【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2020年06月

岡江久美子さんのこと



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テレビ屋という仕事柄、各界の著名な方々に会うことも多い。むろん仕事である。よほどのことがない限り、そのことについては書かない。仕事上の出会いだから、むやみに披露するのは、自分の中においているいわば守秘義務にも似た原則に違反する、と考え自制している。

しかし近年、いきさつとか功績とか人柄などを考慮しつつ、書いて置くほうがいいのではないか、とも考え出している。主に亡くなった方々を中心に。それは大きく言うと歴史の一要素、とも見なせるからである。

イタリアでは取材を通して、誰もが顔や名を知っている方々にお目にかかった。ファッションデザイナーやプロサッカー選手にも多く出会った。90年代が中心である。サッカー選手はもはや全員が現役を引退しているが、健在。一方、デザイナーは亡くなった方も多い。

仕事とはまったく別の場で行き逢った有名人の方もいる。そのひとりが先日新型コロナウイルス感染症で亡くなった岡江久美子さんである。

岡江さんとは僕が大学卒業間近だった頃に、世田谷区・千歳船橋駅近くの居酒屋で偶然に隣り合わせ、年齢が近いこともあったのだろう、とても親しく楽しく語り合った記憶がある。

映画の話を多くした。いつかいっしょに映画を撮りましょう、ぐらいの生意気を言ったかもしれない。僕は大学卒業後すぐにロンドンの映画学校に留学することが決まっていて、いわば気持ちがハイの状態だった。そのことについても多く語ったと思う。

既に有名人なのに岡江さんには気取りも気負いもむろん思い上がりのかけらさえもなかった。お互いに20歳代前半の若者同士とはいえ、社会的な立場は大いに違う。それなのに僕に対している彼女の表情や物腰や言葉使いには、自然体の美しさだけがにじみ出ていた。

文字通り明るくさわやかで聞き上手。大いなる話し上手でもあった。ごく普通の若者だった僕が美形の有名人に萎縮しなかったのは、ひとえに岡江さんの飾らないお人柄ゆえだった。僕は終始あたかも大学の女子学生のうちの、親しみやすい人と会話をしているような気分でいた。

大いなる田舎者の僕は、都会出身の女子学生にいつも憧れていた。東京出身の岡江さんはその典型的な存在にも見えた。垢抜けて麗(うら)らかでしかも可愛い女性だった。僕はまさに学生気分で彼女に対し、岡江さんもおそらくそれに似た気分で返してくれていたような記憶ばかりがある。

その半年後に僕は英国に渡り、4年以上後に日本に帰国してTVディレクターになった。岡江さんがいろいろなところで活躍していることは分かっていた。同じ時代に僕は東京を基点にアメリカのケーブルTV向けの報道番組やドキュメンタリーを矢継ぎ早に作っていた。

その気になればテレビ局やプロダクションなどの関係者を通して、岡江さんにコンタクトを取ることは可能だった。僕らはテレビカメラの向こう側とこちら側、また有名女優としがないディレクターという立場の違いはあるものの、つまるところ同じ業界人同士ではあるのだ。

単にコンタクトを取るばかりではなく、僕は仕事を作って岡江さんに出演を依頼することもできた。米ケーブルTV番組は、日本を紹介する2、3分の報道セグメントから10分前後の報道ドキュメンタリーまたソフトニュースなどから成り立っていた。

僕は若くて未熟ながらも企画アイデアだけは豊富で、連日機関銃のように起案をし、日米混合のスタッフと共にロケに出かけ、編集作業に没頭していた。僕の企画はぼ全てが通って制作に回された。ケーブルテレビはいわば黎明期で新しいことにがむしゃらに挑戦していた。だから僕のような若造の計画でもよく受け入れられたのだと思う。

番組企画のひとつとして、たとえば岡江久美子さんを取り上げて、日本のタレントあるいは女優の生き様、とでもいうようなタイトルで短いドキュメントを制作することも十分に可能だった。ケーブルTVというマイナーな媒体とはいえ、れっきとしたアメリカ向けの番組だから、当時日本人は芸能人やアーチストに限らず、文化人また知識人など、ほぼ誰もが積極的に出演を受けてくれていた。

だが、多忙な日々の中で岡江さんにお願いをする企画を出すことはなく、僕はまもなくニューヨークに移動することになった。そこで2年余り仕事をした後に、今度はイタリアに移住した。それでもどの国にいても日本には仕事や休暇でひんぱんに帰り、岡江さんがTBSの『はなまるマーケット』 などで活躍されていることなども知った。

日本の仕事では主にNHKにお世話になった。が、民放にもかかわりむろんTBSとの仕事もした。しかし、岡江さんとの接点はないまま時間は過ぎた。テレビでお顔を拝見するたびに、遠い昔の記憶を呼び起こしながらひとりで勝手に親しむのみだった。

再会することはなかったが、Covid-19で亡くなったという驚愕のニュースを衛星放送で知って、すぐにイタリアからお悔やみの記事を書こうと思いついた。だが、冒頭で述べたプロのテレビ屋としての自制が勝り、ためらった。

そうこうするうちに岡江さんの訃報から2ヶ月が経った。だが今も新型コロナの脅威は消えていない。たとえば世界一厳しいとされたロックダウンが終わったここイタリアでは、反動で人々のタガがはずれたのか、3密の危険への警戒心などもどこかに吹き飛んだようだ。マスクも付けずに人々が密集して、歓楽にひたる光景がひんぱんに見られる。怖い状況である。

そしてそれは、イタリアほどのコロナ地獄は経験しなかった日本でも、どうやら似たり寄ったりの様相を呈し始めたようだ。ほんの少し前の日本では、志村けんさんや岡江さんの訃報が、人々の中に新型コロナへの強い危機感を植え付けるきっかけになった。

その観点ではおふたりは、自らの死を持って多くの日本人の命を救った、とも言える。それを尊崇する意味でもやはり自分なりに追悼の意思を示しておこうと考えた。また、岡江さんとは仕事でご一緒したことはないのだから、いわば
1人のファンとして個人ブログ上でお悔やみを申し上げるのは許されるのではないか、とも思った。

訃報が公表されて以降、岡江さんのお人柄に対する賞賛が後を絶たない。僕ははるか昔の学生時代に偶然にお会いして、人品の清らかさに感銘を受けた自分の印象と、多くの人々のそれが同じであることを誇りに思いつつ、胸中でそっと手を合わせているのである。



