が良くなることはありませんでした。それどころか、外部社会から後ろ指を指される無法地帯となってさらに孤立を深め、貧困は進行しました。かつてのオルゴーソロの現実は、イタリア本土の発展に乗り遅れたサルデーニャ島全体の貧しさを象徴するものでもあります。

イタリア半島の統一に伴ってイタリア共和国に組み込まれたサルデーニャ島は、イタリア国家の経済繁栄にあずかって徐々に豊かになり、おかげでオルゴーソロの極端な貧困とそこから発生する犯罪も少づつ姿を消していきました。

第2次大戦後初の経済危機がイタリアを襲った際、国が村の土地を接収しようとしました。それをきっかけに村人の反骨精神が燃え上がります。彼らは国への怒りを壁画アートで表現し始めました。山賊や殺人犯や誘拐犯らはイタリア本土の支配に反発する愛郷心の強烈な人々でもあったのです。

アナキストなどが先導する反骨アーチスト集団は、村中の家の壁に地元の文化や日常を点描する一方、多くの政治主張や、中央政府への抗議や、歴史告発や、世界政治への批判や弾劾などを描きこんで徹底的に抵抗しました。1960年代終わりのことです。

だが実は、オルゴーソロはサルデーニャ島における壁画アートの最大の担い手ではありますが、それの先駆者ではありません。島南部の小さな町サン・スペラーテの住民が、観光による村興しを目指して家々の壁に絵を描いたのが始まりでした。

それは島の集落の各地に広まって、今では壁画アートはサルデーニャ島全体の集落で見られるようになりました。特に内陸部の僻地などにに多いのが特徴です。そこは昔から貧しく。今日も決して豊かとは言えない村や町が大半を占めています。

そうした中、かつての犯罪者の巣窟オルゴーソロは、インパクトが大きい強烈な政治主張を盛り込んだ壁画を発表し続けました。それが注目を集め、イタリアは言うに及ばず世界中から見物者が訪れるようになっています。

外部からの侵略と抑圧にさらされ続けた島人が、「反骨の血」を体中にみなぎらせて行くのは当然の帰結です。そこに加えて貧困があり、「反骨の血」を持つ者の多くは、既述のように貧困から逃れようとして犯罪に走りました。

イタリア共和国の経済繁栄に伴って村が犯罪の巣窟であることを止めたとき、そこには社会の多数派や主流派に歯向かう反骨の精神のみが残りました。そして「反骨の血」を持つ者らが中心となって壁画を描き始め、それが大きく花開いたのがオルゴーソロの壁画アートなのです。

サルデーニャ島は、イタリア共和国の中でも経済的に遅れた地域としての歩みを続けてきました。それはイタリアの南北問題、つまり南部イタリアの慢性化した経済不振のうちの一つと捉えられるべきものですが、サルデーニャ島の状況は例えば立場がよく似ているシチリア島などとは異なります。

まず地理的に考えれば、サルデーニャ島はイタリア本土とかけ離れたところにあります。地中海の北部ではイタリア本土と島は割合近いものの、イタリア半島が南に延びるに従って本土はサルデーニャ島から離れていく形状になっています。

一見なんでもないことのように見えますが、その地理的な配置がサルデーニャ島を孤立させ、歴史の主要舞台から遠ざける役割も果たしました。イタリア半島から見て西方、あるいは「アフリカ側にある」と考えられた島は軽視されたのです。

錯覚に近い人々の思い込みは、先史時代のアラブの侵略や後年のイスラム教徒による何世紀にも渡る進入・支配など、島が歩んで来た独特の歴史と相俟って、サルデーニャをイタリアの中でもより異質な土地へと仕立て上げていきました。

島の支配者はアラブからスペインに変り、次にオーストリアが名乗りを上げて最終的にイタリア共和国になりました。以後サルデーニャ島は、イタリアへの同化と同時に自らの独自性も強く主張する場所へと変貌し、今もそうであり続けています。

島が政治・経済・文化的に本土の強い影響を受けるのは、あらゆる国の島嶼部に共通する運命です。また島が多数派である本土人に圧倒され、時には抑圧されるのも良くあることです。

島は長いものに巻かれることで損害をこうむりますが、同時に経済規模の大きい本土の発展の恩恵も受けます。島と本土は、島人の不満と本土人の島への無関心あるいは無理解を内包しつつ、「持ちつ持たれつ」の関係を構築するのが宿命です。

ある国における島人の疎外感は、本土との物理的な距離ではなく本土との精神的距離感によって決定されます。サルデーニャ島の人々は、イタリアの他の島々の住民と比べると、「本土との精神的距離が遠いと感じている」ように筆者には見えます。

そうしたサルデーニャ人の思いが象徴的に表れているのが、オルゴーソロの「怒れるアート壁画」ではないか、と筆者は以前から考えていました。だから島に着くとほぼ同時に筆者はそれを見に行かずにはいられませんでした。

抗議や怒りや不満や疑問や皮肉などが、家々の壁いっぱいに描かれたアート壁画は、芸術的に優れていると同時に、村人たちの反骨の情熱が充溢していて、筆者は自らの思いが当たらずとも遠からず、という確信を持ったのでした。


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オ~イ沖縄!今のままでいいんか~いイイイい!


県民投票公式サイトから



辺野古移設反対が多数を占めた県民投票の結果を受けても、安倍政権が「基地負担を軽減するため辺野古に新基地を作る」と沖縄を愚弄する言葉を吐き続けるなら、もはや島はさらなる苦難を承知で独立を志向したほうがいいのかもしれない。

その場合沖縄が味方に付けるべき相手は中・露・北朝鮮のうちの1国。または3国全て。民意を無視する安倍一強はしょせん独裁体制。毒をもって毒を制する。

逆転の発想もある。アメリカをたきつけて沖縄独立を後押しさせるのだ。これも毒をもって毒を制するコンセプトの一つである。

トランプ米大統領はゴロツキ独裁政治家という意味で習近平、プーチン、金正恩と何も変わらない。彼が北朝鮮の独裁者とウマが合うのもそれが理由だ。

安倍強権内閣と鋭く対立している今の韓国も沖縄のパートナーになり得る。韓国に「恨の心」がある限り彼らは沖縄の屈辱も理解するだろう。

懸念は沖縄がそれらの大国に呑み込まれて、安倍政権下の“植民地”状態を脱して新たに彼らの「植民地」になってしまうことだ。韓国や北朝鮮でさえ沖縄に較べれば大国だ。

沖縄が中国に於ける「チベット化」を避けるには、大きな知恵と勇気と策略が必要だ。そこを踏まえて熟考に熟考を重ねて行動を起こさなければならない。

幸い沖縄には、大国の間隙を縫って独立を保った奇跡のミニ国家、琉球王国の伝統とノウハウがある。それを活かせば道が開けるだろう。

だが沖縄が目指すべきは断じて琉球王国の再興ではない。琉球王国とはなにか?それは幕藩体制の日本や当時の世界のほとんどの国と同様の、未開で野蛮な超独裁国家に過ぎない。

