【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2021年04月

しびれるワクチン


入り口看板と女性650


4月27日、イタリアが3度目のロックダウンを緩和した翌日、待望のワクチン接種を受けた。

副反応は注射跡のほんの少しの痛み。毎年受けているインフルエンザワクチン接種後の症状にも似た、軽いだるさもあるような、ないような。

コロナの恐怖と不快とに比べたら“それがどうした、河童の屁だぜ”という程度の差し合いにすぎないけれど。

5月には早くも2回目の接種を受ける。それでコロナの全てが終わるわけではないが、ある程度の行動の自由は保障されるのではないか。

知らぬ間に年をくって、もはや無駄にできる時間はない、とコロナ自粛・閉鎖中にしみじみと気づいた。

仕事も旅も趣味も、特に旅と趣味にハジケてやる、とひとりひそかに決意中。

4月27日現在のイタリアのワクチン接種状況は:累計13142028 回。5475401人が2回接種済み 。

4月26日に始まったイタリアの規制緩和は早すぎるのではいか、と実は僕は少し気にしている。

ワクチン接種数は、たとえば日本に較べればはるかに多いが、イギリスやイスラエルまたアメリカなどに及ばない。

拙速な規制緩和は強烈なリバウンドを呼びかねない。いま大問題になっているインドがそうだ。

ほかにも枚挙にいとまがない。

ここイタリアでも起きた。

4月初めには感染防止の優等生だったサルデーニャ州が、規制緩和が始まった4月26日には、唯一のロックダウン継続地(レッドゾーン)と指定された。

3月終わりから4月初めにかけての復活祭期間に、安全地帯として規制をゆるめたとたんに、感染再拡大に見舞われたのである。

始まったばかりのイタリア全土のロックダウン解除も同じ結末になりかねない。

だが遅れがちだったワクチン接種計画が軌道に乗りつつあるのも事実。

だから高齢者の入り口あたりでウロウロしている僕にもすぐに順番が回ってきた。

リバウンドが起こらないことを祈りつつ、2回目の接種をわくわくと、且つじれったい思いで待つことにする。

ところで

世の中にはワクチンを喜ばない人々もいる。喜ばないどころか彼らはワクチンを敵視さえする。

理由は拙速な開発や効果を疑うという真っ当なものから、根拠のないデマや陰謀論に影響された思い込みまである。

後者の人々を科学の言葉で納得させるのはほとんど不可能に近い。

それらの人々のうち、陰謀説などにとらわれている勢力は、科学を無視して荒唐無稽な主張をするトランプ前大統領や、追随するQアノンなどをほう彿とさせないこともない。

ここイタリアにもそれに近い激しい活動をする人々がいる。「NoVax(ノー・ヴァクス)” 」だ。

NoVaxはイタリア政府のワクチン政策を乱し、結果最終目標である「集団免疫」の獲得を邪魔する可能性もある。きわめて深刻な課題だ。


そのことについてはまた報告しようと思う。





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型やぶりという“型”の光彩



白黒テレビ頭男女650
日本とイタリアのテレビスタッフがいっしょに仕事をすると、かならずと言っていいほど日本の側からおどろきの声があがります。
それはひとことで言ってしまうと、日本側の生まじめさとイタリア側のおおらかさがぶつかって生じるものです。
おたがいに初めて仕事をする者どうしだからこの場合には両者がおどろくはずなのに、びっくりしているのは日本人だけ。生まじめすぎるからです。
それは偏狭という迷い道に踏みこみかねません。
同時に何ごとも軽く流すイタリア人のおおらかさも、いい加減の一言で済まされることがよくあります。

こういうことがありました。
「どうしてフォーマットをつくらないのかねぇ・・・。こんな簡単なこともできないなんて、イタリア人はやっぱり本当にバカなのかなあ・・・」
その道35年のテレビの大ベテランアナウンサー西尾さんが、いらいらする気持ちをおさえてつぶやくように言いました。
西尾さんを含むぼくら7人のテレビの日本人クルーはその時、イタリアのプロサッカーの試合の模様を衛星生放送で日本に中継するために、ミラノの「サン・シーロ」スタジアムにいました。
ぼくらが中継しようとしていたのはインテルとミランの試合です。
この2チームは、そのころ“世界最強のプロサッカーリーグ“と折り紙がつけられていたイタリア「セリエA」の中でも、実力人気ともにトップを争っている強力軍団です。

大観衆サンシーロ650

ただでも好カードであるのに加えて、その日の試合は当時18チームがしのぎを削る「セリエA」の選手権のゆくえを、9割方決めてしまうと言われる大一番でした。
スタジアムにつめかけたファンは約8万5千人。定員をはるかにオーバーしているにもかかわらず、外には入場できないことを承知でまだまだ多数のサポーターが集まってきていました。
球場内では試合前だというのに轟音のような大歓声がしばしばわき起こって巨大スタジアムの上の冬空を揺り動かし、氷点下の気温が観衆の熱気でじりじりと上昇していくのでもあるかのような、異様な興奮があたりにみなぎっていました。

こういう国際的なスポーツのイベントを日本に生中継する場合には、現地の放送局に一任して映像をつくって(撮って)もらい、それに日本人アナウンサーの実況報告の声を乗せて日本に送るのが普通です。
それでなければ、何台ものカメラをはじめとするたくさんの機材やスタッフをこちらが自前で用意することになり、ただでも高い番組制作費がさらに高くなって、テレビ局はいくら金があっても足りません。
その日われわれはイタリアの公共放送局RAIに映像づくりを一任しました。つまりRAIが国内向けにつくる番組の映像をそのまま生で受け取って、それに西尾アナウンサーのこれまた生の声をかぶせて衛星中継で日本に送るのです。
言葉を変えれば、アナウンサーの実況報告の声以外はRAIの番組ということになります。ところがそのRAIからは、いつまでたっても番組の正式なフォーマットがわれわれのところに送られてきませんでした。
西尾さんはそのことにおどろき、やがていらいらして前述の発言をしたのです。

鳥かごにしがみつく男600

フォーマットとはテレビ番組を作るときに必要な構成表のことです。
たとえば1時間なら1時間の番組を細かく分けて、タイトルやコマーシャルやその他のさまざまなクレジットを、どこでどれだけの時間画面に流すかを指定した時間割表のようなものです。
正式なフォーマットを送ってくる代わりに、RAIは試合開始直前になって「口頭で」次のようにわれわれに言いました。
1)放送開始と同時に「イタリア公共放送局RAI」のシンボルマークとクレジット。
2)番組メインタイトルとサブタイトル。
3)両チームの選手名の紹介。
4)試合の実況。
ほとんど秒刻みに近い細かなフォーマットが、一人ひとりのスタッフに配られる日本方式など夢のまた夢でした。
あたふたするうちに放送開始。なぜかRAIが口頭で伝えた順序で番組はちゃんと進行して、試合開始のホイッスル。
2大チームが激突する試合は、黙っていても面白い、というぐらいのすばらしい内容で、2時間弱の放送時間はまたたく間に過ぎてしまいました。
西尾さんは、さすがにベテランらしくフォーマットなしでその2時間をしゃべりまくりました。

