【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2019年05月

安倍阿諛劇場の危うさと怖さ



観覧トランプ中ヨリ600


トランプ大統領が国技館を訪れて相撲観戦をする様子を衛星生中継の映像で逐一見た。また宮中晩餐会の模様も同じく衛星放送で実見した。

安倍首相と周囲の気持ちが全く分からないわけではないが、安倍さんのトランプ大統領への行き過ぎた阿諛と、皇室までも取り込んで政治ショーを展開する傲岸に強い違和感を覚えた。

国技館ではそこまでトランプさんに気を遣ってどうするの?と思わずにはいられない場面が多々あった。たえば升席を潰して特別観覧席を作ったのが先ず気にかかった。

大相撲は「溜(たまり)席」いわゆる 「砂かぶり」が最も良い席で、次に良いのが升(ます)席だ。そこに座って観戦するから、人は大相撲古来の伝統に触れたと実感でき心がふるえるのだ。偉そうにソファ席なんか作るべきではない。

いま僕は「偉そうに」と言った。それは安倍さんへの皮肉だ。賓客のトランプさんが、升席でのもてなしを「日本的過ぎていやだ」とエラソーに言うことはありえない。彼を普通に扱っていれば、むしろ升席に座っての観戦を喜んだはずだ。

枡席の上のソファにふんぞり返って、トランプさんという虎の威を借りては周囲を睥睨し悦に入っていたのは、安倍首相その人にほかならなかった。

座布団一枚の広さしかない溜(たまり)席 は、大柄な大統領とメラニア夫人には確かに窮屈すぎるかもしれない。だが升席なら4人分のスペースを2人に割り当てることができた。

つまり2つの升席の通常8人分のスペースを、トランプ夫妻と安倍夫妻の4人が占有すれば済んだ話だったのだ。それは既に十分以上のもてなしになるはずだった。

升席はトランプさんには窮屈ではないか、と余計な「忖度」をしてソファー席をこしらえたのは、おそらく安倍首相だろう。そのあたりに安倍さんの教養と人間力の限界がある、と僕は感じる。

トランプさんの威を借りてソファ席からあたりを睥睨しよう、という心積もりはさすがにその時の安倍首相にはなかったのではないか。だが結果的にそうなった。安倍さんの政治的悪運の強さがまた象徴的に出たエピソードだ。

安倍さんには抜きがたいトランプ大統領への劣等感があるように見える。彼はトランプ大統領とはオトモダチだと言い募るが、友達ではなく従僕の地位に甘んじている、というのが正確だろう。

いや、甘んじているという意識さえおそらく彼にはない。主従の関係が当たり前だと信じ込んでいるのだと思う。封建社会の農民が、領主の存在を当然と思い込んで見上げ崇めたように。

日本独特の儀式が詰まった大相撲を「日本の伝統」として安倍さんが腹から誇りに思っているならば、彼は升席の少しの窮屈という「伝統」も含めてトランプさんに提示するべきなのだ。それができないのが安倍さんの限界なのである。

オトモダチという個人的概念とその中身の錯誤に気づかないまま、日本国を貶める言行を連発するのが安倍外交の真髄だ。徹頭徹尾トランプさんの下僕の役割を担って、且つそれに120%満足しているのが安倍晋三さんである。

土俵に上がるのに木製の階段を設えたり、スリッパを用意したりしたのも醜悪だ。形が醜悪なのではない。それらを準備しなければならない、と思い込み怖れる精神が卑屈で醜いのである。

安倍さんと周囲の思惑に唯々諾々と従った相撲協会も卑屈であり、情けないと言えば情けない。土俵の精神性を守るために土俵に女性は入れない、と高飛車に言い続ける気概はどこに行ったのか。

2018年4月、大相撲巡業場所で土俵に上がった舞鶴市長が倒れて死の淵に横たわった時でさえ、相撲協会の関係者は市長の救命にあたった女性たちを土俵から引きずり下ろそうとした。あの頑迷だが、一応筋の通った姿勢はなぜ歪んだのか。

いうまでもなく彼らは安倍強権力の前にひざまずいたのである。それは決して賞賛に値する態度ではない。しかし、いわば国家の庇護の下にあるとも考えられる公益財団法人という組織が、権力の前にひれ伏すのは理解できなくもない。

真に醜いのは、相撲協会という弱者には高飛車で、トランプ大統領という強者には卑屈な安倍晋三という日本最強の権力者なのであり、その周囲に群がる権力の亡者たちである。

またそれらの奇怪な光景にまったく気づかず、あるいは気づいても何らの批判精神も違和感も覚えないまま、トランプ大統領と従撲の安倍さんの一挙手一投足に歓声を上げ、拍手し、記念写真を撮ることに夢中になっていた観客も見苦しかった。

あきれるほどに低い民意を露呈している人々の行動は、実は安倍さんの精神構造と政治姿勢の端的な写し絵である。彼らは自らに似た指導者を選挙で選んだ。するとそれは安倍晋三さんだったというだけの話だ。

宮中晩餐会が、新天皇と皇后を含む皇族をダシに使った安倍晋三主催のトランプ歓迎式典に徹していることも驚きだった。そこでも安倍さんのやりたい放題がまる見えに見えていた。

トランプ大統領は新年号の令和を祝いに来日した。新天皇はそれを歓迎し謝意をあらわした。従って天皇主催の晩餐会がトランプさんを思い切り持ち上げるショーになるのは仕方がない。

