【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2020年05月

 渋谷君への手紙~リスキー・ビジネス



2つの顔神殿バック650


『 渋谷君

お問い合わせのイタリアのロックダウン解除の件です。

つい最近まで世界最悪の新型コロナ被害国だったイタリアも落ち着いて、通常化へ向けて歩みを始めました。しかし問題は尽きません。

6月3日に予定されているロックダウンの「ほぼ全面解除」を前に、厳しい外出禁止策に疲れ果てた人々が、大挙して街や海やその他の歓楽地に繰り出して物議をかもしたりしています。

マスクの着用や対人距離の確保などの感染予防も忘れて、はしゃぐ人々の様子は欧州で最初の且つ最も長かったロックダウン策の過酷を物語っています。

9割以上のイタリア国民が支持してきたロックダウンですが、人々の心と体への負担は耐えがたいレベルにまで達しています。

ご存じかとは思いますが、欧米のひいては世界のロックダウン策とそこからの出口策の多くは、イタリアが先鞭をつけました。

イタリアはロックダウンの施行法を中国に倣いましたが、民主主義国家ですので一党独裁国の強権的手法をそのまま用いることはできず、あくまでも民主主義の枠組みの中で敢行しました。

その意味でイタリアの先駆けは画期的なものでした。他の欧米諸国が一斉にそれに倣ったのも肯けます。

ひとつ付け加えておけば、イタリアのロックダウン策は国内外から「国民の自由行動を保障する憲法に違反している」とさえ批判されました。

ところが中国政府の専門家は、イタリアのロックダウンは「生ぬるい」と斬って捨てました。独裁国家では権力は、人権も自由も民意も全て無視して思いのままに何でもできますから、そんな発言ができるんですね。

イタリアにおける突然の感染爆発。それを受けての前代未聞のロックダウン。また医療崩壊の悲惨などは、日本でも逐一報道されていました。

しかし感染爆発の連鎖がスペインからフランス、ドイツ、やがてイギリス、アメリカと伝播するに従って、日本の報道はたちまち仏独英米に移りイタリアは忘れ去られました。

欧州は英独仏が中心、また日本の「宗主国」はアメリカ、という報道界(日本国民)の思い込みが露骨に出ました。いつものことですね。

ただ僕は、映像ドキュメンタリーが専門ではありますが、報道番組も多く手がけてきましたので、「報道の偏向体質」の担い手のひとりでもあります。

したがって日本の報道や報道姿勢、またその担い手などを批判する場合には、常に自戒の意味も込めて発言していることは付け加えさせてください。

新聞テレビSNSなどにあふれるそれらの「偏向報道」を監視しつつ、僕はイタリアに居を構え且つイタリア-特にその多様性-を愛する者としての役目も意識しています。

つまり、一貫してこの国の情報を流し続けることです。その意味も込めて、新型コロナ関連では、欧州の中でもまずイタリアの情報を優先させて発信しています。

イタリアは3月10日に導入したロックダウンを、5月4日を皮切りに段階的に緩和し始めました。それはおよそ一週間単位で拡大されてきています。

政策は今のところはうまく行っています。感染の拡大も抑えられています。いうまでもなくウイルスとの闘いは続きますが、かつてのイタリアの惨状は過去のものになりつつあります。

そこでイタリア政府は先日、「感染拡大が再燃すれば即座にロックダウンに戻る」ことを条件に、6月3日をもってロックダウンを全面解除する、と発表しました。

すると前述の如く、人々が解除の10日も前の特に週末などに、一斉に自宅から飛び出しては遊びほうけ、大騒ぎになったりしているのです。

残念ながら新型コロナとのイタリアの闘いは全く終わってなどいません。感染流行第2波への警鐘はけたたましく鳴り響いたままです。

イタリア政府は5月29日現在、予定通り6月3日の全面解除を目指しています。しかし、そうした状況なども勘案して、各州間の人の移動にはしばらくの間規制をかけ続けることも検討しています。

ちなみにロックダウンの解除日が、6月1日の月曜日ではなく6月3日の水曜日とされているのは、間の火曜日がイタリア共和国記念日になっているからです。

第2次大戦後の1946年6月2日、イタリアでは国民投票により王国が否定されて、現在の「イタリア共和国」が誕生しました。以来その日は共和国記念日となっています。

共和国記念日は祭日です。そこで週末と旗日の火曜日に挟まれた月曜日も休みにして、5月30日から6月2日までの4日間が連休。その連休が明ける6月3日が解禁日と決まったのです。

