【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2020年01月

イタリアで観る月9劇 

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このブログのタイトルを≪【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信」≫としているのは、僕がテレビ番組の制作ディレクターだからである。主にドキュメンタリーと報道番組を監督する。

ロンドン、東京、ニューヨークと渡り歩いて、最後はイタリアのミラノに流れ着き、しばらく前までそこで事務所を構えていた。小さな番組制作プロダクションである。

会社組織にしてスタッフを入れると、NHKや民放など日本のテレビ局からの依頼もあって、事務所では番組制作の手伝いをするコーディネーターの仕事もこなした。

僕は自ら企画を練り、テレビ局に提案して、番組を制作することが大好きだが、実はテレビを「観る」こともそれに劣らず好きである。

見るテレビはイタリアの地上波はもちろん、衛星放送でBBC, AlJazeera, CNN, Euronews, スポーツ専用局、そして日本のJSTVと多岐に渡る。

最近は、イタリアのテレビはニュースとスポーツ以外はほとんど見ない。見る価値がないと思っている。代わりにBBC,  Euronews、そしてJSTVをよく見る。

JSTVはロンドンに本拠がある。主に流しているのはNHKのほとんどの番組と民放のドラマなど。それらの番組とWEBを徘徊すれば、日本にいるのとほぼ同じ感覚で日々が過ぎる。

日本語放送やインターネットがなかった時代には、日本の情報に飢えていた。たまに週刊誌が手に入ったりすると、記事はもちろん広告なども食い入るようにして目を通していたほどだ。

今は衛星放送やインターネットのおかげで日本のことがほぼリアルタイムで分かる。英語と伊語の情報が日本語のメディアに加わる分、見方によっては日本国内の日本人よりも日本の情報を多く獲得しているかもしれない。

さて、そんな中で情報収集は別にして大いに楽しむのが日本語放送である。冒頭で触れたように僕はテレビ番組は制作も鑑賞も好きだ。そこで今後はイタリアで見るテレビ番組、特に日本のそれについても観覧記のようなものを書いていくことにした。

手始めはドラマ「監察医 朝顔」。民放番組の常で欧州では数ヶ月~半年ほどの遅れで放映される。監察医の主人公と刑事の父親と夫に絡めて、東日本大震災で行方不明になった母親と、彼らが仕事で関わる「遺体」を輻輳させ深化させる手法が面白い。

主人公の上野樹里は、NHの大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』で、織田信長の姪で徳川2代将軍秀忠の妻のお江を演じた。当時番組をしばしば見ていた僕は、上野樹里の暗い無性格な印象の芝居に辟易した覚えがある。

ところが朝顔を演じる上野樹里は、きわめて自然体で微妙な演技のできる巧い俳優であることがわかった。少し驚き、好ましく思った。共演の風間俊介との真面目で軽快で雰囲気の良い「コンビ演技」も快い。

全体的に考証や設定や展開がしっかりして見ていて安心できる。ところが、第6話(5話だったかも・・)は消化不良が募った。認知症で徘徊していた老人が自宅に程近い場所で転倒して立ち上がれなくなる。

そのとき男が連れていた愛犬が彼を助けようとして前足を骨折。犬も立ち上がれなくなって男と犬はそこで衰弱死する。男と犬は白骨化して発見される。

老人と犬が都合よく足を骨折して起き上がれずに共に死ぬ仕掛け。しかも自宅近くが現場なのに、両者が白骨になるまで誰にも発見されない、という設定が嘘くさい。違和感に違和感が重なる展開だ。

だが致命的な消化不良感は次にやってくる。行き倒れた老人の息子が見つかるのだが、彼は父親を連れて帰ることを拒否し遺骨は警察で処理してくれという。

息子と生前の父親との間に何らかの問題があったことを知覚しつつも、主人公の朝顔が言う。「あなたのお父さんはこのままでは無縁仏になる。せっかく家族がいるのだから、そういったことは避けたほうがいい」と。

他者に優しい朝顔が死者の息子に食ってかかるのは、津波に流されて行方不明になっている母親への強い思いがあるからだ。せっかく発見された親を見捨てるな。私の母は未だに発見されてさえいないのだ!という心の叫びがある。

すると朝顔の心中を知らない息子が答える。「綺麗ごとを言わないでくれ。俺と親父のことなんか何も知らないくせに」と冷たく言い放つのである。きわめて劇的なセリフであり場面だが、父子のエピソードはそれきりで終わってしまう。

大きな消化不良が起こるのはまさにそこだ。いったいどのような壮絶なドラマが親子の間にあったのだろう、と視聴者は強く気を引かれる。なのに、ドラマはそのことには一切言及せずに別方向へと進行してしまうのである。

つまり行き倒れた老人とその息子の話はすっぽかして、朝顔夫婦が実家で父親と同居するに際しての、互いの気遣いや希望や愛や戸惑いが描かれる。そこには津波に呑み込まれて未だに行方が分からない既述の母親の記憶も強く作用する。

そして時間が一気に飛んで、一軒家で仲良く暮らす家族が描かれる。一連の場面には幼い子供がいて、親となった朝顔夫婦がいて優しいジイジになった朝顔の父親がいる。

相互に気遣う人々と、ほのぼのとした家族の物語は、視聴者の心を十分に引きつける。だが僕は、前述の白骨遺体と化した老人とその息子のドラマが見られなかった不満で、消化不良に陥ったまま番組を見終わった。ずさんなドラマ作りだという印象が強く残った。

老人と息子の葛藤話は次回に展開されるのかと思って続きも見たが、ドラマにはやはり彼らののエピソードは挿入されなかった。そんな手抜き(?)が起こるものだろうか。それとも僕が何か重大なことを見落としたのだろうか?