マスク

しかし、フォーマットという型をドあたまで取りはずされた不安と動揺は隠し切れず、彼のしゃべりはいつもよりも精彩を欠いてしまいました。
ところでこの時、西尾さんとまったく同じ条件下で、生き生きとした実に面白い実況報告をやってのけたもう1人のアナウンサーがいます。
ほかならぬRAIの実況アナウンサーです。
筆者はたまたま彼と顔見知りです。放送が終わった数日後にも会う機会があったので、番組フォーマットの話をしました。

彼はいみじくもこう言いました。
「詳細なフォーマット?冗談じゃないよ。そんなものに頼って実況放送をするのはバカか素人だ。ぼくはプロのアナウンサーだぜ。プロは一人ひとりが自分のフォーマットを持っているものだ。」
公平に見て彼と西尾さんはまったく同じレベルのプロ中のプロのアナウンサーです。年齢もほぼ似通っています。2人の違いはフォーマット、つまり型にこだわるかどうかの点だけです。
実はこれは単に2人のテレビのアナウンサーの違いというだけではなく、日本人とイタリア人の違いだと言い切ってもいいと思います。


confomismとは切り取り650


型が好きな日本人と型やぶりが型のイタリア人。

どちらから見ても一方はバカに見えます。この2者が理解し合うのはなかなか難しいことです。
型にこだわりすぎると型以外のものが見えなくなります。一方、型を踏まえた上で型を打ちやぶれば、型も型以外のものも見えてきます。
ならば型やぶりのイタリア人の方が日本人より器が大きいのかというと、断じてそういうことはありません。
なぜなら型を踏まえるどころか、本当は型の存在さえ知らないいい加減なイタリア人は、型にこだわりすぎる余り偏狭になってしまう日本人の数とほぼ同じ数だけ、この国に生きているに違いありませんから・・・







イタリア解放記念日に佇想するファシズム

25 APRILE風船と白黒古合成


今日、4月25日はイタリアの「解放記念日」である。

解放とはファシズムからの解放のこと。

ドイツとイタリアは第2次大戦中の1943年に仲たがいした。日独伊3国同盟はその時点で事実上崩壊し、独伊は敵同士になった。

イタリアではドイツに抵抗するレジスタンス運動が戦争初期からあったが、仲たがいをきかっけにそれはさらに燃え上がった。

イタリアは同時に、ドイツの傀儡政権である北部の「サロ共和国」と「南部王国」との間の激しい内戦にも陥った。

1945年4月、サロ共和国は崩壊。4月25日にはレジスタンスの拠点だったミラノも解放されて、イタリアはムッソリーニのファシズムとドイツのナチズムを放逐した。

つまりそれはイタリアの「終戦記念日」。

掃滅されたはずのイタリアのファシズムは、しかし、種として残った。そしてコロナパンデミックで呻吟する頃来、種が発芽した。

極右政党と規定されることが多い「同盟」と、ファシスト党の流れを組むまさしく極右政党の「イタリアの同胞」がそれである。

「同盟」はトランプ主義と欧州の極右ブームにも後押しされて勢力を拡大。2018年、極左ポピュリストの「五つ星運動」と組んでついに政権を掌握した。

コロナパンデミックの中で連立政権は二転三転した。だが「同盟」も「イタリアの同胞」も支持率は高く、パンデミック後の政権奪還をにらんで鼻息は荒い。

彼らは決して自らを極右とは呼ばない。中道右派、保守などと自称する。だがトランプ主義を信奉し、フランス極右の「国民連合」 と連携。欧州の他の極右勢力とも親しい。

特に「イタリアの同胞」は連立政権に参加していないこともあって、より過激な移民排斥や反EU策を標榜してそれが支持率のアップにつながったりする。

欧州もイタリアも、そして地中海を介して移民の大流入と対峙しなければならないイタリアでは特に、移民排斥をかかげる極右政党には支持が集まりやすい。

極右とはいえそれらの政治勢力は、ただちにかつてのファシストと同じ、と決めつけることはできない。彼らもファシトの悪は知っている。

だからこそ彼らは自身を極右と呼ぶことを避ける。極右はファシストに限りなく近いコンセプトだ。よって彼らはその呼称を避けるのである。

第2次大戦の阿鼻地獄に完全に無知ではない彼らが、かつてのファシストやナチスや軍国主義日本などと同じ破滅への道程に、おいそれとはまり込むとは思えない。

だが、それらの政治勢力を放っておくとやがて拡大成長して社会に強い影響を及ぼす。あまつさえ人々を次々に取り込んでさらに膨張する。

膨張するのは、新規の同調者が増えると同時に、それまで潜行していた彼らの同類の者がカミングアウトしていくからである。

トランプ大統領が誕生したことによって、それまで秘匿されていたアメリカの反動右翼勢力が一気に増えたように。

政治的奔流となった彼らの思想行動は急速に社会を押しつぶしていく。日独伊のかつての極右パワーがそうだったように。

そして奔流は世界の主流となってついには戦争へと突入する。そこに至るまでには、弾圧や暴力や破壊や混乱が跋扈するのはうまでもない。

したがって極右モメンタムは抑さえ込まれなければならない。激流となって制御不能になる前に、その芽が摘み取られるべきである。



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女王陛下の平凡な、だが只ならぬ孤独  

女王黒い塊のような800

エディンバラ公爵フィリップ殿下の死去に伴う英王室関係の報道を追いかけていて最も印象的だったのは、教会の席に黒い小さな塊となって丸まり、頭をたれている老女王の姿だった。

73間年も連れ添った伴侶をなくして悲しみにくれるエリザベス女王は、落ちぶれたとはいえ強大な権威に包まれ人々の畏怖を集める、大英帝国の君主ではなく、どこにでもいる孤独な老女に過ぎなかった。

