【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2019年09月

再訪クレタ島



朝のビーチクバ傘パラソル800


ギリシャのクレタ島にいる。9月末のエーゲ海のビーチは、朝晩はさすがに涼しいが、まだ夏まっ盛りという風である。ビーチの寝椅子で直射日光にあたると肌が痛くなるほどだ。

ギリシャの島々はけっこう訪ねている。しかし、再訪したのはクレタ島が初めて。ギリシャの島に限らず、ほとんどの訪問地で「また必ず訪ねよう」と心に誓うが、実現することはまずない。

世界は行きたいところ、見たい場所にあふれていて、だが機会は限られ人生は短い。遠出の旅で同じ場所を何度も訪ねる心の余裕も時間もない。

それでも今年は昨年に続いてイタリアのサルデーニャ島を再訪し、さらにここクレタ島にもやってきた。

しかもクレタ島では2年前とそっくり同じリゾート地に宿を取った。ビーチ際のホテル内の、海を見渡すstudioと呼ばれるアパート。瀟洒な施設で実は2年前に当たりをつけておいたところだ。

クレタ島のビーチリゾートには、目の前が砂浜と海という宿泊施設が多いが、今回の宿はまさにビーチに面した造りで、かつ小奇麗で便利でシックな感じが好ましい。値段も手ごろだ。

6月にはギリシャほかの島々や海に遊び、冬前にチャンスがあればクレタ島に滞在する、という計画を初めて実践してみた。結果は大いに満足、というところ。将来もおそらくまた訪ねるだろうという予感がする。

閑話休題

2年前の滞在時にはうかつにも全く気づかなかったのだが、クレタ島は羊よりもヤギの多い島で、野生ヤギの一種kri-kri(クリクリ)の生息地でもある。むろんヤギ肉料理も豊富だ。

ヤギ料理は乳飲み子や成獣よりも10㎏から~15㎏ほどの若い家畜の肉を使ったものが一般的。また羊の場合は乳飲み子を含む子羊の肉が多い、と分かった。

しかし、印象としてはヤギも羊も乳飲み子を含む若い家畜の肉が大半だ。言葉を変えれば成獣の肉はあまり使わない、ということ。ただし前回滞在時には極めて美味な羊の成獣肉料理にも出会った。

クレタ島オリジナルの食は肉が中心だ。これは島がイタリアのサルデーニャ島に似て、古くから外敵の侵略にさらされ続け住民が内奥の山々に逃げ込みそこに居ついたという歴史があるからだ。

その時の主な家畜はヤギと羊だった。そのためにヤギ肉と羊肉(以下:ヤギ・羊肉)の美味いレシピが発達した。クレタ島もまたサルデーニャ島も、人々がヤギ羊肉をよく食べるところは同じである。