放送はまだ続くので、あるいはどこかで死者と息子の相克が挿入されるのかもしれない。それを期待しながら最後の最後まで観てみようと思う。




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思い上がりが時間経過を速くする

ナンの花?



またたく間に2019年が駆け過ぎて、2020年もクリスマスまでたったの342日となってしまいました!時間経過のあまりの速さに心中おだやかではないものが出没するのは年齢のせい、ときめつけるのはたやすいことです。それに続く言葉は「残された時間の短さや大切さを思って毎日を真剣に生きよう」などという類の陳腐なフレーズです。

もはや若くはない自らの年齢を時々思ってみるのは事実ですが、そして残された時間をそのときに「敢えて」想像したりしないでもありませんが、実感は正直ありません。再び「敢えて」先は長くないのだから毎日しっかり生きよう、と自身を鼓舞してみたりもしますが、そんな誓いはまたたく間に忘れてしまうのだから無意味です。

年を取るごとに時間経過が早く感じられるのは、「人の時間の心理的長さは年齢に反比例する」というジャネーの法則によって説明されますが、それは要するに、人は年齢を重ねるに連れて見るもの聞くものが増え、さらにデジャヴ(既視)感も積層して物事への興味が薄れていく、ということなのだろうと思います。

どこかで既に実体験していたり経験したと感じることなので、人はそこで立ち止まって事案をしみじみと見、聞き、感じ、吟味して、勉強することが少ない。立ち止まらない分、人は先を急ぐことになり時間が飛ぶように過ぎて行くのです。NHKのチコちゃんはそれを「ときめかないから」と表現していましたね。

そこには自らの意志に反して心が乾いていく悲しさと、同時に大人のいわば驕りがあります。年齢を重ねて知っていることも事実多いのでしょうが、無駄に時間を費やし馬齢を重ねただけで、実は何も知らない知ったかぶりの大人は、筆者自身も含めて多くいるからです。それでも知ったつもりで、人は先へ先へと足早に進みます。死に向かって。

すると理論的には、知ったかぶりをしないであらゆるものに興味を持ち、立ち止まって眺め続ければ、人の時間はもっとゆっくりと過ぎて行く、と考えられます。しかし筆者の感じでは、それも少し違うように思います。

知らないことがあまりにも多すぎて、その過大な未知のもろもろを学び、知り、体験するには、1日1日が短かすぎる。短かすぎる時間の経過(毎日)の積み重ねが、すなわち「時間の無さ」感を呼び起こすように思います。

つまり、時間が疾風よりも光陰よりもさらに速く過ぎていくのは、「一生は短い」という当たり前の現実があるから、とも言えます。その短い一生を愚痴や、怨みや、憎しみで満たして過ごすのはもったいない。人生にはそんな無駄なことに費やす時間などありません。

と、何度も何度も繰り返し自らを戒めるものの、人間ができていない悲しさで日々愚痴を言い、怨み、憎む気持ちが起こります。そしてその度にまた自戒を繰り返します。自戒に伴って苦い悔恨が胸中に忍び入るのもいつものパターンです。

結局、人の人生の理想とは、多くの事柄がそうであるように、愚痴らず、怨まず、憎まない境地を目指して、試行錯誤を重ねていく『過程そのもの』にあるのではないか。そう考えれば、中々人間ができない情けない自分にも、まだ救いの道があるようで少し肩の荷が軽くなる気がします。



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名誉教皇の「たわけ」の真相

16世フランシスコ&ベネディクト



2013年に退位して名誉教皇となったベネディクト16世(92)が、完全消滅とさえ見えた隠棲所からふいに表舞台に姿をあらわして、世迷い言にも見える主張をして多くの人々の顰蹙を買っている。

世迷い言とは、「カトリック教会は聖職者の独身制を守り通すべき」というものだ。カトリック教会の司祭の独身制は、未成年者への性的虐待の元凶ともいうべき悪しき習慣として、いま世界中で厳しく批判されている。

そんな折に、ブラジルのアマゾンに代表される世界中の僻地での司祭不足がクローズアップされた。地球上の辺縁地ではカトリックの司祭の成り手がなく、ミサが開けないために信者への接触もままならない。それは地域の信者のカトリック離れにつながる。