                               それではまた  』


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コロナ忙中の閑


650植苗ヒキ


イタリアが世界最悪の新型コロナ被害地だった頃から今日にかけて、心穏やかでいたつもりだが、やはりCovid-19の悪影響から完全に自由ではいられなかったらしい。

その痕跡は、ここまでテーマを新型コロナ一色に絞って書き綴って来たブログ記事や、コラムその他の文章の内容に如実に示されている。

加えて、移動規制が緩和された今でさえ、外出をひどく億劫に感じたりするのも、おそらくコロナの障りに違いない。

菜園管理にも悪影響が出た。例年3月始めころに果菜類を主体にプランターで育苗をして、4月に直播きの野菜と前後して菜園に移植するが、ことしはまったく育苗をする気になれなかった。

それでも小さな畑に耕運機を入れて土起こしだけはやった。その後、4月も終わりになった頃に、菜園のかなりの部分にサラダ用野菜の混合種をびっしりと蒔いた。

野菜が隙間なく生い茂れば、一部を収穫して普通にサラダとして食べ、残りは雑草の抑えとしてそのまま茂るにまかせるつもりだった。

菜園では、農薬も化学肥料も使わない有機栽培を実行していて、雑草が繁茂し虫が多く湧く。雑草には特に苦労している。

そのせいもあって、以前から生食用の野菜を一面に育てて雑草の邪魔ができないか、と考えていた。それが土にどんな影響を与えるかは知らないが、ことしとうとう実行してみた。

5月になるとミックスサラダの新芽が生い茂った。雑草の害も明らかに少ない。気をよくしつつ一部を収穫して食べるうちに、ふつうに菜園管理への意欲がわいてきた。

先日、苗屋に行ってみた。人々はロックダウン中もきちんと仕事をしていて、りっぱな苗が育っていた。ロックダウンのため店は半ば閉まっているが、訪ねてくる客には販売もしているという。早速トマト、ピーマン、ナス、ズッキーニ、胡瓜、また少しのハーブ苗を購入した。

ことしは毎年自分で育苗をするトマトも育てなかったので、夏以降に行うトマトソース作りも中止、と考えていた。それだけに苗屋で新芽を手に入れられたのは嬉しかった。トマトソースは毎年大量に作って友人らにも裾分けするのが僕の習いだ。

トマトは購入した苗に加えて、昨年の落実から菜園で自然に芽吹いた苗も育ててみることにした。両方がうまく育てば、結局いつもの年よりも多目のトマトソースができることになるだろう。

ところで日本人の中には、トマトソースをイタリア料理の基本と考える人もいるようだが、それは誤解である。イタリア料理では確かにパスタやピザや煮込みなどにトマトソースがよく使われる。

とはいうものの、トマトソースはイタメシの基本でもなければ主体でもない。あくまでも料理素材の一部に過ぎない。

もっとも僕はトマトソースに塩、胡椒のみを加えて、そのまま煮ただけでも美味しいと感じる。そのため他の食材に加えて料理をするばかりではなく、ソースそのものもふつう以上によく食べるけれど。

菜園では、いたるところに蒔いたサラダが生い茂ったおかげで、いつもよりもあきらかに雑草が少ない。今後は毎年同じことをやってみようかとも考えている。

それをやれば連作障害が起きる懸念がある。が、しつこくて始末に困るある種の雑草の成長をブロックできるなら、それでも構わないのではないか、とも思う。実際のところはどうなのだろうか。




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正常化へ向けての日替わりメニュー



ハート背景に抱き合うマスク男女


イタリア政府は、欧州で最も長く且つ最も厳しい新型コロナ対策・ロックダウンを、6月日3日に全面解除すると発表した。人々の動きが自由になり店やレストランや工場やオフィスなど、ビジネスの全てが解禁される。EU域内からの外国人の入国も許可される。

つまり、新型コロナウイルスの感染拡大が確認されれば、ただちにロックダウンを再導入する、という段階的解除の度に付けられてきた条件と同じ要項を別にすれば、ほぼ全ての社会経済生活の営みが新型コロナ以前に戻る、ということである。

最新のイタリア政府の施策の根本は上記のようになっているが、実はここ数日は、ロックダウン解除に向けての政府の方針の細部はめまぐるしく変わっている。

特にレストランやビーチ施設や美容院などの営業再開に向けての緩和基準が、早い再開を要求する事業者自身や、彼らを後押しする野党議員や経済人などの口出しで揺れにゆれている。

ひとつの典型的な例がレストランのテーブルの設定条件。感染は始まったもののロックダウンがまだ導入されなかった頃の規則では、テーブルとテーブルの間を最低1メートル以上空けること、とされた。