琉球王国の場合は、その上に「ミニチュアの」というまくら言葉が付くだけだ。未開の、超ミニチュアの、超独裁国家が琉球王国なのである。

沖縄はそんな邪悪な国家体制を目標にしてはならない。琉球王国は蔭なるものである。

沖縄は民主主義体制の、貧しくても「“明るい”沖縄共和国」を作り上げるべきだ。

個人的には僕は沖縄の独立には真っ向から反対する立場である。

だが沖縄が本気で独立に向けて立ち上がるなら、そしてもしも必要なら、僕はここイタリアを引き払ってでも、故郷の島に移り住み闘いに参加しようと思う。

そうなった暁には、人生またさらに面白くなるゾ。




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二重国籍の大坂なおみ選手は今よりももっと日本の宝物



似顔絵タテ600切り取り
大坂なおみ&蓮舫

テニスの大坂なおみ選手の国籍問題で沸騰した日本の国内世論が、熱しやすく冷めやすい国民性をモロに発揮して急激に静まっているようだ。日系人関連事案や国籍問題などのグローバルな設問は、国内土着の日本人には難解きわまるテーマだからだろう。

国籍問題といえば、2016年に起きた蓮舫元民進党代表の二重国籍問題が思い出される。当時は蓮舫氏へのバッシングのピークが過ぎてもしつこくそれを取り上げる人々がいて、問題の大きさをうかがい知ることができた。

排外・民族主義者の言い分

二重国籍(問題)に青筋を立てて「反対」の蛮声を上げ続けるのは、たいてい保守排外主義者である。中にはリベラルを自称したり、「2重国籍を歓迎する国はない」などと独善的な言説を弄する民族主義者もいる。

それらの人々の大半はいわゆる嫌韓・嫌朝・嫌中派のナショナリストで、特に在日韓国・朝鮮人の人々への日本国籍付与に危機感を抱いているケースが多いようである。彼らの懸念は理解できないことではない。

日本に敵愾心を抱いている在日外国人に日本国籍を与える必要はもちろんない。必要がないどころかそれは大きな間違いでさえある。しかし彼らの多く、特に日本で生まれ育った人々は、日本への親愛の念も強く持っているに違いない。

そうした人々に例えば宣誓や署名文書など、順法精神を徹底させる方法で日本への尊敬や忠誠を明確に示してもらい、且つ違反した場合には日本国籍をただちに剥奪する、などの条項を設けて国籍を付与することは国益にかなうことだ。

なぜなら彼らは日本と彼らの出身国との間の架け橋になり得るし、なによりも
「外国人」の目でも日本を見、理解し、発言して日本文化の多様性を広げ、深め、豊かにしてくれることが期待できる。ネガティブな側面ばかりではなく、日本社会に資する側面も考慮して国籍問題を論するべきである。

排斥ではなく抱擁することが国益

二重国籍を有する者は今の日本では、本人が外国で生まれたり、生まれた時に両親が外国に滞在していたというケースなどを別にすれば、大坂なおみ選手のように日本人と外国人の間に生まれた子供、というケースが圧倒的に多いと考えられる。

理由が何であれ、そうした人々は日本の宝である。なぜならば、彼らは日本で育つ場合は言うまでもなく、外国で育っても、いや外国で育つからこそ余計に、自らのルーツである日本への愛情を深く心に刻みつつ成長していくことが確実だからだ。大坂選手はその典型のようにも見える。

そんな彼らは将来、日本と諸外国を結ぶ架け橋になる大きな可能性を秘めている。日本を愛するが日本国籍は持たない人々、すなわち親日派や知日派の外国人は世界に多くいる。われわれはそうした人々に親近感を持つ。彼らの態度を嬉しいと感じる。

ましてや二重国籍の日本人は、黙っていても日本への愛情や愛着を身内に強く育んでいる人々がほとんどなのだから、純粋あるいは土着の日本人が、彼らに親近感を抱かない方がおかしい。彼らを排斥するのではなく抱擁することが、国益にもつながるのだ。

例えばブラジルで生まれ育った二重国籍の日本人が日本に住む場合、あるいは彼らが日本社会の慣習や文化を知らないために周囲とトラブルや摩擦を起こすこともあるだろう。そのときには無論、彼らが日本の文化風習を理解しようと努力することが第一義である。

同時に日本で生まれ育った土着の日本人も、彼らの心情を察してこれを受け入れ抱擁する寛容さが必要である。それを逆に相手が悪いとして一方的に排撃する者は、グローバル世界の今のあり方を解しない内向きの民族主義者、と見られても仕方がないのではないか。

国防ではなく安全保障を見据えるべき

二重国籍者を憎悪する排外民族主義者らは、多くの場合文化や心情や人となりで物事を理解するのが不得手だ。そうした人々は、日本人に限らずどの国の者でも、暴力的なコンセプトで世界を捉える傾向がある。そこでそうした人々にも分かりやすい言葉で解説を試みようと思う。

二重国籍者を排撃しようとするのは、喧嘩や暴力や戦闘を意識して力を蓄えて、それを行使しようとする態度に近い動きだ。つまり国家戦略で言えば「国防」の考え方である。先ず戦争あるいは暴力ありき、のコンセプトなのだ。

これに対して二重国籍者を受け入れるのは「安全保障」の立場だ。つまり、抑止力としての軍備は怠りなく進めながらも、それを使用しないで済む道を探る態度。言葉を替えれば友誼を模索する生き方、のことである。

たとえば蓮舫議員のケースを考えてみよう。彼女をバッシングする人々の中には、台湾との摩擦があった場合、台湾国籍の彼女は日本への忠誠心が希薄なので、日本の不利になるような動きをして台湾に味方するのではないか、という疑問を呈する者がいる。

その疑念は理解できることだ。そういう危険が絶対にないとは言えない。しかし、こうも考えられる。彼女は台湾国籍を持っているおかげで台湾との対話や友誼の構築を速やかに行うことができ、そのおかげで日台は武力衝突を避けて平和裡に問題解決ができる、という可能性も高くなるのである。