加えて、大英帝国あるいはイギリス連邦の君主のイメージと、小さな黒い塊との間の途方もない落差が、彼女をさらに卑小に無力に見せて哀れを誘った。

丸まって黒くうずくまっている94歳の女王はおそらく、夫の棺を見つめながら自らの死についても思いを巡らしていたのではないか。

彼女が自らの死を予感しているという意味ではない。

生ある限り人は死を予感することはできない。生ある者は、生を目いっぱい生きることのみにかまけていて、死を忘れているからだ。それが生の本質である。

生きている人は死の「可能性」について思いを巡らすことができるだけだ。そして思いを巡らすところには死は決してやってこない。死はそれを忘れたころに突然にやって来るのである。

夫の死に立会いつつ自らの死の影も見つめている老いた女性は、ひ孫世代までいる大家族の中心的存在である。彼女の職業はたまたま「英国女王」という存在感の大きな重いものだ。

職業あるいは肩書きのイメージ的には、背筋を伸ばし傲然と座っていてもおかしくない人物が、背中を丸め小さく固まっている姿はいたいけだった。そこに世界の同情が集まったのは疑いがない。

夫の棺をやや下に見おろす教会の席で、コロナ感染予防の意味合いからひとり孤独に座っている女王の姿には、悲しみに加えて、自らの人生の終焉を直視している者の凄みも感じられて僕はひどく撃たれた。

英国王室の存在意義の一つは、それが観光の目玉だから、という正鵠を射た説がある。世界の注目を集め、実際に世界中から観光客を呼び込むほどの魅力を持つ英王室は、いわばイギリスのディズニーランドだ。

おとぎの国には女王を含めて多くの人気キャラクターがいて、そこで起こる出来事は世界のトピックになる。むろんメンバーの死も例外ではない。エディンバラ公フィリップ殿下の死がそうであるように。

最大のスターである女王は妻であり母であり祖母であり曾祖母である。彼女は4人の子供のうち3人が離婚する悲しみを経験し、元嫁のダイアナ妃の壮絶な死に目にも遭った。ごく最近では孫のハリー王子の妻、メーガン妃の王室批判にもさらされた。

英王室は明と暗の錯綜したさまざまな話題を提供して、イギリスのみならず世界の関心をひきつける。朗報やスキャンダルの主役はほとんどの場合若い王室メンバーとその周辺の人々だ。だが醜聞の骨を拾うのはほぼ決まって女王だ。

そして彼女はおおむね常にうまく責任を果たす。時には毎年末のクリスマス演説で一年の全ての不始末をチャラにしてしまう芸当も見せる。たとえば1992年の有名なAnnus horribilis(恐ろしい一年)演説がその典型だ。

92年には女王の住居ウインザー城の火事のほかに、次男のアンドルー王子が妻と別居。娘のアン王女が離婚。ダイアナ妃による夫チャールズ皇太子の不倫暴露本の出版。嫁のサラ・ファーガソンのトップレス写真流出。また年末にはチャールズ皇太子とダイアナ妃の別居も明らかになった。

女王はそれらの醜聞や不幸話を「Annus horribilis」、と知る人ぞ知るラテン語に乗せてエレガントに語り、それは一般に拡散して人々が全てを水に流す素地を作った。女王はそうやって見事に危機を乗り切った。

女王は政治言語や帝王学に基づく原理原則の所為に長けていて、先に触れたように沈黙にも近いわずかな言葉で語り、説明し、遠まわしに許しを請うなどして、危機を回避してきた。英王室の人気の秘密のひとつだ。

危機を脱する彼女の手法はいつも直截で且つ巧妙である。英王室が存続するのに必要な国民の支持を取り付け続けることができたのは、女王の卓越した政治手腕に拠るところが大きい。

女王の潔癖と誠実な人柄は―個人的な感想だが―明仁上皇を彷彿とさせる。女王と平成の明仁天皇は、それぞれが国民に慕われる「人格」を有することによって愛され、信頼され、結果うまく統治した。

両国の次代の統治者がそうなるかどうかは、彼らの「人格」とその顕現のたたずまい次第であるのはいうまでもない。

喪服と帽子とマスクで黒一色に身を固めて、小さな影のようにうずくまっているエリザベス女王の姿を見ながら、僕はとりとめもなく思いを巡らしたのだった。




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たかがオリンピック、されどワクチン~強気のイタリア&大風呂敷のEU?


中庭的ストーブ付き650

ことし3月中旬から事実上のロックダウン下にあったイタリアは、4月26日から規制を段階的に緩和していくことになった。

2020年、イタリアは世界初の全土ロックダウンという地獄を体験した後、年末年始と4月の復活祭にかけてもロックダウンをかけた。

だが、強い規制とワクチン接種の進展が効を奏しつつあり、感染拡大の鈍化のきざしが見え始めた。

状況はまだ全く予断を許さないが、ドラギ政権は規制緩和に踏み切った。

過酷な封鎖措置に国民の疲弊はピークに達している。特に打撃の大きかった観光業界や飲食業界では不満が爆発してデモが頻発。抗議の声が日ごとに高まっていた。

それらを受けての決断である。

イタリアはコロナの警戒レベルを高い順に赤、オレンジ、黄色、白と4段階に色分けして規制を掛けている。規制が最も弱い白の地域は今のところは存在しないに等しい。

今月初めの復活祭期には、島嶼州のサルデーニャが唯一白の安全地帯と規定された。ところが今やそこは赤の危険地帯に。人の移動が活発になるとウイルスも活性化する、という典型的な例である。

現在は全国が赤とオレンジで埋まっているが、4月26日からはほとんどの州が警戒レベルが“やや弱い”に当たる黄色に規定される。最高警戒域の赤の州はいったん無くなる予定。

黄色域では各州間の移動が自由になり、オレンジと赤の州にも許可証(グリーンパス)を所持すれば移動ができる。

許可証はワクチンを接種済みか、コロナに掛かったことのある人のそれは6ヶ月間有効。コロナ検査で陰性とされた人のものは48時間だけ有効となる。違反すると禁固刑を受ける可能性がある。

レストランは店の外の席のみ昼夜営業可能。店内での接客は6月1日からランチのみ営業可。映画館、劇場、博物館はオープン。屋外でのコンサートやショーも許可される。

屋外プールは黄色州では5月15日から営業可。屋内ジムは6月1日から。全国レベルのスポーツイベントは観客を数を制限して6月1日から開催してもよい

フィエラ(見本市)は6月15日から再開。コングレス(大会議、各種大会)またテーマパークなどは7月1日より開催許可。

高校生は70%が対面の授業を許される。残りはオンライン授業。これはバスや電車などの公共交通機関が密になり過ぎることを避ける措置。現在は25-50%が対面授業中。小中学校はこの規制対象ではない。

夜間外出禁止令は当面は従来どおり午後10時以降朝5時まで。これに関してフォルツァ・イタリアと同盟またイタリア・ヴィヴァが午後11時からを主張して対立。多党連立のドラギ内閣では初の造反込みの政策となった。