その規則は感染拡大が進むに従って厳しくなり、すぐに1、5メートルと改められて次には2メートルなどとも言われた。カフェやバールなどで立ち飲みをする際の、人と人の間隔も似たようなものだった。

ところがその規定は、ロックダウンが解除されて営業を再開する際には、テーブルは4メートル四方内に1セットだけ設定すること、とされた。たった一つのテーブルのために4メートル四方ものスペースを割けというのは、小規模店は営業するな、と言うにも等しい厳しい条件である。

感染のリスクが低くなるように、店の外にテーブルを設置しての営業を促す意味合いも、それにはあったように見える。店の外なら密閉また密集することが少なくなるから、感染防止対策上の理想の形だ。

だが全てのレストランが、店の外に自由に使えるスペースのある場所に建っているわけではない。むしろそうではない店のほうがはるかに多いだろう。

案の定、狭いスペースしか持たないレストランをはじめとする飲食店から激しいブーイングが起こった。すると当局は早速、テーブルとテーブルの間に一定以上の以上の間隔を空けること、と修正した。

そうした混乱に加えて、資金不足や解雇した従業員の再雇用ができないなどの理由で、店を再開できないケースも多くなると見られている。一事が万事そんな具合だ。営業再開に向けてはまだまだ紆余曲折がありそうだ。

イタリアでは法律や法令や自治体の条例などが、施行された後でふいに変わるのは日常茶飯事だ。それらの規則の試行(Prova)期間というものがあって、実際に運用した上で不都合があればさっさと変更される。

それはきわめて現実的で柔軟な制度だ。しかし、はたから見ている者の目には、いつものイタリアのカオスや混乱やいい加減さが顕現したもの、と映りがちだ。つまり例外だらけの法律。それは例外のない法律と同程度の悲喜劇だ。

だがそれほど悪いシステムとも思えない。法律や規則は人間が作り人間に適用されるものだ。実際に施行してみて、人間と人間の関係性に不都合が生まれるならさっさと改訂し、再びトライしてはまた改善すれば良い。

イタリア社会の典則のほとんどは官僚に支配されている。官僚制度の複雑さ奇怪さは日本以上に目に余る。社会機能を停滞させる悪しき仕組みでさえある。ところが同じその体系が、いま述べたように新しく施行される法令等の修正や改定にはとても身軽だ。

それは混乱であると同時にフットワークが良いとも形容できる仕組み。カトリックの古い体質と価値観が、インターネットを駆使する若い政治勢力「五つ星運動」と併存する国、イタリアならではの光景だ。僕はいつものことながらため息をついたり感心したりするのみである。

6月3日をもってイタリアのロックダウンの全面解除が実施されるのは、今後「感染拡大の第2波が襲わない限り」間違いない。しかしその中身の詳細は日々変化していくことが予想される。

そんなわけで、今日ここに記した内容が明日には変わっている、という事態が今後も「ひんぱんに」と形容してもかまわない確立で起きるであろうことを、ここにお知らせし、了解を願っておきたい。


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ロンバルディア州が石橋をたたき続ける理由(わけ)

ドゥオーモ+鳩+消毒AFP650


イタリア政府は先日、コロナ感染抑止策として導入したロックダウンを5月4日から7日周期で徐々に緩和して行き、6月3日に全面解除すると発表していた。

ところが営業許可が出るのが一番最後になるレストランなどの飲食業界と、美容業界から猛烈な抗議の声が挙がり、政府はそれに応える形で2週間前倒しして5月18日に全ての業種の営業再開を認める、と決めた。

収入の道を絶たれて苦しむ勤労者世帯と経済界から歓喜の声が沸きあがる中、ひとつ転遷があった。新型コロナウイルスの最大の被害地、北部ロンバルディア州が政府の決定に異議を唱えたのである。

ロンバルディア州のアッティリオ・フォンターナ知事が、2業種の営業開始を1週間遅らせて5月25日にする、と宣言した。するとすぐに隣接州のピエモンテが知事に同調した。ピエモンテ州はロンバルディア州の次に新型コロナの感染者が多い。

いうまでもなくレストランやカフェは人と人の接触が極めて多い。営業空間も濃密だ。また美容業界も客とスタッフが顔を寄せ合って作業が進む場所だ。

同時に美容室や理髪店では、待合室を含む屋内空間も狭いのが普通だから、感染の可能性が高まる。人懐っこい国民が多いイタリアではなおさらだ。それだけに営業再開がいつも慎重に議論される。

ふたつの業界はまた個人営業である場合が多い。そのため資本的な体力も弱いのが普通だ。閉鎖されている間の政府の支援などがあってもなくても、生き残るのは厳しい業界である。関係者が早期の営業再開を主張するのは当然といえる。