これを疑う人は、フジモリ元ペルー大統領のケースを考えてみればいい。われわれ日本人の多くはフジモリ大統領に無条件に親近感を抱いた。彼が日本にルーツを持っていたからだ。それと同じように台湾や中国の人々は、日本の指導者である蓮舫氏が、台湾にルーツを持っている事実に親近感を抱くことだろう。

それは彼らの敵愾心を溶かしこそすれ決して高めることにはならない。これこそが「安全保障」の一つの要になるコンセプトだ。排撃や拒絶や敵愾心は相手の心に反発を生じさせるだけである。片や、受容や寛容や親愛は、相手の心にそれに倍する友誼を植え付け、育てることだ。

引きこもりの暴力愛好家になるな

グローバル世界を知らない、また知ろうという気もない内向き土着の日本人は、概して想像力に欠けるきらいがあるためにそのあたりの機微にも疎い。だが国内外にいる二重国籍の日本人というのは、えてしてそうではない日本人以上に日本を愛し、さらに日本のイメージ向上のためにも資している場合が多いのだ。

日本土着の日本人は、グローバル化する世の中に追いつくためにも、世界から目をそむけたまま日本という家に閉じこもって壁に向かって怨嗟を叫ぶ、石原慎太郎氏に代表される「引き籠りの暴力愛好家」の態度を捨てて、世界に目を向けて行動を始めるべきだ。二重国籍者の価値を知ることがその第一歩になり得る。

血のつながりに引かれるのは、イデオロギーや政治スタンスとは関係のない人間の本質的な性(さが)だ。それは親の片方が日本人で、且つ外国に住んでいる二重国籍の子供たちを多く見知っている僕にとっては、疑いようもない真実だ。

外国に住んでその国の国籍と同時に日本国籍も有する子供たちの日本への愛着は、ほぼ例外なく強く、好意は限りなく深い。目の前に無い故国は彼らの渇望の的なのだ。外国に住まうことでグローバルな感覚を身につけたそれらの日本人を、わが国が受容し懐抱して、彼らの能力を活用しない手はない。

大阪なおみ選手の二重国籍を認めるべき

それと同じことが、日本国内に住まう二重国籍の日本人にも当てはまると考える。例えば蓮舫二重国籍問題にかこつけて差別ヘイトに夢中になっている人々は、今こそ先入観をかなぐり捨てて「二重国籍者という国の宝」を排斥する間違いを正し、国益を追求する「安全保障」の方向に舵を切って歩みを始めるべきだ。

テニスで世界を制しつつある大坂なおみ選手は日本の宝だ。彼女がもしかすると22歳で日本国籍を失うかもしれない事態は不可解を通り越して奇怪でさえある。大坂選手がプロのテニス選手としての利益を守るために、たとえ米国籍を取得したとしても彼女から日本国籍を剥奪するべきではない。

日本国籍を持つ日本人であると同時に米国籍も持つ大坂選手とは、いったい誰なのだろうか?言うまでもないことだ。彼女はどこまでいってもやはり日本人なのである。なぜなら日本国籍を有するから。日本の宝を「日本のものではない宝」にしてしまうのはもったいない。

同じことがグローバル社会の息吹を我が物として躍動する二重国籍の若者たちにも言える。彼らが22歳になると同時に日本国籍を失うのはいかにも惜しい。日本人の血を持つ彼らの多くは、国籍を失っても日本を愛するだろう。しかし日本人として世界であるいは日本国内で活躍できれば、彼らはもっとさらに日本を愛すると同時に、祖国のためにもきっともっともっと懸命に働くことだろう。




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仮面たちの祝祭

壁掛け縦横600



ことしもまたベニスカーニバルの季節がやってきた。2月16日に始まり3月5日まで開催される。カーニバルは日本語で言えば謝肉祭。イエスキリストの再生を寿ぐ復活祭前の禁欲生活に備えて、大いに食べ飲んで楽しもう、という趣旨のカトリックの祭典である。

ベニスのカーニバルはイタリア全国でいっせいに行なわれる謝肉祭イベントの一つ。今がまさに盛りの祭りでは、幻想的な仮面と豪華けんらんなコスチュームを身につけた人々が、古色深い水の都を練り歩いては人々を魅了する。

ベニスは街の全体が巨大な芸術作品と形容しても良いただならぬ場所である。周知のように何もない海中に人間が杭を打ち込み石を積み上げて作った都市。400余りの石橋で結ばれた運河や水路や航路が縦横無尽に張りめぐらされ、洗練されたベニス様式の建築物が街じゅうに甍を争っている。

ただでも美しいべニスの街は、カーニバルの期間中は夢幻とスリルと神秘が支配する不思議な世界に変貌して、その美しさはいよいよ筆舌に尽くしがたいものになる。

思い思いの仮面と衣装を身にまとった人々が、広場や路地裏や石橋やゴンドラや回廊や水路脇やカフェ…といった街のありとあらゆる場所に出没して、あたりの雰囲気が一変してしまうのだ。

仮面と衣装は古色あふれる水の都のたたずまいに溶け込み、霧と同化するかと思うとふいに露見して、見る者の心を騒がせ、やがて運河の水面に反射する夕陽と重なって、こ惑的なシルエットを作ってはうごめいていく。

仮面は謝肉祭には付きものの小道具である。人々はそれを身につけることで、祭りの間は自分ではない何者かに変身して好き勝手に振るまうことができた。このとき人々が最も欲したものは、純潔と貞節を重んじるカトリック教の厳しい戒律からの逃避だった。

つまり、祭りの期間中は誰もが性的に自由奔放に行動しようとし、またそれが許された。ベニスカーニバルがかつて「妻たちの浮気祭り」と冗談まじりに呼ばれたのは、そういう社会背景があったからである。

ベニス出身のカサノバが、プレイボーイとして大いに世間を騒がせていた1700年代の水の都には、カーニバルの期間中ほとんどフリーセックスに近い状態が出現したとさえ言われている。

カサノバの死と前後してベニスに侵攻したナポレオンは、街でひそかに繰り広げられる奔放自在な性の祭典に肝をつぶして、祭りの期間中は仮面 の使用を禁止する、という不粋な法律を制定しなければならないほどだった。このときからベニスカーニバルは衰退し、復活までに長い時間がかかった。

祭りの人混みの中で顔を隠して、身分を分からなくしてしまうことが目的の仮面なら、 他人のそれと似た物の方がいい。スタイルや美しさということよりも、先ず目立たないということが大切である。だから昔のベニスカーニバルでは「バウータ」 と呼ばれる四角四面で鼻の大きい単純な作りの仮面が巾をきかせた。