また新天皇の「おことば」も自らの体験にからませて米国讃辞に終始した。それもまた仕方がない、と思いつつも僕はそこに、安倍さんへのけん制と日本の過去の誤ちを片時も忘れなかった上皇の気概の片鱗を見たかった、ともまた思った。

象徴である天皇が政治に関わらない、というのは建前であり原則論である。天皇はそこにあるかぎり常に政治的存在である。政治家がそれを政治的に利用するという意味でも、また天皇が好むと好まざるに拘らず、政治の衣をがんじがらめに着装させられているという意味でも。

天皇は政治に口を出してはならないが、口を出してはならないという建前も含めた彼の存在が、全き政治的存在であることを常に意識して、新天皇は行動し発言をするべきだ。退位したばかりの前天皇、明仁上皇がそうであったように。

徳仁新天皇の「おことば」からは、上皇の深い人間力を彷彿とさせるような雰囲気は漂ってこなかった。それは新天皇の、天皇としての経験の浅さによるものであって、安倍晋三首相に籠絡された結果ではないことを切に願いたい。


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欧州が極右の大波に呑み込まれる日



Geert Wilders,Salvini, Jörg Meuthen, Le Pen 600
真ん中サルヴィーニと右ルペン


欧州議会選挙では親EU派内の最大勢力が議席を失ったものの、少数党が逆に勢力を伸ばして全体としては過半数を確保した。

一方、極右ナショナリストやポピュリスト勢は議席を増やしたが、EUを大きく脅かすほどの勢力拡大にはならず、EUはひとまず安泰という形になった。

だが飽くまでも「ひとまず安泰」なのであり、EU懐疑派の台頭は今後も続くことが予想されている。それだけにEUは、自らの改革を強力に推し進めて彼らに対抗することを迫られている。

極右勢力の中では、イタリアの連立政権を主導しつつある同盟が最も支持率を高めた。同盟のサルヴィーニ党首は、独仏を含むEU内各国の極右政党をまとめて親EUの主流派に挑む構えを見せている。

フランスの極右政党、国民連合はマクロン大統領が率いる共和国前進を僅差で破って第一党に。またドイツの極右AfD(ドイツのための選択肢)は、議席を伸ばしはしたが事前予想ほどには拡大しなかった。

そうした中、EU主要国内で極右政党として唯一政権を担っているイタリアの同盟と、サルヴィーニ党首の存在感が増している。

仏国民連合のルペン党首は「マッテオ(サルヴィーニの名前)は私達の手本」とまで評価して、フランスがイタリアに対して伝統的に持ち続けてきた、「政治的優勢」の立場を捨てて擦り寄っているようにさえ見える。

前回2014年の欧州議会選挙では、イタリアの同盟はわずかな支持率しかなかった。一方、当時国民戦線と称していたフランスの国民連合は、躍進して今回と同じように仏第一党となった。

それでいながらルペン党首がサルヴィーニ氏にへりくだるような姿勢で接近しているのは、同盟が-連立とはいえ-イタリアの政権党である事実と、サルヴィーニ氏が国内での支持率拡大を背景に自信を深めて、カリスマ性を獲得しつつある事実と無関係ではない。

2014年、欧州議会選挙の結果を受けて僕は「欧州の極右勢力が国境を越えて手をつなぎあうことはない。各国の極右政党はそれぞれが孤立して大きな政治の流れを生み出すには至らないだろう」と考えた

しかし、徐々に求心力を得ているイタリアの同盟を中心に、欧州の極右勢力はあるいは一つにまとまって動き出すかもしれない。そして勢力を拡大し欧州の過半分を制して、アメリカでトランプ政権が誕生したようについに主流になる日が来るかもしれない。

欧州のほとんどの極右勢力とトランプ政権は連動している。ということは、つまりそれは日本の安倍政権とも通底しているという考え方もできる。

世界の政治トレンドを極右(志向)ではなく「一国主義」と規定する見方もある。確かにトランプのアメリカファーストにならって、イタリアのサルヴィーニもイタリアファ-ストをスローガンにすることが多い。

だが一国主義こそかつて世界を狂わせたナチズムやファシズムまた軍国主義の元凶である。一国主義は文字通り自分だけがよければ他国はどうでもいい、というコンセプトだ。

それは必ず視野狭窄をもたらし、やがて自らが絶対善となって他者との対話や妥協を拒否し、唯我独尊の罠にはまって究極的にはテロさえも厭わなくなる。まさに極右の在り方だ。

欧州とアメリカとひいては日本までもが極右の完全な支配下に置かれたなら、それは自由と民主主義と人権尊重の概念が死滅した世界、という意味で中露北朝鮮が支配する世界とほぼ同義語である。


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「フェルーカ」挽歌


フェルーカ船則撮影800を切り取り手も消去
                               フェルーカ漁船


イタリア、シチリア島にちょうど今ごろの季節にはじまる「フェルーカ」と呼ばれる伝統的な漁がある。マグロやカジキを銛で突いて取るいわゆる”突きん棒”である。僕はかつてこの漁の模様を描いてNHKスペシャルのドキュメンタリー番組を作ったことがある。

”突きん棒”は世界中のどこにでもある漁法。。もちろん日本にもある。海面すれすれに浮遊している魚を銛で一突きにする原始的な漁だから、大昔に世界中の海で同時発生的に考案されたものなのだろう。
  