カトリック教はただでもプロテスタント他の宗派に信者を奪われ続けていて、バチカンは危機感を抱いている。フランシスコ教皇は、既婚者の男性も司祭になる道を開くことで、その問題に風穴を開けようとした。

そこに突然反対を表明したのが、この世にほとんど存在しないようにさえ見えた名誉教皇、つまりベネディクト16世なのである。彼は現役の教皇時代からバチカン守旧派のラスボス的存在だった。どうやら死んだ振り隠棲をしていたようだ。

ベネディクト16世は2013年、719年ぶりに自由意志によって生前退位し名誉教皇になった。高齢を理由に挙げたが、歴代教皇はほぼ誰もが死ぬまで職務を全うした。その事実も影響するのか、ベネディクト16世の言動には違和感を覚える、という人が少なくない。僕も同感だ。

違和感の理由はいろいろある。最大のものはベネディクト16世が、聖職者による性的虐待問題から逃げるために退位した、という疑惑また批判である。問題は2002年に明らかになり、2010年には教皇の退位を要求する抗議デモが起きるなど、ベネディクト16世への風当たりが強まり続けた。

「教義の番犬」とも陰口されたベネディクト16世は、ガチガチの保守派で在位中にはほかにも少なくない問題を起こした。例えば不用意なイスラム教のジハード批判や、ホロコースト否定者への安易な接近、あるいは「聖職者による性的虐待は“ アメリカの物質偏重文化 ”にも一因がある」というトンチンカン発言などである。

重篤なHIV問題を抱えるアフリカの地で、感染予防に用いられるコンドームの使用に反対する、とやはり無神経に発言したこともある。産児制限、同性愛、人工妊娠中絶などにも断固反対の立場だった。またバチカンで横行するマネーロンダリングと周辺問題への対応でも彼は強く批判された。

さらに言えば教皇ベネディクト16世は、聖職者による未成年者性虐待の元凶とされる、司祭の独身制の維持にも固執していた。そして今般、あたかもゾンビの出現にも似た唐突さで表舞台に現れて、十年一日のごとく「独身制を維持するべき」と発言したのである。

その主張への反発と共に、勝手に引退をしておきながらふいにまかり出たさらなる身勝手に、信者の間ではおどろきと反駁の嵐がひそかに起こっている。彼の言動はただでも抵抗の強いバチカン保守派を勢いづけて、フランシスコ教皇の改革を停滞させ、バチカン内に分裂をもたらす恐れもある。

いうまでもなく教会内の守旧派が名誉教皇を焚きつけて異例の声明を出させた、という見方もできる。むしろその方が真相に近いだろう。それでなければ名誉教皇が、友好的な関係にあったフランシスコ教皇に、出しぬけに正面から刀で切りつけるような発言をした真意が判りづらい。

世界13億の信者の心の拠り所であるバチカンの威儀は、2005年のヨハネ・パウロ2世の死後、まさしく今ここで言及しているベネディクト16世の在位中に後退した。少なくとも停滞した。 しかし2013年に第266代フランシスコ現教皇が就任すると同時に、再び前進を始めた。

清貧と謙虚と克己を武器に、保守派の強い抵抗の中バチカンの改革を推し進めようともがいている現教皇フランシスコは、聖人ヨハネ・パウロ2世に似た優れた聖職者である。少なくともベネディクト16世とは似ても似つかないように見える。

ローマ教皇はカトリック教徒の精神的支柱である。その意味では、日本教という宗教の信者である日本国民の精神的支柱、と形容することもできる天皇によく似ている。両者にいわば性霊の廉潔が求められることも共通している。

その例にならえば、自らの意思で退位したベネディクト名誉教皇は、同じく平成の天皇の地位から自発的に退位した明仁上皇のケースとそっくりである。退位の動機が高齢と健康不安からくる職務遂行への憂慮、というのも同じだ。

だが、双方の信者の捉え方は全く違う。明仁上皇の人となりや真摯や誠実を疑う日本国民はほとんどいないだろう。一方ベネディクト名誉教皇の場合には、明仁上皇のケースとは正反対の意見を抱いている信者が多くいる。「不誠実で身勝手な存在」と声を潜めて言う信者を僕も多数知っている。

それでも彼らは、名誉教皇が隠棲所に引っ込んで、この世にほとんど存在しないような状況が続いていた頃には、彼への反感を覚えることなどなかった。存在しないのだから反感の覚えようがない。そして2013年以降はそれが常態だった。彼の存在の兆候はそれほどに希薄だったのである。

そんな人物がにわかに姿をあらわして、自らの持論をゴリ押しする態度に出たものだから人々が驚かないわけがない。ましてやその主張が時流に真っ向から対峙する「聖職者の独身制を維持しろ」というものだから、反発する信者や関係者が多いのもうなずける。

司祭の独身制はカトリックの教義ではない。 単なる慣習である。12世紀以前には聖職者も普通に結婚していた。イエスキリストの一番弟子で初代教皇とされる聖ペテロが結婚していたことは明らかだし、イエスキリスト自身が既婚者だった可能性さえある。少なくとも彼が独身であることが重要、という宗教的規範はない。