バウータは伝統的という意味ではそれなりに味のある仮面だが、ただそれだけのことで、創造性もなければ新しさもなく、当然驚きもない。かつてのベニスカーニバルでは、参加者のほぼ全員がバウータ仮面をかぶっていた。衣装も単純なものだった。

ところが時代が進んで性が開放されるにつれて、カーニバルの仮面は本来の意味を失った。時代と共に人々のセックス観は変化していき、カト リック教の戒律にしばられていたベニス人も性的に自由になった。現代では宗教の言ういわゆる不道徳な性は、カーニバルを待つまでもなく日常的にどこにでも 転がっていて、その気になればいつでも簡単に手に入れることができるようになった。

以来カーニバルの仮面は、顔を隠すための道具としてではなく、逆に自己顕示のためのそれとして使われるようになった。伝統的なバウータは片 隅に追いやられ、人々は祭りの舞台でひたすら目立ちたい一心からより独創的なもの、より華やかできらびやかなもの、あるいはより奇抜でおどろきにあふれた 仮面を作り出すことに熱心になった。衣装も同じ方向に進化していった。

仮面の進化する過程と平行して、ベニスカーニバルは年々ベニス人の手を離れてよそ者の祭りになっていった。というのも、カーニバルに新しい仮面や衣装を持ちこんで祭りを盛り上げていったのは、ほとんどがベニス以外の土地の人々だったからである。

現在ではそうした人々はイタリア国内ばかりではなく、ヨーロッパ各国やアメリカなどからもやってくる。彼らは一人一人が手間と時間をかけて独創的な仮面を作り上げ、それに合わせた衣装を作製してベニスに乗りこんでくる。

つまりベニスカーニバルの主役は、もはや年に一度だけの性の狂宴を求めたベニスのつつましい「浮気妻」やその夫たちではなく、世界各国からやってくる熱狂的な祭りのファンでありアーチストになったのである。
伝統的な仮面と衣装に郷愁を感じている生粋のベニス人はそれが気にくわない。彼らは「最近のカーニバルは派手になりけばけばしくなった」と良く嘆く。

しかし、地元の人間が嘆けば嘆くほどベニスカーニバルは面白い。それは言うまでもなく、より多くの独創性にあふれた仮面とコスチュームが街に集まることを意味するからである。

祭りをよそ者に奪われて悔やしがっている地元の人々には悪いが、魅惑的なベニスの街を背景に、強い美意識と想像力とスタイルに裏打ちされた 仮面や衣装があた りを徘徊している今のカーニバルは、むしろ「これこそベニスカーニバル!」と快哉を叫ばずにはいられない光景なのである。



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同性婚でも当たり前に愛は勝つ

虹親指OK縦600



2019年2月14日、 いわゆる“愛の誓いの日 ” とされるバレンタインデー に、 日本の 13組の同性カップルが国を相手取って「ようやく」同性婚訴訟を起こした。「ようやく」と表現するのは、日本がいわゆる先進7ヵ国の中で同性婚を認めない唯一の国だからである。

同性愛者が差別されるのは、さまざまな理由によるように見えるが、実はその根は一つである。

つまり、同性愛者のカップルには子供が生まれない。だから彼らは、特にキリスト教社会で糾弾され、その影響が加わって世界中でさらに差別されるようになった。

自民党の杉田水脈議員が先ごろ、LGBTの人々は「生産性がない」と発言して物議をかもしたが、彼女は恐らくそのあたりの歴史も踏まえて発言したのだろう。つまりあの言説は、日本人の多くが口には出さないものの、胸の内に秘めている思いを吐露した、確信犯的な放言だったのである。

子孫を残さなければあらゆる種が絶滅する。自然は、あるいは神を信じる者にとっての神は、何よりも子孫を残すことを優先して全ての生物を造形した。

もちろんヒトも例外ではない。それは宗教上も理のあることとされ、人間の結婚は子孫を残すための「ヒトの道」として奨励され保護された。そこから子を成すことができない同性愛などはもってのほか、という風潮が形成されていった。

しかし時は流れ、差別正当化の拠り所であった「同性愛者は子を成さない」という烙印は今や意味を持たず、その正当性は崩れ去った。なぜなら同性愛者の結婚が認められた段階で、そのカップルは子供を養子として迎えることができる。生物学的には子供を成さないかもしれないが、子供を持つことができるのである。

同性愛者の結婚が認められる社会では、彼らはもはや何も恐れるべきものはなく、宗教も彼らを差別するための都合の良いレッテルを貼る意味がなくなる。同性愛者の皆さんは大手を振って前進すればいい。事実欧米諸国などでは同性愛者のそういう生き方は珍しくなくなった。

同性愛者が子供を持つということは、子を成すにしろ養子を取るにしろ、種の保存の仕方にもう一つの形が加わる、つまり種の保存法の広がり、あるいは多様化に他ならないのだから、ある意味で自然の法則にも合致する。否定する根拠も合理性もないのである。それだけでは終わらない。

自然のままでは絶対に子を成さないカップルが、それでも子供が欲しいと願って実現する場合、彼らの子供に対する愛情は普通の夫婦のそれよりもはるかに強く深いものになる可能性が高い。またその大きな愛に包まれて育つ子供もその意味では幸せだ。

しかし、同性愛者を否定し差別する者も少なくない社会の現状では、子供が心理的に大きく傷つき追い詰められて苦しむ懸念もまた強い。ところがまさのそのネガティブな体験のおかげで、その同じ子供が他人の痛みに敏感な心優しい人間に成長する公算もまた非常に高い、とも考えられる。

同性愛者の結婚は愛し合う男女の結婚と何も変わらない。好きな相手と共に生きたいという当たり前の思いに始まって、究極には例えばパートナーが病気になったときには付き添いたい、片方が亡くなった場合は遺産を残したい等々の切実且つ普通の願望も背後にある。つまり家族愛である。

同性愛者は差別によって彼らの恋愛を嘲笑されたり否定されたりするばかりではなく、そんな普通の家族愛までも無視される。文明社会ではもはやそうした未開性は許されない。同性結婚は、日本でもただちに認められるべきである。

同性愛者への偏見差別の大本は、既述のように彼らの関係が生物学的には絶対に子供を成さない、ということにつきる。そこからいろいろな中傷や罵詈や嘲笑が生まれてきた。

その一つが2012年に筆者が書いた記事:「友人でゲイのディックが結婚しましたが、それが何か?」

に寄せられた次のコメントだ。

佐藤 -- · 港区 東京都

ゲイに限らないのかも知れないが、アナルセックスは汚らしい。

いいね! · 返信 · 2012年11 月15 日 10:15



コメントは公開された記事に寄せられたものである。従ってここで紹介しても構わないと考えた。あえてそうするのは、同性愛者への嘲笑や悪意や中傷の中にはこのコメントに近いものも多い、というふうに感じるからである。いやそれどころか、このコメントの内容はあるいは世間一般の人々の平均的なリアクションであるのかも知れない。