ところが、サルデーニャ島では子羊の料理は季節限定になっているのに対して、クレタ島では子ヤギと子羊の肉料理は一年中供される。

今回旅では、ギリシャあるいは「クレタ島伝統食」レストランと銘打つ幾つもの店で、非常に美味いヤギ・羊肉料理に出会っている。

クレタ島滞在中は、さらにヤギ・羊肉料理を食べまくる計画。次回はできればレシピの具体例を書いてみたいと思う。


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銃を牛耳る 

銃撃多人数


少し物騒に聞こえるかもしれない話をしようと思う。

アメリカを筆頭に銃乱射事件があとを絶たない。乱射には至らないが銃による殺人事件や事故は世界中でもっとひんぱんに起こっている。

僕は厳しい銃規制に賛成の立場だ。

ところが個人的には、近く拳銃を扱う訓練を始める計画である。拳銃を扱う訓練とは、要するに銃撃の仕方を習うということだ。

僕は銃、特に拳銃が怖い。自身のそのトラウマをほぼ25年前、僕は偶然に発見した。

1994年、シチリア島で長期ロケをしていたとき、ある人が護身用に保持している拳銃を手に取ってみる機会があった。

拳銃は合法的に取得・登録済みのもので、そのとき実弾も装填されていた。

手にした拳銃はずしりと重かった。手に取るとほぼ同時にその重さは強い不安に変わり恐怖心を呼んだ。今にも暴発しそうなイヤな感触もあった。

そのくせ僕は、引き金に指を掛けるどころかグリップさえ握らずに、銃を寝かせたまま全体を手の平に乗せて、軽く包み込むように持っただけなのである。

いうまでもなくその恐怖心は、拳銃が殺傷の道具である事実と、それを所持した人間が犯す事件や事故の可能性を知っていることから生じている。

また僕は拳銃がもたらす事態の怖さを知っているのに、その怖さを生み出す拳銃そのもののことを全く知らない。弾丸を撃ち出す仕組みも構造も何もかも、手にした拳銃の実体の全てが理解できないのだ。

その現実も不安となりさらに大きな恐怖となった。人間が作った道具をそれへの無知ゆえに僕は激しく怖れる。そこでは無知こそが恐怖の動機だった。

そのとき湧き起こった恐怖心はさらなる心理の屈折を僕にもたらした。つまり僕は拳銃を怖れている自分にひどい屈辱感を覚えたのだ。

そうやって僕は恐怖と屈辱といういやな感情を自分の中に抱え込んでしまった。

それは25年後の今もはっきりと僕の中に刻み込まれている。2つながらの感情を克服するには、なによりも先ず再び銃を手に取って、今度は実際にそれを撃ってみることだ。

銃撃を習得する過程で僕は銃の構成やからくりや大要や論理等々についても勉強していくだろう。射撃を習うことができる試射場は、イタリアには数多くある。

実は10年ほど前に猟銃の扱いを覚えた。狩猟に出る気はないが、素人には猟銃のほうが扱いやすい、という友人の軍警察官のアドバイスを得て試してみたのだ。

秋の狩猟シーズンに友人らに連れられて山に入り、主に空に向かって猟銃を撃っては少しづつ慣れていった。そうやって今では僕は、割りと平穏に猟銃を扱えるようになった。

課題は拳銃である。映画などでは手慣れたオモチャかなにかのように拳銃を軽くあしらうシーンがひんぱんに出てくる。だが、拳銃は猟銃とは違って扱いが難しい。慣れないうちは暴発や事故も頻発する。

また片手の内に収まるものもある小さな装備が、引き金にかかる指先のかすかな動きで爆発し、圧倒的な威力で人を殺傷する悪魔に変わる現実の、重圧と緊張と悪徳もうっとうしい。

僕の恐怖感の正体も、片手でも扱える小さな、そのくせずしりと重い拳銃への無知と疎ましさと嫌悪に基因がある。僕はそれらの全てを克服してすっきりしたいのである。

拳銃を自在に使いこなしたいのは恐怖の克服が第一義の理由だが、実はほかにも2点ほど僕がその必要性を思う理由がある。

僕はここイタリアでは少し特殊な家に住んでいる。古い落ちぶれ貴族の館で過去には何度も盗みや押し込みの被害に遭っている場所だ。

そんな歴史があるため、屋内には金目のものは置かれていない。盗む価値のあるものが存在するとすればそれは、古い大きな建築物そのもの、つまりこの家だけだ。それはむろん持ち去ることなどできない。

イタリア中に存在する「私有の」貴族館や歴史的豪邸や城などは、ほぼ100%がそんな状況にある。要するに貧乏貴族のボロ家なのだ。イタリア人のプロの盗賊なら経験上そのことを知っている。

だが、今のイタリアには外国人の犯罪者があふれている。イタリアの歴史的家族の内情を知らない彼らは、建物の堂々たる外観だけに目を奪われて、空しい盗みを計画するかもしれない。

それでも彼らのほとんどは武装した危険な賊徒だ。その連中は常に暴力的だが、屋内に目ぼしい金品がないと知ると特に、憤怒にかられた殺人者に変貌することが多い、と統計が語っている。

自家は警備システムで厳重に守られているが、僕自身が護身のために武器を秘匿しておくのも悪くない、と感じないでもない。ここは平和な日本ではない。“普通に”危険な欧州の一国だ。