シチリア島の”突きん棒”は、古代ローマ帝国時代以前から存在した記録が残っている。この素朴な漁の伝統は以来、船や漁具に時代に沿った変化はあったものの、シチリア島の漁師たちによって、古代の息吹をかたくなに守る形がえんえんと受け継がれてきた。

「フェルーカ」とは、漁に使われる漁船の名前。総屯数二十トン程のふつうの漁船を改造して、高さ三十五メートルの鉄製のやぐらと、伸縮自在で長さが最大五十メートルにもなる同じく鉄製のブリッジを船首に取りつけた船。

フェルーカ船のやぐらとブリッジは、互いに均衡を保つように前者を支柱にして何十本ものワイヤーで結ばれて補強され、めったなことでは転ぷくしないような構造になっている。 
  
しかし船体よりもはるかに長い船首のブリッジと、天を突くようにそびえているやぐらは、航行中も停船時も波風でぐらぐらと揺れつづけていて、見る者を不安にする。
 
やぐらは遠くの獲物をいちはやく見つけるための見張り台。てっぺんには畳半畳分にも満たない広さの立ち台があって、常時3人から4人の漁師が海面に目をこらして獲物の姿を追う。船首の先に伸びているブリッジは、銛打ち用のものある。

銛の射手は、それを高く構えてブリッジの先端に立ちつくして、獲物が彼の足下に見えた瞬間に打ち込む。つまり彼は、本来の船首が魚に到達するはるか手前で銛をそれに突き立てることができるのである。

逃げ足の速い獲物に少しでも近く、素早く、しかも静かに近づこうとする、漁師たちの経験と知恵の結晶がやぐらとブリッジ。やぐら上の見張りとブリッジ先端の銛手のあうんの呼吸が漁の華である。

僕はこの不思議な船と漁を題材にドキュメンタリーを作ると決めた後、情報集めなどのリサーチを徹底するかたわら、何度もシチリア島に足をはこんで、漁師らに会い船に乗せてもらったりしながら準備をすすめた。
 
これで行ける、と感じて企画書を書いてNHKに提出し、OKが出た。そこまでに既に6年以上が過ぎていた。短く、かつ忙しい報道番組のロケや制作を続けながらの準備だから、僕の場合それぐらいの時間は普通にかかるのである。

番組の最大の売りは何と言ってもマグロ漁にあった。大きい物は400キロを越え、時には500キロにもなんなんとする本マグロを発見して船を寄せ、大揺れのブリッジをものともせずに射手が銛を打ち込む。

激痛で憤怒の塊と化した巨大魚が深海をめがけて疾駆する。船ごと海中に引きずり込みそうな暴力が炸裂して、銛綱の束が弾けるようにするすると海中に呑み込まれる。すると綱で固着された浮き代わりのドラム缶数本が、ピンポン玉よろしく中空を乱舞し海面にたたきつけられる。

マグロは銛を体に突き通されたまま必死に逃げる。獲物の強力な引きと習性を知り尽くした男たちが死にものぐるいで暴力に対抗し、絶妙な綱引きの技でじわじわと巨大魚を追い詰めて取り込んで行く・・・・。
 
僕がフェルーカ漁に魅せられて通ったそれまでの6年間に、幾度となく体験した勇壮なシーンを一つ一つ映像に刻み込めば、黙っていてもそれは面白い作品になるはずだったた。ところがロケ中に獲れるのはカジキだけだった。肝心の本マグロがまったく獲れないのである。

フェルーカ漁は毎年4月頃から準備が始まり5月に幕を開ける。そしてイタリア半島とシチリア島の間にあるメッシーナ海峡と、エオリア諸島近海を舞台に8月まで続く。
 
準備の模様から撮影を始め、次に海上での漁に移った。1ト月が経ち、2タ月が経ち・・・やがて漁の最盛期である7月に入った。ところがマグロが暴れる場面は一向に出現しない。狐につままれたような気分だった。

しかしそれは海や山などを相手にする自然物のドキュメンタリーではありふれた光景だ。魚や野生動物が相手だから、不漁続きで思ったような絵が撮れない、という事態がひんぱんに起こるのである。

僕はロケ期間を延長し、編集作業のためにどうしても自分が船に乗れない場合には、カメラマン以下のスタッフを張り付けて漁を追いつづけた。ロケ期間はそうやって最終的には5ヶ月近くにもなった。
 
しかし最後まで一匹のマグロも獲れずにとうとうその年のフェルーカ漁は終わってしまった。

僕は仕方なくカジキ漁を話の中心にすえて編集をして、一応作品を完成した。それは予定通り全国放映されたが、反響は「予想通り」いまいち、という感じで終わった。

フェルーカ漁とそれにまつわる人々のドラマは、ある程度うまく描かれているにもかかわらず、どこかインパクトに欠けて物足りないものがある、というのが人々の一致した印象であり意見だった。

僕はそうなった理由を誰よりも良く分かっていたが、もちろん一言も弁解をするわけにはいかなかった。たとえ何が起ころうと番組作りの世界では結果が全てである。

ロケ中の障害のために結果が出なかったならば、それはひとえにディレクターである僕の力量が足りなかったからだ。あらゆる障害を克服して結果を出すのが監督の仕事なのである。