悪意に満ちたその論評には2つの意味で違和感を覚える。一つは、普通の人は例えば友人カップル(異性愛者か同性愛者に関わらず)が「どのようにセックスをするのか」などと妄想したりはしない。少なくとも僕はそうだ。このコメントの主が、彼自身の主張が示唆するようにその逆であるならば、彼こそマニアックで異様な性癖を持つ者である可能性がある。

そうではなく、彼または彼女が僕の友人を知らないために平然と悪意の礫(つぶて)を投げたのであるならば、もっと許しがたい。なぜなら恐らく異性愛者である投稿者は、匿名性を隠れ蓑にして同性愛者を罵倒している卑劣な人間だからだ。しかしそれよりももっと重大な誤謬がここにはある。それが僕が最も強い違和感を覚える2つ目のポイントである。

つまり自らに責任を持てる成人である限り、また当事者どうしが合意し満足する限り、人はどのようにセックスをしても構わない。なぜならそれは憎しみや怒りなどの対極にある『愛』にほかならないからだ。愛の異名である性愛の形状は、繰り返すが当事者たちが好む限りいかなるものでも構わない。

例えばある人がパートナーの“ つむじ ” が好きで、愛の交歓の際にそこに固執し、いつくしみ、愛撫してよろこぶならば、そして相手がそれを許し受け入れるならば(そしてできればそうすることでパーートナー自身もよろこぶならばなお一層)、それは疑いもなく愛である。つむじが親指になろうが鼻の頭であろうが何であろうが構わない。

性愛において許されないのは、なによりも先ず相手の同意を得ない行為だ。続いて暴力行為。例えば強姦や小児性愛にはその二つが伴っている。というか、レイプやペドフィリアはその二つのカタマリ、と断定しても過言ではない。その他の「相手の同意を得ない」性愛行為もほぼ同じと考えていいだろう。

繰り返しになるが、成人の当事者どうしが納得し愛し合うならば性行為は何でも構わない。同性愛者の親交の形のみを、“ゲスの勘ぐり”で邪推してそれを貶めるのは、差別意識の発露以外の何ものでもないのである。

リンク記事で紹介した筆者の友人は、米ニューヨーク州が同性結婚を正式に認める決定をしたことを受けてパートナーの男性と結婚した。彼がそうしたのは「男女の夫婦の場合と何も変わらない」事情からだが、特に愛する相手に「普通に遺産を残したい」という切実な思いがあった。ここでもやはり家族愛が最大の理由なのである。

同性愛者について語るときは、彼らの性愛や恋愛や性的嗜好や痴話など、性的事案の方にも多く関心が行きがちだ。そしてそれらの偏見差別のせいで泣いているのは、友人のケースでも明らかなように、またここまでしばしば述べてきたように、家族愛などの人の「当たり前の」感情や権利にほかならない。

同性愛者は子を成さない、ということにまつわる宗教的、社会的、歴史的な差別はいわれのない誹謗であり中傷である。彼らはわれわれの社会になんらの危害も与えていない。危害どころか、人の「存在」の多様性、という大きな利益をもたらしているのが真実である。

もしもそうした考え方を受け入れられない批判者はこう考えてみればいい。つまり同性愛者から見れば彼らの愛の形が普通であり「正常」である。あなた(僕も含む)と、あなたの恋人や妻や愛人との艶事は、異性愛者という「多数派の情交の形」であるに過ぎず、決して正義や道徳や節操を代表するものではない。

それでも先のコメントに同調する人々はもしかすると、同性愛者は道徳的に社会に悪影響を与えていると主張するかもしれない。だがその道徳とは、何よりもまず「同性愛者=(イコール)異常性愛者」という偏見にまみれた結論ありき、の上に構築された似非道徳に過ぎないのである。

そんな道徳は、宗教や政治権力による同性愛者や同姓婚の否定、またそれに影響された保守強硬論者やネトウヨ系差別論者などのヘイトスピーチ、あるいは排外主義者らの牽強付会な汚れたレトリックなどと何も変わるところはないのである。

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臭豆腐よりも台湾が好き



マスク姿で臭豆腐を煮る人ヒキ600



2019年初頭、4泊4日(最終日はAM3時起床6時半出発)の台湾旅行は、臭豆腐に始まり臭豆腐に終わった、と形容したくなるほどクサイ食べ物である臭豆腐に翻弄された。

特に食を中心に楽しむはずだった旅が不首尾に終わったことは心苦しい。台湾の人々に申し訳ない思いでいっぱいなのだ。その理由はただひとえに島の皆さんがいい人ばかりだったからだ。

圧倒的な腐臭を放つ臭豆腐は、台北の街路に漂う「普通の」中華風香辛料のニオイや、そこかしこから洩れ来る下水のほのかな臭気さえも巻き込んで拡大誇張するようだった。

そうやって台湾の、つまり台北の街に対する僕の印象は悪い方向へと誘導されてしまい、まるでそれらのにおいも臭豆腐と同じレベルの耐え難い悪臭であるかのように感じてしまった。

さらに悪いことにそれらのネガティブな「におい」の数々は、衛生的に既に少し問題があるように見える通りの店々の不潔感を余計に高めてしまい、現地料理への食欲を殺ぎ続けた。

そのためわざわざ台湾まで行きながら、しかも時間が貴重な短い旅にもかかわらず、あえて日本食の店で食事をする、という不本意な時間も多く過ごすことになった。

しかし、それで納得したわけではなく、僕は同伴している妻もうながして、現地食を食べる努力も懸命にしたことはしたのである。

それはあまり功を奏したとは言えない。それというのも妻が僕にも増して街の通りや飲食店の不衛生な環境に恐れをなしてしまい、頑として現地食を拒んだからである。

新しい食べ物に閉鎖的な田舎者の僕とは正反対に、都会育ちの妻は食べ物にきわめてオープンな性質の女性である。

食べ物にオープンとはつまるところ、食べ物のにおいにも大らか、ということだ。ところが彼女は臭豆腐のにおいを受け付けず、それにまとわりつく感じで漂う台北の「空気臭」にも眉根を寄せ続けた。

最初に僕らが知った臭豆腐のにおいが、彼女が受け入れやすい「食べ物のにおい」としてではなく、いわば「街の雑踏のにおい」として飛び込んできたのが間違いの元だったのかもしれない。