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イタリアの死者数が最低でもコロナはそこにいる


キャンペ女性切り取り


2020年6月27日現在、イタリアの累計感染者数は24万人を超えた。だがそこから回復者数と死亡者数を引いた実質感染者数は16836人。

イメージが湧きやすいように敢えて言えば、イタリアの今日現在のコロナ感染者数は日本の累計感染者数18409人より約1500人も少ない。

世界一のコロナ感染地獄国と化したイタリアが、人々の恐怖と不安と悲鳴と絶望に埋め尽くされていた、一時期の悲惨な状況からは考えられないような改善である。

そのトレンドを確認するかのように、6月27日の死亡者数は8人とコロナ禍が本格化して以来初の一桁台になった。

また集中医療室患者数は97人、とこちらも初の2桁台。新記録である。なお感染拡大時には1日あたりの最大死者数は919人、 集中医療室患者数は4068人にものぼっていた。

イタリアの新型コロナ惨禍は間違いなくいったん落ち着きつつある。だがそれはあくまでも「いったん」だ。先行きは全く見えない。

数字が目覚しい改善を見せた一方で、南部イタリアのナポリ県を含む全国の10の地域であらたに集団感染が発生した。

また夏を迎えほとんどのロックダウン規制が解除されて、国中の至るところで対人距離の確保はおろかマスクさえ付けない人々が、密集し歓談し遊びほうける様子がひんぱんに見られる。

今の状況では、コロナウイルスが奇跡的に且つ自然に消滅でもしない限り、秋から冬にかけて感染流行の第2波、第3波が襲い掛かるのは必定と見える。

そうした状況はイタリアに限ったものではなく、スペインでもフランスでもそしてイギリスでも見られ、心ある人々を戦慄させている。

僕はそろそろ次のロックダウンに備えた動きを始めようかと考えている。ロックダウンには至らなくとも、大きな規制をかけなければ収まらない事態が必ず来る、と思うから。

同時に英オックスフォード大学とイタリアの製薬会社が組んで開発している新型コロナワクチンが、噂通り年内に完成することを期待しつつ。

ワクチンは予定通りならイタリアでもすぐに入手可能になる。そうなればロックダウンも必要なくなるかもしれない、と楽観もしながら。。



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英伊ワクチン同盟



Oxfordワクチンボトル


新型コロナで痛めつけられたイタリアは、日本などの知ったかぶり専門家らに「医療レベルが低い」「感染爆発への対応が悪い」などと、先進国にもあるまじき不備やうっかりやアバウトさを批判されることはあっても、最新の医療分野での新技術や発明や発見などを賞賛されることは少ない。

ところがどっこいイタリアは、欧州の技術革新の基礎になったローマ帝国やルネサンスなどの昔を持ち出すまでもなく、現代の医療分野でもそれなりに傑出した貢献をしている国だ。新型コロナのワクチン開発でも同じ。国内での独自の研究開発とは別に、国外の研究機関や施設とも提携して成果を挙げている。

その最たるものが、ローマ近郊の製薬会社IRBMが英オックスフォード大学のJENNER研究室と共同で進めているワクチン開発。世界では現在、合計140(120という説も)種類前後のワクチンの研究開発が進められている。今のところそのうちでもっとも有望なのが、英伊共同開発ワクチンなのだ。

だがほとんど誰もイタリアの関与には触れない。まず「オックスフォード大学が開発中」と研究機関の名を挙げて報道し議論を展開する。イタリアの名前はずっと後になって申し訳程度に言及するのが普通だ。もっとも言及されることがあれば、の話である。

ワクチンはウイルスを改変したり弱体化させて作るのが従来のやり方である。それは接種された者が病気になる危険などを伴うこともあって、細心の注意を払い用心の上に用心を重ねた治験を経て完成する。早くても1年~2年は時間がかかるのが当たり前だ。

ところがオックスフオード大学とIRBMが共同開発中のワクチンは、従来のものとは違って遺伝子を基に作り出す。そのために時間の短縮が可能になる。同ワクチンは研究開始からわずか数ヶ月で臨床試験に入り、もっとも難しい最終段階の治験を夏にかけて行う。これが成功すれば年内にも実用化する可能性がある。

そんな重大な研究開発に最初から絡んでいるイタリアだが、既述のようにほとんど誰もそのことには言及しない。イタリアの厚生大臣だけがIRBMを持ち上げたり、オックスフォード大学のイタリア人研究開発スタッフを紹介したり顕彰したりして、イタリアが研究開発に一枚噛んでいることを懸命に宣伝している。

あるいはIRBMが民間の製薬会社であることも影響するのか、イタリアにおいてさえワクチンの開発事情い同社の名をからめて語るメディアは少ない。ワクチン開発のような事案では、商業目的の薬剤生産者よりも、大学や研究機関などの高邁な探求や開発に人々の関心が向かい勝ちだからだろう。

BBCなどの世界的に影響力のあるメディアは、人々のそうした思考傾向を踏襲し利用しつつ、大学が英国内の施設である事実から来る「愛国心」にも押されて、いよいよオックスフォード大学の名ばかりを強調して報道する。世界のメディアもこれに追随する。イタリアのメディアでさえも。

そうした風潮の底には、先進国の中のハチャメチャ国・イタリアには最先端の技術、学問、哲学等々は育たない、というひそかな偏見も手伝っていると僕は思う。さすがに創造性と芸術の国イタリア、という大きなコンセプトを看過する者はいないと思うけれども。

それやこれらが重なって、あるいは世界を救うかもしれない天晴れな新型コロナワクチン第1号の開発に、イタリア“ごとき”がかかわっているとはメディアはなかなか主張せず、メディアが口をつぐむので人々も気づかない、という現象が生まれる。メディアはそういう局面では、事実に気づいていても無視する(報道しない)からいよいよ性質が悪い。

オックスフォード大学&IRBMワクチン(と仮称する)には、イギリスとイタリアのほか、フランス、ドイツ、オランダ、さらにアメリカが供給契約に署名した。従ってワクチンは完成した暁にはその6ヵ国にまず行き渡り、その後世界各地にも販売されることになる。

日本や中国をはじめとする世界の多くの国々も、オックスフォード大学&IRBMワクチンには強い関心を抱いている。ワクチンが予定通り最終段階の臨床試験をクリアし、年内に供給が始まれば画期的なことだ。だが懸念がないわけではない。

ワクチンはその有効性と安全性を、摂取量や期間またその道筋などの重要事案を3段階に分けて繰り返し確認し、最終的に大規模集団においても確実に有効性と安全性があると認められたときにのみ生産が許される。最終治験では数千人が対象にされることもあり、もっともコストが掛かる。ハードルも高い。有望とされたワクチンがこの段階でボツになることも多い。