そんなわけで僕は自らの無力をかみしめながら、忸怩たる思いでその仕事を切り上げなければならならなかった。

年ごとに先細りになっていくフェルーカ漁は、漁そのものの存続があやぶまれる程に漁獲量が落ちこんでいる。漁獲量がほぼゼロの年さえある。

観光客を乗船させ漁を体験してもらうことで収入を得て、ようやく漁船の維持費を稼ぐことも珍しくない。

それでも漁師たちはあきらめず、何とかして漁の伝統を次の世代に受け渡そうと必死になっている。しかし先行きは暗い。それでもなお彼らは海に出る。今日も。明日も。

勇壮で厳しく、同時にそこはかとなく哀感のただようフェルーカ漁のその後を、もう一度カメラで追ってみたい、と僕はロケ以来つづいている漁師たちとの友情を大切にしながら考えることも一再ではない。


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EUはやはり極右の巣窟になるのか



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EU(欧州連合)の議会選挙が5月23日から26日に行われる。加盟28カ国の有権者の合計がインドに次いで世界で2番目に多い巨大選挙。EU離脱を延期した英国の有権者も投票することになった。

選挙で注目されるのは、EUのほぼ全域で勢いを増している極右政党がどこまで議席を伸ばすかである。特にドイツのAfD(ドイツのための選択肢)、フランスの国民連合などのEU懐疑派の政党が大きく議席を伸ばせば、EUの立法・経済政策その他に大きな絵影響が出ることになる。

世論調査によれば、極右ナショナリスト勢力が議席を伸ばす可能性が高い。が、EUを根底から揺るがすほどの力には「まだ」ならない、と見られている。

しかしながら、イタリアで極右政党の同盟が左派ポピュリストの五つ星運動と連立政権を樹立し、その後五つ星運動を差し置いて支持率を伸ばしているように、主として移民問題を争点にしての極右政党の勢力拡大は続いている。

そうはいうものの同盟は-今回選挙でさらに勢力を拡大することが確実視されながらも-例えば前述のフランス極右やドイツ極右ほどの影響力は持たないと考えられる。なぜなら同党は、大国とはいえ、世界および欧州政治の勢力図上は日本と同じで「小国」に過ぎないイタリアの政党だからだ。

欧州では2014年の選挙でもイギリスやフランスなどを中心にEU懐疑派の極右政党が躍進した。今回はそれを上回る議席獲得が予想されている。

極右政党の台頭はいやでもファシズムやナチズムを髣髴とさせる。欧州のほとんどの極右勢力と米トランプ政権は連動し、ひいてはそれは日本の安倍政権とも通底している。

今回選挙ではもう一つ注目すべき点がる。3月にEUを離脱するはずだった英国が、国内の分裂で混乱し再び欧州議会選挙に参加することである。

英国にとってはこの選挙が、EU離脱の是非を問う2度目の国民投票と同じ意味を持つ、という見方もある。

その英国の混乱の原因もまた、EU離脱を叫ぶ極右ナショナリストとEU残留を主張するグローバル穏健派の対立にほかならない。


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安倍ノ道鏡?それとも道化?


天皇夫妻&安倍鮮明切り取り
前記事「奇妙なカップル」を読んだ読者から安倍晋三さんを弓削道鏡(ゆげのどうきょう)にたとえるのはけしからん、という趣旨のメッセージをいただいた。

安倍ファンのその方は、道鏡が平将門、足利尊氏と共に日本3大悪人の1人に数えられていることから、安倍さんを彼になぞらえるのが面白くないらしい。

歴史上の3人の人物が悪人とされるのは、戦前の日本の軍国主義体制の核心を成した皇国史観、つまり歴史が天皇を中心に形成された、という非科学的な考えによって断罪されたお伽話である。

3人は天皇に背いた或いは天皇の座をおびやかした者として、極右国粋主義の権力中枢によって 指弾 され、当時の無知且つ大勢迎合主義の民衆が支持した結果確立したように見える虚偽である。

先日退位した平成の天皇に安倍さんが盾ついた事実と、即位した新天皇を取り込もうと画策しているとされる噂は、安倍首相を反天皇主義者と決め付ける十分な証拠となりうるかもしれない。

ところが安倍さんは、極右の政治家という海外メディアの規定を持ち出すまでもなく、保守強硬論に基づく政治行動が身上の男だ。つまり体質的に皇国史観を信奉していてもおかしくない種類の政治家である。

そう考えてみると、安倍さんは天皇を崇拝しつつ天皇に背くことも辞さない政治家、という見方も当たりそうである。矛盾しているがそれもまた安倍さんの体質であり政治手法なのだから当然の成り行きではある。

閑話休題

ここから先は、多くの人が架空無稽な話、と一蹴することも承知であえて書き記しておくことにした。

実は僕は、安倍さんが道鏡のように天皇になりたい意思を秘めた男だとは考えない。だがたとえば安倍一強体制とか安倍独裁などと呼ばれる今のような政治状況が、さらに長く続くと考えてみると様相が違う可能性も出てくる。

その暁には安倍首相の周囲がもっとさらにイエスマンで固められて、彼の驕りは膨張し、祭り上げられ、唯我独尊の思いが極限にまで達するだろう。そこに国内の政治変動や世界規模の恐慌などが起きたと仮定する。

動乱に乗じて、あるいは自然の流れで安倍さんが文字通りの独裁者となり、天皇制を廃して自らが天皇となる体制、あるいはそれに準ずる政治体制を敷いて我が世の春を謳歌する、という事態が絶対に起こらないとは誰にも断言できない。