イタリアは4月30日までにEUの査定(2090億ユーロ)より多い2215億ユーロ(28兆円弱)分のコロナ復興資金を申請する。認められればEU内で最悪クラスの打撃を受けた経済のカンフルになると期待されている。

4月22日現在、イタリアのワクチン接種実績は約1150万回。2回接種された者は約480万人。秋までに国民の80%の接種を終えるのがドラギ政権の目標。

だがEUはもっと野心的な計画を持っている。7月までに全加盟国の成人人口の7割に接種を済ませるというのである。達成すればEU全域での集団免疫がほぼ獲得されることになる。

イタリアよりもEUの計画のほうが早期実現することを祈りたい。

そうはいうもののEUは一枚岩ではない。先日もいわば組織の双頭とも呼べるEU大統領とEU委員長が、トルコのエルドアン大統領に侮辱されながらも共闘できず、弱点をさらけ出した。

それでもEUはワクチン接種を加速させるために必死に動いている。無論イタリアもそれは同じ。EUにとってもイタリアにとっても、遠い日本で騒がれているオリンピックなど念頭にはない。

たかがオリンピック、されどワクチン。誰も大っぴらには口にしないが、欧州でも、親日国のイタリアにおいてさえも、そして世界でも、人々の気分は今のところはそれに尽きるのである。



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エルドアン“仁義なき戦い”大統領を無視したフォンデアライエン“穏健派”委員長の知性


蛮人大統領&デアライエンBest-800

先日、名実ともにEU(欧州連合)大統領と同格と見なされる欧州委員会のフォンデアライエン委員長が、トルコのエルドアン大統領にコケにされたエピソードには、そこに至るまでの多くの秘められた事象や因果関係が絡み合っている。

まず第一は、エルドアン大統領による根強い女性蔑視の心情。これはアラブ・アジア的後進性に原因があり、辞任した森喜郎東京五輪組織委員会長などにも通底する因習だ。エルドアン大統領の場合には、かてて加えてムスリム文化独特の男性優位思考が幾重にもからまっているから一筋縄でいかない。

トルコ側はミシェルEU大統領の席をエルドアン大統領の脇に用意したものの、EU大統領と同位のフォンデアライエン委員長には提供せず、彼女は状況に驚いて棒立ちになった。やがて男2人から遠い位置の、且つ格下を示唆するソファに腰を下ろして会談に臨んだ。この成り行きをトルコ側は、EUの意向に沿ったもの、と不可解な言い訳をした。

だがそれより数年前のそっくり同じ場面では、双方ともに男性だったEU大統領と委員長が、エルドアン大統領の両脇にそれぞれの椅子を提供されている。そのことから推しても、エルドアン大統領が、わざと女性委員長を見下して状況を演出したと見られている。何のために?むろん出る女性杭(くい)を打つために、だろう。

ジェンダーギャップや差別という観点で見れば、エルドアン大統領とムスリム女性蔑視文化の関係は、ナントカに刃物、というくらいに危険な組み合わせだ。修正や矯正は両者共に至難の業、と見えるからなおさらだ。

だが問題はトルコ側だけにあるのではない。委員長と共に行動していたミシェルEU大統領の立ち居も、きわめて無神経且つ稚拙だった。彼は立ち往生している同僚の女性委員長にはお構いなしに、エルドアン大統領に合わせて自分の椅子に腰を下ろしたのである。

男性はこういう場合、つまり女性が共にいる場合、公式、私的、外交、遊びや仕事を問わずまたどこでも、女性が先に着席するのを見届けてから座するものである。それは最近になって問題化した性差別やジェンダー平等などとは無関係の、欧米発祥のマナーだ。いわゆるレディーファーストの容儀だ。彼は欧州人でありながらそれさえしなかった。

非常識、という意味ではミシェルEU大統領は、エルドアン大統領に勝るとも劣らない。彼はエルドアン大統領に習ってさっさと椅子に腰を下ろし、なす術なく立ちつくしているフォンデアライエン委員長を、カバを連想させると言えばカバに失礼なほどの鈍重さで眺めるだけだった。

彼はそうする代わりに、状況の間違いを正すように毅然としてトルコ側に申し入れるべきだったのだ。

ミシェルEU大統領は、後になって自らの不手際を批判されたとき、重要な会談を控えた外交の場で、事を荒立てて機会を台無しにしたくなかったと弁明した。

それが言い逃れであるのは明らかだ。なぜなら外交の場だからこそ彼は、外交のプロトコルに則って、フォンデアライエン委員長用に自分の椅子と同じものを設置するよう、トルコ側に求めるべきだ。

もしも本当に事を荒立てたくなかったならば、欧米式のマナーに基づいて、彼自身が立ち上がって委員長に自分の椅子を勧めるべきだった。

その後で、トルコ側の対応を見定めつつ彼がソファに座るなり、あらたに自身の分の椅子を要求するなりすれば良かったのである。

見事なまでにドタマの中がお花畑のEU大統領は、外交どころか日常のありきたりの礼節さえわきまえていない男であることを、自ら暴露したのである。

言うまでもなくレディーファーストという欧米の慣習と、女性差別という世界共通の重要問題を混同してはならない。

だが、ミシェル大統領がもしも的確に行動していれば、トルコの男尊女卑思想の前で女性委員長が公に味わった屈辱を避けられただけではなく、彼の一連の動きがジェンダー平等を呼びかける強力なメッセージとなって、世界のメディアを賑わせた可能性もあっただけに残念だ。

EUは選挙の洗礼を受けない官僚機構が支配する体制を常に批判されてきた。そのことも引き金のひとつとなって、英国は先ごろEUから離脱した。

英国離脱とほぼ同時に起きたコロナパンデミックでは、ワクチン政策でEU枠外にいるまさにその英国に遅れを取って、連合自体は体制の限界をさらけ出した。

その最中に起きた、ミシェル大統領の失策は、EUそのものの不手際を象徴的に表しているようで先が思いやられる。

トルコ・アンカラでのエピソードは、非常に重い外交問題にまで発展しかねない出来事だった。だがフォンデアライエン委員長が「今後起きてはならないこと」と裏で釘を刺すだけに留めて、それ以上騒がなかったためにすぐに収束した。

委員長が金切り声を上げて、火に油を注がなかったのは幸いだった。個人的には彼女の冷静な対応を評価したいと思う。

ところで、このエピソードには実はイタリアのマリオ・ドラギ首相がからんでいる。

ドラギ首相は会談の直後、フォンデアライエン委員長をかばってエルドアン大統領を“独裁者”と呼んで厳しく批判した。普段は独仏、またつい最近までは英国を含めた3国の陰に隠れているイタリアだが、ドラギ首相は異例の対応をした。