ともあれ、友好的で、素晴らしく感じの良い台湾人の皆さんの名誉のためにも、僕は台湾料理を食べる努力を確かにしたのだ、と堂々と主張したい。

そのことを示す意味合いで、趣旨をきっちりと伝達できるかどうか定かではないが、食事にまつわる旅の内容を下記に時系列に正確に並べてみることにする。

台湾旅行:2019年1月3日~1月7日

1日目(1月3日):

昼前に台北の桃園国際空港着。地下鉄で台北駅へ。そこの地下街で恐怖・驚愕の臭豆腐、「腐臭」初体験をする。

ホテルチェックインを経て街を探索。下水臭とさまざまな香辛料などが混ざりあう複雑なにおいが、街に充満していることに気づく。

やがて通り沿いに設えたオープン・カウンターで臭豆腐を売っている店に出会う。再び「ゲテモノ食材」の爆弾級の腐臭に打ちひしがれる。 

仕方なく、日本ブランドの吉野家で遅い昼食の牛丼摂取。臭気にまみれて、不潔っぽい通りの店で台湾料理を食べる気にはどうしてもなれなかった。

ホテルで休憩後、また街をさ迷う。地元のレストランで夕食を、と躍起になるがどうしても入りたい店がない。偶然行き合った少し沖縄テイストの入った日本風居酒屋で食べることにする。

沖縄テイストとは、従業員がクール・ビズの一種である「かりゆしウエア」を着ていること。オリオンビールや泡盛をまるで当たり前のように置いていること、など。

台湾って沖縄のお隣さんなんだなぁ、といまさらのように思った。沖縄のさらに僻地の離島で生まれ育った僕は、世界中の全ての島に強い愛着を抱く癖がある。

台湾島にも訪問前から既に親しみを感じていたが、島が沖縄の隣に位置するのだといまさらのように気づいて、僕はますます台湾が好きになるようだった。それだけに尚のこと臭豆腐がうらめしい。


2日目(1月4日):

ホテルで朝食。多種類のこってり風味が明らかな料理が並ぶ。取り皿が足元に置かれていることにもおどろく。食欲ゼロ。

コーヒーと雀のエサほどの量のフライドポテトを食べる。これが朝食の習慣となる。

朝食後、電車とバスを乗り継いで国立故宮博物院へ。朝10時から午後3時過ぎまで一心不乱に見学。

博物院訪問の後は、ホテルに戻って再三街の中心部をうろつく。やがて夕食の時間がやってきた。

そこではさすがに勇気を奮って地元の店で地元の物を食べようと決意した。

前夜の居酒屋の近くに、あけっぴろげな小さな食堂があった。店先に得体のしれない食材を飾ることもなく、厨房から不審なにおいも漂ってこない。

そのことに意を強くして思い切って店に入った。結論を言えばその選択は正解だった。日本の中華料理店の料理の味を、いわば一回り濃くしたような味付けの膳が次々に出た。

結局その店には翌日も足を運ぶことになった。。

3日目(1月5日):

妻はコーヒーとヨーグルト、僕はコーヒーとほんの少しのフライドポテトのみの遅い朝食後、台北駅界隈を散策。すぐに昼食時間がやって来たものの、街の臭気に耐えかねて、例によって中華食への興味失墜。

ホテルと駅の中間地域にある、またもや日本ブランドの三越デパート地下で、讃岐うどんの昼食。そのデパ地下には食料品コーナーよりもはるかに広大なレストラン街があって、日本食を中心にさまざまな料理を提供していた。

夕方早く、台北駅から電車で15分ほどの夜市へ。食材の豊富と人々の熱狂に圧倒される。だがそこにも臭豆腐臭が充満していて、当たり前のように食欲が吹き飛ぶ。

結局、夜市の屋台では何も口にすることなくホテルに戻り、また周辺の街へ。現地食の店を探したが徒労に終わる。結局2夜連続で前夜の小さな食堂へ。

僕は空腹も手伝って結構おいしく料理を食べた。が、妻は先刻の夜市の混乱と食材の異様と異臭に圧倒された余韻が残っていて、ほとんど何も食べずに終わる。少し深刻な状況にさえ見えた。

4日目(1月6日):

雨。ホテルで朝食後、長距離バスを利用して古都九份 へ。九份でも臭豆腐の腐臭からは逃れられず。昼食を取らないままホテルに戻る。

台北を知る友人からLine情報が入る。台北駅2階のショッピングモール内の土産店また飲食街が清潔で良し、とのこと。

夕方早めにそこに向かい、少しの土産を買ってまたさんざん迷った挙句に、清潔そうな中華料理店でついに「小籠包」 を食べる。美味。

小籠包のほかには「勝手知ったる」チャーハンとナス料理などを注文。妻もそこでようやく台湾料理を口にした。

1月7日:AM6時30分発の飛行機に乗るため3時起床。4時発のタクシーで空港へ。


エピローグ:

「におう」食べ物は世界中にある。日本には納豆がありくさやがありヤギ汁などというものもクサイ食べ物として知られている。

ここイタリアではゴルゴンゾーラ、いわゆるブルーチーズが良く食べられる。それ以外にもチーズ系を中心に異臭を放つ食材は多い。

イタリアに限らない。欧州には世界一クサイ食べ物とされるシュールストレミングがスウェーデンで生産される。他の国々にも珍味やゲテモノ系の食材は少なくない。むろん欧州以外の世界の国々にもある。

臭豆腐もそんな世界のクサイ食べ物一つである。だから臭豆腐だけが嫌われるいわれはない。

台湾で体験した「臭豆腐“臭”」が問題なのは、それがあたりかまわずに漂うところだ。冬でも暖かい台湾では、通りに向けて開け放たれている臭豆腐屋から臭気が傍若無人に溢れ出て、広範囲に漂い広がって充満する。屋台などの場合は言わずもがなだ。

日本では納豆やヤギ汁のにおいが「付近一帯」に拡散する状況はあまり考えられない。イタリアのブルー・チーズは通りから隔絶した家庭やレストラン内で消費される。だからにおいはそこだけに留まる。世界の他の「文明社会」のクサイ食べ物もほぼ同じ。

台湾はその意味では文明度が少し遅れている、と言えるかもしれない。臭豆腐が好きな人には好ましいことだろうが、そうではない人にとっては、臭豆腐の腐臭があたりに満ち溢れている状況は、正直に言って苦痛だ。

繰り返しなるが僕は台湾が好きだ。できれば将来また訪ねてみたい。しかし、臭豆腐の強烈なにおいを規制するメンタリティーや法律でも生まれない限り、また仕事か何かでやむにやまれぬ状況にでもならない限り、残念ながらきっと再び足を向ける気にはならないだろう。