カトリック教会が司祭の独身制を導入した直接の動機は、聖職者が家庭を持ち子供が生まれた暁に生じる遺産相続問題だったとされる。教会は子供を持つ聖職者に財産を分与しなければならなくなる事態を恐れたのだ。そのことに加えて、精神を称えて肉体を貶める二元論の考え方も重要な役割を果たした。

元々キリスト教は子を産む生殖つまり婚姻と性交を称揚する。そんな宗教が司祭の結婚を否定する奇天烈な因習にとらわれるようになったのは、肉体と精神のあり方を対比して説く二言論の影響があったからだ。そこでは肉体に対する精神の優位が主張され、肉体の営為であるセックスが否定される。だから聖職者の独身が奨励されるのである。

その論法には婚姻をあたかも肉体の行為のためだけのメカニズム、と捉える粗陋がある。婚姻は夫婦の性の営みと共に夫婦の精神的なつながりや行動ももたらす仕組みだ。それなのに夫婦の性愛だけを問題にするのは、教会こそが男女のセックスのみを重視する色情狂である、と自ら告白しているようなものだ。

聖職者が独身であることが、性的虐待行為の「引き金」の全て、という証拠はない。また既婚者であることが虐待行為の完全抑止になる訳でもない。しかし、相当の効力はあると考えられる。それだけでも独身制を破棄する意味がある。性欲を無理やり抑え込むから聖職者がいびつな性衝動に囚われるのだ。

だがそうしたことよりも何よりも、聖職者の結婚を不浄とみなす馬鹿げた考えを捨てる意味で、カトリック教会は独身制の継続を諦めるべきと思う。それは不誠実で、偽善的で、卑猥でさえある教会の偏執に過ぎない、という真実に教会自身がそろそろ気づくべきである。

名誉教皇の突然の寝ボケた声明は、世界中で湧き起こっている聖職者の性的虐待問題の火にひそかに油を注いでいる。燃え上がるのは反感の炎と共に保守派の気炎である。対立する二つの火焔はさらに燃え上がって、ローマ教会を焼き尽くし大きく分裂させる可能性もゼロではない。

突然のようだが、しかし、最後に付け加えておきたいと思う:

名誉教皇ことベネディクト16世は、教皇在位の頃から時流や世間に合わないずれた言動をすることがよくあった。そんな彼の真の問題は実は、コミュニケーション能力の欠落にある、と僕は考える。教義と理論のみを愛する無味乾燥な神学者、と見えなくもなかった教皇ベネディクト16世は、温かく豊かな情感と信義と慈悲を教会に求める大部分の信者には不人気だった。彼はコミュニケーションが絶望的に下手だったのだ。名誉教皇は今回の騒動で再び同じ轍を踏んでしまった、と僕の目には映る。



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沖縄駅伝は独立しろ!


イラスト女子駅伝


例年、年末から新年にかけて全国高校駅伝大会(男女)と全国都道府県対抗駅伝大会(男女)が開催される。イタリア時間の午前4時ころに始まるそれらの大会の生中継を、僕は衛星放送で毎年欠かさずに見ている。僕は駅伝が大好きなのだ。

2020年1月12日、全国都道府県対抗女子駅伝競争大会が開かれた。そこで僕の故郷の沖縄県はまた、やっぱ、案の定、たのむぜ・オイ!のビリギャルだった。この状況はもう5世紀ほども続いていて、2002年の大会直後には僕はたまりかねて友人らに向けて次のようなメールを送った。

僕は当時、普及しはじめていたSNSのことは知らなかった。ブログを始めたのは2011年、Facebookに登録したのはさらにその後のことだ。そんなわけで少しふざけた女子駅伝メールは、実際に顔を見知っている友人知己宛てに送ったものである。

『申しあげます:
去った日曜日にまたボクノスキナ女子駅伝があった。地元京都のボクノスキナ女子諸君が頑張って優勝した。沖縄のボクノスキナ女子諸君は今年もまた東北のボクノスキナ女子諸君とビリ争いをしていた。ったく、毎年毎年何を 考えているんだ!南と北のボクノスキナ女子諸君は!ただ幸いにも今年はハレて沖縄・東北以外のチームである福井のボクノスキナ女子諸君がビリッケツの栄冠をものにした。正月早々私は福井のボクノスキナ女子諸君に言いたい。ありがとう、福井のボクノスキナ女子諸君!と。ランナーのビリは、
    
    修行が足らん!
 