僕は臆病な男だが、もしも賊に襲われたときには、黙って難を受け入れることを潔しとしない。家族を守るために必ず行動しようとするだろう。

もうひとつの理由は少々形而上学的なものだ。将来ムダに長生きをしたとき、尊厳死が認められている社会ならいいが、そうでないときはあるいは拳銃が役に立つかもしれない。

形而上学的どころかひどく生々しい話に聞こえるかもしれない。しかし、僕には自壊の勇気など逆立ちしてもない。将来もそんな勇気は湧かないだろう。だからそれは妄想という名の形而上学的世界。

小心者の僕は120歳になんなんとする時まで生きてもきっと、拳銃を手にして、この悪魔を喜ばせないためにも自滅などしない。僕はもっともっと生き続けなければならない、などと自己弁護に懸命になっていることだろう。

それらのことを踏まえて、僕は近く射撃場の扉を叩く予定である。



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ベニスに遊ぶ



ivangelista披露宴会場天井込みヒキ800


ベニスの少し優雅な結婚披露宴に招かれた。

同じ日に別の場所で日本祭りがあり、僕はそこで日本映画のプレゼン責任者だった。

困ったが、結婚披露宴はどうしても避けられない義理ある催し物だったので、そちらへの顔出しを優先せざるを得なかった。

披露宴会場はベニスの中心街から少し離れた場所にあった。いや、大運河からリアルト橋に向かって路地を行く地区だから、中心街の一角ではある。

だが、そのあたりはリアルト橋一帯やサンマルコ広場付近に較べると、ベニスの中心街の中では観光客が少なく静かな雰囲気に包まれている。

いまベニスで取りざたされることの多い中国人観光客も、その他の訪問客もあまり通りを歩いていない。

地元の人らしい老婦人に披露宴会場への道順を訊いた。躊躇なく教えてくれる様子からベニス人の女性であることに確信を持った。

そこでついでにまた訊いた。このあたりはずいぶん静かですね。あまり観光客も歩いていないようですし、と。

すると老婦人は急いで返した。とんでもない。このあたりも含むベニスはもうベニスではありません。ベニスは観光客に乗っ取られてしまいました。嘆かわしいことです、と。

彼女は僕を観光客とは見なさなかったようだ。イタリア語を、ブロークンながら、ま、割りと流暢に話すし、何よりも結婚披露宴に出るためにスーツにネクタイ姿だったからだろう。

カドーロ背景照も300

スーツにネクタイに黒の革靴を履いた観光客なんて、さすがのベニスにもあまりいないはずだ。


老婦人の嘆きは全てのベニス人の嘆き、と断言しても構わないと思う。それは僕のようにベニスを愛する非地元民の嘆きでもあるのだから。

観光客となんら変わることのない仕方でベニスに侵入している自分自身を棚に上げて、僕はそこでもベニスに溢れる旅人の多さを慨嘆するのだった。

僕の慨嘆はさらに深くなった。老婦人と別れてしばらく路地を行くと、明らかに不埒な中国人の仕業に違いない、落書きが目に飛び込んできたのだ。

チャイナ落書き800


美しい水の都は確実に壊れつつある。それは中国人のせいばかりではないが、中国人の影響はやはり少なくない、とは言えそうだ。

その後とどまった結婚披露宴の会場では、ベニスの伝統に彩られた屋内装飾や食や持て成しやゲストの動静や空気感を満喫して、それとは対極にある外の喧騒をしばらく忘れて過ごした。



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イタリア式回転ドア内閣の愉快 


女の子ピース!!800



イタリアの左右のポピュリスト、五つ星運動と同盟の連立政権が倒れるとすぐに、前者が臆面もなく天敵の民主党に駆け寄って手を結び、新たな連立政権が樹立された。

不安定なイタリア政治は面白い。いや、興味深い。内閣がくるくる変わるのはとんでもない欠点だとばかり思ってきたが、最近僕はそれは欠点ではなく、イタリア政治の「特徴」なのだと考えるようになった。

戦後のイタリアの内閣はひんぱんに変わることで知られている。平均寿命は一年未満、という時期が長く続いた。今もよく変わる。2018年に発足した五つ星運動と同盟の連立政権も1年と2か月で崩壊し、第66代ジュゼッペ・コンテ内閣が間もなく船出する。