そこには長年ECB(欧州中央銀行)の総裁として高い評価を受けてきたドラギ首相の責任感と、ほんの少しの驕りがあったと思う。

政治の国際舞台では、日本同様にほとんど何の影響力もないイタリアの宰相でありながら、ドラギ首相は過去の国際的な名声を頼りに、英独仏などに先駆けてエルドアン大統領を指弾したのだ。

しかし他の欧州首脳は誰一人として彼に援護射撃をしなかった。当事者のフォンデアライエン委員長も沈黙を守った。ドラギ首相と委員長は、むろん私的には連絡を取り合っただろうが、委員長は既述のごとく表向きは口を閉ざして、事態への厳正な対応をEU機関に非公式に要請しただけだった。

ところが「事件」から10日ほどが経って、エルドアン大統領が、ドラギ首相を「無礼者」と罵倒する声明を出した。僕はトルコでの一件を、フォンンデアラオエン委員長にならって静かに見過ごすつもりだったが、エルドアン大統領の突然の反撃に刺激されて、こうして書いておくことにした。

エルドアン大統領がなぜ遅ればせに行動したのか、真意は分からない。その一方でトルコのチャブシオール外相は、「ドラギ首相は独裁者の心配をするなら自国のムッソリーニを思い出すべき」と早くから反論していた。

今回のエルドアン大統領の声明に対しては、イタリア極右政党のジョルジャ・メローニ党首が反発し、ドラギ首相を強く支持すると表明した。彼女はエルドアン政権の横暴とイスラム過激主義を糾弾。トルコがEUに加盟することにあらためて断固反対する、と息巻いている。

トルコの首都アンカラで起きたエピソードには、繰り返しになるが、重大な歴史及び文化的要素や齟齬や思惑や細部が幾重にも絡み合っている。だがそこで生まれた逸話は、エルドアン大統領とミシェルEU大統領によるお粗末な外交の結果なので、おそらくこれ以上に重大視しないほうが無難だ。

騒げば騒ぐほど無益な緊張を誘発するのみで、エルドアン大統領が反省し、自説を変える可能性はほぼゼロだと思うからである。

 

 

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出前で食べた復活祭のハイライトごち



出前受け取り800


前記事「殺すことしかできない私からの輿子田女子への手紙」では触れなかったが、ことしの復活祭(4月5日)の定番Capretto(子ヤギ)料理は、レストランからの出前だった。

復活祭は毎年日付が変わる移動祝日。2020年の復活祭は4月12日だった。その頃イタリアは世界最悪のコロナ地獄の真っただ中にいた。

当時は息をひそめるようにして日々を過ごしていた。Capretto(子ヤギ)料理はほぼ毎年親戚や友人に招かれて食べる。

だが厳しいロックダウン中で人の往来は禁止。招待もない。

スーパーなどの食材店は営業していたので、素材を買って自宅で料理することは可能だった。だがそんな気分にはなれなかった。

羊肉&ヤギ料理は難しい。何度か試みたが未だに満足できる仕上がりにならない。だからこそそれをうまく扱う親戚宅や友人宅での食事を楽しむ。

家で調理をする気が起きなかったのはそれだけではない。前例のないコロナ恐慌の中では、敢えて珍味を求める食欲も皆無だった。

そうやって僕は昨年、ほぼ30年ぶりにCapretto(子ヤギ)料理を食べない復活祭を過ごしたのだった。

およそ1年後の、昨今のイタリアは、相変わらず新型コロナに苦しめられている。ワクチン接種が始まって希望は見えているが、供給量が不足して普及が思うように進まない。

そのために人の動きが激しくなる復活祭期間中の4月3日から5日までは、昨年と同じように全土にロックダウンが敷かれると早くから決まっていた。

そこでわが家でも、前もって復活祭の名物料理をレストランに出前してもらおうと決めた。それもまた生まれてはじめての体験だった。


caprettoポレンタ出前アルミ箱800


イタリアでは全土ロックダウンが始まった昨年から出前ビジネスが繁盛している。ロックダウンが解除されてもパンデミックは続き、飲食業は閉鎖や営業短縮を強いられている。

そんな中で出前だけはほぼ常に営業を許された。だから仕出しビジネスが拡大した。先日は出前の配達員を冷遇しているとして、ミラノの飲食業組合が告発された。

配達員はアフリカや中東からの移民が多い。飲食業界は移民の弱みにつけこんで彼らを搾取している、と批判されたのである。

出前によってレストランは潤い失業者が職を得る利点が生まれる。同時にほぼ決まって、欲に目がくらむ者が生み出す不都合も発生する。

アルバイトの大学生がわが家に届けてくれた出前は、梱包も中身も予想以上にちゃんとしたものだった。

肉のオーブン焼きには、北イタリアらしく、トウモロコシをすりつぶしたポレンタが添えられていた。

味は上の中というところ。いや、オーブン焼きであることを考慮に入れれば、最高級の部類の味と言ってもよかった。

僕の独断と偏見では、ヤギまた羊肉料理は煮込みにしたほうがまろやかで深い味になる。

だがイタリア語でumido(湿り気=煮込み)と通称されるヤギ及び羊肉の「煮物」は、わが家のあたりではあまり見られない。

炭火焼きやオーブン焼きがほとんどだ。

焼き物(=煮物ではない)、というハンディキャップを抱えてのヤギ料理としては、非常に得点が高いものだった。



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テレビ屋が書く雑文の意味  


蓮上のかわいいカエル700


僕はテレビドキュメンタリーを主に作るテレビ屋だが、できれば文章屋でもありたいと願っている。昔から書くことが好きで新聞や雑誌などにも多くの雑文を書いてきた。それは全て原稿料をいただいて書く有償の仕事だった。

原稿料の出ない文芸誌の小説も書いた。原稿料どころか、掲載の見込みのない時でも、テレビ屋の仕事の合間を縫ってはせっせと書いた。

小説で原稿料をもらったのは、後にも先にもロンドンの学生時代に書いた「小説新潮」の短編のみである。新人賞への応募資格を得るための、懸賞付きの月間新人賞小説、というものだった。

要するに新人賞に応募できる力があるかどうかを問うものである。それに佳作当選した。佳作ながらも懸賞という名で、原稿料がロンドンまできちんと送られてきた。

今はせっせとブログ記事を書いている。公の論壇では一本何十円単位という、スズメの涙とさえ呼べないシンボリックな額ながら、一応原稿料が出る。

個人ブログはむろん無償である。それでも書くのは、書く題材が多く且つ書くことが苦にならないから、ということに尽きる。が、あえて言い足せば「自由だから」というのもある。