とぼコぼコにド突き倒してもまだ怒りがおさまらんが、ボクノスキナ女子諸君のビリを、“女のホソウデ足ダイコンで、良くもりっぱに完走した”、と毎年毎年テレビごと抱きしめたくなる私は、どこか体の具合でも悪いのだろうか・・・

それにしても九州各県のボクノスキナ女子諸君は、関西圏のボクノスキナ女子諸君と並んで強い。ムチャクチャに強い。なぜあんなにも苦しい長距離走を頑張っちゃうんだろう?そして、なぜあんなにも皆~んな苦行僧みたいなチョー恍惚顔でおっ走(ぱし)っちゃうんだろう?と考えたらまた今夜も眠れなくなりそうだ。ツーことを考えているうちに、来たる日曜日には広島を舞台に全国男子駅伝大会が開かれる!沖縄グワンバレ!東北グワンバレ!NHKもグワ~ンバッて駅伝を毎日生中継してほしい!駅伝はウレしい。よ~し


あれから18年の歳月が流れて、東北の女子チームは仙台育英高校を筆頭に、九州や関西地区の強豪チームに比肩する威風堂々の力量を備えるようになった。ところが僕の故郷の島の駅伝チームは、女子も男子も威風散々の最下位か最下位周り。どうしてもケツビリの栄誉を手放そうとしない。

そこで僕はもはやこう叫び、提案したい。沖縄駅伝はさっさと独立してしまえ!と。独立して島内でひとりで駆けっこをしろ!と。ったく。沖縄駅伝は都道府県対抗全国学力テストにそっくりだ。どっちもあっちもビリにしがみついてんじゃねーよ!と。

都道府県対抗全国学力テストでは、沖縄の子供たちはそれでも、あれこれそこかしこの科目や学年で、ガンバッテ最下位を抜け出したりもする。だが駅伝チームにはその気概がない。いつまでたっても落ちこぼれのままでいる。その原因はいろいろと考えられる。

ひとつは駅伝が行われる季節。真冬の京都や広島は南国育ちの沖縄の選手たちには大きなハンディキャップだ。駅伝大会が夏の京都や広島、あるいは冬の沖縄で開催されれば、おそらく今の惨状も少しは改善されるに違いない。だがそれだけでは根本解決には至らない。

選手の能力は他府県の選手と多分同じだ。それは他のスポーツ、例えば高校野球などを見れば分かる。全国的に見ればかつては「ごくつぶし」だった沖縄の高校野球が、裁義弘というひとりの優れた監督の手腕もあって急成長したように、沖縄駅伝も優秀な指導者がいればガラリと変わるだろう。

加えて僕は沖縄駅伝にガッツあるいは根性骨を期待したい。沖縄県人は性格がおっとりしている、優しすぎるなどと言えば聞こえがいいが、要するにそれは胆力がないという意味でもある。それは昔、薩摩の侵略に遭った琉球のへっぴり武士どもが、玉砕を覚悟で闘いぬかずにさっさと降伏して、その後の沖縄を薩摩の奴隷にしたメンタリティーと同じものだ。

武士の勇猛心とは、暴力と表裏一体の野蛮なコンセプトである。従ってそれを否定する平和主義という考えもまた尊い。だが国の支配階級だった琉球武士は、武士であることで民衆を抑圧し搾取する存在だった。その見返りに彼らは、いざ鎌倉の折には身を挺して闘わなければならない。

琉球国の防衛隊が薩摩軍ととことんまで闘って全滅していたならば、たとえ死滅しても彼らの気概は歴史書その他で大いに称えられていただろう。そうなっていれば、明治維新以降の日本政府の沖縄見下し姿勢や、それに影響されたや国民の沖縄への偏見も生まれなかった可能性が高い。

当時の薩摩は日本最強の雄藩の一つだった。独立国とはいうものの米粒みたいな国の琉球が、戦って勝つことは万に一つもなかっただろう。負けても少しも恥ずべきことではないのだ。だが、徹底抗戦を諦めて降伏した腰抜け琉球武士は、百万年恥じても恥じ過ぎることがない恥だ。

沖縄には「命どぅ宝」という諺がある。「命は宝、つまり“何をおいても命こそ大事”」という意味である。琉球のへっぴり武士めらは「命どぅ宝」と呟いて薩摩の軍門に降った。だが、ただ単に生きながらえているだけの命は本物の宝ではない。誇りを秘めた命こそ宝なのだ。誇りのない琉球武士のブザマな姿が、その後の沖縄の運命を決定した。尊重されない邦、という運命を。

沖縄駅伝の寂しい体たらくを見るにつけ、ま、いわばそんな暗い大仰なことさえ僕は思ったりしないでもない。選手諸君が懸命に走っていることはもちろん評価したい。だが、いつも、いつまでもビリというのはちょっとなぁ。。ちょっと、つらいのよ。

ツー訳で

沖縄駅伝は独立がイヤなら、早く優れた指導者を見出し、死にものぐるいでトレーニングをし、鍛えあげて京都と広島に乗り込め!たのむゾ~~~~~~~いいいいい!!



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ゴーンにガーンと殴られた日本司法よ、懺悔し、再生へと立ち上がれ!