オックスフォード&IRBMワクチンが最後の治験でNGとなる可能性はまだ半分はあると考えられる。そこに至る以前に新型コロナが終息して、商業的にも社会的にもまたモラル的にもワクチンを開発する意味がなくなれば、ワクチン開発は沙汰止みとなる。過去にはSARS(重症急性呼吸器症候群)や、MERS(中東呼吸器症候群)のワクチン開発が途中で立ち消えになった。

儲からない事業は前に進まないのが世界の現実だ。しかし新型コロナの場合は状況が全く違う。開発が中止になることはまずないだろう。それどころか、オックスフォード&IRBMワクチンが成功し供給が開始されても、他のワクチン開発が止むことはない。需要が桁違いに多い分、ワクチンの供給は滞る。従って各事業者は儲けを求めて開発を続け、各国政府は自国民を守るためと称して事業者を援護し、自前のワクチンを手に入れようと躍起になる、と考えられる。



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デブるイタリア



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統計によるとイタリア人は、新型コロナ感染抑止のために行われたロックダウン中に平均2キロ太った。

自宅にこもりきりで運動や散歩もできないのに、いやできないからこそ、人々の食事の量は18%増えた。

不安やストレス、またロックダウンによって十分な食料が手に入らなくなるのではないか、という恐怖感などが悪く作用した。

食べるものはジャンクフードにも似た簡単な内容や作りの料理。砂糖のほかパスタに代表される炭水化物、また脂肪質の豊かなもの。

その一方で、料理の勉強のために時間をかけてじっくりと調理をする独身者や若者も増えたが、飽くまでも少数派だった。

ロックダウンが明けた今、イタリア国民の47%にも当たる人々が、減量が当面の最大の目標と答えている。

良い話もある。ロックダウン中は66%の家庭が、野菜や果物の皮など、食べられない部分を除いて食料をほとんど何も捨てなかったと答えた。

またロックダウン初期の3月には、犯罪も大幅に減少した。昨年同月比で約70%も減ったのだ。DV(家庭内暴力)も37,4%少なくなった。ロックダウン中にDVが増えた英国やフランスとは逆の現象である。

一方、高利貸しなどの悪徳商法の被害者は10%近く増えた。これはロックダウンによる営業縮小で、経済的に行き詰まった小規模事業者や個人が、マフィアなどの犯罪組織から金を借りるケースが急増したもの。

シチリア島をはじめとするイタリア南部では、マフィアほかの犯罪組織が経済的に困窮する人々を救済する振りで金を貸したり贈与するなどして、彼らを借金漬けにして食いつぶす手法が社会問題になってきた。

経済活動がほぼゼロにまで制限されたロックダウン下で、組織犯罪が横行し特に貧しい人々が被害をこうむる事態に、イタリア司法は強い警鐘を鳴らしている。

倒産の不安を抱える企業はイタリア全体で4割近くに上る。パーティーや会食などに出張し料理を提供するケータリングを含む飲食サービス業また歓楽業では、5万社が破産し30万人が失業する可能性がある。

営業再開が全面解禁になったものの40%しかオープンしていないホテル業では、5月だけでも11万8千の季節雇用が失われた。

面白いことにロックダウン中にはおよそ63万人が禁煙に成功した。ただし、電子タバコの喫煙者は43万6千人増加。紙巻きタバコから電子タバコに乗り換えた者が多い、と見られている。

その一方で国家環境保護対策局の分析では、ロックダウンによって海やビーチから人影がなくなったことも手伝って、5400キロメートルに渡る海岸線がクリーンになり環境保全のランクが上がった。
  
またイタリア人のほぼ半数は、新型コロナもなんのその、 ことしも夏のバカンスを計画している。しかし実際に宿泊先などの施設や交通機関等の予約を入れているのは、たった5,5%に過ぎない。

最低でも一週間は滞在するのが当たり前のバカンスに、予約なしで出かける者はまずいない。従って「6月になっても予約を入れていない」とは、ほぼバカンスに行かない、と言っているに等しい。

片やバカンスに出ない、と決めた約半数の国民のうちの25%は、ごく素直に新型コロナが怖いからと答えた。また16%の人々は、コロナの影響で収入が減ってとてもバカンスどころではないという。

結局、コロナにもめげずにバカンスに行く、というのはバカンス好きのイタリア国民の願望、ということなのだろう。いつもの年よりも多くの国民が、7~8月のバカンス期に自宅に留まるのは間違いない。

すると、ロックダウン中ほどではないだろうが、人々はそこでもまた大食らいをしそうな雰囲気である。つまるところイタリア人が痩せるのは、ワクチン待ち、ということのようだ。



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Covid-19を斬る~イタリアの苦悩は尽きない



ベニスに戻ってきた観光客AFP400


欧州の多くの国、またEU加盟国のほとんどがロックダウンを解除し国境を開放した6月15日、イタリアのコロナ死亡者数は2月28日以来もっとも少ない26人を記録した。しかしその後は上昇をつづけ、6月18日には66人、19日には47人が亡くなった。

6月19日現在、イタリアの累計のコロナ死亡者は34561人。感染者の総数はアメリカ、ブラジル、ロシア、インド、イギリス、スペインに次いで世界第7位にまで後退したが、死者数はアメリカ、ブラジル、イギリスに続いて世界第4位。死亡率も高い。

死者数が多いのは、これまでに罹患した人々が亡くなり続けているからである。一日当たりの死亡者が919人にのぼった3月27日以降、日ごとの死者数は徐々に減ってきてはいるが、数字がゼロになるのはまだ先のことになりそうだ。

漸減傾向に変わりはないが、死亡者の数は24時間ごとに減ったり増えたりを繰り返してきた。一方、医療崩壊の象徴とも言われたICU(集中治療室)の患者数は、4月3日の4068人をピークに減り続け、6月19日現在は161人。患者数が前日より増えたのは6月18日のみである。

コロナとの闘いは全く終わっていないが、ICUに余裕ができ新規患者数も死亡者も減って、イタリアの医療の現場は平穏を取り戻しつつある。世界を震撼させた2月の感染爆発と医療崩壊への反省もあり、感染拡大の第2波、第3波への備えも怠りないように見える。

だがコロナで破壊されたイタリア経済の先行きは全くの暗闇だ。イタリアの過酷なロックダウンは-終盤には段階的に緩和されたものの-3ヶ月近くに及んだ。

その間の社会、文化、経済活動の破壊は凄まじいものだった。古くからの経済不振に加え、2010年の欧州ソブリン危機でイタリア経済はさらに落ち込んだ。EU圏内最大の借金約302兆円も抱えている。そこを新型コロナが襲った。

イタリアは一時世界最大のコロナ被害国となり経済が一層停滞した。イタリアでは新型コロナによる打撃によって企業の4割近くが倒産の危機に瀕しているとされる。中でも観光業や飲食業などの被害は甚大だ。