バカバカしいと考える者は天皇の成り立ちを思い出せばいい。天皇は神話的存在でもあるがその成り立ちは決して神話ではない。国の前身とも呼べる種族群雄が割拠して万族が万族を殺そうと競い合っていた有史以前の混沌の中で、周囲を平定したボスを祖先に持つのが天皇であり天皇家である。

天皇が天皇家の長として権力を受け継ぐ体制がそこから生まれた。以後、権力闘争や下克上や混乱の中での入れ替わりや成りすましや様々の流転変遷を経て、天皇は神となり絶対の存在となっていった。

真の革命が起きなかった日本では天皇の神聖は常に保たれ、それに挑む者が逆賊と見なされる社会体制が形成された。それはずっと後の皇国史観によって強調されて、天皇の地位を脅かす者の存在を考えることさえできない状況に至った。

やがて第2次世界大戦という巨大な世直しがやってきて天皇は普通の人になった。普通の人になった天皇だが、平成の明仁天皇という「人間力」の優れた陛下の努力も相まって、天皇は神あるいはそれに準ずる存在としてではなく、飽くまでも普通の「人間として」深く敬愛される存在になった。

一方で天皇を神として崇める土着日本人の古代的精神も根底でしっかりと生き延びた。昭和天皇が人間宣言をしても、天皇を神と崇める原始土着の蒙昧な人心は変わらなかったのである。そうやって自らと同じ人間である天皇を、神に近い存在、ととらえる未開稚拙な心根は温存された。

代変わりの今日、国民大半の偶像崇拝心と人間力あふれた平成の天皇への深い敬慕の情が相まって、新天皇と天皇家への忠誠心はかつてないほどに高まっている。そんな中では天皇への挑戦など考えられない。だから安倍さんが天皇に反旗を翻すなどというのは荒唐無稽な妄想、と結論づけられても少しも不思議ではない。むしろ当然の成り行きである。

安倍さんに関してはもちろんその通りだろうと僕も思う。だが天皇という存在があって、天皇制という仕組みが日本の国体を規定しているのだから、歴史に鑑みてその実体と正体とひいては真理とをひもとき、且つそれらによって形成された神話にも目を向けてみる必要がある。

既述したように天皇は神話だが、その神話は実体のある武力闘争と政治闘争を経て形成されたものだ。そして権力者として望月が欠ける状況も知らない程に我が世の春を満喫しまくるらしい安倍さんは、政治闘争の真っただ中にあって、状況が許せば武力闘争も辞さない本質を持った政治家であり指導者であることを忘れてはならない。

つまり安倍さんは、天変地異とも呼ぶべき動乱や事件が起きて日本と世界の現体制がひっくり返る場合、天皇にさえ挑もうとする多くの野心家の先頭を切って突っ走る類の「政治的存在」であろうことは、疑う余地がない。天皇の地位に挑もうとする日本人が実際に生まれる可能性は、おそらく女王の地位に挑もうとする英国人の存在の可能性よりも、1億倍程度は低いと思うけれど。



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平気で生きる



菊


僕は以前、次のようなコラムを新聞に書いた。それと前後してブログほかの媒体にも寄稿しそこかしこで同じ趣旨の話も多くした。

悟りとは「いつでもどんな状況でも平気で死ぬ」こと、という説がある。

死を恐れない悟りとは、暴力を孕んだいわば筋肉の悟りであり、勇者の悟りである。

一方「いつでもどんな状況でも平気で生きる」という悟りもある。

不幸や病気や悲しみのどん底にあっても、平然と生き続ける。

そんな悟りを開いた市井の一人が僕の母である。

子沢山だった母は、家族に愛情を注ぎつくして歳月を過ごし、88歳で病に倒れた。

それから4年間の厳しい闘病生活の間、母はひと言の愚痴もこぼさずに静かに生きて、最後は何も分からなくなって眠るように息を引き取った。

療養中も死ぬ時も、母は彼女が生き抜いた年月のように平穏そのものだった。
 
僕は母の温和な生き方に、本人もそれとは自覚しない強い気高い悟りを見たのである。

同時に僕はここイタリアの母、つまり妻の母親にも悟りを開いた人の平穏を見ている。

義母は数年前、子宮ガンを患い全摘出をした。その後、苛烈な化学療法を続けたが、副作用や恐怖や痛みなどの陰惨をおくびにも出さずに毎日を淡々と生きた。

治療が終わった後も義母は無事に日々を過ごして、今年で87歳。ほぼ母が病気で倒れた年齢に達した。

日本の最果ての小さな島で生まれ育った僕の母には、学歴も学問も知識もなかった。あったのは生きる知恵と家族への深い愛情だけである。

片やイタリアの母は、この国の上流階級に生まれてフィレンツェの聖心女学院に学び、常に時代の最先端を歩む女性の一人として人生を送ってきた。学問も知識も後ろ盾もある。

天と地ほども違う境涯を生きてきた二人は、母が知恵と愛によって、また義母は学識と理性によって「悟り」の境地に達したと僕は考えている。

僕の将来の人生の目標は、いつか二人の母親にならうことである。


僕はこの話を修正しなければならなくなった。義母がその後こわれてしまったからだ。いや、こわれたのではなく、死の直前になって彼女の本性があらわれた、ということのようだった。

