トランプ大統領が国技館を訪れて相撲観戦をする様子を衛星生中継の映像で逐一見た。また宮中晩餐会の模様も同じく衛星放送で実見した。
安倍首相と周囲の気持ちが全く分からないわけではないが、安倍さんのトランプ大統領への行き過ぎた阿諛と、皇室までも取り込んで政治ショーを展開する傲岸に強い違和感を覚えた。
国技館ではそこまでトランプさんに気を遣ってどうするの?と思わずにはいられない場面が多々あった。たえば升席を潰して特別観覧席を作ったのが先ず気にかかった。
大相撲は「溜(たまり)席」いわゆる 「砂かぶり」が最も良い席で、次に良いのが升(ます)席だ。そこに座って観戦するから、人は大相撲古来の伝統に触れたと実感でき心がふるえるのだ。偉そうにソファ席なんか作るべきではない。
いま僕は「偉そうに」と言った。それは安倍さんへの皮肉だ。賓客のトランプさんが、升席でのもてなしを「日本的過ぎていやだ」とエラソーに言うことはありえない。彼を普通に扱っていれば、むしろ升席に座っての観戦を喜んだはずだ。
枡席の上のソファにふんぞり返って、トランプさんという虎の威を借りては周囲を睥睨し悦に入っていたのは、安倍首相その人にほかならなかった。
座布団一枚の広さしかない溜(たまり)席 は、大柄な大統領とメラニア夫人には確かに窮屈すぎるかもしれない。だが升席なら4人分のスペースを2人に割り当てることができた。
つまり2つの升席の通常8人分のスペースを、トランプ夫妻と安倍夫妻の4人が占有すれば済んだ話だったのだ。それは既に十分以上のもてなしになるはずだった。
升席はトランプさんには窮屈ではないか、と余計な「忖度」をしてソファー席をこしらえたのは、おそらく安倍首相だろう。そのあたりに安倍さんの教養と人間力の限界がある、と僕は感じる。
トランプさんの威を借りてソファ席からあたりを睥睨しよう、という心積もりはさすがにその時の安倍首相にはなかったのではないか。だが結果的にそうなった。安倍さんの政治的悪運の強さがまた象徴的に出たエピソードだ。
安倍さんには抜きがたいトランプ大統領への劣等感があるように見える。彼はトランプ大統領とはオトモダチだと言い募るが、友達ではなく従僕の地位に甘んじている、というのが正確だろう。
いや、甘んじているという意識さえおそらく彼にはない。主従の関係が当たり前だと信じ込んでいるのだと思う。封建社会の農民が、領主の存在を当然と思い込んで見上げ崇めたように。
日本独特の儀式が詰まった大相撲を「日本の伝統」として安倍さんが腹から誇りに思っているならば、彼は升席の少しの窮屈という「伝統」も含めてトランプさんに提示するべきなのだ。それができないのが安倍さんの限界なのである。
オトモダチという個人的概念とその中身の錯誤に気づかないまま、日本国を貶める言行を連発するのが安倍外交の真髄だ。徹頭徹尾トランプさんの下僕の役割を担って、且つそれに120%満足しているのが安倍晋三さんである。
土俵に上がるのに木製の階段を設えたり、スリッパを用意したりしたのも醜悪だ。形が醜悪なのではない。それらを準備しなければならない、と思い込み怖れる精神が卑屈で醜いのである。
安倍さんと周囲の思惑に唯々諾々と従った相撲協会も卑屈であり、情けないと言えば情けない。土俵の精神性を守るために土俵に女性は入れない、と高飛車に言い続ける気概はどこに行ったのか。
2018年4月、大相撲巡業場所で土俵に上がった舞鶴市長が倒れて死の淵に横たわった時でさえ、相撲協会の関係者は市長の救命にあたった女性たちを土俵から引きずり下ろそうとした。あの頑迷だが、一応筋の通った姿勢はなぜ歪んだのか。
いうまでもなく彼らは安倍強権力の前にひざまずいたのである。それは決して賞賛に値する態度ではない。しかし、いわば国家の庇護の下にあるとも考えられる公益財団法人という組織が、権力の前にひれ伏すのは理解できなくもない。
真に醜いのは、相撲協会という弱者には高飛車で、トランプ大統領という強者には卑屈な安倍晋三という日本最強の権力者なのであり、その周囲に群がる権力の亡者たちである。
またそれらの奇怪な光景にまったく気づかず、あるいは気づいても何らの批判精神も違和感も覚えないまま、トランプ大統領と従撲の安倍さんの一挙手一投足に歓声を上げ、拍手し、記念写真を撮ることに夢中になっていた観客も見苦しかった。
あきれるほどに低い民意を露呈している人々の行動は、実は安倍さんの精神構造と政治姿勢の端的な写し絵である。彼らは自らに似た指導者を選挙で選んだ。するとそれは安倍晋三さんだったというだけの話だ。
宮中晩餐会が、新天皇と皇后を含む皇族をダシに使った安倍晋三主催のトランプ歓迎式典に徹していることも驚きだった。そこでも安倍さんのやりたい放題がまる見えに見えていた。
トランプ大統領は新年号の令和を祝いに来日した。新天皇はそれを歓迎し謝意をあらわした。従って天皇主催の晩餐会がトランプさんを思い切り持ち上げるショーになるのは仕方がない。
また新天皇の「おことば」も自らの体験にからませて米国讃辞に終始した。それもまた仕方がない、と思いつつも僕はそこに、安倍さんへのけん制と日本の過去の誤ちを片時も忘れなかった上皇の気概の片鱗を見たかった、ともまた思った。
象徴である天皇が政治に関わらない、というのは建前であり原則論である。天皇はそこにあるかぎり常に政治的存在である。政治家がそれを政治的に利用するという意味でも、また天皇が好むと好まざるに拘らず、政治の衣をがんじがらめに着装させられているという意味でも。
天皇は政治に口を出してはならないが、口を出してはならないという建前も含めた彼の存在が、全き政治的存在であることを常に意識して、新天皇は行動し発言をするべきだ。退位したばかりの前天皇、明仁上皇がそうであったように。
徳仁新天皇の「おことば」からは、上皇の深い人間力を彷彿とさせるような雰囲気は漂ってこなかった。それは新天皇の、天皇としての経験の浅さによるものであって、安倍晋三首相に籠絡された結果ではないことを切に願いたい。
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