6月3日、イタリアはロックダウンをほぼ全面解除して国内外の移動を自由化。EU加盟国からの観光客やバカンス客も制限なしに受け入れている。ロックダウン期間中はほぼ動きがゼロだった観光業を促進するのが目的である。

イタリアのGDPの13%が観光業によっている。そして観光客の多くは外国人だ。コンテ政権はいま触れたように6月15日を待たずに国内外の観光客の移動を解禁した。が、外国人は言うまでもなくイタリア国内の動きも鈍い。

統計によると、イタリア人のほぼ半数がことしも夏のバカンスを計画している。しかし実際に宿泊先ほかの施設や移動・交通機関などの予約を入れているのは、たった5,5%に過ぎない。

最低でも一週間は滞在するのが当たり前のバカンスに、予約なしで出かける者はまずいない。従って「6月も残り少なくなった今も予約を入れていない」とは、ほぼバカンスに行かない、と言っているようなものだ。

またバカンスを考えている人々の92,3%はイタリア国内での遊興を希望していて、外国にまで足を伸ばす、と答えた者はわずか7,8%にとどまっている。

バカンスに出ない、と決めた約半数の国民のうちの25%は、ごく素直に新型コロナが怖いからと答えた。また16%の人々は、コロナの影響で収入が落ちて、とてもバカンスどころではないという。

イタリア国内における人々の心理的また経済的なあり方は、国によってバラつきはあるが生活水準がほぼ似通っている欧州全体のあり方、と言ってもそれほど乱暴な形容ではないだろう。

そうするとイタリアが国境を開いている国々の人口の半分が夏の旅を考えていて、そのうちの8%弱が外国を訪問しようとしている。そしてその8%弱は行き先別にさらに細かく分けられて、人数が少なくなる。

イタリア全体のホテルは、営業が全面解禁になった今もおよそ6割が営業をしていない。予約が入らないからである。また営業を再開したホテルも、今年の夏のビジネスはほぼ失われたと考えるところが多い。

それはバカンスに行きたい者のうちの5、5%しか予約を入れていない、という国内の統計や、恐らくそれと似たりよったりであろう、欧州全体の状況が如実に反映されたものではないか。

そしてそこに、もしも感染流行の第2波がやってくれば、観光産業においては夏のビジネスどころか、今年の営業収入は全てゼロ、ということにもなるだろう。イタリアの苦悩は少しも尽きるところがないのである。


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景気の気分~ロックダウン解除記念日によせて



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欧州では6月15日、新型コロナの感染拡大を抑えるために敷かれていた移動規制がほぼ全面解除され、EUおよび移動の自由を認めたシェンゲン協定域内での人の移動が自在になった。

あえて楽観的に表現すれば、2020年6月15日は「コロナからの欧州解放記念日」である。むろんコロナの脅威は全く消えていないし、季節が冬に向かえばウイルスはまた牙を剥くのだろう。

それどころか、6月15日を境に欧州全体の社会経済活動が活発になって、冬を待たずにヨーロッパ大陸が再びコロナ地獄に陥る可能性もある。ワクチンの開発まではあらゆる活動再開は暗中での模索だ。

経済破壊が進んだイタリアでは、コロナ恐怖に苛なまれつつも5月4日、建設業と製造業を再開。5月18日に商店や飲食店の営業許可。6月3日以降は全ての移動制限を解除して、EU加盟国からの観光客も受け入れている。

欧州ロックダウンほぼ全面解除直前の週末、正確に記せば6月13日の土曜日、ガルダ湖畔を訪ねた。前アルプスの山並みが迫るリゾート地には、驚くほど多くの地元民や観光客がいた。観光客のほとんどはドイツ人である。

湖畔の町には古くからドイツ人観光客が多い。そこに住み着いたドイツ人も少なくない。ゲーテの時代からドイツ人に愛された場所なのだ。ゲーテ自身もガルダ湖を訪ねて大湖を「海のようだ」と形容した。

町の賑わいには腑に落ちない暗さがあるように感じた。マスク姿の人々と感染予防対策を厳重に施している通りの店のたたずまいが、半ば開いているような半ば閉まっているような印象で、落ち着かない。

ひとことで言えば、働く人々も買い物や飲食を楽しむ人々も、そして明らかにドイツ人と分かる観光客らも、少し無理をして懸命に楽しさを「演出し演技」しているように見えたのだ。

僕はそこにイタリアの観光業の厳しい先行きを見たように思った。経済は人が作り出す生き物だ。その動静をあらわす景気は、気分の景色と書くように人の気分に大きく作用されて動く。

経済学者や専門家は、数字や論理や実体&金融のあり方や学識や机上理財論等々によって景気を語る。そして彼らは往々にしてそのあり方を理路整然と間違う。

専門バカは人の気持ちが分からない。だから人の気持ちの集合が動かす景気が、従って生きた経済が分からない、ということなのかもしれない。

リゾートの町のいわば「空疎な賑わい」は、人々の心がコロナの恐怖で固くなっているからだ。人々は長い外出規制と抑圧から解放されて意気揚々と町に繰り出した。

久しぶりの歓楽はまちがいなく彼らに喜びをもたらしている。だがそれは心の底までしみこむ十全の歓喜ではない。完全無欠の喜悦はコロナの終焉まではおそらく望めないのだ。

ウイルスが消滅することはないのだから、それはごく当たり前に言えばワクチンが開発され人々に行き渡る時、ということだろう。ならばそれは僕自身の心理ともぴたりと符合する。

僕はワクチンが登場するまでは、好きなワインバーやレストランなどに行く気がしない。その気分ではない。多くの人が僕と同じ気分でいるだろう。だから景気は簡単には回復しない。

僕はリゾートの町の通りを急ぎ足に歩いただけで、いつもなら立ち寄る美味いワインが飲める数店のバールやエノテカ(ワインバー)をスルーした。

対人距離を確保して設えられた店のテーブルが満席だったからではない。「気分的に」そこに腰を落ち着けるスペースが見えなかったのである。

イタリア政府は苛烈なロックダウンによって破壊された、特に観光業を救うために早め早めに規制を緩め、国内外からの観光客を呼び込もうと躍起になってきた、だが情勢は厳しい。

イタリアのホテルは営業再開が可能になってもおよそ60%がシャッターを降ろしたままである。営業を再開した飲食店にはガルダ湖畔のように人が集まるケースもなくはない。

だがそうした店で遊ぶことが好きな僕のような人間が、一度、二度三度、と足を運ぶことをためらうケースもまた多い。それらの人々の気分が蝟集して景気が動くことを思えば、やはり先行きは安泰とばかりは言えないようである。