義母は昨年90歳で亡くなったのだが、死ぬまでの2年間は愚痴と怒りと不満にまみれた「やっかいな老人」になって、ひとり娘である僕の妻をさんざんてこずらせた。

義母はこわれる以前、日本の「老人の日」に際して「今どきの老人はもう誰も死なない。いつまでも死なない老人を敬う必要はない」と言い放ったツワモノだった。

老人の義母は老人が嫌いだった。老人は愚痴が多く自立心が希薄で面倒くさい、というのが彼女の老人観だった。その義母自身は当時、愚痴が少なく自立心旺盛で面倒くさくない老人だった。

こわれた義母は、朝の起床から就寝まで不機嫌でなにもかもが気に入らなかった。子供時代から甘やかされて育った地が出た、というふうにも見える荒れ狂う姿は少々怖いくらいだった。

義母の急変は周囲をおどろかせたが、彼女の理性と老いてなお潔い生き方を敬愛していた僕は、内心かなり落胆したことを告白しなければならない。

義母はほぼ付きっ切りで世話をする妻を思いが足りないとなじり、気がきかないと面罵し、挙句には自ら望んだ死後の火葬を「異教徒の風習だからいやだ。私が死んだら埋葬にしろ」と咆哮したりした。

怒鳴り、わめき、苛立つ義母の姿は、最後まで平穏を保って逝った母への敬慕を、僕の中につのらせるようでさえあった。

義母を掻き乱しているのは、病気や痛みや不自由ではなく「死への恐怖」のように僕には見えた。するとそれは、あるいは命が終わろうとする老人の、「普通の」あり方だったのかもしれない。

そう考えてみると、「いつでもどんな状況でも平気で生きる」という母の生き方が、いかにむつかしく尊い生き様であるかが僕にはあらめてわかったように思えた。

いうまでもなく母の生き方を理解することとそれを実践することとは違う。僕はこれまでの人生を母のように穏やかに生きてはこなかった。

戦い、もがき、心を波立たせて、平穏とは遠い毎日を過ごしてきた。そのことを悔いはしないが、「いかに死ぬか」という命題を他人事とばかりは感じなくなった現在、晩年の母のようでありたい、とひそかに思うことはある。

死は静謐である。一方、生きるとは心が揺れ体が動くことだ。すなわち生きるとは文字通り心身が動揺することである。したがって義母の最晩年の狼狽と震撼と分裂は、彼女が生きている証しだった、と考えることもできる。

そうした状況での悟りとはおそらく、心身の動揺が生きている者を巻き込んでポジティブな方向へと進むこと、つまり老境にある者が家族と共にそれを受け入れ喜びさえすること、なのではないか。

それは言うのはたやすく、行うのは難しい話の典型のようなコンセプトだ。だが同時に、老境を喜ぶことはさておき、それを受け入れる態度は高齢者にとっては必須といってもよいほど重要なことだ。

なぜなら老境を受け入れない限り、人は必ず不平不満を言う。それが老人の愚痴である。愚痴はさらなる愚痴を誘発し不満を募らせ怒りを呼んで、生きていること自体が地獄のような日々を招く。

「いつでもどんな状況でも平気で生きる」とは、言い方を変えれば、老いにからむあらゆる不快や不自由や不都合を受け入れて、老いを納得しつつ生きることだ。それがつまり真の悟りなのだろう。

苦しいのは、それが「悟り」という高い境地であるために実践することが難しい、ということなのではないか。決して若くはないものの、未だ老境を実感するには至らない僕は、時々そうやって想像してみるだけである。



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奇妙なカップル



切り取りハートbest



天皇代替わりに合わせるように、安倍首相とトランプ大統領が4月、5月、6月と3回連続で首脳会談を行うという不思議な話は、日本のメディアの関心をあまり買っていないようだ。

トランプ大統領は5月に国賓として来日し新天皇と会見する。新天皇が即位後初めて会見する外国首脳がトランプ大統領、という仕組みだ。一連の行事の主要目的はそこにあるように見える。

日本の主要メディアは政府発表のスケジュールを短く伝えただけだ。立て続けに3度も首脳会談を行うべき緊急課題があるとも思えないのに、あえて強行する異様な状況には口をつぐんでいる。

異様さに気づかないわけではなく、例によって安倍一強政権への恐れや忖度があるのだろうか。たとえそうではなくても、今回の場合は皇室への遠慮もからんでいるのかもしれない。

忖度や遠慮がジャーナリズムさえ凌駕するのが日本の神秘だ。いつになったら権力への監視や批判がジャーナリズムの生命線であることを理解するのだろうか。

トランプ大統領はその後、6月28、29日にも来日して大阪でのG20会議に出席し安倍首相とまた会談する予定。4月の安倍首相の米国訪問に始まった不可解な3連続会談がそこで終了するのである。

5月の訪日ではトランプ大統領は、新天皇と会う以外には大相撲観戦をしたり、安倍首相と例によってノーテンキなゴルフ遊びに興じるだけだ。結局、世界の首脳に先がけて、同大統領を新天皇に会わせることが主題だからだろう。

退位して上皇になったばかりの前天皇はひそかに、だが気をつけて吟味すれば時にはあからさまな言辞で、安倍首相に敵対していた。憲法護持、国民重視、沖縄擁護、日本の戦争責任追及などなど、安倍首相がいやがる内容ばかりだ。

そこで安倍首相は、目の上のたんこぶ的存在だった前天皇が退位した機をとらえて、新天皇を取り込む画策を立てた。その作戦の一環としてトランプ大統領にも協力を頼んでいる、という見方は荒唐無稽に過ぎるだろうか。