最近は僕の書くブログが、情報や思考や指針として誰かの役に立つなら書き続けよう、という思いも抱くようになった。無償で学べるというのはきわめて重要なことだ。

おこがましいが、僕のブログが誰かの学びになるなら、あるいは学びの手助けになるなら、無償のまま書き続ける意義がある、と考えている。

新聞雑誌などの紙媒体に書く場合には、必ず編集者や校正者がいる。WEBでは彼らの役割も自分で担う。だから誤字脱字に始まる多くの間違いから逃れられない。

その一方で何をどう書いても文句を言われない。字数もほぼ思いのままだ。

編集者や校正者がいる中で書いた過去の文章は、あまり僕の手元には残っていない。それはテレビ番組の場合も同じだ。幾つかの長尺ドキュメンタリーを除いて、僕は作品のコピーを取っていない。

多くの報道番組や短編は作った先から忘れる、というふうだった。

テレビ番組は「consumer goods =消費財あるいは日用品」というのが僕の認識である。映画とは違って、テレビ番組は連日連夜休みなく放映される。日常の生活必需品また消耗品と同じように次々に消費されて消えていくのだ。

制作者の側もひっきりなしに取材をし、構成を立て、番組を作っていく。その形はやはり消費財。消耗品である。だからそれをいちいち記録して置くという気にはなれない。

日々作品を生み出していくのが、僕の仕事であり僕の喜びでもある。数年あるいは十数年に一回、などという割合で作品を作る映画監督とは違うのだ。

日々作品を生み出すから常に「今」を生き「今」と付き合っていかなければならない。それが僕のささやかな自恃の源である。もっともここ最近はテレビの仕事は減らし続けている。

あらゆるエンターテイメントまた芸術作品は、作り手の事情に関する限り「作った者勝ち」である。作品のアイデアや企画や計画やそれらを語る「おしゃべり」は、「おしゃべり」の内容が実現されない限り無意味だ。

番組がなんであれ、制作者にとっては、アイデアや企画を作品に仕上げること自体が、既に勝利なのである。その出来具合については視聴者が判断するのみだ。

新聞や雑誌などに次々に掲載されて消えていく、雑文や記事もそれと同じだと僕は考えている。だからそれらを記録していないし多くの場合コピーを手元に置いてもいない。

それが正しかったかどうか、と問われれば少し疑念もないではないけれど。

そんな中で新聞のコラムだけは、1本1本がごく短い文章だったにもかかわらず、多くをコピーして残してきた。それが連載の形だったからである。

1本1本が読み切りの文章だが、一定の間隔で長い時間書き続けたため、あたかも長尺のドキュメンタリーのような気がしたのだった。長尺だから手元に残した、というふうである。

新聞なのでコラムの編集者は新聞記者である。プロの編集者ではないから当然彼らは編集者の自覚がなく、よく自分の趣味趣向で文章を直したりする。本をあまり読まない者に特にその傾向が強い。

本を読まない者は、文章をあまり知らないと見えるのに、新聞記事の要領という名目で自身の嗜好にひきずられて「文章」に手を入れる。本を読まない者の嗜好だからそれは主観的で、直しも改善どころか意味不明になり稚拙だ。

そのことでは結構腹を腹を立てさせられることもあった。

むろんネガティブなことばかりではなく、新聞的な簡潔と具体性を要求されることで省筆に意識が集中して、より明快で短い文章を書く鍛錬にはなったような気はする。

またコラムとはいうものの、客観性を重視するというスタンスは、テレビ・ドキュメンタリーや報道番組のそれとほぼ同じで親しみが持てる

ロナ危機に翻弄されたここ1年余りは、ブログ記事も新聞コラムもテーマがコロナ一色になった。

それらを見比べ読み比べていくうちに、同じテーマでも新聞コラムの文章はやはり簡潔で読みやすいと気づいた。同時に少しは完成したそれらの文章もブログに転載する意味があると感じた。

既に2、3掲載したが今後も漸次転載していこうか、などと考えたりもしている。

またブログに掲載した記事の中から時節に左右されない文章も選んで、加筆省筆の上再掲載することも考えている。

その理由は、WEB上に文章を書き始めてほぼ10年が経過したことを機に、過去の記事を見直したいと考えるからである。

右も左もわからないままブログを始めて書き続けた文章の中には、自分の考えや生き方の核になるものが多く詰め込まれている。

「今の時節」を書くかたわらにそれらを選び出して、新しく僕の読者になってくださる方々に提供できないか、と考えたりしているのである。



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殺すことしかできない私からの輿子田女子への手紙

中ヨリ&UP合成800


輿子田さん


ことし、2021年4月4日の復活祭でも、子ヤギの肉を食べる罪を犯しました。あなたに責められても仕方がないと思います。

ただし私があなたの批判を甘んじて受けるのは、あなたが考えるような意味ではありません。私は子ヤギという愛くるしい動物の肉を食らった自分を悪とは考えません。

その行為によって、感じやすいやさしい心を持ったあなたの情意を傷つけたことを、心苦しく思うだけです。

私たちが食べる肉とは動物の死骸のことです。野菜とは植物の死体です。果物は植物の体の一部を切断したいわば肉片のようなものです。

私たち人間はあらゆる生物を殺して、それを食べて生きています。菜食主義者のあなたは動物を殺してはいませんが、植物は殺しています。

動物は赤い熱い血を持ち、動き、殺されまいとして逃げ、殺される瞬間には悲痛な泣き声をあげます。だから私たちは彼らを殺すことが怖い。

植物は血液を持たず、動かず、殺されても泣かず、私たちのなすがままにされて黙って運命を受け入れています。

彼らは傷つけられても殺されても痛みを覚えない。なぜなら血も流れず、逃げもせず、悲鳴も上げないから。だから私たちは彼らを殺しても、殺したという実感がない。

でも、私たちのその思い込みは本当に正しいのでしょうか?