ロンバルディア、ピエモンテ両州の感染状況は、イタリア全体と同じように確実に改善に向かっている。それでも5月14日の新規感染者はロンバルディア州が522人、ピエモンテ州が151人と楽観できない数字になっている。

ちなみに5月14日現在の2つの州の感染者と死者の総計は、それぞれロンバルディア州が83820人、死者は15296人。ピエモンテ州が感染者29209人、死者は3493人である。

両州を合わせたは感染者の数は全国の50%強、死者のそれはほぼ60%。僕も住むここロンバルディア州一州のみの感染者と死者の数は、それぞれ約38%と49%にも達するのである。

そうした状況に鑑みてフォンターナ州知事は、政府が5月18日とした2業種の営業再開日を、一週間遅らせる、と決めたのだ。

その動きは、州都ミラノのジュゼッペ・サーラ市長が5月7日、多くの若者が繁華街に無防備に集まったことに激怒して、「街を再びを閉鎖することも辞さない」と宣言した強い危機意識に通じている。

繁華街のナヴィリオで起きた現象は、ミラノ市長の脅迫じみた宣言も功を奏して、その後ぴたりと収まった。そうしたエピソードが語るように、多様性を重視する結果、時としてエゴイストにさえ見える自己主張の強いイタリア国民の間にも、Covid-19への切迫感と連帯意識は強い。

ロンバルディア州と思いを同じくするピエモンテ州が、前者に倣ってレストランの再開を遅らせたのは理解できることだ。またヴェネト、エミリアロマーニャ、トスカーナなど感染者の多い他の北部各州も、ロンバルディアとピエモンテ両州と同じように経済活動の拙速な全面再開には慎重な姿勢だ。

それでもベニスが州都であるヴェネト州は、隣のフリウリ・ヴェネツィア・ジュリア州との間の人の往来を、政府の決めた期日を前倒しして再開すると決めた。そのようにイタリアでは中央政府の決定と地方のそれが違うことがよくある。それは双方が合意の上で起こる齟齬である。

イタリア共和国の政治の仕組みは、地方がまず在って、その地方の合意の上に中央政府が存在する、と考えればよく理解できる。各地方の独自性、言葉を変えれば全体の中での多様性が重視されるのが当たり前なのだ。

多様性が大きいと国家はまとまりに欠けるように見える。だがそこ には大きなプラス面もある。つまり多様性がもたらす精神の開放と、それに触発された人々の自由な発想の乱舞だ。誰もが自説を曲げずに独自の道を行こうと頑張る結果、イタリア共和国にはカラフルで多様な行動様式と、あっとおどろくような 独創的なアイデアが国中にあふれることになる。  

そして何よりも重要なポイントは、イタリア人の大多数が、「国家としてのまとまりや強力な権力機構を持つことよりも、各地方が多様な行動様式 と独創的なアイデアを持つことの方がこの国にとってははるかに重要だ」と考えている事実だ。要するに彼らは、「それぞれの意 見は一致しないし、また一致してはならない」という部分でみごとに意見が一致する。

多様性を尊重し重視しようとするイタリア国民の確かな哲学は、凄惨な新型コロナ危機を経ても無くなっていない。各州に代表される地方自治体が、中央政府や他の地方とは違う歩みを歩むことを恐れず、恐れるどころかむしろわが道を行く気概を強調しつつ、イタリアは独自のやり方で復興への道筋を見極めようとしている。


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3密空間で食べるイタメシの味


男と女400


イタリアの経済は新型コロナウイルスによって破壊された。いうまでもなくそれは欧州のほとんどの国を含む世界中が同じ状況だが、欧州財務危機以来の不況と借金苦に悩まされているイタリアの現実はより深刻だ。

ジュゼッペ・コンテ首相が5月4日からのロックダウンの段階的緩和を発表したとき、営業開始が遅れるレストランなどの飲食業者と美容師組合などは早速大きな抗議の声を上げた。

それに呼応するように、南イタリア・カラブリア州のヨーレ・サンテッリ( Jole Santelli )知事は、レストランほかの飲食店の営業を政府が指定する6月1日からではなく、解除初日の5月4日から許可すると宣言して物議をかもした。

ベニスではレストランオーナーや美容師らが街の中心のサンマルコ広場に集合して、6月1日を待たずに営業を許可しろと抗議デモを行った。世界に名高い観光都市ベニスを象徴する美しい広場での怒りの集会は、主催者の思惑通りメディアの注目を集めた。

