
ことし11月、ローマ教皇として38年ぶりに日本を訪問したフランシスコ教皇は、恒例のクリスマスイブのミサで「神は、つまりイエス・キリストは人類のうちの最悪人でさえも愛する」と人々に語りかけた。全世界13億人の信者に向けて開かれるクリスマスのミサは、カトリックの総本山ヴァチカンにあるサン・ピエトロ大聖堂で執り行われる。
この言葉は「全ての人を愛せ」と説いたイエス・キリストの言葉を踏襲し、あらためて確認したものと受け止めるのが普通だろうと思う。ところがイギリスのBBC放送の記者は「このメッセージは、性的虐待などのカトリック教会のスキャンダルに言及したと受け止められる可能性がある」と少し遠回しの言い方で批判した。
その解釈は多分に政治的なものである。BBCの記者は恐らくプロテスタントだろう。少なくともカトリックの信者ではない、と断言してもいいのではないか。彼は教皇のメッセージをカトリック教徒以外の立場から見て、その内容が自己保身的だと感じたと言いたいのだろうが、訳合いはほとんどこじつけである。
ローマ・カトリック教会が、聖職者による性的虐待問題で激震に襲われているのは事実だ。またフランシスコ教皇がその問題を深刻に受け止め「断固とした対応をとる」と公言しながらも、世界を十分に納得させるだけの抜本的な改革には未だ至っていないのもまた事実だ。しかし彼がローマ教会内の保守派の抵抗に遭いながらも、決然として問題の解決に取り組んでいるのもこれまた否定できない。クリスマスのミサで保身や隠蔽を示唆する法話をした、と捉えるのは余りにも政治的に過ぎる偏狭な見方に思える。
僕はキリスト教徒ではない。キリスト教徒ではないので、むろん教会や教皇を無条件に受容し跪(ひざまず)くカトリック信者でもない。また、いうまでもなくBBC記者に寄り添うプロテスタントでもあり得ない。それでいながら僕は、フランシスコ教皇を真摯で愛にあふれた指導者だと考え尊崇している。しかしそれは彼の地位やローマ教会の権威に恐れをなすからではない。
僕はフランシスコ教皇の人となりを敬慕し親しむのである。そしてそこから生まれ出る彼の思想や行動を支持するのである。僕のその立場は、例えば先日退位して上皇となった平成の天皇への景仰の心と同じものだ。僕は天皇時代の上皇の、国民への真摯な愛と行動と言葉を敬慕し支持する。それは天皇を天皇であることのみで盲目的に敬う胡乱蒙昧な情動とは無縁の信条に基づく判断である。
僕は「天皇制」にはむしろ懐疑的な立場である。天皇制は天皇自身とは無関係に政治利用されて危険を呼ぶ可能性がある。だから僕はその制度を懸念する。一方僕は平成の天皇をその人となりの偉大ゆえに尊崇する。その意味では新天皇に対する親和心や尊敬や愛はまだ感じない。彼が天皇であることそのものではなく、彼のこれからの天皇としての動きを見なければ判断できないのだ。
フランシスコ教皇の「最悪人も神に愛される」というメッセージは、先に書いたようにイエス・キリストの教えを踏襲すると同時に、浄土真宗の親鸞聖人が説いた「善人なおもて往生をとぐ、 いわんや悪人をや」の悪人正機説にもよく似ている。もっとも親鸞聖人の言う悪人とは、犯罪者や道徳的悪人などの今の感覚での悪人のことではない。そこが普通に極悪人を意味する教皇の「悪人」とは違う。
親鸞聖人が言及した悪人とは仏の教えを知らない衆生のことであり、善人とは自らの力で自らを救おうとするいわゆる「自力作善の人」のことだ。だが真実は、実は善人も仏の教えを知らない。彼らがそのことを悟るとき、つまり悪人になるとき彼らもまた救われる。だから悪人とはつまり「全ての人」のこと、という解釈もできる込み入ったコンセプトだ。
だがそのような深読みや理屈はさておいて、親鸞聖人の教えの根本にあるのは愛と赦しの構えである。全ての人が仏の功徳で救われる。だから仏の教えを信じなさい、と聖人は主張するのだ。それはイエスキリストの言う全ての人を愛しなさい、とそっくり同じ概念である。愛があれば憎しみがなくなる、憎しみがなくなるとは「赦し、赦される」ということである。フランシスコ教皇の「最悪人も神に愛される」とは、つまりそういうことではないか。
恐らくプロテスタントであろうBBC記者の政治的な解釈には、イギリス的な慢心が混じっているようで興味深い。僕は英国の民主主義と、英国民の寛容の精神と開明を愛する者だが、同じ英国人の持つ唯我独尊的な思想行動に辟易するものも覚える、と告白しなくてはならない。そこには「赦し」の心が入り込みにくい窮屈があるように思う。