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カルロス・ゴーン逃亡者(:容疑者、日産元会長、逃亡犯などの呼称もあるが逃亡者で統一する)のレバノンでの記者会見映像を逐一観た。それは中東人や西洋人が、自らを正当化するために口角泡を飛ばしてわめく性癖があらわになった、典型的な絵だった。見ていて少し気が重くなった。

だが、そうはいうものの、日本の「人質司法」の在り方と、ゴーン逃亡者の逮捕拘留から逃走までのいきさつに思いを馳せてみた場合、ゴーン逃亡者はおそらく犠牲者でもあるのだろう、というふうにも見える、と告白しなければならない。

弁護士の立会いなしで容疑者を取り調べたり、自白を引き出すために好き勝手にさえ見える手法で長期間勾留したり、拷問とは言わないまでも、逮捕したとたんに「推定有罪」の思惑に縛られて、容疑者を容赦なく窮追するという印象が強い日本の司法の実態は、極めて深刻な問題だ。

取調べでの弁護人立ち会い制度は、米国やEU(欧州連合)各国はもちろん、韓国、台湾などでさえ確立している。日本でそれが否定されるのは、密室での自白強要によって「真実」が明らかになる、と愚にもつかない偏執に取り付かれている警察が、人権無視もはなはだしい異様な自白追及手法に固執するからだ。

そうしたことへの疑問などもあって、僕はゴーン逃亡者が「容疑者」でもあった頃の日本での扱われ方に、少なからず同情もしていた。だが彼のレバノンでの記者会見の立ち居振る舞いを観て、今度は僕の中に違和感もムクリと湧き上がった。言い分があまりにも一方的過ぎるように感じたのだ。

だが再び、そうはいうものの、ゴーン逃亡者のみならず日本司法も、直ちには信用できないやっかいな代物だという真実に、日本国民はそろそろ気づくべきとも思う。日本の司法制度では、逮捕された時には誰でも長期間勾留されて、弁護人の立ち会いも認められないまま毎日何時間も尋問され続ける可能性が高い。

容疑者は罪を認めて自白しない限り、果てしもなく勾留される。そんな日本の司法の実態はうすら寒いものだ。密室の中で行われる警察の 取調べは、戦前の特高のメンタリティーさえ思い起こさせる。まるで警察国家にも似て非民主的で閉鎖的、且つ陰湿な印象が絶えず付きまとう。

日本国民のうちの特にネトウヨ・ヘイト系の排外差別主義者らは、例えば韓国の司法や政治や国体や人心をあざ笑い優越感にひたるのが好きだ。そこには自らをアジア人ではなく「準欧米人」と無意識に見なす「中は白いが表は黄色い“バナナ”日本人」の思い込みもついて回っている。だが日本の司法制度やそれにまつわる人心や民意や文明レベルや文化の実相は、まさしくアジア、それも韓国や北朝鮮や中国に近いことを彼らは知るべきだ。

さらに言えば、北朝鮮のテレビアナウンサーの叫ぶような醜悪滑稽なアナウンスの形は、戦時中の大本営のアナウンスの様子と寸分も違わない。北朝鮮の狂気は、軍国主義がはびこっていたつい最近までの日本の姿でもあるのだ。そんなアジアの後進性が詰まっているのが日本の刑事司法制度であり、ゴーン事件の背景にうごめく日本社会の一面の真実だ。そこの住民がバナナ的日本人、即ちネトウヨ・ヘイト系の排外差別主義者らなのである。

そのことに思いをめぐらせると、カルロス・ゴーン逃亡者と彼にまつわる一連の出来事は、日本司法の課題を抉り出しそれを世界に向けて暴露したという意味で、ゴーン逃亡者が日産の救世主の地位から日本国全体の救世主へと格上げされた、と将来あるいは歴史は語りかけるかもしれない、というふうにさえ見える。

ゴーン逃亡者は、日本の刑事司法制度を「有罪を前提として、差別が横行する、且つ基本的人権の否定されたシステムであり、国際法や国際条約に違反している」などと厳しく指弾した。「有罪を前提」や「差別が横行」などの非難は、彼の主観的な見解、と断じて無視することもできるが、国際法や国際条約に違反している、という批判はあまりにも重大であり看過されるべきものではない。

ではゴーン逃亡者が言う、日本が違反している国際法や国際条約とはなにか。それは第一に「世界人権宣言」であり、それを改定して法的に拘束力のある条約とした自由権規約(国際人権B規約)だと考えられる。世界人権宣言は1948年に国連で採択された。そこでは全ての国の全ての人民が享受するべき基本的な社会的、政治的、経済的、文化的権利などが詳細に規定され、規約の第9条には「何人も、ほしいままに逮捕、拘禁、または追放されることはない」と明記されている。

さらに自由権規約の同じく第9条3項では、容疑者・被告は「妥当な期間内に裁判を受ける権利」「釈放(保釈)される権利」を有するほか「裁判にかけられる者を抑留することが原則であってはならない」とも規定している。また第10条には「自由を奪われた全ての者は、人道的にかつ人間の固有の尊厳を重んじて取り扱われなければならない」とも記されている。

ゴーン逃亡者は日本では、4度逮捕された上に起訴後の保釈請求を2回退けられた。加えて拘置所に130日間も勾留された。また逮捕から1年以上が過ぎても公判日程は決まらなかった。そうした状況は国際慣例から著しく逸脱していて、国際法の一つである自由権規約に反していると言われても仕方がない奇天烈な事態である。