5月4日の第一段階の規制緩和では、約450万人が働く製造業と建設業の営業が許可され、5月18日からは飲食業と美容業以外のほとんど全ての業種の営業が始まる、とされた。しかし営業許可が遅れる業種からは強い不満が沸き起こったのである。

感染拡大への恐れと、経済のさらなる破壊を懸念する声が激突して、イタリアは騒然とした。多様性を何よりも重んじ、自己主張の噴出を当然のこととして受容するイタリア社会の、いつも通りのにぎやかな光景である。

業種ごとに営業許可の日にちが違うのは不公平という反論と、経済の全面的な再始動を要求する財界からの強い圧力にさらされたイタリア政府は、ついにレストランや美容室を含む全ての業種の営業を5月18日付けで許可すると発表した。

それを受けてイタリア高等保健研究所(ISS)と全国労働災害保険機構(INAIL)は、レストランなどの飲食店とビーチ施設等の営業条件を発表した。その内容は:

1.客はレストランへの出入りの際にはマスク着用を義務付けられ、トイレに行くときなど席を離れる際にもにも必ずそれを着ける。

2.テーブルはウエイターの動きも勘案して、4メートル四方内に1セットだけ置くこと。飲食費の精算は人と人の接触を避けるためにWebなどによる電子決算が推奨される。

3.メニューは伝統的なものではなく人が直接に手で触れないものにする。たとえば黒板表記にする。あるいは使い捨ての紙などに書く。またWEBやアプリで見る形などにする。

3.店の必要な場所、たとえばバスルームの出入り口などにはたえず消毒薬を用意しなければならない。客はその使用を義務付けられる。

4.また入店を待って客が集まったり、待合室で人が密集したりすることを避けるために、予約制で営業すること。同じ理由でビュッフェも禁止とする。

など、など。

それらの設備やルールの多くは店側に課せられるものである。だが客にとってもひどく窮屈な内容だ。むろん必要不可欠の措置だろうが、いかにも重苦しい。

個人的には、食べている時間以外は店の中でもマスク着用が義務付けられる環境は、密閉空間にウイルスがふわふわ浮かんでいるような印象。そんなところで、わざわざ金を払って食事をする気には残念ながらなれない。

しかしレストランでぺちゃくちゃしゃべりながら食べたり、ビーチで家族や友人としゃべり遊んだり、いつでもどこでも寄り集まってしゃべりふざけるのが大好きなイタリア人にとっては、ウイルスがいようがいなかろうが、レストランに行けること自体がきっと既に至福なのである。



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渋谷君への手紙~多様性はそれを知らない者も懐抱する 



抱き合うサル600


5月7日のエントリー「多様性という名のカオス」を読んだ保守系の読者の方から、「やはり多様性は良くないのですね」という趣旨のメッセージが届いた。

ちょうど友人の渋谷君に送った書簡(メール)に直結する内容なので、それを彼にも送り、同時にここにも転載しておくことにした。


『渋谷君

多様性というのは絶対善です。絶対とはこの場合「完璧」という意味ではなく、欠点もありながら、しかし、あくまでも善であるという意味です。民主主義と同じです。

民主主義はさまざまな問題を内包しながらも、われわれが「今のところ」それに勝る政治体制やシステムや哲学を知らない、という意味で最善の政治体制です。

また民主主義は、より良い民主主義の在り方を求めて人々が試行錯誤を続けることを受容する、という意味でもやはり最善の政治システムです。

言葉を変えれば、理想の在り方を目指して永遠に自己改革をしていく政体が民主主義、とも言えます。

多様性も同じです。飽きることなく「違うことの良さ」を追求し受容することが即ち多様性です。多様性を尊重すればカオスも生まれます。だがそのカオスは多様性を否定しなければならないほどの悪ではありません。

なぜならそれは多様性が内包するところのカオスだからです。再び言葉を変えれば、カオスのない多様性はありません。

多様性の対義概念は幾つかあります。全体主義、絶対論、デスポティズム
etc。日本の画一主義または大勢順応主義などもその典型です。

僕はネトウヨ・ヘイト系排外差別主義と、それを無意識のうちに遂行している人々も、多様性の対極にあると考えています。

なぜなら ネトウヨ・ヘイト系排外差別主義らは、彼らのみが正義で他は全て悪と見做す。つまり彼らは極論者であり過激派です。むろんその意味では左派の極論者も同じ穴のムジナです。

それらは絶対悪ですが、多様性を信奉する立場の者は彼らを排除したりはしない。 ネトウヨ・ヘイト系排外差別主義は悪だが、同時にそれは多様性の一環と考えるのです。

多様性の精神は、むしろそれらの人々のおかげで、多様性や寛容や友愛や友誼や共存や思いやり等がいかに大切なものであるかが分かる、という意味で彼らは必要悪であるとさえ捉えます。