今回の政変ではほとんど見られなかったが、政権交代の度に大きな政治空白が生じる。だがそれによってイタリア経済が停滞したり、行政が行き詰まったり、司法が恐慌をきたしたりすることはまずない。

もしもそういう状況があったとするならば、それは政治空白や政治不安のせいではなく、イタリアの経済や行政や司法が「元々そういう風だった」からに過ぎない。イタリアではそれらは常に問題山積なのだ。

ひっきりなしにやって来るイタリアの政治不安は、政権交代が可能な政治体制だからだ。政権交代が可能な分、権力につきものの腐敗が最小限にとどまる、というむしろ余得を伴うのがイタリアの政治の在り方である。

腐敗が最小限にとどまると聞けば、政治腐敗にうんざりしているイタリア国民は、あるいはデタラメをいうな、と怒るかも知れない。だがここでも僕は確信を持って言える。政治不安と政権交代がなければ、腐敗はもっとはるかに大きなものになっているだろう、と。

先月、連立政権の一翼を担っていた極右政党同盟のサルヴィーニ党首は、閣僚でありながら、内閣不信任案を提出して政権を崩壊に導いた。コンテ首相は、彼の行動は自身と党の利益のみを優先させる利己的で無責任な行動だ、と国会で厳しく指弾した。

コンテ首相の批判を待つまでもなく、サルヴィーニ氏は内閣を倒して総選挙に持ち込みたい思惑が強かった。副首相兼内務大臣の彼は、強硬な反移民・難民政策を実行に移して、地中海を介してイタリアに押し寄せるアフリカ・中東からの難民・移民を締め出しにかかった。

その政策は移民疲れの激しいイタリア国民の支持を集めた。サルヴィーニ氏は急上昇する彼自身と同盟への支持率を背景に発言力を強め、ここ最近はまるで自分が首相だと言わんばかりの態度に出ることも少なくなかった。

だが、議会解散から総選挙に持ちこもうと画策した彼の思惑は裏目に出た。連立相手の五つ星運動が、政権が崩壊するや否や、なんと野党の民主党にすり寄って新たに連立を組もう、と持ち掛けたのである。

五つ星運動と民主党は犬猿の仲どころか、お互いが天敵ともいうべき相手である。五つ星運動は、先の総選挙で政権与党だった民主党を激しく攻撃して支持率を上げ、ついに第一党となって政権を勝ち取った、といういきさつもある。

その五つ星運動が臆面もなく民主党に言い寄ったのだ。まさかの展開にサルヴィーニ氏は真っ青になり、自分を棚に上げて五つ星運動を「裏切り者!」とののしったがもう後の祭り。あれよという間に両党の連立協議が進行した。

五つ星運動と民主党はほどなく合意に至り、コンテ氏を首班とする政権が再び誕生することになった。同盟とサルヴィーニ氏は排除される形で下野。あっという間にお山の大将からただの人になった。

2011年、イタリア政界を長きにわたって牛耳ってきたベルルスコーニ元首相が失脚した後、イタリアではモンティ、レッタ、レンツィ、ジェンティローニという選挙の洗礼を受けない政権が続いた。

そこに政治不信に疲れきった国民の不満を吸い上げる形で、反体制ポピュリストの五つ星運動と反EU反移民を旗印にする極右の同盟とが選挙を経て政権を奪取した。

しかし、既述のようにそのポピュリスト政権も内部分裂であえなく終焉。結果として8年間で6つの政権が現れては消える展開になった。

そこで見えてくるのは、混乱の様相を呈したイタリアの柔軟な政治制度だ。それは混乱ではなく、政権交代が確実に実行される、いわばイタリア的秩序の顕現なのである。

特に「まさか」と思われた左派ポピュリストの五つ星運動と極右ポピュリストの同盟による連立政権の樹立は、まさに「なんでもあり」がイタリアの政治の王道であり、政権の座に就く者はイタリア的なしなやかさで「なんとか」政権運営をしていく、という厳然たる事実である。

柔軟に政権交代が起こり、権力を握った者は誰もがそれなりに国の舵取りをこなしていく、という驚異的な現象がさりげなく出現するイタリアの政治状況は、全くもって面白く興味深い、と最近つくづく思うのである。


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