ゴーン事件に先立つ2013年、国連の拷問禁止委員会が、容疑者の取り調べの改善を求める対日審査を開いた。その際「日本の刑事司法は自白に頼りすぎ、中世のようだ」との指摘が委員から出た。日本の司法は未だに封建社会のメンタリティーにとらわれていて、時として極めて後進的で野蛮だと国際的には見られているのだ。

日本の司法は「お上」の息のかかった権威で、かつての「オイコラ巡査」よろしく、「オイコラ容疑者、さっさと白状しろ」と高圧的な態度で自白を強要する。それは、繰り返しになるが、日本の刑事司法が封建時代的なメンタリティーに支配されていることの証し、ととらえられても仕方がない。欧米の猿真似をしているだけの日本国の底の浅い民主主義の全体が、その状態を育んでいる、という見方もできる。

一方カルロス・ゴーン逃亡者も、大企業を率いたりっぱな経営者で品高い目覚しい紳士などではなく、自己保身に汲々とするしたたかで胡散臭い食わせ物である、という印象を世界に向けて発信した。ゴーン逃亡者も日本の司法制度も、もしも救われる道があるのならば、一度とことんまで検証されけん責された後でのみ再生を許されるべき、と考える。

ゴーン逃亡者の一方的な言い分や遁走行為が、無条件に正当化されることはあり得ない。しかし、「人質司法」とまで呼ばれる日本の刑事司法制度の醜悪で危険な在り方や、グローバルスタンダードである「弁護人の取調べへの立ち会い」制度さえ存在しない実態が、世界に知れ渡ったのは極めて良いことである。なぜなら恐らくそこから改善に向けてのエネルギーが噴出する、と考えられるからだ。ぜひ噴出してほしい。


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「ボヘミアン・ラプソディ」批判者と映画殺害犯は同じ穴のムジナ


DVD-Bohemian-Rhapsody


ことしに入って早々(1月3日)に、イギリス娯楽小売業者協会(ERA)が、2019年に英国民が自宅で観た映画のランク付けを発表した。

それによると2018年に大ヒットした映画「ボヘミアン・ラプソディ」がトップになった。映画はDVDやブルーレイ、またダウンロードで170万部が売れた。

「ボヘミアン・ラプソディ」は2019年1月6日、第76回ゴールデングローブ賞の作品賞に輝き、その約2ヶ月後にはアカデミー賞の主演男優賞なども受賞した。

大ヒットした「ボヘミアン・ラプソディ」に関しては、日本を含む世界中で多くの評者や論者がケンケンガクガクの言い合いを演じた。

また欧米、特に映画の主題であるクイーンの母国イギリスや、制作国のアメリカのメディアなども盛んに評したが、それらは概ね批判的で観客の好感度とは大きく異なる奇妙なねじれ現象が起こった。

僕も当時「ボヘミアン・ラプソディ」を観た。結論を先に言えば、文句なしに大いに楽しんだ。映画の王道を行っていると思った。王道とは「エンターテインメント(娯楽)に徹している」という意味である。

メディアや批評家や文化人やジャーナリストなどの評論は、“面白ければそれが良い映画”というエンターテインメント映画の真実に、上から目線でケチをつけるつまらないものが多かった。

そのことへの反論も含めて僕は当時記事を書くつもりだった。が、いつもの伝で多忙のうちに時間が一気に過ぎてしまって機会を逃した。当時僕はブログ記事の下書きを兼ねた覚え書きに次のような趣旨を記している。

『映画の歴史を作ったのは、米英仏伊独日の6ヵ国である。6ヵ国を力関係や影響力や面白さでランク付けをすると、米仏英伊日独の順になる。個人的には面白さの順に米日伊仏英、遠く離れて独というところ。それら6ヵ国のうち、英仏伊独日の映画は没落した。娯楽を求める大衆の意に反して、深刻で独りよがりの“ゲージュツ”映画に固執したからだ。

ゲージュツ映画とは、台頭するテレビのパワーに圧倒された映画人が、テレビを見下しつつテレビとは対極の内容の映画を目指して作った、頭でっかちの小難しい作品群だ。作った映画人らはそうした映画を「芸術」作品と密かに自負し、芸術の対極にある(と彼らが考える)テレビ番組に対抗しようとした。彼らはそうやって大衆に圧倒的に支持されるテレビを否定することで、大衆にそっぽを向き映画を失陥させた。

「ボヘミアン・ラプソディ」を批判する評者の論は、映画を零落させた映画人の論によく似ている。大衆を見下し独りよがりの「知性まがいの知性」を駆使して、純粋娯楽を論難する心理も瓜二つだ。

一方で大衆の歓楽志向を尊重し、それに合わせて娯楽映画を提供し続けた米国のハリウッド映画は繁栄を極めた。ハリウッドの映画人は、テレビが囲い込んだ大衆の重要性を片時も忘れることなく、テレビの娯楽性を超える「娯楽」を目指して映画を作り続けた。「ボヘミアン・ラプソディ」はその典型の一つだ。