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差別の感じ方&対処法



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また白人による有色人種差別のエピソードである。

人種差別への抗議デモがアメリカを席巻しているただ中で、そのことを気にするふうもなく差別行為をする。そういう人々がいる現実が差別の根深さとその撤廃の難しさを示唆している。下にURLを貼付する。
https://edition.cnn.com/2020/06/12/us/torrance-woman-park-video/index.html

今回は白人老婆がフィリピン系米人女性に投げつけた激しい侮蔑語の洪水。場所はアジア系の住民が40%近くを占める米カリフォルニア州の町、トーランス。日本人と日系人がきわめて多いことでも知られている。

老婆は数々の罵声の途中で若い女性に言う。「お前がアジアの何国人かは知らないが、とっとと自分の国へ帰れ!ここはお前の家じゃない!」
被害者の女性はCNNのインタビューに「差別問題は知っていたが、それがまさか自分に向けられるとは考えてもいなかった・・」と話した。

被害者女性の「まさか自分に向けられるとは」という思いは、町に多い日本人や日系人のものでもあるだろう。同時にそれは実は全ての日本人のものでもある。この稿では少しそこにこだわりたい。

老婆が繰り返しののしる「アジア人」から僕が先ず連想したのは、アジア人にはむろん日本人も含まれていて、従って老婆の罵声は一歩間違えば日本人にも向けられる性質(たち)の攻撃、ということである。

つまり日本人は世界の中では飽くまでも有色人種なのであり、人種差別はふとしたことで自分にも向けられかねない害悪、と自覚したほうがいい。日本人差別は過去には多く起こり、現在でも世界各地で散発している。要するに今この時に世界を揺るがせている人種差別問題は、事態の進展によっては日本人の問題にもなり得るのである。

人種差別問題では日本人に特有の現象がひんぱんに立ち現れる。つまり日本の内外には、自らがアジア人ではないと無意識に思い込み行動する日本人や、白人か準白人のつもりでいる日本人もきわめて多く、そのことが影響して日本人が人種差別問題に鈍感になる、ということだ。人種差別問題を対岸の火事と捉える日本人は少しも珍しくない。

ましてやそうした人々にとっては、人種差別問題にからんで「自らが差別される側に回る」事態が起こり得るとは思いもよらないことだろう。だが今このエントリーで取り上げているトーランスの町のエピソードを少し注意深く見てみれば、そうも言っていられなくなるのではないか。

加害者の白人女性は明らかに「アジア人は誰も彼も皆同じ」という意識で被害者女性に罵詈雑言を浴びせている。アジア人ではないと無意識に(あるいは意識的に)思っているある種の日本人は、白人女性の差別感情は自分には向けられていない、と主張するかもしれない。

アジア系住民が多いトーランスは、そのアジア人の中でも特に日本人の比率が高いことで知られている。加害者女性もそのことは十分知っているに違いない。それでも彼女はアジア人はアジアに帰れ、と罵倒するのである。繰り返しになるが彼女の言うアジア人にはむろん日本人も含まれている。われわれ日本人はそこのところを真剣に見つめなくてはならない。

自らがアジア人ではないと無意識に思い込み行動する日本人や、白人か準白人のつもりでいる日本人は特に、なによりも先ず自らがアジア人であるという当たり前の現実を冷厳に認めるべきだ。次に常にそれを意識してアジアの人々と対等に付き合い、その上で彼らと共に欧米を始めとする世界にも「対等」な付き合いを要求していくのだ。世界のそこかしこで今回と類似の問題が発覚する度に痛切にそう思う。

それなのに日本には、人種差別主義者のトランプ大統領の太鼓もちに徹する首相がいて、その太鼓もちの動静を喜ぶネトウヨ排外差別主義者や、表は黄色いのに中身が白くなった「アジア蔑視主義者のバナナ国民」が横行している。そんな状況では世界の人種差別問題の意義どころか、そのことに関心さえも抱かない国民が多いのではないか、と危ぶむ。

今世界で巻き起こっている人種差別問題、とくに「黒人差別」問題がよく理解できない人、あるいは実感できない人は、それをまず「アジアと日本」また「アジア人と自分」などの土俵に引き入れて考えてみたらどうだろうか。身近な国や国民との比較で考えれば、あるいは理解が深まるかもしれない。とは言うものの、自らをアジア人と感じない日本人にとってはそれもまた無意味なのだろうが。

日本国内に住んでいる日本人には人種差別問題が中々実感できないことは理解できる。またここイタリアのように親日の人々が多い国に住む者にとっても、居心地が良い分やはり人種差別問題を身近に引き寄せ実感することが難しくなる。むろんこの国にも日本人が嫌いな者はいる。だが人は自分を嫌う他人とはあまり付き合わない。そのため周囲にはますます日本好きのイタリア人ばかりが集うことになる。僕自身の場合もそうだ。

そうではあるものの同時に、故国の外にいる分だけ問題により敏感に反応するのもまた事実だ。今動乱の渦中にあるアメリカははもちろん、欧州でも英仏を筆頭に人種差別問題は頻発する。ここイタリアも例外ではない。多人種が共存する場所では残念ながら避けて通れない課題だ。

そこでは日本人は欧米の人々との友誼を堅持し深化させつつ、自らのアジア人としてのアイデンティティーも直視し続けなければならない。それがぶれることなくまた恐れることなく人種差別問題に対峙する秘訣だ。なぜなら他人種の人々は、表は黄色いのに中身が白いという得体の知れないバナナ的人間よりも、表と中身が一致した本物の、正直な人間を信頼し尊重するものだからである。



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NHKは「BLACK LIVES MATTER」を誤解していないか



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黒人への暴力や構造的差別に反対する抗議デモのニュースで、NHKが「BLACK LIVES MATTER」を「黒人の命“”重要だ」ではなく「黒人の命“”重要だ」と言ったり表記したりするのに強い違和感を抱いてきた。

「は」を「も」に言い換えただけだが、一音違いで差別への認識の濃淡が透けて見えるからだ。英語の「BLACK LIVES MATTER」は、「黒人の命“”重要だ」あるいは「黒人の命“”大切だ」(以下:重要だ、に統一)であって、断じて「黒人の命“”重要だ」ではない。

「黒人の命重要だ」と言えば、黒人の命は白人やアラブ人や日本人やアフリカ人や中国人など、つまり全ての人の命とまったく同じように重要だ、という意味になる。だが「黒人の命“”重要だ」と言えば、黒人の命だけを特別扱いする意味合いが生じる。

そしてそこでの特別扱いの意味はたとえば、「重要ではない黒人の命だが、実は重要なものなのだよ」などとなって、言わば教え諭すような上から目線のニュアンスが入り込む余地ができる。NHKの言い換えの真意もその辺にあるのではないか。