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臭豆腐が台湾をダメにする



煮られる臭豆腐?600



プロローグ

2019年1月の台湾旅行は思いがけない展開になった。街の異臭と不衛生な環境に終始悩まされて、期待していた本場の台湾料理及び中華料理を満喫することができなかった。異臭の最たるものは「臭豆腐」。そこに様々な中華香辛料やそこかしこに漂う下水臭が加わって不潔感を高め、食欲がすっかりを殺がれてしまった。

ニーハオ!臭豆腐

臭豆腐のにおいの洗礼は旅の始めに来た。台湾桃園国際空港 から電車で台北駅に降り立ち、広大な地下街を通って宿泊予定先のホテルに向かって歩いているとき、ふいに鼻もひん曲がるほどの悪臭があたりに漂った。地下街の一角に臭豆腐を提供する安食堂があって、あたりににおいを撒き散らしていたのだ。

逃げるように地下街を離れて地上に出た。しばらく歩くと道路わきに淀む下水溝の臭気が鼻を突いた。先を行くと今度は多種類の香辛料に染められた中華風の空気臭に出会った。通りに軒を連ねている開け放しの飲食店や屋台風食堂などがにおいの元だ。

下水の異臭は東京渋谷の裏通りにも沖縄宮古島の中心街などにもあるにおいだ。不快だが知っている分スルーしやすい。また中国風の香辛料のにおいも種類によって好悪はあるものの耐え難いものではない。

しかし、先刻の駅地下街で嗅いだ強烈な臭豆腐の「腐臭」にかく乱された嗅覚には、知っている筈のかすかな臭気も異様に拡大誇張されるようで極めて不快だった。不運にもその気分は、旅の全体を特徴づけるほどの出来事になってしまった。

臭豆腐の正体

臭豆腐は豆腐を発酵液に漬けて風味を付けた食品である。有機化合物のインドールなどが含まれることによって糞便臭がある、とされる。中国大陸が発祥の地で、どちらかというと大陸の南部地域で人気があり台湾でも良く食べられている。

臭豆腐が「におう」食べ物という程度の知識は、台湾を旅する前の僕にもあった。しかし食べたことはもちろん見たこともなかった。初めて嗅いだ臭豆腐のにおいは僕に言わせれば、糞便どころか、いわば糞便をさらに腐敗させたほどの強烈な臭みに感じられた。「腐臭」といっても良かった。

臭豆腐はしかし、臭い食べ物の「臭み」 の数値としては、鮒寿司や納豆やヤギ汁や焼きたてのくさやなどよりも小さく、科学的にはそれほどまでに臭い食べ物ではないという見解もある。しかし、繰り返すが、僕にとっては「鼻もひん曲がる」ほどの悪臭で、どうにも我慢ができなかった。

しつこいぞ臭豆腐

ホテルにチェックインしてひと休みした後、街の探索に出かけた。ホテルは台北駅から徒歩で数分の繁華街にある。賑やかな通りを歩き出すとほぼ同時に先刻の下水の臭いに行き合い、やがて輻輳した香辛料のにおいが“当たり前に”濃く漂ってきた。

そこまでは驚きつつも不快感を抱くことはなかった。ところがしばらくすると、駅の地下街で嗅いで卒倒しそうになった臭豆腐のけたたましい臭気が、再び襲いかかってきた。事態を呪いつつ気落ちしつつ、追われるようにさらに早足でそこを離れて別の通りに出た。臭豆腐の恐怖の臭気からは開放されたが、すっかり食欲を失い街への興味さえ失ってしまった。

その日は食べそびれていた遅い昼食を、なんと日本レストランの吉野家の牛丼で済ませた。夕食は気を取り直して、なんとか台湾料理を食べようと街を探索した。しかし思いは沈んだまま離陸しない。臭気にまみれて不潔っぽい通りの店で食事をする心持にはどうしてもなれないのだった。

くたびれるほど歩いた挙句に、偶然行き会った日本風の居酒屋を見つけた。ほっとしてそこに入店。少しの肴をつまみつつビールを飲んだ。食欲がなかった。旅の初日はそうやって、臭豆腐の腐臭に痛めつけられて「仕方なく」日本食を味わう羽目になった。

だがそれだけでは終わらなかった。臭豆腐の悪臭はその後、台北の街なかでも、夜市の巨大マーケットでも、さらには古都の九份でも、執拗にまとわりついて食欲を殺ぎ、街の景観や空気にもそれの「臭色」が塗りこめられているような錯覚までもたらした。

日中衛生観念比べ

翌朝、ホテルの食堂での朝食体験も僕の食欲にプラスの効果はもたらさなかった。バイキング形式のホテルの朝食食材は、種類が豊富で見た目も素晴らしい。味も良さそうである。

ところが、ふと見ると前に並んでいる客が次ぎ次ぎにしゃがんでは立ち上がる仕草を繰り返している。料理用の取り皿が、食材が並べられたカウンターの下、ごった返す人々の足元のあたりに並べられているのだ。

僕は大げさではなくぎょっとした。人の足は食物を食(は)む口腔とは遠いところにある。そして人の足元には穢れがある。外を歩けば人は足裏で犬猫の糞尿を踏むこともある。足はほこりや垢やゴミの類にも触れる。

さらに言えば、日本人は大切な人や恩義を感じる相手には「足を向けて寝られない」と表現するほど、足元の穢れや不潔を強く意識する。だから日本のどんな田舎の宿でも、僕が知る限り、食器を足元に並べることはあり得ない。

臭豆腐の強烈なにおいに遭遇したときほではないものの、僕はそこでも強い違和感を覚えた。ホテルは近代的でおそらく衛生環境にもそれなりに気を遣っている。それなのに汚い足元に食器を置いて平然としているのである。

足元の皿ヨリ600


そこでふと思ったのは、台湾を含む中華世界と日本との間にある衛生観念の懸隔だった。清浄へのこだわり感は人々の生活が豊かになるに連れて向上するのが普通だ。日本人も日本の街も昔は不潔だった。だが国が豊かになるに連れて衛生状況は著しく改善していった。中華社会も同じ道筋をたどると考えられる。

それでも彼我の清潔感のあり方には根本的な違いがあるのではないか、ともいぶかった。というのも中国は既にかなり豊かな国であり、台湾に至っては多くの局面で先進国の域に達している。従って衛生的にもかなりの水準に達していると見るべきだ。