そんな策略に乗るトランプさんは-いまさらおどろくようなことではないが-人としての器のレベルが相棒の安倍さんとどっこいどっこいの寂しい資質であることを露呈しているようで、見ていて空しい限りである。

それにしても、安倍さんが目立たない動きや術策で、やりたい放題をやっているように見える現行の日本の政治状況は驚くばかりだ。それが高じて天皇までも思い通りに動かそうとしているらしい姿は、まるで8世紀に登場して世間を騒がせた道鏡のようだ。

道鏡は天皇になる野心まで抱いていた。さすがに安倍さんにはそこまでの山気 はないだろうが、憲法改正に向けて新天皇を何とか懐柔したい意志があっても不思議ではない。

政治家としてまた国のトップとして、安倍さんがそういう風に動くのは、事態への賛否は別にして、理解できることだ。彼は憲法改正という自らの政治目的を達成するためにそう策しているのだから。

安倍さんのスタンスに穏便な形ながら断固として異議を唱え続けた前天皇が、平和憲法護持の立場であったのは隠しようもない事実である。安倍首相は新天皇が上皇の意思を受け継いでいるかもしれないことが不安なのだろう。

新天皇の「おことば」などに微妙にあらわれる変化から、安倍政権が天皇即位の前の皇太子さんに近づき、揺さぶりをかけてきたであろうことが推測できる。安倍首相は本気で天皇の籠絡を試みているようだ。

彼は政治目的の達成のためには手段を選ばない構えだ。日本の真の独立を阻むアメリカのトランプ大統領に借りを作ってでも、天皇の抱き込みを試みようとしているように見える。

それは大胆であると同時に危険な動きだ。なぜなら世話になったトランプさんにますます逆らえなくなって、今後も長きにわたって彼の阿諛外交が続き、日本のアメリカ従属がさらに深まりかねないからだ。

安倍首相の大胆さは無知と無恥から来るものである。それはトランプ氏が大統領当選を決めたとき、就任前にもかかわらずに彼のもとに駆けつけて諂笑して以来、一貫して続いている安倍さんの最大の特徴だ。

世界の大半がトランプ勝利に眉をひそめている最中に、「何らの批判精神もなく」彼に取り入った安倍さんの行為は世界を驚かせた。繰り返しになるがそこには安倍さんならではの無恥と無知が如実に現れていた。

しかし、矛盾するようだが、ここでは安倍首相に対してフェアなことも言っておきたい。

トランプさんが大統領選に勝利した2016年、安倍首相が世界の首脳に先駆けてトランプタワーに乗り込んで、彼を祝福し友好親善を推し進めたのは日本のトップとしては十分に理解できる行為だ。

なぜならトランプさんがたとえ「何者であれ」彼は米国大統領に当選したのだから、安倍さんは「日本の国益のために」未来のアメリカ大統領に挨拶をしておこうとして動いた側面もあるからだ。

安倍さんの行動のすべてが悪いのではない。だが安倍さんはトランプさんとのお友達関係を一方的に、かつ懸命に強調しつづけるものの、実は彼のポチでしかない卑屈な立ち回りに終始している。

自尊心のかけらもないような追従外交方ばかりを続けている。それでいて、一向にその事実に気づいていないように見える。そこが大きな問題なのである。

トランプ大統領は、異様な指導者だ。彼の施策はこれまでのところネガティブなものが多い。だがフェイクニュースを流して彼の主張こそ真実だと言い張る行動によって、それまで完璧に見えた大手メディアにもまたフェイクな顔がある、という事実を暴き出した功績は大きい。

同時にトランプ氏は、「差別や憎しみや偏見などを隠さずに、しかも汚い言葉を使って公言しても構わない」という考えを人々の頭に植え付けてしまった。つい最近までタブーだった「罵詈や雑言も許される」といった間違ったメッセージを全世界に送ってしまったのだ。

それはつまり、人類が多くの犠牲と長い時間を費やして獲得した「寛容で自由で且つ差別や偏見のない社会の構築こそ重要だ」というコンセプトを粉々に砕いてしまったことを意味する。その罪は重い。異様な指導者であるトランプ大統領の奇異に気づかない安倍首相もまた異様だ。

2人の異様は、これまでのところ、安倍首相がトランプ大統領をノーベル平和賞候補に推薦した、という噴飯茶番によって極限に至った。だがノーベル賞の茶番は、オバマ前大統領への平和賞やボブ・ディランへの文学賞授与などでも示されたから、おどろくほどのことではないのかもしれない。

安倍政権に遠慮する大手メディアと、ネトウヨ排外差別主義者らが声高にネットを席巻する日本国内にいるとあるいはよく見えないかもしれないが、欧州を含む世界の良心は、安倍&トランプという奇妙なカップルの、友情なのか政治パフォーマンスなのか判別できない「奇怪なダンス」を窃笑しつつ“遠巻き”に監視している。