だがそこには、文脈に明白に示されているように、黒人の命だけを特別なものとして扱うことによる黒人差別が秘匿されている。そして、その言い換えは-ここが重要だが-差別するどころかむしろ差別に反対する、という意味でなされている。

黒人や移民との接触が少ない、特に日本人などを含む世界の多くの人々が犯しやすいのは、普段はほとんど気にかけたことさえない黒人差別問題を、ふいに議論のテーマとして目の前に突きつけられた時に、あわててそれを特別扱いしてしまうことだ。

黒人差別が悪いことであるのは誰もが理解している。だから何かが起きると正義感に駆られて抗議の声を上げる。それは欧米、特にアメリカを中心に繰り返し行われてきたことだ。ジョージ・フロイドさん殺害事件への抗議も同じ。むろんその意義や規模の大きさは過去の事例とは非常に違うが。

だが黒人差別問題を身近な事案として「実感できない」人々は、同じく正義感に駆られて抗議行動に出はするものの、往々にして問題の本質を理解しないか、あるいは誤解する。その結果、良かれと思ってしたことが逆の効果を生んだりする。

「黒人の命“は”重要だ」を「黒人の命“も”重要だ」と言い換えることもそうだ。それはあたかも黒人の命だけが重要だ、と主張するのにも似た言わば「善意の差別」だ。正義感は普通並に強いが、黒人差別を実際に自分の町内で見、聞き、実感したことがない現実がそうした齟齬の原因ではないか、と思う。

黒人の命は-敢えて言う必要もないが-白人やアラブ人や日本人やアフリカ人や中国人など、つまりあらゆる人の命とまったく同じように重要である。そのことを全ての人々が極く普通に、自然体で、理解し表明し行動するようになった時、はじめて黒人差別は終焉を迎える。それまでの道のりは長い。

今欧米で起きている抗議デモは、黒人差別を自らの町内で見、聞き、実感している人々の怒りのアクションである。黒人の命重要ではなく、黒人の命重要。なのにそれがそれとして当たり前に認識されないことへの抗議である。黒人の命は特別、と叫んでいるわけではないのだ。

そのことにやや鈍感でいる大部分の日本人の心情がくっきりと現れたのが、NHKの言い換えではないか。日本のメディアで僕が最も信頼するNHKだが、言い換え問題に通じる違和感を時々覚える。その最たるものの一つが、やはりニュースなどでNHKが日本以外のアジアの国々に言及する場合に、全く何のためらいもなく「それらのアジアの国々では~」というふうに表現することだ。

そういう言い方をする時、キャスターやアナウンサーには、ということはつまりNHKの報道の現場には、日本もそれらのアジアの国々と同じアジア国、と言う認識が欠落する。意識的にしろ無意識にしろ、日本はアジアの国ではない、と皆が催眠術にかかったように思い込む瞬間があるのだ。その時の人々の思い込みの中では日本はどこにあるかと言うと、アジアとは違うところの先進国域であり欧米グループの一員、である。

「黒人の命“”重要だ」を「黒人の命“”重要だ」と言い換える軽さには、それと似た無自覚と鈍感と多少の思い上がりと危うさとが併存している、と感じる。日本の良識の牙城-嫌&反NHKの人々が何を言おうがNHKは日本の良識を代表するメディアだーであるNHKがそうだということは、日本人の一般的な意識がほぼそうだということである。NHKは先ず国民があってこそ存在するのだから。

ところがネット論壇などではさらに進んで「Black Lives Matter」を「黒人の命“が”大切」とか「黒人の命“こそ”重要」などと表現する向きもあるらしい。個別の事件にからめてそう記述することが適切な場合もあるかもしれないが、アメリカに始まって欧州ほかにも伝播している今の反人種差別運動のコンセプトの中では、飽くまでも「黒人の命“”重要だ」とするべきだ。

なぜなら-敢えて繰り返すが-黒人の命は、全ての人々の命と寸分の違いもなく重要であり、かけがえのないものだ。そのコンセプトには例外は一切ない。言葉を換えれば、そこでは黒人の命は特別なものではないのである。それを敢えて命“が”、や命“こそ”、などと言い換えて特別扱いすることは、冒頭に触れたNHKの命“も”、と同様に差別を孕んだ表現になってしまう。

特別であり異常であるのは、当たり前に重要でありかけがえのないものである黒人の命が軽視され、差別され、やすやすと奪われさえする現実なのである。それは異常事態だから、普通の、当たり前の状態へと矯正されなければならない。「BLACK LIVES MATTER」運動が目指しているのはまさにそれであり、そのスローガンの正確な訳語は「黒人の命“は”重要だ」である。


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秘められた人種差別こそ真のパンデミック


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黒人のジョージ・フロイドさんが、むごい形で殺害されたことに触発された人種差別反対の抗議デモは、アメリカから欧州に伝播して拡大。特に英独仏等で大きなうねりとなっている。

フロイドさんがミネアポリスで殺害されたちょうど同じ日に、ニューヨークではある意味でフロイド事件よりも重大な意味を持つ出来事があった。

このBBC記事:https://www.bbc.com/news/world-us-canada-52759502
が報告する白人女性による人種差別事件だ。記事の中ほどにあるMelody Cooperさんのツイートがそれである。

事件はニューヨークのセントラルパークで起きた。

黒人のクリスチャン・クーパーさんは、「犬は常にリードにつないでおかなければならない」と明確にサインの出ている場所でバードウォッチングをしていた時、リードから放たれて駆け回る犬を見た。

野生生物が危険にさらされると恐れた彼は、飼い主らしい女性に「お嬢さん、このあたりでは犬をリードでつないでおかないといけませんよ。すぐそこにサインがあるでしょう」と伝えた。

しかし女性が無視(拒否)したので彼は動画で撮影を始めた。すると女性は逆上して「撮影をやめろ。でないと黒人が私の命を脅かしている、と通報する」とクーパーさんに噛み付く。

クーパーさんがどうぞ、なんとでも伝えてください、と言うと女性は犬の首輪をつかみつつ警察に電話。その際の彼女の口振りを忠実になぞると:

女性(マスクをはずし電話に):(セントラルパークの)散策場(ランブル)で黒人が私を撮影しながら私と犬を脅しています。
(正確には「African・Americanman:アフリカ系アメリカ人男性」と発音しているが、敢えてアフリカンを付けることで、黒人であることをもっとさらに強調しようとする意図が見える)

女性(嫌がる犬を無理やり押さえつつ、繰り返す):セントラルパークにいます。黒人が私を撮影しながら私自身と犬を脅しています。

女性(犬が騒ぎ一声吠えるのを押さえて不意に泣き声になって):よく聞こえません。セントラルパークの散策場にいます!男に脅迫されています!すぐに警官を送ってください!