それでいながら台北の街のそこかしこには、前近代的と形容してもいいような不浄さも見られる。その感覚はもしかすると根本的に改善されるものではなく、例えばホテルの食堂が食器を客の足元に並べて動じない精神風土などが、そのことを象徴的に示しているのではないか、と思ったりもするのである。

見所満載の故宮博物院

次の日はかねてから計画していたように国立故宮博物院を訪れた。朝の10時過ぎに入館し、5時間以上も展示を見て回った。昼食は食べず、その間に口にしたのは持ち歩いているペットボトルの水だけだったが、空腹を感じなかった。

博物院内の展示物の圧倒的な美と迫力に酔いしれていた。同時に膨大な数の中国人観覧客の、けたたましい動静を観察することに心を奪われてもいた。

だがそれよりもなによりも、そこまでに体験した臭豆腐の向かうところ敵なしの「大腐臭」と街の異臭に気圧されて、すっかり食欲が萎えて気持ちが沈んでいた、というのが真実だった。

その後台湾を離れるまでには、少しの中華料理も楽しむことになるが、その旅では同伴している妻も僕も実は体重を減らしたのである。特に妻の減量は顕著だった。

圧巻の夜市

屋台がひしめく夜市にも足を運んだ。夜市は中国や台湾を含む東南アジアに多く存在する夜のマーケット。昼間の暑さを避けたい人々が大量に繰り出してにぎわい、屋台や売店や雑貨露天商などがひしめいている。中でも屋台を中心とする「食」のマーケットが目覚ましい。

訪れたのは台北最大とされる士林夜市。そこには人々の食への飽くなき欲望が集積し渦巻き暴れているようなエネルギーが充満していた。料理人とウエイターと食べる者たちの話声と共に、人々の咀嚼音が爆音となって耳をつんざくのである。圧巻の光景がえんえんと続いていた。

カメラのシャッターを切り続ける僕に、料理人やウエイターらが呼び込みよろしく声高に店に入るように誘うが、全く食欲をそそられなかった。なぜならそこにも例によって臭豆腐の悪臭が充満していたのだ!

少しは慣れたものの、またもや臭豆腐の「腐臭」に当てられてウンザリしていた。それでも夜市にあふれるすさまじい量の食材の躍動と、食を満喫する人々の腹からの歓喜がかもし出す雰囲気とを大いに楽しんだ。

レトロな村にも臭豆腐

旅の最終日、北部台湾は大雨に見舞われた。それでも計画通りに台北の街を離れて遠出をすることにした。映画「悲情城市 」で世界的にも有名になった九份 を訪れるのである。

赤提灯列と雨の雰囲気600


雨に打たれながらレトロな九份の路地を巡り歩いた。傘もあまり役に立たない土砂降りの雨の中を歩くのはひどく骨が折れた。しかし、暗天のおかげで昼間にもかかわらず提灯の光が映えて詩的な風景が広がっていた。

ノスタルジーを誘う光景の中、通りには観光客目当ての土産物店や食堂や食料品屋が軒を連ねていたが、僕らはそこでも急ぎ足に先を目指した。いまいましいことに、そこでもやはり臭豆腐の腐臭が通りに充満していたのだ。

臭豆腐があっても台湾が好き

臭豆腐に呪われたような旅を救ったのは、台湾の人々の「人の良さ」だった。店員やタクシー運転手やホテルマンや従業員や、さらには道行く人々の誰もが友好的で親切でやさしい。人々が観光客を大事にしていることがてきめんに分かるのである。

あるときは通りを行く見知らぬ人が「私たち台湾人の運転は乱暴だから車道から離れて歩きなさい」と笑いかけ、年配の女性はバス代の小銭がなくて立ち往生している僕らの分も、とコインを運賃箱に投げ込み、電車内で隣り合った別のおばさんは「年始のプレゼントに」と干支のイノシシ絵の暦を妻の手の中に押し付けた。

台湾ではそんな具合に行き逢う人、行き交わし行き過ぎる人たちでさえ気さくで親しみやすい。島国の人は時として閉鎖的だが、島国である台湾の住民は
「心を開くことが観光立国の最重要事案」、というコンセプトを生まれながらに知り尽くしてでもいるかのように、人懐っこさがいかにも自然体で好ましいのである。

ああ、それなのに、それなのに、今回の旅に限って言えば、人の良い台湾の人々が作り出し育て充実させたに違いないもの、つまり妻も僕も大いに楽しみにしていた間違いなく旨いはずの台湾料理が、少しも食欲をそそらないのだった。

臭豆腐の「腐臭」は四泊四日(最終日はAM3時起床6時半出発)の台湾旅行—正確にはほぼ全行程が台北滞在—の期間中、まるで呪いのように僕らの周りにまとわりついて旅の喜びを半減させ食欲を完全破壊し続けた。

僕は「いつか臭豆腐のない台湾を見てみたい」と切実に思った。今も思っている。



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死ぬまで生き抜く



山茶花sazanka-ic4



昨年11月、父が101歳で他界した。

また6月にはイタリア人の義母が92歳で亡くなった。

そうやって母に続いて逝った父を最後に、妻の両親を含む僕ら夫婦の日伊双方の親世代の人々がこの世から全ていなくなった。

それは寂しく感慨深い出来事である。

生きている親は身を挺(てい)して死に対する壁となって立ちはだかり、死から子供を守っている。

だから親が死ぬと子供はたちまち死の荒野に投げ出される。次に死ぬのはその子供なのである。

親の存在の有難さを象徴的に言ってみた。

だがそれは単なる象徴ではない。

先に死ぬべき親が「順番通り」に実際に逝ってしまうと、子供は次は自分の番であることを実感として明確に悟る。

僕自身が置かれた今の立場がまさにそれである。

だが人が、その場ですぐに死の実相を知覚するのかといえば、もちろんそんなことはない。

死はやがて訪れるものだが、生きているこの時は「死について語る」ことはできてもそれを実感することはあり得ない。

人は死を思い、あるいは死を感じつつ生きることはできない。

「死を意識した意識」は、すぐにそのことを忘れて生きることに夢中になる。

100歳の老人でも自分が死ぬことを常時考えながら生きたりはしない。

彼は生きることのみを考えつつ「今を生きている」のである。

晩年の父を観察して僕はそのことに確信を持った。
 
父はいつも生きることを楽しんでいた。

楽しむばかりではなく、生に執着し、死を恐れうろたえる様子さえ見せた。

潔(いさぎよ)さへの憧憬を心中ひそかに育んでいる僕は、時として違和感を覚えたくらいだ。

ともあれ、死について父と語り合うことはついになかったが、僕は人が「死ぬまで生き尽くす」存在であるらしいことを、父から教わったのである。



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