私たち動物も植物も、炭素を主体にした化合物 、つまり有機化合物と水を基礎にして存在する生命形態です。

動物と植物の命の根源や発祥は共通なのです。だから私たち動物は植物と同じ「生物」と呼ばれ、そう規定されます。

同時に動物と植物の間には、前述の違いを含む多くの見た目と機能の違いがあります。私たちは、動物が持つ痛みや苦しみや恐怖への感覚が植物にはないと考えています。

しかし、その証拠はありません。私たちは、植物が私たちに知覚できる形での痛みや苦しみや恐怖の表出をしないので、今のところはそれは存在しない、と勝手に思い込んでいるだけです。

だがもしかすると、植物も私たちが知らない血を流し(樹液が彼らの血にあたるのかもしれません)、私たちが気づかない痛みの表現を持ち、私たちが知覚できない悲鳴を上げているのかもしれません。

私たち人間は膨大な事物や事案についてよくわかっていません。人間は知恵も知識もありますが、同時に知恵にも知識にも限界があります。

そしてその限界、あるいは無知の領域は、私たちが知るほどに広がっていきます。つまり私たちの「知の輪」が広がるごとに円周まわりの未知の領域も広がります。

知るとは言葉を替えれば、無知の世界の拡大でもあるのです。

そんな小さな私たちは、決して傲慢になってはならない。植物には動物にある感覚はない、と断定してはならない。私たちは無知ゆえに彼らの感覚が理解できないだけかもしれないのですから。

そのことが今後、私たちの知の進化によって解明できても、しかし、私たちは私たち以外の生命を殺すことを止めることはできません。

なぜなら私たち人間は、自らの体内で生きる糧を生み出す植物とは違い、私たち以外の生物を殺して食べることでしか生命を維持できません。

人が生きるとは殺すことなのです。

だから私は子ヤギの肉を食べることを悪とは考えません。強いて言うならばそれは殺すことしかできない「人間の業」です。子ヤギを食らうのも野菜サラダを食べるのも同じ業なのです。

それでも私は子ヤギを憐れむあなたの優しい心を責めたりはしません。その優しさは、私たち人間の持つ残虐性を思い起こさせる、大切な心の装置なのですから。





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1600歳のヴェネツィアにまだ皺はない


真赤口紅原版650

いわれ

ベニス発祥の正確な日時は分からない。

だが1514年に火事について書かれた文献に、ベニスの最初の建物である「サン・ジャコモ・リアルト教会が紀元421年3月25日に建設された」と記されている。

以来、その日をベニスの始まりとする習わしができた。

街はことしの3月25日を皮切りに来年に向けてさまざまの記念行事を計画している。

コロナで失われた観光産業を盛り返す意味もあり、ことしから2022年いっぱいにかけて235件もの催し物が用意されている。

芸術品

ベニスは何度訪れても僕を魅了する。

そこは街の全体が巨大な芸術作品と形容しても良い場所である。

その意味では、街じゅうが博物館のようなものだと言われる、ローマやフィレンツェよりもはるかに魅力的な街だ。

なぜなら博物館は芸術作品を集めて陳列する重要な場所ではあるが、博物館そのものは芸術作品ではない。

博物館、つまり街の全体も芸術作品であるベニスとは一線を画すのである。

 ベニスは周知のように、何もない海中に人間が杭を打ちこみ石を積み上げて作った街である。 

そこには基本的に道路は存在しない。その代わりに運河や水路や航路が街じゅうに張り巡らされて、大小四百を越える石橋が架かっている。

水の都とは、また橋の都のことでもあるのだ。

ベニスには自動車は一台も存在せず、ゴンドラや水上バスやボートや船が人々の交通手段となる。

そこは車社会が出現する以前の都市の静寂と、人々の生活のリズムを追体験できる、世界で唯一の都会でもある。

道路の、いや、水路の両脇に浮かぶように建ち並んでいる建物群は、ベニス様式の洗練された古い建築物ばかり。

 一つ一つの建物は、隅々にまで美と緊張が塗りこめられて街の全景を引き立て、それはひるがえって個別の建築物の美を高揚する、という稀有(けう)な街並みである。 

 唯一無二

しかしこう書いてきても、ベニス独特の美しさと雰囲気はおそらく読む人には伝わらない。

 ローマならたとえばロンドンやプラハに比較して、人は何かを語ることができる。またフィレンツェならパリや京都に、あるいはミラノなら東京やニューヨークに比較して、人はやはり何かを語ることができる。

ベニスはなにものにも比較することができない、世界で唯一無二の都会である。

唯一無二の場所を知るには、人はそこに足を運ぶしか方法がない。

足を運べば、人は誰でもすぐに僕の拙(つたな)い文章などではとうてい表現し切れないベニスの美しさを知る。

ナポリを見てから死ね、と人は良く言う。

しかし、ナポリを見ることなく死んでもそれほど悔やむことはない。

ナポリはそこが西洋の街並みを持つ都市であることを別にすれば、雰囲気や景観や人々の心意気といったものが、東洋に限って言えば大阪とか香港などに似ている。
つまり、ナポリもまた世界のどこかの街と比較して語ることのできる場所なのである。

見るに越したことはないが、見なくても既に何かが分かる。

ベニスはそうはいかない。

ベニスを見ることなく死ぬのは、世界がこれほど狭くなった今を生きている人間としては、いかにも淋しい。

変わっても変わらない

ベニスは近年さま変わりした。運河を巨大客船が行き交い中国人が溢れ高潮被害も多くなった。

だが僕のベニスへの憧れは少しも変わらない。

2017年にはローマが2770歳になって祝福された。しかし、僕は敢えてそこを訪ねることはしなかった。

1600歳になったベニスには、ワクチン接種を受けても受けなくても、近いうちに必ず会いに行こうと思う。

もっともたとえ節目の年ではなくても、コロナが落ち着き次第そろそろ一度訪ねよう、とは思っていたけれど。。




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五つ星運動と中国のマインドコントロール状態から生還したジャンカルロC

習のユニフォーム渡すディマイオ

熱烈な「五つ星運動」支持者のジャンカルロCは、新型コロナがイタリアを打ちのめした昨年の春以降、過激なほどの中国批判者になった。

「五つ星運動」は極左ポピュリストとも呼ばれ中国と極めて親しい。2018年の総選挙で議会第1党になり、極右政党「同盟」と手を組んで連立政権を樹立した。

ジャンカルロC「は支持政党の五つ星運動」を介して熱心な中国愛好者になった。だが中国を毛嫌いするようになった今は「五つ星運動」にも懐疑的だ。

それでもジャンカルロCは「五つ星運動」にはまだ未練があるようだ。南イタリア出身の彼は、「五つ星運動」の旗印である最低所得保障(ベーシックインカム)策を熱く支持している。

「五つ星運動」は貧困層に月額約10万円を支給するその政策をゴリ押ししてついに実現させた。ジャンカルロCは、彼の故郷の親族や友人知己の一部が支給金に助けられている、と信じている。