規則違反を指摘されて、恐らく羞恥心も働いたであろう女性の心理も分からないではないが、彼女の嘘と演技と威嚇にはおどろく。

一歩間違えば女性の電話を受けた警察官が駆けつけ、うむを言わさずにクーパーさんを射殺していたかもしれない。

それは少しも大げさな指摘ではない。アメリカではそんなことが日常茶飯に起こっている。ジョージ・フロイドさんの殺害も同じ土壌で発生したのだ。

ちょっとしたことで表に出てしまった彼女の黒人(恐らく白人以外の全ての人種)蔑視の心は、残念ながら少なくない国の、特にアメリカの白人の中に秘められた現実の一つだと思う。

それは常に存在したが、トランプ大統領の出現で米国人のほぼ半数(主にトランプの岩盤支持層)が、そうした人々であることが暴露された。

そのことへの抗議デモが今各地で起こっているわけだが、トランプ大統領がいて且つ彼の岩盤支持層の割合が減らない現実は、差別の撤廃がいかに至難であるかを如実に物語っている。

だからと言って声を上げなければ、差別の解消どころか、そこへ向けての「きっかけ」さえ生まれない。その意味でいまアメリカから世界に広がりつつある黒人差別への抗議デモは重要である。



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こやじ外相のトッツァンボーヤな言動



太眉ディマイオ切り取り横長650pic


ギリシャは6月15日から観光客の受け入れを開始するが、新型コロナの被害が甚大なイタリアからの入国は拒否する、と発表した。

するとさっそく、イタリアのルイジ・ディマイオ外相が「イタリア人の入国を受け入れないのはけしからん」とギリシャに噛み付いた。

あわてたギリシャは、方針を変えてコロナ感染率の高いイタリアの北部4州すなわちロンバルディア、ピエモンテ、ヴェネト、エミリア・ロマーニャからの訪問客のみを規制するとした。

その内容は、6月15日から6月30日の間、4州からの入国者にウイルス検査を義務付け、陽性の場合は2週間、陰性の場合は1週間それぞれホテルなどに隔離する、というもの。

イタリアはこれにも猛反発。特にヴェネト州のルカ・ザイア知事はギリシャの統一性のない規制や解禁は理解不可能、として激しく抗議した。

ちなみにザイア知事は極右の同盟所属。新型コロナが猛威を振るっていた3月には「中国人は生きたネズミを食べる」と発言するなど、差別主義的な思想傾向があるようにも見える。

ギリシャはさらに妥協して、7月1日からはイタリアを含む全ての国からの入国を受け入れ、空港で無作為にウイルス検査だけを実施する、と改めた。

このエピソードにはイタリアの傲岸な一面があらわれているような気がしないでもない。

ギリシャとイタリアは、ギリシャ文明とローマ文明という共通の巨大な歴史足跡を持ち出すまでもなく、心理的にも地理的にもとても近い親和的な間柄だ。

現代では、ギリシャと比較して人口で約6倍、経済規模でおよそ9倍の大きさがあるイタリアから、観光やバカンスで多くの国民がギリシャへ移動し同国経済に貢献する、いう事情もある。両国の関係はイタリアが兄貴、ギリシャが弟の、いわば兄弟分というふうである。

ギリシャの観光業はGDPのほぼ21%を占め、国全体の就労者の4分の一を支えている。ギリシャはウイルスの早期封じ込めに成功した国の一つだが、観光業のほとんどを外国人客に頼っているため、新型コロナの世界的流行で大打撃を受けた。

それは世界中の多くの国と同じだ。が、ギリシャはGDPに占める割合が世界平均の2倍にも当たる巨額を観光業に依存している。ダメージはさらに深刻だ。切羽詰った状況にも押されて、ギリシャは早めに外国人観光客を受け入れることを決めた。

ギリシャが受け入れるのは、EU域内と世界の合わせて29のコロナ低感染国である。同じ欧州内でも感染者が多いスペイン、フランス、イギリスなどは除外される。イタリアだけが入国拒否のターゲットになっていたわけではないのだ。

それを知りつつイタリアがギリシャにねじ込んだのは、「親しい仲ゆえの甘え」という面もあるが、やはり兄貴分としての少しの優越意識もあるようである。それはイタリア国民というよりも、ディマイオ外相の個人的な思いこみの所産、という印象が強い。

ディマイオ外相は、コメディアンのベッペ・グリッロ氏が11年前に創設した五つ星運動の元党首である。30歳そこそこで政界にデビューし、31歳で同党のトップになった。彼はそれまで政治経験はおろかまともに就職したことさえない流浪の若者だった。

「とっつぁん坊や」とも「こやじ青年」ともつかない不思議な雰囲気を持つ彼は、連立政権の出だしのころこそ無難に第一党のリーダー役をこなしているように見えた。しかし時間経過とともに 政治のみならず人生の無経験ぶりももろに影響するのか、やることなすことに精彩を欠くようになった。

ことし2月、イタリアが突然世界最悪の新型コロナ地獄に陥ると、ディマイオ外相は迷い子を彷彿とさせる頼りない言動を繰り返して無力になり、ますます存在感をなくしていった。外相が所属する五つ星運動に近いジュゼッペ・コンテ首相が、鮮やかな手際でコロナ危機に対処する姿とは好対照だった。

だがそんな中でもディマイオ外相は、中国を賞賛することは忘れなかった。中国のマスク外交をありがたがり、武漢の封鎖策を賞賛し、イタリアのロックダウンに口を挟む中国を持ち上げ、イタリア語でいうLeccaculo(ケツナメ)外交を遺憾なく発揮して、習近平主席のケツを舐め続けた。

外相も率いるポピュリストの五つ星運動は、中国の一帯一路構想の信奉者である。イタリア政府は昨年3月、EUを筆頭に多くの国々が反対するのを無視して、一帯一路構想に協力する旨の覚書を中国との間に交わした。そこには政権与党の五つ星運動の、ゴリ押しともいえる猛烈な勧奨があった。

イタリア共和国の外交政策は、いつもしたたかでフルボ(知恵者)で且つ大人然としている。だから覚書自体にはそれほど重みはないと考えられる。イタリアはいざとなれば即座に覚書を破棄する腹積もりだ。だがそれを交わしたことによる中国との関係の深化は、きわめて重大な結果をもたらした。

覚書が交わされたとたんに、イタリアには中国人観光客が大量に押し寄せ、中国人ビジネスマンが急増し、それまでも既に国中に溢れていた中国人移民がさらに増えた。そんな折に新型コロナがイタリアを急襲し感染爆発が起きた。そこには中国人が関係していた、と見る専門家も多い。