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連休という果報、飛び石連休という貧困



サントリーニ見下ろし海パラソル客船800を600に



2019年、日本のゴールデンウイークが10連休になるというニュースは、イタリアにいても日本の衛星放送やネットを介していやというほど見、聞き、知っていた。

それに関連していわゆる識者や文化人なる人々が意見を開陳していたが、その中にまるで正義漢のカタマリのような少し首を傾げたくなる主張があった。

10連休は余裕のあるリッチな人々の特権で休みの取れない不運な貧しい人々も多い。だから、10連休を手放しで喜ぶな。貧者のことを思え、と喧嘩腰で言い立てるのである。

10連休中に休めない人は、ホテルやレストランやテーマパークなど、など、の歓楽・サービス業を中心にもちろん多いだろう。

だが、まず休める人から休む、という原則を基に休暇を設定し増やしていかないと「休む文化」あるいは「ゆとり優先のメンタリティー」は国全体に浸透していかない。10連休は飽くまでも善だったと僕は思う。

休める人が休めば、その分休む人たちの消費が増えて観光業などの売り上げが伸びる。その伸びた売り上げから生まれる利益を従業員にも回せば波及効果も伴って経済がうまく回る。

利益を従業員に回す、とは文字通り給与として彼らに割増し金を支払うことであり、あるいは休暇という形で連休中に休めなかった分の休息をどこかで与えることだ。

他人が休むときに休めない人は別の機会に休む、あるいは割り増しの賃金が出るなどの規則を法律として制定するすることが、真の豊かさのバロメーターなのである。

そうしたことは強欲な営業者などがいてうまく作用しないことが多い。そこで国が法整備をして労働者にも利益がもたらされる仕組みや原理原則を強制するのである。

たとえばここイタリアを含む欧州では従業員の権利を守るために、日曜日に店を開けたなら翌日の月曜日を閉める。旗日に営業をする場合には割り増しの賃金を支払う、など労働者を守る法律が次々に整備されてきた。

そうした歴史を経て、欧州のバカンス文化や「ゆとり優先」のメンタリティ-は発達した。それもこれも先ず休める者から休む、という大本の原則があったからである。

休めない人々の窮状を忘れてはならないが、休める人々や休める仕組みを非難する前に、窮状をもたらしている社会の欠陥にこそ目を向けるべきなのである。

休むことは徹頭徹尾「良いこと」だ。人間は働くために生きているのではない。生きるために働くのである。

そして生きている限りは、人間らしい生き方をするべきであり、人間らしい生き方をするためには休暇は大いに必要なものである。

人生はできれば休みが多い方が心豊かに生きられる。特に長めの休暇は大切だ。夏休みがほとんど無いか、あっても数日程度の多くの働く日本人を見るたびに、僕はそういう思いを強くする。

バカンス大国ここイタリアには、たとえば飛び石連休というケチなつまらないものは存在しない。飛び石連休は「ポンテ(ponte)」=橋または連繋」と呼ばれる“休み”で繋(つな)げられて「全連休」になるのだ。

つまり 飛び石連休の「飛び石」は無視して全て休みにしてしまうのである。要するに、飛び飛びに散らばっている「休みの島々」は、全体が橋で結ばれて見事な「休暇の大陸」になるのだ。

 長い夏休みやクリスマス休暇あるいは春休みなどに重なる場合もあるが、それとは全く別の時期にも、イタリアではそうしたことが一年を通して当たり前に起こっている。

たとえばことしは、日本のゴールデンウイーク前の時節(期間、時分)にもポンテを含む連休があった。復活祭と終戦記念の旗日がからんだ4月20日から28日までの9連休である。

4月20日(土)、21日(日“復活祭”)、22日(月“小復活祭=主顕節”・旗日)23日(火“ポンテ”)24日(水“ポンテ”)25日(木“イタリア解放(終戦)記念日”・旗日)26日(金“ポンテ”)27日(土)28日(日)の9連休である。

もちろん誰もが9連休を取る(取れる)わけではない。23日(火)と24日(水)は働いて25日から28日の間を休む。つまり26日(金)だけをポンテとして休む、という人も相当数いた。だが20日から28日までの長い休暇を取った人もまた多かったのである。

そうした事実もさることながら、旗日と旗日の間をポンテでつなげて連休にする、という考え方がイタリア国民の間に「当たり前のこと」として受け入れられている点が重要である。

飛び石、つまり断続または単発という発想ではなく、逆に「連続」にしてしまうのがイタリア人の休みに対する考え方である。休日を切り離すのではなく、できるだけつなげてしまうのだ。

連休や代休という言葉があるぐらいだからもちろん日本にもその考え方はあるわけだが、その徹底振りが日本とイタリアでは違う。勤勉な日本社会がまだまだ休暇に罪悪感を抱いてるらしいことは、飛び石連休という考え方が依然として存在していることで分かるように思う。

一方でイタリア人は、何かのきっかけや理由を見つけては「できるだ長く休む」ことを願っている。休みという喜びを見出すことに大いなる生き甲斐を感じている。

そんな態度を「怠け者」と言下に切り捨てて悦に入っている日本人がたまにいる。が、彼らはイタリア的な磊落がはらむ豊穣 が理解できないのである。あるいは生活の質と量を履き違えているだけの心の貧者なのである。

休みを希求するのは人生を楽しむ者の行動規範であり「人間賛歌」の表出である。それは、ただ働きずくめに働いているだけの日々の中では見えてこない。休暇が人の心身、特に「心」にもたらす価値は、休暇を取ることによってのみ理解できるように思う。

2019年に出現した10連休は、日本の豊かさを示す重要なイベントだった。日本社会は今後も飛び石連休を「全連休」にする努力と、連休中に休めなかった人々が休める方策も含めて、もっとさらに休みを増やしていく取り組みを続けるべきなのである。



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