たとえばこういことがあった。2015年、僕はイベリア半島の英国領・ジブラルタルを旅した。スペイン領からジブラルタルに入るとき、車列がえんえんと続く渋滞に行き合った。ところが一車線がはるか向こうまでクリアになっている。一台の車も見えず完全に空き道なのである。状況が分からない僕はその車線に入って車を走らせた。
ところがしばらく走った先が閉鎖されていて通れない。結局大渋滞中の車線に入らなければならなくなった。そこでウインカーを出して渋滞車線に割り込もうとすると、各車が一斉にクラクションを鳴らして拒否した。少し空いた隙間に入ろうとすると車をぶつけるほどの荒々しい動きで空間を詰め、クラクションを激しく鳴らしながらドライバーが窓を開けて罵声を浴びせたりするのだ。
僕の気持ちも顔もマッサオなそんな状態が10分以上も続いた。僕はついに車を停めて道路に降り立ち「申し訳ない。状況が分からなかった。間違ったのだ。どうか割り込ませて欲しい」などと英語で叫ぶように頼んだ。ところがそれにも大ブーイングが起こる。お前は悪いことをした。みんな渋滞の中でじっと待っている。バカヤロー!ルールを守れ!などなどすさまじい非難の嵐である。
僕はひたすら謝った。いま来た道は戻るに戻れないのだから謝るしかない。それでも彼らは赦さなかった。僕はついに諦めて、反対車線に入るために無理やり車を中央ラインの盛り上がりに乗せた。車はその動きで下部が損傷した。それでもなんとか車を乗り上げて反対車線に入って逆走した。その間も渋滞車線のドライバーたちはクラクションを咆哮させて僕を責め続けていた。
その経験は僕の気持ちをひどく萎えさせた。学生時代に足掛け5年間住んだこともある英国への僕の賞賛の思いは、その後も決して変わらない。だが時として原理・原則にこだわりすぎるきらいがある英国人のメンタリティーは、少々つらいものがあると思う。僕は神かけて誓うが、ジブラルタルではズルをするつもりで空き車線を走ったのではない。状況を見極めようとしてそこを行ったのだ。
いま考えれば全ての車が渋滞車線にいて空き車線には入ろうとしないのだから、そこを行くのはマズイのだろうという意識が働かなければならない。ところが僕は旅先にいるという興奮やジブラルタルという特殊な邦への強い興味などで頭がいっぱいになっていて、少しもそこに気が回らなかった。それやこれやで思わず空き車線に入り先を急いでしまった。つまり僕は「間違った」のだ。だが苛烈な厳粛主義者の英国人はそれを決して赦そうとはしなかった。僕はそこに英国的リゴリズムの危うさを見る。
「人間は間違いを犯す。間違いを犯したものはその代償を支払うべきであり、また間違いを決して忘れてはならない。だがそれは赦されるべきだ」というのが絶対愛と並び立つカトリックの巨大な教義である。イタリア社会が時としていい加減でだらしないように見えるのは、人々の心と社会の底流にその思想・哲学が滔々と流れているからだ。彼らは厳罰よりも慈悲を好み、峻烈な指弾よりも逃げ道を備えたゆるめの罰則を重視する。イタリア社会が時として散漫に見え且つイタリア国民が優しいのはまさにそれが理由だ。
僕は確信を持って言えるが、もしもジブラルタルのようなエピソードがイタリアで発生したなら、僕は間違いなく人々に赦されていた。先に走って割り込もうとする僕をイタリア人ドライバーももちろん非難する。だが彼らは「しょうがないな」「Furbo(フルボ:悪賢い奴)め」などと悪態をつきつつも、車を止めて割り込みをさせてやる。ズルイ奴や悪い奴は腹立たしい。が、その人はもしかすると間違ったのかもしれない、という赦しの気持ちが無意識のうちに彼らの行動を律するのだ。英国人にはその柔軟さがない、と筆者は昔からよく感じる。
いや、それは少し違う。英国の国民性と哲学の中にも赦しの要素はもちろんある。たとえば英国人が好んで言う「There is no law without exception :例外のない法(規則)はない」などがその典型である。だが赦すことに関しては彼らは、例えば未だに武家社会の固陋な厳罰主義の影響下にある日本人などに比較するとゆるやかではあるものの、全ったき愛や赦しを説くカトリックノの教義や哲学に染められているイタリア人に較べた場合には、はるかに狭量だと言わざるを得ない。
そのひとつの現われがジブラルタルで僕が体験したエピソードであり、フランシスコ教皇のクリスマスのメッセージを曲解したBBC記者の言い分だと思う。だがそれは、フランシスコ教皇を支持し敬愛する僕の、自らの立場に拠るバイアスのかかったポジショントークである可能性ももちろんある。僕はそれを否定しないが、なにごとにつけ剛よりは柔のほうが生きやすく優しい、という考えは誰になにを言われようが今のところは曲げるつもりはない。