だがその政策は貧困層という水をザルで掬うようなものだ。南イタリアを拠点にする幾つもの犯罪組織が、制度を悪用して資金を盗み肥え太っていることが分かっている。

貧しい人々の大半は組織犯罪に利用されるだけで、援助金は彼らに行き渡らない。それでもバラマキ策を推進する「五つ星運動」への南部の支持は強い。

援助金を掠め取って巨大化する犯罪組織が、民衆を脅したりすかしたり心身双方をいわば殴打するなどして票をまとめ、自在に操作すると考えられるからだ。

ジャンカルロCと僕は最近次のような会話をした。

ジャン:中国に核爆弾を落としてやりたい。

ジャンカルロCは、友人ふたりが交わす無責任な会話の空気に気を許して、口先ばかりながら中国に対してしきりに物騒なことを言う。

僕は答える。

A:口先だけは相変わらず勇ましいね。だがイタリアも日本も核兵器は持たないよ。中国をやっつけるには核兵器を持つ米英仏と協調してこらしめるしかない。だが君の好きな「五つ星運動」は反EUで英仏が大嫌い。英がEUから去っても嫌イギリス感情は残っている。トランプが消えたので彼らはアメリカも好きではなくなった。どうするんだい?

ジャン:どうもしない。ただ習近平も中国人も憎い。地上からいなくなってほしい。

A:なんだい。つい最近まで僕が中国政府を批判したら傷ついていた男が。

ジャン:あの頃はコロナはなかった。中国がコロナを世界に広めた。中でもイタリアは最悪の被害を受けた。中国も中国人もクソくらえだ。

A:別に中国人をかばうつもりはないが、ウイルスは中国以外の場所でも生まれる。新型コロナもそうかもしれない。

ジャン:だが奴らはウイルスとその感染を隠蔽した。なんでも隠していつでも平気で嘘をつくのが中国人だ。

A:中国人を一般化するのはどうかな。それを言うなら「習近平政権はなんでも隠蔽し平気で嘘をつく」だろう。それなら僕もそう思う。

ジャンカルロCは馬鹿ではない。かつて法律を学び弁護士を目指した。が、挫折。世界を放浪した後に家業のワイン造りを継承したものの、ジプシーだったという先祖のひとりから受け継いだらしい放浪願望の血が騒ぎ、家業を捨てた。再び漂泊して北イタリアに定住。実家の情けも借りて少しのワイン販売で糊口をしのいでいる。その間にNPOを立ち上げて人助けにもまい進しているという男だ。

A:なんにしても君が中国の欺瞞と危険に気づいてくたことはうれしいよ。チベットやウイグル弾圧、台湾脅しと香港抑圧。わが日本の尖閣諸島も盗もうと画策している国だ。

ジャン:尖閣は知らんが香港はひどい。台湾への横槍も聞いている。

A:君らイタリア人はチベットやウイグルには関心が高いが、香港、台湾のことになると、遠隔地の騒ぎと捉えてモグラみたいに無知になる。尖閣のことを知らないとはけしからん。

ジャン:でも中国が南シナ海でやりたい放題をしているのは知っている。尖閣諸島も南シナ海の一部なんだろう?

A:少し違うが、まあ、遠いイタリアから見た場合はそういう捉え方も許されるだろう。習近平一味は相も変わらず傍若無人な連中だよ。ミャンマー軍の信じられないような悪行も、つまりは中国のせいだと見られている。中国の後ろだてがあるから、弱体で卑劣なミャンマーの軍人が、自国民を大量に殺戮できる。

ジャン:やっぱりそうなのか。

A:北朝鮮の狂犬・金正恩総書記がいつも牙を剥いているのも中国が背後にいるからだ。その中国をイタリアは、というよりも君の好きな「五つ星運動」は、賞賛し持ち上げ庇っている。イタリア政府は覇権主義国家と握手して「一帯一路」構想を支持する旨の覚書まで交わした。あれは全て「五つ星運動」のゴリ押しによって実現した。

ジャン:わかっているよ。だから僕は「五つ星運動」への支持を止めた。覚書は間違いだった。

A:だが「五つ星運動」は相変わらず中国を慕っている。

ジャン:そんことはない。いつまでも中国にしがみついているのは、「五つ星運動」の中でも外相のディマイオくらいのものじゃないかな。

A:どうだか。ま、とにかく君がアンチ中国になったのはいいことだ。米中アラスカ会談で「アメリカにはアメリカの民主主義があり中国には中国の民主主義がある」とのたまうような欺瞞だらけの、厚顔で未開で野蛮な全体主義国だ。君が「五つ星運動」と中国のマインドコントロール並みの縛りから抜け出したのはいいことだ。

中国への不信感と怒りはイタリアでもじわじわと増えている雰囲気だ。だが国際社会は、中国が香港でやりたい放題をやっても、ウイグルで民衆を弾圧しても、ミャンマーの虐殺部隊をそそのかしていても、ほとんど為す術がないように見える。欧州はウイグル問題に関連して中国に制裁を科しアメリカもいろいろと動く素振りではいる。だがそのどれもが迅速な効果をあらわすものではなく、時間が経つごとに中国の横暴はエスカレートして被害者が増えるばかりに見える。

中国に武力行使ができない限り、国際社会は一致団結して彼の国の蛮行に対していくしかない。この際は日本も覚悟を決めて中国に向けて強く出たほうがいいのではないか。あくまでも対話によって問題を解決するのが理想だが、これまでの中国の傲岸不遜な言行の数々をいやというほど見てきた目には、ソフトなアプローチは効果がないと映る。

国際社会は経済的に成長した中国が、徐々に民主化していくと期待した。だがそれは全くの幻想であることが明らかになった。中国は国際社会の支援と友誼と守護で大きく成長した。それでいながら強まった国力を悪用して、秩序を破壊し専横の限りを尽くして世界を思いのままに操ろうとしているようにさえ見える。

中国の野望達成のプロセス上で発生しているのが、ウイグルやチベットへの弾圧であり、台湾および香港への圧力と脅しと嫌がらせであり、尖閣諸島への横槍だ。中国はそれだけでは飽き足らず、ミャンマー軍による自国民への残虐行為も黙認しているとされる。黙認どころか、積極的に後押ししているという見方もある。

習近平独裁体制の暴虐は阻止されるべきだし、必ず阻止されるだろう。なぜならデスポティズムの方法論は、人々を力でねじ伏せて自らに従わせようとするだけのもので、体制の内側からじわりとにじみ出る魅力で人々の気を引くことはない。

世界の人々に愛されない、従って訴求力のない政治体制や国家は、将来は確実に崩壊するだろう。だがそうはいうものの今この時の世界は、残念ながら中国の専横の前に茫然自失して、いかにも腺病質に且つ無力に見える。民主主義を信奉する自由主義社会の結束が、いつにも増して求められているのはいうまでもない。



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