*6ヵ国以外の国々の優れた監督もいる。一部の例を挙げればスウェーデンのイングマール・ベルイマン 戦艦ポチョムキンを作ったロシアのセルゲイ・エイゼンシュテイン とアンドレイ・タルコフスキー、スペイン のルイス・ブニュエル 、インドの サタジット・レイ 、 ポーランド のアンジェイ・ワイダ など、など。彼らはそれぞれが映画の歴史に一石を投じたが、彼らの国の映画がいわば一つの勢力となって映画の歴史に影響を与えたとは言い難い。

*インドは映画の制作数では、中国やアメリカのそれさえ上回ってダントツの一位だが、中身が伴わないために世界はほとんど同国の映画を知らない。


映画「ボヘミアン・ラプソディ」の批判者は、主人公フレディの内面を掘り下げる心理劇を見たかった、リアリィティーが欠如している、社会性・政治性、特に同性愛者を巡る政治状況を掘り下げていない、など、など、あたかも映画を徹底して退屈に仕上げろ、とでも言わんばかりの愚論を展開した。

それらの要素はむろん重要である。だがひたすら娯楽性を追及している映画に「深刻性」を求めるのは筋違いだし笑止だ。それは別の映画が追求するべきテーマだ。なによりも一つの作品にあらゆる主張を詰め込むのは、学生や素人が犯したがる誤謬だ。

「ボヘミアン・ラプソディ」の制作者は音楽を中心に据えて、麻薬、セックス、裏切り、喧嘩、エイズなど、など、の「非日常」だが今日性もあるシーンを、これでもかと盛り込んで観客の歓楽志向を思い切り満足させた。それこそエンターテインメントの真髄だ。

そこに盛り込まれたドラマあるいは問題の一つひとつは確かに皮相だ。他人の不幸や悲しみを密かに喜んだり、逆に他人の幸福や成功には嫉妬し憎みさえする、大衆の卑怯と覗き趣味を満足させる目的が透けて見える。だが同時に、薄っぺらだが大衆の心の闇をスクリーンに投影した、という意味では逆説的ながら「ボヘミアン・ラプソディ」は深刻でさえあるのだ。

批判者は大衆のゲスぶりを指弾し、それに媚びる映画制作者らの手法もまた糾弾する。だが大衆の心の闇にこそ人生のエッセンスが詰まっている。それが涙であり、笑いであり、怒りであり、憎しみであり、喜びなのである。そこを突く映画こそ優れた映画だ。

「ボヘミアン・ラプソディ」はクイーンや主人公のフレディのドキュメンタリーではなく、飽くまでもフィクションである。実際のグループや歌手と比較して似ていないとか、嘘だとか、リアリティーに欠ける、などと批判するのは馬鹿げている。

批判者らはそれほど事実がほしいのなら、「ボヘミアン・ラプソディ」ではなくクイーンのドキュメンタリー映像を見ればいい。またどうしても社会問題や心理描写がほしいのなら、映画など観ずに本を読めばいいのだ。

映画館に出向いて、暗い顔で眉をひそめつつ考えに浸りたい者などいない。エンターテインメント映画を観て主人公の内面の深さに感動したい者などいない。「ボヘミアン・ラプソディ」にはそうした切実なテーマがないから楽しいのだ。

それでも、先に言及したように、主人公と父親との間の相克や、エイズや、麻薬などの社会問題や背景などの「痛切」も、実は映画の中には提示されてはいる。だがそれらは映画の「娯楽性」に幅を持たせるために挿入された要素なのであって、メインのテーマではない。

深刻なそれらの要素をメインに取り上げるならば、それは別の映画でなされなければならない。そしてそれらがメインテーマになるような映画はもはや「ボヘミアン・ラプソディ」ではない。誰も観ない、重い退屈な作品になるのがオチである。

主人公の内面を掘り下げろとか、政治状況を扱えとか、人物のリアリティーとかドラマの緻密な展開を見たい、などと陳腐きわまる難癖をつける評論家は悲しい。そうした評論がもたらしたのが、映画の凋落である。言葉を替えれば映画は、大衆を置き去りにするそれらの馬鹿げた理論を追いかけたせいで衰退し崩落した。

2018年、「ボヘミアン・ラプソディ」は世界中の映画ファンを熱狂させた。観客の圧倒的な支持とは裏腹の反「ボヘミアン・ラプソディ」評論は、映画を知的営為の産物とのみ捉える俗物らの咆哮だった。映画は知的営為の産物ではあるが、それを娯楽に仕立て上げることこそが創造でありアートである。大衆がそっぽを向く映画には感性も創造性も芸術性もない。

そこには芸術を装った退屈で傲岸で無内容の「ゲージュツ」があるのみだ。「ボヘミアン・ラプソディ」が2018年には映画館で、また翌年の2019年には英国の家庭で圧倒的な支持を受けたのは、それが観客を楽しませ感動させる優れた映画であることの何よりの証しである。


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