君も読んでくれた記事「多様性という名のカオス」の中で僕は、
「多様性を重視するイタリア社会は平時においては極めて美しく頼もしくさえあるが、人々の心がひとつにならなければならない非常時には、大きな弱点になることもある。今がまさにそうである。 」
と書きました。あなたはそれを読んで、僕が多様性を否定しているのではないか、と一瞬思ったということですが、あなたも考え直したようにもちろんそれは誤解です。

多様性は非常時には大きな弱点になること“も”ある。という書き方でも分かる通り、僕はそこでは単純に可能性の話をしただけなのです。

最も重要なことは、多様性が平時においては美しく頼もしいコンセプトである点です。非常時には平時の心構えが大きく作用します。つまり、多様性のある社会では、多様性自体が画一主義に陥り全体主義に走ろうとする力を抑える働きをします。

一方でネトネトウヨ・ヘイト系排外差別主義がはびこる世界では、その力が働きません。それどころか彼らの平時の在り方が一気に加速して、ヘイトと不寛容と差別が横行する社会が出現してしまいます。

日本で最後にそれが起きたのが軍国主義時代であり、その結果が第2次大戦でした。日本はまだ往時の悪夢から完全には覚醒していません。つまり多様性が十分にはないのです。

多様性を獲得しない限り、あるいは多様性の真価を国民の大多数が血肉となるほどにしっかりと理解しない限り、日本は決して覚醒できず真に前進することもできないと考えます。


以上

                                      それではまた』




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報道と見解の狭間



則イラスト鼻毛up800を100


イタリアはロックダウンの段階的解除2週目に入った。解除第一週目の後半には、いわば「自宅軟禁」からの解放感に我を忘れた人々が、大挙して街にくり出して感染拡大への懸念がふいに高まった。

特に感染爆心地・ロンバルディア州の州都、ミラノにあるナヴィリオ地区の人出が大きく取り上げられた。ナヴィリオはミラノ屈指のおしゃれな街。その日はマスク無しで且つ対人距離も無視した多くの若者が集まって顰蹙を買った。

さらに悪いことに、その動きはミラノだけではなく、感染者の少ない南部イタリアの主要都市でも起こっていたことだと判明。早くも感染拡大が再開するのではないか、とイタリア中が大きな不安に揺れた。。

イタリア全土のロックダウンの開始日については、3月9日、3月10日、3月11日、3月12日、などの説がある。それ以前の地域限定の隔離・封鎖処置などの影響もあって、時系列の情報が混乱して伝えられがちだ。

また政府発表が事前にリークされたり、政策発表の日と施行日が混同していたり、さらに法令の内容が迅速に変わったりするのも混乱の原因だ。

ロンバルディア州を中心とする北部5州に適用されていたロックダウンが、全土に拡大されたのは3月10日からだが、措置の発表は3月9日である。

そして3月11日にはその強化策が明らかにされて、翌3月12日から施行される。この日からレストランなどの飲食店も営業が全面禁止になった。それまでは時間を短縮しての営業が認められていた。

イタリア全土の過酷なロックダウンは「3月12日をもって完成した」というのが僕の考え方である。従って僕は「イタリアのロックダウンは3月12日に始まった」と表記し続けてきた。だが正確には3月10日に始まった、と言うべきだろう。

そこで僕はイタリアのロックダウンの一部解除をテーマにした記事、「イタリアは石橋をたたき、またたたいては渡ると決めた」から、ロックダウン開始日を「3月10日」と改めた。

時事ネタの場合は、「報道ではなくいわば“報道にまつわる私見や考察”を書く」というのが僕のスタンスである。従ってロックダウンの正確な日にちは僕にとってはそれほど重要ではない。それを自分が「どう思うか」がポイントなのである。

だが同時に、ブログを情報源として読んでくださる読者がいることも僕は知っている。従っていい加減なことは書けない。そこでイタリアのロックダウン開始日の“ぶれ”の理由についても書いておこうと考えた。

ブログ記事の場合は、新聞・雑誌・本などの紙媒体とは違って、編集者や校正者がいない。全て書き手がひとりで担う。そのために誤字脱字はもとより、間違いや思い違いや思い込みその他の誤謬が多い。

読み返すたびに、信じられないようなミスを発見する。読み返すたびに添削をしている、といっても過言ではない。ロックダウンの開始日の不明瞭も、僕にとってはある意味で誤謬の一つである。