しかし、イタリアにはそのことを指摘して中国を非難する風潮は今のところはない。むろん親中国の五つ星運動とその中心人物のディマイオ外相の場合はなおさらだ。中国を責めるどころか相変わらず賞賛するふうでさえある。

不思議なことに反中国の極右政党同盟やその他の右派また中道勢力などからの論難もない。中国の国民ではなく、中国共産党と習近平指導部は新型コロナの流行に責任があるなら厳しく指弾されるべき、と考えている僕はいささか解せない。だがそれが現実である。

感染予防策としてイタリアからの観光客の入国を拒否するギリシャに声高に抗議をするのは、ディマイオ外相の政治パフォーマンスだ。存在感が皆無の最近の外相の仕事は、EUをはじめとする国外の組織や国や仕組みや人物に、反対や反論また抗議の声を挙げてイタリアを、いや、五つ星運動をなめるな、と叫ぶことだけのようにさえ見える。ギリシャに噛み付いたのもその一環だ。

ディマイオ外相は、友好国ギリシャの今このときの暫定的な措置に文句を言う時間があるなら、一党独裁国家中国が新型コロナのパンデミックに関して責任があるのかどうか、また「一帯一路覚書」に象徴されるイタリアの中国への施策に誤謬、行き過ぎ、緩みなどがなかったかどうか、など、もっと重大な事案の考察にも時間を割いてほしいものである。



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コロナ収束祈願


サントリーニ青屋根教会海見下ろし650



一年でヨーロッパがもっとも輝く季節、6月が始まった。花々が咲き乱れ、木々の緑が増し、日差しが強く多くなって万物がめいっぱいに生を謳歌する。

梅雨でじめじめする日本の感覚では分かりづらいかもしれないが、6月のイタリアも1年でもっとも美しい季節だ。

だがここイタリアを含む欧州は未だに新型コロナ禍の真っ只中にある。それでも-アメリカは混乱し世界の感染状況も予断を許さないものの-つい昨日まで世界の感染爆心地だった欧州は落ち着きつつある。

イタリアの感染者と死者の数は減り続け、スペインは6月に入ると同時に一日の死者数ゼロを記録した。フランスまたそのほかの国々の環境も改善している。欧州で最も感染者と死者の数が多い英国でさえも、一部の学校が再開された。

イタリアは6月3日以降ロックダウンが解除され各州間の人の往来も自由になる。EU域内からの外国人の入国も解禁される。つまり義務化された感染予防策を別にすれば、ほぼ全てが新型コロナ以前の相貌に戻る。

いつもの6月は僕にとっては、ギリシャの海などでの休暇を計画する時期でもある。だがことしは新型コロナのせいで様相がまったく違う。バカンスどころではない気分だ。

それでも、もしかすると状態が良くなって、マスクなども気にせずに旅ができるようになるかもしれない、という希望的観測が胸に湧いたりもする。

そうすると思うのは、やはりギリシャの島々である。南イタリアも良いが、そこよりももっと南の、そして地中海の中でももっと東寄りの、できればエーゲ海などの島がいい。

地中海では、同じ緯度なら西よりも東のほうが気温が高く、空気もより乾いている。そのため光はまぶしく清涼感も高く、なにもかもが輝き白色に染まっているような心地よい錯覚をもたらす。

そのうえ6月はとても日が長く、7月や8月ほどには暑くなく、人出も少ない。人出が少ないから旅や移動や宿泊、また飲食や歓楽などの費用もより安い。いいことずくめなのである。

費用の安さという意味では9月~10月も同じだが、陽光の目覚ましさや万物の命の輝き、などという視点からはやはり夏の初めの6月にはかなわない。

ところがことしは大きな障害があると知った。ギリシャは6月15日から観光客やバカンス客を受け入れるが、新型コロナに襲われたイタリアからの入国は拒否すると発表したのだ。

新型コロナの感染が極めて深刻だったイタリアだから当然といえば当然だが、ちょっとおどろいた。ギリシャにとってイタリア人観光客は上得意だし親しみも強い。

背に腹は変えられないということだろうが、少しさびしい気がしないでもない。日本からの入国はOKなので日本人の僕はギリシャ訪問が可能だ。が、イタリア人の妻が渡航できない。

それでなくてもイタリアに長く住み、イタリアに感情移入することが多い僕は、ひとりでそこに渡ろうとは思わない。イタリアがことし2月、突然新型コロナ地獄に陥ってからはさらにその傾向が強まった。

新型コロナ危機に立ち向かうイタリア国民の強さと、真摯と、勇気と、誠実に僕は強く撃たれた。以来、僕のイタリアへの親愛感はさらに深まった。イタリア国籍は持たないが、僕は心情的イタリア人のつもりにさえなっている。

ギリシャは新型コロナの早期封じ込めに成功した国のひとつである、6月1日現在、感染者は2918人 死者は179人に留まっている。一方イタリアは感染者の累計が6月1日現在233197人、死亡者数33475人にものぼる。

イタリアの新型コロナ危機は先に触れたように落ち着きつつある。3月~4月の状況からは想像もできないほどの劇的改善、と言ってもいい。それでも6月1日の新規感染者数は200人、死者も60人と終息と呼ぶには程遠い情勢だ。

今このときの状相 ではギリシャの措置はきわめて妥当だ。ギリシャは最初の受け入れから2週間後の7月1日に、改めて入国受入れ国の見直しを行う予定。そこではおそらく十中八九の割合でイタリア人もギリシャ入国を認められることになるだろう。

そうなった暁には、僕は9月か10月のギリシャ旅を考えるかもしれない。6月には及ばないものの、ギリシャの9月はまだ夏真っ盛りだ。過去の経験では10月も同じ。7月と8月に比べればむしろ凌ぎやすい夏、というふうである。

いずれにしても7月と8月はイタリアで過ごすのが僕らの慣わし。よほどのことがなければ外国には出ない。イタリアに留まること自体が既にバカンス、という気分でさえいます。なにしろイタリアは国全体が世界有数のリゾート地なのだから。

ことし中にギリシャ旅に出ることがあるなら、それは間違いなく新型コロナが収束したか、それに近い状況になっていることを意味する。ぜひそうなっていてほしいものである。終息まではまだ時間がかかるだろうが。。

ところで、

イタリアのディマイオ外相が、イタリアからの観光客の入国を拒否する、とギリシャが発表したとたんに、ギリシャへの抗議と怒りの声を張り上げた。これには僕は冷笑苦笑するしかない。

そのことについては次のエントリーで語ろうと思う。



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