そこでお断りの一筆を入れておくことにした。



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多様性という名のカオス


5月8日naviglio人群れ650



イタリアが5月4日、新型コロナウイルス感染拡大を抑え込むために導入しているロックダウンの一部を解消してからはじめての週末がきた。

イタリアでは一日当たりの新規感染者数も、累計の感染者数も共に減少し、逆にcovid-19からの回復者の数は増え続けている。

また死者数も減少している。それでも5月4日以降、昨日までの一日当たりの死亡者数は:
4日195人 5日236人 6日369人 7日274人 8日243人、と依然として多い。総計も30201人となった。

死者数がすでにイタリアを上回り、感染者数の合計が明日にもイタリアを超えそうなイギリス、またそのどちらも世界最悪のアメリカに比べれば増しかもしれない。が、例えば日本に比較すればイタリアは相変わらず地獄の様相を呈している。

しかしあらゆる数字が状況の改善を示唆してはいる。1人の感染者がウイルスを何人にうつすかを示す基本再生産数 も1を下回っている。イタリアの死者数が多いのはこれまでに感染し重症化した人が亡くなり続けているからである。

それらの事情を踏まえてイタリア政府は5月4日、ほぼ2ヶ月に渡った過酷なロックダウンを「一部解除」した。ところが多くの地域で人々があたかも「全面解除」のような動きに出て問題になっている。

イタリアの感染爆心地、北部ロンバルディア州ミラノで5月7日、若者を中心とする人々がおしゃれなナヴィリオ地区にどっと繰り出した。彼らはマスク着用や対人距離の確保の義務などを無視して思い思いに集った。

感染予防を全く気にしないそれらの人々への非難が殺到し、ミラノ市長は「恥知らずな行為」とまで罵倒して、再び同じことが起こるなら即座にナヴィリオ地区を封鎖する、と宣言した。

ところが同様な光景がイタリア中に展開されて、感染拡大への懸念が募っている。特に感染者の少ない南部の主要都市で、ミラノにも勝る人数の人々が密集しマスクも外して談笑する様子が多く見られた。

この週末に感染拡大があってもそれはすぐには表面化しない。結果が明らかになるのは来週以降である。そこでCovid19関連の数字が悪化すれば、政府や地方自治体は規制を強化する可能性がある。

だが数字に変化が見られなければ、当局が厳しい動きに出るのは困難になり、人々の開放感はますます募って感染予防策がおろそかになるだろう。

イタリアのコロナ禍は世界のそれと同じように全く終わってなどいない。行過ぎた規制緩和や人々の安易な行動は、将来大きな災いを呼び込む危険性が高い。

多様性を重視するイタリア社会は平時においては極めて美しく頼もしくさえあるが、人々の心がひとつにならなければならない非常時には、大きな弱点になることもある。

今がまさにそうである。



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ロックダウンという名の自由監獄



則イラスト鼻毛up800を100


以前のエントリーに

“手始めに、次のエントリーあたりでイタリア全土が封鎖された中での具体的な生活の様子を書いてみようと思う。イタリアの切羽詰った状況が日本に飛び火するようなことがあれば、もしかすると、このブログを読んでくれている日本の読者の皆さんの役に立つかも知れないから云々”


と書いたものの、中々すぐには行動できずに来た。他のテーマで書くべきことが多すぎたのだ。また、僕と家族はほぼ完全に自宅籠りの生活を送っていて、これといって特別な要素もない、ということにも気づいた。

加えて、北部イタリア・ロンバルディア州の片田舎にあるわが家には、周辺の家のほとんどがそうであるように庭があって、おかげで開放感がある。さらにわが家は古い落ちぶれ貴族の邸宅だった場所で、床面積が広い。普段はひどく持て余している無駄な空間や不便な造りが、巣ごもりの生活では息抜きをさえもたらす要素になっている。

そんな場所での隔離生活なので、特殊なケースであり、従ってその内容を書いてもあまり役に立つ情報にはならない、という疑念があった。しかし、強制的な外出禁止がいかなるものであるかの「一例」として、書いておくのも悪くない、と思い直した。また明日5月4日から始まるロックダウンの段階的解除がうまくいけば、隔離生活の記憶も薄れていく可能性が高いだろうから、今がチャンス、とも考えた。

「自宅監禁」と呼んでもかまわない厳しい外出制限が真に苦痛になるのは、多くの場合おそらく都会生活者においてだ。特に庭やバルコニーのない狭いアパートやマンションに住む、且つ子供のある家族にとっては極度の苦悶に違いない。またイタリアの場合は、一戸当たりの面積が欧州の中では狭い部類に入る。かつてウサギ小屋と揶揄された日本ほどではないにしても、家族全員が長期間閉じこもるには厳しい環境だ。

苛烈な外出制限や移動規制に象徴される隔離封鎖、あるいはロックダウンが敷かれている日常は、敢えて表現すれば「自由な監獄」である。数は少ないが営業を許されている仕事や病気など、れっきとした理由があれば外出はできる。食料の買出しも可能だ。散歩や運動も自宅内や敷地、また集合住宅の中庭などでならできないことはない。牢屋のようだが少しの自由はあるので「自由な監獄」。

僕らの一家の場合は、庭を歩いたり屋内で少し動きはするものの、自主隔離とロックダウン期を加えたほぼ2ヶ月間、一歩も家の外に出ていない。食料の買出しにさえ出ない。普段から食料の備蓄が少しあることと、外出自粛(法令による禁止ではなく)が奨励されていた時期に、割と多目の食料や必需品を買い置いているからだ。

自主的に自宅待機を始める1週間ほど前から、僕らは少しづつ食料の買い置きを始めた。加工牛乳にはじまるロングライフ食材を買い求め、肉類も多く冷凍庫に備蓄した。自宅待機を始めてからも同じ動きをした。僕は長い自宅隔離を意識して、呆れる妻を無視してはビールやワインも大量に買い込んだ。街に出て日本酒までも仕入れた。

わが家は田園地帯にあって買出しには常に車が必要なこともあり、もともと食料を多めに備蓄する習慣がある。それに加えて、友人らを招いて庭でバーベキューをしたり飲み会や食事会などをすることも多い。それに備えての食材の買い置きもごく普通の行動パターンである。元々飲食品の蓄えが多いところに、ロックダウンを意識しての買いだめも進めた。おかげで2ヶ月も閉じこもった今でも、なおかつ食料や飲み物に余裕がある。

それでも野菜や果物などの生鮮品は今日までに3度配達してもらった。住まいのある村のスーパーや食料品店など、営業を許されている生活必需品店は、頼めば宅配サービスをしてくれるのである。そのこと自体は便利だが、実はそこには自ら店に出向いて食材を買う時とは違う不安がある。

店で買い物をするときは、自分の手で商品に触り、仕分けをし、自分で全てを制御する。が、配達の場合は品物の接触も運搬も何もかも全て他人任せだ。従って荷物の受け渡しの際や、あるいは荷物そのものにさえ、スーパーの人混みの中と同様にウイルス感染の可能性があるのではないか、と不安を覚えたりしないでもない。

僕は一歩も外出をせずに読書三昧の暮らしをしている。その合間に執筆をし、料理をして食べ、風呂やシャワーを使い、WEBを巡り、少しだけ妻のおしゃべりに付き合い、日伊英3ヶ国語のニュースを見、読み、聞き、最後にRAI(イタリアのNHK)の夜のニュースをじっくり見ながらワインやビールを飲む、という暮らしを続けている。それは退屈どころか、読書用に1日当たりあと数時間は余計に時間がほしい、とさえ思う日々だ。

繰り返すがイタリアは明日5月4日、ロックダウンの一部を解除する。それに伴い、先ず製造業や建設業などで約450万人の勤め人が仕事に復帰する。段階的解除については賛否両論が渦巻いている。営業再開が遅れる美容業界などは激しく反発。すると即座にそれらの動きに便乗する政治家などが騒がしく声を上げ始めた。また感染者が少ない南部カラブリア州は、6月1日からの営業開始、と国が決めたレストランやカフェなどの飲食店の営業を、明日から許可する、と宣言して物議をかもしたりもしている。

急展開を主張するのは少数派だ。国民の多くは、ここまでの新型コロナの脅威を恐れて、慎重な解除を望んでいる。だがそこは悩ましい状況だ。良く言えば陽気でカラフルな多様性が目覚ましい国、イタリア。悪く言えばジコチューでまとまりのない人々がひしめく国、イタリア共和国である。異を唱え「わが道を行く」と叫んで譲らない者には事欠かない。

新型コロナ以前も不調だったイタリア経済は、2月以来のウイルスとの過酷な戦いによって大きなダメージを受けた。Covid-19にまつわる多くの数字が感染の沈静化を示唆している今、過酷なロックダウンを徐々に緩和して経済を動かし、「自宅待機疲れ」がピークに達している人々のストレスを軽減するのは必要不可欠なことだ。だがそれには飽くまでも、「感染拡大がぶり返した場合には即座にロックダウンに移行する」というコンテ首相の宣言が、担保として付いてまわることを願いたい。




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